なぜ讃岐ジオパーク構想が世界をめざすのか...1...

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1 なぜ讃岐ジオパーク構想が世界をめざすのか 長谷川 修一(香川大学工学部)  1.は じ め に ジオパークとは、ユネスコが支援する世界ジオパークネットワークが推進する大地と 人間とのかかわりをテーマとした地域まるごとの公園である。世界ジオパークネットワ ーク(GGN)は2004年にユネスコの支援によって設立された。GGNのガイドラインによ れば、ジオパークは、地形、地質遺産の保全、教育、ジオツーリズムによる地域の持続 可能な開発を一体となって行う、ある地理的な範囲を持った領域のことである。そして、 ジオパークの使命は、地球活動に伴う自然遺産を保護すると同時に活用することにより、 持続可能な開発を実現することである(渡辺,2011)。 ある地域の大地は他の地域と異なる多様な地質(岩石や地層)によってできている。 そして、地質を母材として地殻変動や風化・侵食・運搬・堆積によって特有な地形が形 成されてきた。また、その地質と地形を土台として気候に適合した生態系(動植物)が 育まれ、それらの自然環境と歴史の上に私たちの生活、産業、文化、伝統と歴史がある (図1) 。ジオパークは、これらがすべてをジオパークという傘の下にまとめ、貴重な地 質・地形の保全、地域の自然(災害も含む)や文化に関する教育、および大地の資源を 活かした地域の持続的発展(地域振興)を目指す活動である。地域振興とは、ジオパー クが定義するある一定地域の経済的、社会的、文化的な発展を意味し、具体的には、ジ オツーリズムによる交流圏の拡大やそれに伴う経済活動の前進、学校教育、生涯教育の 振興、市民の生きがい向上や健康増進を含む(竹之内,2011)。 今、日本各地で地域の地質や地形をジオパークとして認定して、教育や観光に活用す る動きが活発になっている。日本では2012年9月現在、洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半 島、山陰海岸、室戸および隠岐の6つが世界ジオパークに、また25の日本ジオパークが 日本ジオパーク委員会によって認定されている(日本ジオパークネットワーク,2013)。また、 2013年度は、新たに10地域が日本ジオパークに申請中という。今や、各県にひとつはジオ パークがある状況である。 図1 ジオパークの素材の三要素(左)と活動の三要素(右)(竹之内,2011)

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Page 1: なぜ讃岐ジオパーク構想が世界をめざすのか...1 なぜ讃岐ジオパーク構想が世界をめざすのか 長谷川 修一(香川大学工学部) 1.はじめに

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    なぜ讃岐ジオパーク構想が世界をめざすのか

            長谷川 修一(香川大学工学部) 

1.は じ め に ジオパークとは、ユネスコが支援する世界ジオパークネットワークが推進する大地と人間とのかかわりをテーマとした地域まるごとの公園である。世界ジオパークネットワーク(GGN)は2004年にユネスコの支援によって設立された。GGNのガイドラインによれば、ジオパークは、地形、地質遺産の保全、教育、ジオツーリズムによる地域の持続可能な開発を一体となって行う、ある地理的な範囲を持った領域のことである。そして、ジオパークの使命は、地球活動に伴う自然遺産を保護すると同時に活用することにより、持続可能な開発を実現することである(渡辺,2011)。 ある地域の大地は他の地域と異なる多様な地質(岩石や地層)によってできている。そして、地質を母材として地殻変動や風化・侵食・運搬・堆積によって特有な地形が形成されてきた。また、その地質と地形を土台として気候に適合した生態系(動植物)が育まれ、それらの自然環境と歴史の上に私たちの生活、産業、文化、伝統と歴史がある (図1)。ジオパークは、これらがすべてをジオパークという傘の下にまとめ、貴重な地質・地形の保全、地域の自然(災害も含む)や文化に関する教育、および大地の資源を活かした地域の持続的発展(地域振興)を目指す活動である。地域振興とは、ジオパークが定義するある一定地域の経済的、社会的、文化的な発展を意味し、具体的には、ジオツーリズムによる交流圏の拡大やそれに伴う経済活動の前進、学校教育、生涯教育の振興、市民の生きがい向上や健康増進を含む(竹之内,2011)。 今、日本各地で地域の地質や地形をジオパークとして認定して、教育や観光に活用する動きが活発になっている。日本では2012年9月現在、洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島、山陰海岸、室戸および隠岐の6つが世界ジオパークに、また25の日本ジオパークが日本ジオパーク委員会によって認定されている(日本ジオパークネットワーク,2013)。また、2013年度は、新たに10地域が日本ジオパークに申請中という。今や、各県にひとつはジオパークがある状況である。

図1 ジオパークの素材の三要素(左)と活動の三要素(右)(竹之内,2011)

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 日本のジオパークの多くは、国立公園や国定公園と重複している。ジオパークとして認定されるには、自然公園としての価値が認められていることも重要な要素なのである。日本で最初の国立公園として認定された瀬戸内海国立公園の中心である備讃瀬戸がジオパークになっていないのが不思議なくらいである。 ここでは、讃岐ジオパーク構想を紹介し、またなぜ讃岐ジオパーク構想が世界ジオパークをめざすのかを説明し、瀬戸内随一のジオサイト(地質名所)である小豆島の魅力は何かを探っていく。

2.讃岐ジオパーク構想 讃岐ジオパーク構想では、香川県全域を対象としている(図1)。これは、瀬戸内火山活動で形成された岩石・地層と関連する地形がほぼ香川県全域に認められ、岡山県、徳島県、愛媛県とも明瞭に識別できるからである。讃岐ジオパーク構想の要素となるジオサイトを図2に示す。讃岐ジオパーク構想のジオサイトは、東は東かがわ市引田、西は観音寺市の伊吹島、北は小豆島、南は高松市塩江と香川県のすべての市町にまたがっている。 

図2 香川県のジオサイト(基図の地質図は長谷川・齋藤(1989))

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 香川県の基盤岩は白亜紀後期の領家花崗岩類から構成され、香川県は地形および地質から、次の5つの地区に区分される(図2および表1)。  ⑴ 南部の讃岐山脈:白亜紀最後期の和泉層群(砂岩頁岩互層) ⑵ 讃岐山脈北側の前山丘陵地帯:風化花崗岩とそれを覆う第四紀の三豊層群 ⑶ 讃岐平野に点在する台地状や円錐状の丘陵:瀬戸内火山岩類(新第三紀の讃岐層群) ⑷ 讃岐平野:第四紀層(沖積層・段丘堆積物・三豊層群) ⑸ 備讃瀬戸:高い島(瀬戸内火山岩類)、低い島(花崗岩類)、海底(三豊層群) このような地形と地質は、香川に生まれて、長く地元で暮らしてきた人には、ごく普通の風景かもしれない。瀬戸内海の美しさを絶賛したのは明治に訪れた外国人で、その影響を受け日本初の瀬戸内海国立公園が誕生したという(西田,1999)。その瀬戸内海国立公園の中心となる備讃瀬戸を含む香川全域をジオパークとしての世界的な価値を認めてもらい、世界に類のないジオパークをめざすのが 「讃岐ジオパーク構想」 である。 讃岐ジオパークの世界的な価値は以下の3点に集約される。 ①1400万年前の奇跡の瀬戸内火山活動によるサヌカイト類のマグマの形成(奇跡の石・  サヌカイトの誕生)。 ②火山岩類が侵食された里山の造形美(屋島のようなメサ、飯野山に代表される円錐  形の火山岩頸、寒霞渓の渓谷美)。 ③サヌカイトを始めとする里山を構成する多様な火山岩類を利用した旧石器時代から

領家変成岩類ホルンフェルス、片麻岩、雲母片岩、変輝緑岩、結晶質石灰岩

名所・名跡主な化石堆積環境など岩 質地層名地質時代(Ma)

 生

 代

第四紀

古第三紀

新第三紀

完新世0.01

沖積層 砂・礫及び粘土 三角州・扇状地成層 讃岐平野

始新世

漸新世

中新世

鮮新世

更新世

251

200

146

66

56

34

23

5.3

2.6

段丘堆積物 砂・礫及び粘土 扇状地成層 ため池

三豊層群

(焼尾峠礫層)砂・礫及び粘土 (扇状地成層)

湖河成層

-10m 海棲貝類(臨海部)ナウマンゾウ

トウヨウゾウ、アカシゾウ、メタセコイヤ

満濃池

讃岐層群 凝灰岩・安山岩・流紋岩など

火山岩、火山砕屑岩 湖成層

屋島、讃岐七富士、寒霞渓、サヌカイト、豊島石、鷲ノ山石

フウ、ブナ、ナマズ

土庄層群 砂岩、泥岩、亜炭、礫岩

浅海成層(一部潟湖成) 地すべりによる棚田タマキガイ、

サメ

和泉層群 砂岩・泥岩互層、礫岩など 海成層 讃岐山脈、和泉砂岩

アンモナイト、イノセラムス、コダイアマモ

白亜紀

暁新世

領家花崗岩類 黒雲母アダメロ岩、花崗閃緑岩 深成岩 白砂青砂、庵治石、

青木石、小豆島石

放散虫海成層(変成岩)

ジュラ紀

 生

 代

三畳紀

古生代

表1 香川県に分布する地層と岩石

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  現代に至る多様な石の文化。

3. 1 約1400万年前の奇跡の瀬戸内火山活動 今から1300万年から1500万年前に現在の瀬戸内海周辺の地域で特殊な火山活動は発生し、瀬戸内火山岩類が形成された(巽,1983;巽ほか,2009)。讃岐の瀬戸内火山岩類は昔から讃岐層群と呼ばれており(齊藤ほか,1962)、特に神戸大学の巽好幸教授が学生の頃から精力的に調査研究した小豆島の瀬戸内火山岩類は小豆島層群と呼ばれている(巽,1983)。 巽さんは、小豆島から世界的なマグマ成因論を提唱している。巽さんによれば、瀬戸内火山岩類は、日本海が拡大した直後に誕生したばかりの熱いフィリピン海プレートと沈み込んだ堆積物が融解してできたと推定され、小豆島の三都半島はマグマの成因を研究する上で世界的にも重要なフィールド(聖地)である(図3)。また熱いプレートと沈み込みによるマグマの生成は、なんと地球創世記のマグマのでき方につながるという壮大な仮説を提唱している(巽,2003;巽,2011)。 香川県内では、最初に流紋岩質のマグマが噴出した。高松クレーターと呼ばれるカルデラもこの時期に形成された。その後マグマは安山岩質に変化し、多種多様な火山岩や火山噴出物が形成された。讃岐平野と備讃瀬戸には、多様な色調や硬軟の特徴をもつ岩石が分布し、独自の景観をつくると共に、多様な石の文化を育んだ。 讃岐層群は湖水域に噴出したため、火山岩類の下位に湖成堆積物が残っているところがある。讃岐層群基底の湖成堆積物からは、雨滝自然科学館の森繁館長によって世界最古のなまずの化石が発見されている(Watanabe et al., 1998:図4)。 讃岐層群基底の湖成堆積物には、白っぽい流紋岩質凝灰岩類が堆積しているが、豊島、男木島、女木島および屋島北嶺には、讃岐岩質安山岩類の下に黒っぽい火山礫凝灰岩が分布しており、江戸時代以降豊島石や屋島の黒石として採掘され、その跡が洞窟となっている(長谷川,2009)。この黒っぽい凝灰岩を形成した火山活動が瀬戸内火山活動のさきがけかどうかがマグマ活動の起源を考える上で未解決の問題となっている。

図3 マントル直結の安山岩の貫入(小豆島町三都半島)

図4 世界最古のナマズの化石(さぬき市雨滝自然科学館)

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3.2 讃岐平野と備讃瀬戸の造形美 讃岐平野や備讃瀬戸には、平野の中に台地状あるいは円錐状(おむすび山)の美しい小山が点在する我が国でもめずらしい景観がある(図5)。これらは、屋島などの安山岩溶岩が侵食されてできた台地(メサ)と、飯野山(讃岐富士)等のマグマを供給した火道の火山岩が侵食に抵抗して残った火山岩頸に区分され、ビュートと呼べる山は五色台の紅峰などごくわずかである(図6)。これらはともに約1300万年前~1500万年前の瀬戸内火山活動でできた溶岩等(瀬戸内火山岩類)が、8000万年前~9000万年前の領家花崗岩類中に貫入して、地上に噴出した後、1300万年以上の歳月をかけて侵食された残丘である。

飯野山(丸亀平野) 屋島(高松平野)

大槌島(備讃瀬戸) 寒霞渓(小豆島)

図5 瀬戸内火山岩類が素材となった讃岐平野と備讃瀬戸の造形美

図6 讃岐平野におけるメサとビュートと火山岩頸の地形と内部構造

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 ⑴ 寺勾配の美しい斜面形状 台地状の屋島や飯野山などの讃岐ミニ富士が美しく見えるのは、山頂部を構成する硬質の讃岐岩質安山岩が急斜面を形成し、山腹の風化した花崗岩が緩斜面となる寺勾配(お寺の屋根のような勾配)をしていることによる(図6)。屋島では、山頂を構成する硬質の安山岩が崩壊して形成された崩積土が花崗岩を基盤とする斜面を厚さ2m程度の厚さで覆っている。この安山岩崩積土は、高標高部ほど安山岩礫の礫径が大きく、礫の含有率も高い。このため安山岩崩積土の内部摩擦角は高標高部ほど大きく、その結果斜面が美しい寺勾配となっていると推定される(図7)。

 ⑵ 屋島と讃岐富士には谷がほとんどない 屋島や飯野山の山腹斜面に谷がほとんどないことも美しさの秘密である。富士山以上に美しいおむすび山が平野だけでなく海にも点在しているのは、世界でもここだけではないだろうか(図5)。 活火山の富士山でも噴火の休止期間が続くと、谷が形成され、次第に美しい山体が崩れていく。飯野山や屋島が1300万年以上の歳月をかけて侵食されたにもかかわらず、谷がほとんどないのは、降雨によって崩壊して谷ができても、山頂からの安山岩崩積土が谷を埋めるからと考えられる(図9)。 屋島の開析が進行すると、崩壊によって山頂部平坦面が縮小し、最終的にキャップロック

図7 屋島の傾斜分布図(国土地理 院 航空レーザー測量による5mメ ッシュDEMに基づく)。海岸線に 沿う急傾斜面は海食崖。

図8 屋島の斜面のでき方

図9 花崗岩の谷を埋める安山岩崩積土(屋島)

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 (かぶとのような硬い岩層)として山頂を保護し、下方斜面に安山岩崩積土を供給していた安山岩がなくなる。そうなると、下部斜面に十分な安山岩由来の崩積土を供給できなくなり、花崗岩風化土が直接地表に露出し始め、降雨による表層崩壊からガリー侵食が進行し、女木島北部や五剣山周辺の花崗岩丘陵のように谷が縦横に形成される(図10)。 これに対して、讃岐富士になるために必要な地質構造は、火山岩頸のように硬い鉛筆の芯があることである。火山岩頸の場合には、山体がいくら侵食されても、鉛筆の芯に当たる火道を構成する安山岩類はなくならないので、山頂部の安山岩の分布は削られても、削られても縮小しない。このため、一度円錐形の形まで開析されれば、その後いくら開析されても山頂部の安山岩の分布は縮小せず、花崗岩からなる下部斜面に安山岩由来の崩積土が供給されて、谷の成長を妨げられる。その結果、削られても、削られても美しいおむすび山の山容を保持することができる(図11)。 円錐形の山容となるためには、火道の水平断面が円形に近いこと、また構成する安山岩が硬質かつ比較的均質であることが必要である。讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)はなぜか、この条件を満たしている。

 ⑶ 寒霞渓はどのようにしてできたのか 備讃瀬戸には大槌島・小槌島のようなおむすび山と豊島のようなメサだけでなく、小

図10 屋島と五剣山の赤色立体地図(国土地理院10mDEMからアジア航測㈱作成)

女木島

屋島

五剣山

図11 メサとおむすび山のでき方湖に堆積した安山岩溶岩の侵食⇒メサ 火山岩頸の侵食⇒讃岐富士

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豆島には寒霞渓のような壮大な渓谷美がある。このような渓谷美が小豆島にあるのは、寒霞渓付近が大規模な複成火山帯の中心部で、厚い火山噴出物(凝灰角礫岩、火山角礫岩)が堆積していること(巽,1983)と関係している。 寒霞渓は、第四紀のいつごろかは不明であるが、瀬戸内海を震源とする直下型地震によって形成された大規模崩壊跡ではないかと考えている。その後長年の雨による崩壊と流水による侵食によって小さな谷が刻まれてきた。また、岩峰の形成には石膏の析出のような塩類風化が関係していると推定されるが、その形成過程は良くわかっていない。 もう一つの特徴は、山頂部に膨大な火山岩類が分布するにもかかわらず、山腹には深い谷が刻まれていることである(図12)。これは、寒霞渓を構成する厚い凝灰角礫岩・火山角礫岩が安山岩溶岩や基盤の花崗岩類と比較して侵食を受けやすく、谷が形成されやすいからだと考えられる。 谷が成長し、山頂からの安山岩崩積土が供給されなくなると、基盤の花崗岩類の風化殻が地表に露出し、マサの中にある風化をまぬがれた玉石(コアストーン)が地表に露出する。このコアストーンが大坂城石垣の種石として、採石されたのである。

図12 小豆島の赤色立体地図(国土地理院10mDEMから作成)

寒霞渓

3.3 旧石器時代から現在まで続く多様な石の文化 約1400万年前の瀬戸内火山活動は、軟らかい凝灰岩から超硬質のサヌカイト(讃岐岩)

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まで幅広い物性をもつ岩石を生み出した(表1、2)。そして、多様な瀬戸内火山岩類が讃岐の多様な石の文化を育んだ。香川県内には、旧石器時代から瀬戸内を席巻したサヌカイト石器、畿内地方の石棺に使用された鷲ノ山石等、中世の石造物に使用された天霧石、江戸時代に桂離宮の石灯籠等に使用された豊島石、皇居の東庭の敷石に採取された由良石、庵治石を産する日本一の石材産業、世界を魅了したサヌカイト楽器と讃岐は世界たぐいまれな多様な石の文化がある。また、時代のニーズと技術の進歩によって、石の文化の主役となった石材は、時代とともに変わったが、その伝統は旧石器時代から現代まで脈々と受け継がれていることも特筆される。 世界から絶賛されている石の楽器のあるジオパークは世界にあるだろうか。また、旧石器時代から現代まで石の文化の伝統が継承されている地域が他にあるだろうか。

 ⑴ 旧石器時代からのサヌカイト石器 旧石器時代から弥生時代まではサヌカイトが瀬戸内の石の主役である。サヌカイトは、約1300万年前の瀬戸内火山岩類(香川県では讃岐層群と呼ばれている)に属する古銅輝石安山岩で、ガラス質で緻密、硬質で、かつ流理に沿ってエッジ状に割れやすい性質がある。このため、打撃によって割ると、ナイフ型石器などを容易に作ることができる(図13)。しかも、エッジが鋭く、他の石と比較して切れ味が抜群である。 旧石器時代のサヌカイト製石器は、初めは国分台遺跡群(高松市国分寺町)や瀬戸内の島嶼部や丸亀平野などから産出し、約2万年前の最終氷期には標高400m付近の国分台がサヌカイト石器の中心地であったことがうかがわれる(木原ほか,1997)。その後、旧石器時代の末期になると、坂出市金山産のサヌカイトが主流になり、縄文時代、弥生時代にかけて坂出市金山産のサヌカイトが、瀬戸内を席巻し、日本海まで流通した。 これは、他のサヌカイト産地が丘陵の山頂部にあるのに対して、金山東斜面では山頂部 (標高約280m)のサヌカイトが大規模地すべりによって標高100~150m付近まで滑落し、しかも砕けた状態で採取できることが要因と思われる。つまり、金山東斜面のサヌカイトは地すべりによる天然採石場から採取され、しかも海が間近で搬出が容易という好条件があったからだと考えられる。

表2 香川県産岩石の工学的性質

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 ⑵ 古墳時代の石棺 古墳時代になると、瀬戸内火山岩類に属する高松市国分寺町鷲ノ山石(角閃石輝石安山岩)やさぬき市の火山石(流紋岩質凝灰岩)が香川県内だけでなく、近畿地方の石棺に使用されるようになる(図14)。 しかしその後、熊本県の菊池川流域の黒灰色阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)の石棺が、瀬戸内沿岸の古墳だけでなく、大阪や奈良の古墳に多用されるようになる。さらに、5世紀末から6世紀後半には宇土市のピンク阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)が大阪、奈良、滋賀の古墳に使用された。この時代には、石棺が船で瀬戸内海を渡り、更に内陸まで運ばれている。巨大な権力と高度な技術のなせる業である。 ⑶ 中世の天霧石(流紋岩質凝灰岩)の石造物 鎌倉時代から室町時代になると、瀬戸内火山岩類基底部にある白色の流紋岩質凝灰岩 (約1400万年前)を使用した石灯籠や五輪搭が広まってくる。また、これまで豊島石製とされた中世の石造物は香川県西部の天霧石製であることが明らかにされた(片桐,2008)。流紋岩質凝灰岩の石造物は、加工が容易なものの、風化に弱いのが特徴である(図15)。 ⑷ 近世の豊島石(玄武岩質凝灰岩)の石造物 江戸時代になると、石造物の石材は黒い豊島石(玄武岩質火山礫凝灰岩)(図16)に取って代わられる(松田,2009)。豊島石からは1620万年前を示すフィッショントラック年代が報告されている(長谷川,2009)。この玄武岩質火山礫凝灰岩は、讃岐層群の流紋岩質凝灰岩と比較して、密度が大きく、強度も大きく、風化に対しても強い性質がある。 土庄町豊島の豊島石は、加工しやすい岩質によって、江戸時代には京都の桂離宮や岡山の後楽園などの石灯籠として使用されるなど、江戸時代を代表する瀬戸内の石となった。また火に強い特性が重宝され、井筒や火炉、かけい、かまど等に重宝された。 豊島石の採掘は、明治時代には坑内掘りが始まり、島の一大産業であった。しかし、戦後の機械を活用した石材加工技術の進歩とともに、庵治石などの花崗岩系の石材が主流を占め、また生活様式の変化から豊島石の一般需要も激減した。香川県の伝統工業品にも指定された豊島石灯篭を製作していた最後の石材店が最近倒産したことよって、数百年の豊島石の歴史に幕が閉じられた。 ⑸ 近世の城の石垣と花崗岩 日本の石垣造りは、7世紀後半の白村江の敗戦後、唐・新羅の侵入に備えて、百済からの亡命技術者が総社市の鬼ヶ城や高松市の屋嶋の城に代表される朝鮮式の山城を作ったことに始まるようである。 国内で大規模な石垣が作られるようになったのは戦国時代から江戸時代で、西日本で多くの石造りの城が築造された。特に大阪城の石垣は、瀬戸内の各地から巨大な花崗岩石材を運ばせたことで有名で、小豆島等の瀬戸内海の島々には今でも大阪城築城の丁場と残石が残っており、小豆島町の岩谷丁場は国の史跡に指定されている(図17)。また、

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小豆島土庄町小海の大坂城残石記念公園には多くの花崗岩の残石が展示されている。 江戸時代は、地表付近に露出した花崗岩の玉石(風化からまぬがれたコアストーン)を石材として切り出していた。花崗岩の玉石は、一般的には瀬戸内火山岩類が分布しない花崗岩の島や丘陵から採取されている。例えば、高松市の屋島は基盤の花崗岩類を山頂のキャップロックから崩れ落ちた安山岩崩積土が約2mの厚さに覆っているので、沿岸部の崖付近でしか玉石を掘り出すことができない。ところが、小豆島は山頂付近に広く瀬戸内火山岩類が分布しているのにかかわらず、屋島とは異なり、山腹斜面に谷が発達している。これは、寒霞渓を構成する凝灰角礫岩が安山岩と比較して脆くて、崩れやすいことが関係している。谷が成長することによって、小豆島では、花崗岩の玉石と安山岩の岩塊が土石流によって沿岸部に運ばれるようになった。初期の丁場は土石流によって運ばれた花崗岩の岩塊(玉石)を採石したのではないだろうか。 ⑹ 近世の泉州石工と和泉砂岩 泉州石工は、近世に和泉国日根郡(現在の大阪府阪南市、泉南市付近)を本拠として全国で活躍した石工集団で、石彫を得意として、和泉山脈から産する白亜紀後期の和泉層群の砂岩(和泉石、和泉砂岩)を狛犬、石灯籠などに加工して、全国で活躍したと伝えられている。瀬戸内沿岸の神社にある江戸時代後期の狛犬のほとんどは、和泉砂岩製である(図18)。また、高松市南部では和泉砂岩の代わりに由良石が、また国分寺から綾川町にかけての地域では和泉砂岩の代わりに鷲ノ山石を利用している。これらの石材の強度はよく似ている(表2)。 江戸時代に製作された和泉砂岩製の狛犬は、明治以降次第に花崗岩製に置き換えられるようになった。江戸時代には泉州で和泉山脈から採れる和泉層群の砂岩を加工していたが、江戸時代後期の庵治・牟礼に移り住んだ石工さんたちが花崗岩を加工するようになり、次第に花崗岩製の狛犬に置き換えられたようである。 ⑺ 近世からの由良石 由良石は、高松平野南部の孤立丘を構成する讃岐層群の黒雲母デイサイトで、その加工の容易さから江戸時代以降、墓石や石灯籠などに加工された。加工技術の進歩とともに昭和初期には販路が全国に展開され、戦後の復興期には建設資材として大量に採掘された。特に、1966年には皇居東庭の敷石に採用され、由良石の名を高めた(図19)。しかし1980年以降輸入石材との価格競争に負け、2003年に約300年の歴史に幕を閉じた。採石跡では由良石の見事な柱状節理を観察することができる。 ⑻ 現代の最高級石材:庵治石 花崗岩類は明治以降、日本の主要な石材になってゆく。その代表が高松市牟礼町と庵治町から産する庵治石である。庵治石は、白亜紀後期の細粒黒雲母花崗岩で、特に細粒の細目(こまめ)は、独特の斑(ふ)が浮く模様が重宝されている。 庵治石が本格的に利用されたのは江戸時代以降とされ、明治時代初期まではマサの中

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の玉石を取り出して利用していたようである(石原,1991)。その後、明治30年頃から火薬が使われ、直接岩盤から切り出されるようになり、昭和30年以降は今のような発破と大型重機を使用する採掘方法に至っている。 牟礼・庵治地区には、石工の高い技術があり、世界的な彫刻家であるイサム・ノグチもアトリエを構えた(図20)。牟礼・庵治地区の石材加工組合は2年に1度ストーンフェアーを開催し、全国へ情報発信をして、業界をリードしている。しかし、庵治石も不況と安価な中国製品に押されて、出荷価格も半値に下落した。また出荷額も最盛期(1993年)の約300億円から、2006年度には約140億円にまで低下した。これまでの墓石を中心とした製品の市場に危機感を持った牟礼と庵治の石屋さんたちは、「石あかりロード」 によるまちづくりや映画「紲−庵治石の味−」の製作など石の文化の創造と継承に挑戦している。 ⑼ 現代のサヌカイト楽器 サヌカイト(讃岐岩)は、ハンマーでたたくとカンカンという音を奏でるため讃岐では古くから「かんかん石」と親しまれてきた(図21)。屋島山上で売られているサヌカイトは国分寺町蓮光寺山産で、宮脇磬子さん製作の自然石を活かした民芸風のサヌカイトである。これに対して坂出市金山産のサヌカイトは塊状の形をしているので、そのままでは良い音が出ないため、地元では 「ちんちん石」 と呼び、石垣などに利用していた。 20世紀後半に地元の依頼を受け、金山を購入した前田仁先生は、その金山東斜面産のサヌカイトが、古代石器の素材であったことを新聞で知り、サヌカイトを使った楽器製作の研究を開始した。そして、世界中の音楽家だけでなく、宗教家、学者などを「太古の音色」「天使の響き」と驚嘆させるサヌカイト楽器を創作した(図22)。 前田先生のサヌカイト楽器は西洋の科学技術と東洋の精神が融合されている。まず、サヌカイト楽器は、石の特性を活かした加工方法を考案し、ミクロン単位まで精巧に研磨して調律されている。また、その形状は東洋的な美術品としても通用しそうである。そして、なによりもその音、波動は人を癒すだけでなく、魂までもが浄化されるような不思議な魅力を持っている。前田先生は、石を通して生涯にわたって、真善美さらには聖を追及された。讃岐ジオパークも真善美から聖を目指したいものである。

図13 サヌカイト製旧石器(坂出市金山) 図14 鷲ノ山石製石棺(高松市国分寺町)

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図15 天霧石の磨崖仏(三豊市弥谷寺) 図16 豊島石製灯篭(高松市栗林公園)

図17 天狗岩丁場の花崗岩種石(小豆島町岩谷) 図18 和泉砂岩製狛犬(丸亀市広島)

図19 由良石の敷石(皇居東庭) 図20 イサム・ノグチ庭園美術館(高松市牟礼町)

図21 サヌカイトの岩塊(坂出市金山) 図22 前田仁先生とサヌカイト楽器(坂出市金山)

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3.讃岐ジオパーク構想の取り組み ⑴ 讃岐ジオパーク構想のめざすもの 讃岐ジオパーク構想は、母なる大地によって育まれた讃岐と備讃瀬戸の自然・歴史・文化を活かした地域の持続的な発展をめざしている。地域の持続的な発展のためには、大地に関連した地域の宝(大地の遺産)を世界的な視点で見直して、地域の伝統と法に基づき保全することが求められる。また、大地の遺産を継承するには、保護が重要で、保護と教育の土台の上に利活用、持続可能な産業の振興がある。 ⑵ 前田仁先生のサヌカイトとの出会い 私が香川に来て、讃岐の石と石の文化に関心を持つようになったのは、サヌカイト楽器創作者の故前田仁先生との出会いがきっかけである。当時東京大学理学部地質学教室の学生であった朽津信明さん(現在は東京文化財研究所保存修復化学センター修復材料研究室長)の紹介で、1989年の12月に坂出市金山にある前田先生の事務所を訪れ、そこで前田さんのサヌカイトの一撃にひれ伏した。それまで、サヌカイトが音の出る石であることは知っていたが、前田さんのサヌカイトは魂の奥底まで響く衝撃であった。以後、前田先生を師と仰ぎ、用事を作っては金山詣でを続けた。前田先生は、親子ほどの年の差も気にされず、「石と科学技術」、「石と文化」、「石と芸術」、「石と宗教」、「石と人生」などについて含蓄のある話を語ってくれた。また、前田先生と前田先生のサヌカイトを慕って世界中から学者や芸術家や宗教家が金山を訪れた。その傍らにいるだけで、サヌカイトは世界の至宝であることを確信することができた。 ⑶ 石の民俗資料館の開館 平成7年3月20日に 「牟礼町石の民俗資料館」 が開館し(現在は高松市石の民俗資料館)、なぜか運営委員会の委員を仰せつかり、庵治石と石工さんたちとの付き合いが始まった。委員に選ばれたのは、その前年に高松市で盛り上がった高松クレーター論争のおかげかもしれない。「牟礼町石の民俗資料館」 はその後 「高松市石の民俗資料館」 となったが、石の文化の発信拠点として重要な役割を果たしている。 ⑷ 高松クレーター論争 金沢大学の河野芳輝教授らの研究グループが、高松平野の地下に重力探査によって直径は約4㎞、最大の深さは地表から千数百mの伏在クレーター状構造を発見し、高松クレーターと命名した(河野ほか,1994)。そして、その後の調査で高松クレーターは日本初の隕石衝突孔である可能性が高く、その地下に早明浦ダム20杯分の地下水が蓄えられていると発表し、地元のマスメディアが大々的に報道した。当時四国電力の子会社の四国総合研究所にいた私は、即座に地表地質およびボーリング調査に基づき、高松クレーターは花崗岩の窪みに凝灰岩類を主体とする厚い火砕流堆積物が分布するカルデラ跡で、陥没構造を埋めているのは砂礫層ではなく、火砕流が固まった溶結凝灰岩なので、渇水時の水源にはならないと反論した(論争の経緯については、(長谷川,2010)を参照された

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い)。結果はともあれ、県民の大地に関する関心を高める良い機会となった。 ⑸ 日本応用地質学会高松大会 2002年11月に高松で開催された日本応用地質学会の全国大会では、実行委員会の副委員長として、前例のない企画で全国から高松に来る地質技術者をびっくりさせたいと考え、サヌカイト楽器を創作された前田仁先生にサヌカイトの演奏との特別講演とサヌカイト演奏を企画した。また、研究発表会終了後に行う見学会では、四電技術コンサルタントの田村栄治さんの協力を得て、「瀬戸内の石と文化」をテーマに庵治石の丁場とイサム・ノグチ庭園美術館を訪問後、坂出市金山にある前田先生の「けいの里」でサヌカイト楽器を見学した。参加者からは、地質半分、芸術半分のユニークな見学会と大好評だった。今から見ると讃岐ジオサイト探訪の始まりであった。 ⑹ 万国地質学会でジオパークに目覚める GGNが設立された同じ年の2004年8月に4年に一度開催される第32回万国地質学会がイタリアフィレンツェで開催された。私は、サヌカイトの魅力を世界に発信しようと、サヌカイトを携えて研究発表に向かった。また、ヨーロッパでスタートしたばかりのジオパークをテーマにしたセッションに参加し、讃岐は世界のジオパークになるすばらしい素材があることを確信した。しかし、2004年は台風の当たり年で、帰国後は台風災害調査に追いまくられ、その後も防災に関する調査研究を優先して、ジオパークは完全に後回しになった。 ⑺ 四国運輸局のジオパーク調査 四国におけるジオパークの調査は、平成19・20年度に国土交通省四国運輸局と高知県が共同で実施した「四国の特徴的な地質遺産の活用方策に関する調査」が始まりである。私は、香川県の資料作成を分担、「讃岐平野」と「小豆島」のジオサイトの紹介資料を作成することで、やっとジオパークの調査を開始することができた。 ところが、私にとって石だけでなく人生の師匠でもあったサヌカイト楽器の創作者である前田仁先生が2008年3月11日に急逝された。前田先生のご遺志をついで、サヌカイトと金山をどのようにして先々まで伝えていく仕組みをつくればいいのか、本気に考えなければならなくなった。そして、讃岐ジオパーク構想をご子息の前田宗一(現在香川経済同友会代表幹事)さんに打ち明けたところ、最初の賛同者になってくれた。また、 「四国の特徴的な地質遺産の活用方策に関する調査」の一環として、四国にアドバイスにこられたウォルフガング・エダーさん(ジオパークの提唱者、ユネスコの元地球科学部長)を2009年2月金山のけいの里にご案内する機会をいただいた。エダーさんはサヌカイト楽器を演奏し、その音色を絶賛した。 なお、四国運輸局が最初に構想した四国ジオパークは各県の足並みがそろわず、室戸が先行して日本ジオパークに認定され、更には世界ジオパークにも認定されている。

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 ⑻ 豊島石の応用地質学的研究 2008年5月日本応用地質学会中国四国支部長に就任し、地域文化に貢献することを支部活動の柱に加えた。手始めに「応用地質学的ジオパークとしての豊島」をテーマに現地検討会を実施した。また、文化遺産、産業遺産としての豊島石のもつ価値を広く認識してもらうため、中国四国支部に豊島石研究チームを立ち上げ、財団法人福武学術文化振興財団の第4回瀬戸内文化研究・活動支援助成を受け、豊島石の応用地質学的研究を実施した(長谷川ほか,2009)。 ⑼ 讃岐ジオサイト探訪のスタート 平成22年度(2010年)から小研究室の技術補佐員の鶴田聖子さんの協力を得て、香川大学公開講座として香川県内の地形・地質と石の文化を再発見する「讃岐ジオサイト探訪」を開始した。讃岐ジオパークを構成するジオサイト(地質名所)の資料を作成するとともに、同志の輪を広げる活動がスタートした。「讃岐ジオサイト探訪」では、現地の下見をしてA3裏表の資料を作成し、現地を探訪したときの参加者から意見を参考に、資料を修正してきた。平成22年度から平成24年度までに24ジオサイトに25年度探訪予定の6ジオサイトを追加して、2013年3月に香川大学生涯学習研究センター研究報告別冊として、「讃岐ジオサイト探訪」を刊行することができた。30ジオサイトには瀬戸内国際芸術祭2013が開催される小豆島、豊島、直島、女木島、男木島、高見島、伊吹島の7つの島が含まれている。 ⑽ 讃岐ジオパークをめざすシンポジウム 讃岐ジオパーク構想を世に問うため、2012年3月に世界的なマグマ学者である巽好幸さん(当時海洋研究開発機構プログラムディレクター・現在神戸大学大学院教授)を招いて、「讃岐ジオパークをめざすシンポジウム」 と「屋島ジオサイト探訪」を開催した。シンポジウムには予想を超える約190人の参加があり、関心の高さにびっくりした。 ⑾ 小豆島石の文化シンポジウム 2012年4月には小豆島町の塩田幸雄町長との出会いがあり、小豆島を石の文化とジオパークで盛り上げることで意気投合した。そして、5月にはたまたま高松に来た巽さんの時間をいただき、一緒に小豆島の塩田町長を訪ね、プレートが溶けてできた安山岩を世界で初めて実証した露頭を案内してもらい、小豆島がマグマ学者の聖地であることを確認した。平成24年11月には小豆島町が主催する 「小豆島石の文化シンポジウム・小豆島ジオサイト探訪」 に香川大学が共催に加わり、ジオサイト探訪の案内とシンポジウムのコーディネータを務める機会をいただいた。小豆島ジオサイト探訪は当初バス2台が5台になり、シンポジウムも会場が満員の大盛況であった。 ⑿ 香川経済同友会の提言 平成24年12月には香川経済同友会から副代表幹事の前田宗一さんが中心となってまとめた 「讃岐ジオパーク」 認定に向けた産官学の連携に関する提言が浜田恵造香川県知事

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に提出され、讃岐ジオパーク構想が動き始めた。また前田宗一さんのご尽力で平成25年2月にはサヌカイトコンサートと 「おむすび山の秘密」 の講演会に約200名の参加があった。 「おむすび山の秘密」 では、讃岐うどん文化を育んだ瀬戸内海式気候の起源が、瀬戸内火山活動と同時期の火成活動によって四国山地が成長したことまでさかのぼるというジオストーリーを紹介した。 ⒀ アジア太平洋ジオパーク大会への参加 2013年9月に韓国の済州島で開催される第3回アジア太平洋ジオパーク大会(APGN2013)において、「讃岐ジオパーク構想」を発信した。発表者は、香川大学地域マネジメント研究科准教授の高木知巳さんである。発表は好評との速報が届いている。 ⒁ 小豆島石の魅力創造シンポジウム 2013年10月に、瀬戸内火山活動研究の第一人者の巽さんと小豆島の花崗岩研究の第一人者の横山俊治さんと若手地質学者のホープの藤田勝代さん、そして世界遺産の調査研究を精力的にされている考古学者の津村宏臣さんが小豆島に集まり、ジオサイト探訪と 「石の魅力創造シンポジウム」が開催される。このシンポジウムは、讃岐ジオパーク構想と小豆島町が発信する 「東瀬戸内文化圏世界遺産構想」 を推進する絶好の機会になると期待している。 ⒂ 讃岐ジオパーク構想推進協議会(仮称)を立ち上げに向けて  「讃岐ジオパーク」 認定に向けての活動も広がってきたが、ジオパークとして認定されるには、財政的な基盤がしっかりした組織によるガイドの養成、見学会や講演会の実施、ガイドマップ、解説書や説明板の充実、地質遺産の保全と活用のための地道な活動が不可欠とされる。また、讃岐が世界のジオパークとして認められるためには、なによりも香川県民が、昔から見慣れたおむすび山、足元に転がっている黒いカンカン石、氏神さんや里山の山頂にある古びた祠や路傍の石仏に世界的な価値があると見直し、その保全と持続可能な地域の発展のために活用する盛り上がりが必要である。ジオパークは地形・地質遺産の価値と保全の状況に加えて、地域社会がそれらの価値をどれだけ理解し、それを保全しながらどううまく観光客に見せて地域経済の活性化につなげているかが加盟認定に当たっての重要事項であるからである(渡辺,2011)。平成25年度は 「讃岐ジオパーク構想推進協議会(仮称)」 を立ち上げて、県民運動にまで盛り上げる正念場である。何とぞご支援よろしくお願い申し上げます。

4.なぜ讃岐ジオパークが世界をめざすのか ⑴ 今直面する2つの脅威 日本は、いま大自然の脅威とグローバリズムの脅威とにさられている。大自然の脅威は、プレート境界の変動帯の日本列島に住む日本人の宿命である。太平洋沿岸地帯は、繰り返し海溝型巨大地震の地震と津波、時には大規模火山噴火の洗礼を受けてきた。ま

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たグローバリズムの洗礼を受けた世界各地で地場産業そして生活そのものが破壊され、地域の文化と伝統が廃れてきている。グローバリズムはマネーの力による新しい植民地主義のようである。 クローバリズムによって体力が衰えた日本にとどめをさすように南海トラフ巨大地震、首都直下地震、大規模火山噴火(富士山等)などの巨大自然災害が待ち構えている。同じような自然災害として、1703年元禄地震、1707年宝永地震、1707年富士山の宝永噴火があるが、その当時と現在では社会情勢が全く異なっている。例えば、1703年元禄地震と1707年宝永地震の津波が襲った新田と干潟は日本の産業の中枢である太平洋ベルト地帯に変貌し、その地上と海底には大量の有害物質や危険物質が蓄積されている。いずれ、都会のメリットはデメリットに、田舎のデメリットはメリットに大転換する。しかし、その田舎は、加速化する東京一極集中による少子高齢化と構造改革によって崩壊寸前である。 実は、田舎はある程度その土地や海の産物を生活の糧にしているので、ある程度までは災害に強い。これをレジリエンス(しなやかさ)という。都会はめざましく経済発展し、仕事をしているように見えても、その基盤は田舎からの食糧とマネーの仕送り(子ども一人大学生に出せば少なくとも約200万円はかかる)が支えている。もし、首都直下地震が発生すると、地方から食糧と仕送りが止まり、東京では万事休すとなる。鴨長明も方丈記にこう記している。  「京のならひ、何わざにつけても、源は、田舎をこそ頼めるに、たとえ上るものなければ、さのみやは操もつくりあえん。(京都の経済というものは、いつも、何にもよらず、根源は、地方に依存しているのに、まったく送り込まれるものがないものだから、こうなると、とても平常のような体裁をつくろてなんかいられやしない。)(簗瀬一雄訳注、角川ソフィア文庫)」 東京一極へ集中する人とマネーの流れを少しでもくい止めて、田舎に向けるには、地方にマネーとは別の価値を見出し、里山資本主義(藻谷ら,2013)のような仕組みを復活させる必要がある。これは、巨大災害時のレジリエンスにもつながる。また、地域の大地の成り立ちを知ることは、そこで発生する可能性のある自然災害を知ることにつながる。日本ジオパーク委員会の中川和之委員(時事通信社山形支局長)は、「ジオパークは究極の防災教育」だと評価している。 都会を支える田舎の富の源泉は、自然である。海の幸、里の幸、山の幸が、本当の富の源泉である。これは、大地の成り立ちと不可分の関係にある。ジオパークの活動は、大地の成り立ちにもどって、地域の持続可能な発展を考え直す作業でもある。 ⑵ 中山の千枚田の虫送りが復活した意義 中山の千枚田の虫送りが、映画 「八日目の蟬」 のロケがきっかけとなり、復活して今年で3年目になる。虫送りは、農作物の害虫を駆除し、その年の豊作を祈願する日本の

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伝統行事の一つで、中山では七夕に執り行われてきた。西洋の合理思想、科学的思考に基づけば、たいまつの火で駆除できる虫は限られるので、虫送りは労多くて功が少ない非効率的な行為でしかない。害虫を駆除する毒薬を開発して、散布すれば効率的かつ確実に駆除でき、人件費も節約できる。このように戦後、農薬を輸入し、全面的に農薬に依存した農業を進めてきた結果、ドジョウやメダカが激減し、生態系が破壊され、豊かな農村の活力が失われてしまった。目先の経済合理性と効率を追求することは、局所最適・全体最悪になる落とし穴がある。 しかし幸いなことに、映画 「八日目の蟬」 の幻想的な虫送りのシーンによって、多くの人たちが虫送りの伝統はなくしてはいけない大事なものに気がついたのではないだろうか。だから、復活したのである。近代化、現代化、グローバル化の波に乗り遅れた島であったため、日本で絶滅寸前の文化が残ったのではないだろうか。そして、その文化はひょっとすると地球の生態系の安定性(ホメオスタシス、レジリエンス)や地球の未来を考える上で重要な役割を担っているかもしれないのである。 虫送りの舞台となった棚田は、大昔に地すべりによってできた緩斜面の荒地を何百年にわたり、開墾し、土の中から岩塊を掘り出し、地形に合わせながら石積みをした芸術品である。現代では、斜面を切り盛りして平坦面を造成するには、コンクリートで擁壁をつくれば熟練技術もなく短期間にできる。しかし、コンクリート構造物の寿命は高々50年で、壊して作り直さないといけない。つまり、持続可能でない。これに対して、石垣がはみだしたり、崩れたらその石を積みなおせばいい。コンクリート擁壁と石垣のどちらが長持ちし、持続可能かははっきりしている。あとは、持続可能な石積みを地域の伝統・芸術として保護する仕組みを作ればよいだけである。それは里山資本主義(藻谷ら,2013)への転換かもしれないし、ジオパークの中のアグリ・ツーリズムかもしれない。 ⑶ 石の文化を継承するには、石の産業の持続的な発展が不可欠 皇居東庭の敷石に使っている由良石の一部が割れたり、欠けたりしたので、宮内庁が由良石で補修を計画したところ、由良石の採石場が閉鎖されて由良石が入手できないため、由良石による補修を断念したそうである。由良山には2003年に建立された由良石の由来を記した石碑がある。石碑には、1980年代から石の利用の減少、自然保護規制の強化に加え、貿易の自由化によって安い輸入石材との競争に負けて、20世紀の終わりとともに採石場が閉鎖されたことが記されている。 豊島石は江戸時代には讃州豊島石と呼ばれ、桂離宮の石灯籠にも使用された名石である。しかし、21世紀になって豊島石の大丁場が倒産によって閉鎖されたため、室町時代から続いた豊島石文化の継承が困難になっている。豊島石が採れなくなると歴史的な豊島石製石造物の補修ができなくなる。つまり、石の文化を継承するには、石の産業の持続的な発展が不可欠なのである。

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 千年先には、サヌカイト楽器をはじめ現在のすばらしい石造物は貴重な文化財になる。まずは千年先まで石の産業を継承することを目標としたい。 ⑷ 地域の伝統と法で石の文化を継承しよう 長年続いた石材産業を崩壊させた最大の要因は、貿易の自由化である。庵治・牟礼の石材産業も貿易の自由化で大打撃を受けてきた。日本では自由貿易が善で、保護貿易は悪だという論調が主流だが、自由貿易は世界中で地場産業と環境を破壊する持続不可能な制度ではないだろうか。石の産業と石の文化の継承には関税と関税の税収による保護が不可欠である。また、自由貿易を推進することは、他国の地場産業と生活を破壊し、他国の文化と伝統を破壊することに加担することになる。 ジオパークはドイツ人のウォルフガング・エダーさんが提唱し、その理念はジオパークの活動を通じての地域の持続可能な発展である。そのためには、まず地域の地質遺産を調査し、地域の伝統と法によって保護することが何よりも大事なこととされる。サヌカイトを産する里山をグローバル企業から護るためには、地域の伝統(入会地等)の尊重と法(条例)の整備が不可欠である。グローバリズムから地域の文化と伝統を護るためには、先ず世界的(グローバル)な視点で地域の宝を見直して、地域に誇りを持つことが重要である。また、一つ一つの地域の力には限界があるので、世界各地の人たちと連携、協力することが必要なのである。だから、讃岐ジオパーク構想は世界をめざすのである。 千年後までみすえた地域の持続的な発展を考えるならば、今後千年間に幾度か世界恐慌や戦争に巻き込まれ、南海トラフ巨大地震に繰り返し襲われ、直下型地震の洗礼も受けることが想定される。もし、九州で超巨大噴火が発生するならば、西日本は火山灰などで人間が住めなくなる。その時に国外に仲間がいれば、日本脱出も選択枝となる。超巨大噴火による日本民族存亡の危機を回避するためにも、世界との連携が必要なのである。また、その時までに世界から受け入れを歓迎されるように文化力を高めるのが日本人の生き残り戦略であろう。そして、再び子孫が故郷の地に戻った時に、火山灰に埋もれた石の文化を発見して、祖先の偉業に驚嘆する、そのようなジオパークを目指したい。

5.おわりに 人類は旧石器時代から石を道具や建築資材として利用してきた。また、日本人は古来、石には神霊が籠ると信じ、自然石を拝み、石を積み、あるいは素朴に造型して、独自の多様な石造を育んだ(五来,1988)。山や山にある巨石は、古代から信仰の対象であった。歴史時代になっても多様な石材が、古墳、神社、寺院等の墳墓や石造物に利用された。石はまさに祈りの対象であった。 石は、木や紙などの記憶媒体と比較して、風雨や空気中の酸素による風化に対して耐久性がある。このため、石は遺構として最も保存されやすい。また、末永く子孫に重要

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なメッセージを伝えるため、各地に石に記録した石碑が残されている。 石は、地球のタイムカプセルでもある。石には、過去の地球での出来事に関する様々な情報が保存されている。地質学者は、岩石や地層の構成鉱物・物質、化学組成、放射性同位体、堆積組織、変形構造等から岩石や地層の誕生から現在に至るまでの歴史と過程を読み解く。そして応用地質学は、それらを未来につなげようとする。 「小豆島石の魅力創造シンポジウム」が、山や石を通じて自然への畏敬を思い起こし、石からのメッセージを読み解き、石の文化の継承と発展の出発点になることを期待している。

謝 辞 小豆島ジオサイト探訪・石の魅力創造シンポジウムの実施に当たった小豆島町塩田幸雄町長はじめ、関係各位に厚くお礼申し上げます。小豆島ジオサイト探訪・石の魅力創造シンポジウムの実施に当たっては、香川大学「瀬戸内国際芸術祭2013」平成25年度大学提案プロジェクト経費の支援を、また日本応用地質学会中国四国支部からは支部創立20周年記念事業としての全面的なご支援をいただきました。香川大学工学部技術補佐員の鶴田聖子さんには、本文中の図表の作成を手伝っていただきました。ここに記して厚くお礼申し上げます。

 【参考文献】 1) 五来重(1988): 石の宗教, 講談社学術文庫. 2) 長谷川修一・斉藤実(1989):讃岐平野の生いたち−第一瀬戸内累層群以降を中    心に−,アーバンクボタNo.28, pp.52−59. 3) 長谷川修一・田村栄治(2002):日本応用地質学会平成14年度見学会資料「瀬戸    内の石と文化」,http://www.jseg.or.jp/chushikoku/sonota/H14stone-culture.pdf. 4) 長谷川修一・前田仁・前田宗一・吉福祐介(2004):香川県産岩石の基本物性か    らみたサヌカイトの特徴,日本応用地質学会中国四国支部平成16年度研究発表会    発表論文集,21−24. 5) 長谷川修一・田村栄治・山本和彦・田村浩行(2008):日本応用地質学会中国四    国支部平成20年度見地検討会資料 「応用地質学的ジオパーク豊島」,    http://www.jseg.or.jp/chushikoku/gyouji/081003/20081004teshima.pdf. 6) 長谷川修一・日本応用地質学会中国四国支部豊島石研究チーム(2009):讃州豊    島石の応用地質学的研究事始, 日本応用地質学会中国四国支部平成21年度研究発    表会発表論文集,59−64. 7) 長谷川修一(2010):高松クレーター論争の検証,応用地質,第50巻,第6号,    pp.336−344.

Page 22: なぜ讃岐ジオパーク構想が世界をめざすのか...1 なぜ讃岐ジオパーク構想が世界をめざすのか 長谷川 修一(香川大学工学部) 1.はじめに

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 8) 長谷川修一・鶴田聖子・田村栄治(2011):香川大学公開講座「讃岐ジオサイト    探訪」によるアウトリーチ,日本応用地質学会平成23年度研究発表会講演論文集,    pp.89−94. 9) 石原舜三(1991):庵治石:その利用の歴史と地質学的背景,地質ニュース,    No.441,60−67. 10) 片桐孝浩(2008):瀬戸内地域における中世石造物の生産と展開,財団法人福武    学術文化振興財団,第2回瀬戸内文化研究・活動支援助成報告書<平成19年度>,    36−39. 11) 木原博幸・丹羽佑一・田中健二・和田仁(1997):香川県の歴史,山川出版社,    322p. 12) 松田朝由(2009):豊島石石造物の特色と歴史,財団法人福武学術文化振興財団,    第3回瀬戸内文化研究・活動支援助成報告書<平成19年度>,34−37. 13) 藻谷浩介・NHK広島取材班(2013):里山資本主義−日本経済は 「安心の原理」    で動く,角川one テーマ21,308p. 14) 日本ジオパーク連絡協議会(2013.8.17閲覧):    世界のジオパークhttp://www.geopark.jp/. 15) 西田正憲(1999):瀬戸内海の発見,中央公論新社. 16) 斉藤実・板東祐司・馬場幸秋(1962):    香川県地質図説明書,内場地下工業株式会社. 17) 巽好幸(1983):小豆島の火山地質−瀬戸内火山岩類の噴出環境−,地質学雑誌,    Vol.89,pp.693−706. 18) 巽好幸 (2003):安山岩と大陸の起源−ローカルからグローバルへ,    東京大学出版会,213p. 19) 巽好幸・谷健一郎・川畑博 (2009):小豆島の瀬戸内火山岩類:水中火山活動と    サヌキトイド,地質学雑誌,Vol.115,補遺,pp.15−20. 20) 巽好幸(2011):地球の中心で何が起こっているのか地殻変動のダイナミズムと    謎,幻冬舎新書. 21) 竹之内耕(2011):糸魚川ジオパークと地域振興,地学雑誌,Vol.120,pp.819−    833. 22)Watanabe, K., T. Uyeno and S. Mori (1998):Fossil record of a silurid catfish     from the Middle Miocene Sanuki Group of Ohkawa, Kagawa Prefecture, Japan.     Ichthyol. Res., 45 ⑷:341−345. 23) 渡辺真人(2011):世界ジオパークネットワークと日本のジオパーク,地学雑誌,    Vol.120,pp.733−724.