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駿台史学第二ハ一号(こ(二七)頁、ニ

O一七年九月

CZU〉門的問円の〉内

C(的ロロ仏巴回一ω件。同

1wmwF

河虫、庁垣)

z。5「出向百円。

BZ『・司Ue(H)(N叶)

橋川文

「日本浪目安派批判序説」

の発想と論理

飛矢崎

本稿では、橋川文三の代表作である「日本浪憂派批判序説」の発想と論理を読み解いた。「昭和十年代」における「挫折」の心

情がいかに表現され、受容されたか。また、保田奥重郎と小林秀雄における政治と美の関係について、

なる視座から分析したかを論じた。

要旨

一九五

0年代後半に橋川がいか

資本主義の浸透によって大衆社会化していた「昭和十年代」は、自然村的秩序とマルクス主義の崩壊に直面し、未来のビジョンが喪

失した。結果として座標軸が消え「挫折感」が社会を覆ったことに、橋川は日本ロマン派の成立条件を求めた。そのさい神島二郎や藤

田省三の分析に依拠しつつ、自然村的秩序の崩壊にあたって、それまで存在した「郷土」を復元しようとした農本主義者と、都市の文

学運動として「故郷」を表現した日本ロマン派という対比によって論じた。日本ロマン派の代表を保田と考える橋川は、その根拠とし

てイロニイという言葉をとりあげ、ヵ

lルシュミットの「機会主義」という概念を手掛かりに分析した。橋川は、保田における国学

との共通性を明らかにするために、本居宣長まで立ち返って論じ、出目一長からは神の容れ物としての肉体と考える思考様式を抽出し、保

田もまた、人間の「情感」を行為の。きっかけ。と考え美意識によって正統化したと指摘した。

こうした議論は、自己決定の留保が戦争という状況下でいかなる政治的な意味をもつか、という関心とつながっていた。橋川は、い

ま現在における「私」の直感を絶対化する小林秀雄を決断主義者として保田と対比させ、両者の思考過程が対極的であるにもかかわら

ず、ともに美意識が究極的な価値として位置づけられることで、自己存在と他者との葛藤を調整するという考え方が消滅していたと批

判した。さらに、このような非政治的な「美」の強調が、戦時下において逆説的に政治的な機能を発揮した理由を、歴史との関連から

論じていた。

キーワード一挫折

弁証法

政治

イロニイ

)

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はじめに

橋川文三の代表作であり「最高傑作」ともM

評される「日本浪量派

批判序説111耽美的パトリオテイズムの系譜」(以下「批判序説」)

の論理を、その発想の根源にまで立ち至って理解しようとすると

き、エピグラフとして掲げられたマルクス「ヘ

lゲル法哲学批判序

説」からの引用を無視するわけにはいかない。

むしろこの引用に橋

川のモチーフのすべてが表現されているといっても過言ではない。

質規

「ギリシャの神々は、すでに一度、

アイスキユロスの捕らわれのプ

ロメテゥスにおいて、悲劇的な死をとげたが、さらにもう一度、

lレ

飛矢崎

キアノスの対話編において、喜劇的な死をとげなければならなかっ

人類をしてその過去より朗かに

た。歴史がかく歩む所以は如何?

離別せしめるためである」。悲劇をそのままもう一度くり返し、喜

劇として演じることによって事柄を対象化するようにしか歴史が進

まないのは、人類を体験としての悲劇から「朗かに離別」させるた

めである。

もちろん、このマルクスの文章を引用した橋川にとって悲劇とは

戦争体験であり、日本ロマン派体験であった。

つまり自己の体験を

もう一度たどり直してみることによって問題の本質を突きとめ、

J且口劇として。自覚することによって過去の体験から納得して離れ

ょうとする。「批判序説」はそうした意図にもとづいて執筆された。

こうした橋川の姿勢を考えるさい、市村弘正による橋川評価が有益

な視座を提供している。市村は杉田敦との対談「『失敗の意味』を

めぐって」のなかで、「橋川文一二氏は、あの戦争は理念の面でも駄

固なものであったが、駄目なものであったからこそ繰り返し再考に

値すると考えたわけでしょう」と評している。市村の評価をふま

ぇ、本稿では橋川の方法を「挫折」を「失敗」に作り変えること、

と位置づけたい。行きづまったままの状態で放置された事柄を分析

的にもう一度たどり直し、問題の本質を見きわめ、その体験から志

向性をもって距離をとることで「挫折」は「失敗」

へと姿を変え

る。悲劇的体験のまま顧みられない「挫折」から、悲劇の内容を抽

(2)

象化したうえで「失敗」という「墓碑銘」を刻むことだといっても

よい。「

批判序説」連載中の橋川が「挫折」という言葉を重要な概念と

して思考していたことは、ずばり「挫折」(『講座現代倫理」第五

巻、筑摩書房、

一九五八年)という文章を書いていることからも窺

える。「ある明らかな意志や欲望の実現が阻止され、個体もしくは

集団の欲求が現実の諸条件によって屈服させられるあらゆる場合に

ついて、そこに挫折の事態が生じる」、と一般的な定義を与えたう

えで、「我国において『挫折』が固有の意味で用いられているのは

文学と思想においてであり、その要約としては、近代的自我の追及

が抑圧され、屈服せしめられる場合の問題ということができよう」

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と橋川は述べている。ここで「挫折」という言葉が「近代的自我の

追及」の成否と関連づけて理解されているのは、戦争という現実に

屈服していった抵抗運動をいかに考えるか、という関心とも結びつ

いていたからだった。「げんに、私たちが『挫折」という一言葉です

ぐに想起するのは、日本を戦争↓敗戦↓占領のコ

1スにみちびいた

勢力に対して、もっとも勇敢に抵抗したそれらの運動がなぜ無効に

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想と論理

おわり、挫折し、頬廃へとくずれ去ったのかという問題にほかなら

ない」。

戦中・戦後にまたがる「挫折」の問題の核心が解かれていない、

という橋川の問題関心は、「批判序説」において保田奥重郎と小林

秀雄の思想を対比的に検討することで追求されている。その眼目

は、社会に充満した「挫折感」が文学としていかに表現され、機能

したかにある。本稿では、その分析過程について「日本ロマン派の

諸問題」(『文学』

一九五八年四月号)という「批判序説」執筆中に

書かれた論考も含めてたどることにしよう。

マルクス主義と日本ロマン派

橋川の「批判序説」は『同時代』

の四号から九号(一九五七年三

月号・五九年六月)に発表された。この雑誌は、宇佐美英治・岡本

謙次郎・小島信夫・白崎秀雄・原亨吉・矢内原伊作を同人に、第一

次『同時代」(一九四八年五月)として始められた。その後、宗左

近・安川定男らを同人に加えていったが七号で終刊し、

一九五五年

一一一月に黒の会編集として第二次の刊行が始まった。「批判序説」

が掲載されたのは、この第二次「同時代』だった。

橋川は「批判序説」執筆のモチーフについて、「日本ロマン派と

いう精神史的異常現象の対象的考察への関心」と「自己の精神史的

位置づけを求めたいという衝動」に支えられていたことを記してい

る。橋川がこの二つの関心によって「批判序説」を執筆したとする

なら、この二つの連関こそ読み解かれるべき問題となる。

この問題を考えようとするとき、戦後における自身の思想形成に

関連して、

マルクス主義と日本ロマン派について橋川が言及してい

る次の部分が手がかりとなる。「私の戦後の貧しい精神形成史をふ

りかえるとき、その基本的構造を決定したものがマルキシズムの方

(3)

法であったことは否定できないが、同時に、その有効性と統一性の

テスト・ケlスとして、私がつねに日本ロマン派の問題をいだいて

いたことも否定できない」。この記述からは、なぜ橋川がマルクス

主義の「有効性と統一性のテスト・ケlス」として日本ロマン派の

問題を考えたかが、さらに明らかにされるべき課題として浮上す

る。マルクス主義と臼本ロマン派、加えて「自己の精神史的位置」

という三つのキーワードを貫く問題関心として、弁証法の論理が現

実といかに接触面をもちうるか、という問いを読みとることができ

る。結論を先取りして一言守えば、全体に対する否定として現れた部分を

論理的に把握しようとする弁証法を、否定として現れた部分を切り

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捨てることで、あたかも問題が始めから無かったかのように認識す

ることへとすり替えた思考様式として日本ロマン派、とりわけ保田

輿重郎の特徴として橋川は把握している。あるいは、現実社会に存

在する矛盾をク解決。しようとする弁証法的唯物論を、自分の考え

の矛盾におき換え、自己批判を通じて。解消ψ

することで結果的に

現状肯定へと到った、と橋川が考えていたともいえる。

資規

この考えは序論部分における「日本ロマン派は、前期共産主義の

理論と運動に初めから随伴したある革命的なレゾナンツであり、結

果として一種の倒錯的な革命方式に収飲したものにすぎないのでは

ないかと考えている」という指摘からも確認できる。現状の社会を

批判することから出発したマルクス主義運動に影のようにつき添

い、自分の発した声が山々に御した山彦になって自分にはね返っ

飛矢崎

てくるように、自己批判によって世界観を変化させ、社会が「私」

を否定することの肯定へとすり替えた。

認識の転換によって世界観を変え、あたかも問題が無かったかの

ように思考する。「概して日本ロマン派のなかの『純粋』な連中に

は権力衝動が欠け、合理的・市民的行動様式にも不適格であった」、

と橋川が述べた理由も理解できる。このように論旨をたどるとき、

橋川の関心は

「挫折」

の心情表現がいかに機能したかに向けられて

いると理解できる。じっさい橋川は「いわゆる右翼・ファシスト的

観念論に嫌悪を感じていた若い世代が、保田の国粋的神秘主義には

かなり容易にいかれた」と自らの体験を語っている。

マルクス主義

を通じて弁証法を学んでいたマルクス主義者にとどまらず、弁証法

を知らない「若い世代」が、なぜ保田輿重郎の思想に惹きつけられ

たか。ここに橋川の読書体験、すなわち精神史的な位置と日本ロマ

ン派の交点が示されている。具体的には次のような内容としてそれ

は存在した。「いわば日本ファシズムの必然的崩壊・類廃の精密な

縮図が日本ロマン派の中に内在的に展開されていると思う。それは

いわば『敗北」

の必然に対する予感的な構想でさえあったのであ

り、この点において、それは現代的実存の課題と結びついてくお」0

日本ロマン派は否定される自己(「『敗北』

の必然」)を表現した

がゆえに、

マルクス主義を学習した人間にとどまらない広がりをも

ちえ、かっ自己の存在証明(「現代的実存」)

の問題にまでふみ込ん

(4)

でいる。よって橋川は、

マルクス主義を勉強してプロレタリア文学

を執筆していた知識人たちの「転向」としてのみ理解する西田勝の

論考「日本浪蔓派の問題」に対して、「なぜ、それほど、日本ロマ

ン派を『ナルプ解体』の論理に符合せしめねばならないのか?」と

批判する。それは橋川が、より広範な視角から日本ロマン派を捉え

る必要を考えていたことを意味している。すなわち日本ロマン派の

思想がどのような社会状況から形成されたかという次元とともに、

なぜ影響力を発揮しえたかという機能性の次元までも対象に含めて

考えるということである。だから三なぜ、転向も頚廃もそのもの

としては知らなかった私たち、当時のティーンエージャーが、保田

の文章と思想に心酔することが可能であったか?』という問題」が

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説明されないことを指摘し、「私たちにとって、日本ロマン派とは

保田与重郎以外のものではなかった」と保田の思想に傾倒していっ

た読者層を問題にする。

保田が読者を魅了し、その世界観に引きこむことを可能にした理

由として、橋川はその「近代思想」としての側面をあげている。

橋川文三「日本浪受派批判序説」の発想、と論理

「私などが初めて保田のものをよんだころ、ルソlの『人間不平等

起源論』と併せてよみふけった」という戦中の読書体験を語り、

一種の反封建運動として感じられたという鮮かな記憶」を

「当時、

明かしている。「封建的」要素を残したまま進行した大衆社会化が、

不平等性を生みだす要因と考えられた「昭和十年代」において、

「封建制」も大衆社会化も否定する保田の文章は、形式的な平等を

求めていることにおいて「反封建運動」(「近代的」)として魅力あ

るものに映った。

つまりマルクス主義文学がめざした平等な社会と

いう未来のビジョンの崩壊に直面し、次の社会に対する展望が見い

だせない「挫折感」を表現した文学として、日本ロマン派が受容さ

れたと橋川は考えていた。

そして、この不平等感と「挫折感」を典型的に味わったのが中間

層だったと橋川は問題提起する。「日本ロマン派の成立は「ナルプ

解体』を直接動機とするというより、むしろ大正・昭和初年にかけ

ての時代的状況に基盤を有するものであること、また、プロレタリ

ア的インテリゲンチャの挫折感を媒介としながらも、もっと広汎な

我国中間層の一般的失望・抑圧感覚に対応するものとして、その過

程の全構造に関連しつつ形成されたものであるという観点を提示し

た巴。日本ロマン派は日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解

散したことによって成立したわけではなく、彼らの「挫折感を媒介

としながらも」、社会にたいする希望や見通しを喪失した中間層の

「一般的失望・抑圧感覚」の表現として成立した。

日本ロマン派は、現実の「革命運動」につねに随半しながら、

その挫折の内面的必然性を非政治的形象に媒介・移行させるこ

とによって、同じく過激なある種の反帝国主義に結晶したもの

と私は思う。:::「心情の合言葉」としてのマルクス主義とい

う奇怪な倒錯的表現は、それが非政治化され、情緒化された形

での革命思想であったという解釈に私をみちびく。いわば政治

(5)

から疎外された革命感情の「美」に向つての後退・噴出であり

(ロマンテイジlルングとはそもそもそういうものだ)、デスパ

レlトな飛躍であったと考える。

「革命運動」は必ず挫折する、ということを確認する「心情の合

言葉」に「マルクス主義」を用い、非政治的な感情においてのみ

「反帝国主義」をかかげ、平等を表現しうるような「美」を追求し

た。よって「問題の文脈をひろく我国中間層における総体としての

『政治的と非政治的』

の問題に拡大し、政治的リアリズムとそのア

ンチテlゼとしての日本的美意識の問題にまで結びつける必要があ

お」、と橋川は述べる。「昭和十年代」における中間層にとって政治

という領域がいかなる意味をもったかについて、反政治的な「日本

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的美意識」との境界から明らかにすることを橋川は考えていた。こ

のような問題が導かれるとき、中間層がおかれていた社会状況につ

いて橋川がいかに理解していたか、

ということから解きほぐして行

くことが順路になろう。

自然村解体の影響

(1)都市中間層の「故郷」創造

「昭和十年代」における中間層の社会的位置や心情にたいする橋

川の考えをたどるさい、その端緒として橋川が神島二郎の論文を肯

貴規

定的に引用して、「昭和十年代」を自然村的秩序の解体期と位置づ

けている部分に注目してみたい。

飛矢崎

私は、日本ファシズムの成立根拠を、自然村的秩序の自覚的追

求過程として把握する立場をとり、

日本ファシズムの特質を、

「天皇制権力は、その基礎〔H

自然村的実体〕

の動揺・分裂の

所在をつきとめることなくその再編・強化を求め、同時にまた

それがつきとめなかったが故に体制自体をファシズム化した」

という点に認める神島二郎(「庶民の意識における分極と統

{幻)

の要約を正しいと思っている。

合」)

橋川が言及している神島二郎の「庶民の意識における分極と統

合」という論文は、『思想』(一九五四年二・三月号)に上・下とし

て掲載された。神島論文は独特の造語によって組み立てられてお

り、その詳細をここで確認する余裕はない。とはいえ、橋川が神島

に同意しながら「自然村的秩序の自覚的追求」が「ファシズム化し

た」と指摘した意味を理解する程度には、神島の議論を把握する必

要があろう。神島の論考を単著としてまとめられた『近代日本の精

神構造』(岩波書庖、

一九六一年)から検討することにしよう。

神島の議論は「近代日本における天皇制の正統性的根拠は基本的

には自然村的秩序におかれ、しかも、その自然村的実体の崩壊過程

がこの秩序形態に逆作用してくるところに、日本ファシズムの特質

(剖}

がある」ことを立論する内容だった。言い換えれば、明治以降の

「近代化」過程においても統合の原理は部落を基礎とする生活の場

(「自然村」)で育まれた秩序感覚に根拠があったが、大衆社会へと

転換する過程で、その秩序感覚は失われかけた。しかし失われるこ

(6)

とによってむしろ自然村的秩序意識が呼び起きれ、自覚的に追求さ

れたことが「日本ファシズム」の要因であった、ということであ

この見解は「秩序感覚と経済基盤とのずれという事実に着目し

た」もので、「伝統的統合方式の典型を自然村

(H

〈第一のムラ〉)

に求め、それらの転移を擬制村

(H

〈第二のムラ〉)に見出し、こ

マスソサエティ

れを増幅する契機を日本の「大衆社会』

(H

〈群化社会〉)において

検討すれ)」ことが意図されていた。要するに、「日本の『大衆社

会』」への移行過程を、物質的生活と日常意識のズレという視点か

ら読みとくことで、伝統的生活がなくなる分かえって旧来の秩序意

識が求められ、自然村的な結合関係である〈第二のムラ〉が形成さ

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れたと把握することが企図されていたのである。

神島が。日本の「大衆社会」。を〈群化社会〉と呼ぶのは、伝統

的秩序の崩壊過程において新たな規範を作りだし、その規範意識に

もとづいて他者とつながることが無かったと考えたためだった。そ

のことは「客観的帰属を問題とする『中間階級」にたいして、主観

橋川文三「日本浪憂派批判序説」の発想と論理

的帰属を問題とするという意味で、私は「中間層』という言葉を使

いた吋」という意図からも理解できる。所得や資産といった物質的

な指標によって分けられる「中間階級」ではなく、自分が何者であ

るかという認識をどのように自覚するか、という主観性を組みこん

だ次元を神島は問題にしたのである。それによって現実的には大衆

社会で生活しているにもかかわらず、主観的には自然村的秩序意識

によって自己認識をえた「中間層」を〈第二のムラ〉

の住人として

析出しようとしたのだった。「〈第二のムラ〉は、:::経済的基盤か

ら遊離した秩序感覚とたえざる不安とにもとづき一種のロマンチシ

ズムのもとに統合された団結である」、と神島は定義する。

では、神島が述べる「ロマンチシズム」とは何か。「そして〈第

二のムラ〉は、私のいう〈群化〉現象との相互関連のもとにでてく

る回想的ふるさとの共同によって成立するものであり、回想的ふる

さとはその秩序を共通にする自然村および学校にあり、

ムラの連帯

はふるさとをさる距離を条件とした回想の更新に求められ、その経

済はムラ自体のうちにではなくそのそとにある機構・組織体に求め

られ的」。神島が〈第二のムラ〉の形成要件として「回想的ふるさ

と」をあげていることが重要である。

つまり、それまで住んでいた

共同体から離れて都市的な「機構・組織体」のなかで生活していた

としても、精神的基盤は旧来の秩序意識のままで、むしろそちらに

親近感を覚え共同性を感じる。そうして「自然村および学校」にお

けるつながりが、郷愁(ロマンチシズム)とともに想起されること

で生みだされた「回想的ふるさと」を、精神的基盤として形成され

るのが〈第二のムラ〉というわけである。

橋川の日本ロマン派体験は、この論理と同質のものとして語られ

ている。「ここで日本ロマン派についてほんの憶測をのべると、私

は、小林〔秀雄〕とちがって故郷というものの実体的イメージが

『わかり』、しかも、それが解体しつつあるという感覚をいだいた種

類の少年において、初めて日本ロマン派は比較的純粋な実感として

受取られたのではないかと思う。そしてその実感の基盤としては、

(7)

-『上方」ないし関西の風景・風物の経験がかなり意味をもった

のではないかと思河」。それまで暮らした共同体を離れたとき、「故

郷」という言葉に具体的なイメージを付与することができた「少

年」たちが、「比較的純粋な実感として」日本ロマン派を受容した。

そのさい「「上方」ないし関西の風景・風物」がリアリティを喚起

した。あ

るいは次のようにも語っている。「私の個人的な追懐でいえば、

昭和十八年秋『学徒出陣」

の臨時徴兵検査のために中国の郷里に帰

る途中、奈良から法隆寺へ、それから平群の田舎道を生駒へと抜け

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たとき、私はただ、平群という名のひびきと、その地の『くまが

し』のおもかげに心をひかれたのであった。ともあれ、そのような

情緒的感動の発源地が、当時、私たちの多くにとって、日本ロマン

派の名で呼ばれたのである」。つまり、自然村が解体され大衆社会

へと変貌していく折に、奈良の寺社や地名から日本ロマン派が表現

した心情世界を感じた、ということである。こうした体験から、橋

川は同時代の思想潮流のなかに保田を位置づけることを試みてい

る。そこで比較されるのが農本主義だった。

貴規

(2)農本主義者の「郷土」復元

橋川は大衆社会化される以前の暮らしが変容していくことへの対

飛矢崎

応として、日本ロマン派と農本主義を対比させている。それは自然

村的秩序を大衆社会に生きつつ回顧する都市の文学者と、崩壊して

いく自然村を復元しようとする農本主義者とを対比する意図に基づ

いていた。

つまり、どちらも自然村の崩壊という状況を認識する

が、対応の違いによって異なる思想へと分極したことを示すことが

考えられていた。

「日本浪憂派と農本主義」と題した章がその論証過程である。こ

の章の官頭で「日本ロマン派と農本主義思想の聞に、あるパラレル

な思想史的意味があること)」を橋川は指摘している。そこで前提に

されているのが藤田省三「天皇制とファシズム」(『岩波講座

現代

思想』

V巻〔反動の思想〕(岩波書庖一九五七年七月)

であるから、

まず藤田の議論を確認することにしよう。

純真な郷土への復帰は、純真な文学への復帰とパラレルであ

る。農本主義と文学の世界における日本浪漫主義とは対応す

る。前者が「革新者」であれば、後者も又一つの「流行への挑

戦」である(「日本浪漫派広告」、『コギト』

一九三四年十一

月)。前のものが官僚機構の命令政治に反対して非政治的な自

主的共同体をつくろうとする運動であるならば、後のものも

「時務」すなわち政治を拒否して

(保田与重郎)、イロニ

lの世

界で「孤高の反抗」を行わんとする(亀井勝一郎「浪漫的自我

の問題」、『日本浪漫派』一九三五年三月創刊号)。ただ後者は、

どこまでも美的感覚体験||それ自身が抽象世界の中にある

|

iの世界を離れなかっただけである。

(8)

郷土が失われつつある段階においては、それを保守しようとする

ことが革新的意味をもっということが農本主義者にはいえ、「故郷」

という頭のなかで作りだした郷土を、文学において表現することも

大衆社会化状況においては反時代的な意味をもった。

こうした藤田の研究を念頭におき、橋川は日本ロマン派と農本主

義を比較する意図について、「いわばそのような『率直』さのあり

(担)

方について、より広汎なパ

lスペクティヴを設定してみたい」と述

ベる。ここからは自然村を崩壊させることで進行する大衆社会化状

況において、日本ロマン派は「率直」に文学でその心情を表現し、

農本主義者は「率直」に自然村を復元しようとしたことを対比的に

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捉えようとしている橋川の意図が読みとれる。農本主義者と日本ロ

マン派の違いは、橋川によって以下のように説明される。「いわば

『郷土」

の喪失は、知性の問題であるばかりでなく、また、形而下

の事態でもあったOi---橘〔孝三郎〕や権藤〔成卿〕

の農本主義思

想は、喪失した郷土の恢復という点において、それぞれの分析手続

をことにしながらも、日本ロマン派が心情の世界において試みた逆

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想と論理

説的な復古主義に対応する意味において、ただし、すべてロマン

ティックなイロニイの思考法を全く排除する形において、

(お)

共通の意識によってつながっていた」。

いずれも

農本主義者は実際の農村で「率直」に自然村の復元を考えた。そ

れは日本ロマン派が文学運動であったがゆえに「心情の世界」とし

て表現したのと対照的に、決定をためらうことなく唯一の道として

決断的に実行された。ここまでくれば橋川が日本ロマン派と農本主

義をどのように理解しているか明確だろう。自然村崩壊にあたり、

都市に居住しながら文学として表現した日本ロマン派と、農村にい

て実践として自然村を復元しようとしたこの二つの動きが「率直

さ」においては「パラレル」であった、とい、つことである。

ロマン主義・国学・イロニイ

(1)石川啄木の「性急な思想」批判

「昭和十年代」の社会心理に自然村の崩壊による「挫折感」を見

てとる橋川にとって、

日本ロマン派は明治浪漫主義とは質的に異な

るものとして考えられていた。

つまり日本ロマン派は明治浪漫主義

の延長としてではなく、「挫折感」によって飛躍したロマン主義で

あるという理解である。その断絶の節目として橋川は、石川啄木の

浪漫主義批判をあげている。「我国にはじめて現われた明確で徹底

(甜)

的なロマンテイク批判は啄木によって行われたと思う」。

その根拠として啄木の「巻煙草」(『スバル」第二巻第一号、明治

四三年一月)、「性急な思想」(『東京毎日新聞』明治四三年二月二二

!一五日)、「時代閉塞の現状」といった評論をあげ、「それらの文

章は、

いずれも啄木の短い生涯に対する峻烈な自己批判の結論とし

て生れたものであり、

いわば明治の全体を一挙に己の一身に生きた

啄木の告白であるとともに、日本の思想に対するトータルな批判と

なったもの」と橋川は評価する。ここで重要なのは、啄木の「自己

(9)

批判」が「日本の思想に対するトータルな批判」として成立してい

るという橋川の評価である。なぜなら、たんに自己撞着として否定

が機能していたわけではなく、自己批判が社会批判へと通じている

という考えが一万されているからである。ただ、橋川は「性急な思

想」という言葉をはじめ、啄木の論考を充分に紹介していないの

で、啄木による「ロマンティク批判」の内容を補足的に確認したう

えで、橋川の啄木評価を確認することにしたい。

一九

O八年二月)で、「吾人は

あた

自然派の小説を読む毎に一種の不安を禁ずる能はず。此不安は乃ち

啄木は「卓上一枝」(『釧路新聞』

現実曝露の悲哀也。自然主義は自意識の発達せる結果として生れた

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り。而して其吾人に教訓する所は唯一あるのみ。日く、『どうにか

成る。』『成る様に成る。可」、と自然主義小説が自意識の発展によっ

て知りえた現実を曝露するだけに終わり、「どうにか成る」「成る様

に成る」と肯定されていることを批判していた。自意識についての

自覚を自然主義文学登場の要因として啄木が考えていることは、

「自然主義は、我によって我の中に見たる自然の我を以て、

一切の

迷妄を照破し、

一先づ

「自然』に帰らしめん

一切の有生を率ゐて、

(却)

とする運動なるのみ」という指摘からも確認できる。そして自我

(「我によって我の中に見たる自然の我」)が認識されることによっ

貴規

て誕生した自然主義小説の変容を見逃すことなく、「近頃は大分唯

美的になって来た」、と浪漫主義文学へと変容していることを啄木

飛矢崎

は指摘する。

さらに「巻煙草」では、「浪漫主義は弱き心の所産である。如何

なる人にも、如何なる時代にも弱き心はある。従って浪漫主義は何

時の時代にも跡を絶つ事はないであら切」、と自我をもった以上、

「弱き心」があることは避けられないことを認めるが、それを無批

判に肯定することを批判する。「私は現時の自然主義者非自然主義

A品

A

U

A

U

A

U

A

者を通じて大多数の戸評論家の言議に発見する性急なる思想||出立

点から直ぐに結論を生み出し来る没常識を此なつかしい人の言葉の

中にも発見せねばならなかった事を悲的」。つまり啄木は自分の中

に発見した自我をそのまま肯定する短絡的(「性急な」)特徴を「没

常識」として批判したのである。このとき啄木にとって「性急さ」

が求められることが「近代的」と認識されていたことが重要であ

る。「最近数年間の文壇及び思想界の動乱は、それにたづきはった

せっかち

多くの人々の心を、著るしく性急にした。意地の悪い言ひ方をすれ

ば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける『近代的』といふ言葉の意

(

)

味は、『性急なる』といふ事に過ぎないとも言へる」。こうした「近

代的」な「性急な思想」を啄木は、

やはり批判する。

「自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有す

ることを誇りとする心、さういふ性急な心を若しも『近代的』とい

ふものであったならば、否、所謂「近代人』はさういふ心を持って

むし

ゐるものならば、我々は寧ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより

たの

多く「非近代的』である事を侍み、且つ誇るべきである。さうし

せっかち

で、最も性急ならざる心を以て、出来るだけ早く自己の生活その物

を改善し、統一し徹底すべきところの努力に従ふべきである」。自

(10)

己を軽蔑し、根拠を失い、「時代の弱所を共有することを誇りとす

る」ような焦燥に駆られるならば、「性急ならざる心」、すなわち粘

り強く生活改善していく必要を啄木は唱えている。

こうした諸論考をふまえて橋川は、「啄木が試みた『性急な思想」

『純正自然主義」

(Hロマン主義)

の批判は、鴎外や二葉亭の開

いた『明治』にたいするいいがたい郷愁とともに、それへの訣別を

述べたものであった」、と司評価する。文明開化から始められた「近

代化」によって発見した自我が美化され、

ロマン主義化したことに

よって現実から遊離したため、啄木は異なる道を歩むことを考え

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た、と橋川は読みとっている。以上をふまえて橋川が啄木の「硝子

窓」から引用した部分を見てみよう。

「何か面白い事は無いかねえo」といふ言葉は不吉な言葉だ。

この二三年来、文学の事にたづきはってゐる若い人達から、私

は何回この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも

言った。:::

橋川文三「日本浪長派批判序説jの発想と論理

時として散歩にでも出かける事がある。然し、心は何処かへ

行きたくっても、何処といふ行くべき的が無い。世界の何処か

には何か非常な事がありさうで、そしてそれと自分とは何時ま

で経つでも関係が無ささうに思はれる。:::まるで、自分で自

分の生命を持余してゐるやうなものだ。

何か面白い事は無いか!

それは凡ての人間の心に流れてゐる深い浪漫主義の嘆声だ。

この啄木の文章につづけて、橋川は自身の解釈を展開する。

私はこのような心情をその後五十年にわたる形成過程を含め

て、総体として我国中間層の基本的意識構造であると考える

が、そのような意識の大正期を通じての幻想的な解放と内攻、

そして大正末H

昭和初年のプロレタリア・共産主義運動という

もう一つのトータルな試みとその挫折ののちに、啄木の場合と

同じ心理的実質に支えられながら、それと著しく異った文明批

評形式として日本ロマン派が生れたものと考え針。

「近代化」が進行するにつれて内面の拡大はつづき、昭和になっ

て紹介されたマルクス主義の導入と、弾圧によるプロレタリア文学

からの「転向」を余儀なくされた「挫折感」の後には、現実社会の

変革という希望は残されていなかった。そのとき、もはや「挫折

感」が社会批判へと接続しない無力感の肥大化とじて、啄木と「著

しく異なった文明批評形式」を採用した日本ロマン派が誕生した。

橋川はいう。「啄木が感じた時代の『性急な思想』

の中には、

ぃ、っ

までもなく国民的規模におけるある無力感が現れていたが、ただそ

れは純粋なイロニイとして現れるまでにはいたらなかったのに対

し、日本ロマン派の場合には、時代の挫折感は中間層の規模の拡大

に対応して拡大され、したがって、その無力感はより過激とならざ

るをえなかった」。明治浪漫主義にたいして根本的な批判を加えた

、PJ

司自ム

aL

't、、

石川啄木の後に登場した日本ロマン派を、「時代の挫折感」の拡大

にともなう「純粋なイロニイ」として橋川が捉えるとき、そのイロ

ニイとはいったい何かということが問題になろう。

(2)イロニイと国学

橋川は、「保田の思想と文章の発想を支えている有力な基盤とし

て」、「マルクス主義、国学、ドイツ・ロマン派の三要因」を指摘

し、「これらの異質の思想が保田の中に統一の契機を見出したとす

れば、そのインテグリティを成立させているものは『イロニイ』と

いう思想にほかならないと私は考える」と述べている。そこで、保

田の思想の「統一の契機」として橋川が指摘したイロニイの意味を

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明らかにすることから、その意図に迫っていきたい。

橋川はイロニイの概念について政治とのかかわりに着目しなが

ら、その特徴を説明する。「それはドイツ・ロマン派の特異な自己

批判形式川創作理論として展開したものであり、

いわば類廃と緊張

の中

一間般に的に無い限えにlぞ自

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イロニイとは「自己批判」の理論であり、特定の何かであることを

貴規

否定することがかえって肯定されている心理状態に由来するもの

で、結果として無力感を抱く中間層における政治からの逃避という

飛矢崎

無責任な現象を暗示していた。このような「自己決定を留保する心

的態度」を作りだした要因が、未来のビジョンが喪失し政治に期待

できなくなった「昭和十年代」という社会状況だったと橋川は述べ

る。「プロレタリア・リアリズムとデイアレクティ

lクとは、その

必然的帰結として小林多喜二の道に導くという認識の前で、保田は

ディアレクティ

lクをイロニイにすりかえ、リアリズムをもロマン

(ロマンティ

1ク化)したといえよう」。

ティジ

1レン

社会変革をめざして実践されたプロレタリア文学運動が、日本社

会においては小林多喜このように獄中での惨殺という運命をたどら

ざるをえず、必ず否定されると認識した保田は、向かうべき方向性

を見いだすことなく、自己決定。できない。状況をそのまま肯定す

ることで政治的責任から逃避した。だから「その場合それが『転

向』そのものをも否定する意味を含んだことは、当然のこと」と橋

川は述べる。自己決定を留保している以上、「転向」するという決

断も必要ないから、「転向」にすらならない。橋川は、このような

姿勢を生みだした背後に、国学の考え方があったと指摘する。

橋川がイロニイと国学をいかなる連関によって捉えていたかは、

「両者における主情主義と非政治的性格であるとしてよいであろう。

さらにその精神構造に着目するとき、そこにいわゆる機会主義

(目白)

の徴候を広範に認めることができる」と指摘

(。ww白色。ロ白目的

EC印

)

した意味を理解する必要がある。それは主情主義と非政治的性格が

国学の特徴でもあったからだが、まずは「機会主義」の概念を明ら

(12)

かにすることから進めていき、そのあと国学との連闘を明らかにし

ていくことにしよう。

橋川が指摘している「機会主義」とは、カール・シュミットが

『政治的ロマン主義』においてロマン主義者の精神構造の特徴を指

摘したさいに使用した概念だった。橋川の日本ロマン派分析の手続

きは、まずシュミットの考えるロマン主義精神と本居宣長の精神構

造の共通性に向けられる。そのうえで保田奥重郎が国学(中世歌

学)をいかに受容したかを立証する手順で進められる。そこで橋川

がシュミットの『政治的ロマン主義」から引用した部分を、

のちに

未来社から橋川訳として出版された本で確認したい。「神は創造し

ゲミユ

l卜

生み出すが、人聞はその情感において出来事に追随し、それに

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よってしかし事件に参画する。:::世界は神の中に漂っているとす

パネンタイスティシュ

る機会偶然論者は、本来の汎神論的にではなく、万有在神論的に思

考する。その場合あらゆる行動性は神に集中せらたものとしてあら

われ、有効な行為に存するものは神の恩寵、その賜物であるとされ

(日)る」。橋

川の議論を理解するために注目すべきは、「機会偶然論者」が

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想と論理

「万有在神論的に思考する」という指摘である。この指摘は世界が

神そのものであり、そして人間も神によって創られたものである以

上、人聞はあやつり人形のように行動することによって神を感じる

ことができる、という思考様式の説明として理解できる。神は世界

を創造した。そして神が作りだした世界を人間に理解させるため

に、神は人聞を動かしている。だからロマン主義者にとって人間の

感情は、神が世界と人間の行動を準備し与えた「恩寵」であり「賜

物」である、と理解されるというわけである。

一言でいえば知性と

感性が分離され、神(知性)

の容れ物としての肉体(感性)と考え

る思考様式である。

このような思考様式が宣長に存在することを明らかにするため

に、橋川は『紫文要領』から次の一節を引用する。「世中にありと

しある事のさま/¥を、目に見るにつけ耳にきくにつけ、身にふ

る〉につけて、其よろづの事を心にあぢはへて、そのよろづの事の

(田)

心をわが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の哀をしる也」。

宣長も、見て、聞いて、触って、自分の感覚によってあらゆること

を知ることが現実を理解することだと述べている。そして、こうし

た自分の感覚すら「神の恩寵」であると宣長が考えていることを示

すために、

橋川は

『玉くしげ』

の一文を引用する。「時代のおしう

つるにしたがひて、右のごとく世中の有さまも、人の心もかはりゆ

くは、自然の勢なりといふは、普通の論なれども、これみな神の御

{国)

所為にして、実は自然の事にはあらず」。

時代が変化していくことで社会(「世中の有さま」)も人間の感情

も変化していくのは自然現象ではなく、神の意志(「神の御所為」)

であると宣長は述べている。だからシュミットの指摘と『玉くし

げ』における表現について、「少なくとも人間の主体的実践の契機

に関しては等価の存在と考えてよいのではなかろうか同」と橋川は

(13)

指摘する。神が人聞を動かすことによって、神の「恩簡」を人聞が

感じることができるという思考が共通しているからである。

日本ロマン派が登場する社会的背景として「昭和十年代」の「挫

折感」を指摘し、その思想的背景を宣長に見ょうとする橋川は、

「神の恩寵」による感情が自己を否定するものとして与えられるこ

とを、宣長の『くず花』

の一節に見いだす。「但しかれら〔老荘〕

が道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしひて立んとする物

なる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしと

せば、さかしらなる世は、そのさかしらのま冶にてあらんこそ、真

の自然には有ぺきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背

(田)

ける強事也」。ここで宣長は、老荘思想における自然主義を批判し

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ている。老子や荘子は賢そうにふるまうことを嫌うために、無理や

り自然であることを強調しているが、それがかえって賢そうにふる

まっている。だから賢さが求められる時代においては、賢そうにふ

るまうことこそ「自然」だ、というのが宣長の主張である。

ここから『紫文要領』「玉くしげ」『く、ず花』という順番で検討し

た橋川の意図が、時代の変化を自分の感覚によって知り、そのうえ

で賢そうにふるまうのは、そのような時代にあることを神が人聞に

理解させるためである、という宣長の考えを明らかにすることに

あったと理解できる。

貴去見

橋川のこの理解は『くず花』から引用した部分につづけて、「そ

れはまさに近代的なイロニイの痛烈なあらわれということができよ

飛矢崎

ぅ。保田においては、このような意味での絶対的受動性は、中世歌

いわば詩的な表現をとってあらわれる」と

学の発想に色どられて、

述べているところからも確認できる。ここで橋川が「絶対的受動

性」と「中世歌学」が結合していると考える論拠として提示してい

る保田の文章を確認してみよう。「後鳥羽院以後隠遁詩人の文学的

な生き方の一つは、道傍のかりそめごとに、わが道の心をたしかめ

ることであった。:::私は日本の伝統的詩人であるから、

やはりみ

ちのべの流言飛語に、皇神の道義を思ふ道心を味ひ、涙ぐむすべに

(明)

通じてゐる」。「ここに含まれているのは、長明の「発心集』の序に

いう『道のほとりのあだ言の中に、わが一年の発心を楽しむ』とい

う言葉であり、保田が好んで引用する句の一つであお」、と橋川は

説明を加えている。

つまり後鳥羽院以後の詩人の生き方では、何気ないその場限りの

ことからも「道の心」を知ることができ、自分もその「伝統」を受

け継いだ詩人であるから、道端でのうわさ話にも「皇神の道義」を

知り「涙ぐむ」方法を心得ている、と保田が述べたのについて、中

世歌学の影響を橋川は読みとったのである。たしかにここでは伝統

に従う人間の感情が強調され、「絶対的受動性」において把握され

ている。

なお、橋川は『くず花』における宣長の説明について、「批判序

説」ではより明示的に議論の性格を規定している。「儒教的規範主

義に対する宣長の否定は、人為的規範の否定によって見出された主

(14)

情的な人間自然の強調とともに、より特徴的に、そのようにして見

出された主情的人間意識の絶対化をも否定するのである。ここに宣

長学における革命性と反動性の逆説的結びつきの起源があったこと

(位)

はいうまでもないはずである」。ここで問題となるのは、儒教とい

う人聞が作りだした規範が時代状況にそぐわなくなり、それに違和

感を覚えた自分の感情が「神の思寵」であるにもかかわらず、なぜ

橋川は、その「絶対化をも否定する」と指摘したのか。その理由が

わからなければ「革命性と反動性の逆説的結びつき」という意味が

理解できない。

この問題について橋川は、官一長が『くず花』において善悪を神と

の関係において説明している部分を論拠に「批判序説」で論じてい

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る。そこで指摘されていることは、宣長が「儒教的天の理念、老荘

的自然の理念、旧神道におけるそれらの折衷的理念のすべてを否

定」することによって、「経験的世界と神との関係」を「『理』に対

する神々の『事跡』の実存」として亨えているということだっ問。

宣長は天という中心を否定し、さらに自然法則をも否定することに

よって、人聞が作りだした規範(「理」)

の時間的変遷(「事跡」)を

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想と論理

推進する根拠を神という存在に求めている。橋川は、宣長が歴史を

神話化する過程を明らかにしたといえる。すなわち人間の営為が歴

史を作るのではなく、神の営為が歴史を作るがゆえに、人間にとっ

ては「相対化された歴史的相対主義」となり、「あらゆる『進歩』

に追随しうる「保守主義」、すべての『反動」に矛盾しない

(伍}

主義』となる」のである。歴史過程において具現化された両義性こ

『革新

そ神の実存として人聞が排除されるがゆえに、あとは状況の変化を

感じればよい。だから規範に疑いを抱くものの人間個人の決定が留

保され、結果として現状が肯定される「近代的イロニイ」が成立し

ているというわけである。

(3)自我の存否

このようにたどるとき、否定されることの確からしさが現実認識

と交錯している状況を、橋川は問題にしていると理解できる。社会

の規範について違和感を覚えても、神がそのことを理解させるため

に世界を準備したと認識するとき、社会規範はふたたび正しいもの

と考えられ、現状肯定になる。この思考様式が鮮明に表現されてい

る保田の文体として、橋川は「我国に於ける浪量主義の概観」(『現

の一節を論拠と

して引用する。「日本の新しい精神の混沌と未形の状態や、破壊と

建設を同時的に確保した自由な日本のイロニ

l、さらに進んではイ

代文章講座」第六巻、三笠書房、

一九四O年九月)

ロニ!としての日本といったものへのリアリズムが、日本浪長派の

(耐)

地盤となった」。橋川は傍点をふって強調したうえで「保田のイロ

ニイと近代批判の方法を説明している」と指摘する。「破壊と建設

を同時的に確保」することは現実の同空間ではありえない。その矛

盾を表現することを「自由」として肯定することによって、具体的

な内容を抜きさり言葉のうえだけで、すなわち形式的にだけ認めて

(15)

いるため、自己決断の留保が形式合理主義と癒着した「イロニイと

近代批判」が表現されている、というわけである。

さらに保田による「私は単純な看客として云ふのである、:::看

客としてドイツ人が勝つ方が面白からうし、これは文化の一部門を

歴史を通して考へてきた私の希望でもある。さうして神々はいつも

(曲)

歴史を面白く/¥とふりむけてゆくやうに、私には考へられる」、

という主張から橋川は、「歴史を動かすものへの恐怖の感情を『面

白し』という古語的発想の中に解消する試み」を読みとる。つまり

保田は積み重なった「恐怖の感情」(「感じた内容」)を実体化する

ことによって自分の身体から切り離し、恐怖を与える「神」という

「考えた内容」によって代補した。外側から自分に押し寄せてくる

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恐怖に「神」という言葉を与え、原因と考えることによって自己疎

外(「看客」)したということである。言葉の「自由」によって

「神」を設定し、恐怖という現実における感情から逃れ、古典の世

界に身をおく保田の「戦争」(現実)認識として、橋川は「大陸と

文学」(『新潮』

一九三八年一一月号)から次の一節を引用して示し

ている。「この戦争が例へ無償に終っても、日本は世界史を剖する

大遠征をなしたのだ。蒙古を流れる黄河に立ったとき、私は初め

て、日本の大陸政策の世界腔史に於ける位置を感じた。:::思想と

質規

しての立場からは、今戦争が無償に終る時を空想しても、実に雄大

なロマンチシズムである」。

保田のこの表現について、「すべてこの類のイロニイの態度から

飛矢崎

は、いかなる政治的行動のリアリズムも生れえないことは明白であ

幻」と橋川は断じる。これほど厳しい口調で批判的解釈を橋川が加

えるのは、保田が傍観者として自己を規定することによって、人間

の意志行為の総体である「戦争」を「世界史を劃する大遠征」とし

てのみ位置づけ、「ロマンチシズム」を感じ、そこでの悲惨さから

目を背けているからだった。政治とは具体的な人間の行為を前提と

するにもかかわらず、「無償に終つでも」と具体的な利害を保田は

無視している。すなわち保田は現実で行われている「この戦争」を

否定し、神々がいつも面白くする「世界史」(「神話」)

のなかに移

動したことを橋川は批判した。そして保田の文体を生みだした意識

についても橋川は言及する。「保田の文体の異様さを決定したもの

は、このようなイロニイに必然的にともなう一種の焦燥的な熟成の

熱望であった。それはある明確に与えられた現実的限界のリアリズ

ムをさけて、自我の可能性を上へ追い上げようとする衝動から生れ

てくる」。

保田の文章には現実問題への決断から逃避することにともなう

「焦燥的な熟成の熱望」が表現されている。すなわち自己限界の痛

切な認識を避け、自己存在の意味づけを超越的なものに仮託するこ

とで。解消。しようとした心情の切迫さが表現されている。この指

摘から「日本ロマン派がある種の『リアリズム』の継承者としての

意識をもち、それを殆ど終始そのポレミ

lクの武器としてすてな

かったことが重要」と橋川が述べる意味も理解できる。現実を回避

(16)

したいと人びとが思っていることを、保田は論争の武器として用い

た。こうした考察をへて橋川は、日本ロマン派が「なぜあのように

異形の運動形態として現われたかという特質は、それがイロニイと

いう一種微妙な近代思想のもっともラジカルな最初の体現者であっ

たという点に求められると思われ幻」と述べる。個人の具体的な経

験が剥奪され、形式化していく恐怖から逃れたい願望を分かちあう

という平等性は、個人という形式のみを平等にあつかっている点

で、形式合理性のみを追求した「一種微妙な近代思想」だった。し

かし、そこには「私」という具体的な存在の希薄さにたいする格闘

が存在しないため、「保田には、全くといってよいほど、勇気がな

かった」と橋川は批判するのだった。

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このように日本ロマン派を考える橋川にとっては、保田に代表さ

せることはあっても亀井勝一郎に代表させる理由はどこにもなかっ

た。なぜなら亀井には否定され、不確かな「私」という思想が弱い

と橋川は考えたからだった。亀井は「『日本の伝統を勉強すること

によって、自分の転向を自発的に完成させる」といった、とりょう

『教養主義』

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想、と論理

によってはしたたかな小市民的エゴイズムと

強烈に放つ」ことから、「イロニイの本質としての『無限否定』

の匂いを

立場は、亀井の場合にはつらぬかれておらず、むしろ伝統的な日本

的生活様式にたいする微妙な均衡感(一種の世俗的巧轍さ)がその

資質であるように思われ前」。亀井の文章から「小市民的エゴイズ

ム」を読みとっている部分に、保田評価との差が示されている。す

なわち保田にあっては自己が無限に留保されることで「エゴイズ

ム」など存在しないのに対して、亀井は自分の理論の不足を補うた

めに、

つまり日本の状況を織り込んだことにするために「伝統」を

持ちだしている、というのが橋川の理解である。では、亀井とは異

なり肯定すべき自己など存在しなかった保田は、国学を媒介にいか

なる回路でロマン主義的精神構造にたどり着いたと橋川は考えた

か。この問題は「批判序説」の副題が「耽美的パトリオテイズムの

系譜」となっていることと関連している。

ロマン主義と決断主義の自我

(1)伝統主義と決断主義への分極

「批判序説」の最終章にあたる「美意識と政治」(未発表一九六

O

年一月稿)は、保田輿重郎と小林秀雄の比較思想論という形をとっ

ている。ここで橋川はサブタイトルにふれ、ナショナリズムとの違

いについて言及している。「戦争中の日本における一種のウルト

ラ・ナショナリズムは、政治的なナショナリズムというより、むし

ろパトリオテイズムとよんだ方が適当であろうという考えがあった

からであるOi---そして、戦前と戦後に一貫する国民の精神構造を

ズ追ム求のし視よ角うをととす

る会と合ザ、、

便手r

写之ぁ墜る味ルな

i 1主主事わ 主け況で、 υ

去る~ -ノ1

」きト

戦オ時テ中イ

(17)

の社会心理はナショナリズム

(国民主義)というよりも、パトリオ

テイズム

(郷土主義)という性格を有していたと考えるほうが、戦

中・戦後について一貫した説明が可能になると橋川は考えていた。

もちろん、こうした橋川の考えは、神島の議論と通じており、保田

の思想を分析するための視座でもあった。「私は保田の郷土ショー

ビニズムというべきものを感じとる。そして、それはそれで自然で

あったと思うとともに、その土地がたまたま大和朝廷の風土であっ

たということが、保田の美意識もしくは歴史意識に対して、決定的

な意味をもったことを思わないではいられな吋」o

意志決定から逃

避しつづけた保田は、自分の無根拠さ、

つまり「たまたま大和朝廷

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の風土」を郷里としたことを不可避(「決定的な意味」)と考えるこ

とで排外主義の性格を帯びた。

こうした保田の思考様式を、決断主義者である小林秀雄の思考様

式と対比させて橋川は論じる。「小林の美意識が、むしろ過剰な自

意識解析の果に、一種の決断主義として規定されるのに反し、保田

の国学的主情主義は、本来的なロマン主義的精神構造をそなえ、働

問犬恋聞などの言葉に示されるように、むしろ没主体への傾向が著し

(帥)い

」。ここでは両者の自意識のあり方に照明があてられ、小林は強

い自我を保っているが、保田は対極的な傾向にあることが指摘され

貴規

ている。二人の違いについて、あるいは次のようにも述べている。

「保田の文章における一種の少年めいたオプティミズムと、小林に

おける一種大人めいたペシミズムのちがいも理解しうるかもしれな

飛矢崎

ぃ。さらに付言すれば、保田と小林に通ずる反近代主義は、前者に

おいてはいわばお円自

55田

ρgであるのに対し、後者ではそれは

件。ロロ55包

05Bであるという関係が考えられよう」。

保田にとっては、近代という時代が個人の意味が決定的にあいま

いになる時代として認識されたがゆえに、それをそのまま肯定し

(「少年めいたオプテイミズム」)、

いかに戯れるかが問題になった。

しかし小林は、近代が無個性的な時代であることを自分の努力に

よって分析したがゆえに(「大人めいたペシミズム」)、個人の意味

を確立するために「反近代」であることを選んだ。だから「反近

代」といっても、小林にとっては「そこまでという点」であり、保

田にとっては「そこからという点」である。ただし両者ともに個人

を支える社会についての思考が欠落しているがゆえに、結果的に

(回)

「現実の絶対容認ともいうべき心的態度」だった、と橋川は批判す

る。さらに、両者の思考様式の違いが文体の違いにも結びついている

ことを橋川は指摘する。「古典や戦争の姿が、小林の場合、かれの

強靭な個性の風貌を付与されてあらわれるのに対し、保田の場合に

はそこに保田の相貌が強烈にあらわれるということがなく、むしろ

情緒的に縁どられてあらわれるということも、それに因由するとい

えよう」。小林は自らの直感を信じることで「決断主義」として

「美」を引き寄せているのに対して、保田の場合はロマン主義の精

(18)

神構造によって「美」に没入しているから受動的な思考様式になっ

ている。

つまり古典の世界で決められた「美」を自身に適用する保

田と、あくまで自分の感覚によって古典の世界から「美」をつかみ

だしてくる小林の違いともいえる。自分の感情が常に新しく加算さ

れていく持続性に「私」という統一性を見いだすことと、古代の空

聞が現存していることによって保持されている「美」の総和の一部

(担)

として「私」を考えることの差異を橋川は指摘した。

(2)土地の正統性と耐え忍ぶ「美」

戦時下においてともに「美」を究極的な価値とした保田と小林の

思想がいかなる機能を果たしたか。この問題にたいする橋川の考察

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は、次のような指摘として示される。「保田と小林とが戦争のイデ

オロ

lグとしてもっともユニークな存在であったこと、:::ここで

問題となるのは、かれらに共通する一種の反政治的思想であり、し

かもそれが、もっとも政治的に有効な作用を及ぼしえたことの意味

であ討」。人間の意志行為を考慮しない「反政治的思想」が、戦争

という人間の決断が厳しく問われる状況下において、逆説的に

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想と論理

「もっとも政治的に有効な作用を及ぼしえた」ことを橋川は問題に

している。

ではなぜ、このような事態が出現したか。

橋川はその理由を日本における「美」に着目して論じていく。

「日本人の生活と思想において、あたかも西欧社会における神の観

念のように、普遍的に包括するものが『美」にほかならなかったと

(師)

いうことができよう」o

ヨーロッパにおいて「神」のもとに束ねら

れる価値が、日本では「美」という観念が担っている。

つまり、あ

らゆる価値の源泉が美しいか否かという判断に帰せられることに

よって、身体を超えた価値を考えることができなった、ということ

である。

だから、「政治が政治として意識せられる以前に、政治の作用が

日常的な生活意識の次元で、その美意識の内容として受けとられる

ということがとくに問題となるであろ、明」と橋川は述べる。自分の

存在と他者の存在との葛藤が、日常生活における「美意識の内容」

という感性の問題として処理されていた。こうした意識形態の残存

が、戦中の政治状況として顕著に現れることで、「それ〔天皇制〕

はほとんど二十世紀に残存する唯一の近代的神政政治ともいうべき

システムであって、天皇権力の正統化は『天壌無窮』を形容詞とす

(酪)

る一種の伝統主義的支配として行われた」。戦時下の政治システム

は、天地とともに永遠につづく天皇という観念の下に統合される意

志決定を追求することによって成立していた。「つまり、政治的動

学の基盤をなす政治的価値

(H権力)

の葛藤関係が、究極的には悠

久な国体論のフレームのなかに吸収されるという構造があったから

である」。

天皇を頂点とする政治は、天と地が永遠に存在することの下に正

統化されるため、人間の行為が他者に与える権力性を調整する「政

治意識」を生みださず、むしろ静態的な空間意識にとって代えられ

(19)

ている。これによって「日本列島の実在性が疑われない限り、日本

政治もまた実在的であるという非政治的次元でのみ、それは有効な

(部)

政治原理として機能したのである」。日本列島という土地が実在す

る限り、その土地神が人聞を動かしつづけるから日本政治もつづく

と考えられていた。その理由として橋川は、あの国学の人間観をあ

げている。「『さかしらのままにである』自然という思想は、まさに

和魂と荒魂の馳駆する感性界の即自的・美的容認を意味するが、そ

たSれしτ は

また

いわば人間的自然と自然的自然の未分離を意味してい

時代状況が要求するようにふるまう「自然」とは、人聞が自らの

思考を切り捨てているために、人聞が考える「人間らしさ」(人間

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的自然)と、人聞が考える「自然らしさ」(自然的自然)が未分離

であることを意味している。人間の意志行為による因果と、自然界

における因果が区別されていないことを橋川は指摘し、この考え方

の源流を国学に求めているのだが、「和魂と荒魂の馳駆する感性界

の即自的・美的容認」という説明には補足が必要だろう。そこで松

岡静雄「我民族の霊魂観

A7γ|和魂・荒魂考」(『宗教研究』新第八

巻第二号、

一九一三年)を参照し「和魂と荒魂」という言葉の意味

を明らかにすることから始めたい。

松岡は柳田園男の弟で言語学や国学を研究し、多くの著作を残し

貴規

ている。松岡は論文の冒頭で、「神道家の常用語にニギミタマ

(MN)

アラミタマ(荒魂)という言葉がある」が、その意味が明確 手口

魂)、

飛矢崎

になっていないと問題提起し、検討するさい歴史的考察や、上代人

の意識を再現する必要などを説く。とりわけ「漢字を以てする記述

法が発達してから、言語の研究を疎にして文字によって釈明を試み

んとするものが多く、荒魂(アラミタマ)を「荒ぶる霊魂』と解す

るが如きは其鮪著なる一例で、宣長の如き大学者ですら此弊を免か

れなかった」と批判し、独自の検討と解釈を加えている。くわしい

考証の過程は省略せざるをえないが、松岡の結論は次のような解釈

に落ち着く。「ミタマ又はタマといふ語が神霊の義にも人間の心魂

をいふにも用ひられるのは、上代人の霊魂観念に基くもので、没後

肉体を離れた魂塊は転生することなく、謹く神となって永遠に存在

(同}

すると考へられた」。古代では生きている人間の魂も肉体が減ぴた

魂も、ともに実体として併存すると考えられ「神格化」され崇めら

れた。そして松岡は「ニギ」と「アラ」について次のように説明す

る。「右〔これまでの検討〕によれば幸魂、奇魂(術魂)、和魂はい

づれも御霊といふ意に外ならず、サキ(幸)、クシ(奇)、スベ

(浄)、ニギ(和)は美称として接頭せられたものであらねばなら

ぬ。されば荒魂のアラも亦一種の美称で、荒は借字と見るべきであ

0

0

0

0

らうOi---こ、のアラは顕露の義ではなく、額崇を意味し、後世の

アラタカにあたる美称とおもはれる」。

人間の死後も魂は残りつづけ、転生することなく神になる。そし

てそれらの魂を褒め称えるさいに、「ニギ」や「アラ」が使用され

た。ここで問題なのは松岡の解釈が正しいかではなく、こうした解

(20)

釈と政治の関係である。松岡は論文の結論近くで、こうした霊魂観

と政治の関わりに言及している。「上代人の信念によれば祖神の祭

杷は其嫡流の後脅の任務で且権利であるとしたもの、ゃうであるか

ら、私に天照大御神を奉賛するものがあったとしても、決して公認

せられなかったのであるが、神功皇后は皇族として、天皇の御母と

して垂簾の政を執られたのであるから、時宜に従うて大御神を贋田

に分把せられたのは決して不当のことではなく、天皇の御子が一家

(同)

を創設せられる場合に於ても同様であったと思はれる」。古代にお

いて政治(「垂簾の政」)は、それまでとり仕切ってきた皇族が状況

を見て(「時宜に従うて」)決定する行為として位置づけられてい

た、というのが松岡の理解である。

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以上を複合して考えれば、自然との関わりによって生みだされた

人間の感情と、人と人との関係を問題にする政治とが同一視されて

いたことによって、自然界に神となって併存している魂の末商だけ

が「政治」を行うことが認められるという政治観を、橋川は問題に

していたと理解できる。そしてこうした政治観や死生観、あるいは

歴史観が古典を通じて小林や保田の思考に流入していると橋川は指

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想と論理

摘する。「小林や保田において、「歴史』は『伝統』と同一化せら

るをれ

それらは

いずれもまた『美」意識の等価とみられたのであ

過去の文物を受けとめたときの美的感覚が、現実として肯定され

る。歴史的に与えられたものを受容したときに生じる共感が「美」

であり、歴史の意味であった。橋川はこのうち保田の思考様式につ

いて次のように説明している。「郷土大和の風土と伝承に対する耽

美的愛着の同心円的拡大がかれの『歴史意識」にほかならなかった

のであり、その場合の『歴史」とは、カール・マンハイムのいわゆ

る『同空間者』(月

25問。ロ。印印g)の意識を内容とするものにほか

ならなかった」。古代を現代にそのまま残している「郷土大和の風

土と伝承」を中心とする価値への愛着が「歴史意識」であった。す

なわち失われていない「郷土大和」という実体から離れれば離れる

ほど新しくなり現代に近づくため価値が失われていき、その距離に

時間という経過が表現されている。このような思考様式が、

、‘、‘

t

し,刀+μ

る「歴史意識」として現象したか、橋川はつづけて述べる。「人間

はいかなる欝憤・怨恨をそれに対して抱懐しようとも、寛にその

『昨日』に対して一指も染めることはできない、そこでは、『永遠に

昨日なるもの、われらをひきゆく』という断念が人生論の核心をな

すことになる。こうして、絶対に変更することのできない現実|歴

史ー美の一体化観念が、耽美的現実主義の聖三位一体を形成する。

保田や小林が、『戦争イデオロ

lグ』としてもっとも成功すること

ができたのは、戦争という政治的極限形態の苛酷さに対して、

日本

の伝統思想のうち、唯一つ、上述の意味での『美意識』

(開)

を耐え忍ぶことを可能ならしめたからである」

0

のみがこれ

人聞は関与することができない歴史が自己を規定している情況下

では、自然との関係において生みだされた「美」という感情のみ

(21)

が、根拠のない自己を支えるものとして「耐え忍ぶ」拠り所を与え

た。だから直接的には戦争賛美しないにもかかわらず、戦争拒否と

いう人間の意志行為を断念させた。「『命のまたけむひとは』という

古代的行情詩に含まれる予感的な「亡びの意識』こそ、保田の文

章・文体そのものから、私たちが本能のようにして感じとったもの

であった。しかもその主情的な批評方法は、私たちが死をほとんど

鉄壁のような日常の理法として経験した日々において、まさしく全

(間)

体的認識の方法として適切なものとみなされたのである」。

自然の前に修い露と消えていく人間存在のあり方を掘った哀歌と

して保田の文学を理解していた。すなわち、保田の文学は消えてい

く「死」を合理化する「全体的認識の方法」として戦中の橋川には

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映った。だから「美がもし無差別な化身の機能であるとすれば、僕

らはむしろその追求をやめた方がいい。むしろ一切の文学を追放し

たほ、つがいい」とすら橋川は記すのだった。

おわりに

橋川は日本ロマン派、すなわち保田輿重郎の思想は「昭和十年

代」という社会情況によって醸成された「挫折感」が要因だと考え

た。マルクス主義と自然村的秩序の崩壊に直面した「昭和十年代」

は、めざすべき未来のビジョンが喪失することで座標軸を失った。

質規

橋川は、社会変革を志したマルクス主義文学の崩壊の「必然性」に

直面した保田が、否定される自己を自分で肯定するイロニイを実行

飛矢崎

したと理解し、「革命的反響」を見てとった。そこから「挫折感」

が中間層における政治意識の問題とも通底していたと考え、反政治

的美意識の内容について論を進めた。

神島二郎や藤田省三の分析に依拠しつつ、橋川は大衆社会へと変

化していくときの意識や判断について論じた。神島は大衆社会化す

るさい、旧来の伝統的秩序意識が呼び起こされ、それが中間層に典

型的に現れたと考えた。この神島の見解に沿いながら、橋川は上方

の情景や風物に接した少年が日本ロマン派を実感として理解しえた

と自らの体験をもとに推察した。そして藤田省三による農本主義と

日本ロマン派が「パラレル」であるという指摘を敷桁しながら、都

市の文学運動として展開したがゆえに、その心情を「率直」に表現

した日本ロマン派に対して、農本主義者は崩壊途上の自然村の復元

を「率直」に実行したという対比によって捉えた。

社会変動にともなう「挫折感」に日本ロマン派の根拠を読みとる

橋川の議論は、それまで存在した明治浪漫主義との質の違いをも論

じていた。そこで取りあげられたのが石川啄木のロマン主義批判

だった。啄木は自意識の自覚によって生みだされた自然主義文学

が、「性急な思想」ゆえに美化されていることを見抜き、その現状

肯定的性格を批判した。肥大化する自意識を抱えて自己批判する啄

木は、中間層の「不安」を代表しつつも、未来への希望が残されて

いるがゆえに社会批判として成立したと橋川は指摘した。

昭和になって二重の崩壊に直面し、自己批判を社会批判へと接続

(22)

できなかった保田の議論の特徴として橋川が指摘したのがイロニイ

だった。ヵlル・シュミットの「機会主義」という概念を手掛かり

に本居宣長を分析した橋川は、宣長が「神の実存」を設定し人間の

「情感」を行為のクきっかけ。として考えていたと論じた。そして、

この考え方が保田輿重郎にも共通していることを指摘した。この徹

底的に自己実現を放棄した姿勢が亀井勝一郎には現れていないため

に、保田こそ日本ロマン派であると橋川は論じたのだった。

そして、おなじく時代状況に「挫折感」を感じながらも、自然村

的秩序を美的に懐かしむのではなく、

いま・ここ・「私」の直感を

決断的に絶対化する小林秀雄と保田を対比した。それは現実社会へ

の「挫折感」から、「神話」を持ちだすことによって現実を回避し

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た者と、希薄化していく自己を維持するために自分の直感を絶対化

した両者が、ともに「現実の絶対容認」に陥ったという理解に立脚

してのことだった。

つまり、自分が常に新しく感じる「美」の持続

性に「私」という統一性を見いだすことと、古代の空間が現存して

いることによって保持されている「美」の総和の一部として「私」

を考える思考過程の相違にもかかわらず、共通して美意識のもとに

橋川文三「日本浪長派批判序説」の発想と論理

あらゆる価値が正統化されていることを批判するという立場だっ

た。これによって自然村的秩序が再帰的に強化されたと考えていたか

ら、橋川は「耽美的パトリオテイズム」という副題を選んだのだっ

つまり国民主義(ナショナリズム)

た。

の問題というよりも、郷土

主義(パトリオテイズム)が「土地神」と結びつき、排外主義的な

性格を帯びたことを日本ファシズムの要因として橋川は考えた。そ

こでは天地とともに永遠につづく天皇という観念の下に統合される

意志決定を追求することになり、人間の行為が他者にあたえる権力

性を調整する政治意識が消え、静態的な空間意識にとって代えられ

ていたと批判した。

このように捉えた橋川にとって、「歴史意識」をいかに形成する

かが課題になった。それは現在主義と伝統主義への挑戦を意味し、

人間の行為の積み重なりを歴史過程として捉え、そのなかに一貫し

た原理を発見することの探求である。現在を歴史の「そこまでとい

う点」として捉える意識と、絶え間なき現在のみに賭けるという意

識の双方を斥け、「そこからという点」を作為する可能性の探究と

もいえる。歴史の到達点に立ちながらも、新たな出発点を設定する

ことができる「私」という場の探究。橋川の「歴史意識」論がいか

なる論理によって展開されているかは稿をあらためたい。

(1)

「丸山真男氏に開く『日本浪漫派批判序説』以前のこと」(『橋川

文三著作集』七巻・月報、筑摩書房、一九八六年)一一一頁。

(2)

橋川文三『日本浪長派批判序説』(未来社、一九六O年)六頁。ち

なみにこの直前の文章は、「歴史というものは徹底的であって、士口い

形態を墓へと運んでいくときに、多くの段階を通過していく。一つ

の世界史的形態の最後の段階は、それの喜劇である」〔カlル・マル

クス/城塚登訳『ユダヤ人問題によせてヘlゲル法哲学批判序説』

(岩波文庫、一九七四年)七九頁〕という文章である。

(3)

市村弘正・杉田敦『社会の喪失』(中公新書、二

OO五年)六一

頁。

(4)

市村弘正『[増補〕「名づけ」の精神史」(平凡社ライブラリー、

九九六年)一五六|一五七頁。

(5)

橋川文三「挫折」(『講座現代倫理』第五巻、筑摩書房、

年)一五三、一五四頁。

(6)

同右、一五七頁。

(7)

前掲『日本浪長派批判序説』一四頁。

(8)

同右、九頁。

(9)

弁証法については、とくに船山信一

(23)

一九五八

『新編

ヘlゲル哲学の体系

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貴規

と方法』(未来社、一九六九年)、加藤尚武『ヘ

lゲル哲学の形成と

原理』(未来社、一九八O年)、瞭松渉『弁証法の論理』(育土社、一

九八O年)を参照した。

(山)前掲『日本浪長派批判序説』一ニニ頁。

(日)同右、一四頁。

(ロ)同右、一九頁。

(日)同右、二O頁。

(M)

西田勝「『日本浪受派』の問題」(『新日本文学』一九五四年一一月

号)。「近代文学の発掘』(法政大学出版局、一九七一年)所収。

(日)前掲『日本浪長派批判序説』二四頁。

(日)同右、二四二五頁。

(口)同右、二五頁。

(凶)同右、二六頁。

(凹)問右、ニ七頁。

(却)同右、三一|一一一二頁。

(幻)同右、三三頁。

(詑)同右、三四頁。

(お)問右、一九頁。〔〕は橋川。

(出)神島二郎『近代日本の精神構造』(岩波書脂、一九六一年)一一一一

頁。

(お)同右、四O頁。

(お)同右、四一頁。

(幻)同右、六O頁。

(お)同右、六O|六一頁。

(却)同右、八七|八八頁。

(却)前掲『日本浪長派批判序説』八四頁。

(訂)橋川文三「あとがき」(『日本浪長派批判序説』)二五八頁。ただし

飛矢崎

この部分は「日本ロマン派の諮問題」の「はじめに」を再録。

(沼)同右、六六頁。

(お)藤田省三「天皇制とファシズム」(『天皇制国家の支配原理』未来

社、一九六六年)一四一頁。橋川は『日本浪長派批判序説』六八頁

で引用。なお、点線部分は「日本ロマン派の諸問題」(『歴史と体験』

春秋社、一九六四年)九五頁での引用部分。

(担)前掲『日本浪長派批判序説』六七頁。

(お)向右、七一七二頁。〔〕は引用者。

(部)向右、五O頁。

(幻)岡右、五一頁。

(招)石川啄木「卓上一枚」(『啄木全集』第四巻、筑摩書房、一九六七

年)一三一一頁。

(却)同右、二二三頁。

(刊)石川啄木「文学と政治」(『啄木全集」第四巻、筑摩書房、一九六

七年)二二八頁。初出『東京毎日新聞』一九O九年一二月一九・二

一日。

(引)石川啄木「巻煙草」(『啄木全集』第四巻、筑摩書房、一九六七年)

二三九頁。

(招)同右。

(必)石川啄木「性急な思想」(『啄木全集」第四巻、筑摩書房、一九六

七年)二四O頁。初出『東京毎日新聞』一九一O年二月一一一一ーー一五

口μ

(24)

(制)同右、二四三頁。

(羽)前掲『日本浪長派批判序説』五一一貝。

(必)石川啄木「硝子窓」(『啄木全集』第四巻、筑摩書房、

二四五頁。

(灯)前掲『日本浪長派批判序説」五二頁。

一九六七年)

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橋川文三「日本浪長派批判序説Jの発想、と論理

(必)同右、五三頁。

(却)同右、三八頁。

(印)同右、四O頁。

(日)橋川文三「日本ロマン派の諸問題」(「歴史と体験』春秋社、

六四年)九四頁。

(臼)同右、九七頁。

(臼)同右、一O七頁。

(日)C.シュミット/橋川文三訳「政治的ロマン主義』(未来社、一九

八二年)一一一一一BI--s

一一四頁。橋川は、前掲「日本ロマン派の諸問題」

一一一一|一一三頁において引用している。

(日)本居宣長『紫文要領上』(『本暦宣長全集』第四巻、筑摩書房、一

九六九年)五七頁。橋川は、前掲「日本ロマン派の諸問題」一一一

|一一一一頁で引用している。

(部)本居宣長「玉くしげ」(『本居宣長全集』第八巻、筑摩書房、一九

七二年)三二二頁。橋川は前掲「日本ロマン派の諸問題」一一二頁

において引用している。

(貯)前掲「日本ロマン派の諸問題」一一一一頁。傍点は橋川。

(部)本居宣長『くず花下つ巻』(『本居宣長全集』第入巻、筑摩書一房、

一九七二年)一六一一一頁。橋川は、前掲「日本ロマン派の諸問題」一

一一一頁と、前掲『日本浪長派批判序説」七七頁で引用している。〔〕

は『日本浪受派批判序説』における橋川による。

(岱)前掲「日本ロマン派の諸問題」一一一一頁。

(印)保田輿重郎「民衆と文芸」(『文明一新論』第一公論社、一九四三

年)一二九頁。ただし引用は原著の文章の流れを優先させ入れ替え、

誤記と思われる部分は修正した。

(臼)前掲「日本ロマン派の諸問題」一一一一頁。例えば保田は『日本語

録』(新潮社、一九四二年)で鴨長明について論じた個所(九O|九 九

五頁)で、この言葉を取りあげている。

(臼)前掲『日本浪憂派批判序説』七七頁。

(臼)本居宣長『くず花上つ巻』(『本居宣長全集』第八巻、筑摩書房、

一九七二年)一四一|一四三頁部分。

(山田)前掲『日本浪受派批判序説』七七|七人頁。

(伍)同右、八六頁。

(侃)保田奥重郎「我国に於ける浪是主義の概観」(『近代の終罵』小学

館、一九四一年)四O頁。傍点は橋川による。

(町)前掲『日本浪長派批判序説』四一頁。

(回)保田輿重郎「文士の処世について」(『美の擁護』賓業之日本社、

一九四一年)二五四頁。引用文は原著に従い「単純な」を加えた。

(印)前掲『日本浪受派批判序説』四一頁。

(叩)保田輿重郎「大陸と文学」(「蒙彊』生活社、

頁。

(九)前掲『日本浪長派批判序説』四二頁。

(η)同右、四三頁。

(η)同右、四七頁。

(九)同右、五O頁。

(百)同右、五九頁。

(苅)同右、四九頁。

(打)同右、五O頁。

(市)同右、八七頁。

(乃)同右、八九頁。

(剖)同右、九O頁。

(凱)同右、九一頁。

(位)同右、九二頁。

(お)同右、九三頁。

一九三八年)二三O

(25)

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貴規

(制)解釈するさいに『ベルクソン全集』一巻(白水社、一九六五年)、

『ベルクソン全集』二巻(白水社、一九六五年)を参照した。

(部)前掲「日本浪受派批判序説』九三頁。

(部)同右、九四頁。

(訂)同右、九五頁。

(槌)同右、九六頁。〔〕は引用者。

(的)同右、九六頁。

(卯)同右、九七頁。

(引)同右、九八頁。

(位)松岡静雄「我民族の霊魂観念||和魂・荒魂考」(『宗教研究』新

第八巻第二号、一九一一一一年)。

(川町)同右。

(似)同右。

(何)同右。

(伺)同右。

(釘)前掲『日本浪長派批判序説』九九葉。

(悌)同右、九九頁。なお、こうした機川の指摘は丸山良男とカ

lル・

マンハイムの指摘をふまえつつ、中心(現存する最古の笑体)から

の距離が時間認識として把国蝕されていたことを指摘するものだった

と考えられる。マンハイムは「歴史的なものの体験において、事象

を担う基体として、短命な個人の代りに、より永続的な実体、すな

わち土地が現われるOi---この悠一回な空間的基礎にくらべれば、一

切の個々の事象や個々の人聞はもともと偶然的なものに過ぎないの

であるが、歴史的なものに対するこれと同一の空間体験は、ミユ

lが、ロマン主義者の流暢さで、民主主義的に色づけされた「同

時代考」

(NmE州巾

Egg)の概念に対し、「同空間川者」

(ECBmgg-

∞2)という保守主義的概念を打ち出したとき、彼のところにも

飛矢崎

はっきりと作用し続けている」、と述べている〔森博訳『歴史主義・

保守主義』(恒星社厚生閣、一九六九年)一一一一一

l一一四頁〕。

一方、丸山は「超国家主義の論理と心理」において、「かくて天皇

も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っているのであ

る。天皇の存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖白玉宗も

ろとも一体となってはじめて上に述べたような内容的価値の絶対的

体現と考えられる」と述べ、「中心的実体からの距離が価値の規準に

なるという国内的論理」が存在したことを指摘していた〔『現代政治

の思想と行動』上巻(未来社、一九五六年)二三頁〕。

(mm)

同右、九九|一

OO頁。

(間)前掲「日本ロマン派の諸問題」九七頁。

(削)橋川文三「実感・抵抗・リアリティ」(『日本浪長派批判序説』)

八四頁。初出『新日本文学」一九五八年六月号。

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橋川文三「日本浪受派批判序説」の発想と論理

Motive and Logic of the Discourse Critics 01 J~ρanese Romantic School by HASHIKA W A Bunzo

HIY AZAKI Takanori

This paper clarifies the motive and logic of the Discourse Critics 01 j.ゆaneseRomantic

School (1960, revised in 1965), a representative work of HASHIKA W A Bunzδ(1922-1983), a

political scientist and critic. This paper discusses how Hashikawa described the feeling of

zasetsu [literary, discouragementJ from the late 1930's to early 1940's and consequently how his

description was received by public. Furthermore, this paper discusses how Hashikawa

analyzed the relationships between the aesthetics and politics in the works of literary critics

YASUDA Yoju.ro (1910-1981) and KOBAYASHI Hideo (1902-1983) in the late 1950's.

It was during th巴timeperiod from the late 1930's to early 1940's when Japan grew to be a

mass society owing to the infiltration of capitalism, which led to the collapse of the order of a

traditional community and of Marxism as well as the loss of the future visions. Hashikawa

argued that the Japanese Romantic School was formed because an axis of coordinates

disappeared and the society was covered with the feeling of discouragement as results of these

phenomena from the late 1930's to early 1940's. Being faced with the collapse of the order of a

traditional community, the discussion was conducted in the direction of comparison between

the physiocracy that aimed at the restoration of “old home province" and the J apanese

Romantic School that portrayed the “old country home" as literary movement in cities. The

discussion owed to the analyses by political scientists KAMISHIMA Jiro (1918-1998) and

FUJIT A Shozo (1927-2003),

Hashikawa considered Yasuda as the representative of the Japanese Romantic School. based on German political scientist Carl Schmitt's (1888-1985) attempt to combine the concepts

of“occasionalism" and “irony," In his argument. Hashikawa referred to a great Tokugawa

Period scholar of classicalliterature MOTO'ORI Norinaga (1730-1803) in order to demonstrate

aspects shared by Yasuda and a study of Japanese classicalliterature. Moto'ori believed, as

Hashikawa saw it, thata human adopted God's rational. and Hashikawa pointed out that Yasuda

took over Moto' ori' s position in a sense that Yasuda justified human gemut [emotionJ that

triggered human behavior was fair.

Such discussion was linked to Hashikawa's interest in the ironic contribution of the human

respect for “God's will" to politics during the W orld War II. Hashikawa discussed the reason

why the non-political emphasis on“aesthetics" ironically gained political importance during the

W orld War II from the historical standpoint. Hashikawa criticized that the idea of coordinating

the complication between one's presence and the other presence disappeared, because both

Yasuda and Kobayashi considered aesthetics as the ultimate value. Their agreement is

superficially confusing because the processes of their thoughts were the opposite, especially

because Yasuda was distinguished from Kobayashi who made his own present instinct absolute

as a decisionist.

Keywords: Dialectics, politics, aesthetics, irony, history of thought. W orld War II era J apan.

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