わが国における多文化教育の現状と課題 ·...

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わが国における多文化教育の現状と課題 ~現代日本の“教育マイノリティ”~ 47 1、はじめに 本稿は、2009年3月に開催されたハワイ大 学・佛教大学の国際カンファレンスにおいて筆 者が報告したものに加筆・修正を試みたもので ある。このカンファレンスのテーマは「変化と 挑戦の時代における教育」であり、筆者は「日 本における多文化教育の現状と課題」というタ イトルで日本の多文化化の様相を紹介した。 多文化教育・多文化問題に関しては、“人種 のるつぼ”から“サラダボウル”へのパラダイ ムシフトを完成させた米国がその教育的・社会 的実践において先駆的であるといえるが、わが 国も「文化」の枠組みを拡大すれば、ある意味 非常に“多文化な国”であるといえる。しかし ながら、そうした多文化状況におかれながらも、 わが国の公教育において多文化教育が十分にな されているとは言い難い。 わが国において「国際化」が叫ばれて久しい が、これまでの日本社会、とりわけ公教育にお いては、自国の多民族状況や多文化状況につい てあまり関心を寄せてこなかったのではないだ ろうか。誤解を恐れず述べるならば、日本の公 教育は、「多文化」や「文化の多様性」の実態 を目の当たりにしながらも、「日本的平等観」 i のもと、そうした実態に対し、見て見ぬふりを してきたといえる。 多文化教育事典によれば、多文化教育とは 「人種、エスニシティ、社会・経済的階層、ジェ ンダー、性的指向性、障害にかかわる社会問題 わが国における多文化教育の現状と課題 ~現代日本の“教育マイノリティ”~ 堀 家 由妃代 に取りくむ」教育であり、「生徒たちが複数の 集団に属しながら、肯定的な自己概念を発達さ せ、自分が何者であるのかを気づかせるのを支 援する」哲学的概念であり教育プロセスであ ii すなわち、多文化教育とは、多文化状況にあ る国家がその文化の多様性や支配的-被支配的 文化関係において、いかに教育改革をなしえる かという運動なのである。しかしながら、昨今 の世界的潮流を鑑みると、理想的な社会の在り 方としてのソーシャル・インクルージョンを志 向しながらも、実際は市場原理に基づく新自由 主義の影響を教育・社会の側面において少なか らず受けており、それはわが国とて例外ではな い。今回のわが国の教育改革(教育基本法や学 校教育法の一部改正とそれをうけた新学習指導 要領を含む)においても、新自由主義の影響は 色濃く表れている。そうしたなか、「“多文化な 国”日本」において、我々はどのような教育を 提供しうるのか。 従来の公教育においても周辺的なものとされ てきた多文化の問題が、昨今の教育改革のな か、さらに周辺化されつつある可能性が高まっ ている。本稿では、わが国における多文化化の 現状を概観し、これまでの教育の在り方および 新しい教育の流れがそうした多文化状態にある 学校現場といかにコンフリクトを起こしうるか を明らかにする。

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わが国における多文化教育の現状と課題 ~現代日本の“教育マイノリティ”~

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1、はじめに 本稿は、2009年3月に開催されたハワイ大学・佛教大学の国際カンファレンスにおいて筆者が報告したものに加筆・修正を試みたものである。このカンファレンスのテーマは「変化と挑戦の時代における教育」であり、筆者は「日本における多文化教育の現状と課題」というタイトルで日本の多文化化の様相を紹介した。 多文化教育・多文化問題に関しては、“人種のるつぼ”から“サラダボウル”へのパラダイムシフトを完成させた米国がその教育的・社会的実践において先駆的であるといえるが、わが国も「文化」の枠組みを拡大すれば、ある意味非常に“多文化な国”であるといえる。しかしながら、そうした多文化状況におかれながらも、わが国の公教育において多文化教育が十分になされているとは言い難い。 わが国において「国際化」が叫ばれて久しいが、これまでの日本社会、とりわけ公教育においては、自国の多民族状況や多文化状況についてあまり関心を寄せてこなかったのではないだろうか。誤解を恐れず述べるならば、日本の公教育は、「多文化」や「文化の多様性」の実態を目の当たりにしながらも、「日本的平等観」i

のもと、そうした実態に対し、見て見ぬふりをしてきたといえる。 多文化教育事典によれば、多文化教育とは「人種、エスニシティ、社会・経済的階層、ジェンダー、性的指向性、障害にかかわる社会問題

わが国における多文化教育の現状と課題~現代日本の“教育マイノリティ”~

堀 家 由妃代

に取りくむ」教育であり、「生徒たちが複数の集団に属しながら、肯定的な自己概念を発達させ、自分が何者であるのかを気づかせるのを支援する」哲学的概念であり教育プロセスであ る ii。 すなわち、多文化教育とは、多文化状況にある国家がその文化の多様性や支配的-被支配的文化関係において、いかに教育改革をなしえるかという運動なのである。しかしながら、昨今の世界的潮流を鑑みると、理想的な社会の在り方としてのソーシャル・インクルージョンを志向しながらも、実際は市場原理に基づく新自由主義の影響を教育・社会の側面において少なからず受けており、それはわが国とて例外ではない。今回のわが国の教育改革(教育基本法や学校教育法の一部改正とそれをうけた新学習指導要領を含む)においても、新自由主義の影響は色濃く表れている。そうしたなか、「“多文化な国”日本」において、我々はどのような教育を提供しうるのか。 従来の公教育においても周辺的なものとされてきた多文化の問題が、昨今の教育改革のなか、さらに周辺化されつつある可能性が高まっている。本稿では、わが国における多文化化の現状を概観し、これまでの教育の在り方および新しい教育の流れがそうした多文化状態にある学校現場といかにコンフリクトを起こしうるかを明らかにする。

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2、 日本の公教育が考慮すべき「多文化」問題とは何か?

 昨年改訂された新学習指導要領においては、国際化・グローバル化の名の下に、「小学校における外国語活動」が新設された。小学校学習指導要領によれば、外国語活動の目的は「外国語を通じて,言語や文化について体験的に理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら,コミュニケーション能力の素地を養う」ことであり、内容についてはコミュニケーション力の育成に加え、「日本と外国との生活,習慣,行事などの違いを知り,多様なものの見方や考え方があることに気付くこと」や「異なる文化をもつ人々との交流等を体験し,文化等に対する理解を深めること」という、多文化化に対する一定の耐性を子どもたちに身につけさせることがねらいとされている。しかしながら、「外国語活動においては,中学校における外国語科では英語を履修することが原則とされているのと同様,英語を取り扱うことを原則とすることが適当である」と、結局のところ「英語教育」と同義となっているのが実情でもある。すなわち、今回の外国語活動の導入は、英語主流の国際社会における競争力の向上をねらいとするものであり、多文化への涵養を意図するものではなくなっているのである iii。 ところで、わが国における高校進学率は平成20年度で97.9%である iv。日本の高校は義務教育ではなく、有償であり、基本的には入試を伴うが、この数値をみる限り、ほとんどの生徒が中学卒業後には高校進学をめざすことがあたりまえとされていることがわかる。そして、平成21年度の大学進学率が53.9%であることから、高校に入ったならば、その半数以上が大学に進学する志向性を持っていることがわかる v。しかしながら、こうした趨勢にもかかわらず、ご

く一部の中学生は卒後、高校進学という道を選択しない(あるいはできない)状況におかれている。そのわずか数パーセントが、本稿で提起する日本における多文化化の問題と関係があると考えられるのである。改革の方向性のなかに反映されない、こうした子どもたちに光を当てる必要はないのだろうか。 先に筆者は日本という国がある意味「多文化」であり、学校教育の恩恵を被りにくい子どもたちとこの多文化化の問題との関係を示唆したが、本稿を進めるにあたっては、「文化」という言葉の定義づけが必要になるだろう。C・ギアーツによれば、文化とは「社会的にきめられた意味の構造」であり、具体的には言語や習慣やふるまいなど、人間の生活経験が象徴化された形態のことを意味する vi。本稿では、こうした文化の差異によって、教育上の不利益を被ったり、不平等な状況に置かれたりしている、特定の文化的・社会的集団に属する子どもたちを“教育マイノリティ”とし、その多様性について述べることとする。具体的には、①ニューカマー②オールドカマー③被差別部落④障害児、というカテゴリーに属する子どもたちの4つのマイノリティ・グループの様相について概観し、その教育的課題について指摘する。 次に、“教育マイノリティ”を語るためには 「マイノリティ」という言葉の定義にも触れておく必要があるだろう。マイノリティとは、社会学事典によれば「国家や社会の成員ではあるが、身体的あるいは文化的特性によって他の成員から差別的に区別される集団。この集団は、形式的平等を与えられているにしても、一般成員から異化するだけの文化的・歴史的条件を内在的に意識し、差別をバネとすることで、逆に集合的アイデンティティを凝結し、真正な人間的平等化の課題を歴史的に問い直す契機を現代に突きだしている」とある vii。 アメリカの文化人類学者 J・オグブは、そう

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したマイノリティをまず「自治/自律的マイノリティ(autonomous minorities)」「カースト的マイノリティ(castelike minorities)」「移民マイノリティ( immigrant minorities)」に分類した。「自治/自律的マイノリティ」とは、ホスト社会への参入の初期から必ずしも低い社会的・経済的地位を占めているわけではないグループ、「カースト的マイノリティ」とは、学校教育などの地位上昇システムに関与しながらも集団全体として上昇移動できないでいるグループ、「移民マイノリティ」とは文字通り移民のように集団全体としてその社会の中で地位の上昇を果たしたグループである。後にオグブは移民マイノリティを「自発的マイノリティ」、カースト的マイノリティを「非自発的マイノリティ」とに再分類している viii。 オグブの類型は、いわゆるエスニック・グループを強く意識したものとなっており、本稿でとりあげる“教育マイノリティ”の4つのグループは必ずしも人種を基盤としたものに限定されていないが、その内実においてこの枠組み

のなかで一定程度整理することは有意味であると考えられる。

3、“教育マイノリティ”の実際

3−1 ニューカマーの問題 まずに挙げられるのが、ここ10年ほど顕在化してきている外国籍児童の教育問題である。かれらは一般に「ニューカマー児童」と呼ばれている。ニューカマーとは、近年になってさまざまな理由・経緯のもとに、諸外国から日本にやってくるようになった外国人のことである。日本にニューカマーが入国するようになったのは、1970年代後半からの、フィリピンやタイからの風俗・サービス業につく女性外国人労働者を皮切りに、ベトナム・カンボジア・ラオスからのいわゆるインドシナ難民、中国東北部からの帰国者、欧米諸国からのビジネスマンなどがいる。さらに、1980年代後半以降は、南アジア・アラブ諸国からの非正規の外国人労働者やラテンア

グラフ1:外国人登録者数と我が国の総人口の推移ix

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メリカ諸国からの日系出稼ぎ労働者、そして日本人との国際結婚によって定住するようになった外国人などが急速に増加した。 法務省入国管理局の統計によれば、2008年末の外国人登録者数は2,217,426人となり、過去最高を更新している。そして、その数は日本の総人口の1.74%を占める。前頁のグラフを見てもわかるように、日本における外国人の数は増加の一途をたどっている。 また、その国籍(出身地)の構成は、中国が全体の30%弱を占めており、つづいて韓国・朝鮮、ブラジル、フィリピン、ペルー、アメリカと続くが、そのうちの約60%がニューカマーである。 そうしたニューカマーの子どもたちの教育についてみてみよう。文科省の「日本語指導が必要な外国人児童生徒の受入れ状況等に関する調査(平成20年度)」によれば、我が国の公立小・中・高等学校、中等教育学校及び特別支援学校に在籍する日本語指導が必要な外国人児童生徒数は、28,575人(小学校19,504人、中学校7,576人、高等学校1,365人、中等教育学校32人、特別支援学校98人)であり、その数は日本の学校教育を受けている子どもたちの0.2%弱である

が、前年に比べると12.5パーセント増加しており、今後も増加が見込まれる。 日本語指導が必要な子どもたちを母語別にみていくと、ポルトガル語11,386人、中国語5,831人、スペイン語3,634人、その他の母語7,724人となっており、ポルトガル語、中国語及びスペイン語の3言語で全体の7割以上を占めている(この傾向はここ10年以上変わっていない)xi。 志水はオグブのマイノリティの類型に依拠しながら、欧米からの駐在などの「自律的マイノリティ」を除けば、かれらの多くが「自発的マイノリティ」と「非自発的マイノリティ」の中間に位置すると解釈している xii。そして、エスニック・グループによって日本社会での生き残り戦略がそれぞれ異なることをフィールドワークから見出している。このフィールドワークについては筆者も参加したので、それぞれを簡単にまとめてみたい。 表1は、それぞれのエスニック・グループがどのような動機で来日し(渡日目的)、家族としていかなる移民論理を有し(家族の物語)、そのためにどのような教育戦略を選択しているのか(教育戦略)を示したものであるが、はじめの「東アジア系」ニューカマーが社会的上昇

グラフ2:国籍(出身地)別構成比の推移x

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をねらいとした自発的マイノリティである以外は、自発的/非自発的どちらかの型に大別することは難しい。例えばボートピープルなどの難民は、移動に関して一定の自発性はありながらも政治的背景などにより「やむをえず」という点においては非自発的と解釈することも可能であり、また出稼ぎのために渡日した日系南米人なども本国での経済事情の過度の劣悪さなどによるため、こちらも必ずしも自発的なグループと限定することは困難なのである。 こうしたニューカマーに対する学校での教育支援については、主に日本語力の育成をはかる「日本語指導」と日本の学校や生活に適応するための「適応指導」とに大別できる。こうした指導のあり方は、欧米におけるESLの形態と似通ったものであると考えられるが、ESLが子どもだけでなく大人にも提供されているのに対し、日本の学校教育は、その学校に籍をおく子どもたちのみに提供される。したがって、子どもたちがかれらの家族と日本社会との通訳者となってその生活を支えなければならないという実態がある。また、かれらの母語や母文化への支援についての国の方向性が特に示されていない点も問題であるといえよう。

3−2 オールドカマーの問題 3-1で、ニューカマーは60%であると述べたが、残りの40%近くは日本に永住する「オー

ルドカマー」である。オールドカマーとは、主に1950年代に朝鮮半島や台湾から移住してきた人々をさすが、本稿においてはいわゆる「在日コリアン」と呼ばれる朝鮮半島にルーツをもつ人々について述べる。かれらの多くが日本の強制連行による非自発的移住者であり、いまだに日本社会においては被差別の対象となっている(日本社会において結婚差別問題や就職差別問題に直面している)エスニック・マイノリティである。わが国がかれらに対して社会的にも教育的にも徹底的な「同化」を強いてきたことで、かれらはすでに日本語や日本の文化を獲得しているため、ニューカマーと異なり顕在的な「文化適応の問題」はほとんどないと考えられるが、裏を返せば課題の見えにくさそのものがかれらの抱えるマイノリティゆえの課題なのかもしれない。 オールドカマーたちをオグブのマイノリティ・モデルに照らし合わせるならば、かれらは典型的な「非自発的マイノリティ」であるといえる。ただし、その在りようは多様化の様相を示している。 朴は、在日コリアンの教育達成および社会的成功に関して、日本人と変わりなく、あるいはそれ以上の教育達成や社会的成功をおさめるグループと、社会の底辺に位置し続けるグループとに二極化していることを指摘し、オグブの非自発的マイノリティ・モデルが必ずしもあては

表1:エスニック・グループごとの日本での生き残り戦略の比較xiii

渡日目的 家族の物語 教育戦略 マイノリティ類型

東アジア系 社会的上昇 チャレンジ家庭での母語教育の熱心さ日本の学校の戦略的利用家族の将来に方向づけられた進路

自発的

インドシナ系 難民 安住母語としつけによる親子関係維持日本の教育制度への信頼子ども任せの進路選択と将来像

自発的?非自発的?

南米系 出稼ぎ 一時的回帰母語・母文化の積極的継承日本文化の称揚市場価値のある言語習得の奨励

自発的?非自発的?

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まるというわけではないとしている xiv。しかしながら、歴史的文脈において在日コリアンが非自発的マイノリティ(朴は“強制マイノリティ”と訳している)であることに間違いはなく、朴が指摘する実態の二極化は、個々やその家族の在日アイデンティティの多様化によるものが大きいのではないかと考えられる。 たとえば福岡は、マイノリティとしての在日3世のアイデンティティの類型を図1のように試みているが、この類型に整理することが困難な状況にあるのが現在のオールドカマーの様相

ではないだろうか。

 在日コリアンが依然として日本社会におけるマイノリティであることに変わりはないが、「在日」として人括りにされ、非自発的マイノリティとしての確固たるアイデンティティを持たなければならないという抑圧のなかにおかれていることそのものが、かれらの生きにくさとなっていることは、金らの研究においても指摘されているところである。金は、在日コリアンの子どもたちが所属する子ども会でのフィールドワークをもとに、子どもたちに課せられた民族役割がかれらのアイデンティティを複雑に揺さぶる様子を描き出している xvi。アイデンティティ問題についてバウマンは、これまでの「ソリッド・モダン」の世の中におけるアイデンティティが「ある領土に属す者は、その国家に属す」という原則によって明確に表現されていたのに対

し、現在の「リキッド・モダン」では「アイデンティティの規制緩和、フレキシブル化」が起こっており、アイデンティティを自由に選択・構築できるグローバル・エリートたちに解放をもたらす一方で、そうでない人々にとっては不安をもたらす世の中になっている事を指摘している xvii。 かれらのアイデンティティの在りようがその置かれている環境により(例えば帰化者、ダブルといった戸籍上の混乱、在日コミュニティのなかに埋没しすぎることの問題や反対に日本人コミュニティのなかでの孤立)無限の広がりを見せることは、かれらに選択の自由を与える一方で、混乱や混沌ももたらすのである。先の金は、「在日コリアンであることのアイデンティティはますます主観的なものとなっていく」とし、ニューカマーの動向をにらみながら各々がどのようなアイデンティティを発達させていくか、「脱マイノリティ・非マジョリティ」としての在日の在り方を提起している。 現在のところ、かれらに対する公教育での支援は、主に放課後の時間帯に実施される「民族学級」と呼ばれる特別なクラスの開講程度である。それも、一部の学校で課外の抽出の取り組みとして行われている程度であり、民族学級の対象者(いわゆる“ダブル”の存在をどのように捉えるか)や提供する内容(何をもって民族学級とするのか、多様なアイデンティティを有する子どもたちに共通して何を提供しうるのか)などに関する新たな課題も表出してきている。また、全国で唯一課内カリキュラムとしての民族学級を有していた京都市が、今後の在り方として課外プログラムとするという消極的な施策が展開されようとしていることも大きな問題であろう。 さらに、一部のオールドカマーはかれらのルーツである朝鮮半島の民族教育を中心に据えた学校教育を展開している「民族学校」に子ど

朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度

弱 強

「祖国志向」 「共生志向」

「個人志向」 「帰化志向」

日本社会における自己の

生育地への愛着度

図1:福岡による在日のアイデンティティ類型xv

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もを通わせているが、これらの学校は日本の公教育の範疇にはなく、大学進学や就職などに制約を伴う「特別な学校」として日本社会に位置づけられているという、いわゆる「一条校問題」も残されている。

3−3 被差別部落の子どもの問題 上の2つのマイノリティがエスニック・マイノリティであるのに対し、被差別部落の子どもはいわゆる社会階層の問題を孕んでいる。日本社会は、旧来の身分制度においてある特定の社会階層を設定し、被差別や社会的排除の対象とした。明治時代になって身分制度は廃止されたが、実態としての差別は残った。1950年代の被差別部落の子どもたちは貧困による長期欠席や不就学がつづき、学校に来ても露骨な差別の対象となっていた。1960年代に入り、被差別部落

の問題は、行政が対応すべき社会問題とされ、「同和問題」として、そこに暮らす人々の生活水準の改善や教育水準の改善が目指された。アファーマティブアクションによって被差別部落に暮らす多くの人々が安定した職につき公営住宅に暮らし、教育環境も改善された。1963年当時、全国の高校進学率が66.8%であったのに対して、被差別部落の高校進学率は30.0%と、全体の半分にも満たない状況であったが、1995年には、全国の高校進学率が96.7%であったのに対し、被差別部落の生徒は92.4%となった。ところが、行政上、同和問題は一定の解決をみたとされ、2001年、被差別部落にかかわるすべての公的事業が解消された xviii。 しかしながら、社会的にいまだ目に見えにくい差別が多く存在しており(この点はオールドカマーと似通っている)、そして、「低学力」、「低

グラフ3:被差別部落と全国の最終学歴の比較xix

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進学意欲」、「将来展望の希薄さ」、「アイデンティティ問題」など、教育的不平等は解消されていない。 グラフ3は1990年当時の全国と被差別部落での最終学歴を比較したものである。全体と比較して被差別部落の高齢者の最終学歴に違いが見られることは、かつての被差別部落固有の課題による不就学の歴史から解釈可能であるが、いわゆる若者層においてもその最終学歴に顕著な差異が見受けられることがわかる。この結果は、これまでの同和教育が一定の成果を示しながら、それでも教育達成の差異としてあらわれるような、根深い問題が依然として残されていることを我々に示している。 オグブの分類に依拠するならば、被差別部落の子どもたちは典型的なカースト的マイノリティであるといえるだろう。オグブは、カースト的マイノリティの低学力には「カーストバリアー」が影響していると指摘する。すなわち、支配層が非支配層に低い水準の教育を提供し続けることと、非支配層がそれ固有の構造的・文化的特徴によって自身の社会的地位を維持しつづけることの連続性により、低学力が促進されていくということである。鍋島は、「マイノリティの社会化過程が劣っているとする『文化剥奪論』や、マイノリティの持つ言語・文化が学校で使用されている言語や文化の体系とは異なっているために、不適応が起こるとする『文化葛藤論』は、社会化過程や言語・文化の違いそのものが実は陰に陽に存在するカーストバリアーによって生成されたものである側面を見落としているばかりでなく、今日においてもこれらの相違がカーストバリアーの存在によって維持されているという側面をも見落としている」とし、これらのカテゴリーに位置するマイノリティ問題の分析枠組みとして、このカーストバリアー理論を高く評価している xx。 こうした被差別部落固有の教育課題へのアプ

ローチとして、いわゆる「力のある学校」研究がある。力のある学校とは、家庭環境などに不利な条件を抱えている子どもたちを含みつつ一定程度の学力水準を維持している学校のことである。これは、欧米で展開されてきた「エフェクティブ・スクール論」、すなわち「性や人種・民族、社会階層といった児童・生徒の学力形成に不利に働く家庭背景要因を、学校を改革することによって乗り越えることができる」という理念に依拠しており、子どもたちの文化背景を考慮しながら、システマティックに学校改革に臨んでいる学校のことをさす xxi。 志水らは、関西のある県での量的および質的調査研究から社会階層が低位にある人々の多い地域においてもいくつかの「力のある学校」があることを見出し、そのような学校となるためには①気持ちのそろった教職員集団②戦略的で柔軟な学校運営③豊かなつながりを生み出す生徒指導④すべての子どもの学びを支える学習指導⑤ともに育つ地域・校種間連携⑥双方向的な家庭とのかかわり⑦安心して学べる学校環境⑧前向きで活動的な学校文化、の8つの要素が必要であることを述べている xxii。

3−4 障害のある子どもの問題 世界的に見て、障害のある子どもの教育は、ここ30年の間に劇的なパラダイムシフトがなされたといえよう。1981年の国際障害者年によって「ノーマライゼーション」という言葉が一般に知られることとなり、1991年のサラマンカ宣言により「インクルージョン」が世界的潮流となった。昨年には障害のある人がその人らしく生きるための諸権利について書かれた条約である障害者権利条約(Rights and Dignity of Persons with Disabilities)が発効した。そこでは、障害のある人の教育については、「地域のなかで、インクルーシヴで質の高い教育にアクセスすることができること」とされている。

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世界的潮流を考えても、障害のある児童生徒の教育が、インクルーシヴな方向に向かっていることはいうまでもない。 他方、日本についてみてみると、学校教育法の改正により、日本の障害児教育は2007年度から、「特殊教育」から「特別支援教育」となった。考え方としては、これまで「障害の程度や種類によって特別な場所で教育すること」がよしとされてきた価値観が、「個別の教育ニーズによって教育支援をすること」に変化したということである。具体的な変化は、これまでの盲・聾・養護学校の学校種別をなくし、すべて特別支援学校とすることや、特別支援学校と一般学校の連携をさらに深めることや、LD、ADHDなどの軽度の発達障害を伴う子どもたちを特別支援の対象とすることなどである。しかしながら、実態としては、障害児のメインストリームへのインクルージョンは十分ではない。それどころか、これまで一般の教育の対象であったLDやADHDなど軽度の発達障害をもつ子どもが特別支援の対象となったことで、日本の社会はインクルージョンと反対の方向へ向かった。 下のグラフは学校ごとの在籍者の推移を簡単

に示したものである。文部科学省の学校基本調査によると、2008年度の各種学校在籍者数は、小学校は約712万2千人とおよそ1万1千人の減少、中学校は約359万2千人とおよそ2万2千人の減少となり、過去最低の数を記録している。そして、高等学校も減少傾向にある。しかしながら、特別支援学校はおよそ4千人増の11万2千人と、過去最高の在籍者数となっている。子どもの数が全体的に減少傾向にあるにもかかわらず、特別支援学校に通う児童生徒の数は増加している。 歴史的に見て、わが国の障害のある子どもの教育は「分離」の一途をたどっていたが、ここにきて、「特別な教育ニーズ」という美しい文言のもと、さらなる分離が強化されようとしているのである。今回の新しい障害者の誕生は、1970年代に実施された養護学校義務化をめぐる動きと同じ性質を有しているように筆者には見受けられる。養護学校の義務化は、一見すると障害児の教育権が公的に認められたすばらしい取り組みであるかのように思われるが、子どもたちの生きる場の議論が十分になされないまま踏み切られた点においては多くの課題が残され

グラフ4:各学校の在籍者の推移xxiii

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た。すなわち、かれらのライフチャンスの多様性を無視した形で「障害児は養護学校へ」という枠組みが確定したのである。何かが決まるということは、その“例外”にあるものが極めて受容されにくくなるということである。今回の特別支援教育改革においても、「発達障害と呼ばれる子どもは(通常の学校から)支援学校へ」という排除の論理が明に暗に働くであろうことは否めない。 さらに、この新しい障害児が流入してきたことで、特別支援教育の場も変容し、市場への積極的な参入が試みられている。特別支援学校のなかにも就職率100%をねらう高等部が次々につくられたり、盲・聾学校での進学率の高い学校が優遇されたりという現象が現れはじめたのである。また、カリキュラムとしても新学習指導要領から特別支援学校の高等部において「職業教育の一環としての」福祉科目の導入が行われることとなった。ここにも新自由主義の影響を見てとることができるのである。 就職率100%をねらう学校は、当然のことながら意図的に軽度の障害児を入学させる。しかしながら、昨今の経済不況による一般雇用事情、また、これまでの障害児の就労状況を鑑みると、限られたパイの奪い合いとなることは必至であり、結局のところ、新設された高等部は既存の養護学校の領分(就労先)を侵略せざるを得ないという現状がある xxiv。 こうして、いわゆる「労働力となる障害児」と「労働力にならない障害児」との線引きが行われる。通常の学校のなかで底辺に位置していた軽度の子どもたちは、「労働力とならない健常児」から「労働力となる障害児」への転身をはかる。どうにかして就労の機会が欲しい軽度の子どもたちとその家族と、法定雇用率をできるだけ軽度の障害者で満たしたい企業との利害が一致し、これまで就労の対象になりえた中程度の障害のある子どもたちは、その機会を奪わ

れる。こうして、特別支援学校の子どもたちは、メインストリームから分離されていることに加え、「労働力」という観点から障害児集団のなかで序列化されることになる。このような子どもたちを、競争に巻き込まれない「幸せな障害児」として楽観視しているわけにはいかないだろう。

4、日本の多文化共生に向けて 以上みてきたように、日本には多くの教育マイノリティが存在する。そして、本稿では紹介できなかった別のマイノリティ問題も山積している。これらの教育マイノリティ問題を今一度ここで整理してみたい。 はじめに、3-1のニューカマー問題は、日本社会にとって、非常に新しい教育問題であるといえる。上述したように、ニューカマー児童に対しては、教育実践としては「日本語指導」「母語・母文化の保持」に関する指導がなされている。しかしながら、これらの指導は一見子どもたちのための支援に見えるが、実際は日本社会への同化政策のひとつにすぎず、「同調」 「融和」「協調」などを重んじる日本の学校が扱いやすい子どもたちを作るための指導となってしまっているという批判がある。その点では、ニューカマーに対する教育は、60年以上も前にオールドカマーに対して行った不適応な対策と同じ筋道をたどっているといえる。また、国の支援施策として加配教員の国庫負担(1/3)や日本語指導者の講習会、就学ガイドブックの配布や帰国・外国人児童生徒受け入れ促進事業などを展開しているが、それも十分とはいえず、自治体によって受け入れの差が大きいことも指摘されている。榎井は「『日本語』という入り口を超えて、日本人の子どもたちと同じように、平等な機会を提供するための“教育保障”を考えていかなくてはならない」としている xxv。

わが国における多文化教育の現状と課題 ~現代日本の“教育マイノリティ”~

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 ニューカマーの教育問題へのアプローチとしては、オールドカマーへのこれまでの教育の成果と課題をふまえた教育の在り方および諸外国の外国人教育研究が多くの示唆を与えてくれるだろう。 次に、いずれも非自発的マイノリティであると考えられる3-2オールドカマー、3-3被差別部落の子どもたちの問題は、これまで日本の教育が直面しながらも「見てみぬふり」をし続けてきた部分であるといえる。 オールドカマーの教育に関しては、先の榎井がニューカマー問題との関連で重要な指摘をしている。榎井は、ニューカマー児童の処遇の問題がはじめ文科省によって帰国子女教育の延長として捉えられていたこと、そして、こうした子どもたちの教育保障は、オールドカマーへの教育運動にかかわってきた教育実践者や研究者たちによってマイノリティの権利保障の問題と捉えられるようになって初めてその充実が図られたことを示しながら、「歴史的には、戦後直後から、在日コリアンによる教育運動がマイノリティの“教育保障”として取り組まれていたが、そのことは、一貫して国から認識されてこなかった」と指摘している xxvi。 オールドカマーの教育の問題は、国レベルにおいては回避されてきたが、学校現場においては前述したような取り組みがなされてきている。しかしながら、いまだ現存する社会の偏見と職業的将来への不安が、進学モチベーションに消極的な影響を与えていることは否定できない。そして、帰化者の増加や日本人との国際結婚などによる独自の文化の消失や、文化的葛藤・アイデンティティのゆらぎなど、新しい問題も現れはじめていることは前述した通りである。榎井が示唆するように、オールドカマーの教育についてはニューカマーの教育保障の問題と併せて検討する必要があるだろう。 そして、被差別部落を含む学校も、あらゆる

施策が打ち切られた現在、学校現場レベルで多くの努力を重ねてきている。しかしながら、B・バーンステインがいうところの「言語コード」の問題や、P・ブルデューが示す「ハビトゥス」の問題、社会成功モデルの不在による将来展望の希薄さ(これは、学校教育の存在意義の希薄さにつながる)などがあり、低学力、低進学意欲の子どもたちの教育・生活課題がいまだ顕著に残されているのが現状である。「力のある学校」研究からのさらなる知見が期待される。 最後に、3-4の障害のある子どもの問題も、日本の教育にとっては古くて新しい問題であるといえる。日本の特別支援教育が、名前が変わっても障害児を社会的に排除するシステムに変化はなく、また、新しい障害児(LD、ADHDなど)が作られたことにより、学校現場は混乱している。これまで、「落ち着きがない子」「だらしがない子」「学力不振」とされてきた子どもたちは、「ADHD」「アスペルガー」や「LD」と呼ばれるようになった。そのことにより、教師たちは、これまでとは違う何か新しい取り組みをしなければならないと考えさせられている。「同質」や「平等」がよしとされる日本の教育において、特別な教育の対象となることは、社会的排除の対象となることを意味する。しかしながら、国レベルでの障害者の排除が進む一方で、ローカルなレベルでは、顕著なインクルージョンの例もみられる。一部の都道府県では、一般高校に知的障害者を入学させる取り組みも行われている。 教育マイノリティに対する日本の学校の教育支援は不十分である。不十分であるだけでなく、これらの教育マイノリティは、公教育の文脈において周辺化されていき、結果として日本の社会システムのなかで下位に位置し続けるという、「再生産」が繰り返される。この文化的再生産の原因のひとつは、日本の学校文化にあるといえる。「(テストの)スコア至上主義」、「(教

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育内容の)量的平等主義」「(子どもに求める態度として)同質性や協調性の重視」といったこれまでの日本の学校文化に、昨今の新自由主義の流入による競争原理の一層の強化が、かれらを教育において、そして社会において周辺化させるのである。 しかしながら、教育マイノリティはそうした学校文化に一方的に抑圧され続けているだけではない。かれらの異質性は、学校にとっての「脅威」ともなり、既存の学校文化を揺さぶっている。 「マイノリティの存在は、私たちが所与のものとしていた学校文化を問い直す好機を提供してくれる」。そのような見方を持って、かれらを含み込んだ教育を積極的に展開していくことこそが、日本が多文化共生の国として生き残ることのできる方法であると考えられる。

5、おわりに 本稿では、いくつかの“教育マイノリティ”を紹介しつつ、わが国の多文化化の現状とその教育課題について述べた。 ハワイ大学での国際カンファレンスにおいて筆者がこうしたテーマでこのような発表をした理由は大きく2つある。1つは、ややもすれば単一民族的エスノセントリズムに陥りがちな日本の実情を国内外に知らせ、米国の先駆的な取り組みから多文化国家として生きるヒントをもらいたいということである。新しいマイノリティのニューカマー問題は当然のことながら、過去の問題として処理されがちな在日コリアンや被差別部落の問題にも光をあて続けることの必要性、そして、いまだ文化としての認識がなされにくい“障害”の問題などを「多文化」という枠組みのなかで捉え、かれらが学校教育という文脈においていかに周辺化されているかを明らかにすること、そして、そうした課題に透

けて見える支配文化の自明性を批判的に検討しつづけることは非常に重要である。 2つには、こうしたマイノリティとの共生の問題が、本学が直面している教育・社会問題でもあると考えたからである。本学はいわゆる被差別部落に隣接し、視覚障害者のための学校や施設、朝鮮学校などがすぐ近くにあるというロケーションにありながら、大学総体としてこうした身近なマイノリティの問題に積極的にアプローチしてきたという履歴は少ない。 1979年に採択された国連の「国際障害者年行動計画」には、「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである」とある。これは、障害者問題について提起されているだけではなく、本稿で取り上げた、また取り上げられなかった様々なマイノリティに対しても言えることである。 また、昨今学力世界一で教育界を賑わしたフィンランドでの聞き取り調査においてもこの理念を想起させる言葉を耳にした。学力世界一の秘訣に迫ろうという筆者の問いに対して返ってきたのはこのような答えだった。「信頼の文化…フィンランドは小さな国だから、すべての人が信じあって支えあって社会を維持していかなくてはならないのです」。 我々の生きる場も決して大きいものではない。支配文化にあるものだけが利益を追求できるような昨今の潮流に抗い、近くの者同士が自然につながり合うことができるようなソーシャルキャピタルの構築を目指したい。

【注】

i 苅谷は、日本的平等観が、実態より感覚的な平等感・不平等感にしたがっており、不平等の事実に根差すよりも、処遇の画一性に目を向ける「結果の平等」に横滑りしていることを指摘している(苅谷剛彦2001『階層化日本と教育危機』有信堂 p.166-168)。マイノリティを含む教育

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においては、そうした表面的な結果の平等にたどり着くまでに至っていないのが現状であろう。

ii カール・A.グラント他編 中島智子ほか訳(2002)『多文化教育事典』明石書店 p.233

iii 文部科学省 HP:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/gai.htmより

iv 文部科学省「学校基本調査」よりv 同上vi C・ギアーツ著、吉田禎吾ほか訳(1987)『文化

の解釈学』岩波書店 vii 見田宗介ほか編(1997)『社会学事典』弘文堂

p.458viii Ogbu, J.U. 1978 Minority Educationand Caste :

The American system in a cross-cultural perspective, Academic Press, New York

Ogbu, J.U. & Simons,H.D. 1998 “Voluntary and Involuntary Minorities : A cultural-ecological theory of school performance with some implications for education“Anthropology & Education pp.155-188

ix 総務省入国管理局「平成20年末現在における外国人登録者統計について」(http://www.moj.go.jp/PRESS/090710-1/090710-1.html)

x 同上xi 文部省 HP:http://www.mext.go.jp/b_menu/

houdou/ 27 / 071 _icsFiles/afieldfile/ 2009 / 07/03/1279262_1_1.pdf より

xii 藤田英典・志水宏吉編(2000)『変動社会のなかの教育・知識・権力―問題としての教育改革・教師・学校文化―』新曜社 pp.476-477

xiii 志水・堀家ほか「ニューカマー家庭の教育戦略―3つのエスニック・グループの比較から―」(日本教育社会学会第51回大会発表)を参照し、筆者が作成

xiv 朴育美「教育の文脈における社会的再生産:在日コリアンの教育と経験」佛教大学教育学部学会紀要編集委員会編(2009)『佛教大学教育学部学会紀要第8号』佛教大学教育学部学会 pp.76-77

xv 福岡安則(1994)『在日韓国・朝鮮人―若い世代のアイデンティティ』中公新書 p.89 より筆者が作成

xvi 金泰泳(1999)『アイデンティティ・ポリティクスを超えて:在日朝鮮人のエスニシティ』世界思想社

xvii ジグムント・バウマン著 伊藤茂訳(2004)『アイデンティティ』日本経済評論社

xviii 後藤直ほか編(2008)『同和教育実践―新たな人権教育の創造―』ミネルヴァ書房

xix 部落解放研究所編『図説・今日の部落差別(第3版)各地の実態調査結果より』より

xx 鍋島祥郎「『部落』マイノリティと教育達成 ―J.U.オグブの人類学的アプローチを手がかりに―」教育社会学研究第52集(1993)p.208-231

xxi 堀家由妃代「力のある学校とインクルージョン」志水宏吉編(2008)『力のある学校の探求』大阪大学出版会 p.249

xxii 同上 p.71xxiii 文科省「学校基本調査」より筆者が作成xxiv 堀家由妃代「障害者の就労と教育」山内乾史編

(2008)『教育から職業へのトランジション』東信堂 p.185

xxv 榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたって」解放教育研究所編(2008)『解放教育』№493 明治図書 p.11

xxvi 榎井 前掲書 p.9

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