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『新免宮本武蔵720/2019 』セミナーでの【史実の宮本武蔵テキスト】 Lectured by 末次
賢治このテキスト内容は、全て史実に基づくものです。歴史的な第1 級資料に裏付けされたものです。
必 要 が あ り ま し た ら 、 そ の 出 典 を 全 て 公 開 し ま す 。
ご 希 望 の 方 は 小 職 に お 知 ら せ 下 さ い ま せ !
序 > 【 剣 道 殿 堂 入 り 】
17 年 前 の 2002 年 、 「 全 日 本 剣 道 連 盟 」 設 立 50 周 年 記 念
事 業 と し て 、 剣 道 の 普 及 と 発 展 に 貢 献 し た 剣 士 ( 物
故 者 の 優 秀 な 剣 士 ら ) を 顕 彰 す る た め に 、 【 剣 道 殿
堂 】 が 設 立 さ れ ま し た 。 翌 2003 年 に 、 【 特 別 顕 彰 】 と
し て 、
「 宮 本 武 蔵 (1584?⇒1645) 」 と 「 柳 生 宗 矩 (1571→1646) 」 が 、
歴 代 の 剣 士 の 中 で は 、 「 別 格 扱 い 」 と し て 、
特 別 顕 彰 と し て 殿 堂 入 り し ま し た 。 「 近 世 の 二 大 兵
法 思 想 書 」 と 定 義 さ れ る 『 兵 法 家 伝 書 』 、 『 五 輪
書 』 を
各 々 著 し 、 今 日 に 続 く 剣 道 文 化 の 礎 を 築 い た の で
す 。 同 時 代 の 2 人 で す が 、 こ の 当 時 ( 江 戸 初 期 ) に
書 物 で 自 分 の 剣 法 や 兵 法 の 事 を 書 物 に 記 し て 後 世 に
残 す 事 は 極 め て 画 期 的 な 事 で し た ! Do you know why?
Q1/ 想 起 「 宮 本 武 蔵 」 と 聞 い て 、 皆 さ ま は ど ん な イ
メ ー ジ が あ り ま す か ? ま ず は
皆 さ ま に 浮 か ぶ イ メ ー ジ を 自 由 に 述 べ て も ら い ま
す ! 何 で も 良 い で す よ 。
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記入欄:例)・約束の場所に遅参する、・「小次郎負けたり!」と戦う前にハッタリをかます!・お通さんが好きだが、剣の修行の為にお通さん遠ざけている、戦い方が卑怯、
・姫路城に幽閉されていた!等々★ これらは、全て、吉川英治先生の小説による創作の逸話です。あまりに素晴らしい小説のため、小説内容が 史実と思われてしまっていますが、小説は所詮小説で、創作であり、史実ではありません。
武蔵の生涯の重要理解点 / 下記は史実です。全ての事に根拠になる「第 1 級資料」があります
・ 武 蔵 は 養 子 で し た 。 養 父 が 新 免 ( 宮 本 ) 無 二
( 作 州 地 方 )➡ で は 、 武 蔵 の ミ ッ シ ョ ン は 何 ?
・ 武 蔵 の 息 子 さ ん ら も 養 子 養 子 4 人 判 明 し て
い ま す : そ れ ぞ れ の ミ ッ シ ョ ン は 何 ?
・ 宮 本 伊 織 は 、 泥 鰌 取 り 小 僧 で な く て 、 実 兄 の
子 供 さ ん ( 叔 父 ― 甥 の 関 係 )
・ 武 蔵 は 少 な く と も 4 大 名 の 客 分 と し て 招 か れ
て い ま す 。 決 し て 「 孤 高 の 人 生 」 で は な く 仕
官 も 特 に し て い ま せ ん 。 「 養 子 の 為 に 動 い た
点 」 は 認 め ら れ ま す 各 々 の 大 名 家 と 交 流 が
あ り ま し た 。
・ 武 蔵 の 生 涯 は 、 【 30 歳 迄 】 と 【 30 歳 後 】 で 大
き く 異 な り ま す 巌 流 島 の 決 闘 が 境 界 線 で す➡
・ 武 蔵 は 招 聘 さ れ た 肥 後 細 川 藩 で 晩 年 5 年 間 を
過 ご し ま し た 。 あ く ま で も 客 分 で す 。 細 川 家 に
仕 官 は し て お り ま せ ん 。 他 の 大 名 家 に 於 い て
も そ う で す : 「 ど う し て で し ょ う ? 」
養子・伊織が小倉藩筆頭家老ですから、当時のご法度により武蔵は他家には仕官は➡ ➡出来ません
Q2/ 多 才 さ 【 Leonardo da Vinci 】 / 【 Benjamin Franklin 】 / 【 平
賀 源 内 】 / 【 ビ ー ト ( 北 野 ) た け し 】 等 々
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上 記 の 方 々 は 、 多 方 面 で 活 躍 を し た 人 物 で あ り 、 た
け し さ ん は 今 で も 活 躍 な さ っ て い ま す ね
英 語 で は 、 多 方 面 に 能 力 や 実 績 が あ る と い う 場 合 【
versatile / versatility 】 と 云 い ま す が 、
武 蔵 師 も ま さ に 【 a historical figure of versatility and practice 】 で し
た 。 史 実 か ら 明 確 に 定 義 で き ま す 。
-兵法:「当理流」⇒「円明流」⇒「兵法二刀一流」⇒「兵法二天一流」
* 他に 、「武蔵流棒術」・「武蔵流体術」 も 創始し て
お り ま す
新免武蔵( 宮本武蔵) -武具の 製作:透か し 眼鍔他 ※島田美術館に 常設展示さ れ
て い ま す
-城下町の 区画整理事業・明石に て (小笠原家の 要請で )
-作庭(明石市に 現在4つ の お 庭が 現存し て い ま す )
-水墨画(複数の 作品が 残っ て い ま す ね 。鵜図・古木鳴鵙図・芦
雁図屏風・達磨図・布袋図
-書:複数あ り ま す (「戦気」・「南無天満大自在天神」他)
-軍監 (戦争時の戦略立案・軍の監督)他
-執筆: 『兵道鏡』( 円明流) ・『五法ノ太刀之道・序』『兵法三十五箇条』・『五輪書』
『独行道』他この様に武蔵師は多数の方面で作品や実績を残しております。別添のパワーポイント資料をご参考下さい
そ れ は 全 て 、 _ 剣 法 や 兵 法 の 鍛 錬 の た め に していると思い
ます。(↑五輪書・地の巻末尾
参考)
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Q3/ 「 兵 法 」 と は ? 五 輪 書 で の 定 義 : 「 武 士 の 法 を
残 ら ず 兵 法 と い う 」 五 輪 書 ・ 地 の 巻 ・ 序 文 後 の 章 参
照
武蔵に と っ て 、兵法と は 、・狭義に は 【剣道を 含む 格闘術全般】で あ り 、
更に は
・広義に は 【武士の 法の 全て 】
武士の 法に は 、武芸十八般 <弓・馬・槍・剣・水泳・抜刀・短刀・十手( じ っ て ) ・
銑鋧( し ゅ り け ん ) ・含針・
薙刀・砲・捕手・柔・棒・鎖鎌( く さ り が ま ) ・錑( も じ り ) ・隠( し の
び ) >。更に は 、書道や 礼法等々が 含ま れ ま す 。
Q4/ 武 蔵 の 遺 言 次 の 2 つ が あ り ま す :
① 『 天 を 仰 げ ば 、 実 相 円 満 。 兵 法 逝 去 し て 絶 え ず 』
← 手 向 山 の 小 倉 碑 文 の 冒 頭 の 漢 文 の 通 り
② 『 死 後 も 参 勤 交 代 の 折 等 の 「 藩 主 」 を 見 守 り た い
か ら 、 大 津 街 道 沿 い に 骨 を 埋 め よ 』 武 蔵 塚 の 設 置➡
Q5/ 武 蔵 の 「 道 歌 」 を 紹 介 ・「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なり、一足進め、先は極楽」 ・「乾坤をそのまま庭に観る時は、我は天地の外にこそ住め」・「春風桃李花開ク日、秋露梧桐葉落ル時、此レ兵法之初ニテ終リ也」(これは白楽天の長恨歌から)・「人に習ひ我と悟りて手を打つも、みな教内の教えなりけり」・「座禅して工夫もなさず床のうへにたゞいたづらに夜を明すかな」
Ⅰ. 多 彩 な 武 蔵 を 知 り ま し ょ う !
そ の ① 武 蔵 の 自 画 像 で す ↓ ( 島 田 美 術 館 所 蔵 )
< 是 は 【 兵 法 二 天 一 流 】 の 構 え で す ・ 『 五 輪 書 ・ 水
の 巻 ・ 「 兵 法 の 身 な り の 事 」 参 照 』
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【兵法、身なりの事】
身のかゝり、顔はうつむかず、あをのかず、かたむかず、ひずまず、 目をミださず、額にしわをよせず、 眉あひにしわをよせて、 目の玉のうごかざる様にして、 またゝきをせぬやうに思ひて、 目を少しすくめる様にして、うらやかにみゆる顔。
鼻筋直にして、少おとがひに* 出す心也。 首は、後ろのすぢを直に、うなじに力をいれて、 肩より惣身はひとしく覚え、 両の肩をさげ、背筋をろくに、尻を出さず、 膝より足先まで力を入て、 腰のかゞまざるやうに、腹をはり、 くさびをしむると云て、脇ざしのさやに 腹をもたせて、帯のくつろがざる様に、 くさびをしむる、と云おしへ有。惣而、兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、 兵法の身を常の身とする事、肝要也。能々吟味すべし
上向かないように、俯かないように。傾かないように、視点を乱さないように。おだやかな表情で、背筋をのばす。
ポイントは、「普段から本番のように、本番は普段のように」
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その② 書1 【南無天満大自在天神】武蔵名古屋滞在時代 1630 年頃
・下記は 、武蔵自筆の 書で す 。愛知県名古屋市南区・「東光院」所蔵
縦書き で 、『南無・天満大自在天神』と 認(し た た め )て あ り ま す 。
※注目す べ き は 、【南無天満】は 右手で 、 【大自在天神】は 左手で 書い て お
り ま す 。
東光院は 【笠寺観音】の す ぐ そ ば に あ り ま し て 、笠寺観音の 宿坊で も
あ り ま し た 。
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・左図は 、武蔵自筆の 書で す 。
・愛知県名古屋市南区・「東光院」所蔵
・縦書き で 、『南無・天満大自在天神』と
認( し た た ) め て あ り ま
す 。
※注目点は 、【南無天満】は 右手で 、
【大自在天神】は 左手で 書い
た も の 。
・東光院は 【笠寺観音】の す ぐ そ ば
に あ り ま し て 、
笠寺観音の 宿坊で も あ り ま し
た 。
武蔵が 諸国行脚に 出か け た 1630 (寛
永7 )年頃の こ と と 推測さ れ 、東光
院に は 他に も 武蔵の 『自画像条幅』、
武蔵が 二刀流の 左手用に 削っ た と
さ れ る 『自作木刀』が 宝物と し て
残さ れ て い ま す 。
・宮本武蔵に は 観音信仰が あ り 、笠寺
観音に 参詣し 、そ の 宿坊に 逗留し
て お り ま し た 。
・宮本武蔵が 【二天一流】創始以前に 開い
た 武術流派に 【円明流(二刀流)】が あ
り ま す が 、尾張藩に は そ の 流派
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が 現代も な お 代々伝わ っ て い
ま す 。
尾張を 去っ た 武蔵は 、尾張藩士・寺尾直
正に 請わ れ て 、
【竹村与右衛門(養子そ の ④)】を 代役
に 尾張に 派遣し 、竹村は 円明流を 尾張
国に 広め た の で す 。
林資源・林資竜親子や 彦坂八兵衛と い っ
た 弟子に 免状を 与え て い ま す 。
ま た 笠寺観音(笠覆寺)に は 、宮本武蔵
の 百年忌に あ た る 1744 (延享元)年
に 左右田邦正が 建立し た 顕彰碑(碑の
正面に は 「新免武蔵守玄信之碑」と い
う 文字が 刻ま れ て い ま す )が
あ る の で 、あ な が ち 伝承と
は 言い 切れ ま せ ん 。な お 左右田
邦正は 、彦坂八兵衛の 孫弟子に 当た り
ま す 。地元の 伝承で は 、桜台高校東
の 八幡社(桜田八幡社)の 下あ た り
に 武蔵は 道場を 構え た と 伝わ り
ま す
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③水墨画 古木鳴鵙図・重要文化財 晩年熊本時代
・古木鳴鵙図 ( こ ぼ く め い げ き
ず )
・真筆は 、和泉市の 【久保惣記念美術館* 】
に 所蔵
例年4 月~5 月に 展示さ れ て い ま
す 。
*594-1156 大阪府和泉市内田町三丁目6 番
12 号
TEL 0725-54-0001
・著名な 武蔵の 水墨画の 1つ で す
ね
こ れ は 渡辺崋山が 江戸で 古物商で 発
見し 、真筆と 判定し
真筆の こ の 絵図を 所有し ま し
た 。
「文政庚辰(1820 年)嘉平月(12 月)四日渡
邉登審鑑謹書」の 箱書が あ り ま す
・「上方に ま っ す ぐ に 延び た 一
本の 枯枝の 先に モ ズ が と ま っ
て い る 様子を 描い た も の 。木
の 枝の 中腹に 、芋虫が
上に 懸命に 上っ て い ま す 。
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重要文化財。大阪、和泉市久保惣記念美術館。
④屏風画:<芦雁図屏風・右隻> 重要文化財:熊本時代
・左右からなる六曲屏風の【芦雁図】は国宝に指定。・これは「左隻部」
・武蔵が君命* により描きましたものです:この君命ですが、誰の命令か分かりますか?
Ordered by 細川忠利 公
芦雁図屏風・左隻
これは右隻部です*いずれも永青文庫所蔵
実物は大変に大きいです
⑤ 書2:戦気・寒流帯月澄如鏡:熊本時代 これは著名な武蔵の自書です
「戦気 寒流月を帯びて澄める事、鏡の如し」と書かれています: 財団法人松井文庫所蔵
宮本武蔵筆 署名「道楽」 江戸時代初期(17世紀)
・「戦気」の二文字については今のところ出典がわかりませんが、武蔵の造語の可能性も考えられます。
【寒流月を帯びて澄める事、鏡の如し】とは?
月明かりを映して鏡のように冴えわたった水面とは、決戦の場に臨んだ兵法者が心がけるべき平常心、不動心の象徴でしょう。
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⑥ 武具:透かし海鼠鍔:熊本時代
武蔵鍔<透か し 海鼠鍔>です:
武蔵作の「海鼠鍔」は、その後の時代、幕末、明治に至るまで、様々な鍔工、金工師が模作していますが、どうしても、洗練味と緊張観において到底及ばないものです。
これは武蔵が天性の資質に加えて、肥後藩お抱えの鍔工名人たちとの、深い交流があったことを示します。
⑦ 武蔵彫刻作品・【不動明王像】熊本時代
以前は、雲巌寺にありましたが、現在は、個人所蔵(八代の松井家所蔵)です。凄く気迫や迫力があります。よくある不動明王像とは趣きが違いますね
※ 参 考 : 1) 【 武 蔵 師 の 芸 術 作 品 の 所 蔵 先 】 : 観 光 ガ
イ ド 情 報 と し て
・ 東 寺 ( 京 都 市 ) ・ 【 観 智 院 】 客 殿 ( 国 宝 指 定 ) の
上 段 の 間 に 「 鷲 の 図 」 と 「 竹 林 之 図 」 ( い ず れ も 襖
絵 ) が あ り 、 武 蔵 作 と 伝 え ら れ て い ま す 。
https://toji.or.jp/musashi/
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※ 当 山 の 言 伝 え で ➡ 「 寺 伝 で は 吉 岡 道 場 を 破 っ た
宮 本 武 蔵 が 、
恨 み を 避 け る た め 観 智 院 に 3 年 か く
ま っ て も ら っ た 折 に 描 い た 」 と さ れ る 。
2) 京都・八大神社(詩仙堂の隣)
「この古木は、慶長九年、宮本武蔵が、吉岡一門と決闘せし松の木の一部である。」小職・大学5 回生時の英訳分↑↑➡This ancient piece of wood was a section of a pine tree called Sagarimatsu here in Ichijoji in 1604, when the splendid swordsman, Miyamoto Musashi fought around it and won the day against the Yoshioka Family, famous for skilled fencers.
< 水 墨 画 >
・ 「 鵜 図 」 「 正 面 達 磨 図 」 「 面 壁 達 磨 図 」 「 捫 腹 布
袋 図 」 「 芦 雁 図 」 ( ➡ 永 青 文 庫 蔵 )
・ 「 芦 葉 達 磨 図 」 「 野 馬 図 」 ( 以 上 松 井 文 庫 蔵 )
「 枯 木 鳴 鵙 図 」 ➡ 和 泉 市 久 保 惣 記 念 美 術 館 蔵 )
・ 「 周 茂 叔 図 」 「 遊 鴨 図 」 「 布 袋 図 」 ➡ 岡 山 県 立 美
術 館 蔵 )
・ 「 布 袋 観 闘 鶏 図 」 ➡ 福 岡 市 美 術 館 蔵
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< 書 ・ 書 状 >
・ 「 長 岡 興 長 宛 書 状 」 ➡ 八 代 市 立 博 物 館 蔵 ) ・
「 有 馬 直 純 宛 書 状 」 ➡ 吉 川 英 治 記 念 館 蔵 )
・ 「 独 行 道 」 (➡ 熊 本 県 立 美 術 館 蔵 )
・ 「 戦 気 」 ( 松 井 文 庫 蔵 ) ・ 「 南 無 天 満 大 自
在 天 神 」 他 ➡ 名 古 屋 市 南 区 の 東 光 院 蔵
※ 伝 来 が 確 か な 武 蔵 作 の 工 芸 品 と し て は
・ 黒 漆 塗 の 「 鞍 」 、
・ 舟 島 で の 戦 い に 用 い た 木 刀 を 模 し た と さ れ る 「 木
刀 」 一 振 。
二 天 一 流 稽 古 用 の 大 小 一 組 の 「 木 刀 」 ⇒ い ず れ も 松
井 家 所 蔵
・ 武 蔵 作 【 海 鼠 透 鐔 】 ➡ 島 田 美 術 館 他
同 じ く 寺 尾 家 に 伝 来 し て い た 素 銅 製 の 「 海 鼠 透
鐔 」 ( 個 人 蔵 ) ➡ 熊 本 県 文 化 財 に 指 定
Ⅱ. 宮 本 武 蔵 の 人 生 に 関 係 す る 大 名 家 を 確 認 し ま し ょ
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う ! 武 蔵 の 生 涯 を 考 え る 際 に 重 要 な 事 実 で す
大名家 重要事項
黒田家 領地> 播州地域⇒⇒豊前豊後(小倉・中津)⇒⇒筑前(福岡市)福岡黒田藩
黒田孝高 ( 如水/ 官兵衛1546 ~1604) ⇒ 嫡子/ 黒田長政1568 ~1623 (福岡藩
主)⇒嫡子・光之公
*長政は 、朝鮮の 役に も 従軍
※ 小原信利 ( 理応院祖父) が 黒田孝高の 配下・香春岳城の 戦い で 戦死
※ 小原信忠( 理応院の 父) が 、長政公に 従い 朝鮮役で 戦死
※ 新免( 宮本) 無二之助、新免家を 辞し 、黒田家に 仕え る ・
無二之助は 黒田藩士ら や 後任の 細川藩士に 「当理流」を 指南
木下家 木下家定 ( ね ね の 兄) ⇒嫡子/ 木下延俊 1577 ~1642(豊後日出藩主)
※慶長年間、武蔵の 養父・無二が 、日出藩の 延俊公に 剣道指導
水野家 徳川譜代: 領地>水野勝成公⇒三河刈谷藩主⇒福山藩主
・水野家家老:中山志摩之助(水野家武者奉行)の 三男に 造酒之助あ り 。
※ 武蔵は 32 歳頃、大坂夏の 陣(1615年) で 、徳川方の 刈谷藩主水野勝成軍の
中山志麻之助陣に 客将と し て 参戦。
※ こ の 造酒之助が 武蔵の 最初の 養子と な る =A 。・ど の よ う
な 経緯で 水野家と 武蔵が ご 縁が 出来た の か は 不明で す
本多家
本多家
と
小笠原
家
徳川譜代:本多忠刻 ( 姫路新田初代藩主 1596~1626) ※急逝
・忠刻の 奥さ ん が 千姫:千姫は 「徳川秀忠」と 「お 江の 方」の 娘
な お 、千姫の 先夫は 豊臣秀頼 / お 江の 方の お 母さ ん は 、
「お 市の 方( 信長の 妹)
・忠刻公は 剣術が 好き で 、宮本武蔵を 客分と し て 招聘 / 武蔵34 歳
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は 姫
路と
明 石
で 隣
同 士
で 親
戚同 士
で
す :
両家共
に 西
国探題
の 要
職
に !
※ 武蔵は 招聘に 応じ て 姫路に し ば ら く 滞在:事前に 東軍流・三宅軍
兵衛と 試合
そ の 間、最初の 養子造酒之助= A を 本多家に 出仕さ せ る も 、忠刻
公急逝で 造酒之助は 殉死
※徳川氏の 権力を 最終的に 確立さ せ た 大坂夏の 陣に お い て 、忠真
の 父・小笠原秀政)と そ の 嫡子忠脩が 戦死し た 。小笠原秀政は 、家康
の 孫娘「福姫」を 妻に し 、そ の 嫡子忠脩は 将軍秀忠か ら 諱「忠」の
字を 戴い た (以後小笠原惣領は 「忠」の 字を 受け 継ぐ )。ま た 忠脩
の 妻「亀姫」は 、本多忠政の 娘で 、そ の 母国姫は 福姫の 妹で あ る
(要す る に 従妹が 妻)。こ の 父子の 戦死に よ っ て 、
忠脩の 弟・忠真(20 歳) が 江戸幕府か ら の 命で 小笠原家を 継い だ :
小笠原
家
徳川譜代:信州松本⇒兵庫明石⇒豊前小倉(小倉入り は 寛永9 年/1632年)
・小笠原忠真(1596~1667) ※ 糠漬け を 小倉に 広め た 殿様
・上野焼を 支援 ・黄檗宗の 開祖隠元隆琦の 高弟即非如一を 招き 、広寿山福聚
寺を 建立し た 。
・忠真公の 妹さ ん ・千代姫が 細川忠利の 奥さ ん / 細川忠利と は
義兄弟 ( 重要)
・息女の 市松姫が 、福岡黒田藩2 代藩主の 黒田光行に 嫁ぐ
・武蔵が 最も 長く 仕え た 大名(8 年間)
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・明石時代に 、武蔵は 第2 養子の 伊織(実兄の 子)を 小笠原家に 就職さ
せ 、自身は 後見人に 。
小倉小笠原家の 筆頭大家老は 宮本伊織、そ の 後宮本家が 家老職を 代々務
め る 。
明石時代、小笠原家に 残る 故事に 、「忠真公が 武蔵に 桑の 木で 「湯た
ん ぽ 」を 作ら せ 、家光に 献上し た 」
細川家:
< 重要>
小 笠 原 家
は
細川家と
も 親 戚
で す :
こ の 関
係で
武蔵の 熊
本 入 り
が 決ま
り ま
し た 。
外様大名:当初は 豊臣側大名で あ っ た が 、関ケ 原で は 徳川方に 変
わ る (家康か ら 招聘を 受け ):
領地・藩主>豊前中津( 忠興公・慶長5 年/1600年)➡ 豊前小倉( 忠興公・時代慶長6 ~
7 年/1602年)➡
➡肥後熊本( 嫡子三男/ 忠利公・寛永9 年) 忠利逝去後、光尚公➡ ( 急逝)➡ 綱利
・忠興公は 元々豊臣側で し た が 、家康の 招き で 関ケ 原で は 徳川側
で 参戦
・忠興公の 奥さ ん は 、細川ガ ラ シ ャ 。
・細川幽斎 忠興➡ ➡ ( 三斎・1563 ~1646)➡➡ 肥後藩①忠利(1586~1641)➡② 光
尚(1619→1650)➡
➡➡③ 長男/ 綱利(1643~1714)
・細川忠利の 奥さ ん は 、小笠原忠真の 妹さ ん ※光尚公は 31 歳で
急逝 長男・綱利➡ 6 歳の 時
※細川家の特 記 事 項➡
① 細川忠興公: ・足利将軍家、織田氏、豊臣氏、徳川氏と多くの主君に仕えながら細川氏を生き延びさせた政治手腕の反面、身内の者にも容赦を加えない苛烈な側面もあり、関ヶ原の合戦中、父の幽斎が居城を敵に明け渡した事で一時親子間で不和になっている。また、弟の興元とも不仲であった。
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② 武蔵の熊本入りの大きな理由
③伊織の活躍
<参考>④綱利公と相撲と赤穂浪士
・丹後攻略戦では、同じ足利一門である一色氏を騙し討ちにした末、敗残兵を皆殺しにするなど残忍な手法も取った。一色義定に嫁いでいた忠興の妹の伊也はそのことを恨み、戦後に兄に斬りかかったという逸話が存在する。・忠興公はとても短気な気性であったようです。肥後藩を忠利公に譲った後も、自らは八代に住み、八代藩の藩主でした。ですが、短気が故に、息子忠利とは親子不和になるような危険性、更には、細川藩分裂の危険性もありました。
② 肥後もっこすや一揆などの騒動に対する牽制として: 寛永9 年/ 1632 年豊前国小倉藩よ り 、細川忠利が 54 万石で 入熊し 、以後
廃藩置県ま で 細川家が 藩主と し て 存続し た 。熊本に は 元来、荒い
気質が あ り 、民衆ら の 一揆が 多く 難治の 国と 言わ れ て い た
熊本入部に 際し て は 、人気の あ っ た 加藤清正の 統治を 尊重し 、清
正公位牌を 行列の 先頭に 掲げ て 入国し 、加藤家家臣や 肥後国人を 多く
召抱え た と い う 。そ し て 、更に そ の 上、荒々し い 民衆を 、
更に は 、忠興公を 抑え る 目的で 招聘さ れ た の が 宮本武蔵で
す 。武蔵は 、小倉細川藩に と っ て 障害で あ っ た 豊前岩石城の 豪族
佐々木一族の 佐々木岩流を 破っ た 実績が あ り 、そ の こ と は 細川
藩で は 有名な 事件で す か ら 、「武蔵の 剣」を 安定へ の 「重し 」
と し て 、熊本に 招き ま し た 。こ れ に は 小笠原忠真公が 義弟・
細川忠利公へ の 心配り も あ り ま し た 。
③ 伊織の藩政代行 慶安2 年/1649 年に肥後細川藩の2 代藩主光尚が31 歳で亡くなり、光尚嫡子の綱利は未だ6 歳のため、当然、藩政等を出来ない事から、肥後細川藩のお取り潰しの話が持ち上がりました。結局、慶安3 年(1650 年)に綱利への相続が認められたが、領地の支配は幕府目付と親戚の小笠原忠真(豊前小倉藩主)の監督を受けました。その際、実際の業務に当たったのが小倉藩の筆頭家老宮本伊織です。綱利が成人になるまで、宮本伊織が肥後藩も看ておりました。父武蔵にゆかりがある熊本ですし。
・第4 代熊本藩主の綱利は相撲を育成しました。吉田司家を熊本に招聘し、相撲道を支援しました。 今日の大相撲の基本を築きました。
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・吉良を打ち取った赤穂浪士らの内、大石良雄ら17 名を預かったのが細川綱利です。綱利公は赤穂浪士らに感服し、預かりの身分の大石らを常に歓待し、出来れば家臣として全員迎い入れたいと幕府に申し入れ、17 人の助命の願掛けもしました。
Ⅲ. 人 生 の ミ ッ シ ョ ン / 宮 本 武 蔵 の 人 生 に 関 わ る 各 自 の
人 生 を 【 ミ ッ シ ョ ン 】 と し て 考 え ま し ょ う !
主 な 系 譜 該
当 者
そ の ミ ッ シ ョ ン ( 使 命 ・ 任 務 )
・理応院
( 武蔵の 義理
の 姉)
『医を 以っ て 世に 尽く せ 』の 家訓を 遺し 、自ら の 子
孫に 対し て 、『医業』に 就か せ る
・宮本無二之助 ( 養
父)
『十手当理流』の 後世に 伝え る 事(後継者の 発見・育成)と 発
展
・宮本武蔵 『十手当理流』を 受け 継ぎ 、更に 、自己研鑽に て 発展さ せ
て 後世に 伝え る 事
江戸以西の 各地に 圓明流・二天流が 広が り ま す 。現在も
代々継承さ れ て い ま す 。
・宮本伊織( 養子) 武蔵の 教え を 基に 、行政官と し て 宮本家を 代々発展さ
せ る 。永代家老
・小原玄昌( 伊織の
実弟)
理応院の 教え を 基に 、医業の 道を 創り 医療を 継承➡ ➡
現在迄「小倉南が 丘病院医院長」
・宮本造酒之助( 第1
養子)
本多家( 姫路) に て 出仕、宮本家の 発展に 努め る ⇒急逝し
た お 殿様を 追っ て 殉死
・宮本九郎三郎( 第3
養子)
詳細不明で す が 、宮本家の 発展に 努め る 事が そ の
ミ ッ シ ョ ン と 考え ら れ ま す 。
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・竹村与右衛門( 第4
養子)
・「二天一流」を 継ぎ 、尾張藩へ 派遣さ れ て 、同流儀を 広
め る
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Ⅳ . 各 々 の 家 系 図 宮 本 武 蔵 に 関 わ る 家 系 図
・ 実 家 ( 田 原 家 )※田原家貞さんは、戦国末期、【小寺官兵衛(黒田官兵衛)】の配下でした。 官兵衛の配下として、秀吉の中国征伐の際に、秀吉軍との戦いに従軍しました。が、戦況悪く、別所氏を頼んで三木城へ逃げた。しかし、別所三木城も落城したため田原家貞は兵庫県の米田に戻って土着した。一説に、秀吉に対抗したとき新免家の攻撃をうけて敗退したと伝えられている。
1 ) 吉久 ( 田原家)⇒ 後に 「大山茂右衛門」:そ の 息子「在
貞」が 伊織の 養子に な り
小倉
藩士と な る
2) 貞次 ( 宮本伊織)➡ 後に 武蔵の 養子と な り 小倉藩
士/ 筆頭家老と な る
「田原家貞」 ――①長男【久光】
|| 3)玄昌 ( 小原玄昌)➡ 母方小原家を 継ぎ 、現在ま で 代々「医業」を 継
ぐ *(下図参考)
|| ※ 「禁裏典薬寮」に 仕え ま し て 、医師と し て の
高い 職位「法眼」就く
|| ↑ 「東京医科歯科大学」的な 存在
|| 4) 正久( 田原家)➡ 播州に 残り 、商家を 興す
|| 結婚<小原家子女> ( 【理 応 院 】)➡ 家訓:「医を以って「世」に尽く
せ」* ――②次男【玄信 ( 宮本武蔵) 】 ※武蔵は生涯独身でしたが、養子を複数人取ります。
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養子①:造酒之助 姫路・本多忠刻公に 仕え ・後に 殉死➡
造酒之助は 徳川方武将の 水野勝成の 家臣【中山志摩
之助】の 三男で す 。
養子②:伊織貞次➡ 小笠原藩筆頭家老
15 歳で 出仕、20 歳で 家老2500 石、島原の 乱
後筆頭家老4000 石
養子③:九郎三郎 田原家を 継ぐ ➡ or 本多家の 藩士と
な る (詳細不明)
養子④:竹村与右衛門 尾張に 派遣さ れ 、尾張藩士ら➡
に 二天一流を 広め る
<武蔵の 養父/ 無二之助の 地元の 出身>
小 原 家 系 図
< 重 要 > 武 蔵 の 兄 嫁 ・ 【 理 応 院 】 つ ま り 小 原 家 の➡
家 系 図
武蔵の 養子・伊織は 、「兄貴と 理応院」の 息子( 第2 子) さ ん で す ね 武蔵は 、
「甥」を 養子に し た の で す 。
【小原上野守信利公】⇒「小原信忠」⇒【理応院】 【小原玄昌】 【小原玄格】 以後代々、今➡ ➡ ➡
日ま で 続き ま す 。
系脈に は 、明治時代の 小倉医学校の 初代校長( 理応院か ら 7 代目の 小原家当主) を
務め た 方や 、更に 、
現在の 医療法人青陵会南が 丘病院(現医院長:小原尚利先生)や 、そ の 他に も 子孫
で 、
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東京成増や 、北九州八幡他に 病院を 開き 医業に 従事し て い る 先生方が い ま
す 。
※理 応 院 は 祖 父 も 父 や 兄 弟 を 戦 争 で 失 く し て い ま す
➡ ・祖父/ 小原上野守信利公は 、黒田孝高の 配下で 、秀吉の 九州征伐 香春岳の 合戦(激戦➡
で し た )で 、
戦死し て お り ま す 。 お 墓は 、田川の 常立寺に あ り
ま す 。
・父/ 小原信忠さ ん は 、宇喜多秀家の 家臣と し て 、秀吉の 朝鮮出兵に 従軍し 、現
地で 戦死。
※ お 祖父さ ん ・お 父さ ん 他ほ か を 戦争で 失く し た 事で 、理応院は 、【医
を 以っ て 世に 尽く せ 】と い う 家訓を
子供た ち に 残し ま す 。宮本伊織は 武蔵の 養子で し た が 、剣道で 身を 立て
る の で な く て 、行政官と し て 、
身を 立て ま し た 。武蔵は 、自身の 養父・新免無二と は 異な り 、伊織さ ん を
特に 「武道家と し て 育て 一派を 立て さ せ る 」事は し ま せ ん で し た 。
そ れ は 叔母さ ん に あ た る 理応院に 配慮し た も の と 史実か ら は 考
え ら れ ま す 。
実際、小原家は 現在迄代々医療を 次、現「小倉南が 丘病院」の 院長先生で す 。理応院の 教
え が 活き て い ま す 。
・ 養 子 と し て 入 っ た ( 新 免 ) 宮 本 家 家 系 図
平 田 将 監 ? 【 新 免 無 二 】 ➡ ➡ ➡ ➡ ( 田 原 家 か ら 養
子 ) 武 蔵 玄 信 ➡ ➡ 3 人 の 養 子 を と る
(所在地:岡山県の美作英田地域)
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*新免伊賀守宗貫公の 配下で し た が 、主君の 命令で 、家老の 本位田外記之助を 暗殺
し 、そ の ま ま 、
新免家を 辞し 、黒田家の 配下に な っ た と い う 記録が あ り ま す 。
* 無 二 は 【 十 手 当 理 流 】 の 達 人 で 、 一 派 を 開 き 、 そ
の 継 承 者 と し て 玄 信 ( 武 蔵 ) を 養 子 に と り ま し た 。
「 武 蔵 兵 法 ・ 武 」 の 系 譜
武 道 に は 「 守 ( シ ュ ) 」 ・ 「 離 ( リ ) 」 ・ 「 破
( ハ ) 」 と い う 考 え が あ り ま す 。 武 道 稽 古 者 が 進 む べ
き 経 路 で す
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・ 守 : 武 蔵 は 、 養 父 か ら 『 当 理 流 ( 十 手 や 二 刀 流
剣 術 を 含 む ) 』 を 受 け 継 ぎ ➡ 吉 岡 一 門 と の 闘 い
・ 離 : そ れ を 【 武 蔵 流 の 【 円 明 流 】 に 発 展 さ せ て 、
岩 流 と の 試 合➡
・ 破 : 【 二 刀 一 流 】 を 経 て 、 晩 年 に 、 【 兵 法 二 天
一 流 】 に 昇 華 さ せ て い ま す 。 ➡ そ の 後 兵 法 の 完 成
※ 武 蔵 は 、 「 伊 織 」 に は 二 天 一 流 を 継 承 さ せ ま せ ん
で し た 。 理 応 院 へ の 配 慮 か ら で す 。
伊 織 に は 行 政 官 と し て の 養 育 を し ま し た 。
武 蔵 は 「 小 倉 に 家 を 遺 し 」 、 「 熊 本 に 技 を 遺 し た 」
と 云 わ れ て い ま す 。
・武蔵の 【円明流】 愛知県・鳥取県・広島県他に 残っ て い ま す 。現在に も 続➡
い て お り ま す 。
【二天一流】 熊本県、福岡県・大分県他に 残っ て い ま す 。現在に も 続➡
い て い ま す 。
明治時代に は 、・藩校育徳館に も 、さ ら に ・皇宮隊 / 憲兵隊に も 二天一流が
指導さ れ て い ま す
著 名 な 二 天 一 流 門 下 の
方 : 柳 家 小 さ ん 師 匠 ( 5 代
目 ) 13 歳の頃から剣道を学んだ。麹町高等小
学校では剣道部副将として東京市剣道大会で優勝[1] 。職業剣道家を目指すも中耳炎で断念したが、生涯を通じて剣道を続け、範士七段まで昇段した。剣道専門誌の『剣道日本』の記事にも度々なっており、「落語と剣道、どっちが好きかって聞かれたら、剣道って言いますよ」と語ったこともある。財団法人東京都剣道連盟の顧問を務め、自宅を改装して道場を作り、弟子たちに剣道を教えた。弟子の
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一人、柳家小団治は現在剣道七段である。剣道の他にも居合道や二天流剣術をも学んでおり、広く剣術に造詣が深かったと言える。
Ⅴ. 宮 本 武 蔵 師 ・ 史 実 に 基 づ く 年 表 註)「出生年」は複数説あり。「天正10 年(1582 年説」or 「天正12 年(1584 年) 説」or [天
正13 年] 他、 どれが正確かは不明。一方、「逝去年」は明確で、【正保2 年5 月19 日(← 旧暦) 】つまり、
➡ 「新暦の<1645 年 6 月13 日>」、熊本城内の自宅である「千葉城」で没しました。 ※五輪書の執筆は寛永20(1643)年10 月で、「年つもって60 」と自筆していますので、丁度60歳とすると、 その2 年後(1645 年)➡62 歳に逝去ですから、生年は天正13 年となります。しかし生年は不明です。
元号( 西暦) 武 蔵 年齢(数
え歳)武蔵の出来事 ※マークは「社会での出来事」
・天正 10 (1582)年
※ 「本能寺の変」発生
天正 12 (1584)年
1 歳 播磨国印南郡米堕村( 米田村)(➡ 現/ 兵庫県高砂市米田) の【父・田原家貞】の二男に生まれる。
※ 天 正 15 (1587) 年(重要事項)↑ 巌 流 島 決 闘 のきっかけ
10 月に、秀吉の「検地」に反対した「豊前一揆」発生。その中に、当時、田川彦山/ 岩石城を拠点とする豊前佐々木氏( 佐々木雅楽頭( うたのすけ)) が居た。※佐々木岩流はこの一族の人間で、後年、「小倉細川藩」にて剣術指南になる。以後、「彦山&岩岩城」の一族は度々藩政に抵抗する。
天正 17 (1589)年
5 歳頃 ※新免無二の養子
に// as 当理
流後継者
美作国吉野郡宮本村所在の【新免( 宮本) 無二之助一真】の養子となる無二之助は、新免家の家臣であったが、故あって、黒田官兵衛に仕え、後に、官兵衛の家臣・黒田利高に使える。利高が朝鮮役で戦死し、
以後は黒田成正に使える。←九州との関係が出来る
・天正 18 (1590)年
7 歳 ※ 秀吉天下統一
・ 文 禄 元 (1592) 年
9 歳 ※朝鮮出兵 文禄の役➡
慶 長 元 (1596) 年
13 歳 ◎ 初めての他流との勝負:「新当流 / 有馬喜兵衛」に打ち勝つ *五輪書
・慶長 2 (1597)年
14 歳 ※ 第2 の朝鮮出兵 慶長の役 ➡ ※理応院のお父さんが戦死
・慶長 3 (1598)年
15 歳 ※ 秀吉逝去
慶長4 年 (1599)年
16 歳 ◎ 「但馬国/ 秋山某」という大力量の相手に打ち勝つ *五輪書
・慶長5 (1600)年
17 歳 ※ 関ケ原の合戦 武蔵は養父・無二之助と共に、無二之助の主君筋黒田家 ( 黒田官
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兵衛の家臣/ 黒田成正) に属し、関ケ原の合戦の際には、岐阜の関ケ原でなく、
九州・中津で「石垣原の合戦」にて、東軍 ( 黒田家側) として
この合戦に従軍。
慶長6 (1601) 年 18 歳頃 ◎諸国を巡り武者修行慶長8 (1603) 年 19 歳頃 ※ 家康将軍となり、江戸幕府成立慶長9 (1604)年
21 歳 ◎扶桑第一剣法家「吉岡一門」との闘い (1 ~3 回の戦いに辛勝) *五輪書
慶長10 (1605) 年 22 歳 吉岡を負かして、意気が上がる武蔵師は、無二の「当理流」を発展させて【円明流】と称し、自身の流派を立てる:そして、初めての著書執筆『兵道鏡』(この書物は翌々年に増補して再執筆)➡ この『兵道鏡』を播州の多田半之助や落合忠右エ門らに授ける。
慶長17 (1612)年
29 歳頃
★重大事件
巌流島での戦い で勝利(vs 佐々木岩流)←←※しかし、この戦いの後に、豊後杵築に所在の義父・無二之助の手許に警護され送り届けられる
<★武蔵の人生の中での一大分岐点> *沼田家日記
ditto この巌流島の試合の直後、武蔵は山岳修行に入ります。場所は、現宮若市と篠栗町の境にある「菅岳620m」です。修業期間は3 か月間。修行後は、良い修業が出来たとの事で、当山の管理者に恵比寿像をお礼で作って差し上げています。
慶長19 (1614)年~元和元年(1615)年
31 ~32 歳頃
大阪夏 / 冬の陣に参戦 :「西側」でなく、徳川方「三河刈谷城」の主である「水野日向守勝成* 」の配下として、騎乗武将として、19 人の小部隊を率いる。水野家家臣に中山志摩之助・その三男が「造酒之助」
元和2 (1616) 年 33 歳 家康逝去元和3 (1617) 年 34 歳
※ 最初の養子 姫路本多家に剣術指導の招聘を受け、姫路本多家客分となり、最初の養子・「宮本三木之助」が本多忠刻公に仕える。造酒之助はその後、「小姓頭」に出世し700石を賜る。本田忠刻公* 奥さんは「千姫」
元和4 ~8 (1618~1625) 年
34 ~39 歳頃
・姫路城下の寺院や明石城下にて寺院の造園などを担当する。武蔵が作庭した4つ以上あり、うち4つの庭が残っております。「本松寺」( 兵庫県明石市) ・「福聚院(神戸市)」・「円珠院(明石市)」・「雲晴寺( 明石市) 」
寛永3 (1626) 年 43 歳頃※ 養子の死
本多忠刻公急死。造酒之助は主君の後を追って殉死。姫路の書写山円教寺に、忠刻公と並び造酒之助のお墓があります。
寛永3 (1626) 年 43 歳頃※2 番目の養
子
兄/ 田原久光の二男/ 貞次を養子にし、「伊織」とし/ 「宮本伊織貞次」明石藩・小笠原家に出仕させ、その「後見役」となる。小笠原公の客分となり、明石城下町の街造り事業に関わる。※伊織は15 歳頃に「忠真公」の近習となる
寛永5 (1628)年 45 歳頃 尾張・中部地方を武者修行・円明流を広める
25
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寛永9 (1632)年 49 歳*以後小倉に8 年間滞在
小笠原藩小倉へ移封・武蔵は伊織と共に小倉へ移転。※ 伊織、この時 20 歳で、小笠原家の「家老職就任= 2500 石」 武蔵は小笠原忠真公の客分( 伊織の後見) となる
寛 永 10 (1634) 年
50 ~51 歳頃
朝鍛夕錬の成果で、「兵法の道」を自得する:◎ 【円明流】から【二刀一流】へ昇華!
寛永14 (1637)年
54 歳頃 ※ 「島原の乱」勃発
寛永 15 (1638)年
2 月// 55 歳 中津小笠原藩・長次公( 忠真公の甥) の後見者= 戦奉行軍監( 戦略指揮 ) として参戦 // ※伊織は小笠原忠真公に従い参戦
( 「侍大将」兼「軍奉行」 ) 戦後、伊織は論功行賞で「 4000 石」に加増。小笠原藩筆頭家老
に昇進 その後、幕末まで、宮本家は小笠原藩の筆頭家老職を務める。
寛 永 16 (1639) 年
56 歳 ※鎖国体制になる武蔵師・江戸/ 尾張/ 上方を回遊
寛 永 17 (1640) 年
57 歳 肥後細川藩の客分となる/ 給与【七人扶持、合力米十八石】
寛 永 18 (1641) 年
58 歳 ・待遇 「三百石・客分にて座席は大組頭の格」➡・君命により、2 月に「兵法三十五箇条」を執筆し献上
寛永 18 (1642) 年 3月
※細川忠利没 光尚公が藩主に。武蔵への厚遇は変わらず。➡
58 ~59 歳頃
【五法之太刀ノ道】を執筆・全文漢文による指導書【兵法・二刀一流】⇒⇒⇒【兵法・二天一流】へ昇華
寛永20 (1643) 60 歳 「10 月10 日( 旧暦) 」に「兵法五巻の書/ 五輪書」を起筆※ 岩殿山・霊巖洞の奥院部分にて
正 保 元 (1644) 年
61 歳 11 月ごろ、胃がんを患い、説得を受け千葉城に戻る
正保2 (1645)年 62 歳 ・【五輪書】完成・ 5/12 に『独行道』を著し、5/19 に逝去・遺言により肥後・大津街道沿いに埋葬 「武蔵塚」➡
承応2 (1654)年 【武蔵逝去の9 年後】伊織43 歳 【小倉・手向山】に武蔵顕彰碑を建立➡延宝6 (1678)年 宮本伊織逝去・享年67 歳
※数多くの歴史小説家や歴史の先生迄もが、風評だけを拠り所として、武蔵は、仕官を求めてさまよった、 孤高の人生を送った、という解説を為さっている方ばかりですが、それは史実ではありません。 少なくとも4つの大名家に関りを持ち、4 人の養子を取り、それぞれの養子が属する出身家の為に、 様々に配慮をしております。これは、きちっとした一級資料で証明されています。
Ⅵ. 武 蔵 に と り 重 大 な 転 機 と な っ た 巌 流 島 の 決 闘
真 実
■ 小 倉 細 川 藩 と 時 代 背 景
1) こ の 決 闘 は 裏 面 か ら 観 察 す る と 、 藩 の 政 治 決 闘 劇
で あ り 、 抵 抗 勢 力 の 鎮 圧 で す 。
小 倉 細 川 藩 は 、 門 司 城 ・ 岩 石 ( が ん じ ゃ く ) 城 ・ 豊
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後 杵 築 城 ・ 豊 後 高 田 城 ・ 香 春 城 ・ 竜 王 城 ・
一 ツ 戸 城 の 七 城 を 構 え て お り ま し た 。 尚 、 豊 後 杵 築
城 に は 、 【 長 岡 佐 渡 】 が 城 主 で 居 り ま し た 。
・ 武 蔵 の 養 父 ・ 宮 本 無 二 之 助 一 真 は 、 藩 内 ( 杵 築 を
中 心 に ) で 当 理 流 十 手 術 を 教 授 し て い た 。
当 時 の 小 倉 藩 主 は 細 川 忠 興 公 ( 忠 利 の お 父 さ ん ) 。
剣 術 達 人 ・ 佐 々 木 岩 流 は 、 藩 剣 術 指 南 役 の 一 人 で し
た 。
「 岩 流 」 は 、 豊 前 田 川 の 岩 石 城 に 因 ん で い ま す 。
佐 々 木 は 、 元 々 。 添 田 ( 副 田 ) と い う 姓 で す 。
佐 々 木 岩 流 は 豊 前 の 名 族 ・ 佐 々 木 ( 副 田 ) 一 族 . の 1 人
で す 。 岩 石 城 は 代 々 佐 々 木 一 族 の 本 拠 地 で 、
背 後 に は 修 験 道 の 聖 地 ・ 彦 山 の 強 い 勢 力 が 控 え て い
た 。 「 岩 石 城 」 は 秀 吉 九 州 入 り の 時 の 緒 戦 地 で 、
秀 吉 が 自 ら 采 配 を 取 っ て 攻 撃 し た 難 攻 不 落 の 名 城 で
あ る 。
そ の 岩 石 城 で 不 穏 の 動 き が 度 々 あ っ た 。 豊 前 で は
佐 々 木 一 族 ら 地 元 の 豪 族 が 山 伏 ら の 支 持 を 踏 ま え て
細 川 藩 政 を 批 判 し 、 佐 々 木 ら の 専 横 が 増 長 し た 。
細 川 藩 は 佐 々 木 一 族 を な ん と か 鎮 圧 し よ う と し た 。
時 に 、 杵 築 に 居 た 藩 家 老 ・ 長 岡 佐 渡 の も と に
寄 属 し て い た 無 二 之 助 は 、 小 次 郎 一 門 の 専 横 を 聞 き 、
試 合 と い う 名 目 で 、 こ れ を 弾 圧 し よ う と す る 藩 の
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意 向 を 知 っ た 。 無 二 之 助 一 真 は 、 そ の 試 合 に 武 蔵 を
推 薦 し た 。 尚 、 長 岡 佐 渡 と そ の 父 松 井 康 之 は 親 子
共 々 、 無 二 之 助 と 武 蔵 の 親 子 を 保 護 し た 。 何 故 な ら
長 岡 興 長 は 無 二 之 助 の 当 理 流 の 門 人 で あ る 。
■ 【 沼 田 家 記 】
沼 田 家 は 舟 島 決 闘 当 時 (1612 年 ) は 門 司 城 の 城 代 で 、
武 蔵 を 支 援 し て い た 。
「 沼 田 家 記 」 は 実 際 に 舟 島 の 決 闘 に 立 ち 会 っ た 藩 士
や 警 固 し た 沼 田 家 中 の 目 撃 記 録 で あ り 、
武 蔵 死 後 一 世 紀 経 過 し て か ら の 曾 孫 弟 子 の 作 で あ る
『 二 天 記 』 ( 豊 田 影 英 著 ) よ り 遥 か に 真 実 性 が 高 い 。
多 く の 史 家 ・ 作 家 は 「 沼 田 家 記 」 の 研 究 不 足 の た め
に 、 武 蔵 を 美 化 し た 「 二 天 記 」 の 虚 構 を 真 実 と て い
る 。
「 二 天 記 」 の 主 な 虚 構 は 、 次 の モ ノ を 含 み 更 に 多
い :
a) 舟 島 の 決 闘 に 遅 刻 し た こ と 。 b) 決 闘 描 写 が ま
ち が い で あ る こ と 。
c) 佐 々 木 小 次 郎 は 前 髪 の 美 青 年 で な く 、 壮 年 で 冨 田
勢 源 や 鐘 巻 自 斉 と は 関 係 な い こ と 。
そ の ほ か 『 二 天 記 』 の 虚 構 で は 、 d) 養 子 伊 織 は 実 兄
の 息 子 が 正 し く 、
e) 奥 州 生 ま れ の 「 泥 鰌 取 り の 少 年 」 で な い こ と 。
f) 武 蔵 は 火 葬 さ れ て い る の に 事 実 に 反 し 甲 冑 着 用 し
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た 土 葬 と し て こ と な ど で あ る 。
何 故 「 沼 田 家 記 」 が 軽 視 さ れ 、 陽 の 目 が あ て ら れ な
か っ た の か と い え ば 、 「 沼 田 家 記 」 を 認 め る こ と は
武 蔵 一 門 に と っ て は 極 め て 都 合 が 悪 い の で こ れ を 無
視 し た 。 武 蔵 一 門 の 曾 孫 的 弟 子 た ち が 、
武 蔵 を 剣 聖 化 す る た め 『 二 天 記 』 を 発 表 し た の で あ
る 。
『 二 天 記 』 は 、 長 岡 佐 渡 ら 長 岡 家 に 仕 え た 家 臣 豊 田
影 英 作 。
「 巌 流 島 の 決 闘 」 は 、 小 倉 細 川 藩 へ の 反 対 勢 力 ・ 豊
前 佐 々 木 一 族 の 佐 々 木 岩 流 と
そ れ を 鎮 圧 し よ う と し た 細 川 家 と の 闘 い で あ り 、 ・
小 次 郎 は 四 十 歳 前 後 の 壮 年 だ っ た 。
・ 決 闘 は 定 刻 の 辰 之 上 刻 (7 ~ 740am) に 開 始 さ れ た 。 武
蔵 は 遅 刻 を し て い な い 。
約 束 の 刻 限 を 守 る こ と は 、 武 士 の 掟 中 最 も 厳 格 な 教
訓 で 、 こ れ を 守 ら な い の は 、 卑 劣 な 行 動 で 曲 り た る
振 舞 で あ る 。 決 闘 の 相 手 に も 立 会 人 に も 検 使 役 人 に
対 し て も 、 絶 対 遵 守 し な け れ ば な ら な い 。
「 小 倉 碑 文 」 「 沼 田 家 記 」 「 兵 法 先 師 伝 記 」 で は 定
刻 に 勝 負 の あ っ た こ と を 記 録 し て い る 。
「 二 天 記 」 だ け 武 蔵 が 詐 術 で 遅 刻 し た と 記 録 し て い
る 。 武 器 は 、 武 蔵 は 大 木 刀 、 小 次 郎 は 真 剣 で 、
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時 刻 同 時 に 会 し た 。 勝 負 は 、 武 蔵 の 一 撃 で 小 次 郎 を
倒 し 、 小 次 郎 は 気 絶 し た 。 気 絶 後 蘇 生 し た 小 次 郎 を 、
武 蔵 の 門 弟 が 袋 た た き に し て 殺 し て い る 。 つ ま り 武
士 道 に も と る の は 、 細 川 藩 側 と 武 蔵 の 門 弟 で あ り 、
決 闘 は 藩 の 政 治 的 な 目 的 の 為 で あ っ た と 考 え ら れ る 。
退 去 後 の 武 蔵 を 護 衛 し 門 司 城 へ か く ま っ た の は 、
門 司 城 主 の 沼 田 延 元 ( の ち の 長 岡 勘 解 由 左 衛 門 ) で
あ っ た 。 し た が っ て 、 こ の 決 闘 は 汚 れ た 決 闘 で あ っ
た 。
そ れ は 、 門 弟 不 参 の 約 を 守 ら な か っ た 武 蔵 ・ 門 弟 、
守 っ た 小 次 郎 ・ 門 弟 。 蘇 生 し た 小 次 郎 を 打 殺 し た 武
蔵 の 門 弟 。 武 蔵 を か く ま っ た 小 倉 藩 。
武 蔵 は 、 小 次 郎 に 対 し 無 益 の 殺 生 を し た こ と に 気 が
つ い た 。 こ の 決 闘 は 痛 恨 の 勝 利 で あ り 、 そ の 贖 罪 の
た め 、
「 剣 の 道 」 に 精 進 す る 転 換 期 を 迎 え た 。 武 蔵 は 以 後 、
真 剣 勝 負 を し て い な い こ と が こ れ を 証 明 し て い る 。
そ し て 、 剣 客 だ け で な く 哲 人 と し て 剣 禅 一 致 を 指 向
す る 動 機 と な っ た 。
※巌 流 島 の 決 闘 後 、 武 蔵 は 、 宮 若 市 の 「 菅 山 620m 」 山
麓 に 入 り 、 3 か 月 間 修 行 を し ま す 。
そ の 後 、 朝 鍛 夕 練 を 通 し て 、 兵 法 の 道 理 を 得 よ う と
し ま す 。
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Ⅶ. 九 州 に 点 在 す る 宮 本 武 蔵 ゆ か り の 観 光 拠 点 第1 部:山口と福岡県編
そ の 1 : 巌 流 島 / 巌 流 島 で の 決 闘 ( vs 佐 々 木 岩 流 と )
※ 佐 々 木 岩 流 に 付 い て は 後 述
◎アクセス:巌流島は今も昔も山口県の領海内に在りますので、下関からの便の方が圧倒的に便数が多いです運行会社は、関門汽船です// 運賃は、下関・門司どちらからでも大人800円・小人400円です
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①下関の『唐戸桟橋』から: 下関唐戸1 号桟橋 ( 下関グランドホテル横)● お問合せ 関門連絡船(北九州門司港行) ➡ TEL.083-222-1488 ※巌流島への渡航や海峡クルージング利用可能
②門司から
門司港桟橋(マ リ ン ゲ ート も じ )
JR門司港駅より乗場まで徒歩3 分:●関門連絡船(下関唐戸行)●巌流島連絡船 ●海峡クルージング
■お問い合わせ TEL.093-331-0222
そ の 2 手 向 山 ( た む け や ま ) : 「 小 倉 碑 文 ( 武 蔵 師
顕 彰 碑 ) 」 : by 宮 本 伊 織 )◎ アクセス :国道3 号線沿い(小倉⇔⇔門司の間にあります)
西鉄バス/ 小倉駅 手向山(所要時間約➡ 20 分) 西鉄バス/ 門司港レトロバス停 手向山➡ ( 約30 分)
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小倉碑文は、高さが4.5m の石碑で、その上に、約1100 文字の漢文で宮本武蔵の生涯や成果が語られています。
由緒: 宮本武蔵の養子/ 宮本伊織が拝領した領地です。※戦前には砲台も設置されていた場所だそうです。遠くに巌流島を望むことができ、宮本武蔵の顕彰碑(小倉碑文)と佐々木小次郎の碑(村上元三の揮毫あり)もあります。公園には巌流島や関門海峡、響灘まで見渡せる展望台もあります。
宮本武蔵の逝去<正保2 年5/19 (1645 年6/13 >から9 年後の1654 年(承応3 年)、小倉藩で筆頭家老をつとめていた武蔵の養子、宮本伊織が山頂から巌流島(船島)が見渡せる手向山山頂に養父の顕彰碑を建立した。この頃、伊織は小倉藩主小笠原忠真より手向山を拝領しており、宮本家代々の墓は武蔵顕彰碑のとなりに設置されていた。
しかし明治になって、手向山が軍事要塞化された際、小倉碑文は隣の延命寺山(赤坂山)に一時的に、宮本家代々の墓は手向山の麓に移設された。宮本伊織らの墓は今も手向山の麓にある。
1887 年(明治20 年)、関門海峡周辺の要塞化にともない、下関側の田の首砲台とともに手向山は最初に砲台の設置がはじまった。長崎事件は前年であり、日清戦争は7 年後のことだった。これより手向山は一般人の入山が禁止された。山は小倉にあった帝国陸軍第12 師団支配下の下関要塞司令部によって1945年(昭和20 年)まで管理された。
そ の 3 常 立 寺 ( じ ょ う た つ じ ) ( 福 岡 県 田 川 郡 福 智
町 神 崎 1272 )
◎アクセス:「平成筑豊鉄道・ 人見駅」から800m ※近くに、「日王の湯」という温泉施設があります
お寺の境内に、天正15 年正月に香春岳城攻撃戦で討死した『小原上野守信利』の墓があります。信利の孫である「大山吉久」、「宮本伊織」、「小原玄昌」、「田原正久」らによって、承応 3 年(1654 )に創建されました。・大山吉久等は剣豪宮本武蔵の甥であり、・宮本伊織は養子となり、小笠原藩の筆頭家老となっています。また境内には田川でも大樹として名高い楠木があり、訪れる人を和ませています。町指定文化財として常立寺本堂棟札、小原信利夫婦墓があります。武蔵は、小倉滞在時にこのお寺に逗留し、二刀流刀法を指導しておりました。
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そ の 4 福 岡 市 大 名 東 小 姓 通 り 界 隈
・江戸時代、西鉄グランドホテルの後ろには幅50 mの福岡城のお堀(肥前堀)がありました。肥前堀の南側から現在の国体通り一帯は商人や下級武士の町だったのです。紺屋町・鉄砲町・雁林町・東小姓町など・・・現在、若者に人気がある大名町の通りに、昔の町名が復活しています:そして、その『東小姓通』界隈が、
・宮本武蔵がかって滞在したとの言い伝えがあります。言い伝えですが、史実と見られております。武蔵は、このあたりに所在の、福岡藩士・小河権太夫(武蔵の弟子)のお宅に滞在しておりました。宮本武蔵が熊本細川藩に仕えたのが1640 年。 その2 年前の「島原の乱」前後に、武蔵は福岡の黒田藩を訪れ、別の養子の黒田家への仕官を願い出ています。 その間、住んでいた所が東小姓町だと言われています。
※福岡黒田藩にはご縁がありませんでした。理由は、武蔵が、福岡藩の剣道師範・丸尾六左衛門と試合をし、 一方的にこの人を打ち負かしてしまい、福岡藩の藩士らから快く思われなかった為です。
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第 2 部 熊 本 県 編
そ の 1 千 葉 城 跡 ( 熊 本 城 内 ) ・ 井 戸 <熊本城の東側にある旧NHK
熊本放送局跡地(同市中央区千葉城町)>
◎ アクセス :「熊本城電停」か ら お 城を み て 右側の 「厩橋」を 渡り 、そ の ま
ま 坂道を 上が る 。
「熊本城稲荷神社」を 左手に 進み 、右に 出て く る 一本目の 角を を 右へ 。
「旧NHK 熊本」の 入り 口の 坂を 上が っ て 玄関前庭の 右手。
熊本藩主・細川忠利から客分として迎えられた武蔵は、熊本城内にある「千葉城」の一角にお屋敷を与えられました。宮本武蔵が用いた井戸が残されています。武蔵師の最期は、千葉城の自宅で逝去されています。
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そ の 2 霊 巌 洞 ( れ い げ ん ど う ・ れ い が ん ど う ) 金
峰 山 西 の 岩 戸 山 / 雲 厳 禅 寺 奥
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◎ アクセス : 交通センター23 番乗り場から <『芳野経由河内行き』バス>に乗車 ( 約35 分) 。岩戸観音入口下車、徒歩約20 分。(長い坂道があります)
・施設利用時間: 8:00 -17:00 休日 なし ・入場料金:大人200円、小人100円 / 団体20 人以上1 割引、50 人以上2 割引、100 人以上3 割引 ※30 人以上の団体向け案内可能(事前に連絡が必要)>・住所 熊本市松尾町平山589 /TEL 096-329-885※霊厳洞へ行くには熊本交通センター発・武蔵コースのご利用 が便利です。※雲巌禅寺には、武蔵の水墨画や遺品の展示もあります。◎ お問合せ:雲巌禅寺 電話番号: 096-329-8854 FAX番号: 096-329-8960
・熊本市の西方、金峰山(きんぽうざん)山麓にある洞窟、霊巌洞。うっそうと茂る樹木に覆われ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の裏山にあり、洞窟内には『岩戸観音』の名で知られる観音像が安置されています。・晩年の5 年間を熊本で過ごした宮本武蔵が、この洞窟にこもって兵法書「五輪書」を著したことは、あまりにも有名。・雲巌禅寺は、南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永よ(とうりょうえいよ)が建立したと伝えられる曹洞宗の寺。九州西国三十三観音第14 番霊場としても知られています。岩戸観音の歴史は寺より古く、いい伝えによれば異国から観音像を運んでいるときに舟は転覆しましたが、観音像だけは板にのって流れ着き、霊巌洞に安置されたといいます。この岩戸観音を平安期の歌人・桧垣(ひがき)も参拝しています。
・雲巌禅寺から霊巌洞に至る岩山を削った細道に、五百羅漢が安置されています。製作・設置まで24 年の歳月を要しました。この五百羅漢は、熊本の商人渕田屋儀平(ふちだやぎへい)が、約200 年前、24 年の歳月をかけて奉納したと言われています。座る姿も表情もすべて違うたくさんの石仏は、見ていて時間を忘れ
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るほど興味深く、岩山にずらりと並んだ様は、神秘的な空気に満ちています。※この五百羅漢は後年に造られましたから、武蔵参禅の際には、この五百羅漢がありませんでした。
※ また、周辺は、大分県の耶馬渓になぞらえて肥後耶馬溪と呼ばれています。奇岩と紅葉の美しい場所です。その渓谷にある鼓ヶ滝は、清少納言の父で、三十六歌仙の一人に数えられる平安時代中期の歌人・清原元輔(きよはらのもとすけ)が「音に聞く鼓の滝を打ちみれば山川の鳴るにありける」という和歌を詠んだと「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」に掲載されています。
そ の 3 「 武 蔵 塚 」 : 今は 武蔵塚公園と し て 整備が 為さ れ て い ま
す
◎ アクセス :・熊本ICから国道57 号線を熊本市街方面へ、県道337号線に入り計20 分・JR豊肥本線武蔵塚駅から700m徒歩10 分位
武蔵塚公園 宮本武蔵の墓( 東の武蔵塚)熊本市龍田町弓削1 丁目1232 TEL 096-328-2523 (熊本市公園課) 営業時間 常時開放 駐車場 10 台 無料 茶室利用 市公園管理課へ申し込み※前年度の10 月から受付 料金1 日7000 円、8 時30 分~12 時00 分:2900 円、12 時00 分~17 時00 分:4100 円
公園内には水が流され、東家があり、ゆっくりできます。またお墓の側に、武蔵が逝去の前にしたためた【独行道】があります。宮本武蔵はその晩年を熊本で過ごし、熊本の千葉城(ちばじょう)所在の自宅で、62 歳の生涯を閉じました。・熊本時代は、肥後藩主細川忠利公の客分として招かれ* 、金峰山の霊巌洞という洞窟で「五輪書」を完成させ、茶や書画の道にあたるなど、剣と人生の集大成ともいえる時期を過ごしたといわれています。★ 「自分の死後も藩主を見守りたい」という遺言から、参勤交代の行列が通る大津街道(現在の県道337号)沿いに
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このお墓が建てられ、そこが現在の武蔵塚公園となっています。宮本武蔵の墓所は熊本市にはほかに数ヶ所、また熊本県外の数ヶ所にも存在し、その偉人ぶりがうかがえます。園内には、ニ刀を携えて立つ武蔵のブロンズ像も置かれ、日本庭園や茶室などもある緑多い静かな公園となっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~※ 武蔵塚公園での食事どころ 武蔵茶屋 (武蔵塚公園の敷地内)➡
うどんが「キシメン」のように平たくて、エビの天ぷらが五尾のった武蔵うどん等々美味しいですよ!
そ の 4 : 島 田 美 術 館 860-0073 熊本市西区島崎4-5-28
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◎アクセス:・交通センターから:バス(路線:島1 、島2 )で約10 分 慈恵病院前下車 徒歩約3 分・JR熊本駅から:車で約8 分
・問合TEL: 096-352-4597 FAX: 096-324-8749 ・料金:大人700円、大学・高校生400円、小・中学生200円 ・定休日➡ 火曜( 祝日を除く) 、年末年始 ・利用可能時間10 時00 分~17 時00 分(入場は16 時30 分まで) ・駐車場無料 10 台 大型バス駐車可 ホームページhttp://www.shimada-museum.net/index.php
熊本の武人文化に関する歴史資料や古美術品を収蔵している美術館。特に宮本武蔵ゆかりの武具・遺品、書画などを展示する常設展示が充実していることで知られています。年数回、企画展も開催されます。緑に囲まれた静かな雰囲気で、ギャラリーとカフェが併設されています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そ の 5 : 熊 本 県 ・ 山 鹿 温 泉 // 「 さ く ら 温 泉 」 http://www.y-kankoukyoukai.com/spot.php#sakurayu http://jbp.dreamlog.jp/archives/2775914.html
「さ く ら 湯」は 肥後細川藩初代藩主の 細川忠利公が 山鹿温泉の 湯を 気に 入っ て 1
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640年(寛永17 年)に
「さ く ら 湯」の 起源と な る 御茶屋を 新築。完成の 際に は 剣豪・宮本武蔵を 招待
し た 。
明治初期に 細川藩か ら 払い 下げ ら れ た 際、山鹿の 旦那衆を は じ め と す
る 地域の 人た ち の 尽力に よ っ て 大改修工事を
実施。市民温泉と し て の 「さ く ら 湯」が 誕生し た 。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~<参考文献>宮本武蔵『五輪書』( 岩波文庫 1942)原田夢果史『真説宮本武蔵』(葦書房 1984 )宮田和弘 『宮本武蔵 実践・二天一流兵法』(文芸社 2002 )著者は ( 兵法二天一流第11 題継承者)加納五郎 「隠れた宮本武蔵の実像―筑前藩菅岳に伝わる口伝考」『宮本武蔵随想録』( 歴史研究会 2003) 他多数宇都宮泰長『宮本武蔵・百問百答』( 鵬和出版 2007)宇都宮泰長『宮本武蔵・伊織と小原玄昌について』( 鵬和出版 2001) 他多数
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~補 遺 : 宮 本 武 蔵 の 兵 法 / 剣 法 に 付 い て の 伝 書 著 作 に 付
い て は 、 時 代 の 流 れ に 従 い 紹 介 す る と :
下 記 の 通 り で す :
①『 兵 道 鏡 』 / 22 歳 頃 の 時 期 : 「 当 理 流 」 か ら 離 れ
て 自 ら の 流 儀 『 圓 明 流 』 を 立 ち 上 げ た 時 期
②『 五 方 之 太 刀 之 道 ・ 序 』 : 全 文 漢 文 の 伝 書 で 、 後 の
「 兵 法 35 箇 条 」 や 「 五 輪 書 」 の 元 に な る も の 。
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※ こ の 著 作 に は 、 中 国 の 戦 の 故 事 な ど が 引
用 紹 介 さ れ て い る 。
③『 兵 法 35 箇 条 』 : 細 川 忠 利 公 か ら の 君 命 で 作 成
④『 五 輪 書 』 : 兵 法 二 天 一 流 に 付 い て の 伝 書 / こ れ は
藩 侯 の 依 頼 に よ り 、
柳 生 宗 矩 の 『 兵 法 家 伝 書 』 を 意 識 し て 書 か
れ た も の と さ れ て い ま す
⑤『 独 行 道 』 : 最 期 に 記 し た 人 生 指 南 訓 集
※書 名 『 五 輪 書 』 は 、 宮 本 武 蔵 が 名 付 け た の で な く て 、
後 年 他 者 に よ る 命 名 。
も と も と は 、 「 兵 法 5巻 の 書 」 。
付 録 そ の 1 : 手 向 山 / 小 倉 碑 文 ( 武 蔵 公 顕 彰 碑 ) の 書
き 下 し
天仰実相円満、兵法逝去不絶
兵法天下無双
播州赤松末流 新免武蔵玄信二天居士。 正保二暦五月十九日、肥後国熊本に 卒す 。
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時に 、承応三年四月十九日、孝子、 敬し ん で 焉を 建つ 。
臨機応変は 良将の 達道な り 。 武を 講じ 、兵を 習ふ は 軍旅の 用事な り 。心を
文武の 門に 遊ば せ 、
手を 兵術の 場に 舞は せ て 、名誉を 逞し く す る 人は 、其れ 誰ぞ や 。 播州
の 英産、赤松の 末葉、新免の 後裔、武蔵玄信、 二天と 号す 。想ふ に 夫れ 、天資曠達、
細行に 拘ら ず 、 蓋し 斯れ 其の 人か 。
二刀兵法の 元祖と 為る な り 。父、新免、無二と 号し 、 十手の 家を 為す 。武蔵、家
業を 受け 、朝讃暮研す 。
思惟考索し て 、十手の 利は 一刀に 倍す る こ と 甚だ 以て 夥し き を 灼知
す 。然り と 雖も 、十手は 常用の 器に 非ず 、
二刀は 是、腰間の 具な り 。 乃ち 二刀を 以て 十手の 理と 為せ ば 、其の 徳違ふ
こ と 無し 。
故に 十手を 改め て 二刀の 家を 為す 。誠に 武剣の 精選な り 。或ひ は 真剣を 飛
ば し 、或ひ は 木戟を 投げ 、北す る 者、
走る 者、逃避す る 能は ず 。其の 勢、恰も 強弩を 発す る が 如し 。百発百中、養由
も 斯れ に 踰ゆ る こ と 無き な り 。
夫れ 惟れ 、兵術を 手に 得、勇功を 身に 彰か に す 。
方に 年十三に し て 、始め 播州に 到り 、 新当流/ 有馬喜兵衛な る 者と 進ん で 雌
雄を 決し 、 忽ち 勝利を 得た り 。
十六歳春、但馬国に 到る 。 大力量の 兵術人/ 秋山と 名の る 者有り 。又、勝負を 決
し 、反掌の 間に 其の 人を 打ち 殺す 。
芳声街に 満つ 。
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後、京に 到る 。扶桑第一の 兵術、吉岡な る 者有り 。 雌雄を 決せ ん こ と を 請
ふ 。彼の 家の 嗣、清十郎、洛外蓮台野に
於い て 竜虎の 威を 争ひ 、勝敗を 決す と 雖も 、 木刀の 一撃に 触れ て 、吉岡、
眼前に 倒れ 伏し て 息絶す 。
予て 、一撃の 諾有る に 依り 、命根を 補弼す 。 彼の 門生等、助け て 板上に 乗せ
去り 、薬治、温湯、漸く に し て 復す 。
遂に 兵術を 棄て 、雉髪し 畢ん ぬ 。
而る 後、吉岡伝七郎、又、洛外に 出で 、雌雄を 決す 。伝七、 五尺余の 木刀を 袖し て
来る 。武蔵、其の 機に 臨ん で 彼の 木刀を 奪ひ 、之を 撃ち て 地に 伏す 。立
ち 所に 吉岡死す 。 門生、寃を 含み 、密か に 語り て 云く 、
「兵術の 妙を 以て は 、敵対す べ き 所に 非ず 。」と 。 籌を 帷幄に 運ら し
て 、吉岡亦七郎、事を 兵術に 寄せ 、
洛外下り 松辺に 会す 。彼の 門生数百人、兵仗弓箭を 以て 、 忽ち 之を 害せ ん と 欲
す 。
武蔵、平日、先を 知る の 才有り 。 非義の 働き を 察し て 、窃か に 吾が 門生に
謂ひ て 云く 、
「汝等、傍人と 為り て 速や か に 退け 。縦ひ 、怨敵、群を 成し 、 隊を 成す と
も 、吾に 於い て 之を 視る に 、浮雲の 如し 。
何の 恐る る こ と か 之れ 有ら ん 。」と 。
衆の 敵を 散ず る や 、 走狗の 猛獣を 追ふ に 似た り 。威を 震ひ て 帰る 。洛
陽の 人皆、 之を 感嘆す 。
勇勢知謀、一人を 以て 万人を 敵す る 者は 、 実に 兵家の 妙法な り 。
是よ り 先、吉岡、代々公方の 師範を 為し 、 扶桑第一の 兵術者の 号有り 。霊陽院義昭公
の 時に 当た り 、
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新免無二を 召し て 、吉岡と 兵術を し て 勝負を 決せ し む 。三度を 以て 限り 、
吉岡、一度利を 得、新免、両度勝ち を 決す 。
是に 於い て 新免無二を し て 日下無双兵術者の 号を 賜は ら し む 。故に 、武蔵、
洛陽に 到り 、吉岡と 数度の 勝負を 決し 、
吉岡兵法の 家、遂に 泯絶す 。
爰に 兵術の 達人、岩流と 名づ く る 者有り 。 彼と 雌雄を 決せ ん こ と を 求
む 。
岩流云く 、「真剣を 以て 雌雄を 決せ ん こ と を 請ふ 。」と 。武蔵対へ て 云
く 、 「汝は 白刃を 揮ひ て 其の 妙を 尽く せ 。
吾は 木戟を 提げ て 此の 秘を 顕は さ ん 。」と 。 堅く 漆約を 結ぶ 。長門と
豊前と の 際、海中に 嶋有り 。
舟嶋と 謂ふ 。両雄、同時に 相会す 。 岩流、三尺の 白刃を 手に し て 来た り 、 命
を 顧み ず し て 術を 尽く す 。
武蔵、木刀の 一撃を 以て 之を 殺す 。電光も 猶ほ 遅し 。 故に 俗、舟嶋を 改め て
岩流嶋と 謂ふ 。
凡そ 、十三よ り 壮年迄、兵術勝負六十余場、 一つ と し て 勝た ざ る 無し 。且つ
定め て 云く 、
「敵の 眉八字の 間を 打た ず ん ば 勝ち を 取ら ず 。」毎に 其の 的を 違は
ず 。古よ り 兵術の 雌雄を 決す る 人、
其の 数を 算ふ る に 幾千万か を 知ら ず 。然り と 雖も 、夷洛に 於い て 英雄豪
傑の 前に 向か ひ 人を 打ち 殺す 。
今古其の 名を 知ら ず 。武蔵一人に 属す る の み 。 兵術の 威名、四夷に 遍く 、其
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の 誉れ や 、
古老の 口に 絶え ず 、今の 人の 肝に 銘じ る 所な り 。誠に 奇な る か な 、妙
な る か な 。力量旱雄、尤も 他に 異な れ り 。
武蔵、常に 言く 、「兵術、手に 熟し 、心に 得て 、 一毫も 私無け れ ば 、則ち 、戦
場に 恐れ 、大軍を 領し 、
又、国を 治る こ と 、豈に 難か ら ん や 。豊臣太閤嬖臣、 石田治部少輔謀叛の 時、或
ひ は 、摂州大阪に 於い て 、
秀頼公兵乱の 時、武蔵の 勇功佳名、 縦ひ 海の 口、渓の 舌に 有る と も 、寧ぞ 説き
尽く さ ん や 。
簡略に 之を 記さ ず 。
武蔵の 勇功、佳名縦(ほ し い ま ま )に 、海の 口、渓の 舌に 有り 。
寧(あ に )説き 尽く し て 簡略に こ れ を 記せ ざ ら ん や 。
旃に 加へ 、礼楽、射御、書数の 文に 通ぜ ざ る 無し 。 況や 小芸巧業を や 。殆ど
無為に し て 為さ ざ る 無き 者か 。
蓋し 大丈夫の 一体な り 。
肥之後州に 於い て 卒す る 時、自ら 、 「天仰実相円満 兵法逝去不絶」の 字を 書き 、
以て 言く 、「遺像と 為せ 」と 。
故に 孝子、碑を 立て 、以て 不朽に 伝へ 、 後人を し て 見し む 。嗚呼、偉な る
か な 。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~
☆「天仰実相円満 兵法逝去不絶」と は 、書き 下し (=天を 仰げ ば 実相円満、兵法去り
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逝き て 絶え ず )で す が 、
意味は 、 <兵法を 体得し 、開悟し た 自分は こ こ に 死ん で し ま う け れ
ど も 、 兵法の 心は 亡く な ら な い で あ ろ う >と い う 事で す ね 兵
法の 心は 、私( 末次) の 場合で は 、
柔道の 心で あ り 、将棋の 心で あ り 、 英語の 心で あ り 、色々な 物事の 在
り 方の 、さ ら に 言え ば
宇宙の 法則の 根源と な る も の で す 。
『付録 2 』テ キ ス ト 末尾「付録 1 」の 小倉碑文の 書き 下し の 現代語訳 :
兵法天下無雙 天下に 、武蔵の 武勇に な ら び 立つ 者は い な い➡
天仰 實相 圓満 兵法 逝去 不絶 天を 仰げ ば 実相円満、兵法、逝去に し➡
て 絶へ ず
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碑文
1.承応三年(1654 )4 月19 日、孝子(伊織)が 敬っ て 此処に 建立し た 。正保二年
(1645 )5 月19 日、肥後国熊本で 逝去。
播磨国(兵庫県南西部)の 赤松氏の 流れ 、新免武蔵玄信二天居士の 碑。
2.「臨機応変」は 、秀れ た 将の と る べ き 道で あ る 。戦略戦術を 探り 、訓練
に 励む の は 、出陣に 備え て で あ る 。
文武両道の 達人と し て 名誉に 輝い た の は 誰で あ ろ う 。そ れ は 、播磨国
(兵庫県南西部)の 名門、赤松氏の 流れ を 汲む 、
新免氏の 子孫・宮本武蔵で あ り 、そ の 諱(い み な )は 玄信、号は 「二天」で
あ る 。
※ 諱は 死後の 尊称、号は 本名の ほ か に 用(も ち )い る 呼び 名、雅名。
3. 武蔵は 生ま れ つ き 、天性が ひ ろ く の び や か で 、小さ な 事に こ
だ わ ら な い 性格で あ り 、二刀流の 元祖と な っ た 。
4. 父は 新免無二で 、「十手術」で 知ら れ て い た 。武蔵は そ の 術の 伝授を 受
け て 、日夜研鑽し 、研究し て 、十手が 刀に く ら べ て 利点が あ き ら か
に 非常に 大き い こ と を 知っ た 。
※十手と は 槍の 先に 十字状に 鋭器を つ け て 攻撃と 防御を 兼ね た 戦闘武具で
あ ろ う 。
5.だ が 、そ う は 言っ て も 、十手は い つ も 身に つ け て 使っ て い
る も の で は な い 。そ れ に 比べ て 、二刀は い つ も 腰に さ し て
い る 。十手を 二刀に か え れ ば 、そ の 利点は 変わ ら な い 。だ か ら 宮
本家は 十手を や め て 、二刀の 家に す る こ と に し た 。ま こ と に 見事
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な 剣法の 選択で あ っ た 。
6. 二刀流は 、時に は 真剣を 飛ば し た り 、木剣を 投げ て 命中さ せ る か
ら 、敵は 逃れ る こ と が で き な い 。そ れ は 剛弓で 、
百発百中す る の と 同じ で 、中国の 弓の 名人と し て 伝え ら れ て い る 楚
国の 養由も こ れ を 超え る 事は で き な い 。
7. 振り か え れ ば 、武芸を 身に つ け 世間に 武名を 知ら し め た の は 、
十三歳の 時で あ っ た 。初め て 播磨の 国で 、
新当流の 有馬喜兵衛な る 者に 勝負を 挑ん で 、た ち ま ち の 間に 勝っ た 。
8. 十六歳の 春に は 、但馬国(兵庫県北部)で 、た い へ ん な 力持ち で 武芸に 優
れ た 秋山な る 者と 勝負を し た 。
手の ひ ら を 返す ぐ ら い の 一瞬の 間に 打ち 殺し た の で 、世間に 武蔵
の 武名が 広が っ た 。
9. 後に 京都へ 行き 、日本一の 兵術者と 言わ れ て い た 吉岡憲法に 、雌雄を 决
し よ う と 申し 込ん だ 。吉岡家の
跡継ぎ で あ る 清十郎と 、京都洛外の 蓮台野で 、い ず れ 劣ら ぬ 勝負を 争っ
た が 、武蔵の 木刀の 一撃で 清十郎は 倒れ て
息が 絶え た 。あ ら か じ め 、勝負は 一撃で 終わ る 約束を し て い た の
で 、止刀(と ど め )は さ さ な か っ た 。
10. 門下生等が 、彼を 板に 乗せ て 立ち 去り 、薬や 湯治で 命を 取り と め た 。
そ れ か ら 彼は 剣を 棄て 、頭を 剃り 仏門に 入っ て 世を 過ご し た 。
11. そ の 後、弟の 吉岡傳七郎と 、ま た 洛外で 雌雄を 決し た 。傳七郎は 五尺(約
1.5m )ぐ ら い の 木刀を ひ っ 提げ て き た 。武蔵は 隙を 見て 、彼の 木刀
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を 奪っ て 一撃し た 。傳七郎は 倒れ て た ち ど こ ろ に 死ん だ 。
12. 武蔵を 冤(う ら )ん で い る 吉岡一門は 、尋常の 試合で は 、と て も 勝
て な い か ら 、謀り 事で 討ち 取ろ う と 策謀し た 。そ こ で 吉岡又七郎(清
十郎の 嗣子・十七歳)を た て て 、果し 合い の 話し に 事よ せ て 、京都の 外
れ 下松の 辺り
(洛外一乗寺村)で 武蔵に 会い 、門下生数百人が 武器や 弓矢で 、一気に 武蔵を 倒そ
う と し た の だ 。
13. だ が 、平生、先が 読め る 武蔵は 陰謀を 察し 、加勢し よ う と す る 門下生
た ち に ひ そ か に 言っ た : 「お 前た ち は 手出し は す る な 。早
く 退散し ろ 。喩え 、敵が 群(む )れ と な り 、隊と な っ て 向か っ
て き て も 、私に は 浮き 雲の よ う な も の だ 。ど う し て こ れ
を 恐れ る こ と が あ ろ う か 。敵は 烏合の 衆に す ぎ な い の だ 」
と 。
14. ま る で 猟犬が 猛獣を 追い ま わ す よ う な 威力を 見せ て 、相手を 打
ち 破っ た の で 、京都の 人々が み ん な 感嘆し た 。
強さ と 知謀を 奮っ て 、一人で 万人に 当た れ る の は 、こ れ ぞ 真の 武
芸者で あ る 。
15. 吉岡家は 、代々足利将軍の 武術師範で 、日本第一の 兵術者の 称号を 認め ら れ て
い た 。
だ が 、十五代将軍足利義昭公が 新免無二を 召し 出し て 、吉岡と 三回勝負を さ せ
た 時、吉岡は 一度勝ち 、
新免無二は 二度勝っ て 、無二に 「天下に 並び な き 武芸者」の 称号を 賜(た ま
わ )っ た 。
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父( 無二) と 吉岡と の そ う い う 先例が あ っ た か ら こ そ 、武蔵が 京都
に 出て 、吉岡と 数度勝負を 決し た の だ 。
こ う し て 、遂に 吉岡兵法の 家は 断絶し た の で あ る 。
16. 岩流と い う 武術の 達人が い た 。武蔵は 彼に 雌雄を 決し よ う と 申し 込
ん だ 。岩流が 真剣で 勝負を 決め よ う と 言う 。
武蔵は 「貴殿は 真剣で 、私は 木剣で 、秘術を 尽く し て 戦お う 」と 固く 約束
し た 。場所は 、長門と 豊前の 境の
関門海峡の 船島に 決め て 、2 人が 約束の 時刻に 立ち 合っ た 。
17. 岩流は 刃渡り 三尺(約90 セ ン チ )の 真剣で 死力を 尽く し た 。武蔵は 木刀
の 、電光一閃の 一撃で 岩流を
斃(た お し た 。こ れ か ら 、船島を 「岩流島」と い う よ う に な っ た 。
18. お よ そ 十三歳よ り 壮年ま で 、六十回余り 勝負を し た が 、一度も 負け
た 事は な か っ た 。そ し て 、敵の 眉と 眉の 間を 打っ て 勝つ の で な
け れ ば 、勝っ た こ と に な ら な い と 自分に 決め て 、そ の 的を 外
し た 事は な か っ た 。
19. 昔か ら 果た し 合い を し た 人は 数え 切れ な い が 、国中の 名の あ
る 英雄豪傑に す す ん で 立ち 向か っ て 、敵を 打ち 殺し た の は 武蔵一人
で あ る 。武芸者と し て の 武蔵の 名声は 、国内に 普く 知れ わ た っ た 。古
老も そ の 誉れ を 絶え ず 口に し て 、
今の 人た ち が 感銘し て い る の だ 。ま こ と に 目を 見張ら さ れ る
で は な い か 。
20. 武蔵が 武芸に 優れ 、若く し て 武勇の 誉れ を 上げ た 事は 、他の 武芸者を
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大き く 引き 離し て い る 。
武蔵が 常に 言っ て い た が 、武芸は 技量が い か に 優(す ぐ )れ て い
て も 、た だ ひ と つ 「私心」を な く す 事が 大切で あ る 。
そ う す れ ば 、戦場で 大軍を あ ず か り 、ま た 国を 治め る こ と も 決
し て 難し い こ と で は な い で あ ろ う 。
21. 太閤秀吉公の お 気に 入り の 臣・石田治部少輔(三成)が 謀反(む ほ ん )し た
関ケ 原合戦や 、
秀頼公が 乱を 起こ し た 大坂の 陣に 参加し た 武蔵の 功名は い く ら 語っ て
も 語り 尽く せ る も の で は な い 。
22. こ れ ら の 武芸に 加え て 、武蔵は 、礼(生活の 規範)、楽(音曲)、射(弓術)、
御(馬術)や 、書、数、文の 、す べ て に 通じ な い も の は 無か っ た 。ま
し て や 小芸功業(絵画や 彫刻、金工、茶、造園な ど 、身近な 工芸)は 何事で も で
き な い こ と は な か っ た 。真に 優れ た 大人物で あ っ た 。
23. 武蔵は 細川藩に 身を 寄せ て 、肥後の 熊本で 亡く な っ た が 、臨終に あ
た り 「天仰実相圓満之兵法逝去不絶」(天を 仰げ ば 実相円満、兵法逝去に し て 絶え
ず )」書い て 、こ れ を 遺言と し た 。だ か ら 、孝子伊織が こ の 碑を 建
て て 、
父・武蔵の 偉業を 永久に 伝え 、後の 世の 人に 見て も ら う の だ 。あ あ 、武
蔵は 大き な 人物で あ っ た 。
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付 録 そ の 3 :
獨 行 道 作 者 : 宮 本 武 藏 正保二年 1645年一 世々の道をそむく事なし。
一 身にたのしみをたくまず。
一 よろすに依枯の心なし。
一 身をあさく思ひ、世をふかく思ふ
一 一生の間、欲心思わず。
一 我事におゐて後悔をせず。
一 善惡に他をねたむ心なし。
一 いつれの道にも別れを悲しまず。
一 自他共に恨みかこつ心なし。
一 恋慕の道思ひよる心なし。
一 物毎に好きこのむ事なし。
一 私宅におゐて望む心なし。
一 身ひとつに美食を好まず。
一 末々代物なる古き道具を所持せず。
一 我が身にいたり物いみする事なし。
一 兵具は格別、余の道具たしなまず。
一 道におゐては死をいとわず思ふ。
一 老身に財寳所領もちゆる心なし
一 佛神は貴し、佛神をたのまず。
一 身を捨ても名利は捨てず。
一 常に兵法の道を離れず。
正保弐年 五月十二日 新免武藏
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玄信 花押寺尾孫之丞殿
熊本県立美術館蔵 紙本墨書 縦16.8cm 、横98.8cm 1645 年
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~上 記 、 色 々 な 事 項 を ご 紹 介 し ま し た 。 全 て 歴 史 的 第
一 級 資 料 類 に 基 づ く も の で す 。
お 読 み い た だ き ま し て 、 真 に 有 難 う 御 座 い ま す 。
< あ と が き >
【 史 実 の 宮 本 武 蔵 師 】 に 付 い て の 色 々 な お 尋 ね 等 は 、
遠 慮 な く 、
末 次 賢 治 / 【 兵 法 ・ 英 語 二 刀 一 流 】 末 次 通 訳 事 務 所 代
表 に ま で お 尋 ね 下 さ い ま せ :
820-0001 福 岡 県 飯 塚 市 鯰 田 浦 田 3 組 0948-28-4035 / 080-6433-9523 [email protected]
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