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Title <論説>一四世紀末-一六世紀初頭エジプトの大力ーディ ーとその有力家系 Author(s) 伊藤, 隆郎 Citation 史林 (1996), 79(3): 315-359 Issue Date 1996-05-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_79_315 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <論説>一四世紀末-一六世紀初頭エジプトの大力ーディーとその有力家系

Author(s) 伊藤, 隆郎

Citation 史林 (1996), 79(3): 315-359

Issue Date 1996-05-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_79_315

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

一四世紀末-一六世紀初頭エジプトの

大力ーディーとその有力家系

一一l世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

β良

【要約】 一四世紀半ばから末にかけての時期に、エジプトの社会や経済は大きく変化したとされている。それ以後の時期、エジプ

トの大力ーディーにはいかなる人々が任命されたのであろうか。彼らの就任条件を検討してみると、㈹学識や能力が認められるこ

と、㈲前任者のナーイブであること、◎賄賂を用いること、㈲有力者とのコネないしは有力者からの推薦があること、㈹大力ーデ

ィー経験者の親族を持つこと、がその主要なものであったことがわかる。その中でも特に重要な要因の一つであった⑭親族関係の

具体的なあり方は、この時期に大カーディーを輩出したブルキー二!家とシフナ家の事例から明らかとなる。両家に共通して指摘

できることは、出身地域を活動拠点に法や宗教・教育に関わる職を家系の専門職とし、それらを多く親族間で持続的に確保してい

たことである。このような有力家系の存在は、ウラマーの社会的流動性が限られていたことを示竣するものである。

                                        森七九巻三号一九九六年葺~

は じ め に

                                ①

一二六五年マムルーク朝治下のエジプトで司法制度に改革が行われた。それまで大力ーディー(ρ帥曾巴ゐ8騨)には、

シャーフィイー派の者が一人だけ任命されていたのだったが、以後ハナフィー派、マーリク派、ハンバル派の三法学派か

らもそれぞれ一人ずつ、合わせて四人が任命されるようになったのである。以後この四人の大力iディーを頂点とする体

                                              ②

制は一六世紀初めにマムルーク朝が滅亡し、エジプトにオスマン朝の支配が確立するまで存続した。

(315)1

 大力ーディ1たちは、司法組織のトップとして活動するだけでなく、広くウラマーを代表する者としてカリフ、スルタ

                                          ③

ンの即位式やスルタンに関わる冠婚葬祭に列席し、雨乞いやペスト退散の祈りを捧げるなどしていた。近年、イスラム法

やその担い手たるウラマーに関連する研究が活発になっているが、このようにウラマ:の代表的な存在であった大力iデ

                                           ④

イーに関しても、社会におけるその活動や役割を中心に、これまでにいくつもの研究で論じられてきた。しかし、一体い

かなる人々が大力ーディーに就任したのかという基本的な問題については、従来、意外にも本格的な研究に乏しい。こう

                                ⑤

した研究として挙げられるのは、わずかに国ω8≦賞によるもののみである。彼は、年代記のほかに、特に最近組織的に

利用されるようになった人名辞典を用いて、大力ーディーたちの出自・経歴の特徴やその就任条件をはじめて明らかにし

た。だが、その検討対象の時期は一四世紀末までに限られている。この頃にエジプトの社会、経済が大きく変化したと

し、それを境にマムルーク朝時代を前期と後期に分けるのが、現代の多くの研究老たちの間で一致した見解である。彼が

対象時期を限定したのは一つにはそのためであろうが、直接的には、一四世紀末以後の時期の大カーディーに関して既に

    ⑥     ⑦

ωoぼヨBΦ一や℃①霞図による研究があるためであるという霧ω8乱訂這。。今。。]。しかしながら、両研究やその後なされた研

⑧究によっても、当該時期の大力ーディーたちの経歴や就任条件が十分に解明されたわけではない。

 本稿はささやかながら、このような研究上の空白を埋めようとする試みの一つである。但し、団のoo〈詳Nと同じように

大力ーディーそれぞれの経歴すべてについて論じることは、本稿に当てられる紙数では不可能である。さしあたり、ここ

では論点を限定しなければならない。国。。。。〈一言によれば、大力ーディー就任者の中に先任の大力ーディーと血縁、姻戚

関係を有する者が多く見られるという。そこで、まずこの時期の大力ーディー就任の条件を概観して、一四世紀末以後で

も親族関係が重要な要因であったことを確認し、次にその具体的なあり様を、大力ーディーを輩出した家系を取り上げ、

検討することにしたい。

 なお、本稿で利用した主要史料とその略称は次の通りである。

2 (316)

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, 1960-75.

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, 1972-tl.

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I.-Ialab.

Tokyo, 1990.

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: al-Sakhaw

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t, 1979.

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I:Ialab al-Shahba. 7 vols., I:Ialab,

1988.

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MS

: Ibn

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tifi. 7 vols., al-Q

ahira,

1985-1994-

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a-l-Qtihira.

16 vols., al-Q

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Ibn

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2 vols., al-Q

ahira, 1957-61;

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ahira,

1963.

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al-Shiifi'iyya. 4 vols., B

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①その過程と意義に関して、同80〈搾N、」‘.、.甥δ国。。窮三箆毒Φ艮oh

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 陣7①仏門冨9厨7ヨ。コ叶。{男。萄Ω臥9一二ασq①ω三℃ω一己門門ヨ一a内国σq賓℃3、、

 ㍉嵐09一5ム(おり軌)が論じている。なお、翌年にはシリア地方でも

 同様の改革が行われたが、本稿はエジプトの大力ーディーのみを対象

 とするので、以下単に「大力ーディー」と記す場合は、すべてエジプ

 トの大力ーディーを指す。

② オスマン朝治下のエジプトでは、イスタソブルで任命された魯貸

 p劉.霧冨尻によって統轄される司法制度に次第に組み替えられていっ

 たが、その過程を論じたものとして、ω〇三§導。ご〉‘.、緊a漉き篇囚斜象

 一節。自℃鋒諺一球①冨=曾躍。一おコ》αq図℃け①ρ、”b鳶二命鳶亀窃㌧亀ミ議℃N.六一㊤へお)噛

 。。令ゆも。(以下、。。。聞耳§=逡・。と略記)…じd。ぎ,Φ串〉σ8。。。勝U‘§篤.恥

 」ミ塞~ミ§、こ。9、。ミ§謁ミ8い。乙。コ㌧一㊤り愈Oりあq旧熊谷哲也「オス

 マン・エジプト初期におけるマドラサ・サーリヒーヤとナーイブ・カ

 ーディー・アスケルの任命」『中央大学アジア史研究』 }三(一九八

 九)がある。

③雨乞いについては例えばZN”×<添鍾19ペスト退散の祈りについ

田.ては穴ω弧く誌Q。Q。を参照。その他、即位式への列席などな年代記で頻

 繁に言及されている。

④.い壱置二ω》H.フ、ぎ」§毫帖ミ◎ミ鴇§鴨譜トミミ』ミミ、馬Σ恥塁》O簿ヨ「

 耳鼻σq⑦近津ρお零.(以下、い鳶口霧と略記)が、その代表的な研究

 である。

⑤ 目ωoo〈沖N噌一己↓ぎミg℃\O勘魁剛窺㍗食ミミ§G点き隷“ミミき馬

 切替為』§ミ薄3ゆ。島曝し㊤。。心(以下、図の8£言δ。。鼻と略記)。その

 他に、大カーディーの略歴とその典拠となる史料を列挙した。。四=σ評

 回く■ωこ.、いヨけ。ωoξo謬。ざαq50Φω匹窃αq旨p臼$〔諏ωユ①一、師σQ望℃8ωo葛

 .一躍窯月参9。鼻ρ”、.肉肉き叙(お零)(以下、ωp一一田6零と略記)があ

 り、本稿の関心の上から大いに参考になるが、得られた情報に基づい

 た分析は行われていない。なお本稿表-作成の際の瓶ハ拠は、概ねこの

 論文で挙げられている史料、および任命時の年代記の記述である。

⑥ 。。号ぎヨ①=實ω・一四世紀末以後の大力ーディーに関して年代記か

 らの情報をもとに全般的に論じたものだが、個々の経歴やその特徴に

 はほとんど触れられていない。

⑦勺Φ窪ざρ男9aの■窯①盈。コ冨芦.、08σq『署三。〇二臓器。剛汁ぎ

 Ωく富一二亀。冨曙ohO錬8ぎ90漂白8”ヨOo昌εざ、、鳶恥電Pも昌一占

 (一㊤刈Q。)・表題の時期の大カーディ;を含む司法関係老の出身地の分席

 を分析した研究であるが、大力ーディーのサンプル数は少なく、しか

 も分析結果とその表のみで典拠が示されておらず、不十分な検討しか

 なされていない。

⑧勺σ鋒》」ρ男こ↓ぎ9巴ミ§ミ譜.ミOミさ§“ミトミミ』⇒気ミ偽

 」空辛℃二旨08P巳Q。ド(以下、勺簿蔓おQ。一と略記)では、一四世紀

 宋以後の大力ーディーの職歴も取り上げられている欝。。暴動。唱ω8る】

 が、ここでも十分な検討がなされているとは易い難い。

(318)4

剛 大力iディー就任の条件

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

 この時期の大力ーディー就任者は九〇名で、就任期間は表1にある通りである。まずその就任条件を見てみよう。

 団。。8三符によると、大力ーディーに就任するための主要な条件として、学識や能力が認められること、前任者のナi

     ①

イブ(轟、帥げ)であること、有力者とのコネないしは有力者からの推薦があること、先任者に親族がいること、が挙げられ

   ②

るという。この結果を踏まえ、当該時期についても同じく検討してみると、表1の右側に示した通りとなる。

 まず、学識や能力が認められての就任は前期と同様わずかである。しかしこのことは、それらが軽視されていたことを

意味しない。大力ーディー就任者たちの中に法学の教育を受けていない者は一人もおらず、むしろ学者として当時有名だ

               ③

つたと思われる者が多いからである。

                                           ④

 前期には多かった前任者のナーイブが直接大力ーディーに昇任した例は、この時期一二例しかない。この変化は、おそ

らく大力iディ回外をめぐる競争の激化がもたらしたものであろう。競争が比較的穏やかであったハンバル派で、その割

合が最も多いからである。

 逆に、以前にはほとんど見られなかった賄賂を用いた就任が、後期になって頻繁に見られるようになる。その金額は高

額で何千α出自にも上った。やや極端な例であるが、都合六回大力ーディーに任命された鼠口早巴6日目σ昌山回螢腐σ

  ⑤                                                          ⑥

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ー』O)が、 一五〇〇年の第一回目の任命に際して費やした額が七千鳥口【切N…H員置・。嗣、六回全部では三万六千号にな

るという冨N”<b£。これらの金は、任命者であるスルタンへの直接の賄賂だけでなく、スルタンに推薦してもらうため

の斡旋料としてアミールなどに支払われた。同じH9史-匿9ρ同σは三回臼の任命のときに五千αoを出したが、そのう

ち約二千身をアミールたちに払って彼らからスルタンに推薦してもらったという【bごN晶く-㊤二。

 有力者とのコネ、あるいは有力者からの推薦があることは、両時期を通じて大力ーディー就任の重要な条件であった。

5 (319)

                                          ⑦

一口に蒋力者といっても、その顔ぶれはスルタンをはじめ、アミール、宮僚である藤江σ巴色員ウラマーとさまざまで

ある。

                                   ⑧

 スルタンとの何らかの心入的な関係によって大力ーディーに就任した者は八名しか見られない。スルタンが実際に大力

ーディーの任命に介入できる余地は、それほど大きくなかったといわなければならないだろう。

 ア、・・ールや鼠賦σ巴-ω冒Hが大力ーディーの候補者を支援する場合、その理由は、前述のように斡旋料を得て推薦した

例は別として、残念ながらほとんど不明である。史料上確認できないがスルタンとの場合のように個人的なつながりがあ

                                                ⑨

つたのか、あるいは推薦した潜に裁判などで便宜を図ってもらおうとの期待があったためではないかと思われる。

                                ⑩         ⑪

 ウラマーが大力ーディーの推薦者となる場合では、彼らの問に師弟関係ないしは知人関係があったようである。

 こうした諸条件の中で、前期と同様最も多くの事例を数えるのは、先任の大力ーディーと親族関係を有することである。

そのような者はこの時期二九名認められ、さらに何人もの大力ーディー就任者を出す家系もあった。但し、前期に大力ー

ディーを輩出したシャーフィイー派のジャマ~ア家(ごd㊤生息ヨ飾.帥)、 ハナフィー派のトゥルクマーニー家(じσ露口ρで

日霞犀ヨ貯圃)、マーリク派のアフナーイー家(じdρ呂塾≧臼鼠.剛)などの成員が、後期には全く認められない。先に述べた一

                                              ⑫

四世紀末頃のエジプトの社会、経済上の変化が影響して、このような有力家系の交替が起こったのであろう。

 以上のように、国ω8£言が検討した時期とそれ以後を比較した場合、ナーイブから昇任する例の減少、賄賂による任

命の増加、有力家系の交替といった違いはあるが、有力者とのコネと親族関係がハ爾時期を通じて大カーディー就任の条

件として重要なものであった。前者については、史料的な舗約もあり、彼らの関係をこれ以上考察することはできないが、

後者については検討の余地が残されている。問題となる点は、親族間で前任者から後任者へ直接引き継いで就任した例が

二九名中七名(出隔.①”蜜●boQ◎。QQHりωQQ” 剛Hσ’H讐卜σ》日①)と少ないことである。それならば、彼らが大力ーディーに就任しやすか

ったのはなぜか。前期でも見られるこの問題について樹ω。o蕊賞は、大力ーディーの子弟であることによって得られるネ

6 (320)

一四世紀宋一一六世紀初頭エジプFの大カーーディー・とその有力家系(伊藤)

iムバリューが影響したのではないかと推測しているが、果たしてそうだったのだろうか。このことは、大力ーディーを

輩出した家系の動向、そしてそのような有力家系の存立基盤がいかなるものであったかを検討することによって明らかに

できると思われる。しかし、これまでマムルーク朝時代を扱う歴史研究において、特定のウラマーの家系を頬象とする研

究はほとんどなされていな噛・図§膏にしても・親族関係の重要性を認識しながら・単に大力iデ・-に就任した者

同士の関係をなぞったに過ぎない。そこで以下、この時期に大力ーディーを輩出し、その成員についてまとまった情報を

得ることのできる二つの家系ーブルキーニ自家(弓」窪蔚曾甲b」巳ρ貯囲)とシフナ家(しd㊤昌ρでoQ匡冨ρ)一を取り上げて、論じ

ていくことにする。

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 2.

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 3.

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149L L 

一1501.

 11.

1501. 11.

 一1508.

 1.

1508. 2.

 一1513.

 12.

・1514.

 1.

 一1515.

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1515. 10.

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1516. 11.

 一1517.

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 12.

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 10.

1440. 10.

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 10.

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7.

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 30)

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(oっcqoっ)

一四世紀末一一六世紀初頭Xジプトの大カーディーtとその有力家系(伊藤)

一Qこ.oり7一ぴ餌σ〉。9、〉一囲拶一-匂D7甥【昌コ一

一《しご鱒げ斜.竃●σ.レ貞◆囲σロの露二9ーヨ㊤

一9ωε7側σ〉’9.≧囲9-廼昌。。嵜呂(一もQ)

同①.貞Nド竃・σ.〉.9一-ω7一〇〇7同炉同

嵩.ω三剛愚σ〉’σ..〉σα9-、》R冒鈴-句口呂鴬(Hσロ巴-累a鞍「)

一QQ’、HNN霞.σ■〉■拶〒ωぼω7同島(δ)

一蒔㊤刈●Hb㊤●li一海㊤ρ野

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Hα目弁押ードαH①●一一.

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e 欝eH角皿㊦津尋 卿お唱醤㊦臼代4猷ド購4㌶樫㊦無㊦§漆憾言灘灘齢伴ぐ(つび漸”却き胃◇つ^㌶国も・8<溶Nδ◎。蘭引騰漿。舜訪讐

 露㊦蟻購4汁暑一人錦一π齢津ぐ^づび㊦姦、沁ゆ婁倒.鎮-∪冒乱塾塑ヨ日巴9、〉σ同母馳”轟9南さ}島(財津誘象…痒醤)4轡び。

⑲ 購㊦覇財㊦錯跨儀》斗M義一萬汁妊一眼ヘーN僧軌匡鎮・∪冒、¢ヨ爾9.〉σαp7菊昌言鍵(譜津おおio。醤)4母ぴ。

㊥ 建㊦縫迅ぐノ〈、ぐマ熟》瀞一鶴馬一竃5〈㊤臨8巴-U冒.〉σα≧団79言ロ骨pヨヨ&9-竃騨ρ象出(讃津Hωωo。一Φ刈醤)4猷ひ。

⑧ 薄3H回四e津隷{野円。。◎。同醤㊦臼伊4轡ド魁4鐸却e蒸㊦蝿蕗論考理論齢㏄ぐ(つぴ愚諮黒き 6も’ノ^鐸国ω8<搾Nお◎。鳶紹簸川摘。

㊥欝㊦津蔑4一唱、黛汁瀞一里鵡一.〉冨8旦。U営ω巳長き習σ含峯漸霞αa-彰ご引出腐(甫宙Hω§おミー。。ド醤)4猷び。

◎ 欝㊦湾愚許〉文、ぐマ路汁瀞一当ヘー賭弓里巴9-U冒宕㊤鴛〉=娑σ■〉骨二巴巴-、〉。。ρ鈴萄昌(際甫HG。0『lOω醤)4猷崩。

㊥ 欝㊦覇凝e霞跨匂亀甲-卵き醜盤)冥、ぐ▽落汁瀞一里ヘー護5〈9躇曽の甲γ∪冒、〉σO>=讐σ。竃環σ㊤旨昌&p〒鷺㊤ρ島ω同(語・醸罠ωq。一㊥刈喰)噂

 2習騨即7U冒Z3同と団7σ■〉σ量餌ユp7、〉器9蜀嵩(甫津Hω零一りω醤)4猷ド演漸蹴σ。一4猷崩。

@ 欝㊦帯跨漸〉叉、ぐマ甲山瀞一洩㍉一竃鐸毛餌二物ρp7U冒.〉ぴ鳥≧色目げ.フ含冨筥旨9翫騨7蜜お象島(腎瞭罷G。o。ーミ醤)㊦露伴臼π猷詩曝。

① ナーイブとは、字義通り大カーディーの代理として、カイロやその

 他エジプトの町村で実務に当たる者である。カイロにおいてはその任

 命権を各法学派の大力…ディ…が握っていたが、カイロ以外のエジプ

 トではシャーフィイー派大力ーディーによって任命された門ωン“HH炉

 ω令曾図ω8<詳N這Q。隠江。直】。

② 参考のために記すと、前期の大カーディーの場合、学識・能力が認

 められて任命された者三年、前任者のナーイブから昇任した者一〇

 名、有力者とのコネによる者色名、先任の大力ーディーと親族関係を

 有する者一 名、その他・不明一コ名であった[南ω8≦霞お。。冷恥ギ

 8]。

③ このことは、人名辞典に認載されている師弟関係から確かめること

 ができる。ある人物がついた師の中に大力iディー就任者の名前を見

 つけることは容易である。なお、この時期の大力ーディー就任者のう

 ち、半数以上が先任の大力ーディーに何らかの教育を受けている。

④但し、大カーディーに就任するまでにナーイブを経験した者は数多

 く認められる。人名辞典では「某のナーイブとなる(鼠σρ、き-冨」菰)」

(329)15

 と記載されるのが普通であり、いつ、どのくらいの期間ナーイブを務

 めたのか、正確にはわからないが、記述の順序から考えると、勉学を

 終えた者が就く最初の職だったようである。このことはナーイブにな

 る年齢からも裏付けられる。切自≡簿によれば、酉暦一〇世紀から一

 二世紀にかけてのニーシャープールにおいて、ある個人が教育を受け

 終わるのがニ門人から一一七歳位であるという[じご二長①r国・≦‘.、§6

 >σq①ω貫昌〇三おoh竃。島ω<鶏圃ω冨ヨ一〇玉吟き舞ざコ噌”.のお①bo(一㊤Q。ω)、

 一一昌。一方、ナーイブになるのは大体において二〇代の半ばから三〇

 代であったと計算され、し⇔色h簿の示した年齢の範囲とほぼ一致する

 のである。したがってナーイブ職は、地位そのものではなく、一通り

 の勉学を終えた若者が実務経験を積む過程として、大回ーディー就任

 者の経歴に重要な位置を占めたと考えられる。

⑤  】四四〇/一-一五一穴年[しqN旧くいN㎝一Φ…u轡”一く”卜ooQOIごΩH(ω”押

 b。巳]。彼が賄賂によって大カーディーに就任したことは、三浦徹「マ

 ムルーク朝末期の都市社会iダマスクスを中心に一」『史学雑誌隔

 九八i一(一九八九)、注⑪でも触れられている。なお、名前の後に

 付した記号は蓑1に準拠し、複数回就任している者の場合は第一回目

 の就任のときの番号を示すことにする。以下同様。

⑥一六世紀初めにカイロで}カ月に徴収される市場税(ヨβω79ープρ「㊤)

 が約二千O⇔ということであるから[ピ僧℃δ鵠”ゆOムOO}、いかに高額

 であったかがわかる。

⑦ ユ署ぎρ一-ぎ昌町の長で、スルタン宛の書簡を読み上げ、返霧を起

 草し、スルタンの署名を得て発送すること、マザ…リム(弓㊤N弩【ヨ)裁

 判が行われるα理艮-、草色に出席すること、バリード(σ霞巳)の管理を

 行うことなどをその職務としていた[竃碧9窄目δロヨ冨Pしコ・・卜覇職竃㌃

 ミN、畠きミミ象慢ミ焼§§噛嵩N、無ミ“ミミミ鳶ミミヤ~ミ詠N掬ぐ函罵亀㍗鳶)℃

 U鴛塁ρ這2(以下、竃帥答。〒88ヨ凱pコと略記)㌧命ム…勺。弓。さ≦‘

 蒔.愚馬§翫印西ミ§ミミ馬為馬9§ゑ鴇§砺ミ智§的疑題へへ題≧b.㌔

 を始§ミミqぎ一塁ミきQ斡馨窓誌切鮎ミ刷.恥6為§ミミ鴇ミ§鳳b〈o冨e℃

 切①碁一Φざ一〇毅18固(以下、勺。唱9と略記yHO8。

⑧ 例えば、.H日面鶏-∪冒g山門碧昇圏(ωげ.q)(一三四一/二一一三九

 八年)[Oゼ…H押OOIごHO”一く』一一ω髄匿ω”HHや鰹1α…労目“㊤鱒1①}の場合、

 カラク(生餌旨δに幽閉されていた前スルタンb二丁Oヨ(在位一三八

 二一九、一三九〇i九年)の脱出を助けたことが機縁となり、Oσ四三釦ρ

 の復位後カイロに呼び寄せられて大力ーディーに任じられた。また歴

 史家としても有名なじコ僧費㊤7∪冒p7.〉矯島(鵠隔●嵩)(一三六一一一

 四五}年[uい”×藁ω〒黛∪菊”愈。。ム。旧客N”×<押。。ム一嚇≦け汀z9

 駅①出)は、そのトルコ語の能力を買われてスルタンゆ当課σ身(在位

 一四二二一三八年)の側近となり、切9話σ曙が「ρ7.》罵昌がいなか

 ったら、余のイスラームは間違ったものとなっていただろう」[2N鱒

 ×<H弘O…Uい”×覧Q。b。]と蛍口うほどの間柄となって、大力ーディーに

 任命されている。なおHσ昌5影δ口昌(寓.H)については、年代記や

 人名辞典に彼がスルタンとの関係によって任命されたとは記されてい

 ないが、彼の自叙俵によると切p話口ρと知己になったことが経歴上大

 きな意味を持ったと思われるので〔森本公誠『イブン距ハルドゥ!ソ』

 (講談社、一九八○年)、=三一-七〕、表1ではDの項目に印を加え

 た。

⑨スルタンやアミールが大力ーディーから自らに都合のいい判決、判

 断を引き出していたことは既に指摘されているところである冒・。。♀

 く津N一〇。。海旨巽-爲旧い仁。覧α賃ω“特a塗§慌森本公誠「イブン“ハルドウ

 ーソの見たエジプトの司法界」『中近東文化史論叢』(一九九二と。大

 カーディーに自分の推薦した者が就いていれば、それはより容易だっ

 たであろう。また、スルタンがあるアミールを処刑しようとした際に、

 そのアミールと麗係ある(詳細は不明)アレキサンドリアのカーディ

(330)16

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

 1が彼を助命する裁定を下したという事例[δ”同×ヒ。。?。。嚇凶の”圃く層

 二ωり】もあり、大力ーディーが縁故ある者に配慮した判決をしていた

 ことが推測される。

⑩例えば、o。二二ωp劉∪営p7》旨昌9同(霞』①)(一四〇九一一四八

 ○年[OごN論囲押嵩O…∪い”<ど。。O学冷U知るOα1お])は、師である

 〉ヨ冒p〒u冒く書騰σ.竃魯9ヨヨ&帥7>ρ直感.囲( 三九四/五-一

 四七五年目当時のハナフィー派ウラマーの第一人者冨N”昌押δご

 Uい”×㌧boきIQσ])から推薦されて任命された。

⑫例えば、ハソバル派大力…ディー.〉団、ρ・7U冒H9即r寓・αQ夏観

 (頃ダ①)が後述の.〉冨旨9ユ〒U千山錯暑pアご」ロ囲ね冒國(2p』圃)を大力一

 ディーに推薦したのは、両者が知人であったためであると思われる。

⑫駕p巳pく葛Φこ.のこ..目9竃葛嵩ヨ賢島。冨蔓。隔σ㊤ヨp。。。蕊ぎ夢。

 ピ辞。窯四ヨ冒岸℃2δ皇、、℃劉U’象。・の◆準ぎ8け。コq暴く禽ω津ざお①Oでr

 は、ダマスクスでも問じ頃を境に功ーディーの有力家系の交替が見ら

 れるとして、その原因をこの頃の政治的混乱と経済の衰退に求めてい

二 有力家系の動向(顯)i成員の経歴と活動

         ①

一 プルキー二一家

 る下心-卜σ8。

⑬このような研究としては管見の限り次のものが挙げられるくらいで

 ある。前述のシャーフィイー派力…ディーの名家であるジャマーア家

 に関するω毘管一い凶■ω’\、目δじd語口冒二四、黛>U旨pωぞ。出ω7

 鑑.跨・言憂窃貯筈。鼠餌ヨ巨内℃①二〇斜、.硫トリ(おα。。)(以下、Q唖p一一三

 一盛Q。と略記)。同じく㊤7ω昌三鳥家を扱う煩島P《コ、寓旨旨ヨヨP島㊤γ

 紹象』、ミ』轟ミミー画帖S神斜拶7ρ餌上弓ρ一子。。(以下、起器遺詳と略記)。

 ダマスクス史の著者Hσロ切p鷲餌の系譜上の位澱づけを試みたゆ鼠ココ。さ

 毒.客\.碧δbコ置雌津津臼〉ωけ子心凶器些。目「量ωヨ於毘go「㊤の99

 冨『ぞ8色身凱oP.、嵐曇ミミ、“凸(一㊤㎝O)。本稿で取り上げ.るブルキー

 二i家、シフナ家に触れている研究もあるが、それらについては、そ

 れぞれ次章注①、⑫を参照のこと。また、一四世紀末以後の官僚につ

 いての包括的研究である竃p算。一-目さロヨ寅ロの前掲書の中では、官瞭

 を墾出した一〇の家系について論じられている[鼠ρ諄07目δ=ヨ陣p『

 目。。。。1ら。ひ。α]。

カイロの北、約一〇〇㎞のところにあるブルキーナ(切二5貯ρ)にこの家系が住みつくようになったのはハ⑭二丁・なる者

からであるという[∪び”〈・c。巳。彼の曾孫である、dヨ舞の世代に至るまでは、この家系の申で経歴の明らかにできる者

はいない。

L

ω㍑且巴・∪置、q9錠Ael@

17 (331)

 一三二四年八月四日ブルキーナで生まれた彼は、そこでいくつかの書物について学んだ後、一二歳の時父親のすすめで

                ③                ④

カイロへ出て、同ρ載ρ賢U冒巴-ωロび甑や、同NN㊤やじ貯Hげ5冒日四.ρなど、当時の有名なウラマーに師事した。

                    ⑤

 そうした師の一人切9。げ眺巴6貯H9.》ρ隠の娘と結婚したことが、彼のその後の人生を切り開いた。二二五八年Hげ旨

.跨ρ離がシャーフィイー派大力ーディーになると、そのナ;イブに任命され、さらに彼の後任として富巨..}日Hσ・ρ一-、霧

[国資叫H回b&凸巳の中にあるN帥≦ぐ騨巴-国げ器冨げ91びぐ饗での法学の講義を任されたのである。以後彼は、 一三六四年に

              ⑥

エジプトの自重巴-、伊巳のヨ鼠試、一三六八年ダマスクスのシャーフィイ自派大力iディー、二ご七二年目ジプトの留倉

   ⑦

9ゲ.㊤路錠にそれぞれ就任している。またこの間に智ヨ一.H996臼口争[内鼠”HHb9と冒巴-蜜ρ紆器㊤㊤乍bU舘ゆ口ρぐ饗[丙冨”

  ⑧

H押禽。。】”巴-冨ρ痔霧9巴-鍔巴貯ぐ賓p[内徴昌Hりωりb。劉97冨㊤脅器9ρ乍閑げゆ疑畑玄団団ρ[国際”目蛭ω①⑩もO】など、 いくつものマドラ

サ、モスクで教鞭をとった。

 一三七七年エジプトの大力ーディーに推薦されたが、紺抗馬が現れて就任することはできなかった。巴あ路び帥&は

  何度もエジプトのカーディー職に指名された(.β捻貯ρ)が、就任には至らなかった。ただそれ(カーディー職)よりも高位にの

  ぼり、大力ーディーたち(匹σ91巴ρ甲β&鋒)よりも上座に座るようになった[∪ピ“<H”c。3

と述べるが、この一件以外にいつ大力ーディi就任の話が持ち上がったのかは確認できない。ともあれ、以後彼が何らかの

官職に就いたという記録は見当たらない。しかし、むしろそうして官職から遠のいたことが彼の名を高めることになった

                                        ⑨

のだろうか。巴-ω㊤写似≦一の言う通り、その後年代記の中に見出されるのは、昏ρ団匿げ巴-巨四露と呼ばれ、大力ーディ!た

ちと共にスルタンの主催するマジュリスに加わり、意見を求められる彼の姿である。この頃エジプトにいたHび昌〆げ巴α劃口

は彼のことを評して「今日のエジプトで最大のシャーフィイー派法学者で、事実、またエジプトで最大の宗教指導者でも

 ⑩

ある」と述べている。一四〇三年六月二日に死去。遺体は彼がカイロのしσ㊤団.9む貯という名のハ:ラ[囚冨減押b。】に

                                  ⑪

建設したマドラサに埋葬された。以後ここがブルキーニー家代々の墓所となる。

18 (332)

一四世紀末一一六世紀初頭エジプFの大カーディーとその有力家系(伊藤)

 さて、彼には少なくとも一人の姉と二人の兄がいたことが確かめられる。長兄宕君酵巴む冒裟目嘗B奪践(一)は、一

三一五/六年に生まれ、ブルキーナで農業に従事し、一四〇一/二年に死んだという[】)い…<目H』魔]。彼に関する記事の

中で巴-ω跳げ9ーヨは、さらにその上に一四〇〇/一年に九〇歳をこえて亡くなった姉がいたと記す。次兄諺び燭bσρξ(b。)

は、H9仁a母巴-.》。。ゆ巴翼翼によれば、「父の道に従って大地の民(9巨ρ甲げ帥旨)の生活を営んだ」冒9同b出というこ

とである。これらの記述から、ω貯91U巴む冒.¢ヨ震が出るまでのブルキー二一家は、規模はわからないが、下エジプト

地方で農業を営む家であったと考えられる。しかし彼より後の世代は、以下に述べるようにほとんど皆ウラマーとして活

動しており、農業との関わりは一切不明である。すっかり農業をやめてしまったのか、史料に記載はないが副業として携

                                       ⑬

わっていたのか、あるいは史料の言及していない者がいて引き続き農業を行っていたのか。いずれにせよ、ブルキー二一

家は以後、ウラマーの家系として有名となり、大力ーディーを輩出することになる。

 乳 匂巴91一曵-∪冒.}げ山巴肉昌ヨ91口(㎝)(鉾・這)

 彼がブルキーニー家の中で大話ーディーになった最初の岩である。=二六一/二年ヵイ窟で誕生。父や母方の祖父であ

                   ⑬               ⑭

る圏σ謬、諺ρ同一のほか、Np《⇔ρ7∪冒.H縞eや↓91㎞巴-∪冒巴あ¢げ露などから教えを受けた。一三七七年、兄しごρ曾

                                               ⑮

嵩む冒》997<㊤ヨ岩鼻魯ρヨ白蝕(心)が父よりρ四禽97.霧犀胃の職を譲られた際に、$≦曾.巴ムp。。け職を兄から引

き継いだ。 =二八七年同様にして兄からα鍵巴-.ゆ巳の白鼠菖の職を譲り受け、 =二八九年にその兄が死ぬと、あとを

継ぎρ鋤禽ρ7.霧園錠に就任した。

 そして一四〇二年エジプトの大力ーディーに任命されるのであるが、それに至る経緯をHσ鵠劃ρすHは次のように記す。

  彼の父はことある毎にマジュリスで彼のことを賞賛し、彼のすべてを褒め、学生たちに彼の下で学ぶよう勧めた。それは〔大力一

  ディーの〕地位から㊤r寓自己乱(ω戸ω)が離れるまで続いた。〔しかし〕巴瀬切一嘗(ω二目)がそれ(大力ーディ…職)に飛びつ

   いた。彼(、〉げα鉱菊ρザヨ習)はその失敗を悔やんだ。そして巴窃91=官が数ヵ月後に辞めるまで奔走して(鴇.91)任命された。そ19 (333)

れは八〇四年盲§馬のことで・当曹昌H羅冒でスルタンの厩舎に住んでいた・難§轟の憲によるものだ・た・

           ⑱

αρ三碧習巴斜陽冒の冒匿旨は、そのことを知らずに怒って、冒7鍔㊤臼蚕篭巴窃魑ロザ一篭p[囚冨”HHる録凸]へ慣習にならって

同行することを拒否した。そこで彼(.》げ鳥 P一‘口㊤げ夢助口)は冒ぎ旨に会見を求め、彼の父で我らが師ω醇且巴-∪冒と共に智冨旨

の家へ行った。女盛導はカーディー職に就くための賄賂は認められないと迫ったが、巴あげ曙夢(ω幹91一巴6冒、qB鎚)はそれ

が差し支えないことを説明し、彼は〔無事〕任命された[幻H”。。。。b。嚇Ur”H<』O。。]

20 (334)

すなわち、父親の熱心なバヅクアップと賄賂による有力アミールからの後援のとりつけがあって、漸く彼は大力ーディ…

                                              ⑲

になることができたのである。以後これを含めて計七回、=ハ年余りにわたって大力ーディーを務めた。教育に関する職で

は、時期を特定することはできないが、N蘭註饗㊤7瞬圏霧蘇蜜げぐ団2鐵-竃巴蜜器帥戸冠ρ一涛一唄畷碧㊤磨冨ρ伽轟ω㊤㊤劉国母目障呼

び好彊の法学、窟夏眠、H9月凶露P餌7賞勲α茜鐙9一出震ρ蔚ρぐ醤のタフシールの講義を父から引き継いでそれぞれ担当し

たほかにも、巴ら98ヨ一、帥憎寓娼”㊤団団勲鳥ぐ団ρ[丙罎”HH層認。。-ω£や冨曽α辱ωρ目高ρヨ無爵型番囚寓㍊H誌O甲。。]などで教えたという。

一四二一年一〇月九日大力ーディ…在職中に死去。

 3 、》貯き巴-Uぢm2魯(ロ)(ωげ』刈)

 =二八八年または一三八九年五月一〇日カイロで誕生。彼の母親は}げ二巴k騨三皇(膳)と.》σα巴菊言口四口(q)の

二人の兄の母である夢誘、諺鵡ロの娘ではなく、父親の従姉妹違にあたるN曙塁び(日蒔)であった。ところが、彼女が091賦ケ

と、諺びロ㊤7開学囲お(刈)の二人を生んだ後に、、q導霞(。。)と乳兄弟の間柄であったことが判明して離婚することになり、

彼女は二人の息子を連れて従兄弟の、冒N巴6冒、}N冒(同ω)の下に身を寄せたという。とはいえ、、q9錠はm警ザの面

                                                   ⑳

倒をみて、その教育に当たり、異母兄となる、トげ鳥ρ7切9ザヨ習も彼を教えた。その他ではHσ口広ど母(ωFb。c。)や芝巴回

         ⑳

巴-∪冒、犀鋤ρ圃(ωび』①)などに師事した。

 その後二人の兄と同様に雷ぞ禽.騨囲-α窃仲職に就き、つづいて兄、諺げ伽ρ7菊昌ヨ鋤昌の∪㊤ヨきげ母(下エジプト)におけ

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

るナ才ブに任命された・また彼からρ冬山伽搬密酷昼8蓄のタフシールの講師の職を譲り受け鵠・そし羨の

ような話をH9ζρずHが伝えている。それは、城塞で開かれたブハーリーのサヒーブを詠む集まりの席上、シャーフィ

イー派大力ーディーω細事ω巴6冒刷出震僧薯圃(GDげ』蒔)のイスナードに関して疑問が生じたため、この二子から大力ーデ

ィーの地位を取り返そうとしていた兄、諺げq巴-菊喜99が呼び出された時のことである。

                                                    ⑭

  、諺ぴα9言質ρザ旨旨は法学やハディースの益について示し、ハンバル派大力ーディーの.と助、㊤7UヨHσ昌ρ7鑓¢σqげ巳圃(¢σ●O)は、

  彼に同意したが、鉱輿望9三からは二人の言葉に合わせる一言もなかった。……〔中略〕……一儲91囲巴-∪冒【、跨σ窪p㍗閣ρザヨ帥乱

   は弟.諺ドヨ蝕6欝に問題となるところを示し、その根拠と答えを覚えこませて、それを巴出母㊤鼠に質問し、うるさがらせる

   ように用意していた。それらはすべて巴出撃ρ鼠の欠点を暴くためであった[男H”。。ω①…】)い”H<㍉O。。漏

ここで兄が留一葺に㊤7出ρ欝ヨに対する問題を教えこんだのは、 スルタンやウラマーの前で留一夢を披露することを

狙っていたからではないかと推測される。そして彼の名が広く知られるようになる一件にも、意図したことではないとは

いえ、この兄が関わっていた。一四一二年、諺げOρプ即節廿口切置は、スルタンになったばかりの。6暮霞(在位一四二一年)か

らインド(.団α)のフトバを頼まれたが、体調が思わしくなかった。そこではじめ自分の息子に代行させようとしたが、でき

ないと断ったので、留潔ザに任せることになった。その時の彼の声の大きさがスルタンらを驚かせ、「彼が学問のある者

(、

モヨ)であることが彼らの心に刻みつけられた」[讐邑㎝ごu響HHH、。。愚という。さらに、この後まもなく亡くなった兄

にかわりN91≦ぐ㊤㊤駅囚げ霧げ終四げ蔓饗で法学の講義を担当した。

 このようにして、彼は兄のリードで大力ーディー就任に至る経歴を歩んだのである。兄の死後、師の毛ρ嵩巴6冒.冒91ρ剛

                                          ⑮

が就任していたにもかかわらず、大力ーディーになるために奔走し、餌巳冒欝げ母のρ瑞益戸鼠鉱σ巴虫霞の。評す旨

巴む冒Hび5㊤や滴鐸≦ρ団寒風ンバル二大カーディーの.》断、認む冒H9ρ7竃伝σqげ半巾の一二人目ら推薦をうけて、~四二二年

          ⑳

大力ーディーに就任した。なお、以前にρ回転霞ρ芝回に対して.》げα巴-図p#話似コの側についたHσ跨螢7風信σqげ仁躍が0若樹21 (335)

の推薦者となっていることは、両者が知人関係にあったことを窺わせ、さきの推測を裏付けるものであるといえよう。以

後、一四六四年三月一四日に没するまで通算で七回、約一三年間大力ーディーになった。彼はこの職にこだわりを持って

いたらしく、再任される前の一四二九年、ダマスクスの大力ーディーに就任するようスルタンに求められたが、断ったと

いう【閑ω昌く為Φ。。】。また、彼はその在職中に蓄財と影響力の拡大に努めたようである。H9頓ρ」賃は、彼がメッカとメ

                     ⑱

ディナのためにされた寄金を横領していたと記す。その他、ある有力なウラマーの息子が死んだ際にその後見人が不在で

あるのに乗じて、彼が就いていたいくつかのマドラサのポストを他のウラマーに勝手に振り分けたという話も伝えられて

いる。

 4 m巴9巴6ヨ≧ソヨ銭巴-呂p厨a(b。。。)(ω『禽)

 彼はブルキーニー家と血縁関係のある人間ではないが、母親の再婚相手である切巴捗(①)の指導の下で育ったという点

で、ブルキ!二!家の一員と見なしてもよいであろう。

                                      ⑳

 一四一八年カイロで生まれる。実父については不明だが、父方の祖父はゆ含声巴喜㊤ごを務めたマムルークであったと

いう。父と離婚した母に連れられて留男のところに身を寄せた彼は、主にその義父について学んだ。最初に得た職は義

父のナーイブで、その後は彼やその他のブルキー野毛家の者たちの配慮でいくつもの職を紹介してもらった。例えば、義

理の従兄弟であるN地口巴6冒巴わ留冒(邸O)から9や竃勲酔。。曽巴-客君ぼ《傾帥[囚弱目H誌OO二一の法学の教授職、毛巴則

ρ劉U冒諺樹ヨ勲αからは盲ヨ一、騨rζρσqげ甑菖[閤ζ縞ピ。。卜。。。]のハティーブ職と管理職(巳鈷邑を譲られている。また、義父

留賦ザによっていくつかのワクフの管理を任されたことが彼を裕福にしたという。それに関して年代記には、彼がワクフ

の交換を行って利益を得ていたために、投獄されたという記事が見える門uごN”鼻ω①呂。その他、彼はρ7竃㊤聖寿曽ρ乍

囚び帥匿口σ嘗図ρや巴-罎㊤山冨ω曽巴あプ鎚騨唄団㊤[囚竃昌H”。。認ム】などでも教鞭をとった。

 一四五七年、義父の支援と三千曾の金によってムフタシブとなったが、六ヵ月後物価高騰の責任を負わされて解任さ

22 (336)

(髄亀)帳蝋R揮e申謁ーや承1釈照e山ト昏判隈辱麗細Kii張累細霞1

  

  

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24 (338)

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 ω7貯訓σ聾〒冒ロ〉押誉巴(い一。)

                     q」“計ーロ一期星図(鱒)

れた。義父の死後、大力ーディーとなるべく活動を始め、一四六六年に就任。しかし前任老ωげ舞鑑ρやU冒巴-蜜§91≦圃

(ω

翠A)による誹誘中傷にあって七ヵ月後には解任された。以後、復帰を望みながら果たせないままに一四七六年六月二

八日死去。遺体は他の者と同様、ブルキーニー家のマドラサに埋葬された。

 5。 bご践同ρアU臼諺寓塾ω㊤.畿弩冨昌ρ白B践(Q◎Φ)(。Q巨昏『)

 一四一七/八年生まれ。大叔父にあたるm巴葺(①)に特に師事し、後にはその娘、諺量帥.一津(b。α)”》過怠(b。団)の二人と結

婚した。父↓ε巴-U冒鑓三密白き巴(一㊤)から富ヨ同.H9。6艶雪でタフシールを教えるポストなどを譲ってもらい、叔

父のNρ目口巴,U冒O帥肱8(さ。O)と共同で担当した。 一四三七/八年、大叔父のナーイブとして下エジプトのHσ団飯や

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

切=び㊤遂などに赴任。そして父の死後(一四五一年)、任期は不明だが、融91倉主7.霧図録職を得た。一四五四年、ρや蜜践鑓。。勲

既-鼠窪鴇ぐ饗【山鼠“同H層ω圃Φ-。。昌の法学の教授職を二〇〇αコで、そして一四六〇年には 開♂⇒の鋒ω帥、岩蟹あ信.ρα91.

寅蜜済Hu畠軒呂の管理職を約五〇〇号という金額でそれぞれ手に入れたという。一四六四年大叔父が死去すると、その

女婿であることを盾に一五〇〇α口を受け取り、さらに閑財9ρ9ーゲ巴-じdミσ錠ω蔓饗[囚竃“回目しδ-。。]やN91≦蔓ρ巴-囚げ霧-

滞冨び蔓饗などで大叔父が持っていた職を継承した。

 一四六六年0巴9巴6目諺ザヨ斜α㊤乍寓ρ匹巳(b。ω)解任後、借金をしてつくったという七千α⇔の金を用いて大力ー

デ擁-に任命されたが、わずか四カ月で、経験不足と行状の悪さを理由に任を解かれた[しごN昌H閣置呂。その後は大力ーディ

ーになるためにした借金返済に追われ、一四八五年三月一九日に病没した。

 6。 しd㊤臼㊤ぐU臼寓巳属ヨ巳騨仙伊一-試騨賦鷺(蒔さ。)(ω財.qり)

 先のm追立巴-∪冒諺ザ影9αρや宕㊤叢巳(卜。ω)の息子である彼もブルキー二一家とのつながりを利用して大カーディーに

までなったといえる。一四三八年二月二四日カイロで誕生。義理の祖父である0蝕昼(O)や父の下で学び、一四六三年そ

の祖父にナーイブに任命され、父親が大力ーディ!のときにもU騨ヨ㊤嘗鍵やヵイ戸でナーイブを務めた。父の死後、勲賢

竃9脅霧伊㊤7留唇ぐ饗と卑窯麟母霧p巴山91芝巳ぐ饗引目”H押ωり。。]それぞれの法学の教授職、および後者の管理職を引

き継ぎ、また義理の叔父切㊤普巴6冨冒各pきB僧臼(bo㊦)が一四八七年に死ぬと、彼の保持していたN餅≦ぐρ騨プ重げ霧『

ω嵐げぐ唄ρと伊窄冨ρ紆霧9巴-QQび鴛B図嘱ゆの法学の教授職、および愚説ρ憎、霧匿妻戸を四千曾で手に入れた。その金

は義理のおば諺濠(bo刈)より借り受けたものであるという【Uい”区HH蕊。 一五一〇年、今度は三千曾の金によって大

力ーディーに就任するが、三カ月に満たない期間で解任され、それから約ニヵ月後の八月一七日に没した[buN昌く暫くド

目。。。。レ。。。。]。

 彼の没後、この家系でその活動を確認できる成員はいない。但し、しdNの中にブルキ亡命ーというニスバを持つ者を二

25 (339)

BahE’ al-Din Abtt al-Baqa’ Muinammad (24)

(1416/7-1452)

‘Aフn4’im (25) (1422/3-1468)

Fath al-Din Mufpammad (26) (1441-1487)

Alif (27)

Wali al-Din Muljammad (28)

(1361/2, 1372-1451)

Awりad aレDin M晦ammad(29)(1420-1482)

Shihab al-Din Aljrnad (30) (1393/4-1435)

Baha’ al-Din ICuhammad (31) (1393-1474)

Wali al-Din Alpmad (32) (1409, 1411/2-1461)

こ乃n?}tal_Hasan (33) (1426/7頃一?)

Fath al-Din Abti al-Ghayth Muljammacl (34)

(1431/2頃一1457)

Kltadi]’a (35) (?一1489)

HawwaH’ (36)

‘Ala’ al-Din ’Ali (37) (1402-1478)

Shihab aレDin Allrnad(38)(‡406-1476)

Badr al-Dln AbU al-Sa‘一adat Mubarnmad (39)

(1417/8-1485)

/a・nna (40) (?一1491/2)

Bilqis (41) (?一1480)

Badr al-Din al-Makini (42) (1438-1510)

Badr al-Din Mubammad (43)

’lzz aレDin‘Abd al一‘ Aziz(44)..(1421一一1483)

$adr al-Din Muljarnmad (45) (1379-1435)

Zuhier (46)

Ja1a} al-Dln ’Abd al-Ral.iman (47)

(1430-1462)

Al・if (48) (?一1473)

KamEl al-Din Muljammad (49) (1436一?)

Badr al-Din Mubammad (50) (1432-1487)

Zayri al-Din ‘Abd al-Basit (51) (1466一?)

Shihab al-Din Aljmad (52) (?一1451)

DL:XI,8

DL : XII, 84

DL : VII, 268-9

DL : XII, 7-8

DL : VIII, 110-11

BZ:III, 196; DL:VI, 296-7

DL:II,102言IG:VエII,359

DL : VIII, 62-3

DL : II, 188-90 ; NZ : XVI, 313-4

DL:XII, 137-8

DL:工X,263

DL:XI工,31

DL : XII, 23

DL:V,310-1

DL:II, 119-20

DL:工X,95-100;DR:322-42

DL : XII, 14

DL : XII, 17-8

BZ:IV, 188; DL:VII, 58

DL:IX,3

DL:工V, 228

DL : VIII, 106-7

DL : XII, 38

DL:IV, 102-3

DL : XII, 8

DL:IX,17

DL : VII, 70-1

DL:IV, 28-9

DL:王1,33

26 (340)

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディー一とその有力家系(伊藤)

              表2 ブルキーニー家の成員の経歴に関する典拠

     (生没年のわかる者についてはそれを示し,女性の成員の名はイタリックとした)

NEsir al-Dln Muljammad (1)

(1315/6-1401/2)

AbU Bakr (2) (?一1371/2)

Eiraj al-Din ‘Umar (3) (1324-1403)

Badr al-Dln Aba a}一Yaman Muljammad (4)

(1355頃一1389)

Jalal al-Dln ‘Abd al-Rabman (5)

(1361/2-1421)

‘Alam al-Dln $alilj (6) (1388/9-1464)

PiyaJ al-Din ’Abd al-Khaliq (7)

(1390/1-1464)

Mゆia1-D三パA1玉(8)

BahE’ al-Din RaslEn (9) (1355-1400/1)

Shihab al-Din Aljmad (le) (1365/6-1440)

Ja‘far (11)

Nasir al-Dln Muljamrnad (12)

‘lzz al-Dln ’Abd al一‘Aziz (13) (?一1419)

Zaynab (14) (?一1424)

Bilgis (15) (?一1438)

Taqi al-Dln Mufpammad (16) (1387T1435)

Janna (17)

‘Aglga (18) (?一1420)

Taj al-Din Mufpamrnad (19) (1385-1451)

Zayn aレDin Q5sim(20)(1393一工457)

Faltima (21) (?一1473)

Zay7tab (22) (1414/5 ?一1491)

$alab al-Din al-Makini (23) (1418-1476)

DL: VII, 244; IG:V, 47-8

IG:1,24-5

DL:VI, 85-90; IG:V, 107-9; KS:III, 1108;

TS:IV, 36-43

DK:工V,105;IG:II,376;KS:III, 687-8;

TS:III, 171-3; Wiet:] o. 2288

bL:IV, 106-13; IG:VII,440-1; KS:IV,

600; MS: VII, 197-203; ) Z:XIV, 237-8;

R工: 33. 2-6 ;TS :. IV,87-9

DL:III, 312-4; DR:155-84; MS:VI, 327-9;

NZ:XVI, 333; RI:256-9

DL:IV,40-1

DL:V,266

DL:III, 225; IG:IV, 277-8: MS: V, 351;

TS:IV,23-4

DL:1,253-4;王G:IX,137-8;KS lエV,1231;

MS:1,226

DL:III, 70

DL: VII, 167-8

DL:IV, 232-3; IG: VII, 367; KS:IV, 515;

MS : VII, 268

DL:XII,41

DL:XII, 14; IG:IX, 20

DL:IX, 171; IG:VIII, 367-8;Wiet:

No. 2350

DL : XII, 18

DL:XIL 82

DL : VII, 294-5 ; NZ : XVI,6; Wiet :

No. 2180

DL:VI, 181-2;)Z:XVI, 188-9; Wiet:

1 o. 1807

DL : XII, 93-4

DL : XII, 41

BZ:III, 120; DL:II, 99-101; DR:94-104

27 (341)

                 ⑳

人見出すことができる。そのうちの一人は、一五一七年にイスタソブルへ移住したシャ…フィイー派ナーイブたちの中に

その名の見えるしdρ曾巴む冒卜占にd感温巳という人物である[<讐じ。・。㊤]が、彼はしd9紆巴-U冒冒昌昌ヨ巳巴(鼻ω)であった

可能性がある。しかしいずれにしても、今圓参照した限りの史料において、これを最後に同家に関する情報は全く見られ

なくなる。マムルーク朝の終焉と時を同じくしてハエジプトにおいてブルキー二一家から要職を占める人物が出ることは

なくなったようである。

        2 シ フ ナ 家

28 (342)

 彼らの中で最も古くその活動を確認できるのは、仁餌絡露僧rU貯冨昌白9σ・○げ帥賎である。彼はアイユーブ朝時代

にアレッポのωぼ嘗ρ職に就いていたが、そのために彼の子孫がH9巴-ω巨嘗㊤と呼ばれるようになったという。以後、

彼の孫にあたる閑ρヨ注97∪貯冨昌ρ落字pαからその系譜を辿ることが可能となる。

 L 鋭§鋒即憎∪臥鼠昌慧ヨ巴貸)

 アレッポにおいてファトワーを出し、講義を行い、 コニ七四年に没したという。また息子.諺団.巴-∪囲コ、》嗣(国)が

彼のナーイブをしたとあること蜜い幽くHbO]から、アレッポのハナフィー派大力ーディーを務めた可能性もある。

 a 誕昌8σ巴6ヨ諺9巴-芝9嵩α罵口冨ヨヨ巴(HH)(出h●H日)

 =一、一四八/九年アレッポで生まれる。最初の教育を父親やアレヅポのウラマーから受けた後、父のすすめでダマスクス、

カイロへ行き、それらの町のウラマーの下で学んだ。父の死後はカイロの巴自㊤α毒。。ρ騨型留品げ暮2δげぐ饗冒寓晶H』8立

で暮らしたという。

 =二七六/七年忌レッポのハナフィー派大力ーディーに就任するが、わずかの期間で解任となる寓ω…ぼ囲bり出。つつい

て三七七/八年に再任されるが・数ヵ月で再び解任され[努員量・以後一三九一年までに四園同職に就任してい砲・

}四世紀宋一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

一三九一年に解任されたのは、スルタンじu霞ρqゆに敵対する勢力を支援したかどで処刑されたアレッポの太守(呂、邑、

        ⑯

く巴9αpげ魑艶乞習三に連座して投獄されたことが理由である。まもなく釈放されて三年間ほどカイロに留まった後、ア

レヅポへ帰り、勉学と著述に打ち込んだという。一四〇〇年、アレヅポを占領したティムールと同地のウラマーの代表の

一人として会見し、住民の安全を求めたが、結局それは認められなかった。この後、一四〇六年にスルタン男霞ど(在位

一三九九-一四〇五年、一四〇五一一二年)によってアレヅポの大力ーディーに任じられたとする年代記もある【目Q”〈算㊤呂

が、いつ解任されたかは確認できない。また、ρ7竃ρρ正風は一四〇九年、矧9円螢σq二一Cd一鼠同は一四一一年に彼がダマス

クスの大力!ディーに任命されたと記し[内ω”目く讐無題≦§”署。』。。。。。。回、Hげ匹田ρ冠Hや巴あp湯げ四二も時期を特定してい

ないが、同様のことを記している。但し、ダマスクスのカーディー列伝に彼の名は見えず、またその解任時期も不明であ

る。そして一四一一年、今度は反乱を起こした冨に、ρ団巻αωげρ重げ(後のスルタン、在位一四一ご⊥二年目に与していたた

めにカイロで投獄された[囚ω”H<旨㎝昌が、釈放後はカイロで鼠㊤曾霧ρ巴-賢891一好饗の法学の教授職などいくつかの職

                                                     ⑰

に就いた。翌年、スルタン国9雷扁が彼をエジプトの大力ーディーに任命。前任の法螺骨㊤一-∪ぎH9㊤一-.》留5(出やQ◎)が

反乱者の二心、ミ団銭Q。較量げの側についたからであった。しかしながら、まもなく国画aに代わってカリフ9駅冒霧霞、冒

(在位 四一二年)がスルタンに即位し、彼は実務につかないまま解任された。その後アレヅポへ戻り、一四一二年七月二

二日に死玄した。

 彼によって、出身地のアレッポだけでなく、カイロにおいてもシフナ家が活動する端緒が開かれたのであった。

 3, 竃㍍管びげ巴-∪ヨ》げq巴由ρ仙一寓目ザ螢臼ヨ螢O(≦)(出いb⊃岡)

 一四〇二年二月一五日アレヅポで誕生。アレヅポ、ダマスクス、カイロなどで学ぶ。最初に就いた職は、父から譲り受

けたアレッポの鼠窃U鼠》ωげ5鉱ヨ霞[U竃”H①己匂巴-零9島影騨巴里珪α農《団ρ門U鼠舞。。。。プ僧7畑帥一瞥妻ぐ饗[U鎧愚。。?3・

乳あ罫繋げρ囲(寡ぐ膨冒竃邑。。令呂それぞれの法学の敦授職で、兄}≦ゲ巴ρ7∪冒、}げq巴白暮黒(<H)と言書で担当した。29 (343)

 その後一四一七/八年頃アレヅポのρ十二㊤智.霧閑霞に任じられ、 一四三三年から四二年まで同地の大力ーディーを務

                                      ⑲

めた。 一四四五年同職に再任されたが、このとき同時に量切げ騨〒ω一階鼠貸巴-す早落にも任命された曙N一区くる①①】。

                                 ⑳

これには、 エジプトの昌91咽貯巴涛げ帥齢の冒日嗣巴-U冒Hσ⇔瀕鋒管旨ρ匿㊤日[客N”温くる①①】、または上図巴同巴-U冒曽7

     ⑪

ω初富(ω巨ωG。)[∪い昌図bΦc。…∪切”。。零]のバックアップと一千α⇔の金がものをいったのだという。彼はまた、≦一同p7

                                          ⑫

∪冒巴あ鋒富の娘と結婚する以前に、師の一人目ある.》昼.巴6冒Hσ鄭開げ暮圃σρ憎翼帥岡三《鴇の娘と結婚しており、

彼から㊤智言㊤紆ρ$巴-冨を巳蔓楓ρ冒竃”・。・。・。】”9や畑ρ&91魯図題[∪呂…・。。。・。扁の法学の教授職をも得ていた。さらに加えて

昌91帆同ρ憎ρ巴.ρこ91巨.9困由ρσ胃の管理人【ω》縞くる・。ρ勺。℃需巨δ。。]とハティーブも兼任し、「アレッポのことはすべて彼

の裁量にまかされるようになった」[】)ピ昌×るり。。】と評されるほどだった。

 そんな彼が次になろうとしたのはエジプトの閃鋒8巴血目で、一四五二年そのためにカイロに赴くが、反対にあって

アレッポの縞江σ慶色瑳とコ習貯巴∴ρ岩げ職から罷免され、アレッポへ追い返された籏N”幽く孤髭]。そしてさらに

その三ヵ月後にはアレッポの大力ーディー職も失うことになった冒N”図く曽置。。]。それでも彼は翌年再びカイロへ行き、

激しく猟官運動を行った末、一千含とも二千α口ともいわれる金を用いて、漸くエジプトの鼠泣σ巴-ω醇に就任した

[U切”。。①搾客N”〆<H㍉昌。しかし、反対者のために半年後の一四五四年には同職を解任され[しdN昌H憎認£、 エルサレムへ

追放の身となった。 一四五八年許されてアレッポに帰還。無職となった彼は、翌年またカイロへ行き、今度も多額の金

を使ってエジプトの匿91賦びρ~ぎ職に復帰し【O腎H図bり搾堵N…醜くH”這り]、孫虻ω習巴6冒諺廿ヨ巴(図く)をその代理

(鈷、一σ)に任命した。

 一四六二年エジプトの大力ーディ:に任命されたが、温田げ㊤一-ω一霞職からは兼任を許されずに解任された。これを含め

て以後、計三回、約九年間大力ーディーとなった。その他カイロでは、大力ーディー在職時の一四六七年に得た巴山9ーヨ一、

㊤7諸β.ρ賓騰息蔓空耳のハディース講師の職、一四七七年に任じられた開び9ρ画び巴あげp謄躍㎝巳《団ρ[囚竃”。。鼻曲昌のシャイ

30 (344)

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

フ職[bごN昌HH獄。。出のほか、巴-潔践養器巴由ρ議凶禽唄膨のシャイフ職なども担当した。一四八五年二月二目病没。

 シフナ家は、彼の活動によってアレヅポからカイロへと本格的に進言することになったが、その拠点は依然アレヅポに

置いていたようである。出訴餌9鍵げは、》び側巴的ρ黛のワクフ文書について伝えている【H冨開くる訟歯]が、それによ

ると、彼はアレヅポの町内外に多数のワクフ物件を所有し、その収益は数千曾に上るという。そして、その文書は一四

五〇/一年に記された後、 一四七二/三年に書き加えられているということである。したがって、跨ぴ二戸彰9倉はカイ

ρに出てきてからも、アレッポで財産を築いていたことがわかる。

 4 ω鍵同斜閉U営5げα巴由帥巴H(×H)(綴略●ω囲)

 一四四八年一月一六日アレッポで生まれる。父や、その他カイロやエルサレムのウラマーに師事した。その後、時期は

不明だが、アレヅポの伊や冨ρα影舞ρ智ω鍔自び鱒閃算ぐ饗の法学の教授職などを父から引き継いで兄》夢謬巴6冒冒qー

ザ卑営Bρα(図)と共に担当した[U鼠”b。。。鉢。]。

 カイロでは、父のナーイブや、父の肝煎りで任じられた【U切”ω。。・。]という巴-蜜p謡講ρ㊤駅切合σqげ半田δ匡遂㊤の助手(筥島α)

のほかにも、冒艮、ρ学六三藤岡竃晶Hbミあ・。】のハティ:ブ、鼠餌遅場帥巴-宣B巴ぐ誘のタフシールの講師などを務めた。

父の死後は、巴壷帥ヨ一.轡7鼠q、㊤出目巴好図㊤のハディース講師の職、国げ9、⇔ρ帥げ巴-ωけゆ団雪げ9ぐ団卑のシャイフ職を継いだ。

一五〇一年置ジプトの大力ーディーに就任[bごN”HHH』①①】。すぐに解任される[bごN昌回H添課]が、約三ヵ月後に再任され

筍N縞くいd、 一五一四年夏で在職した[bdN”H<るα£。また、この間の一五〇八年には巴-寓曽墨筆p巴-m母σqげ暮白δ三図冨

のシャイフに任命されてもいる[じごN晶くレω呂。一五一五年九月死虫。

 甑 側房四旨螢憎Uヨ鼠騨ザ菖鱗α(×顔)(国h・ωG月)

                                ⑭

 生年は不明だが、カイロで生まれたという[O閤ω”Hも。凹。 一五一〇年頃アレッポの大力ーディーを務め、 一五一五年

三千α昌の金を積んでエジプトの大力ーディーに任命された。Hσ昌H図91ωによれば、このとき彼はまだ若くて大力iディ31 (345)

開・

孖ツ㎝ぎ薗一当)同コ7凸雪OO

    一

  ζ多量ヨ巴

    .一

7{信一呂σ7麟型隅)圖昌〉σロ髄7♂く訪胃二

.〉脚91.琶占)判コト〉嵩([臨)

「師二7{二占)岡コい〉鐸一自7刃

7{ロ7§ヨ鶴(認(議)

二9

V≦。・一具〈) 〉≦。7巴弔剛)ヨ.>99〒監煽只≦)

一≦嘗7一σσ飴一占)剛部〉σ51自学「ぼ島一

7画客∋O」(ぐ一=)

竃⊆轄舅∋篇目(く昌)

再忌ヨ訓昌(一く)

〉皆同門鎮-O冒一≦ζσ僅ヨヨ山二(X)

丙弩卍5ρ一占)呵=圃げ扇冨ヨ(一X)

.「」

“巴弩巴占)団”    ド騨釧昌二〇7剛)同コ   ぎ三戸   .〉顕h9昌”占)剛昌  bσ81轡   N隆2漏)同5  、〉σ乱塾-OゴO豊門  =¢06ぎ巴占)剛コ  }げ尉ゆ国ζ  豊富げ陣σσ91】)内旨 〉ぎ帥鳥

]≦房£。ヨヨ巴(×署) 〉σヨ巴(×〈)   (×<ご   曇ロ駒.£2同県×<圏ご (×<圃=) .〉竃曽=W鋤急    (×X)  k匿××剛) (××剛ご   寓¢9冨ヨ二巴  (×【<)

  

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i×陵)     {     (××導

囚舅弩笛一-○団昌              ピ冨鋤コ鶴の磨冒識  〉釜謬9占)団謙                    ⇔7㎝鮎(××<剛=)

回≦鐸劇帥∋ヨ螢黛××〈)          〉骨∋鋤二(××<一)  窯儲σ馨ヨ薗黛××く臨)

                           や “斗粥渦図

!にふさわしいとはいえないが、金でスルタンに取り入ったとのことである.【しuN“H<”ミコ。

 一五一六年マルジュ・ダービクの戦でマムルーク朝がオスマン朝に敗北した際、従軍していた四人の大力ーディーたち

の中で彼だけがカイロへ逃げ帰り、セリム 世がカイロへ入った後も大力ーディーの地位に留まることを許された[じσ喚

くし①凹が、一五一七年マムルーク朝に対する和平の返書を持っていく途中で、弟》ぴqじd鋤ξ(×盗)と共に殺害されたと

いう[一WN”〈弘諺】。

32 (346)

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

         表3 シフナ家の成員の経歴に関する典拠(凡例はge 2に同じ)

Kamal aトDin Mゆammad(1)(?一1374)

Iluhibb al-Din AbU al-Walid Muhammad(II) (1348/9-1412)

‘Ala’a1-D玉n了A1更(皿)(1355-1427/8)

Fatb a正一Din‘Abd al-Ra1)man(工V)

(1352/3-1426)

al-Walid (V) (?一1400)

Awljad al-Din ‘Abd al-Latif (VI)

(1386-1429/30)

Mubibb al-Din AbU al-Fadl iMuhammacl(N,ll) (1402-1485)

Mahm恒d(畷)

Kam翫1 al-Din Ibrah加(IX)

Athir al-Din Muljammad (X)

(1421-1492/3)

Sari al-Dln ‘Abd al-Barr (XI) (1448-1515)

Zaynab (xu) (?一1491/2)

ノ為ωiγち七yα (X互H)

Jal義l al-Din I Iuhammad(Xの(1438-1486)

Lisan al-Din Abrnad (XV) (144e/1-1477)

Afna-ma (XM) (1440-1532/3)

‘Alif al-Din ”usayn (Xvr)

(1454-1504/5, 1510/1)

Bi’tra-n (Xwn) (1456/7-1531/2)

Zaki aトDin‘Abd aトB蕊si㌻(XK)

(1472/3-1497/8)

‘Abd al-GhafUr (XX) (?一1477)

耳usam al-D1n Malymttd(X)◎(P-1517)

Abn Bakr (Xxu) (?一1517)

Mゆibb al-Din M晦ammad(XX皿)(?一1544)

Al]mad (XXW) (?一1529/30)

1〈amal al-Din IEuljarnmad (XXV) (?一1491/2)

LisEn al-Dln Alpmad (XXivl)

Athir al-Din Mulparnmad (XXn) (?一1529/30)

GhEzi (XXXpt) (?一1552/3)

DK:IV, 238; IN: V, 59

DL:X,3-6; DR:406-28; IG:VII, 95-7;

IN:V, 158-61; 1〈S:IV, 254;Wiet:1 o. 2388

DL:VI, 20; ll :V, 180-1

DL:IV,150; IG:VIII, 128-9; ll :

V. 178-9 ’

DL:X;210

DL:IV, 338

BZ:III, 214; DH:II, le4-15; DL:IX,

295-305; DR:357-406; IN:V, 298-313

DM : 278

DL:1, 65

D}1:II, 322; DL:IX,295; ll :V, 321

BZ:IV, 470; DL:IV, 33-5; GKS:1, 219-21;

IN:V, 358-60; SD:VIII, 98-100

DL : XII, 49-50

DL : XII, 19

BZ;III, 243-4; DH:II, 122-8; DL:IX,

294-5; IN : V, 313-4

121HI-i一!t-llt!:Z-L?k一!uefl-ntl!t」..)tt.licti:lrl:i, i22-7;DL:ii, i94;iN:v,27s-g

DH:1, 331-9

DH:1, 547-8; DL:III, 158; IN:V, 352-3;

G 1〈S:1, 184

Dlff:1, 403-6; ll :V,452-3; GKS:II, 129

DI{:1,731-9; IN:V,338-9; GI〈S:1, 219

DL:IV,244

BZ:V, 173; DH:II,444-5; ll :V, 373-4;

GKS : }, 305

DH:1,386-7;工N:V, 372

DH:II, 256-8; IN: V, 500一一1; G 1〈S: II, 40;

SD=VI王王,290-1

DH:1, 271-4; ll :V,442-3

DH : II, 326-7

DH:1, 279-80

DH:II, 157; IN:V, 442

DH : II, 6

33 (347)

 その後、参照した史料から窺う限り、同家の成員がカイロへ出てくることはなく、活動範囲はアレッポに限られている。

またその活動も概ね低調である。そして一五五一/二年に没した○げ91鼠(××毒)を最後に、この家系の消息は途絶える。

シフナ家の華女しい歴史も、マムルーク朝時代とともに終わりを告げたといえよう。

34 (348)

 以上、ブルキーニー家、シフナ家はともに一四世紀末からマ.ムルーク朝が滅亡する=ハ世紀初頭にかけて大力ーディー

を輩出する有力な家系であり続けた。ここでその経歴と活動を紹介したのは、主に両家の中で大力ーディ:に就任した者

であったが、彼らにほぼ共通しているのは、まず父親や兄、おじなどについて学んだ後、それらの親族から継承した、あ

るいは斡旋してもらった職を足がかりとして出世していったということである。特に親族関係を通じて職や地位を得られ

たことは、彼らの経歴上重要な意味を持ったと考えられるが、次にこの点をそれぞれの家系についてさらに詳しく見てみ

よう。①

 この家系については、勺簿曙が系図を付し、数人の成員の略歴を紹

 介しており[℃o嘗《這。。ごN認ムO]、参考になるが、誤りや疑問に思

 われる点が少なくない。本稿添付の系図はこの℃簿蔓の系図をもと

 に、あらためて諸史料を参照して作成し薄したものである。

② 成員の経歴の典拠については表2参照のこと。名前の後に付した数

 字は系図上の番号と対応している。 シフナ家についても同様である

 (典拠については表3参照)。

③ 8pρ同ρ7u剛。.〉筒9.〉σαρ〒ス銀団μ70り口σ訂◆一二八四1=二五五

 年。ダマスクスのシャ…フィイー派大力ーディーなどを務めた。彼の

 経歴については、近藤真美「大力ーディー、タキーユッディーン・ス

 ブキー-その生涯と司法活動i」『西南アジア研究』四二(一九

 九五)で詳しく紹介されている。

④ .囮農pや∪営.〉σユρ7.〉鉱Nσ.言嘗。79日き銭占嵩』2滋.p 一二九四

 一}三六六年。}三四〇1六五年の間、途中}ケ月半ほどの中断があ

 るが、シャーフィイー派大カーディーを務めた[面輔oo≦欝H㊤o。県憶黛㍗

 写糊§…oQ二一ぼお0ごQ。9ω9・ロ9H8Q。”一21b。】。

⑤切夢創、餌7∪ヨ、〉σα≧団79.〉σ山2。甲即菩ヨぎ嵜昌、〉ρ昌 一二九

 四…=二〇一年生まれ。}三五八年に}ケ月半ほどの間シャーフィイ

 i派大力ーディーに任じられた。=二六七年没[U国議押込。零あ嚇菊ご

 b。Q。令黛易。り”鵠押㊤?◎。“≦一①鴬Zρおb。O旧ω鎮一σ一お竃“o。3。

⑥ 各法学派から」人、計四人が任命され、その職務はO鍵四7.ρ巳に

 持ち込まれる問題についてファトワー(賞薯似)を出すことであった

 [ヨ9簿⑦門朗【δ口重碧…お『…勺。℃℃霞”一8]。

⑦「その職務(ヨ碧毒ロ.)はスルタンの遠征の際に法的規定について審

 理することであり、〔就任者は〕二紀勢〒、ρらに占めるべき座席を有し

 ている。ゆ畳剛㊤7.霧冨『は書法学派から一人、〔計〕四人であることが

一四世紀末一一一一一六蝕紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

 通例であった」[ω〉”×H恥O出。なお、 ハソバル派のρ倒熔融㍗.器冨『

 をいないとする[竃鍵冨7月ぎ岳託碧”蒔ωご℃o罎)母覧08のは誤りで

 ある。これはおそらく、先に引用した部分と矛盾するが、同じω〉の

 「彼らはシャーフィイi派、ハナフィー派、マーリク派の三人であり、

 ハンバル派はいない」管く』畠という記事に基づいたためであると

 思われる。しかし、ハソバル派でこの職に就いた者のいたことを確認

 できる(。呂.じご&『騨㌣∪同謬冨覇気白目盆㊤磨切匿σq匿似臼(鵠σ払O)[∪ド“

 囮×㍉ω学、ごU勾”も。、おふ凹、彼の父[∪い“≦一H弘器])ので、最初の引

 用部分の方を採るべきであろう。〉望90嵩は正しくハソバル派の臼臼

 ㊤7.器冨『もいたとしている[〉二二OPU‘.、oQε島OωOロ普Oの29罎㊦

 o脇筈位蜜曽上巳【〉『§冤H目、.、切肋O匡9δ山(お詔)(以下、〉冤98

 と略記y①己。

⑧穴霞では.、a函三思ρ円内《全一「ぞ騰、、と記されている。マムル

 ーク朝時代、一野鼠、勘ヨ器『器ρ窪冒ρ饗という呼称の相違は、必ずし

 もその機能の相違と対応しているわけではない[50oξo屋-〉げ。易鉱び

 Uこ..Ω影昌αQ①言出二昌9ご昌四二鳥団。層ヨoh護餌ヨ翠霞労9粛δ葛囲〒

 ω銘ε賦。昌G。い.、き§ミ器翻、§嵩ミ。恥鳶ミ”鷲(阿りQ◎α)旧い津二ρU’℃こゴ6

 冥ε。ε30剛H(閣衝コρ創げρ幻一σ舞ρρ。コユN創≦ぐ量目昌山曝け70竃ρ8δ搾9

 、亀§ミ噺句ミミ塁℃鳶魯ミ馬戚なO論黛託題S嵐賊ミ誠鷺。自9鵠p=9ρ≦・

 塁二U・勺・醐巳ρい①一ユ・昌.おゆ昌。本稿では、概ねUピなど人名辞典

 中の記載を採用した。なおこの自・一-寓裁筍鴇9-じづpお8一《《ρと呼ばれ

 る施設に関しては、罎。。・寅富”ωトこ」§腎禽3碁聖嚇ミ§§ミ」§§?

 、畏ミ翫自切ミQ鳶§さ疑。・O心落ω寅梓㌧お。。h。という専論がある。

⑨最も権威あるファトワーを出すウラマーに付けられた尊称罵。マ

 ℃臼”一〇〇]。但し、℃o℃唱①憎が言うように大力ーデイコだけがこの尊称

 を付けて呼ばれるのでなかったことは、この例から閣らかである。

⑩森本公誠訳『歴史序説』三巻(岩波書店、一九七九-八七)、第三

 巻九二四。

⑪、〉筒じd留791鼠煽σ費巴ハは、このマドラサで毎年、q§錠(ω)と頓巴誉

 (①)の誕生祭(旨聖≦㌶)が行われていたことを伝えている智㍗§母無

 亀㍗寒$喬喝せ黛&亀㍗誉亀ミa、馬-旨ミ璽亀㍗O勘ミミきa』S(匙§ミ趣きa切匙や

 概山勘袋㍗O騎昏ミ自§寧㍗肋》喬ミミ”刈く。冨こ鱒7ρ魁凹目2 一りQoOlお◎Q刈」 同<u

 一G。り]。

⑫この問題に関連して、勺⑦ひ蔓はこの家系が土地を保有していたかの

 ように述べる[℃陣蔓お。。一』ωω】が、特に史料的な根拠は挙げられて

 いない。

⑬N㊤覧9〒Uぢ、〉σα騨〒鳥撃言σ』剛-起戸脅着孚7.ζ9固●; 二五1

 一四〇四年。 シャーフィイー派の有名なハディース学者[Uい議く》

 H謡10Q叫HΩ”<弘ざ一①…窯ω”<目誌UふO…8も。“H<bりIQ。Q。]。

⑭ 目餌U巴-∪貯.〉σ二g-≦昌団σ9.≧同gあqσ露. 一三二六一九年

 生まれ。前述の月竃固四〒U冒巴-ω各ζ注③の患子で智貯ミ、翁㍗

 筆生.蟄居騎㍗宍裳ミ鼻ミ寒、ミミー之焼、§ζなどの著者として知られる。

 =二七〇年忌。彼の経歴に関しては、仁葛p冤コ”一ωム窃が詳しい。

⑮この職にある者は、α囲’函。p=9轟、に属し、H&鼠ぴ2冨汀の下

 で働く砂越であるが、その職務は儒鋒餌7、麟9でスルタンに対して訴

 えを読み上げ、スルタンの下した判決を筆記するというものであり

 [蜜碧冨〒ゴδ蛋§宙回誌幽-黛℃o℃℃韓”りd、法関係の職といヶこともで

 きるだろう。

⑯これは甘き匿創美身({四〇二年一月)の誤りであろう。次のペ

 ージでは甘気割魯置月となっており[刃ごωし。。。一、Uピでは一戸§豊似

 崇月四日と訂正されているロO。。]。またHOでは同様に、ズoQでは同

 月五日と記されている犠O”<℃QQIO…穴ω」H一㍉O◎Q卜olω]。

⑰♪・1一四〇四年[Uい“類圏b。。㌣ご諸の四≦㌧冨b。ム昌。9ヨ冒巴臼母

 とは、スルタンの厩奮の管理を担当し、高位のアミールが任命される

(349)35

 職であった[〉鴫鎮。昌”㊦ω…寓舞巴角ぴ。自ヨ㌶『心。。Φ…勺。娼喝窪”㊤舘。

⑱~1一四〇七年[Uい縞Hど蕊…窯。。”固くb一。。零丁。留重器胃pご翁σ貯

 は、マムルーク朝後期には高位の官職であり、スルタンの命令の執行

 を監督するなど行政を統括した[〉嚇δコ”魯占…客用。一考ぴ2ヨ一p畳

 恥ら。9勺。℃唱。巨8]。

⑲寂。。では大力ーディーとすべきところを誤って3含四7.⇔。・冨巴に就

 任したと記されている[<囲統一㊤。。占]。℃o嘗矯は、おそらくこの記述に

 依拠したためであろう、同様の誤りを犯している[℃簿曼ちQ。ごい。ω○。]。

 なお、冥Nではこの点正しく記されている[区弱く恥ω。。]。

⑳ 一三七二一一四四九年。本稿で利用したU溶囲9刃Hの著者。彼

 については、巴あp障げ蓋置による彼の伝記亀㍗誉毒激論§勘÷U畿§憶、闘

 §ミ§ミいぎ黛ぎミ乱射ミ}嵩き§寒ミを主な史料として、その生涯

 を扱ったズ聖〈霧7ω「内げ噂\、Hげ”句a程ργ.〉。。ρ鎗餅鵠(屋認占愈O>「

 U・)”>QQけ蔭α鴫。出訴。こごp巳(σq『o昌=倉円α=09諜oρ臼冨二〇母8門oh.詞瓢ヨ

 ぎ図αq畷箪..勺FU・暑。。●甲冒88コd巳ぎ糞ぎ這8がある。

@ 二一一六一一一四二蕊年。前述N3爵a-O冒俘〒、H扇倉注⑬の息子

 [OU”酬ω零-量…一〇“<】凝b7bo…寓oQ軸押ωωbQ-2男一”Q◎7G。…↓OQ”一く噌

 。。O凸]。

㊤ ∪いではこのほかに、邨巴一ヴがヒジュラ暦八二〇年(一四一七/八

 年)以前にぎ嵩〉菖a-甥㊤二}a-じロ三ゆ一己.なる人物から9-窓銭旨零

 97寓葺=内ぞ冤曽の法学の教授職を譲り受けたと記されている。しかし

 この人物が誰のことを指すのか特定できない。招一言より以前に同職

 を保持していたとの記載があるのは兄.>9p7閃pσ琴似昌以外には見

 当たらないので、現段階では彼の可能性が最も高いと考えられるが、

 結論は保留しておきたい。

⑳  一一二六五/六-一四二六年[Oピ開く圃踏、一脚一-劇闘固Ω”<巖押一一GQ…踏Qり”

 H<唱“ωbユ…鴻剛ρ”=㊤σ闘カ一σ.“一ωασ1一し⇔①帥嚇60り“圃く顎Oへ7α…ノぐ8け”Zρ

 b。卜。轟コ。

@ 一三六九/七〇1}四二四/五年[Oい”<剥ω軒α…U菊覧。。響㊤O覧O”

 <HM押◎。①iQ。”穴ω㍊<為O一∵謁汀き禽乏δぼヌ。」①①の]。

⑯ ~i一四三五年.[Oピ”<Hるbσ卜。旧≦♂ご賭。」o◎Φ55]。

⑳.≧pヨ早dぢσ餌.&σ・、>9串菊書ヨ冒H葺蝉=〈β〆く選ドp一

 一四二三年[冨p答2ーゴδ長話窮、『§一b卑騨二。

⑳ 帥7寓8昌蔦は、これら推薦者については何も触れず、「多額の金に

 よって」[ズω」〈”⑦b。。。]と記す。その金は、おそらく兄、〉σ畠ρ7

 海9、σヨ倒昌の場合と同じく、推薦者に対して支払われたのであろう。

⑱ 囲σ=較p鞍弓は以下のように述べる。「彼の二度目の在任時にペスト

 発生の兆しがあった(ρ巳歯茎)。そこで彼は遺産から財産を得ること

 (遺贈)を統制し、布欝を出して、一般に人は死ぬ際に自分の自由に

 なるものを遣延するから、遺贈者が両目都に対して遺贈するように、

 〔それ以外の〕遺贈に証言しないという証書(冨59〈写p需)を証

 人たちに書かせた。そして彼は執達吏(葛ρ同σ)を派遣し、選贈され

 たものを徴収したが、両聖都の人々はそこから一ディルハムももらわ

 なかった。彼が務めた年の計算書(匿昌σ)において、私の見たところ

 では、下エジプトのある村(σ29)からのわずかな額以外に、何も

 両聖都に届いていなかった。その額は、銀四〇〇ディルハムであった

 が、前述の一村からだけでも金でその十倍はおそらく得られたはずで

 ある」[刃ご舘Q。邑]。

⑳じd巴^。嘱し‘§馬寄ミ§層~鼓凡§ミきさミミ鷺§》§ミ馬§、9ぎ㌧

 等貯88P6。。・。(以下、じ⇒①井。《と略記yδ閉…UH∴間く為。ド

⑳ その名の通り、己巡礼に蘭わる行恭をとりしきる役目を担った。駄

 ω〇三ヨヨor >こ..ωoヨoO瓢ヨ℃。。o。。o{勾。=αq一〇二。。H」h①貯同αq望℃け

 築}「冒吸筈。い舞。冨⇒ヨ一巳(℃o鼠09、、、9昌(ち①α)….〉三3函計〉こ

 、.雪δ勺=σqユヨ帥畷。ざ竃oo8営該pヨ一三(875窃い”.き、議ミミ胸9~ミ帯も。始

(350)i36

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

 一(一り課).

⑳もう一人は、一五}六年にスルタンがシリアへの霊徳に伴った者の

 リストにハナフィー派ナーイブとして名前の挙がっているω『碧黒97

.O二巴-切巳ρ営同[しσN”<迅㈹】なる者である。今回検討した限り、ブル

 キーニー家にハナフィー派の者は見当たらないこと、系譜上に全く位

 置づけられないことから、違う家系の人間であった可能性が高い。

⑫ この家系については、太田氏がその系図と典拠を示し[】)鑑”躯OOI一]

 (この刊本ではページ数が算用数字とアラピックによる数字の両方で

 示されているが、以下参照に際しては算用数字のページ数を挙げるこ

 ととする)、また主に年代記から得られる情報をもとにして。。畠一ヨヨ9

 が五名の成員((<類Y(×一)い(×HくY(×<濤Y(×〆一))の経歴を紹

 介している[ωo鉱誓5巴お・δ”㊤ω1一器]ので、それらを参考にした。

⑳太田敬子「H9鉦-ω鉱美色のアレッポ史についての研究」『オリエ

 ント』三ニー二(一九八九)。

⑭ 任期はそれぞれ次の通り。一三八四年九月[訳ω”員押翻り]から数カ

 月間(解任時期不明)、一三八五/六年から一三八六年=/一二月ま

 で篇○議r一りO浮囚。隣鱒疑H拙ω圃気質]、 =二八八年一二月から八九年一

 〇/一一月まで鴇O」HbΦb。嚇丙ω”自H転。。9①象]、就任時期は不明だ

 が=瓢九一年五月まで口O”凝押①り…区ω鱒昌困㌔G。下。。]、である。

⑯ p・1=二九一年[u穴鱒説く悔最O占…芝寄嘗署。』⑳寄]。

⑳ 圃σ母野聖職P9ミミ犠㍗b馬ミ蕊ミ”堂ヨ器ぴρ嬉周り窃9

⑳ 一三九〇一一四一六年[uい”<自H”b。ω?9u勾“。。Oωム旧旨O”≦ど

 b。器IO…翼N”×H<勘置Q。…乏δ茸翼。.b。b。2]。

⑱ この人物については、アレッポの地誌、地方史である∪竃の著者と

 して、その生涯が太田氏によって主にUいに基づき紹介されている

 [O霞誌O。。占。。]ので参考にした。

⑳ イクターの分配、管理をその職掌とする臼芝似昌9一∴ρ嘱魯の長[℃。ヤ

 鷺箕一〇ご〉望巴9ご象旧諸鴛富一蒔70葺三き誌Q。IO]。

⑳賢ヨ9ρ7U罫く冨鼠9.>9ρ=台『嗣ぎ鄭淡理一σ冒冨§’一四

 一六/七1}四五八な†[護ρ門87↓70¢ヨh碧瓢bOQQα㌧O汁9山。 コ餌咽貯騨7

 写飼粉は、もとは遠征費用の調達や、祭のとぎの供物、スルタンが授

 与するヒルア(喜躍.臼)の用意をすることなどを狽当していたが、次

 第に権限を縮小され、ヒルアを用意することだけがその職務となった

 [窯碧ひ9南[6ε託騨ロ”おlqω嚇℃o℃℃⑦「”り刈]。なお、なぜこのとき彼が

 〉σ燭巴-閃㊤臼を支援したかは不明である。この後、理由はわからない

 が、両者の関係は悪化し、彼は〉σ口9一-憎9臼がエジプトの冨掌σ

 a-忽轟になるのに強く反対した。

⑪ ;一八八年または=二九三/四年誕生、…四五一年没[Oい開く拝

 =Q。占ごO穿るボー霧嚇累N”×〈”ま?Q。脚≦βo嘗29卜。O総]。 〉σOρ『

 守α一と結婚した彼の娘≧Rについては、Uい”×鍔。。邑を参照のこ

 と。

@ .〉冨”㊤7U貯.〉嵩σ■蜜鶉廿碧毎⇒9二冒σロ同(『9覧σ9〒宏習一十芝).帥. 一

 三七二/三一}四四〇年。トリポリやアレッポのシャ…フィイー派大

 カーディーなどを務めた人物[Uい”<い。。8iご≦δけ”2ρ一⑦爵]。また

 アレッポ史窺㍗bミ、ミ≦S§ミ訪}&喬冒.嵩ぎさミミぎ較ミきの著

 者として知られる〔太田前掲論文、九〇〕。〉σ節四声切即住と結婚した

 彼の娘H(冨島ごρについては、Uい”×一押悼りを参照のこと。

⑬ これがいかなる職であるかはよくわからない。城塞を管理する鼠.芒

 ρ一ゐ9.僧のことを指すのかもしれないが、それは普通煕十人長クラス

 のマムルークが就く職とされている[Oq>”同く、b。霜…勺。℃℃①コδO一。

⑭人名辞典には、任期について何の言及もないが、ゆNの九一六年

 頓黒累月(一五一〇年六月)の条に「その月の暮れ、 スルタンは

 仁ロ路ヨ旦-Uぢジ富σヨ㎝ユにヒルアをお与えになり(包《窪ρ、騨)、彼を

 マンスール病院の管理に任じた。……〔中略〕……この下下旨OOは

(351)37

しσp島僧7U冨[鼠即、7ヨ鰍鳥σ・窯β骨9目ヨp色Hび昌》滋}】 に後に自分がア

レッポのハナフィー派のカーディー職に就けるように頼んでいたのだ

った。彼はわずかの期間それ(マンスール病院の管理職)に留まった

が、解任された」固く㍉。。G。]とあることから、この後アレッポの大力

ーディーに任命されたのではないかと考えられる。倶し、解任の時期

については不明である。

38 (352)

三 有力家系の動向(二)1職と地位

1

ブルキー=一家の場合

 この家系が行っていた職の受け渡しの様子を端的に示す事例の一つは、二二七七年にω貯aρ駅∪貯.qヨp同(。。)が大力

ーディーに推薦された際に見られるものである。このとき.q白下は息子》σq巴k㊤ヨき(心)に留岳pア.霧犀錠職を

譲り、》σ劇ρ7く匿ヨρづは自分が就いていた欝≦ρ同.巴-α霧け職を弟、》ぴα巴-図魯ヨ91鋤(α)に任せたのであった。

 このようにしてこの家系の多くの成員が就いた職を、職ごとに整理して示せば以下の通りである。

 ㈲ エジプトのシャーフィイー派ゆ助曾巴-.窃匿錠

 .¢ヨ錠(ω)↓跨げ劇鉾7く騨ヨ騨口(蒔)↓.》げ伽ρ憎沁9ザ白下昌(切)↓丁銀㊤賢Uぎ蜜¢ザ9ヨヨpα(お)↓》σ飼既あ9、鋤傷人(ω㊤)↓頃舞ザ

巴む冒冒昌ρヨヨ僧α(卜。①)↓じご㊤曾㊤劉∪冒巴-寓㊤露巳(誌)と継承された。

 このうち、》び四二あρ、豊鋒(ωり)と同伊夢巴む冒窓昌㊤ヨ日㊤α(・。①)が、この職をそれぞれ8蝕巴-∪冒蜜属冨ヨヨρα

(H

閨j噂誘ぴ凶巴あρ、挫蓼(ωり)から直接引き継いだかどうかは定かではない。しかし、年代記においてこの間同職に就任し

たブルキーニ三家以外の者は見当たらないので、彼らは百年以上にわたってこの職を独占していたといえる。

 ㈲ ナーイブ

 表4に示したように、大力ーディーに就任した者が多くの親族を、法業務の経験を積む上で重要な意味を持ったこの職

に任命している。

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディー一とその有力家系(伊藤)

 ㈲ N倒≦ぐ㊤㊤7渓げ器げωげ似ぼ団団9の法学の教授職

 切㊤げ91、巴-O貯掲げ富.》ρロ↓、φ日PN(ω)↓.》びα巴-園ρザ営似昌(㎝)↓0巴納ザ(①)↓閃即仲ザ巴-∪冒鼠目ザρ日ヨ㊤α(bo①)”諺びqρ7

     ①

ω帥.帥α91げ(ωO)↓cdρ伽目帥一ぬ)圃コρア蜜P犀岡鵠圃(蔭b⊃)

 ㈹ 象び騨巴-諺夢鍵[潟寓”HH”躊甲ωO】の法学の教授職

          ②

 、諺σα㊤ア昏夢拶断篇昌(切)↓日巴餌圃-∪冒蜜昌ザ帥ヨヨρα(這)↓ωげ夢似げ巴-Uヨ》ザヨPα(Q。○。)↓・じd野山Hゆγ∪貯]≦¢廿ρヨヨρ島(切O)

↓N9団⇔巴-∪貯.諺びq巴-】W鋤ω暮(望)

 これらのほかにも彼らが就いた教育に関係する職は数多いが、代々継承されていた例をさらに挙げるなら、冨㊤酔霧ρ

       ③

QQ阜?昌巨⇒N鑑㊤め法学の教授職や、冒巨.回げ爵麺包劇詳曽7平首鑓器巴-Oご鴛ρ燐ρ好醤それぞれでタフシールを教える職

がそケであ・や

2 シフナ家の場合

 この家系についても、職ごとに就任した者を整理して示すと次のようになる。

 ㈲ アレヅポのハナフィー派大ガ:ディー

 同家でこれに就任したのは六名を数える。,就任したことが推測される図9ヨ鋤巴-∪固ゆ白目ザ㊤ヨヨ巴(H)を含め、》げ凶

㊤賢勢望置(HH)u諺ぴ自、ゆや男㊤色(≦)’跨げ寓吋僧7U四時寓ロケ餌筥ヨゆα(×)”臣ω9ー桝屋-O貯》ザヨ螢α(メ<γ煙口。。9ーヨ巴-∪冒竃僧廿9口伽

(×呂)である。このうち跨げ口巴-閃9負》夢冒進む同門蜜昌ρヨ8ρ9いδ21昌巴-U冒諺ザ已巴は親子三代でこの職を世襲し

ている。

 ㈲ーアレヅポのマーリク派大力:ディーとシャーフィイ:派大力iディー

 シフナ家はそもそもハナフィー派であるが、、男餌夢巴-U貯.跨9㊤7切魯韓91昌(Hく)はティムールのシリア侵攻後マーリ39 (353)

ク派に転じ、一四二一/二年頃同派の大力ーデ.イーに就任した。彼の死後、息子国ρき巴9rU営回σ轟ぼ露(同メ)がおそ

            ⑤

らくこれを継いだと思われる。

 さらにこの家系の中にはシャーフィイー派になった者もいた。そのことを確認できるのは、冒三巴6ぎ竃ロ冨已ヨ9伽

(×鴇)℃.諺h以混むぎ畑塁ρ団⇔(×≦)噂}夢勢至6貯黒漆ρヨ日巴(××≦)の三管である。このうち前二者がアレッポのシャ

               ⑥

ーフィイー派大力ーディーになった。但し両者の間でこの職の継承は行われていない。

 ところで、彼らがハナフィイ:派からマーリク派やシャーフィイ:派に転向したのはなぜであろうか。H鑓巴巴む冒

冨q廿ρ琴ヨ曽傷については、∪じにその理由が詑されている。

  祖父が彼を彼らの法学派(ハナフィー派)から転向させてシャーフィイー派とした。それは、彼がアレッポの〔シャーフィイー派〕カ

   ーディーになれば彼ら〔一家〕に対するシャーフィイー派カーディーたちの圧力(ヨ昌鼠壁ρq魯)から解放されるからであったq〆b⊃O出

すなわち反対勢力を牽制し、自らの家系の活動を拡大するためであったのである。あるいは、前述のように》びqg-≦巴置

(H

g)

竚ソ葱ρ智司餌住(話)が投獄されたり、追放されたりしたことがあって、ある親族がこのように各を受けた場合に

累を家系の全員に及ぼすことのないようにするための対応策であったかもしれない。いずれにせよ、他のシャーフィイー

派やマーリク派に転向した者も、これらと同じような意図があったと考えられよう。

 ㈲ アレッポの園似江σ巴虫遷

                           ⑦

 》σ口巴扇㊤住(話)の後、息子》普胃巴6ぎ冨昌㊤ヨヨ㊤α(×)と孫、a臥9む貯昼餐9巻(×≦)が同職に就いた。しかし

その任期はどちらも不明で、両者ともそれぞれ親から直接この職を引き継いだわけではなかったようである。なお諺夢心

巴-Uぢ鼠広冨ヨヨ巴は、この職のほかに父と同様アレッポの鼠咽旨巴-同字げと鼠戸岸巴ゐ巴.9にも就任したとされる。

 ㈹ ナーイブ

 表4に示したごとく、ブルキー二i家の場合ほど多くはないが、この家系でも大力ーディーになった者がその子弟を同

4e (354)

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディ ・一とその有力家系(伊藤)

職に任命している。

 ㈲協ヨ唆巴涛伊ぴ謬のハティーブ

 、諺蘇、㊤7∪冒回σ5閑げ黒圃σ巴-2霧笛k団9↓諺び口ρや司㊤色(≦)↓》昏冒㊤7U鑓言口炉僧日ヨ㊤Ω(×)↓Npぼ巴-Oヨ、諺σα

㊤7切舘暮(×ヌ)

 ω 巴-諸夢曾霧ρ巴あ鼠αげσρ犀暮蔓累ρ巴ぬ葺傷禦ぐ団麟の法学の教授職

 晶嗣者のポストは、》げ凶伊智芝巴囹(HH)↓跨σq巴-周㊤住(≦)↓▼》沖げ冒卑賢U同昌鼠賃炉9ヨヨゆα(メ)”ωρ議ρ7U冒.》σα巴-しd騨匿

(図H)と引き継がれていった[O竃邑。。出。後者も》げ凶巴的㊤曾が父のあとを継ぎ、その後息子(不明)に譲ったというこ

とである冒蜜凸。。ω]。

 その他、このような宗教や教育に関わる職で親族間で継承したことのわかる例は、》げ薗巴句9色(≦)が舅.跨蘇、ρ㌍

U冒Hげ資囚げρ嘗げ巴-乞承伝一雲脚ρのあとを継ぎ、息子(不明)に譲ったとされるアレヅポの㊤r蜜9武器ρ巴-¢露量象団饗の

法学の教授職[∪蜜凸。。ω】、またω㊤昌巴-∪醒、諺σΩ巴-じσρ員(区H)が父諺σ麟巴-閏9住を継いで就任したカイロの巴山帥B一、

巴-冨鐸、㊤嘱団嚢。蝕団団㊤のハディース講師の職、囚二男ρ費目あげ自身9製図9のシャイフ職などである。

 以上、両家は、多少の相違はあるが、多くの職を家系内で継承、斡旋して保持していた。

 相違は両家の職歴、法学派、活動範囲の面で見られる。ブルキーニー家の成員は、ほとんど法や教育関係の職にのみ携

わり、全員シャーフィイi派で、その活動範囲はほぼカイロと下エジプトに限られていた。それに対しシフナ家は、冨鉱σ

巴血道やコ91咽貯巴∴曙畢など官僚職にも携わり、ハナフィー派に属する者だけでなくマーリク派やシャーフィイー派に

転向した者がおり、アレッポとカイロにまたがって活動していた。こうした相違は何に起因するのであろうか。そもそも

                                     ⑧

シフナ家に限らず、今回検討した時期のハナフィー派大力ーディー二四心中一六名がアレヅポなどシリア地方の出身であ

る。一方、ブルキ呈色ー家のように、カイロを含むエジプト出身の大黒ーディーがエジプト以外で職に就いた例は少ない。

41 (355)

表4 ナーイブの任命考と被任命者’ブルキー出一家

.被 .任 命 者

Siraj al-Din ‘Umar (3)

‘Alam al-Din $alil.i (6)

Shihab al-Din Aljmad (10)

Taj al-Din’Mul)ammad (19)

Zayn al-Dln Qasim (20)

Wali al-Din Mulparnmad (28)

Baha’ al-Din Muhammad (31)

Zayn al-Din Qasirn (19)

$alab al-Din al;Makini (23)

Baha’ al-Din Abit al-Baqa’ Muhammad (24)

Wali al-Din Alpmad (32)

Shihab al-Din Aljmad (38)

Badr al-Dln AbU al-Sa’adat Muljammad (39)

Badr a1-D1n aレ皿akini(42)

Jalal al-Din ‘Abd al-Raljrnan (47)

Badr aトDln Mゆammad(50)

Badr al-Din al-Makini (42)

者命任

Bahat’ al-Din lbn ‘Aqil

JalEl al-Din ‘Abd al-Ral)man

(5)

’Alam al-Din $alilj (6)

(A=アレッポ,C 1=カイロ,でナーイブを務めたことを表す)

§alaりaレDエn aレMakini(23)

シフナ家.

者命日被目下任

‘Ala j al-Din ‘Ali (M) (A)

‘AIE’al-Din tAli(皿)(A)

Fat阜al-Din’Abd al-Ral)m瓢n(N)(A)(ハナフィー派)

Athir al-Dln Mゆa皿mad(X)(A)

Sari aレDin‘Ap.q. a1-Barr(XI)(C)

Muhibb a一一Dエn Mゆalnmad(XX皿)(C)

Kamal gl-Din Mul」amrpad (1)?

Muhibb al-Din AbU al-Walid

(li)

Muhibb al-Din Abg al-is’adl

(W)

Sari al-Pin ‘Abd al-Barr (M)

また職歴を見ると、ハナフィー.

派大力ーディーが最も多く官僚

職に携わっ.た経験を持っている。

以上から考えて、両家の相違は

その出身地域や元来属する法学

派の違いが反映したものであろ

⑨bつ。

 ともあれ、重要なのは、どち

ら.の家系の成員も出身地域を活

動の拠点として法や宗教・教育

に関わる職に就くことを専らと

⑩し、それらの職を直系を軸に親

族間で持続的に確保していたこ

とである。そして、そのように

親族関係を通じて得た職を足場

に大力ーディーに就任するまで

に至った者は、親族をナーイブ

に任命するなど、その地位に伴

う権益を利用してさらなる家系

42,, (356)

一四世紀末一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

の維持、発展に配慮したのであった。そのことがすなわち、両家のような有力家系が成立する要件であったといえよう。

依拠した史料の性格上、彼らの経済的な基盤についてはなお不明な点が多いが、上述のごとき職から得られる俸給や利益

が主たる収入源であったと考えられるからである。そうであったからこそ、彼らは早くから子弟の教育に当たり、身内か

ら大力ーディーに就任する者が出るように努めたのである。

①団帥夢旦-U冒諸魯僧旨旨鼠が、いつ雷門自発の後任としてこの職を

 得たかは定かではないが、萌巴拶の生前だったようである[∪い”<目、

 三越。留一拶の死後、既述のように〉菖9マ。Qp.側α鐸が自分にも相続

 権のあることを主張して同職を得たが、彼の死ぬまでの間同職は彼と

 同黒σ㊤7U同昌昌畠㊤鞍鼻p島が共同で受け持ち、その緩司9葺巴-Uぎ

 窯各㊤ヨヨ&が単独で担当した。

②彼がこのポストに就いたかどうかは確認できないが、息子円a帥〒

 ∪ぎ言呂騨ヨヨpユ(一㊤)にそれを譲った(茜σq三民冨-}吾)という[Oピ”

 〈H固bO凹。

③ この施設に関しては、しづ①蒔薯がそのワクフ文書を利用してやや詳

 しく}冨及している冨。蒔。質ざ凸]。

④ それぞれの就任者を就任順に列挙すれば次の通り。

  竃&星蟹ω㎝含昌接ぎN鑑貸.瞬NNa-U同調.〉σα黛-.>N団N(一ω)-bd夢劉”

   紀-∪む㌶旦誉8§毘(もQ一)↓、HNN帥7Uぎ.>U亀帥智.〉魁N(濠)

  一91諺一、下露689営“己三碧(GQ)↓.》99ゲ潟菩ヨ習(α)↓↓91回旦-∪ヨ

   護喜9ヨヨ&(一り)・Nξコ匙-])ぎρ訓繊細(昏。O)(この二人は共同

   で担当)↓〉σ口気-ω餌、注鐸(。。O)

  旦-寓a座鈴2-じdρ三8一《嘱碧、qヨp『(らQ)↓、〉σ島9-涛菩ヨ9(q)↓

   留一浮(Φ)↓喝僧魯巴-∪同昌竃二言旨旨9創(舘Y>9旦-望、鑑鋒(ωり)

   (両者の就任形態はN嬰くぐ斜巴-剛く7霧冨扇σぞ)鼻の場合と同様

   (注①参照))

⑤ 司ρ書9-Uぎ、〉σ山毘-刃菩一転 の死んだのが八三〇年明二廿碧鎚ヨ

 月八日(一四二六年=月九日)、緊ρヨ巴ρ7UぎH琴似露ヨのこの職

 に就任したのが八三一年(一四二七年一〇月二二日i一四二八年一〇

 月一〇日)とその間が一年ほどあるが、他の者が同職に就任した記事

 は見られないので、後者が前者のあとを継いだと考えて間違いないだ

 ろう。

⑥冒亜ゆ7U冒蜜q冨総角&の同職への就任は一四五七/八年頃であ

 つたという【σい辿×bO㊤]。その後一四六六年に彼がこの職を解任さ

 れたという記事を壱ロNに見出せる口押置凹が、それまでずっと在任

 していたかどうかは不明である。 =刀.〉{罵鈴〒Uぎ蔵島曙コについ

 ては、 一四九五年この職に任命されたことがわかる冨N輔H鼻ωO?ご

 が、いつ解任されたかは明らかではない。

⑦∪いには彼がこの職に就任したという記述はなく、アレッポの鼠覧「

 a-添《。q7と鼠凪鴨鈴-ρ鈴、帥に就いたと記されている窟×噌b。O凹。 「

 方∪=では叡銘σ巴色霞と昌二途帥こ竃ω7に就任したとある[昌

 。。卜。舘。ここでは両方の記述を折衷して採用することにする。

⑧ シフナ家の成員四名(凸角。。卸ヨ僧7U同鵠護pσヨ㎝創(××圏)(鶏h◎Q。q)は

 カイロで生まれているが、シフナ家がアレッポを拠点とし続けていた

 こと、彼がアレッポで職を得ていることからアレッポ出身者と見なす)

 に加えて、 羅Pどρ80◎噂一QQ㌧一伊一『bb⊃O’卜⊃bo慧粘δ介鋼筆’トニ○◎がシリア出

 身であった。

43 (357)

⑨ 法学派の転向については、さらに検討を要するが、シフナ家のケー

 スから類推すれば、シャーフィイー派に属する者とハナフィー派に属

 する者の澱かれていた状況の違いが影響していたのではないかと考え

 られる。当時最も優勢であったシャーフィイー派の者に他の法学派に

 転向する積極的な理由はなかったであろう。また、ハナフィー派ウラ

 マーの場合は、スルタンなどマムルークが同派に属していたために、

 彼らと関係を持つことが多かったであろうが、それだけに、>99-

 乏毘遣(目)のように、彼らの争いの余波を受ける危険性も高かった

 と思われるからである。

⑩澗家の成員だけでなく、大力iディー就任者たちの経歴を見ても、

 彼らが就いた職は概ね法関係や宗教・教膏関係の職であり、官僚職に

 携わることは少ない。一方、寓p昌。7誹8量彗によれば、法や宗教

 に関係する職に就いた経歴を持つ官僚が多いという[窓騨暴①〒目70午

 諺圭冠”$よ昌。彼女は、エジプトの大力ーディーだけでなく、ムフタ

 シブやシリア地方の大カーディーなどをも考察の紺象に含めて論じて

 いるので、現段階で単純に比較することはできない。ウラマーと官僚

 の関係は、今後検討すべき問題である。

44 (358)

結びと今後の展望

 ブルキ二曲ー家とシフナ家という事例を通して明らかとなったように、大力ーディーの有力家系の存立基盤は、その成

員が恵まれた教育環境に育ったことと親族による配慮や引き立てで容易に職を得られたことにあった。そして、親族に大

力iディー経験者のいる者がまた多く大力ーディーに就任できたのも、それらが理由だったと考えられよう。国。・oo<洋N

が推測したように単に良い家柄の出身であったためではなく、もっと実質的なものだったのである。

 このように親族関係は、大力ーディ:就任に至る過程で重要な意味を持っていた。もちろん、最初に見た通り、親族の

ツテを頼らないでも、才能が認められたり、賄賂や有力者とのコネを利用することによって、その地位に就いた者も多く

いた。しかし、従来いわれているほどには、ウラマーの社会的流動性(ω09学際。び監蔓)は高くなかったのではないだろう

か。いρ祉α島は、マムルーク朝時代には、政治的、経済的な不安定さ、ペストや飢饒による死亡率の高さなどのために、

ウラマーの社会的流動性を阻害するような舟囲家系が成立しにくく、三、四世代にわたって職が継承されることは稀であ

ったと論じている[い巷置器”躍O】。また、三浦琉も「アラブ圏には、一時の権勢をふるう名家の存在はみられるが、百年

一四世紀来一一六世紀初頭エジプトの大カーディーとその有力家系(伊藤)

              ①

以上持続することのほうが少ない」と述べている。だが、ブルキーニ室家やシフナ家は特に例外的な存在ではないのであ

る。一四世紀末以前にもいくつかの有力な家系があったことは、既に述べた通りである。また、ダマスクスでもそのよう

な家系が認められるという。したがって、両家のような有力家系が多くの職を専有していたことによって、ウラマーの社

                            ②

会的流動性はある程度抑制されていたと見ることができるだろう。

 さらに、ブルキ:ニー家、シフナ家の事例や大力ーディーの経歴から窺われるのは、こうしたいわば縦方向の社会的流

動性だけでなく、横方向、すなわち空間的移動性も限られたものではなかったかということである。一般に、ウラマーは

学問の師を求めて各地を遊学し、したがってその空間的移動性も高かったとされる。しかし、ブルキ:ニー家もシフナ家

も出身地域を活動の拠点とし続けており一それは、留一盲(①)がダマスクスに赴任することを拒否してエジプトの大力

!ディーにこだわったこと、諺σ日置句ρ色(≦)がカイロへ出てきた後もアレッポで財産を形成していたことにも表れて

いるi、また、先に触れたエジプト出身者に限らず、多くの大力ーディーたちが就任前に地元でキャリアを積んでいる。

すなわち、勉学のために遠く旅することはあっても、キャリアの追求という点からすると、地元志向が強かったと考えら

れないだろうか。

 以上の見解は、限られた事例から得られたものである。今後、時代的にも地域的にも視野を広げ、さらに他の事例との

比較、検討が必要であることはいうまでもない。それによって、ウラマーの社会的流動性、ひいては「幽霊のような観念」

ともされるウラマーそのもののあり方がより明らかになるであろう。

 ① 三浦徹「ウラマー」 『講座イスラーム世界別巻 イスラーム研究ハ    の主旨もこの点にあった。また誓ご⑦ユ8望も、父親の就いたマドラサ

  ンドブック』(悠参社、一九九五年)、二五二。              の教授職を息子が長続する傾向にあったことから、同様の見解をとつ

 ②ダ噂、スクスのカーディーの経歴を検討したζp=9≦=oの前揚論文    ている[5Jo鱒。冤”感謡。

                             (京郁火掌大学院生 京都市董京区

45 (359)

The Social Background of Chief Judges of Egypt during

     the Late MaMIUk . Period(14 th-16 .th/ centuries)

by

ITo Takao

  In 663/1265 the..ludicial system.of耳gypt. Was reformed under. the

Mamlrkk・ rule:’.’the ’four chief. judgeships. were . establish.ed.,・.,・Whereas

previously thqre. had, only been a Shafi‘1 ,chieC・.judge,. there...,w.ere now

chief judges ior the H4nafls, .Malikis, and Hanbalis. as,/w.eli..・/This re-

formed system remained intact until the ear!y 16 th century when the

Ottoman .administration in Egypt.imposed・ judicial .changes.

  Although many aspects. of/these chief judges・h. ave beep ana1yzed,.,//th...e

means・by which chief judge$・were appointed・has,一,been,・ignQred. Namely’,

the careers of. chief. judges during the late . Mamlttk,period, frorn the end

of・/the 14 th century tor/ the・..early’ 16 th.centqry,,h. ave not been..fully

examined yet. ・,.

 ・The investigation of their careers. makes it cSeax..that /the majQr. reasons

for an appointment to the chief judgeship of that era were (A) scko!arly

reputation, (B)・・succession. of. a. deputy・ judge...(pta”ib)., (C) bribery,・/(D)

patronage, (E) family. connectiQn,..or some cor bina..tion of .them.

  Of. them family・ connection . was ・the most, imporl ant factor. Two’ in,fl u-

ential fami王ies.that produced.、 a.1..:numberデ.っf..;chlβf ludges, the Ba煎a1-

Bulqlni and tke Bana/ al-Shibna, . provide,.,gQQd・ examp!e$,, ’Bp. th. fqmi!ies

held ・many judicial, religious・ and educati.qn.a! prQfe.$sio.n. s.ip, th,eir,/・birth-

Places through several.generations. ・ The presence of these fapa. ilie$・/revea!s

that the social/mobility , ef /the ‘ulama/’ , w 4s.,’.limited, cpntrary to . the

generaliy accepted・ view.・

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