shin as ベンガルムスリムpersonal.cseas.kyoto-u.ac.jp/~yama/film/pdf/jcasreview/...၂ ၀...

25
335 映画るアジアのナショナリティのらぎ 334 殿Il Postino Pitman, Todd 2012 Burma Comedy Shows Changing Censorship Rules . Irrawaddy Magazine Online on May 2, 2012. http://www.irrawaddy.org/archives/3419 Smith, Martin 1995 Censorship Prevails: Political Deadlock and Economic Transition in Burma. London: Article 19. http://www.article19.org/data/files/pdfs/publications/ burma-censorship-prevails.pdf Yadana Htun 2012 Films beat ban rumours to take honours . Myanmar Times. Vol. 31, No. 609. http://www.mmtimes. com/index.php/national-news/yangon/1301-films-beat-ban- rumours-to-take-honours.html The Lady The Lady အဒအခနးမြတ Ban that Scene!!! You Tube Rambo 退မြနြာနရပအစညးအရး။ ၂၀၀၄။ မြနြာရပသြးစဉရတကာလ၊ မြနြာနရပအစညးအရး။ ၉၂၀ ၁၉၄၅ရနကHumayun Ahmed シネコンにベンガルムスリム南出和余 【バングラデシュ】

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335 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 334

生活をしている人々と交わることは過去を再構成するのに

必要な想像力を培わせてくれると考えています

⑨所属学会helliphellip東南アジア学会華僑華人学会

⑩研究上の画期helliphellipつねにゆるやかに考えは変化しています

が大きな画期と言えるようなことはまだ経験していません

⑪推薦図書helliphellipアミタヴゴーシュ著『ガラスの宮殿』(小沢

自然小野正嗣訳新潮社二〇〇七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『イルポスティーノ』(原題『Il

Postino

』マイケルラドフォード監督一九九四年イタ

リアフランスベルギー)

参考文献

Pitman T

odd

(2012

)Burm

a Com

edy Shows C

hanging Censorship Rules

Irrawaddy M

agazine

(Online

)on May 2

2012 httpww

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(二〇一二年

一二月二日)

Smith M

artin(1995

)Censorship Prevails Political Deadlock

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urma London A

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(二〇一二年一二月二日)

Yadana H

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)Films beat ban rum

ours to take honours

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rumours-to-take-honourshtm

l

(二〇一二年一二月二日)

ミャンマー映画協会(二〇〇四)『ミャンマー映画史銀の時

代一九二〇〜一九四五』ヤンゴンミャンマー映画協会

馬場公彦(二〇〇四)『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』法政

大学出版局

原田正美(一九九七)「伝統芸能映画現代音楽――大衆文

化」田村克己根本敬編『ビルマ』(暮らしのわかるアジア

読本)河出書房新社二三二―二三九頁

レレウィン(二〇〇三)「表現の奪還植民地政権軍事

政権下のミャンマー映画」『表象文化論研究』第二巻四四

―五九頁

映画リスト

『The Lady

アウンサンスーチー 

ひき裂かれた愛』helliphellip①T

he Lady

②リュックベッソン③二〇一一年④フランス

イギリス⑤英語ミャンマー語⑥劇場公開(二〇一二)

『そのシーンカット』helliphellip①

初校一一〇頁下段参考文献

ミャンマー映画協会(2004

『ミャンマー映画史銀の

時代一九二〇~

一九四五』ヤンゴン

ミャンマー映画協会

の原語表記

原語表記

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

၂၀၀၄ မြနြာရပရငသ

ြငးစဉ ငငေရတ

ကာလ

၁၉၂၀minus

၁၉၄၅ ရနက

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

翻字表記

Myanm

a Nainngan Yoursquoshin As icircay

ocircun 2004 Myanm

a Yoursquoshin Thamacircinz icircn N

gwei Yadugrave Kal agrave 1920-1945 Yangoun M

yanma N

ainngan Yoursquoshin As icircayocircun

(ミャンマー

語)

初校一一一頁上段映画リスト

『そのシーンカット』原題

原語表記

အဒအ

ခနးမြတ

翻字表記

Ecirc Digrave Ahkacircn H

pyarsquo

(ミャンマー語)

Ban that Scene

②トゥンゾォウィン(ウィン)③二〇一一年④ミャン

マー⑤ミャンマー語⑥Y

ou Tube

(二〇一一)

『ビルマの竪琴』helliphellip①ビルマの竪琴②市川崑③一九五六

年④日本⑤日本語⑥劇場公開(一九五六)

『ビルマの竪琴』helliphellip①ビルマの竪琴②市川崑③一九八五

年④日本⑤日本語⑥劇場公開(一九八五)

『ランボー最後の戦場』helliphellip①Ram

bo

②シルベスタースタ

ローン③二〇〇八年④アメリカドイツ⑤英語ミャ

ンマー語タイ語⑥劇場公開(二〇〇八)

著者紹介

①氏名helliphellip長田紀之(おさだのりゆき)

②所属職名helliphellip慶應義塾大学文学部非常勤講師

③生年出身地helliphellip一九八〇年東京都

④専門分野地域helliphellipミャンマー近代史

⑤学歴helliphellip東京大学大学院人文社会系研究科(アジア文化研究

専攻)単位取得退学

⑦現地滞在経験helliphellipミャンマーのヤンゴン外国語大学に留学

(二七〜二八歳)

⑧研究手法helliphellip基本的には文献を主に用いた歴史研究を行って

いますしかし今ある風景を見ることや現にその場所で

初校一一〇頁下段参考文献

ミャンマー映画協会(2004

『ミャンマー映画史銀の

時代一九二〇~

一九四五』ヤンゴン ミャンマー映画協会

の原語表記

原語表記

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

၂၀၀၄ မြနြာရပရငသ

ြငးစဉ ငငေရတ

ကာလ

၁၉၂၀minus

၁၉၄၅ ရနက

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

翻字表記

Myanm

a Nainngan Yoursquoshin As icircay

ocircun 2004 Myanm

a Yoursquoshin Thamacircinz icircn N

gwei Yadugrave Kal agrave 1920-1945 Yangoun M

yanma N

ainngan Yoursquoshin As icircayocircun

(ミャンマー

語)

初校一一一頁上段映画リスト

『そのシーンカット』原題

原語表記

အဒအ

ခနးမြတ

翻字表記

Ecirc Digrave Ahkacircn H

pyarsquo

(ミャンマー語)

初校一一〇頁下段参考文献

ミャンマー映画協会(2004

『ミャンマー映画史銀の

時代一九二〇~一九四五』ヤンゴン

ミャンマー映画協会

の原語表記

原語表記

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

၂၀၀၄ မြနြာရပရငသ

ြငးစဉ ငငေရတ

ကာလ

၁၉၂၀minus

၁၉၄၅ ရနက

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

翻字表記

Myanm

a Nainngan Yoursquoshin As icircay

ocircun 2004 Myanm

a Yoursquoshin Thamacircinz icircn N

gwei Yadugrave Kal agrave 1920-1945 Yangoun M

yanma N

ainngan Yoursquoshin As icircayocircun

(ミャンマー

語)

初校一一一頁上段映画リスト

『そのシーンカット』原題

原語表記

အဒအ

ခနးမြတ

翻字表記

Ecirc Digrave Ahkacircn H

pyarsquo

(ミャンマー語)

初校一一〇頁下段参考文献

ミャンマー映画協会(2004

『ミャンマー映画史銀の

時代一九二〇~

一九四五』ヤンゴン

ミャンマー映画協会

の原語表記

原語表記

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

၂၀၀၄ မြနြာရပရငသ

ြငးစဉ ငငေရတ

ကာလ

၁၉၂၀minus

၁၉၄၅ ရနက

မြနြာနငငရပရငအစည

းအရး

翻字表記

Myanm

a Nainngan Yoursquoshin As icircay

ocircun 2004 Myanm

a Yoursquoshin Thamacircinz icircn N

gwei Yadugrave Kal agrave 1920-1945 Yangoun M

yanma N

ainngan Yoursquoshin As icircayocircun

(ミャンマー

語)

初校一一一頁上段映画リスト

『そのシーンカット』原題

原語表記

အဒအ

ခနးမြတ

翻字表記

Ecirc Digrave Ahkacircn H

pyarsquo

(ミャンマー語)

二〇一二年九月バングラデシュの首都ダッカの中心部

にあるシネマコンプレックス(以下シネコン)でバン

グラデシュを代表する作家であり映画監督のフマユンア

フメッド(H

umayun A

hmed

一九四八―二〇一二)の遺

作『逸楽の少年 

コモラ』が上映されたこの作品は領

主ジョミンダールが雨季で農作業ができない数か月の暇

つぶしにまだ一〇歳にも満たない男児が女装して踊る楽

団を家に抱え込むという古い文化を題材にそこで起こる

悲劇を描いたものであるアフメッド自身の原作映画であ

シネコンに集う「ベンガルムスリム」

南出和余

【バングラデシュ】

337 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 336

る自然が織りなす文化と生々しい人間の欲望と豊かな

情緒が入り混じり最後には子どもへの同情から観る者の

涙を誘ういかにも「ベンガルらしい」文学作品といえよ

うバ

ングラデシュ唯一のシネコンであるこの映画館は三

つのスクリーンを有しておりいつも満席だ三つのスク

リーンのうちの一つは常にバングラデシュ映画を上映して

いて残りの二つではハリウッド映画を中心に外国映画が

上映されているショッピングモール(ボションドラシ

ティ)の八階にある映画館の入り口にはポップコーンや

ホットドックソフトドリンクが売られていて日本のシ

ネコンと何ら変わらない出たところにはフードコートも

完備されていて映画の前後に食事をする家族連れやカッ

プルも少なくない

このダッカのシネコンをめぐる状況は現代のバングラ

デシュのミドルクラスの急成長を如実に示している本稿

ではバングラデシュの現在を代表するアート系映画監督

を概観しながらバングラデシュにおける「映画文化」の

変容について考えてみたい

「ベンガルムスリム」アイデンティティと映画

冒頭で紹介したフマユンアフメッドは映画監督であ

ると同時に作家でありシナリオライターでもありラビー

ンドロナートタゴール(Rabindranath T

agore

)やカジ

ノズルルイスラム(K

azi Nazrul Islam

)といったベンガ

ルを代表する作家に次ぐベンガル文学の巨匠と称されイ

ンド西ベンガルが中心とされがちなベンガル文化を東ベン

ガル(現バングラデシュ)から国内外に発信したバング

ラデシュが誇る作家であるアフメッド作品には自然が

織りなす文化や人間味の他におばけや呪術など超自然的

な力も登場する彼の小説やテレビドラマは後述する娯

楽映画とアート系映画の隔たりを超えて都市でも農村で

も人気がありさらに「ヒンドゥー文化を内包するイス

ラーム文化」とでも呼ぶべきベンガルムスリムの豊かさを

描き出している残念なことにアフメッド監督は二〇一

二年七月病のため滞在先のニューヨークで亡くなった

バングラデシュ映画界では最近不幸が続いているアフ

メッド監督死去の一年前二〇一一年八月にはバングラ

デシュを代表するもう一人の映画監督タレクマスゥド

(Tareque M

asud

一九五六―二〇一一)が交通事故で亡く

なっているマスゥド監督の代表作『マティル 

モイナ』

は二〇〇二年カンヌ映画祭で批評家連盟賞を受賞した

バングラデシュ映画史上最高受賞作品である東パキス

タン(現バングラデシュ)が政情不安定であった一九六〇

年代から一九七一年の独立直前のバングラデシュ農村を舞

台にマドラサ(イスラーム学校)に通う男児オヌの目線

を通してイスラームの教えや社会情勢そのなかで「生

きる道」を問うた傑作であるこの映画は数々の国際映画

祭で上映されながらイスラームを批判的に描いている側

面があるとされバングラデシュ国内では当時政権与党連

合を組んでいたバングラデシュイスラーム協会などから上

映を制限された

独立戦争はバングラデシュのアート系映画の主要テー

マであるマスゥド監督以外にもモルシェドゥルイス

ラム監督(M

orshedul Islam

一九五八―)やタンヴィル

モカメル監督(T

anvir Mokam

mel

一九五五―)もまた

数々の独立戦争の記憶を描いているイスラム監督作品の

多くはアジアフォーカス福岡国際映画祭で上映されてお

り今年(二〇一二年九月)の同映画祭で上映された『わ

が友ラシェド』は一三四歳の少年たちが独立戦争をど

のように見ていかに関わったかを描いている

タレクマスゥドモルシェドゥルイスラムタン

ヴィルモカメル各監督の作品に共通する視点としてザ

キルは「ベンガル」と「イスラーム」の二分化とさら

に「ベンガルムスリム」としてのアイデンティティの強調

を指摘する(Zakir 2008

)まさにバングラデシュの歴史そ

のものがそうであるようにムスリムとしてのヒンドゥー

との差異化ベンガルとしてのパキスタンとの差異化が合

わさったところに「ベンガルムスリム」のアイデンティ

ティが示されるマスゥド監督の『マティル 

モイナ』に

描かれるマドラサはイスラームの教えを決して否定する

わけではなく生きることを救う道は何かを問おうとして

いる(写真)またモカメル監督作品『ラロン』はムス

リムでもヒンドゥーでもない「バウル」文化を伝えるラロ

ンフォキルの生涯を描くザキルはこの三人の映画監督

を「文化モダニスト」(Cultural M

odernists

)と呼びバン

グラデシュの「現代国家文化アイデンティティ」の発展に

寄与していると述べる(Zakir 2008

三人の監督はみな一九五〇年代後半の生まれで年齢を

写真『マティル モイナ』の1シーン

339 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 338

ほぼ同じくする一九七一年の独立戦争当時彼らは一

四五歳で『マティル 

モイナ』にしても『わが友ラ

シェド』にしても独立戦争を少年の視点から描いている

のはまさに監督たち自身が経験した世界そのものなの

であるイスラム監督は『わが友ラシェド』を制作する

にあたって自らが目にして経験した戦争を描きたかった

と語る

イスラム監督が映画制作に従事するようになった

動機そのものがバングラデシュの独立を語り継ぐことに

あったという

シネコン人気と地方映画館の減少

アート系映画を中心としたシネコン人気とは裏腹にバ

ングラデシュ全体の年間映画制作数は減少傾向にある五

六年前には年間一〇〇本程度であったが現在は三〇から

四〇本程度だという本稿で紹介してきたようなアート系

映画をバングラデシュの人びとは「国際映画」(International

Cinema

)と呼びそれ以外の商業娯楽映画(通称「バング

ラ映画(Bangla Cinem

a

)」)と区別するバングラ映画には

ヒーローと悪役がはっきりと示されるアクション系や家

族のいざこざと絆を描いた人情系の映画が多い映画全体

に占める割合としてはバングラ映画の方が多いがそのバ

ングラ映画が今減っている

映画制作減少の背景には映画館の減少がある著しい経

済成長とインフレにあるバングラデシュではダッカだけ

でなく地方都市にもショッピングモールが急増している

映画館はそうした商業施設に建て替えられるショッピン

グモールの急増は消費活動の活性化と女性の社会進出を

示すそもそもダッカでも地方都市でも冒頭に紹介した

シネコン以外の映画館に女性が足を運ぶことはほとんどな

い筆者が見学のために映画館に行こうとしても周囲の

人びとから反対され未だ足を運んだことがない通常の

映画館は音響システムも悪く痴漢も多くて女性が行くべ

きところではないというダッカのシネコン以外で女性が

映画を見る機会は図書館や文化館など公共施設の「オウ

ディトリウム」で上映される場合かテレビ放映やDVD

である

さらに南アジアに位置するバングラデシュにとって

映画大国である隣国インドの存在を無視することはできな

い映画館や公共施設での映画の商業上映は両国政府間

協議によって互いに禁止されているにもかかわらずテ

レビの普及にともなってケーブル回線やDVDでバングラ

デシュの人びとがインド映画を観る機会は急増している

とくにインド西ベンガルで生産される「コルカタバング

ラ映画」(K

olkata Bangla Cinema

)は言語を同じくする

ことから人気が高く農村でもDVDが出回っているア

クション系の多いバングラ映画に比べて物語性の強いコル

カタバングラ映画は村人たちの間でも「良質」とされ好

まれるこれに加えて近年インドのケーブルテレビを

受信するようになるとヒンディー映画を観る機会も増

し若い世代を中心に人気を博しているボリウッド映画

によるヒーロー像はバングラデシュの人びとにも少なから

ず影響を与えバングラ映画の人気がなくなりつつある原

因にもなっている

インド映画の影響をバングラデシュの映画監督たちはど

のように見ているのだろうか前述のイスラム監督によれ

ば近年インド映画の人気が高まるにつれてまた映画

館復興のために映画館でインド映画を上映することの是

非が議論されているというしかし映画監督の大半はこ

れに反対でありその理由はバングラデシュ映画衰退の

危惧だけでなくベンガル語の衰退への危惧がある現

在ケーブルテレビでヒンディー映画や日本アニメのヒン

ディー語吹き替え版等を好んで観る子どもたちさらに英

語教育指向にあるミドルクラスの子どもたちのベンガル

語能力の衰退が危惧されているのであるイスラム監督を

はじめとする映画監督たちの映画への思いが国家アイデン

ティティにありさらにベンガル語が独立の旗印であった

ことを考えればヒンディー映画の文化への影響を危惧す

ることも理解できようしかし言語という点において

はコルカタバングラ映画に限って公共上映を開放しても

よいのではないかとイスラム監督は語る

このようにバングラデシュの人びとは「バングラ映

画(商業娯楽映画)」「国際映画(バングラデシュアート系

映画)」「コルカタバングラ映画(インド西ベンガル映画)」

と区別する農村の人びとがどれを好むかといえば筆者

が農村の一家庭に滞在してフィールドワークをしてきた経

験からは商業娯楽映画かコルカタバングラ映画が多く

意外にもアート系映画の人気は限られるフマユンアフ

メッド監督のテレビドラマは農村でも人気が高いにもかか

わらずアート系映画はなぜ受け入れられないのか村の

人びとは「モルシェドゥルイスラムの映画は観ていて

辛い」という社会のリアリティや苦悩を描き娯楽映画

のようなハッピーエンドとはいかずときに悲劇で終わる

映画はそのリアリティが人びとには辛いのだという

ザキルは前述のバングラデシュを代表する三人の映画

監督たちを「視点が西欧化されたモダニスト」と指摘する

がその意図は彼らがバングラデシュという国家や社会

を客観的に描く視点を有しているからである(Zakir

2008

)しかし外国人である筆者は彼らの映画は単に

客観的であるだけでなく「内側の自覚」が含まれてお

りそこにバングラデシュという大地と人びとが発する強

いメッセージがあるように見ている

341 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 340

娯楽大衆映画から教養映画へ

以上本稿ではアート系映画を中心にバングラデシュ

映画の現状を概観しながら作り手と視聴者の双方がもた

らす「映画文化」の変容について検討してきた商業娯楽

映画の詳細については言及できなかったが筆者の知識が

及んでいないところであり今後の課題としたいまた

ドキュメンタリー映画については紙面の制限上別の機会

を待つ

アート系映画は農村では未だ受容に限界があることも

事実であるがダッカのシネコンではいつも満席になる人

気であるさらに映画館が衰退するなかでダッカだけ

でなく地方都市においても公共施設のオウディトリウムで

アート系映画が上映される機会は増えつつありそうした

映画上映会には多くの人が集まるそこに来る観客はい

わゆる近代高等教育を受けたミドルクラスである教育に

よって人びとは自らの社会を批判的に概観する目を養

うここに紹介した映画監督たちはみなダッカ大学を卒業

し基本的にバングラデシュに腰を下ろして映画制作に取

り組んでいる国と社会を愛しそこで生きる人びとのリ

アリティを描くその姿勢はドキュメンタリーでも劇映

画でも変わらないだからこそそのリアリティを突きつ

けられる人びとの心を「辛すぎる」と思わせるほどに動か

す彼らのアート系映画の浸透はすでに一部に見られる

ように教育の浸透とミドルクラスによる映画文化の再解

釈にかかっているのかもしれない次なる課題はバング

ラデシュの大地と社会に深く根ざす彼らの映画が海外で

バングラデシュを知らない者たちにも広く受け入れられる

ようになるために彼らの映画がもつ「自覚」が人間社会

に普遍的なテーマとして発せられるかという点にかかって

いるといえよう

筆者による監督へのインタビューより(二〇一二年八

月ダッカにて)現地インタビューおよび映像資料収集に

おいては二〇一二年度桃山学院大学特定個人研究費による

援助を受けた

参考文献

Zakir Hossain Raju

(2008

)Madrasa and Muslim

Identity on Screen N

ation Islam and Bangladeshi A

rt Cinema on the

Global Stage

Jamal M

alik

(ed

) Madrasas in South A

sia T

eaching Terror London Routledge pp 125-141

映画リスト

『逸楽の少年コモラ』helliphellip①

Pleasure Boy Komola

②フマユンアフメッド③二〇一二年④バングラデシュ

⑤ベンガル語⑥未公開

『マティル モイナ』helliphellip①

〔泥の鳥〕The Clay Bird

②タレクマスゥド③二〇〇二年④バングラデシュ⑤

ベンガル語⑥輸入DVD販売

『ラロン』helliphellip①

Lalon

②タンヴィルモカメル③二

〇〇四年④バングラデシュ⑤ベンガル語⑥アジアフォー

カス福岡国際映画祭(二〇〇九)

『わが友ラシェド』helliphellip①

My Friend Rashed

②モルシェドゥルイスラム③二〇一一年④バングラデ

シュ⑤ベンガル語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭

(二〇一二)

著者紹介

①氏名helliphellip南出和余(みなみでかずよ)

②所属職名helliphellip桃山学院大学国際教養学部講師

③生年出身地helliphellip一九七五年大阪府

④専門分野地域helliphellip文化人類学バングラデシュ

⑤学歴helliphellip神戸女学院大学文学部英文学科卒総合研究大学院

大学文化科学研究科博士後期課程修了

⑥職歴helliphellip日本学術振興会特別研究員(受入機関京都大学地

域研究統合情報センター)を経て二〇一〇年から桃山学院

大学国際教養学部講師(現職)

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇〇年(一〇か月)二〇〇三〜二〇

〇四年(計一年)二〇〇八年〜二〇〇九年(六か月)バン

グラデシュ農村でフィールドワーク(ダッカ大学人類学部受

入)二〇〇九年(四か月)米国ニューヨーク大学人類学部

にてResearch Fellow

として映像人類学を研究

⑧研究手法helliphellipフィールドワーク(参与観察)および映像制作

⑨所属学会helliphellip日本文化人類学会日本南アジア学会日本子

ども社会学会など

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年タイのジョムティエンで開催さ

れた「Education For A

ll

(万人のための教育)世界会議」に

よって開発教育への機運が一機に高まりことにバングラ

デシュNGOによるノンフォーマル教育普及活動が注目を集

めた一九七一年の独立以来バングラデシュが抱える貧

困開発の問題は当該地域研究の主要課題であるだけでな

く国際開発全体の側から見てもバングラデシュは主要地域

とされるノンフォーマル教育やマイクロクレジットの取り

組みはその関心をさらに助長し研究と実践の融合(実践型

地域研究)モデルとなっているしかしこの関心が強すぎ

るあまりに当該地域の固有の文化的側面への関心が脇に追い

やられがちなのは残念である

⑪推薦図書helliphellipW

illis Paul 1977 Learning to Labor How W

orking Class K

ids Get W

orking Class Jobs Columbia U

P

(熊沢誠

山田潤訳)『ハマータウンの野郎ども』(筑摩書房一九九

六年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『プロミス』(原題『Prom

ises

』ジャス

ティーンシャピロBZゴールドバーグ監督二〇〇

一年アメリカ)

343 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 342

ヒマラヤの険しい山々に囲まれた幸せの国ブータンど

こか懐かしい色あせた写真の風景が郷愁を誘う国だ(写真

1)北を中国(チベット自治区)南をインドと二つの大

国に国境を接し北限は雪で閉ざされた七〇〇〇メートル

級の山稜南部は標高一五〇メートルの平原に亜熱帯の

ジャングルが広がる人口約六〇万人の隠れ里であった小

国は一九七〇年代の経済的発展重視の時代に当時まだ

一〇代であったブータン第四代国王が「国の豊かさはGD

P(国内総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)で図る

べきである」と提唱して一躍有名となった

二つの大国に挟まれたブータンは常に侵略の脅威にさ

らされてきた一九五九年チベットは中国の占領下に入

り他のチベット仏教国ラダックシッキムはインドに吸

収されたブータンのみが唯一のチベット仏教国として独

自文化を守り続けている近年までほぼ鎖国状態を続けて

いたブータンに入国する外国人には高額の観光税が課せら

れる伝統衣装の着用が義務付けられており未だに牛

耕自家採種を中心とする自給自足的な暮らしが残ってい

写真1 ブータンの村の風景

るGNHを切り口に語られることが多いブータンである

が映画からその暮らしと人生観を考察してみたい

ブータン映画の紹介

ブータン映画は仏教の教え呪い迷信魔術輪廻

転生などがテーマになっているものが多く歴史の流れに

忘れられたヒマラヤのシャングリラの風習や人生観が垣間

見える貴重な資料だインドのボリウッド映画の影響を受

け壮大な自然を背景にロマンティックなメロディーが流

れ恋人たちが手を取り合って踊りで気持ちを表現する

シーンが入るそんなブータン映画をいくつか紹介する

Travellers and Magicians

『Travellers and M

agicians

』はカリスマ的なブータ

ンの仏教指導者であるケンセーノルブがメガホンを握っ

た作品だケンセーノルブは幼き頃ジャムヤンケ

ンセーリンポチェの生まれ変わりとして指導者の座につ

いた「映画は精神を表現する曼荼羅でありタンカ(掛

け軸)である」とケンセーノルブは映画を製作した理由

について語る仏教精神を込めたこの映画はインドのボ

リウッド映画の影響を受けた他のブータン映画とは一線を

画する趣に仕上がっている「欲望は心が作り出す幻であ

る」チベット仏教の教えを美しい映像とともにセン

セーショナルに伝える(写真2)

舞台は現代ブータンと魔術の時代である古きブータンの

二つのストーリーが交錯する一か月前に田舎に赴任して

きた政府の役人ドンドゥップはイライラしながらゆった

りとした時間を生きる村人たちを眺める彼は何もない

退屈な村を抜け出し夢の国アメリカに渡るため首都ティ

ンプーを目指すところが週に数本しかないバスに乗り

遅れ片道三日かかる旅路を僧侶リンゴ売り少女と

ともにヒッチハイクで旅をする(写真3)

ドンドゥップとともに旅する僧侶が昔話を語り聞かせ

る魔術師の学校に通うタシはどこか遠い国を夢見て修

行から逃げ出す途中山の中で遭難し隠れ里で美しい女

写真2『Travellers and Magicians』DVD パッケージ

幸せの国ブータンの暮らしと人生観に見る幸せの秘訣前田知里

【ブータン】

345 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 344

性デキに出会う彼女は年老いた夫と二人きりで山奥で生

活していた二人は恋に落ちタシが魔術学校で習った薬

草でデキの夫を毒殺しようと試みるホラー映画のシーン

のように一晩中雄叫びをあげる老人タシは耐え切れ

ず山小屋から逃げ出してしまう

アメリカを目指すのか 

老人を殺そうか 

旅人と魔

術師は願望と現実の葛藤に陥る自由の国に憧れるドン

ドゥップは現代ブータンの象徴である電気も機械もない

シンプルな暮らしを送っていたブータンに近代化情報化

の波が押し寄せ現代のブータンの若者はいろんな魅力に

さらされているブータンは昔のままであるべきなのか

本当に大切なものは何かを映画は問いかけている

The Golden C

upmdashThe Legacy

「これを持っていると幸せになれるただし中のお金

を決して使ってはいけないよ」チベット人から金の壺を

受け取った少女は生涯その壺を大切にし豊かに暮らし

たある日子孫がそのお金を知らずに使ってしまい

「自分の手で作った食事を食べた者は皆死ぬ」という呪い

をかけられる

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』はリンジンリン

ジンの短編小説『幸運の護符』(T

alisman of Good

Fortune

)をベースに製作された一六〇分の長編作であ

る六世代にわたる呪われた一族の女たちの人生を描く壮

大なドラマだ呪いは五世代にわたり代々女性にのみ受

け継がれた一族の女が愛した男はみな姿を消した女た

ちは金の壺が血を求めると誰かを生贄にしなければいけ

ないという宿命を背負っていたのだ

呪いのことを知らずに育ったラモはシリンのプロポー

写真3 僧侶リンゴ売り少女らと旅するドンドゥップ

ズを受け周囲の反対を押し切って同棲を始めるラモの

宿命を知ったシリンは彼女に別れを告げ別の女性と一緒

になったラモは裏切ったシリンと新しい家族に復讐を

誓い呪いの力を受け継いだ彼女は人生のすべてを邪悪

な力に注ぎ込み復讐を果たすが心は晴れず孤独感に

苛まれる

ラモとシリンの間には女の子がいた少女は恋をし青

年と一緒になることに決める青年は呪われた娘である

とすべて承知の上で一緒になり二人は呪いの力が及ばな

い遠くへ逃げる「この子に呪いがわたる前になんとかし

なければhelliphellip」ラモは呪いの連鎖を断ち切るべく母と

祖母を部屋に閉じ込め金の壺を抱いて火をつける

迷信深いブータンの村には「シャーマン」(呪術師)が

住むとされる村に禍や疫病が流行ると邪悪な力を持つ

とされる「シャーマン」のレッテルを誰かが貼られス

ケープゴートとなったこの映画はカルマシャーマニ

ズム輪廻転生の思想を根底に迷信深い村人たちの言動

や思想を浮き彫りにする

ブータン映画に見るムラの暮らしと思想

ブータンの結婚観は日本の平安時代の通い婚に似てい

るブータン西部は女系社会であり土地は長女に受け継

がれる夜這い(ナイトハンティング)の文化が残るブー

タンでは恋人たちが逢い引きするお祭などの時にしめ

しあわせて女性は夜にそっと戸をあけておくこの場面

でたいていインドのボリウッド映画の影響を受けた踊りの

シーンが入るあざやかな衣装で結婚式を挙げるというの

はモダンな発想でほとんどは男が女の元に通うようにな

りいつの間にか一緒になっているものだ婿入りといっ

てもブータンには苗字がなく「家」の概念は薄い離

婚率も高く一夫多妻ならぬ一妻多夫の例も村部では残っ

ている村の親戚関係は実に複雑であるが親戚の子であ

れ友人の子であれ子どもをかわいがり面倒をみるのが

ブータン人の人情なのである

ブータンで国王に並ぶ権力をもつのが宗教指導者であ

るリンポチェやラマが亡くなると弟子たちが輪廻転生

した生まれ変わりの子供を探し出す『T

ravellers and M

agicians

』はリンポチェ自らが仏教思想を織り込んだ

映画を監督したことで話題となった

仏教の教えではこの世で施したすべての行いはたと

え生まれ変わっても必ず返ってくる理不尽に見える宿命

もすべてはカルマなのだ天の采配に疑問を抱かずす

べてに感謝し在るがままに受け入れることを説くお葬

式を派手にあげるが墓はない生まれ変わりを信じてい

るので祖先を祭ることもないのだ「生まれ変わっても会

いたい」とは恋人たちの決まり文句である

347 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 346

仏教と同時にブータン人の思想に深く影響しているのが

アニミズムシャーマニズムだといえるブータン人は土

地の神様を畏れ敬い呪術に救いを求める食事の前には

呪いを唱えながら酒やご飯などをばらまき大地の神様に

供物を捧げる経文を印刷したカラフルな旗「ルンタ」(風

の馬)が軒先や橋の上で風にそよぐ峠には賽の河原のよ

うに積み上げられた石が並ぶブータンの村には至る所に

スピリチュアルなシンボルがちりばめられ不思議な魔力

を持つ世界に迷い込んだような錯覚に陥るシャーマンは

呪術師であると同時に漢方薬草の知識をもつ伝統医師

でもある村には病院がなく町まで歩いて片道二〜三日

かかる例も少なくないシャーマニズムは映画の世界のみ

ならず今でもブータンの村の暮らしに息づいている

集落での共同作業は交換労働(Exchange Labour

)と呼

ばれている田植えの時期には持ち回りで水牛や労働力を

提供し合い一か月かけて集落内の田を耕す(写真4)

集落が所有する森は共同で手入れをする誰かが新居を構

える際は交換労働の終了後手伝ってくれた人たちに御

馳走をふるまう機械を導入した方が早く安あがりかもし

れないが共同作業がなくなれば人と人との絆は弱くな

りコミュニティが弱体化してしまう足並みをそろえて

動く視野の狭い村人たちを苛立たしく眺める役人ドン

ドゥップは現代社会に生きるブータンの若者の象徴であ

る進化か保守かブータン社会は変容への警戒を抱えて

いる

幸せの国ブータンに一度は行ってみたいというのは映

画にでてくる青い鳥を探しに旅に出た二人の男性と同じで

はないか「欲望は苦痛をもたらす」と監督であるジャム

ヤンケンセーリンポチェは説く隣の芝生は青く見え

るものだ幸せの秘訣は「足るを知る」ブータンのシン

プルな暮らしと人との絆を大切にする心にあるのではな

いだろうか

写真4 水牛と労働力を提供しあう共同作業

参考文献

歌川令三(二〇〇六)「小国の地政学秘境ブータンはなぜ

滅びないか」『東京財団研究報告書』

大岩圭之助ほか(二〇〇八)「GNH豊かさという概念を問

い直す」明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』第

一一号四

映画『T

ravellers and Magicians

』公式サイト(httpw

ww

travellersandm

agicianscom

映画リスト

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』helliphellip①T

he Golden CupmdashT

he Legacy

②シリンウォンゲル③二〇〇六年④ブー

タン⑤ゾンカ語⑥劇場公開DVD販売

『Travellers and M

agicians

』helliphellip①T

ravellers and Magicians

②ケンセーノルブ③二〇〇三年④ブータン⑤ゾンカ

語⑥劇場公開DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip前田知里(まえだちさと)

②所属職名helliphellip伊根町地域整備課

③生年出身地helliphellip一九八一年京都府

④専門分野地域helliphellip有機農業ブータン

⑤学歴helliphellipワーゲニンゲン大学有機農業研究科(アグロエコロ

ジー専攻)修了

⑥職歴helliphellipインドの研究所A

shoka Trust for Research in

Ecology and the Environment

(AT

REE

)とEUとの共同研

究で半年間「有機農業の環境影響評価プロジェクト」に従

事ブータン政府GNH委員会からの招請を受けジャムヤ

ンケンセーリンポチェが主導するブータン初のローカル

NGOSam

drup Jongkhar Initiative

(SJI

)で半年間有機農

業の普及調査に携わる

⑦現地滞在経験helliphellipインドのオーガニック運動を先導するヴァ

ンダナシヴァ博士の農場ナブダニア(N

avdanya

)でブー

タンの先進農家二〇名とともに研修を受ける

⑧研究手法helliphellipインド(ナブダニアの研究者)カナダ日本

の国際チームで約三〇の村を訪問しインタビューを行っ

た有機農業の調査と普及を同時並行で行う国家プロジェク

トであったため利用可能な資源や有機農業の課題などを分

析しつつその集落の現状に合わせたトレーニングを実施す

るというアクションリサーチであった

⑨所属学会helliphellip日本有機農業研究会

⑩研究上の画期helliphellipブータン政府はGNH向上を目的として国

土全体を一〇〇パーセントオーガニックに変えるという声明

を発表したこれをうけGNH委員会は有機農薬の研究者

を全世界に公募した

⑪推薦図書helliphellip特になし

⑫推薦する映画作品helliphellip『U

nmistaken Child

』(ナティバラツ

監督二〇〇八年イスラエル)リンポチェの生まれ変わ

りを探す旅に出た弟子の旅路を追うドキュメンタリー映画

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

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l

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「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

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porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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दिल स

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踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

踊るマハラジャ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

337 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 336

る自然が織りなす文化と生々しい人間の欲望と豊かな

情緒が入り混じり最後には子どもへの同情から観る者の

涙を誘ういかにも「ベンガルらしい」文学作品といえよ

うバ

ングラデシュ唯一のシネコンであるこの映画館は三

つのスクリーンを有しておりいつも満席だ三つのスク

リーンのうちの一つは常にバングラデシュ映画を上映して

いて残りの二つではハリウッド映画を中心に外国映画が

上映されているショッピングモール(ボションドラシ

ティ)の八階にある映画館の入り口にはポップコーンや

ホットドックソフトドリンクが売られていて日本のシ

ネコンと何ら変わらない出たところにはフードコートも

完備されていて映画の前後に食事をする家族連れやカッ

プルも少なくない

このダッカのシネコンをめぐる状況は現代のバングラ

デシュのミドルクラスの急成長を如実に示している本稿

ではバングラデシュの現在を代表するアート系映画監督

を概観しながらバングラデシュにおける「映画文化」の

変容について考えてみたい

「ベンガルムスリム」アイデンティティと映画

冒頭で紹介したフマユンアフメッドは映画監督であ

ると同時に作家でありシナリオライターでもありラビー

ンドロナートタゴール(Rabindranath T

agore

)やカジ

ノズルルイスラム(K

azi Nazrul Islam

)といったベンガ

ルを代表する作家に次ぐベンガル文学の巨匠と称されイ

ンド西ベンガルが中心とされがちなベンガル文化を東ベン

ガル(現バングラデシュ)から国内外に発信したバング

ラデシュが誇る作家であるアフメッド作品には自然が

織りなす文化や人間味の他におばけや呪術など超自然的

な力も登場する彼の小説やテレビドラマは後述する娯

楽映画とアート系映画の隔たりを超えて都市でも農村で

も人気がありさらに「ヒンドゥー文化を内包するイス

ラーム文化」とでも呼ぶべきベンガルムスリムの豊かさを

描き出している残念なことにアフメッド監督は二〇一

二年七月病のため滞在先のニューヨークで亡くなった

バングラデシュ映画界では最近不幸が続いているアフ

メッド監督死去の一年前二〇一一年八月にはバングラ

デシュを代表するもう一人の映画監督タレクマスゥド

(Tareque M

asud

一九五六―二〇一一)が交通事故で亡く

なっているマスゥド監督の代表作『マティル 

モイナ』

は二〇〇二年カンヌ映画祭で批評家連盟賞を受賞した

バングラデシュ映画史上最高受賞作品である東パキス

タン(現バングラデシュ)が政情不安定であった一九六〇

年代から一九七一年の独立直前のバングラデシュ農村を舞

台にマドラサ(イスラーム学校)に通う男児オヌの目線

を通してイスラームの教えや社会情勢そのなかで「生

きる道」を問うた傑作であるこの映画は数々の国際映画

祭で上映されながらイスラームを批判的に描いている側

面があるとされバングラデシュ国内では当時政権与党連

合を組んでいたバングラデシュイスラーム協会などから上

映を制限された

独立戦争はバングラデシュのアート系映画の主要テー

マであるマスゥド監督以外にもモルシェドゥルイス

ラム監督(M

orshedul Islam

一九五八―)やタンヴィル

モカメル監督(T

anvir Mokam

mel

一九五五―)もまた

数々の独立戦争の記憶を描いているイスラム監督作品の

多くはアジアフォーカス福岡国際映画祭で上映されてお

り今年(二〇一二年九月)の同映画祭で上映された『わ

が友ラシェド』は一三四歳の少年たちが独立戦争をど

のように見ていかに関わったかを描いている

タレクマスゥドモルシェドゥルイスラムタン

ヴィルモカメル各監督の作品に共通する視点としてザ

キルは「ベンガル」と「イスラーム」の二分化とさら

に「ベンガルムスリム」としてのアイデンティティの強調

を指摘する(Zakir 2008

)まさにバングラデシュの歴史そ

のものがそうであるようにムスリムとしてのヒンドゥー

との差異化ベンガルとしてのパキスタンとの差異化が合

わさったところに「ベンガルムスリム」のアイデンティ

ティが示されるマスゥド監督の『マティル 

モイナ』に

描かれるマドラサはイスラームの教えを決して否定する

わけではなく生きることを救う道は何かを問おうとして

いる(写真)またモカメル監督作品『ラロン』はムス

リムでもヒンドゥーでもない「バウル」文化を伝えるラロ

ンフォキルの生涯を描くザキルはこの三人の映画監督

を「文化モダニスト」(Cultural M

odernists

)と呼びバン

グラデシュの「現代国家文化アイデンティティ」の発展に

寄与していると述べる(Zakir 2008

三人の監督はみな一九五〇年代後半の生まれで年齢を

写真『マティル モイナ』の1シーン

339 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 338

ほぼ同じくする一九七一年の独立戦争当時彼らは一

四五歳で『マティル 

モイナ』にしても『わが友ラ

シェド』にしても独立戦争を少年の視点から描いている

のはまさに監督たち自身が経験した世界そのものなの

であるイスラム監督は『わが友ラシェド』を制作する

にあたって自らが目にして経験した戦争を描きたかった

と語る

イスラム監督が映画制作に従事するようになった

動機そのものがバングラデシュの独立を語り継ぐことに

あったという

シネコン人気と地方映画館の減少

アート系映画を中心としたシネコン人気とは裏腹にバ

ングラデシュ全体の年間映画制作数は減少傾向にある五

六年前には年間一〇〇本程度であったが現在は三〇から

四〇本程度だという本稿で紹介してきたようなアート系

映画をバングラデシュの人びとは「国際映画」(International

Cinema

)と呼びそれ以外の商業娯楽映画(通称「バング

ラ映画(Bangla Cinem

a

)」)と区別するバングラ映画には

ヒーローと悪役がはっきりと示されるアクション系や家

族のいざこざと絆を描いた人情系の映画が多い映画全体

に占める割合としてはバングラ映画の方が多いがそのバ

ングラ映画が今減っている

映画制作減少の背景には映画館の減少がある著しい経

済成長とインフレにあるバングラデシュではダッカだけ

でなく地方都市にもショッピングモールが急増している

映画館はそうした商業施設に建て替えられるショッピン

グモールの急増は消費活動の活性化と女性の社会進出を

示すそもそもダッカでも地方都市でも冒頭に紹介した

シネコン以外の映画館に女性が足を運ぶことはほとんどな

い筆者が見学のために映画館に行こうとしても周囲の

人びとから反対され未だ足を運んだことがない通常の

映画館は音響システムも悪く痴漢も多くて女性が行くべ

きところではないというダッカのシネコン以外で女性が

映画を見る機会は図書館や文化館など公共施設の「オウ

ディトリウム」で上映される場合かテレビ放映やDVD

である

さらに南アジアに位置するバングラデシュにとって

映画大国である隣国インドの存在を無視することはできな

い映画館や公共施設での映画の商業上映は両国政府間

協議によって互いに禁止されているにもかかわらずテ

レビの普及にともなってケーブル回線やDVDでバングラ

デシュの人びとがインド映画を観る機会は急増している

とくにインド西ベンガルで生産される「コルカタバング

ラ映画」(K

olkata Bangla Cinema

)は言語を同じくする

ことから人気が高く農村でもDVDが出回っているア

クション系の多いバングラ映画に比べて物語性の強いコル

カタバングラ映画は村人たちの間でも「良質」とされ好

まれるこれに加えて近年インドのケーブルテレビを

受信するようになるとヒンディー映画を観る機会も増

し若い世代を中心に人気を博しているボリウッド映画

によるヒーロー像はバングラデシュの人びとにも少なから

ず影響を与えバングラ映画の人気がなくなりつつある原

因にもなっている

インド映画の影響をバングラデシュの映画監督たちはど

のように見ているのだろうか前述のイスラム監督によれ

ば近年インド映画の人気が高まるにつれてまた映画

館復興のために映画館でインド映画を上映することの是

非が議論されているというしかし映画監督の大半はこ

れに反対でありその理由はバングラデシュ映画衰退の

危惧だけでなくベンガル語の衰退への危惧がある現

在ケーブルテレビでヒンディー映画や日本アニメのヒン

ディー語吹き替え版等を好んで観る子どもたちさらに英

語教育指向にあるミドルクラスの子どもたちのベンガル

語能力の衰退が危惧されているのであるイスラム監督を

はじめとする映画監督たちの映画への思いが国家アイデン

ティティにありさらにベンガル語が独立の旗印であった

ことを考えればヒンディー映画の文化への影響を危惧す

ることも理解できようしかし言語という点において

はコルカタバングラ映画に限って公共上映を開放しても

よいのではないかとイスラム監督は語る

このようにバングラデシュの人びとは「バングラ映

画(商業娯楽映画)」「国際映画(バングラデシュアート系

映画)」「コルカタバングラ映画(インド西ベンガル映画)」

と区別する農村の人びとがどれを好むかといえば筆者

が農村の一家庭に滞在してフィールドワークをしてきた経

験からは商業娯楽映画かコルカタバングラ映画が多く

意外にもアート系映画の人気は限られるフマユンアフ

メッド監督のテレビドラマは農村でも人気が高いにもかか

わらずアート系映画はなぜ受け入れられないのか村の

人びとは「モルシェドゥルイスラムの映画は観ていて

辛い」という社会のリアリティや苦悩を描き娯楽映画

のようなハッピーエンドとはいかずときに悲劇で終わる

映画はそのリアリティが人びとには辛いのだという

ザキルは前述のバングラデシュを代表する三人の映画

監督たちを「視点が西欧化されたモダニスト」と指摘する

がその意図は彼らがバングラデシュという国家や社会

を客観的に描く視点を有しているからである(Zakir

2008

)しかし外国人である筆者は彼らの映画は単に

客観的であるだけでなく「内側の自覚」が含まれてお

りそこにバングラデシュという大地と人びとが発する強

いメッセージがあるように見ている

341 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 340

娯楽大衆映画から教養映画へ

以上本稿ではアート系映画を中心にバングラデシュ

映画の現状を概観しながら作り手と視聴者の双方がもた

らす「映画文化」の変容について検討してきた商業娯楽

映画の詳細については言及できなかったが筆者の知識が

及んでいないところであり今後の課題としたいまた

ドキュメンタリー映画については紙面の制限上別の機会

を待つ

アート系映画は農村では未だ受容に限界があることも

事実であるがダッカのシネコンではいつも満席になる人

気であるさらに映画館が衰退するなかでダッカだけ

でなく地方都市においても公共施設のオウディトリウムで

アート系映画が上映される機会は増えつつありそうした

映画上映会には多くの人が集まるそこに来る観客はい

わゆる近代高等教育を受けたミドルクラスである教育に

よって人びとは自らの社会を批判的に概観する目を養

うここに紹介した映画監督たちはみなダッカ大学を卒業

し基本的にバングラデシュに腰を下ろして映画制作に取

り組んでいる国と社会を愛しそこで生きる人びとのリ

アリティを描くその姿勢はドキュメンタリーでも劇映

画でも変わらないだからこそそのリアリティを突きつ

けられる人びとの心を「辛すぎる」と思わせるほどに動か

す彼らのアート系映画の浸透はすでに一部に見られる

ように教育の浸透とミドルクラスによる映画文化の再解

釈にかかっているのかもしれない次なる課題はバング

ラデシュの大地と社会に深く根ざす彼らの映画が海外で

バングラデシュを知らない者たちにも広く受け入れられる

ようになるために彼らの映画がもつ「自覚」が人間社会

に普遍的なテーマとして発せられるかという点にかかって

いるといえよう

筆者による監督へのインタビューより(二〇一二年八

月ダッカにて)現地インタビューおよび映像資料収集に

おいては二〇一二年度桃山学院大学特定個人研究費による

援助を受けた

参考文献

Zakir Hossain Raju

(2008

)Madrasa and Muslim

Identity on Screen N

ation Islam and Bangladeshi A

rt Cinema on the

Global Stage

Jamal M

alik

(ed

) Madrasas in South A

sia T

eaching Terror London Routledge pp 125-141

映画リスト

『逸楽の少年コモラ』helliphellip①

Pleasure Boy Komola

②フマユンアフメッド③二〇一二年④バングラデシュ

⑤ベンガル語⑥未公開

『マティル モイナ』helliphellip①

〔泥の鳥〕The Clay Bird

②タレクマスゥド③二〇〇二年④バングラデシュ⑤

ベンガル語⑥輸入DVD販売

『ラロン』helliphellip①

Lalon

②タンヴィルモカメル③二

〇〇四年④バングラデシュ⑤ベンガル語⑥アジアフォー

カス福岡国際映画祭(二〇〇九)

『わが友ラシェド』helliphellip①

My Friend Rashed

②モルシェドゥルイスラム③二〇一一年④バングラデ

シュ⑤ベンガル語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭

(二〇一二)

著者紹介

①氏名helliphellip南出和余(みなみでかずよ)

②所属職名helliphellip桃山学院大学国際教養学部講師

③生年出身地helliphellip一九七五年大阪府

④専門分野地域helliphellip文化人類学バングラデシュ

⑤学歴helliphellip神戸女学院大学文学部英文学科卒総合研究大学院

大学文化科学研究科博士後期課程修了

⑥職歴helliphellip日本学術振興会特別研究員(受入機関京都大学地

域研究統合情報センター)を経て二〇一〇年から桃山学院

大学国際教養学部講師(現職)

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇〇年(一〇か月)二〇〇三〜二〇

〇四年(計一年)二〇〇八年〜二〇〇九年(六か月)バン

グラデシュ農村でフィールドワーク(ダッカ大学人類学部受

入)二〇〇九年(四か月)米国ニューヨーク大学人類学部

にてResearch Fellow

として映像人類学を研究

⑧研究手法helliphellipフィールドワーク(参与観察)および映像制作

⑨所属学会helliphellip日本文化人類学会日本南アジア学会日本子

ども社会学会など

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年タイのジョムティエンで開催さ

れた「Education For A

ll

(万人のための教育)世界会議」に

よって開発教育への機運が一機に高まりことにバングラ

デシュNGOによるノンフォーマル教育普及活動が注目を集

めた一九七一年の独立以来バングラデシュが抱える貧

困開発の問題は当該地域研究の主要課題であるだけでな

く国際開発全体の側から見てもバングラデシュは主要地域

とされるノンフォーマル教育やマイクロクレジットの取り

組みはその関心をさらに助長し研究と実践の融合(実践型

地域研究)モデルとなっているしかしこの関心が強すぎ

るあまりに当該地域の固有の文化的側面への関心が脇に追い

やられがちなのは残念である

⑪推薦図書helliphellipW

illis Paul 1977 Learning to Labor How W

orking Class K

ids Get W

orking Class Jobs Columbia U

P

(熊沢誠

山田潤訳)『ハマータウンの野郎ども』(筑摩書房一九九

六年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『プロミス』(原題『Prom

ises

』ジャス

ティーンシャピロBZゴールドバーグ監督二〇〇

一年アメリカ)

343 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 342

ヒマラヤの険しい山々に囲まれた幸せの国ブータンど

こか懐かしい色あせた写真の風景が郷愁を誘う国だ(写真

1)北を中国(チベット自治区)南をインドと二つの大

国に国境を接し北限は雪で閉ざされた七〇〇〇メートル

級の山稜南部は標高一五〇メートルの平原に亜熱帯の

ジャングルが広がる人口約六〇万人の隠れ里であった小

国は一九七〇年代の経済的発展重視の時代に当時まだ

一〇代であったブータン第四代国王が「国の豊かさはGD

P(国内総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)で図る

べきである」と提唱して一躍有名となった

二つの大国に挟まれたブータンは常に侵略の脅威にさ

らされてきた一九五九年チベットは中国の占領下に入

り他のチベット仏教国ラダックシッキムはインドに吸

収されたブータンのみが唯一のチベット仏教国として独

自文化を守り続けている近年までほぼ鎖国状態を続けて

いたブータンに入国する外国人には高額の観光税が課せら

れる伝統衣装の着用が義務付けられており未だに牛

耕自家採種を中心とする自給自足的な暮らしが残ってい

写真1 ブータンの村の風景

るGNHを切り口に語られることが多いブータンである

が映画からその暮らしと人生観を考察してみたい

ブータン映画の紹介

ブータン映画は仏教の教え呪い迷信魔術輪廻

転生などがテーマになっているものが多く歴史の流れに

忘れられたヒマラヤのシャングリラの風習や人生観が垣間

見える貴重な資料だインドのボリウッド映画の影響を受

け壮大な自然を背景にロマンティックなメロディーが流

れ恋人たちが手を取り合って踊りで気持ちを表現する

シーンが入るそんなブータン映画をいくつか紹介する

Travellers and Magicians

『Travellers and M

agicians

』はカリスマ的なブータ

ンの仏教指導者であるケンセーノルブがメガホンを握っ

た作品だケンセーノルブは幼き頃ジャムヤンケ

ンセーリンポチェの生まれ変わりとして指導者の座につ

いた「映画は精神を表現する曼荼羅でありタンカ(掛

け軸)である」とケンセーノルブは映画を製作した理由

について語る仏教精神を込めたこの映画はインドのボ

リウッド映画の影響を受けた他のブータン映画とは一線を

画する趣に仕上がっている「欲望は心が作り出す幻であ

る」チベット仏教の教えを美しい映像とともにセン

セーショナルに伝える(写真2)

舞台は現代ブータンと魔術の時代である古きブータンの

二つのストーリーが交錯する一か月前に田舎に赴任して

きた政府の役人ドンドゥップはイライラしながらゆった

りとした時間を生きる村人たちを眺める彼は何もない

退屈な村を抜け出し夢の国アメリカに渡るため首都ティ

ンプーを目指すところが週に数本しかないバスに乗り

遅れ片道三日かかる旅路を僧侶リンゴ売り少女と

ともにヒッチハイクで旅をする(写真3)

ドンドゥップとともに旅する僧侶が昔話を語り聞かせ

る魔術師の学校に通うタシはどこか遠い国を夢見て修

行から逃げ出す途中山の中で遭難し隠れ里で美しい女

写真2『Travellers and Magicians』DVD パッケージ

幸せの国ブータンの暮らしと人生観に見る幸せの秘訣前田知里

【ブータン】

345 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 344

性デキに出会う彼女は年老いた夫と二人きりで山奥で生

活していた二人は恋に落ちタシが魔術学校で習った薬

草でデキの夫を毒殺しようと試みるホラー映画のシーン

のように一晩中雄叫びをあげる老人タシは耐え切れ

ず山小屋から逃げ出してしまう

アメリカを目指すのか 

老人を殺そうか 

旅人と魔

術師は願望と現実の葛藤に陥る自由の国に憧れるドン

ドゥップは現代ブータンの象徴である電気も機械もない

シンプルな暮らしを送っていたブータンに近代化情報化

の波が押し寄せ現代のブータンの若者はいろんな魅力に

さらされているブータンは昔のままであるべきなのか

本当に大切なものは何かを映画は問いかけている

The Golden C

upmdashThe Legacy

「これを持っていると幸せになれるただし中のお金

を決して使ってはいけないよ」チベット人から金の壺を

受け取った少女は生涯その壺を大切にし豊かに暮らし

たある日子孫がそのお金を知らずに使ってしまい

「自分の手で作った食事を食べた者は皆死ぬ」という呪い

をかけられる

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』はリンジンリン

ジンの短編小説『幸運の護符』(T

alisman of Good

Fortune

)をベースに製作された一六〇分の長編作であ

る六世代にわたる呪われた一族の女たちの人生を描く壮

大なドラマだ呪いは五世代にわたり代々女性にのみ受

け継がれた一族の女が愛した男はみな姿を消した女た

ちは金の壺が血を求めると誰かを生贄にしなければいけ

ないという宿命を背負っていたのだ

呪いのことを知らずに育ったラモはシリンのプロポー

写真3 僧侶リンゴ売り少女らと旅するドンドゥップ

ズを受け周囲の反対を押し切って同棲を始めるラモの

宿命を知ったシリンは彼女に別れを告げ別の女性と一緒

になったラモは裏切ったシリンと新しい家族に復讐を

誓い呪いの力を受け継いだ彼女は人生のすべてを邪悪

な力に注ぎ込み復讐を果たすが心は晴れず孤独感に

苛まれる

ラモとシリンの間には女の子がいた少女は恋をし青

年と一緒になることに決める青年は呪われた娘である

とすべて承知の上で一緒になり二人は呪いの力が及ばな

い遠くへ逃げる「この子に呪いがわたる前になんとかし

なければhelliphellip」ラモは呪いの連鎖を断ち切るべく母と

祖母を部屋に閉じ込め金の壺を抱いて火をつける

迷信深いブータンの村には「シャーマン」(呪術師)が

住むとされる村に禍や疫病が流行ると邪悪な力を持つ

とされる「シャーマン」のレッテルを誰かが貼られス

ケープゴートとなったこの映画はカルマシャーマニ

ズム輪廻転生の思想を根底に迷信深い村人たちの言動

や思想を浮き彫りにする

ブータン映画に見るムラの暮らしと思想

ブータンの結婚観は日本の平安時代の通い婚に似てい

るブータン西部は女系社会であり土地は長女に受け継

がれる夜這い(ナイトハンティング)の文化が残るブー

タンでは恋人たちが逢い引きするお祭などの時にしめ

しあわせて女性は夜にそっと戸をあけておくこの場面

でたいていインドのボリウッド映画の影響を受けた踊りの

シーンが入るあざやかな衣装で結婚式を挙げるというの

はモダンな発想でほとんどは男が女の元に通うようにな

りいつの間にか一緒になっているものだ婿入りといっ

てもブータンには苗字がなく「家」の概念は薄い離

婚率も高く一夫多妻ならぬ一妻多夫の例も村部では残っ

ている村の親戚関係は実に複雑であるが親戚の子であ

れ友人の子であれ子どもをかわいがり面倒をみるのが

ブータン人の人情なのである

ブータンで国王に並ぶ権力をもつのが宗教指導者であ

るリンポチェやラマが亡くなると弟子たちが輪廻転生

した生まれ変わりの子供を探し出す『T

ravellers and M

agicians

』はリンポチェ自らが仏教思想を織り込んだ

映画を監督したことで話題となった

仏教の教えではこの世で施したすべての行いはたと

え生まれ変わっても必ず返ってくる理不尽に見える宿命

もすべてはカルマなのだ天の采配に疑問を抱かずす

べてに感謝し在るがままに受け入れることを説くお葬

式を派手にあげるが墓はない生まれ変わりを信じてい

るので祖先を祭ることもないのだ「生まれ変わっても会

いたい」とは恋人たちの決まり文句である

347 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 346

仏教と同時にブータン人の思想に深く影響しているのが

アニミズムシャーマニズムだといえるブータン人は土

地の神様を畏れ敬い呪術に救いを求める食事の前には

呪いを唱えながら酒やご飯などをばらまき大地の神様に

供物を捧げる経文を印刷したカラフルな旗「ルンタ」(風

の馬)が軒先や橋の上で風にそよぐ峠には賽の河原のよ

うに積み上げられた石が並ぶブータンの村には至る所に

スピリチュアルなシンボルがちりばめられ不思議な魔力

を持つ世界に迷い込んだような錯覚に陥るシャーマンは

呪術師であると同時に漢方薬草の知識をもつ伝統医師

でもある村には病院がなく町まで歩いて片道二〜三日

かかる例も少なくないシャーマニズムは映画の世界のみ

ならず今でもブータンの村の暮らしに息づいている

集落での共同作業は交換労働(Exchange Labour

)と呼

ばれている田植えの時期には持ち回りで水牛や労働力を

提供し合い一か月かけて集落内の田を耕す(写真4)

集落が所有する森は共同で手入れをする誰かが新居を構

える際は交換労働の終了後手伝ってくれた人たちに御

馳走をふるまう機械を導入した方が早く安あがりかもし

れないが共同作業がなくなれば人と人との絆は弱くな

りコミュニティが弱体化してしまう足並みをそろえて

動く視野の狭い村人たちを苛立たしく眺める役人ドン

ドゥップは現代社会に生きるブータンの若者の象徴であ

る進化か保守かブータン社会は変容への警戒を抱えて

いる

幸せの国ブータンに一度は行ってみたいというのは映

画にでてくる青い鳥を探しに旅に出た二人の男性と同じで

はないか「欲望は苦痛をもたらす」と監督であるジャム

ヤンケンセーリンポチェは説く隣の芝生は青く見え

るものだ幸せの秘訣は「足るを知る」ブータンのシン

プルな暮らしと人との絆を大切にする心にあるのではな

いだろうか

写真4 水牛と労働力を提供しあう共同作業

参考文献

歌川令三(二〇〇六)「小国の地政学秘境ブータンはなぜ

滅びないか」『東京財団研究報告書』

大岩圭之助ほか(二〇〇八)「GNH豊かさという概念を問

い直す」明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』第

一一号四

映画『T

ravellers and Magicians

』公式サイト(httpw

ww

travellersandm

agicianscom

映画リスト

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』helliphellip①T

he Golden CupmdashT

he Legacy

②シリンウォンゲル③二〇〇六年④ブー

タン⑤ゾンカ語⑥劇場公開DVD販売

『Travellers and M

agicians

』helliphellip①T

ravellers and Magicians

②ケンセーノルブ③二〇〇三年④ブータン⑤ゾンカ

語⑥劇場公開DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip前田知里(まえだちさと)

②所属職名helliphellip伊根町地域整備課

③生年出身地helliphellip一九八一年京都府

④専門分野地域helliphellip有機農業ブータン

⑤学歴helliphellipワーゲニンゲン大学有機農業研究科(アグロエコロ

ジー専攻)修了

⑥職歴helliphellipインドの研究所A

shoka Trust for Research in

Ecology and the Environment

(AT

REE

)とEUとの共同研

究で半年間「有機農業の環境影響評価プロジェクト」に従

事ブータン政府GNH委員会からの招請を受けジャムヤ

ンケンセーリンポチェが主導するブータン初のローカル

NGOSam

drup Jongkhar Initiative

(SJI

)で半年間有機農

業の普及調査に携わる

⑦現地滞在経験helliphellipインドのオーガニック運動を先導するヴァ

ンダナシヴァ博士の農場ナブダニア(N

avdanya

)でブー

タンの先進農家二〇名とともに研修を受ける

⑧研究手法helliphellipインド(ナブダニアの研究者)カナダ日本

の国際チームで約三〇の村を訪問しインタビューを行っ

た有機農業の調査と普及を同時並行で行う国家プロジェク

トであったため利用可能な資源や有機農業の課題などを分

析しつつその集落の現状に合わせたトレーニングを実施す

るというアクションリサーチであった

⑨所属学会helliphellip日本有機農業研究会

⑩研究上の画期helliphellipブータン政府はGNH向上を目的として国

土全体を一〇〇パーセントオーガニックに変えるという声明

を発表したこれをうけGNH委員会は有機農薬の研究者

を全世界に公募した

⑪推薦図書helliphellip特になし

⑫推薦する映画作品helliphellip『U

nmistaken Child

』(ナティバラツ

監督二〇〇八年イスラエル)リンポチェの生まれ変わ

りを探す旅に出た弟子の旅路を追うドキュメンタリー映画

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

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「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

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ce 2003

httpww

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〇一二年一〇月一四日)

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(二〇一二年一〇月一四日)

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A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

ashita Hiroshi amp

Okam

itsu Nobuko 2011

Indian Filmdom

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International Sym

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Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ロージャー』ரோஜ

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踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

339 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 338

ほぼ同じくする一九七一年の独立戦争当時彼らは一

四五歳で『マティル 

モイナ』にしても『わが友ラ

シェド』にしても独立戦争を少年の視点から描いている

のはまさに監督たち自身が経験した世界そのものなの

であるイスラム監督は『わが友ラシェド』を制作する

にあたって自らが目にして経験した戦争を描きたかった

と語る

イスラム監督が映画制作に従事するようになった

動機そのものがバングラデシュの独立を語り継ぐことに

あったという

シネコン人気と地方映画館の減少

アート系映画を中心としたシネコン人気とは裏腹にバ

ングラデシュ全体の年間映画制作数は減少傾向にある五

六年前には年間一〇〇本程度であったが現在は三〇から

四〇本程度だという本稿で紹介してきたようなアート系

映画をバングラデシュの人びとは「国際映画」(International

Cinema

)と呼びそれ以外の商業娯楽映画(通称「バング

ラ映画(Bangla Cinem

a

)」)と区別するバングラ映画には

ヒーローと悪役がはっきりと示されるアクション系や家

族のいざこざと絆を描いた人情系の映画が多い映画全体

に占める割合としてはバングラ映画の方が多いがそのバ

ングラ映画が今減っている

映画制作減少の背景には映画館の減少がある著しい経

済成長とインフレにあるバングラデシュではダッカだけ

でなく地方都市にもショッピングモールが急増している

映画館はそうした商業施設に建て替えられるショッピン

グモールの急増は消費活動の活性化と女性の社会進出を

示すそもそもダッカでも地方都市でも冒頭に紹介した

シネコン以外の映画館に女性が足を運ぶことはほとんどな

い筆者が見学のために映画館に行こうとしても周囲の

人びとから反対され未だ足を運んだことがない通常の

映画館は音響システムも悪く痴漢も多くて女性が行くべ

きところではないというダッカのシネコン以外で女性が

映画を見る機会は図書館や文化館など公共施設の「オウ

ディトリウム」で上映される場合かテレビ放映やDVD

である

さらに南アジアに位置するバングラデシュにとって

映画大国である隣国インドの存在を無視することはできな

い映画館や公共施設での映画の商業上映は両国政府間

協議によって互いに禁止されているにもかかわらずテ

レビの普及にともなってケーブル回線やDVDでバングラ

デシュの人びとがインド映画を観る機会は急増している

とくにインド西ベンガルで生産される「コルカタバング

ラ映画」(K

olkata Bangla Cinema

)は言語を同じくする

ことから人気が高く農村でもDVDが出回っているア

クション系の多いバングラ映画に比べて物語性の強いコル

カタバングラ映画は村人たちの間でも「良質」とされ好

まれるこれに加えて近年インドのケーブルテレビを

受信するようになるとヒンディー映画を観る機会も増

し若い世代を中心に人気を博しているボリウッド映画

によるヒーロー像はバングラデシュの人びとにも少なから

ず影響を与えバングラ映画の人気がなくなりつつある原

因にもなっている

インド映画の影響をバングラデシュの映画監督たちはど

のように見ているのだろうか前述のイスラム監督によれ

ば近年インド映画の人気が高まるにつれてまた映画

館復興のために映画館でインド映画を上映することの是

非が議論されているというしかし映画監督の大半はこ

れに反対でありその理由はバングラデシュ映画衰退の

危惧だけでなくベンガル語の衰退への危惧がある現

在ケーブルテレビでヒンディー映画や日本アニメのヒン

ディー語吹き替え版等を好んで観る子どもたちさらに英

語教育指向にあるミドルクラスの子どもたちのベンガル

語能力の衰退が危惧されているのであるイスラム監督を

はじめとする映画監督たちの映画への思いが国家アイデン

ティティにありさらにベンガル語が独立の旗印であった

ことを考えればヒンディー映画の文化への影響を危惧す

ることも理解できようしかし言語という点において

はコルカタバングラ映画に限って公共上映を開放しても

よいのではないかとイスラム監督は語る

このようにバングラデシュの人びとは「バングラ映

画(商業娯楽映画)」「国際映画(バングラデシュアート系

映画)」「コルカタバングラ映画(インド西ベンガル映画)」

と区別する農村の人びとがどれを好むかといえば筆者

が農村の一家庭に滞在してフィールドワークをしてきた経

験からは商業娯楽映画かコルカタバングラ映画が多く

意外にもアート系映画の人気は限られるフマユンアフ

メッド監督のテレビドラマは農村でも人気が高いにもかか

わらずアート系映画はなぜ受け入れられないのか村の

人びとは「モルシェドゥルイスラムの映画は観ていて

辛い」という社会のリアリティや苦悩を描き娯楽映画

のようなハッピーエンドとはいかずときに悲劇で終わる

映画はそのリアリティが人びとには辛いのだという

ザキルは前述のバングラデシュを代表する三人の映画

監督たちを「視点が西欧化されたモダニスト」と指摘する

がその意図は彼らがバングラデシュという国家や社会

を客観的に描く視点を有しているからである(Zakir

2008

)しかし外国人である筆者は彼らの映画は単に

客観的であるだけでなく「内側の自覚」が含まれてお

りそこにバングラデシュという大地と人びとが発する強

いメッセージがあるように見ている

341 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 340

娯楽大衆映画から教養映画へ

以上本稿ではアート系映画を中心にバングラデシュ

映画の現状を概観しながら作り手と視聴者の双方がもた

らす「映画文化」の変容について検討してきた商業娯楽

映画の詳細については言及できなかったが筆者の知識が

及んでいないところであり今後の課題としたいまた

ドキュメンタリー映画については紙面の制限上別の機会

を待つ

アート系映画は農村では未だ受容に限界があることも

事実であるがダッカのシネコンではいつも満席になる人

気であるさらに映画館が衰退するなかでダッカだけ

でなく地方都市においても公共施設のオウディトリウムで

アート系映画が上映される機会は増えつつありそうした

映画上映会には多くの人が集まるそこに来る観客はい

わゆる近代高等教育を受けたミドルクラスである教育に

よって人びとは自らの社会を批判的に概観する目を養

うここに紹介した映画監督たちはみなダッカ大学を卒業

し基本的にバングラデシュに腰を下ろして映画制作に取

り組んでいる国と社会を愛しそこで生きる人びとのリ

アリティを描くその姿勢はドキュメンタリーでも劇映

画でも変わらないだからこそそのリアリティを突きつ

けられる人びとの心を「辛すぎる」と思わせるほどに動か

す彼らのアート系映画の浸透はすでに一部に見られる

ように教育の浸透とミドルクラスによる映画文化の再解

釈にかかっているのかもしれない次なる課題はバング

ラデシュの大地と社会に深く根ざす彼らの映画が海外で

バングラデシュを知らない者たちにも広く受け入れられる

ようになるために彼らの映画がもつ「自覚」が人間社会

に普遍的なテーマとして発せられるかという点にかかって

いるといえよう

筆者による監督へのインタビューより(二〇一二年八

月ダッカにて)現地インタビューおよび映像資料収集に

おいては二〇一二年度桃山学院大学特定個人研究費による

援助を受けた

参考文献

Zakir Hossain Raju

(2008

)Madrasa and Muslim

Identity on Screen N

ation Islam and Bangladeshi A

rt Cinema on the

Global Stage

Jamal M

alik

(ed

) Madrasas in South A

sia T

eaching Terror London Routledge pp 125-141

映画リスト

『逸楽の少年コモラ』helliphellip①

Pleasure Boy Komola

②フマユンアフメッド③二〇一二年④バングラデシュ

⑤ベンガル語⑥未公開

『マティル モイナ』helliphellip①

〔泥の鳥〕The Clay Bird

②タレクマスゥド③二〇〇二年④バングラデシュ⑤

ベンガル語⑥輸入DVD販売

『ラロン』helliphellip①

Lalon

②タンヴィルモカメル③二

〇〇四年④バングラデシュ⑤ベンガル語⑥アジアフォー

カス福岡国際映画祭(二〇〇九)

『わが友ラシェド』helliphellip①

My Friend Rashed

②モルシェドゥルイスラム③二〇一一年④バングラデ

シュ⑤ベンガル語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭

(二〇一二)

著者紹介

①氏名helliphellip南出和余(みなみでかずよ)

②所属職名helliphellip桃山学院大学国際教養学部講師

③生年出身地helliphellip一九七五年大阪府

④専門分野地域helliphellip文化人類学バングラデシュ

⑤学歴helliphellip神戸女学院大学文学部英文学科卒総合研究大学院

大学文化科学研究科博士後期課程修了

⑥職歴helliphellip日本学術振興会特別研究員(受入機関京都大学地

域研究統合情報センター)を経て二〇一〇年から桃山学院

大学国際教養学部講師(現職)

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇〇年(一〇か月)二〇〇三〜二〇

〇四年(計一年)二〇〇八年〜二〇〇九年(六か月)バン

グラデシュ農村でフィールドワーク(ダッカ大学人類学部受

入)二〇〇九年(四か月)米国ニューヨーク大学人類学部

にてResearch Fellow

として映像人類学を研究

⑧研究手法helliphellipフィールドワーク(参与観察)および映像制作

⑨所属学会helliphellip日本文化人類学会日本南アジア学会日本子

ども社会学会など

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年タイのジョムティエンで開催さ

れた「Education For A

ll

(万人のための教育)世界会議」に

よって開発教育への機運が一機に高まりことにバングラ

デシュNGOによるノンフォーマル教育普及活動が注目を集

めた一九七一年の独立以来バングラデシュが抱える貧

困開発の問題は当該地域研究の主要課題であるだけでな

く国際開発全体の側から見てもバングラデシュは主要地域

とされるノンフォーマル教育やマイクロクレジットの取り

組みはその関心をさらに助長し研究と実践の融合(実践型

地域研究)モデルとなっているしかしこの関心が強すぎ

るあまりに当該地域の固有の文化的側面への関心が脇に追い

やられがちなのは残念である

⑪推薦図書helliphellipW

illis Paul 1977 Learning to Labor How W

orking Class K

ids Get W

orking Class Jobs Columbia U

P

(熊沢誠

山田潤訳)『ハマータウンの野郎ども』(筑摩書房一九九

六年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『プロミス』(原題『Prom

ises

』ジャス

ティーンシャピロBZゴールドバーグ監督二〇〇

一年アメリカ)

343 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 342

ヒマラヤの険しい山々に囲まれた幸せの国ブータンど

こか懐かしい色あせた写真の風景が郷愁を誘う国だ(写真

1)北を中国(チベット自治区)南をインドと二つの大

国に国境を接し北限は雪で閉ざされた七〇〇〇メートル

級の山稜南部は標高一五〇メートルの平原に亜熱帯の

ジャングルが広がる人口約六〇万人の隠れ里であった小

国は一九七〇年代の経済的発展重視の時代に当時まだ

一〇代であったブータン第四代国王が「国の豊かさはGD

P(国内総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)で図る

べきである」と提唱して一躍有名となった

二つの大国に挟まれたブータンは常に侵略の脅威にさ

らされてきた一九五九年チベットは中国の占領下に入

り他のチベット仏教国ラダックシッキムはインドに吸

収されたブータンのみが唯一のチベット仏教国として独

自文化を守り続けている近年までほぼ鎖国状態を続けて

いたブータンに入国する外国人には高額の観光税が課せら

れる伝統衣装の着用が義務付けられており未だに牛

耕自家採種を中心とする自給自足的な暮らしが残ってい

写真1 ブータンの村の風景

るGNHを切り口に語られることが多いブータンである

が映画からその暮らしと人生観を考察してみたい

ブータン映画の紹介

ブータン映画は仏教の教え呪い迷信魔術輪廻

転生などがテーマになっているものが多く歴史の流れに

忘れられたヒマラヤのシャングリラの風習や人生観が垣間

見える貴重な資料だインドのボリウッド映画の影響を受

け壮大な自然を背景にロマンティックなメロディーが流

れ恋人たちが手を取り合って踊りで気持ちを表現する

シーンが入るそんなブータン映画をいくつか紹介する

Travellers and Magicians

『Travellers and M

agicians

』はカリスマ的なブータ

ンの仏教指導者であるケンセーノルブがメガホンを握っ

た作品だケンセーノルブは幼き頃ジャムヤンケ

ンセーリンポチェの生まれ変わりとして指導者の座につ

いた「映画は精神を表現する曼荼羅でありタンカ(掛

け軸)である」とケンセーノルブは映画を製作した理由

について語る仏教精神を込めたこの映画はインドのボ

リウッド映画の影響を受けた他のブータン映画とは一線を

画する趣に仕上がっている「欲望は心が作り出す幻であ

る」チベット仏教の教えを美しい映像とともにセン

セーショナルに伝える(写真2)

舞台は現代ブータンと魔術の時代である古きブータンの

二つのストーリーが交錯する一か月前に田舎に赴任して

きた政府の役人ドンドゥップはイライラしながらゆった

りとした時間を生きる村人たちを眺める彼は何もない

退屈な村を抜け出し夢の国アメリカに渡るため首都ティ

ンプーを目指すところが週に数本しかないバスに乗り

遅れ片道三日かかる旅路を僧侶リンゴ売り少女と

ともにヒッチハイクで旅をする(写真3)

ドンドゥップとともに旅する僧侶が昔話を語り聞かせ

る魔術師の学校に通うタシはどこか遠い国を夢見て修

行から逃げ出す途中山の中で遭難し隠れ里で美しい女

写真2『Travellers and Magicians』DVD パッケージ

幸せの国ブータンの暮らしと人生観に見る幸せの秘訣前田知里

【ブータン】

345 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 344

性デキに出会う彼女は年老いた夫と二人きりで山奥で生

活していた二人は恋に落ちタシが魔術学校で習った薬

草でデキの夫を毒殺しようと試みるホラー映画のシーン

のように一晩中雄叫びをあげる老人タシは耐え切れ

ず山小屋から逃げ出してしまう

アメリカを目指すのか 

老人を殺そうか 

旅人と魔

術師は願望と現実の葛藤に陥る自由の国に憧れるドン

ドゥップは現代ブータンの象徴である電気も機械もない

シンプルな暮らしを送っていたブータンに近代化情報化

の波が押し寄せ現代のブータンの若者はいろんな魅力に

さらされているブータンは昔のままであるべきなのか

本当に大切なものは何かを映画は問いかけている

The Golden C

upmdashThe Legacy

「これを持っていると幸せになれるただし中のお金

を決して使ってはいけないよ」チベット人から金の壺を

受け取った少女は生涯その壺を大切にし豊かに暮らし

たある日子孫がそのお金を知らずに使ってしまい

「自分の手で作った食事を食べた者は皆死ぬ」という呪い

をかけられる

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』はリンジンリン

ジンの短編小説『幸運の護符』(T

alisman of Good

Fortune

)をベースに製作された一六〇分の長編作であ

る六世代にわたる呪われた一族の女たちの人生を描く壮

大なドラマだ呪いは五世代にわたり代々女性にのみ受

け継がれた一族の女が愛した男はみな姿を消した女た

ちは金の壺が血を求めると誰かを生贄にしなければいけ

ないという宿命を背負っていたのだ

呪いのことを知らずに育ったラモはシリンのプロポー

写真3 僧侶リンゴ売り少女らと旅するドンドゥップ

ズを受け周囲の反対を押し切って同棲を始めるラモの

宿命を知ったシリンは彼女に別れを告げ別の女性と一緒

になったラモは裏切ったシリンと新しい家族に復讐を

誓い呪いの力を受け継いだ彼女は人生のすべてを邪悪

な力に注ぎ込み復讐を果たすが心は晴れず孤独感に

苛まれる

ラモとシリンの間には女の子がいた少女は恋をし青

年と一緒になることに決める青年は呪われた娘である

とすべて承知の上で一緒になり二人は呪いの力が及ばな

い遠くへ逃げる「この子に呪いがわたる前になんとかし

なければhelliphellip」ラモは呪いの連鎖を断ち切るべく母と

祖母を部屋に閉じ込め金の壺を抱いて火をつける

迷信深いブータンの村には「シャーマン」(呪術師)が

住むとされる村に禍や疫病が流行ると邪悪な力を持つ

とされる「シャーマン」のレッテルを誰かが貼られス

ケープゴートとなったこの映画はカルマシャーマニ

ズム輪廻転生の思想を根底に迷信深い村人たちの言動

や思想を浮き彫りにする

ブータン映画に見るムラの暮らしと思想

ブータンの結婚観は日本の平安時代の通い婚に似てい

るブータン西部は女系社会であり土地は長女に受け継

がれる夜這い(ナイトハンティング)の文化が残るブー

タンでは恋人たちが逢い引きするお祭などの時にしめ

しあわせて女性は夜にそっと戸をあけておくこの場面

でたいていインドのボリウッド映画の影響を受けた踊りの

シーンが入るあざやかな衣装で結婚式を挙げるというの

はモダンな発想でほとんどは男が女の元に通うようにな

りいつの間にか一緒になっているものだ婿入りといっ

てもブータンには苗字がなく「家」の概念は薄い離

婚率も高く一夫多妻ならぬ一妻多夫の例も村部では残っ

ている村の親戚関係は実に複雑であるが親戚の子であ

れ友人の子であれ子どもをかわいがり面倒をみるのが

ブータン人の人情なのである

ブータンで国王に並ぶ権力をもつのが宗教指導者であ

るリンポチェやラマが亡くなると弟子たちが輪廻転生

した生まれ変わりの子供を探し出す『T

ravellers and M

agicians

』はリンポチェ自らが仏教思想を織り込んだ

映画を監督したことで話題となった

仏教の教えではこの世で施したすべての行いはたと

え生まれ変わっても必ず返ってくる理不尽に見える宿命

もすべてはカルマなのだ天の采配に疑問を抱かずす

べてに感謝し在るがままに受け入れることを説くお葬

式を派手にあげるが墓はない生まれ変わりを信じてい

るので祖先を祭ることもないのだ「生まれ変わっても会

いたい」とは恋人たちの決まり文句である

347 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 346

仏教と同時にブータン人の思想に深く影響しているのが

アニミズムシャーマニズムだといえるブータン人は土

地の神様を畏れ敬い呪術に救いを求める食事の前には

呪いを唱えながら酒やご飯などをばらまき大地の神様に

供物を捧げる経文を印刷したカラフルな旗「ルンタ」(風

の馬)が軒先や橋の上で風にそよぐ峠には賽の河原のよ

うに積み上げられた石が並ぶブータンの村には至る所に

スピリチュアルなシンボルがちりばめられ不思議な魔力

を持つ世界に迷い込んだような錯覚に陥るシャーマンは

呪術師であると同時に漢方薬草の知識をもつ伝統医師

でもある村には病院がなく町まで歩いて片道二〜三日

かかる例も少なくないシャーマニズムは映画の世界のみ

ならず今でもブータンの村の暮らしに息づいている

集落での共同作業は交換労働(Exchange Labour

)と呼

ばれている田植えの時期には持ち回りで水牛や労働力を

提供し合い一か月かけて集落内の田を耕す(写真4)

集落が所有する森は共同で手入れをする誰かが新居を構

える際は交換労働の終了後手伝ってくれた人たちに御

馳走をふるまう機械を導入した方が早く安あがりかもし

れないが共同作業がなくなれば人と人との絆は弱くな

りコミュニティが弱体化してしまう足並みをそろえて

動く視野の狭い村人たちを苛立たしく眺める役人ドン

ドゥップは現代社会に生きるブータンの若者の象徴であ

る進化か保守かブータン社会は変容への警戒を抱えて

いる

幸せの国ブータンに一度は行ってみたいというのは映

画にでてくる青い鳥を探しに旅に出た二人の男性と同じで

はないか「欲望は苦痛をもたらす」と監督であるジャム

ヤンケンセーリンポチェは説く隣の芝生は青く見え

るものだ幸せの秘訣は「足るを知る」ブータンのシン

プルな暮らしと人との絆を大切にする心にあるのではな

いだろうか

写真4 水牛と労働力を提供しあう共同作業

参考文献

歌川令三(二〇〇六)「小国の地政学秘境ブータンはなぜ

滅びないか」『東京財団研究報告書』

大岩圭之助ほか(二〇〇八)「GNH豊かさという概念を問

い直す」明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』第

一一号四

映画『T

ravellers and Magicians

』公式サイト(httpw

ww

travellersandm

agicianscom

映画リスト

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』helliphellip①T

he Golden CupmdashT

he Legacy

②シリンウォンゲル③二〇〇六年④ブー

タン⑤ゾンカ語⑥劇場公開DVD販売

『Travellers and M

agicians

』helliphellip①T

ravellers and Magicians

②ケンセーノルブ③二〇〇三年④ブータン⑤ゾンカ

語⑥劇場公開DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip前田知里(まえだちさと)

②所属職名helliphellip伊根町地域整備課

③生年出身地helliphellip一九八一年京都府

④専門分野地域helliphellip有機農業ブータン

⑤学歴helliphellipワーゲニンゲン大学有機農業研究科(アグロエコロ

ジー専攻)修了

⑥職歴helliphellipインドの研究所A

shoka Trust for Research in

Ecology and the Environment

(AT

REE

)とEUとの共同研

究で半年間「有機農業の環境影響評価プロジェクト」に従

事ブータン政府GNH委員会からの招請を受けジャムヤ

ンケンセーリンポチェが主導するブータン初のローカル

NGOSam

drup Jongkhar Initiative

(SJI

)で半年間有機農

業の普及調査に携わる

⑦現地滞在経験helliphellipインドのオーガニック運動を先導するヴァ

ンダナシヴァ博士の農場ナブダニア(N

avdanya

)でブー

タンの先進農家二〇名とともに研修を受ける

⑧研究手法helliphellipインド(ナブダニアの研究者)カナダ日本

の国際チームで約三〇の村を訪問しインタビューを行っ

た有機農業の調査と普及を同時並行で行う国家プロジェク

トであったため利用可能な資源や有機農業の課題などを分

析しつつその集落の現状に合わせたトレーニングを実施す

るというアクションリサーチであった

⑨所属学会helliphellip日本有機農業研究会

⑩研究上の画期helliphellipブータン政府はGNH向上を目的として国

土全体を一〇〇パーセントオーガニックに変えるという声明

を発表したこれをうけGNH委員会は有機農薬の研究者

を全世界に公募した

⑪推薦図書helliphellip特になし

⑫推薦する映画作品helliphellip『U

nmistaken Child

』(ナティバラツ

監督二〇〇八年イスラエル)リンポチェの生まれ変わ

りを探す旅に出た弟子の旅路を追うドキュメンタリー映画

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

伊藤敏朗(二〇一一)『ネパール映画の全貌――その歴史と分

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Whelpton John(2005

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epal Cambridge U

niverity Press

映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

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Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

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『ボンベイ』பாம

ரப

②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

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『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

踊るマハラジャ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

341 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 340

娯楽大衆映画から教養映画へ

以上本稿ではアート系映画を中心にバングラデシュ

映画の現状を概観しながら作り手と視聴者の双方がもた

らす「映画文化」の変容について検討してきた商業娯楽

映画の詳細については言及できなかったが筆者の知識が

及んでいないところであり今後の課題としたいまた

ドキュメンタリー映画については紙面の制限上別の機会

を待つ

アート系映画は農村では未だ受容に限界があることも

事実であるがダッカのシネコンではいつも満席になる人

気であるさらに映画館が衰退するなかでダッカだけ

でなく地方都市においても公共施設のオウディトリウムで

アート系映画が上映される機会は増えつつありそうした

映画上映会には多くの人が集まるそこに来る観客はい

わゆる近代高等教育を受けたミドルクラスである教育に

よって人びとは自らの社会を批判的に概観する目を養

うここに紹介した映画監督たちはみなダッカ大学を卒業

し基本的にバングラデシュに腰を下ろして映画制作に取

り組んでいる国と社会を愛しそこで生きる人びとのリ

アリティを描くその姿勢はドキュメンタリーでも劇映

画でも変わらないだからこそそのリアリティを突きつ

けられる人びとの心を「辛すぎる」と思わせるほどに動か

す彼らのアート系映画の浸透はすでに一部に見られる

ように教育の浸透とミドルクラスによる映画文化の再解

釈にかかっているのかもしれない次なる課題はバング

ラデシュの大地と社会に深く根ざす彼らの映画が海外で

バングラデシュを知らない者たちにも広く受け入れられる

ようになるために彼らの映画がもつ「自覚」が人間社会

に普遍的なテーマとして発せられるかという点にかかって

いるといえよう

筆者による監督へのインタビューより(二〇一二年八

月ダッカにて)現地インタビューおよび映像資料収集に

おいては二〇一二年度桃山学院大学特定個人研究費による

援助を受けた

参考文献

Zakir Hossain Raju

(2008

)Madrasa and Muslim

Identity on Screen N

ation Islam and Bangladeshi A

rt Cinema on the

Global Stage

Jamal M

alik

(ed

) Madrasas in South A

sia T

eaching Terror London Routledge pp 125-141

映画リスト

『逸楽の少年コモラ』helliphellip①

Pleasure Boy Komola

②フマユンアフメッド③二〇一二年④バングラデシュ

⑤ベンガル語⑥未公開

『マティル モイナ』helliphellip①

〔泥の鳥〕The Clay Bird

②タレクマスゥド③二〇〇二年④バングラデシュ⑤

ベンガル語⑥輸入DVD販売

『ラロン』helliphellip①

Lalon

②タンヴィルモカメル③二

〇〇四年④バングラデシュ⑤ベンガル語⑥アジアフォー

カス福岡国際映画祭(二〇〇九)

『わが友ラシェド』helliphellip①

My Friend Rashed

②モルシェドゥルイスラム③二〇一一年④バングラデ

シュ⑤ベンガル語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭

(二〇一二)

著者紹介

①氏名helliphellip南出和余(みなみでかずよ)

②所属職名helliphellip桃山学院大学国際教養学部講師

③生年出身地helliphellip一九七五年大阪府

④専門分野地域helliphellip文化人類学バングラデシュ

⑤学歴helliphellip神戸女学院大学文学部英文学科卒総合研究大学院

大学文化科学研究科博士後期課程修了

⑥職歴helliphellip日本学術振興会特別研究員(受入機関京都大学地

域研究統合情報センター)を経て二〇一〇年から桃山学院

大学国際教養学部講師(現職)

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇〇年(一〇か月)二〇〇三〜二〇

〇四年(計一年)二〇〇八年〜二〇〇九年(六か月)バン

グラデシュ農村でフィールドワーク(ダッカ大学人類学部受

入)二〇〇九年(四か月)米国ニューヨーク大学人類学部

にてResearch Fellow

として映像人類学を研究

⑧研究手法helliphellipフィールドワーク(参与観察)および映像制作

⑨所属学会helliphellip日本文化人類学会日本南アジア学会日本子

ども社会学会など

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年タイのジョムティエンで開催さ

れた「Education For A

ll

(万人のための教育)世界会議」に

よって開発教育への機運が一機に高まりことにバングラ

デシュNGOによるノンフォーマル教育普及活動が注目を集

めた一九七一年の独立以来バングラデシュが抱える貧

困開発の問題は当該地域研究の主要課題であるだけでな

く国際開発全体の側から見てもバングラデシュは主要地域

とされるノンフォーマル教育やマイクロクレジットの取り

組みはその関心をさらに助長し研究と実践の融合(実践型

地域研究)モデルとなっているしかしこの関心が強すぎ

るあまりに当該地域の固有の文化的側面への関心が脇に追い

やられがちなのは残念である

⑪推薦図書helliphellipW

illis Paul 1977 Learning to Labor How W

orking Class K

ids Get W

orking Class Jobs Columbia U

P

(熊沢誠

山田潤訳)『ハマータウンの野郎ども』(筑摩書房一九九

六年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『プロミス』(原題『Prom

ises

』ジャス

ティーンシャピロBZゴールドバーグ監督二〇〇

一年アメリカ)

343 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 342

ヒマラヤの険しい山々に囲まれた幸せの国ブータンど

こか懐かしい色あせた写真の風景が郷愁を誘う国だ(写真

1)北を中国(チベット自治区)南をインドと二つの大

国に国境を接し北限は雪で閉ざされた七〇〇〇メートル

級の山稜南部は標高一五〇メートルの平原に亜熱帯の

ジャングルが広がる人口約六〇万人の隠れ里であった小

国は一九七〇年代の経済的発展重視の時代に当時まだ

一〇代であったブータン第四代国王が「国の豊かさはGD

P(国内総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)で図る

べきである」と提唱して一躍有名となった

二つの大国に挟まれたブータンは常に侵略の脅威にさ

らされてきた一九五九年チベットは中国の占領下に入

り他のチベット仏教国ラダックシッキムはインドに吸

収されたブータンのみが唯一のチベット仏教国として独

自文化を守り続けている近年までほぼ鎖国状態を続けて

いたブータンに入国する外国人には高額の観光税が課せら

れる伝統衣装の着用が義務付けられており未だに牛

耕自家採種を中心とする自給自足的な暮らしが残ってい

写真1 ブータンの村の風景

るGNHを切り口に語られることが多いブータンである

が映画からその暮らしと人生観を考察してみたい

ブータン映画の紹介

ブータン映画は仏教の教え呪い迷信魔術輪廻

転生などがテーマになっているものが多く歴史の流れに

忘れられたヒマラヤのシャングリラの風習や人生観が垣間

見える貴重な資料だインドのボリウッド映画の影響を受

け壮大な自然を背景にロマンティックなメロディーが流

れ恋人たちが手を取り合って踊りで気持ちを表現する

シーンが入るそんなブータン映画をいくつか紹介する

Travellers and Magicians

『Travellers and M

agicians

』はカリスマ的なブータ

ンの仏教指導者であるケンセーノルブがメガホンを握っ

た作品だケンセーノルブは幼き頃ジャムヤンケ

ンセーリンポチェの生まれ変わりとして指導者の座につ

いた「映画は精神を表現する曼荼羅でありタンカ(掛

け軸)である」とケンセーノルブは映画を製作した理由

について語る仏教精神を込めたこの映画はインドのボ

リウッド映画の影響を受けた他のブータン映画とは一線を

画する趣に仕上がっている「欲望は心が作り出す幻であ

る」チベット仏教の教えを美しい映像とともにセン

セーショナルに伝える(写真2)

舞台は現代ブータンと魔術の時代である古きブータンの

二つのストーリーが交錯する一か月前に田舎に赴任して

きた政府の役人ドンドゥップはイライラしながらゆった

りとした時間を生きる村人たちを眺める彼は何もない

退屈な村を抜け出し夢の国アメリカに渡るため首都ティ

ンプーを目指すところが週に数本しかないバスに乗り

遅れ片道三日かかる旅路を僧侶リンゴ売り少女と

ともにヒッチハイクで旅をする(写真3)

ドンドゥップとともに旅する僧侶が昔話を語り聞かせ

る魔術師の学校に通うタシはどこか遠い国を夢見て修

行から逃げ出す途中山の中で遭難し隠れ里で美しい女

写真2『Travellers and Magicians』DVD パッケージ

幸せの国ブータンの暮らしと人生観に見る幸せの秘訣前田知里

【ブータン】

345 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 344

性デキに出会う彼女は年老いた夫と二人きりで山奥で生

活していた二人は恋に落ちタシが魔術学校で習った薬

草でデキの夫を毒殺しようと試みるホラー映画のシーン

のように一晩中雄叫びをあげる老人タシは耐え切れ

ず山小屋から逃げ出してしまう

アメリカを目指すのか 

老人を殺そうか 

旅人と魔

術師は願望と現実の葛藤に陥る自由の国に憧れるドン

ドゥップは現代ブータンの象徴である電気も機械もない

シンプルな暮らしを送っていたブータンに近代化情報化

の波が押し寄せ現代のブータンの若者はいろんな魅力に

さらされているブータンは昔のままであるべきなのか

本当に大切なものは何かを映画は問いかけている

The Golden C

upmdashThe Legacy

「これを持っていると幸せになれるただし中のお金

を決して使ってはいけないよ」チベット人から金の壺を

受け取った少女は生涯その壺を大切にし豊かに暮らし

たある日子孫がそのお金を知らずに使ってしまい

「自分の手で作った食事を食べた者は皆死ぬ」という呪い

をかけられる

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』はリンジンリン

ジンの短編小説『幸運の護符』(T

alisman of Good

Fortune

)をベースに製作された一六〇分の長編作であ

る六世代にわたる呪われた一族の女たちの人生を描く壮

大なドラマだ呪いは五世代にわたり代々女性にのみ受

け継がれた一族の女が愛した男はみな姿を消した女た

ちは金の壺が血を求めると誰かを生贄にしなければいけ

ないという宿命を背負っていたのだ

呪いのことを知らずに育ったラモはシリンのプロポー

写真3 僧侶リンゴ売り少女らと旅するドンドゥップ

ズを受け周囲の反対を押し切って同棲を始めるラモの

宿命を知ったシリンは彼女に別れを告げ別の女性と一緒

になったラモは裏切ったシリンと新しい家族に復讐を

誓い呪いの力を受け継いだ彼女は人生のすべてを邪悪

な力に注ぎ込み復讐を果たすが心は晴れず孤独感に

苛まれる

ラモとシリンの間には女の子がいた少女は恋をし青

年と一緒になることに決める青年は呪われた娘である

とすべて承知の上で一緒になり二人は呪いの力が及ばな

い遠くへ逃げる「この子に呪いがわたる前になんとかし

なければhelliphellip」ラモは呪いの連鎖を断ち切るべく母と

祖母を部屋に閉じ込め金の壺を抱いて火をつける

迷信深いブータンの村には「シャーマン」(呪術師)が

住むとされる村に禍や疫病が流行ると邪悪な力を持つ

とされる「シャーマン」のレッテルを誰かが貼られス

ケープゴートとなったこの映画はカルマシャーマニ

ズム輪廻転生の思想を根底に迷信深い村人たちの言動

や思想を浮き彫りにする

ブータン映画に見るムラの暮らしと思想

ブータンの結婚観は日本の平安時代の通い婚に似てい

るブータン西部は女系社会であり土地は長女に受け継

がれる夜這い(ナイトハンティング)の文化が残るブー

タンでは恋人たちが逢い引きするお祭などの時にしめ

しあわせて女性は夜にそっと戸をあけておくこの場面

でたいていインドのボリウッド映画の影響を受けた踊りの

シーンが入るあざやかな衣装で結婚式を挙げるというの

はモダンな発想でほとんどは男が女の元に通うようにな

りいつの間にか一緒になっているものだ婿入りといっ

てもブータンには苗字がなく「家」の概念は薄い離

婚率も高く一夫多妻ならぬ一妻多夫の例も村部では残っ

ている村の親戚関係は実に複雑であるが親戚の子であ

れ友人の子であれ子どもをかわいがり面倒をみるのが

ブータン人の人情なのである

ブータンで国王に並ぶ権力をもつのが宗教指導者であ

るリンポチェやラマが亡くなると弟子たちが輪廻転生

した生まれ変わりの子供を探し出す『T

ravellers and M

agicians

』はリンポチェ自らが仏教思想を織り込んだ

映画を監督したことで話題となった

仏教の教えではこの世で施したすべての行いはたと

え生まれ変わっても必ず返ってくる理不尽に見える宿命

もすべてはカルマなのだ天の采配に疑問を抱かずす

べてに感謝し在るがままに受け入れることを説くお葬

式を派手にあげるが墓はない生まれ変わりを信じてい

るので祖先を祭ることもないのだ「生まれ変わっても会

いたい」とは恋人たちの決まり文句である

347 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 346

仏教と同時にブータン人の思想に深く影響しているのが

アニミズムシャーマニズムだといえるブータン人は土

地の神様を畏れ敬い呪術に救いを求める食事の前には

呪いを唱えながら酒やご飯などをばらまき大地の神様に

供物を捧げる経文を印刷したカラフルな旗「ルンタ」(風

の馬)が軒先や橋の上で風にそよぐ峠には賽の河原のよ

うに積み上げられた石が並ぶブータンの村には至る所に

スピリチュアルなシンボルがちりばめられ不思議な魔力

を持つ世界に迷い込んだような錯覚に陥るシャーマンは

呪術師であると同時に漢方薬草の知識をもつ伝統医師

でもある村には病院がなく町まで歩いて片道二〜三日

かかる例も少なくないシャーマニズムは映画の世界のみ

ならず今でもブータンの村の暮らしに息づいている

集落での共同作業は交換労働(Exchange Labour

)と呼

ばれている田植えの時期には持ち回りで水牛や労働力を

提供し合い一か月かけて集落内の田を耕す(写真4)

集落が所有する森は共同で手入れをする誰かが新居を構

える際は交換労働の終了後手伝ってくれた人たちに御

馳走をふるまう機械を導入した方が早く安あがりかもし

れないが共同作業がなくなれば人と人との絆は弱くな

りコミュニティが弱体化してしまう足並みをそろえて

動く視野の狭い村人たちを苛立たしく眺める役人ドン

ドゥップは現代社会に生きるブータンの若者の象徴であ

る進化か保守かブータン社会は変容への警戒を抱えて

いる

幸せの国ブータンに一度は行ってみたいというのは映

画にでてくる青い鳥を探しに旅に出た二人の男性と同じで

はないか「欲望は苦痛をもたらす」と監督であるジャム

ヤンケンセーリンポチェは説く隣の芝生は青く見え

るものだ幸せの秘訣は「足るを知る」ブータンのシン

プルな暮らしと人との絆を大切にする心にあるのではな

いだろうか

写真4 水牛と労働力を提供しあう共同作業

参考文献

歌川令三(二〇〇六)「小国の地政学秘境ブータンはなぜ

滅びないか」『東京財団研究報告書』

大岩圭之助ほか(二〇〇八)「GNH豊かさという概念を問

い直す」明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』第

一一号四

映画『T

ravellers and Magicians

』公式サイト(httpw

ww

travellersandm

agicianscom

映画リスト

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』helliphellip①T

he Golden CupmdashT

he Legacy

②シリンウォンゲル③二〇〇六年④ブー

タン⑤ゾンカ語⑥劇場公開DVD販売

『Travellers and M

agicians

』helliphellip①T

ravellers and Magicians

②ケンセーノルブ③二〇〇三年④ブータン⑤ゾンカ

語⑥劇場公開DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip前田知里(まえだちさと)

②所属職名helliphellip伊根町地域整備課

③生年出身地helliphellip一九八一年京都府

④専門分野地域helliphellip有機農業ブータン

⑤学歴helliphellipワーゲニンゲン大学有機農業研究科(アグロエコロ

ジー専攻)修了

⑥職歴helliphellipインドの研究所A

shoka Trust for Research in

Ecology and the Environment

(AT

REE

)とEUとの共同研

究で半年間「有機農業の環境影響評価プロジェクト」に従

事ブータン政府GNH委員会からの招請を受けジャムヤ

ンケンセーリンポチェが主導するブータン初のローカル

NGOSam

drup Jongkhar Initiative

(SJI

)で半年間有機農

業の普及調査に携わる

⑦現地滞在経験helliphellipインドのオーガニック運動を先導するヴァ

ンダナシヴァ博士の農場ナブダニア(N

avdanya

)でブー

タンの先進農家二〇名とともに研修を受ける

⑧研究手法helliphellipインド(ナブダニアの研究者)カナダ日本

の国際チームで約三〇の村を訪問しインタビューを行っ

た有機農業の調査と普及を同時並行で行う国家プロジェク

トであったため利用可能な資源や有機農業の課題などを分

析しつつその集落の現状に合わせたトレーニングを実施す

るというアクションリサーチであった

⑨所属学会helliphellip日本有機農業研究会

⑩研究上の画期helliphellipブータン政府はGNH向上を目的として国

土全体を一〇〇パーセントオーガニックに変えるという声明

を発表したこれをうけGNH委員会は有機農薬の研究者

を全世界に公募した

⑪推薦図書helliphellip特になし

⑫推薦する映画作品helliphellip『U

nmistaken Child

』(ナティバラツ

監督二〇〇八年イスラエル)リンポチェの生まれ変わ

りを探す旅に出た弟子の旅路を追うドキュメンタリー映画

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

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析』凱風社

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山本真弓(一九九七)「九〇年民主化とその背景」石井傳編『暮

らしがわかるアジア読本――ネパール』河出書房新社一九

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

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ceindiacom

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Cat=209ampcatN

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〇一二年一〇月一四日)

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Overseas Earnings

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

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boxofficeindiacom

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e=MjA

wM

C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

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Indian Filmdom

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Media and Power in Contem

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映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

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『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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『たとえ明日が来なくても』

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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『たとえ明日が来なくても』

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

343 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 342

ヒマラヤの険しい山々に囲まれた幸せの国ブータンど

こか懐かしい色あせた写真の風景が郷愁を誘う国だ(写真

1)北を中国(チベット自治区)南をインドと二つの大

国に国境を接し北限は雪で閉ざされた七〇〇〇メートル

級の山稜南部は標高一五〇メートルの平原に亜熱帯の

ジャングルが広がる人口約六〇万人の隠れ里であった小

国は一九七〇年代の経済的発展重視の時代に当時まだ

一〇代であったブータン第四代国王が「国の豊かさはGD

P(国内総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)で図る

べきである」と提唱して一躍有名となった

二つの大国に挟まれたブータンは常に侵略の脅威にさ

らされてきた一九五九年チベットは中国の占領下に入

り他のチベット仏教国ラダックシッキムはインドに吸

収されたブータンのみが唯一のチベット仏教国として独

自文化を守り続けている近年までほぼ鎖国状態を続けて

いたブータンに入国する外国人には高額の観光税が課せら

れる伝統衣装の着用が義務付けられており未だに牛

耕自家採種を中心とする自給自足的な暮らしが残ってい

写真1 ブータンの村の風景

るGNHを切り口に語られることが多いブータンである

が映画からその暮らしと人生観を考察してみたい

ブータン映画の紹介

ブータン映画は仏教の教え呪い迷信魔術輪廻

転生などがテーマになっているものが多く歴史の流れに

忘れられたヒマラヤのシャングリラの風習や人生観が垣間

見える貴重な資料だインドのボリウッド映画の影響を受

け壮大な自然を背景にロマンティックなメロディーが流

れ恋人たちが手を取り合って踊りで気持ちを表現する

シーンが入るそんなブータン映画をいくつか紹介する

Travellers and Magicians

『Travellers and M

agicians

』はカリスマ的なブータ

ンの仏教指導者であるケンセーノルブがメガホンを握っ

た作品だケンセーノルブは幼き頃ジャムヤンケ

ンセーリンポチェの生まれ変わりとして指導者の座につ

いた「映画は精神を表現する曼荼羅でありタンカ(掛

け軸)である」とケンセーノルブは映画を製作した理由

について語る仏教精神を込めたこの映画はインドのボ

リウッド映画の影響を受けた他のブータン映画とは一線を

画する趣に仕上がっている「欲望は心が作り出す幻であ

る」チベット仏教の教えを美しい映像とともにセン

セーショナルに伝える(写真2)

舞台は現代ブータンと魔術の時代である古きブータンの

二つのストーリーが交錯する一か月前に田舎に赴任して

きた政府の役人ドンドゥップはイライラしながらゆった

りとした時間を生きる村人たちを眺める彼は何もない

退屈な村を抜け出し夢の国アメリカに渡るため首都ティ

ンプーを目指すところが週に数本しかないバスに乗り

遅れ片道三日かかる旅路を僧侶リンゴ売り少女と

ともにヒッチハイクで旅をする(写真3)

ドンドゥップとともに旅する僧侶が昔話を語り聞かせ

る魔術師の学校に通うタシはどこか遠い国を夢見て修

行から逃げ出す途中山の中で遭難し隠れ里で美しい女

写真2『Travellers and Magicians』DVD パッケージ

幸せの国ブータンの暮らしと人生観に見る幸せの秘訣前田知里

【ブータン】

345 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 344

性デキに出会う彼女は年老いた夫と二人きりで山奥で生

活していた二人は恋に落ちタシが魔術学校で習った薬

草でデキの夫を毒殺しようと試みるホラー映画のシーン

のように一晩中雄叫びをあげる老人タシは耐え切れ

ず山小屋から逃げ出してしまう

アメリカを目指すのか 

老人を殺そうか 

旅人と魔

術師は願望と現実の葛藤に陥る自由の国に憧れるドン

ドゥップは現代ブータンの象徴である電気も機械もない

シンプルな暮らしを送っていたブータンに近代化情報化

の波が押し寄せ現代のブータンの若者はいろんな魅力に

さらされているブータンは昔のままであるべきなのか

本当に大切なものは何かを映画は問いかけている

The Golden C

upmdashThe Legacy

「これを持っていると幸せになれるただし中のお金

を決して使ってはいけないよ」チベット人から金の壺を

受け取った少女は生涯その壺を大切にし豊かに暮らし

たある日子孫がそのお金を知らずに使ってしまい

「自分の手で作った食事を食べた者は皆死ぬ」という呪い

をかけられる

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』はリンジンリン

ジンの短編小説『幸運の護符』(T

alisman of Good

Fortune

)をベースに製作された一六〇分の長編作であ

る六世代にわたる呪われた一族の女たちの人生を描く壮

大なドラマだ呪いは五世代にわたり代々女性にのみ受

け継がれた一族の女が愛した男はみな姿を消した女た

ちは金の壺が血を求めると誰かを生贄にしなければいけ

ないという宿命を背負っていたのだ

呪いのことを知らずに育ったラモはシリンのプロポー

写真3 僧侶リンゴ売り少女らと旅するドンドゥップ

ズを受け周囲の反対を押し切って同棲を始めるラモの

宿命を知ったシリンは彼女に別れを告げ別の女性と一緒

になったラモは裏切ったシリンと新しい家族に復讐を

誓い呪いの力を受け継いだ彼女は人生のすべてを邪悪

な力に注ぎ込み復讐を果たすが心は晴れず孤独感に

苛まれる

ラモとシリンの間には女の子がいた少女は恋をし青

年と一緒になることに決める青年は呪われた娘である

とすべて承知の上で一緒になり二人は呪いの力が及ばな

い遠くへ逃げる「この子に呪いがわたる前になんとかし

なければhelliphellip」ラモは呪いの連鎖を断ち切るべく母と

祖母を部屋に閉じ込め金の壺を抱いて火をつける

迷信深いブータンの村には「シャーマン」(呪術師)が

住むとされる村に禍や疫病が流行ると邪悪な力を持つ

とされる「シャーマン」のレッテルを誰かが貼られス

ケープゴートとなったこの映画はカルマシャーマニ

ズム輪廻転生の思想を根底に迷信深い村人たちの言動

や思想を浮き彫りにする

ブータン映画に見るムラの暮らしと思想

ブータンの結婚観は日本の平安時代の通い婚に似てい

るブータン西部は女系社会であり土地は長女に受け継

がれる夜這い(ナイトハンティング)の文化が残るブー

タンでは恋人たちが逢い引きするお祭などの時にしめ

しあわせて女性は夜にそっと戸をあけておくこの場面

でたいていインドのボリウッド映画の影響を受けた踊りの

シーンが入るあざやかな衣装で結婚式を挙げるというの

はモダンな発想でほとんどは男が女の元に通うようにな

りいつの間にか一緒になっているものだ婿入りといっ

てもブータンには苗字がなく「家」の概念は薄い離

婚率も高く一夫多妻ならぬ一妻多夫の例も村部では残っ

ている村の親戚関係は実に複雑であるが親戚の子であ

れ友人の子であれ子どもをかわいがり面倒をみるのが

ブータン人の人情なのである

ブータンで国王に並ぶ権力をもつのが宗教指導者であ

るリンポチェやラマが亡くなると弟子たちが輪廻転生

した生まれ変わりの子供を探し出す『T

ravellers and M

agicians

』はリンポチェ自らが仏教思想を織り込んだ

映画を監督したことで話題となった

仏教の教えではこの世で施したすべての行いはたと

え生まれ変わっても必ず返ってくる理不尽に見える宿命

もすべてはカルマなのだ天の采配に疑問を抱かずす

べてに感謝し在るがままに受け入れることを説くお葬

式を派手にあげるが墓はない生まれ変わりを信じてい

るので祖先を祭ることもないのだ「生まれ変わっても会

いたい」とは恋人たちの決まり文句である

347 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 346

仏教と同時にブータン人の思想に深く影響しているのが

アニミズムシャーマニズムだといえるブータン人は土

地の神様を畏れ敬い呪術に救いを求める食事の前には

呪いを唱えながら酒やご飯などをばらまき大地の神様に

供物を捧げる経文を印刷したカラフルな旗「ルンタ」(風

の馬)が軒先や橋の上で風にそよぐ峠には賽の河原のよ

うに積み上げられた石が並ぶブータンの村には至る所に

スピリチュアルなシンボルがちりばめられ不思議な魔力

を持つ世界に迷い込んだような錯覚に陥るシャーマンは

呪術師であると同時に漢方薬草の知識をもつ伝統医師

でもある村には病院がなく町まで歩いて片道二〜三日

かかる例も少なくないシャーマニズムは映画の世界のみ

ならず今でもブータンの村の暮らしに息づいている

集落での共同作業は交換労働(Exchange Labour

)と呼

ばれている田植えの時期には持ち回りで水牛や労働力を

提供し合い一か月かけて集落内の田を耕す(写真4)

集落が所有する森は共同で手入れをする誰かが新居を構

える際は交換労働の終了後手伝ってくれた人たちに御

馳走をふるまう機械を導入した方が早く安あがりかもし

れないが共同作業がなくなれば人と人との絆は弱くな

りコミュニティが弱体化してしまう足並みをそろえて

動く視野の狭い村人たちを苛立たしく眺める役人ドン

ドゥップは現代社会に生きるブータンの若者の象徴であ

る進化か保守かブータン社会は変容への警戒を抱えて

いる

幸せの国ブータンに一度は行ってみたいというのは映

画にでてくる青い鳥を探しに旅に出た二人の男性と同じで

はないか「欲望は苦痛をもたらす」と監督であるジャム

ヤンケンセーリンポチェは説く隣の芝生は青く見え

るものだ幸せの秘訣は「足るを知る」ブータンのシン

プルな暮らしと人との絆を大切にする心にあるのではな

いだろうか

写真4 水牛と労働力を提供しあう共同作業

参考文献

歌川令三(二〇〇六)「小国の地政学秘境ブータンはなぜ

滅びないか」『東京財団研究報告書』

大岩圭之助ほか(二〇〇八)「GNH豊かさという概念を問

い直す」明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』第

一一号四

映画『T

ravellers and Magicians

』公式サイト(httpw

ww

travellersandm

agicianscom

映画リスト

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』helliphellip①T

he Golden CupmdashT

he Legacy

②シリンウォンゲル③二〇〇六年④ブー

タン⑤ゾンカ語⑥劇場公開DVD販売

『Travellers and M

agicians

』helliphellip①T

ravellers and Magicians

②ケンセーノルブ③二〇〇三年④ブータン⑤ゾンカ

語⑥劇場公開DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip前田知里(まえだちさと)

②所属職名helliphellip伊根町地域整備課

③生年出身地helliphellip一九八一年京都府

④専門分野地域helliphellip有機農業ブータン

⑤学歴helliphellipワーゲニンゲン大学有機農業研究科(アグロエコロ

ジー専攻)修了

⑥職歴helliphellipインドの研究所A

shoka Trust for Research in

Ecology and the Environment

(AT

REE

)とEUとの共同研

究で半年間「有機農業の環境影響評価プロジェクト」に従

事ブータン政府GNH委員会からの招請を受けジャムヤ

ンケンセーリンポチェが主導するブータン初のローカル

NGOSam

drup Jongkhar Initiative

(SJI

)で半年間有機農

業の普及調査に携わる

⑦現地滞在経験helliphellipインドのオーガニック運動を先導するヴァ

ンダナシヴァ博士の農場ナブダニア(N

avdanya

)でブー

タンの先進農家二〇名とともに研修を受ける

⑧研究手法helliphellipインド(ナブダニアの研究者)カナダ日本

の国際チームで約三〇の村を訪問しインタビューを行っ

た有機農業の調査と普及を同時並行で行う国家プロジェク

トであったため利用可能な資源や有機農業の課題などを分

析しつつその集落の現状に合わせたトレーニングを実施す

るというアクションリサーチであった

⑨所属学会helliphellip日本有機農業研究会

⑩研究上の画期helliphellipブータン政府はGNH向上を目的として国

土全体を一〇〇パーセントオーガニックに変えるという声明

を発表したこれをうけGNH委員会は有機農薬の研究者

を全世界に公募した

⑪推薦図書helliphellip特になし

⑫推薦する映画作品helliphellip『U

nmistaken Child

』(ナティバラツ

監督二〇〇八年イスラエル)リンポチェの生まれ変わ

りを探す旅に出た弟子の旅路を追うドキュメンタリー映画

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

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析』凱風社

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

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itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

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ceindiacom

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(二

〇一二年一〇月一四日)

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Overseas Earnings

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

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C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

ashita Hiroshi amp

Okam

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Indian Filmdom

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a under Globalization

International Sym

posium

Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

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ボンベイ』の原語(タミル語)

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②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

345 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 344

性デキに出会う彼女は年老いた夫と二人きりで山奥で生

活していた二人は恋に落ちタシが魔術学校で習った薬

草でデキの夫を毒殺しようと試みるホラー映画のシーン

のように一晩中雄叫びをあげる老人タシは耐え切れ

ず山小屋から逃げ出してしまう

アメリカを目指すのか 

老人を殺そうか 

旅人と魔

術師は願望と現実の葛藤に陥る自由の国に憧れるドン

ドゥップは現代ブータンの象徴である電気も機械もない

シンプルな暮らしを送っていたブータンに近代化情報化

の波が押し寄せ現代のブータンの若者はいろんな魅力に

さらされているブータンは昔のままであるべきなのか

本当に大切なものは何かを映画は問いかけている

The Golden C

upmdashThe Legacy

「これを持っていると幸せになれるただし中のお金

を決して使ってはいけないよ」チベット人から金の壺を

受け取った少女は生涯その壺を大切にし豊かに暮らし

たある日子孫がそのお金を知らずに使ってしまい

「自分の手で作った食事を食べた者は皆死ぬ」という呪い

をかけられる

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』はリンジンリン

ジンの短編小説『幸運の護符』(T

alisman of Good

Fortune

)をベースに製作された一六〇分の長編作であ

る六世代にわたる呪われた一族の女たちの人生を描く壮

大なドラマだ呪いは五世代にわたり代々女性にのみ受

け継がれた一族の女が愛した男はみな姿を消した女た

ちは金の壺が血を求めると誰かを生贄にしなければいけ

ないという宿命を背負っていたのだ

呪いのことを知らずに育ったラモはシリンのプロポー

写真3 僧侶リンゴ売り少女らと旅するドンドゥップ

ズを受け周囲の反対を押し切って同棲を始めるラモの

宿命を知ったシリンは彼女に別れを告げ別の女性と一緒

になったラモは裏切ったシリンと新しい家族に復讐を

誓い呪いの力を受け継いだ彼女は人生のすべてを邪悪

な力に注ぎ込み復讐を果たすが心は晴れず孤独感に

苛まれる

ラモとシリンの間には女の子がいた少女は恋をし青

年と一緒になることに決める青年は呪われた娘である

とすべて承知の上で一緒になり二人は呪いの力が及ばな

い遠くへ逃げる「この子に呪いがわたる前になんとかし

なければhelliphellip」ラモは呪いの連鎖を断ち切るべく母と

祖母を部屋に閉じ込め金の壺を抱いて火をつける

迷信深いブータンの村には「シャーマン」(呪術師)が

住むとされる村に禍や疫病が流行ると邪悪な力を持つ

とされる「シャーマン」のレッテルを誰かが貼られス

ケープゴートとなったこの映画はカルマシャーマニ

ズム輪廻転生の思想を根底に迷信深い村人たちの言動

や思想を浮き彫りにする

ブータン映画に見るムラの暮らしと思想

ブータンの結婚観は日本の平安時代の通い婚に似てい

るブータン西部は女系社会であり土地は長女に受け継

がれる夜這い(ナイトハンティング)の文化が残るブー

タンでは恋人たちが逢い引きするお祭などの時にしめ

しあわせて女性は夜にそっと戸をあけておくこの場面

でたいていインドのボリウッド映画の影響を受けた踊りの

シーンが入るあざやかな衣装で結婚式を挙げるというの

はモダンな発想でほとんどは男が女の元に通うようにな

りいつの間にか一緒になっているものだ婿入りといっ

てもブータンには苗字がなく「家」の概念は薄い離

婚率も高く一夫多妻ならぬ一妻多夫の例も村部では残っ

ている村の親戚関係は実に複雑であるが親戚の子であ

れ友人の子であれ子どもをかわいがり面倒をみるのが

ブータン人の人情なのである

ブータンで国王に並ぶ権力をもつのが宗教指導者であ

るリンポチェやラマが亡くなると弟子たちが輪廻転生

した生まれ変わりの子供を探し出す『T

ravellers and M

agicians

』はリンポチェ自らが仏教思想を織り込んだ

映画を監督したことで話題となった

仏教の教えではこの世で施したすべての行いはたと

え生まれ変わっても必ず返ってくる理不尽に見える宿命

もすべてはカルマなのだ天の采配に疑問を抱かずす

べてに感謝し在るがままに受け入れることを説くお葬

式を派手にあげるが墓はない生まれ変わりを信じてい

るので祖先を祭ることもないのだ「生まれ変わっても会

いたい」とは恋人たちの決まり文句である

347 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 346

仏教と同時にブータン人の思想に深く影響しているのが

アニミズムシャーマニズムだといえるブータン人は土

地の神様を畏れ敬い呪術に救いを求める食事の前には

呪いを唱えながら酒やご飯などをばらまき大地の神様に

供物を捧げる経文を印刷したカラフルな旗「ルンタ」(風

の馬)が軒先や橋の上で風にそよぐ峠には賽の河原のよ

うに積み上げられた石が並ぶブータンの村には至る所に

スピリチュアルなシンボルがちりばめられ不思議な魔力

を持つ世界に迷い込んだような錯覚に陥るシャーマンは

呪術師であると同時に漢方薬草の知識をもつ伝統医師

でもある村には病院がなく町まで歩いて片道二〜三日

かかる例も少なくないシャーマニズムは映画の世界のみ

ならず今でもブータンの村の暮らしに息づいている

集落での共同作業は交換労働(Exchange Labour

)と呼

ばれている田植えの時期には持ち回りで水牛や労働力を

提供し合い一か月かけて集落内の田を耕す(写真4)

集落が所有する森は共同で手入れをする誰かが新居を構

える際は交換労働の終了後手伝ってくれた人たちに御

馳走をふるまう機械を導入した方が早く安あがりかもし

れないが共同作業がなくなれば人と人との絆は弱くな

りコミュニティが弱体化してしまう足並みをそろえて

動く視野の狭い村人たちを苛立たしく眺める役人ドン

ドゥップは現代社会に生きるブータンの若者の象徴であ

る進化か保守かブータン社会は変容への警戒を抱えて

いる

幸せの国ブータンに一度は行ってみたいというのは映

画にでてくる青い鳥を探しに旅に出た二人の男性と同じで

はないか「欲望は苦痛をもたらす」と監督であるジャム

ヤンケンセーリンポチェは説く隣の芝生は青く見え

るものだ幸せの秘訣は「足るを知る」ブータンのシン

プルな暮らしと人との絆を大切にする心にあるのではな

いだろうか

写真4 水牛と労働力を提供しあう共同作業

参考文献

歌川令三(二〇〇六)「小国の地政学秘境ブータンはなぜ

滅びないか」『東京財団研究報告書』

大岩圭之助ほか(二〇〇八)「GNH豊かさという概念を問

い直す」明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』第

一一号四

映画『T

ravellers and Magicians

』公式サイト(httpw

ww

travellersandm

agicianscom

映画リスト

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』helliphellip①T

he Golden CupmdashT

he Legacy

②シリンウォンゲル③二〇〇六年④ブー

タン⑤ゾンカ語⑥劇場公開DVD販売

『Travellers and M

agicians

』helliphellip①T

ravellers and Magicians

②ケンセーノルブ③二〇〇三年④ブータン⑤ゾンカ

語⑥劇場公開DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip前田知里(まえだちさと)

②所属職名helliphellip伊根町地域整備課

③生年出身地helliphellip一九八一年京都府

④専門分野地域helliphellip有機農業ブータン

⑤学歴helliphellipワーゲニンゲン大学有機農業研究科(アグロエコロ

ジー専攻)修了

⑥職歴helliphellipインドの研究所A

shoka Trust for Research in

Ecology and the Environment

(AT

REE

)とEUとの共同研

究で半年間「有機農業の環境影響評価プロジェクト」に従

事ブータン政府GNH委員会からの招請を受けジャムヤ

ンケンセーリンポチェが主導するブータン初のローカル

NGOSam

drup Jongkhar Initiative

(SJI

)で半年間有機農

業の普及調査に携わる

⑦現地滞在経験helliphellipインドのオーガニック運動を先導するヴァ

ンダナシヴァ博士の農場ナブダニア(N

avdanya

)でブー

タンの先進農家二〇名とともに研修を受ける

⑧研究手法helliphellipインド(ナブダニアの研究者)カナダ日本

の国際チームで約三〇の村を訪問しインタビューを行っ

た有機農業の調査と普及を同時並行で行う国家プロジェク

トであったため利用可能な資源や有機農業の課題などを分

析しつつその集落の現状に合わせたトレーニングを実施す

るというアクションリサーチであった

⑨所属学会helliphellip日本有機農業研究会

⑩研究上の画期helliphellipブータン政府はGNH向上を目的として国

土全体を一〇〇パーセントオーガニックに変えるという声明

を発表したこれをうけGNH委員会は有機農薬の研究者

を全世界に公募した

⑪推薦図書helliphellip特になし

⑫推薦する映画作品helliphellip『U

nmistaken Child

』(ナティバラツ

監督二〇〇八年イスラエル)リンポチェの生まれ変わ

りを探す旅に出た弟子の旅路を追うドキュメンタリー映画

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

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析』凱風社

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ラム』七八財団法人アジアクラブ六―七頁

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傳編『暮らしがわかるアジア読本――ネパール』河出書房新

社二五六―二六二頁

山本真弓(一九九三)『ネパール人の暮らしと政治――「風刺

笑劇」の世界から』(中公新書)中央公論社

山本真弓(一九九七)「九〇年民主化とその背景」石井傳編『暮

らしがわかるアジア読本――ネパール』河出書房新社一九

―二五頁

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

httpww

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ceindiacom

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Cat=209ampcatN

ame=M

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(二

〇一二年一〇月一四日)

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas Earnings

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

httpw

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boxofficeindiacom

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Cat=127ampcatN

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e=MjA

wM

C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

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Okam

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Indian Filmdom

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映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ザデュオ』இரு

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

347 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 346

仏教と同時にブータン人の思想に深く影響しているのが

アニミズムシャーマニズムだといえるブータン人は土

地の神様を畏れ敬い呪術に救いを求める食事の前には

呪いを唱えながら酒やご飯などをばらまき大地の神様に

供物を捧げる経文を印刷したカラフルな旗「ルンタ」(風

の馬)が軒先や橋の上で風にそよぐ峠には賽の河原のよ

うに積み上げられた石が並ぶブータンの村には至る所に

スピリチュアルなシンボルがちりばめられ不思議な魔力

を持つ世界に迷い込んだような錯覚に陥るシャーマンは

呪術師であると同時に漢方薬草の知識をもつ伝統医師

でもある村には病院がなく町まで歩いて片道二〜三日

かかる例も少なくないシャーマニズムは映画の世界のみ

ならず今でもブータンの村の暮らしに息づいている

集落での共同作業は交換労働(Exchange Labour

)と呼

ばれている田植えの時期には持ち回りで水牛や労働力を

提供し合い一か月かけて集落内の田を耕す(写真4)

集落が所有する森は共同で手入れをする誰かが新居を構

える際は交換労働の終了後手伝ってくれた人たちに御

馳走をふるまう機械を導入した方が早く安あがりかもし

れないが共同作業がなくなれば人と人との絆は弱くな

りコミュニティが弱体化してしまう足並みをそろえて

動く視野の狭い村人たちを苛立たしく眺める役人ドン

ドゥップは現代社会に生きるブータンの若者の象徴であ

る進化か保守かブータン社会は変容への警戒を抱えて

いる

幸せの国ブータンに一度は行ってみたいというのは映

画にでてくる青い鳥を探しに旅に出た二人の男性と同じで

はないか「欲望は苦痛をもたらす」と監督であるジャム

ヤンケンセーリンポチェは説く隣の芝生は青く見え

るものだ幸せの秘訣は「足るを知る」ブータンのシン

プルな暮らしと人との絆を大切にする心にあるのではな

いだろうか

写真4 水牛と労働力を提供しあう共同作業

参考文献

歌川令三(二〇〇六)「小国の地政学秘境ブータンはなぜ

滅びないか」『東京財団研究報告書』

大岩圭之助ほか(二〇〇八)「GNH豊かさという概念を問

い直す」明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』第

一一号四

映画『T

ravellers and Magicians

』公式サイト(httpw

ww

travellersandm

agicianscom

映画リスト

『The Golden Cupmdash

The Legacy

』helliphellip①T

he Golden CupmdashT

he Legacy

②シリンウォンゲル③二〇〇六年④ブー

タン⑤ゾンカ語⑥劇場公開DVD販売

『Travellers and M

agicians

』helliphellip①T

ravellers and Magicians

②ケンセーノルブ③二〇〇三年④ブータン⑤ゾンカ

語⑥劇場公開DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip前田知里(まえだちさと)

②所属職名helliphellip伊根町地域整備課

③生年出身地helliphellip一九八一年京都府

④専門分野地域helliphellip有機農業ブータン

⑤学歴helliphellipワーゲニンゲン大学有機農業研究科(アグロエコロ

ジー専攻)修了

⑥職歴helliphellipインドの研究所A

shoka Trust for Research in

Ecology and the Environment

(AT

REE

)とEUとの共同研

究で半年間「有機農業の環境影響評価プロジェクト」に従

事ブータン政府GNH委員会からの招請を受けジャムヤ

ンケンセーリンポチェが主導するブータン初のローカル

NGOSam

drup Jongkhar Initiative

(SJI

)で半年間有機農

業の普及調査に携わる

⑦現地滞在経験helliphellipインドのオーガニック運動を先導するヴァ

ンダナシヴァ博士の農場ナブダニア(N

avdanya

)でブー

タンの先進農家二〇名とともに研修を受ける

⑧研究手法helliphellipインド(ナブダニアの研究者)カナダ日本

の国際チームで約三〇の村を訪問しインタビューを行っ

た有機農業の調査と普及を同時並行で行う国家プロジェク

トであったため利用可能な資源や有機農業の課題などを分

析しつつその集落の現状に合わせたトレーニングを実施す

るというアクションリサーチであった

⑨所属学会helliphellip日本有機農業研究会

⑩研究上の画期helliphellipブータン政府はGNH向上を目的として国

土全体を一〇〇パーセントオーガニックに変えるという声明

を発表したこれをうけGNH委員会は有機農薬の研究者

を全世界に公募した

⑪推薦図書helliphellip特になし

⑫推薦する映画作品helliphellip『U

nmistaken Child

』(ナティバラツ

監督二〇〇八年イスラエル)リンポチェの生まれ変わ

りを探す旅に出た弟子の旅路を追うドキュメンタリー映画

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

伊藤敏朗(二〇一一)『ネパール映画の全貌――その歴史と分

析』凱風社

佐伯和彦(二〇〇三)『ネパール全史』(世界歴史叢書)明石書

杉本良男(二〇〇二)『インド映画への招待状』青弓社

野津治仁(一九九五)「ネパール映画の現在」『季刊アジアフォー

ラム』七八財団法人アジアクラブ六―七頁

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B F

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evelopment B

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)Chalchitra M

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npublished M

anuscript by Bijaya Ratna Tuladhar

Whelpton John(2005

)A History of N

epal Cambridge U

niverity Press

映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

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〇一二年一〇月一四日)

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(二〇一二年一〇月一四日)

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Cat=127ampcatN

am

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International Sym

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Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

踊るマハラジャ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

349 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 348

二〇〇八年王政に幕をおろして連邦民主共和国として

歩みはじめたネパールは政治的混乱と伝統社会の変革

経済の拡大とデジタル情報化の浸透などが同時に進む錯綜

した状況の渦中にある世界の映画史をふりかえればこ

のような混乱と希望の渾然とした時代においてその国の

映画が大きな飛躍を遂げた例は多いネパール映画もま

たそのエネルギーが着実に蓄積され噴出されようとし

ている

ネパールにおいてチャルチットラ(映画

1)は今も国民

的娯楽である近年の同国映画の製作本数は年間七〇本を

超え人口や経済規模からすれば極めて旺盛な状況といえ

る映画館に詰めかけた観客はスクリーンにむかって大歓

声をあげ歌いときに踊るその熱狂ぶりはこの国の

映画とは我々が知る映画とは違うメディアなのではないか

と思われるほどだ映画がかくも激しく力強いものである

ことを日本の映画人映画ファンは長く忘れているので

はないかむしろ我々こそ教えられることの方が大きいと

さえ思わされる

一九九〇年以前のネパール映画

ネパール映画史の最初の特徴は一八四六年から一九五

一年までネパールを実質的に支配していた宰相家のラナ家

が映画による国民の啓蒙を抑止するためわずかな例外

を除いて国内での映画の上映を禁じていたことである首

都カトマンズに最初の官製映画館がオープンしたのは一九

四九年のことだった一九五一年にラナ体制が崩壊王政

復古が果たされたが国王政府もパンチャヤト(五人組)

体制と言われる絶対王政体制を構築するための情報統制を

行った

一九五一年インドのカルカッタに住むネパール人の

DBパリヤが『真実のハリスチャンドラ王』という映

画をインド国内で撮影し完成させたとされるこれはネ

パール語で製作された最初の映画と考えられているがこ

のような在外民間人の業績は国王政府から黙殺され現

在そのフィルムの所在も不明である

国王政府はインドで映画監督をしていたヒラシンカ

トリを招聘し一九六一年から一〇年間にわたって数多く

のニュース映画と三本の劇映画の製作にあたらせたその

第一作となる劇映画『母』が公開されたのは一九六五年で

あるリュミエール兄弟の最初の映画興行から七〇年後

ようやく最初のネパール国産映画が作られたのだった

『母』の主題は「母なる大地ネパールを愛しネパールの

発展のために尽くそう」というものでそれに続く二本の

官製映画『昨日今日明日』(一九六七)と『変化』(一九七

〇)とともにパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパ

ガンダ映画だった

一九七一年国王政府によってロイヤルネパール映画

公社が設立された公社は一九七七年に国産劇映画で初

のカラー作品となる『クマリ

』を公開した(写真)同作

は一九七九年のモスクワ国際映画祭に出品されネパール

映画で初の国際映画祭参加となった

一九七八年インドの映画会社がネパールの著名な作家

グルプラサッドマイナリの同名小説を映画化した『藁

の燃え火』を公開した「藁の燃え火」とは夫婦の愛憎

は藁の火のように急に燃え上がることもあれば残り火のよ

うにくすぶることもあるという意味で農村の一組の夫婦

の暮らしの機微をリアリズムと情緒性豊かに描いたネパー

ル映画の古典的名作だった

ロイヤルネパール映画公社が一九八〇年に公開した

『シンドゥール

』は夫に先立たれた後に真実の愛に目覚

めた女性がヒンドゥーの教義に背いて再婚すべきか苦しむ

メロドラマの中に歌や踊りやコメディが盛り込まれた波

瀾万丈の娯楽作品だった商業的に大成功をおさめ後に

続くマサラムービー

の路線を定着させた

一九八〇年以降は民間の映画会社による映画産業への参

入も増え毎年ネパール映画が公開されるようになった

写真『クマリ』(ロイヤルネパール映画公社)の一場面(チャイティアデビ氏提供)

インド映画からの脱却を目指すネパーリーチャルチットラ

伊藤敏朗

【ネパール】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

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「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

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Box Offi

ce 2003

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〇一二年一〇月一四日)

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(二〇一二年一〇月一四日)

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Top Lifetime Grossers 2000-2009

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A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

ashita Hiroshi amp

Okam

itsu Nobuko 2011

Indian Filmdom

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ransition Recent Developm

ents and Transform

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a under Globalization

International Sym

posium

Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ロージャー』ரோஜ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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ரியாத

『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

351 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 350

が国王政府による情報統制は続いた公社は国内の映画

産業の振興にあたる一方外国メディアの国内での撮影に

はリエゾンオフィサー(政府連絡官)を派遣してネパー

ルの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう

監視にあたり「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王

国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信

された

『カンチ』(一九八四)はネパールの農村の娘が一度だ

けの契りを交わした男を追ってインドへ向かうも運命の偶

然に翻弄されて非業の死を遂げるという物語でふんだん

な娯楽的要素も盛り込まれたマサラメロドラマの典型

だった『カンチ』は一九八五年に初めて開催されたネ

パール映画祭「ネパールフィルムアワード」でその

年までの過去のすべてのネパール映画の中から最優秀作品

賞に選ばれた

一九六五年の『母』から一九九〇年までの二五年間に制

作されたネパール映画は累計で四八本にとどまるネパー

ル語で映画を観たい国民の要求に対して供給数は常に不足

していたためネパール映画が封切られると映画館を何周

もとりかこむ長蛇の列ができた「チケットを買うのに三

日間並んだ」「チケット売り場の窓口で前から二番目に並

んでいたにも拘わらず後ろの客に次々券を奪われ入手でき

なかった」など当時のネパール映画の猛烈ともいえる人

気を物語る挿話は多い

しかし量的拡大に質的内実はともなわずネパール映

画の内容はどれも似たような設定のラブストーリーに歌と

踊りアクションとコメディが盛り合わされたインド大衆

娯楽映画の路線すなわちマサラムービーへの傾倒が明

白であった

一九八〇年代のネパール映画のなかで異彩を放った作品

が『バスデブ』だった

誠実に生きる教師バスデブと社

会悪の権化のような友人ニル(ニルシャハ監督自身が演

じた)との精神の闘争を描きそれまでのネパール映画に

は希有な硬質の社会派ドラマだった興行的には振るわな

かったもののテーマ性や俳優たちの迫真の演技が高い評

価を得てニルシャハはネパールフィルムアワード

(一九八五)で監督賞を獲得した

ネパールではテレビ放送の開始も一九八五年一二月と遅

かったそのためテレビ放送開始以前に家庭用VTRが

普及しVHSのソフトを上映する個人経営のビデオ映画

館(ビデオパーラー)が多数出現するという特異な事態

が生じた絶対王政体制のもとで禁じられていたVTRや

テレビセットのような情報機器の個人所有が一九七八年に

解禁されるとそれを購入できた人々が自宅や店で料金を

とって映画のビデオソフトを見せては大いに儲けた人々

はビデオパーラーに押し寄せ世界の映画の状況にはじ

めて触れたクリントイーストウッドやジョントラボ

ルタブルースリーがネパールの人々のヒーローとなった

一九八〇年代の後半から一九九〇年代の前半にかけて

ネパールではVHSのビデオデッキとカメラを用いて撮

影上映されるビデオチャルチットラ(ビデオ映画)が

数多く製作されフィルムによる映画の製作本数を上回っ

たネパールにおけるビデオチャルチットラは先進国

におけるアマチュアビデオと異なりどれも二時間から

三時間ありその中に歌と踊りラブストーリーとアク

ションがあるという商業用のマサラムービーであった

この時代のビデオチャルチットラの隆盛は経済発達が

遅れて歩みの遅いネパール映画に対し人々の待ちきれな

い思いや映画に対する表現要求があふれ出たものであると

ともにその後のネパール映画の成長期のための「プラク

ティスの時代」ともなった

一九九〇年民主化運動後のネパール映画

一九八〇年代以降パンチャヤト体制の行き詰まりや近

隣諸国の政治的混乱などの影響もあってネパール国内で

は民主化運動が繰り返された一九九〇年二月から開始さ

れた全国的な民衆運動は多数の逮捕者と死者を出し四月

には全土でゼネストが展開されたカトマンズでは二〇万

人がデモに参加しビレンドラ国王は複数政党制の実施と

そのための憲法交布を宣言するに至った同年一一月国

民主権による立憲君主制を謳った「九〇年憲法」が公布さ

れた

ジャナアンドラン(九〇年民主化運動

7)はネパールの

産業と経済を活気づかせ言論や表現の規制は緩やかなも

のとなり国外からの観光客も増えたネパール映画の製

作公開本数も大幅に増え新たな俳優監督プロ

デューサーらの参入も進み観客の数も増えて映画産業全

体が大きく成長を遂げた

政府は一九九一年一一月に映画法を一部改正し新たに

ネパール映画開発委員会(FDB)を設置し映画行政を

管轄させたロイヤルネパール映画公社は段階的に民営

化された

この時期ネパール映画の主題の対象や時代背景に拡が

りが見られネパール映画を代表する作品やヒット作が生

まれて新しい監督たちも陸続と続いた一つ家で仲良く育

てられた二人の男の子が一人の美しい女性をめぐって葛藤

する『渇き』(一九九一)は名カメラマンのビノード

プラダーンの映像美にも突出したものがあった『愛の供

えもの』(一九九三)ではラナ時代の華麗な宮廷絵巻が描

かれた

『犠牲』(一九九五)は九〇年民主化運動をテーマとし

た社会的メッセージ性の濃い作品だった政治風刺劇の上

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

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「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

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〇一二年一〇月一四日)

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(二〇一二年一〇月一四日)

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A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

ashita Hiroshi amp

Okam

itsu Nobuko 2011

Indian Filmdom

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International Sym

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Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ロージャー』ரோஜ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

353 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 352

演活動を通じて民主化を訴え続けそのため逮捕されたこ

ともあるネパール笑劇の人気コンビ「マハジョディ」の

二人ハリバンサアーチャーリャーとマダンクリシュ

ナシュレスタが民主化運動側の登場人物を演じた

同作には九〇年民主化運動で活躍し実際に収容所に

捕らえられていた多くの民主活動家(の俳優)が登場し

一人一人の名前と顔がアップで映し出されるたびに劇場は

観客の拍手と歓声で割れんばかりとなった劇中歌の

「村々から立ち上がれ」は大ヒットして市民集会の愛唱歌

になった政治的にもメロドラマとしてもシリアスな題材

でありながら随所に歌やコメディがあり観客が楽しく声

をあげながら観ることのできる大衆娯楽作品に仕上がった

トゥルシギミレ監督は二〇〇〇年に大学生の男女の青

春ドラマ『鏡の影』を公開したこの作品は製作費三五

〇万ルピーに対して興収二九二〇万ルピーをあげてそれ

までのネパール映画史上最大のヒットとなった

また外国との人材や情報の往来が増え外国資本との

共同製作が行われたり国外の映画祭で注目される作品や

監督も現れたりするなど質的な変化の兆しもあらわれ

た一九九七年には日本とネパールの初の合作映画『ミテ

リガウン〜愛の架け橋〜』が公開された一九九九年には

フランス人のエリックヴァリ監督の『キャラバン』が公

開され米アカデミー賞外国語映画賞にエントリーされ

た『ムクンド〜欲望の仮面〜』(一九九九)はサンダン

スNHK国際映像作家賞の支援により製作されNHK

アジアフィルムフェスティバルで上映された

一九九一年から二〇〇〇年までのネパール映画公開本数

の合計は二〇五本と爆発的に増え一九九〇年以前の抑圧

的な時代からの映画の解放と隆盛ぶりが顕著だった

九〇年民主化運動後の議会政府の力は弱くさまざまな

国内問題が解決せぬまま地方を中心に左翼勢力が台頭し

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が「人民戦争」

と称した反政府活動が一九九六年初頭から始まっていた

が二〇〇〇年頃から政府軍との武力衝突が激しさを増し

たそうしたなか二〇〇一年六月一日ナラヤンヒティ

王宮内で「ネパール王族銃撃事件」が発生国王夫妻ら王

族九名が死亡したこの難から逃れて即位したギャネンド

ラ新国王は二〇〇二年五月に議会を解散国王による直接

統治に踏み切ったネパールの政治経済は機能麻痺に陥

り内戦による死者は一万五〇〇〇人に達した映画産業

も急速に縮小し封切り興行は軒並み失敗した映画の製

作本数が落ちこみ質も低下して観客が離れた二〇〇一

年度に年間五〇本に達していたネパール映画の製作本数は

二〇〇四年度には二一本に減少した

二〇〇二年『勇敢なるガネシュマン』が公開された

この作品はネパールの民主化運動を長く支えたコングレ

ス党指導者ガネシュマンシンの伝記映画であり半

世紀にわたって揺れ動いたネパールの現代政治史をリアル

に描いた画期的な現代史再現ドラマだった映画の中では

ラナ専制時代の国民への厳しい抑圧のありさまや反ラナ闘

争の戦闘場面九〇年民主化運動における市民デモに対す

る警察隊の暴力や発砲なども描かれそれまでのネパール

映画にはない迫真性があった本作は政治的紛争の続く渦

中での公開となり反コングレス党勢力からはプロパガン

ダ映画の烙印が押され興行的に成功できなかった

『犠牲』や『勇敢なるガネシュマン』などの政治的

テーマを帯びた作品やマオイストの組織を内側から描い

た『炎』(二〇〇〇)は国王の直接統治の時代になると

政府によって上映禁止処置がとられることがあったこう

した圧力に対しデモクラティック映画製作者フォーラム

が集会を開いて抗議声明を発表するなどした二〇〇四年

に制作されたドキュメンタリー『戦火の中の学校』では

マオイストの占領地域の学校で政治と戦争に翻弄される生

徒や教師村の住民たちの苦悩と悲しみが捉えられた

二〇〇六年四月国王直接統治に抗してマオイストを含

む主要政党が共同で大規模ゼネストに突入し一〇万人の

デモが王宮を取り囲んだギャネンドラ国王は民政復帰を

表明し六月には主要政党とマオイストが包括和平合意に

達した

政情の安定化によって映画産業も回復し二〇〇七年か

らはネパール映画の製作本数に回復の兆しが見えはじめた

二〇〇六年にはリルバードルチェトリが書いた同名小

説を映画化した『移住』が二〇〇七年にはラクシュミ

プラサドデウコタの著名な物語詩を映画化した『ムナと

マダン』が公開されともに米アカデミー賞外国語映画賞

にノミネートされたいずれの作品もネパールの農村文学

の土着的な情緒性を主題としておりネパール映画の新し

いアイデンティティー形成への意欲のあらわれといえた

ネパール映画の現在

カトマンズの映画館チェーンを経営するクエストエン

ターテインメント社は鮮明な映写環境と清潔で高級感の

あるホールを設け話題の外国映画をいちはやく上映する

ことで集客をはかる一方映画製作にも乗りだし二〇〇

八年にその第一作『カグベニ』を公開した『カグベニ』

はイギリスの小説家WWジェイコブズの短編「猿の

手」をモティーフにネパールの高地の村に生きる一組の

男女が向き合う人生の欲望と苦しみを寓話的に描いた作品

でシンガポールムンバイハイデラバードなどの国際

映画祭にも出品された技術水準も高く演技や台詞はネ

パールの映画の中でもことに自然で歌や踊りアクショ

ンやコントはなくネパール映画で初のキスシーンがあ

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

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析』凱風社

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傳編『暮らしがわかるアジア読本――ネパール』河出書房新

社二五六―二六二頁

山本真弓(一九九三)『ネパール人の暮らしと政治――「風刺

笑劇」の世界から』(中公新書)中央公論社

山本真弓(一九九七)「九〇年民主化とその背景」石井傳編『暮

らしがわかるアジア読本――ネパール』河出書房新社一九

―二五頁

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『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

httpww

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ceindiacom

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Cat=209ampcatN

ame=M

jAw

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(二

〇一二年一〇月一四日)

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas Earnings

httpww

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e=overseas_earners

(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

httpw

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boxofficeindiacom

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Cat=127ampcatN

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e=MjA

wM

C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

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Okam

itsu Nobuko 2011

Indian Filmdom

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International Sym

posium

Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ロージャー』ரோஜ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

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②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

355 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 354

ることも話題となった

この作品はネパール初のデジタルシネマだったその

後ネパール映画の製作現場ではデジタルシネマカメラ

による撮影が急速に普及し映画館の映写機もビデオプロ

ジェクターへの置き換えが急であるまた3D(立体

視)映画のみならず8Dといわれる椅子が揺れたり風

や水滴が噴き出したりする仕掛けを備えた臨場体験型の上

映方式の映画館も人気を集めている

二〇〇六年南アジアではじめてとなる大学卒業資格が

得られる映画学部としてそれ以前からあった専門学校を

改組しオスカー国際大学映画学部が開校されたこの学

校の出身者であるニシャルバスネット監督のアクション

映画『ルート』(二〇一一)はカトマンズの裏社会でく

すぶる若者たちが一攫千金を夢見て銀行強盗を仕掛けたつ

もりがより大きな罠にはまってしまうという破滅的な青春

群像劇をスタイリッシュな演出とスピーディな編集で見

せた若手監督による新鮮な作風を備えた本作は『鏡の

影』の興収記録を抜いてこれまでで最大の興行的成功をお

さめたネパール映画となった

またコンピュータアニメーションの専門学校である

マヤ映画アカデミー(MAAC)もインドのフランチャイ

ズから独立して経営を始めたネパール映画にはセルアニ

メやクレイアニメの作品がなくいきなりCG時代に突入

しつつあるこうした学校はメディア産業への就職を志す

才能ある若者たちの人気を集めておりカトマンズのテレ

ビ映画産業には続々と新規参入者が加わって熱気が漲っ

ている

ネパールの少数民族であるリンブー族の少女とその家族

の悲劇を描いた『ヌマフン』(二〇〇一)がアジアフォー

カス福岡国際映画祭で上映されたナビンスッパ監督

は少数民族フィルムアーカイブ(IFA)を主宰し

て少数民族の若者たちにドラマやドキュメンタリーの製

作方法を教えるワークショップなどを精力的に行ってい

る二〇〇七年には第一回ネパール国際少数民族映画祭

(NIIFF)を成功させた

ネパールはインド系チベット系中央アジア系の三

つの系統の三〇以上の民族が暮らし五〇以上の言語が使

われている多民族国家であるネパール映画の一ジャンル

として公用語(ネパール語)以外の言語を理解する人々

のための映画が存在するこれらの民族語別の映画はそれ

ぞれの言語使用者のために提供され字幕がつかず吹き替

えも行われないビデオによってきわめて低廉な費用で製

作されVCDやDVDで市販されているその実数や実

態は把握しようもないがデジタル時代になってますます

隆盛である

ネパールにおける民族の多様性は現在のところ穏和に包

含されているが融和政策の一方における少数民族のアイ

デンティティーの確立や伝統文化の保護も現代ネパールが

抱える課題のひとつである

インド映画からの脱却を目指す

ネパーリーチャルチットラ

これまでネパールの映画人はハリウッドやボリウッド

を真似てカトマンズをコリウッドと呼ぶことがあったか

つてはそこに若干の阿諛も含まれたが今日のコリウッド

の活況と熱気はその名にふさわしいものと感じられてなら

ないネパールの数少ない映画スタジオは連日撮影スケ

ジュールが埋まっているし町の中では頻繁に映画のロケ

風景とそれに群がる野次馬の人だかりを目にすることがで

きる打ち続く政情不安にもかかわらずネパールの映画人

は意気軒昂であり一般市民の映画への関心も高い

隣接する映画大国インドのマサラムービーの様式に色

濃く染まっているようにも見えるが内容を仔細に検討し

てみるならばそこにはネパールの人々の暮らし社会観

や家族観が映し出され慎み深く細やかな感受性を備えた

ひたむきな人間像が描かれているこのようなネパール的

な感性の写し鏡となっているからこそネパール映画は永

く人々からの支持を集めてきたと思われる

これからのネパール映画は世界の観客の鑑賞にも堪え

るより洗練されかつ独自性の高い優れた表現作品と

して発達していくことが求められるその実現には時間と

努力を要するだろうがすでにその方向へむかってネパー

ル映画の模索は始まっている

ネパール語で映画のことを「チャルチットラ」という

「チャル」は「動く」「チットラ」は「絵」の意味で日本

語の「活動写真」と同じく「モーションピクチャー」の直

訳である

クマリとはネワールの信仰によって選ばれる聖なる処女

神のこと

シンドゥールとは既婚女性の印として髪の中央に引く赤

い粉の線のこと

マサラとは香辛料の意味で映画には歌踊りロマ

ンスアクション道化という「五つのマサラ」をどれも欠

いてはならないというのがマサラムービーのセオリーであ

る「五つのマサラ」とはインドの伝統的芝居綱要である

「ナーティアシャーストラ」に示された「芝居によって観

客に与えられるべき九つの味(色気勇気笑い悲しみ

驚き恐怖怒り憎悪平安)」がもとになっている古

典芸能の伝統や大道歌芝居の形式に一九世紀以降のイギリス

支配の影響を受けた近代的感性が融合されたことで生まれた

マサラムービーは現在に至るまでインドやネパール映画

の典型的表現様式として深く根づいている

ただしその時点でのネパール映画の累計は二〇本足ら

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

伊藤敏朗(二〇一一)『ネパール映画の全貌――その歴史と分

析』凱風社

佐伯和彦(二〇〇三)『ネパール全史』(世界歴史叢書)明石書

杉本良男(二〇〇二)『インド映画への招待状』青弓社

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ラム』七八財団法人アジアクラブ六―七頁

野津治仁(一九九七)「それでもやっぱり映画が観たい」石井

傳編『暮らしがわかるアジア読本――ネパール』河出書房新

社二五六―二六二頁

山本真弓(一九九三)『ネパール人の暮らしと政治――「風刺

笑劇」の世界から』(中公新書)中央公論社

山本真弓(一九九七)「九〇年民主化とその背景」石井傳編『暮

らしがわかるアジア読本――ネパール』河出書房新社一九

―二五頁

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に始まる――世界シネマへの旅』第三文明社

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映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

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ceindiacom

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Cat=209ampcatN

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(二

〇一二年一〇月一四日)

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Overseas Earnings

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

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C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

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Indian Filmdom

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International Sym

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映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

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『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ロージャー』ரோஜ

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

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巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

357 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 356

ずで候補作は七本というなかでの受賞だった

『バスデブ』は一六ミリフィルムで撮影され上映用に三

五ミリフィルムにブローアップして劇場公開された最初の映

画だったがその後のネパール映画はこの方法で製作配給

されるものが大勢を占めるようになり現在に至るまで三五

ミリフィルムで撮影される映画は稀となった

この政変はクランティカリジャナアンドラン(民

主化運動)またはジャナアンドランといわれ九〇年民主

化運動あるいは九〇年民主革命と訳される

参考文献

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析』凱風社

佐伯和彦(二〇〇三)『ネパール全史』(世界歴史叢書)明石書

杉本良男(二〇〇二)『インド映画への招待状』青弓社

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野津治仁(一九九七)「それでもやっぱり映画が観たい」石井

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山本真弓(一九九三)『ネパール人の暮らしと政治――「風刺

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arkiLiechty M

ark

(2003

)The Social Practice of Cinema and V

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iewing in K

athmandu

Suitably Modern M

aking Middle-

Class Culture in Kathm

andu Martin Chotari pp 151-182

Sayami Prakash

(2004

)Chalchitra Kala R

a Prawidhi Pairavi

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Sharma Laxm

i Nath

(1981

)Chalchitra Kala Sajha Prakashan

Tuladhar Bijaya Ratna

(2008

)Bijaya Draft 2008 U

npublished M

anuscript by Bijaya Ratna Tuladhar

Whelpton John(2005

)A History of N

epal Cambridge U

niverity Press

映画リスト

『愛の供えもの』helliphellip①Prem

Pinda

②ヤダブカレル③一

九九三年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『移住』helliphellip①Basain

②スバスガジュレル③二〇〇六年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『鏡の影』helliphellip①D

ahalpan Chhanya

②トゥルシギミレ③

二〇〇〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カグベニ』helliphellip①K

agbeni

②ブシャンダハール③二〇〇

八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『渇き』helliphellip①T

rishna

②ウゲンチョペル③一九九一年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『カンチ』helliphellip①K

anchhi

②BSタパ③一九八四年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『犠牲』helliphellip①Balidan

②トゥルシギミレ③一九九五年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『昨日今日明日』helliphellip①H

ijo Aaja Bholi

②ヒラシンカト

リ③一九六七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『キャラバン』helliphellip①Caravan

②エリックヴァリ③一九九

九年④フランスイギリススイスネパール⑤ドルパ

リ語⑥劇場公開(一九九九)DVD販売

『クマリ』helliphellip①K

umari

②プレムバスネット③一九六五

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『真実のハリスチャンドラ王』helliphellip①Satya H

arishchandra

DBパリヤ③一九五一年④インド⑤ネパール語

⑥未公開

『シンドゥール』helliphellip①Sindoor

②プラカスタパ③一九八

〇年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『戦火の中の学校』helliphellip①Schools in the Crossfire

②ドゥル

ババスネット③二〇〇四年④ネパール⑤ネパール

語⑥不明

『ヌマフン』helliphellip①N

umafung

Beautiful flower

②ナビン

スッパ③二〇〇一年④ネパール⑤ネパール語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇二)

『バスデブ』helliphellip①Basudev

②ニルシャハ③一九八四年

④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『母』helliphellip①A

ama

②ヒラシンカトリ③一九六五年④

ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『炎』helliphellip①A

ago

②ナラヤンプリ③二〇〇〇年④ネパー

ル⑤ネパール語⑥未公開

『変化』helliphellip①Pariw

artan

②ヒラシンカトリ③一九七〇

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ミテリガウン~愛の架け橋~』helliphellip①M

iteri Ghaun

②ガガ

ンビライシュレスタ③一九九七年④ネパール日

本⑤ネパール語⑥富山県利賀村にて上映(一九九七)

『ムクンド~欲望の仮面~』helliphellip①M

ukundo

②ツェリンリ

タールシェルパ③一九九九年④ネパール⑤ネパール

語⑥NHKアジアフィルムフェスティバル上映NH

K放映

『ムナとマダン』helliphellip①M

una Madan

②ギャネンドラデオ

ザ③二〇〇七年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『勇敢なるガネシュマン』helliphellip①V

eer Ganesh Man

②ビザ

イラトナトラダルサジマンシュレスタ③二〇〇

二年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

『ルート』helliphellip①Root

②ニシャルバスネット③二〇一一

年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

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写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

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ce 2003

httpww

wboxoffi

ceindiacom

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Cat=209ampcatN

ame=M

jAw

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(二

〇一二年一〇月一四日)

BoxO

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Overseas Earnings

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boxofficeindiacom

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

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boxofficeindiacom

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Cat=127ampcatN

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e=MjA

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C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

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Okam

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Indian Filmdom

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porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『たとえ明日が来なくても』

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ロージャー』ரோஜ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

ரப

②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

踊るマハラジャ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

359 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 358

『藁の燃え火』helliphellip①Parala ko A

ago

②プラタップスッバ

③一九七八年④ネパール⑤ネパール語⑥未公開

著者紹介

①氏名helliphellip伊藤敏朗(いとうとしあき)

②所属職名helliphellip東京情報大学総合情報学部教授

③生年出身地helliphellip一九五七年大分県

④専門分野地域helliphellip映像表現論ネパール

⑤学歴helliphellip一九八〇年三月 

東京農業大学農学部造園学科卒

業二〇〇九年三月 

日本大学大学院芸術学研究科博士後期

課程修了博士(芸術学)

⑥職歴helliphellip一九八〇年四月(二二歳)東京農業大学図書館視聴

覚センター一九八八年四月(三〇歳)同法人東京情報大

学教育研究情報センター事務主任二〇〇〇年四月(四二

歳)同法人東京情報大学経営情報学部情報文化学科講師

(専任)を経て二〇〇九年一〇月(五二歳)より現職

⑦現地滞在経験helliphellip二〇〇六年一二月(四九歳)東京情報大

学准教授としてネパールにおけるフィールドワークを開始

その後現在まで一六回の現地渡航のべ三〇〇日以上の滞在

経験がある

⑧研究手法helliphellipネパール映画のスタッフキャストとネパール

語で劇映画を制作並行して現地の映画産業映画文化の調

査研究をおこなっている二〇一二年五月現地プロデュー

サーのオファーにより脚本監督を手がけた長編劇映画『シ

リスコフル〜花を散らす口づけ〜』(二時間一五分)を完成

した

⑨所属学会helliphellip日本教育メディア学会

⑩研究上の画期helliphellipネパール王族銃撃事件(二〇〇一年六月一

日)それまでのネパールに対して抱いていた「ヒマラヤの懐

に抱かれた平和な王国」という牧歌的イメージが吹き飛ばさ

れたその後に続くマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義

派)との内戦の時代を経て王制廃止連邦民主共和国への

移行という混沌の時代へ突き進む端緒となった事件であった

⑪推薦図書helliphellip伊藤敏朗『ネパール映画の全貌――その歴史と

分析』(凱風社二〇一二年)山本真弓『ネパール人の暮ら

しと政治――「風刺笑劇」の世界から』(中央公論社一九

九三年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『犠牲』(原題『Balidan

』トゥルシ

ギミレ監督一九九五年ネパール)『美しい花』(原題

『Num

afung

』ナビンスッパ監督二〇〇一年ネパール)

『海と太陽』(原題『T

erraferma

』エマヌエーレクリアレー

ゼ監督二〇一一年イタリア)

インドは年間の映画制作本数が世界一の国とされてき

たインド映画協会(Film Federation of India

)の集計に

よれば二〇一一年に検閲を通過した劇映画の総数は一二

五五本となっている

一般にインド映画の制作本数とし

て公にされているのはその年に検閲を通過した作品数であ

るインドでは検閲を通過した作品のみが公開を許され

るそうした作品だけで年間一〇〇〇本以上あることにな

る検閲を受けるにはフィート当たりの料金も課される

ドキュメンタリー作品など収益を見込めず国内での上

映が困難だったり想定していなかったりする作品はあえ

て検閲に臨まないことも多いそれも考慮すれば実際の

制作本数は大きく跳ね上がるただし検閲を受けても公

開されない作品も多いし翌年以降に日の目を見るものも

ある同じ作品でも他言語に吹き替えられ別個に検閲を経

ればそのぶん本数も水増しされる外国語作品もイン

ドの言語に吹き替えられ検閲を通ったなら検閲通過本数に

加えられインド映画自体の本数と一体になってしまう

このように「制作本数」の実相は掴みがたいしかし

「数」をめぐる不確定さは残るもののインドが世界で冠

たる映画大国であることに疑いの余地はない(山下岡光

二〇一〇一六八―一七四)

近年テーマパークもどきの施設が各地にお目見えしイ

ンドの娯楽形態に多少の彩りを添えているが「娯楽の王

さま」としての映画の地位は今も安泰である急増してい

る都市部の大型ショッピングモールにはシネコンが併設さ

れていることも多い衛星放送やケーブルテレビの普及に

より多チャンネル化が現出したがソフトの不足もあっ

て映画作品そのものや映画のなかの歌と踊りのシーンを

集めた番組が今も幅を効かせているのが現実である映画

の人気はいまだ衰えずそれだけ無視できない影響力をと

どめている

本稿ではインド社会の変転を映した三本の作品を軸

グローバル化のなかで変容する社会――混成化越境均質化

岡光信子山下博司

【インド】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

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〇一二年一〇月一四日)

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(二〇一二年一〇月一四日)

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Top Lifetime Grossers 2000-2009

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A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

ashita Hiroshi amp

Okam

itsu Nobuko 2011

Indian Filmdom

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ransition Recent Developm

ents and Transform

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mercial Cinem

a under Globalization

International Sym

posium

Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

361 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 360

にグローバル化に伴う諸現象に鋭敏に反応するインド映

画の現状を考察する

インド人の世界進出とインド映画

――『たとえ明日が来なくても』を事例に

世界には在外インド人(overseas Indians

いわゆる

「印僑」)が三〇〇〇万人ほどいると言われる

国外でイン

ド映画を受容する主体がこれらの人々である一人あたり

の興行収益単価は国外のほうが格段に高く在外インド人

の存在はインド映画産業の収益構造にとって重要な存在に

踊り出ている(山下岡光

二〇一〇四四―八二)ここ

ではこうした人々を描いた娯楽作品の嚆矢として『たと

え明日が来なくても』(二〇〇三)を取り上げインド人

や映画産業をめぐるグローバル化の諸相について考える

『たとえ明日が来なくても』はニューヨーク市に住む

インド系住民の悲喜交々を描いた作品でオール北米ロケ

で制作されているヒロインのナイナー(プリーティ

ズィンター)は家庭内トラブルで疲弊していたがMB

Aコースの級友である天真爛漫なローヒット(サイーフ

アリカーン)に心慰められていたナイナーは近所に

越してきたアマン(シャールクカーン)の物怖じしない

人柄に惹かれていくアマンの心にもナイナーへの愛が芽

生えるしかし不治の病に冒されていたアマンはナイ

ナーを愛するがゆえに彼女とローヒットとの間のキュー

ピッド役に徹する二人の結婚を見届けアマンは息を引

き取る

『たとえ明日が来なくても』は同じ年に公開されたボ

リウッド映画(ムンバイで制作される娯楽映画の俗称)の

なかで最高の国外収益をあげた総収益七億八〇〇〇万ル

ピーのうち国内市場が約六五の五億一〇〇〇万ル

ピー国外が約三五の二億七〇〇〇万ルピー(北米で九

五〇〇万ルピーイギリスで一億二七五〇万ルピーその他

で四五〇〇万ルピー)となっている

同作品は二〇〇三

年の時点での歴代国外収益記録をも塗り替えるものと

なった

『たとえ明日が来なくても』はシャールクカーン

プリーティズィンターサイーフアリカーンという

三大スターの共演で現実離れした歌と踊りのシーン三

角関係大富豪や大邸宅の登場家族の絆ユーモア哀

切というインドの商業映画に頻出する諸要素を満載してい

るつまりこの作品は北米で物語が展開することを除

きインドを舞台とするインドのメインストリーム映画と

構造的及び内容的に大差ないものとなっているのである

『たとえ明日が来なくても』は国外に限らずインド内

においても商業的に大成功を収め二〇〇三年の国内興行

成績で第二位を記録している国外に定住する登場人物の

設定が観客の間で好意的に迎えられたのであるこれには

インド人の世界進出の事実が如実に反映されている

当時のインドでは経済交流の活発化先端技術者の需

要留学生の増大などをうけ国外に進出する人々が急増

しディアスポラで新たな移民層を形成しつつあったイ

ンド系の人々の国外におけるプレゼンスはその後も拡大の

一途をたどっている公開された当時インドの人々に

とって国外で暮らす親族や知人がいることはもはや珍し

いことではなくなりつつあった新たな富裕層の誕生で海

外旅行も増えていた『たとえ明日が来なくても』が描く

「異境での暮らし」も公開当時作品の設定としては斬

新でも実際には夢の世界から手の届く範囲へと移りつ

つあったのである国内マーケット的にはこうした夢と

現実の絶妙なバランスがオーディエンスの心をくすぐった

と言えるであろう

一方在外のインド人からは『たと

え明日が来なくても』は舞台がアメリカに設定されたこ

とによって臨場感をもって共感できる作品として受け入れ

られたということになる

二〇〇〇年代前半における『たとえ明日が来なくても』

の国内外の成功はインド映画界が迎えつつあったグローバ

ル化の現実を象徴的に表している

インドの経済発展に伴うオーディエンスの質的転換

――『ターレーザミーンパル』を事例に

インド映画のコンテンツはインド社会の変化と連動し

ている側面が強い一九九一年経済開放政策に舵を切っ

て以降順調な経済成長が続き年収九万ルピー以上の中

間層が全人口の約二〇〜三〇を占めるようになった(山

下岡光

二〇一一三二四―三四九)中間層の拡大は識

字人口の増加と表裏一体である映画の客層についていえ

ばマスオーディエンス(高等教育を受けておらず社

会経済的に中間層以下の大多数の観客)向けの制作興

行スタイルからここにきてクラスオーディエンス(高

等教育に浴し社会経済的にも中間層以上の観客)が重

要な要素を形成するようになっている以下クラス

オーディエンスの増加や観客の嗜好の変化が要因となって

大ヒットを収めた作品『ターレーザミーンパル』(二

〇〇七)を例に考えてみたい

『ターレーザミーンパル』は俳優アーミルカー

ンが制作監督主演した意欲的な娯楽作品である(写

真)ストーリーは学校でも家庭でも手を焼かれていた

主人公の少年イシャーンの成長を軸に展開する彼は

難ディスレクシア

読症という障害をもっていたが周囲の誰もそれに気づ

かなかったため問題児とされて遠方の寄宿舎学校に編入

させられてしまうそこでイシャーンは同じ困難を克服し

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

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ceindiacom

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〇一二年一〇月一四日)

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

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A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

ashita Hiroshi amp

Okam

itsu Nobuko 2011

Indian Filmdom

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ransition Recent Developm

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mercial Cinem

a under Globalization

International Sym

posium

Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

363 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 362

た経験をもつ若い美術教師(アーミルカーン)と出会い

正面から問題と向き合い絵画の才能を開花させていく

『ターレーザミーンパル』ではスター俳優がアー

ミルカーンのみで娯楽映画に定番のオーバーアクショ

ン唐突な出来事不自然な展開なども無い唯一のダン

スシークエンスも全体のストーリーから浮き立つこと

のないようリアルシーンを基調とし派手さも抑えられて

いる挿リ

リツク

入歌にもストーリーに適った詞が付けられてい

る予算規模も小さいすなわちそれまでのインドメ

インストリーム映画の作風とは明らかに一線を画する構成

になっているのであるにもかかわらず『ターレーザ

ミーンパル』は外国人を含む国外オーディエンスを

ターゲットにするのではなく第一義的に国内マーケット

を念頭に制作されているスターが主演しシーンを効果

的に演出する歌や音楽が随所に配されるなど商業映画と

しての要件を満たしていることが何よりの証しである

『ターレーザミーンパル』は強い社会的メッセージ

に裏打ちされた娯楽映画であるメッセージ性が突出して

いるものの国内で商業的に成功し批評家の評価も総じ

て高かった国内でのDVD販売は公開のわずか六か月後

という早さで行われ南インドのタミル語やテルグ語への

吹き替えバージョンも発売された『ターレーザミーン

パル』は国内の各方面に反響を起こした教育界などでは

〈『ターレーザミーンパル』以前以後〉という言い方

さえ現れたほどであるいわば「現象」になったのである

『ターレーザミーンパル』は良質なストーリー

良質な歌適切なキャスティングというヒット作に要求さ

れる諸条件をクリアーしマスオーディエンスとクラ

スオーディエンスの双方に受け入れられる作品となっ

たこの映画の成功はインドにおいて所得水準や教育

水準の高まりをうけてオーディエンスの質が多様化し従

来型の商業映画とは一味違う映画を期待する層が着実に形

成されつつあることを証明したのである(山下岡光

二〇

一〇 Y

amashita amp

Okam

itsu 2011

写真『ターレーザミーンパル』DVD パッケージ写真

国内におけるコンテンツの均質化と地域性の卓越した

作品の今後――『第一の敬意』を事例に

現在インドの映画作品と映画産業はさまざまな局面に

おいて「ボーダレス化」に直面しているインド映画の国

外市場は今や高収益の源泉であるため映画作りにとって

その存在を無視できないものとなっている作品のコンテ

ンツも国内のオーディエンスに大きな違和感を生じさせ

ない範囲で在外のインド人たちの欲求も満足させるもの

へと変化しつつあるコンテンツに一種の混成化が起こっ

ているのである国外での撮影の一般化恒常化にはその

ような背景もある

このことはボリウッドにおける撮影

所の不足も関係している

インド映画市場のボーダレス化現象は国内においても

着々と強まりコンテンツにも均質化の傾向が顕在化して

いる実にボリウッド映画は今般のグローバル化以前か

らコンテンツにおける均質化を経験してきたボリウッド

映画は北インドのヒンディーベルトを中心に広範な

地域でまんべんなく受け入れられるよう国内の地域的相

違に由来する諸要素を抑え汎インド性を考慮した制作が

なされてきた用いられる楽曲も同様でどれも似たり

寄ったりのものとなっている興行上の失敗を避けるた

め直近のヒット作を模倣した映画作りも横行してきた

こうしたことからボリウッド映画は内容的にマンネリ化

に陥りがちな欠点も随伴していたのである

それに対し南インドのフィルムメーカーはボリウッ

ドに比べて地域に根ざした作品を作るのに長けてきたが

最近はインド全土での上映を前提にしたものも制作するよ

うになっているたとえば南インドを代表する監督マニ

ラトナムの『ロージャー』(一九九二)と『ボンベイ』(一

九九五)はタミル語圏で大ヒットしたにとどまらずヒ

ンディー語などに吹き替えられて全インドを席巻した成

功をうけ同監督は『ディルセ 

心から』(一九九八)で

ボリウッドスターであるシャールクカーンとマニ

シャーコイララを主役に起用しタミル語に替わってヒ

ンディー語による映画制作に転じている

俳優の特徴にも変化が見られる従来北インドと南イ

ンドでは目鼻立ちや身体特徴の形質的相違に加え美意

識や文化伝統の違いを反映して映画に登場する俳優の服

装などにも顕著な差異が見られたしかしこのところボリ

ウッドで色白でスリムな体型の女優が主流になると南イ

ンド映画でも太めのヒロインに替わってヒンディー映

画界出身のスマートな女優が起用されることが多くなっ

た精悍な外見のヒーローが一般化するなど主演男優の

イメージにも変化が顕在化しているオーディエンスの嗜

好が全インドで均質化に向かうなか映画の中味も均質性

を帯びる傾向が顕れているのである

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

httpww

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ceindiacom

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(二

〇一二年一〇月一四日)

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas Earnings

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

httpw

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wM

C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

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Okam

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International Sym

posium

Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

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『ボンベイ』பாம

ரப

②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

踊るマハラジャ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『ロージャー』ரோஜ

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『ムトゥ

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

365 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 364

さらに南インドの映画産業内部においてもボーダレス

化が進行しているタミル映画のなかには(吹き替え版

の公開が禁じられているカルナータカ州を除く)南インド

諸州で上映されるとの前提のもとに制作される作品も多く

なっている南インド内では以前から人気俳優などの「越

境」が目立っていたがここに来てボーダレス化がコンテ

ンツ自体にまで波及しているのである南インド諸州は文

化的基層を緩やかに共有することに由来する類似点も多い

が各州は言語を異にしておりそれぞれの言語で制作さ

れる作品には独自の感性や情趣の機微が見られたものであ

るそれゆえ南インドの映画は相互に影響を与えつつも

それぞれ別個の発展をたどり得たのである南インドのあ

る言語でヒットした作品が南インドの異なる言語にリメイ

クされる際も地域性に合わせて配役や設定を微妙に変更

することも稀ではなかった

ところが最近はリメイクの

手間を省くためはじめから南インド諸州内の異質な要素

をそぎ落として作られることが多くなっているそのまま

別言語に吹き替えれば事足りるからである(山下岡光

二〇一〇一二八―一三二)

地域性に裏打ちされた作品の代表例としてタミル映画

『第一の敬意』(一九八五)があるこの作品はタミル

ナードゥ州の一農村を舞台に女性の貞節をめぐる通念

身分秩序やカースト的規範伝統的価値観等のしがらみの

なかで純愛を貫く初老の村む

らおさ長

と若い不可触民女性の悲運を

描いた佳作である作品は交叉イトコ婚の実践等を含む

ドラヴィダ的な親族関係やタミル独特のシンボリズムに充

填されている『第一の敬意』はシリアスな内容ではあ

るが歌と踊りを含む商業映画として州内で大ヒットを記

録しタミル語作品として全国的な映画賞にも輝いてい

る『

第一の敬意』は地域性を強く反映しておりタミル

地方の伝統文化を知れば知るほどそのテーマの奥深さを把

捉できる作品であるしかしながらこのような一地域の

文化特性を前面に打ち出した作品は今や他州の言語に吹

き替えられてもヒットが見込めないため最近ではあまり

制作されなくなっている我々がインタビューした映画人

の多くが『第一の敬意』のような作品はもう撮れないだ

ろうと口を揃えて述懐していたことを思い出す映画をめ

ぐる国内映画マーケットのボーダレス化の激流のなかで

一部の例外はあっても地域性が強く打ち出された作品は

制作現場から次第に駆逐されつつあるのが現状である

混成化越境均質化

――社会の動態を読み解くツールとしての映画

本稿では現代インドの文化社会の動態を知る有力な

手がかりとして数本のインド映画を取り上げグローバル

化現象に不可避的に随伴する三つの様相――混成化

(hybritization

)越境(transborderization

)均質化(hom

ogenization

――に焦点を当てて考えてきた

インド社会は経済開放政策に転じて以降順調な経済

発展のプロセスを経るなかで予想を上回るほどの速さで

変容を被りつつあるこうした社会変化の奔流を承けイ

ンドで制作される映画においてもターゲットとなる客層

の変化に伴ってストーリーキャスティング舞台設

定地域的要素楽曲などコンテンツに大きな変化が顕

在化しつつあるインド映画の世界は固定的なものでは

なくインドを取り巻く社会状況に鋭敏に反応しながらダ

イナミックに変容を遂げているこの意味でインド映画

はインド社会の動態を測るツールとしての一面を有して

いるのである

日本においてはこれまでインド映画について安易な紹

介がはびこり一部の作品群や特定の俳優の主演作などに

偏った興行が横行してきたそのため低劣でステレオタ

イプ的なイメージが定着し学問的アプローチを阻害して

きた傾きがある今後インド映画に多方面から研究の光が

当たることが期待される

1 httpw

ww

filmfedorgIFF2011htm

l

(二〇一二年一一

月二七日閲覧)

「インド系」が指し示す内容は場合によりまちまちであ

る狭義のインド共和国出身者を指すというより印パ分離

以前の広義のインド場合によってはネパールやスリランカ

などを含む「南アジア」から到来した人々とその子孫を漠然

と示すことも多いしたがって在外インド人として示され

る人数はあくまで「目安」と考えるべきである

Top Lifetime Grossers 2000-2009

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Office 2003

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas

Earnings

BoxOffi

ceIndiaCom

『たとえ明日が来なくても』に先立つタミル映画『ジーン

ス』(一九九八)はこの種の設定の先駆であるストーリー

はロサンゼルスとタミル農村での場面が自由に交替する

このように欧米とインドとの間で舞台をめまぐるしく交錯

させる設定に立つ作品は今も少なくない

この作品では後にボリウッドスターとなるプリー

ティズィンターがデビューを果たしているのちにトップ

女優に成長するアイシュワリヤーラーイのデビュー作もマ

ニラトナム監督作品『ザデュオ』(一九九七)だったこと

は記憶に新しい

たとえば日本で大ヒットしたタミル語映画『ムトゥ 

踊る

マハラジャ』(一九九五)もマラヤーラム語映画のリメイク作品

で本来ケーララの俳優モーハンラールの主演作であるタミ

ル語のリメイク作品は成功を収めたが原作はヒットしていない

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

httpww

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ceindiacom

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Cat=209ampcatN

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(二

〇一二年一〇月一四日)

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Overseas Earnings

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(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

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wM

C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

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Indian Filmdom

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International Sym

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Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

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岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

367 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 366

参考文献

BoxOffi

ceIndiaCom

Box Offi

ce 2003

httpww

wboxoffi

ceindiacom

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Cat=209ampcatN

ame=M

jAw

Mw

==

(二

〇一二年一〇月一四日)

BoxO

fficeIndiaCom

Overseas Earnings

httpww

w

boxofficeindiacom

cpagesphppageNam

e=overseas_earners

(二〇一二年一〇月一四日)

BoxOffi

ceIndiaCom

Top Lifetime Grossers 2000-2009

httpw

ww

boxofficeindiacom

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Cat=127ampcatN

am

e=MjA

wM

C0yMD

A5

(二〇一二年一〇月一四日)

山下博司岡光信子(二〇一〇)『アジアのハリウッド――グ

ローバリゼーションとインド映画』東京堂出版

山下博司岡光信子(二〇一一)「インド人と娯楽映画」『イン

ドを知る事典』東京堂出版(第三版)二八六―三〇八頁

Yam

ashita Hiroshi amp

Okam

itsu Nobuko 2011

Indian Filmdom

in T

ransition Recent Developm

ents and Transform

ations of Com

mercial Cinem

a under Globalization

International Sym

posium

Media and Power in Contem

porary South Asia

映画リスト

『ザデュオ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

दिल स

『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

வர

『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九七

年④インド⑤タミル語⑥アジアフォーカス福岡国際

映画祭(一九九八)

『ジーンズ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②シャンカル③一九九八年④

インド⑤タミル語⑥二〇〇〇年

『ターレーザミーンパル』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

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〔地上の星

たち〕②アーミルカーン③二〇〇七年④インド⑤

ヒンディー語⑥未公開

『第一の敬意』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

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『ボンベイ』பாம

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②Pバーラティ

ラージャー③一九八五年④インド⑤タミル語⑥大イ

ンド映画祭(一九八八)

『たとえ明日が来なくても』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②ニキル

アドヴァーニ③二〇〇三年④インド⑤ヒンディー語

⑥東京フィルメックス(二〇〇四)DVD販売

『ディルセ 

心から』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

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『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

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『ボンベイ』பாம

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②マニラトナム③一九

九八年④インド⑤ヒンディー語⑥二〇〇〇年

『ボンベイ』helliphellip① 『

ボンベイ』の原語(タミル語)

பமபாய

②マニラトナム③一九九五

年④インド⑤タミル語⑥一九九八年

『ムトゥ 

踊るマハラジャ』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

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『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②KSラヴィク

マール③一九九五年④インド⑤タミル語⑥一九九八

『ロージャー』helliphellip①

岡光山下「グローバル化のなかで変容する社会」

映画タイトル原語

『ディルセ

心から』rarr

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『ロージャー』ரோஜ

『ジーンズ』ஜன

『ザデュオ』இரு

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『ムトゥ

踊るマハラジャ』மு

தது

『ターレーザミーンパル』

तार जमीन पर

『たとえ明日が来なくても』

कल हो ना हो 『第一の敬意』மு

தல ம

ரியாத

『ボンベイ』பாம

ரப

②マニラトナム③一九九二年

④インド⑤タミル語⑥福岡総合図書館インドシネマウィー

ク(一九九七)東京国際映画祭(一九九八)

著者紹介

①氏名helliphellip岡光信子(おかみつのぶこ)

②所属職名helliphellip東北大学大学院文学研究科専門研究員

③生年出身地helliphellip一九六三年大阪府

④専門分野地域helliphellipインドにおけるキリスト教の現地適応

インドシンガポールインドネシアにおいて宗教組織の社

会貢献について宗教人類学的に調査研究近年インド

タミルナードゥ州の伝統医療について調査を行っている

⑤学歴helliphellip関西大学商学部卒業関西大学大学院文学研究科修

士課程地理学専攻修了東北大学大学院文学研究科博士課程

前期二年課程(社会学)および後期三年課程(人間文化学専

攻)修了博士(文学)

⑥職歴helliphellip一九九八年〜一九九九年二〇〇三年〜現在 

仙台

大学非常勤講師二〇〇七年〜現在 

東北大学大学院文学研

究科専門研究員二〇一二年〜現在 

東北学院大学ヨー

ロッパ文化総合研究所客員研究員

⑦現地滞在経験helliphellip一九九九年〜二〇〇〇年 

インドタミル

ナードゥ州立マドゥライカーマラージ大学留学(ジャーナ

リズムコミュニケーション学科)

⑧研究手法helliphellipフィールドワークは研究の基礎を成す

フィールドワークは参与観察インタビューが中心とな

る質問票を用いるアンケートの場合もインフォーマント

にインタビューする形式をとり定性データを集めるように

している

⑨所属学会helliphellip日本宗教学会日本南アジア学会「宗教と社

会」学会日本文化人類学会

⑩研究上の画期helliphellip一九九〇年八月湾岸戦争湾岸戦争の現地

情報はテレビを含むさまざまなメディアによって瞬時に

かつ世界同時に発信されたお茶の間で湾岸戦争のライブ映

像を見るという出来事は情報のボーダレス化を強く意識さ

せる出来事であった地域研究においてボーダレス化は

キーワードのひとつである

⑪推薦図書helliphellipBマリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』

(泉靖一増田義郎編訳『世界の名著(五九)マリノフスキー

レヴィ=ストロース』所収中央公論社初版一九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『大地のうた』(原題『Pather Panchali

サタジットレイ監督一九五五年インド)

著者紹介

①氏名helliphellip山下博司(やましたひろし)

②所属職名helliphellip東北大学大学院国際文化研究科(国際環境シ

ステム論講座)教授

③生年出身地helliphellip一九五四年宮城県

④専門分野地域helliphellip南アジア地域研究ヒンドゥー教ディ

アスポラの宗教(インド系と華人系を中心に)

⑤学歴helliphellip東北大学文学部哲学科(印度学仏教史)卒業東北

大学大学院文学研究科(印度学仏教史)修士課程修了マド

ラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了

⑥職歴helliphellip山形大学教養部助教授名古屋大学大学院国際開発

研究科助教授東北大学大学院国際文化研究科助教授東北

大学大学院国際文化研究科教授

⑦現地滞在経験helliphellipインドタミルナードゥ州マドラス市留

学(六年間)インドケーララ州ティルヴァナンダプラム

市国際ドラヴィダ言語学研究所客員(六か月)シンガポー

ル国立シンガポール大学社会学科客員(三か月)バンコ

クタイ国立バンディットパッタナシン大学客員(六か月)

海外滞在一〇年以上

⑧研究手法helliphellip古典学の知識と方法を基礎にインタビューや

参与観察を含む現地調査により現代の文化現象を探究

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

369 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 368

E(タミルイーラム解放の虎)とスリランカ政府軍との

間の戦争も散発的にありまたコロンボ市内でも時々テ

ロによる爆破事件があるなど紛争の影を多々見ることが

あった

しかしそうした影を除けばスリランカ(と言っても

シンハラ人多住地域の南西部であるが)は通常は至って

平和でスリランカ人

の明るさ陽気さ笑顔に触れる毎

日はとても気持ちがよかった私は世界二十か国ほど訪

れたことがあるがスリランカは最も微笑みの国ではない

かという印象をまた自然の美しさという点でもスリラ

ンカは最も美しいという印象を今でも持っている前者の

点に関して言えばスリランカでは目と目が合うとほとん

どと言ってよいくらいニコッとされとても気持ちよく感

じたものである後者の点に関して言えばスリランカは

小さい国であるにもかかわらず景色が多様で海岸部で

は青い海と椰子の木山間部では緑の紅茶畑と所々に見ら

れる滝に筆舌に尽くし難い美しさを感じたものである

さらにスリランカの魅力に関して挙げておきたいの

は九州よりは広く北海道よりは狭いくらいの小さい国の

割にたくさんある世界遺産であるしかも世界遺産のバラ

エティが豊富である貴重な仏教遺跡のあるアヌラーダプ

ラやポロンナルワ岩山のてっぺん付近の岸壁に描かれた

美しい天女たちが人々を魅了するシーギリヤオランダが

築いた城塞と城塞内の旧市街にオランダ植民地時代の面影

が残るゴール仏歯を載せた象が街中を練り歩くペラヘラ

祭りで有名なキャンディ動植物ともに多様で固有種が多

く生物の宝庫であるシンハラージャ森林保護区等である

繊細な表現に浮かび上がる静かな悲しみ

そのようなスリランカ人の明るさ陽気さ笑顔とは対

照的にスリランカ映画はとても繊細な感情が表現された

ものになっているふだんのスリランカ人の明るさからす

ればスリランカ映画もインド映画のように歌あり踊り

あり笑いありの映画を予想してもよさそうなものである

が私が見た映画から判断するにむしろ日本人のよう

に繊細な感情が表現されている映画であると言えよう

私が見た映画は『ジャングルの村』『満月の日の死』

他であるがここではこの二本を取り上げたい『ジャン

グルの村』は外務省専門調査員としてスリランカに滞在中

に『満月の日の死』は東京で開かれた第二回アジア

フィルムフェスティバルで見た

『ジャングルの村』はイギリス植民地時代におけるス

リランカの村の人間模様を描いたものである村で辛い目

に合うバブンとプンチメニカという若いカップルが中心に

描かれているこの映画の中では彼らを辛い目に合わせ

るのは植民地権力ではなく地元の権力である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会日本宗教学会日本印度学

仏教学会

⑩研究上の画期helliphellipインドの経済開放政策への転換(一九九一

年)それまで静態的に捉えていたインド世界がダイナミッ

クに動き出しためまぐるしい社会変動の中で「変わりゆく

インド」と「変わらざるインド」について考えめぐらす端緒

になった

⑪推薦図書helliphellipAベルク『風土学序説 

文化をふたたび自然

に自然をふたたび文化に』(筑摩書房二〇〇二年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『神の名のもとに』(ドキュメンタリー

Aパットワルダン監督一九九二年インド)

私はスリランカのシンハラ人タミル人の間の民族紛

争の調査をするために外務省専門調査員としてスリラン

カに一九九〇年から一九九三年まで三年間滞在したシン

ハラ人とはスリランカの人口の約四分の三を占めシン

ハラ語を話し仏教徒が中心の民族であるタミル人と

はスリランカの人口の約五分の一を占めタミル語を話

しヒンドゥー教徒が中心の民族である

私がスリランカにいた頃はタミル人多住地域のスリラ

ンカ北東部のスリランカからの分離独立を目指すLTT

世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ林 明

【スリランカ】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

371 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 370

にワンニハーミの悲しみが深く表現されているのが印象的

であった

現代のスリランカ社会を語る際に民族紛争抜きにして

は語れない戦争は終わっても民族紛争で焦点となった

タミル人多住地域の北東部への権限委譲問題はいまだに

解決していない大きな問題であるしこの映画に見られた

ような苦しみはいまだに多くの人々に残っているからであ

る歌

で共鳴するスリランカと日本

この二本の映画から感じられるものは先にも述べた繊

細さである歌あり踊りあり笑いありのインド映画も面白

いがそうしたインド映画主流の傾向とは異なるのがスリ

ランカ映画の繊細さである

もっともインド映画も多様でありインド映画の中に

は芸術映画社会派の映画が多く作られているベンガル

映画を代表する監督であるサタジットレイ監督の『大地

のうた』『大河のうた』『大樹のうた』のような繊細な映画

もある『大地のうた』が東京神保町にある岩波ホールの

記念すべき第一作目に選ばれたのは日本人の繊細な心の

琴線に触れるものもあったからであろうしかしこのよ

うな映画はインド映画の主流ではない

『満月の日の死』を作ったプラサンナヴィターナゲー

監督は先に述べた第二回アジアフィルムフェスティ

バルでのメッセージとして「スリランカの不幸は民族紛

争によって引き起こされているその結果多くの人々の

人間の尊厳が侵されている芸術家として私は国民の鼓

動をとらえ現状を明らかにすることが義務であると感じ

た私は映画の中での登場人物をできる限り忠実に描こ

うとした日本の人々は戦争の悲惨さを誰よりも理解して

いると思うのでそれだけこの映画に共感できると信じて

いる

」と書いているこれはスリランカ人の繊細な心が

日本人の繊細な心に届き得る可能性をスリランカ人自身が

直観的に感じ取っている言葉である

このことに関連してお話したいのはスリランカのバイ

ラ音楽として取り上げられた日本の歌である

バイラ音楽とはスリランカに最初にやって来たヨー

ロッパ勢力であるポルトガル人によってもたらされた舞踏

曲に由来するものであるがその後民衆に広く受け入れ

られ今日では大衆音楽となっている陽気なメロディー

が多く今にも踊り出したくなるような曲が多い

そのバイラ音楽の中でマリアゼッレという有名な女性

歌手がシンハラ語でカバーしている曲に竹田の子守唄があ

る竹田の子守唄は一九七〇年代にフォークグループ

の「赤い鳥」が歌って大ヒットしたが現在では忘れ去ら

れている感もある曲であるこの歌のメロディーは大変美

バブン役のヴィジャヤクマーラトゥンガはスリラン

カの大統領となったチャンドリカの夫であった人物で今

でいうイケメンであるがバブンという貧しい農民役を熱

演していたプンチメニカ役のマーリニフォンセーカ

はスリランカを代表する女優で妖艶な魅力が漂っていた

が彼女もまた苦難にあえぐ農民を上手に演じていた

閉鎖的で逃げ場のない農村権力の横暴に苦しむ貧しい

農民の姿が表現されている映画の迫力緊迫感に映画を

見終わった後大分長い間戦慄を覚えたくらいインパク

トを残した映画であったそれは言い換えればそれく

らい映画表現が優れていることの証でもあるただし今

日のスリランカの農村は近代化グローバリゼーション

の進展によりこの映画に描かれているような農村の姿と

は異なっている

『満月の日の死』はスリランカの民族紛争を背景とし

た映画であるスリランカでは長年にわたってLTTE

とスリランカ政府軍との間の戦争が続いていた(二〇〇九

年五月に政府軍によりLTTE指導者プラバーカランが殺害

されたことをもって戦争は終結した)

インドとの関係などさまざまな要因は考えられるもの

の内戦にまで至る紛争が生じた最大の要因は独立後のス

リランカ政治にあると言えるだろう多数派であるシンハ

ラ人の票を選挙で獲得するためスリランカの二大政党で

あるUNP(統一国民党)とSLFP(スリランカ自由党)

がシンハラ人の利益を優先させるシンハラナショナリ

ズムに訴えてきたことがタミル人の政府への不満を誘い

政府と武力で対決し分離独立を目指すLTTEのようなタ

ミル人の過激派を生み出してしまった

ここで大事な点はシンハラ人一般は政治家に煽られ

て結果的にタミル人の不満を生じさせてしまったが決し

て日常生活の場においてタミル人を憎んではいなかったと

いう点であるむしろシンハラ人とタミル人の関係は融和

や共存の関係だった例えばスリランカの仏教寺院には

デーワーレ(神祠)というものがあるがここではヒン

ドゥー起源の神々が祀られているスリランカの聖山ス

リーパーダには頂上付近に人々が崇める足跡があるが

仏教徒はこれをブッダのヒンドゥー教徒はヴィシュヌ神

のイスラム教徒はアダムのキリスト教徒はセントト

マスの足跡として信仰してきたこの映画ではそのよう

な普通のシンハラ人の戦争に翻弄され苦しむ姿が描か

れている

ストーリーは農村で暮らす盲目の老人ワンニハーミ

は息子のバンダーラが政府軍兵士として戦っている間

家を守っていたがある日ワンニハーミのもとに息子の

棺が届きワンニハーミは息子の戦死が受け入れられない

というものである映画は淡々と進むが静かな画面の中

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

373 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 372

参考文献

林明(一九九四)「スリランカの民族紛争とインド」辛島昇編

『ドラヴィダの世界』東京大学出版会四四二―四五四頁

林明(一九九七)「スリランカの民族紛争とインドスリラン

カ関係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済

研究所七一―一〇九頁

林明(一九九八)「政治によってつくられた紛争――民族紛争

の過程」杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 

スリラン

カ』河出書房新社二六三―二七〇頁

林明(一九九八)「インドから見たスリランカの民族紛争――

タミルゲリラと国際関係」杉本良男編『暮らしがわかるア

ジア読本 

スリランカ』河出書房新社二七九―二八六頁

林明(一九九九)「シンハラとタミルの対立」大森元吉編『ス

リランカの女性開発民族意識』明石書店一九五―二〇

九頁

林明(二〇〇〇)「国家の危機と地域――南アジア」木村靖二

長沢栄治編『地域の世界史一二 

地域への展望』山川出版

社八六―一二四頁

林明(二〇〇四)「スリランカの民族紛争と国民国家――独立

後の政治及びインドとの関連――」『社会科学研究』第五五

巻第五六合併号(東京大学社会科学研究所)一六七―一

八二頁

映画リスト

『運命線』helliphellip①Rekava

②レスタージェームズピーリス

③一九五六年④スリランカ⑤シンハラ語⑥合同アジア

映画祭(二〇〇〇)

『ジャングルの村』helliphellip①Baddegam

a

②レスタージェーム

ズピーリス③一九八〇年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥南アジア映画祭(一九八二)

『大河のうた』helliphellip①A

parajito

②サタジットレイ③一九

五六年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七〇)

DVD販売

『大樹のうた』helliphellip①A

pur Sansar

②サタジットレイ③一

九五九年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九七

四)DVD販売

『大地のうた』helliphellip①Pather Panchali

②サタジットレイ③

一九五五年④インド⑤ベンガル語⑥劇場公開(一九六

六)DVD販売

『マイムーン』helliphellip①M

e Mage Sandai

②アソーカハンダ

ガマ③二〇〇〇年④スリランカ⑤シンハラ語⑥東京

国際映画祭(二〇〇一)

『満月の日の死』helliphellip①Purahanda K

aluwara

②プラサンナ

ヴィターナゲー③一九九七年④スリランカ⑤シンハラ

語⑥第二回アジアフィルムフェスティバル(一九九

七)

『やさしい女』helliphellip①O

ba Nathuw

a Oba Ekka

②プラサンナ

ヴィターナゲー③二一二年④スリランカインド⑤

シンハラ語⑥アジアフォーカス福岡国際映画祭(二一

二)

しいと同時に物悲しく聞いていると郷愁にも似たまさに

日本人の心を感じさせてくれるこの曲をスリランカの歌

手が発掘し歌っているということはスリランカ人の心

と日本人の心が共鳴し合うところがあることを示している

のではないだろうか

だがスリランカ人の面白さは心の奥底の心情面では

日本人の心とも通じ合うように繊細でありながらも日本

人は表面は感情をあまり表に出さないほうで人と人が仲

良くなるまで時間がかかる傾向があるのに対しスリラン

カ人は表面は明るく陽気でとても人懐こいところである

この点はむしろインド人との共通性を持っているこの

ギャップが面白い

スリランカと日本――古都を戴く島国

最後にスリランカと日本の共通点として筆者が観察し

た興味深い点二点を挙げて本稿を締めることにしたい

一点目は海に囲まれた島国であるという点であるそ

のことに付随して小さな範囲でものごとを考えがちなとこ

ろがあるそして隣に大国(スリランカの場合はインド

日本の場合は中国)が控えており大国から政治面文化

面等で大きな影響を受けてきた点も共通である

二点目はコロンボが東京に当たりキャンディが京都

に当たる点であるコロンボはスリランカの中でいち早く

ヨーロッパの影響を受けた都市であり古都ではなく比較

的新しい都市であるキャンディがスリランカの中では最

後までヨーロッパの勢力下に入らなかった都市で現在ま

で伝統の雰囲気を最も色濃く残しているのと対照的であ

る東

京もコロンボと同じで古都ではなく比較的新しい都市

であり近代以降は日本の中でいち早く西洋化近代化

していった京都はキャンディと同じで伝統の雰囲気を最

も色濃く残している都市であるコロンボのある低地をパ

ハタラタキャンディのある高地をウダラタと言い

今日両者は対抗意識を持っているがこれは東京と京

都を含む関西との対抗意識と似ている東京はその前身

である江戸が一五世紀後半の太田道灌の頃から開発が進む

がコロンボはポルトガルがスリランカ西海岸に拠点を

築いた一六世紀前半に作られており歴史の長さという点

でも共通している

本稿では「スリランカ人」はスリランカの人口の約四分

の三を占めるシンハラ人を「スリランカ」はそのシンハラ

人多住地域の南西部を念頭に置いている

2 第二回アジアフィルムフェスティバルのパンフレッ

ト中のヴィターナゲー監督の英文メッセージを筆者が翻訳し

たもの

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

374

著者紹介

①氏名helliphellip林明(はやしあきら)

②所属職名helliphellip弘前大学人文学部准教授

③生年出身地helliphellip一九六〇年東京都

④専門分野地域helliphellip南アジア近現代史インドスリランカ

⑤学歴helliphellip一九八三年三月東京大学文学部東洋史学科卒業

一九八六年三月東京大学大学院人文社会科学研究科東洋史

学専攻修士課程修了一九九四年一二月東京大学大学院人

文社会科学研究科東洋史学専攻博士課程修了

⑥職歴helliphellip一九八七年七月〜一九八八年七月インドデリー

大学留学(東京大学デリー大学交換留学生)一九九〇年

五月〜一九九三年四月在スリランカ日本大使館外務省専門

調査員一九九五年四月弘前大学人文学部講師一九九六

年四月弘前大学人文学部助教授二〇〇七年四月弘前大

学人文学部准教授(職名変更)

⑦現地滞在経験helliphellipインド(東京大学デリー大学交換留学

生)二七歳〜二八歳一年間スリランカ(外務省専門調

査員)三〇歳〜三三歳三年間

⑧研究手法helliphellip現在ガンディーの運動の継承ガンディーを

巡る日印関係を研究しておりテーマの関係上フィールド

ワークはとても重要である方法としては関係者へのインタ

ビューが中心である

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会

⑩研究上の画期helliphellipカルカッタの奇跡(一九四七年九月)デ

リーの奇跡(一九四八年一月)大学一年の時に『今夜自

由を』という本に出会ったそれは一九四七年八月のイン

ドパキスタン分離独立の頃を時代背景としながらガン

ディーの生き様を描いた本であるインドパキスタン分離

独立に際してはヒンドゥー教徒イスラム教徒間の争いで

多くの血が流されたがその『今夜自由を』の中でガン

ディーが命を懸けた断食によりヒンドゥー教徒イスラム教

徒双方の多くの人々の「心」に訴えかけカルカッタやデ

リーで両教徒間の争いを鎮めてしまった話(カルカッタの奇

跡デリーの奇跡)にとても感動を覚えた私はこの話に

感動したことをきっかけにガンディーそしてガンディーを

生み出したインドとはどのような国なのかに興味を持ちイ

ンド研究の道へと進んでいった

⑪推薦図書helliphellipドミニクラピエールラリーコリンズ『今

夜自由を――インドパキスタンの独立』(杉辺利英訳

早川書房一九七七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『ガンジー』(リチャードアッテンボ

ロー監督一九八二年イギリスインド)

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

375 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ

カラーチーそしてペシャーワルを大きく引き離しパキ

スタンで最も大きな大衆映画産業はパンジャーブ州都ラ

ホールを拠点としたロリウッド映画界で営まれている名

称はハリウッドから肖ったものだしかし二〇一二年度

のアジアフォーカス福岡国際映画祭で観客賞を受賞した

ショエーブマンスール監督作品『BOL~声をあげる

~』はロリウッドはおろかどこの映画界にも属さない

自主制作によるものである(写真)

マンスール監督は一九八〇年代のパキスタンポップ

ス音楽界の金字塔を打ち立てたバンドヴァイタルサイ

ンズ(V

ital Signs

)の作詞作曲プロデュースをつと

めテレビでも良質の映像作品を創り出してきたマルチタ

レントといえる鬼才であるしかも誰も彼の顔を知らな

い正確に言えばメディアに顔を明かしていない

これは彼が創り出す映画の世界観と彼を葬ろうとする

在野の宗教政治観が相容れないことから自らの命を守

る自衛手段なのであるどこの映画産業にも直接関わら

ず自分だけの人脈と金脈と命を懸けてパキスタン社会

に対するメッセージを映画で伝えるという生き方をマン

スール監督は選んだだけだ

パキスタンの国語であるウルドゥー語による社会派ドラ

マ映画『BOL~声をあげる~』は二〇一一年六月二四

写真『BOL 〜声をあげる〜』DVD ジャケット写真 前列中央ザイナブ同右ミーナ前列左アーイシャ後ムスタファー

スンナ派とシーア派を繋ぐ糸

リシュター

縁――イスラーム社会の声を聞く

村山和之

【パキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

377 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 376

しては外の世界を知ってゆくムスタファーの嫁にアーイ

シャをという隣家の申し出も「シーア派はだめだ」と

一蹴し慌てて結婚相手を決めてしまう

ある日ザイナブに相談されたムスタファーのはからい

で父に隠れてトラックの装飾画描きのアルバイトをして

いたサイフィーが職場の男たちに陵辱される助けて送っ

てくれたふたなりの姐さんにも「その体じゃ将来は遊女

屋の踊り子しかない」と言われたと泣くサイフィーそ

の話を聞いてショックをうけた父親はガーリブ詩集をめ

くって占い存在しない自分の息子を殺す警察に賄賂を

渡して助かる父親はいよいよ経済的に困窮し薬の街頭販

売にも行き詰まり屈辱を覚えながらも遊女屋の元締め

サッカーチョウドリーに大金を借りる

借金の返済方法は「娘を生ませる能力」の又貸しだっ

た娘が生まれれば踊り子兼娼婦にするこの家では女児こ

そが必要だったコーラン占いに従って嫌嫌ながらも美

しい遊女でサッカーの孫女ミーナと密かに結婚し責任を果

たす父親しかし生まれた娘の未来は娼婦であることは

決まっている赤児をこの家から救い出そうとした瞬間を

見つかり怒ったサッカーに叩き出される父親

ザイナブは父親の不在中に母親に不妊手術を受けさせ

たりムスタファーとアーイシャを結婚させるなど命を

かけて家族を守っていた

ある夜ヴェールを被ったミーナが赤児を父親の家に届

けて姿を消す父親の重婚に傷つき翌朝には家を出てい

こうとする母娘たちその夜中に遊女屋のサッカー一味が

乗り込んできた赤児をめぐって右往左往するなかで約

束された未来があまりに不憫だとして父親はその子を殺そ

うとする阻止しようとしたザイナブははずみで父親を

殺してしまった

ザイナブは終審まで一言も話さなかった絞首刑が決

まったとき義弟となったムスタファーに「あなたが話し

てくれることでこの社会で同じように苦しむ人たちが少

しでも救われるかも知れない話してくれ(ボール)」

と説得され承諾する深夜の刑務所の絞首台に設えられた

マイク下に群がる同時中継するマスコミ「裁判中に私

が事実を話したら命乞いのために嘘の話をでっち上げて

いると誰もが考えると思って今まで何も話さなかった今

はもう死が決まった今はもう命乞いと思われる心配も

ないし話しておきたい」とザイナブは話し始めるそして

「なぜ人を殺すことは罪であり人を生むことが罪ではな

いのか」を最期の言葉として残し処刑された

『BOL~声をあげる~』のなかのイスラーム

この映画を通してパキスタン社会を覗こうとするとき

いったい何が見えるだろうか

日にパキスタンで封切られた国産映画では大変珍しいこ

とだが封切り後の一週間であっさりと国内興行収入記録

を塗り替えてしまった具体的な数字をあげればムンバ

イ映画界ボリウッドの大スターシャールクハーン主

演の『マイネームイズハーン』が持っていた一三〇〇

万ルピーに対してこの作品は六二〇〇万ルピーを稼ぎ出し

た八月三一日にはインドアメリカカナダイギリ

スアラブ首長国連邦そしてオーストラリア等南アジア

系移民の多い諸国でも公開された

アジアフォーカス福岡国際映画祭にはマンスール監

督と親交の深かった麻田豊氏(元東京外国語大学ウルドゥー

語教官)の強い奨めによって監督は出品を決意されたと

いうそして前作『神に誓って』(二〇〇八)以来二度

目となる同祭「観客賞」受賞さらに一〇月には東京のイ

ンディアンフィルムフェスティバルジャパンでも公

開された

『BOL~声をあげる~』

――因習社会からの女性の覚醒と自立

そのマンスール監督が選んだ本作品のテーマは今まで

誰も手を付けられなかったパキスタン因習社会からの女

性の覚醒と自立である

一九四七年インドとパキスタンが分離独立しデリー

からパキスタンへ移ってきた伝統医薬師(ハキーム)の一

家がデリーと似たラホールの旧市街に薬局を開いた代

は替わり後を継いだ家長もハキームとして店を続けるが

時代の流れに取り残され家族は貧困に苦しんでいるし

かし跡取りの息子が生まれるまで盲目的に子どもを生ま

せ続ける信仰深い絶対君主の父親は夫に服従する妻一

人娘たち五人姉妹の困窮ぶりにも打つ手がない彼らは

スンナ派の信者である

こんななかやっと生まれた息子サイフィーは性同一

性障害(ふたなり)であったため発覚を恥とする父親に

よって戸籍は与えられず学校にも行けず屋敷内で姉達に

愛されて育てられるそんな父親の姿を見て家族計画も

なく出産は出来ないと目覚めたが故に離婚されて実家に

戻ってきた長女ザイナブは旧習のシンボルである父親と

対立し口答えして正論を唱えるたびに暴力を振るわれ

る貧しくても現実を直視せず信仰が厚ければ神が助け

てくれると心から信じて開き直る父親彼は妻に合計一四

人の子を妊娠させ死産が八人生まれて無事育った子が

彼ら六人であった

一方屋上でつながる隣家は父親が学校教師息子ム

スタファーは医大生でロック歌手教育と人権を重視する

シーア派の家庭であるハキームの次女アーイシャは幼馴

染のムスタファーにギターを習い恋仲になり時々デート

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

379 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 378

ではスンナ派とシーア派は水と油のように交わらずに

生きてきたのだろうか両者を繋ぐ糸はないのだろうか

本編ではカットされたシーンがDVDには残されている

がハキームとサッカーの面白い対話場面があるハキー

ムがラホールの守護聖者ダーターガンジバフシュの

聖墓に参詣に行くところをサッカーが冗談のように真顔

で止めるハキームが訳を尋ねると「あなたは生まれてく

る子に男児を願いあっしは女児をお願いしてますダー

ター様が困っちゃうでしょう」とサッカーは答えるの

だ二人とも聖者の呪力(バラカ)にご利益を願うことを

可しとしていることがわかる

この場面はイスラーム神秘主義(スーフィズム)と民

間信仰聖者崇拝が渾然一体となった民衆のスーフィズム

がパキスタン社会では超宗派であることを表している聖

者廟を中心とした現世利益を目的とした聖者信仰にスン

ナシーアの違いによる対立はないのだ聖者の力を通し

てアッラーから恩寵をいただくことはよいことだとみな考

えている

これこそインドもパキスタンもなく古インド世界の深

層から脈々と続いてきた民衆の祈願追求のかたちである

願をかけるときお神籤を結ぶように聖者廟に糸を結ぶ

身分の上下も宗派の相違もなく民衆の幸福希求の本音を

受け入れることができるのが聖者と民衆が織りなす「水

清からざる」スーフィズムなのだ

南アジアイスラーム社会の声を聞く

ウルドゥー語タイトルの「話せ声をあげる」(ボール

Bol

speak out

)は預言者ムハンマドが洞窟に籠っ

て瞑想している時大天使ガブリエル(ジーブリール)が

やってきて怯えるムハンマドに神の言葉をアラビア語

で「話せ」(クルQ

ul

)と何度も命令した場面を思わせ

るマ

ンスール監督はザイナブハキームムスタ

ファーそしてサッカーの四柱を軸にパキスタン旧習社会

の諸相をテロリスト然として揺らしその根の深さと複雑

さを提示してみせた

映画のラストシーンではザイナブの死後残された母

娘が自宅で小さな食堂を開いて自活し始めそれが徐々に

軌道に乗りザイナブズカフェという有名レストランにま

で発展させるハキームが妻を労って言った唯一の言葉

「お前の作る料理は美味すぎる」が遺言のように思い起こ

された生きるために外の世界で働く女性が売るサービス

の形は因習の枠を超え勇気をもって発想を変え行動

することで新しい可能性となりうることが描かれた

この場面の挿入歌が「できるのさ可能だったのさ」と

歌うなか男客の同伴()としてカフェを訪れたミーナ

まず気になるのが同じイスラーム教徒間の宗派対立

だ純粋なウルドゥー語と敬虔なスンナ信徒であることを

誇り清貧を可しとする家長のハキームがなぜシーア派

の人間を毛嫌いしているのだろうか

その原因のひとつは預言者ムハンマドの血筋を尊重し

崇拝する具体的には彼の娘婿アリーを聖人崇拝の対象と

している点があげられるアッラー以外に信仰対象があっ

てはいけないのださらに見つめればシーア派信者は血

筋を重んじる職能集団(職人音楽家舞踊家娼婦)な

ど社会的地位が低い階層に多く見られるしかもシーア

派には迫害を逃れる際に一時婚を許容する習慣があり信

仰の側面として一時的に夫婦関係を結べる点が売春買春

行為を正当化する論点となってきた背景がある

デリーイスラーム文化の後継者を自負している節が見

え隠れするハキームは悲しいかなラホールに地縁は持た

ない無縁者である少数派としてコミュニティーの結束が

強いシーア派はハキームから見れば忌々しい存在なの

だしかも特殊な仕事を一手に担っているため経済的

にも優位にある映画の中では隣家の校長と遊女屋の元

締めがシーア派の両極を代表していた

校長の息子ムスタファーは伝統医薬師ハキームと真っ

向から対立する西洋医学のドクターを目指しガチガチの

スンナ派が好まない「楽隊屋」(ロック歌手ではあるが)

をやっている

一方遊女屋の元締めサッカーは伝統的に踊り子や娼

婦による風俗産業を担ってきたカンジャル(K

anjar

)と呼

ばれるアウトカーストに属するカンジャルは元ヒン

ドゥー教徒でイスラームに改宗する際に家業と血筋の系

譜を尊ぶシーア派を選んだ集団であるパンジャーブ地方

では伝統的民俗音楽を担う職能楽師集団は今も実際に

シーア派に属する例が多い

ハキームの「正統スンナ派」としてのプライドは職業

を脅かされ娘を結果的に奪われ売春で得た汚い札をカ

ンジャルの子どもへのコーラン教師を努めた対価として受

け取るなかで崩壊してゆくがそれでもアッラーが見守っ

ていてくれると思い自分を変えてまで周囲とは交わろう

としないそのつけは彼が最も忌み嫌うシーア派の一時

婚に自らが囚われる悲劇となって支払われる結果的に大

差はないが一時婚ではなく第二夫人を娶るという形に固

辞せざるを得なかったハキームの心情を誰がはかれよ

うハ

キーム(デリーウルドゥー語スンナ派)ムスタ

ファー(ラホールウルドゥー語シーア派)そしてサッ

カー(ラホールパンジャービー語シーア派)この三人

がそれぞれインドからの移民ラホール地縁のシーア派上

層ラホール地縁のシーア派下層社会を象徴している

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】

381 映画に見るアジアのナショナリティの揺らぎ 380

ウズベキスタンは中央アジアの一国であるそうした単

純な意味ではウズベキスタンの映画は確かにアジア映画な

のだろうけれどこの国が一九九一年まではソ連の一部で

ありそしてソ連型社会主義のもとでさまざまな近代化の

経験をし映画芸術そのものももっぱらそうした条件の下

で発展してきたことを考慮するなら一般的ないわゆる

「アジア映画」のイメージとは少し異なる部分も抱えてい

るということになるだろうそれは簡単に言うなら国家

の強力な後ろ盾と保護のもとで映画産業が形作られ映画

制作や映画人の養成も国家事業として行われる一方でこ

こにももちろんイデオロギーを喧伝する役割が課せられた

り検閲統制が及んだりしていたということである

ウズベキスタンだけでなくかつてソ連の構成単位であっ

た「民族共和国」の映画は各共和国の映画界の上に連邦

中央のすなわちモスクワの映画界が位置するという二重

構造のもとに置かれ全体としてソ連映画界を形作ってい

た独特の芸術性をもつソ連映画の主流とはやはりモスク

ワで制作されるロシア語映画であったと言えるが全連邦

的なあるいは国際的なヒット作品が民族共和国出身の監

督によって生み出されたり民族色を前面に押し出した作

品がきら星のように登場したりすることもしばしばあった

ソ連解体と独立を経て数は少ないながらも現在のウズ

ベキスタンで国際的な活躍をみせている映画監督たちも

基本的にはこうした環境のもとで映画の世界に足を踏み入

れた世代が中心となっている映画に関する専門教育はウ

ズベキスタンの首都タシュケントとモスクワの双方で受け

ていることが多くウズベキスタン映画界では今なおそれ

がステータスでもあるようだ

なおウズベキスタンにおける映画史と代表的な作品につ

いてはその成立から独立を経た最近の動向に至るまでソ

連映画全体も視野に入れながら井上徹氏が一連の解説を書

いているので参照されたい(井上

二〇〇三

二〇〇七

二〇一二)

が幸せに成長した自分の幼い娘を注視しながら沈黙して

店の中へ消えてゆくミーナはどんな声を上げようとした

のか

パキスタン人に見てもらうためにこの映画を作ったと

いうマンスール監督のメッセージは果たしてどれほどの

人に「話す」契機を与えて人を救済したのだろうかこ

れだけは数字が出ていないので今はまだ誰もわからない

参考文献

景山咲子

(二〇一二)「ショエーブマンスール監督『BOL~

声をあげる~』で二度目の福岡観客賞」『パーキスターン』

日本パキスタン協会第二四四号一二―一八頁

映画リスト

『BOL~声をあげる~』helliphellip①

〔話せ〕②ショエーブ

マンスール③二〇一一年④パキスタン⑤ウルドゥー

語パンジャービー語⑥アジアフォーカス福岡国際映画

祭(二〇一二)インディアンフィルムフェスティバル

ジャパン(二〇一二)

『神に誓って』helliphellip①

②ショエーブマンスール③

二〇〇七年④パキスタン⑤ウルドゥー語英語⑥アジ

アフォーカス福岡国際映画祭(二〇〇八)

『マイネームイズハーン』helliphellip①M

y Nam

e Is Khan

②カ

ランジョーハル③二〇一〇年④インド⑤英語ヒン

ディー語⑥DVD販売

著者紹介

①氏名helliphellip村山和之(むらやまかずゆき)

②所属職名helliphellip中央大学総合政策学部非常勤講師(ヒン

ディーウルドゥー語)

③生年出身地helliphellip一九六四年千葉県外房

④専門分野地域helliphellipパキスタンバローチスターン文化研究

⑤学歴helliphellip和光大学人文学専攻科(芸術学専攻)パキスタン

国立バローチスターン大学文学部言語学科ブラーフイー語修

士課程中退

⑥職歴helliphellip和光大学人文学部芸術学科表現学部総合文化学科

(非常勤講師)千葉大学文学部日本文化学科(非常勤講師)

立教大学現代心理学部映像身体学科(非常勤講師)

⑦現地滞在経験helliphellipパキスタンバローチスターン州一九八

九~九一年(調査副手)一九九二~九五年(留学)一九

九六~九九年(調査非常勤講師)

⑧研究手法helliphellipバローチスターンに関する先行研究がほとんど

ないのでフィールドでの経験がすべてである参与観察を

行っている

⑨所属学会helliphellip日本南アジア学会聖者の宮廷講(共同主宰)

⑩研究上の画期helliphellip九一一事件を受けてアメリカ合衆国がパ

キスタン経由でアフガニスタンを攻撃したこと

⑪推薦図書helliphellip梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社一

九六七年)

⑫推薦する映画作品helliphellip『注目すべき人々との出会い』(ピー

ターブルック監督一九七九年イギリス)

中央アジア近現代史に思いをはせながら

帯谷知可

【ウズベキスタン】