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1 と合衆国:台湾編 考え え料 Eaphet Study Tour 2011, Taiwan 日南 台湾 台湾 台湾 台湾と 合衆国 合衆国 合衆国 合衆国 2011.08.15 台湾亜歴史資源交協会編 文責:/古川ちかし/阿川

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Eaphet conducted a study tour in Taiwan in August, 2011. This booklet provides backgrounds to understanding the US influences over east Asia from the turn of the century till the end of the cold war.

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東東東東東東東東アアアアアアアアジジジジジジジジアアアアアアアアととととととととアアアアアアアアメメメメメメメメリリリリリリリリカカカカカカカカ合合合合合合合合衆衆衆衆衆衆衆衆国国国国国国国国::::::::台台台台台台台台湾湾湾湾湾湾湾湾編編編編編編編編 考考考考えるえるえるえる材料材料材料材料

Eaphet Study Tour 2011, Taiwan

日本日本日本日本・・・・南南南南コリアコリアコリアコリア・・・・台湾台湾台湾台湾ととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国 2011.08.15 台湾東亜歴史資源交流協会編

文責:アウイ・カズオ/古川ちかし/阿川

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目次目次目次目次

第一章第一章第一章第一章 日本日本日本日本::::敗戦敗戦敗戦敗戦はははは民主的民主的民主的民主的なななな社会社会社会社会をもたらしたかをもたらしたかをもたらしたかをもたらしたか(A.K.) p3

1. 民主主義民主主義民主主義民主主義ってってってって何何何何だろうだろうだろうだろう p3

2. 「「「「特権階級特権階級特権階級特権階級」」」」のののの解体解体解体解体====平等平等平等平等のののの実現実現実現実現 p4

3. もうもうもうもう一度一度一度一度、、、、民主主義民主主義民主主義民主主義ってってってって何何何何だろうだろうだろうだろう???? P9

4. アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国がががが日本日本日本日本をををを民主主義国家民主主義国家民主主義国家民主主義国家にしたにしたにしたにした???? P10

第二章第二章第二章第二章 韓国韓国韓国韓国::::アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと冷戦冷戦冷戦冷戦(A.K.) p11

1. 朝鮮朝鮮朝鮮朝鮮のののの光復光復光復光復とととと、、、、南朝鮮南朝鮮南朝鮮南朝鮮のののの光復後光復後光復後光復後 P12

2. 朝鮮戦争朝鮮戦争朝鮮戦争朝鮮戦争 P15

3. 朝鮮戦争後朝鮮戦争後朝鮮戦争後朝鮮戦争後ののののアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと南南南南コリアコリアコリアコリア p17

4. 軍事独裁軍事独裁軍事独裁軍事独裁、、、、白色白色白色白色テロテロテロテロととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの援助援助援助援助 p18

最後最後最後最後にににに::::マッカーサーマッカーサーマッカーサーマッカーサーのののの銅像銅像銅像銅像をめぐるをめぐるをめぐるをめぐる攻防攻防攻防攻防 p22

第三章第三章第三章第三章 中華民国中華民国中華民国中華民国からからからから台灣台灣台灣台灣へへへへ::::蒋介石蒋介石蒋介石蒋介石ととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国(A.K.) p24

1. 中国中国中国中国とはとはとはとは何何何何かかかか p24

2. アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと国民党国民党国民党国民党 p27

3. 台灣台灣台灣台灣のののの事情事情事情事情 p31

4. 二二二二・・・・二八事件二八事件二八事件二八事件 p35

5. 光復直後光復直後光復直後光復直後ののののアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国援助合衆国援助合衆国援助合衆国援助 p38

6. 軍事独裁体制軍事独裁体制軍事独裁体制軍事独裁体制のののの確立確立確立確立 p39

7. アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの台灣援助台灣援助台灣援助台灣援助((((美援美援美援美援)))) p40

8. 台灣独立派台灣独立派台灣独立派台灣独立派 p41

9. ベトナムベトナムベトナムベトナム戦争戦争戦争戦争とととと台灣台灣台灣台灣 p43

10. 美麗島事件美麗島事件美麗島事件美麗島事件からからからから戒厳令解除戒厳令解除戒厳令解除戒厳令解除までまでまでまで p45

第四章第四章第四章第四章 物語物語物語物語・・・・歴史歴史歴史歴史をををを語語語語ることることることること・・・・聞聞聞聞くことくことくことくこと(A.K.) p48

1. 日本日本日本日本はははは唯一唯一唯一唯一のののの被爆国被爆国被爆国被爆国////一一一一つになろうつになろうつになろうつになろう日本日本日本日本 p48

2. 特権層特権層特権層特権層・・・・既得権層既得権層既得権層既得権層はなぜはなぜはなぜはなぜ壊壊壊壊れないかれないかれないかれないか p49

3. 冷戦終了後冷戦終了後冷戦終了後冷戦終了後のののの東東東東アジアアジアアジアアジアととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国 p51

▽▽▽▽東東東東アジアアジアアジアアジアのののの原発原発原発原発―台湾台湾台湾台湾のののの原発原発原発原発(古川) p53

▽▽▽▽緑緑緑緑のののの革命革命革命革命とととと原発原発原発原発(阿川) p58

3

東東東東東東東東アアアアアアアアジジジジジジジジアアアアアアアアととととととととアアアアアアアアメメメメメメメメリリリリリリリリカカカカカカカカ合合合合合合合合衆衆衆衆衆衆衆衆国国国国国国国国::::::::台台台台台台台台湾湾湾湾湾湾湾湾編編編編編編編編

Eaphet Study Tour 2011, Taiwan

2011.08.18-26

第一章第一章第一章第一章 日本日本日本日本::::敗戦敗戦敗戦敗戦はははは民主的民主的民主的民主的なななな社会社会社会社会をもたらしたかをもたらしたかをもたらしたかをもたらしたか

1. 民主主義民主主義民主主義民主主義ってってってって何何何何だろうだろうだろうだろう

戦争をした日本は「軍国主義」だった/戦後それが「民主主義」に変わった・・・私た

ちはそう教えられて育った。それは、でも、どういう意味なんだろう。

ちょっと理屈っぽく考えてみよう。民民民民

主主義主主義主主義主主義という思想を、具体的には『市民

的な自由・権利』(生存権、職業選択の

自由とか、住む場所の自由とか、移動の

自由とか)と『政治的な権利』(選挙・

被選挙権とか、言論・出版・集会の自由

とか)、そして平等の獲得だ、と考えてみる。そして軍国主義軍国主義軍国主義軍国主義(あまりいいネーミングでは

ないけれどとりあえず使っておこう)は、国家が人々の意思に関係なく戦場に送ったり死

なせたりするわけだから市民的自由が制限され、自由な選挙もないし言論も制限されるの

で政治的自由の制限があり、そし

て一部の特権階級の人達が富みと

権力をもつという意味で平等でな

かった。そんな風にイメージされ

る。

そうすると「日本は戦中までの

軍国主義から戦後は民主主義に変

わった」と言うためには、市民的・

政治的な自由と平等とが本当に実

現したのかどうかを考えれば、確

かにそうだ、とか、いやちょっと

それは違う、とか言えそうだ。

疑問疑問疑問疑問そのそのそのその一一一一::::警官隊警官隊警官隊警官隊にににに蹴散蹴散蹴散蹴散らされたらされたらされたらされた三里塚闘争三里塚闘争三里塚闘争三里塚闘争

上の写真は 1971 年に撮られた「三里塚闘争」の写真だ。三里塚というのは、今の成田空

港を作った土地の一部。国が勝手にこの土地に「新しい国際空港を作る」ことにして、そ

こで農業をしていた人達が反対しても最後には警察力で立ち退かせた。戦争が終わったの

は 1945 年だから、上の写真は戦後 26 年後の出来事を写している。「国が必要としているの

4

だから、あなたたちは自分たちの都合でわがまま言わないで従いなさい」というのであれ

ば、軍国主義と同じで市民的自由があるとは思えない。集会を武力で蹴散らすのであれば、

そこには政治的自由もないように見える。もし戦後に「民主主義への劇的な転換」があっ

たのなら、これはどうしたことなんだろう。

2. 「「「「特権階級特権階級特権階級特権階級」」」」のののの解体解体解体解体====平等平等平等平等のののの実現実現実現実現

フランスの市民革命では「自由・平等・博愛」っていうのが標語だった。それをお手本

に民主主義が作られてきたのだとすれば、自由の次に<平等>は相当重要だろう。

近代の前、前近代は封建社会とも言われるけれど、封建社会というのは身分制度がある。

西洋だったら王様がいて、貴族がいて、職人や商人がいて、農民や労働者がいる。王様の

子どもは王様や貴族になる。職人の子は職人になる。貧乏人の子は貧乏。そういうふうに

決まっている。事実はどうか分からないけど、そういう風に私たちはイメージしている。

フランス革命が「平等」を重要視したのは、それまでの封建的な身分制度を壊すためだっ

た。封建制を廃止して、すべての人を「市民」として平等にしようとした。

戦後のことを言う前に、ちょっとだけ明治以降の日本の歴史をおさらいしておこう。

日本は明治維新から近代化を目指して社会を作りなおそうとしたと言われるけれど、明

治維新は何よりもまず「「「「大政奉還大政奉還大政奉還大政奉還」」」」だった。「大政奉還」というのは、それまで武家が持っ

ていた権力を天皇に戻すという意味だ。つまり、明治に考えた「近代化」は、近代的な(フ

ランス的な)市民社会を作るということではなく

て、社会の構造としてはむしろ『想像上の太古の

昔(天皇中心の封建制)』に帰りつつ、そこに近代

的な技術や軍隊だけを接木しようとした。合言葉

は「富国強兵」であって、フランスの市民革命と

はまったく異なった。

「日本」は、天皇を中心としてその下に議会を

設置し、貴族制も残したまま普通選挙(納税者の

男性だけ)を実施し、初めての国家の軍隊を作り

出していった。明治政府は「部落民の平民化」というのは確かにやったけど、天皇や貴族

の特権を拡大したんだから、平等の実現からはまったく遠かった。

明治政府はまた「戦争政府」だった。日清戦争日清戦争日清戦争日清戦争((((1894-95))))、、、、日露戦争日露戦争日露戦争日露戦争((((1904-05))))にににに勝勝勝勝っちっちっちっち

ゃったゃったゃったゃったものだから、勢いに乗って止まらなくなってしまった。ちなみに台湾は日清戦争に

負けた清から日本に割譲されて、1945 までの 50 年間、日本の殖民地になった。日露戦争は

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朝鮮半島の利権をめぐる戦争だったから、これに日本が勝ったことによって朝鮮半島への

侵略が本格化して、1910 年に日韓併合(朝鮮を日本の殖民地にすること)となった。さら

に言えば、琉球と北海道が正式に日本に編入される(つまり植民地になった)のは、それ

ぞれ 1871 年と 1869 年だから、これも明治戦争政府の“功績”になる。もっとも私たちの教科

書では沖縄や北海道が「植民地」とは書かれていないけれど、それも変な話だ。

その後、短い大正時代を経て、昭和まで戦争国家が続く。その中で平等を実現しようと

いう運動もあったけど、とにかく富国強兵っていうのが最優先だから、女性の選挙権さえ

実現しなかった。(ちなみに女性の参政権は敗戦後に GHQ の主導で初めて実現!)

明治にできた大日本帝国

憲法では、天皇はとにかく絶

対権力を持ち、軍隊の統帥権

をもった。そうそう、平等に

ついてこの時代には面白い

ことを言った。「一視同仁一視同仁一視同仁一視同仁」

(いっしどうじん)っていう

言葉を知ってるかな。一視同

仁というのは『天皇の前では皆平等』という意味らしい。この時代の人に日本には人民の

平等はあるか、と質問したら『ある!天皇の前では、すべての人が平等だ!』などと答え

たのかもしれない。実際には貴族階級がいたし、大地主たちがほとんどの農地を所有して

いたし、商業も一部の財閥が牛耳っていたのだけれど。

この「一視同仁」という考え方は、その後の「大大大大

東亜共栄圏東亜共栄圏東亜共栄圏東亜共栄圏(左の図)」思想も支えた。北海道、琉

球、台湾、朝鮮を植民地化して、中国の東北地方

に満州国という日本の傀儡国家を作るんだけど、

そういう“外地”の人々を『日本は差別しませんよ、

一視同仁ですよ』などと言っていた。これも現実

には差別があったし、嘘ばっかりなんだけど。

疑問疑問疑問疑問そのそのそのその二二二二::::明治以降明治以降明治以降明治以降、、、、なぜなぜなぜなぜ侵略戦争侵略戦争侵略戦争侵略戦争をををを繰繰繰繰りりりり返返返返しししし

たのかたのかたのかたのか????

江戸が明治になって大政奉還が起き、出来た国

家が侵略戦争を繰り返す好戦的な国家になっちゃった、その原因は何なのか?

NHK や歴史の教科書では、それは外圧、つまり西欧からの圧力で鎖国し切れなくなり、

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植民地にされる危険があったから、というお話になるけど、そうなのかな。今でも「そう

だよ、だから日本が西欧と戦わなかったらアジア全部が彼らの植民地になっていただろう。

日本はアジアのために戦ったんだ!」などと言う人がいる。でも、日清戦争でも日中戦争

でも日本は中国と戦争してるし、西欧と戦争したのは末期の太平洋戦争だけじゃないの

か?

明治から国の富国強兵政策に協力して、例えば軍需産業で、例

えば軍隊の進出にともなって侵略地で資源を奪ったり、安くもの

を生産したりして、主に特権階級に属する財閥や商人たちは肥え

太っていった。たとえば、そうですね、元の首相の鳩山由紀夫の

母方の祖父は石橋正二郎さんと言って、ブリジストンの創業者だ

けど、彼は日本軍の侵略地であるインドネシアで大量のゴムをた

だ同然で入手している。こういう人達が今も日本では大企業(も

う財閥という言葉は古いけど)を所有し、財界を牛耳っている。

さて、敗戦後、この天皇を頂点とした(もとを辿れば)封建的な身分制度に根っこをも

つ日本の特権階級は解体されて、平等が実現したのだろうか。彼らは戦争で大もうけした

だけでなく、戦争そのものを推進してきた人達なんだから、占領軍が彼らを処罰しなかっ

たはずがない・・・みなさんは当然そう思うのではないだろうか。

東京裁判東京裁判東京裁判東京裁判・・・・戦犯戦犯戦犯戦犯

極東国際軍事裁判では A 級、B 級、C 級という三つのランクに分けて戦争犯罪人(戦犯)

が起訴され、裁かれ、刑を言い渡され、刑を執行された。A が一番悪い奴だ。

まず、とても不思議なことに、大日本帝国軍の総帥だった天皇は起訴もされていない。

その背景には戦争終結前からアメリカ合衆国内にはその後のソビエトとの冷戦を見越して

「天皇を排除すると社会混乱がおきて日本が不安定になり、革命でも起きたらソビエトの

思う壺だ。天皇には手を付けるな」という話があったそうだ。つまり封建的な特権階級の

筆頭である天皇家は温存された。

天皇を別格として A 級戦犯、28 人が起訴され、25 人が有罪判決を受けた。東条英機をは

じめ 7 人は絞首刑になるが、後に自民党総裁となる岸信介ら 19 人は突然釈放となる。(ち

ょっと計算が合わない理由は、病死が1人いたからだ。)えー、どうして?と思うのが普通

だろう。その理由を考えるためには、占領軍(GHQ)の政策転換―これを GHQ の「逆コー

ス」と呼んでいるが―について知っておく必要がある。

GHQ のののの逆逆逆逆コースコースコースコース

連合軍司令部(占領軍の本部、General Headquarter、GHQ と略す)は 1945 年の 9 月から

7

日本占領にあたり、「日本政府」が実質的な権力をもたなかった(ポツダム宣言受諾から連

合国との平和条約の締結までの)7 年間、日本を支配し改革すると同時に安定させる仕事を

した。分かりやすく言えば、敗戦処理なんだけど、当初は日本の作り直しのようなことを

考えていたらしい。

アメリカ合衆国は数年間、第二次世界大戦を「ヨーロッパの戦争」と考えて参戦しなか

った。それが 1941 年 12 月の真珠湾攻撃で日本との戦争に突入したのをきっかけに、ヨー

ロッパ戦線にも参入するようになった。戦争突入前に、アメリカ合衆国ではニューディー

ル政策という社会改革が進められてきていたんだけど、戦争になって改革は棚上げにされ

ていた。そんな背景があって、日本占領チームの中にはアメリカ合衆国で果たせなかった

社会改革を日本でやってやろう、というような意気込みをもった人達もいたらしい。

例えばこの時代に作ら

れた日本の生活保護制度

なんかは画期的なものだ

った。今でこそ形骸化し

てしまっているけど、当

時としては進歩的な制度

だった。婦人の参政権も

1947 年に実現した。同じ

年に、これも画期的な平

和条項を盛り込んだ日本

国憲法も発布された。農

地改革もやって、不在地

主を一掃した。軍隊を解体して、日本の軍備を廃棄した。実際、飛行機にガソリンかけて

燃やしたりした。

ところが、1948 年あたりから雲行きが変わってきた。GHQ の内部でニューディール派は

追いやられ、社会改革よりも日本を早く反共・親米社会として再建することが優先される

ようになった。労働運動は弾圧され、一度は解体した日本の軍隊を再建し、元 A 級戦犯の

公職追放が解かれ、アメリカ合衆国は冷戦においてアメリカの味方となる(子分となる)

国に日本を作り上げることに全力を傾けていった。その背景には、朝鮮半島の情勢が厳し

くなり、中国が共産化し、ソビエトの影響力が拡大していたことがある。日本を早く安定

させなくてはならない。社会改革を進めればきりがないだけでなく、新たな不満分子も出

てくる。不満分子が出てくれば社会が混乱する。社会が混乱すればソビエトにつけいる隙

を与える。もし GHQ が処理を誤って、日本が共産化するようなことになれば、アメリカ合

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衆国にとって太平洋は再び戦場となる。だから、アメリカもいい格好はしていられない。

戦犯であれ、戦争で大儲けした財閥であれ、現に権力をもっている人々と手を結んで、敗

戦後の混乱を手早く収拾することが最優先だということになった。これがいわゆる「逆コ

ース」だ。占領開始時点での社会改革コースから、逆に(180 度転換して)非常に保守的で

既存の特権層と手を結んで市民的・政治的自由を制限する方向に変わった。

A 級戦犯の公職追放という

のは、岸信介のように A 級戦

犯として起訴されながらその

後釈放されたものは、その後

公職にはつけない、という意

味だった。それが解除された

ことによって、A 級戦犯だっ

たにも関わらず、政治家や公

務員になることが可能になっ

た。(安部晋三の祖父でもあ

る)岸信介は、1952 年、日本

国の主権が回復すると同時に公職に復帰。その5年後には日本の首相になっている。1960

年の日米安全保障条約を無理やりに成立させたのがこの岸信介だった。岸には CIA から多額

の裏金が流れ、岸がそれを使ってヤクザや右翼を動員して安保反対のデモ隊を蹴散らした

エピソードはあまりに有名だ。

CIA が岸に目をつけて

援助したのは、まさに彼

が A 級戦犯だったからだ。

つまり、戦争中に A 級と

なるくらい、日本の支配

層に食い込んでいて、特

権階級に人脈をもってい

たがためだ。CIA の資金供与は自民党の結党から 1970 年代まで続いたといわれている。

CIA なんていう話をすると、なんだか映画みたいで現実味がないかもしれないけれど、第

二次大戦後のアメリカ合衆国が CIA を作った理由は、大戦後の国外工作を取り仕切るためで

あり、GHQ が解散した 1952 年以降、日本に対する工作のすべては CIA の管轄下にあった。

さて、経済界はどうかというと、GHQ は逆コースに入る前に「財閥解体」というのをや

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った。しかし、これは企業そのものを解体するのではなく、血縁関係にある家族で株の大

部分を保有するという体制を解体しただけだ。結果として、軍需産業も、商社も、資本そ

のものも工場も店も、解体はされていない。逆コースになると、日本の再軍備のためだけ

でなく、アメリカ合衆国が今後アジアで行うことになる戦争(朝鮮戦争はすぐ目の前に迫

っていた)の際に使うために、軍需産業を含む産業界は温存された。

疑問疑問疑問疑問そのそのそのその三三三三::::解体解体解体解体されなかったされなかったされなかったされなかった特権階級特権階級特権階級特権階級

その後の日本の政治家が戦前、戦中から続く二世、三世政治家であることがまず、日本

の特権階層が生き残っている(解体されなかった)証拠になるだろう。三井、三菱といっ

た財閥もまた、戦前、戦中から引き続いて財界を支配している。封建体制の分かりやすい

象徴であり、明治以来の戦争を導いた天皇(制)に至っては無傷で残った。

平等を実現するためには封建的な特権階級を解体することが絶対条件のはずだ。日本で

は、それがない。なのに、平等が実現した、とどうして言えるだろうか。

市民的・政治的自由の制限は、朝鮮戦争以降、もちろん徐々に解除されていった。でも、

前に見たように、1960 年の安保闘争、70 年代の三里塚闘争に代表されるように、その後も

「国家の(=日本の特権階層の)利益が優先!」という基本的な形は変わらない。イラク

への自衛隊の派兵問題でも多くの国民が反対の声を上げたが、国益優先で決着。論理で考

えたら、もちろんおかしい。

3. もうもうもうもう一度一度一度一度、、、、民主主義民主主義民主主義民主主義ってってってって何何何何だろうだろうだろうだろう????

さて、最初の質問に戻ろう。日本は敗戦を境に、軍国主義から民主主義に変わった―それ

はどういう意味なのか。

これまで考えてきたように、アメリカ合衆国の国益、そしてそれに従うのが日本の特権

層の利益つまり日本の国益 ― 国益同士がつながってほかのすべてに優先されて、今の日本

社会ができあがってきたと考えると、戦前と戦後はほぼ直線的につながっていて、民主主

義への大転換などどこにも見られない。

参政権がありますよ、移動の自由がありますよ、言論も自由ですよ、制度がこういう自

由を保証してますよ!ほら、なんて民主主義的でしょう!… そう言う人もいるかもしれな

い。でも、どんなに制度が完備しているように見えても、人々は日々変化し、差別が生ま

れ、不平等が生まれる。そんなとき、人々が声をあげ、社会がその声を無視せずに社会改

革へと常につなげていく… それが民主主義だろう。私たちが社会を変えることができる、

というのが民主主義だろう。

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例えばアメリカ合衆国の黒人には 1965 年まで政治的権利がなかった。それを黒人達が自

分たちで運動して公民権を「勝ち取った」。これは民主主義だ。(これはアメリカが民主主

義の国だと主張することとは違う。)日本にもそういう例はないことはない。が、安保闘争

や三里塚では、人々の声はヤクザ、右翼、警察によって蹴散らされた。日本で、上から与

えられた制度ではなく、人々が「勝ち取った」自由がどれくらいあるだろうか。

民主的な社会とは、人々が自分の力で社会を変えていき、その経験が受け継がれていく

社会だろう。子どもたちは、自分たちの力で権力のあり方を変えることができるというこ

とを親や大人たちを見て肌で感じながら育つ―それが民主的な社会だろう。

4. アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国がががが日本日本日本日本をををを民主主義国家民主主義国家民主主義国家民主主義国家にしたにしたにしたにした????

日本に民主主義があるかどうかさえ、今まで考えてきたように、よく分からないのに、

前アメリカ合衆国大統領ブッシュさんは 2005 年の戦勝記念日の演説で(イラクから兵を退

け、というアメリカ合衆国国内の批判に応えて)『アメリカ合衆国は日本に民主主義を作っ

た。イラクでもできる。』と述べた。これに対して日本の首相も政治家も「それは違う」と

文句を言った人は一人もいない。

学校では相変わらず「日本は戦争に負けて、それまでの軍国主義を捨て、民主社会にな

ったんですよ~」と教えているのだろう。また同時に、アメリカ合衆国軍隊が日本に(特

に沖縄に、とは普通は言わないけど)いるから、日本は戦後ずっと平和なんですよ~」と

も教えているのかもしれない。朝鮮戦争のおかげで、日本の産業界は特需景気に潤った。

ベトナム戦争のおかげで、また景気がよくなった。アメリカ合衆国からの援助によって、

日本の経済は他のアジア地域を凌駕した。それも学校では「日本人の勤勉さと努力と技術

力が奇跡の経済発展をもたらした」などと教えているのかもしれない。

さて、こんな風に書くと、最近の日本の風潮では「お前は自虐史観に立っている。もっ

と日本に誇りをもて!」と言われることだろう。こうした風潮は戦前の「非国民!」とい

う非難に似ている。歴史を考えるときに、国家利益に沿って、国家優先で考えなければな

らないとしたら、そのような歴史には早くさよならしよう。次章以下では韓国と台湾のこ

と、やはり主に冷戦期のアメリカ合衆国との関係を軸に。

東東東東東東東東アアアアアアアアジジジジジジジジアアアアアアアアととととととととアアアアアアアアメメメメメメメメリリリリリリリリカカカカカカカカ合合合合合合合合衆衆衆衆衆衆衆衆国国国国国国国国::::::::台台台台台台台台湾湾湾湾湾湾湾湾編編編編編編編編

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Eaphet Study Tour 2011, Taiwan

2011.08.18-26

第一章の復習

左の図にまとめ

てみたので確認し

てください。

第一章では「日

本」のことを明治維

新から今まで考え

てみた。

第二章第二章第二章第二章 韓国韓国韓国韓国::::アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと冷戦冷戦冷戦冷戦

第一章で見たように、アメリカ合衆国にとって、日本-朝

鮮-台湾を結ぶ線は、東アジアの防共ラインとして重要性を

もった。そこで優先されたことは、

①この地域の共産主義化を防ぐこと

②この地域を早急に復興して、貧困や政府への不満が爆発し

ないようにすること

③この地域に反共・親米の政権を可及的速やかに、かつ安定

的に作り出すこと

だった。当時のアメリカ合衆国の置かれた立場を考えると、

彼らの共産主義恐怖症(右のポスターに見られるような)も

理解できなくもない。韓国も、こうしたアメリカ合衆国の共産主義恐怖症の下に、日本と

似た状況下で、作られていった。本章では、その過程を少し細かく見ていこう。

12

朝鮮朝鮮朝鮮朝鮮とととと台湾台湾台湾台湾のののの共通性共通性共通性共通性

まず、上の表を見ると、朝鮮と台湾の 1945 年以降の歴史にはたくさんの共通性があるの

が分かる。

「光復」というのは朝鮮語でも台湾国語でも同じ言葉が使われるが、「祖国復帰」とか「主

権回復」といった意味。同じときに「光復」した理由は簡単だ。両方とも日本の植民地で、

日本の敗戦とともに「光復」したわけだ。

1947 年。台湾では 228 事件が起きた。これに対応するのは、南朝鮮で 1948 年に起きた4・

3事件と呼ばれる事件だ。これらについては後段で考えよう。

次に 1948 年から両方ともに軍事独裁が始まって、これも同じ 1987 年まで続いた。これ

についても後段で少し詳しく見ることにする。

とにかく、まずはびっくりしてください。なぜこんなにも似ているのか、と。

1. 朝鮮朝鮮朝鮮朝鮮のののの光復光復光復光復とととと、、、、南朝鮮南朝鮮南朝鮮南朝鮮のののの光復後光復後光復後光復後

朝鮮では何度も日本の支配に抵抗する大規模な運動が起きている。有名なのは、例えば

1919 年の三・一運動(三・一独立運動とも万歳事件とも呼ばれる)。日本に支配される直前

は、もちろん一つの独立した王国(ちょっともめていたけど)であったわけだから、異民

族に支配されることに対して住民の抵抗は最後まで根強かった。

13

1944 年の暮れから 1945 年にかけて、もう日本の敗色が濃くなったとき、朝鮮の人々の中

に「建国準備委員会建国準備委員会建国準備委員会建国準備委員会」というものが作られていったそうだ。村々には、この建国準備委員

会の支部みたいなものとして「人民委員会人民委員会人民委員会人民委員会」というのが作られていった。もうすぐ日本が

去る、その後で自分達の国を再建しなくてはならない、それを担うのは自分達だ、という

朝鮮の人々の強い感情が背景にあったのだろう。

果たして 1945 年 8 月 15 日に日本敗戦の情報

が入ってから一ヶ月と経たない 9 月 6 日、建国

準備委員会は「朝鮮人民共和国朝鮮人民共和国朝鮮人民共和国朝鮮人民共和国 The Republic of

Korea」の成立を宣言した。その二日後の 9 月 8

日、アメリカ合衆国軍が釜山に上陸してきた。

アメリカ合衆国は国連から、朝鮮が総選挙を行

って主権を回復するまで暫定的に南朝鮮を統

治する権限を得て、占領下の日本からやってき

た。左の写真には「アメリカ合衆国軍を心から

歓迎します。朝鮮人民共和国」という垂れ幕が

見える。

アメリカ軍はすぐに「在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁」というものを設置した。この

軍政庁が 9 月 11 日に『朝鮮人民共和国朝鮮人民共和国朝鮮人民共和国朝鮮人民共和国はははは非合法非合法非合法非合法でありでありでありであり、、、、認認認認められないめられないめられないめられない』と発表したので、

朝鮮の人々はびっくりした。アメリカ合衆国としては、”きちんとした”総選挙を行うまで、

どんな暫定的な政権も認めない、という立場だった。ここまでは理解できるのだが、アメ

リカ軍政庁はさらに「人民委員会」は共産主義者だとして解体を命じ、従わない地域では

強制解散させ、それでも抵抗するものは逮捕し

た。

その理由を想像するために、当時の朝鮮半島

の地図(右)を見てください。いわゆる 38 度線

を境にして北側をソビエトが、南側をアメリカ

合衆国が、国連から暫定統治権を得て暫定支配

していた。

ソビエト支配下の北の人民委員会(人民委員

会は南北を問わず全朝鮮に作られていた)に対

してソビエトは援助し、組織化していった。ア

メリカ合衆国としては、南の人民委員会と北の

14

それとが同調することを恐れた。北の人民委員会からスパイが南の人民委員会に紛れ込む、

という事態も想定された。そもそも人民委員会という名称自体、共産主義くさい… そうい

う事情があって、アメリカ合衆国の人民委員会潰しが進められたようだ。

南の人民委員会と建国委員会を作り上げた人々にとっては、日本支配が終わり、やっと

自分たちの国を作れると考えて喜んでいたところに、アメリカ軍がやってきて、あなたた

ちが勝手に作った国なんか認めない、人民委員会などという共産主義くさいものは禁止す

ると言ったわけだから、困惑を通りこして憤った人達も多かっただろう。でも、米軍によ

る人民委員会弾圧を歓迎した人達もいた。それは日本時代に、日本に協力して財をなした

人達や、地主などの金持ち、権力層に多かったようだ。これらの人々は、人民委員会が作

り上げようとする新しい社会体制下では、日本時代の罪を糾弾されたり財産を没収された

りするかもしれないと恐れた。そうでなくとも、一般民衆による政府の下では自分たちの

既得権を守れないと考えたのだろう。こうした人々を、とりあえず南南南南のののの旧支配層旧支配層旧支配層旧支配層と呼ぼう。

1946 年の 11 月になると、北では

ソビエトの支援を受けた金日成金日成金日成金日成が

北朝鮮臨時人民委員会委員長に就

任した。北の共産主義化は急速に進

行し、1947 年に入ると、北から全

財産を背負って南へと逃げる人た

ちが街道を埋め尽くした(左の写

真)。共産主義化したら、財産を没

収されてしまうことを恐れたのは

資本家、地主、金持ちたちだけではなかった。この写真に見るように、さしたる財産がな

い人達も多く混じっていた。こうした人達の中には、南に到達すると、米軍や南の旧支配

層と手を組んで、人民委員会の弾圧に加わる人も増えていった。かくして事態はどんどん

混乱していった。

そんな中、1948 年の 4 月 3 日、済州済州済州済州

島島島島でででで四四四四・・・・三事件三事件三事件三事件が起きた(左は四・三

事件の 63 周年慰霊祭と済州島の場所)。

済州島は本土から離れていたためにそ

れまで弾圧の手を逃れていた済州島人

民委員会が、北から来た若者たちで構

成される反共青年団や済州島および本

土から来た警察の手によって大量に虐

15

殺されたのだ。事件は数ヶ月に渡って続き、犠牲者は 3 万人とも 8 万人とも言われる。米

軍も(少なくとも指揮官は)直接これに加わった。マッカーサー指揮下の米軍政庁は、済

州島で共産主義者の暴動が起こったが鎮圧した、というような内部記録をしたものと想像

される。事件がマスメディアに流れることはなかった。

済州島から大阪に逃げた人々も少なくない。この事件を語ることは長い間タブーで、2003

年に盧武鉉が大統領として初めて「4・3事件」に対して謝罪するまでオープンに語るこ

ともできなかった。

1948 年の 5 月、アメリカ合衆国は南北統一選挙をあ

きらめ、南だけで選挙を行って李承晩(イ・スンマン)

政権を作り出した(右写真:マッカーサーと抱きあう

李承晩)。こうして南北の分断は決定付けられた。

李承晩は南朝鮮労働党などの共産主義者を鎮圧するこ

とを名目に掲げて 1948 年 12 月(日本の「治安維持法」をとも言われる)「国家保安法」を施行し、

1949 年 6 月 5 日には要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連

盟」を組織した。『転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調

者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟

に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かった

といわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係

な人物を登録することもあったともいう。』(Wikipedia「国民保導連盟事件」より)

李承晩は朝鮮独立運動家だが、日本統治時代のすべてをアメリカ合衆国で過ごし、1945

年の帰国時点ですでに 70 歳の高齢だった。彼はアメリカ合衆国の意を受けて最初から反共

統一を掲げた。まさにアメリカ合衆国が望む独裁者だった。日本の場合と同じように、し

かしここ南朝鮮ではもっと切実に、強引に国をまとめて共産主義(北朝鮮)をはじき返す

体制が必要だったのだ。李承晩はこのあと 1960 年まで、憲法を変えて三期に渡る独裁政権

を担うことになる。

2. 朝鮮戦争朝鮮戦争朝鮮戦争朝鮮戦争

1950 年 6 月 25 日、北朝鮮軍が 38 度線を越えてアメリカ合衆国軍(正式には国連軍)統

治下の南朝鮮に進撃してきた。いわゆる朝鮮戦争が始まったのだ。そらご覧、共産主義は

怖いよねえ、北朝鮮は何するか分からないよねえ… などと今の日本のマスメディアがこぞ

って言うようなことを思うかもしれないけれど、北の考え方は次のようなものだっただろ

う。

16

南はアメリカ合衆国軍に占領され、アメリカの支援を受けた旧支配層が人民を弾圧して

いる。アメリカ合衆国の傀儡政権を作って独立するつもりだ。このまま同胞を見捨てて自

分たちだけ「北朝鮮」を作って安穏と暮らすわけにはいかない。

―そう考え、それで軍事行動に出た。いわば義勇軍であり、決死の覚悟で「南の同胞」の救

助に向かったわけだ。勿論、その背後にソビエトも中国もいて、彼らにはアメリカ合衆国

との代理戦争を北朝鮮に戦わせようというような意図もあったのだろう。

とにかく北朝鮮の兵士は自分達に義があると考えていたから強かった。すごい勢いで南

を陥落させていって、アメリカ軍(正式には国連軍)は朝鮮半島最南端の釜山まで短時間

の間に追いやられた。このとき、アメリカ軍は形だけでも「南の人民を守らなくてはなら

なかった」(そのために国連から派遣されているのだ)から、釜山に向けて、多くの一般民

衆を連れて逃げるのだけれど、ノグンリノグンリノグンリノグンリ((((老斤里老斤里老斤里老斤里))))というところで一つの象徴的な事件が

あった。

朝鮮戦争のさなか北朝鮮軍の侵攻を防御していた、国連軍の一部であるアメリカ陸軍第

7 騎兵連隊所属部隊は忠清北道永同(ヨンドン)郡黄澗(ファンガン)面・老斤里の京

釜線鉄橋付近にいた韓国人避難民のなかに北朝鮮兵が混じっていると疑い、避難民を鉄

橋の上に集めて空軍機が機銃掃射を行い、逃げたものは米兵が追い詰めて射殺した。こ

のため約 300 名の韓国人民間人が虐殺された。長く伏せられていたが、1994 年に韓国

人生存者が著書を出版、1999 年 9 月 9 日 AP 通信が大々的に報道した。同年 10 月 29 日

在韓米軍が現地調査を実施し、2004 年には事件の犠牲者の名誉を回復する法案が韓国国

会を通過した。韓国における反米軍感情が高まる原因のひとつとなった。(Wikipedia よ

り)

とにかくなぜこんなことになったかと言うと、いくつかの

原因が指摘されている。(右は老斤里事件を最近映画化した

「小さい池」のポスター。)

その① 一緒に連れて逃げている民衆の中に北のスパイが

いる、という噂があったこと。

その② 米軍はそれまでの(硫黄島、沖縄、レイテ、マニラ

などの)戦闘で疲弊していて、それを補うため新たに補

充された米兵は戦闘の未経験者が多く、浮き足立ってい

たこと。

その③ 北の軍隊の猛攻に、民衆が足手まといになったこと。

(自分たちを犠牲にしてまで守る気持ちはおそらくな

17

かった)

当初、アメリカ合衆国政府は事件を否定していたが、元米兵テルロ・フリントやロバー

ト・キャロル予備役大佐らの新証言が出てきて米メディアが騒ぎ、1999 年 10 月 29 日、陸

軍監察官マイケル・エッカーマン中将を団長とするノグンリ事件真相調査団が現地を訪問

し、虐殺現場などを見て回った後「老斤里住民虐殺真相対策委員会」代表6人と面談。2001

年 1 月 12 日、両国政府が共同で発表した「ノグンリ調査報告書」は次のように述べている。

「1950 年 7 月、切迫した韓国戦争初期の守勢的な戦闘状況下で、強要によって撤収中

だった米軍は、老斤里周辺で数未詳の避難民を殺傷するか、負傷させた。…しかし、こ

れは戦争中にしばしばありうる偶発的な事件であり、当局の命令によって引き起こされ

た意図的な虐殺ではない」

これを受けてクリントン大統領は「老斤里で韓国の民間人が命を落としたことに深い遺

憾を表明する」との声明を発表した。アメリカ合衆国政府は老斤里に百万ドル規模の追悼

碑を建設し、遺族の大学生ら 30 人に奨学金を支給すると発表した。しかし、アメリカ合衆

国軍が南コリアの非戦闘員を殺した事件はノグンリに留まらないようだ。

朝鮮戦争時の米軍による住民虐殺は 14 ヶ所にのぼる。そのほとんどが 1950 年 7 月~8

月の戦争初期に集中しており、米軍の最終防御線であった洛東江の周辺地域で発生して

いる。(2001 年 10 月 26 日、金鍾泌首相の国会答弁)

「14 カ所」というのは政府が把握しているもので、民間の調査の中には 70~100 ヶ所、

死者も数千名から一万名に達すると報告しているものもあるそうだ。(北コリアでもアメリ

カ合衆国軍が 34 の地域で 17 万 2 千余人の非戦闘員を虐殺したという報告が『朝鮮社会科

学院歴史研究所』の資料に出てくるが、真相は闇の中だ。)

北コリアの侵攻の二日後の 6 月 27 日、李承晩は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑

するよう命令した。韓国軍、警察は大田刑務所、晋州刑務所などで保導連盟員の大虐殺を

行った。非戦闘地域の釜山・馬山・済州の刑務所で

も軍や警察が市民や囚人達を虐殺した。このときの

犠牲者の数は 20 万人と推定される。ここでもアメリ

カ合衆国軍が直接、間接的に関与していたことが分

かっているが、アメリカ合衆国に送られた報告書は

すべて機密扱いとなった。(保導連盟事件保導連盟事件保導連盟事件保導連盟事件)

朝鮮戦争前後に軍や警察によって虐殺された民間

18

人の総数を(居昌事件なども含めて)「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のため

の汎国民委員会」の報告は 60 万~120 万人としているが、それほどに数が分からないのだ。

その後、アメリカ軍も何とか持ち直し(そこにはまたマッカーサーがソウル奪回の英雄

として語られる【9.15 仁川上陸作戦仁川上陸作戦仁川上陸作戦仁川上陸作戦】今でも仁川【インチョン】の海を見下ろす公園にマ

ッカーサーの銅像がある)戦局はアメリカ軍、正確には国連軍にとって有利になる。この

国連軍の中には中華民国(台湾)軍も入っていた。国連軍は勢いに乗りすぎて 38 度線を越

え中国との国境にまで迫った。それが中国軍(人民解放軍)の参戦を招き、戦局は混乱し、

膠着状態、泥沼化した。トルーマン米大統領は、1951 年4月に連合国軍最高司令官だった

マッカーサーマッカーサーマッカーサーマッカーサーをををを解任解任解任解任して、中国、ソビエトとの休戦協定を模索し始め、53 年 7 月 27 日、停

戦協定が結ばれ、38 度線で暫定的に停戦という状態が現在まで続いている。(注意:朝鮮戦

争は終わっていない!)

3. 朝鮮戦争後朝鮮戦争後朝鮮戦争後朝鮮戦争後ののののアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと南南南南コリアコリアコリアコリア

「大韓民国(通称、韓国)」という言葉には注意が必要だ。大韓民国とは、日本に支配さ

れる前の朝鮮の国名だ。ここまで見てきたように、朝鮮はその後二つに分断され、アメリ

カ合衆国支援の下に南朝鮮政府が、ソビエトと中国の支援の下に北朝鮮政府が、それぞれ

作られた。その南朝鮮政府が大韓民国大韓民国大韓民国大韓民国((((韓国韓国韓国韓国))))という名称を名乗ることは『私たちこそ本

来の朝鮮だ』という主張に

なる。私たちが南を指して

「大韓民国、韓国」と呼ぶ

ことは、こうした政治的な

立場を追認、了承すること

になる。だから今でも南朝

鮮、南コリアといった【現

在の分断状態を意識し、南

北どちらかが正統だという

ような政治的な立場をとら

ない呼称】を使うほうが適

切だ、と考える人達も少な

くない。私(筆者)もその

一人なので、ここからは南

朝鮮を南南南南コリアコリアコリアコリアと呼ぶ。

米軍米軍米軍米軍のののの常駐体制常駐体制常駐体制常駐体制

1953 年 10 月、米韓相互

19

防衛条約が結ばれ、米軍が南コリア

に常駐する体制が作られた。日本の

安保条約は、日本の各地に米軍基地

を作り、米軍が常駐する法的根拠を

作っているけれど、それと同じこと

が南コリアで起きたわけだ。左は現

在の南コリアにある米軍関連施設の

地図だ。米軍基地は 38 度線に近いと

ころに集中している。

ちょうど沖縄のように、これらの

地域では米兵の犯罪を地元の警察が

取り調べも起訴もできないので、ときどき問題になっている。日本では日米地位協定(SOFA

=US-Jaoan Status of Forces Agreement)という協定をアメリカ合衆国との間に結んでいる。

米軍が常駐する地域では(常駐しなくても活動する地域では)ほぼ必ず同じような協定が

ホスト国との間に結ばれる。その内容は、ホスト国における米軍、米兵の地位、扱いに関

して特別扱いを約束するもの。米軍はその地域、その国の防衛のためにそこで活動するの

で、地元の法律から(ある程度)自由だ、というのだ。だから、例えば米軍の車両が一般

道路で交通事故を起こして人を殺しても、地元警察は米軍車両の運転手を逮捕もできなけ

れば、訴追もできない。米軍側は、そのような場合は、米軍事法廷で処理するとしている。

レイプ事件、窃盗事件、殺人事件、いろいろなケースがあるが、すべて米軍側で処理する

ので、地元警察には引き渡さない。レイプ犯が「一ヶ月の減給」くらいで済まされてしま

う。南コリアにもまったく同じ SOFA(US-Korea Status of Forces Agreement)がある。もちろ

ん、米軍基地に対しては住民の大きな反対運動があるのは、沖縄と同じだ。この地位協定、

フィリピンでは VFA(Visiting Forces Agreement)というのだけれど、やはり評判が悪い。

4. 軍事独裁軍事独裁軍事独裁軍事独裁、、、、白色白色白色白色テロテロテロテロととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの援助援助援助援助

1945 年から 1960 年まで李承晩(イ・スンマン)の軍事独裁が続く。この間、アメリカ合

衆国は総額 31 億ドルの援助金を、この軍事独裁政権につぎ込んだ。平均すれば一年に2億

ドル前後になる。そのほとんどは軍事費に消えた。北朝鮮、その背後にいるソビエトと中

国に対する「防共の最前線」である南コリアにアメリカ合衆国は援助を惜しんでいない。

アメリカ合衆国が必要としているものを李承晩が提供し続けるかぎりは、だ。アメリカ合

衆国が必要としているものとは、

①北側の侵入を許さない軍事社会(スパイ、怪しい奴は市民が通報!政府批判や社会運動

は一切許さない!証拠などなくても怪しいものは逮捕、拷問、処刑しても政府の自由!)

②南コリアの軍隊は基本的に米軍の指揮下に入ること

20

だった。

白色白色白色白色テロテロテロテロ、というのはこの①のような状態、つまり政府によるテロ行為を言う。南コリ

アでは、白色テロは李承晩李承晩李承晩李承晩((((イイイイ・・・・スンマンスンマンスンマンスンマン))))時代に終わらず、彼の後を継いだ朴朴朴朴正熙正熙正熙正熙((((パパパパ

クククク・・・・チョンヒチョンヒチョンヒチョンヒ))))、さらにその後の全斗煥全斗煥全斗煥全斗煥((((チョンチョンチョンチョン・・・・ドファンドファンドファンドファン))))と 1987 年まで続いた。(間に

任期の短い大統領が二人いるけど、それは省く。)

もちろん民衆の抵抗は何度も起きた。1960

年 4 月 19 日ソウルでの学生デモが市民 50 万

人の抗議行動に発展し、李承晩を引きずり降

ろした(4・・・・19 革命革命革命革命:左写真)

しかし、李承晩が退陣(アメリカ合衆国に

亡命)し、一時的に元ソウル市長を務めた尹

潽善(ユン・ボソン)が政権をとるが、10 ヶ

月後の軍事クーデター

によって新たな独裁者、朴朴朴朴正熙正熙正熙正熙(右写真)の政権が誕生した。朴正熙

は 1979 年に暗殺されるまで 20 年近く大統領の座に留まった。1972 年

からは戒厳令を敷いた。戒厳令(マーシャル・ローMartial Law)とは、

国民の権利を制限し、平時の法律を超越した力を軍に与えることだ。

軍隊が国の統治権をもつ、そういう状態を言う。その軍隊の統帥権を

持つのが朴正熙(下写真、左端)だった。

アメリカ合衆国からの援助金は 1960 年で途切

れていた。アメリカ合衆国としては朴正熙をどこ

まで信頼していいか分からなかった。朴は日本と

の繋がりの方が強かった。1965 年に日韓条約を締

結して、日本からの有償、無償合わせて 5 億ドル

の経済援助と引き換えに日本の戦争に関する賠償

責任を問わないことを約束している。(日本政府は

これを根拠として、度重なる慰安婦訴訟にも、強制連行訴訟にも「国としての賠償責任は

日韓条約において解決済み」とこれらを門前払いしている)。この 5 億ドルは、軍事予算と

同時に、南コリアの基幹産業にも投じられ、南コリアの経済発展にも多少の寄与をした。

南コリアの産業界の基礎は、アメリカ合衆国の 31 億ドル、日本の 5 億ドルがいろいろな形

で流れ込んだ石油化学産業と軍需産業にある。

ベトナムベトナムベトナムベトナム戦争戦争戦争戦争とととと朴朴朴朴正熙正熙正熙正熙

アメリカ合衆国と朴の関係は、しかし、南コリア軍のベトナム出兵によって若干の改善

をみることになる。ベトナム戦争は、日本と同様、南コリアにも物と金をもたらした。ア

21

メリカ合衆国軍にとって、南コリアは沖縄、日本と同様に重要な兵站基地だったのだ。(兵

站 logistics とは、戦闘行為そのものではなく戦争に必要な物的、人的、精神的支援全体を指

す。)

南コリア軍のベトナム戦争参戦は、1964 年当初は、医療支援団や教官等、約 270 名にす

ぎなかったが、1965 年 10 月には 1 万数千名を派兵して本格的に参戦した。1965 年から 73

年までの間、戦闘部隊約 30 万名が参戦し、

戦死者 4960 余名、負傷者 10 余万名を記録。

南コリア軍の派兵は、米軍に次いで多かった。

その理由は、「「「「派兵規模派兵規模派兵規模派兵規模」」」」にににに応応応応じたじたじたじた「「「「補助金補助金補助金補助金

とととと対米移民枠対米移民枠対米移民枠対米移民枠」」」」を得られたからだったという。

ベトナム戦争への南コリア軍派兵につい

ては、いろいろな話があるが、十数年前、

南コリアのハンギョレ新聞で「ごめんなさごめんなさごめんなさごめんなさ

いいいい、、、、ベトナムベトナムベトナムベトナム」というキャンペーンをやっ

た。自分達の軍隊がベトナムへ行って残虐

行為をしたことを謝罪しようという運動

だ。「住民虐殺」と「韓越混血児(ライタ

イハン)」が問題として問われた。確かに

さまざまな証拠が残っている。アメリカ軍の残虐行為も有名だが、南コリア軍のそれもま

た世界のメディアを驚かせた。そうした軍隊は、しかし、もともとは日本軍として訓練さ

れた軍隊だった。それが朝鮮戦争を通じてアメリカ軍の一部となってさらに訓練された。

アメリカ合衆国が作った軍事独裁の中で、軍隊こそ男の生きる場所というような空気が作

られた。そうした歴史の結果として、南コリア軍が非常に残虐な軍隊となっていたとして

も、その責任の所在は複雑だろう。(http://www.altasia.org/hangyore/hangyore01374_2.htm)

朴朴朴朴正熙正熙正熙正熙のののの暗殺暗殺暗殺暗殺、、、、光州事件光州事件光州事件光州事件

しかしアメリカの敗色が濃くなると朴はベ

トナムから徐々に手を引き始めた。最初から朴

に信頼を寄せていなかったアメリカ合衆国は

いよいよ朴に対する不信感を強めて行った。

1979 年 10 月 26 日、朴は自分が創設した KCIA

(韓国中央情報部)部長によって射殺、暗殺さ

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れた。その背後にアメリカ合衆国の影を見る人もいる。もともとはアメリカ合衆国が作り

出した南コリアの軍事独裁体制が、アメリカ合衆国の言うなりにならない。アメリカ合衆

国が支援している独裁体制が世界的に評判の悪い白色テロを行っている。アメリカにとっ

て朴正熙が邪魔になった。暗殺の背景に本当にアメリカがいるかどうかは、無論、闇の中

だが…

朴正熙の暗殺で、軍事独裁と白色テロは終わる…そんな期待に民主化運動は一気に高まり

を見せ、その状況は「ソウルソウルソウルソウルのののの春春春春」(1968 年のチェコの民主化運動「プラハの春」をもじっ

た呼称)とも呼ばれた。暗殺後の混乱の中で、しかし、12 月 12 日、ベトナム帰りの保安司

令官、全斗煥全斗煥全斗煥全斗煥((((チョンチョンチョンチョン・・・・ドファンドファンドファンドファン))))がクーデターを起こし、翌年の 5 月 17 日、全国に戒厳

令を出した。期待を裏切られた学生や市民が光州市で韓国軍と衝突し多数の死傷者を出し

たのが、いわゆる光州事件光州事件光州事件光州事件(1980 年 5 月 18 日)だ。9 月 1 日には全斗煥が大統領に就任し

て、南コリアは新たな白色テロ時代を迎える。後に大統領になる金大中金大中金大中金大中(キム・デジュン)

はこのとき、1980 年 9 月に内乱陰謀罪で死刑宣告を受けたが、その後減刑され、アメリカ

合衆国に追放された。

全斗全斗全斗全斗煥煥煥煥ととととロナルドロナルドロナルドロナルド・・・・レーガンレーガンレーガンレーガン

レーガンが米大統領に就任したのも 1980 年のことだった。レーガンが就任後、最初にホ

ワイトハウスに招いた外国首脳が全斗煥大統領だった(1981 年1月)、と言われている。つ

まりアメリカ合衆国が軍事クーデターで大統

領に成り上がった全斗煥と彼の政権を承認し

た、そういうメッセージが世界中に伝わった

(左は南コリアで大々的に宣伝された全斗煥

の米国訪問を記念する切手)。

これに対する異論もある。異論によると、ア

メリカ合衆国は民主主義の星であった金大中

の死刑判決に心を痛め、金大中の救命を繰り返

し南コリアに要求したが聞いてもらえなかった。そこに南コリア側からの提案があった。

レーガンが就任後最初に会見する外国首脳として全斗煥を招いてくれたら金大中を減刑し

よう、という提案だったという。この異論に従えば、レーガンは金大中を救うためにいや

いやながら全斗煥と会見したことになる。

いずれにしてもアメリカ合衆国は全斗煥政権を承認せざるを得なかった。朴よりは扱い

やすいと見たのかもしれない。しかし、すでに 1972 年に中国と国交を回復し(台湾を形式

上切捨て)ソビエトの資本主義化が目に見えて進んできていた 1980 年代に、アメリカ合衆

国としては全斗煥も、その軍事独裁者のイメージも、マイナスにこそなれ歓迎したいもの

23

ではなかったはずだ。必要なのは冷戦終了後にアメリカ合衆国の盟友としてクリーンなイ

メージを持ち、同時に自由市場主義を信奉する人材だった。もう反共、軍事というイメー

ジはいらないのだ。

全斗煥は、一方で反政府活動への過酷な弾圧を続けな

がらもそれをメディアには報道させず(裏の顔を隠しな

がら)、もう一方では経済立て直しに成功しオリンピック

を誘致したり(表の顔はアメリカも歓迎してくれる笑顔)

もした。そのオリンピックが開催された 1988 年に退任し

ている。(退任後に不正蓄財や光州事件の責任を問われ、

死刑判決を受けるが減刑された)これによって南コリア

で 16 年ぶりに大統領選挙が行われることになった。

盧泰愚盧泰愚盧泰愚盧泰愚とととと民主化宣言民主化宣言民主化宣言民主化宣言

選挙に勝ったのは盧泰愚(ノ・テウ:右写真)。彼もまた軍人上がり

だったが、ソウル・オリンピックを仕切った功績もあり、自分は今まで

の軍事独裁者とは違うと強調した。1987 年 6 月 29 日に民主化宣言民主化宣言民主化宣言民主化宣言を発

表、大統領の直接選挙制実施と金大中の復権を約束した。公式的には、

これをもって南コリアの白色テロ時代は終わったとされる。盧泰愚は中

国、ソビエトとも関係回復を図るなど、冷戦終了後の体制作りに端緒を

つけ、アメリカ合衆国の注文通りの動きをした。でも、汚職が発覚して 1993 年の任期終了

後に訴追され、光州事件への関与も問われ懲役刑をうけている。

最後最後最後最後にににに::::マッカーサーマッカーサーマッカーサーマッカーサーのののの銅像銅像銅像銅像をめぐるをめぐるをめぐるをめぐる攻防攻防攻防攻防

2004 年から 2006 年にかけて、アメリカ合衆国

と南コリアの関係を考えさせるような事件がお

きた。仁川のマッカーサーの銅像をめぐって、市

民が対立したのだ。

一方は銅像を撤去しろ、と言う。他方は守ると

言う。警官隊が出動して銅像を警備しなくてはな

らない事態(右写真の左側)にも至った。

撤去派はこう考える。『マッカーサーとアメリ

カ合衆国は自分達の利益のために朝鮮を南北に

分断した。それがなぜ偉人のように銅像になって我々を見下ろしているんだ!許せない』

と。守る派は、違った考えを持つ。『マッカーサー(アメリカ合衆国)がいなかったら南コ

リアはなくなっていた。全部が北朝鮮になっていた。その恩を忘れるわけにはいかない』

と。

さて、あなたは、どちらの意見に賛成しますか。(第二章、おわり)

24

東東東東東東東東アアアアアアアアジジジジジジジジアアアアアアアアととととととととアアアアアアアアメメメメメメメメリリリリリリリリカカカカカカカカ合合合合合合合合衆衆衆衆衆衆衆衆国国国国国国国国::::::::台台台台台台台台湾湾湾湾湾湾湾湾編編編編編編編編

Eaphet Study Tour 2011, Taiwan

2011.08.18-26

第二章第二章第二章第二章のののの復習復習復習復習

第二章では南コリ

アの光復後史につい

て、特にアメリカ合衆

国との関係を中心に

見ていきました。

左はその流れを大

雑把に図にしたもの

です。図の中では「韓

国」という呼称を使っ

ていますが、直すのが

手間なので、がまんし

てください。

台灣と南コリアの共通点につい

て覚えていますか?ちょっと、こ

れも確認しておきましょう。右の

表ですね。

この第三章では台灣のことを考

えていきますが、第一章で見た日

本の戦後史、第二章で見た南コリ

アの歴史を頭に置いた上で、台灣

のことを考えていきます。

25

第三章第三章第三章第三章 中華民国中華民国中華民国中華民国からからからから台灣台灣台灣台灣へへへへ::::蒋蒋蒋蒋介石介石介石介石ととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国

この第三章でも、まず最初に呼称は大きな問題だ。台灣の正式な国家名称は中華民国中華民国中華民国中華民国

Republic of China (ROC)だが、中華民国という国は 1911 年の辛亥革命によってそれまでの清

朝を倒して中国が共和国になったときの国名だ。中華民国の首都は今でも南京にある。も

ちろん今となっては、それは形式的でしかないが。この中華民国と台灣の関係はちょっと

複雑だ。

左は中華民国全図

だ。はっきり分からな

いかもしれないけれ

ど、台灣島は中華民国

のすごく小さな一部

分にすぎない。それが、

今では実質的には台

灣だけが中華民国だ。

この事情は後で考え

よう。

中国大陸には中華

人民共和国 People’s

Republic of China (PRC)が 1949 年に成立し、中華民国という国とは明確に区別される。

1. 中国中国中国中国とはとはとはとは何何何何かかかか

「中国 China」という呼称は国名としては今も過去も、一度も存在したことがないのだけ

れど、よく使われてきた。それが具体的に何を指すのかは、これも一

度もはっきりしたことがない。例えば「一つの中国」とか「二つの中

国」という言い方があるが、何を指して中国と言っているのか、まっ

たくはっきりしないのだ。それは民族なのか?民族で考えれば「漢族」

というのがあるといわれているが、清朝の支配層

は「満州族」であり「漢族」とは区別されている。

清朝以前の王朝には(現在の PRC の民族区分で言

えば)モンゴル族が支配した王朝もあった。チベ

ットや、あまたいる「少数民族」まで全部含めて「中国」だ、と言うと

したら、それはもう狭い意味でも広い意味でも民族的統一はないことに

なる。

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ということは「中国」という呼称は、やはり国家というか政治体制のまとまりを指すの

だろうか。そう考えないと「一つの中国」とか「二つの中国」という意味が分からなくな

る。中国とは、中元の国、つまり世界の中心にある国という意味らしいから、清朝をその

最後の王朝とする中華大帝国 Chinese Empire のことを指して長い間使われてきたのかもし

れない。近代の国民国家編成の結果、昔の帝国名と、新たに編成し直された国家名との間

に、混乱というか、何か気持ちの悪い関係が発生した。

これはアメリカ合衆国のことを「アメリカ」と呼ぶことが持っている気持ち悪さと、ど

こか似ている。アメリカという呼称は、新大陸の発見者と言われるイタリア人、Amerigo

Vespucci に由来するといわれているが、そうであれば南北アメリカ全体を「アメリカ」と言

うべきだろう。でもアメリカとだけ言うときには、それはアメリカ合衆国を指すのだ、と

一般に(日本語でもフランス語でも)理解されてしまう。第一章からここまで、この文章

ではずっと「アメリカ合衆国」という呼称を使ってきたが、その理由は「アメリカ」と言

うと何を指しているかはっきりしなくなるからだ。もっとも、最近は、少なくとも英語で

はこの問題について意識する人が増えてきているから、アメリカ合衆国を言うときに United

States:US という言葉が使われるようになった。これも、しかし、問題がある。メキシコも

合衆国なのに(United States of Mexico)、合衆国=アメリカ合衆国と言うことは失礼だろう。

中華民国中華民国中華民国中華民国とととと中華人民共和国中華人民共和国中華人民共和国中華人民共和国

中華民国の建国記念日は 10 月 10 日だ。1911 年 10 月 10 日、武昌で兵士たちによる清朝

に対する武装蜂起(武昌蜂起)がおき、それが清朝を倒す辛亥革命に発展し、中華民国が

成立した(1912 年 1 月 1 日)。

辛亥革命は、日本の明治維新とある面では似ているというか、明治維新は辛亥革命勢力

によってひとつのモデルとして使われたという。でも明治維新とはずいぶん違った。アヘ

ン戦争(1840)などを経て、西欧の勢力によって植民地化されることを憂慮した人々が、

無能な清朝を取り除いて西欧列強に抗する国を作らなくてはならないと考えた。封建的な

王族や貴族の支配体制を取り除く

という意味では民主化とも言える。

しかし、民衆の蜂起による革命とい

うよりも軍事軍事軍事軍事クーデタークーデタークーデタークーデター的な側面

が強かった。実際、辛亥革命の結果

として権力を握ったのは軍閥のボ

ス、袁世凱袁世凱袁世凱袁世凱だった(左は中華民国成

立を祝うポスター、左側に袁世凱、

右側に孫文)。革命の「顔」であっ

27

た孫文は、アメリカ合衆国滞在中に革命のことを聞き、いそいで呼び戻されて中華民国臨

時大統領に据えられたけれど、すぐに袁世凱にその職を譲っている。

中華民国というものを作ったのはいいが、袁世凱が病死する 1916 年まで、中華民国は旧

清朝の全域を実効支配できないままだった。さらに、軍事力による支配者、袁世凱の死後

は、ご他聞にもれず、軍閥同士がいがみあい、互いに優位に立とうとする混乱が始まった。

1915 年、大日本帝国は中華民国に対し

て不平等条約(対華対華対華対華 21 ヶヶヶヶ条要求条要求条要求条要求)をつ

きつけ、それが 1919 年に大きな抗日運

動である五五五五・・・・四運動四運動四運動四運動(右写真)を招く。

中華民国をそもそも建国した起爆剤とな

った「外からの侵略」に西欧に加えて日

本が加わったわけだ。

このままではいけない。危機感を新たにした孫文は 1919 年に

中国国民党中国国民党中国国民党中国国民党を作り、1921 年には後の国民政府の基となる革命政

府を広州で樹立した。この同じ 1921 年、ソビエトの支援を受け

て中国共産党中国共産党中国共産党中国共産党ができ、共産党は人民が支配する社会主義国家を作

るという理想を掲げ、共和制を掲げる中華民国と対立した(左写

真は中国共産党主席の毛沢東毛沢東毛沢東毛沢東)。孫文は、共産党も国民党も、と

りあえず外来勢力から中国を守るという点では利害は一致する

はずだ、という論理で共産党と協力関係(第一次国共合作)を作

ろうとした。

1925 年に孫文が死んだ後、国民党の主導権を握

ったのが蒋介石蒋介石蒋介石蒋介石(右写真)だが、蒋介石は共産党

と決裂してしまう(1927 年上海クーデター)。これ

でまたまた混乱が生じ、国民政府(中華民国政府

=国民党の政府=国民政府)は一時的に二つに分

裂してしまうが、蒋介石は混乱を1年ほどでとり

まとめ、1928 年 10 月 10 日に南京を首都とする国国国国

民政府成立民政府成立民政府成立民政府成立が宣言される。1911 年 10 月 10 日の武

昌蜂起から 17 年後のことだった。ところが本当の

混乱はこれからだった。

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1929 年、ソビエトが満州に侵攻。国民政府が紛争を解決するのに手間取っていた 6 ヶ月

間に、中国共産党は農村地帯を中心に勢力を拡大し、組織を広げていった。蒋介石は共産

党掃討作戦を展開するが、内戦は泥沼化していった。軍事面での近代化を必要としていた

蒋介石はドイツと手を組んだ。1928 年にはドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、

軍事顧問団を形成し、ドイツからの最新兵器を輸入する。中独合作中独合作中独合作中独合作だ。“合作”は中文で“協

力”の意味。この関係はナチスが台頭しヨーロッパが第二次大戦に入る前夜まで続いた。

1931 年の満州事変満州事変満州事変満州事変(日本軍が自作自演のテロ事件を口実に東北地方=満州を軍事占領し

た事件)は 1932 年の「満州国」の成立につながった。日本が清朝最後の皇帝を引っ張り出

して満州国の皇帝にすえて傀儡国家を作り出した話は、映画『ラスト・エンペラー』で皆

さんも知っているかもしれない。このような外来勢力による露骨な中国侵略に対して、一

時は決裂した国民党と共産党とが再び手を結んで対抗しようとした。第二次国共合作第二次国共合作第二次国共合作第二次国共合作だ。

1937 年、盧溝橋事件をきっかけに国民党政府と日本が本格的な戦争状態に突入する。(日

本は、しかし戦線布告せず、これを「戦争」とは呼んでいなかった。その理由はアメリカ

合衆国の政策にあった。アメリカ合衆国は戦争不戦争不戦争不戦争不

介入介入介入介入という政策を掲げていたから、もし日本が戦

争状態を宣言したら、日本に対する石油などの輸

出を全面的に止めることが予想された。今でこそ

「日中戦争..

」と呼ぶけど、当時の日本では「支那

事変..

」といった。)

①ソビエトが支援する共産党、②日本が支援する

汪兆銘政権(汪兆銘は蒋介石に敵対する国民党派

閥を代表、日本は国民党を内部分裂させるために

汪兆銘を支援したと言われる)、そして③アメリカ合衆国とイギリスが支援する蒋介石の国

民党、この三つの勢力がせめぎ合ったわけだ。

2. アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと国民党国民党国民党国民党

1898 年、スペインとの戦争に勝ったアメリカ合衆国はフィリピンを植民地にした。でも、

全フィリピンを制圧、特にフィリピンの南端のミンダナオ島はイスラム王国があり、それ

を制圧するのに 1915 年までかかった。アメリカ合衆国がフィリピンにてこずっている間に、

イギリスは清に香港を割譲させるなど中国侵入に成功していた。

アメリカ合衆国は気がついたら中国大陸の利権争奪戦に「出遅れ」ていた。そのアメリ

カ合衆国に、中国への扉を開いたのが蒋介石だとも言える。日中戦争を戦う上で、蒋介石

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はイギリスの支援を必要としたけれど、イギリスだけに頼ることはその後の中国でのイギ

リスの力を大きくしてしまって危険だ。そこにアメリカ合衆国という競争相手を入れてお

くことが、イギリスを牽制することになる。蒋介石はアメリカ合衆国に支援を要請した。

アメリカ合衆国は、戦争不介入、中立という国家政策をここでは都合よく忘れて(蒋介石

も日本も相互に戦線布告はしていなかったけど)、蒋介石国民党支援という既成事実を作っ

た(アメリカ合衆国議会は 1941 年 5 月「対中武器貸与法」を成立)。蒋介石が日本を追い

出すことに成功したら、アメリカ合衆国が日本に替わって中国の利権を狙える立場に立て

る。イギリスも同じことを考えていた。また、1937 年から 1941 年までアメリカ合衆国は、

アメリカ義勇部隊 AVG(American Volunteer Group)を組織し、新鋭戦闘機の供与、米国人パ

イロットの供与を行っていた。これもボランティアであって国としての行為ではない、と

いうのがアメリカ合衆国の言い分だった。

日 本 が 真 珠 湾 攻 撃

(1941 年 12 月 8 日)を

決断した背景には、アメ

リカ合衆国による蒋介石

への援助を断ち切って日

中戦争の局面を打開した

かったのではないか、と

言う人もいる。アメリカ

合衆国はイギリスととも

にいわゆる援蒋援蒋援蒋援蒋ルートルートルートルートを

通じて蒋介石国民党軍に石油や軍需品を送り続け、逆に日本に対しては石油の輸出を止め

た(1941 年 8 月 1 日)。写真は仏印援蒋ルート、英米が仏領ベトナムでフランスから物資を

買い、蒋介石のもとに送っていた。

真珠湾攻撃直後、アメリカ合衆国は日本に宣戦布告。蒋介石国民党も 12 月 9 日に日・独・

伊に対して宣戦布告し、連合国の一員として名乗りを上げた。結果、中国での内乱状態は、

第二次世界大戦という大きな流れの中に組み込まれることになった。この大きな流れの中

では、ソビエトはアメリカ合衆国と同じ側、つまり連合国だ。つまり、蒋介石の国民党も、

毛沢東の共産党も、バックにいるアメリカ合衆国とソビエトが仲間なのだから、大きな流

れの中では仲間になったわけだ。敵はとりあえず日本だ。

30

1942 年 1 月、アメリカ合衆国陸軍からジ

ョセフ・スティルウェルスティルウェルスティルウェルスティルウェルがががが蒋介石国民党軍蒋介石国民党軍蒋介石国民党軍蒋介石国民党軍

参謀参謀参謀参謀にににに就任就任就任就任した。左の写真:左から蒋介石、

宋美麗夫人、ジョセフ・スティルウェル。3

月には 5 億ドルの資金援助を行った。戦争

終結後の中国を代表するのは蒋介石国民党

だ、アメリカ合衆国はそう読んで、それま

で蒋介石を軍事面で支援してきたドイツに

代わって肩入れしていった。反共を掲げる

蒋介石は、戦後の冷戦体制においてもソビエトを押さえる力になるはずだ、と。

1943 年 11 月、カイロで連合国の対日方針を決

定する会議が行われ、有名なカイロ宣言が出され

た。右の写真がそのときのメンバー。左から蒋介

石、ルーズベルト、チャーチル。蒋介石が英米の

首相、大統領と肩を並べたこの写真は、英米が(特

にアメリカ合衆国が)蒋介石こそ中国の正統な代

表であると認めたことを印象付けた。

日本日本日本日本のののの降伏降伏降伏降伏、、、、第二次大戦第二次大戦第二次大戦第二次大戦のののの終結終結終結終結

日本の敗戦によって、中華民国は戦勝国となり国連の常任理事国となった。しかし、日

中戦争、第二次大戦という流れの中では手を組んできた共産党と国民党は、手を組む理由

がなくなったから新たな内乱に突入した。アメリカ合衆国の援助を得た国民党軍と、ソビ

エトの援助を受けた共産党軍は、ほぼ拮抗する兵力で対峙した。大戦後の米ソ代理戦争、

第一号だ。アメリカ合衆国が疲弊したヨーロッパへの援助に力をそがれている間に、共産

党軍は旧日本軍から武器を取り上げ、徐々に戦局は共産党軍有利に展開するようになる。

そしてついに 1949 年、共産党が中華人民共

和国の成立を宣言し、国民党軍は一時的に(と

称して)台灣に逃亡する事態に追い込まれた。

台灣には 1945 年 10 月 5 日、アメリカ合衆国空

軍の飛行機で 80 名ほどの先遣人員が乗り込ん

で準備をはじめ、24 日には陳儀自身が上海から

やはり米軍機で来台。翌 25 日、総督府から施

政権を引き継いだ。1949 年に、そこに大量の国

民党敗残兵とともに蒋介石率いる国民政府そのものがいわば「遷都」してきたのだ。(上写

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真:国民党を歓迎する台灣女子学生/右:

台灣に上陸する国民党兵)

国民政府にとって、台灣への撤退は一時

的なものだと考えられていた。「反攻大陸反攻大陸反攻大陸反攻大陸」

という標語を掲げ、いずれ近いうちに大陸

を奪回するのだ、と言い続けた。1949 年に

大陸各地から引き揚げてきた敗残兵の中

には、大陸に妻子を残してきたものもいた。

国民政府は彼らに、台灣での結婚を禁止し

た。そんなことをしたら台湾に根付いてしまう。いずれ反攻大陸するのだから、それを忘

れてはいけない!大陸を奪回したら、軍人たちにはこれこれの土地を与えると言って、結

果的に空手形になる証書まで発行している。

しかし、時間が経つうちに、反攻大陸は現実味を失っていった。

アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと、、、、遷都遷都遷都遷都したしたしたした国民政府国民政府国民政府国民政府

1949 年に中華人民共和国が成立するが、

当初、アメリカ合衆国はこれを承認せず、

これを孤立させ、封じ込める戦略をとった。

1945 年 9 月 2 日、アメリカ合衆国極東軍総

司令部(GHQ)は、

(イ)支那(満洲ヲ除ク)台湾及北緯

十六度以北ノ仏領印度支那二在ル日本

国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、

航空及補助部隊ハ蒋介石総帥ニ降伏スヘシ

という命令(GHQ 一般命令第一号 a)

を出している。先に触れた陳儀は、

カイロ宣言とこの命令を根拠に 10 月

25 日、台北で最後の総督、安藤利吉

から台灣の施政権を引き取った。(左

は、安藤【右】から降伏文書を受け

取る陳議【左】) 1949 年の 12 月に

国共戦争に敗退した国民党敗残兵を、

台灣海峡を越えて台灣まで輸送した

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のはアメリカ合衆国から援助としてもらい受けた舟艇だけでなく、そこには米海軍現役の

舟艇までも含まれていた。

この時点までは同じ連合国で戦った中華民国、蒋介石をこれまでと同じように支援し続

けているように見える。が、そこには微妙な変化が生まれていた。アメリカ合衆国の中で

蒋介石に対する意見が割れてきていた。

蒋介石は「中国は自分のものだ」という妄想にとりつかれた独裁者であり、これ以上ア

メリカ合衆国が彼を支援し続けることは国益に沿わない。中共の孤立化、封じ込め作戦が

功を奏したら、むしろ中共政府と何らかの妥協点を見つけて仲間に引き入れる道を模索す

べきだ。そのために中共が蒋介石を差し出せというのなら差し出すべきだ。… そういう意

見も出てきた。1949 年 8 月 5 日、米国務省は『中国白書』の中で、国民党政権の腐敗と無

能を指摘している。しかし、朝鮮半島の緊張が高まるにつれてこうした声は徐々に小さく

なった。

1953 年 1 月、アメリカ合衆国議会は台灣

防衛を決議し、2 月にはアメリカ合衆国海

軍第七艦隊が台灣海峡封鎖という挙に出た。

中共に対して、もし台灣を攻撃するなら、

アメリカ合衆国が相手だと思え!という警

告を発したわけだ。1950 年 6 月、朝鮮戦争

が始まり、中共の人民解放軍がこれに参戦

(左の写真)してきたとき、蒋介石切捨て

論は潮が引くように後退していったかに見

えるが、アメリカ合衆国の内部には燻り続

けた。

3. 台灣台灣台灣台灣のののの事情事情事情事情

今までは、1911 年に南京で誕生した中華民国が共産党や日本と戦って、日本には勝った

ものの共産党には敗れて、台灣を接収、1949 年にはその台灣に大挙して押し寄せた… と、

まあ、こういう話をしてきた。でも、その間

ずっと、台灣にも台灣の人々が住んでいて、

台灣には台灣の事情というものがあった。

1895 年、日清戦争に勝利した日本は、清

朝に台湾を割譲させ、植民地を作る。右の絵

は台灣割譲を決定した下関条約(中文では馬

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関条約)。台北は無血開城したが、抗日運動は何度も起きた。

台灣島は、清朝時代には「化外(けがい)の地」と言われたくらい、中華帝国から見れ

ば辺境のそのまた辺境の地だった。

17 世紀にオランダ東インド会社が(今の台南

に)ゼーランジャ城を設け、ここを拠点に東ア

ジア交易を行おうとしたことがあるが、中国本

土での戦乱の結果、(国民党と同じように)一

時的に台灣島に逃げてきた鄭成功の軍によっ

て追い出されてしまった。それが 1660 年くら

いの話。鄭成功軍がいることによって、それま

で恐れられていた台灣原住民たちからも守っ

てもらえるということで、福建省などから移民

が台灣島に来るようになった。

以来、台灣は、原住民、福建からの移民(閔南あるいは福老人)、客家人などによって人

口が増えていった。もっとも、原住民は移民たちによって土地を奪われ、平地に住んでい

た原住民は移民に同化、山地だけが彼らの居住区として残されたのだが。

日本が台灣を植民地にした理由は①南進基地として地の利があったこと、そして②資源

が豊富だったこと、だとされる。南進南進南進南進((((あるいはあるいはあるいはあるいは南進北鎖南進北鎖南進北鎖南進北鎖))))というのは、字義通り、南へ

勢力を拡大していくことで、これは②の資源問題と密接に絡んでいた。南には日本に不足

している資源が豊富にある。例の「富国強兵」には欠かせない資源と領土の拡大を南に求

めたのだ。台灣の主に資源は、当時戦争に欠かせない火薬、それも無煙火薬の原料であっ

た樟脳。そして米、砂糖などの食料、石炭、木材など。

日本の 50 年の支配は、山地の原住民にいたるまで日

本語で教育を受け、日常生活で閔南語(台灣語とも言う)

を使う人達でも書き言葉は日本語しか分からないとい

う人たちを作り出した。(右の写真は霧社の原住民 Sediq

の女性が当時の日本警察の前で日の丸を掲揚しようと

しているところ、1930 年代後半と思われる)

日本統治下の台灣は基本的には閉ざされていて、1911

年の中華民国の成立なども(一部の知識人を除いては)

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一般民衆の知るところとならなかった。1900 年初頭から上海を中心に展開されていった民

主化思想、社会主義運動などの情報は、日本の総督府によって遮断されていた。

台湾台湾台湾台湾のののの社会運動社会運動社会運動社会運動

第一次世界大戦が終わり、ロシア革命(1917)、アメリカ合衆国大統領ウィルソンの「十

四か条の平和原則」(1918 年、アメリカ合衆国議会での演説、『民族自決』を謳ったことで

有名)、中国の五・四運動/朝鮮での三・一運動(1919)などが、連続して起きた。

そんな中、1921 年、台湾

人の社会教育を行うという

(総督府向けの)趣旨で

『台湾文化協会台湾文化協会台湾文化協会台湾文化協会』が設立さ

れた。林献堂林献堂林献堂林献堂(下)、蒋渭

水、連温卿といった当時の台湾人エリートが設立メンバーだった。台湾文化協会は、精力

的に民衆の教育活動を行い、後には 1920 年代から簡吉簡吉簡吉簡吉(下写真)の指導の下に組織化され

てきた農民解放運動ともつながっていった(簡吉は後に総

督府に逮捕され 11 年間投獄された)。台湾文化協会自体は

社会主義運動という体裁はとっていないが、日本支配の下

でエリートだけが制限された知識を享受していた時代に、

民衆教育、農民教育に力を注ぎ、ある意味で“台湾人意識”

を培養していく力となった。台湾文

化協会は同じ 1921 年に始まった台台台台

湾議会設置運動湾議会設置運動湾議会設置運動湾議会設置運動の母体でもあった。

この台湾文化協会には、後に台湾共産党結成に参加する謝雪紅謝雪紅謝雪紅謝雪紅(左

写真)も加わった。謝雪紅は 1919 年に自分の目で大陸の五・四運動

を見て、台湾に戻った人物だ。1928 年、謝雪紅は林木順らと上海で「台台台台

湾共産党湾共産党湾共産党湾共産党」を結党した。「台湾共産党」は、当時のコミンテルン(ソ

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ビエトが主導する共産党の国際組織)の“一国一党主義”の下では「日本共産党台湾支部」と

された。台湾共産党は日本の弾圧に 3 年間耐えたが 1931 年 6 月に主要幹部が逮捕され活動

停止に追い込まれている。

台灣台灣台灣台灣にとってのにとってのにとってのにとっての光復光復光復光復

第二章では朝鮮で、光復に際して「自分達の手で国を作ろう」という運動があったこと

を見た。台湾でも同じことがあった。

50 年間の日本統治があった。抗日運動はことごとく潰されてきた。1920 年代に盛り上が

った台湾人による民族自決、台湾人自治の思潮は、日本が去った後には「自分達の手で国

を作ることができる」という期待につながっていた。

南コリアでそうした期待を潰したのはアメリカ合衆国軍という外国の軍隊による占領だ

った。台灣では中華民国による接収と、国民党軍という(外国の、と言い切れないところ

に問題の複雑性があるのかもしれないが)軍隊による占領だった。自分たちの知らないと

ころで台灣が中華民国に売り渡されてしまった、そう感じた人も当時の知識人には少なく

なかったかもしれない。祖国に復帰だ!と単純に喜んだ人も、もちろん少なくなかっただ

ろうが。光復は期待と不安が混じる中、進められていった。

1945 年 10 月、謝雪紅は台中で人民協会及び農民協を設立した。しかしこれらの組織は国

民党の台灣統治行政官だった陳儀によって即時に解散させられた。

台灣独立運動家で当時日本にいた廖文毅は、台湾の光復に「台灣独立」の好機を見て台

灣にもどり、国民政府機関で働き始めたが、日本統治下で台湾人が受けていた種々の差別

的な待遇が中華民国統治下でも変わらないことや、中華民国の台湾統治機関の腐敗ぶりに

すっかり幻滅したという。

今でも語り継がれている光景というか、お話がある。基隆の港で最初の国民党軍を迎え

た台湾人たちの前に、船から降りてきたのは一国の正規軍とはとても思えないぼろぼろの

服を着て鍋釜を腰にぶら下げた乞食の集団だった、という話だ。まだある。国民党が支配

してから始まった学校では、台湾人の教師が首にされ、代わりに大陸から連れてきた教師

と称する人たちが教え始めたが、彼らは九九(掛け算)さえろくに出来なかった… 役人た

ちの腐敗振りはものすごく、何でも賄賂によってしか動かなかった… そういったお話で

“台灣人”のおじいさん・おばあさんは盛り上がるのだ。

光復までの台灣は「台灣円」を通貨としていたが、国民政府は台灣接収後に、1台灣円

を1台灣元とし、大陸の通貨だった法幣との交換レートを固定した。これは第一に大陸からの

移入品の値段を押し上げた。第二に大陸のインフレを台灣に波及させる効果をもった。1年もし

36

ないうちに台灣経済は極度の悪化を見せた。そこに、大量の留学生、軍人、軍属の(日本や日本

の前線から)帰還があった。さらに事態を悪化させたのは、台灣の米が(国共戦争を戦う国民党

のために)大陸に移出され、台灣が食料難に陥ったことだった。悪条件が重なって、30 万人と

も言われる失業者が路頭に迷う事態になった。

1946 年 3 月、台湾人知識人たちは「人民自由防衛委員会」を組織し、これはたちまち台湾

各地に波及したそうだ。林茂生は当時『民報』の社説で「もはや台湾の法と秩序の維持は、

完全に警察に任せられない状況にあり、光復して間もない今日、人民は自衛措置をとらざ

るを得ない」と論じた。こうした台湾人側の認識と、「台湾人民は長期にわたり日本の統治

下におかれたため、政治意識が退化しており自治能力を欠く、、、、、、、、、、、、、、、、、、

」(1947 年 1 月陳儀発言)とし

て 1946 年 12 月に制定された中華民国憲法の台灣への適用を先延ばしにすることを発表し

た陳儀の認識との間には、大きな隔たりがあった。二二八事件は、こうした状況下で起き

た。

4. 二二二二・・・・二八事件二八事件二八事件二八事件

1947 年 2 月 27 日、台北で事件が起きる。

国民党が台灣を接収してから煙草・酒・塩な

どの専売権は総督府から国民党に移った。こ

れらの販売には国民政府の許可が必要だっ

た。人々は当然、闇市場を作った。そんな“闇

煙草”売りの女性に対して、国民政府の官憲

が暴力を振るい、周りの群集が止めに入った

ところで官憲の持つ銃が暴発(故意に発射と

いう説もある)、群集に死者が出た。これが

群集の暴徒化を生み、群衆が官憲を追いかけ

て膨れ上がっていった。翌 28 日、抗議のデモ隊が市庁舎へ押しかけたところ、国民政府

の憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行っ

た。事件は収拾がつかなくなっていく。台

灣人デモ隊は台北のラジオ局を占拠し、軍

艦マーチ(日本の軍歌だ)にのせて日本語、、、

で、『台湾人よ、立ち上がれ!』と全国に放

送した。(と、まあ、こんな感じに「語られ」

る。)

国民政府、陳儀は大陸の蒋介石に援軍を

要請、蒋介石は 3 月に入って第 21 師団と

37

憲兵隊を大陸から援軍として派遣し、鎮圧にあたった。日本時代に高等教育を受けた台湾

人エリートは狙い撃ちにされ、暴動に関わったかどうかの証拠もなく逮捕・拷問、そして

処刑されていった。台湾人側も、日本語や台湾語(閔南語)で話しかけても答えられない

ものは敵とみなして暴行、殺害するなど、双方に多くの死傷者を出した。ちなみに台湾人

を「本省人本省人本省人本省人」(中華民国台湾省出身の人間)と呼び、大陸から新たにやってきた人を「外省外省外省外省

人人人人」(台灣省以外の省の出身者)と呼ぶ呼び方があるが、それを使うなら、本省人と外省人

が殺し合い、その後長い間続くことになる省籍対立省籍対立省籍対立省籍対立を作り出したわけだ。本省人犠牲者は

約 3 万人と言われるが、外省人犠牲者数は分かっていない。先に触れた『民報』の林茂生な

どは逮捕された後に即刻処刑され、遺体は麻袋に詰められて、淡水河に捨てられたという。本

省人は家族や親戚がいるから誰がいなくなったか、誰が殺されたか、分かりやすい。外省

人は大陸から単身で来ているものが多く、いなくなっても分からなかったのではないかと

思われる。

南投縣埔里は、謝雪紅の率いた二七部隊を中心とした国民政府に抵抗する勢力が最後の

戦いに敗れた場所だ。謝雪紅は台中にあった旧日本軍の倉庫から盗み出した航空服と白い

マフラーを纏い、颯爽と同じ服装の若者たちを率いていたそうだ(霧社の葉綉清さん談)。

事件後、謝雪紅は花蓮港から上海に脱出している。

二二八事件二二八事件二二八事件二二八事件のののの意味意味意味意味

陳儀は蒋介石に対して援軍を要請する電報で『政治的な野望を持つ台湾人が大台湾主義

を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている』と書き『組織的反乱だ』と訴えている。本

省人側の話は、上で見たように、ちょっと違う。事件の原因は(廖文毅が言うように)日

本統治下で台湾人が受けていた種々の差別的な待遇が中華民国統治下でも変わらず、国民

政府の腐敗ぶりに本省人の怒りが爆発したということだったのかもしれない。

しかし、そう説明してしまうと、

台湾人は国民政府に対して、日本

統治に対して感じた怒りをぶつけ

た、という風に聞こえる。日本の

統治も、国民党の統治も、同じよ

うに反発すべきものだった、とい

う風に聞こえる。もしそうであれ

ば、「台湾人よ、立ち上がれ」とい

うラジオ放送を日本語でしかでき

なかったことは、植民地支配が作り出した皮肉というか、捩れ(ねじれ)だ。支配者の言

葉でしか支配に抵抗することができない、と。こうした言い方はちょっと単純すぎる。

38

国民党国民党国民党国民党はははは大陸で日中戦争を戦って、その戦争には(連合国の一員として)勝利した。自

分たちは中国を解放した、という自負がある。ついでに、台灣も解放した、と自負してい

る。しかし、国共内乱はまだ続いている。これに勝利しなければ、大陸は今度は共産党と

いう(国民党にとってはソビエトに洗脳された外来の)怪物に支配されることになる。台

灣がこの戦いに持っている戦略的な意味は小さい。小さいけれど、最後に逃げ込む場所と

しては確保しておきたい。ところが、台灣の連中は、大義の戦争を戦っている国民党に対

して反旗を翻した。彼らは一体何を考えているのか。答えは一つだ。彼らは共産党に洗脳

されつつあるのだ。共産党のスパイが台灣にもぐりこんで人々を扇動しているのだ… 国民

党にとって二二八事件は国共内乱=共産党との戦争の一環だった。

台湾人台湾人台湾人台湾人にとってにとってにとってにとっては、そんな国民党の気持ちを押し付けられても、そもそも応えられるわ

けがない。中華民国が「自分たちの国」だということさえ、理屈では分かるかもしれない

が、実感はないのだ。同胞と称する外省人たちが支配者としてやってきたけれど、彼らの

言っていることは(中国語だ言うけれど)分からない、言葉がそもそも通じない。彼らの

態度は、台湾人を馬鹿にしている。日本の方がまだ「まし」だった。『犬が去って豚が来た!』

と。

アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国にとってにとってにとってにとって、事件はどういう意味をもったのだろうか。アメリカ合衆国軍

は、当時東京の GHQ を拠点に、朝鮮情勢の悪化を見守っていた。南コリアにも北コリアの

スパイ網が張り巡らされ、洗脳された人々が人民委員会などというものを組織して共産化

を狙っている。そんなとき、蒋介石が押さえたはずの台灣で民衆蜂起が起きた。蒋介石の

説明ではそれも共産主義勢力が引き起こしたものらしい。翌年には南コリアでも四・三事

件が起きるが、それをアメリカ合衆国軍政庁はメディアに流さず、いわばもみ消している。

共産主義は怪物だというイメージを維持しようとするとき、そう言っている自分たちが住

民虐殺や言論の弾圧を行っているようなイメージが公になってはいかにもまずい。二二八

事件は、そのアメリカ合衆国の盟友である蒋介石が直接関わって弾圧を行った事件として

世界に報道されてしまう。中共に対して台灣を守ることは必要だが、蒋介石を支持し続け

ることは得策ではない。

前(9 ページ)でも触れたが、アメリカ合衆国の内部には反蒋介石の言説が出てくる。前

述のように 1949 年 8 月 5 日、米国務省は『中国白書』の中で、国民党政権の腐敗と無能を

指摘した。1950 年 8 月 25 日、アメリカの国連代表グロス(Earnest A. Gross)は国連で、蒋

介石国民政府について「旧連合国の台湾占領軍であるに過ぎない」と発言、つまり蒋介石

国民政府が台灣の正統な統治権を持つという主張に不快感を表している。アメリカ合衆国

にとって、蒋介石は一種のジレンマとなる。(南コリアの一連の“独裁者”がアメリカ合衆国

にとってどんどんジレンマとなっていった事情を思い出してください。あるいはアメリカ

合衆国が肩入れした後、自ら排除せざるを得なくなった、サダム・フセインその他の“独裁

39

者”を思い出してください。)

社会運動社会運動社会運動社会運動とととと二二八事件二二八事件二二八事件二二八事件

1920 年代から盛り上がってきた民主化運動(この文章の中で考えている民主主義とは何

かに関しては第一章を参照してください)は、当時、社会主義と密接な関係があった。共

産主義的な色が濃かったといってもいいが、それは今では誤解を生む可能性が高いかもし

れない。当時の社会運動家一般には、共産主義に対して「独裁」とか「全体主義」とか怪

物的なイメージはない。

戦争が終結し、植民地が“解放”され、人々が自分たちの手で自分達の社会を作ろうとした

とき、それは「共産主義者の陰謀」として弾圧された。でも、台湾の社会運動が(そして

南コリアの社会運動もまた)共産主義化、つまりソビエトの傘下に入ることにつながった

かどうか、はっきりと断言することなど誰にもできない。アメリカ合衆国の公式見解とし

ては、しかし、断言するだろう。私たちは東アジアの共産化を防いだのだ、と。台灣の社

会運動は当時まだ未成熟だった、もし国民党が統治していなかったら共産勢力に飲み込ま

れていただろう、と。南コリアも同じだ。日本も同じだ。これらの地域の社会運動を成熟

へと導いた功績は、主にアメリカ合衆国にあるのだ、と。

5. 光復直後光復直後光復直後光復直後ののののアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国援助合衆国援助合衆国援助合衆国援助

まず人々の記憶に残るのはララ物資

だった。ララ(LARA; Licensed Agencies

for Relief in Asia:アジア救援公認団体)は

アメリカ合衆国のキリスト教団体が戦

争で荒廃したアジア復興支援のために、

さまざまな物資をアジアにばら撒いた。

日本にも来ている。台灣にも来ている

(右写真はララの小麦粉)。

貧困貧困貧困貧困はははは共産主義共産主義共産主義共産主義のののの温床温床温床温床 ― 第一章で紹介した言葉だが、これはアメリカ合衆国の冷戦戦略

の標語的なものだった。二二八事件では、なぜ共産主義につけこまれてしまったのか。そ

れは長期に渡る日本支配の下で台灣の人民、特に農民が貧困状態に置かれ、不満が高まっ

ていたためだ。それを解決するためには、まず封建的な土地所有制度を改革する必要があ

る。つまり、農地改革だ。

アメリカ合衆国は占領下にあった日本でも 1947 年に農地改革を実行している。1949 年か

らは南コリアで同じ趣旨の農地改革を実施。台灣では 1948 年、アメリカ合衆国援助で作ら

40

れた「中国農村復興連合委員会」を実行母体とし、前年の日

本の農地改革にも携わった米国務省のウォルフ・レジンスキ

ーを顧問として農地改革(三七五減租三七五減租三七五減租三七五減租)が実施された。実体

は、小作料の大幅な引き下げであり、国民党がすでに大陸で

行った改革をほぼそのまま台灣にもってきただけのものだっ

た。アメリカ合衆国も国民党も「我々は台灣人民の福利のた

めに頑張っています」という宣伝の要素の方が強かったかも

しれない。それでも本来であれば台灣内に(主に地主からの)

反発があってもおかしくない改革だったが、二二八事件で戒

厳令がしかれ、軍による武力支配の下、何の抵抗もなく改革

は実施された。

6. 軍事独裁体制軍事独裁体制軍事独裁体制軍事独裁体制のののの確立確立確立確立

1948 年 5 月 10 日、国民政府は「動員散乱時期臨時条款動員散乱時期臨時条款動員散乱時期臨時条款動員散乱時期臨時条款」を

中華民国憲法修正条項として追加した。この条項は、本来は臨

時措置である戒厳令をその後 38 年間続行する憲法上の根拠を

与え、言論統制権、反政府運動家の任意逮捕権など、独裁政権

維持に必要な法的根拠を与えた。(2001 年の 911 直後にアメリ

カ合衆国で作られた「愛国者法」も、これと似たようなものな

のだが、さしたる抵抗もなくアメリカ合衆国社会に受け入れら

れた。これは余談ですね。) 10 日後の 5 月 20 日には、蒋介石

が中華民国の第一期総統(第一代大統領)に就任した(右写真)

が、国共内戦の只中であり、同じ側に立って戦っている軍閥か

らも総統選びの手続きがフェアでないと反発が強まったため一年後に辞任。しかし、台灣

に撤退した後の 1950 年、再度総統に就任し、それから死ぬまで(1975 年)25 年間、5 期に

渡って総統の座に留まった。台灣ではこの時期を(今だから言えることだけど)白色テロ

の時代と呼ぶ。

1948 年 9 月 1 日、廖文毅は国連に対して台灣台灣台灣台灣のののの信託統治信託統治信託統治信託統治をををを求求求求めるめるめるめる請願請願請願請願を行った。台湾を

国連の信託統治下におき、台湾の帰属または独立を台湾人の投票で決めるよう訴えたのだ。

国際世論にはこれを認める動きもあったが、アメリカ合衆国としてはこれを認めることは

台灣の不安定化を招き、防共ラインをゆるがせることになる。そのアメリカ合衆国が牛耳

る国連がこれを認めることはなかった。

こうして 1949 年 5 月 20 日、戒厳令が敷かれ、独裁体制が出来上がり、白色白色白色白色テロテロテロテロのののの時代時代時代時代

がががが始始始始まったまったまったまった。

41

7. アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの台灣援助台灣援助台灣援助台灣援助((((美援美援美援美援))))

この時期、日本の GHQ は「逆コース」(第一章参照)に入っていた。本格的な冷戦体制へ

向けて東アジアを再編成する仕事にアメリカ合衆国はとりかかった。

急いで台灣での事態の展開だけ記すと、こうなる。

朝鮮戦争勃発直後の 1950 年 6 月 27 日、アメリカ合衆国は「台湾海峡の中立化(台灣中

立化)」を宣言して第七艦隊を台湾海峡に派遣した。翌 1951 年 1 月、台湾への軍事援助を

開始し、2 月には米国と共同防衛相互援助協定共同防衛相互援助協定共同防衛相互援助協定共同防衛相互援助協定を調印。5 月にはチェイス少将(William Chase)

を団長とする約 5 百名のアメアメアメアメ

リカリカリカリカ軍事顧問団軍事顧問団軍事顧問団軍事顧問団が台灣に来て

常駐。1954 年 12 月には米華米華米華米華

共同防衛条約共同防衛条約共同防衛条約共同防衛条約を締結。アメリ

カ合衆国は台灣防衛にのめり

こんでいった。左の写真は台

北、楊明山に置かれた『美國

軍事援助顧問團( Military

Assistance Advisory Group -

MAAG)』の MAAG Taiwan。

アメリカ合衆国内部に蒋介石に対する懐疑派がいたこと

は前にも触れた。台灣防衛は必要だが蒋介石は要らない、簡

単に言えばそういう議論だ。朝鮮戦争と、それへの中共軍の

参戦はこうした懐疑派の力を減少させ、反共十字軍における

蒋介石のそれまでの功績を賛美する世論が大勢を占めるよ

うになった。その背景にはチャイナチャイナチャイナチャイナ・・・・ロビーロビーロビーロビーChina Lobby と

呼ばれる活動があったとも指摘される。「チャイナ・ロビー」

とは国民政府からの金を使ってアメリカ合衆国議会に対して「蒋介石を徹底的に支持せよ」

という活動を行ったロビー活動のことだ。その資金源の詳細は明らかではないが、蒋介石

が大陸から持ち込んだ(盗んだ、という人もいるが)資金、貴金属、美術品などの売却費

用や、1945 年以降もゴールデン・トライアングル(中国南国境からラオス、カンボジア、

ビルマの北方に広がる麻薬地帯)を拠点に活動していた国民党軍が麻薬売買で得た利益が

チャイナ・ロビーに廻ったという説もある。

1950 年 11 月のアメリカ合衆国議会中間選挙において、蒋介石支持派の(赤狩りで有名な)

ジョセフ・マッカーシー(次頁写真)やロバート・タフト、リチャード・ニクソン、ホー

マー・ケープハートらが上院で勢力を伸ばした。タフトは、アメリカ合衆国は蒋介石の反

攻大陸を許可すべきだと主張。ケープハートに至っては、アメリカ合衆国は中共に宣戦布

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告すべきだとまで主張した。こうした反共勢力

の台頭が、先に述べたアメリカ合衆国の台湾へ

の軍事支援再開へとつながった。

アメリカ合衆国が1945年から1960年までに

台灣に与えた経済援助経済援助経済援助経済援助((((美援美援美援美援))))は、1950 年ま

では主に非軍事の経済援助だったが、朝鮮戦争

後は、防衛支持援助、つまり軍事費に変わって

いる。1950-51 年には 9 千万ドル、51-53 年に

約 3 億ドルが供与されている。その後、ベトナム戦争前の 1960 年ころまでにアメリカ合衆

国が拠出した経済援助は約 11 億ドルののぼり、全部合わせて約 15 億ドルが蒋介石に流れ

込んだわけだ。台灣はこの大部分を軍事費に使ったが、関連した石油化学産業、また原子

力開発にも“おこぼれ”が回され、“奇跡の台灣経済復興”を下支えした。

8. 台灣独立派台灣独立派台灣独立派台灣独立派

こうしてアメリカ合衆国の関心が台灣社会から蒋介石=国民党へと移り、台湾人社会は

(国連に対する信託統治請願が切り捨てられたように)見捨てられていった。

二・二八事件を切り抜けた廖文毅は、香港へと渡り、謝雪紅と「台湾再台湾再台湾再台湾再

解放連盟解放連盟解放連盟解放連盟」を設立した。そして、1950 年には更に日本へと渡り、台湾独台湾独台湾独台湾独

立党立党立党立党を設立した。廖文毅は台湾の前途を決める公民投票を実施することを

求め、1955 年に台湾共和国臨時政府台湾共和国臨時政府台湾共和国臨時政府台湾共和国臨時政府を樹立して自らその大統領を務め、

政府機関紙「台湾民報」を創刊して台湾独立を訴えていった。1960 年、

日本で「台灣青年」が発刊され、いわゆる台灣独立派(台独派)の機関紙

的な存在となった。台独派は 1960 年 4 月、赤坂プリンスホテルで記者会

見を開き、日本のマス・メディアに「台灣独立」という文字が初めて躍った。

台独派台独派台独派台独派とととと日本日本日本日本のののの右右右右・・・・左翼左翼左翼左翼

白色テロ全盛の時代、台独派は台灣には住めなかった。

多くが日本に逃げた。悪名高い“国民党のブラックリスト”

に名前が載った人達はもちろん、その家族まで国民政府の

厳しい監視の下に置かれていた。

1965 年、廖文毅が台灣独立運動を放棄し「台湾に帰順」、

というニュースが伝えられた。その背景には国民党の特務

機関と当時の日本政府の働きがあったことは明らかだが、

43

詳細は明らかになっていない。

1965 年時点では、日本政府の中にはまだ戦後戦後戦後戦後のののの親台派親台派親台派親台派が力を持っていた。親台派とは、

反共の立場から、蒋介石と中華民国政権に対して好意的だった人達―たとえば賀屋興宣、岸

信介、佐藤栄作、石井光次郎ら自民党保守派の政治家や旧日本軍人を指す。旧日本陸軍軍

人の中には、日中戦争を通じて日本軍の実力を高く評価していた蒋介石の招聘により台湾

軍の軍事顧問となった者もいる(白団)。

中華人民共和国が成立(1949 年)して、占領下の日本に

は、今後、大陸と台湾のいずれの政府と講和条約を締結する

かという問題が生じた。1950 年の朝鮮戦争の勃発により、

中国とアメリカ合衆国の関係が決定的に悪化したためもあ

り、日本は 1952 年に台湾を選択し日華平和条約を締結する。

このとき、蒋介石は『日本は戦火で荒廃して金もないのだか

ら中国(中華民国)は戦争被害への賠償請求権を放棄する』

というようなことを言ったそうだ。これに恩義を感じただけ

でなく、日本では終戦時の蒋介石政府による寛大な処置(日

本軍のスムーズな引き揚げを保証したこと)に恩義を感じて

いる人々が大陸からの引き上げ者や元軍人にたくさんいた。

彼らの代表が保守派の政治家の中で親台湾派親台湾派親台湾派親台湾派====親蒋介石派親蒋介石派親蒋介石派親蒋介石派を形成していたのだ。(右上の写

真は日本の千葉県にある蒋介石の記念碑)

台独派が、なぜそのような状態の日本で活動できたのか。GHQ が逆コースに入って反共

路線がむき出しになっていく中で、日本の知識人の中に新たに形成された戦争反対派は

1949 年の中華人民共和国の成立をもろ手を挙げて歓迎した。日本は間違った戦争をして中

国を侵略した、その中国が今、自力でアメリカ合衆国帝国主義と戦って独立を果たした―そ

う考えて、その“米帝(アメリカ合衆国帝国主義)”によって守られた反共・親米の独裁者で

ある蒋介石国民党に対して批判的な人達もいたのだ。これを仮に「左翼」と呼ぶとすると、

前段で説明した親台派(親蒋介石派)が「右翼」ということになる。留学生を受け入れる

大学において左翼が力を持ち、受け入れ行政機関である外務省や入国管理局において右翼

が力を持ち、それらの思惑が絡み合う間隙を縫って、台独派留学生たちは日本の大学にか

ろうじて籍を置いていた。

台独派が日本で「旗揚げ」したことに対して、日本の行政当局内部にはこれを牽制して

蒋介石国民政府をなだめる必要があった。廖文毅の台灣帰順騒動の背景には、さまざまな

綱引き、駆け引き、裏取引―陰謀めいたことがあったのではないか。

44

台灣独立派の戦中からの中心人物である廖文毅が台灣帰順した後を引き継いだのが、先

にも触れたが、「台灣青年」を立ち上げた許世楷許世楷許世楷許世楷や黄昭堂黄昭堂黄昭堂黄昭堂、金美齢金美齢金美齢金美齢および夫の周英明周英明周英明周英明などの

次世代だった。廖文毅帰順事件以後、日本において右翼の台独派いじめは激しくなる。1964

年 6 月、許世楷、黄昭堂ら 7 人が、台灣青年社に潜入した国民党のスパイを査問した件で、

警視庁に逮捕された。有罪判決を受けたものの、しかし強制送還にはならなかった。日本

警察は蒋介石の顔色を見て逮捕・拘留はしたものの、彼らを蒋介石に引き渡してしまった

ら左翼の猛反発を招く。蒋介石の側も、この時期の日本でことを荒立てることを不利と見

た。1967 年には林啓旭と張榮魁の強制送還未遂事件が発生するが、このときも送還は行われな

かった。ところが翌 1968 年 3 月、柳文卿が逮捕され翌日に送還されるという事件がおき、案の

定、左翼を中心にメディアから批判が出た。不当強制送還として台灣青年側は訴訟を起こし、裁

判の中で入管局長が蒋介石と密約を交わしていたことが明らかにされた。台独派の強制送還は柳

文卿事件を最後に、その後は行われなくなった。

日本日本日本日本のののの左翼左翼左翼左翼にとってのにとってのにとってのにとっての「「「「台灣人台灣人台灣人台灣人・・・・台灣社会台灣社会台灣社会台灣社会」」」」

ここまで、日本の左翼は台独派を支援したという印象を持つかもしれないが、正確に言えば、

そうではなかった。彼らは、反蒋介石、反米という点では台独派を歓迎するものだったが、台灣

独立という台独派の主張の根幹には共鳴していない。なぜなら、(これも前に言ったけれど)中

華人民共和国が正当な中国だ、と考えていたからだ。台独派が蒋介石政権に反対して、中共と一

体化した台灣を作り出すことこそ正しい、単純に言えばそうなるだろう。だから台湾人が“台灣

独立”という方向に進むことは、アメリカ合衆国帝国主義に踊らされている、と見たのだろう。

台独派の主張の中には、台灣も韓国と同じようにアメリカ合衆国の支援の下に独立できるはずだ、

という主張が確かにあった。左翼にとって台独を信奉する台湾人は、自分達の祖国(大陸)で人々

がいかに社会主義を勝ち取ったかという歴史も知らず、独裁者に騙され、アメリカ合衆国に洗脳

されている“哀れな人々”に見えたのかもしれない。左翼にとって台灣は中国の延長でしかなく、

台灣が独自に辿ってきた歴史にも、その社会にも関心は薄かった。

1972 年に日本が中国と講和し(日中共同声明)、日本政府は中華人民共和国を正統な中国と看

做して台灣を「地域」と決めつけ、国扱いを停止した。これによって台独派は、それまでわずか

ながらもあった日本での後ろ盾を本格的に失うことになった。台湾独立運動は徐々にその拠点を

アメリカ合衆国へと移していくことになる。日本で台独派が再び顕在化するのは 1990 年代に入

ってのことだが、そのことはまた別の場所で考えよう。

9. ベトナムベトナムベトナムベトナム戦争戦争戦争戦争とととと台灣台灣台灣台灣

アメリカ合衆国にとってのベトナム戦争がいつ始まったかについてはいろいろ解釈があるけ

れど、1962 年にケネディ大統領が「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置したあたりか

ら考えることにしよう。急ぎ足でその展開を見ると、1965 年、アメリカ合衆国軍による北ベト

45

ナム爆撃(いわゆる「北爆」)が開始され、戦局は徐々にアメリカ合衆国にとって悪化し、1973

年のパリ協定によってアメリカ合衆国軍はベトナムから撤退、1975 年 4 月 30 日、北ベトナム軍

が(アメリカ合衆国とフランスが作った傀儡政権であった)サイゴン陥落、南ベトナムが消滅し

てアメリカ合衆国の負けとなる。

ベトナム戦争は、朝鮮戦争の焼き直し、つまり、アメリカ合衆国とソビエト・中共の代理戦争

だった。ケネディは、韓国と台湾のそれぞれの参戦がもたらす利害得失を比較した結果、台湾の

軍事的介入が中共との軍事的緊張を激化させ、ベトナム戦争を必要以上にエスカレートさせるこ

とを危惧して、台湾ではなく韓国に対して戦闘部隊の派兵を要請した(この辺の事情は第二章参

照)。戦争は台灣にも対米輸出面(兵站業務)で大きな利益をもたらしたと言われる。日本もま

た同じだ。

アメリカ合衆国はベトナム戦争

中、アジア各地に兵士の休養のため

と称して、指定保養地を設けている。

R&R(rest and recuperation)と言わ

れた。左の写真は、台灣政府が「台

北に遊びにきてください、こんな楽

しい経験が待っていますよ」という

宣伝用に作ったパンフレットに使

われた写真の一枚だ。60 年代終わ

りから 70 年代初期にかけて、台北

の町には米兵相手の歓楽街があっ

た(中山北路)。

ベトナムベトナムベトナムベトナム戦争戦争戦争戦争ととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの台灣政策台灣政策台灣政策台灣政策のののの転換転換転換転換

ベトナム戦争の泥沼化と、実質的な敗戦は、アメリカ合衆国の中に「今までの反共十字軍」政

策への大きな反発をもたらした。

46

1971 年 7 月にアメリカ合衆国は、「中国封じ

込め政策」を転換して、「中華人民共和国を安

保理常任理事国として国連に加盟させ、中華

民國は一 般の加盟国として国連に残す」方針

を発表した。キッシンジャー大統領特別補佐

官が中共を公式訪問し、周恩来首相と会談(左

写真)。ベトナム戦争からきれいに身を引くた

めには中共と何らかの妥協を計る必要があっ

たのだ。しかし、どうもここで蒋介石の面子

とアメリカ合衆国の思惑との間にすれ

違いが生じたようだ。結果は 10 月の国

連総会で中共の常任理事国入りと同時

に蒋介石の国連追放(国連総会決議

2758 号)という最悪のシナリオとなっ

て現れた。翌、1972 年 2 月、ニクソン

大統領が中共を公式訪問し、中華人民

共和国を正式承認。これに足並みを合

わせて日本の田中角栄首相(右写真)が 9 月に中共を公式訪問して、日中国交正常化(実質上の

講和)を行った。日本の外相は「1952 年の日華条約はその意義を失い、終了した」と発表し、

これに対して国民政府は「対日断交対日断交対日断交対日断交」を宣言したのだ。

アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと台灣台灣台灣台灣とがとがとがとが((((正式正式正式正式にににに))))断交断交断交断交するのは 1979 年 1 月の米中国交正常化にともなっ

てのことだった。先に触れたようにアメリカ合衆国のもともとの方針は、国連一般議席に国民政

府を残して常任理事国として新たに中共を入れる、というものだった。それが思わぬ展開で国民

政府の追放となってしまったが、アメリカ合衆国としてはこのまま台灣が中共に飲み込まれてい

くのを指をくわえて見ているわけにもいかない。そこで台灣関係法台灣関係法台灣関係法台灣関係法という国内法を作って、中共

との関係を維持しながらも台灣支援ができるような仕組みを作り出した。この台灣関係法に基づ

いて、アメリカ合衆国は台灣に対してその後も武器の供与、売却を続けることができた。

10. 美麗島事件美麗島事件美麗島事件美麗島事件からからからから戒厳令解除戒厳令解除戒厳令解除戒厳令解除までまでまでまで

1971 年 12 月、台湾キリスト教長老教会(以下、長老教会)は台湾住民の自決を求める「国是

声明」を発表し、民主化を訴えた。長老教会は 1977 年 8 月には「人権宣言」を出し、国民政府

による白色テロを糾弾している。長老教会は、戦後にアメリカ合衆国とカナダの長老教会が台灣

に入ってきて山地も含めて一挙に台灣全島に勢力を広げていた。だから外国勢力だ、と言うこと

47

はできないが、北アメリカのキリスト教的ヒューマニズムの影響をまともに受けている。

1977 年中壢事件、1978 年 12 月、美麗島事件、と国

民政府に反発して民主化を求める事件が起きてきた。

美麗島事件美麗島事件美麗島事件美麗島事件は、世界人権デーにあわせて高雄で行われ

た民主化要求のデモ(雑誌『美麗島』主催だったので、

美麗島事件と呼ばれ

る)が、警官隊と衝突、

多くの逮捕者が出た

(左写真)。(右は逮捕

者の弁護に当たった陳水扁陳水扁陳水扁陳水扁弁護士、2000 年に総統に当選した。)

1980 年の南コリアのソウルの春、光州事件(第二章参照)と同

じくらいの時期に、台灣でも同じように民主化運動が当局によ

って弾圧されていた。しかし、これをきっかけに、民主化要求

はいきおいを増していく。

中壢事件も美麗島事件も、蒋介石の死(1975 年)後、1978 年から総統の座についていた蒋家

の息子、蒋経国蒋経国蒋経国蒋経国が総統になってから起きている。息子が後を継いだ、

このままでは独裁者一家の支配が延々と続く… そんな不安もあっ

たかもしれない。また、蒋経国という人物は両岸関係両岸関係両岸関係両岸関係(大陸と台灣

の、台灣海峡の両岸をはさんだ関係という意味で、大陸と台灣の関

係を指す言葉)を取り巻く微妙なアメリカ合衆国の思惑を理解して

おり、反攻大陸というような妄想から自由な人物だった、そういう

ことも民主化運動が(弾圧されたとは言え)盛り上がっていった背

景にあった。実際、蒋経国のおかげで台灣経済が復興し、民主化が

もたらされたと評価する人も少なくない。(左写真は、蒋経国【左】

と、父親の蒋介石【右】)

1980 年代に入ると、もはや民主化は蒋経国の政治日程にも上っていた。長年声を出せなかっ

た台灣原住民が、「原住民権利促進委員会原住民権利促進委員会原住民権利促進委員会原住民権利促進委員会」(」(」(」(原権会原権会原権会原権会))))を発足させたのは 1984 年のことだった。

二年後には、長老教会が肩入れして民進党民進党民進党民進党がががが結党結党結党結党する。

1985 年 8 月、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンレーガンレーガンレーガンがががが

台灣台灣台灣台灣にににに対対対対してしてしてして民主化勧告民主化勧告民主化勧告民主化勧告を行った(右写真はレーガン)。具体的には

戒厳令の解除、憲法修正条項の動員散乱時期臨時条款の停止によっ

て、軍事独裁的な政治形態をやめて、“民主化”せよ、ということ

だ。南コリアの場合と同じように、冷戦終了後の体制に向けて東

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アジアを再編成しようとするアメリカ合衆国からの分かりやすい圧力だった。ただ、台灣

の場合には、蒋経国がすでにそれへの道を開いていた。後は、外省人第一世代(万年議員)

の説得あるいは排除が成功裏に運べば、アメリカ合衆国が望む民主的体裁は整うというと

ころまで来ていた。レーガンの勧告は、いかにもアメリカ合衆国が台灣の民主化に貢献し

たというアリバイ作り的な印象があった。

しかし戒厳令戒厳令戒厳令戒厳令がががが解除解除解除解除されたのは蒋経国の死(1987 年 1 月)後、1987 年 7 月のことだった。そ

のときの総統は李登輝李登輝李登輝李登輝。李登輝は蒋経国の副総統だったため、総統の死後、総統職を代行。1990

年の、台灣で最初の総統選挙で、第 8 代総統に選出された。1991 年 5 月に動員戯乱時期終了、

臨時条款臨時条款臨時条款臨時条款はははは廃止廃止廃止廃止され、レーガンが要求した体制が実現する。

最後最後最後最後にににに

ここまで、第一章で日本について、第二章で南コリアについて、この第三章では台灣について、

駆け足でアメリカ合衆国とのかかわりを見てきた。すごく単純に言ってしまうと、

アメリカ合衆国がその反共十字軍としての役割を遂行するために、東アジアのそれまでの旧

支配層(それは往々にして前近代的な社会体制の下で権力を培ってきた人々だけど)と手を

組んで、社会改革・民主化・近代化を目指そうとした人々(それは往々にして前近代的な社

会体制に不満を持った知識人たちや農民、労働者だけど)を弾圧した。東アジアが“民主化”

を手にするのは、そうしたアメリカ合衆国自身の役割変化に伴って(アメリカ合衆国の意向

に沿って)東アジアが再編成された結果でしかない。

と言ってもいいかもしれない。逆コースに入る前には少し違った役割を遂行しようとした勢力も

アメリカ合衆国の中にはあったけれど…。

第一章で少し考えたけれど、民主主義とは、上から民主的制度が与えられ「はい、みなさん、

守ってください。よろしくね」と言われることではないだろう。そうではなくて、人々が自分た

ちの力で権力を行使して、制度を変えていくことが民主主義だろう。そうした面がこれまでの東

アジアに皆無だ、ということではない。そうした民主主義運動があったからこそ、ここまで来た。

そうであってもアメリカ合衆国の影響力は浸透している。アメリカ合衆国のおかげで私たちは民

主化した―そういう言い方にも、その影響力・浸透力を見ることができる。

みなさんは、アメリカ合衆国のおかげで東アジアが民主化した、という言い方に対して、どん

な感想を持つだろうか。(第四章に続く)

東東東東東東東東アアアアアアアアジジジジジジジジアアアアアアアアととととととととアアアアアアアアメメメメメメメメリリリリリリリリカカカカカカカカ合合合合合合合合衆衆衆衆衆衆衆衆国国国国国国国国::::::::台台台台台台台台湾湾湾湾湾湾湾湾編編編編編編編編

49

Eaphet Study Tour 2011, Taiwan

2011.08.18-26

第四章第四章第四章第四章 物語物語物語物語・・・・歴史歴史歴史歴史をををを語語語語ることることることること・・・・聞聞聞聞くことくことくことくこと

第三章第三章第三章第三章までまでまでまで、冷戦期を中心にアメリカ合衆国がどのように東アジアを編成していったかを考

えた。話のところどころで「呼称」や「言葉遣い」について考えたけど、覚えているだろうか。

例えば南コリアを“韓国”と呼ぶことの持ちえる問題、例えば“中国”とは何かという問題、“台灣”

を“中華民国”と呼ぶことの問題、などだった。この段落の始めに「アメリカ合衆国がどのよう

に・・・」と書いたけど、この言葉遣いにも同じように注意が必要だ。

アメリカ合衆国が、という言い方をすると「アメリカ合衆国」というのが一つの意志をもった

人格のように聞こえるけど、そんなことはあり得ない。そんな風に擬人化できない理由は、

① 国家というもの、それ自体がそもそも“実体”ではなく、“想像上のもの”だから。といって

も、勿論、想像上のものに実体を与えることは可能であり、海の上でも空の空気の中にで

も国境線を引いてしまうことができる。しかし、そうした境界線を実体と思うかどうかは、

やはり私たちの想像力/考え方による。

② 社会にしても政府にしても、それは多くの人の利害関心からできていて、一枚岩というか

完全に同質な状態というのはあり得ないから。

という二つくらい挙げておけば充分だろうか。アメリカ合衆国だけではなくて、南コリアだって

日本だって台灣だって、それぞれが一つの同質的な何者かであるわけではない。だから「アメリ

カ合衆国が台灣に・・・した」というような言い方をするときに、「アメリカ合衆国」や「台灣

」をそれぞれが一体的な何かだという印象を持つとしたら、それには抵抗しないといけない。だ

って、そんなことはあり得ないんだから。

1. 日本日本日本日本はははは唯一唯一唯一唯一のののの被爆国被爆国被爆国被爆国////一一一一つになろうつになろうつになろうつになろう日本日本日本日本・・・

3 月の震災から後、「日本復興」だとか、国が被害を受けた、、、、、、、、

かのような言い方をテレビのコマ

ーシャルなどでもしているし、個人のネット上の発言にもたくさんそういうのが出てくる。これ

に似た例は、日本は唯一の被爆国、という言い方だ。しかし「日本」が震災の被害にあったので

はない。被害にあったのは地震と津波によって被害を受けた地域であり、人々であり、「日本」

ではない。被爆したのは広島であり長崎であり、日本ではない。(もし日本が被爆したのだとし

たら、なぜ広島や長崎の人が何十年も“日本の中で”差別されてきたのか分からない。もし日本が

震災被害にあったのなら、なぜ福島の人や産物が差別されるのか分からない。)また 3 月 11 日

の災害によって被害を受けたのは「日本」領土内にも限定されない。経済活動が国単位で完結し

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ていないのだから、当然、被害も国単位で完結しない。

「日本は唯一の被爆国」という言い方によって、つい最近まで南コリアやブラジルにいる被爆

者たちは日本国からの補償を何らもらえなかった。(ついでに言えば、台湾人の被爆者も。)東北

に出稼ぎに来ていて、震災と原発事故で中国に逃げ帰った人達について「やはり外国人だからし

ょうがないね」と言う。ちょっと待ってください。彼らは日本に働きに来るために借金してやっ

てきて、そこで被害にあって、借金を背負ったまま、とにかく逃げ帰った人もいる。その彼らは

被害者ではなく、被害者を見捨てて自分だけ逃げたかのように言われる。

反共反共反共反共・・・・親米親米親米親米・・・・保守保守保守保守のののの冷戦体制冷戦体制冷戦体制冷戦体制をををを作作作作ったのはったのはったのはったのはアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国なのかなのかなのかなのか????

日本では明治以来続いてきた特権層が富国強兵という宣伝文句の下に何度も戦争と侵略を繰

り返して肥大化した。その同じ特権層が、敗戦後も生き残り、特に GHQ の逆コースという保護

の下に温存された事情を第一章で考えた。もちろん体裁というか外形は変わったし、肥大化する

過程で大きな中産階級を作り出しもした。それでも明治から昭和にかけて日本の都市やインフラ

を作り出した底辺労働者であるアイヌ、沖縄、朝鮮人といった労働者たち、また農村部から出稼

ぎに出てきていた労働者たちから見れば「日本全体が中産階級化した」などというのは大嘘だ。

1955 年に自民党を作ったのはアメリカ合衆国なのか?たしかに CIA から出た資金を使って、

戦中からの権力者たちが選挙を勝ち抜き、結党したのが自民党だから、そうも言えるだろう。で

も、正確には“日本の中の特権層”と“アメリカ合衆国の中の特権層”との利害が一致したところで、

自民党が結党され、その最大の仕事であった日米安保条約と米軍の常時駐留を作り出した。南コ

リアと台灣に軍事独裁政権を作り出したのはアメリカ合衆国なのか。ここでも同じだけれど、“南

コリア、台湾の中の特権層”と“アメリカ合衆国の中の特権層”との利害が一致するところを基盤

として、長期的に軍事独裁が維持されたと言うべきだろう。アメリカ合衆国の中にも日本や南コ

リアや台灣の中にも、特権層とは異なる利害関心をもった人達がたくさんいたのだ。

2. 特権層特権層特権層特権層・・・・既得権層既得権層既得権層既得権層はなぜはなぜはなぜはなぜ壊壊壊壊れないかれないかれないかれないか

特権層特権層特権層特権層、という言葉をここまで、実はあまり定義しないで使ってきた。その理由は、正確に定

義づけようとしたらいくら紙面があっても足りないからだ。だから、大雑把にしか言うことがで

きないけれど、こう考えてみてください。家父長制家父長制家父長制家父長制という言葉を知っているよね。家父長制とい

うのは『男性をボスとする家族という集団を最小権力単位として統制される社会』という意味だ。

これ、いつまでたっても(いくら女性の権利とか、男女平等と言われて表面的には変化があった

としても基本的なところで何百年も)大きな変化はない。私たちが育ったのはそういう社会だ。

なぜ大きな変化がないのだろう。社会全体に渡って一度出来上がってしまった既得権(権力)の

構造を基本的に転換しようとすることがいかにむずかしいことか、このことが教えてくれる。

ある地域社会の中で地主がいる、庄屋がいる… その既得権をもった人々(家族)の下につく

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ことで権力のおこぼれにあずかる人々(家族)ができる… そうした人達(家族)の中で資本主

義経済に上手に馴染んでいく人々(家族)ができる… 彼らは他の既得権保持家族と連帯して力

を大きくしていく… こうした支配の構造ができていく。支配の構造は、下にいる人達を搾取す

るけれど、同時に死なないように“守って”もいく。下層の人間達が「私たちは偉い人達のおかげ

で生きていける」と思う。…そうした状態が安定した支配なのだろう。

社会主義、共産主義革命が恐れられた理由は、もし安定した支配が崩れてしまったらどうなる

か分からない、今まで守ってくれていた特権層がいなくなったらどんな奴に支配されるか分から

ない― そういったことだったのかもしれない。そういう状態の中で「民主的な選挙」をしても、

当選するのは「~炭鉱のおぼっちゃん(例:麻生太郎)」や「~先生の坊ちゃん(例:鳩山由紀

夫)だということになる。

私私私私たちのたちのたちのたちの物語物語物語物語をををを考考考考えるえるえるえる―ちょっとちょっとちょっとちょっと理屈理屈理屈理屈っぽいっぽいっぽいっぽい話話話話

このように言い続けることは、しかし、社会の中の重要な変化を過小評価して、何だか「何も

変わらねえなあ」と愚痴をこぼしているだけになってしまうようでもある。でも、戦争に負けて

日本は民主主義社会になりました、とか、南コリアは人々の力で民主化しました、とか簡単な物

語で、本質的に変わってもいないものを変わったかのように見誤ることもしたくない。あるいは

誰のせいで(誰の功績によって)変化がもたらされたのかを、簡単な(粗雑な)物語によって見

誤ることも避けたい。ああ、むずかしい。

物語には主人公がいる。歴史の物語において、“国”を主人公だと考えることは(よくやるけれ

ど)私にはどうしても納得できない。その理由は 1 ページの①と②の二つの理由だし、一つの国

の中に(あるいは国を跨いで)利害関心が異なる人々がいるからだ。“既得権層・特権層”を主人

公とする物語にも、私は共感できない。その理由は(説明するとこれも長くなるので手早く言え

ば)それが正義にかなうとは思えないからだ。

物語には語り手がいる。語り手は「神様」ではないから、完全に客観的というわけにはいかな

い。というか、客観的なふりをすることはできない。私が語るのであれば、そこには私が生きて

きた経験と、私が真実だと信じることと、私が連帯したいと考える人達と、私が心地よいと感じ

る価値観や正義感や、判断の基準がある。でも、それは私以外の人の物語の語り方をすべて間違

っていると断じることを意味しない。なぜなら、私の語りが私という人間の視点に縛られている

ことを自覚するなら、他者のそれもまた他者の誰々という人間の視点に縛られていることを理解

できるからだ。そういう前提で他者の物語と私の物語ははじめて交流できるのではないか。その

交流があってこそ「私たちの物語」を作る可能性が出てくるのだ。

3. 冷戦終了後冷戦終了後冷戦終了後冷戦終了後のののの東東東東アジアアジアアジアアジアととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国

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アメリカ合衆国にとって冷戦体制とは基本的に共産主義との戦いであり、反共十字軍だった。

そのためには軍事独裁政権だろうが何だろうが、なりふり構わず手を結び利用していった。しか

し冷戦が終わりに近づくと、アメリカ合衆国の言うことを聞かなくなったり、過度な圧制で当該

社会が不安定化するといったマイナス面が強くなってきた。正面から、裏面から、金と圧力をか

けて南コリアと台灣の軍事独裁政権潰しにかかった。ここでは詳述しないけれど、フィリピンで

も(事情はまた違うが)同様のことが行われ、南コリアや台灣と同時期に“民主化”が起こってい

る。

冷戦後にアメリカ合衆国が望んだ東アジアの体制とは、どんなものだったのか。

1980 年代からイギリス、北米、そして日本といういわば仲間うちで新自由主義新自由主義新自由主義新自由主義と呼ばれる政

策が実施され始めた。マーガレット・サッチャー、ブライアン・マルルーニ、ロナルド・レーガ

ン、中曽根康弘は、ほぼ同じ時期に「民営化民営化民営化民営化によるによるによるによる小小小小さなさなさなさな政府政府政府政府」政策を実施。中曽根は国鉄の

民営化を行った。考え方は単純だ。政府が経済にあれこれと介入したり、規制したりすることは、

社会にとって害だ。自由な市場こそ健康な社会を作り出す。そのためには今後、あらゆる規制を

とりのぞき、国家は国境線の警備と紛争の仲裁機能だけでいい。・・・まあ、そんな「市場至上

主義」的な考え方だ。政府が軍隊、武力で国益を追求する時代は終わった、市場至上主義こそが

戦争を抑止するのだ、と。これが新自由主義。

しかし、もちろん、市場での自由競争に勝ち残っていくのは強いものたちだ。その強い企業の

多くはアメリカ合衆国に籍を置き、アメリカ合衆国に税金を払っている。

1995 年、WTO(世界貿易機関)が創出され、こうした考え方を世界に押し付けることが全面

的に可能になった。WTO にとってあらゆる規制は悪だ。例えば、台灣の食料自給率は低いから、

なるべく政府は台灣の農業を保護したい。でも WTO に加盟したらオーストラリアやアメリカ合

衆国の安い米や小麦に対して台灣米や小麦は勝てない。勝てないから台灣政府は補助金を出して

台灣米を安く売れるようにすると、WTO に提訴される。ずるい、というわけだ。関税をかけて

オーストラリア米やアメリカ合衆国米を高くするなど、もってのほかだ。提訴されて負けたら、

とんでもない賠償金や罰則を課されることになる。

アメリカ合衆国籍の(いわゆる)多国籍企業体にとって、市場としてのアジアは異常に重要だ。

市場という意味は、ものを売るというだけではなくて、労働力も含めての資源を買う場所という

意味。冷戦期には経済活動が東西に分断されていた。冷戦の終了とは、この分断が壊されて、東

側の資源と労働力と購買力が“解放される”ことを意味した。つまり市場が大きく(全地球規模に

まで)拡大することを意味した。そういう流れの中で、南コリアや台灣のように強い国家主義が

(独裁体制が)経済を支配している体制は大変邪魔になるのだ。以前の防共ラインは、新自由主

義にとっては邪魔な“ベルリンの壁”になった。そこで東アジアの特権層とアメリカ合衆国の特権

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層は再び共同で、こうした障害物の取り壊し作業をやったわけだ。

別の資料(緑の革命と原発)にも少し書いてあるけれど、東日本震災直後に発生した福島第一

原発事故に対するアメリカ合衆国の対応は、「電力・エネルギー分野」における市場開放を要求

するものだと言える。詳しくはそちらを読んでください。

終終終終わりにわりにわりにわりに

ここまで読んできてくれたことに、まずお礼を言います。特に第三章などは急いで書いている

ので、分かりにくいところも多かったと思います。ここまで語ってきた“歴史”(物語)を“信じ

てくれる”必要はありませんが、ちょっと変だぞ、と思うところは自分で納得できるよう、調べ

てください。私も人の書いたもの、言ったことから調べ始めて、以上の物語を組み立ててみまし

た。みなさんも、できたら、そうしてほしいと思います。もちろん、そのためには時間とやる気

が必要です。時間の方はまあどうにでも作ろうと思えば作れるのですが、やる気の方はなかなか

むずかしいと思います。

歴史がつまらないと思う人は、歴史というのを自分の知っている人や、自分が生きている身の

回りの世界と接点がないと思うからかもしれません。歴史資源交流協会で「ツアー」にこだわる

理由は、ツアーでは生身の人間に出会うことができるからです。その生身の人間たちは、みなさ

んとは違う利害関心をもって、みなさんとは違う時代を、違う場所で生きてきて、みなさんとは

違う語り方をすると思います。どうしてこの人はこう言うのか、あの人はなぜ… そういう疑問

が歴史に対するみなさんの感じ方を変えるかもしれない。

(了)

まだ原発(これもアメリカ合衆国と深い関係があります)に関する読み物があります!お忘れな

く。Awil Kazuo

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東東東東東東東東東東東東アアアアアアアアアアアアジジジジジジジジジジジジアアアアアアアアアアアアのののののののののののの原原原原原原原原原原原原発発発発発発発発発発発発―――台台台台台台台台台台台台湾湾湾湾湾湾湾湾湾湾湾湾のののののののののののの原原原原原原原原原原原原発発発発発発発発発発発発 2011.3.23 古川ちかし

背景背景背景背景::::一九五四年一月、アメリカ上院は台湾防衛を決議し、翌日には大統領に台湾防衛の軍隊使

用権を白紙委任した。これに基づいて二月、アメリカ第七艦隊が台湾海峡を封鎖。一九五五年四

月、ソ連が、中国などに原子炉を供与する協定に調印したことは、アメリカ合衆国に大きな圧力

となったことは間違いない。二ヵ月後の六月、台湾政府は行政院に「原子力委員会」(略称「原

能会」)を設置、台湾電力はこれに合わせて原子力研究委員会を設け、七月にはアメリカ合衆国

との間に中米原子力協力協定を結んだ。翌五六年には国立清華大学を設立して原子力科学研究所

を併設。ここには小型の実験炉(GE 製)が設置された(アメリカ合衆国は一九六〇年十二月に

も清華大学に原子炉を供給している)。

アメリカ合衆国は一九五五年に日本との間に原子力協力協定を、一九五六年に韓国との間に同

様の協定を結び、防共ラインにおける原子力開発を支援する体制を作り上げる。戦略的には平和

利用を謳いながら(一九五四年国連での「原子力平和利用決議」、一九五六年の IAEA の創設)も、

こうした原子力開発は軍事的脅威を狙ったものだったことは明白だった。一九五五年七月のラッ

セル・アインシュタイン宣言(核戦争、核武装批判)は直接的には米ソの核武装競争に向けられ

たものだが、間接的にはアメリカ合衆国のこのような姿勢に対して向けられた批判だった。アメ

リカ合衆国はソビエトとの冷戦激化の中で、防共ラインに軍事力とともに原子力開発を「配備」

していった。

アメリカ合衆国が開発、提供したのは軍官共用のウラニウムを用いた軽水炉サイクルであり、

このことが後の核拡散防止体制との間に大きな矛盾を引き起こすことになる。ウラン軽水炉サイ

クルにいわゆる機微核技術が加われば、それは核兵器開発に直線的に結びつくからだ。(日本に

はその両方が保持されているが、その問題は次回に論じることにする。)

その後、一九七〇年に台湾も核拡散防止条約を批准するが翌年に国連から追放され、台湾が核

拡散防止条約上に占める立ち位置は不確定性を帯びた。ソビエトから核技術の提供を受けている

中国への牽制策として台湾が核開発の可能性を持つことはアメリカ合衆国にとっては「ある程

度」必要なことだったが、台湾が暴走することに警戒感も抱いたであろう。その後一九七九年に

アメリカ合衆国が「台湾関係法」を議会通過させて何とか微妙なバランスをとることになる。

外交政策外交政策外交政策外交政策としてのとしてのとしてのとしての原子力開発原子力開発原子力開発原子力開発:一九六三年、蒋経国は「原子力発電を将来の台湾の電力供給の

根幹に据える」と宣言した。同じ年にアメリカ合衆国大手原発建設会社、ベクテル社が台北に事

務所を構えた。石門第一原発が General Electrics(GE)社の原子炉と、Westinghouse(WH)社の

タービン(発電機)を輸入して建設を開始した(一九六九年)。この第一原発が稼動したのは一

九七八年のことだった。当初予算百二十七億元に対して、運転開始時点では建設費は二百九十六

億元に膨れ上がっていた。

一九七三年に発表された十大建設計画にも原発開発が盛り込まれた。翌七十四年に万里郷で第

二原発の建設が開始された。第二原発も GE 社、WH 社と第一原発同様の契約を結んで着工、一

55

九八一年~八十二年に運転開始となったが、当初予算二百二十億元に対して、実際の建設費は六

百三十億元に達した。

一九七八年には恒春郷に第三原発建設が始まった。今度は WH が原子炉を、GE がタービンを

と変わったが GE、WH 社への台湾政府の依存は変わっていない。原発プラント輸出全体を請け

負ったのはベクテル社だ。第三原発運転開始の八十四年~八十五年までに、これも当初予算三百

五十八億元に対して実行額は九百七十四億元に達している。

当時の日本と同じように台湾にも商用原発開発、原発建設に関する技術はなかった。GE の設

計担当者も実際に現地を見て設計したのではなく、規格品として原子炉を設計している。日本、

南コリア、台湾、フィリピンとも、そのような規格品を(当時の国際価格からしても相当割高な

価格で)アメリカ合衆国から「買わされ」ていたと言われる。台湾は一九七二年の国連追放以降

はアメリカ合衆国との有効関係を維持するために法外な価格を外交費として甘んじたのではな

いかと想像される。

原発は外債を発行してその費用を賄ったが、その台湾の外債の購入主はアメリカ合衆国輸出入

銀行だった(輸出入銀行は一九八一年までに台湾に原発関連で十二億ドル貸し付けていると言われる)。

返済は原発運転開始後の電力料金によってなされたが、運転開始までの間の利息は台湾電力では

なく台湾政府が支払っている。GE と WH、ベクテルという当時のアメリカ合衆国原子力産業の

中心企業との癒着、さらに(台湾の外貨備蓄から考えればほかにも弁済方法があるにもかかわらず)利

息の高いことを承知で輸出入銀行と癒着する―こうしたことは、台湾の原子力政策がエネルギー

政策であるよりも外交政策であったと考えないと納得できにくい。

国民党国民党国民党国民党とととと原発建設原発建設原発建設原発建設:一九七九年、アメリカ合衆国でスリーマイル島原発事故がおき、アメリカ

合衆国内での原発増設は打ち切られた。これによってアメリカ合衆国の原発輸出政策は転換し、

原発産業は国内がだめなら国外への輸出に力を入れるしかなくなった。

台湾の原発建設を請け負うことになったのはベクテル社だ。ベクテル社は第三原発建設に際し

て台湾の大手建設業者「中興工程社」との合弁(ベクテル社六割、中興工程社四割出資)で蒋経

国の三男、蒋孝勇(右写真の左側、右側は蒋経国)を代表

に「泰興工程社」を創業した。台湾南部の退役軍人組織(補

導委員会)は第三原発建設参入するため会社を作り台湾電

力の工事事務所に参入を求めたが実績も技術も経験もない

会社に工事事務所は工事参入を認めなかった。『補導委員会

は軍の人脈に働きかけ、数人の大物軍人が工事事務所を訪

れて台湾電力の関係者を「説得」し、工事を請け負えるよ

うになった。』(田中宇、http://www.tanakanews.com/a7rupo.htm)泰

興工程社を頂点として国民党と軍のコネクションによって

何層もの下請け構造ができあがり上から順番に取れるだけ

のマージンを取っていく。そうすると最下層の現場工事を

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請け負う業者が利益を出すには手抜き工事しかなくなる。完成したばかりの第三原発の原子炉建

屋のコンクリートが崩れた事件はこうした手抜き工事の実態を暴露したわけだが、政府の検査官

も実態を知られたくないので崩れた部分だけコンクリートを上塗りして合格となったそうだ。

一九八五年七月七日、第三原発一号炉で大火災が起きた。鎮火し、修理して再運転に漕ぎつけ

るまで一年二ヶ月を要し、損害額は七十億元に上ったという。当初、台湾電力は「事故の原因は

電気系統の故障であり、放射能に関係した部分は問題がない」と強調していたが、その後の調査

の結果「発電機のタービンの設計に重大なミスがあった」と発表し直した。タービンの設計、製

造は GE だがこの調査結果が出た後も GE に対する賠償請求はなされず、七十億元の損失は結局

電力消費者に回されたかっこうだ。なぜ台湾政府は GE に賠償請求しなかったのか。何かの裏取

引があったことも想像されるが、アメリカ合衆国原発産業への依存度が高く、彼らの機嫌を損ね

ることができなかったと解釈されてもしかたがない出来事だった。

核四核四核四核四:貢寮に原発建設の話が持ち上がったのは、第一原発建設工事が始まる前の一九六六年のこ

とだったらしい。その後九年間この話は進まなかったが一九七五年に再浮上。台電と国民党が蘭

嶼に「魚缶詰工場」(核廃棄物貯蔵所)を建設開始した一九八〇年五月、政府は正式に第四原発建

設を申請し、一九八五年四月、立法院での予算案審査にまで漕ぎつけた。しかし一ヵ月後に、あ

まりにも巨額な建設費(一千八百億元)に対して立法院では建設延期(凍結)を決議する。先に

触れた第三原発火災はこの二ヶ月後に起き、翌年にはチェルノブイリ原発事故が発生。一九八七

年七月の戒厳令解除も手伝って、同年十一月には「台湾環境保護連盟」、第二原発周辺の「北海

岸反核自救会」、第三原発の恒春周辺の「恒春反核団体」、第四原発予定地である貢寮の「貢寮反

核自救会」結成など、反原発市民運動も活発化した。二年後の一九八八年にアメリカ合衆国 CIA

が中山科学院原子力研究所の副所長の張憲義博士の告発に基づいて台湾を「核拡散防止条約違反

の疑い」で告発するという事件がおきるなど、これまでのアメリカ合衆国とその原発産業への前

面依存体制にヒビが入っていく。反原発市民運動も激化していった。その結果、一九八八年五月、

行政院原子力委員会が「反核廃棄物」声明(蘭嶼の廃棄物貯蔵庫第二期工事の即時停止/蘭嶼へ

の核廃棄物の運搬停止)を出すに至った。

ところが、これと平行して別の動きがあった。一九八六年に、日本原子力産業協会と台湾原子

力委員会との共催による「日台原子力安全セミナー」が開催され原子力分野に関しての台日協力

体制への布石が打たれ、また一九九二年には行政院が核四の予算凍結を解除したのだ。このころ

から原発推進の国民党と、反対の民進党の綱引きが激化していく。

一九九六年五月二十四日、立法院において賛成 76、反対 42 で「すべての原子力計画を廃棄す

る」決議がなされる。この直前に台電は GE 社と核四建設の主契約を結び、東芝と日立が原子炉

を、三菱重工がタービンを製作することになっていたので、台電と国民党政府はパニック寸前と

なった。七月十二日、原発は台湾にとって不可欠なものだとする行政院が立法院に対して決議の

再審議を求めた。台湾の憲法によれば、行政院からの再審議要請に対して立法院構成員議員の三

分の一が同意すれば、その決議は拒否権の対象となり再審議されなければならない。立法院内の

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反原発派は全体のおよそ半数、つまり賛成派は三分の一以上はいる計算になる。十月八日、立法

院は再審議を決議し、十八日、結局廃案となった。

「日台原子力安全セミナー」を毎年開催して十一年目の一九九七年一月、日立と東芝は、両社

が米 GE 社や東京電力とともに開発した ABWR(改良型沸騰水軽水炉)の輸出に向けて、「アジア

ABWR 推進機構」を設立し、台湾の核四だけでなくさらなる顧客を求めて体勢を組んだ。五月に

はアメリカ合衆国原子力規制委員会 NRC に、ABWR を標準型炉として認定させるに至った。「日

の丸原発輸出」に向けて舞台は整った。一九九九年三月に核四1号機、八月に2号機が着工。

ところが思わぬ政変が台湾を襲った。二〇〇〇年三月、陳水扁が総統に就任し、原発廃止派の

民進党が政権をとったのだ。

核四建設中止核四建設中止核四建設中止核四建設中止からからからから再開再開再開再開へのへのへのへの政治劇政治劇政治劇政治劇

二〇〇〇年三月、「核四(第四原発)計画停止、既存原発を十年以内に廃止」を掲げて民進党

の陳水扁が総統選を制した。(このとき、すでに核四の1号機はちょうど一年前に、2号機も約半年前

に着工している。)

民進党政権は早速五月に核四建設続行の是非を問う再評価委員会を立ち上げ、工事は一時停止

状態におかれた。九月には経済部が核四建設中止を求める報告書を行政院に提出。当時の行政院

委員長だった唐飛は「もうついていけない」と辞任

(十月六日)し、民進党の張俊雄が行政院長に就任。

張俊雄は十月二十七日、核四建設中止を発表し(「宝

島を毒島に変え、子孫に害毒を及ぼすわけにはいかない」

という有名な台詞を残し)GE 社に対して工事凍結を

通告した。ここから約三ヶ月余りに渡る政治の大混

乱が始まった。

十月二十七日の行政院発表に対して立法院は即

時に異議申し立てを行い、野党は団結して決定の白

紙撤回を求めた。張俊雄院長は大法官会議に判断をゆだねることで一時的に国民党をなだめたが、

野党は総統罷免法案を提出、政局運営をボイコットした。

十一月六日、陳水扁は混乱を招いたことを謝罪するにいたった(当時の世論は陳水扁の核四建設

中止に対して批判的な向きが強く、民進党側はせっかく手にした政権を一年も経たないうちにもぎ取られ

ようとしていた。陳水扁も必死だった。)が、核四建設中止の意志は曲げなかったため、野党による

ボイコット状態が続いた。

二〇〇一年一月十五日、大法官会議が最終判断を示した。いわく「行政院の建設中止決定には

手続き上の不備があり、建設続行・中止の決定は行政院と立法院で再度意見調整すべし」と。一

月末に立法院では予想通りの大差で建設続行を決議。二月には両院は建設続行を条件付で合意す

るに至った。

58

その条件とは①行政院は即刻建設続行を発表し、予算措置は関連法で処理すること、②エネル

ギー不足を生じないという前提で非核体制を最終的な目標とすること、③行政院は将来の原子力

政策をまとめ(原子力エネルギー関連法案)、立法院の審議に付すこと、だった。

民進党側は「非核体制を最終目標にする」という『名』を勝ち取ると同時に何とか政権を維持

した。国民党側は核四建設続行という『実』を勝ち取った。なんとも絵に描いたような「政治的」

な妥協だった。混乱期間中、無期限に停止状態に置かれた核四建設工事は工程を一年半ほど遅ら

せて、1号機は二〇〇六年七月に、2号機は二〇〇七年七月に工事再開することになった。違約

金を含めて、これは四百三十億円ほどの工費上乗せを意味した。結果的に続行であれば GE も日

立も東芝も損害がないばかりか漁夫の利を得たようなものかもしれない。

台湾台湾台湾台湾のののの原発推進派原発推進派原発推進派原発推進派とととと日本日本日本日本

一九八六年以来毎年続けられ

てきた「日台原子力安全セミナー」

は、台湾側では原子能委員会、台

湾電力公司、核能研究所、放射性

物質管理局、中華核能学会が、日

本側では原産協会【日本原子力産

業協会(原産協会、JAIF)】が主催し

てきた。中華核能学会は一九七二

年(日台断交、台湾の国連追放の年)

に結成されたアカデミックな団体

だが、アメリカ合衆国や日本と原子力開発協力交渉を行う際にアカデミアの隠れ蓑が必要とされ

たのだろう。ちなみに原産協会はすでに一九七九年に韓国の原子力産業界との間に「日韓原子力

産業セミナー」を開始している。

日台原子力安全セミナーが最初に開催されたのは蒋経国政権が翌年の戒厳令解除を約束し、民

進党が結党された一九八六年だ。一九八六年は、アメリカ合衆国が冷戦体制の終焉とその後の自

由市場主義の導入へ向けて、冷戦初期に自らが作り出した反共・親米の独裁体制にさまざまな圧

力をかけて体制転換を迫り、韓国や台湾に“民主化”を作り出した年として記憶される(台湾が戒

厳令を解除し大統領選挙を開始、韓国の民主化宣言―これらは一九八七年の出来事だったが一九八六年に

はすでにこれらは日程に組み込まれていた)。

なぜこの時期に台湾の原発推進派は日本とのパイプの強化を必要としたのか。考えられる一

つの理由は、アメリカ合衆国が直接に(中国から非難されるあからさまな形で)原子力に関して台

湾援助ができにくくなっていたこと。そしてこの年、日本では蒋介石生誕百周年を記念して「蔣

介石先生の遺徳を顕彰する会」が東京で開催されるなど親台の動きが目立った。こうした親台派

には岸信介を筆頭に自民党幹部が相当数入っており、彼らの動きがアメリカ合衆国の意向と大き

くずれていたとは考えにくい。一方でアメリカ合衆国に追随して台湾を形式上切り捨てた自民党

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があり、もう一方で台湾関係法を制定して中国を牽制しようとするアメリカ合衆国の意向に沿お

うとする自民党があったわけだ。後者の策謀の中には台湾の原子力開発援助が組み込まれていた。

日本の原発産業にとって将来の顧客として台湾は魅力的だった。原産協会は同じ年に中南米原子

力事情視察団を組織するなど、顧客開発に力を入れ始めていた。

核四に初の「日の丸原発」採用となった背景には、こうした日台のコネクション作りがあっ

た。

最後最後最後最後にににに

貢寮(核四が建設されている町)の人々は民進党に裏切られたという感覚を拭い去れないだろう。

現在、核廃棄物処理場の予定地に確定している台東の達仁の人々にしても同じだ。民進党の総統

候補者、蔡英文は二〇二五年までの脱原発を公約に掲げているが、現実には核四も達仁の処理場

も、台電と現国民党政府のほぼ計画通りに進められている。三一一(東日本大震災と津波の台湾で

の呼称)後、台湾議会は核四建設に対して百四十億元(四億八千六百万USドル)という巨額の増

額を許可した。民進党が提出していた非核法案は十一件ともに否決された。(了)

緑緑緑緑緑緑緑緑のののののののの革革革革革革革革命命命命命命命命とととととととと原原原原原原原原発発発発発発発発 2011.4.30 阿川

緑緑緑緑のののの革命革命革命革命

一九六〇年代に猛威を振るった「緑の革命」は、高収穫品種の導入によって穀物の生産高を二

倍から三倍にすることができると宣伝され、ロックフェラー財団がバックとなってノーマン・ボ

ーローグの主催する研究団体が推進力となって展開された(ボーローグはこの功績によって一九七

〇年にノーベル平和賞を受賞―左写真)。高収穫品種とは、品種改良によって様々な穀物の背丈を低

くする(茎を伸ばすことに使われるエネルギーを節約して種子を増やし、また風で倒れるなどの被害を押

さえることで、収穫を増やす)ことだった。ボーローグが米軍占領下の日本から持ち帰った「農林

十号」(小麦の改良品種)などもこうした品種の一つとなった。

「緑の革命」とは「赤の革命(共産主義革命)」を意識した

名づけだったとも言われる。アメリカ合衆国内でも第二次大

戦終結前後、小規模な貧農と大農場の富農との格差が大きく

なり、このまま放っておけば貧農の不満が爆発する恐れがあ

ったようだ。一九三二年のボーナス・アーミー事件は、社会

不満が政府を転覆する可能性もあるという不安をアメリカ

合衆国支配層に与えた。ちなみに後のアメリカ合衆国極東軍司令官、ダグラス・マッカーサーが

名を上げたのはこのボーナス・アーミーを武力で蹴散らして鎮圧した功績による。

赤の革命、それは冷戦初期にアメリカ合衆国が最も恐れるものだった。ヨーロッパと同じよう

に戦火で荒廃したアジアでも、放っておけば民衆の不満が爆発し、せっかくアメリカ合衆国が肩

入れして作り出した各地の傀儡政権が転覆され、そこにソビエトの影響下に社会主義政権が登場

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する―そうした赤の革命の“悪夢”に対して緑の革命が火消し役になると期待された。

高収穫品種はアメリカ合衆国からの援助という形で、中南米やアジアにばら撒かれた。各地で

土地に合った品種改良がアメリカ合衆国の援助(技術、資本供与)によって開発され、導入当初

は収穫量が二倍、三倍と急増したが、農作地は徐々に疲弊し、新しく導入された種子も年を経る

にしたがい収穫量が減少し始め、そのためさらに化学肥料を大量に投入するという悪循環に陥っ

た。大量の化学肥料だけでなく大量の水も必要で、そのための灌漑設備を自前で賄えない小規模

農場は大規模農場に吸収され、農業のアグリビジネス化が進んだ。

化学肥料は欧米の(爆薬生産のために大戦中に乱立した)窒素工場から供給され、結果として欧

米の大手アグリビジネスが第三世界の小規模アグリビジネスを傘下に入れて穀物市場を独占し

ていきやすくなった。

緑の革命の被害は、封建的な土地所有制度が解体されておらず、近代的な農地改革が行われに

くい地域で極端に現れた。フィリピンでは緑の革命への反省から、土地の力の回復と有機農業を

目指した運動が小規模ながら始まっているそうだが、根本的な土地改革ができない以上、これは

非常に困難な道になる。むしろ緑の革命の問題点を遺伝子組み換えによって補っていこうという

方向に、フィリピン政府やアメリカ合衆国なども動いているのが現状だろう。その意味では緑の

革命の負の遺産から脱却する道はまだまだ遠い。

緑の革命は食料増産を目指し、それによって赤の革命を阻止しようとする冷戦の重要な戦略の

一つだった。それ自体は『人道主義的なものであり人類が抱える問題に正面から対処したのだ』

とも言えるかもしれないが、冷戦の利害関心に発した戦略であったことは否定できない。そして、

結果として主に第三世界の農地を疲弊、汚染し、食べるための農業を崩壊させるのに一役買った。

これもまた否定できない。

冷戦の中でアメリカ合衆国が行った援助のもう一つの側面は、エネルギー革命だ。食料方面で

高収穫品種をばら撒くことでアメリカ・ブロックを形成しようとしたことと、エネルギー方面で

原子力をばら撒いたことはアメリカ合衆国が援助の名において行った冷戦戦略のコインの表と

裏であり、両者とも「貧困は共産主義の温床」という発想に根をもっていた。

第二次大戦第二次大戦第二次大戦第二次大戦とととと原子力原子力原子力原子力

第二次大戦開戦前夜の一九三八年十二月にドイツでオットー・ハーンとフリッツ・シュトラス

マンがウランの核分裂の仮説を発表。翌年一九三九年九月、ナチスドイツがポーランドに侵攻し

て第二次大戦が始まった。同年十月、アインシュタインとシラードが原子力の軍事応用の可能性

を手紙でルーズベルト大統領に伝え、一九四〇年の六月にはルーズベルトは原子爆弾製造計画を

認可。いわゆるマンハッタン・プロジェクトだ。

ナチスドイツは当時の原子物理学の大物、ヴェルナー・ハイゼンベルクが指揮をとって原爆開

発を行ったが、人的資源を米国側にとられるなどの原因で敗戦までに結局原子炉の基礎研究に終

始したと言われている(が真偽は闇の中だ)。

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一九四一年七月、物理学者フリッシュとパイエルスがウラン原子爆弾の基本原理をイギリス原

子爆弾開発委員会に報告し、初めて原子爆弾が実現可能で、爆撃機に搭載可能な大きさであるこ

とが知られた。

このころから西側の学術雑誌に核分裂反応や原子力エネルギーに関する論文が掲載されなく

なったことに気づいたスターリンは、西側各国で原子爆弾の開発が進行していることを察知、イ

ーゴリ・クルチャトフを責任者に原子力プロジェクトを開始した。スターリンは一九四八年まで

に原子爆弾を完成しろと命じていたそうだ。

一九四二年十二月にはアメリカ合衆国シカゴ大学実験原子炉で、フェルミたちが核分裂連鎖反

応テストに成功する。翌一九四三年三月、原爆開発のために作られたロス・アラモス原子力研究

所所長としてオッペンハイマーが就任し、二年四ヶ月後の一九四五年七月十六日にアメリカ合衆

国は初の原子爆弾の実験に成功(トリニティ実験-左写真)。ほぼ一ヶ月後には、広島と長崎に原子

爆弾が投下され、太平洋戦争は終結を迎える。

第二次大戦中(末期)に大慌てで開発されたこの新技術は、冷戦の東西対立の中で爆発的に促

進されていった。原子力の開発競争は国と軍と民間企業が一体となって加速、一九四六年八月の

「原子エネルギー法」制定とアメリカ合衆国原子力委員会の立ち上げは、それまで国と軍が独占

してきた原子力開発に民間企業の力を積極的に導入する道を開いた。

冷戦開始冷戦開始冷戦開始冷戦開始とととと原子力配備原子力配備原子力配備原子力配備

一九四九年九月に「ソ連が核実験に成功した」という噂が流れるや、翌年二月にイギリスの科

学者が「ソ連協力者」としてスパイ容疑で逮捕される事件(クラウス・フックス事件)がおきる。

同じ一九五〇年七月には同様の容疑でローゼンバーグ夫妻が逮捕される(一九五一年四月に死刑判

決)。一九五四年四月のオッペンハイマー事件では、凶悪な水素爆弾に対する彼の反対論は取り

上げられず、オッペンハイマーはただソ連協力者として処罰された。一九五四年にはマッカーシ

ズムへの批判が高まり、反マッカーシズムの風潮が主流を占めるようになっていたにもかかわら

ずだ。つまり原子力開発は米ソ対立の国家

的、軍事的、政治的、経済的な焦点であり、

この国家戦略には科学者、技術者の懸念が

入り込む余地はなく、まして環境論者や人

道論者の懸念など歯牙にもかけられてい

なかった当時の状況が窺い知れる。

一九五三年八月、今度はソビエトが水爆

実験に成功したニュースが流れた。大変な

ことだったらしい。ソ連に先を越されたア

メリカ合衆国は、その約半年後の一九五四

年三月、ビキニ島で水爆(ブラボー)実験。

周知の第五福竜丸被爆事件が起きる。

62

商用原発の分野でもアメリカ合衆国はソ連に遅れた。ソ連が世界最初の実用規模の原子力発電

所(オブニンスク発電所)の運転を開始したのは一九五四年六月。アメリカ合衆国は一九五一年に

すでに高速増殖炉 EBR-1での実験的な原子力発電に成功していた(アイダホ州アーコの国立原子炉

試験場)が、商用発電には至っていなかった。ソ連に追いつくには日を要し、アメリカ合衆国初

の商用原発シッピングポート原発が稼動したのは一九五八年五月二十六日のことだった。

一九五三年、ソ連の水爆実験直後に、アイゼンハワーは国連で「原子力の平和利用」を訴え“正

義の味方”米国をアピール。その裏でしかし、自らも水爆開発を急ぐと同時に拡大する共産圏(ソ

連、中国、北朝鮮)への防共ラインとしての韓国・日本・台湾の軍事防衛強化を行った。東アジ

アの防共ラインへの原子力エネルギー配備はその一環として必須だった。

アメリカ合衆国は一九五五年に日本と中華民国を相手に原子力協力協定を、一九五六年に韓国

との間に同様の協定を結び、防共ラインにおける原子力開発を支援する体制を作り上げる。アメ

リカ合衆国は原子力の平和利用を呼びかけながら、NATO 同盟国にはアメリカの核を配備してい

こうと画策していた(一九五三年十二月三日付け、National Security Council 文書)。

「「「「平和利用平和利用平和利用平和利用」」」」というというというという言説言説言説言説

一九五四年、中曽根康弘が原子力関連の予算を初めて提出し成立させた。アメリカ合衆国から

の濃縮ウラン購入費も含め、しめて二億五千万円。帝国軍人あがりの中曽根は、元警察官僚で戦

中は大政翼賛会の大物でもあり、戦後は読売新聞社社主であった正力松太郎とともに、その後の

日本の原子力開発を推進していくことになる。その翌年、一九五五年にアメリカ合衆国との間に

「原子力協定」を結び、「原子力基本法」が成立する。

第五福竜丸事件は、日本の世論を反核、反原子力に大きく傾けたが、それを押し返して日本に

原子力を持ちこむためにアメリカ合衆国は心理作戦を展開、まずは「新聞を押さえる」ため正力

にアプローチした。そのとき正力は「貧困は共産主義を呼ぶ」、また「原子力エネルギーは貧困

を防ぐ」と意見を表明し、読売新聞、日本テレビが原子力の平和利用キャンペーンを展開したと

いう。

日本の原子力基本法は、原子力の利用を「平和目的に

限って」認めるということを明記した世界唯一の国内法

として評価されている。しかし、それが成立した一九五

五年の前年には日米相互防衛援助協定の締結と同時に日

本軍(自衛隊)が再編成されている事情を考えると、軍事

とどこまで切り離せるのかについては疑問視した人々も

少なくなかった。それを「平和利用」という言葉で強引

にねじ伏せた。自衛隊もまた近隣アジア諸国の不安をよそに平和のための軍隊だ、と喧伝されて

いた。言説操作の背景にはアメリカ合衆国国家安全保障会議と CIA、そして正力のあやつる日本

のマス・メディアがあった。

「日本は核武装を差し控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持する方針をと

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り、それを日本の安全保障政策の主要な一環とするということ」―これは「国家安全保障の原子

力の公理」と呼ばれる一九五五年以来の日本の原子力政策の基本方針だという(吉岡斉「原子力

の社会史」一九九九、朝日選書)。核燃料を生産するウラン濃縮、プルトニウムを取り出す核燃料

再処理、プルトニウムを利用する高速増殖炉といった「機微核技術 sensitive nuclear technology:

SNT」を持っているのは核保有国以外では日本だけだ。

青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場はまともに稼働せず、高速増殖炉もんじゅにいたって

は、一九九一年の試運転以来、ほとんど発電しないまま、今日、一日五千万円の維持費を浪

費するに到っている。にもかかわらず、政府はこれらの核燃料サイクル過程を今後も堅持す

るという。この不合理は、これらが「機微核技術」であることを理解すれば、すべて納得が

いく。そしてその機微核技術を国内に保持するために、日本の商業原発が運営されていると

すれば、そこに市場経済の論理が通用しないことも理解できる。これは経済ではなく、安全

保障政策、日本の外交政策の一環なのである。(古賀徹「原子力発電と核武装」2011.4.5 ブログ)

日本の原子力開発がアメリカ合衆国でのそれと同じように軍事性を帯びたものであった(あ

る)のかどうか、基本法の言う「平和利用」は隠れ蓑なのかどうかにはいろいろな意見があるだ

ろう。しかし、緑の革命が第三世界に食料供給上のアメリカ・ブロックを作り出したのと同じよ

うに、原子力エネルギーもまたエネルギー供給上のアメリカ・ブロックを作り出したことは間違

いない。

東東東東アジアアジアアジアアジアのののの安定的維持安定的維持安定的維持安定的維持ととととエネルギーエネルギーエネルギーエネルギー

韓国、台湾、日本という東アジアの防共ラインにおいて、貧困が社会改革へつながる道を封じ

るためには、反共・親米の傀儡政権を食料面、エネルギー面で「援助」し、安定化させることが

必要だった。安定とは不安定化要因を取り除くことであり、その手っ取り早い方法は既に一定の

支配構造を有している既得権層を温存することだった。あるいはまた軍事独裁体制を作ることだ

った。こうしてアメリカ合衆国と東アジアの旧体制の下で育った既得権層の利害が一致した。

このことは、いくつもの捩れ(ねじれ)を東アジアにもたらした。ひとつは明治から太平洋戦争

まで自らの利益を追求し続け肥大化していった日本の既得権層を解体するどころか再利用し、安

定化してしまったことだ。なるほど「戦後」に一定の改革はなされ「反省」もされたのだろう。

が、同時に戦中までの権力保持者たちは GHQ の“逆コース”によって、その主要な部分は温存さ

れ改革勢力は弾圧された。韓国でもまた社会改革派は弾圧され、一時は「日本協力者」と呼ばれ

糾弾された人々が権力を持ち続けた。台湾にはアメリカ合衆国が国民党支配をもたらした(GHQ

一般命令第一号によって台湾の日本軍は国民党軍に降伏した)。

捩れは、どこかの時点で破綻を生む。韓国の四・三事件、台湾の二二八事件はそうした破綻の

早期の例だろう。日本で大きな破綻を生まなかった理由の一つは、明治以来の長期の体制作りだ

ったのかもしれない。外来の勢力に侵略された韓国や台湾とは事情が異なった。さらにエネルギ

64

ーの独占体制を、日本はエネルギーと利権とを密接に絡めることで(少なくとも三一一震災までは)

上手に維持してきた。

田中角栄(当時の首相)は一九七四年に過疎地を振興する名目で「電源三法」(電源開発促進税法、

電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法の総称)を成立させた。電源三法とは乱暴に

言ってしまえば「原発立地自治体に金をばらまく仕掛け」だった。電力会社は販売電力量に応じ

て1kW時あたり37.5銭の「電源開発促進税」を電気料金に上乗せして国に納付する。主に

都市部で徴収した税金を特別会計に繰り入れ、それを交付金として原発を置く自治体に還元する

という仕組みを作り上げた。(今年度予算案では一般会計、特別会計合わせて四千億円以上の予算が原

子力分野に投下されているという。)ある試算によると、原発を誘致した自治体には(原発1基につ

き)運転開始までの十年間で約四百八十一億円の金が流れ込み、五十年間では千三百五十九億円

という巨額になるという。こうして日本の原発開発は大きな利権獲得競争と化し、原発密集列島

を作り上げ、電力会社を肥大化させ、既得権層の安定的な支配を維持してきた。

新自由主義新自由主義新自由主義新自由主義とととと冷戦後冷戦後冷戦後冷戦後

冷戦期に日本が既得権層の支配の下に膨大な中産階級(あるいは中流意識)を生み出すことがで

きたように思われる背景には、沖縄やその他のアジア諸地域の第三世界化があった。「日本」は

アメリカ合衆国の子飼いの極東前線基地であり、朝鮮戦争、ベトナム戦争からイラク戦争まで、

アメリカ合衆国を経済的、軍事的に支えてきた。

一九八〇年代に始まる新自由主義政策の導入は冷戦終了後を睨んだものだった。東西対立が消

滅することは旧東側の資源と労働力と市場が“解放”されることを意味し、アメリカ合衆国が東ア

ジアに構築してきた反共・親米の独裁体制をどうにか解体して、新自由主義が好き勝手に振舞え

るようにする必要が生じた。日本はアメリカ合衆国の強力な圧力のもとに国鉄に始まって郵政ま

で民営化を進め、市場介入的な規制を次々に緩和してきた。最後に残ったのがエネルギー分野な

のだ。

福島第一原発事故に関してアメリカ合衆国原子力委員会は異常な対応を見せた。委員長である

オバマ子飼いの官僚、グレゴリー・ヤツコが即時に非常事態を宣言し、情報を一手に操作し、早

期の段階から事態の深刻さを宣伝した。日本政府が三十キロ圏内の退避勧告を出したのに対して、

ヤツコは米国民に対して八十キロ退避勧告を出すなど、常に日本の対応の甘さを内外に印象付け

た。原子力産業を監視する機能をもつ委員会の長であるから原発に関しては厳しくチェックする

義務があるのだろう―そんな風に思っていたらアメリカ合衆国

内の原発についてのヤツコの対応は極めて甘い。なぜそこまで日

本の原発産業を攻撃するのか。そこには日本のエネルギー産業の

独占体制を解体しようとする意図があるようだ。ナオミ・クライ

ン流に言うならば、福島第一原発事故を「ショック・ドクトリン」

導入の好機と見る大きな力が働いている。(了)