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74 本稿の目的は自由身分の剣闘士が結んだとされる auctoramentum という 雇用契約への理解を深めることまたこれを通じて剣闘士という職業がローマ 社会のなかでどのように位置づけられていたのかを明らかにすることであるまずは剣闘士に関する研究動向とその問題点を確認したい 11981 G. Ville の研究により剣闘士研究に社会史的視点が導入されて以来剣闘士興行を通してローマ人の社会やモラル死に対する考え方を理解しよう とする研究 2や剣闘士興行がローマ社会に対し有していた機能を考察する研究 が行われてきた 3しかしこうした先行研究が注目してきたのは見世物を提 供した主催者つまりは皇帝をはじめとする政治的文化的エリートそしてそ の観衆からみた剣闘士興行でありその視点に偏りがあったことは否めないこうした研究状況を踏まえ1990 年代後半から剣闘士側の視点を加えるべく碑文史料の分析とりわけ剣闘士の墓碑の分析を行う研究が増加傾向にある 4しかしこれらの研究は碑文史料の分析を通して彼らのアイデンティティや名 誉や誇りへの意識その人間関係を描き出すことに成功しているものの文献 史料から見られる剣闘士像と有機的に組み合わせるには至っていない従って 今後の剣闘士研究の課題はこれらの視点を結合しローマ社会に位置づけてい くことであると言えようその点双方の視点をつなげる結節点として期待さ れるのが自由身分剣闘士である自由身分でありながら試合に出場した者は観 衆の視点と剣闘士の視点を兼ね備えた存在と言える自由身分剣闘士について 研究することは上記の課題へ向けた第一歩となろうかくして本稿はこの自由 身分剣闘士を主たる考察対象とし議論を進める1自由身分剣闘士の概観 ここでは文献史料において自由身分剣闘士がどのように描かれているのかを みる自由身分でありながら剣闘士として試合に出場した者がいたことはリ 剣闘士興行における auctoramentum ラリヌム決議を中心に阿  部   衛 はじめに

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 本稿の目的は,自由身分の剣闘士が結んだとされる auctoramentumという雇用契約への理解を深めること,またこれを通じて剣闘士という職業がローマ社会のなかでどのように位置づけられていたのかを明らかにすることである.まずは剣闘士に関する研究動向とその問題点を確認したい(1).

 1981年 G. Villeの研究により剣闘士研究に社会史的視点が導入されて以来,剣闘士興行を通してローマ人の社会やモラル,死に対する考え方を理解しようとする研究(2)や剣闘士興行がローマ社会に対し有していた機能を考察する研究が行われてきた(3).しかし,こうした先行研究が注目してきたのは見世物を提供した主催者,つまりは皇帝をはじめとする政治的・文化的エリートそしてその観衆からみた剣闘士興行であり,その視点に偏りがあったことは否めない.こうした研究状況を踏まえ,1990年代後半から剣闘士側の視点を加えるべく,碑文史料の分析,とりわけ剣闘士の墓碑の分析を行う研究が増加傾向にある(4).

しかし,これらの研究は碑文史料の分析を通して彼らのアイデンティティや名誉や誇りへの意識,その人間関係を描き出すことに成功しているものの,文献史料から見られる剣闘士像と有機的に組み合わせるには至っていない.従って今後の剣闘士研究の課題はこれらの視点を結合し,ローマ社会に位置づけていくことであると言えよう.その点,双方の視点をつなげる結節点として期待されるのが自由身分剣闘士である.自由身分でありながら試合に出場した者は観衆の視点と剣闘士の視点を兼ね備えた存在と言える.自由身分剣闘士について研究することは上記の課題へ向けた第一歩となろう.かくして本稿はこの自由身分剣闘士を主たる考察対象とし,議論を進める.

1.自由身分剣闘士の概観

 ここでは文献史料において自由身分剣闘士がどのように描かれているのかをみる.自由身分でありながら,剣闘士として試合に出場した者がいたことはリ

剣闘士興行における auctoramentum ― ラリヌム決議を中心に ― 

阿  部   衛

は じ め に

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75剣闘士興行における auctoramentum

ウィウスに確認される(5).こうした者が不定期に試合に出場していたのではなく,恒常的に出場していたことを窺わせる史料もある(6).また自由身分ながら剣闘士になった者はしばしば差別,軽蔑されていたことが文献史料からわかっている.たとえば,ユウェナリスは剣闘士に志願するという噂が広まった者が周囲から嘲りを受けていたことを伝える(7).さらにホラティウスなどは姦通を犯した者と剣闘士に志願した者とを比較し,剣闘士に志願する方がまだ良いとしているものの,その根底には剣闘士を姦通者とほぼ同列にみる,内に秘めた彼らへの軽蔑心が読み取れる(8).また,キケロは『義務について』において自由人が就くべき職業について論じており,賃金労働者の中で技術でなく,力仕事のために雇われる者たちを卑しいと断じている(9).

 その一方で,彼らがただ軽蔑されてきただけではないことを示す史料もある.テルトゥリアヌスは剣闘士に心を奪われつつも,彼らを罰するローマ市民の矛盾を指摘する(10).また,セネカは剣闘士に志願する者が行う誓いを最も気高く,下劣な言葉であると述べている(11).こうした記述から,自由身分の剣闘士は差別と賞賛の同居した曖昧な存在であったと研究者の間では理解されている(12).

 剣闘士に自ら志願して試合に出場した者は文献史料や法史料において auc-toratusと表記される.なぜなら,これは彼らが剣闘士に志願した際に剣術師範 lanistaや興行主 editorと結んでいた一種の雇用契約 auctoramentumに由来するためである.auctoramentumを結ぶ行為,auctorare seないし auctorariは自身の肉体を他人へ従属させる行為である.auctoramentumと呼ばれる雇用契約についてはこれまでのところ,軍籍登録 auctoramentum militiae(13)と剣闘士の雇用契約 auctoramentum depugnandi causa(14)の 2種が史料から確認されるが,本稿ではその目的ゆえ,剣闘士の雇用契約のみに絞って議論していく.auctoramentumを結ぶ際に行った誓いの言葉はセネカやホラティウスやペトロニウスの著作において見られる.形式において若干の違いがあるものの,「火に焼かれ,縛られ,剣で斬殺されること(Uri, vinciri ferroque necari )」という文言が核をなしていたと言える(15).この苛烈な文言からは志願者が剣術師範に絶対服従していたことや,剣闘士としてその身に起こりうる全ての危険を受け入れることが求められた様子が窺えよう. しかしながら,上記のように自由身分ながら剣闘士になった者について言及する史料には事欠かないものの,いかなる者がこうした剣闘士としての雇用契約を結んだのかという根本的な問題は未だに解決されておらず,研究者の足並

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みは揃っていない.まずは auctoramentumに関する研究状況をみていこう. auctoramentumを結び得た者を考察する上で,主として先行研究で依拠されてきた史料はガイウス『法学提要』の記述である.ガイウスは自由人が窃盗される場合について言及しており,その具体例として当該者(盗まれる者)の権能下にある卑属や債務者になぞらえ,auctoratusを挙げる(16).また,後 177年のイタリア決議 SC de pretiis gladiatorum minuendis(CIL II 6278=ILS 5163)では,護民官の面前で志願者が自らの意思で剣闘士になることを宣言したことが記されている(17).これらの箇所から A. BiscaldiやW. Kunkelをはじめとする 1950年代の研究者らは auctoramentumを結び得た人物を自由身分の者として理解し,多くの研究者に受け入れられてきた.しかし,1970年代後半に A. Guarinoが auctoratusは他とは異なる法的状態に置かれており,自権者のみならず,他権者や隷属状態にある者も auctoramentumを結び得たと主張したのを契機に(18),auctoramentumを結び得た者は自由身分であり,ローマ市民であり,自権者でさえあると唱える C. Sanfilippoとの間に論争が生じた(19).しかし,これらの説は具体的な事例を欠くため,隣接する剣闘士研究の分野では,auctoramentumを結び得たのは自由人(20)とする従来の説が依然として採用されている. こうした研究状況から,先行研究は史料の不足ゆえ,停滞状況にあると言えよう.加えて,いずれの研究も,auctoramentumを結び得た者は自由身分の者であるという理解にも拘わらず,元老院議員および騎士身分の者を auctora-mentumを結びうる対象としてみる意識は研究者の間で希薄であった(21).

 以上の問題を踏まえ,本稿はその解決への一つの手がかりとしてラリヌム決議の内容に注目する.これまでの研究に欠如していた具体的な情報を加えたい.また,その文脈を考察することで当時の社会において自由身分の剣闘士がどのように位置づけられてきたかの一端を知ることができよう.

2.史料の検討

2.1.ラリヌム決議(22)

 ラリヌム決議とは,1978年にイタリアのラリヌム(現モリーゼ州ラリーノ)で発見された青銅板に刻まれた元老院決議である.現在この元老院決議の年代は冒頭の 4行目に残る執政官名からティベリウス帝の治世である後 19年のものと考えられている.なお,ラリヌム決議の刻まれた青銅板は別の tabula patronatusを作成するために再利用されてしまったため,碑文テキストの両端

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には欠損がある.また,残存するのも,冒頭の 21行分だけであり,決議全体の分量がどれほどであったのかは不明である(23).

5-6行 [約 6字欠損]元老院の威光を[減ずべき]欺瞞が働かれたがゆえに,同案件に関して数年前になされた元老院決議の禁ずる通り,自らの身分が有する権威に反して舞台や競技会に出場する者,あるいは,[自身を剣闘士雇用契約に付す者]に対して,[当該案件についていかなる処置がとられるべきか,以下のように判断した.]

7-11 元老院は(以下のように)定めた.何人も,元老院議員の息子,娘,孫,孫娘,ひ孫,ひ孫娘や,騎士席で見物する権利を有する[父親もしくは]父方か母方の[祖父]もしくは兄弟を持つ男性や,騎士席で見物する[権利]を有する夫もしくは父親もしくは父方か[母方の祖父もしくは兄弟]を持つ女性を舞台に出演させてはならない.また,闘うように,もしくは剣闘士の羽根飾りを奪う,もしくは剣をとる,あるいはそれらと似たなにかを務めるように剣闘士雇用契約によって勧誘してもならない.たとえ彼らのうちの何人かが自身を雇用に付しても,雇用してはならない.彼らの中の何人も自分を雇用に付してはならない.

11-16 そして以上のことは,騎士席に座る権利を有する者がその身分に具わる権威を嘲るために,公[的に破廉恥を]受け取る,あるいは,身分の資格審査によって破廉恥と宣告されるように取り計らったこと,[自発的に騎]士の席[から退いた]後,自身を剣闘士雇用契約に付したことや,あるいは劇場の舞台に登壇したことが過去にあったので,それゆえ一層用心されるべき[である.][約 9字欠損][上記規定に該当する]者の何人も,[もしそれが彼らの身分の持つ権威に反して]なされた場合,墓地を持ってはならない.ただし,何人かがすでに劇場の舞台へ登壇したことがある,あるいは[闘技場へ自身の]労力をだしたことがある,あるいは俳優,剣闘士,剣術師範,売春斡旋人から生まれた者である場合は除く.

17-19 執政官マニウス・レピドゥスとティトゥス・スタティリウス・タウルスの提案によって成立した[元老院]決議に規定されているように,20歳[未満の生来自由人女性]および 25歳未満の生来自由

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人男性は[闘技場および舞台のために自身を剣闘士雇用契約に付す,あるいは自身の労力を][約 8字欠損]だすことを許されるべきではない.ただし,以下の者は除く.すなわち,神君アウグストゥスやティベリウス・カエサル・アウグ[ストゥスによって][約 12字欠損]

[ ]は校訂者による補い部分 ( )は執筆者による補足

 本決議の目的は冒頭の 5-6行目で述べられているように,元老院議員と騎士身分の者に対して見世物への出演を禁止することであった.形式的な冒頭部を除き,ラリヌム決議の現存する部分はその内容から大きく二つに分けられる.一つは 7行目から 16行目にかけての,元老院議員および騎士身分の家系の者への規制である.元老院議員身分や騎士身分の家系に属する者を舞台や闘技場での雇用に誘うことと,自らを雇用に付すことを禁じている.もう一つは 17行目以降,上記の身分を除く自由身分の者への規制である.ここでは 25歳未満の生来自由人男性が自らを剣闘士として雇用に付すことを禁じている. 以上のように,ラリヌム決議は auctoramentumについて研究する上で有用な情報を含む.それにも拘わらず,これまで考察されてこなかった原因は各研究分野の隆盛期とその関心の不一致にある. ラリヌム決議の発見は 1978年であるものの,Levickや Lebek, McGinnらにより,同決議の検討が本格化するのは 1980年代中頃以降である.加えて,こうした研究者の関心は,元首政初期における社会秩序回復政策の中でこの決議がどのような意義を有しているのかというところにあった(24).その一方で,auctoramentumに関する研究は 1980年代前半の Guarino, Diliberto, Sanfilippoらによる論争を最後に殆ど見られなくなった.以上のように両研究の隆盛の時期と関心の相違により,ラリヌム決議は auctoramentumとの関連で見落とされた格好となったのである.従って,本稿は先行研究での見方の重要性を認めつつも,自由身分の剣闘士に軸足を置いてラリヌム決議をみる.

2.2.誰が auctoramentumを結び得たのか 本節では誰が auctoramentumを結び得たのかを検討する.ラリヌム決議の9行目に ‘auctoramento’という文言がある.この前後を含めた 7-11行目の内容は元老院議員および騎士身分の家系に属する者を舞台に出演させることや,auctoramentumによって勧誘することを禁じ,併せてその身分の者らが自ら

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そうしたことに志願することも禁じている.こうした具体的な項目が単に将来を危惧しての予防策であったとは考えにくい.ラリヌム決議に先立って,こうした行動を規制する決議が出されていることに鑑みると,過去に auctoramen-tumを結び剣闘士として試合に出場した元老院議員および騎士身分の者がおり,そうした状況に対応したとみる方が妥当であろう.ここで強調しておきたいのは auctoramentumという文言が元老院議員身分や騎士身分の者たちに用いられていることである.これは当時の社会でこうした身分の者が auctora-mentumを結び得た存在であったことを示している. 17行目以降は生来自由人 ingenuusの市民も規制の対象となることが記されている.この箇所は執政官の名前より,このラリヌム決議に先立つ後 11年の決議の内容を再録したと考えられる(25).この箇所では一般市民に対して auc-toramentumを結ぶことが禁じられているが,すべての市民に対し規制がなされたわけではなく,25歳未満の生来自由人の男性に限られている(26).この 25歳という年齢についての詳細な検討は次節で行うが,年少者という法的年齢区分との関係性が窺える.また,こうした 25歳未満の者の出場を取り締まる動きから,当時 25歳に満たない生来自由人の若者が auctoramentumを結び剣闘士試合に出場し得た,つまり auctoramentumを結び得た存在と認識されていたと考えることができる. 以上から,ラリヌム決議の文言に鑑みると,従来の研究では指摘されずにきた情報を加えることができる.従来の研究では auctoramentumの契約者を単に自由身分の者とみなしてきたが,同決議ではより詳細な,生来自由人や元老院議員および騎士身分の者が契約者として想定されていたことが読み取れる.

2.3.ラリヌム決議にみる自発性 ラリヌム決議の 6行目に「数年前になされた元老院決議の禁ずる通り」とあることからもわかるように,同決議が元老院議員および騎士身分の者が剣闘士になることを禁止した初めての決議ではない.ラリヌム決議以前には,前 46年,前 38年,そして前 22年に同様の規制が確認できる.まず,前 46年には元老院議員が(27),前 38年には元老院議員の息子が(28),前 22年には元老院議員の孫と騎士身分,両身分の家系の女性までもが規制の対象とされている(29).

そしてラリヌム決議では元老院議員および騎士身分の家系の者全般にまで押し広げられている.これらの決議は一貫して元老院議員および騎士身分の者が闘技場へ降り立つことを禁じており,時代を追うごとに規制の範囲が拡大されて

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いる. では規制が繰り返し決議されていることはどのように捉えることができるだろうか.もちろん,先行研究が明らかにしてきたように,当時は共和政末期の混乱した社会状況からの脱却が急務であったため,社会の中核を担う元老院議員および騎士身分の統制が目的であったことに疑いの余地はない(30).その一方で,剣闘士に軸足を置いた見方をすれば,また異なった様相が浮かび上がってくる.何度も繰り返し決議が出されていることから,それだけ決議自体が機能していなかったこと,つまり,元老院議員および騎士身分の者が aucto-ramentumを結び剣闘士試合へ出場することを抑制できなかったことが窺える(31).ラリヌム決議の 6行目には「元老院の威光を[減ずべき]欺瞞が働かれた」とある.この文言はそれまでに出された決議が何らかの理由で有効に機能しなかったことを示している.その具体的な内容は 12行目以下に言及されていると考えられる.この箇所で,元老院議員身分や騎士身分の者は自ら進んで破廉恥者の烙印を押されることや身分の資格審査によって元老院議員および騎士身分から除かれることで,決議に抵触し処罰されることを避けたとされている(32).ところで,破廉恥者と宣告され,制裁を科されるとは実際にどのようなことであったのだろうか.他の法史料からその内容を窺い知ることができる.彼らには劇場や円形闘技場などにおいて騎士席に座ることや(33),都市参事会へ加入すること(34),市民の共同墓地へ埋葬されること(35),訴訟において告発者および証人になること(36),が禁止されていた.また,これらの者が姦通を犯した場合,死刑が科されていたようである(37).こうした制裁,差別にも拘わらず,ローマ社会の元老院議員および騎士身分といったエリート層に属する者たちは剣闘士として闘技場に降り立つことをやめなかったのである(38).

 次に,17行目以降における一般市民への規制の分岐点となる 25歳という年齢に着目したい.生来自由人の男性で,25歳という年齢を法文という文脈で考えると,年少者という年齢区分との関係性が想起される.年少者とはユスティニアヌス『法学提要』をはじめ,『学説彙纂』や『勅法彙纂』において言及されている年齢区分の一種である(39).年少者は他の年齢区分に比べ比較的新しく導入された区分である.これには保佐 curaが大きく関係する.保佐とは法律行為能力が不十分である未成熟者等に対する保護職務および権力である.一般にローマ社会において自権者の幼児 infantesや未成熟者 impuberesといった者は自らの判断で法律行為を行う能力を有していないと判断され,後見人が付された.その一方で成熟者 puberes以降は後見人を必要とせず,自らの判断

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で法律行為を行うことができた.しかし,前 200年頃に(プ)ラエトーリウス法lex (P)laetoriaによって,成熟者ではあるが,25歳未満の者minores viginti quinque annis(年少者minores)にも保佐人が与えられることになった(40).その目的は年少者を欺く者から彼らを保護することにあり,その背景は年少の行為能力者がその無経験により損害を被る例が増大したことにある(41).つまり,25歳という年齢は経験に伴う判断力の有無の境界線として設定されたと考えられる.負傷はおろか,死の危険すらはらんだ剣闘士試合の特性を考えると,出場するにあたり判断力が認められる年齢に達した者のみが契約を結び得たのであり,彼らの意思が重視されていたと捉えるのが妥当であろう. この箇所は 25歳以上の自権者たる生来自由人の男性,20歳以上の生来自由人の女性であるならば,自らを剣闘士として雇用に付すことが可能,と解釈できる.元老院議員および騎士身分の家系に属さず,生来自由人の自権者である25歳以上の男性,20歳以上の女性には何ら法的な障壁が設けられていないのである.従ってこの箇所は禁止というよりはむしろ制限の性格が強いと言えよう.さらに,ラリヌム決議より 1世紀半ほど年代は下るが,マルクス・アウレリウス帝がその晩年に息子コンモドゥスと共に剣闘士興行の費用を削減するために公布した,後 177年のイタリカ決議には,護民官の面前で ‘sponte’「(自らの)意思によって」誓うという文言がある(42).この記述に鑑みると,剣闘士になるか否かの選択はその者の意思に委ねられており,志願者が自発的に闘技に出場していたことが窺える.

3.ラリヌム決議にみる規制の力点

 ラリヌム決議は剣闘士への差別に関する理解を深めるためにも有益である.規制の例外項目に注目したい.15行目から 16行目にかけては,たとえ元老院議員および騎士身分の家系に生まれた者であっても,既に舞台や試合に出場したことがある場合や,俳優,剣闘士,剣術師範,売春斡旋人の子孫である場合は規制の対象とならなかったことが明言されている.文脈上,ここで記されている俳優,剣闘士,剣術師範,売春斡旋人が一般的な俳優,剣闘士,剣術師範,売春斡旋人を指しているとは考えにくい.直前に元老院議員・騎士身分の者のうち,既に見世物に出演したことがある者を規制の対象外にしていることとの連続性に鑑みると,その子孫について言及していると捉えるべきであろう.そうすると,同箇所は過去に違反を犯した元老院議員および騎士身分の者とその子孫は規制の対象とならないことを意味することになる.また,ラリヌム決議

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の 17-19行目は生来自由人の 25歳未満の者への規制であるが,ここは先に指摘した通り,規制というよりはむしろ制限に近い性格のものであった. 従って,過去の違反は規制の対象外とするということや,生来自由人の者は年齢さえ満たしていれば,規制対象にならなかったことを踏まえると,ラリヌム決議においては未だ規制に背いていない元老院議員および騎士身分の家系に属する者の試合出場が問題視されており,一般市民が剣闘士になること自体は問題とされていない可能性が高い.剣闘士という職業が,元老院議員および騎士身分ではない一般市民にとって,より開かれた職業であったことが窺える.

お わ り に

 本稿はラリヌム決議に焦点を当て,その分析を行い,以下の考察結果を得た.先行研究では auctoramentumを結び得た者として自由身分の者が定説であったが,その下位区分たる元老院議員および騎士身分の家系に属する者や生来自由人といった者が auctoramentumを結び得る存在として認識されていたことが明らかとなった.そして差別や軽蔑を受けながらも,元老院議員および騎士身分の者の一部に剣闘士を志願した者がいたことが窺えた.また,生来自由人の男性に設けられた 25歳未満という年齢制限を検討したところ,その実は生来自由人の男性で自権者たる 25歳以上の者には何ら法的な障壁は設けられていないことが明らかとなり,生来自由人の者にとって年齢さえ満たしていれば剣闘士は開かれた職業であった可能性が推察される.さらに,ラリヌム決議に見られる例外規定に照らし合わせてみると,元老院議員および騎士身分の家系に属する者が試合に出場することが問題視されており,一般市民が剣闘士になること自体は問題とされていないことが窺える. 本稿での考察結果はおおよそ次のように理解できる.元老院議員および騎士身分の者の一部は,剣闘士という職業に身分や名誉に勝るとも劣らない価値を見出していた.そして一般市民にとって剣闘士という職業は開かれたものであった. 以上の結果は,剣闘士の理解に対する新たな疑問を生じさせる.すなわち,剣闘士は「差別されていた」のだろうかという問題である.先行研究では,しばしば剣闘士は賞賛と軽蔑という極端な二面性を有した曖昧な存在であると指摘されてきたが(43),少なくともこのラリヌム決議をみる限り,剣闘士そのものを差別しようとする動きは見受けられない.この問題については今後再検討が必要であろう.

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注 定期刊行物の略号は L’année philologiqueに,史料の略号は S. Hornblower, A. Spawforth and E. Eidinow(eds.), Oxford Classical Dictionary 4th ed., Oxford, 2012に従った.ただし例外として以下の略号を用いている.

CJ=Codex JustinianusColl. Mos.=Collatio legum Romanarum et MosaicarumCTh.=Codex Theodosianus

 ( 1) 研究動向については,梶田知志「剣闘士闘技(munera gladiatoria)研究百年史 ― 政治・文化史から社会・心性史へ」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第 4分冊』52,2007,21-29に詳しい. ( 2) 代表的な研究に G. Ville, La gladiature en Occident des origines à la mort de Domitien, Roma 1981 ; C. A. Barton, The sorrows of the ancient Romans : The gladia-tor and the monster, Princeton 1992 ; T. Wiedemann, Emperors and Gladiators, Lon-don 1992 ; D. G. Kyle, Spectacles of death in ancient Rome, London and New York 1998. 国内では,島田誠『コロッセウムからよむローマ帝国』講談社 1999 ; 本村凌二『帝国を魅せる剣闘士 ― 血と汗のローマ社会史』山川出版社 2011などが挙げられる. ( 3) 代表的な研究にM. Clavel-Lévêque, “L’espace des jeux dans le monde ro- main : Hégémonie, symbolique et pratique sociale,” Austieg und Niedergang der römischen Welt 2, Berlin 1986 ; J. Edmondson, “Public spectacles and Roman social relations,” Ludi Romani. Espectáculos en Hispania Romana, Mérida, Museo nacional de arte romano, Córdoba 2002, 41-65 ; A. Futrell, Blood in the arena : the spectacle of Roman power, Austin 1997 ; M. B. Hornum, Nemesis, the Roman state, and the games, Leiden and New York 1993. 国内では,佐野光宜「帝政前期ローマにおける剣闘士闘技の社会的機能 ― ガリア・ナルボネンシスの都市ネマウススの事例から」『西洋史学』230,2008,1-30 ; 佐野「帝政前期ヒスパニアにおける剣闘士競技」『西洋古典学研究』58,2010,37-48などが挙げられる. ( 4) V. Hope, “Negotiating identity : The gladiators of Roman Nimes,” in J. Berry and R. Laurence(eds.), Cultural identity in the Roman empire, London 1998, 176-195 ; Hope, “Fighting for identity : The funerary commemoration of Italian gladiators,” BICS, 44(S73), 2000, 93-113 ; M. J. Carter, “Gladiatorial ranking and the SC de pretiis gladiatorum minuendis(CIL II 6278=ILS 5163),” Phoenix 57, 2003, 89-100 ; Carter, “Gladiatorial combat : the rules of engagement,” Classical Journal, 102(2), 2006, 97-114などが挙げられる.国内では,梶田知志「Homo Pugnans ― 墓碑銘に見る剣闘士(gladiator)の生と死」『地中海研究所紀要』7,2009,31-41が先駆的に剣闘士の墓碑の分析を行っており,剣闘士が慣習的・法的見地からは理解できない「名誉,誇り」に関する意識を有していたこと,剣闘士間に人的紐帯が存在していたことを指摘する. ( 5) Livy, 28. 21. ( 6) Manilius, Astronomica, 4. 225. ( 7) Juv., 11. 3-8. ( 8) Hor., Sat. 2. 7. 58-61. ( 9) Cic., Off. 1. 150. (10) Tert., De spect. 22. 2.

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 (11) Sen., Ep. 37. 1. (12) Ville, op. cit., 344 ; Wiedemann, op. cit., 26-38. (13) CTh. IX. 35. 1 ; XV. 12. 2 ; Dig. III. 2. 2. 2. (14) Tabula Heracleensis(CIL I² 593=ILS 6085=FIRA I² no. 13), l. 112 ; Coll. Mos. IX. 2. 2. (15) Hor., Sat. 2. 7. 58-61 ; Petron., Sat. 117. 5 ; Sen., Ep. 37. 1. (16) Gai., Inst. III. 199. (17) SC de pretiis gladiatorum minuendis(CIL II 6278=ILS 5163), l. 62. (18) A. Guarino, Spartaco : analisi di un mito, Napoli 1979, 147-149 ; Guarino, “I gladiatores e l’auctoramentum,” Labeo, 29(7), 7-24. (19) C. Sanfilippo, “Gli auctorati,” Studi in onore di Arnaldo Biscardi I, Milano 1982, 181-192. (20) P. Sabbatini-Tumolesi, Gladiatorum paria : annunci di spettacoli gladiatorii a Pompei, Roma 1980, 101 ; O. Diliberto, Ricerche sull’auctoramentum e sulla con-dizione giuridica degli auctorati, Milano 1981, 85 ; Ville, op. cit., 246-255 ; M. G. Mosci Sassi, Il linguaggio gladiatorio, Bologna 1992, 78 ; Kyle, op. cit., 87. (21) とりわけMosci Sassi, op. cit., 78は元老院議員および騎士身分に属する者には決して auctoratusという用語は使われないとしている. (22) 訳出にあたり,本稿は B. Levickの読みに倣った.なお決議冒頭の形式的な部分および欠損が多く再構築の困難な 20-21行は紙幅の都合上省略した.

Levick, “The senatus consultum from Larinum,” JRS 73, 1983, 97-115.5 [-c. 6-] rum pertinentibus aut ad eos qui contra dignitatem ordinis sui in

scaenam ludumv[e prodirent? seve auctora-]6 [rent] u(ti) s(ancitur) s(enatus) c(onsultis) quae d(e) e(a) r(e) facta

essent superioribus annis, adhibita fraude qua maiestatem senat[us mi-nuerent, q(uid) d(e) e(a) r(e) f(ieri) p(laceret), d(e) e(a) r(e) i(ta) c(en-suere): ]

7 [pla]cere ne quis senatoris filium filiam nepotem neptem pronepotem proneptem neve que[m cuius patri aut avo]

8 [v]el paterno vel materno aut fratri neve quam cuius viro aut patri aut avo paterno ve[l materno aut fratri ius]

9 fuisset unquam spectandi in equestribus locis in scaenam produceret aucto-ramentove ro[garet ut ?in harena depugna-]

10 ret aut ut pinnas gladiatorum raperet aut rudem tolleret aliove quod eius rei simile min[istraret ; neve si quis se]

11 praeberet, conduceret ; neve quis eorum se locaret, idque ea de causa dili-gentius cave(n)dum [esset quod -c. 9-]

12 eludendae auctoritatis eius ordinis gratia quibus sedendi in equestribus locis ius erat aut p[ublicam ignominiam]

13 ut acciperent aut ut famoso iudico condemnarentur dederent operam et postea quam ei des [?civerant sua sponte ex]

14 [equ]estribus locis, auctoraverant se aut in scaenam prodierant ; neve quis eorum de quibus [s(upra) s(criptum) e(st) si id contra dignitatem ordi-]

15 [nis su]i faceret libitinam haberet, praeterquam si quis iam prodesset (sic) in scaenam operasve [suas ad harenam locasset si-]

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85剣闘士興行における auctoramentum

16 [ve na]tus natave esset ex histrione aut gladiatore aut lanista aut lenone.17 [?Quodque s(enatus)] c(onsulto) quod M(anio) Lepido T. Statilio Tauro

co(n)s(ulibus) referentibus factum esset scriptum comp?〈reh〉en[sum esset - ne cui ingenuae quae]

18 [minor qua]m an(norum) XX neve cui ingenuo qui minor quam an(norum) XXV esset auctorare se opera [sve suas ?ad harenam scaenamve]

19 [-c. 8-] s locare permitteretur, nisi qui eorum a divo Augusto aut ab Ti. Caesare Aug[usto in -c. 12-]

 翻訳にあたり,参照した研究は以下の通り. M. Malavolta, “A proposito del nuovo S.C. da Larino,” Studi pubblicati dall’Istituto italiano per la storia antica 27(Sesta miscellanea greca e romana), 1978, 347-382 ; Levick, op. cit., 97 ; W. D. Lebek, “Stan deswürde und Berufsverbot unter Tiberius : Das SC der Tabula Larinas,” ZPE 81, 1990, 37-96 ; Lebek, “Das SC der Tabula Lari-nas : Rittermusterung und andere Pro bleme,” ZPE 85, 1991, 41-70 ; C. Ricci, Gladia-tori e attori nella Roma giulio-claudia : studi sul senatoconsulto di Larino, Milano 2006, 59-76. (23) Levick, op. cit., 97 ; T. A. McGinn, “The SC from Larinum and the Repres-sion of Adultery at Rome,” ZPE 93, 1992, 274. (24) Levick, op. cit., 110-114 ; Lebek, “Das SC der Tabula Larinas : Rittermuste-rung und andere Probleme,” ZPE 85, 1991, 41-70 ; McGinn, op. cit., 273-295 ; Ricci, op. cit., 59-76. (25) 執政官名に加え,Dio Cass. 56. 25. 7に同様の内容がある. (26) 補いではあるが,おそらくここには女性の年齢制限についての言及があったとの見解は研究者間で一致している.女性の剣闘士の存在を裏付ける史料は少なく,しかも自由身分の者が auctoramentumを結び試合に出場していたことを裏付ける史料は皆無であるため,同箇所は非常に重要である.その詳細な検討は別稿に期したい. (27) Dio Cass. 43. 23. 5. (28) Dio Cass. 48. 43. 3. (29) Dio Cass. 54. 2. 5. (30) Levick, op. cit., 114. (31) 実際にカッシウス・ディオには規制が破られたと思われる事例が記されている.前 38年には先に述べた規制が出されていたにも拘わらず,元老院議員や騎士身分の者が剣闘士試合に出場したことが併せて記述され(Dio Cass. 48. 43. 3),また後15年にはドゥルススとゲルマニクスが開いた興行で,二人の騎士身分の者が戦ったことが記されている(Dio Cass. 57. 14. 3). (32) 同様の行為はスエトニウスの記述にも確認できる.cf. Suet., Tib. 35. 2. (33) Quint., Decl. 302. (34) Tabula Heracleensis, 108-112. (35) CIL I2 2123=ILS 7846. (36) Coll. Mos. IX. 2. 2 ; Dig. III. 1. 1. 6. (37) Coll. Mos. IV. 3. 2. (38) Tac., Ann. 15. 32. 5. (39) Inst. Iust. XXIV, pr.; Dig. IV. 4 ; CJ II. 21 ; V. 71. (40) RE, Suppl. 5 s.v. “lex Plaetoria”. なお Tabula Heracleensisにも同法についての言及があり,少なくともこの銅板が作成されたと思しき共和政末期までは(プ)ラエ

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トーリウス法も有効であったようである. (41) M. Kaser, Römisches Privatrecht : ein Studienbuch, München 1960, 63. (42) 上記注 17参照. (43) 上記注 12参照.

(東京大学)