open enterprise magazine 200907 - socius · pdf filephoto by alan orling, courtesy ibm dram

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20 Open Enterprise Magazine Jul 2009

 ノイスが一体形成型の集積回路(モノリシックIC)のアイデアに取り組む前の1958年、フェアチャイルド・セミコンダクタでゼネラル・マネジャーを務めていたエドワード・ボールドウィンが退社する。ボールドウィンは1959年3月に、二重拡散シリコン・トランジスタの製造を経験した8人の技術者を伴い、冷暖房機器メーカーのリーム・マニュファクチャリングから出資を受けてリーム・セミコンダクタを創業した。 ボールドウィンの退社によって、ノイスは半年間という条件でゼネラル・マネジャーの職を引き受ける。フェアチャイル

ド・セミコンダクタは1958年末から1959年8月までの9カ月間で650万ドルの売上を達成した。同社のシリコン・トランジスタは1個あたり1ドル50セントで販売されたが、製造コストは13セントであったため利益率の高い事業だった。 出資元のフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントの社長、ジョン・カーターは、1960年には半導体事業の売上が現行の3倍に拡大すると予測し、フェアチャイルド・セミコンダクタの全株式を300万ドルで買い取る権利を行使した。ノイスは1959年9月24日に、300万ドル分のフェアチャイルド・カメラ・アンド・イン

スツルメントの株式1万9,901株を、創業者8人と投資銀行家のアーサー・ロック、アルフレッド・コイルに譲渡するという電報を受け取った。これは金額にすると1人あたり約30万ドルで、1957年にそれぞれ500ドルを持ち寄った創業者の8人は、2年後にその600倍の資産を手にした。 その後、ノイスはフェアチャイルド・セミコンダクタの社長に正式に就任し、ゴードン・ムーアが研究開発担当の責任者に就任した。 ICの開発を担当することになった

ロバート・ノイスは、1959年にフェアチャイルド・セミコンダクタの実質的な社長になり、集積回路(IC)事業を軌道に乗せた。しかし、親会社の役員に就任したことで半導体研究から遠ざかり、雑務に忙殺されるようになった。LSI時代の到来を確信したノイスは、ゴードン・ムーアとともに半導体メモリを開発・製造するインテルを創業した。ノイスは、新機軸となる製品を他社に先駆けて市場投入する戦略を重視し、DRAMとマイクロプロセッサを世界で初めて商品化した。本稿では、IC市場の立ち上がりからインテルの創業、DRAMの開発に至るまでのノイスの軌跡をたどった。

連  載 新テクノロジー・ビジョン̶第55回

インテルの創業とDRAMの商品化ロバート・ノイス(中編)

商用モノリシックICのデビュー

ロバート・ノイス(1927.12.12~1990.6.3)Robert Norton Noyce(c) Copyright 2009 IEEE. All Rights Reserved.

サイエンス・ライター 岩山知三郎/編集部

TechnologyVision

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インテルの創業とDRAMの商品化

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ようになった。IBMは、n型MOS技術による1KビットDRAMを製造して1973年に自社製コンピュータに採用することを計画していたが、インテルはIBMより約2年早く、MOS技術によるDRAM

 新社屋の建設を決定したノイスは、マウンテンビューの本社から16キロ南にあるサンタクララの梨畑だった約10万5,000平米の土地にオフィスと工場を建設し、1971年6月に移転した。 さらに、Intel 1103の成功を確信できたノイスは、1971年夏から株式を公開して株主を公募する準備を始めた。新オフィスに移転したことで、7月と8月に80万ドルの赤字が発生したが、9月から1103の売上が順調に拡大する見通しだった。ノイスは、事業が軌道に乗った早い時期に、ストック・オプションの価値と会社の資金調達力を従業員に実感させたいと考えていた。インテルが1971年10月13日に1株35.5ドルで約30万株の新規株を発行すると応募が殺到し、市場から700万ドル近くの資金を調達できた。インテルの役員と従業員は自社株を1株平均4.04ドルで購入していたが、それらの株式は分割され220万株になった。 インテルは1972年に約10万個の1103を製造し、1種類のDRAMだけで1972年度の売上2,340万ドルのほとんどを稼いだ。さらに、4KビットDRAMを市場に投入した1973年の売上は6,000万ドルを超えた。 しかし、IBMが1973年に「System/

をIBM以外のコンピュータ・メーカーに供給できるようになった。このため、DRAMの内製化を方針とするIBMを除いて、コンピュータ・メーカーのほとんどがインテルの1103を購入した。

370 Model 158」と「同168」向けにn型MOS技術による2KビットのDRAMを出荷すると、日立製作所と日本電気(NEC)がn型MOSの4KビットDRAMを出荷し、コンピュータ向けDRAM技術はp型MOSからn型MOSに一 気に流れが変わった。インテルもすぐにn型MOSのDRAMを製品化したが、DRAM市場の競争が激化し、先行者利益を享受することが困難になった。 最も単純で製造効率の高いDRAM技術は、1967年にIBMのロバート・デナード(Robert H. Dennard)によって考案され、1968年に特許技術になっていた。デナードの考案したDRAMは、1つのn型MOSFETと1つのコンデンサで構成したセル内の電荷の有無で1と0を表現し、1本のデータ線で書き込みと読み出しができた。IBMは1977年に製造した64キロビットDRAMでこの技術を初めて採用したが、その技術はテキサス・インスツルメンツの元技術者が1969年に設立した半導体メーカー、モステックにライセンス供与された。この技術をもとにモステックは、1976年に16キロビットDRAM「MK4116」を発売し、市販DRAM市場で一躍75%の世界シェアを獲得した。 このため、ほとんどの半導体メーカー

が64キロビットRAMにデナードの技術を採用し、パソコン市場の立ち上がりもあってDRAMの価格競争は一層激化した。インテルも256キロビットDRAMで他社より早くNMOSからCMOSに移行したが、1984年には世界シェアが4%台に低下し、1985年にDRAM市場からの撤退を決めた。

ロバート・デナード(1932.9.5~)Robert H. DennardPhoto by Alan Orling, courtesy IBM

DRAM市場の盛衰

[参照文献]

[1] Leslie Berlin, "THE MAN BEHIND THE MICROCHIP - Robert Noyce and the Invention of Silicon Valley", Oxford University Press 2005.[2] T. R. Reid, "The CHIP", Random House Trade Paperbacks 2001.[3] John Reed, "The Invention of the Intel 1103 - The World's First Available DRAM Chip".[4] "Semiconductor Family Tree", Electronic News, July 8, 1968.[5] Donald F. Liddie, "SIGNETICS CORPORATION KEY EVENT CHRONOLOGY".[6] "Oral History of Panel on the Development and Promot ion of Fairchi ld Micro log ic Integrated Circuits", Computer History Museum, October 6, 2007.[7] Leslie R. Berlin, "Robert Noyce and the Rise and Fall of Fairchild Semiconductor, 1957-1968", Business History Review 75(1), Spring 2001.

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21Open Enterprise Magazine Jul 2009

インテルの創業とDRAMの商品化

ARPANET誕生を支えた待ち行列の研究者

TENEXとEmailの誕生

ジェイ・ラストは、1959年9月にライオネル・カトナー(Lionel Kattner)やジム・ノール(James Nall)、ボブ・ノーマン(Robert Norman)、アイシー・ハース(Isy Haas)、サム・フォック(Sam Fok)らによる開発チームを編成した。しかし、親会社のフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントが半導体事業の収益を企業買収などに充当したため、ICの開発は予算不足で大幅に遅れた。 フェアチャイルド・セミコンダクタの社員は1959年末に1,260人を超え、その後も毎月約100人のペースで増加していた。また、8人の創業者の職務も変化し始めた。8人のうち役職に就いたのはノイス、ムーア、ビクター・グリニッチの3人で、1959年にゼネラル・エレクトリック(GE)から移籍してきたチャールズ・スポーク(Charles E. Sporck)が、ユージン・クライナーとジュリアス・ブランクに代わって製造部門の責任者に就いた。スポークはのちにフェアチャイルド・セミコンダクタを退社し、1967年にナショナル セミコンダクターの社長兼最高経営責任者(CEO)に就任する。

相次いで移籍した。 フェアチャイルド・セミコンダクタは、1961年3月にニューヨークで開催されたトレードショー「IRE Show」で、最初のモノリシックIC製品ファミリーを「Micrologic Element」の名称で発表し、6種類の製品のうちメモリの役割を果たすフリップ・フロップ回路を展示した。同社はIRE Showの開催期間中に、サンモリッツ・ホテルで1日2回のセミナーを開催し、6種類のICを組み合わせることで、コンピュータ向けの汎用の論理回路を構成できると説明した。 Micrologic ElementのICは、3~4個のトランジスタと5~6個のダイオード、抵抗を一体化したもので、価格は100ドルから120ドルだった。当時市販されているトランジスタや抵抗といった部品を利用すれば、同じ機能を50分の1のコストで実現できたが、フェアチャイルドは、ICは初期コストは高いが回路の面積で最大95%、設計と組立コストが最大90%、消費電力が最大75%削減できると説明した。しかし、顧客の反応は概ね冷ややかだった。

 1959年から1962年かけて、フェアチャイルド・セミコンダクタのトランジスタ生産は660倍に拡大したが、製造コストは5倍しか増えなかった。また、トランジスタの価格は90%下落したが、売上は10倍に拡大し利益も3倍に増加した。ノイスは、好業績のなかで多方面にわたる業務と出張の連続で多忙を極め、マーケティングの責任者は開発よりも販売を重視した。ラストは社内体制に不満を募らせながらもIC開発を成功に導いたが、部門間の折衝には多大な時間を費やしていた。 ラストがICの開発を終えた頃、1960年に設立した総合電機メーカーのテレダイン社が、ICの開発・製造に特化した事業会社アメルコの設立を計画していた。ラストはその設立準備を進めていた人物と出会い、1961年2月にジーン・ヘルニとシェルドン・ロバーツ、ユージン・クライナーと共にフェアチャイルドを退社して、アメルコの創業に参加する。また、1961年8月にはデビッド・アリソン(David F. Allison)とデビッド・ジェームス(David James)、ライオネル・カトナー(Lionel Kattner)、マーク・ヴァイセンステルン(Mark Weissenstern)がフェアチャイルドを退社し、投資銀行リーマン・ブラザーズから出資を受けて、同年9月にICの開発・製造会社シグネティクスを設立した。こうしてフェアチャイルドでIC開発に携わった技術者の多くが、数カ月間でアメルコやシグネティクスに

ノイスとチャールズ・スポーク(1976年3月)Photo : John Brenneis, Copyright 2009(c) National Semiconductor Corporation

Micrologic Elementの製品カタログ

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TechnologyVision

 米国のジョン・ケネディ大統領は、1961年5月25日の連邦議会両院合同会議で、「10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」というアポロ計画を発表し、220億ドル以上の予算案を議会に承認させた。ソビエト連邦(当時)が1957年10月4日に世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げて以来、米国の国防省は大陸間弾道ミサイルに対する防衛力の強化に努め、1961年には旧ソ連よりも技術的に優位に立ったと自信を深めつつあった。アポロ計画には、地球から月まで往復76万8,800キロメートルを飛行するという新たな挑戦課題を示し、これを克服することで旧ソ連を技術的に圧倒するという思いが込められていた。 ミサイルの荷重が450グラム増えるとその分だけ燃料も余分に必要になり、10万ドルのコスト増になるため、制御機器の軽量化は重要な課題だった。フェ

フェアチャイルドの“プレーナー”トランジスタ(c) 2007 Computer History Museum. All rights reserved.

アポロ誘導コンピュータ(Apollo Guidance Computer)とインタフェース・パネルPhoto : NASA Office of Logic Design

IC部品数と製造コストの相関図Electronics, Volume 38, Number 8, April 19, 1965

アチャイルドが1960年に製造したICの80%は、軍および軍と契約した航空機メーカーなどが購入していた。また、1961年のMicrologic Elementの売上は50万ドル弱で、すべてが軍用だった。 国防省は1962年に、第2世代の大陸間弾道ミサイル“ミニットマンII”でICの採用を決め、電子関連の部材と機器の購入費として3年間で2,400万ドルの予算を割り当てた。海軍も1959年12月に就役した原子力潜水艦ジョージ・ワシントンから発射する中距離弾道ミサイル“ポラリス”にICの採用を決め、航空宇宙局(NASA)も1963年末に打ち上げる人工衛星“IMP-1(Explorer 18)”でICの採用を決定した。 ICの市場は国防や宇宙開発プロジェクトで立ち上がり、レーダー、送受信機、遠隔測定器、航空計器などに市場を拡大していった。フェアチャイルドのMicrologicは、ゼネラル・モーターズ(GM)傘下の電子機器メーカー、ACスパークプラグ社が開発した「MAGIC誘導コンピュータ」や、マーティン・マリエッタ(現ロッキード・マーティン)の航空機部門、マーティン・カンパニーが開発した「MARTAC 420汎用デジタル制御コンピュータ」、レイセオンが製造したアポロ計画の慣性誘導システム「アポロ誘導コンピュータ(AGC:Apollo Guidance Computer)」などの論理回路に使用された。 AGCは、“慣性誘導装置の父”と呼ばれるマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授チャールズ・スターク・ド

レイパー(Charles Stark Draper)が開設したMIT計測研究所(現チャールズ・スターク・ドレイパー研究所)で設計されたシステムで、初期のAGCは3入力のNORゲートで構成された4,100個のICを使用していた。NASAは1965年までに約20万個のICを購入し、フェアチャイルドの最大のユーザーになった。1964年までに製造されたICのほとんどすべてが、政府の予算で購入された。 1964年にノイスは、ローエンドのフリップ・フロップICの価格を、トランジスタや抵抗、コンデンサなど個別の部品を使用して同じ機能を実現した場合の価格よりも、安価に設定する。同社の販売代理店は、トランジスタなどの部品が売れなくなることを懸念したが、ノイスは、IC

IC需要を牽引した政府市場とノイスの価格戦略

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インテルの創業とDRAMの商品化

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レスター ・ホーガン(1920.2.8~2008.8.12)Clarence Lester HoganPhoto : American Institute of Physics

 この当時、フェアチャイルドとテキサス・インスツルメンツ(TI)は、ICの設計・製造に関する特許を巡って係争していた。単一基板上に複数の部品で回路を形成するというアイディアを特許として申請したのはTIのジャック・キルビーが最初で、この特許は1959年2月6日に申請され、1964年6月23日に承認された(キルビー特許)。 一方、ノイスが考案した一体型回路

構造の特許は1959年7月30日に申請され、1961年4月25日に承認された(プレーナー特許)。TIは、フェアチャイルドの特許出願はTIの出願内容に抵触すると主張したが、フェアチャイルドのIC製造に関する特許のライセンスなしでICを量産することができなかった。 両社は最高裁判所が最終判決を下す前の1966年夏に、キルビーとノイスをICの共同発明者とし、特許を相互ライセ

ンスすることに合意した。1966年10月、キルビーとノイスの功績に対して、フランクリン・インスティチュートから“スチュアート・バランタイン・メダル”が授与された。 ノイスは1965年にフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントのバイス・プレジデントに昇進し、半導体部門に加えてニュージャージー州クリフトンに新設された精密機器事業部の運営を任された。ノイスはチャールズ・スポークをフェアチャイルド・セミコンダクタのゼネラル・マネジャーに指名し、精密機器事業部の責任者にはトム・ベイを就任させた。 ノイスはニューヨークで開催されるフェアチャイルドの幹部会に毎月出席し、精密機器事業を軌道に乗せるために、西海岸のカリフォルニア州と東海岸のニュージャージー州で、それぞれ月の半分を過ごすようになった。ノイスが担当する事業は順調に見えたが、1967年3月にスポークが、ナショナル セミコンダクターから社長兼最高経営責任者(CEO)の誘いを受けて、フェアチャイルド・セミコンダクタを退社した。敏腕の副官を失ったノイスは、後任としてムーアに就任を打診したが同意を得られな

フェアチャイルドからの離脱

は用途が限られているため、個々の部品の市場は縮小しないと考えた。1963年のICの平均価格は1個あたり32ドル程度だったが、ノイスは先を見越して値下げ戦略を断行した。この結果、ICの価格は1964年に平均18ドル50セントまで低下し、1965年には平均8ドル33セントまで下落した。これにより民間企業での採用が増加し、1966年に製造されたICの47%が政府関連以外に販売された。この年のフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントの株価は、10カ月で27ドルから144ドルに急騰し、ニューヨーク証券取引所に上場する企業のなかでも最速の株価上昇率を記録した。 ノイスは1965年に、“プレーナー”プロセスのライセンス供与を求めたIBMと交渉し、クロスライセンス契約を締結して、IBMが開発した半導体製造技術の使用権を獲得した。また、1964年から日本を毎年訪れ、日本のコンピュータ・メーカーなどにICをライセンス供与する契約をまとめた。 1964年当時の先進的なICは、約60

個の部品を集積していた。 ムーアは、1965年4月19日発行の雑誌「エレクトロニクス」に、「ICに多くの部品を詰め込む(Cramming More Components Onto Integrated Circuits)」と題する論文を発表し、部品のコストを最小化するため複雑性(部品の数)が毎年2倍の速度で増大してきたことから、少なくとも今後10年はこのペースが続くとし、ICに集積可能な部品数が1975年までに6万5,000点に達し、大規模な回路が単一のウェハ上に構築されると予測した。ムーアが示したICの集積度予測は、カリフォルニア工科大学(Caltech)教授カーバー・ミード(Carver Andress Mead)によって“ムーアの法則”と名づけられ、それまで実現されてきた実際の集積度から「ICのトランジスタ数は約18カ月ごとに2倍になる」と理解されるようになった。ムーア自身は、1975年のIEEE国際電子部品会議で1965年の予測を修正し、複雑さが増大したことでICの集積度は2年ごとに2倍になると語っている。

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24 Open Enterprise Magazine Jul 2009

TechnologyVisionかった。この時期のノイスは、3年以上にわたって半導体の研究から遠ざかり、経営に関するあらゆる雑務に追われていた。スポークが退社したフェアチャイルド・セミコンダクタでは多くの技術者が流出し、半導体事業は部分的に機能不全に陥った。 フェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントの利益は、研究開発と製造効率に関する構造的な問題に伴う納期遅れなどで、1966年末から低下し始めた。この当時、半導体事業の売上はフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントの半分以上を占めていたが、1967年7月に初めて赤字を計上する。これにより1966年に1,200万ドルの利益を計上していた同社は、1967年の決算で750万ドルの赤字に転落し、1968年1月には株価も92ドルから52ドルに下落した。 同社の取締役会はノイスを執行役員に昇格させ、エグゼクティブ・バイスプレジデントを務めていたリチャード・ホジソンを最高経営責任者(CEO)に指名する。ノイスはフェアチャイルドの経営陣のなかで唯一ホジソンを尊敬していたが、半導体事業の混乱を収拾するのは難しいと考えていた。

 この頃、IBMは将来のコンピュータのメモリに半導体を採用する方針を打ち出した。その一方でノイスは、この2年間でミニコンピュータの出荷が5倍に増加していることにも注目していた。当時、フェアチャイルドはコンピュータ向けIC市場で80%近い市場シェアを保有していたが、ノイスは1968年1月、ムーアに半導体メモリのメーカーを創業する計画をもちかけた。 フェアチャイルドの取締役会が、就任2カ月のホジソンに見切りをつけると、ノイスはフェアチャイルドの創業者で取締役会の会長シャーマン・フェアチャイルドに辞意を伝えた。 後任を探すよう懇願されたノイスは、モトローラでエグゼクティブ・バイスプレジデントを務めていたレスター・ホーガン(Clarence Lester Hogan)に目をつけた。ホーガンはハーバード大学の応用物理学教授からモトローラに転身し、半導体事業を成長させてきた。ノイスは自ら説得工作を担い、シャーマン・フェアチャイルドに破格の給与で招聘することを認めさせた。 1968年6月25日、40歳のノイスはフェアチャイルドを退社した。

 ノイスがフェアチャイルドを退社して約1週間後の7月3日に、ゴードン・ムーアも退社した。その後二人は、約1カ月間ノイスの自宅で計画を練った。この計画立案には、ニューヨークの投資銀行ヘイデン・ストーンを退社して1961年にサンフランシスコでトーマス・デイビス(Thomas

J. Davis, Jr.)と共にベンチャー・キャピタル「デイビス・アンド・ロック」を創業したアーサー・ロックも加わった。 ムーアがフェアチャイルドを退社すると、アンディ・グローブ(Andrew Stephen Grove)も行動を共にすることを決め、1968年7月にチームに参加し

た。グローブは1967年からフェアチャイ

ルド・セミコンダクタで研究開発部門のアシスタント・ディレクターを務め、MOSFET(金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ)の開発に携わっていた。 MOSFETは、シリコン基板上のゲート領域に酸化膜(絶縁体)を形成し、さらにその上に金属ゲートを形成したトランジスタで、1925年にオーストリア・ハンガリー(現ウクライナ)のジュリアス・リリエンフェルド(Julius Edgar Lilienfeld)によって発明され、1960年にベル研究所のダウォン・カーン(Dawon Kahng)、マーティン・アタラ(Martin M. Atalla)らが最初に動作を確認した。MOSFETはバイポーラ・トランジスタ(接合型トランジスタ)よりも低速だが、電力消費が格段に少ない。フェアチャイルド・セミコンダクタでは1965年に、論理回路とスイッチ回路向けにp型MOSFETを商品化したが、メモリ用途の技術として有望視され始めていた。 ノイスらの新しい会社「NMエレクトロニクス」は1968年7月18日に設立され、ロックが会長、ノイスが社長、ムーアが副社長を担うことになった。資本金は

マーシャン“テッド”・ホフ(1937.10.28~)Marcian Edward Hoff(c) Intel Corporation

LSI時代の到来Sam

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