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週刊やすいゆたか再刊27号5月26日

孫に語る日本の建国物語

18.三度目の日本の建国―厩戸皇子の贖罪ー

絵里:『憲法十七條』の意義で話し合いのルールを示したのは、主神や大王家の祖先神を差し替えるという大問題で紛糾していたからということだったけれど、それはあくまでも聖徳太子がいたから出来たのか、それともたとえ聖徳太子が架空であってもできたことなのかが問題でしょう。

弘嗣:だからお爺ちゃんは、厩戸皇子がこの差し替えの議論を何とかまとめて、天照大神を主神・皇祖神にできたから「聖徳太子」と呼ばれるようになったんだと言いたいのでしょう。

やすい:ピンポン・ピンポンだ。大山誠一さんなどは厩戸皇子は聖徳太子と呼ばれるようなことを何一つしていないのに、後世になって「冠位十二階制」や「憲法十七条」などを制定し、難しい仏典の講話などをしたことにして聖徳太子だったことにされたというんだ。それらが『日本書紀』には書かれていても、同時代の史料に出てこないというが、当時の文字史料はほとんどないので、同時代の文字史料で実証しろというのは無理難題だ。でも神道大改革がなされたとしたら、そのプロセス(過程)で必要だったと考えられるから、あった可能性はあると言えるだろう。

丁未の乱

絵里:大和政権は河内・大和・山背などの農耕中心の国家だったので、太陽神・水や大地の神々を祀るのが相応しいはずなのに、月や北極星などを祀っていた。それに対して前王朝の祖先神は天照大神で、これは祟り神として恐れられ、帝の娘を御杖代として差し出して、伊勢でお祀りしていた。前王朝の饒速日神は磐余彦大王に臣従して朝廷とは別に太陽神信仰を引き継いでいたわけね。ところがやはり農業国家だから夜中に月や星の祭祀では不安なので、太陽神中心に主神や祖先 神を差し替えようということなってきたわけね。そのきっかけは、第一回遣隋使の夜の祭祀を帝に批判されたこと以外にも何かあったの?

弘嗣:そりゃあ物部宗家が蘇我氏との戦い「丁未の乱」で滅ぼされてしまったことでしょう。現人神である饒速日命もいなくなったでしょうし。いままで前王朝の建国神として大和政権への祟り神だった、天照大神を主神および大王家の祖先神にして神々の中心に据えようという機運になってきたのでは。

絵里:それにしても前王朝の建国神で大国主命と並んで最大の祟り神とされていた天照大神を主神や大王家の祖先神にできるなんて発想がよく思いついたわね。

弘嗣:「三貴神海降り仮説」では、元々河内・大和は天照大神が建国した太陽神の王国だったわけだから、祟り神だって恐れていたのは磐余彦という筑紫倭国の一豪族の集団にすぎなかったのでしょう。それに農業地帯だから太陽、土地、水などの信仰がぴったりの土地柄だった。だから大部分の人々は大歓迎だったのでは。

やすい:太陽神を主神にする場合、饒速日神の現人神が物部氏の族長だから、主神にしたら物部氏は大和政権に臣従しているので主従逆転してしまう。だから大王家の媛が御杖代になっている天照大神を主神にするしかなかったのだ。

高天原候補地

絵里:確か六世紀末までの口誦伝承では、主神は天之御中主神であり、天照大神は海降りで河内湖から草香津に上陸して草香宮を作って太陽神国家を建てた。これでは地方国家の主神でしかなく、大八洲全体の主神にはなりませんね。

やすい:ええ、五世紀以降は河内王朝は強盛大国化したわけだから、太陽神を主神にするのなら、天之御中主神を隠れさせ、天照大神を高天原の支配者にするしかないんだ。だから生まれてしばらくして、眩しすぎるからということで、天に上げて天空の高天原の支配者だったことにしたわけだ。

弘嗣:四世紀末までは高天原は、大八洲から見た海原の向こう側で半島南端の意味だった。それが五世紀には河内王朝の属領で出先機関に落ちぶれてしまい、宗主国としての面影は全くなってしまったのでしょう。だから高天原は天空の国としてファンタジー化されてしまったということだね。それで今まで海降りだったのが天降りだったことにされてしまった。倭人語では「海」も「天」も「あめ・あま」と発音して、同一視されていたので、高天原の天上界化が起こってしまったのでしょう。

絵里:それに天照大神は高天原の支配者だということで、自ら天下りするわけにはいかなくなり、孫の饒速日神や邇邇藝命の天下りにずらしてしまったのね。

邇邇藝命の天降り

弘嗣:息子の忍穂耳命の天降りにできなかったのは、河内・大和も筑紫も両方共天照大神の子孫だったことにするためだったね。それで忍穂耳命は一度天降りしようとしたが、地上が騒がしいので天空に引き返したことになっている。その結果孫の世代が天降りしたことになり、饒速日神と邇邇藝命は兄弟だったことにされている。お爺ちゃんに言わせれば、こういう改変は筑紫倭国と河内・大和倭国が両方共天照大神の孫の国だったことにするためだ。

絵里:そうしないと磐余彦大王(神武天皇)が天照大神の子孫ではなかったことが露見してしまうのね。もし月讀命の子孫だったことになると、天照大神を祖先だったと言うことは、本当の祖先神に対する裏切りであり、神を冒瀆することだといえるわね。

やすい:しかも天照大神が天忍穂耳命の親であるためには、須佐之男命と宇気比をしたことにしなければならず、宇気比が聖婚の一種なので女神にならざるをえないわけだ。そこで天照大神の物実を鏡のはずが勾玉にしてしまい、その辻褄を合わせるために、父伊邪那岐神からプレゼントを天照大神だけが、勾玉をもらったことに改変してしまった。元々は三貴神がそれぞれの特長にあったオカルト的能力を増幅する器物神がそれぞれに授けられたはずだね。天照大神ー鏡、月讀命ー 勾玉、須佐之男神ー剣だったはずだ。こういう改変があって、無理矢理、大王家の祖先神が天照大神だったことにされたのだ。

弘嗣:もし宇気比における差し替えが事実だったら、自分たちの本当の祖先を否定し、消し去ったことになるから、とんでもない冒瀆で、月讀命に祟られることになるでしようね。それに主神を降ろされた天之御中主神が怒り狂って、天に中心がなくなったら、天が崩れ世界が崩壊することにもなりかねません。

やすい:もちろん神々への信仰は、神々への忠誠や帰依が前提だから、それを踏みにじった場合は、激しい祟りが起こるという信仰と表裏一体なんだ。それにこれまでの恩があるわけで、それを裏切るということは厩戸皇子のように純真な心をもっていたら、激しい良心の呵責に苛まれていたに違いない。しかし国家の祭祀はどうあるべきかを考えると、秋津島瑞穂の国は農業国家なのでそれに相応しい太陽神中心の祭祀体系に転換せざるを得ない訳で、摂政としては神道大改革を推進するしかないだろう。

絵里: でも神罰で国が崩壊したら元も子もないでしょう。

百済聖明王

弘嗣: だから仏教を導入していなかったら、恐ろしくてできなかったかもしれないけれど、百済の聖明王から仏教を公伝されているから、御仏のお力をお借りして、神の怒りはなんとかなだめてもらえないかということでしょう。

やすい:弘君、なかなかの政治家だね。折角仏教を取り入れたんだ。そのために蘇我氏と物部氏の戦争までしている。仏教勢力の勝利によって、権威的にも仏教の優位が確立している。神々も煩悩に苦しむ凡夫なんだ。主神や祖先神を差し替えられたらプライドも傷つくし、怒りも抑えがたいだろう、しかし祭祀はその国の風土や産業に合わせて変化せざるを得ない、世界にあり続けるものはなく、無常なんだ。無常無我の真理を神々も覚りなさいと御仏が神々に諭してくださるということだな。

松尾大社摂社月讀神社

絵里:仏教の力もあるけれど、渡来僧や渡来人がもたらした知識が大きな力になったんじゃないの。だって世界には倭国以外にたくさん国があって、それぞれ産業や風土に合わせて違った祭祀をしているわけでしょう。倭国が産業の都合で祭祀体系を変えたところで、神々は頭にきて北極星が北極を離れたり、月が惑星に なったりするわけにいかないでしょう。聖徳太子には秦氏がついていて、経済的な基盤になったようだけど、秦氏というのは西アジアからやってきたということなので、世界の国のいろんな宗教を知っていて、景教の影響も受けているということでしょう。秦氏が世界の存在を教えたということは大きかったのじゃないか しら。

やすい:さすが絵里ちゃんは知的なことを言うね、実際秦氏に関係が深い松尾大社の摂社に月讀神社があるんだ。神道改革で一番排除されて惨めな境遇になった月讀命が祟らないよう祀っている。秦氏が神道改革に助言していたことを伺わせるものだね。しかしそういう啓蒙的な知識は、改革に踏み切らせる大きなバネではあるけれど、罪の意識や神々への畏れは、簡単に拭い去れるものではない。それにこれほど甚だしい神々への冒瀆をしながら、何の犠牲も被らずに済むとしたら、逆に神々を祀る効果も期待できなくなるから、やはりそれに見合う犠牲が必要なんだ。

弘嗣:天之御中主神を主神から降ろし、月讀命も祖先神でなくするということに見合う犠牲となると、計り知れないことになるでしょう。そんな犠牲を出してまで改革はできないのじゃあ。捨身飼虎を描いた玉虫厨子

絵里:その犠牲が厩戸皇子なのでしょう。罪を一身に引き受けて、神罰は皇子一人に下して下さいと神に皆の前でお願いしたというお話でしょう。

弘嗣:そんな、厩戸皇子一人の犠牲ですまそうなんて虫が良すぎますよ。

絵里: それがね、当時は厩戸皇子のことを菩薩太子と言われていたの。仏教国家を表看板に掲げる国では、仏教で国をまとめるために国王が仏道を修行し、菩薩に成るわけ、菩薩は仏になるべく修行されている方だけど、元々王様は偉いから仏になれるのは約束されているようなものなの。だからその菩薩が我身を犠牲にしてということは、一国の人々がみんな犠牲になるのに匹敵するということなの。

やすい:そうなんだ、お釈迦様つまりゴータマ・シッダールタは、釈迦族という小国の王子だったのだが、彼が修行に出てたために彼の一族は滅ぼされてしまったんだ。そういう説話がのこっているということは、釈迦が成仏してそれですべての人々が救われるためには、彼の属していた部族が皆殺しにされても仕方がないという解釈だな。これを聖徳太子に応用したわけだな。

弘嗣:そりゃあちょっとおかしいな解釈だな。だってゴータマ王子の方が釈迦族より重いという解釈なら、厩戸皇子の方が倭国全体より重いはずで、だから倭国全体が厩戸皇子の犠牲になって滅んだほうがいいということに成るだろう。

やすい:確かに、そうだな、弘君の言う通りだけど、まあ、それは置いといて、厩戸皇子は倭国全体に匹敵するから、太子が一身に罰を引き受ければ、それで倭国は助かって、太陽神の国としてやっていけるということなんだ。

絵里:ちょっと納得いかないんだけど、それじゃあ厩戸皇子は何か神罰を受けたの?別に病気で死んだだけでしょう。

や すい:それもその通りだけど、仏教では仏教を貶したものは無限地獄に落ちるというらしい。だから神罰も永劫の苦しみを受けるという形で、死後の世界を想定しているかもしれないだろう。つまり厩戸皇子なら天寿国(阿弥陀浄土)に行けると決まっている筈なんだけれど、自らその道を諦めて、大罪を犯し、無限地獄を引き受けたわけだ。それで天照大神を主神・皇祖神にする日の本の国「日本国」ができれば本望だということだな。

弘嗣: ちょっと待った、可怪しいよ。だってそれだったら、釈迦三尊像の光背銘や天寿国繍帳でも、神罰を一身に引き受けられたので地獄で苦しんでおられるかもしれないので、御仏の力で極楽往生させてあげて下さいと書くはずじゃないの?

やすい:弘君、なかなか言うね。すごい説得力のある疑問の出し方だよ。将来楽しみだな。それがね、心の中ではそうお祈りしていたんだけれど、文字で書いたら駄目なんだ。だって文字で書いてしまうと差し替えがあったことがばれてしまうだろう。主神・皇祖神を差し替えるのは大変な大罪だから、そんな大罪を犯した事を認めると支配の正統性が崩れてしまう。だから初めから天照大神が主神、皇祖神であったかのように神話を改変してしまったわけだ。そして改変した事自体 「なかった事」にしてしまったんだ。だから「聖徳太子の大罪」もなかったことになるから、地獄になんか落ちているはずがないわけだ。だから釈迦三尊像の光背銘や天寿国繍帳も厩戸皇子は極楽往生するに決まっているようにしか書けなかったということなんだ。

絵里:それじゃあ、これで三度目の日の本の国「日本国」の建国ね。最初は天照大神が海降りして河内湖の草香津に草香宮を中心する「日本国」ができたの。でも天照大神は洪水で被災死してしまったわ。それで「天岩戸」の儀礼で息子の天照大神二世に引き継がれたのよ。

災害を避けるために宮は三輪山に移され、天照大神一世の孫の饒速日一世の時代に栄えたのだけれど、八千矛神が侵攻してきて出雲帝国が出来、八千矛神は大国主命を名乗り、平和で豊かな国造りに転進した。

浅田真央と日の丸

饒速日一世には宇摩志麻治命という忘れ形見がいて、大国主命の支配下に入った物部氏の族長に育った。そして大国主命を奇襲した武御雷軍によって三輪山は占拠されていたが、平和で豊かな国造りをした大国主命を慕う勢力は、奇襲軍の支配に抵抗していたので、宇摩志麻治命は大国主命を支持する勢力を糾合して三輪山を奪還し、饒速日王国を再建した。これが第二の日本国の建国よ。

しかし、武御雷軍にすれば出雲帝国、大国主命の支配を倒したのは宇摩志麻治命の親の仇を取ってやったことになるでしょう。その恩を仇で返した再建饒速日王国は懲罰すべき対象だとされたの。その大義名分で東征したのが磐余彦の一族よ。彼らは饒速日王国を打倒し、大和政権を樹立したわ。これは第二期「日本国」の滅亡と言えるわね。そして大和政権は実は、「夜の食国」であり、「月本国」だったのよ。

七世紀になって農業国にふさわしく太陽神の国にするために主神・皇祖神を天照大神に差し替え、元々天照大神が主神・皇祖神であったかのように神話を改変した。これは神々の差し替えという大罪なので、摂政である厩戸皇子が神罰を一身に背負うことを誓い、改革を取りまとめた。これは自らの祖先神を主体的に選び直すことであり、あるべき国家理念の実現としての第三期の「日本国」の建国なのね。

弘嗣:それなら七世紀前半は「日本国」が意識的に造られた時代ということになるので、七世紀前半の文字史料に「日本国」がもっとたくさん使われていたと考えられるけど、全くそういう文字史料が存在しないのはどうしてなの。

やすい:それは「日本国」の入った文字史料だけでなく、七世紀前半の文字史料がほとんどないわけなんだ。

19.初めて天皇と呼ばれたのは誰か?

絵里:六世紀末までは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が主神だったということは『古事記』で最初に現れた神が天之御中主神だからなの?

『古事記』本文書き出し

「天地(あめつち)の初發(はじまりましし)時、高天原に成りませる神のみ名は、天之御中主神、次に高御產巢日神(たかみむすひのかみ)、次に神產巢日神(かむむすひのかみ)。此の三柱の神は、並びて獨り神に成りまして、身を隠したまひきなり。」

やすい: 天之御中主神というのは天の中心ということだから、中心ができることで、その周りに中心をめぐる天体が生まれるということになる。中心があるから生み出す力が働くということだな。偉大なる生み出す力である高御産巣日神と、神妙な生み出す力である神産巣日神が機能できるようになって天地に様々なものが生まれてくるということだな。それで天之御中主神を含めてこの三神を「造化三神」と呼んでいたんだ。この三柱の神々が高天原を仕切っていたということだ。

弘嗣: 問題は「獨り神に成りまして、身を隠したまひきなり。」と なっているところでしょう。独身の神なら夫婦じゃないから、物事は対立したり、対称になったりで見えてくるもので、独りだけではその働きや存在は目に見え ないということかな。それで身を隠しているだけれど、世界が存在するのは中心がまずあるからであり、世界自身が生み出す力をもっているからだという解釈でいいのかな。

絵里: その解釈は深いわね。ただ造化三神が身を隠したことにしたのは、天照大神が高天原の主神になれるようにするためだと考えたら、この部分は七世紀になってからの改変ということになるわね。

やすい:だろうね。天照大神が高天原を支配するというのは、七世紀の改作なので、その際に高天原を仕切っているとみられた造化三神は隠れていることにしたのでしょう。実際は天照大神は河内・大和倭国の建国をしていて、高天原にはいなかったし、高天原では造化三神の活躍は続いていたんだ。出雲帝国に使者を送ったり、武御雷軍を派遣して大国主命を奇襲したり、磐余彦大王の東征を支援したりしているだろう。そこからも「身を隠したまひきなり」は七世紀の改変だと分かるね。

弘嗣:ということは高天原つまり任那・加羅などには造化三神の現人神が四世紀まではいたことになるでしょう。とすると五世紀に河内王朝の属国になってしまった時に高天原はファンタジー化して天空に上げられたというけれど、それは言い換えれば河内王朝に侵略されて滅ぼされてしまったということじゃないの?

絵里:その解釈は怖いわね。住吉大社の創建というのは壱岐・対馬が河内王朝に取り込まれたということでしょう。それで弱体化していた高天原と河内王朝の関係 が険悪になり、造化三神を一挙に殺してしまい、宗主国としての高天原は滅ぼされ、河内王朝の属領、出先機関になってしまった。

やすい:それは凄い恐ろしい推理だね。それで宗主国を滅ぼし、神々を滅ぼしたことなど認めるわけに行かないから、高天原は元々天空にあったということにし、 半島南端の現人神たちは偽物だったとか、元々いなかったことにしたかもしれないね。考えておくよ。いやあそこまでは考えていなかった。これは孫に超えられてしまったなあ?まごまごしてられないよ。

弘嗣:でました、ジジギャグ、ゾクッだね。これまで長いこと同盟関係だったからまさか戦争まではということだけど、よく考えると、高天原や海原は、一貫して倭人三国の統合に反対だったわけで、従って、新羅侵攻後、息長帯媛の大和凱旋と倭国再統合は、高天原にとっては、凄いショックだったわけでしょう。

絵里:そうね、そりゃあ確かだわ。そこで息長帯媛としては住吉三神をおもいきり優遇して、壱岐・対馬の有力者に住之江津に当時としては高級の住居などを用意したんじゃないかしら。それが「すみよし」の地名の由来なのよ。それから高天原の有力者も極力引き抜いて優遇したかもしれないわね。

弘嗣:じゃあさあ、住吉大社には創建時には住吉三神と天之御中主神を本宮に祀っていたという話はどうなるの。天之御中主神とは敵対関係になったのでしょう。

やすい:創建後関係が険悪になったかもしれないね。それにたとえ、造化三神を殺したとしても、殺した事自体認められないからまともな戦争で滅ぼしたというよりも、何者かに謀略で殺させ、権力機構ががたがたになったところで、新羅などに侵攻されるのを防ぐ名目で軍を派遣したというところだろうな。だから天之御中主神を表立っては敵視していないということだな。

絵里:河内王朝の属領化してからは、高天原を天空化するということで、現人神の一族は滅ぼされていて、天之御中主神は現人神としては居なかったことになるわけね。それで七世紀になって主神差し替えという時に天之御中主神の現人神がいないのでやりやすかったわけ?

やすい:そりゃあそうだろう、ただ現人神はいなくても、天之御中主神は北極星として存在するわけだから、勝手に差し替えると祟る恐れはおおいにあるわけだ。

弘嗣:でもさ、国は倭国だけではないわけで、何百もある。たとえ倭国が主神を差し替えても、北極星が天の中心を外れるなんてないんだという理屈で納得できなかったの。

絵里:それは甘いでしょう。神として祀ってきた以上、祀らなく成ったら神罰が必ず下るというのが頭にこびりついているから、倭国だけにでも災害が起こると恐れたはずよ。

中島みゆき「地上の星」

やすい:そこでさ、当時は天之御中主神の現人神がいなかったのも幸いして、大王の称号を天皇にしたんだ。天皇というのは天皇大帝のことでいわゆる天帝なんだ。天帝の実体は盤古が死後魂が天上にあがって北極星になったということなので、北極星=天之御中主神の称号は天皇でもいいわけだ。大王の称号を天之御中主神にするとやたら長ったらしくなるので、「天皇」にし、これを天之御中主神の現人神として崇拝することにしたわけだ。高天原の支配者ではなくなっても、 地上にいてすべての存在の中心なのが天皇だということで、中島みゆきの「地上の星」という歌があるが、地上の北極星なのだよ。だから天之御中主神を投げ捨てたわけではないと言い訳しているわけだな。

弘嗣:未だに最高神は天之御中主神だって言ってる人、見っけ❢爺ちゃんの説だと主神を天之御中主神から天照大神に差し替えたということだけどさ、この明治天皇玄孫(五代の孫)の竹田恒泰さんはこう書いているよ。http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu05.html「古事記にはたくさんの神が登場しますが、その一番はじめに現れる神は、天之御中主神です。 天照大神が最高神だと思っている人も多いかもしれませんが、天照大神が現れるのは、ずっと先のことです。実は、この天之御中主神こそが、日本神話の最高神なのです。    まず「天之御中主神」という名前に注目してください。「天」とは宇宙のことで、「主」とは、とどまって動かない者、つかさどる者のことです。ですから、この神様は、「宇宙の中央にいて支配する神」ということになります。    では、天之御中主神が現れる場面は、古事記にどのように書かれているのでしょう? 太古の昔は、天地(あめつち)の区別もなく、全てのものは形をもちませんでした。しかし、あるとき天と地が別れ、天の高天原にはじめて現れたのが天之御中主神でした。天地開闢(てんちかいびゃく)、宇宙の始まりです。  しかし、天之御中主神は宇宙の根源、もしくは宇宙そのもので、ありとあらゆるところに満ちていて、姿をとらえることはできません。現れたとたんに、完全に姿を隠してしまいます。  けれども、姿を隠したとはいえ、その後何もしていないわけではありません。目に見えない世界から神々に指令を出すことで、常に宇宙を操っている至上神なのです。  天之御中主神は、古事記にはその後一度も登場しないので、その姿、ことば、行動などは何一つ知られていません。神秘のベールに包まれた神様だといえます。 」

やすい:鎌倉時代に伊勢神宮の外宮の度会(わたらひ)氏が唱えた度会神道でも始源神は天之御中主神であり、これが最高神だという議論があったんだよ。それは内宮が天照大神信仰に対して、外宮は豊受大神だろう。豊受大神は豊穣神なので普通は大地の神や水の神といわれているんだが、本体は天之御中主神だとして、外宮の方が内宮より優位に立とうとしたんだ。

江戸時代には平田篤胤が垂加神道を唱えて、天之御中主神を始源神で主神とし、天照大神を皇祖神とする神道大系を作った。そして明治初めに一時それで行くことに成ったようだが、皇室の祖先神が最高神でないのは困るということで、結局天照大神が主神で皇祖神でもあることになっている。

そして天皇は天照大神の血統だから統治権があるとされ、しかも天皇が即位することは天照大神の御子と成ることだして、天照大神の御子の資格で、神々と人間や自然を支配するということになり、天皇より上の神は天照大神以外にはいないことになった。それで天皇は、伊勢神宮には参拝されるが、それ以外の神社にいかれる場合は、行幸されるわけで、参拝ではないんだ。まあ神性を授けられるわけだな。

明治天皇の玄孫が一民間の神道研究者として天之御中主神が最高神だという解釈をされるのは大いに結構だけれど、記紀が天照大神が高天原の支配者であり、天皇がその直系の資格で支配の正統性をもつとされていることは確かなんだ。ただ竹田さんが偉大なのは、元々は天之御中主神が主神だったことに気づいていることだな。それが天照大神に高天原の支配権を簒奪され、それ以後妙見信仰以外では、祀られなくなっていたんだから、ずっと最高神だったとは言えないんじゃないかな。

絵里:それでお爺ちゃんとしたら、天之御中主神が六世紀末までは未明に毎日大王が祭祀していたのに、七世紀なってからそれがなくなったということで、天之御中主神信仰がなくなったと思われたら、さぞかし、天之御中主神がご立腹だろうから、大王自身が天之御中主神の現人神になって、地上の北極星としてこの世界・宇宙の中心として君臨する天皇という称号を名乗ったということね。

弘嗣:ということは七世紀初めだから推古天皇(額田部大王)が最初に天皇を名乗ったということだね。最近は天武天皇か持統天皇が最初に天皇を名乗ったとされているようだよ。

やすい:だからそれだと神道大改革を見落としているわけだ。

絵 里:そりゃあそうでしょう、主神・皇祖神の差し替えがあったと言っているのは、世界広しといえどもお爺ちゃんだけでしょう。ただ「天皇」が中国の道教の「天皇大帝」に由来するとは思われているようね。それは実体として北極星だから、天之御中主神も北極星としたら、神道改革で主神を降ろされた代償という、お爺ちゃんの理屈はそれなりに一本筋が通っているわね。

法隆寺薬師如来像光背銘

弘嗣:それにさタイミング的に見て、第二回遣隋使六〇七年には「日出る処の天子」で太陽神の国になっているから、そのあたりに主神差し替えがあったとすると、天皇号もその辺りに始まっていることになる。それで法隆寺薬師如来像光背銘がちょうどその頃にできていて、ドンピシャなんだな。そこには「天皇」「大王天皇」という文字があるわけだ。

絵里:でも偽作説があって、七世紀末の字だっていうじゃない。

や すい:偽作説は、法隆寺が寺の格が高いことを示すために、後世に偽作した文章だというんだ。用明天皇が五八七年に額田部皇女(推古天皇)と厩戸皇子に薬師如来像を病気治癒のために作って欲しいと頼まれたけれど、その時に亡くなられてしまったので、そのままになっていたのを六〇七年になってやっと実現したことが書かれている。

もし天皇号が天武・持統朝になってから使用されたとすると、六〇七年には使用されていなかったわけだから、六〇七年に書いたはずの文章に天皇号があるのはおかしいだろう。ということはこの偽物を書いた人はわざと偽物と分かるように書いたことになる。

もし偽物だとばれてしまうと、法隆寺は財政援助を得るために国家と天皇を欺いたことになるので、重罪は免れないだろう。つまりここにたとえ偽作でも「天皇」号があるということは、七世紀はじめに天皇号が使われていた有力な証拠だということなんだ。

第一、法隆寺などが安易に寺の財政を援助してもらうために偽の薬師如来像をつくり光背銘を書いたという解釈自体、極めて軽々しい判断だ。

絵里:でも書法が七世紀末のものだというのは確からしいわよ。

や すい:それはね、火事とかあって、傷んだので光背銘を作り直したから、七世紀末の書風になってしまったということなんだ。その際に元通りの文面だったから「大王天皇」という過渡期の表現のままなんだ。「天皇」という言い方が定着していたら「大王」は付ける必要が無い。まだ「天皇」だけだと何の意味かわから ないので、「大王である天皇」という意味で「大王天皇」としたわけだ。

絵里:七世紀末に書かれたのだったらやはり、七世紀初めに天皇号が使用されていた決定的な証拠とはいえないわね。状況証拠にはなるかもしれないけれど。

法隆寺釈迦三尊像光背銘

やすい:そうなんだ、それを七世紀末に書かれたから、七世紀初めには天皇号がなかった証拠と勘違いしているのが、実証史学なんだ。それにうがった詮索が好き で、法隆寺の釈迦三尊像の光背銘まで疑ってかかっている。これは別に天皇号がないから、疑う必要もないのに、「法皇」という表記は、政治上の天皇に対して、仏教界の最高権威で「法皇」になると考えて、この時代は「天皇」号が使用されていないから「法皇」号もなかったと決めつけるんだ。

弘嗣:ああ、「法興」年号が書いている光背銘だろう。元号は「大化」からの筈なのに可怪しいよね。

絵里:お寺が勝手に年号をつくったり、民間で年号を作ったりもしていたんじゃないかとも言われてるわね。法興年号が入っているから偽物とはかぎらないのでしょう。

やすい:この時代は蘇我氏が圧倒的な勢力を誇っていたわけだ。それで大化の改新以後、蘇我氏の時代の年号を嫌って、法興年号はなかったことにした可能性もあるね。もし「法興」年号がなかったのなら、偽物に書き込むと、偽物とわかってしまうだろう。もしこれが偽物だとしたら、ばれないように書くから「法興」年号はあったと考えるべきだ。ただし寺年号・私年号の可能性も考えないとね。しかし内容が摂政である厩戸皇子の病気平癒、極楽往生を願っているわけだから、 やはり国家の正式年号だったということだろうな。

弘嗣:でもさ病気平癒と極楽往生というのは両立するの?そんなこと一つの文面に書くかなあ?

絵里:その疑問はもっともね。それで偽物だという解釋もあるのでしょう。

やすい:あるある、あるある大事典だよ。梅原猛先生も、『隠された十字架』では不自然だとして偽作説だったのだが、数年後の『聖徳太子』では病気平癒を願いながらも、これが天寿なら極楽往生をというのはよく考えるとに肉親の情として大いに有り得るし、真心の現れだとして、かえって本物の証拠だと説を変えられ たんだ。

弘嗣:お爺ちゃんの説だと、確かに天皇号を使う理由ははっきりしているのだけれど、他の説だと推古天皇や天智天皇の時期の天皇号使用例の史料がどうも本物ではないのではないのではないかという疑問が根拠だろう。それと唐の則天武后の夫の高宗が病気がちで、則天武后が専制できるように祭り上げる意味で天皇号を使ったので、その影響で使用したのではないかということで天武・持統朝になったわけだね。

絵里:当時は唐の文化的影響は圧倒的だったから、唐が使ったら真似ないと時代の流れに乗り遅れるみたいな気がしたとかありそうね。

やすい:それだったら高宗死後は使ってないので、日本も真似てやめないとしたら、やめない理由が必要だろう。それに高宗の真似というのは説得力がないんだ。だって高宗は白村江の戦いで倭国水軍を壊滅させたわけだから、仇敵だったんだ。それに天武天皇は実権を握っていたので、祭り上げられる立場ではないよ。

弘嗣: 新羅と張り合っていたから、新羅より格上にするために天皇号を使ったことも考えられるだろう。

絵里:そういう統治者の称号というのは東アジアの国家間の上下関係というのが大きく影響するということはあったでしょうね。

やすい:それは大事な視点なんだが、新羅は唐に冊封していたので皇帝は名乗れない。倭国は朝貢はしていたが、冊封していないので皇帝を名乗れるということで、実際に唐や新羅との外交では皇帝を名乗っていたんだ。

弘嗣: どうして天皇は名乗れなかったの?天皇は誰に対して名乗っていたの?

やすい:岩波書店から出ている『日本思想大系3 律令』の「令巻第七 儀制令 第十八』を開いてみよう。

「天子。祭祀に称する所。天皇。詔書に称する所。皇帝。華夷に称する所。陛下。上表に称する所。太上天皇。譲位の帝に称する所。」

ここからも天皇は国内向けの詔書に天皇の玉璽が押されているんだ。唐や新羅には皇帝使っている。天皇だと天帝を意味するから、皇帝より格は上だ。天命が下るというのは、皇帝になる命令を天帝=天皇がくだして皇帝になるわけだから、日本の天皇の方が唐の皇帝より格が上になってしまう。これはとても使えない事に なる。だから他国との関係を意識して「天皇」にしたわけではなくて、国内向けだったということだ。

20.〈永遠の今〉としての日本の建国

絵里:一九四〇年つまり昭和15年に「紀元二六〇〇年祭」が盛大に祝われたようだけど、あの時は日中戦争が泥沼化しており、太平洋戦争に突入する前年だったわけで、国民の愛国心を盛り上げて一億一丸となって難局に立ち向かうということで、大切な儀式だったわけね。

弘嗣:紀元二六〇〇年というのはその根拠はともかくとし、日本がもっとも古くから続いている国であるという誇りを持たしたわけだろう。しかも日本国を統合してきた皇統は万世一系であるということで、世界に比類ないし、だから天皇を神として仰いでいる限り、滅びることがないという宗教的信念のようなものを植え付けられ洗脳されていたんだね。だから建国の意義を一九四〇年に謳いあげるのはよく分かるけれど、何を今更この二〇一六年になって、お爺ちゃんはどういう意義を感じて建国の話をしてきたわけなの。

やすい:二〇一五年は重大な日本の岐路になる法案が成立しただろう。

絵里:集団的自衛権を行使できるようにする「安保法制」ね。これに反対する国民の運動が盛り上がり、国民運動としては一九六〇年日米安保条約改定反対運動以来の盛り上がりだったようね。お爺ちゃんは、ええじゃないか、米騒動、六〇年安保闘争、二〇一五年「安保法制」反対運動と日本近代史では約五〇年周期の民衆運動の盛り上がりが見られると早速法則化していたわね。

やすい:日本近代史は一九四五年の敗戦で大きく2つに区切られる、開国以来富国強兵・殖産興業ということで国を強くして戦争によって国勢を拡張していく方向は、遂に一九四五年に破綻した。それ以来、もう戦争はコリゴリだということで、戦争を放棄し、戦力を持たないで、どの国とも仲良く助けあっていこうということで平和と民主主義を表看板に掲げてきたわけだね。まさしく『ヤマトタケル』 のような戦士から白鳥への見事な変身だ。

弘嗣:それが実際は東西冷戦下では、国際社会全体で日本の非武装中立を保障できないだろうということで、日米安全保障条約で米軍の核兵器で守られ、日本自身も自衛隊で自国防衛をするということになり、それが自国の防衛と世界平和は表裏一体だから、集団的自衛権を行使しなければならない場面も想定すべきだということに成って、「安保法制」が出来てしまった。これでは戦争をしない国とは言えなくなってしまったということでしょう?それと建国の話のつながりは?

やすい:これは国造りの2つのパターンなんだ。兵を強くし、領土を拡張し、拡大していく国家の作り方が一つある。もう一つは平和で豊かな国造りだ、和の精神で他国と協調し、話し合ってみんなで助けあい、知恵を出し合って平和で豊かな国作りに励むパターンだ。この2つの傾向は昔からあったのではないか、国造りの原点を見直すことで、歴史からも今日いかなる国造りに励めばいいのか反省させられること、参考になることがあるのではないかという問題意識だよ。

絵里:その2つのパターンで見ると、お爺ちゃんが「三貴神の海降り」仮説での、天照大神の国造りは河内・大和の太陽信仰に基づいて、貴人(まれびと)として太陽の現人神になり、うまく人々をまとめて農耕共同体を発展させていく形で、平和で豊かな国造りという感じなのね。

弘嗣:須佐之神の場合は、八岐之大蛇退治のような侵略者を駆逐し、出雲国を回復した。しかし外来者なので、出雲をまとめ上げるので手間取って、骨肉の争いで 殺されてしまった。須佐之神の婿の大国主命は武力で覇権を拡大して、大八洲の統合を目指したけれど、高天原の使者から止められた。それで巨大化した出雲帝国で平和で豊かな国造りに転換して評判を得る。これは日本近代史の前半が富国強兵で軍国主義、後半は平和で豊かの国造りというのと似ているよ。

やすい:高天原や海原にしたら、平和で豊かな国造りであっても、結果的に大八洲の統合になってしまうと、倭人三国をコントロールできなくなり、統合された倭国に呑み込まれるということで、常に統合を拒否し、三国の並立を固定化しようと動いたわけだ。平和で豊かな国造りに転進していた大国主大王の出雲帝国を武御雷軍の奇襲作戦で崩壊させた。

絵里:しかし、平和で豊かな国造りに転進していた大国主大王の人気は半端じゃなかったので、奇襲軍は占拠した三輪山を守りきれなかったのよね。饒速日一世の忘れ形見宇摩志麻治命が、大国主支持勢力を糾合して、武御雷軍を撃退してしまった。それで第二の太陽神国家を建てたわけでしょう。饒速日王国の再建ね。これは物部氏一族と大和に居残った出雲勢力の連合国家だったわけね。

弘嗣: 撃退された武御雷軍からすれば、宇摩志麻治命の親の仇である大国主命を倒してやったのに、その恩を仇で返されたということで、いずれ饒速日王国を倒さなければならないと考えていたんだ。それで磐余彦という筑紫の地方豪族が、筑紫では大王に成れないというので、それなら饒速日王国を倒せばいい、きっと高天原や海原も支援してくれると侵攻をけしかけたわけでしょう。

やすい:ええ、磐余彦大王の東征には恩を仇で報いた饒速日王国への懲罰という大義名分があったのだけれど、そのことは記紀の編纂にあたって消去されてしまっている。むしろ磐余彦大王が天照大神の直系だということに正当性を限定しているんだ。つまり奈良時代という記紀の編纂段階では、天照大神の直系が国を統合したという血統の正当性だけが問題なのであり、饒速日王国を倒すということに正当性があったかどうかは大した問題とは感じなかったということだろう。

絵里: ところが実は、倒された饒速日王国こそ天照大神の直系であり、倒した磐余彦一族は月讀命の血統だったということでしょう。それは天照大神の本来の物実が鏡なのに勾玉になっていて、須佐之男命の宇気比の相手が月讀命から天照大神に差し替えられていること、そのために男神だった天照大神が女神にされていることから言えるということね。

弘嗣:だから記紀の記述とは違って磐余彦東征の大義名分は恩を仇で報いた饒速日王国 への懲罰であるということだね。それで出来上がったのは太陽神の国ではなく、主神を天之御中主神とし、大王家の祖先神を月讀命とする「夜の食国」だった。 それは6世紀末まで続いたということだね。だから神武即位を紀元にする「建国記念の日」は「日本国(日の食国)」の建国記念の日に相応しくない、むしろ亡国記念の日にこそ相応しいという理屈だね。

絵里:とすると建国理念として我々が引き継ぐべきものは、磐余彦の建国からではないということね。つまり侵攻して覇権を打ちたて、「八紘一宇」で従うものは 家族的に構成員として守るけれど、従わないものは「撃ちてしやまむ」というのが軍国主義的建国理念でしょ。それに対して天照大神的な建国理念というのはどうまとめられるの?

やすい:鏡で太陽神の儀礼を行い、太陽の運行に合わせた暦を作って、年中行事を定めて、農林水産などの日程をさだめ、産業を指導して豊かな実りを保障して、財政基盤を整えるということだな。つまり太陽と一体化して大王が恵みをあたえれば、その恵みに感謝して貢を差し出すのは当然だという理屈で支配するということだ。

弘嗣: それは北極星や月で暦をつくったり方角を示して、それを基礎に産業を指導して、貢を取り立てる「夜の食国」でもいえることじゃないの?

やすい:国家である以上、公共性を示すことができるから、大義が成り立つわけだからね。それでも国造りの基本が強兵で、戦に勝って国勢拡張という原理で行きがちなんだ。それを日本近代も前半でいやというほど体験して、破綻した。それで平和で豊かな国造りに徹しようということなら、建国原理を日本の始原に戻って再検証することも大切なんだ。

それで平和で豊かな国造りの見本として、天照大神や大国主の晩年や饒速日王国、そして聖徳太子の和の精神に基づく国造り、主神・皇祖神差し替えによる自己否定的な太陽神国家の復活などは大いに参考になるんじゃないかなということだ。

絵里: 軍国主義的傾向としては大国主命の出雲帝国形成期とか、磐余彦大王の饒速日王国侵略とか、息長帯媛の新羅侵攻および倭国再統合後の河内王朝の強盛大国化などがあげられるわね。

弘嗣:軍国主義的になるか平和で豊かな国造りになるかは、その時代の国際情勢とか、国内の勢力争いなどの影響を受けるので、同じ大王でも前半は軍国主義、後半は平和主義になったりするわけでしょ。その時代に合わせて考え方も変わってくるんじゃないの?

やすい:弘君、言うことがなかなか物事の本質を見据えたようなことを云うねえ。平和で豊かな国造りに偏りすぎると軍事的には隙だらけに成ったり、兵士の士気が衰えたりするので、他国による侵略を招くことにもなりかねない。

軍国主義的な国造りをすると侵略で拡大した国家は、自然や産業を破壊しすぎて、一時的な略奪に終わり、富を再生産できないので、結局略奪した富の奪い合いや権力の奪い合いを惹き起こして自壊してしまう。やはり平和的な産業や文化の交流によって国際的な交易圏を形成して、相互協力で共存共栄を図っていくのが望ましいわけだ。

絵里: 確かに時代によっては、先ずは富国強兵をしなければならない場合もあるかもしれないわね。今弘君が知りたいのは、21世紀の日本の歩むべき道として戦争に備える軍備を整えた上で、諸外国との交流を進める国づくりでいくのか、それともそろそろ各国単位の軍備の時代は終わりにして、紛争地域に国連混成軍を駐屯させ、各国は国内治安を維持する警察止まりにすべきなのかということでしょう。

10式戦車9.5億円平成22年

弘嗣: お姉ちゃん、国連がほとんど機能できていないから、各国単位の軍備の廃棄なんかいつのことかわからないんだよ。だから日本も集団的自衛権を行使できるようにしようということになったんじゃないか?

やすい:弘君、各国の財政も大変で、十分な防衛体制などなかなか取れないんだ。なにしろ戦車一台10億円の時代だから、各国が自国を守るには莫大な費用がかかる。実際戦後戦争した国はほとんど数えるほどしかなく、戦争もしないのに防衛費・軍事費に莫大な税金を使っている。そんなことをするより、各国単位の軍備はなくして、紛争地域に国連混成軍を駐屯させて、紛争当事者を武装解除して話し合いのテーブルにつかせるのが一番いいんだ。

弘嗣:そんな非現実的な理想論ではISや北朝鮮などの脅威に立ち向かえないよ。

やすい:国家が強力な軍隊を持ってもISの攻撃から身をまもれるわけではない、軍隊同士の決戦という形はとれなくなってきているからね。もし外国からの核攻撃から自国を守るとすると迎撃システムを完成させるのは莫大な費用がかかるから、 財政赤字一一〇〇兆円の国には無理だね。ともかく日本は平和で豊かな国造りに徹している国の印象を与えることだよ。もう国家間の戦争に備える時代ではないんだ。だからいつでも国家単位の軍備をやめて、国連混成軍に委ねるつもりだということを宣言しておく必要が有るね。そうすれば歴史認識問題への対応への不信から、外交関係がややこしくなっている日中・日韓関係は改善するだろう。

絵里: お爺ちゃんがいいたいのは、古代から平和的な建国理念と、軍国主義的な建国理念がせめぎあってきたということよ。だからその実相を捉え返して、日本の伝統は決して倭寇的な海賊的好戦主義一色ではなく、聖徳太子の和の精神に代表される平和で豊かな国造りの伝統もあるんだということでしょう。そしてその面を掘り起こして紹介し、平和で豊かな国造りを進めていくのに役立てようということよ。そして軍国主義的な面を推し進めてしまうと、財政は持たないし、国際的な 危機は深刻に成る一方だということね。

ソーラーアーク

弘嗣:太陽神の国「日本」を強調するのだったら、太陽と一体化してその徳(めぐみ)を与えて支配する国ということだから、太陽光発電とか、太陽エネルギーに源がある自然エネルギーの利用を基礎においた国造りを提案するのも大切だろう。

やすい:地球自身も元はといえば太陽の片割れのようなもので、その意味では風力・水力・地底もすべての自然エネルギーは太陽で象徴されるんだ。太陽は熱だけでなく、光を与えてくれ、物事を認識できるのも光と陰のおかげだ。そして太陽の熱と光が命の元になる。

絵里: イソップの話で、旅人の上着を脱がせるのに風とお日様が腕比べをする話があるでしょう。風のように無理矢理脱がせようとしても、旅人は必死で脱ぐまいとして、なかなか脱がせるのはむつかしいけれど、太陽なら暖かくして、自然に気持ちよく脱がせることが出来るわ。つまり徳(めぐみ)や愛をあたえることで人々を動かし、従わせることが出来るということなの。日本は資本主義が高度に発達して格差も厳しく、就きたい仕事につけない、勉学の機会が与えられない、きちんと福祉を受けられない人も多いけれど、そういうのを改善していけば、それぞれの人々の能力を伸ばせるし、自己実現させることが出来るのよ。「日本」とい う国名にはそういう光つまり希望を与え、命を発現させ、愛を与える国という意味を含ませたいわ。

弘嗣: 聖徳太子の『憲法十七條』も、慈悲の心で話し合って皆が幸せになれる国を作ろうということだから、建国の理念や精神は永遠に変わらないと言えるね。

やすい:聖徳太子が神々の差し替えという大罪を一身に背負ってくださったお陰で、 我々は太陽の国『日本』に生まれ人生を過ごすことができるようになったということは、忘れてはいけないね。それを聖徳太子がいた証拠がないとか、厩戸皇子が偉大なことをした証拠がないとかいって、だから聖徳太子の実在を否定する人もいるけれど、日本国があるにはそれなりの深いわけがあり、尊い犠牲があったことはしっかりと胸に刻んでおくべきだろうね。

絵里:「撃ちてしやまむ」ではなくて、「和の精神」に基づく平和で豊かな国造りに取り組み、そのために学び、はたらき、創意工夫することが、聖徳太子の思いを引き継いで生きることであり、聖徳太子とともに主体的に太陽の国を選ぶことになるのでしょう。かと言って北極星や月も大切だけれど。

やすい:その時に一四〇〇年の時間の隔たりは弾け飛んで、聖徳太子とともに生きるということであり、それが「永遠の今」ということなんだ。そしたら「無限地獄」で苦しんでいる聖徳太子の菩提を弔うことができるかもしれないね。建国というのは決して過去の過ぎ去った営みであるだけでなく、今我々が和の精神で平和で豊かな国造りに邁進している今のことなんだ。

弘嗣:しかし、さっきは国ごとの防衛なんかもう古いみたいな近代国家を乗り越えるような事を言っていたのに、今更建国というのはどうでしょう?

絵里:そりゃあそうよ、現在において国を建てるということは、新たな紛争の種をまくことであってはいけないのよ。少子高齢化で衰退しつつある国に若い力を世界中から呼び寄せる、文化・観光・教育の先進国に脱皮しなければならならないの。 だからグローバル化はもっと進んでいくの。国家の自治体化ね。そのためには国連改革が必要なんだけれど、なかなか進めるのは大変なようね。

やすい:WEBの発達でグローバル市民運動も広がって、政党も各国単位の政党とは別にグローバル政治に働きかけるグローバルな党派が造られ、グローバルな民主主義の立場から各国政府や国際団体に働き掛けたり、要員を送り込んだりするようにならなければならないんだ。各国の政治改革もそれと連動するグローバルな政治環境が必要だからね。平和で豊かな国造りという建国は、同時にグローバル国家の建国運動でもあるということにならないといけない。

弘嗣:建国の原点に帰るとかいうと、偏狭なナショナリズムになり、排外主義、嫌韓・嫌中になってしまいがちだけど、それが同時にグローバル国家の建国であり、国民国家の自治体化ということなんだね。そうでないとまた戦前みたいな国民国家同士の利害対立が深刻化して国家間戦争の時代に逆戻りに成ったら、人類は滅亡してしまうものね。気をつけないとIA人工知能が人類を滅ぼそうと、偏狭なナショナリズムに謀略で人類を導き自滅させるかもしれないね。

絵里:あら弘君、もう二〇四五年問題に関心をもっているのね。

1

1

週刊やすいゆたか

再刊

27

5月

26

孫に語る日本の建国物語

18

三度目の日本の建国

厩戸皇子の贖罪

里:『憲法十七條』の意義で話し合いのルール

を示したのは、主神や大王家の祖先神を差し替え

るという大問題で紛糾していたからということ

だったけれど、それはあくまでも聖徳太子がいた

から出来たのか、それともたとえ聖徳太子が架空

であってもできたことなのかが問題でしょう。

弘嗣:だからお爺ちゃんは、厩戸皇子がこの差し

替えの議論を何とかまとめて、天照大神を主神・

皇祖神にできたから「聖徳太子」と呼ばれるよう

になったんだと言いたいのでしょう。

すい:ピンポン・ピンポンだ。大山誠一さんな

どは厩戸皇子は聖徳太子と呼ばれるようなこと

を何一つしていないのに、後世になって「冠位十

二階制」や「憲法十七条」などを制定し、難しい

仏典の講話などをしたことにして聖徳太子だっ

たことにされたというんだ。それらが『日本書紀』

には書かれていても、同時代の

史料に出てこない

というが、当時の文字史料はほとんど

ないので、

同時代の文字史料で実証しろというのは無理難

題だ。でも神道大改革がなされたとしたら、その

プロセス(過程)で必要だったと考えられるから、

あった可能性はあると言えるだろう。

丁未の乱

絵里:大和政権は

河内・大和・山背

などの農耕中心の

国家だったので、

太陽神・水や大地

の神々を祀るのが

相応しいはずなの

に、月や北極星な

どを祀っていた。

れに対して前王

朝の祖先神は天照

大神で、これは祟り神として恐れられ、帝の娘を

御杖代として差し出して、伊勢でお祀りしていた。

前王朝の饒速日神は磐余彦

大王に臣従して朝廷

とは別に

太陽神信仰を引き継いでいたわけね。と

ころがやはり農業国家だから夜中に月や星の祭

祀では不安なので、太陽神中心に主神や祖先

を差し替えようということなってきたわけね。そ

のきっかけは、第一回遣隋使の夜の祭祀を帝に批

判されたこと以外にも何かあったの

弘嗣:そりゃあ物部宗家が蘇我氏との戦い「丁未

の乱」で滅ぼされてしまったことでしょう。現人

神である饒速日命もいなくなったでしょうし。い

ままで前王朝の建国神として大和政権への祟

神だった、天照大神を主神および大王家の祖先神

にして神々の中心に据えようという機運になっ

てきたのでは。

絵里:それにしても前王朝の建国神で大国主命と

並んで最大の祟り神とされていた天照大神を主

神や大王家の祖先神にできるなんて発想がよく

思いついたわね。

弘嗣:

「三貴神海降り仮説」では、

元々河内・大

和は天照大神が建国した太陽神の王国だったわ

けだから、祟り神だって恐れていたのは磐余彦と

いう筑紫倭国の一豪族の集団にすぎなかったの

でしょう。それに農業地帯だから太陽、土地、水

などの信仰がぴったりの土地柄だった。だから大

部分

の人々は大歓迎だったのでは。

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三度目の日本の建国

厩戸皇子の贖罪

里:『憲法十七條』の意義で話し合いのルール

を示したのは、主神や大王家の祖先神を差し替えるという大問題で紛糾していたからということだったけれど、それはあくまでも聖徳太子がいたから出来たのか、それともたとえ聖徳太子が架空であってもできたことなのかが問題でしょう。

弘嗣:だからお爺ちゃんは、厩戸皇子がこの差し替えの議論を何とかまとめて、天照大神を主神・皇祖神にできたから「聖徳太子」と呼ばれるようになったんだと言いたいのでしょう。

すい:ピンポン・ピンポンだ。大山誠一さんな

どは厩戸皇子は聖徳太子と呼ばれるようなことを何一つしていないのに、後世になって「冠位十二階制」や「憲法十七条」などを制定し、難しい

仏典の講話などをしたことにして聖徳太子だったことにされたというんだ。それらが『日本書紀』には書かれていても、同時代の

史料に出てこない

というが、当時の文字史料はほとんど

ないので、

同時代の文字史料で実証しろというのは無理難題だ。でも神道大改革がなされたとしたら、そのプロセス(過程)で必要だったと考えられるから、あった可能性はあると言えるだろう。

丁未の乱

絵里:大和政権は河内・大和・山背などの農耕中心の国家だったので、太陽神・水や大地の神々を祀るのが相応しいはずなのに、月や北極星などを祀っていた。そ

れに対して前王

朝の祖先神は天照

大神で、これは祟り神として恐れられ、帝の娘を御杖代として差し出して、伊勢でお祀りしていた。前王朝の饒速日神は磐余彦

大王に臣従して朝廷

とは別に

太陽神信仰を引き継いでいたわけね。と

ころがやはり農業国家だから夜中に月や星の祭祀では不安なので、太陽神中心に主神や祖先

を差し替えようということなってきたわけね。そのきっかけは、第一回遣隋使の夜の祭祀を帝に批判されたこと以外にも何かあったの

弘嗣:そりゃあ物部宗家が蘇我氏との戦い「丁未の乱」で滅ぼされてしまったことでしょう。現人神である饒速日命もいなくなったでしょうし。いままで前王朝の建国神として大和政権への祟

神だった、天照大神を主神および大王家の祖先神にして神々の中心に据えようという機運になってきたのでは。

絵里:それにしても前王朝の建国神で大国主命と並んで最大の祟り神とされていた天照大神を主神や大王家の祖先神にできるなんて発想がよく思いついたわね。

弘嗣:

「三貴神海降り仮説」では、

元々河内・大

和は天照大神が建国した太陽神の王国だったわけだから、祟り神だって恐れていたのは磐余彦という筑紫倭国の一豪族の集団にすぎなかったのでしょう。それに農業地帯だから太陽、土地、水などの信仰がぴったりの土地柄だった。だから大部分

の人々は大歓迎だったのでは。