title 宋代における役法と地方行政經費 : 財政運營の …...と曾計報告...

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Title 宋代における役法と地方行政經費 : 財政運營の一研究 Author(s) 古松, 崇志 Citation 東洋史研究 (1998), 57(1): 29-66 Issue Date 1998-06-30 URL https://doi.org/10.14989/155169 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 宋代における役法と地方行政經費 : 財政運營の …...と曾計報告 募役法は 、 簡潔に言えば 、 克役銭を徴牧し 、 それまで街前への報償として用いられていた坊場河渡銭を官が牧めること

Title 宋代における役法と地方行政經費 : 財政運營の一研究

Author(s) 古松, 崇志

Citation 東洋史研究 (1998), 57(1): 29-66

Issue Date 1998-06-30

URL https://doi.org/10.14989/155169

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宋代における役法と地方行政経費

||財政運営の一研究

ll

た与ノ,、

士山

一募役法と財政

付菟役銭の務算算定と曾計報告

白菟役寛剰銭をめぐる問題

二新法時代における地方行政経費|土木事業を例として

付新法以前の土木事業

同新法以後における統制の強化

三北宋末・南宋における郷役・保甲役と財政

- 29ー

t土

これまで、宋代における地方の州蘇財政に関する研究は比較的手薄であった。しかし、ここ数年の聞に、中園において

(1〉

在聖鐸氏と包偉民氏によって、多くの史料を博捜した研究がなされている。とりわけ、後者の包氏のそれは、多くの貼で

示唆に富む。しかしながら、これらはあくまでも雨税・課利などの正規の税牧とその管理・支出を主たる封象としたもの

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30

であり、中央政府が基本的に関知することのない役法を財政の問題として取り上げてこなかった。

(

2

)

周知の通り、役法を財政史の文賑で捉えることをつとに提唱したのは宮崎市定氏である。氏によれば、宋代では集権化

政策によって、州の牧入は全て中央に由附属するようになり、

その牧支の中には「地方街門の人事費、事務費」は含まれて

おらず、それは役法によってまかなわれていた。そして、

王安石の募役法とは、

「地方財政」の確立を目指したものであ

なったと解した離で、董期的である。

ったと評慣している。こ

の宮崎氏の見解は、宋代財政の集権性を指摘しつつ、地方の役法が

「貫質的な地方財政」

をまか

にもかかわらず、後設の宋代の財政史研究には、この宮崎氏の提示した枠組みを縫

ぐものが無か司た。

「地方財政」の名を冠した論考もいくつ

か現れているが、

しているとは言えない

のである。

いずれも宮崎氏のいう「地方財政」を理解

一方で宮崎氏の見解を設展的に纏承したのが、岩井茂樹氏の明清時代を主封象とする、

(

3

)

である。

一連の「財政システム」の考察

氏の研究に一貫するシェーマとして注目すべきは、

南税や専貰牧入など正規の税牧を財源とす

「正額財政」

- 30ー

と、傍役を含めた附加的

・追加的な徴牧に負う「正額外財政」の、

こでそれを詳述するいとまはないが、氏の「正額財政」と「正額外財政」の設定という方法論は、宋代財政運営の諸問題

「財政システム」における重層構造の指摘である。こ

を考察する際にも、非常に有数であると考える。

本稿では、宮崎氏・岩井氏の優れた研究に着想を得て、

正規の税牧ではカバーしきれない地方行政経費をまかなう、州

豚レベルでの

「役」とそれにともなう物品徴牧について取り上げる。宋代の役法において董期をなすのは、宮崎氏も述べ

られるように、

王安石の新法時代に行われた募役法貫施による役の銭納化である。この制度の財政史上の意義を押さえた

うえで、

その前後における地方行政経費調達の襲涯を考察する。

さらに

北宋末以後、

南宋にかけて大きな問題とな

た、保甲役が充てられる郷役の地方における様々な負携の増大について簡単に述べる。これらを、通じ、宋代における地方

州軍レベルでの財政運営の構造の一端を明らかにしたい。

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こうした問題を考える前提として、

まず正規の税牧によって構成される「国家財政」|岩井氏のいわゆる「正額財政」

ーの枠組みを簡単に述べておきたい。ここで「園家財政」という用語を用いるのは、少なくとも宋代の財政運営において

「中央財政」と「地方財政」との匿別が裁然としないからである。すなわち、正規の税牧のうち地方の州軍に存留さ

制度の上では中央の三司(元塑官制以後は戸部)の管理下にあ

t土れて主に軍兵と官員への給興として支出される銭物もまた、

4)

った。この中央の三司による統制を保註するのは、包偉民氏も指摘されたように、州軍財政に劃する轄運司の監督、州軍

(

5

)

(

6

からの毎年の財務報告、地方末端から中央に至るまで幾重にも細かく規定された曾計検査制度などであった。園家財政に

開属する地方存留は、事買上軍隊と官僚の維持のためにほとんどが支出され、地方行政経費は十分な財源を興えられず、

その枠組の外側に置かれていた。これを解決したのが役法とそれにともなう物品賦課であったというのが、宮崎氏の理解

であった。

募役法と財政

- 31-

えきじん

周知のように、地方官衝におけるさまざまな雑務は、民が徴接されて職役に従事する役人や、膏吏によ

って行われてい

た。膏吏は制度上役人と饗わらないが、より専門化・職業化しており、{自衛の事務の切り盛りは彼らに任されていた。い

その労働に劃する報酬は基本的には無かったと考えてよい。それゆえ職業化した膏更であれば、民より徴牧

する手数料や賄賂などによって生計を支える必要があアた。いっぽう役人は、役務で労働力を提供するだけでなく、それ

にともなって様々な臨時徴牧を受けた。その役の中でも、とりわけ大きな負捨を被り、北宋前牢における祉舎問題と化し

ていたのが郷村の有力戸が就く里正衛前(仁宗・至和二年(一

O五五)に廃止)・郷戸街前の役である。彼らは、倉庫(特に公

使庫)の管理や官物の綱運などの役にあたっていたが、その際に損失が生ずれば自ら補填しなければならず、破産する戸

ずれにせよ、

31

が積出していた。また、臨時の経費が不足する場合にはしばしば負携を被りがちであった。これらは違法行震ではあった

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が、もとより地方行政に必要な種々

の糧費そのものが制度的に保護されていない以上、

正規の税牧とは別個に民から随時

徴牧することでまかなわざるι一を得なかアたのである(後述)。そして、役とそれにともなう徴牧については、中央が閥興す

る部分は極めて少なく、基本的には地方に任されていた。

王安石の募役法であった。前述したように、宮崎氏は、この募

(7)

役法について「地方財政の確立」を企画したものであるとの見解をつとに出された。ここでは、宮崎氏の所設を参考にし

こうした北宋前半の役の問題を克服しようとしたのが、

つつ、従来の研究に歓けていた硯黙から募役法を考えてみたい。

克役銭の珠算算定と曾計報告

募役法は、簡潔に言えば、克役銭を徴牧し、それまで街前への報償として用いられていた坊場河渡銭を官が牧めること

(8〉

それを役人に麗鏡として支給するものである。まず、募役法が貫施されるに嘗たっ

て、各州ごと

照寧年聞の募役法開始時について燭れた

- 32-

によって財源を確立し、

の克役鎮の徴牧額が決定された。元枯元年(一

O八六)の王親の奏議において、

くだりに次のようにある。

伏して縁えらく、差役の法は、本朝之れを行うこと百齢年、未だ嘗て人戸少なくして以て役に充つるに足らざるを患

えざるなり。

今日に至り之れを患うは、蓋し助役克役の法推行の初、天下の州郡、皆な先に一年の雇役及び寛剰鏡の

放を舎し、然る後に之れを民に賦すればなり。民に賦する者、法無かるべからず、而も且つ其の均しきを欲せば、又

た必ず其の民の家業の多寡を舎して絹銭と震し之れを率す。其の法の大概に日く、

一州の雇役及び寛剰歳用鎮若干、

(9〉

一州の民の家業銭若干、即ち家業銭、毎貫歳ごとに克役銭若干を出し、而して歳計足ると。

募役法寅施時には、州豚で必要な雇銭の支出額と寛剰銭の歳額を算出した上で、徴牧する克役銭の額を決定した。そして

更に、民の家業鏡(寅態としては、地方により税銭であったり物力であったりした)を計算し、

一州全瞳で、

家業銭一貫ごとに

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(

)

いくらの克役銭を徴牧すればよいかを算出して、それぞれの戸ごとの徴牧額を決定した。

これらは、中央から地方の監司に、路ごとの徴牧額の算定が命ぜられて行われたものである。

刺州路蒔運剣官・屯田郎中鮮子俊、棒読肱蓮轄運副使たり。初め諸路監司に詔して、各おの助役銭敷を定めしむ。轄運

使李稔四十寓と定めんと欲するに、佐以震えらく、本路の民貧なれば、二十高にして足ると。識と議合せずして、各

(

おの利害を具して奏上す。上債の議を是とし、因りて以て諸路の率と爵す。

利州路では轄運使の李識と轄運剣官の鮮子佐との聞で売役銭徴牧額の見積りをめぐって意見の封立があり、最終的に皇一一帝

の裁可で鮮子佐の見積額が採用された。監司において議論が闘わされ、尭役鐘徴牧額が決定されていったことが分かる。

つまり、州車位、それを含んだ路単位でそれぞれ尭役銭の珠算案が作成されて中央に報告され、皇帝一が裁可して決定した

(

)

のである。こうして、役法に関わる財政は珠算に基づいた定額制によって運営されることになった。

王安石による新法の推進以後、亮役銭・坊場河渡銭などの牧入を中心とする新法閥係の財物は、三司|轄運司とは別

に、司農寺|提奪常卒司という新たな財政系統によって管掌された。そして、この系統の財政についても、三司と同様

- 33ー

に、舎計報告制度とその検査制度により、中央の司農寺が常に州豚レベルの牧支・残高を把握していた。それは、衣の照

寧八年(一O七五)の司農寺の言によって明らかである。

「本寺に隷する銭物帳献、乞うらくは属官をして路を分かち、三司剣官に依りて貼検策書せしめ、籍を

置きて掲貼し、常に州懸の牧支・見在の数を見る。其の鈎勾・賞罰の約束、三司帳司の法に依る。:::」並びに之れ

(臼)

に従う。

司農寺言う、

また、元豊三年〈一

O八O)に行われた曾計報告制度の改革は、

(U)

れていた。蘇轍の上奏文に引く、元結元年(一

O八六〉の戸部牒の敷節文に衣のようにある。

一、府界・諸路州軍銭穀文帳、奮三司に申するは、昨ごろ逐路轄運・提刑司に援揮して黙磨し、歳終刑部向書勾し詑

轄運司系統だけでなく提奉常卒司系統に闘しでも適用さ

33

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34

れる帳を貼取して勘覆す。

一、

府界

・諸路州軍常卒等銭穀文帳、蓄司農寺に申するは、昨ごろ逐路提穆司に援帰して貼磨し、戸部右曹歳ごとに

(

提翠司勾し詑れる帳を取り、部に赴き貼磨す。・

一つ注意すべきは、もと三司に報告していたものについて、歳終に刑部が

「勘覆す」となっ

ていることである。これは、

中央の曾計検査機関である比部が「帳」の検査を行

っていたことを示し、轄運司からの報告は、戸部左曹に向けて行われ

ていたと考えられる。

つまり、提奉常卒司が設立されてから、州軍↓提奉常卒司↓戸部右曹(元盟三年の制度改革以前は州軍

↓司農寺〉という舎計報告のルlトが、

州軍↓轄運司↓戸部左曹(元豊三年以前は州軍↓三司〉のルlトと併存していたこと

が分かる。そして、

元盟年聞に編纂された『中書備劉』には、提奉常卒司が統轄する銭物の統計が残っており、舎計報告

によ

って中央がその数字

・項目を把握していたことを知りうる。

というこつの側面から、役とそれにともなう徴牧は、

それまでの不透明さを失い、

その性格は大きく襲容した。この二つ

- 34ー

以上のように、募役法の施行以後、克役銭牧支の議算導入による定額化、中央への舎計報告制度・舎計検査制度の整備

の側面は、従来見落とされがちであったが、募役法の財政史における位置づけを考える上では看過し得ないものである。

ω 兎役寛剰銭をめぐる問題

さて、募役法が質施される段になって、地方行政費との関わりで重要な意味を持ち、

なおかつ様々な問題を内包してい

たのが克役寛剰鎮である。これは、天災時に備える貯備のほか、臨時の地方経費の支排に財源を興えるという面でも意味

を持っていた。

おいて既に問題となっていた。

しかし、募役法賓施嘗初の克役鎮の年額算定段階から、寛剰鏡を過大に算定してしまうという弊害が、

不要不急の財を徴牧しプールすることを防ぐベく、制度の上では寛剰銭を雇銭の

二割以内

いくつかの路に

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(げ〉

に抑えるという規定があったが、事質上空文化していた。

例えば、雨街路では、歳入を七

O高貫と算定したが、必要な雇役銭支出を除いた寛剰銭が、ほとんど徴牧額の牟分にも

(国〉

及ぶという風許が流れていた。一方、利州路では、雇役銭の支出が年間九六六

OO貫だ司たのに封し、克役銭徴牧総額は

(

)

二三寓貫徐りに設定され、寛剰銭が一四寓貫近くに及んで、珠算を算定した監司の官が罰せられている。

『中書備封』に

(却〉

みえる尭役銭の元敷年額(務算額〉からも、多くの地方(路〉で寛剰銭が二割という規定を超えていたことが分かる。

毎年一定額の寛剰銭が徴牧され、さしたる支出が行われなければ、年々それが蓄積していくのは嘗然である。敷年経つ

(

た県寧後牢には、各地で膨大な寛剰銭の蓄積が生じ、しばしば論者の批剣するところとなった。こうした問題について最

(

も詳しく分かるのが、元枯初の役法見直しの際に呂陶が上奏した、成都府路の克役寛剰接に闘する奏朕である。

臣伏して観るに、近制、役銭寛剰は二分を過ぎず、此れ朝廷の元元を撫恵するの一意最も深厚と震す。然れども法禁に

於いて未だ牽くさざる所有りて、重数するを売れず。蓋し有司の法を奉ずること太だ過ぎ、篠目滋ます蔓にして、雇

役銭の外に於いて、向お数等有り。番

・戸長雇わずして数むるが如きは、則ち椿留銭有り。橋道

・厩舎の類、数年に

Lて一たび修するも、而れども逐年費を計り、知牒・簿・尉、三年にして一たび替わるも、市れども毎歳署中の什物

を計れば、則ち費用銭有り。非詑に差出せる役人及び起震の雇人は、則ち準備銭有り。此の外に方始めて之れを寛剰

と謂う。且つ成都一路の如きは毎歳只だ合に支すべき募役雇食銭四十寓六千二十四貫にして、叉た番社鏡五高七千六

十二貫を椿留し、又た雑支銭二高二千九百八十六貫を椿し、叉た起雇人銭

一千貫を椿し、外に更に寛剰

一十二寓八千

六百徐貫有り。:・:臣愚伏して乞うらくは聖慈諸路提奉司に指揮し、買に雇役銭を支するを除くの外、更に二分を出

(

)

だし、椿して寛剰と寓し、躍に準備

・費用等銭に係るべきは、並びに寛剰二分内より支破せんことを。

この奏放には、尭役寛剰銭に闘する注目すべき内容が含まれている。雇役銭以外に徴牧される贋義の寛剰銭に含まれる名

- 35ー

35

目として、三つの例が奉げられている。

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役人数が削減されることで雇役銭の支出が減るにもかかわら

(

ず、徴牧額(牧入)を全く減らさないために生じる差額をプールするものであり、番長

・戸長だけに限るものではない。

まず第一が、番長

・戸長が照惣一

4

八年(一

O七五)に麿止され、

(

)

も関わらず、雇銭を徴牧し績けた椿留銭である。

保正

・大保長・催税甲頭が取って代わり差役になったに

36

これは

役人の数は、差役法時代には多すぎたようであり、募役法の寅施にともなって削減されてきた。

しかし、役銭の飴剰を生

み出すために削減が行われることも多か司たようである。そしてそれは、州軍を豚に、燃を鎖に降格して行政コストを切

(

)

りつめるという形でもしばしば現れる。第二が、橋梁・道路や官舎の類の修繕費や地方官交替の際の接待用調度品の購入

(

費などに用いられる費用銭であり、或いは雑支鏡とも呼ばれるものである。これは地方行政費との関わりで注意すべきも

のである。費用銭・雑支銭の膨大な蓄積をみると、土木事業などの臨時の地方行政経費に必要とされる財源が潤津に用意

されていたことを知り得る。制度上は地方での経費には徐裕を持って封慮できたはずである。第三が、臨時に差出される

役人や起震の際の雇人のためにプールされる準備銭である。そして、この一一一つの名目以外に、さらに狭義の寛剰銭が存在

した(園参照)。

- 36-

ノ¥

役克

役鏡

圃〉

尭 。克 菟

役 売準費椿 役役

役備用留寛頭

寛銭.銭助子 雑(剰役剰役

銭 臨支人銭銭銭時の

克役銭

の鏡削減荻1ノλi 庚r-, 短ー

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目的税の形で様々な名目をもっ雑税が克役寛剰銭(庚義〉の一部として徴放

されていた。これらは本来は特定の使途のために狭義の寛剰銭とは別に徴牧されているので、雇鏡支出額の二割以内とい

以上のように、

克役鎮の徴牧にともない、

う制度上認められた寛剰銭額から逸脱してしまう。呂陶はこうした経費を、合法的な二割以内の額内から捻出すべきだと

主張しているのである。

このように寛剰銭蓄積の弊害が盛んに指摘されたにもかかわらず、それが多額に上った路において、

(お)

止する蒲縫策が取られることはあ

っても、抜本的解決が園られたという形跡は全くない。

克役寛剰錨の年額を雇役鎮の二

(

m

m

)

割以内に抑えようという試みは、寅際には放棄されたようである。それよりはむしろ、中央の手で様々な用途に運用され

一時的に徴牧を停

るようになっていく。

役人に支給されない克役銭・坊場銭の徐剰(寛剰銭)額は司農寺への報告が義務づけられ、

(初)

中央は各地の役銭の徐剰額を正確に把握しようとした。克役寛剰銭のみならず、雇役銭の一部として支出される坊場銭も

(況〉

また膨大な飴剰を各地に蓄積させていたのである。このときの措置は、こうした徐剰を中央が積極的に運用していくため

照寧九年(一

O七六)には、

- 37ー

にとられたものと考えられる。事責、その後照寧末年より元幽一旦年聞にかけて、克役寛剰銭や坊場銭を含めた提摩常卒司系

(

)

統の銭物が地方で運用されたり、中央に吸い上げられたりして園家財政運営の一環に組み込まれていく動きが顛著になっ

てくる。

元豊元年(一

O七八)の詔では、提暴常卒司系統の銭物の運用について次のように規定している。

詔すらく、「自今常卒・克役・坊場等銭物、如し諸慮移用するを申奏し、己に旨を得れば、並びに司農寺に迭りて指

(回)

揮せよ」と。

提奉常卒司の掌る銭物の移用は、中央に申奏して皇帝一の裁可を仰いだ上で、

司農寺から指揮が下されて行われるものであ

37

った。

つまり、別系統とは言っても、轄運司系統の「係省銭物」と同様、中央の許可が無ければ他の用途に運用すること

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38

(山川〉

はできなかったのである。

として利用されていた坊場銭については

次に、提事常卒司系統の銭物が中央に次第に吸い上げられていく、過程をみてみよう。募役法貫施にともない役人の雇銭

(お)

市易法に運用された。そ

照寧八年

(一O七五)に、

百省内絹が京師に運ばれて

して元盟元年(一

O七八)からは、

(お)

上供定額が定められた。また、坊場銭・克役銭も含めた常卒系統の徐剰鏡物を他所へ運用することは照寧末には庚くみら

内蔵庫に納められるようになり、

その翌年には、

各路から内蔵庫へ迭られる坊場鎮の

れた。

照寧一

O年〈一

O七七)の詔によって、

膨大な軍隊を維持する河北

・河東

・快西五路では、

(

上供や他所への運用は禁止された。これらの路で禁止されているということは、他路で

常卒系統の銭物を嘗地

の軍事費として用いるようにし、

はそれが一般化していたと考えてよい。

元豊三年(一

O八O)になると、中央への吸い上げはいっそう推進される。

七月に番長

・壮丁雇銭と街前向け支酬銭物

- 38ー

の存留分を京師あるいは北迭に運用することが検討される。

(擁護遣司農寺都丞呉布地)叉た言う、

持つものであり、

「官を差して存留せる番・枇の雇直井びに支酬街前の銭物を考し、計置して之

(

)

れを京師に褒め、或いは沿迭に轄移し、金穀に嬰易す」と。詔すらく、「提孝司一季を限り、数を具して以聞せよ」と。

恐らく、地方で不要の克役・坊場銭の存留銭物を有数利用しようとする措置であろう。閏九月の詔もまた同様の方向性を

(ω)

坊場銭の徐剰のうち起護可能な敷が司農寺によって報告され、京師へと運ばれることになる。さらに

(

ω

)

こうした常卒系統の銭物の吸い上げ策と不可分のものと考えられる。

そして元豊五年(一

O八

十一月の元豊庫の創設は

二〉には

(

される。

京東

・准南

・雨漸

・江南・荊湖

・一幅建の十二路から元豊庫へ迭られる常卒銭の上供額が八百蔦掘として定額化

このように、照寧年聞の後牢から元豊年聞にかけて、提奉常卒司系統の銭物を贋く運用することは一般化していた。さ

らに元枯年聞になると、蘇輯の街子に基づいて、坊場銭

・克役銭運用の新たな方式が打ち出される。

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麿ゆる坊場河渡銭及び坊郭の人戸・郷村の皐丁・女戸・官戸・寺識の出だす所の役銭、及び量添酒銭、並びに一躍を

作して椿管し、逼じて之れを坊場等銭と謂い、並びに支酬街前・召募綱運・官吏接、迭の雇人及び躍に街役に縁るべき

人の諸般の支使に用う。如し本州足らざれば、即ち本路に申し、別州より移用す。如し本路足らざれば、即ち戸部に

申し、別路より移用す。府界の如きは、聞ち鯨は提貼司に申し、提貼司は戸部に申す。其れ徐有る去慮は、見に徐有

るが震に分外に支破するを得ず、其れ足らざる去庭は、亦た見に足らざるが震に合に招募すべきの人を持て却って差

(

)

援を行うを得ず。

元枯の差役復活後も、ここにみえる坊場河渡銭や助役鏡などは残存し、役人の雇銭として用いられていた。蘇輯が求めて

いるのは、徐剰のある州・路から不足している州・路にこれらの銭を移用することであり、これは裁可されている。こう

して、戸部が各地方の役鎮の遁不足の朕況を勘案して運用するシステムができあがり、

ルで一睡化して坊場銭・役銭などが運用されるようになったのである。

一路・一州で完結せずに全国レベ

- 39ー

以上本章一で述べたような募役法における中央のコントロール強化という制度の側面よりすれば、司農寺・提奉常卒司の

財政系統の確立は、現代的な意味で言う「地方財政の確立」とは考えにくいのではないか。私はむしろ、これを「第二の

園家財政」とでも言うべき新たな財政系統の創出を意味するものと考える。すなわち、地方に任されていた役法関係の財

政は、坊場河渡鐘物・宝円苗銭物とともに、司農寺|提奉常卒司という新たな財政系統として中央に把握されるようになっ

たのである。

新法時代における地方行政経費!土木事業を例として

39

本章では前-章を承け、募役法の賓施にともなって地方行政経費の調達方法に生じた襲化を考察する。ここで言う地方行

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40

政経費とは、地方で支出される費用のうち、官僚や兵員への給興などのような正規の税牧からの支出に含まれないもので

あり、役法とそれにともなう徴牧に深い関係を持

っている。ここではその具睦例として、比較的史料が豊富に残っている

官街建物や橋梁の建設

・補修といった公共土木事業を取り上げる。これについては、文人官僚たちの手による多くの修造

それぞれの事例についてかなり具瞳的なことが分かる。ただ、こうした「記」は事責をありの

に関する「記」によって、

ままに記すとはいうものの、

一般に依頼によって書かれることが多く、

地方官の善政というお決まりのパ

ターンで記され

がちである。そこにみえる嘗時の扶況もまた、大抵は非常に困難な朕況下で、事業を行った地方官がいかに優れているの

かという、顧彰の引き立て役として現れる。しかしながら、それは必ずしも現貫から事離したものばかりではない。これ

まであまり使われてこなかった文集や地方志・随筆などにみえる「記」を、

『宋舎要』や『長編』などにみえる史料と併

せてみていくことで、募役法施行前後における地方行政経費の襲遷について考えてみたい。

新法以前の土木事業

- 40ー

まず、新法以前の史料として

南城豚(江南西路

・建昌軍〉主簿

・蘇尉の役所などの改築について記した李観の「南城豚

署記」を翠げる。

慶暦二年(一

O四二)、曾稽銭得臣仲基、大理丞を以て南城宰と焦る。

是に於いて主簿尉署及び豚醸の南翼を改作

す。:::今の郡勝、社有り民有り、九品の僚腐と離も、皆な天子より命ずれば、其の勢固より阻室に居ること聞閣の

恨の如きを得ず。然れども世よ土木を以て難事と魚すは

財は民の財にして、

力は民の力なればなり。是を以て廉

・善人或いは俸りて篤さず、乃ち瞳くして容るべからず、壊れて支うべからざるに至り、巻席して雨を避け、露坐

)

して涼を迎うる者之れ有り。

州牒で行う土木事業に用いられるのは

「民の財」であり「民の力」であることがはっきりと述べられ、それを俸

った地

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方官は何もすることができなかったという。この記述は、州蘇で土木事業を興す以上は「民」の財産や鉱労働力に頼らざる

を得なかったというのが嘗時の現買だアたことを示している。つまり、それに必要な財源が制度的には存在しなかったと

考えられる。また、仁宗朝の人、江休復の手による、温州・頓丘蘇の豚治の修繕に閲する記には、次のようにある。

且つ承卒積久にして、法網浸いよ密なり、監司操持して、群下動揺するを得ず。吏亦た便文議事し、往来する能う亡

やぷ

く、其の職に溺れ、克く自振せず。官寺陰かに頓れ、寝堂聴事、弊漏して居るべからざるに至るまで、敢えて一に議

(

)

手すること莫し、其の他知るべ

L。

「法」の巌しさと監司の監督により、州牒では官街建物の修繕を行うことができず、その結果として多くの地方官が事な

かれ主義となっていたのである。

こうした事なかれ主義をもたらす要因のひとつとして、次の詔にみえるような規制があったと考えられる。

「諸路轄運司及び州鯨官員使臣、多く是れ庚く癖字を修し、非理に民を擾す。自今撞に百姓を科卒・

傍役

(日制〉

する有るを得ず。如し須く修葺するに至るべきなれば奏裁せよ」と。

- 41ー

詔すらく

」の詔は、

員宗朝の景徳元年〈一

OO四〉に出され、

官街建物の修繕にともなう費用や物品の徴牧(科率)・傍役の徴震を

奏裁なしに地方で勝手に行うことを禁止したものである。だが先にみた二つの記によると、現質にこのような禁令を遵守

して民に負携をかけまいとすれば、土木事業を興すことはできなかアた。裏を返せば、土木事業を興すためには、違法な

「科卒・傍役」が不可避だったのである。余靖の「楚州園練推官鹿壁記」(明道二年(一

O三三)五月)がそうした事買を

明記する。

ああ

(

)

憶、世の官局に慮る者、有も卑阻に因循するに非ざれば、則ち役を興して衆を動かし、下民を疲第す。

「法」を遵守してひたすら「因循」に務めるか、あるいは官街修繕の役を興すために民に負携を強いるか

41

結局地方官は、

の二者揮一を迫られていたのである。違法な「科卒・努役」を禁止する景徳元年の詔はある程度数力を持つてはいたが、

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42

地方行政経費のための正規の財源が存在しないという財政運営の構造上、

それを完全に遵守することは不可能だ?たと考

えられる。

景徳元年の詔では、官街修繕にともなう違法な徴牧

・徴設は禁じられていたが、

そもそも、地方官考課の側面から見れ

ば、官街建物の修繕を奨臨すべく、

その費用や州労働力を「民に配す」

ることは事貧上認められていた。南宋末の王柏の手

による「保寧軍節推廃建造記」には、北宋前牢に定められた官街建物の建設

・修繕と考課に関する制度の記載がみえる。

乾徳の問、始めて詔して官解の増葺瓶遺するは、新奮官の暦を封書し、其の葺せざる者は殿一選。景徳三年に至り、

定めて印紙の目と震し、癖字の開数、既に其の酷損を書し、添蓋するに至らば、則ち叉た民に配せるか民に配せざる

かを問う。皆な官吏を防制する所以にして、其の有且を鞭辞すること、至だ詳密なり。誠に是の如くなれば、則ち官

舎常に新し。印紙の式改むるより、後人復た奮制を見ず。官吏の有は日ごとに滋んにして、官舎の坦は日ごとに甚だ

(

〉し。

- 42-

(必〉

印紙とは、幕職州牒官が吏部南商白から護給を受ける南商田暦子や外任の京靭官が赴任する際に支給される御前印紙を指す。

(

)

定められた項目別に記したものと考えられる。

これは

考課の封象となる治績のよしあしを、

景徳三年(一

OO六)の制

度では、官舎の建設・修繕がその項目に定められた。そこには建物の損壊朕況が記され、修繕を行った際には「配民」す

なわち民より財物の徴牧や傍役の徴護を行ったか否かについて、報告せねばならなか司た。勿論、

での評債が高かったとは考えられる。

しかし、そうした報告が義務附けられていたこと自瞳、

(

)

容認されていたことを示している。

「不配民」の方が考課

「配民」が現寅に存在し、

結局、嘗時の現買では、地方において土木事業を興すためには、

(

)

場合が多か司たと考えられる。

民への科配や無償の労役(夫役)に頼らざるを得ない

先行研究でも指摘されてきた

役人〈の

「園融」

や有力戸への

「科配(科率〉」|民の側

の自主的な供出という面を強調すれば「勧分」!といった臨時徴牧は、

まさにこうした背景から生じ、

不可避のものだっ

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(

)

たのである。

(斗

新法以後における統制の強佑

募役法の施行にともない、

まず、

「園融」については、

照寧七年

不透明な徴牧はいずれも全面的に禁止されていく。

(

)

(一

O七四)の詔によって禁止される。南宋の法典『慶元保法事類』によれば、賦役令において「園融」とともに「科擾・

(

)

抑配」も禁じられており、恐らく新法時代に編纂された元豊令より規定されていたと考えられる。

(

これにともなって従来こうした徴牧に頼っていたものは、すべて公費より準備せねばならなくなった。

「園融」の代替

財源は、照寧七年の詔では、克役頭子銭(菟役銭の附加徴枚)を基本として、

(

)

規定された。恐らく、これだけでは不充分であったと考えられ、

不足の場合には「情軽購銅銭」でまかなうと

元豊元年(一

O七八)になると、地方での修造に闘して

「和買」、

などによっていた物資の調達は、

(

)

すなわち民との合意の上での買い附けに改められたのである。

財源を明確に指定され、

その結果「和市」や

- 43ー

は、さらに幅が慶げられて地方官街の特別経費として認められた克役頭子銭のみならず、中央三司の帳簿に掃属する係省

(

)

銭も支出が可能となった。従来「園融」

これについて、

自陶の元一柘元年(一

O八六〉の

上奏文には、次のようにみえる。

未だ助役せざる己前、凡そ官員初めて到りて、動使・器用を置買し、或いは倉庫・解合・館騨・亭喉・渡船等を修葺

するは、並びに役人の謹上に園融す。合に銭十貫を費やすべきなれば、則ち二十貫を科すを須め、合に木十段を用う

るべきなれば、則ち二十段を買うを須め、其の一鼠儀に乗じ、別に破用を作す。助役巳後、凡そ動使を置買し、及び官

(印〉

入緊に検計し、方始めて鎮を支するに、各おの定数有り。

屋・橋堰・渡船を修造するの類、並びに逐一約度し、

また、宣州直徳燃における橋建築に闘する記にはこうある。

(

)

照寧創法より、天下郡勝の土木の工を禁じ、必ず改作すべきなれば、則ち申明して検計し、率ね官より誌ハ職の誤)す。

43

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44

従来まで調度品の購入や建物などの修築に際して必要経費を役人に負携させ、

それにともな

って違法な割り増し徴牧が行

われていたが、募役法が行われてからは巌密に見積りを行った上で公費から支出を行うことになり、

られたのであった。

その額にも枠がはめ

そのほか二章で述べたように、贋義の克役寛剰銭の一部として、費用・雑支銭や準備銭といった項目の見銭が、

(

m

m

)

の臨時経費の貯備という名目で潤津に準備されていた。具瞳例として、

地方で

一章に引いた呂陶の上奏文の貼黄に衣のようにあ

華陽豚昇仙橋一所、役法佑計するに、修すること一衣毎に、銭一百貫を鍛む。十二年中、偶たま損痩有りて、三十貫

を支して修葺すれば、則ち是れ

一千一

百七十貫虚数入官し、皆寛剰と震す。之れを他慮に推すに、計ること亦た此の

(

)

如く多し。

されていた。

特定の橋の修繕費用として珠算が立てられ、

(日〉

にもかかわらず、新法が行われていた十二年聞のうちに、寅際に支出されたのは三

O貫にすぎず、残りの一

毎年一

OO貫が克役寛剰銭(康義)の一部として徴枚

- 44-

成都府の華陽燃では

一七

O貫は使われずに貯備されたままであアた。こうした寛剰銭の蓄積が全園的に見られる朕況であったことは既に述べ

た通りである。

以上のように、募役法の質施により、地方行政経費は透明化したが、こうした制度の大舞革は、地方における土木事業

にいかなる影響を及ぼしたのであろうか。元豊年聞のものと考えられる、張舜民の記した「筆原豚獄記」には、次のよう

にある。新

法未だ行われざるの時に蛍たりては、大は則ち土木興作、小は則ち食飲取給、皆な鯨道より出でざる莫し。天子壷

然として(童く然りとして?)吾が民の傷を関み、途に大いに天下の法を新たにし、而して之れを競して日く、

取る所有るも、吾が民に問うこと勿かれ」と。爾くするより、九そ一旬三日の庸・尺縁方瓦の費も、皆な豚官より出

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づ。

これは耀州・華原鯨獄の修繕に閲する記の中で述べられたものである。新法以前には地方行政経費は燃において民から徴

牧されていたが、新法賓施以後それが禁じられて公費より捻出しなければならなくなったことを述べている。

こうした措置は、この記が記すように

民の負携を慮って行われたものではあったが、

それはまた別の問題を惹起し

た。績きにこう述べる。

郡鯨尤も興作を以て最重と矯し、敢えて瓶りに議すること弗し。頚に居りてすら猶お新らしとし、坦を履みてすら猶

お固しとす。必ず己むを獲ずして之れを震さんと欲する者、有に完うすと日うのみ。之れを茨い之れを藍るは、三

年の幾日ならんや。露疲地坐し、以て径を尭るべし。安んぞ能く我が身の事を蒙るを以て、彼の後人を逸せんや。是

(

)

において因循有筒し、相い師して風を成す。

- 45-

経費の全てを公金で調達せねばならなくなるという改革は、逆に土木事業を州燃で行うことを困難にした。容易に民から

徴牧することが不可能になっ'たからである。その結果として、建物が老朽化するまで何もしないという事態が生じたので

(

ある。同様の内容について、洪逼が『容務随筆』の中で、蘇輯の「膝豚公堂記」を引用して述べている。

元豊元年〈一

O七八)、活純粋中書検正官より知徐州膝豚に請せられ、

而して寝室未だ治せざるも、己を奉ずるを嫌うには非ざるなり、

一に公堂・吏合九そ百一十有六聞を新たにす。

「吾が力未だ暇あらざる所有り」と日うのみ。是の

時新法正に行われ、

士大夫を御すること束潔の如し、二千石の重きに任ずと雄も、市れども一銭粒莱も、敢えて帆り

に用いず、

否ざれば則ち必ず丹書に著く。

東技公其の然るを歎き、

適たま徐守と篤り、

市して之れを停うること無窮にして、濁り以て自養するのみに

故に作記を箆す。其の略に

日く、

「宮室に至りでは、蓋し従りて受くる所有り、

は非ざるなり。今日治せざれば、後日の費必ず倍す。而れども比年以来、所在務めて倹掴を篤し、尤も土木管造の功

45

を詩み、敬氏腐壊し、轄た以て相い付し、敢えて壇に一縁も易えざるは、此れ何の義ならんや」と。是の記の出づる

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46

(白山〉

ゃ、新進趨時の士、婿疾して以て之れを悪む。

ここで注目されるのは、新法の結果として中央の統制が強化され、知州であっても必要経費のために自由に支出できなく

なったことである。洪遁が引用する蘇輯の記は張舜民の記と同様の方向性を持ち、

その言設は新法に封する否定的感情を

含むものではあるが、州豚での土木事業の困難という現賓は否めない。もっともこうした弊害は、前節でみたように新法

施行以前からみられることではある。ただ、新法以前には園融などが禁止されていなか

ったので、

比較的自由に地方経費

を調達することができた。これに劃し新法時代の朕況では、中央側の制度整備による統制強化を原因として地方経費の財

源確保の困難が生じていることに注意すべきであろう。

そのことは橋梁の修繕について-記した蘇轍の手による「贋州灘源石橋記」

(照寧六年(一

O七三むからも明らかである。

橋の役は小なりと雛も、然れども異時郡豚の役、其の利の民と共にする者、其の費は民より量取するを得、法令寛簡

なれば、故に其の功成し易し。今法は佃民に厳にして、

(

)

有らんと欲するも、其の功奮に比するに貫に難し。

一切給を官に仰ぐも、官室くは掛ずる能わず、郡勝建つる所

- 46ー

橋梁など「利の民と共にする」役は、新法以前であれば民から自由に徴牧できたのが、新法期には一切公費で調達しなけ

(回)

ればならなくなった。それゆえにこそ、その財源の確保が困難を極めることになったのである。

もかかわらず、現場の州燃では土木事業などの財政難が生じていた。

ここで、地方での臨時出費のための貯備も含めた克役寛剰接が、地方に膨大に蓄積されていたことを想起されたい。

つまり、

tこ

蓄積された売役寛剰銭や坊場河渡銭など

を、州鯨官が臨時出費のために自由に使うことはできなか?たのである。恐らくは克役寛剰鎮であれば提奉常卒司に、係

省鎮であれば轄運司に、

報告を行って許可を得たうえでなければ

工事費用を支出することはできなかったと考えられ

る。新法以前には園融によっていた経費について、係省銭と克役頭子銭の支出を認めた元豊元年の詔には「保明」とあっ

(

)

て、支出の際の報告が義務附けられていたことから、それはうかがわれる。

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また蘇輯が知杭州であった時に、十園政権の一つである呉越以来の老朽化した官街建物を修繕するために中央に度牒の

支給を請うた奏肢に次のようにある。

而して近年監司は財用に念にして、尤も修造を誇み、十千より以上、撞に支するを許さず。以ての故に官舎日ごとに

(

m川〉

壊れ、前人の遺構をして、鞠まりて朽壌と篤さしむるは、深く歎惜すベし。

ここで述べている規定によれば、州において土木事業のために十貫以上を自由に支出することはできなかった。そして、

その統制は監司が行っていたことが分かる。この奏肢は元一柘四年(一

O八九)のものであり、

新法に否定的な施策が採ら

れた元結年聞においても、新法以後の公費支出の制度が改慶されていなかったことを示している。

州懸での官街建物の修繕費用について、監司の閲わりがより明確になるのは次の史料である。

(宣和〉七年〈一一一一五〉十二月五日、険西轄運使王靖奏すらく、「所部の無名の費敷を篠具し到れるに、

司廃合有るが震に、前後相い承けて培修己まず、或いは巧みに名目を震し、多く料数を作す。州勝一面に勘請し、或

いは擦に検計を行い、動もすれば数千絹、諸司直ちに牒して取授せしめ、検察すべき莫し。欲し望むらくは特に誠約

『内外路官

- 47ー

を賜わんことを」と。講議司看詳するに、

「官司厩舎修造の費、法に在りでは頭子銭三十貫以下を支するを許し、本

州支し詑らば、轄運・常卒司に申して分認せしむ。今来王靖奏する所、切に恐るらくは其の開却っ

て委貫に損壊し、

例として場する去慮、支月足らざる有り。欲すらく諸州をして廓字を修するに、官接を費用するは、歳ごとに三料を

過ぐるを得ざらしめんことを。徐は乞う所に依り、何お正銭を侵支するを待せず。若し巧みに名目を作り、多く料数

〈冗〉

を作して支給せば、監司に仰せて按劾聞奏せしむ。諸路此れに依れ」と。詔、之れに従う。

これは北宋末の史料であるが、照寧・元豊年聞の制度が踏襲されたものと考えられ、州牒での官街修繕における費用調達

のプロセスを考える上で重要な史料である。ここにみえる朕西轄運使王埼の上奏と講議司の看詳をあわせて考えると次の

ように言えるだろう。州豚では官街建物などの修繕を行う際に、三十貫までは頭子銭を支出することが許されていた。そ

47

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48

れ以上の多額の費用については

時運司・提奉常卒司へ報告を行って負携を取り附ける必要があった。

その際、州燃で

は見積りを行いその名目と必要な費用を監司に報告し、監司の側ではそれを受けて必要額の支出を許可したのである。こ

こで問題となっているのは、州燃が費用の見積報告を行ったときに、監司のチェック機能が働いていないという指摘なの

であった。

神宗と王安石の構想した新法が行われる以前、

地方官司の自由な裁量のもと、

地方行政経費は有力戸を中心とする民へ

の物品賦課によってまかなわれていた。その後、募役法の貫施にともなって地方行政経費ははっきりと財源が指定されて

透明化したが、本節でみた新法時代の地方における土木事業に閲する「記」などの史料を見る限り、州豚レベルでそれら

に必要な経費を自由に使うことはできず、監司を通じて中央から強い統制を受けていたことが分かる。そして、地方経費

のために積み立てられた克役寛剰銭とて、

「司農寺|提奉常卒司」という中央官鹿と監司のラインの管理を受けていて、

- 48-

州豚で自由に使える代物ではなかったのである。神宗の照寧年聞に始まる募役法の賞施とそれにともなう地方行政経費の

透明化は、従来地方で濁自に行われていた地方行政経費の調達の手法を、全園一律の制度として中央が統制を行う極めて

中央集権的な施策であった。それゆえ、前章で述べたように、克役銭などを管理する「司農寺l提奉常卒司」系統の財政

は、中央によるコントロールという観黙で見るならば、別系統ながら園家財政の一部に包癒されたと考えるべきであろ

こうした地方経費のあり方は、南宋に至るまで踏襲されていく。

『容驚障筆』の撰者である洪遁が、官街建物の修繕に

れたものであり、

おける地方官の事なかれ主義の風潮について-記していること自瞳、彼自身が生きた時代の同時代的な問題意識から護せら

(

η

)

その起源を照寧

・元豊年聞の新法時代に求めているのである。

その裏側で、この時期に禁止されたはずの違法徴牧は、決して根絶することはなかった。とりわけ、北宋末から南宋に

かけて祉曾問題となった郷役の負措は看過し得ないものである。次章においては、募役法以後の制度のもとに新たに生じ

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た違法徴牧について、郷役・保甲役をめぐる問題を中心にして考察する。

北宋末・南宋における郷役・保甲役と財政

照寧年聞からの募役法の賓施によって、職役系統の徴牧は銭納による定額制を導入して珠算化され、舎計報告を行うこ

とで中央司農寺(戸部右菅〉がそれを把握した。

その結果地方経費の調達が制度的に確立し、

園家財政の一部として機能

したことは既に、みた。これは一時的に元砧年聞に一部改出製されたが、哲宗が親政を始めた紹聖年聞に尭役鎮の徴牧は再び

ハ勾)

元豊の制度に復した。こうして、基本的に照寧・元豊の制度が南宋に至るまで踏襲されていく。この制度によって北宋前

半以来の街前の負措は解決したが、北宋末から南宋にかけて新たな役法問題としてクローズアップされるのが郷役と保甲

役をめぐる問題である。これについては、曾我部静雄氏・周藤吉之氏に詳しい研究があり、基本的な制度の鑓遜は雨研究

(円山〉

によって簡単に述べるにとどめる。

保甲法は周知の、通り新法の一環として導入されたものである。それは主に郷村支配の再編を意味し、農民を民兵化する

という意義は北遣や園都開封周遊に限定されていた。その貼で、郷役との関わりが重要になってくる。郷役とは、州役や

豚役といった職役のように官司に赴いて就役するものではなく、各郷村の役務に従事するものであり、警察業務と催税業

務がその柱となる。宋初においては、前者に番長ー・壮丁があたり、後者に里正・戸長があたり、戸等に麿じて榔村の上等

- 49ー

れることにな司た。

戸が差充された。募役法貧施後も、

郷役は蓄来通り差役であったが、照寧七年(一

O七四)から番長

・批丁に雇銭が支給さ

ところが、翌八年(一

O七五)に番長・戸長・批丁が鹿止され、保甲から選抜された都副保正が番長

それぞれ取って代わり、雇鏡は支給されなくなった。この差役の

に、大保長が批丁に、保丁の輪番である甲頭が戸長に、

49

復活にもかかわらず、雇役銭の珠算が温存されて椿留鏡となったことは、

における雇銭の支給復活、更には差役復活という展開を経て、新法復活後の紹聖二年(一

O九五)、

一章でふれた通りである。その後、

元詰の奮法

都副保正が番長、大保

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50

長が戸長の役に充てられ、社丁も含めて雇司錦町が支給されることになった。ただし、保甲役を郷役に強制的に充てることは

(

禁じられており、その場合には有力戸を召募することになっていた。この紹聖年聞の制度は、常卒

・克役関係について規

定した「紹聖常卒克役穀令」として制度化された。この後南宋に至るまで、役法はこの紹聖の制度に基づいて運営され、

保甲役は郷役として重要な機能を果たすようになっていく。

王安石の募役法に始まった克役鐘徴牧の基本的な制度は、紹聖年聞に復活して以後、南宋まで受け艦が

れた。その一方で、募役法貫施直後からみられた、提奉常卒系統の銭物を全園的な財政運営に組み込む動きが、南宋にな

以上のように、

るといっそう顛著となってくる。それは園家の財政難によって様々な上供名目が新設されたことに起因する。そして、従

(

)

来は地方に存留されていた銭物が以下のように次第に削減されてしまう。

まず、建炎四年(二三O〉、戸長が罷められ、

全ての郷村戸が差充される甲頭が催税の役務にあたるようになった。そ

(

)

翌年から戸長雇銭が鰹制銭として上供に充てられるようになった。さらに、紹興五年(二三五)には組制鎮が成

立したが、その後、戸長雇銭

・番長雇鎮・壮丁雇鐘

・弓手雇銭

・官戸不減半役銭

・民戸増徴三分役銭・

一分寛剰銭

・虞候

)

重職銭といった内容の克役鏡が綿制銭として上供に充てられた。その結果、徴牧される克役銭は、州鯨で吏人・役人への

雇鏡として使用される部分と、上供に充てられる部分に分かれたのである。その割合は、理宗・賓慶年聞における慶元府

mm〉

ほぼ品十分に分けられていることが分かる。勿論、

- 50ー

して、

(明州)と度宗・威淳年聞における臨安府の統計が地方志から得られ、

地方によってその分割比率は多様であったろう。しかし、克役鎮のうち地方で存留・使用される部分が、北宋に比べて激

減したことは疑いを容れない。

こうした克役銭吸い上げ策と表裏して、郷役に充てられる保甲役の負措は大きくなってくる。

先にふれた紹聖二年三

O九五〉の制度は、

それは強制的な差充の禁止と雇鎮の支給を根幹とし

(mω)

ており、役に充てられる者に大きな負措が轄嫁されないように配慮されていた。ところが、郷役への雇鎮の支給は、北宋

保甲役を郷役に充てることを規定したものだが、

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(

末には既に遵守されていないことが多か司たようである。また、催税にあたる大保長

・甲頭に納税額の不足を陪備させた

り、保正副に本来掌るべき都保内の治安維持以外に別の役務を行わせたりする場合があったことも、その禁令からうかが

(

)

われる。

郷役に劃する雇銭支給は南宋でも制度上は踏襲されたはずであったが、貰際には支給されることはなく、郷役は完全に

差役となってしまった。紹興五年ハ二三五)に番長・戸長雇鐘が上供に充賞されたいきさつをみると、

そうしたことが

うかがえる。

臣僚言えらく、

「州牒の保正副、未だ嘗て肯えて雇銭を請わず、並びに典吏雇銭も亦た曾て給せざれば、乞うらくは

拘牧を行わんことを」と。戸部看詳するに、「州鯨奥吏雇銭、若し支給せざれば、切に恐るらくは以て其の廉謹を責

むる無く、以て施行し難きの外、其の郷村の番

・戸長、法に依りでは保正

・長の輪差に係り、請う所の雇鏡、往往に

- 51-

して支給を行わず、委に是れ合に拘牧を行うベし。乞うらくは諸路常卒司に下し、紹興五年分の州燃の支する所の雇

銭を賂て、経制銭篠例に依り、季を分かちて起援し、行在に赴きて迭納せしめよ。如し敢えて隠匡

・侵用有れば、並

(回〉

びに上供銭物を撞支するの法に依れ」と。之れに従う。

番長

・戸長の役に輪番で充てられる保正副・保長には、雇銭が支給されていなかった。そして、それは既成事賓として積

み重ねられていき、議算化された雇銭が地方に不必要な経費としてなしくずしに上供に吸牧されてしまった経過がよく分

)

かる。先に述べた様々な名目の克役銭は、こうした経緯を経て、

次々に経組制銭に吸牧されていったのである。

その結

果、売役銭は紹興年間以後、定められた吏人

・役人への支給を除き、上供に充てられるようになり、次第に地方での経費

支排に意味をなさなくなっていく。例えば、嘗時貧困層の社曾救済措置として、子供が産まれた場合に養育費を援助する

という制度があったが、その財源として嘗初は常卒銭とともに克役寛剰銭が指定されていた。ところが、紹興一五年(一

(部〉

一四五)の臣僚の上奏によって、克役銭牧入の少なさを理由に、義倉米を賑給に充てることが求められた。

これは、

克役

51

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52

銭の上供吸い上げ策と無関係では無かろう。

克役銭吸い上げのしわ寄せは、制度的にも無給となり、全くの差役とな司

た保正副

・大保長に向けられた。これらの郷

役に充てられた人々は、本来は関係のない役務に従事させられたり、多様な地方経費を負携させられたりした。具瞳的な

事例は曾我部氏や周藤氏の研究に詳しいので、その代表的な例をひとつだけ奉げるにとどめる。

紹興二九年(二五九)

の戸部のきロに次のようにある。

其の後戸部言えらく、

「法に在りては保正副、都保内より行止材勇有りて物力最高の者二人を通選して充つるに係

り、躍に人丁を開牧し、盗賊を畳察するを管幹すべき者なり。若し雇に就き兼ねて番長に代わるを願えば、的問ち郷村

の盗賊

・闘殴・煙火

・橋道の公事を管幹す。大保長の戸長を乗ぬるを願えば、税租を催納す。若し願わずして師りに

差雇する者、徒二年。本番保に非ずして明りに差して幹嘗を委ぬる者、杖一

百。官司役人に園融及び科買

・配賀する

所有る者、違制を以て論じ、去官赦降を以て原減せず。開し夫力を陪備せしむる者、徒二年。欲し乞うらくは、諸路

- 52ー

常卒司に下し、遍く所部の州懸に篠し、常切に遵守施行せよ。如し違戻有らば、開ち法に依りて按治せよ」と。之れ

(

)

に従う。

これによれば、保正副が番長の役に充てられた場合、制度上は郷村の賊盗

・闘殴

・煙火

・橋道の公事のみを行うことにな

っており、大保長が戸長の役に充てられた場合は、催税業務を行うことになっていた。ところがここにみえる禁令の映し

出す現質においては、強制的な差充や、本来充てられるべきでない役務への差充、園融や科配、夫役の人件費の陪備とい

アた負捻が保正副

・大保長に轄嫁されていたのである。こうした厳しい罰則が、ほとんど数力を持たなか

司たことは、後

の時期の史料にも同様の事態が繰り返し指摘されていることから明らかである。そしてまた、

(

)

れることだった。

それは全国的に贋範にみら

『宋曾要』にみえる多くの例から、戸長の役に差充される大保長と、者長の役に差充される保正副の負携は次のように

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まとめられる。大保長は、催税の際に、逃絶戸・形勢占擦などによる未納分の補填に苦しんでいた。

鯨の土木事業費(物資の調達、役夫の雇用〉、郷に下った豚官の饗庫、

一方、保正副は、州

文書の承受(郷村と燃を結ぶもの)、貢

(∞∞)

ぎ物の供出、就役・退役の際の膏吏への付け届けなどあらゆる地方行政経費の負措を被っていた。こうした負擦を避けよ

うと、役の差充のときに様々な不正が行われ、賄賂が横行して上等戸が役を避け、本来充てられるはずのない中等戸以下

の戸が差充されるという不公卒が各地で生じた。また、役の差充をめぐる訴訟も多くみられ、大きな祉曾問題となってい

官員の迭迎費、

たのである。

以上のような保甲役と郷役の基本的な展開は、従来の研究によって明らかにされており、新たに附け加えることはほと

んどない。ここで考えたいのは宋代の財政全瞳の中で、こうした事責をどのように捉えるべきかということである。

すでに述べてきたように、募役法の寅施によって地方行政に必要な諸経費の法定的な財源が確立したが、中央による統

制強化は、逆に地方の州牒において必要経費の調達を困難にした。なぜならば、新法貫施によって地方経費の財源に指定

されたはずの鏡物を、州豚で自由に使うことができなかったからである。募役法が貫施されても、地方経費の貧困が根本

(

)

的に是正されることはなかったのである。

- 53-

加えて北宋末以後、地方に存留される克役銭は中央の吸い上げ策により減少の一途をたどる。南宋になると、その流れ

は顕著になり、とりわけ尭役寛剰銭が経組制銭として上供に充嘗されたことによって、地方経費の財源として弾力性を輿

えうる要素が完全に失われてしまった。そして吏人の雇銭として預算化された克役鎮の牧入以外に、地方に残される克役

鐘は存在しなくなってしまったのである。また、轄運司系統が掌る係省銭についても、園家の財政難による上供額の増大

により、地方に存留される銭物は盆々減少してい司た。それでもなお、地方行政糧費は照寧

・元豊年間以来の制度に基づ

き公費から支出して調達せねばならなかった。前述した南宋における地方官の事なかれ主義もまた、こうした財政難に直

53

面してのことであった。その結果、貫際に経費を調達するためには、本-一章でみたような郷役への負携轄嫁や、違法な科配

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54

(

)

などとい司た手段に頼らざるを得なくなったのである。つまり、役法が南宋において大きな祉曾問題となったことは、現

場の官吏の腐敗監落などという表面的な現象ばかりではなく、地方行政経費の貧困という財政制度の構造的な問題を背景

(

)

としているのであるc

こうした事態は、同時に地方の末端の官吏にとっては、多くの役得を得る機曾が増えることを意味

し、非常に好都合なものであった。

勿論、このような吠況に直面して、全ての人々が手をこまねいていたわけではない。地方では地方官や在地の有力者の

手によって、様々な解決手段が講じられた。例えば、郷役の負捲を軽減・公卒化するための義役もそうした施策の一つで

(幻)

ある。従来義役は、その運営のあり方の側面から語られることが多かったが、こうしてみると、園家の財政運営の構造的

依陥を地方の側で何とか解決しようとしたものであるという理解もできるだろう。また地方行政費のうち少なからぬ負捲

(

m

m

)

となっていたと考えられる土木事業についても、その弊害を克服しようという試みがしばしばみられる。しかし既に指摘

(

)

されているように、義役などは概ね脆弱で長績きせず、問題の根本的な解決には至らなかったのである。

- 54ー

宋代の中央集権的な施策は財政にもあてはまる。地方の州豚から徴牧される正規の税牧は、上供・地方存留を問わず、

すべて帳簿の上では中央の三司・戸部に蹄属しており、中央のコントロールする園家財政に含まれるものであった。その

ため、地方行政経費を維持するための制度的財源は存在せず、

それは地方濁自に行われる差役とそれにともなう徴牧によ

ってまかなわれていた。無論、地方行政経費が全く国家財政とは別物であるかと言えばそうではなく、

その線引きは暖味

模糊としたものではあるが、大勢はこの圃式で理解して差し支えなかろう。

この役法にメスを入れたのが、

王安石の募役法だったのであり、それまでの差役は銭納となり、珠算に基づいて雇銭が

吏人・役人に支携われるようにな司た。役法系統の徴牧は、募役法の貫施によって透明化され、議算に基づく定額制と定

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期的な曾計報告によって中央の統制を受けるようになる。これは、従来の三司(のち戸部左曹〉|轄運司が管轄する「係省

銭物」の系統に寄り添う形で、司農寺〈のち戸部右曹)|提翠常卒司という新たな財政系統によって管理されることになっ

むしろ新たな園家財政の系統の

創出を意味すると考えられる。そのことは、地方行政経費の賓例として取り上げた、州牒における土木事業費の調達方法

た。提奉常卒系統の銭物は、従来呼ばれていたような

「地方財政」の確立と言うよりは、

の出現温から明らかにな?た。すなわち、募役法が施行される以前には州鯨で比較的自由に徴牧を行うことができたのが、

新法以後には中央の統制によって公金より捻出せねばならなくなった。ところが、財源として指定された銭物や地方に貯

備された尭役寛剰銭を州鯨で自由に使えなかったために、地方行政経費の貧困という北宋前牢以来の課題は克服されるこ

とはなく、

その後の園家財政の匪迫と相まって、

不透明な徴牧が再生産されていく。

そして、

北宋末期から南宋にかけ

て、郷役に充てられる大保長

・保正副が、北宋前半の郷戸街前のような役回りを新たに負わされることになる。南宋祉舎

において大問題となった役法問題は、

まさにこうした財政構造の背景から生じたものだ?たのである。

- 55ー

以上のように、本稿では、宋代の地方行政経費について財政の構造上の問題から考えてみた。それでは、これを前後の

時代とどう関連づければよいのであろうか。後の時代である元代以後については、この財政構造が基本的には縫承された

(MN〉

可能性が高い。ここでは、唐代に遡及して、宋代にかけてみられる財政構造の獲遁を少し考えてみたい。

雨税法以前の唐代前半の財政運鐙は、中央度支の指示によって行われ、正規の税牧である租庸調の牧入は全て中央の支

(

M

m〉

配下にあった。

一方地方行政は、戸等制を媒介とした色役

・雑径の差科と、公藤田や公商脚本鎮の牧入によ

って維持されて

(

m別〉

いた。差科は戸等制に基づいていることからも、後世の職役につながっていく要素があると考えられる。また、大津透氏

が戸車位に科せられる戸税を、差科の一髪形であるとみなす見解を示されたことは、宋代における職役にともなう科配な

どの追加徴牧に比定しうる貼で興味深い。公廃については、

滋賀秀三氏が、園家財政に計上されない官署の運営費を、濁

(

)

立採算的にまかなう特別舎計であるとの理解を一万された。雨税法以前の地方行政経費は、差科と公癖という二本柱によっ

55

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56

て、各州豚で濁自に調達されていたと考えられる。

財政運営は大きな轄換黙をむかえる。天賓年間以後に現れた雑多

な徴牧は全て雨税牧入に一本化され、中央度支の統轄下に入司た。地方に存留される留使・留州は、制度の上では度支の

(mm)

許可なく支出することはできず、毎年の定額も決まっていた。これが中央に揖附属する園家財政であることは歴然としてお

徳宗の建中元年(七八

O)に雨税法が施行されると

り、宋代の園家財政の租型は

しかし

唐代雨税の地方存留は

宋代に比べれば支出の

唐代の雨税法にあるのである。

(

)

融通性は大きく、徐剰の生じる絵地もあったようである。そしてこの地方存留の儀剰は、地方行政経費の財源として、

(

)

解本鎮の運用とともに重要な機能を果たしたと考えられる。

/又ム主、

つまり、商税法以後の唐代後牢には

正規の税牧の徐剰を

地方の州において比較的柔軟に運用することができたのである。だが、その裏側では非合法の「差率」

ばれる徴牧が行われていた。また、爾税法以前と同様に、戸車位の差科も行われており、五代を鰹て宋代の職役へとつな

がっていくと考えられる。ただし、残念なことにこの時期の役法に闘する史料はきわめて貧弱であり、具瞳的なことはほ

「科卒」などと呼

とんど分からない。

- 56ー

従来より、我が園では唐宋繁革による中央集権化というテlゼが強調されてきた。無論それは誤った見方ではない。

かし、中央集権とはあくまでもある一定の領域に及ぶものでしかない。ここで取りあげた財政運営の問題で考えるなら

ば、唐代では雨税牧入の一部分が地方で濁自に運用される部分が存在したのが、宋代では集権的な施策によってすべて中

央に開属することになる、

とは確かにいえるだろう。だが、集権化はあくまでも正規の税牧に基づく園家財政のレベルに

及ぶものでしかなく、地方末端のレベルまでには達しない。北宋前牢においても、表向きの公式の税牧は全て園家財政と

して中央あるいは皇帝に開属してはいても、中央の自の届かないところでは、制度の枠組みの外側で徴牧が行われ績け、

それによって地方経費が調達されていた。

つまり、手法の獲化はあるにせよ、地方行政経費というものは、園家財政とは

その意味でいえば、唐と宋の財政運営の構造は、

基本的に端変化していな

別個に地方濁自に運用されるものなのである。

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し、。このようにみるならば、王安石の募役法の持つ意義がひときわ際だつ。すなわちそれは、地方行政経費を中央のコント

ロールの下に置いて法定化したという黙でそれまでに類をみない施策なのである。しかし、克役鏡の徴牧瞳系が園家財政

に組み入れられたものである以上、

それが衣第に中央に吸い上げられてしまうことは必然的な結果であり、地方行政維持

のために不透明かつ制度外の徴牧が園家財政の枠組みの外側で再生産されていくという財政構造は、根本的に襲化するこ

とはなかったのである。

57

註『長編』は『績資治遁鑑長編』の、

の略稀である。

(

1

)

涯聖鐸「宋代地方財政研究」(『文史』一一七、一九八六)、

同『雨宋財政史』〈中華書局、一九九五〉第三編第一章、包

偉民「宋代地方州軍財政制度述略」(『文史』四て一九九

ムハ)。

〈2)

宮崎市定「膏吏の陪備を中心として

l中園官吏生活の一

面」(『史林』三

O

一、一九四五初出。)、「宋代州豚制度

の由来とその特色|特に街前の第遷について」(『史林』一一一

六|二、一九五三初出。のちともに『宮崎市定全集』一

O

「宋」岩波書庖、一九九二所枚)。

(

3

)

岩井茂樹「清代園家財政における中央と地方|酌援制度を

中心にl」(『東洋史研究』四一一ーー二、一九八三)、「中園専

制園家と財政」(『中世史講座6中世の政治と戟争』準生

社、一九九二)、「傍役と財政のあいだ中園税・役制度の

『宋舎要』は『宋禽要輯稿』

歴史的理解にむけて|」(一〉J(四〉(『経済経管論叢(京

都産業大暴〉』二八|四・二九l一J三、一九九四〉。

(

4

)

前掲註(

2

)

宮崎「宋代州豚制度の由来とその特色」、全集

二三三頁、および前掲註(

1

)

包偉民論文、六

O頁。

(

5

)

財務報告に関連して、禽計に関わる帳簿類の研究には、

『慶元篠法事類』を中心とした、方賓環「宋代的舎計帳籍」

(「北京師範皐院翠報(佐倉科拳版)』一九九一ーー五)があ

る。また、佐竹靖彦「『作邑自簸』の研究ーその基礎的構成

」(『人文率報(歴史拳)』二三八、一九九一二)にも言及が

ある。

- 57ー

(

6

)

前掲註(

1

)

包偉民論文。包偉民氏の研究の中で注目すべき

なのは、従来はっきりしなかった州軍の財政管理機構を明ら

かにした貼である(三、州軍財政管理機構)。氏は、倉庫の

管理や「勾院(審計司)」・「態在司」を統轄した逼剣が負う

州軍財政の管理の職責を強調している。

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58

(

7

)

以上の叙述については前掲註(

2

)

宮崎論文。

(8)

菟役銭の基本的な制度については、周藤吉之「王安石の完

役銭徴牧の諸問題」(『宋代史研究』東洋文庫、

一九六九所

収)。

(9)

『長編』巻三九

O、元紘一冗年十月壬寅、右司諌王競言。

『宋史』食貨志にも同様の記事がみえる。

(MN)

菟役銭の賦課基準は、『永祭大典』巻七五

O七に引く『中

書備制到』によって、地方によって多一様であったことが知られ

る。そして、華北諸路では物カが多く、江南・嶺南諸路では

税産が多かったようである。これについては、島居一康「戸

等と役法」(『島根大祭法文皐部紀要文同学科縞』七

一九八四、のち『宋代税政史研究』汲古書院、一九九三所

枚)、二七八J八六頁、前掲註(

8

)

周藤論文一一二三J四O頁

を参照。

(日)『長編』各二二七、照寧四年十月庚申。

(ロ)菟役銭の徴牧が抽出算に基づいたものであったことは、宮崎

氏も前掲論文の中で鏑れられている(「宋代州豚制度の由来

とその特色」、『全集』二四

O頁)。

(日〉『長編』巻二六三、照寧八年間四月葵巳。

(M〉元豊三年の曾計報告制度の改牟の要黙は、州軍から一一一司へ

と直接財務報告を行っていたのをやめ、州軍から一旦監司に

報告を行ったうえで、監司が管下の州軍からの報告をまとめ

て「計帳」の形で中央へ報告する制度に改めたことにある

(『長編』巻三

O九、元豊三年間九月庚子二蘇轍『禁城集』

巻四

O、「論戸部乞牧諸路帳欣」参照)。

(お)『築城集』巻四

O、「論戸部乞牧諸路帳吠」所引向書戸部

牒元結元年七月二十五日教節文。

『長編』巻三八三、元結元

年七月己卯僚にもみえる。

(日)『永祭大典』巻七五O七所引『中書備制到』。

(口〉寛剰銭は、一雇銭として賓際に支出する以外に、雇銭支出額

の二割まで徴牧することが認められたものである(『宋史』

巻一七七、食貨志上五。凡敷銭、先調州若鯨耐服用雇直多少、

随戸等均取。雇直既己用足、叉率其数増取二分、以備水皐欠

閣、雄増母得過二分、謂之菟役寛剰銭。〉。寛剰銭について

は、前掲註(

8

)

周藤論文、

ニO三J二二三頁参照。

(凶)『長編』巻二三二、照寧四年五月乙未、御史中丞楊給言。

(川口)『長編』各二二七、照寧四年十月庚申、侍御史知雑事部結

一言、

(ぬ)『永祭大典』径七五

O七所引の『中書備針』

によると、全

園の菟役銭の元敷年額(菟役法施行時に算定された務算額)

における、歳出(すなわち雇銭)に針する寛剰銭の割合は、

一二三・三%であり、規定の二割を大幅に超えている。つま

り、蛍初の預算算定の段階から寛剰銭の規定を逸脱していた

のである。周藤氏が寛剰銭の割合を二四・九%と算出された

のは、寛剰銭も含めた歳入金鐙(全徴枚額)に劃する、寛剰

銭の元敷年額の劉合であり、不適切である(前掲註(

8

)

周藤

論文、二一六頁)。前掲註(口〉の『宋史』食貨士山に、寛剰銭

について、「震直既己に用足らば、又た其の数を率して二分

を槍取し、云々」とあることを考えれば、雇銭の二割という

規定であって、全徴収額のうちの二割以内ということではな

- 58ー

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59

BUW

(幻〉たとえば、岡山寧一

O年〈一

O七七〉の呂陶が知影州であっ

たときの奏朕(呂陶『浄徳集』巻一、「奏乞放克寛剰役銭

扶」)参照。

(泣〉この奏紋は、『長編』など他の史料にはみえず‘繋年は不

明だが、次のように考査できるだろう。末尾に附せられた貼

糞(後掲四四頁)には、「十二年中」とあって、募役法貧施

から十二年聞が経過していることが分かる。また、前註の照

寧十年の呂陶「奏乞放菟寛剰役銭朕」によって、成都府路で

は、募役法が隈寧六年より寅施されていることが分かる。こ

の二つの事賓から、十二年とは、照寧六年(一

O七三)から

元堕七年(一

O八四)の聞であることを知りうる。そうする

と、この奏吠は、一洞宗浅後の元堕八年(一

O八五)から元結

元年(一

O八六〉にかけて、奮法汲による役法見直しの議論

の中で上奏されたと考えられる。

(mA)

呂陶『浮徳集』巻て「奏篤役銭乞椿二分準備支用吠」。

(UA)

番長・戸長・壮丁に制到する雇銭の支給は、募役法貨施首初

は行われていなかった。照寧七年(一

O七四)に至って、始

めて番長と壮丁に雇銭が支給された〈戸長は不明、『嘉定赤

城志』巻一七、『淳照三山士山』巻一四〉。翌年、番長・壮丁・

戸長が駿止され、その役務は保甲から選ばれる保正・大保

長・催税甲頭に移った(『長編』巻二六三、照寧八年間四月

乙巳〉。保申法と役法の関係は、三章を参照。

(お)役人の数が減らされたにも関わらず、徴牧額が愛化せ.す‘

寛剰銭額が増加するという弊害が庚くみられたことについて

『長編』巻二七九、照寧九年十一月戊寅、侍御

は、例えば、

史周予言。

(mm)

『長編』巻二八

O、照寧十年正月庚甲。権後遺荊湖南路縛

運剣官唐義問言、「北路近年慶荊門軍第長林豚、隷江陵府。

此軍控制巴局、備防百越、今以魚勝、城郭不完、屯兵減少、

不足以控制要曾。比者奉使訪察之臣、惟以興事塞責、滅放役

人、椿留役銭信周利。関白援軍以来、堕酒課息毎歳筋数過於所

存役銭。乞復建軍。」詔荊湖北路監司相度以問。既市不行。

『長編』巻三六五、元結元年二月乙丑。詔、「併慶州師側、

令諸路縛運・提黙刑獄・提傘常卒司、同相度合輿不合康併以

問。」:::(侍御史劉撃・監察御史王巌受〉叉言、「自来併

慶州豚、雌省得役銭以震封格之利、然酒課税額腐失者不可勝

計。:::医昔嘗親見慶相州永和照信用政(鎮の誤)之初、永和

之民、相輿抗訴於官目、不知宮中歳所利者幾何、百姓願計其

数均認之、隣二税以納、幸留五ロ邑不慶也。官不敢受其詞、立見

康之。陛下以此観腹邑之人情、宜復否也。叉親見恩州湾南鎮

百姓告於州、乞自備材植、出公力、修康{予・完倉庫、復置本

ロ巴。:::」

これらの史料から、岡山寧から元堕年聞にかけて、州問綿の併

師閣が盛んに行われ、役銭支出の減額がその動機の一つになっ

ていたことがうかがえる。元結元年の劉態と王殿受の言は、

州や燃の官衝の維持は、商務など正規の税牧のうちの地方存

留分から支出されるものでなく、

役法によってまかなわれる

ものであるということを明示していて興味深い。

〈幻)こうしたことが、四川だけに限られる問題ではなかったこ

- 59一

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60

とは、提事江南西路常卒等事の劉誼の募役法の十害を指摘し

た上蓄に、「雑支寛剰」とあることから分かる。少なくと

も、江南西路においても同様の事態が生じていたのである

(『長編』径三二四、

元堕五年三月乙酉。法以役人有定数、

而年歳有望凶、故立寛剰以備裁輿夫

・捕虎緩急之用、此良法

也。然司幾意規寛剰、不立正法、行之数年、州豚寛剰刻納、

減放不及之、銭貫己朽失。役銭中叉出雑支克剰、此震何名市

取也。是請寛剰太多、害法六也。)。

(お〉例えば、『長編』巻二七七、照寧九年八月壬子、荊湖路察

訪蒲宗孟言にみえる荊湖路の例。

(mm)

元塑年聞に諸路で議定された「役書」に、役人を減らした

結果、毎年膨大な寛剰銭が蓄積されていることが記されてい

る(『長編』巻三

O七、元豊三年八月辛卯朔、権時佼遺司由度都

丞呉薙言)。

(鈎)『長編』巻二七九、照寧九年十二月庚子。叉詔、「自今寛

剰役銭弁買撲坊場等銭、更不給役人、凸臓移詳具羨数申司農

寺、徐態係常卒司物、嘗留一字。」

(紅)後掲註(必〉『長編』巻三三

O、元塑五年十月壬申および

『永祭大典』巻七五

O七所牧『中警備制到』に引く坊場銭の寛

剰銭額を参照。

(位)地方における克役覚剰銭や坊場銭絵剰の運用例としては、

次のようなものがある。元塑二年(一

O七九〉は、准南路・

雨漏削路において聾作であ司たので、各地に蓄積された莞役

銭・坊場銭を借りて縫本に充てた(『長編』巻三

OO、元豊

二年十月辛丑)。また、京東路では軍兵を役人に代わって波

遣することで浮いた雇役銭の徐剰を上供紬絹の調達費用に

借用した(『長編』

径二八七、元幽耳元年間正月辛巴〉。莞役

寛剰銭や坊場銭の運用の際、あくまでも「借用」となってお

り、提翠常卒司系統の銭物が鱒蓮司など他とは巌然と匡別さ

れていたのは事買であった。

しかし、寅際には縛運司など

がまかなうべき費用に強力性を輿える要素として機能してい

た。

(お)『長編』山存三九二、元堕元年九月戊寅。

(鎚)前掲三四頁において述べたように、曾計報告制度において

も、三司1

縛淫司系統と司由民寺提傘常卒司系統の財政系統

はパラレルの存在であった。

(お〉『長編』径二六八、照寧八年九月葵酉。

(お)『長編』巻二九五、元墜元年十二月戊午、『長編』各三

O

一、元盟二年十二月丁巴。

(幻〉『長編』各二八三、照寧十年七月了巳。詔、「河北・河

東-侠西五路常卒

・菟役・坊場剰銭、母得起設上京及態副別

路。惟留木路、以備逸賞。」

他路から提寧常卒司系統の銭物を北透軍事費の貯備として

運用する例はいくつかみられる。例えば、成都府路

・梓州路

の提翠常卒系統の徐剰銭物は、侠西路の逸要の州においてプ

ールされることになっていた(『長編』巻=二て元盟四年

正月己酉。詔、「遺司農寺圭簿李元輔往街中、経制見在司農

銭穀、鰍民連出関、至侠西縁遠要郡椿管。其己起愛物鳥、

並子

鳳開閉府・秦州等庭格管、令本路提祭司拘枚。内有合行遜徒第

醐持、即具措置事件及契勘耗折数目以問。」『長編』巻一一一一一一、

- 60ー

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元盟四年五月乙巴。詔、「成都府・梓州路自今常卒積剰弁坊

場・

司農寺合起後銭、裁自李元輔回目、毎年委提孝司易物申巾

赴侠西雨路提孝司重襲輔開、子透要州都捲曲目。」)。また、元盟

七年ハ一

O八四〉には北透において常卒・菟役・坊場銭の徐

剰が帥臣の所在と透要の州にプールされた(『長編』倉一一一五

O、元盟七年十二月辛巳。叉詔、

「常卒

・菟役・

場務銭穀剰

数、提寧常卒司立限、移於帥匡所在及透要州封格。」)。宮津

知之氏は、司農寺が掌る新法関係の見銭の多くが、沿迭での

軍糧購入に支出されたことを指摘されている(「北宋の財政

と貨幣経済」、『宋代中園の園家と経済』、創文位、一九九八

所枚、五九J六O頁)。

(お)『長編』巻三

O六、元墜三年七月己丑。

(鈎〉『長編』各三

O九、元豊三年閏九月戊申。詔中書、「以司

農寺(司農寺以の誤?〉京東西

・准

・新・江、準一踊建路常卒

弁坊場積剰銭相度、具可起田技数、委提奉司依元堕救召入免

使、計置物貨上京。其附五路慮、即鱒致五路要切州軍。」

〈川叫〉元盟庫については、梅原郁「宋代の内蔵と左戴」(『東方

皐報』四二、一九七一)参照。

(川叫〉常卒系統の銭物の元堕庫への起設額の定額化については、

『長編』巻三三

O、元塑五年十月壬申。元結以後も同様の施

策がとられた(『長編』巻三九三、元結元年十二月戊申〉。

(mM)

蘇戟

『東坂奏議』巻三、「論椿管坊場役銭割子」〈元蹴元

年六月)。『宋曾要』食貨六五ノ五二、元結元年六月十三日

に、裁可されたことが記される。

(川町)李観

『直講李先生文集』各一一一一一、

61

(MH

〉『皇朝交鑑』巻七九、江休復「温州頓丘勝重修豚治記」。

(MW

〉『宋曾要』方域四ノ一一、景徳元年正月。

ハ組問)余靖『武渓集』各六、「楚州園練推官腹壁記」。

(門出)玉柏『魯斎王文憲公文集』巻五、「保寧軍節推漉建造記」。

同様の内容は、韓彦古『南澗甲乙稿』巻二ハ、「鏡州安仁豚

豚丞臆記」などにみえる。史料中の乾徳年聞の詔は、『宋曾

要』方域囚ノ

一て

乾徳六年三月を参照。ここで「印紙の式

改むるより、後人復た奮制を見ず」とあるのは、時期は不明

である。ただし、陳縛良『止策先生文集』倉一一一九、「混州重

修南塘記」に、「照寧考課叉制橋道弗擬、世相蒙習以倫信用

得。」とあって、際窓T

年聞に定められた考課制度によって地

方官の考課針象から「橋道」が除外されたことを示してい

る。「印紙の式」の改訂によって、官舎の修繕もまた考-課の

封象から外されたことよりすれば、これもまた新法期の施策

である可能性は十分に考えられる。

(川崎)郵小南『宋代文官選任制度諸層面』〈河北教育出版社、一

九九三〉、七七頁。御前印紙については、『宋舎要』職官五

九ノ三、太卒輿園七年五月十七日僚など参照。

(州日)南苗日暦子や御前印紙といった「印紙」には、考-謀の封象と

してかなり事細かな項目が立てられていたと考えられる。例

としては幕職州鯨官の南曹磨子に記載される内容がみえる

『宋舎要』職官五九ノ二、太卒輿圏三年二月二日など参照。

(ω)皇一服五年(一

O五三)の義倉設立を求めた左司諌買鮪の上

奏の中で、義倉を建立するための費用を慮る反射論に封し、

州鯨での「郵俸騨合」の修繕費用でさえ民より徴校している

- 61ー

「南城鯨署記」。

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62

ことを指摘して、

義倉を造るためならかまわないと主張して

いる

(『長編』倉

一七五、皇結五年十二月。若謂置倉菓

・紋

材木、恐信用煩擾、則臣間以侠道使民、政措刀不怨。義倉之設本

第百姓、時間議誠至、約束誠謹、則下民錐愚、宜無所憎。況今

州問問修治郵傍騨合、皆数於民、血旦於義倉濁畏煩援。〉。州豚で

の土木事業は現買には民からの徴牧によるのが一般的であっ

たことをうかがわせるものである。

(日)

勿論、多くの修造に関する

「記」を後討していくと、

経費

調達に成功して、

民を苦しめることがなかっ

た例もしばしば

見られる。しかし、

そうした事貨を殊更に強調し、地方官の

治績として穎彰している「記」のお決まりの叙述を讃んでい

くと、

役を興す際に民に負捲を強いるのは、むしろ嘗時にお

いて

一般にみられることだ

ったと考えられる。

(臼)園融については、

後掲註(臼)、(印)。前掲註(2〉宮崎

「宥

吏の陪備を中心として」

参照。また、坊郭戸の科配

・勧分に

ついては、『長編』各二二四、県寧四年六月庚申、劉撃言お

よび蘇轍

『築城集』径三五、「制置三司僚例司論事吠」。

(臼)『長編』径二五

一、

照寧七年三月乙巳。詔、「役銭毎千別

納頭子五銭。其嘗於役人園融工費、修官含・作什器

・夫力登

載之類、並用此銭、不足即用情軽煩銅銭。腕園融者、以建制

論、不以去官赦原。」先是、凡公家之費、有敷子民間者、謂

之国融、

多寡之数、或出臨時、汚吏乗之以信用姦、其習弊所従

来久。至是始悉禁之鷲。

(UA)

『慶元篠法事類』巻四八、賦役門二、

科敷、賦役令。諸官

司不得非法園融

・科擾

・抑配。剛被受監司指揮者、綜申州、

州具事因奏。

(日〉

『長編』巻二六八、照寧八年九月美酉、司農寺言。自募役

法行、・・・不惟革除重難破産之害、且奮令園融

・科配

・陪費

之物、因此並官給、則坊場等銭自合

一筋府、以補所費。

(白山〉前掲註(臼)。

(幻)

『長編』巻二九三、元盤元年十月甲寅。

認、「諸州鯨修造、

係従来於公入国一融、錐無文案照援者、自今並保明、

支係省及

菟役頭子銭各

一字。」

〈関〉『長編』巻一一一一一四、元盤五年三月乙酉、劉誼言。

自改法

来、第園融篤和市、有司不信用陛下惜、乃軽信用債。

(印)『長編』巻三七六、元結元年四月、

駁中侍御史呂陶言。

(印〉

『(嘉腹)旋徳豚士山』単位九、

在費

「卒政橋記」(元盟六年

〈一

O八三〉)。

(山山)前掲註(お〉呂陶及び註(幻〉劉誼の上奏参照。

(臼)呂陶『浄徳集』巻

奏免役銭乞構二分準備支用朕」、

貼賞。

(臼)前掲註(泣)において、この十二年が照寧六年から元盟七年

までを指すことを示した。

(目別〉『園朝二百家名賢文粋』巻一一一九、張舜民「華原豚獄記」。

『園朝二百家名賢文粋』については、北京圏書館に宋刻本

(慶元三年書隠韓国刻本〉を所蔵する(『北京圏書館古籍善本

書目』

集部総集類参照〉。本稿では、『全宋文』第四一筋(巴

窃書位、一九九四J、七三八頁に接っ

た。

(伍〉蘇紙『東投集』巻一一一一一、「隊豚公堂記」参照。

(白山)洪葱『容驚四筆』巻一二、

「賞守口営繕」。

- 62-

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63

(mw)

蘇轍『築城集』巻一一一一一、「斉州油開源石橋記」。

(回)ただし、地方における土木事業のすべてを公費でまかなう

ように規定されていたわけではない。曲炭田水利や城郭の修築

に関しては、従来通り民に負捻を負わせることが認められて

いた(曲旋回水利については、

『宋曾要』食貨一ノ二八、照寧

元年十一月十三日、『長編』巻二八九、元塑元年四月壬氏。

城郭建設については、『宋合同要』方域八ノ四、照寧十年七月

十一日参照)。つまり、新法貧施以後、地方で行われる土木

事業の中で、必ず公費で負鎗せねばならなかったのは、官街

建物と橋道の建設

・修繕費用であったと考えられる。

(的)前掲註ハmむ。

ハ町山)

蘇紙『東披奏議』品位六、「乞賜度牒修解字紋」。

(九)『宋曾要』方城四ノ一六、宣和七年十二月五日。

(

η

)

前掲註(印)。洪遜は崎明けて、南宋における官舎修繕の現紋

を次のように述べている。

後之嘗官者小復留意、以輿AV植僅篤務、則暗於事鐙

・不好稿

人之善者、往往翻指震妄作名色・盗隠官銭、至於使之束手誇

避、忽傾親(親傾の誤)階、逮不可奈何而後己。殊不思貧墨

之吏、欲篤好者、無施不可、何必俵於晶画造一節乎。

山富時工事を興せば「妄作名色」とか「盗隠官銭」といった

理由で賀劾の憂き目に舎う恐れがあったので、地方官が何も

できなくなるという弊害が生じたことを指摘している(貧際

の頚劾例としては朱烹による唐仲友頚劾が翠げられる。朱寮

『朱文公文集』倉

一八、按唐仲友第三獄、「仲友増置浮橋破

費」の僚〉。陳侍良もまた地方における土木事業について同

援の指摘を行っている(陳縛良『止資先生文集』各三九、

「温州重修南塘記」。況州豚官数易、事瀬康、県寧考課叉削

橋道弗擬、世相蒙習以倫am得。閲有興作、則議者顧日、「是

希進、務以出名迩。」則叉日、「是一切属民鴛美観爾。」則叉

日、「彼終叉以篤利。」長吏雄欲自信、而不得鰐。)。

(

η

)

役人の人数・雇直の定額は、新たに定立すべきだという議

論もあったが、結局元豊年聞の額を踏襲した。故に徴牧額も

元堕の定額に従ったものと考えられる(『宋舎要』食貨六五

ノ六六、紹聖二年二月六日)。

(引内〉曾我部静雄『宋代財政史』(生活社、一九四一)、「王安

石の保甲法」(『宋代政経史の研究』吉川弘文館、一九七四

所牧)、周藤士ロ之「宋代郷村制の鍬再選過程」(『唐宋社曾経済

史研究』東京大祭出版倉、

一九六五所牧)。

(万)『宋史』径一七八、食貨志上六、紹聖二年。以去年所差郷

役未蓋善、途入議回、

「都副保正比4

首長事責己軽、叉有承帖

人受行文書、

聞大保長若無公事。元豊本制、一都之内、役者

十人、副正之外、八保各差一大長。今若常輪二大長分催十保

税租・常卒銭物、一税一替、則自不必更輪保丁充甲頭失。凡

都保所雇承帖人、必選家於本保者、而雇直皆従官給、一年一

替、則自無浮浪稽留符移之弊。承帖雇直固有奮数、其今所雇

保正之直視番長、保長之直観戸長。若態此三役不願替代者、

自従其願。壮丁元不敷雇直慮、聴如其奮。承帖雇銭許以奮寛

剰銭通融支募。如土俗有不願就保正・長雇役者、許募本土有

産税戸、使信用者長・妊丁以代之。持肝骨骨

・-P骨、

一世hL世一恥

骨仲骨身。卦旧

rp・長不眠昨日骨骨冊骨骨居者、伶骨一、一'Fb弄。」

- 63ー

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64

詔皆従之。

(苅)

こうした問題は、前掲註(九)曾我部静雄

『宋代財政史』一一

一七J二O頁、「莞役銭の行方」に詳しい。

(η)

『宋台回要』食貨六五ノ七六、紹興一冗年五月二十三日c

(苅)久富誇「南宋の財政と経線制銭」(『北大史間四千』

九、一九

六五)参照。

(乃)『資慶四明士山』巻六、絞賦、『成淳臨安志』血管五九、貢賦

参照。

(加〉前掲註(河)。

(別〉『宋史』各

一七八、食貨志上六、崇寧元年。向書省言、

「前令大保長催税而不給雇直、是盛岡差役、非菟役也。」詔提

傘司以一冗輪麗銭如沓法均給。永輿軍路州照宮、乞復行差役。

湖南

・江西提穆司以物賎乞減吏脅履直、能給役人雇銭。比白窪田

法意、府四改従其持由。詔戸部並遜奉紹聖常卒菟役救令格式及先

降紹霊祭貼役法、行之天下。

また、次に示す大槻年聞の杭州絵杭豚のケlスでは、州燃

で定められた郷役への雇銭が少なすぎるために募役に臨応ずる

者が無く、事質上差役となっていたことを示す。

場時『楊亀山先生全集』巻一二語録、徐杭所問。且如役法

番長許募、而不許差、胴差者徒二年。然法嘗募上戸、其係二

千銭、逐州豚定此。絵杭所定、宣有上戸肯利若干銭、而願役

於官乎。上戸不願、則其勢須至彊使信用之、是名募而寅差也、

其如法何。

(担)『宋史』各一七八、食貨士一心上六、紹聖三年。後叉詔、「諸

豚無得以催税比磨迫甲頭

・保長、無得以雑事迫保正副。在任

宮以承帖畳間名、占破嘗直者、

坐賊論。

所管催督租賦、州問問官

翻令陪術品附物者、以這制論。」

(回)『宋舎要』食貨六五/八一

、紹興五年正月十八日。

(加〉このときの措置について、

『文献遜考』の撰者馬端臨は按

語において次のように批剣して

いる。

按、役銭之在官者、以供他用、而纏役之直或給或否、中興

以前己如此失。但向未曾明立一設蜜取之耳。今乃謂保正副未

嘗肯請優銭、叉謂所請優銭、往往不行支給。夫嘗役者、出旦有

不肯請鍾銭之理。而不行支給則州照之遇。朝廷所嘗究察禁

治、使不失立法之初一意、可也。今乃以此之故、而拘入経制之

襲名、所謂合日欲之而必魚之辞也。

(『文献通考』巻二二、

職役考。)

馬端臨が、「そもそも役に嘗たる者が、雇銭をあえて請わ

ないなどという理屈が有ろうか。支給を行わないのは州豚の

過ちである。」と述べている鈷は、的を射ている。州豚が意

図的に雇銭の支給を行わなかったことが蛍時の現買であった

と考えられる。

(邸〉『{木曾要』刑法二ノ一四七、紹輿八年五月十六日、紹興十

五年六月二十一日。

(筋)『宋曾要』食貨六五/九て

紹興二十九年七月五日。

(釘)葉通『水心文集』袋二九、「政義役」。余嘗問震保正者、

日費必数百千、保長者、日必百徐千、不幸遇意外事、費綱策

倍、少不破家蕩産、民之患役、甚於窓響、余嘗疑之。:::余

欲以其言飛妄、然余行江・准

・関

・洞庭之南北、蓋無不信同此

言者笑。

・:

- 64ー

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65

(∞∞)代表例としては、『宋曾要』食貨六五ノ九五、乾道元年八

月五日、臣僚言および『宋曾要』食貨六六ノ

二八、慶元五年

二月二十一日、右謀議大夫策侍講張套言など。

(的)二章四八頁。

(川刊)紹興末年の詔には、州豚での土木事業について、和買を名

目としながらも民に代債を支携わず、事賃上ただ取りになる

という弊害を指摘したものがある(『宋曾要』方域四ノ一九、

紹興二十六年正月二十四日。〉

(川出)岩井茂樹氏は、「附加税や追加的課徴を財源とする正額外

財政の援大」について、園家権力行使者の道徳的退慶といっ

た表層の事象のみで読明できるものではなく、地方存留の窮

乏がもたらす「財政システム」の「構造上の問題の必然的締

結」であると指摘されている(前掲註(3〉「中園専制園家と

財政」参照)。

(位〉義役については、周藤吉之

「南宋における義役の設立とそ

の運営l特に義役目について

l」(『宋代史研究』、東洋文

庫、一九六九所牧)、王徳毅「南宋義役考」(『園書館皐報

(私立東海大拳園書館)』九、一九六九〉、梁庚亮『南宋的農

村経済』(聯経出版事業公司、一九八四)二七一

J八頁、伊

藤正彦「。義役。南宋期における社合同的結合の一形態l」

〈『史林』七五|五、一九九二)などを参照。

(部)さし山富たっては、竺沙雅章氏による一踊建の併教と社舎に関

する研究が参考になる。氏は、宋代の一隅建で土木

・福祉事業

に併数数図が貢献したことを指摘されている。♀一沙雅章

コ繭建の寺院と祉曾」、

『中園俳敬社舎史研究』同朋合出版、

一九八二、前編四章所枚、二ハ九頁1一八

O頁。)傍数数圏

のみならず、地方の有力者に地方行政経費を公卒に負捲させ

ようとする試みは、南宋においては庚くみられる。

(山田)南宋における地方経費解決の試みについては、蛍時の文集

や地方士ゆなどに比較的聾富に残されており、蛍時の園家財政

の問題とあわせ、別稿において再び論ずるつもりである。

(MN

〉元代財政が宋代の制度を承けて高度に中央集権化されたも

のであったことを指摘したのは、李治安「元代中央奥地方財

政関係述略」(『南関皐報哲祉版』

一九九四|一一)、

『唐宋

元明清中央輿地方関係研究』(南関大事出版社、一九九六)

第四章、

一八九頁J二O九頁。ただし、元代財政に闘する飽

系的な研究はなく、まだまだ検討の徐地はありそうである。

また明清以後については、前掲註(3〉岩井茂樹氏の一連の研

究を参照。

(何〉大津透「唐律令図家の強算について|儀鳳三年度支奏抄

四年金部旨符試穆|」(『史皐雑誌』九五二一、一九八六)。

(釘)大津透「唐日律令地方財政管見|館騨・騨俸制を手がかり

にl」(笹山晴生先生還暦記念禽編『日本律令制論集

上巻』

吉川弘文館、一九九三〉。差科が戸等制によっていたとの指

摘は、同「唐律令制下のカ役制度!日唐賦役令管見l」(『東

洋文化』六八、一九八八〉参照。人丁単位で科せられる正役

を園家的枚取とするならば、この差科は地方的枚取といえ、

地方行政の維持にきわめて重要な役割を果たしていたと考え

られる。

(mm〉滋賀秀三氏による奥村郁三「唐代公癖の法と制度」の書評

- 65ー

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(『法制史研究』一五、一九六四〉。

(ω)『唐舎要』巻五九、度支使、建中元年五月十七日。度支

奏、「:::今後望指揮諸州、若不承度支文牒、相有借使及撞

租貨廻換、本州府録事参軍・本豚令専知官、並請同入己柾法

賊科罪。:::」

救旨、依奏。

『文苑英牽』巻四二八、大和三年十

一月八日赦文。

天下川

府爾税占留銭、毎年支用、各有定額。

(川)『文苑英華』巻四二三、曾昌二年四月二十三日上品持続赦

文。州府雨税物斜斗、毎年各有定額、徴科之日、皆申省司。

除上供之外、留後(使の誤)・留州、任於額内方園(園の誤)

給用。縦有徐茨、亦許州使留備水皐。

(川)渡透信一郎「唐代後半期の地方財政|州財政と京兆府財政

を中心に」(中国史研究曾編『中園専制闘家と枇曾統合』

文理閣、一九九

OV渡透氏は、『唐舎要』各五九、比部員

外郎にみえる大和四年(八三

O)の記事をもとに、雨税牧入

などの羨徐を財源とする「公用銭」の支出項目として、次の

ように整理された。

①官腐の建物

・調度品の建設

・修繕、②

使者や官僚交代にかかわる接待費、③地方的響察業務、④租

税未納分補填、

⑤災害用貯備。このうち①J③が、地方行政

を遂行する上でかかる経費である。

〔附記〕本稿は文部省科拳研究費補助金(特別研究員奨働金)

による研究成果の一部である。

- 66ー

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LOCAL SERVICE AND EXPENSES OF LOCAL

ADMINISTRATION UNDER THE SONG DYNASTY

          

FURUMATSU Takashi

  

As recent studiesindicated, the financialadministration under the Song

dynasty was highly centralized. All the regular tax revenues, whether sent

to the capitalor retained for localeχpenditures,was managed by the State

Finance Commission三司. The part forlocal expenditures was almost all

spent on salaries for the bureaucracy and army. Therefore, it hardly

covered the expenses of local administration which was provided by

obligatory local service差役.

  

Wang An-shi 王安石carried out a drasticreform of local service called

the Hired Service Policy 募役法, which was a part of his New Policies.

As a result,the service obligation was commuted to payments in cash

known as the Service Exemption Tax 免役銭, and the hired local subo伍-

cial posts were created. The eχecution of the Hired Service Policy

clarifiedthe levy concerned with the local service,and put it under the

control of central government through fiχedamount taxation based on

budget and regular financialreports. This implied that the "financialsystem

consisting of the Court of Agricultural Supervision 司農寺and the Ever-

Normal Granary Intendancies 提皐常子司which was in charge of the

financialaffairsconcerned with the New Policies worked together with the

established

 

system of the State Finance Commission and the Fiscal

Intendancies縛運司, and hence formed a new system of statefinance. This

fact can be discovered by eχamining the local administrati〇nexpenses・

For instance, the source of local public construction expense changed under

the New Policies. Before the policies,the local governments could levy

irregular taxes and press men into service if need be. After the policies

were implemented, the local governments were obliged to pay the eχ・

pense by themselves.  However, they were not free to spend the local

administration expenses under the control of central government through

the circuitintendancies 監司. The Hired Service Policy could not improve

由elack of local admi出stration expenses since the early Northern Song。

                  

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Because of the shortage of localeχpenses,the men in village service 郷役

were subject to heavy burdens of local eχpensesin the Southern Song。

  

The local administration expenses closely connected with the local

service were always provided and used on the basis of local autonomy.

From this point of view, there is some resemblance between the system of

financialadministration under the Song dynasty and that under the Tang

dynasty.

STATUS CONSCIOUSNESS AMONG THE

  

ARISTOCRACY IN LIANG CHINA

NODA Toshiaki.

  

It has been generally accepted that the bureaucratic reform implemented

by Xiao Yan 蕭行,the Emperor Wu-di of Liang China 梁武帚was

consistent with his philosophy of the “wise and talented” 賢才主義. This

paper

 

attempts

 

to

 

explore

 

the

 

status

 

consciousness of the upper-class

aristocracy at that time by studying their response to the emperor's policy.

Besides, the author examines the eχtent to which the “wise and talented”

philosophy that developed in the latter half of the Northern and Southern

dynasties南北朝actually penetrated the government and society in the

latter half of the Southern dynasties. The conclusion can be briefly

summarized as follows:

  

1. The“wise and talented”personnel policy of the emperor was

  

primarily designed to stress the appointment of the talented upper-class

  

aristocracy to administrative positions formerly filledby the lower-class

  

aristocracy. Its implementation was not merely the will of the emperor.

  

Indeed, the great aristocracy was also interested in these positions.

  

2. The “wise and talented” philosophy was not peculiar to the emperor,

   

but was widely shared by the upper-class aristocracy.

  

3. The facts above indicate that there was a change in status

   

consciousness among the upper-class aristocracy in the latter half of the

   

Southern dynasties.

   

In short, when the “wise and talented” philosophy took shape in the

                    

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