title 周藤吉之著 宋・高麗制度史研究 …...批 評・紹 介 周藤吉之著...

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Title <批評・紹介>周藤吉之著 宋・高麗制度史研究 Author(s) 矢木, 毅 Citation 東洋史研究 (1993), 51(4): 695-702 Issue Date 1993-03-31 URL https://doi.org/10.14989/154433 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <批評・紹介>周藤吉之著 宋・高麗制度史研究

Author(s) 矢木, 毅

Citation 東洋史研究 (1993), 51(4): 695-702

Issue Date 1993-03-31

URL https://doi.org/10.14989/154433

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

評・紹

周藤吉之著

宋・高麗制度史研究

695

先年惜しくも逝去された中園宋代史研究者の周藤吉之氏(一九

O

七l一九九

O)は、中園枇品目経済史の分野におけるパイオニアとし

て、つとに『中園土地制度史研究』(一九五四)、『宋代経済史研

究』(一九六二)、『唐宋社曾経済史研究』(一九六五〉の三大主箸

を褒表され、特に中園土地制度史の分野において不朽の業績を残し

ておられるが、以後も周藤氏の研究意欲は衰えを知らず、『宋代史

研究』(一九六九)、

『高麗朝官僚制の研究』(一九八

O〉その他の

著作を次々と妥表され、後年は特に宋と高麗の政治・財政・兵制・

儀躍などの比較研究を自らその研究主題として掲げておられた。そ

の企園の中途に断紹してしまわなければならなかったことは、天毒

とはいえ惜しみても徐りある事柄と言わなければならない。

周藤氏晩年の研究動向は、

三大主著における祉曾経済史の分野か

ら漸衣職官制度史の分野へとその関心領域を抜大し、唐宋の時現革を

財政機構の努遜という側面から詳述した一連の三司研究や、東アジ

ア世界の文化交流を北宋官僚制度の高麗への移入という側面から詳

述した一連の高麗官僚制度研究などは、それぞれ前掲『宋代史研

究』『高麗朝官僚制の研究』に蚊録されて皐界の高い許債を勝ち得

ている。ところがこの三司研究、高麗官僚制度研究ともつながりの

深い周藤氏の他の幾つかの研究論文は、いわば前掲二箸の縫績研究

として改めて一加の著書に牧録される期日を待ちながら、ついに周

藤氏御本人の手によっては編輯

・校訂の機舎を輿えられることがな

かった。今回その御遺志を汲んで改めて皐界に提供された周藤氏第

九朋自の研究論文集が、青山治郎氏・柳田節子氏の綿穏に係る本書

『宋・高麗制度史研究』の成立である。

本書所収の論文十五篇、書評一篇は、いずれも雑誌論文としては

既愛表のものばかりであり、田技表以後既に相蛍の年月を経て各方面

からの検討・評債も行われている現肢を勘案すると、今夏めいた書

評にはいささか慣られる向きも存するが、評者の今回の目論みとし

ては、これを周藤氏の他の一連の諸研究の中に位置づけることによ

って、周藤氏本来の研究構想を再構成し、延いては周藤氏が天誇に

よって果たし得なかった研究展開の方向性をも探っておきたい。

なお本書附録には斯波義信氏の作成に係る周藤吉之氏の著作目録

が掲載されており、以下論文引用の際にはこの著作番貌を附記して

閲覧の便に供することとするが、それにつけてもこの主著

(A一ー

八、本書はA九に蛍たる)、共著

(B一|五)、論文・論-評・

室一回評

(C一ーlご二七)にわたる周藤氏の巨大な足跡を前にする者は、そ

の乾乾たる歩みに究えず畏敬の念を禁じ得ないであろう。

以下個々の論文について詳しく紹介する。

-161ー

前篇

宋代政治経済制度研究

前篇には青苗法その他王安石の新法に関連する一連の研究論文七

篇、財政機構の襲遜に関連する

一連の研究論文二篇、及び玉雲海事官

696

『宋曾要緯稿考校』に削到する書-評一篇を牧録する。

北宋末・南宋初期の私債および私租の減免政策||宋代佃戸

制再論||(C一

一六〉

二北宋前期の翠放・課銭と王安石の青苗法||有利債負法をめ

ぐって1lB(C一一一一)

安石の育商法の起原について(C一一一)

囚王安石の車内苗法の施行過程付〈C一一一-一)

五北宋末における青苗法の施行(C一一七)

六青苗法における客戸の貸付規定(C一一五)

七保甲法における上下の分と逃亡の法||特に敬閲保甲路につ

いてl1l(C一二一)

右七篇は主安石の新法、特に青首法の分析を遁して宋代郷村社舎

の解明を試みた努作であって、主著『中園土地制度史研究』以来、

周藤氏にとっては最も中心的な研究課題として位置づけられてきた

ものである。

北宋前期の一般農民や佃戸は多く生活に苦しんでいたので、災傷

時には政府がしばしば回税を減菟したが、佃戸はこの思典に輿から

ず、多くの佃戸が重い私租と私債とに苦しんでいた。このため北宋

末・南宋初期に至って政府は私租・私債の滅菟政策を賀行したが、

これらはあまり数果的には寅施されていなかった(C一一六)。

また北宋前期の一般農民や佃戸は多く生活に苦しんでいたので、

端境期などには有力地主から高利の貸付を受けていたが、その形態

には銭穀を前貸して牧穫時に絹布や穀物を折納させるもの(寧放)、

見銭を貸興して利子つきで見銭を返済させるもの〈課銭)などがあ

り、いずれも学年でほぼ一倍の利息を取って農民の生活を苦しめて

いた。このため政府では有利債負法を定めて一倍以上の高利貸付を

禁じるとともに、預貿絹などを行って農民に銭穀を貸奥したが、こ

れらはいわば官自らが低利で翠放

・課銭を行ったものといえよう

(C一一一・一一一一)。

王安石の青世間法は、これら一連の先行法、特に侠西青苗銭の法を

基礎として、常卒倉所管の見銭を一般農民に貸奥し、牧穫時に穀物

もしくは見銭によって返済させる制度であって、これにより常卒倉

の銭穀を充貸させ、兼ねて一般農民を高利貸付から保護することを

その目的としていたが、貧際には見銭による返済を強要し(徴銭)、

二分の利息を取り(取息)、貸奥を希望しないものにまで青苗銭を

割り世田てる(抑配)、などとして審法無からの激しい論難があり、

また常卒倉の銭穀はその大牢が取息を目的とする青苗法の運営資金

として民聞に散出され、却って災傷時の賑貸という常卒倉本来の機

能をも破壊しつつあったので、後にはこれらの奮法窯の主張を

一部

取り入れて、常卒倉の銭穀はその一宇を奮来の嗣雑緩法の財源として

確保し、その残徐のみを青苗法の財源に充てさせることとした(C

一一一一一)。

哲宗

・元結年開に至って奮法議が政権を捻嘗すると、一連の新法

とともに青苗法もまた

一日一は慶止されたが、紹聖年閲に至って哲宗

が親政を開始し、新法熊が再び政権を櫓賞すると、一連の新法とと

もに青苗法もまた復活した。徽宗朝・欽宗朝においても青苗法は引

き績き施行されたが、復活以後の青苗法においては取息を一分に止

め、運営責績による推賞も行わないこととして、一部奮法黛の主張

を受け入れた折哀法の形が取られている。この縄経法及び青苗法の

併用によって、一時常卒倉の財政は相蛍程度に潤ったが、その蓄積

-162ー

697

も徽宗朝における高官修・軍輿によって消耗され、青苗法創設の本来

の意味が失われてきたので、南宋では奮法蕪の立場からこの青苗法

を駿止した

(C一一七)。

青苗法は本来郷村の主戸を劉象とする低利貸付の制度であるが、

郷村には主戸以外にも多数の客戸が存在して有力地主の高利貸付に

苦しんでいたので、王安石は客戸に制到しても主戸の保護の下に青苗

銭の貸輿を行うこととした

(C一一五)。これによって青苗銭の資

金回融持率は一一層高まったが、反面、貧下の主戸や客戸に針して青苗

銭の貸輿を行えば、それだけ資金回収のリスクが高くなり、歓損分

を関係保暗証人に賠償させるなどして郷村秩序そのものを破壊するこ

とにも成りかねない。奮法議はこの黙をも激しく論難したが、王安

石は別途に保甲法を立案して郷村秩序の再編にも着手した。

保甲法では一般に保正・保長(有力主戸〉と保丁(一般主戸)と

の聞に上下の分を認め、保正長を主軸とした郷村秩序の再編が構想

されているので、こうした秩序の破壊につながる行篤ell-保丁が保

長を闘殴

・罵雪し、保長が保正を闘殴・罵雪し、また保甲の農民が

逃亡して軍事訓練(数閥)を菟れようとする場合などーーに射して

は一般の量刑よりも重い量刑が課せられて、いわゆる上下の分に劃

する法制面からの裏づけが輿えられていた(C一一一一u。この事質は

周藤氏の構想においては宋代の地主HH佃戸聞の法的身分関係とも結

びつけられており、保正長HH保丁聞の上下の分と地主H佃戸開の上

下の分は、有力主戸と中小主戸(一部に客戸を含む)、有力主戸と

その佃戸という位相の相違があるにもせよ、大経営の中に包括され

た自作・小作の小経脇田農民の存在形態として、本質的には同一の社

舎関係を表示するものとの構想を抱かれていたもののようである。

要するに右七篇は青苗法その他王安石の新法を遁して宋代郷村枇

曾の解明を試みた勢作であって、その歴史的性格規定については庚

く宋元明清史を通観する立場からこれを立論していかなければなら

ないが、この勲、斯皐のパイオニアであられた周藤氏御本人によっ

て今一歩踏み込んだ概念提起が行われていたとするならば、後皐に

禅盆するところ大なるものがあったであろう。

八北宋における提翠在京諸司庫務司と提貼在京倉草場所の興援

(C

一O五)

九北宋中期における戸部の復立||左右曹を中心として||

(C

一O六〉

右二篇は北宋財政史の展開を中央財政機構の幾遷という側面から

詳述した勢作である。

北宋では三司が園家の財政を統轄し、これを計省などとも呼んで

中書門下・梅密院と並ぶ最も重要な園家機関の一つとして位置づけ

られていたが、その機構は腫銭・度支・戸部の三部から成り、盤鍛

七案(兵・脅・商税・都盤・茶・銭・設)、度支八案(賞給・銭高・

糧料・常卒・需拡運・騎・斜斗・百官〉、戸部五案(戸税・上供・修

造・麹・衣糧〉がそれぞれ園家の財政文書行政を分捲慮理していっ

(C九九北宋に於ける三司の輿慶)。

園家の財政を統轄する三司には、その外局として提翠在京諸司庫

務司と提黙在京倉草場所の雨司があり、この雨司の管轄下には京師

の多数の財務機関が存在して種々雑多な銭穀物品の管理を行ってい

たが、『宋合同要輯稿』職官・食貨などによってその機構と職掌とを

整理すれば、これらの雑多な下級財務機関を統轄する三司の財政把

握がいかに庚汎なものであったかが明示されよう

(C一O五)。

-163ー

698

しかしながら紳宗朝に至って王安石の新法が開始されると、常

・克役

・農田・水利などの一連の新法は

司農寺の管轄下に鋪廊

し、また三司の宵案

・修造案がそれぞれ軍総監・勝作庭として濁立

するなどして、

三司の財政上の権限は衣第に縮小され、ついに一洞

・元監五年に至って三司の官制は殴止された。これによって戸部

は再び図家の財政を統制惜し、奮来寄級官化していた戸部の長武(山間

書・侍郎〉及び郎官(郎中・員外郎)がはじめて司存の職掌を賀行

することとなったが、その際、司農寺の管轄下にあった新法関係の

財政は新たに戸部右曹に移属され、この右曹の財政だけは侍郎の専

管事項として、本来の長官たる戸部向書の開輿を許さないこととし

た。以後、新法による牧盆は朝廷銭物という名目の下に備蓄(封

格〉され、戸部術書(左曹)の管轄する戸部銭物とは別個の財政次

元を形成するに至ったが、この朝廷銭物の分管値制は新法の師団止以

後も縫績され、新法の復活を経て次第に抜大増加していった。この

ため左曹所管の戸部銭物はかえって窮乏化する程であったが、こう

した朝廷銭物における蓄積も結局は徽宗朝における著修

・軍興など

によって消耗され、これは北宋滅亡の一要因となったのである(C

一O六)。

要するに右二筋は北宋財政史の展開を中央財政機構の獲遜という

側面から詳述した勢作であって、前著『宋代史研究』所枚の一連の

三司研究に到し、右二篇はその縫績研究としての位置を占めている

が、その考察は単なる職官制度の沿世帯記述にのみ止まらず、北宋の

政略と軍略とによって形成されていったさまざまな財政次元の努遜

を明らかにすることによって、その政治史や熊争史などにおいても

一つの重要な視座を提示してくれているものといえよう。

一O王雲海著『宋曾要鰐稿考校』(C一一一一五)

右一篇は表題の著書に射する周藤氏の書評であるが、ここでは紹

介を省く。後

古向鹿官僚制度研究

後篇には宋朝から見た高麗官僚制度の比較制度史的研究四篇を枚

録し、附篤として新羅

・雀致遠の関連事例研究二篇を収録する。

二宋と高麗との関係||宋側から見た高麗の官吏制度||

(C一一九)

一二高麗朝の京邸・京主人とその諸関係||唐末

・五代・宋の

進奏院

・邸吏および銀蓬司との関連において||(C一一一一

O)

二一一高麗初期の功臣、特に三韓功臣の創設||唐末

・五代

・宋

初の功臣との関連において|

|

(C一一一一一)

一四

高麗初期の中福院、後の植密院の成立とその構成

ll唐

末・五代・宋一初の植密院との関連に於いて||

(C一一一一一一)

右四篇は高麗官僚制度を北宋官僚制度との比較という槻黙から分

析する労作であって、前者『吉岡鹿朝官僚制の研究』以来、周藤氏に

とっては晩年の中心的研究課題として位置づけられてきたものであ

る。もっとも内一篇(C一一九)は前著の執筆に先立って妥表され

た講演記録であり、その着想はすべて前著において具鎧的に展開さ

れているので、ここでは他の三篇についてのみ、その内容を紹介す

ることとする。

唐末

・五代の藩銀は朝廷との連絡機関と

して京師に京邸(進奏

院〉を置き、この進奏院に各種の諜報活動などをも行わせていた

-164ー

699

が、北宋では藩鎮を慶止して進奏院を政府の機関とし、これを楢密

院の遁信銀蔓司の管轄下に置いたため、以後の準奏院は政府の詔殺

や地方の上奏などを取り扱う単なる停遠の環にしか過ぎなくなっ

た。一方、地方豪族勢力の事貧上の割嬢状態が績いていた高麗園初

においても、主京には地方豪族勢力のための京邸が設けられ、朝廷

では努めてこの豪族勢力に劃する中央集住の政策を推進していた

が、中央官僚化した豪族居はその本貫の事審官に任命されることに

よって、依然として地方の行政に関興する権限を保留していった。

事審官は朝廷と州豚との連絡機関(京邸)を監督するものであっ

て、京邸からは吏が遣わされて州豚(藤邑)における租税の督促な

どを行い、また州豚からは其人(一

種の上計吏)が遣わされて京邸

その他中央官街における使役に服していた。成宗朝以降、高麗では

中央集権睦制が確立し、中央波遣の民政官(守令)による州鯨の支

配が行われるようになったが、以後も事審官の制度は守令の制度と

並立して存績していった。これは高麗地方行政上極めて注目すべき

特徴である

(C一一一一

O)。

また唐朝では園初より功臣を優遇し、なかでも太宗

・貞観十七年

に長孫無思以下二十四人の功臣を凌煙閣に園蓋させた故事は著名で

あるが、徳宗・輿元元年の「奉天定難功臣」貌の制定以来、唐末・

五代の軍事的契機によって衣第に功臣放が濫設され、これらはほと

んど無意味な名審徽一章とまで看倣されるに至ったので、ついに北宋

の紳宗・一冗堕元年に至って一日一功臣読の制度は慶止された。高麗で

は唐朝凌燈閣の故事を縫受して、太租二十三年に紳興寺に功臣堂を

置き、その東西壁に三韓功臣を箇重させたが、

これ以後も特に功釣

のあったものについては功臣堂に園重させて、これを三韓後壁上功

臣といった。また宰匡その他功労のあったものについては二字づっ

の功臣字を加え、例えばコニ園史記』の撰者としても著名な仁宗朝

の宰臣金富献は「輪忠定難靖園賛化同徳功臣」の十字を加えられて

いるが、これらの功臣字の制度は北宋での駿止後も高麗では存績し

(C一一一一一〉。

周藤氏は右二篇の論考において、特に高麗園初における功臣勢力

の復元にも意を用いておられるが、その成果は史料に乏しい高麗園

初史の研究において、極めて本質的かつ重要な示唆を含んだものと

いえよう。

なお残る一篇

(C二ニ二)は北宋橿密院との封比において高麗福

密院の機構と職掌とを分析した労作であるが、評者はこの比較制度

史的な研究において、やや機械的な類推に過ぎるものを感じた。周

藤氏は高麗樋密院の職掌を北宋極密院との関係において考察され、

この北宋極密院には兵・吏・戸・穫の四房に、後に刑房を追加した

五房が存在するところから、高麗稿密院の職掌に関してもこれを五

房の璽掌に類比して検討していこうとされる。しかしながらその吏

房に類比すべき職掌として、例えば周藤氏が衣の王沖墓誌などを提

示されるとき、その論調認は必ずしも嘗を得ているものとは言えない

ようである。

累遷:::兵部侍郎

・橿密院左承宣、吏部侍郎・知奏事、梅密院

副使・左散騎常侍、吏部備蓄。自承宣至向書、参裁鐙還十三

度、人格公正無私意。

右の王沖が人事選考(鐙選)に参輿し得たのは、あくまでも兵部侍

郎・吏部侍郎・吏部品問書の職種においての事柄であって、彼が兼帯

していた極密院の官衝は、人事行政そのものにおいては何らの権限

-165ー

700

をも持つものではない。周藤氏は侍郎

・向書の官衡を北宋官制と同

様の単なる寄蔽官と看倣す立場をとっているので、その論理的錦結

として見れば右の鐙選事項を梅密院の管轄とされるのも首然である

が、そもそも高麗極密院は必ずしも政策凝定機関としての設遂を示

さず、また吉岡麗六部は必ずしも司存の職掌を喪失してはいないの

で、これを北宋官制からの機械的な類推によって論断することはで

きないようである。

要するに右四篇は高麗官僚制度を北宋官僚制度との比較という観

貼から分析した比較制度史的研究であって、その行論にはやや機械

的な類推も多く、高麗官制濁自の契機が見失われている傾向もない

ではないが、何より関連事項を的確に牧集分類される周藤氏の博識

は後皐に稗盆するところ多く、前者

『高麗朝官僚制の研究』と同様

に斯皐の必識の文献となっている。

一五新緩末の文士雀致逮捕時||とくに同年進士の友顧雲一の事蹟

について|

|

(C一一一一四)

一六唐末准南高餅の藩銀僅制と葉梨徒然との関係について||

新羅末の雀致遠の者

『桂苑筆耕集』を中心として||(C一

一一一一一一)

右二篇は新羅

・雀致遠の『桂苑筆耕集』を題材とする事例研究で

あって、高鹿官僚制度研究とは直接の関係は無いが、周藤氏にとっ

ては事賃上最後の研究論文に首たることもあって、便宜上、後篇の

附録として牧録されている。

雀致速は少くして唐朝に留皐し、

怒宗

・威通十年(乾符元年)に

礎部侍郎裳環の勝下に登第して、後に

准南節度使高餅の幕下に入

り、その書記官(従事)として大いに文筆を揮ったが、その同僚に

は同年進士の顧雲がおり、雨者は深く友人関係として結ぼれてい

た。この顧雲は高酬明が寅製造討のための諸道行管都統を罷菟され、

さらに関銭鞠運使をも罷克された際、遣わされてその不蛍を訴える

上奏文を草し、

一吉僻不遜にわたった人物として著名であるので、周

藤氏はまず唐末の諸史料を検索して顧雲の博記を明らかにしようと

した(C一一一一四)。

この種の史料の牧集は周藤氏の最も得意とされ

るところである。

また『桂苑筆耕集』には准南節度使高新の藩銀鐙制、及び黄出来の

乱に関連する諸史料が塑富に含まれており、周藤氏はこの二黙につ

いても紹介・分析を試みている(C一一二三)。周藤氏にはつとに一

連の藩鎖研究における業績もあり(C四一五代節度使の支配陸

制)、本篇はその補足・事例研究として位置づけておくこともでき

よう。

要するに右二篇は『桂苑筆耕集』の内容を幾つかの観黙から紹

・分析した事例研究であって、必ずしも制度史研究としての新味

は無いが、それでも唐末藩銀研究における『桂苑筆耕集』の史料と

しての魅力

・可能性は、これによっても十分に窺知することができ

よ〉ワ。

-166-

以上線設したところをまとめながら、結語を述べることとする。

中園宋代史研究者の周藤吉之氏は、中園祉曾経済史の分野におけ

るパイオニアとして『中園土地制度史研究』

『宋代経済史研究』『唐

宋社曾経済史研究』の三大主著を褒表され、特に中園土地制度史の

分野において不朽の業績を残しておられるが、後年、職官制度史へ

とその関心領域を抜大していった周藤氏は、さらに『宋代史研究』

『高麗朝官僚制の研究』において、宋朝における財政機構の獲遷、

高麗朝における宋朝官僚制度の縫受などに関する一連の諸研究を設

表された。本書『宋・高麗制度史研究』は前記二者に射する縫績研

究の位置を占める脱出作であって、ここには周藤氏が後年に手掛けら

れた幾つかの主要な研究領域がほぼ網羅的に示されているものとい

ってよい。逆にいうと、本書は周藤氏の逝去によって惜しくも中断

されてしまった諸研究の拾遺といった側面を持ち、やや成蓄として

の陸例を失している部分も少なくはないが、その黙にはむしろ、最

期まで第一線の研究者であられた周藤氏の一意欲と情熱とを認めるべ

きであろう。

要するに本書は周藤氏晩年の諸研究を牧録した第九加自の研究論

文集であって、周藤氏の切り開かれた研究領域は庚く、それだけに

残された研究課題も多いが、その間学的遺志は庚く後皐によって縫承

されていかなければならないのである。

701

考ハ1)

本書一七五頁に『宋曾要輯稿』食貨・青苗、一柳宗・照寧二年

九月四日篠の記事を引用し、その一節に「制置三司篠例司言、

:・:其給常卒康恵倉銭、依侠西青苗銭法、於夏秋未熟己前、約

逐鹿枚成時酌中約債、比定預支毎斗債、召民願請。・::詔常卒

康恵倉等見銭、依侠西出俵青苗銭例、取嘗年以前十年内逐色斜

斗一年豊熟時最低賃直債例、立定預支、召人戸情願請領」と見

えているが、この係、酌中と最低とでは文意が照際しない。恐

らくは最抵賀直債例(最も寅直に抵たるの債例、一番リーズナ

ブルな債格例)と讃むべきであろう。

(2〉本書二八二頁以降に『宋舎要輯稿』職官二十七、太府寺・提

血争諸司庫務の記事を引用し、その一節に「今録提翠司震首、所

領者列於次。後置都提摩市易司、庫務事干者改隷正局」と見えて

いるが、この「後置都提奉市易司、庫務事干者改隷鷲」の文言

は前段「今録提掌司魚首、所領者列於次」に謝する追記であろ

う。紳宗

・照寧五年七月十四日には在京商税院

・雑賀場

・雑買

務を提翠在京市易務の管轄下に移麗し、

績いて六年十月二日に

は提奉在京市易務を都提翠市易司に改めて諸州の市易務をその

管轄下に移属しているので、前段「今録提奉司潟首、所領者列

於次」の今とはこれ以前の官制を記述したものということにな

ろう。なお周藤氏はこの一節を「今録提彦司篤首所領者、列於

次」と句断し、「今は提奉司に首めから領せられているものを

次に列する」と解するが、取らない。

(

3

)

本書四七八頁に『高麗史』巻九十三、韓彦恭俸の記事を紹介

し、「成宗はかれに御史雄官侍郎剣櫨賓省事を授けた」と見え

ているが、この「御史穫官侍郎」(底本ママ〉は「御事程官侍

郎」の誤りであろう。高麗園では成宗元年に、臨風評省の官制を

改めて御事都省を設立し、その専門部局として選・民・躍・

丘ハ・刑・工の六官を設立したが、これは上園宋朝の向書都省、

および吏・戸・躍・丘(・刑・工の六部の官制を避けての命名で

ある。もっともその後の事大関係の援遷により、成宗十四年に

は宋朝の官制を犯して御事の呼穏を倫書に改め、向書都省、お

よび吏・戸・躍・丘(・刑・工の六部の官制を施行しているの

で、このとき御事躍官は術書躍部に改められた。

ハ4〉本書四八四頁に王沖墓誌を引用し、その一節に「自承宣至向

-167ー

702

書、参裁鐙選十三度」

(鐙還を参裁すること十三度)と見えて

いることについては既に本文において言及した。周藤氏はこの

裁字を載に改め、「自承宣至向書、参裁(載)、詮選十三度(承

宣より向書に至るまでの三年に、十三度の人事選考を行った)

と句断するが、取らない。『高麗史』

仁宗世家によると、王沖

の遜官は椙密院副使(十七年十二月)、同知福密院事

(十八年十

二月)、知梅密院事(十九年十二月刊

吏部向書(二十年十二

月)となっているので、この黙からも三裁の解穫は成り立たな

いもののようである。

(5〉本書五三九頁以下に雀致遠

「激賞巣書」を引用し、その一節

「陶太尉鋭於破敵、楊司空厳可稽紳」と見えているが、

この

陶太尉とは東耳目の陶侃を指し、

楊司空とは惰の楊素を指す。陶

侃は張昌・陳敏

・杜政・蘇峻の飢を次々と卒定し、官侍中

・太

尉に至った名将である(『耳目書』径六十六、陶侃停)。楊素は惰

朝による陳園卒定の際の作戦軍司令官(行軍元帥)の一人であ

るが、長江を下って進軍する彼を望見した抽出人は

「清河公邸江

紳也」といって惚れたという(『惰書』径四十八、楊素停)。も

っとも楊素は司空ではなく、司徒を以て官に卒している。周藤

氏はこの一

節を

「・:陶、太尉鋭於破敵、楊司空鍛可稽紳」と

句断し、太尉を高耕、楊司空を時の植密使楊復光と解するが、

取らない。

5三 誤

2

「上司」↓「上戸」

「往索」↓「住索」

6

九二

一回三

一六五↑一歪(

四一ニ四一一三

四一一石田七五

五=百

五=冗

2 10

「これ枚索して

」↓「これを枚索して」

「車両盲之疾」↓「膏盲之疾」

「客戸奮無貸法蓋、防遷徒」↓「客戸替無資法、

蓋防

遷徒」

「古入親民翠差者」↓「合入親民翠差者」

「二十七日」↓「二十七月」

「札部向書」↓「躍部向書」

「蘇顧」↓「蘇廼」

「制勅救」↓「制教院」

「張威叉」↓「張威父」

「癒唐虞己降、苗雇弗賓無良、無頼之徒、不義不忠之

輩、爾曹所作何代而無遠、則有劉曜・王敦観観音室、

近則有藤山

・朱枇吠喋皇家」↓「癒唐虞己降、首雇弗

賓、無良無頼之徒、不義不忠之輩、爾曹所作、何代而

無、

逮則有劉曜・王教、観観E日室、近則有縁山・朱批、

吠喋皇家」

-168ー

2 4 12 1 5 28 12 3

一九九二年六月

A5剣

O頁

東京汲古書院

二二、

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