日本におけるイタリア観の形成 - 立命館大学 -...

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日本におけるイタリア観の形成─『米欧回覧実記』に見るイタリアのイメージを中心に─

加藤磨珠枝

はじめに

日本からイタリアに渡った最初の使節団は,遠い昔 1582 年にさかのぼる。イエズス会の先導でローマ教皇に謁見するために訪れた天正遣欧使節は,はるかかなたの極東の国の存在をヨーロッパの一般大衆にまで伝えるものであった1)。しかし,かれらの訪欧は外交上の目的による派遣ではなく,カトリック宣教活動の成果を知らしめる,いわば広告塔として計画されたものであり,彼らが西洋の日常的現実と触れる機会はほとんどなかったといってよい。使節団には素直で無垢な年頃の少年が選ばれ,引率したイエズス会士たちは,カトリック教会の統一的イメージを傷つけるようなものは,彼らの目に入らぬように細心の注意を払った2)。彼らの年齢と語学力の問題,さらに西洋の歴史に対する無理解を考えても,この派遣の意義は一方的にカトリック社会に求められるものである。日本においては,かれらの出発を知るものもほとんどいなかったし,1590 年に帰国した際には,祖国の政治状況は抜本的に変わっており,豊臣秀吉による布教活動阻止の動きにより,少年使節がヨーロッパで見聞したことを日本に広める機会は与えられなかった。その後,日本は徳川幕府の鎖国政策のなか,西洋への渡航や西洋人との交流を禁じられたために,唯一の貿易相手国オランダを窓口とする蘭学を通じて,西洋の歴史と文化を学ぶようになる。そこには当然,イタリアにまつわるさまざまな情報も含まれていたが,日本におけるイタリア観はあくまで断片的なものに限られていた。それは,日本人の渡欧経験の欠如に起因するものであるが,もう一つの理由として,当時の欧州列強諸国と比べて,イタリアの近代国家成立の遅れがあったことは疑いえない。18 世紀前半まで小国に分裂していたイタリアは,紆余曲折をへて 19 世紀後半に国家統一を果たしたが,この近代化の歩みは,日本の開国(1853 年)から明治維新(1868 年)にいたる近代化の歴史とほぼ同じ時期にあたる。つまり開国前の幕藩制下の西洋研究者にとって,イタリアは国家としての形をなさず,輸入書籍とその図版を通じた,断片的イメージの集積として認識されていた可能性が高い。その例として,江戸時代を代表する洋風画家,亜欧堂田善が 1809 年(文化 6)に制作した銅版画《ゼルマニア廓中之図》(図 1)を見てみよう。この作品において,彼はパリ,ドーモン版《古代ローマ繁栄之図》(図 2)を模刻しているにもかかわらず,主題となったイタリア都市にはまったく無頓着で「ドイツの都市」という題名を付している 3)。ここからは当時の蘭学から得られたイタリア観の状況がうかがい知れる。その後の開国により,日本人は限られた条件下ながら西洋人との直接交流を認められるようになった。続く徳川幕府の終焉,そして明治維新は,近代化をつきすすむ日本にとって対外関

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係の急激な拡張期に位置づけられる。近代日本とイタリアとの真の交流は,この時期にはじまったといえるだろう。その最も重要な契機となったのが,1871 年(明治 4)12 月から 1873 年(明治 6)9月まで,1年 9ヶ月かけてアメリカ・ヨーロッパの 12 カ国を視察した岩倉使節団によるイタリア訪問である。本稿では,岩倉使節団が残した詳細な報告書『特命全権大使米欧回覧実記』4)(以下,『米欧

回覧実記』と略記)のイタリアに関する記述内容と挿絵の検討を通じて,そこに表現されたイタリア観の生成過程,ひいては日本におけるイタリア観の形成について考察したい5)。

図 1 亜欧堂田善《ゼルマニヤ廓中之図》紙本銅板 1809年(文化 6)須賀川市立博物館寄託

図 2 パリ、ドーモン版《古代ローマ繁栄之図》銅板眼鏡絵

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日本におけるイタリア観の形成(加藤)

1.岩倉使節団と『米欧回覧実記』をめぐる知的土壌

明治維新の代表ともいえる岩倉使節団が,いかに旧徳川幕府の西洋研究を継承し,文化的連続性を有していたかについては,すでに研究者の指摘するところである6)。明治新政府の使節団員として参加した旧幕臣系の多くの者は,すでに幕末のうちに西洋研究に従事し,また直接に欧米渡航の経験をもつ者であった。しかし,彼らの派遣先は実学的観点から,列強諸国の文化・言語が優先され,主に英米の英語圏,フランス,オランダらが中心であったらしい7)。こうした特徴は岩倉使節団に限られたものではなく,例えば幕末から明治にかけて啓蒙的洋学者として活躍した福沢諭吉が,自らの遣欧米体験をもとに 1873 年(明治 6)に著した『西洋事情』においても,その考察はアメリカ,ロシア,フランスが中心となっている8)。1873 年 5 月から 6月にかけて,岩倉使節団がイタリアを訪ずれた際にも,その西洋通の事情に変わりはなく,地元の新聞記事は,岩倉たちが全員洋装に身を包み,英語とフランス語を巧みに操ると伝えている9)。英仏語を流暢に話したという当時の記録の信憑性に疑問を投じる者もいるが,使節団がイタリア側との意思の疎通をはかるために,これらの言語を用いたことはまず間違いないであろう 10)。『米欧回覧実記』に具体的な言及はないものの,彼らは現地のイタリア語ではなく,英仏語など他の列強諸国の母国語を介して情報収集をおこなったと推測される。とはいうものの,これまで周縁的な存在であったイタリアに対して,徹底した地域研究を試みた使節団の試みは,その後の日伊交流における画期的な大事業であったと位置づけられる 11)。イタリア文化の理解のために,使節団がおこなった他言語によるアプローチに加え,もう一つ指摘しておきたいのは,かれらが歴訪経過を記録にとどめる際,いかなる方針で何に着眼したのかという点である。この問題に重要な影響を及ぼしたのは,オランダ系アメリカ人で明治新政府のお雇い外国人フルベッキ 12)であった。彼は使節団が日本を出発する前に,歴訪先の状況をいかに記録にとどめるかについて,具体的な報告書作成の要領を記した文書「米人フルベッキより内々差出候書」(木戸家文書,国立民族博物館蔵)13)を提出した。それにはヨーロッパでは使節が帰国したら,報告書を出すのが通例であること,そのために「記者」や「工師」(図版作成要員)を団員に加えることが多いなどのモデルも示されている。また,海外の事実を人民に知らせる報告書の啓蒙的特徴や,それを通して政府の威信や親近感を醸成するという効果,さらには具体的な著述の方法と視察すべき 49 に及ぶ項目まで網羅されていた 14)。以下に項目の詳細を挙げておく。

1)国中家屋ノ建築  2)都邑ノ明細  3)寓館舗店其他ノ家屋  4)著名ノ土地及ビ光景5)山水  6)風土及ビ寒暖ノ度  7)海陸ニ於テ経験シタル天気陰晴  8)道路市街ノ景状  9)海陸運輸ノ便否  10)全国ノ制度風俗  11)全国ノ情態  12)教法ノ儀式及ビ祭礼  13)人民ノ楽趣  14)演劇戯場  15)飲食ノ物料  16)花卉果蔬  17)博覧公会  18)市街畫夜ノ景及ビ気燈  19)人民交際ノ倫序  20)男女ノ交際及ビ礼譲  21)幼孩及ビ少年ノ風俗  22)会計ノ誌述  23)人民ノ制俗  24)教育及ビ法教ノ模様25)大小学校  26)新機発明・奇巧ノ機械  27)新聞紙月刊書類  28)書画  29)萬物庫・書庫  30)各国帝王謁見ノ式  31)受得タル別段ノ懇切及ビ敬礼  32)会見ノ節

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詞類  33)公私往復ノ書信類  34)公私讌饗ノ礼  35)財政ノ模様及ビ国債  36)農工商業  37)救 ノ模様及ビ病院  38)国民性情ノ善悪  39)教法ノ制ヨリ起ル所ノ結果ノ良否  40)乞食及ビ貧民  41)政府ノ体裁  42)全国不朽ノ事業  43)法律ノ良否  44)市政及ビ囚獄  45)議院及ビ裁判所  46)海陸軍ノ制度及ビ強弱  47)城堡武庫  48)開港ノ有様  49)其他ノ雑誌

この内容は,『米欧回覧実記』の「例言」に著された方針ともほぼ一致しており,フルベッキの提案が報告書の執筆・編修の際に一つの指標となったことは明らかである。要するに,明治初期の日本では,諸外国のイメージ形成にあたって叙述の具体的主題とまなざしのあり方まで,西洋の伝統的形式を受け継いだと考えられる。加えて注目すべきは,『米欧回覧実記』を編修し執筆した久米邦武の存在であろう。佐賀藩出身の漢学者にして歴史家であった彼は,大使岩倉具視の眼となり耳となって一切を記録する重要な任務を自覚し,緻密な観察力と旺盛な好奇心,豊富な歴史知識,漢語語彙のストックを総動員して,見事な使節報告書『米欧回覧実記』を完成させた 15)。漢文訓読体を基調とする片仮名まじりの文体は格調高く,そこには長年蓄積された儒教文化の世界観も表わされている 16)。また,つねに日本を念頭におき,欧米近代国家と対比しながら考察し,将来の日本の取捨選択にまで論及している。 以上述べたことから,岩倉使節団のイタリア訪問時の知的背景がある程度明らかになったのではなかろうか。列強諸国から熱心に学んだ西洋史観を軸として,明治日本ならではの思想・文学的傾向,さらに大使岩倉をはじめとする近代化指導者層の豊かな個性によって織りなされた近代イタリアのイメージは,『米欧回覧実記』とその挿絵によって日本の国民へと伝えられた。この書は,明治 15 年までに四刷が出され,大正 12 年(1923 年)までに 78 万部以上の売行が報告され,その広がりがうかがえる 17)。

2.『米欧回覧実記』の挿絵考察

使節団の視察した欧米の様子は,久米邦武の叙述とともに 311 点の銅版画挿絵入りで完成された 18)。これらの銅版画の原図については,久米自身が「多クハ回歴ノ際,現地ニ於イテ購ヒ得テ帰リシ,彩影ヲ模シ,中ニハ銅版画ヲ模刻セルモアリ」19)と述べていることから,かれらが現地で蒐集し,日本に持ち帰ったガイドブック・新聞・名所図絵などを模写模刻したことがわかっている。『米欧回覧実記』の銅版挿絵は,これらの原画を用いて,久米の詳細な指示のもとに新たに制作された。作者は挿絵の一部に残された署名により,新知堂あるいは中山耕山,N.

NAKAGAWA,東京大沼鐫あるいは大沼刻の 3名と考えられる 20)。この挿絵制作をめぐる当時の状況については,これまでの研究により原稿執筆の当初から挿絵の挿入が予定されていたわけではなく,10回以上の改稿をへる過程で最終的に挿入が決定されたことが分かっている 21)。また,「皆各地各都ノ,嘱目スヘキ風景建築等ニテ,文明諸国ノ一班ヲ国人ニ観覧セシメント欲スル」22)

という久米の意図を反映し,腐食銅版画という写実性の高い技法が活用された。この挿絵に関しては,2004 年に久米美術館で開催された展覧会「銅鐫にみる文明のフォルム―『米欧回覧実記』

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挿絵銅版画とその時代展」で原画資料の一部が新たに報告されるなど,近年においても重要な研究成果が発表されている 23)。本稿の考察において,『米欧回覧実記』挿絵のモデルとなった原図は,その視覚イメージの源泉をたどる上で重要な意味を持つことから,これまで明らかとなっている原画の典拠について考えてみたい。まず,アメリカについては,現地で出版された当時最新の旅行ガイドブック 24)

に加え,鉄道の路線案内時刻表 25),現地新聞など 26)さまざまな資料から図版の転用が確認されている。ヨーロッパにおいても同様で,さまざまな出典が報告されているが 27),特に久米の使用したガイドブックの一つ『アップルトン社の図版入りヨーロッパ・ガイドブック』(Appleton’s Illustrated European Guide Book, 5th ed., Washington, 1872)の挿絵からは,計 9点の挿絵が『米欧回覧実記』に転用された。このガイドブックは 1870 年にアメリカで出版された旅行案内書として,もっともポピュラーなものの一つであり,久米が滞米中にその後の行程に備えて入手したものと考えられる。以下,アップルトン社ガイドブックから『米欧回覧実記』に転用された 9点の挿絵箇所を列記する。

1《壱丁堡汽車駅ノ風景》(第 31 巻) 2《壱丁堡ノ古城》(第 31 巻) 3《「アボーッスホルト」村》(第 33 巻) 4《「アベイカッソル」之廃寺》(第 33 巻) 5《「ウォリッキ」古城》(第 37 巻) 6《「ケーニルウォーチュ」古城》(第 37 巻) 7《巴黎「コンコルド」苑ノ「オブリスキ」塔》(第 42 巻)8《同(巴黎)「ガラント,ホテル」》(第42巻) 9《以太利国仏

フ ロ レ ン ス

羅稜府「アゝル」河ノ景》(第74巻)

上記のうちイタリア関連の挿絵は,9《以太利国仏フ ロ レ ン ス

羅稜府「アゝル」河ノ景》(イタリア,フィレンツェの町とアルノ河風景)(図 3)のみであるが,フィレンツェの町を示す仏羅稜府に「フロレンス」と英語読みのルビが付してある点をみても,アメリカ製ガイドブックからの転用を挿絵のタイトル自身が物語っている。残念ながら,総数30点に及ぶイタリア関連の挿絵について,この他の典拠は明らかになっていない。しかしながら,例えば,第 75 巻ローマの《同聖

セントピートル

彼 得寺及ヒ「ワチガン」宮「キリシタン教ノ本山」》(図 6)においては,サン・ピエトロ聖堂を「セ

図 3 《以太利国仏フ ロ レ ン ス

羅稜府「アルノ」河ノ景》『米欧回覧実記』第 74巻

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ントピートル」と記し,また第 78 巻《威ヴェニース

尼斯府ノ古政事堂》(図 4)および同《威ヴェニース

尼斯府ノ運河》(図 5)においては,ヴェネツィアを「ヴェニース」と英語読みの表記で紹介していることから,その他の挿絵についても英語圏ガイドブックからの転用が示唆される。

さて,ここで『米欧回覧実記』のイタリア訪問部分に付された挿絵全体の内容を見てみよう。それによって,久米が日本の読者に示したかったイタリア・イメージの一端が明らかになるはずである。挿絵に取り上げたイタリア都市は,ヴェローナ 2点,フィレンツェ 2点,ローマ 10 点,ナポリ 8点,ピサ 2点,ヴェネツィア 6点の計 30 点で,ローマ,ナポリ,ヴェネツィアが中心的な位置を占める。選択された主題は,古代遺跡が最も多く 12 点を数える。例えば,ヴェローナの都市では「府中ニハ,古昔羅馬時代ノ建築,猶残蹟ヲ存シ,劇場ノ跡,古城ノ壁等,訪古ノ客,必ス一見ヲ要スル所トス,路ヲ急クヲ以テ,一観ニ遑アラス」28)と記し,古代ローマの遺跡や古い城壁など,いにしえを偲ぶ観光客は必ず見るべきところだが,路を急ぐので,かれらが実際にはちらりと見ることもできなかった古代劇場を挿絵《以太利国「ヴェロナ」ノ古劇

コロシユム

場》に加えている。ロー

図 4 《威ヴェニース

尼斯府ノ古政事堂》『米欧回覧実記』第 78巻

図 5 《威ヴェニース

尼斯府ノ運河》『米欧回覧実記』第 78巻

図 6 《同セントピートル

聖彼得寺及ヒ「ワチガン」宮「キリシタン教ノ本山」》『米欧回覧実記』第 75巻

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マにおいては,ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂(図 6)と軍病院の浴室《羅馬軍病院ノ浴場所》(図 7)を除き,残り 8点すべてが古代の遺跡を表したものであり,同じくナポリにおいても,発掘された古代ローマ都市ポンペイ関連の挿絵が 4点を数える。

実際にイタリア訪問の行程は,ヨーロッパ文明の起源としての古典古代と芸術的に重要なモニュメントを中心に訪ねるようまとめられていた。フィレンツェのウフィツィ美術館訪問時の久米の記録は興味深い。

「ミナ其雕ちょうこく

刻精絶ノ古物ニテ,各国ノ美術学家,ミナ遠ク来リ法ヲ取リ,摸造シテ珍重ス,希ギリーキ

臘古代ノ雕像ナリ,従来各国ニテ,博物館ニ至ル毎ニ,幾回モ其摸造ヲミタリシニ,今其此地ニテ其真物ヲ一見スルハ,殊二愛重スヘキヲ覚ヘヌ,凡

およ

ソ伊太利ハ美術ノ根本地ニテ,今ニ存スル古石雕画額ノ類ハ,皆此国ノ尤

ゆうぶつ

物ニテ,二千年前ノ遺残ニカカル(中略)各国ニ設ケタル,美術館,博物館ニ採集シタル,高名ノ雕像描画ハ,多く其摸造ニシテ,此ニハ,其真ヲ蓄ヘタレハ,此国ニ来リテハ,其観ミナ当ニ目ヲ刮ルヘシ」29)(下線は筆者による)

久米は,美術館で彫刻研究のために遠方からやって来た各国の人々に圧倒されている。さらに,これまで訪問した他の国々の美術館で目にした多数の古代彫刻のレプリカを想起しつつ,自分の眼前にそのオリジナル作品があることに感動を覚え,イタリアを美術の根本の地として特別な価値を認識していた。デ・マイヨ氏の指摘にもあるとおり,久米は教養人ではあったが,おそらく美術の知識はそれほど豊富ではなく,西洋絵画についてはほとんど無知であったらしい 30)。各地の美術館訪問に際しても,作品を自分の目で観るのではなく,それを熱心に鑑賞する人々を観察することによって,その重要性を間接的に評価していたと考えられる。この久米がイタリアで目にした光景は,アルプス以北の列強諸国の人々がむけるイタリア美術への愛着であった。それは結果的に,イタリア以前に訪れた欧米各国の美術館コレクションで何度も目にした,イタリア古代美術の主導的位置を再確認させることにもなった。彼が携帯していたガイドブックでも,同じ傾向が見てとれたはずである。こうした久米の経験が,挿絵の選択にも如実に反映されたと考えられる。

図 7 《羅馬軍病院ノ浴場所》『米欧回覧実記』第 78巻

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3.イタリア・イメージの源泉へ

西欧諸国において,イタリアとそこに残る古代美術への愛好が高まったのは,岩倉使節団の到着から 1世紀もさかのぼる 18 世紀のことである。イギリスを中心として,フランスやドイツの貴族・紳士階級の人々は,教養の一環あるいは社交生活の一部として,イタリア,ローマへの旅に出た。こうした旅は「グランド・ツアー」と呼ばれ,一大潮流を引き起こした 31)。『米欧回覧実記』に記されたイタリア訪問の足跡をたどると,結局のところ 18 世紀ヨーロッパ人の間で大流行したイタリア旅行との類似性が見てとれる。ドイツの文豪ゲーテが 1786 年から 88 年にかけての旅を綴った『イタリア紀行』32)に代表さ

れる,当時の旅行者のさまざまな見どころは,岩倉使節団の行程にそのまま繰り返されているようだ。例えば,ローマにおける古代遺跡(図 8)やヴァティカン宮殿(図 6),ナポリではヴェスヴィオス火山の眺め(図 9)や,ポンペイとヘラクラネウムの古代遺跡などがそれである。ヴェスヴィオス火山は 1944 年以来,休火山となっているが,18 世紀にはしばしば噴火の兆候を示し,そのたびに何百人もの観光客がローマを離れ,ナポリに行って見物しようとした。紀元 79 年のヴェスヴィオス火山の噴火により,火山灰に沈んだポンペイとヘラクラネウムの町は,18 世紀に初めて発見されて以来,体系的な発掘が開始され,その豊かな埋没品の出土は古代考古学の発展を促し,「新古典主義」と呼ばれる美術における古典復興を刺激した。18 世紀の旅行者には,当時流行の芸術理論 33)の影響を受けて,古代遺跡を最優先とする好ましい芸術リストがすでに形成されていたのである。日本からの一団は,遅ればせながらこうしたヨーロッパにおけるイタリア・ツアーをモデルとして視察を行い報告書の作成に生かしたと考えられる。

以下,『米欧回覧日記』(現代語訳)34)とゲーテ『イタリア紀行』のナポリの記述から,1)ナポリとヴェスヴィオス火山の眺め 2)ナポリの貧民 に関する箇所を一部比較してみたい。

図 8 《羅馬古時集議院ノ残柱》『米欧回覧実記』第 75巻

図 9 《同府ノ全景及ヒ「ヴェスシオ火山」》『米欧回覧実記』第 94巻

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1)ナポリとヴェスヴィオス火山の眺め『米欧回覧日記』「イタリアのことわざに “ナポリを見て死ね” というのがある。ここがどんなにいい景色のところであるかわかるであろう。この町には名高い名物が三つある。第一のものは噴火山ヴェスヴィオである。(中略)絵にも描きがたいほど美しい。頂上か

ら煙を噴き出し,白雲が沸き立っているかと思うようである。夜は火を噴いて時には空の半ばを赤く染めるほどである。(中略)ナポリの白々とした街並みが連なって(中略)気候は温和で(中略)どこを見てもすばらしく美しい。ヨーロッパではここを褒めたたえ,さまざまな絵となっていたるところで見られる。」(第 77 巻)

ゲーテの『イタリア紀行』「今のところ当地にいる外国人は,ヴェスヴィウス火山の活動で大騒ぎをしている。(中略)すべての外国人は見物を中止して,ナポリへ行ってしまう 35)」。(中略)ヴェスヴィウス火山は盛んに石と灰を噴き出し,夜には嶺が赤く燃えて見える 36)。(中略)

ずいぶんとたびたび書きたてられ,褒めそやされたこの町の風光や名所については,改めて記すことはなかろう。“ナポリを見て死ね!” と土地の人は言っている 37)。

2)ナポリの貧民について『米欧回覧日記』「市民の多くは無学で,生得怠け者であり,町中のゴミの始末はしないし,交通の状態も乱雑である。(中略)この旅で欧米 12 カ国をほぼ歴訪したのであるが,この町のように不潔で,民衆が怠惰で,貧民の多いところはなかった。」(第 77 巻)

ゲーテの『イタリア紀行』 「あの立派な,非常に有益なフォルクマンの案内書には,しかし時おり私と意見を異にしている箇所がある。例えば彼は,ナポリには 3万から 4万の徒食の輩がいると書いており,誰でも同様のことを言っている。けれども私は南国の事情に通じると共に,これは一日じゅう齷あくせく

齪と働かない者は,すべて無為の徒だと考えたがる,北国人の観察だろうと推量した 38)。」

両者を比較してみると,観光スポットの語り口の近親性はあらためて解説を要しない。ナポリの類まれな美しさと不潔さ(貧民の多さ)は矛盾をはらんでいるが,この矛盾こそが 18 世紀にアルプス以北の「北国人」がつくりあげたイタリア・イメージの産物であった。近代明治の日本はそれを継承したことになるが,これらの共通項は,旅人として異国を訪れる限界ともいうべきもので,ある種の表層性をそなえている。この節のおわりに,『米欧回覧日記』の挿絵に見る視覚的イメージの源泉にも触れておこう。すでに述べたごとく,『米欧回覧日記』のイタリアの挿絵に選択された主題は,古代遺跡がもっとも多く,それに加えて町の眺望や重要な教会建築などが取り入れられていた。古代遺跡のなかで特徴的な作例の一つ《羅馬古時集議院ノ残柱》(図 8)を観察してみると,そこにははるか

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昔に衰退して草むした,ローマ帝国の栄光を伝える柱の残骸が,独特の雰囲気をたたえて表現されている。廃墟の列柱は,画面の奥へと向かうように遠近感を強調して置かれ,やや上方に配された地平線は,はるか彼方の遠景の描写と相まって,壮大な空間の広がりを示している。また,空にたなびく雲の流れが悠久の時間をも感じさせる。この観者の感傷を誘う名所絵も,やはり 18 世紀のグランド・ツアーで購入容易な土産物として人気を博した版画にさかのぼるものであろう。18 世紀当時,この分野で圧倒的人気を博したピラネージによる古代遺跡の作品群は,さまざまな主題を含めて 1000 点あまりにのぼる。例えば,1762 年出版の本の挿絵として挿入された《マルチェッロ劇場の古代風景》(図 11)は,主題は異なるものの,雲のたなびく空を背景として,草むした廃墟の列柱群が印象的である。どっしりと佇立する古代モニュメントの壮大さは,時に実物以上の迫力を持ち,『米欧回覧日記』の銅版画挿絵で試みられた大胆な遠近表現と共通している。おそらく,久米が現地で入手した挿絵の原画は,18 世紀に普及したイタリアの名所絵の系統から生まれたものであったと考えられる。

4.まとめ

以上,近代日本におけるイタリア観の形成について,18 世紀ヨーロッパ諸国で育まれたイタリア観からの影響を指摘した。ふりかえってみると,この問題が日本とイタリアという二国間の単純な交流関係ではないことが浮彫りになったのではないだろうか。しかし筆者は,『米欧回覧実記』が他の列強諸国のイタリア観をそのまま踏襲しただけだとは考えていない。本稿の第一節でも論じたが,そこにはつねに日本を念頭におき,欧米近代国家

図 11 ピラネージ《マルチェッロ劇場の古代風景》『古代ローマのカンポ・マルツィオ』1762年

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と対比する姿勢が一貫しているからである。ローマ概説の部分では,中国の史書に登場する古代ローマ帝国(大秦国)と東洋との交流に思いを馳せ,古からずっと東西交渉が続いていたならば,今頃は全世界が共通の国際法を有して,はるかに豊かな利益を享受しただろうと現代にも通用するグローバルな視点を披露している 39)。また,これまで検討しなかった挿絵のなかには,久米の進取の気運を反映した独特なものもある。まず《羅馬軍病院ノ浴場所》(図 7)は,ローマの軍病院で目にした最新の入浴施設を描写したものであり,原画は病院の施設案内などであろうか。ここには他の感傷的なローマ名所挿絵とは異質の,実用的情報を紹介する報道精神がある。また,ナポリのポンペイ遺跡の挿絵のなかでも,《同古死屍》(図 10)はきわめて興味深い。画面中央で台の上に横たえられたミイラは,ポンペイの火山灰に埋もれた状態で発見された死体の石膏型である。この図の左端には「No.357 Impronte moane trovate al 5 Feb.1863」と 1863 年 2月 5日の日付があるが,これはポンペイにおいて遺体の石膏型取りに初めて成功した日であり,この「古死屍」はその第一号であった 40)。

挿絵左端に写された解説がイタリア語であることから,原画は現地で入手したものに間違いない。また,図版解説の日付から,1863 年以降の出版物であることは確かである。岩倉使節団のイタリア訪問が 1873 年であったことを考えると,この挿絵は,当時の発掘調査の新動向をいち早く日本に紹介する資料となったわけである。ポンペイへの旅は,確かに 18 世紀グランド・ツアーを素地としていたが,かれらの持ち帰ったものは当時の遺跡発掘の最新情報であった。最後に,使節団帰国後の日本の美術政策について簡略に論じたい。当時の明治政府は,短期間に国家の近代化を成し遂げる必要に迫られたが,その際に問われた問題は,模範とすべきモデルを何に求めるかということである。美術の分野に限っていえば,使節団の帰国後,政府は美術行政を積極的に進め,3年後の 1876 年(明治 9)には,日本で初めて官設の美術教育機関「工部美術学校」の設立にいたる。その際に美術学校設立申請をした伊藤博文は,まさに岩倉使節団の副使を務めた人物であった。使節団に同行したイタリア公使フェ・ドスティアーニは,伊藤に美術教育の必要性とイタリア美術の優秀性を強く説き,工部美術学校に対してイタリアからの教師招聘を実現させた。それが,アントニオ・フォンタネージである。

図 10 《同古死屍》『米欧回覧実記』第 77巻

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これまでの研究では,工部美術学校の開設について殖産興業という日本の国内事情による説明が一般的であったが,近年,当時のイタリア王国によって積極的に展開された,「美術」を国家間の緊密化に利用する「美術外交」も指摘されている 41)。いわば美術をめぐる日伊間の両想いが,イタリア教師を掲げた工部美術学校の設立として実を結んだといえるだろう。明治政府のこの決定に際して,本稿で論じた日本におけるイタリア観(すなわち,列強諸国の評価によって高められた,美術の根本の国たるイタリア)も,なんらかの影響を及ぼしたと考えられるのではないだろうか。ところが,フォンタネージの日本滞在は,わずか 2年間で幕を閉じ,工部美術学校は 1883 年(明治 16)に廃校となってしまう。その後,1887 年(明治 20)に新設された東京美術学校では,フランスに 9年間留学した黒田清輝が西洋学科主任教授として迎えられ,日本の洋画家の目はフランスのパリへと向かってゆく。こうして,美術をめぐる日本政府とイタリア王国の蜜月は,短命に終わったが,日本にもたらされたイタリア観はその後も芸術・文学など多岐にわたる分野で霊感を与え続けたのである。

注1)東インド諸島教皇庁特使総監として,東アジアを管轄したイエズス会神父アレッサンドロ・ヴァリニャーノが構想した天正少年使節については,以下の文献参照のこと。『大日本史料 第 11 編別巻 天正少年使節関係史料』I,II(東京大学史料編纂所,1959 年,1982 年覆刻版);若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国』綜合社,2003 年。2)天正使節が見て,ヨーロッパがすばらしいと思えるものはすべてかれらに見せること,けれどもかれらを困惑させたり,イエズス会士たちが日本で紹介した教会イメージを傷つけるようなものは,ふさわしからぬものとしてすべて遠ざけることなど,ヴァリニャーノの綿密な指示が書き残されている。原典はローマ国立古文書館所蔵,ARSI, Jap.Sin. 22, ff.51-57。3)岡村千曳「亜欧堂田善とヨハン・エルアス・リーディンガー」『紅毛文化史話』創元社,1953 年;『亜欧堂田善の時代』(展覧会カタログ)府中市美術館 2006 年,123,182 頁。4)久米邦武編『特命全権大使 米欧回覧実記』(全 100 巻,5 編 5 冊)博聞社,1878 年。本稿では,久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記』(全 5冊)岩波書店,1980 年より原文を引用した。また久米邦武編著・水澤周訳注『現代語訳 特命全権大使米欧回覧実記』(全 5冊)慶応義塾大学出版会,2005 年も参考にした。5)岩倉使節団のイタリア訪問に関しては以下の基本文献がある。岩倉祥子編著『岩倉使節団とイタリア』京都大学学術出版会,1997 年。6)田中彰,高田誠二編著『「米欧回覧実記」の学際的研究』北海道大学図書刊行会,1993 年;芳賀徹「明治維新と岩倉使節団―日本近代化における連続性と革新性」芳賀徹編『岩倉使節団の比較文化史研究』思文閣出版,2003 年。7)例を挙げれば,使節団の一等書記官の筆頭である田辺太一は 1864 年,幕府の遣仏使節(池田)に参加し,その後も幕府の外交に関与し,1867 年にふたたびパリの万国博覧会参加のための徳川昭武の使節に参加。同じく一等書記官の福地源一郎は,青年時代から蘭学と英学を修め,1862 年に幕府の最初の遣欧使節に通訳官として参加,さらに 1865 年にも幕府使節の一員として渡仏。その他にも,二等・三等書記官のなかでも,林薫三郎,川路寛堂はともに 1866 年の幕府派遣の留学生としてイギリスに学ぶ。渡辺洪基や安藤太郎は,渡欧の経験はなかったが蘭学を学んでいた。 さらに陸軍理事官随行の原田一道は,西洋兵学を学び,1864 年の遣仏使節に加わり,その帰国後はフランスからオランダに移った。肥田為良も蘭学の出で,幕府が開国直後にオランダ海軍の協力で造船技

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術を学び,1860 年には,江戸,サンフランシスコ間の初航海に成功し,1864 年にはオランダに派遣され,翌年パリの柴田使節一行に合流して帰国した。8)福沢諭吉『西洋事情』初編 3冊 1866 年,外編 3冊 1867 年,2 編 4 冊 1870 年刊行後,慶応義塾出版局 1873 年版で集成。福沢諭吉,マリオン・ソシエ,西川俊作編『福沢諭吉著作集第 1巻 西洋事情』慶応義塾大学出版会,2002 年。9)La Nazione (1873.5.11); Il Piccolo(1873. 5.11, 5.12),;La Libertà (1873. 5.12), La Capitale (1873.5.12) 他。これらの詳細については以下の文献参照。太田明子「イタリアにおける岩倉使節団―現地新聞報道の分析―」『比較文化研究』(東京大学教養学部)27(1989 年)41-68 頁。

10)太田明子「岩倉使節団のイタリア訪問」芳賀徹編『岩倉使節団の比較文化史研究』思文閣出版,2003年,159 頁。太田氏は,岩倉使節団が英仏語を巧みに操るというイタリアの記事内容を誤解として扱っているが,カルヴェッティ氏は『米欧回覧実記』の所々でイタリア事情の説明に仏語からの借用語が用いられている点を指摘し,彼らが英仏語(あるいは独語も)使用していた可能性を論じている。パオロ・カルヴェッティ「『米欧回覧実記』における明治時代のイタリア描写―その語彙と表現」シンポジウム「イタリア観の一世紀―旅と知と美―」於立命館,2007 年本書に掲載の論文参照。11)岩倉使節団によるイタリア訪問の詳細な行程については,岩倉翔子「岩倉使節団のイタリアにおける行程」『就実論叢』第 22 号(1992 年)273-288 頁;同「〈岩倉使節団のイタリアにおける行程〉再考」岩倉翔子編著『岩倉使節団とイタリア』139-163 頁を参照。また,これを端緒とするその後の日伊関係については,ヴェネツィアとの美術交流を中心に論じた以下の文献がある。石井元章『ヴェネツィアと日本―美術をめぐる交流―』ブリュッケ,1999 年。12)G. Verbeck, 1830-1898 年。13)『日本近代思想体系 1:開国』岩波書店,1991 年所収。14)日本近代思想大系第一巻『開国』岩波書店 1991 年;田中彰『明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか―』岩波書店 2003 年,8-12 頁。15)久米邦武の全体像は『歴史家 久米邦武』久米美術館,1997 年を参照のこと。16)ヴェネツィアの見事な風景描写など,漢学者としての久米の筆致については,芳賀徹「岩倉使節団のヴェネツィア」『学士会報』第 788 号(1990)9-19 頁を参照のこと。17)『東京毎日新聞』大正 12 年 1 月 12 日付けの記事。田中彰『明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか―』岩波書店 2003,p.176。18)『特命全権大使「米欧回覧実記」銅版画集』久米美術館,1985 年。19)久米邦武編・田中彰校注『米欧回覧実記』「例言」第 1冊,26 頁。20)菅野陽「『米欧回覧実記』の挿絵銅版画」『特命全権大使「米欧回覧実記」銅版画集』久米美術館,1985 年,217-223 頁 ;『銅鐫にみる文明のフォルム―『米欧回覧実記』挿絵銅版画とその時代展 資料集』久米美術館,2006 年。21)詳細は,『久米邦武と『米欧回覧実記』展』に詳しい。22)久米邦武編・田中彰校注『米欧回覧実記』「例言」第 1冊,26 頁。23)『銅鐫にみる文明のフォルム』前掲書。24)New York Illustrated  D.Appleton & Co., New York, 1869(絵入りのニューヨーク解説書);

Philadelphia and its Environs, J. B. Lippincott & Co., Philadelphia, 1872(フィラデルフィアとその近郊の解説書)25)Central Pacific, Map of Railroad and its Connections (アメリカ,セントラル・パシフィック鉄道の路線案内・時刻表)26)Frank Leslie’ s Illustrated Newspaper, New York, May 25,1872(ニューヨーク市発行の絵入り新聞);

The New Grove Dictionary of American Music, Mcmillan.

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27)例えば,「ワーテルロー古戦場 12 景銅版画帖」(佐川町立青山文庫蔵),魯国伯徳兒堡名所図絵(久米美術館蔵),ロシア人物・風景写真帖(久米美術館蔵),万博のカード(久米美術館蔵),「スイス名勝旧跡銅版画帖」(佐川町立青山文庫蔵),ホテルのカード(久米美術館蔵),その他,掲載出版物不明の切り抜きなど。28)『米欧回覧実記』第 73 巻,259 頁。29)『米欧回覧実記』第 74 巻,276 頁。またフィレンツェにおける彼らの美術鑑賞については,以下の文献も参照のこと。Shoko Iwakura , “L’arte italiana vista dall’ambasceria giapponese nel 1873: la visita a

Firenze” in The Development of Science for the Improvement of Human Life, L’immagine negli studia

humanitatis, contribute comparative italo-giapponesi, proceeding of the Il Kyoto-Siena Symposium, 1993; cit . “La missione Iwakura e l’ar te ital iana” in Il Giappone scopre l’Occidente-Una missione

diplomatic(1871-1873), a cura di Iwakura Shoko, Istituto Giapponese di Cultura a Roma, 1994,30)シルヴァーナ・デ・マイヨ「第 8章 イタリア 外交文書と新聞記事からみた岩倉使節団―1873 年 5月 8 日~ 6月 3 日」イアン・ニッシュ編,麻田貞雄他訳『欧米から見た岩倉使節団』ミネルヴァ書房,2002 年,212 頁。31)デーヴィット・アーウィン,鈴木杜幾子訳『岩波世界の美術 新古典主義』岩波書店 2001 年。 32)Johann Wolfgang von Goethe, Italianische Reise1816/17.本稿では以下の訳本を使用した。ウォルフガング・フォン・ゲーテ,相良守峯訳『イタリア紀行』(上,中,下)岩波書店,1960。

33)例えば Johann Joachim Winchelman, Geschichte der Kunst des Alterthums, Mainz 2003, Text, Erste Aufl.

Dresden 1764; Zweite Auflage Wien 1776.邦訳ヴィンケルマン,中山典夫訳『古代美術史』中央公論美術出版,2004 年を挙げれば十分であろう。34)久米邦武編著・水澤周訳注『現代語訳 特命全権大使米欧回覧実記』第 77 章(第 4冊),370 頁。35)ゲーテ,上掲書(上巻)岩波書店,1960,192 頁。36)同書,233 頁。37)ゲーテ,上掲書(中巻),19 頁。38)同書,197 頁。39)原文は以下の通り。「噫千七百年前の其時ヨリ,東西洋互ニ船舶ノ往来交易絶ヘルコトナク,以テ今日に至ラハ,地球全面ニ,一様ノ交際法ヲ訂シテ,互ニ智巧相切磨シ,有無相通利シ,両洋ノ民,其利益ヲ獲ル所ハ,豈ニ只今日ノミナランヤ」『米欧回覧実記』第 75 巻,290 頁。40)藤沢桜子「『米欧回覧実記』をながめながら」人間文化研究機構ホームページ「ぶんかの香り」より

http://www.nihu.jp/news/no.7.html

41)河上眞里「イタリア王国の美術外交―美術という制度の輸出品としての美術学校」『Aube―比較藝術学』03,2008 年,116-130 頁。

図版出典図 1,2:『亜欧堂田善の時代』(展覧会カタログ)府中市美術館 2006 年,123,182 頁図 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10:大学共同利用機関法人 人間文化研究機構データベース http://www.nichibun.

ac.jp/graphicversion/dbase/kairan.html

図 11:岡田哲史『建築巡礼 32 ピラネージの世界』丸善株式会社 1993 年,74 頁。