日本における英語イマージョン教育の論考日本における英語イマージョン教育の論考...

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日本における英語イマージョン教育の論考 荒川洋平 はじめに この研究ノートでは、日本国内の教育機関における英語イマージョン教育に関 して論考を行う。 まず第 1 章で、第二言語 (2L) 教育ではなく、外国語 (FL) 教育の観点からイマー ジョン教育の再定義を行い、第 2 章では、従来型の外国語教授法との対照、俗耳 に入りやすい諸々の見解との比較によって、イマージョン教育の内容・方法を概 観し、さらに言語間の類似性に隔たりがある外国語間のイマージョン教育の可能 性を「楽器メタファー」を用いて検証する。第 3 章では日本の英語イマージョン 教育を、世界の他事例と比較し、それに基づいて今後の課題や考察すべき点を紹 介する。 1 イマージョン教育の再定義 イマージョン教育の定義に関しては、応用言語学で多くの試みが見られる。 英語教育と日本語教育から、一般的な定義と考えられるもの 2 点を以下に挙げ る。 「第 2 言語の学習者が第 2 言語を媒介に(教科を)教えられること」( Ellis 1985 筆者訳) 2 言語併用地域において特定の 1 言語のみを使用する学習者に、彼らの第 2 語を用いて学校の科目を教える教育形態」(柳澤・石井 2003 上記 2 点の共有部分を抽出すると、目標言語という「教科を」学ぶのではな く、ある教科内容を目標言語という「方法で」学ぶ、という教育の形態が「イマ ージョン教育」と定義される。たとえば教育段階を問わず、理科や音楽といった 教科を、英語という目標言語で教えれば、それはイマージョン教育となる。ま た、目標言語が学習者にとっての外国語である場合、イマージョン教育は外国語 教育の一方法としての側面も有することになる。

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Page 1: 日本における英語イマージョン教育の論考日本における英語イマージョン教育の論考 荒川洋平 はじめに この研究ノートでは、日本国内の教育機関における英語イマージョン教育に関

日本における英語イマージョン教育の論考

荒川洋平

はじめに

この研究ノートでは、日本国内の教育機関における英語イマージョン教育に関

して論考を行う。

まず第 1 章で、第二言語 (2L)教育ではなく、外国語 (FL)教育の観点からイマー

ジョン教育の再定義を行い、第 2 章では、従来型の外国語教授法との対照、俗耳

に入りやすい諸々の見解との比較によって、イマージョン教育の内容・方法を概

観し、さらに言語間の類似性に隔たりがある外国語間のイマージョン教育の可能

性を「楽器メタファー」を用いて検証する。第 3 章では日本の英語イマージョン

教育を、世界の他事例と比較し、それに基づいて今後の課題や考察すべき点を紹

介する。

1 イマージョン教育の再定義

イマージョン教育の定義に関しては、応用言語学で多くの試みが見られる。

英語教育と日本語教育から、一般的な定義と考えられるもの 2 点を以下に挙げ

る。

「第 2 言語の学習者が第 2 言語を媒介に(教科を)教えられること」(Ellis 1985

筆者訳)

「2 言語併用地域において特定の 1 言語のみを使用する学習者に、彼らの第 2 言

語を用いて学校の科目を教える教育形態」(柳澤・石井 2003)

上記 2 点の共有部分を抽出すると、目標言語という「教科を」学ぶのではな

く、ある教科内容を目標言語という「方法で」学ぶ、という教育の形態が「イマ

ージョン教育」と定義される。たとえば教育段階を問わず、理科や音楽といった

教科を、英語という目標言語で教えれば、それはイマージョン教育となる。ま

た、目標言語が学習者にとっての外国語である場合、イマージョン教育は外国語

教育の一方法としての側面も有することになる。

Page 2: 日本における英語イマージョン教育の論考日本における英語イマージョン教育の論考 荒川洋平 はじめに この研究ノートでは、日本国内の教育機関における英語イマージョン教育に関

イマージョン教育に 30 年以上の歴史を有するカナダでは、授業における目標

言語使用の割合や開始時期に応じて「トータル・イマージョン」「中期イマージ

ョン」といった下位分類を試みている。ここでの議論は全教科の何パーセントを

目標言語で教えればイマージョン教育たりうるか、である。日本におけるイマー

ジョン教育の泰斗であるボストウィックは、その報告 Bostwick (1997) におい

て、50 パーセントを「足切り基準 (cut off, 筆者訳)」としており、それ以下であっ

た場合は「イマージョン教育」ではない別の呼称が適切である、としている。

筆者はこの基準を妥当としつつも、日本においては、たとえ 1 週に 1 時間でも

「目標言語を用いて」ある教科を教えた場合は、それをイマージョン教育の初期

形態として定義すべきである、と考える。

その理由は、日本の英語教育のように、目標言語が第二言語 (2L)ではなく、外

国語 (FL)である場合には、イマージョン教育の実施に当たって、ボストウィック

の「足切り基準」を満たすための人的資源、すなわち( 1)目標言語を用いて

(2)教科内容が教授できる、という 2 要件を満たす教員を相当数、確保するこ

とが、実質的に不可能だからである。

よって多くの日本の教育機関では、試行的にイマージョン教育を試みるにせ

よ、ごく少数の教科内容を数時間のみ目標言語(2003 年現在は英語)で講じるこ

とが、特に初期段階においては現実的な形態となる。つまり「日本における英語

教育」というセッティングでイマージョン教育を捉える場合、教育の開始時期と

目標言語で教える割合という、上述した 2 つの変数で下位分類を行うのではな

く、「目標言語を用いた 1 時限の教科教育」をイマージョン教育の最低単位と位

置づけ、その時間的な継続、あるいは週間タイムテーブルにおける積み重ねを、

イマージョン教育の発展形態と捉える見方が必要になる(注 1)。

2 イマージョン教育の再検証

2.1 従来型外国語教授法との対照

本節では、前述したイマージョン教育の再定義をさらに検証する一方法とし

て、これを外国語教育における教授法と対照させて考察する。

イマージョン教育は学習する教科内容を学習者に理解させるための方法であ

り、一方、外国語教授法は目標言語の運用力を身につけさせるための全体的な方

法であるから、単純な比較を試みるには、カテゴリー化の適切さに関して問題が

残る。

Page 3: 日本における英語イマージョン教育の論考日本における英語イマージョン教育の論考 荒川洋平 はじめに この研究ノートでは、日本国内の教育機関における英語イマージョン教育に関

しかし、Swain (1997)の報告に見られるとおり、イマージョン教育を開始する

直前、カナダでは年少学習者に対する直接法を用いた外国語教育の効果について

疑義が示されており、イマージョン教育がそれに対する解法となることへの期待

があった。また目標言語=外国語であるというセッティングでイマージョン教育

を導入する場合、行政側や保護者がそれをまず外国語教育の一方法として捉える

ことは、たとえば教育構造改革特区として指定された群馬県太田市のウェブサイ

トからも明確である。

そこで本節では世界の外国語教育で強い影響力を有する教授法からオーディオ

・リンガル・メソッド(Audio-Lingual Method,以下 ALM)およびコミュニカティ

ブ・アプローチ(Communicative Approach、以下 CA)を取り上げ、原理的な側

面からイマージョン教育と対比させる(図 1 を参照)。

図 1 従来型外国語教授法とイマージョン教育との比較対照

ALM CA イマージョン

目標言語を話す ○ ○ ○目標言語を使う × ○ ○目標言語で学ぶ × × ○

目標言語の I/O 特性 正確さ 流暢さ 内容中心(accuracy-oriented) (fluency-oriented) (content learning)

※I/O: input and output

まず教場における目標言語の運用方法から考える。

ドリル担当者のキューに反応して機械的な文を生成する ALM が、目標言語に

関する話し手のニーズとは無関係であるという批判は、McAuthur (1983)、Brown

(1987) を初め、数多く見受けられる。しかし教室活動(アクティビティ)によ

って仮想的な場面を教室に設定し、当該場面におけるコミュニケーションを図る

CA であっても、学習者の発話は畢竟、現実のコミュニケーションの模倣であ

る。

これは、イマージョン教育の特徴である content-learning (教科内容の学習)

の原則と比較すれば明瞭である。たとえば大洋州の中等日本語教育では、日本人

との接触場面を考慮した教室活動が多く実施されている。しかしこれは、その活

動を経験する学習者が、日本人との接触場面が頻繁である/あろう、という事実

/予測、そしてそこから生じるニーズに立脚した施策ではない。中等学習者が学

習すべき本務とは、実現性を考慮しない仮想の接触場面に伴う言語運用ではな

Page 4: 日本における英語イマージョン教育の論考日本における英語イマージョン教育の論考 荒川洋平 はじめに この研究ノートでは、日本国内の教育機関における英語イマージョン教育に関

く、敢えてそれを定義すれば、理科、社会、芸術といった、教科内容そのもので

ある。よって、目標言語を「使う」ことに関して、CA は ALM と比して、学習者

がある状況において、話すべき内容を「選択しなければならない」という点で有

意性を持つものの、イマージョン教育と比較した場合、CA は学校生活における

本務を「目標言語で学ぶ」レベルには至らない(注 2)。

上述の事項を、学習者の目標言語におけるインプット/アウトプットの特性か

ら言い換える。現実に実施されている折衷的教授法(注 3)ではなく、理念として

考えると、ALM が文法上の正確さを指向する (accuracy-oriented)に対し、CA は誤

用の回避よりはコミュニケーションによる目標達成や流暢さを重視する( fluency-

oriented)。これらに対してイマージョン教育は、教授すべき内容を学習し、それ

を理解し得たか/させられたかどうか(content-learning)が、学習者/教授者双

方にとって最大の関心事である。これはイマージョン教育が外国語教育であるこ

とと同等か、あるいはそれ以上に、教科教育であることから理解できる。

故に、仮にイマージョン教育が従来の外国語という教科を他教科の学習材とし

てのみ扱い続ければ、究極的には、従来型の外国語教育は、教科としての地位を

脅かされかねない。

これを巡る論考には 2 点がある。

まずネウストプニー(1995)は、高等教育段階のイマージョン教育において

も、従来型外国語教育で実施するドリルや教室活動は必須である、としている。

この論考が豪州の高等教育における日本語イマージョン教育であることから考え

ると、これは前章で紹介した「足切り基準」以下の時数で構成される部分的イマ

ージョンのケースと推定される。

一方、ボストウィックらが加藤学園で試みる英語イマージョン教育では、従来

型外国語教育シラバスとイマージョン教育における目標言語の使い方との不一致

から、ドリルや教室活動による目標言語教育の援用は積極的には行っていない。

これは原理上、メディア教育学者である Arcus (2000)による teachable moment

の考えに立脚している(注 3)。

しかし、日本において部分的な英語イマージョン教育が実施される場合には、

従来からの「科目」としての英語教員をいかに授業に関わらせるかという教務的

なコンテクストがこれに加わる。よって当面は、イマージョン教育と従来型外国

語教育との折衷的な教育形態が各機関で模索・保持されるというのが筆者の見解

である。

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また筆者がイマージョン教育に期待するのは、これが一時期、日本の英語教育

界を席巻し、今なお現場の根底でくすぶり続ける「文法か実用か」の論争を止揚

させ得る可能性を有するためである。当該論争の社会的記録として重要な渡部・

平泉(1975)では 1974 年に自由民主党政務調査政会が提出した提言「外国語教

育の現状と改革の方向」に対し、渡部が日本語との対峙、論理力の涵養といった

視点から旧来の英語教育の利点を説き、日本の諸事情を考え合わせて、国内の英

語教授法は文法訳読法に ALM を加味したものが最善とした。一方、政策立案側

の代表者であった平泉は、日本の経済的地位の向上とそれに伴って日本人が実践

的な英語運用力を獲得することのニーズから、渡部案を懐古的な守旧案と一蹴し

た。

いずれの側も教授法の提案に関しては ALM の域を出るものではないが、論争

年次を考えると止むを得ない。しかし、運用力よりも論理に裏打ちされた「内容

(content)」を重視する渡部案と、日常言語の流暢な「運用 (fluency)」を推進する平

泉案は、「目標言語で内容を学び、かつ目標言語の運用力をつける」というイマ

ージョン教育の本質に、理念上はいずれも包含される。これは、イマージョン教

育が教科としての「外国語」というパラダイムを越えた場所に存在する証左であ

り、同時にイマージョン教育が目標言語の運用力向上にどう供するのかが分かり

にくい理由でもある。

ただし外国語のセッティングにおけるイマージョン教育であっても、それを外

国語教授法の側面からのみ見れば、本質を過つことになる。その詳細を次節で述

べる。

2.22.22.22.2 イマージョン教育とは「何でない」のか

前節における外国語教授法との比較対照は、イマージョン教育の輪郭を浮き上

がらせる点では、ある種の効力を有する。しかし、イマージョン教育を外国語教

授法の側面からのみ考えることは、別の誤謬を生み出す。筆者は荒川(2004)

で、産業としての日本の英会話教育界がパターン・プラクティス以来、生成文法

の応用まで含めて画期的な「英会話習得法」の処方箋を探し続けてきた経緯に触

れたが、この時系列の先端にイマージョン教育を置くことには与しない。基礎デ

ータの積み上げや教科教育との関連がないまま日本の英会話教育界で「イマージ

ョン」という単語のみが独歩すれば、たとえば経験のごく浅いネイティブ・スピ

ーカーを教壇に立たせ、教科の基礎的な内容を講じるのみで「イマージョン教育

の実施」を謳う機関が続出する状況を呈する。そして当該機関の教育内容が検証

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され、相当数が淘汰された時に、イマージョン教育そのものも記号として使われ

たのみで忘却され、英会話教育界がそれに代わる新たな処方箋を探し始める可能

性は高い。

そこでイマージョン教育の本質を明らかにし、表層だけの記号消費の予防を目

して、スピノザの「全定義は否定なり (omnis determinatio est negatio)」にひそ

み、「イマージョン教育とは何でないのか」という観点から、イマージョン教育

の特徴を明らかにする。この試みは同時に、俗耳に入りやすいイマージョン教育

の誤解、いわば「神話」を本質から切り離す先制としても作用する。

2.2.12.2.12.2.12.2.1 イマージョン教育は直接法ではない

イマージョン教育の実施に際しては、外国語教授法における「直接法( Direct

Method)」と同様、教育現場では目標言語のみが用いられる。しかし、両者は等

意ではない。

直接法は、「科目としての外国語」における初期の方法であって、母語が完成

した学習者に用いるものであり、イマージョン教育との最大の相違はシラバスに

求められる。直接法が採用する可能性が高い文型・文法シラバスでは、教授内容

は文型と単語で示される。しかし、イマージョン教育のシラバスは、そこで講じ

られる教科内容がシラバスであり、文型や単語で記述しうるものではない。

すなわち両者は、教育環境における目標言語のみの指導、という側面で観察し

た場合に共通項が観察し得るだけであり、異なる方法である。「イマージョン教

育は目標言語(例えば英語)だけで教えるから学習者の英語運用力が向上する」

という見解は、イマージョン教育の表層を捉えてはいるが、これを直接法と同定

することは厳密さに欠ける。

2.2.22.2.22.2.22.2.2 イマージョン教育は物量作戦ではない

教科教育という性格から、イマージョン教育は、目標言語による情報のインプ

ット量が多いことが特徴として挙げられる。だが、イマージョン教育の中心義で

ある「(~に)浸す ( immerse)」という特色のみを考え、目標言語との接触量が

多いことが学習者の目標言語向上に好影響を与える、という見解もまた、イマー

ジョン教育の本質を体現したものとは言い難い。スパルタ式に量的接触を図れば

運用力が向上する、という推論は、初期の ALM における理論的な拠点の一つで

ある刺激 反応説を出るものではない。また ALM に見られる「誤用の即時訂

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正」がイマージョン教育では行われないことも、両者が同一の方法でないことを

証明する。

2.2.32.2.32.2.32.2.3 イマージョン教育は即効に供するものではない

専門的な知見なしに他者の外国語運用力を判断しようとする場合、最も単純な

方策は、当該者の話しことばを聞くことである。この「ある外国語が淀みなく話

せることはその運用力が高いことである」という民間モデルは、たとえば「ペラ

ペラ」という擬音語に端的にも示されている。この命題の正当性をここで論じる

ことはしないが、イマージョン教育による目標言語の運用力向上がこのモデルを

指向するものではないことは、過去の調査から明瞭である。イマージョン教育の

初期段階では、能動的な口頭コミュニケーションよりも受動的なそれ、すなわち

聴解力の向上が顕著であり、この向上は保護者を含む他者にたやすく顕在化する

ものではない。

イマージョン教育が民間モデルとしての「上手な外国語話者」を体現しない、

という事実の取り扱いは、政治的なコンテクストに変わり得る。というのはカナ

ダの事例に見られるように、保護者の多くは特殊な教育形態であるイマージョン

に、払った学費と等価の学習者の運用力顕在を、その音声・テスト成績・資格と

いった明示的な形態で求めるからである。この点に関して、プログラムに関わる

保護者・教育関係者・行政担当者の意識改革が求められる。

2.32.32.32.3 NOTNOTNOTNOT EASY,EASY,EASY,EASY, BUTBUTBUTBUT POSSIBLEPOSSIBLEPOSSIBLEPOSSIBLE ~英語イマージョン教育への批判~

本節の最後に、イマージョン教育に対する批判を考察する。

日本における英語イマージョン教育への批判を考える場合、それは 2 段階から

考察すべきものである。

第 1 段階の批判は、目標言語で教科教育を行う営為それ自体に関してである。

たとえばカナダでイマージョン教育が試みられた初期には、この種の批判はバイ

リンガル教育の推進者側から出たものであることは、中島( 1998)が引用した資

料で明らかにしている。しかし、イマージョン教育の成果、とくに母語と目標言

語の運用力向上と学業成績の伸張という問題が一応の解決を見た後では、この種

の批判は見られなくなった。日本では、群馬県太田市の英語教育特区問題がメデ

ィアで報道された折、これに類した批判が新聞に掲載されたが、見当違いの域を

出るものではない(注 4)。

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第 2 段階の批判は、イマージョン教育が日仏のような同一語族間でならともか

く、日英のような語族の異なる言語間で実効があるだろうか、という疑義であ

る。たとえば米国国務省の付属機関である FSI(Foreign Service Institute)が開発し

た能力レベルスケールは、英語母語話者にとっての外国語の学び易さを示す指標

であるが、ここではフランス語がレベル 1(一定レベルに達するまでの時間が最

も短い言語)であるのに対し、日本語は LCTL(Less Commonly Taught Language

=余り教えられない言語)のカテゴリーに入り、かつ朝鮮語やアラビア語と並ん

でレベル 4(一定レベルに達するまでの時間が最も長い言語)に指定されてい

る。

小野(1994)はこれを踏まえ、「インド・ヨーロッパ語系を起源とする言語間

の距離に比べ、日本語と英語との距離は非常に遠く離れているために、その以降

課程がスムーズに行われないと言語習得過程が混乱するばかりか両言語とも中途

半端になる場合が多い」として、方法論的に検証を受けていないバイリンガル教

育に、疑問を呈している。

一方、言語間の差を問題にしない意見も散見される。たとえば言語地理学者の

グロータス(1976)は自身の学習経験を踏まえ、日本語と英語のバイリンガルに

なるのは難しい、といった言説を偏見であり、誤りであるとしている。

イマージョン教育はバイリンガル教育の一形態と位置づけられるから、上記の

意見はそれぞれ、日本における英語イマージョン教育に対する間接的な賛否の表

明と考えられる。筆者は双方の論旨に説得力を感じるが、同時にまた議論の本質

的な噛み合わなさもここに見出す。それは、小野 (ibid.)が「原因」としての言語

間距離を取り上げた見解であるのに対し、グロータス (ibid.)は「結果」としての

両言語使用による知性の伸張を問題にしていると考えられるからである。筆者は

以下にベーカー (1996)の「共有基底言語能力モデル」を応用した「楽器メタファ

ー」という道具立てを用いて、この相違を明確にしたい。

図 2 楽器メタファーによる言語間距離と内在する共有面のモデル

To be uproaded later

楽器メタファーは楽器をモト領域に、言語をサキ領域に定めた写像、つまり

言語は楽器である(LANGUAGE(LANGUAGE(LANGUAGE(LANGUAGE ISISISIS AAAA MUSICALMUSICALMUSICALMUSICAL INSTRUMENT)INSTRUMENT)INSTRUMENT)INSTRUMENT)

を基本メタファーに、

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言語の運用は楽器の演奏である (LINGUISTICS(LINGUISTICS(LINGUISTICS(LINGUISTICS PERFORMANCEPERFORMANCEPERFORMANCEPERFORMANCE ISISISIS PLAYINGPLAYINGPLAYINGPLAYING AAAA MUSICALMUSICALMUSICALMUSICAL

INSTRUMENT)INSTRUMENT)INSTRUMENT)INSTRUMENT)

および

言語の類似性は楽器の類似性である (SIMILARITIES(SIMILARITIES(SIMILARITIES(SIMILARITIES BETWEENBETWEENBETWEENBETWEEN LANGUAGESLANGUAGESLANGUAGESLANGUAGES AREAREAREARE SIMILASIMILASIMILASIMILA

RITIESRITIESRITIESRITIES BETWEENBETWEENBETWEENBETWEEN MUSICALMUSICALMUSICALMUSICAL INSTRUMENTS)INSTRUMENTS)INSTRUMENTS)INSTRUMENTS)

を、そこから派生したアナロジーに展開する。

たとえばピアノ奏者にとって、同じ鍵盤楽器のオルガンは演奏しやすい。これ

は同族語同士の学び易さ(e.g., 英語とフランス語→図3における xv 間の距離)

に見立てられる。一方、その奏者にとって構造の異なるフルートはオルガンと比

して演奏しにくいことが推論可能だが、これは語族の異なる言語間(e.g., 英語と

日本語→図 3 における xz 間の距離)の学びにくさに見立てられる。しかし、ピ

アノという楽器演奏で会得した楽典の知識や獲得した音感(図 3-D)は、楽器の

未習者と比した場合、カテゴリーの異なる楽器であるフルートの演奏を経験する

に場合にも有利であろう。

この類比により、言語間の距離が遠い言語を用いても、言語によって陶冶され

た知性(図 3-D)の所有者、すなわち通常の言語話者であれば、教科教育を学ぶ

イマージョン教育の方法は効用が期待できる。

小野 (ibid.)が問題にしているのは、xyz で表示した表層部であり、グロータス

が論じるのは基底側の領域(図 3-D)である(注 6)。カナダを初めとする諸外国

の成功、さらに語族の異なる外国語間のセッティングでイマージョン教育を成功

させたフィンランドの事例から考えると、実行上の困難さを別にすれば日本にお

ける英語イマージョン教育は理論上、成功の可能性を十分に有すると考えられ

る。

Bostwick(ibid.)が日本の英語イマージョン教育の成否を述べた "not easy but pos

sible"は、単なる経験知に留まらない、イマージョン教育に対する透徹した見解の

表明といえる。

3333 日本の英語イマージョン教育の検証 ~世界各国の事例と比較して~

3.13.13.13.1 英語イマージョン教育の短史

本章では、前章までの内容を踏まえ、日本で英語イマージョン教育を実施する

に当たって検討すべき点を、世界各国のケースおよび筆者が調査した数ケースと

比較しながら考える。

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まず、日本の英語イマージョン教育を時系列的に概観する。

草分けは加藤学園(静岡県沼津市)の試みである。加藤学園は幼稚園から専門

学校までを擁する大規模な学校法人であり、1992 年から初等学校(小学校)で英

語イマージョン教育を推進している。

しかし同校以外には、90 年代に英語イマージョン教育を実施した日本の教育機

関は ICS( International Community School、群馬県前橋市)を初めとするインタ

ーナショナル・スクールでの試みが報告されている程度である。これは、教育方

法の知名度の低さに加え、教科を第 2 言語あるいは外国語で教えるという方法論

が文部科学省の学習指導要領には存在せず、実施可能であったのは学校教育法が

定義する「学校」ではない外国人学校やオルタナティブ・スクールのみであった

からと考えられる。

行政が推進するイマージョン教育としては、2002 年 4 月に一連の構造改革特区

の一部として認定を受けた群馬県太田市の「英語教育特区」が注目された。この

指定を受けて同市は「構造改革特別区域研究開発学校設置事業」に基づき、小中

高 12 年間の一貫教育を行う英語イマージョン教育の学校を設立予定である。さ

らに文部科学省が指定した「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスク

ール」のうち数校がイマージョン教育の実施を計画したり、2004 年に福岡県太宰

府市に英語イマージョン教育を実施する新たな小学校が設立準備を発表したりす

るなど、公的な認可を受けた英語イマージョン教育の実施校は着実に数を増やし

ている。また私立学校でも部分的イマージョンを試みる動きがあり、筆者の調査

では、その数は十数校に上る。

3.23.23.23.2 教師養成の問題

イマージョン教育が Krashen (1988)を初めとする有力な応用言語学者に支持さ

れ、実施する機関が増大し続けながらも、世界全体ではなお傍流に留まっている

のは、その効力 (workability)への疑念が払拭されても、実行可能性 (practicability)

の問題が行く手を阻むからである。その最大の問題は、教員の確保にある。

1 章でも触れたが、イマージョン教育の担当教員は

●目標言語のネイティブ・スピーカーまたはそれに近い運用力を持つ話者

であり、同時に

●特定の科目を教える知識と資格を有する者

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でなければならない。たとえば日本の中等教育で、英語運用力がネイティブ・

スピーカーに近い理科や数学の教員免許保持者を探すことの困難さを考えれば、

この人材確保の問題が容易ならざるものであることは推測できよう。初等教育も

類似の事情下にある。イマージョン教育に先鞭を付けた加藤学園でも、どうして

も教員の手当が不可能な初等教育科目に関しては、日本語による授業への差し戻

しを行った、という事例がある。

この問題に本質的な取り組みを行っている例としては、豪州クィーンズランド

州が挙げられる。同州では初等教育レベルで日本語のニーズが高く、一部地域で

日本語イマージョン教育を計画し、その政策実施に当たっての最大の眼目を教師

養成に求めたのである。本件に関する州政府の要請を受けたセントラル・クィー

ンズランド大学(同州ロックハンプトン市)は 1993 年から、LACITEP(The Lan

guage and Culture Initial Teacher Education: Primary Program)という名称の、イ

マージョン教育担当者の教員養成プログラムを実施している。筆者は 1994 年に

本プログラムの教師研修を約 50 時間担当し、荒川(1994)で報告したが、プロ

グラム参加者の多くがハイスクール在学中に日本への留学経験を有しており、そ

の日本語運用力は大洋州の非ネイティブ日本語教師のそれと比してかなり高かっ

た(注 7)。また当時の聞き取り調査では就職率もほぼ 100%であり、学生が高い

モティベーションを維持していた。

以上の事由から、太田市特区を初めとする英語イマージョン教育を企画する国

内の初中等教育機関は早晩、教員養成・教員確保の問題に直面することが予測さ

れる。太田市はウェブサイトで募集を開始しているが、恒常的な人材確保を考え

れば、結論は自前での教員養成しかありえない。よってプレサービス(いわゆる

教職課程)、インサービス(現職者研修)の別を問わず、外国語教育研究所を擁

する群馬県立女子大学などの地域内教育機関との連携が求められる。また行政が

後押しをするイマージョン教育の先駆けとなる太田市が長期的な視点で教員養成

に取り組めば、後に続く諸機関に、パートタイムの教え手のみで授業を繋ぐとい

う、安易かつ危険な人事システムを避けさせる範になりうるはずである。

3.23.23.23.2 学習者ニーズの涵養

イマージョン教育に限らず、第 2 言語/外国語教育の成否、すなわち学習者の

言語的・学業的達成を決定する要因の一つに、学習者側のニーズがある。

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第 2 言語教育の場合、特に中等教育レベルでは学習者の生活環境に目標言語が

根付いているために学習者ニーズはいわば必然的に生じ、減ずることは少ない。

しかし外国語教育の場合にはそのニーズが弱く、学習者は自身がなぜ母語ではな

く、目標言語を用いて教科教育を受けなければならないかに関する正当な理由を

発見しにくい環境にある。

太田市が外国語教育特区を申請した事由は、「国際化時代に対応できる人材の

育成」であり、いわば産業界・経済界からの要請が、本来は内政事項である教育

を動かしたことになる。

この「外圧による内政改革」は、フィンランドのスウェーデン語イマージョン

教育に類似している。EU 加盟後、経済力で他国に伍するために同国が取った政

策は、北欧最強の経済力を持つスウェーデンの公用語学習である。同国はスウェ

ーデン語イマージョン教育に際し、教員確保の見地から、ヨーロッパイマージョ

ン教育研究所 (EITI)に委託し、教科担当者に 40 単位相当のインサービス研修を受

けさせた。Lauren (1997)は、これらの経緯を紹介し、合わせて学習者側のニーズ

を引き出すための方策に関しても言及している(注 7)。

また筆者は、1998 年に米国シカゴ市郊外にあるランストン・ヒューズ高校の日

本語イマージョン教育を見学する機会が持った。詳細は荒川( 1998)で報告した

が、同校が部分的イマージョン教育実施に踏み切った理由の一つは、アフリカ系

アメリカ人のみで構成される同校学習者が、同年代の高校生が通常は行わない何

かを学習することによって自信を獲得するためである。しかし授業内容が表記の

読みと九九の暗誦に限定されたものであったために、学習者ニーズが満たされた

とは言えず、学習者の言語的達成は十分なものではなかった。

行政側・保護者側が有するニーズと学習者側のニーズとのギャップが、プログ

ラムそのものの亀裂を生じさせないためには、教育コンテンツそのものの充実を

図る以外に、有用な方策はない。プログラムの充実が前節で触れた教員の質に懸

かっていることは明らかだが、同時に学校側が教師の自助努力に期待するだけで

なく、学習者側の要望に応えるための全学的な取り組みを可能にするシステム構

築を行うことが、プログラムの長期的な成功のための根本的施策である。

3.33.33.33.3 双方向イマージョンの可能性

日本の中学校・高等学校が英語イマージョン教育を導入する背景には、それに

よって学習者の英語運用力の向上を図る(およびそれに伴う国内外の著名大学へ

Page 13: 日本における英語イマージョン教育の論考日本における英語イマージョン教育の論考 荒川洋平 はじめに この研究ノートでは、日本国内の教育機関における英語イマージョン教育に関

の進学率向上も目指す)と共に、ユニークな教育実施によって今後減少が予想さ

れる入学者を確保する、という目的も指摘できる。

現在、日本の大学・短期大学・専門学校の一部は、入学定員の確保を目的に、

留学生の受け入れ推進を行っている。この施策が中等教育機関でも実施された場

合、当該機関がイマージョン教育を進める可能性はきわめて高い。というのは、

日本人学生に対する英語教育と、留学生に対する日本語教育の 2 コースを並存さ

せても、相互の参画が困難であるか、あるいは教育的に有意とは言い難いからで

ある(注 9)。

よって両者のニーズ充足および学校側の経済的負担の為の有力な解決策とし

て、日本人学生・留学生にとっての共通言語で教科内容を講じるイマージョン教

育が選択されるケースが多く考えられる。そしてその場合、その形態は母語の異

なる学習者が同一の教場で学ぶ「双方向イマージョン (two-way immersion)」にな

る。

双方向イマージョンは、カナダより米国での事例報告が多く、示唆する点が多

いものとしては Lindholm (1997), 概括的な知識を知るには Christian & Whitcher

(1995)が挙げられる。また高等教育の事例であれば、筆者が現在担当し、岡田・

荒川(2000)で報告した東京外国語大学国際教育プログラム (ISEPTUFS)も、英

語による専門科目の教授、日英を含む多様な母語話者の参画という点から、後期

双方向イマージョンの一事例と言えよう。

双方向イマージョン教育の課題は、Christian 他 (1997)の指摘にある通り、多

様な背景を持つ学習者に対する評価法の確立である。 ISEPTUFS においても、成

績基準のみに関してはアジア太平洋大学機構 (UMAP)が統一評価法の提言を行っ

ているものの、中東からヨーロッパまで幅広い出身国の学生を包含するプログラ

ムに対し、すべてを納得せしめる統一だった評価方法を確立することは、個々の

授業でもプログラム全体でも容易ではない。

卑近ではあるが端的な例としては、講義中の教員を遮って質問する行為は、日

本を含むある文化圏では礼を失した行為と見なされるが、一部の文化圏ではこれ

は学習者の正当な権利であると考えられる。この行為に対して「ここは日本だか

ら」と否定的な評価を与えることはたやすい。しかし多様な学習者の声に耳を傾

け、プログラムが彼ら・彼女たちの個々の価値や考え方の総和から成立するもの

だと認識し、そこから新たな評価法を探る試みなしでは、双方向イマージョン教

育は単なるサブマージョン教育(注 9)に逆行する。

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日本における英語イマージョン教育が双方向イマージョンを指向する場合、評

価法の確立は急務である。留学生や外国人学生の受け入れが学習者や地域に益す

る方向であることは確かだが、当の学習者を納得させるだけの評価法を持つこと

で、プログラムは将来直面する問題の一つを確実に回避できよう。

本章では教員養成・学習者ニーズ・双方向イマージョンの 3 点をキーワード

に、太田市特区を初めとする日本の英語イマージョン教育の課題を検証した。

授業内容の問題や母語である日本語力の向上など他に論ずべき課題は少なくな

い。しかしここで特筆すべき点は、日本における英語イマージョン教育の健全な

発展には、相互恩恵に基づく関係諸機関の協同連携と情報開示が必要だと言うこ

とである。、

イマージョン教育プログラムの成功が学習者の学業上・言語上の達成にかかっ

ていることは論を待たない。しかし、筆者はプログラムに教務上・行政上の成功

が伴うことで、イマージョン教育が日本の英語教育全般に説得力を持つようにな

り、ひいては世界の外国語教育に一層資するものになると考える。

なお本稿は 2003 年 9 月 10 日に、筆者が新島女子短期大学(群馬県高崎市)イ

マージョン教育研究所で行った、同研究所開設記念講演の内容に加筆・訂正を加

えたものである。松井道男・同研究所所長をはじめ関係者各位に御礼申し上げる

と共に、本論文は執筆の経緯上、啓蒙的な性格を有しておりあり、学術的には自

明の事項にも解説を試みていることを付記する。

(注 1)ただし近い将来、イマージョン教育が日本の英語教育においてある程度

の位置を占めた場合、Bostwick (ibid.)の基準か、それに類するものを公的に定義

づける必要が生じる。それは多くの教授法の意味を、広告コピーとして不正確に

消費してきた日本の一部の英会話産業が、イマージョン教育に対しても同じ轍を

踏む可能性を有するからである。2.2 も参照。

(注 2)外国語教育の目的を、母語とは異なる言語に触れることによる視野の拡

大あるいは異文化理解を目的とした場合、CA による外国語教育も一種の content

-learning であり、イマージョン教育の一種と見なすことは可能である。しかし一

般に CA で学んだ大洋州の中等日本語学習者の 4 技能運用力は、学習時数の違い

を考慮しても、世界のイマージョン教育の学習者が獲得する目標言語の高い運用

力と比較できるレベルには達していない。

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(注 3) teachable moment とは特定の文型や表現を教える時期はシラバスに明示

するのではなく、当該の学習者が必要性を正に感じた時点であり、その時点で初

めて教え手がそれを理解させれば良い、という哲学を含意するから従来型のシラ

バス記述にはそぐわない。

(注 4)西口(1995)による卓越した考察。

(注 5)筆者の調べではたとえば 2002 年 11 月 28 日の秋田魁新報コラムでは英語

イマージョン教育に触れ「例えば英語には『思いやり』にあたる言葉はない。日

本文化をどこまで教えることができるのだろうか。」とある。

(注 6)領域 D はベーカー (1996)の「共有基底言語能力中央作動システム」に相

当するが、この「システム」が心的器官として他の認知系から独立したモジュー

ルを形成して言語を操作するという生得論的な立場に立つ場合、筆者の楽器メタ

ファーとは根本的な相違が生じる。ただし、これを検証する準備はまだない。

(注 7)現在、本プログラムは宮城教育大学と提携を結び、教育実習も付属小学

校で実施している。

(注 8)フィンランド語は膠着語(フィン・ウゴル語族)、スウェーデン語は屈

折語(インド・ヨーロッパ語族)で系統が異なるため、Lauren (ibid.)は第 2 言語

ではない外国語イマージョン教育を考察する上で有用である。

(注 9)例えば日本人学生が日本語教育に参加して日本語の基礎的な文型・文法

・表現を学習することは、教育実習以外では意義を見い出せない。米国・カナダ

のほとんどの大学では、留学生は自分が母語とする外国語を履修できないか、履

修は可能でも単位は授与されないが、これも同様の事情からである。

(注 10)サブマージョン教育とは、学習者の多くが母語で教科教育を受けている

とき、それを第 2 言語 /外国語として一部の学習者が受けている教育形態。

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On English Immersion Programs in Japan

ARAKAWA, Yohey

This article comprehensively considers English immersion programs in

Japan. The author first re-defines an immersion program, based on

setting of English education in Japan, where the language is taught a

s a foreign language. In their wake, the author compares the progra

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m with traditional language teaching methods, clarifies its uniqueness

and affirms the possibility of success of the programs, responding t

o some critics in terms of linguistic distance between English and Jap

anese. Finally the article discusses three future problems of the prog

rams on the basis of practicability.