wordpress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム...

109
応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日) 名古屋大学東山キャンパス

Upload: others

Post on 17-Oct-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

応用哲学会第10回年次研究大会

プログラムと予稿

2018年4月7日(土)・8日(日)

於 名古屋大学東山キャンパス

Page 2: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

目次

タイムテーブル 1

会場案内等 3

一般発表(短時間枠) 5

一般発表(長時間枠) 13

ポスター発表 73

ワークショップ 80

シンポジウム 106

Page 3: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

1

4 月 7 日(土)タイムテーブル

・S、L、W、P などの略語はそれぞれ以下を意味します。S は一般発表の短時間枠(25 分)。L は一般発表の長時間枠

(50 分)。W はワークショップ(120 分)。P はポスター発表。

・会場内は、飲食禁止です。

・受付開始ならびに控室と各会場の開場は、9 時 30 分です。

Page 4: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

2

4 月8日(日)タイムテーブル

・S、L、W、P などの略語はそれぞれ以下を意味します。S は一般発表の短時間枠(25 分)。L は一般発表の長時間枠

(50 分)。W はワークショップ(120 分)。P はポスター発表。

・会場内は、飲食禁止です。

・受付開始ならびに控室と各会場の開場は、9 時 30 分です。

Page 5: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

3

会場案内

◆名古屋大学東山キャンパスへの経路と時間

◆名古屋大学東山キャンパス案内図

Page 6: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

4

◆学会会場と懇親会場

◆大会会場見取り図 ◆懇親会場見取り図(大会会場東隣)

◆注意事項

*受付は全学教育棟 A 館の A15 教室です。受付開始は 9 時 30 分です。それより前にお越しになっても対応できない場合

がございますので、ご注意下さい。

*大会参加について:参加費をいただいております(懇親会費込み)。大会参加費:会員 1000 円、非会員 1500 円です。

ただし当日入会申込みをされた方は 1000 円です。事前登録は必要ありません。会場にてお支払いいただけます。

*懇親会について: 18 年度の懇親会では、酒食は提供せず、お茶とお茶菓子のみを提供する交流会スタイルで開催する

予定です。この懇親会において、応用哲学会発表賞の表彰も行います。多くの皆様のご参加をお待ちしております。なお

懇親会会場は、全学教育棟本館 1F にある学生ラウンジになります。大会会場とは異なりますので、ご注意ください。

*発表者の方へ: コピー機は有料・無料を問わず大学構内ではご利用いただけません。発表にハンドアウトが必要な方

は、入構前に各自でご準備ください。各教室にはプロジェクタと VGA ケーブル(ミニ D-Sub15 ピン)がご用意してあり

ます。パソコンと必要なコネクタを各自ご持参ください。

*昼食について: 土曜日は 10:00~14:00 の間、南部食堂 1 階「Mei-dining」が開いています。日曜日は休業です。大学

の付近にはあまり飲食店がありませんので、必要な方はご持参いただくことをお勧めします。

*応用哲学会の年次大会において、本予稿集の紙での配布は行っておりません。ご自身で印刷されてご持参ください。

Page 7: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-1

5

S-1

S-1

A13 教室(1 階)

4/7(土)11:50-12:15

成瀬 翔(司会:佐金武)

社会的現実とメイクビリーヴ

ケンダル・ウォルトンのメイクビリーヴ説は藝術理論、美学のみならず、言語哲学や形而上学

を含む多岐にわたる哲学の諸分野に影響を与えている。ウォルトンの理論は、虚構を語ることが

ある種の「ごっこ遊び」(game of make-believe)に他ならないということである。すなわち、彼

によれば、われわれは虚構の対象や出来事が現実には存在しないと知りつつ、その虚構の設定に

従って虚構を生み出す。その見解の根底には、現実を認識しつつもある設定を受容し、それに従

って虚構を生成するというウォルトンの発想が存在する。

ウォルトンは現実の事実を認識することに相当する 「信じる」(believe)と対比される、 「信

じることにする」(make-believe)という心的態度によって説明する。すなわち、われわれは現

実についてはそれが事実であると信じているが、虚構についてはそれが事実であるとは信じてい

ない。しかし、われわれは虚構の出来事が事実ではないにもかかわらず、あたかもそれが 事実

であるかのようにふるまう。メイクビリーヴ説は、このような虚構と現実という二重性ないし両

義性を人間の心的態度によって解き明かすことを目指す。

本発表は、以上のケンダル・ウォルトンのメイクビリーヴ説を、ジョン・サールの社会的現実

の理論に応用することにある。この応用の試みには 2 つの目的がある。1 点目に、スポーツや音

楽鑑賞などの人間社会における文化的領域にメイクビリーヴ説を応用することである。通常、ス

ポーツや音楽鑑賞などの領域は、物語や詩を読んだり、映画や絵画を鑑賞したり、舞台を演じる

などの虚構の典型例とは区別される。しかしそれにもかかわらず、スポーツや音楽鑑賞の場面に

おいて、われわれは虚構の典型例に接するときと同じく、ある種のごっこ遊び的態度をとってい

ることを示唆する。これにより、われわれの社会生活における文化的領域にメイクビリーヴ説を

応用することが可能となることが期待される。

2 点目に、われわれが現実世界における事実と呼ぶ出来事ないし行為に、二重性が含まれてい

ることを明らかにする。ここで参照するのが、 ジョン・サールの生の事実(brute fact)と制度

的事実(institutional fact)(あるいは社会的事実(social fact))という二分法である。サールは

初期の Speech Acts(邦訳『言語行為』)から The Construction of Social Reality に至るまで、

これらの概念を洗練させつつ議論を展開する。

これらの概念をめぐるサールの議論の眼目は、自身の言語行為論を、個々の発話行為というミ

クロ的場面から社会的ないし共同的行為というマクロ的場面まで敷衍的に展開することにある。

しかし、本発表では本発表ではサールの生の事実と制度的事実という二分法がメイクビリーヴ説

Page 8: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-1

6

S-1

の根幹をなす虚構と現実との二重性を明らかにするために有益な方針であることを示す。ウォル

トンとサールを接続することにより、社会哲学に対する新しい視座を提示することができれば、

本発表の目的は達しうるだろう。

参考文献

Walton, K. (1990) Mimesis as Make-Believe. Cambridge, Mass: Harvard University Press.(邦訳

『フィクションとは何か――ごっこ遊びと芸術』、田村均訳、名古屋大学出版会、2016 年)

Page 9: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-2

7

S-2

S-2

A14 教室(1 階)

4/7(土)11:50-12:15

Hiroyuki Matsumoto(司会:出口康夫)

Category theory explains the reversible transition of physiological states and its

disruption through the modulation of duality

In the past decades, it has become clear that cellular signaling is non-linear; its molecular

components interact in a more “complex” manner than initially anticipated, therefore, no

simplified scheme represented in a linear mode appears to be valid. For example, once a

“canonical” pathway of a certain cellular signaling system is proposed, there always emerges a

“non-canonical” pathway both of which combined together, form the entire reality. Thus, one may

say that “anything can happen”, or more simply, “things happen” as Pablo Neruda wrote in his

poem.

In this presentation, we will summarize our efforts to understand the protein phosphorylation

cascades in action when compound eyes of a fruit fly, Drosophila melanogaster, are stimulated by

light. Nearly four decades ago, we started looking at protein phosphorylation in fly photoreceptors

in vivo that are induced by light stimulus and that reversibly go back to the dephosphorylated state

as soon as the light stimulus is terminated; once the light stimulus is terminated (in the dark), the

phosphorylated proteins return to the original “resting” state through de-phosphorylation

(removal of the phosphate group) in vivo. Such molecular phenomena encouraged us to assume

that the protein phosphorylation plays a role as a “logical circuit” that regulates the function of the

fly photoreceptor. Witha modern technology developed in the past decades in biochemistry and

molecular biology, we managed to identify some of the proteins that are likely to be involved in the

molecular switches. We will first explain those historical and scientific background.

A major function of the “molecular switches” in fly photoreceptors is apparently to generate an

electric signal responsible for photoreceptor excitation and to control/regulate it. We show that a

dark-adapted state and light-adapted states of the fly photoreceptor as measured by extracellular

recording by electroretinogram (ERG) undergo reversible transition between the two states,

suggesting that the dark-adapted state and the light-adapted state appear to be governed by the

“molecular switch board” within the photoreceptor that is presumably controlled by protein

phosphorylation. When rhodopsin is illuminated so that nearly half of the population is converted

Page 10: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-2

8

S-2

to metarhodopsin (an intermediate state of rhodopsin after its absorbing light), the once

depolarized photoreceptor potential stays “depolarized” even after the light stimulus is terminated.

This physiological phenomenon is called “prolonged depolarizing afterpotential” or PDA. PDA is

similar to LTP, a phenomenon called “long-term potentiation” or a persistent strengthening of

synapses. LTP has been postulated as a key mechanism for maintaining synaptic connection and,

therefore, responsible for memory mechanism. We argue; 1) that PDA and LTP are governed by a

similar physiological circuit mechanism presumably turned-on by a protein phosphorylation, 2)

that, under normal condition, the switch is reversible allowing both states go back and forth, and

3) that the break of reversible switching function is triggered by “weakened duality”, which blocks

the reversible transition and locks a new physiological state designated as “PDA” or “LTP”,

respectively.

We will discuss how we can collect experimental data to support the hypothesis that duality and its

break causes reversibility or irreversibility, respectively, of a physiological transition. We also argue

that the concept of “strength” of duality could be developed into a general concept to understand

how a “reversible” transition under normal condition becomes “irreversible” through modulation

of the “strength of duality”. In this argument, we are aware of the fact that duality in classic logics

would not allow us to build such concept as “strength of duality”, but we believe that such “modal”

definition of duality could be operationally useful. We propose that the development of duality

concept deviating from its classic definition could help us to investigate various complex

phenomena such as disease and aging, or even including the studies of all complex human

activities being investigated in various disciplines such as those in social sciences and economics.

Page 11: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-3

9

S-3

S-3

A26 教室(2 階)

4/7(土)11:50-12:15

石田 柊(司会:笠木雅史)

帰結主義的差別論の諸問題――差別未遂の悪さはいかに説明されるか

本発表では、現代の政治哲学における「差別はいつ道徳的に悪いか」という問題に、分析的政

治哲学の立場から取り組む。すなわち、「差別」や「道徳的に悪い」といった概念を分析し、そ

れらを思考実験にかけることによって、道徳的に悪い差別とそうでない差別の識別規準(差別の

wrong-maker)の同定をめざす。

差別の悪さにかんする哲学的研究は、多くの論者が散発的に取り組んできたものの、それらを

包括的に扱う批判的な議論はほとんど展開されてこなかった。ようやく近年になって、カスパ

ー・リッパート=ラスムッセンが 2014 年に Born Free and Equal? を著し、諸学説を比較検討

する素地を提供した。日本国内では、同年の堀田義太郎の論文「差別の規範理論」で分析的差別

論への導入がなされたことを例外として、このテーマにかんする議論は進んでいない。こうした

研究動向を踏まえて、本発表では分析的差別論の本格的な咀嚼・吟味を試みる。

なお、分析的差別論が扱うべき問題には、他にも「差別とは何か」や「差別の解消のためには

何が道徳的に許容されるか」が少なくとも含まれる。本発表は基本的にこれらには立ち入らず、

「差別はいつ道徳的に悪いか」にのみ焦点を当てる。

差別の wrong-maker を、これまで多くの論者が平等原理の侵害に関連付けてきた。たとえ

ば、ラリー・アレクサンダーやマット・カヴァナーは、差別的行為者が行為にあたって抱く信念

の内容が平等原理を侵害していることを、差別の悪さの根拠とした。また、デボラ・ヘルマンや

トマス・スキャンロンは、差別的行為が客観的にみて平等原理を侵害するような内容を表出して

いることを、差別の悪さの根拠とした。しかし、平等主義にもとづく差別の悪さの説明は反直観

的になりうるということが知られている。平等主義的差別論が陥る第一種過誤の典型例は逆差別

(アファーマティブ・アクション)である。現在の社会で、男性に比べて女性を雇用上優遇する

ことは、不平等な取り扱いであるけれども(通常の差別ほどには)悪い差別ではないと我々は考

える。第二種過誤の典型例は循環的差別である。すべての人が等しく差別されている場合、平等

であるけれども、我々はこれを悪い差別だと考える。

こうした問題に対処するために、近年では差別の悪さを帰結主義的に説明する試みが注目され

ている。そのうち特に有力なものが、リッパート=ラスムッセンやリチャード・アーネソンが提

唱する優先主義的差別論である。この立場によれば、ある差別的行為の道徳的な悪さは、その行

為が被差別者に危害を加えているということにあり、かつ、この危害は被差別者の暮らし向きに

もとづいて加重評価される。

優先主義的差別論を採ることの最大の利点は、上の平等主義的差別論の問題を解決できる点に

Page 12: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-3

10

S-3

ある。第一に、差別の悪さの根拠を被差別者がこうむる危害とすることにより、すべての人に平

等に危害を加えるような循環的差別の悪さを指摘できる(これは目的論的平等主義一般にたいす

る優先主義からの批判の一種でもある)。第二に、危害の評価に加重を設けることによって、通

常の差別と逆差別との道徳的な違いを指摘できる。

しかし、帰結主義をベースとした差別論は平等主義的差別論であれば問題とならない別の問題

に直面し、優先主義的差別論はそれを解決しなければならない。これが本発表の一つ目の主張で

ある。第一に、ある雇用者が「『女性お断り』の掲示を無視して応募した女性」のみを採用する

意図で「女性お断り」の掲示をするとする。我々はこの雇用者の行為を、帰結にもとづいて逆差

別と同等に評価する一方で、誰が雇用されるかから独立に、この掲示自体を通常の差別と同じ意

味で悪い差別だとみなすだろう。第二に、ある雇用者が男性のみを採用しようと意図するが、男

性名と女性名を常に間違えるため結果として女性のみが採用されるとする。行為の帰結にもとづ

くと、この行為は逆差別と同等のものとして評価される。一方で、我々はこの雇用者が「差別の

未遂」という形で、何らかの意味で通常の差別と同程度に悪いことをしていると評価するだろ

う。

これらの思考実験は、いずれも、差別的行為の過程と結果とが異なる意味でそれぞれ差別であ

るような状況にかかわるものである。我々は、帰結主義を採用してもなお、他の条件が等しいと

き後者が前者より道徳的に悪いと考えるだろう。しかしその根拠は差別的行為の帰結以外のもの

である。これが本発表の二つ目の主張であり、また本発表を通して具体的に解明しようとする点

である。

主要参考文献

Alexander, Larry. ‘What Makes Wrongful Discrimination Wrong? Biases, Preferences,

Stereotypes, and Proxies’. University of Pennsylvania Law Review 141, no. 1 (1992): 149–219.

Arneson, Richard. ‘Egalitarianism and Responsibility’. Journal of Ethics 3 (1999): 225–47.

———. ‘What is Wrongful Discrimination?’ San Diego Law Review 43, no. 4 (2006): 775–807.

Cavanagh, Matt. Against Equality of Opportunity. Oxford: Clarendon Press, 2002.

Hellman, Deborah. When ls Discrimination Wrong? Cambridge, MA: Harvard University Press,

2008.

Lippert-Rasmussen, Kasper. Born Free and Equal? A Philosophical Inquiry into the Nature of

Discrimination. Oxford University Press, 2014.

Scanlon, Thomas C. Moral Dimensions: Permissibility, Meaning, and Blame. Cambridge, MA:

Belknap Press of Harvard University Press, 2008.

堀田義太郎「差別の規範理論――差別の悪の根拠に関する検討」『社会と倫理』29 号(2014

年)93–109 ページ。

Page 13: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-4

11

S-4

S-4

A27 教室(2 階)

4/7(土)11:50-12:15

遠藤 耕二(司会:和泉悠)

ヘイト・スピーチにおける規制および対抗言論の是非

ヘイト・スピーチはここ数年において社会問題のひとつとして急速にクローズアップされ、つい

には具体的な規制を定めた条例が施行されるなどの動きが見られるようになった。しかし依然と

してヘイト・スピーチを巡る規制の是非については様々な意見がネットや書籍などで展開されて

おり、問題解決にはまだまだほど遠いと言わざるを得ない。もちろんヘイト・スピーチそのもの

の定義は明確なものとして認識されてはいるものの、それがそのまま具体的な法的規制について

の合意を左右しているわけではないのである。

本発表が主眼とするのは、そうしたヘイト・スピーチの議論についてジェレミー・ウォルドロン

による規制を肯定する立場と、キャサリン・ゲルバーによるヘイト・スピーチへの反論などの対

抗言論を育成することの重要性を主張する立場とを比較しながら、ヘイト・スピーチと害および

対処方法に対する認識をいかに市民の間に定着させることができるのかを論じることである。

ウォルドロンによる規制肯定の根拠はヘイト・スピーチの規制が市民社会において重要な価値を

担うものであるという点において成立する。その価値をウォルドロンは「安心」と呼び、社会に

住む市民の安心を妨げる言論活動の規制を容認する。だがこうした規制論に大きな問題がある。

ヘイト・スピーチの規制がスピーカーの、特にヘイト・スピーチに該当しない言論活動への機会

すらも奪う危険性であり、もう一つはヘイト・スピーチの規制が却ってバックラッシュと化して

マイノリティや攻撃を受ける側への反発を喚起する危険性があることである。

そこで別の軸として見ておきたいのがゲルバーによる「スピーキング・バック・ポリシー」ある

いは対抗言論である。これはヘイト・スピーチを規制するべきとする「ヘイト・スピーチ・ポリ

シー」に対し、むしろヘイト・スピーチやそれを行う者への具体的な反論や抗議の機会を保証す

るべきとする信条を指す。これには単にヘイト・スピーチを浴びせられている人たちの心理的圧

迫を緩和する事を目的とするだけでなく、言論の機会を均等化していくことによって、ヘイト・

スピーチに晒された人の社会的疎外を防ぐ意味もある。

規制論とスピーキング・バックの対比が示しているのは、言論活動を他の行動と同じように規制

することがいかなる意味を持つのかという問題である。J.S.ミルは『自由論』の中で新聞記事は

規制されるべきでないが、デモ行為での言論は規制の対象になると述べている。これは具体的な

暴力と直結しない言論行為を規制しないということであり、言論活動そのものを他の行為と区別

することである。この定義に追従するならば言論それ自体は他の行動と区別されるべきであり、

その抑制は法的規制のみならず異なる言論活動による対抗的なアクションによって成されるべき

だということになる。

Page 14: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

S-4

12

S-4

そしてもう一つ両者の対比が示していることは、言論の自由という基本的な権利を守りつつ、攻

撃を受ける人々を市民社会から疎外させないという目的をいかにして達成することができるの

か、という疑問への対処である。ヘイト・スピーチの規制が却って反発を生むのだとすれば実際

のスピーチに対して我々が目指すべきは、具体的な反論や対抗のための言論の機会が設けられる

ことである。その点において規制を支持する信条とは別にゲルバーのような対抗言論の涵養を目

指すことには合理性がある。

現時点で我が国においてヘイト・スピーチは法的規制の対象となっており、その是非はともかく

我々は新たな法的規制の可能性を視野に入れた議論を必要としている。その中で法的規制のみに

依存することは市民社会における言論の機会を抑圧することにつながることを認識する必要があ

る。だからこそヘイト・スピーチの被害を食い止めつつも言論の自由を守るための市民の参加を

促すことが我々に求められていると言える。

Page 15: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-1

13

L-1

L-1

A13 教室(1 階)

4/7(土)10:00-10:50

加藤隆文(司会:出口康夫)

プラグマティズムと実在:パースの実在論と実践的実在論をめぐって

プラグマティズム創始者の一人パースは、一八七八年にいわゆるプラグマティズムの格率を提示

して以降も、自身のプラグマティズム思想を洗練させ続けた。彼は一九〇〇年代初頭に、幾通り

かの方法で、彼のプラグマティズムの再定式化を試みている。一方、当時までにジェイムズがプ

ラグマティズムの思想を一般に広く知らしめていたが、パースはこれに納得せず、自身の思想を

これと区別して「プラグマティシズム」と呼称し始める。本発表は、態度の実在性をめぐる現代

の議論に注目することで、パースのプラグマティシズムの現代的意義を展望するものである。

発表者は過去に、パース記号論に基づいた命題的態度の理論を提案した(Kato 2016)。しかし

その際に、「スコラ的実在論(Scholastic Realism)」というパース独自の実在論を、命題的態度を

めぐる現代の議論の中でどう受け止めるかという問題を未解決のまま残していた。パースは、自

然界で実際に作用している一般的法則を実在と見なす。こう論じる際にパースが念頭に置いてい

るのは物理法則だが、他所で彼が論じてきた「心の法則(the law of mind)」もまた人間の心の

中で実際に作用している一般的記号過程であり、これを実在のものと見なす立場が可能であると

発表者は考えている。この実在論において「実在」と捉えられるのは物理的対象というよりむし

ろ記号過程である。

本発表は、パースの実在論の意義を、態度の実在性をめぐる現代の議論の文脈において問う。

それに際して、ベイカー (Baker 1995)が提案する実践的実在論(Practical Realism)に注目す

る。というのも、この理論は、命題的態度を仮定法的条件文の集合によって説明するという考え

を含んでおり、この考えはプラグマティシズムに基づく命題的態度の理論に類似すると考えられ

るからだ。さらに、実践的実在論は、命題的態度は脳の物理的状態には還元されないと考え、例

えば「金融機関の倒産」が実在するというのと同様の意味で、命題的態度は実在すると主張す

る。この点はパースのスコラ的実在論と親和的であると思われる。本発表ではこれらのことを確

認し、パースのプラグマティシズムは現代の態度の実在性をめぐる議論においても確固たる意義

を示せると主張する。

本発表は次のように展開する。まず、命題的態度の意味の説明にプラグマティシズムを援用す

る。ただし、フックウェイ(Hookway 2012, ch.9)が述べるように、パースがプラグマティシズ

ムを定式化する仕方は少なくとも二通り存在する。これを踏まえ、本発表では二通りの形式によ

る命題的態度の説明を提案する。続いて、ベイカーによる命題的態度の理論を概観する。先述の

通り、ベイカーは命題的態度を仮定法的条件文の集合として説明する理論を提案しており、ここ

に彼女の実践的実在論の主張も含まれる。さらに本発表は、ベイカーの理論を、先に導出したプ

Page 16: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-1

14

L-1

ラグマティシズムに基づく命題的態度の理論と比較する。両者は発想の重なる部分が大きく、い

くつかある差異も概ね双方の足りない部分を補完するものと見なせる。しかし、自然主義をどの

ように受け止めるかという点で、ベイカーの理論と、パース思想に基づく命題的態度の理論は対

照的な様相を呈する。両者ともに反自然主義を掲げるが、ベイカーの理論はむしろプライス

(Price et al. 2013)が主張するようなプラグマティックな自然主義と両立可能である。他方、パ

ースは独自の意味合いで反自然主義を唱えており、プラグマティックな自然主義との間に複雑な

関係を取り持つことになる。最終的に本発表は、パースの規範学(normative sciences)の構想

を引き受け、パースのプラグマティシズムは、自然主義とプラグマティズムの関係を構想する上

で独自の立場を示すと論じる。

References

BAKER, L. R. (1995). Explaining Attitudes: A Practical Approach to the Mind. Cambridge:

Cambridge University Press.

HOOKWAY, C. (2012). The Pragmatic Maxim: Essays on Peirce and Pragmatism. Oxford:

Oxford University Press.

KATO, T. (2016). “Propositional Attitudes from a Peircean Viewpoint”, Contemporary and

Applied Philosophy, v.8, n.2.

PRICE, H. et al. (2013). Expressivism, Pragmatism and Representationalism. Cambridge:

Cambridge University Press.

Page 17: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-2

15

L-2

L-2

A14 教室(1 階)

4/7(土)10:00-10:50

安田清一郎(司会:奥田太郎)

A vagueness in Quine's "Epistemology naturalized"

In his 1969 essay "Epistemology naturalized," W.V.O. Quine proposed to do epistemology

"naturalistically," as a branch of psychology (and linguistics). I think how we interpret Quine's

proposal today can depend on how we view the history of modern epistemology because we live in

a certain transitional period in this mostly empiricism-dominated history ----- in part thanks to

Quine. For instance, I think it can depend on whether we consider modern epistemology to have

done justice to the pragmatics of deductive discourses (or deliberations) in modern theoretical

sciences, which I think it has not, owing an insight to Kukita (2014). In this presentation, I will

try to situate Quine's proposal in a revisionistic historical perspective based in part on this view, so

as to offer what is simultaneously both a charitable interpretation of his proposal qua a reasonable

move made in its historical setting and a critical evaluation of that move qua a symptom of a

certain conceptual framework presupposed by that setting.

Actually multifarious, this presupposed framework may be initially identified by its

characteristically passive, "spectator-theoretic" conception of perception, including linguistic

perception, according to which perception is a matter of receiving a ("true/false" or

"veridical/non-veridical") "representation." I will call this framework old empiricism (although it

is very much alive today), and will contrast it to a pseudo-transcendental alternative that I will call

new empiricism, which is "naturalistic" in a way suggested by Neurath's boat simile (or so I think).

More specifically, in the name of new empiricism, I will propose (i) to view "us" in a Neurathean

image of "an institution or process in the world" (Quine, 1969, p. 84), and, on this basis, (ii) to

take "our" own naïve commitment to the old empiricism, exhibited in "our" practical discourses or

deliberations about "things out there," as (a) an essential part of the pragmatics of "our"

diachronic being, and, as such, as (b) something for "us" to transcend (in a Kantian sense) at least

in "our" philosophical discourses or deliberations on "us." However, the "transcendence" is only

pseudo-transcendence in that there is a pragmatically inevitable self-contradiction between what

"we" will say therein (transcendence of "our" own old empiricism in practical intentional contexts)

and what "we" will do or show thereby (reinstalling the same old empiricism at the newly created

"transcendental" context again). According to the new empiricism, this is the pragmatically

inevitable fate of "us" as mariners of Neurath's boat. The new empiricism is "naturalistic" in this

Page 18: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-2

16

L-2

pragmatically taken sense of Neurathean "naturalism." The presentation will be essentially a

prolegomenon to this new empiricism. So, its criticisms are not ultimately aimed at Quine, but at

the old empiricism, at its continuing dominance over our philosophical discourses on "what we

are" and on our history of such discourses, as opposed to its pragmatically inevitable dominance of

our daily intentional transactions about things external.

The presentation will begin with a selective but critical review of the history of modern

epistemology that is presupposed by Quine's proposal. I will highlight discoveries of two gaps

between science and sense, that is, between what empirical sciences claim to teach us about the

external world and what our sensory perceptions must avail us of, as the ultimate source of such

knowledge (according to the old empiricism). They are, of course, the Humean gap between

nomologically committed, general knowledge-claims (of science) and merely specific, thus

nomologically noncommittal data (of sense), and the Machean gap between ontologically

committed substantive knowledge-claims (of science) and merely phenomenal, thus ontologically

noncommittal data (of sense). Through an analysis of these gaps, I will identify an aspect of the

old empiricism that I will call the standalone I/O (input/output) conception of perception and

action, which is a system of mutually presupposing assumptions about (non-linguistic) perception

and action, in which they are treated as purely receptive and spontaneous aspects of each one of

"us" as a standalone being. The aforementioned perception-concerned aspect of the old

empiricism will be put in a larger theoretical perspective here (excluding linguistic perception

from the analytic scope for the time being). I will also offer a pseudo-transcendental way of

taking this naïve I/O conception as a false but functional ideology, by offering combination of a

Gibsonian view of perception and action and a Polanyian view of explicit and implicit knowledge.

After this, I will claim that Quine's proposal is vague as to whether his "natural knowledge," the

intended target of his "naturalized epistemology," is supposed to be knowledge possessed by an

individual human being (perhaps knowledge of an "average" educated adult human being?) or

knowledge somehow shared by a community (perhaps by way of having a common language and,

with it, a division of epistemic/linguistic labor in the community?). Using this vagueness as a

springboard, I will offer a charitable interpretation of Quine's proposal, according to which the

proposed "naturalized epistemology" divides into psychological and linguistic branches. The

former is concerned with how the private (i.e., mentally represented) pre-theoretic "natural

knowledge" of an average adult animal (which is manifestly charged with nomological and

ontological commitments) arises from her sensory inputs (which are presumably neither

nomologically nor ontologically charged). The latter is concerned with how the public (i.e.,

linguistically represented, and thus shared), scientific-theoretical "natural knowledge" of human

race arises from the pre-theoretical private "natural knowledge" of the individual speaking-writing

Page 19: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-2

17

L-2

animals.

Of course, it will be clear by then that Quine's "naturalized epistemology," in its psychological

branch, is as deeply committed to the standalone I/O conception of perception and action as

Hume's and Mach's problems were, and, thus, is just as confined by the representationalistic

framework of the old empiricism as they were, despite his occasional appeals to Neurathean

"naturalism." I will further explain that its linguistic branch is similarly committed to another

standalone I/O conception, of linguistic perception and action, i.e., of taking and making of

assertion (or speech act, more generally), which is another aspect of the old empiricism. If

entrapped in these twins of I/O conceptions, one can see none of key epistemological concepts,

"we," "knowledge," and "language" (which comprise the notion of "our propositional knowledge"),

in the Neurthean "naturalistic" way. So, unable to see any of them in this way, Quine was

inadvertently contradicting his own proposal to see science in that "naturalistic" way.

I will conclude the presentation by positive elaborations of the new empiricism, as a form of

pragmatism in its promoting pseudo-transcendentalism, and as an heir of Daoism in its pseudo-

transcending the Cartesian mental/material (or artificial/natural) dichotomy and the Kantian

receptive/spontaneous dichotomy (which together comprise a backbone of the old empiricism).

References

Kukita, M., 2014, "Mathematics as speech act," the handout (in Japanese) for JACAP workshop

"An alternative approach to mathematics."

Quine, W.V., 1969, "Epistemology naturalized," in Ontological Relativity and Other Essays, New

York: Columbia University Press, pp. 69-90.

Page 20: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-3

18

L-3

L-3

A26 教室(2 階)

4/7(土)10:00-10:50

太田 陽(司会:笠木雅史)

情動についての消去主義は擁護可能か

近年、脳画像研究の蓄積を背景として、脳領域ネットワークの分析にもとづいて、素朴心理学

および科学的心理学における心的状態を指示する既存の語彙体系を改訂あるいは消去しようとす

る試みが心理学者・神経科学者の中から現れつつある(e.g., Price & Friston, 2005; Poldrack et

al., 2011)。 この一群の取組みは「認知存在論 (cognitive ontology)」と呼ばれている。本発表

では、そのうちとくに情動についての消去主義的な主張(e.g., Lindquist et al., 2012; Barrett &

Satpute, 2013)を事例としてとりあげ、認知存在論がどの程度擁護可能なものであるのか検討す

る。

従来、心理学における情動研究ではおおまかに 2 つのアプローチが採用されてきた。カテゴリ

ー的アプローチでは、幸福・悲しみ・恐怖・怒り・驚き・嫌悪といった素朴な情動カテゴリーに

対応する進化的に獲得された心的モジュールの存在を仮定し、これら基礎的情動の組み合わせや

拡張によってその他の複雑な情動を説明しようとする(e.g., Ekman & Cordaro, 2011; Panksepp,

2004)。これに対して、次元的アプローチでは、まず、情動の基礎的構成単位として、快不快の

感じ(感情価)とその強度(覚醒度)という2つの次元で記述できる身体変化の表象(コアアフ

ェクト)が想定され、この身体表象を解釈する際に一般の人々の使用するラベルが、幸福・悲し

みといった素朴な情動カテゴリーであるとされる(e.g., Russell, 2003; Barrett, 2014)。

この心理学での対立を引き継いで、Lindquist や Barrett らは、認知神経科学の取り組みを「能

力心理学」的アプローチと「構成主義」的アプローチとに分類する。能力心理学アプローチで

は、記憶・注意・知覚・情動のような、素朴心理学に由来する心的状態あるいは能力を心の基礎

的構成単位として仮定し、これらの能力を身体と脳という物理的構造の一部へと対応づけること

ができると考える。これに対して、Lindquist ら自身が採用する構成主義的アプローチによれ

ば、情動をふくむ素朴心理学的な心的状態は、より基礎的な心的状態から構成されるものであ

る。そして、これらより基礎的な状態は多数の脳領域からなるネットワークと対応づけできると

される。とくに、情動そのものだけでなく、幸福・悲しみ・恐怖・怒り・驚き・嫌悪といった個

別の情動も、より基礎的な心的状態によって構成されるものであり、情動そのものに加えてこれ

ら個別情動についての概念も科学的探求上の価値をもたないというのが Lindquist らの主張の要

点である。このように認知存在論の一部の論者の主張は、素朴心理学に由来する心的状態につい

ての消去主義の一種とみなすことができる。

Lindquist や Barrett らはおもに脳画像研究のメタ分析の結果を根拠として、素朴心理学に由来

する個別情動のカテゴリーの消去を主張している。具体的には、個別情動それぞれに独特の脳活

Page 21: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-3

19

L-3

動のパターンがみつからないことから、能力心理学的アプローチは支持されないとし、他方で、

情動経験と相関して一貫した賦活を示す脳領域の多くが、他の心的状態の間にも一貫して賦活す

ること、つまり、課題のドメインを越えて賦活する共通の脳領域のネットワークがあるというこ

とを根拠として、構成主義的アプローチが支持されると主張する。

本発表では、情動についての消去を主張するにいたる Lindquist、Barrett らの論証の健全性を

検討する。さらに、哲学における心身問題や心理学の自律性についての議論をふまえて、心理学

者・神経科学者による認知存在論の主張が哲学的な消去主義的物理主義にむけられた批判を克服

できているのかどうか考察する。

Page 22: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-4

20

L-4

L-4

A27 教室(2 階)

4/7(土)10:00-10:50

北野孝志(司会:斉藤了文)

技術評価の意義に関する哲学的考察

技術哲学というものが哲学研究の中で必ずしも定着しているとは言えない日本において、技術

評価(テクノロジー・アセスメント)をテーマにした研究はほとんど見られない。しかし、欧米

において技術評価の問題は技術哲学のテーマとして扱われてもおり、特にドイツにおいては、技

術評価にあたるタイトルのついた技術哲学の著作が数多く出版されている。また、構成主義的

(建設的)技術評価 Constructive Technology Assessment (CTA)の提唱者として有名なリップ

は、「テクノロジー・アセスメントの未来」(2012)の中で技術評価に関してドイツは他の欧米諸

国とは違い「面白い」独特の状況にあると述べている。そこで、ドイツにおける技術哲学の伝統

の中で、技術評価がどのように特徴づけられているのかを明らかにしたい。そして、本発表の意

図はこうした技術評価の意義に関する考察を通して、リップが示唆しているような「技術評価の

哲学」を確立するための基礎研究を行うことである。

まずは、ドイツの技術哲学者として著名なローポールの技術評価に関する考え方を考察する。

彼は、論文「社会的学習プロセスとしての技術評価」(1993)の中で、アメリカの技術評価局

(OTA)以来のそれまでの技術評価のあり方をリアクション的技術評価 Reaktive

Technikbewertung と表現し、このようなあり方とは区別して、イノベーション型技術評価

Innovative Technikbewertung というものを提唱している。こうした考えは、CTA とも相通ずる

ものであると言え、ローポール自身もそのように考えている。

こうしたローポールの考え方は、彼自身も「VDI の哲学者」として技術評価に関する委員会に

属しまとめたドイツ技術者協会(VDI)の(1991 年の報告書『VDI ガイドライン 3780』を含

む)『規範的技術評価 Normative Technikbewertung』(1999)にも影響を与えている。

次に、ドイツの議会 TA である TAB の運営に従事しているカールスルーエの TA・システム

分析研究所(ITAS)の所長でもある技術哲学者グルンヴァルトの技術評価に関する考え方を考

察したい。ゲートマンが提唱する合理的技術評価 Rationale Technikfolgenbeurteilung を中心的

に扱った同名の著書(1999)や『技術評価入門』(2002)の中で、グルンヴァルトも OTA をモ

デルとする従来の技術評価を「古典的」コンセプトとして区別し、それが派生したシステム分析

型技術評価 Systemanalytische Technikfolgenabschätzung などについても批判的に検討してい

る。

そして、CTA や参加型技術評価 Partizipative Technikfolgenabschätzung (PTA)、さらには

VDI の技術評価などの特徴についても論じるとともに、それぞれが持つ限界や課題についても

言及し、合理的技術評価の意義を明らかにしている。

Page 23: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-4

21

L-4

最後に、「多元論的」技術評価という考え方について考察したい。こうした「多元論的」技術

評価は、グルンヴァルトだけでなく VDI にも共通してみられるものだが、それまでの技術評価

のあり方を否定するものではなく、それぞれの技術評価の特徴を生かしつつ、多面的に考えるあ

り方であり、日本で吉澤剛らによって「第三世代 TA」と称されているような方向性に重なるも

のであると言えるかもしれない。また、こうした「多元論的」技術評価の実現においては、制度

や教育の重要性にも触れられており、それについても時間が許せば議論する予定である。

そして、このような技術評価の特徴に関する比較・検討を通して、それぞれの問題点や課題を

浮き彫りにしつつ、現代においても失われない、さらに新たに見出されうる技術評価の意義を明

らかにすることを本発表の目的とする。

参考資料

・Grunwald, A., Technikfolgenabschätzung – eine Einführung, Berlin, 2002.

・Grunwald, A. (Hg.), Rationale Tecnnikfolgenbeurteilung. Konzepte und methodische

Grundlagen, Berlin Heidelberg, 1999.

・Rapp, F. (Hg.), Normative Technikbewertung. Wertproblem der Technik und die Erfahrungen

mit der VDI-Richtlinie 3780, Berlin, 1999.

・Rip, A., “Futures of Technology Assessment”, in: Decker, M./ Grunwald, A./ Knapp, M. (Hg.),

Der Systemblick auf Innovation. Technikfolgenabschätzung in der Technikgestaltung, Berlin,

2012, S.29-39.

・Ropohl, G., „Technikbewertung als gesellschaftlicher Lernprozeß“, in: Lenk, H.,/ Ropohl, G.

(Hg.), Technik und Ethik, Stuttgart, 1993, S.259-281.

Page 24: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-5

22

L-5

L-5

A13 教室(1 階)

4/7(土)10:55-11:45

伊勢俊彦(司会:奥田太郎)

因果性・変則事態・感情

われわれの日常的な因果理解は、どのような場合に、どのようにして機能するのか。この問い

に対しては、二つの対照的な答え方が考えられる。一つは、われわれは、物事の通常の成り行き

に因果性の概念を当てはめ、それが原因と結果の連鎖からなっているとするものである。これに

対してもう一つの答え方は、物事の通常の成り行きから外れた変則事態が起きた場合にこそ、そ

の原因についての問いが立てられ、その事態を因果性の枠組みのもとに理解することが試みられ

るというものである。

後者の見解によれば、因果にかんする問いは、何か変則的な事態に対する注目があってはじめ

て生じる。こうして立てられる問いは、「ものごとが通常の成り行きから外れたのはなぜか?」

というかたちをとる。ここで問題にされる因果は、「不在による因果(causation by absence)」と

特徴づけられる。「あの花が枯れたのはなぜか?」という問いに、「太郎がその花に水をやらなか

ったからだ」と答えるのがその一例である。

前者の見解の locus classicus として、ヒュームの因果論が考えられるかもしれない。ヒューム

は、われわれが原因と結果の関係を認めるところには近接と継起という知覚可能な関係の反復的

経験があると主張する。そのかぎりで、ヒュームは、不在のものの側ではなく、現前するものの

側に因果を見出しているように見える。

他方、ヒュームが因果関係と認めるものの、ある重要な一部については、その特徴づけに「不

在」ということが深くかかわっている。物件の所有は、それを現に手もとに置いている場合だけ

でなく、意のままに使用し、動かし、変化を加え、あるいはこわす力がある場合にも成立する。

この場合原因に当たるのは所有者の意志であり、結果は、所有される物件の運動と変化である。

しかし、この運動と変化が現に起こる必要はなく、所有者は、物件の運動と変化を意志すること

によってそれを引き起こす力をもつだけでよい。そして、この力の存在とは、力の行使に対する

障害の不在にほかならない。

一般に、ヒュームが物事の因果連関の理解に重要性を見出すのは、それが、行動の目的に手段

を適合させるのに役立つという点においてである。ヒュームが、子どもや、人間以外の動物にも

等しく認める因果推理の能力は、もっぱら実際の行動に役立てられると考えられる。そこで知ら

れるべきなのは、行動の主体にとって、自分の力が及ぶのはどこまでなのかということである。

そして、この力の存在も、特定の知覚可能な関係の現前というより、力の行使への障害の不在と

いうかたちで想定されるであろう。

所有の場合、所有は何らの知覚可能な性質や関係に存するのでもないため、所有という観念は

Page 25: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-5

23

L-5

それ自体としては何らポジティヴな内容をもたないと思われる。そこでヒュームが指し示すのが

道徳感情の働きである。

「ある対象の所有は、それが何らかの実在的な、道徳や心の感情と関連がないものとされるとき

は、完全に感覚不可能な、考えることさえ不可能な性質である。また、所有が固定しているとか

移転するとかいう判明な観念を形成することもできない。」(『人間本性論』第 3 巻第 2 部第 4

節)

所有にかかわる道徳感情の明らかな例としては、所有の侵害を不正義として非難する感情が考

えられる。これに対して、所有の安定した状態が明示的な感情的反応を引き起こすとは考えにく

い。所有を成り立たせる道徳感情と言えるものがあるとすれば、それは、明らかな意識を伴わな

い前反省的態度であり、その存在は、所有に対する侵害が感情的反応を引き起こすときはじめて

明るみに出る。

所有の安定した状態は、近接と継起という知覚可能な関係の反復を伴わないとしても、ある種

の規則性が存在する状態とは言えるであろう。われわれの日常的な行動や思考がこの規則性を前

提としていることが明らかになるのは、しかし、この規則性が破れる変則事態、つまり、所有の

侵害に対する感情的反応によってである。所有という因果的秩序の理解は、その秩序そのものの

ポジティヴな把握というよりも、変則事態とそれに対する感情的反応を一方におくことによって

はじめて輪郭づけられる。

所有にとどまらず、より広い範囲の因果的秩序の理解において、変則事態に対する感情的反応

が重要な役割を果たす。このとき、因果的秩序についてのわれわれの理解を輪郭づけるのは、自

分の力の行使に対する制約との出会いであり、周囲の事物の進行についての、前反省的な期待が

裏切られる変則事態の生起である。こうした事態が引き起こす驚きや動揺が、われわれの日常の

思考と行動を支える因果的秩序のあり方の明示的認識を促す。発表では、この推測をさらに検証

し肉づけするかたちで、われわれの日常的因果理解のあり方の描像を示したい。

Page 26: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-6

24

L-6

L-6

A14 教室(1 階)

4/7(土)10:55-11:45

OBERG, Andrew(司会:出口康夫)

Room to Breathe: Freeing contemporary philosophy of its science and engineering

baggage

It is well known that Japanese engineering is amongst the very best in the world, and

perhaps that it even ranks as the very best in the world. It is also well known that Japanese science

is at the top of its respective fields, particularly in the areas of physics and biology. These

accolades are well deserved and Japan has every right to be proud of its accomplishments. Japanese

achievements in both of these academic ventures have made the world a better place for everyone

alive today. However, what of philosophy in Japan? Can modern philosophy as it is practiced here

be considered as contributory to human betterment as its hard science cousins? If not, what is

missing?

From my own point of view as a non-Japanese person who has lived in and worked in and

loved Japan for more than a decade now, the default approach that many Japanese students and

researchers take to philosophy is the same that they apply to engineering and science, and quite

simply that empirically-driven approach does not work. While data-based and statistically analyzed

studies are effective and efficient means of conducting research in particular areas of human life

they cannot account for the whole of human experience, as phenomenological methodologies have

taught us again and again. Unfortunately, however, there has developed a prejudice amongst us

that only research that is based on ‘empirical data’ really counts, that only conclusions grounded in

‘facts and figures’ have any place in our classrooms and in our writing. I wish to argue against this

prejudice, and I wish to make the case that philosophy is done best when it is unfettered by such

concerns, that philosophy means most to everyone when it is allowed – once more – to delve into

the purely metaphysical, the theoretical, the speculatively ontological, and the ‘what might be’ of

applied philosophy.

This prejudice is of course not only found in Japan, though it may be especially ingrained

here. Empiricism has become the default standard of our entire age, and we typically think now

that only that which can be appropriately measured and assigned is true. Objectively true, fully

true, and therefore worthy of attention and analysis to the exclusion of all else. I think though that

in the case of philosophy this position does far more harm than good, and that this approach to the

world and our manner of being in it needlessly restricts how we live and harmfully narrows our

future possibilities. The case that I wish to make is one for thinking differently, for thinking

Page 27: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-6

25

L-6

unempirically, and thereby for thinking freer and fuller about our common problems and

concerns.

We will begin with a background outlining the position from which we now view the

world, how we might have gotten to the place where we are, and what some implications of this

might be. Following that we will examine the nature of ‘truth’, of what that term entails when

examined from differing perspectives (especially from an empirical and an unempirical point of

view), and by association epistemological and relativist concerns. These will lead us into a

consideration of the objective, and I will argue for what I will call an inevitable perspectivism and

will introduce the mantra that ‘the conceptual determines the perceptual’. None of the conclusions

I will draw point to a rejection of the rational, indeed quite the opposite, and so we will conclude

with some thoughts on how thinking outside of our empirical blinders – on how thinking

unempirically – might bring great benefits to the work we do and to the roles we can have in our

societies.

Page 28: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-7

26

L-7

L-7

A26 教室(2 階)

4/7(土)10:55-11:45

山口尚(司会:笠木雅史)

日本自由意志論史序説――丹治信春の岐路

日本語で「自由意志」を論じる者として私は《なぜ私たちは現在このような仕方で自由意志を

論じているのか》に関心をもっている。こうした関心から「日本自由意志論史」という構想が生

まれる。本発表は、この企てに取り組むキックオフとして、丹治信春による自由意志論の捉え方

を精査する。

予稿では「日本自由意志論史」という構想についてただちに思いつくいくつかの注意点に触れ

ておきたい。

日本語で「自由意志」なるものが(もっぱら哲学的に)どう論じられてきたのか、を描き出す

試みが「日本自由意志論史」である。これを行なう際の困難のひとつは先行研究の不在である。

たしかに、「自由(freedom, liberty, libertas, liberum arbitrium, Freiheit, liberté)」という概念の

歴史について日本語で書かれた文献はあるが、さしあたり私が目にしたものはすべて西洋自由意

志論史であった。かくして――少なくとも何らかの先行研究が見つからない間は――私は手探り

で作業を進めねばならない。これは、例えば《思想史の骨組みをつくりあげる際の基礎文献とし

て何を選ぶか》なども自分で決めねばならない、ということを意味している。

次に――二点目の注意として――日本の思想のほとんどの分野は海外の思想との関係性への言

及なしに語られえない(鎌倉仏教然り、江戸儒学然り、等々)という一般命題の系として、日本

自由意志論もまた海外とくに欧米の自由意志論との関係なしには語られえない(そもそも「自由

意志」という概念は欧米由来である)。かくして日本自由意志論史を描き出すという企ては必ず

しも諸外国の営みを無視することを意味しない。むしろ、諸外国の動きと連動するところの、日

本語での営みのいわば「内発的で」独自な側面を抽出することを目指さねばならない。

とは言うものの、私の現時点での非力に由来することだが、私は当面のあいだ日本自由意志論

史にふたつの限定を施さざるをえない。第一に考察する時代を「戦後」に限る。なぜなら、戦

前・戦中と戦後(すなわち近代と現代)の学問には無視できない非連続性があるのだが、この谷

間を架橋するには相当の準備が必要になるからである。第二に、戦後日本自由意志論史には例え

ばカント系やフランス思想系や法哲学系の流れなどもあるのだが(これらは必ずしも排他的では

ない)、英語圏の哲学の議論と関連する流れに焦点を絞る。これもまた私のさしあたりの素養の

不足のためである。

三点目の注意として「史観」について述べたい。

具体的な歴史を描くということは特定の史観を選ぶことを含む。私は戦後日本自由意志論史

Page 29: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-7

27

L-7

(の英語系のブランチ)の大きな流れを少なくとも今のところは以下のように理解している。大

森荘蔵の論考「決定論の論理と、自由」(1960)が切り開いた「自由な」自由意志論の地平――

すなわちカントの分厚い本などを取り上げなくても自由意志を論じてかまわないという解放感を

伴った議論空間――は、丹治の論考「行為の自由と決定論」(1985)においてひとつの岐路に立

つ。それは、はたして自由意志論は、近代科学の見方を含むいわゆる近代的世界観との対決に取

り組むべきか否か、という岐路である。その後の日本自由意志論は、どちらかと言えば、こうし

た対決を避けたりそれを不要と見なしたりする方向へ舵を切ってきたと思われる。例えば戸田山

和久の『哲学入門』(2014)の「自由」の章はいわば〈近代的世界観と相性のいい自由意志の理

解〉を提示するものと捉えることも可能だろう。

だがある種の「自然主義的な」自由意志論は無視できない問題を抱えており、それは近代的な

世界観や人間観の問題と直結する、と私は考えている。そして私は近代的合理性の問い直しを含

まない現代自由意志論を「頽落」と見なしている。かくして私の史観は「没落史観」となるだろ

う。すなわち、丹治の論考以降の自由意志論が近代的な世界観に対して融和的になってきたこと

は没落であり避けるべきことだった、ということだ。私は近年ある意味で「不合理な」自由意志

論を展開しているのだが(私の Researchmap でも紹介されている 2017 年の諸々の論文や発表に

おいて)、これは近代的合理性との対決を意識してのことである。

本発表は、丹治の上述の論考を取り上げ、それが私たちの知の全体的構成の問い直しを呼びか

けるものである点を確認する。そのうえで私は、彼の呼びかけが或る仕方で展開されたとき、そ

れは〈近代的世界観の再考〉という大きな問題に接続しうる、という点を指摘したい。すなわ

ち、現代の自由意志論をいわば近代的自由意志観の批判の場に変容させるようなポテンシャルが

丹治の論考にはあった、ということである。この点を押さえつつ、必ずしも自然主義的でない自

由意志論の歴史という、いわば「もうひとつの歴史」の可能性(すなわち現在の自然主義の隆盛

に反する流れ)を探りたい。

Page 30: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-8

28

L-8

L-8

A27 教室(2 階)

4/7(土)10:55-11:45

斉藤了文(司会:北野孝志)

サステイナブルな社会に向けての技術論的考察

サステイナブルということは、エネルギーの希少性や廃棄物が小さな地球にとって過大だとい

う環境問題として設定されることが多い。

しかし、サステイナブルな社会というときに、その外的環境のみを問題にすることはあまり面

白くない。実際上、維持されるべきシステムに目を向けることが必要だ。(組織を念頭に置い

て、経済環境などの変化に耐えた、その事業継承を考えるのが一例となる。)

技術論として、普通の人工物である住宅を例に挙げる。10 年ほど前に国は「200 年住宅」と

いうことを提唱してた(国交省のホームページ参照)。

これは、第一に、骨材の耐久性が必要だとされた。年月に耐えることが必要だからだ。第二

に、200 年というのは何世代にもわたって使うことを意味する。大家族の場合も、核家族の場合

もある。すると、スケルトン(躯体)とインフィル(内装・設備)を分けられるようにすることが

望ましい。特に、インフィルは柔軟性を持たせることが必要になる。

物理的には、200 年持つ鋼材があり、内部が可変であれば、サステイナブルな住宅になるよう

に見える。しかし、それでは足らない。

当然、様々な設備は劣化する。そのためのメンテナンスが必要になる。これが第三点である。

システムとしての住宅の維持管理は重要である。(後で触れる)

さらに住宅は家族が継承するとは限らない。ということは、200 年間の間に売買されることを

予想することになる。このとき、「住宅の履歴情報」が必要になると言われる。これが第 4 点で

ある。(自動車でも、メンテナンスの履歴がついていると、高く売れる。)どこを補修したとか、

どういう材質を使ったために、50 年後にはさらに塗装が必要だという情報が重要になる。

割と単純そうな住宅の事例を概観しても、物理的ポイント(1と2)以外に、メンテナンスを

するという点、更に、住宅の履歴情報という物ではないポイントが重要な意味を持つことが分か

る。人工物を維持するための条件は、物理的条件だけではないのが第一の論点である。さらに、

具体的にサステイナビリティの条件を見ていく。

メンテナンスということに関して、維持されるべき住宅、システムを中心に考えると、時間の

経過とともに、多様な修理、塗装、修復などが行われることになる。この場合の論点の一つは、

人工物の同一性の問題である。(鉄道車両でも、様々な補修が行われる。台車を除いてすべてが

新しくなることもある。台車そのものに亀裂がいくこともあったら、今度はその台車の部分を取

り換えることもある。モー娘。のように、すべてが入れ替わっても同じものとして認められるこ

ともある。)ここから考えると、サステイナブルなシステムというのは、一体何が同一性として

Page 31: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-8

29

L-8

残るのかは、具体的に考えると少し面白い論点を含むように思える。(地球の同一性も奇妙だ

が)

さらに、メンテナンスをする場合には、それに関わる知識の伝承も必要になる。シンドラーの

エレベータは、補修の知識のない会社に補修を任せたともいえる。補修の知識を誰が持ち、それ

をどう使えるようにするかは、メンテナンスの基本に関わるが、現代の社会制度の中ではそれが

うまく機能していない部分がある。

その他、人工物がサステイナブルになるための条件が多数ある。それをできる限り分類し、そ

れに関わる哲学的問題を取り出すことが、ここでの発表の中心となる。

Page 32: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-9

30

L-9

L-9

A13 教室(1 階)

4/7(土)13:15-14:05

豊島史彬(司会:伊勢田哲治)

傾向的因果理論を評価する:反事実条件的分析との対比から

因果の形而上学においては、反事実条件の可能世界意味論の発展を背景に Lewis(1973)が因

果の反事実条件的分析を与えて以来、直観的な因果概念により合致するように反事実条件的因果

理論を洗練化させることが主要なテーマとなっている。反事実条件的理論の基本的な考え方は、

因果に関する言明(「C が E を引き起こした」)が真であるかどうかは、ある特定の反事実条件

(「C が起こらなかったら、E も起らなかっただろう」)の真によって決まるというものである。

この点で、反事実条件的理論は因果の還元主義的な分析を試みるものである。

しかし、2000 年代以降の形而上学において、傾向性(disposition)や力能(power)という概

念が注目を集めてきたことを背景に、反事実条件ではなく傾向性の存在論に基づいて因果理論を

展開する立場が近年現れている。傾向性は内在的性質の一種であり、本来的に因果的であるとさ

れる。傾向性の典型例は、ガラスがもつ壊れやすさや塩がもつ溶けやすさである。傾向的因果理

論によれば、因果現象が起こることは、傾向性が発現することとして解釈される。例えば、塩が

溶けるのは、適当な溶媒に入れられたことで塩のもつ溶けやすさが発現したからであると理解さ

れる。

本発表は、Mumford & Anjum(2011)が包括的に展開している傾向的因果理論を、反事実条

件的分析と対比しつつ批判的に検討する。傾向的因果理論は、傾向性を本来的に因果的なものと

して受け入れている点で、因果に関する原始主義をとっている。因果を還元主義的に分析するこ

とを拒否していることから、反事実条件的「分析」に対してそもそも一定の譲歩をしているとい

える。それゆえ、傾向的因果理論が反事実条件的分析よりも総合的に優れているというために

は、その他の基準において十分に優っている必要がある。

本発表では、三つの観点から Mumford & Anjum の傾向的因果理論を検討してゆく。(1)現代

科学との整合性。彼らの理論は、古典力学的な枠組みに強く依拠しつつ構築されているように思

われる。例えば、反事実条件的分析がいうように原因は結果よりも先に起こるのではなく、原因

と結果は「同時に」生じるとされる。それに対して、彼らの因果理論が、絶対的同時性が成り立

たない非古典力学的な(相対論的な)枠組みにまで適用できるのかという懸念が示されている

(Glynn, 2012)。

しかし、この批判はあまり妥当ではないように思われる。第一に、直観的な因果概念が因果の

形而上学の方法論として果たす役割はきわめて大きく(Bernstein, 2017)、直観的な因果概念が

通用しないであろう非古典力学的な枠組みへの拡張が困難であるからといって、ある因果理論を

退けることは適当ではない。第二に、非古典力学における因果に関しては、傾向的因果理論と同

Page 33: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-9

31

L-9

様、反事実条件的分析もまたその扱いに困難を抱えている。例えば、量子論に反事実条件的分析

を適用した場合に、超光速の因果関係の存在という一見して不合理な帰結を得ることが指摘され

ている(Maudlin, 2002)。現代科学との整合性に関しては、両理論に大差はないといえる。

(2)直観との整合性。私達は直接的に傾向性を経験できるのに対して、(実世界以外の)可能世

界は説明的有用性のために導入されたもので経験できないということから、傾向的因果理論は反

事実条件的分析に比べ認識的美徳をもつとされる。しかし、人々の因果的直観は反事実条件的推

論に依存していることが指摘されている(Hitchcock & Knobe, 2009)。また、反事実条件的分析

がその扱いに優れているとしているいわゆる「否定的因果」(Schaffer, 2010)を、傾向的因果理

論は額面通りには扱うことができない(Mumford & Anjum, 2009)。直観との整合性に関して

は、傾向的因果理論が反事実条件的分析に比べむしろ劣位にあるかもしれない。

(3)単純性・倹約性。実世界にある性質はすべて傾向的であるとする「汎傾向性主義

(pandispositionalism)」を前提しつつ、可能世界ではなく実世界の(傾向的)性質のみに訴え

ることから、傾向的因果理論は反事実条件的分析に比べ単純・倹約的であるとされる。しかし、

汎傾向性主義は素朴に前提とされるには議論の余地がある主張であるように思われる。例えば、

素粒子が純粋に傾向的であることを理由に汎傾向性主義を主張する Mumford(2006)の「非基

礎づけ議論(Ungrounded Argument)」は説得的ではない(Williams, 2009)。単純性・倹約性に

関し、傾向的因果理論が反事実条件的分析に比べ十分に優っているとはいいがたい。

以上の考察から、総合的に見れば、傾向的因果理論は反事実条件的分析に比べ必ずしも魅力的

な立場ではないという結論が導かれる。

参考文献

Bernstein, S. (2017). Intuitions and the Metaphysics of Causation. In D. Rose (ed.), Experimental

Metaphysics (pp. 75-93). Bloomsbury Academic.

Glynn, L. (2012). Getting Causes from Powers, by Stephen Mumford and Rani Lill Anjum. Mind

121 (484): 1099-1106.

Hitchcock, C. and Knobe, J. (2009). Cause and Norm. Journal of Philosophy 11: 587-612.

Lewis, D. (1973). Causation. Journal of Philosophy 70: 556-567.

Maudlin, T. (2011). Quantum Non-locality and Relativity: Metaphysical Intimations of Modern

Physics (Third Edition). Blackwell.

Mumford, S. (2006). The Ungrounded Argument. Synthese 149(3): 471-489.

Mumford, S. and Anjum, R. L. (2009). Double Prevention and Powers. Journal of Critical Realism

8 (3): 277-293.

Mumford, S. and Anjum, R. L. (2011). Getting Causes from Powers. Oxford: Oxford University

Press.

Schaffer, J. (2000). Causation by Disconnection. Philosophy of Science 67(2): 285-300.

Williams, Neil E. (2009). The ungrounded argument is unfounded: a response to Mumford.

Synthese 170(1): 7-19.

Page 34: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-10

32

L-10

L-10

A14 教室(1 階)

4/7(土)13:15-14:05

中根杏樹(司会:杉本俊介)

理由の内在主義と価値の非主観性

現在のメタ倫理学では, 価値のみならず, 行為の理由が中心的な主題のひとつとなっている.

なかでも,〈理由の内在主義(internalism)と外在主義(externalism)をめぐる論争〉, つまり, 行

為の理由の有無は主体的動機群に条件づけられると考える立場とそれを否定する立場の論争と,

〈価値と理由の関係をめぐる論争〉は活発である. これらの論争は, 多くの場合, 互いに切り離

されて論じられる. たしかに, それぞれの論争を切り離したとしても成果は見込めるであろうし,

この論じ方は, 多くの観点が入り込んでしまうことで議論が混乱するという事態を避けることが

できるという点で優れている. だが, 本発表ではこれらの問題を横断し, 「価値と理由の関係に

ついて, 内在主義はどのような見解をとりうるのか」を考察する.

あえて二つの論争を横断する問いを扱うのは, 以下に示す理由による. 第一に, 理由の内在主

義は, 価値について極端な主観主義をとるという論拠にもとづいて退けられることがある

(Garcia, 2014). したがって, 内在主義が価値と理由の関係についてどのような理論を取りうる

のかを考えることは, その立場にとって必要である. 第二に, 管見のかぎりでは, 現代において価

値と理由の関係を論じている論者の多くが外在主義者であり, 内在主義的な観点からその関係が

語られていない. それゆえ, 内在主義が価値と理由についてどのような見解を受け入れることが

できるかは, 外在主義の場合よりも曖昧である. 上記の問いに答えることで, この曖昧性を取り

除くことができる. 第三に, 内在主義が価値の(個々人の欲求に相対的であるのではないとい

う)非主観性と両立すると論じることによって, 外在主義の知見を取り入れた内在主義を展開す

るという方向性を示すことができる.

本発表は, 三つの節から構成される. 第一節では, 理由と価値のあいだに還元を認めるような

立場を, 内在主義が受け入れられるかどうかを論じる. その結果, 内在主義は, 理由と価値のあい

だに一方がもう一方を還元するという関係を認めず, それぞれを独自のものとして区別するのが

よいと結論づける. その根拠は, 還元を認める見解と内在主義を両立させようとすると, 価値言

明の真理は個々人の主体的動機群に相対的であるというもっともらしくない主観説を採用するこ

とになるということである. 注意すべきことに, この形の内在主義にもとづいた主観説は, 感受

性理論や準実在論のような, 価値言明になんらかの仕方で非主観性を認めたうえで主観的要素を

取り込もうとする立場とは異なる. 内在主義にもとづく価値の主観説では, 価値言明は行為者の

主体的動機群に相対的に真である. しかし, われわれはなんらかの対象に対して価値がある/な

いと言うことに, 少なくともある程度の客観的な規準をもつ. 以上から, 内在主義にもとづくな

らば, 理由と価値は区別すべきであるという見解を提示する.

Page 35: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-10

33

L-10

理由と価値を区別するという方向は, バーナード・ウィリアムズが示唆する方向でもある. 第

二節では, 理由と価値のあいだには区別される性格があるということについて, ウィリアムズの

示唆にしたがって論じる. 彼は, 理由は行為者相対的で, 行為者の現実の主体的動機群について

の内容をもたねばならないと考える. そして, 行為者の主体的動機群に役割を持たせないような

理由の理論には, 「心理的観点」「倫理的観点」「分析的観点」から問題があると述べる

(Williams, 1995, p.190, p.192). 本発表では, この発言で示唆されているものを明らかにする.

それによって, それぞれの観点から理由はどのような特徴をもつのかを論じ, 価値との区別を図

る.

つづく第三節では, 可能な反論に応じる. 本発表で示すような, 〈理由と価値を切り離し, 理由

を現実の主体的動機群に条件づける考え〉には, 反論があるかもしれない. ウォレン・クインに

したがって多くの論者が同意するのは, 欲求は, それ自体では, 行為を正当化する役割を果たさ

ないということである. 彼らによれば, その欲求の向けられている対象の価値ゆえに, 行為は正

当化される(Quinn, 1993).

本発表では, 実践的推論についての非心理主義的見解にもとづいて, この反論に応じる. その

ために, Vogler(2002)を参考に, 「ヒューム主義」や「道具主義」の多様な側面を区別し, それ

ぞれの側面の功罪を示す. そして, 正当化の心理主義は誤りである一方で, 理由のための行為に

は, 手段―目的/部分―全体の行為の記述の構造, 実践的推論が対応するという見解は正しいと

結論づける. Alvarez(2009)が述べるように, 実践的推論は, その全体をもって, その行為の価値を

示す構造である. 以上の議論を通じて, 内在主義でも, 心理主義的な側面を捨象するならば, 行為

のもつ価値が結論を正当化するということを認めることができると結論づける.

Page 36: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-11

34

L-11

L-11

A26 教室(2 階)

4/7(土)13:15-14:05

佐藤広大(司会:稲岡大志)

〈作品の意味〉と〈作者の意図〉――仮説的意図説への挑戦――

行為論で主題となっている概念が、哲学の他分野においてもキーワードとして用いられている

ことがある。たとえば、分析美学においては、「意図」という概念が、〈作者の意図〉と〈作品の

意味〉の関係を論じる際に用いられている。

〈作者の意図〉と〈作品の意味〉の関係が問題になるのはどのようなときだろうか。たとえ

ば、あなたの目の前に詩があるとしよう。その詩はあなたの母語で書かれているので、単語一つ

一つの文字通りの意味は分かるのだが、詩としての意味が分からない。

このとき問題になるのは、「詩、あるいは芸術作品の意味が何によって決まるのか」というこ

とだろう。この問いに対する答え方に応じて、いくつかの立場に分かれる。一つ目の立場(極端

な実際的意図説 extreme actual intentionalism)は、「作者の実際の意図が作品の意味を決める」

と答えるだろう。二つ目の立場(慣習説 conventionalism)は、「言語的慣習が作品の意味を決め

る」と答えるだろう。三つ目の立場(穏健な実際的意図説 modest actual intentionalism)は、

「言語的慣習の制約のもとで、作者の実際の意図が作品の意味を部分的に決める」と答えるだろ

う。四つ目の立場(仮説的意図説 hypothetical intentionalism)は、「適切な情報を持った読者が

作者に帰属させるであろう仮説的意図が作品の意味を決める」と答えるだろう。これらの立場の

中でも、現在盛んに議論されているのは、三つ目の立場と四つ目の立場である。

本発表の目標は、〈仮説的意図説〉に対して、〈穏健な実際的意図説〉を擁護することである。

そのために、まず〈仮説的意図説〉と〈穏健な実際的意図説〉の相違点を明確にする。先行研

究において相違点の候補がいくつか挙げられているが、それらの候補なかでも、「利用可能な証

拠の範囲の違い」に注目する。

次に、〈仮説的意図説〉の背後にある直観をすくい取ることによって、〈穏健な実際的意図説〉

をよりもっともらしいものにする。本発表ですくい取ろうとしている〈仮説的意図説〉の直観と

は「芸術的価値を高める意味が作品の意味だ」というものである。〈穏健な実際的意図説〉のな

かにこの直観を部分的に取り込むことによって、〈穏健な実際的意図説〉をより洗練させる。

発表者は、「適切な情報を持った鑑賞者が作者に帰属させるであろう〈仮説的意図〉は、ほと

んどの場合、〈作者の実際の意図〉と一致する」と主張する。つまり、発表者は、〈穏健な実際的

意図説〉の立場をとって〈作者の実際の意図〉が最終的には作品の意味を部分的に決めると考え

ておきながら、その一方で、〈仮説的意図〉と〈作者の実際の意図〉がほとんどの場合一致する

ので、実際の解釈の場面で、作品の意味を知るためには、通常は、〈仮説的意図〉を構成するだ

けで十分であり、〈作者の実際の意図〉を確認する必要はないと主張する。

Page 37: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-11

35

L-11

それでは、いかにして〈仮説的意図〉と〈作者の実際の意図〉が一致するのだろうか。ヒント

となるのが語用論の分野における「関連性理論 relevance theory」である。関連性理論は「人間

は常により関連性を求める」というスローガンを掲げている。関連性理論では、認知効果が高け

れば高いほど、そして、処理コストが低ければ低いほど、関連性が増すと考えられている。聞き

手は、話し手がその能力や選択が許す範囲で最大の関連性を目指すはずだということを前提にし

ながら、話し手の実際の意図を仮説的に推論し、その推論結果を発話の意味だとみなす。つま

り、関連性理論において、〈仮説的意図〉と〈実際の意図〉の一致を保証しているのが、「話し手

はその能力などが許す範囲で最大の関連性を目指す」という前提なのである。

発表者は、類似の前提を、〈作者の意図〉と〈作品の意味〉の関係についての論争のなかへと

持ち込むことによって、読者が作者に帰属させるであろう〈仮説的意図〉と、〈作者の実際の意

図〉は、ほとんどの場合、一致すると主張する。この論争において、「認知効果が高ければ高い

ほど、そして、処理コストが低ければ低いほど、関連性が増す」という関連性理論のテーゼはど

のように修正されるのだろうか。その答えは、このテーゼと、「芸術的価値を高める意味が作品

の意味だ」という仮説的意図説の直観を比較することによって明らかになるだろう。

本発表の主張のひとつは、〈作者の実際の意図〉は、ほとんどの場合、観賞者の推論によって

仮説的に特定されるというものである。つまり、〈作者の実際の意図〉を知るために、作者に

「なぜその行為をしているのか」などと質問する必要がないということである。このような主張

は、「なぜその行為をしているのか」という問いに対する答えが意図であるということを当然視

する行為論にとっては真新しいものなのかもしれない。

Page 38: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-12

36

L-12

L-12

A27 教室(2 階)

4/7(土)13:15-14:05

勝亦佑磨(司会:岡本慎平)

目的論的機能主義に基づく志向性の自然化――学習に基づく表象論の検討

本発表の目的は、心の哲学における目的論的機能主義の立場から、私たちの心の持つ志向性が

いかにして自然化されうるかという問題を考察することである。目的論的機能主義とは、心的状

態を、生物の心臓や肺のように「生存に有益な」機能を持つ状態として捉えることで、心の持つ

志向性を自然化する立場である。目的論的機能主義の主流な見解は、ミリカンによる進化に基づ

く表象論(例えば Millikan, 1989)であり、それによれば、心的状態を生み出す形成機構(生産

者)とそれに基づいて行動を引き起こす利用機構(消費者)は、それぞれの機能を持つために祖

先の生存や繁殖に役立ち、それゆえに進化の過程で選択され、現在においても存続している。例

えば、「目の前にヘビがいる」という信念の生産者と消費者の組は、目の前にヘビがいるときに

その信念を生み出し、その信念に基づいて「逃げる」という行動を引き起こすといった機能を持

つと考えられる。そして、こうした信念の生産者と消費者は、それぞれの機能を持つために祖先

の生存に役立ち、選択され、現在においても存続していると考えられるのである。このようにし

て選択されてきた生物の器官や特質の持つ機能は目的論的機能と呼ばれ、目的論的機能主義の論

者はこうした目的論的機能によって心的状態の持つ志向性を説明するのである。

このように目的論的機能主義の主流な立場は、ミリカンによる進化に基づく表象論であるが、

本発表であえて注目するのは、ドレツキによる学習に基づく表象論である(Dretske, 1988)。ド

レツキは、進化による説明と学習による説明の役割を区別することで、自身の学習に基づく表象

論の必要性を主張する。ドレツキによれば、前者は、生物の種や集合にまたがる表象を説明する

ものであるのに対し、後者は生物個体の表象を扱うものである。また、生得的行動や反射的行動

に扱われるような表象は進化に基づく理論によって説明されるものであることに対し、信念や欲

求といった意図的行動の「理由」でもありうるような表象は、学習に基づく理論によって説明さ

れるという。ドレツキはこのようにして、学習に基づく表象論の独自の役割を主張するが、彼の

理論には、以下のような点において検討の余地がある。

第一に、進化に基づく表象論と学習に基づく表象論が異なるものとして、単純に二分されるか

どうかという問題が挙げられる。というのも、進化による説明も学習による説明も、ある表象メ

カニズムが、ある種のレベルで選択されるのか、それともある個体のレベルで選択されるのかと

いう違いに過ぎないとすれば、それほど差がないものであると考えられるからである。

第一の問題に関連して、第二に、表象が行動における理由になりうるかどうかという点が、学

習と進化の二分によってそれほど単純に説明されるのかどうかという問題が挙げられる。ドレツ

キによれば、生物の内的状態 C(例えばある脳状態)が外部の状態 F を表象するとは、「C が F

Page 39: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-12

37

L-12

を表示する機能を持つ(C が F についての情報を運ぶ機能を持つ)」ことにほかならず、学習を

通じて、生物の内的状態 C はこうした機能を獲得し、表象になる。ドレツキによれば、こうし

た学習過程を経て、表象は行動における理由になるのであり、こうした学習なしに表象は理由に

はなりえない。だが、ここで次のような問題が生じる。先にみたように、進化も学習も、どちら

もある表象メカニズムの選択過程であるという意味で差がないのだとすれば、いかにして学習

が、表象が行動における理由になるために必要であるのかが明らかでないと考えられる。

さらに、理由にとって学習が必要であるとしても、ドレツキが示しているのは、学習が、せい

ぜいその必要条件であるということにすぎず、いかにして表象が行動における理由になるのかと

いう点は、依然として明らかでないと考えられる。少なくともドレツキの用いる、ネズミのレバ

ー押しのようなオペラント学習のケースにおいて、ネズミの内的状態が行動における理由になる

のだというのは考え難い。もちろんドレツキは、理由の相互作用的な性格に訴えて、人間の表象

が、ネズミのような下等な動物の表象とは異なることを主張する。ところが、人間であれネズミ

であれ、ドレツキが問題にしている学習とは、ある表象メカニズムの選択過程以上のものではな

く、そうだとすると依然としていかにして表象が、人間の持つような、行動における理由になる

のかという問題が残ると考えられる。

本発表では以上のような点を検討し、目的論的機能主義に基づく志向性の自然化において、進

化による説明とは他に、いかにして学習による説明が役立ちうるのかを考察したい。

Page 40: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-13

38

L-13

L-13

A28 教室(2 階)

4/7(土)13:15-14:05

小松原織香(司会:吉永明弘)

環境問題と紛争解決 「ディープ・エコロジー」から「修復的正義」へ

環境問題は、大気汚染や温暖化などの地球規模の問題から、特定の動植物の保護、公害被害者

への補償や先住民族の居住地の保存まで、広範に及んでいる。環境問題では、時にはステークホ

ルダーが激しく対立し、紛争へと進展する。現在も、「環境問題における紛争」をめぐって、多

くの政治闘争や法廷闘争が行われている。

私はこうした「環境問題における紛争」に対して、ディープ・エコロジーの視点を取り入れた

いと考えている。ディープ・エコロジーの思想的リーダーであったアルネ・ネスは、「エコロジ

カルな自己」を提起し、人間は環境の中で「私」というものを作り上げることを指摘した。ネス

にとって、人間は自らを取り巻く他の人々や自然と切り離されることなく繋がっている。ネス

は、「人と人」または「人と自然」との関係の結節点として「エコロジカルな自己」を発見した

のである (1)。こうしたディープ・エコロジーの思想は、観念的で個人の内面の掘り下げに特化

しており、社会変革の実行力を持たないため、無力であるとみなされることが多かった。

しかしながら、「環境問題における紛争」では、「環境破壊によってもたらされた苦しみ」や

「故郷が失われる悲しみ」、「自然・動植物への愛」、「経済的安定を求めた開発への切実な要求」

などの激しい感情が当事者の中で渦巻いている。こうした感情的な対立を伴う紛争は、従来の法

体系を中心とした正義だけでは解決することが難しい。「破壊された「人と人」または「人と自

然」の関係をどう修復するのか?」という問いは、「紛争後の感情的な対立をどう乗り越えるの

か?」という問いでもある。このとき、「人間は関係の中で自己を作り上げる」と考え、「人と

人」または「人と自然」についての思想を内面的に掘り下げるディープ・エコロジーの視点を取

り入れることが必要になる。

他方、紛争解決の分野においても、「法体系」ではなく「人と人との関係」に焦点を当てた正

義の概念、「修復的正義」が注目されている。修復的正義とは、1970 年代から西洋諸国を中心に

して広まった、新しい正義の概念である。従来の刑事司法を中心にした正義の概念においては、

加害者個人が法的責任を問われる。そして、法体系に基づいて厳正に平等に罪が確定され、処罰

が下されることになっている。他方、犯罪・暴力は被害者を深く傷つけ、被害者や加害者の家族

や友人、職場の同僚や学校の仲間などの人間関係を破壊する。紛争後には、人と人との信頼関係

が失われ、コミュニティが崩壊してしまうのである 。このような人間関係の葛藤で生まれる苦

しみや悲しみは刑事司法では解決できないため、修復的正義の概念が必要になった(2)。人々の

感情的な葛藤に向き合いながら、コミュニティの修復を目指すのが修復的正義である。

私は「環境問題における紛争解決」こそ、この修復的正義の概念が必要な分野だと考えてい

Page 41: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-13

39

L-13

る。なぜなら環境問題は、破壊された「人と人」または「人と自然」の関係に対し、感情的な葛

藤も含めて、修復する必要があるからである。すでに環境問題では、環境正義、エコロジカル正

義、固有種の正義(species justice)などの新しい正義の概念が提起されてきた。オーストラリアで

は環境問題における修復的正義の研究が進展しておりジョン・バリー(3) やフレッド・ベストー

ン(4) が環境正義と修復的正義の接続を試みている。さらにロブ・ホワイトは修復的正義の視点

から、具体的な事例として「先住民族の居住地の環境破壊」を検討している(5) 。これからの

「環境問題における紛争」の研究において、修復的正義を導入することはきわめて有用であると

考えられる。

修復的正義においても犯罪・暴力の被害者・加害者は「個人」ではなく「コミュニティの一

員」としてみなされる。ネスと同じ「当事者の関係」が議論の中心に置かれているのである。し

かしながら、従来の修復的正義では「人間同士のコミュニティ」が想定されることが多かった。

他方、「環境問題における紛争」では人間以外の動植物や自然総体もステークホルダーになる。

このときネスの「エコロジカルな自己」の概念を援用することで、自然と人間の関係も含んだ修

復的正義が考えられるようになり、環境問題においても議論を展開できるようになる。

現代の環境運動では法整備や政策提言、訴訟を中心にした実践的な政治活動が重視されてい

る。他方、先述した通り、環境問題では法体系を中心とした正義とは異なる修復的正義の導入が

必要である。「環境問題における紛争」について考えるときに、ディープ・エコロジーの視点を

取り入れることで、環境問題と修復的正義を思想的に円滑に接続することが可能になるのであ

る。

(1)Arne Naess, "Self-Realization: An Ecological Approach to Being in the World," The

Trumpeter, Vol.4, No.3, Murdoch University, pp.35-42. (アルネ・ネス「自己実現——この世界

におけるエコロジカルな人間存在のあり方」アラン・ドレグソン『ディープ・エコロジー』、井

上有一訳、昭和堂、2001 年、pp.45-74。)

(2)Howard Zehr, Changing Lenses: A New Focus for Crime and Justice, Herald Press, 1990. (ハワ

ード・ゼア 『修復的司法とは何か――応報から 関係修復へ』西村春夫・細井洋子・高橋則夫監

訳、新泉社、2001 年。)ほか。

(3) John Verry, Felicity Heffernan, and Richard Fisher, "Restorative Justice Approach in the

Context of Environmental Prosecution," Safety, Crime and Justice: from Data to Policy, Australian

Institute of Criminology Conference, Australia, 2005.

(4)Fred H. Besthorn "Speaking Earth: Environmental Restoration and Restorative Justice,"

Restorative Justice Today, 2013.

(5)Rob White, "Indigenous Communities, Environmental Protection and Restorative Justice,"

Australian Indigenous Law Review, vol.18, No.2, 2014/2015, pp.43-54.

Page 42: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-14

40

L-14

L-14

A13 教室(1 階)

4/7(土)14:10-15:00

清水雄也(司会:伊勢田哲治)

因果の概念工学へ——規定的な概念研究の擁護

因果(性)は,古代以来の重要な哲学的研究課題であり,現代においても多くの研究成果が提

出され続けている.しかし,今日に至ってなおメタ哲学的ないし方法論的な論点についての合意

を大きく欠いており,研究の目的や理論の選択基準が極めて不明確である.また,領域全体が或

る程度まで共有していると見える目的や基準についても,その根拠や妥当性は充分に検討されて

おらず,その明確な理路が共有されているとは言い難い.合意形成に向けて,哲学的因果論につ

いての整備された反省的議論が展開されるべきである.仮に,最終的にはメタ哲学的な合意形成

が不可能ないし不要であるとしても,それが明らかにされること自体は有益なはずである.

本発表では,上述の状況理解を前提に,近年のメタ哲学的成果を踏まえつつ,哲学的因果論が

取り組むべきプロジェクトの方針を明確化し,これを擁護する.具体的には,以下に挙げる 3 つ

のサブタスク(第 1 のタスクがメイン)をクリアすることで,概念工学としての哲学的因果論と

いう課題設定を擁護するとともに,これを関連性の高い他のメタ哲学的議論の中に位置づける.

第 1 のタスクは,規定的な概念研究という研究方針を擁護することである.まず,哲学的因果

論の適切なプロジェクトを位置づけるために,哲学方法論に関わる 2 つの重要な区別を導入す

る.第 1 の区別は,哲学(または形而上学)の対象領域がどこにあるのかという点に関するもの

で,[M]mind-independent に実在する世界(の基礎的構造)と,[C]人々の概念・言説・語

法・直観・経験など,に分けられる.第 2 の区別は,それらの対象領域に対するアプローチの仕

方に関わるもので,[D]記述的アプローチと,[P]規定的アプローチ,に分けられる.これら

2 つの区別を組み合わせることで,[MD],[MP],[CD],[CP]という 4 つの方法論的プログ

ラムを考えることができる.本発表では,哲学的因果論の方法として[CP]を擁護する.ここ

での戦略は,[MD]と[MP]を斥けた上で,[CD]よりも[CP]の方が魅力的であるという

ことを示すというものである.

第 2 のタスクは,擁護された[CP]の中でも,特に概念工学と呼ばれるプロジェクトの内実

を積極的に描き出していくことである.概念工学は,特定の価値観や評価基準を前提に,その達

成に資する概念をデザインし,作り出すことことを目的とする.もちろん,新規概念の導入だけ

でなく,既存の概念に対する分析と評価を踏まえた修正も重要な仕事であり,哲学的因果論は後

者に該当する.ただし,既存概念を分析した結果,既存のものがすでに充分に修正の必要なく目

的に資するものであることが判明した場合は,それ以上の追加や修正を行わないこともあり得る

だろう.その意味で,既存概念に対して規定的な態度を採ることは修正主義を含意しない.この

ように,概念工学の遂行においては概念分析([CD])が重要な役割を果たす.特に,既存概念

Page 43: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-14

41

L-14

を対象とする場合,概念分析はよりよい成果の手がかりを得るためだけでなく,まさにその概念

(哲学的因果論なら「因果」)を扱っているということを担保するためにも欠かせない.以上の

論点に加えて,概念分析と概念工学との関係について,概念分析と概念工学の区別可能性の問

題,概念工学に必要な[CD]的プロジェクトが概念分析に留まるのかという問題,といった論

点についても検討する.

第 3 のタスクは,関連する哲学的議論の検討を通じて,より大きな文脈に因果の概念工学を位

置づけることである.本発表では特に,概念工学から見たキャンベラプランとシドニープランの

評価,philosophical anthropology と概念工学との関係,形而上学と概念工学との関係,因果の観

念論と概念工学との関係などについて概略的に論じる.これらの論点はいずれも新しく,まとま

った研究がなされていないため,課題の提示と概略の粗描にも価値があるだろう.

Page 44: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-15

42

L-15

L-15

A14 教室(1 階)

4/7(土)14:10-15:00

和泉 悠(司会:森岡正博)

「土人が」の意味論と語用論

[背景]

2016 年 10 月 18 日、沖縄県東村高江におけるヘリパッド建設工事の現場にて、大阪府警から

派遣され警備にあたっていた機動隊員が、抗議活動を行う市民に「土人が」という発言を行っ

た。発言の模様は録画され、広く報道されるとともに、国会での質問答弁などさまざまな反響を

呼んだ。反響の一例として、報道に接した松井一郎大阪府知事の次のツイートがあげられる。

「ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に

従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」

(https://twitter.com/gogoichiro/status/788714332670402560 最終閲覧日 2018 年 1 月 15 日)

[目的]

本論文の主な目的は、この「土人が」発言を言語現象として分析し、理解することである。そ

のために、まず「土人が」という表現の統語論的・意味論的な特徴づけから議論を開始し、合成

的に決定される表現の内容を特定する。そして、表現の内容に基づいて、上記ツイートに見られ

るような発言の受容を語用論的枠組みを用いて検討する。

[概要]

本論は三つの部分によって構成される。第一に、「土人が」の罵倒語としての側面を議論す

る。この表現が「おろかものが!」、「裏切り者が!」、 “You fool!,” “You liar!” などと類似的な

特徴を持つ生産的な表現である点を指摘するとともに、先行の統語論文献(ノルウェー語での分

析 (Julien 2016) など)を利用し、「土人が」が、「わっ」といった構造を持たない単純な言語的

反応と異なり、述定の解釈を有する複合的な構造を持つと主張する (Izumi and Hayashi 2017)。

第二に、「土人」という差別語の規約的意味内容を、先行する複数の人種・民族的差別語の理

論を組み合わせることにより特定する。上述の統語的構造分析と合わせて、「土人が」の合成的

意味論を提案する。単純化して述べると、この表現は単に出来事や事実を報告・描写するもので

はなく、差別的な規範性をあらがいようのない当然の事態として提示するとともに、話者の侮蔑

的態度を表明するものである。

より具体的には、Christopher Hom (2008) が展開してきた、差別語の意味内容を制度や慣習

といった客観的な差別的実態により理解する方針を採用する。そして、Christopher Potts (2005)

の一連の研究により復権した Paul Grice の規約的含み (conventional impilcatures) の一種とし

て、「土人」に差別的実態に関する内容が含まれていると主張し、それを理論的に表現する。

第三に、こうして特定された「土人が」という表現の意味内容が、それを用いた発言とその受

Page 45: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-15

43

L-15

容としての松井一郎によるツイートとどう関連しているのか、動的な語用論研究を踏まえて議論

する。

まず大きな特徴として、このツイートの大部分は、「P だとしても…」と条件法に組み込まれ

ている点を指摘する。「P だ」と断定する主張行為とは異なり、条件法を通じて、話者が P に対

するどのような責任を受け入れているのか議論する。

次に、「不適切だ」という述語に着目し、別種の可能な述語との対比関係を検討する(たとえ

ば、一種の Horn scale が存在するのかどうか検討する)。

最後に、このツイート全体に関して、本論文で探求される可能性は、何らかの問いが争点とし

て会話の参加者に把握されており、それに対する答えとしてこのツイートが理解される、という

ものである。

David Lewis や Robert Stalnaker の動的語用論研究を発展させた Craige Roberts (1996) は、

会話のモデルにその会話の中で争点となっている問い(questions under discussion, QUD)を含

め、発話と QUD との関係性を考察する。このツイートの背景には、政治家を含む多数の論者が

「土人が」発言を差別的であると厳しく糾弾し、大阪府警を管轄するトップとして、松井一郎が

これをどのように評価するのかという点に注目が集まっていた、というものが含まれる。それゆ

えこのツイートは、「当該の発言をあなたはどう思うか?」という QUD に答えたものである、

と解釈される可能性を検討する。この可能性を踏まえた帰結は、ツイートの文字通りの意味内容

が単なる勤労の奨励に関しているということは、QUD と答えの不一致を生じさせており、グラ

イス的関連性の格率が明らかに破られている、というものである。その結果、文字通りの意味内

容は単なる勤労の奨励に関するものであったとしても、異なる話者の意味―松井一郎の支持基盤

に訴求する内容―が伝達されていると考えられる。

参考文献

Hom, C. (2008) The Semantics of Racial Epithets. Journal of Philosophy, 105(8), 416–440.

Izumi, Y. and Hayashi, S. (2017) Expressive Small Clauses in Japanese, The Proceedings of Logic

and Engineering of Natural Language Semantics (LENLS) 14, 1-9.

Julien, M. (2016) Possessive predicational vocatives in Scandinavian. Journal of Comparative

Germanic Linguistics 19, 75–108.

Potts, C. (2005) The Logic of Conventional Implicatures. Oxford University Press, Oxford.

Roberts, C. (1996) Information structure in discourse: Towards an integrated formal theory of

pragmatics. In Jae-Hak Yoon & Andreas Kathol (eds.), Papers in semantics (Working Papers

in Linguistics 49). The Ohio State University, 91–136.

Page 46: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-16

44

L-16

L-16

A26 教室(2 階)

4/7(土)14:10-15:00

谷川嘉浩(司会:稲岡大志)

Change by Design! でも、デザイナーはどこにいるのか

――パパネック、ミルズ、セネット、つまり、デザイン思考とプラグマティズム――

デザインと聞くと、多くの方は「意匠」や「装飾」を思い描くだろう。しかし、デザイン論で

は、その見解が採用されることはない。Change by Design (2009)で話題をさらったティム・ブ

ラウンは、「デザイン思考」という発想を提案している。「デザイン」に「思考」を付け足すこと

で彼が試みたのは、作られる個別のプロダクトに注目し、「見た目がかっこいい」「ちょっと使い

やすい」といった既存のイメージを塗り替えることだった。デザイン思考とは、技術的な実現可

能性、経済的な制約、人間にとっての望ましさのバランスをとりながら、問題解決を行ない、世

界に革新をもたらそうとする思考のことだ、とブラウンは述べる。

この発想は、少なくとも、デザイン論の古典であるパパネックの Design for the Real World

(1972)にまでさかのぼることができる。パパネックによる「デザインは問題解決だ」という定義

は、現代でも強く支持される。例えば国内では、蘆田裕史が(服の見た目だけでなく)ファッシ

ョン界に存在する個別の問題にアプローチするものとして、国内の挑戦的なブランドの試みを

「デザイン」として読み解いている。

では、デザイナーと聞けば、何を想像するだろうか。その人だけでは仕事を生み出せず、クラ

イアントの依頼を受けて、議論を重ね、個人ないしチームで何かを仕上げる仕事につく人だ、と

いうのが共通の理解ではないだろうか。デザイナーの問題解決は、向こうからの悩み相談にこた

える形で行われるのだ。そうしてデザインされた成果物は、それを享受する人のもとに届いて完

結する。クライアントは、情報や製品や商品を対象とする受け手に適切な仕方で届けることを求

めているからだ。

このデザイナーという職種の曖昧な位置を、社会学者の C. W. ミルズは、ある論文の中で、

「あいだにいる人」と呼んで論じている。ミルズは、消費者ないし受け手の感性を先取り的に提

示する職種として、「デザイナー」を捉えた。デザイナーは、一定の仕方で関わるようデザイン

されたプロダクトを生み出し、それによって他の人びとのふるまう世界を設計しているとみなさ

れる。要するに、この論文は「文化産業論」として書かれ、消費社会や文化産業を批判している

のである。

ブラウンの提示した「デザイン思考」は反響を呼び、デザイン・スタディーズでは、数多くの

研究が生まれた。とりわけ、注目したいのは、デューイの感性論や探求論との接続を図ったピー

ター・ダルスガードの”Pragmatism and Design Thinking”など、哲学・思想的な議論、とりわけ

プラグマティズムを摂取する研究が多くなされていることである(前出のミルズや後出のセネッ

Page 47: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-16

45

L-16

トはプラグマティズムから多くの影響を受けている)。とはいえ、これらの研究や、ブラウンの

定式は、「理想的な姿」や「成功例」に他ならない。

ミルズと同様に、パパネックの本では、環境汚染や公害など、デザイナーが生きる消費社会の

負の側面、従って、デザイナーの負の側面に紙幅の大半が割かれた。消費社会のある側面におい

て、デザイナーはマーケティングの道具であり、何かを作るために考え、それを売り出した。

往々にして、それは他の商品との差異を際立たせることに力点が置かれている。彼らは、こうし

た悲惨な現状を見据えた上で、あるべき姿を提示しているのだ。

本稿は、彼らの試みに並んで、マイナスの可能性に焦点を当てた上で、ありうるデザイナーの

理想を描くことを目的とする。その際、ミルズの「クラフツマンシップ」論に注目すると共に、

その議論を、クラフツマンシップについてより詳細に議論を展開した、社会学者のリチャード・

セネットの著作によって補強する。というのも、両者は、プラグマティズムから大きく思想的な

影響を受けており(セネットは、第二波プラグマティズムの一員を自認してすらいる)、デザイ

ンとプラグマティズムの結びつきは、ピーター・ダルスガードなど、多くの研究者が指摘すると

ころだからである。

Page 48: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-17

46

L-17

L-17

A13 教室(1 階)

4/7(土)15:05-15:55

高崎将平(司会:戸田山和久)

操作論証への応答

ペレブーム(2001、2014)やメレ(2006)によって提示された操作論証(manipulation

argument)は、自由や道徳的責任に関する両立論に対する批判の中でも最も強力なものの一つ

である。操作論証の基本的構造は以下の通りである。まず、行為者 A が何らかの仕方で行動を

操作されているが、両立論者が道徳的責任に十分であると考える条件を全て満たしているような

ケース(「M ケース」と呼ぼう)を生成する。このとき行為者 A について、次を主張する:

(1) M ケースにおいて行為者 A は道徳的責任を持たない。

(2) M ケースにおける行為者 A は、道徳的責任に関連する点において、(操作を含まない)

通常の決定論的なケース(「D ケース」と呼ぼう)における行為者 A’と違いがない。

(3) したがって、D ケースにおいても行為者 A’は道徳的責任を持たない。

操作論証に対して両立論者はこれまで、様々な仕方で応答してきた。マッケンナ(2008)は、可

能な両立論の応答を次の二つに分類している:

(i) 懐柔策(Soft-Line Reply):操作論証の前提(2)、すなわち、M ケースと D ケースの

間に道徳的責任に関連する違いがないという主張を拒否する。

(ii) 強硬策(Hard-Line Reply):操作論証の前提(1)、すなわち、M ケースにおいて行為

者 S は道徳的責任を持たないという主張を拒否する。

懐柔策をとる論者は、M ケースで行為者が道徳的責任を持たないことを認める。その上で、M

ケースと D ケースでの行為者の重要な違いを見出すべく、道徳的責任の条件を修正/吟味する

方向に進む。他方、強硬策をとる論者は、M ケースにおいても行為者が道徳的責任を持つと主

張する点で、いわば「弾丸を噛む」立場――その反直観的帰結を甘受する立場――である。これ

らの応答はともに、操作論証が突き付ける両立論に対する挑戦を真剣に受け止めた上で、両立論

がとりうる立場を追求する試みである。

本発表の主目的は、これら二つの立場とは異なるアプローチによる操作論証への応答である。

本発表では「操作」概念の内実に関する考察に先立って、そもそも操作論証は論証の方法として

適切であるのかを問い、それに対して否定的に応答することを目指す。したがって本発表の議論

は、もし正しければ、操作論証の議論構造が胚胎する原理的な欠陥を指摘するものである。

とはいえ操作論証は、前提(1)や(2)が独立した主張としてもっともらしい限りにおい

て、依然として両立論に対する重要な挑戦であるとみなされうる(両立論に対する決定的な批判

とはなりえないにせよ)。本発表の後半では、「操作」概念の内実の考究を通じて、両立論がとり

うる一つの道筋を提案する。それは、M ケースと D ケースの間の重要な差異(あるいは道徳的

Page 49: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-17

47

L-17

責任を損なう「操作」とそうでない「操作」の差異)を、行為者の行為に影響を与える因果ファ

クターが行為者の「本来の(デフォルトの)自己性」を侵害しているか否かに求めるものであ

る。「本来の自己性」に対する概念的な特徴づけを施し、その基準が操作論証の論者(非両立論

者)に対してアド・ホックなものでないことを示すことが、本発表の第二の目標である。

文献

・McKenna, M. 2008. “A Hard-line Reply to Pereboom’s Four-Case Manipulation Argument” in

Philosophy and Phenomenological research 77: 142-178.

・Mele, A. 2006. Free Will and Luck, Oxford University Press.

・Pereboom, D. 2001. Living Without Free Will, Cambridge University Press.

・Pereboom, D. 2014. Free Will, Agency, and Meaning in Life, Oxford University Press.

Page 50: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-18

48

L-18

L-18

A14 教室(1 階)

4/7(土)15:05-15:55

遠藤 進平(司会:森岡正博)

脅迫から考える合理性

脅迫について考えたい。ここでは、一般的な種類の脅迫――自らの利得を増大するための相手

への危害の予告としてのそれ――は考えないことにする。むしろ、「わたしは狂っているからな

にをしでかすかわからないぞ」といった種類の脅迫、言ってみれば認識論的前提を揺るがすタイ

プの脅迫をとりあげたい。

ゲーム理論にせよ意思決定理論にせよ、古典的な理論は、以下の認識論的前提「合理性原則」

を基盤としている。すなわち、合理的とは利得を最大化しようとすることだとしたうえで、

(1)プレイヤーはすべて合理的であり、

また、

(2)「プレイヤーがみな合理的である」ということは全プレイヤーの間での共有知識である

((2)*全員が(1)を知っており、さらに(2)**全員が「全員が(1)のことを知っている」ということ

を知っており...)

という二点の仮定である。これらの条件は実際の人間を考察するには多大な理想化を要求してお

り、さまざまな観点から批判されてきた。とはいうものの、合理性原則そのものを保持しようと

する道筋は絶えてはいない。たとえば、じっさいの人間の思考が古典的な予測を裏切ることが実

験的手法により観測されてきたが、それらをうまく合理性原則と適応させるべく、あらたな解概

念が提案されてきた。また、合理性原則を保持する別の方法としては、脅迫が行われたときのゲ

ームは不完全ないし不完備(つまりプレイヤーはゲームの構造や現在の状況を正しく把握できて

いない)として理解する手もあるだろう。

ただ、脅迫という行為をどのようにモデルすべきか、については、狂ったフリをして相手をひ

るませる戦略「ブラフ」の存在を考慮すると、そう単純にもいかない。この「わたしは狂ってい

るぞ」という言明自体を言うか言わないかを選べる選択肢のひとつだと考えると、おおむね、真

に受けた相手は損をする。すると、言われる側は真に受けないことが合理的になり、脅迫は成功

しないことが導けてしまう(!)。もちろん、これは合理性原則を仮定した結果であるから、ここで

合理性原則を完全に打ち捨ててしまいたくもなる。しかし、それでは行動を予測し決定するとい

う営みを分析することをほとんど諦めてしまうに等しい。理論化において重要なのは、合理性原

則をいくらか弱めあるいは相対化し、それでもなお、プレイヤー同士の選択についてなにかしら

の推論が可能であるようにとどめておくことにあろう。

本発表は、認識的ゲーム理論[1]および動的様相論理[2]をベースに用いた新規の形式的手法を

導入し、これらの発展的かつ統一的な表現を試みる。合理性を相対化するあらたなオペレーター

Page 51: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-18

49

L-18

を導入することで、ブラフの効果や、それがブラフだと見透かされることの逆効果、それらをめ

ぐっての判断がどのようにプレイヤーに与えられるのか等について、既存のアプローチと比較し

てシンプルな改造で描写できる。また、このような形式的な美点にとどまらず、より実践的な関

心――このような認識論的脅迫に巻き込まれた際の最善手についての分析も披露したい。

くわえて、時間が許せば、認識論的前提それ自体への判断を問う具体的な応用例として小説

「キャッチ=22」[3]のような状況の分析も行いたい。たとえば以下のような状況を想起せよ。

パイロットが危険な飛行任務を避けるためには、狂っているという診断をうける必要がある。狂

っているという診断をうけるためには自ら軍医に申告しなければならない。ただし、申告するよ

うな人間は危険を避けようという計算が立つくらいには理性的なのだから決して狂ってはいな

い、と診断されてしまう。

書誌情報:

[1] Perea, Andrés. 2012. Epistemic Game Theory : Reasoning and Choice. Cambridge University

Press.

[2] van Benthem, Johan. 2014. Logic in Games. The MIT Press.

[3] Heller, Joseph. 1961. Catch-22, a Novel. New York: The Modern Library.

Page 52: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-19

50

L-19

L-19

A26 教室(2 階)

4/7(土)15:05-15:55

林 和雄(司会:樫本直樹)

J.S.ミルにおける快楽の質と主体の変容

ジョン・スチュアート・ミル(以下、ミルと表記)は『功利主義論』第 2 章において、有名な

「快楽の質」の議論を展開する。彼の主張を簡単にまとめれば、次のようになるだろう。ある種

類の快楽は他の種類の快楽に比べ、いっそう望ましくて価値がある。快楽を評価するにあたって

は、その量だけでなく質もまた考慮に入れなければならない。こうした快楽の質の判定基準は、

両方を経験した人、両方をよく知る人の選好である。例えば人間はどれだけ多くの快楽を与えら

れるとしても、より低次の動物に身を落とすことには同意しないだろうし、同様に知的な人が愚

者になることに同意するとも思えない。したがって「満足した豚であるよりも、不満足な人間で

ある方がよく、満足した愚者であるよりも、不満足なソクラテスである方がよい」(CW, X: 211-

4)。

以上のような、ミルのいわゆる「質的快楽主義」については、古くから多くの解釈と批判がな

されてきた。その主な論争点は、快楽の質の差は量の差に還元されるのか、されないとすれば彼

の立場は、快楽及び苦痛の不在としての幸福のみが目的として望ましい唯一のものである(CW,

X: 210)という価値論としての快楽主義から逸脱しているのではないか、というものである。近年

は著作集の刊行などに伴ってミルの思想の積極的な再評価が進められており、快楽の質について

もこれまでより整合的な解釈が何人もの論者によって試みられてはいるものの、依然として彼の

主張は奇妙に聞こえる。私たちは「不満足なソクラテス」を、その語の日常的に使用する意味に

おいて「幸福」だと見なすだろうか?

本発表ではこうした奇妙さを解きほぐすべく、快楽を感じる主体の心理に焦点を当てて、ミル

がこの箇所で示さんとした事態がどのようなものであるかを考えていく。その際、以下の二つが

手がかりとして用いられるだろう。

一つは、父親の心理学である。言うまでもないことではあるが、ミルの使用する「快楽」や「欲

求」というタームは何らかの心的状態を記述する言葉であり、それゆえに彼の快楽主義の内実を

詳細に検討するためには、その心理学的前提を調べなければならない。ここで注目すべきテキス

トは、彼の父親、ジェイムズ・ミルの著した『人間精神現象の分析』及びミル自身の手によるそ

の序文と注釈であろう。ジェイムズ・ミルはこの本で、ハートリの観念連合理論に基づいて快楽

や欲求を含む人間のあらゆる精神現象を説明し尽くさんとする。彼の狙いは、功利主義の観点か

ら望ましい人間を形成するための教育にその心理学を応用し、盟友ベンタムのプロジェクトを強

力にサポートすることであった(山下 2004)。まさしくそのような教育の実験から生まれた息子

の方のミルは、父親の心理学を高く評価し、その枠組みを基本的には受け入れる一方で、この本

Page 53: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-19

51

L-19

の注釈を始めとする様々な著作において、ベンタムとジェイムズ・ミルの人間本性観を部分的に

批判している。そこで、このようなミル父子の連続面と断絶面の確認は、ミルが父たちの「量的

快楽主義」に抗って導入したともいえる、快楽の質の議論を解釈するための準備作業として欠か

せないだろう。

一つ目とも密接に関連するが、快楽の質の主張を読み解くもう一つの手がかりは「個人の発展」

である。高次の快楽を味わう人の例がソクラテスであることが示唆するように、快楽の質の議論

の背景には、ギリシア的な自己発展の理想がある。そして、この理想がもっとも明確に示されて

いるのは、『功利主義論』と同時期に書かれた『自由論』で「個性の発展」を論じる箇所において

である(CW, XVIII: 260-75)。個性の発展の議論はいくつかの点で快楽の質の議論と重なり合っ

ており、このことに着目して個性や発展を質の高い快楽と関係づける論者は多い。例えば、ロン

グ(1992)は高貴な性格を選び取って自己発展を遂げた人の享受する快楽を、グレイ(1996)は

自律的な選択に根ざす自らの個性を表すような快楽を、質の高い快楽であると見なす。本発表で

はこの二人の主張を批判的に検討した上で、先に見たミルの心理学的前提により基礎づけられた

「発展」の内実を示したいと思う。

考察の結果、次のことが明らかになるだろう。ミルが快楽の質の議論で描き出そうとした事態

は、何よりも「主体の変容」であり、そのように変容を遂げた主体の選好に、ミルは高い価値を

付与したのである。

参考文献

ミルの著作

Collected Works of John Stuart Mill, 33 Vols., Robson, J.M. general ed., Toronto University Press

and Routledge, 1965-1981.

(CW, X: 211-4)というふうに、(略号 CW, 巻数: ページ数)の形で引用・参照箇所を示す。

その他の文献

Gray, John(1996). Mill on Liberty: A Defence, 2nd. ed., Routledge.

Long, Roderick(1992).‘Mill’s Higher Pleasures and the Choice of Character’, Utilitas, 4, pp.279-97.

山下重一(2004). 「ジェイムズ・ミルの連想心理学と倫理思想(下)」. 『國學院法學』第 42 巻第

1 号, pp.51-93.

Page 54: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-20

52

L-20

L-20

A13 教室(1 階)

4/8(日)10:00-10:50

新川拓哉(司会:大西琢朗)

意識についての問いの体系的見取り図

近年では意識は哲学研究のみならず科学研究の正当な対象とみなされつつある。だが、哲学者

は次のような疑問をもつかもしれない。意識を自然科学的に研究するということがほんとうに可

能なのだろうか。自然科学では扱えないような意識をめぐる難問があるのではないか。他方で、

科学者にしてみると、意識をめぐる哲学的議論のうちには思弁的で検証不可能な空論にしか聞こ

えないものもあるかもしれない。結局のところ、意識についてどのような問いが問われており、

それらの関係はどういうものなのか。自然科学の枠組みのもとで取り組まれてきたのは(取り組

まれうるのは)いかなる問いであり、それ以外にはどのような問いがあるのか。これらの点を明

らかにすることなしには、さまざまな関心や前提のもとで行われている意識研究を体系的に整理

することは難しいだろう。

本発表の目的は、意識についての問いを体系的に分類し、意識をめぐるさまざまな議論や理論

をその内部に位置づけることである。ここで構成される「体系的な問いのリスト」は、意識をめ

ぐるさまざまな議論や理論を系統的に整理するのに役立つので、意識研究に従事する(しようと

する)研究者にとっての有益な参照先になると期待できる。

私が提案する意識についての問いの見取り図は次のようなものである。まず、現象的意識とい

う概念についての問いがある。すなわち、現象的意識という概念は「私に現れている何か」とい

う仕方で特徴づけられるものが他者に帰属可能だとみなすことによって成立するものだが、その

ような概念を認めてよいのかという問いである。この概念を受け入れずとも、操作的に意識を定

義することは可能であり、そのように定義された意識概念に依拠して科学的な意識研究を行うこ

とも可能である。

そして、もし私たちが―多くの意識研究者がそうしているように―現象的意識という概念を受

け入れるのであれば、下記の五つの問いが成立すると考えられる。なお、それぞれの問いの下位

に位置づけられる問いのうち重要なものは明記し、それぞれの問いに関連する論者や立場のうち

主要なものも提示する。

1 意識の現象学:意識はどのような特徴をもっているのか?

1.1 意識はどのような構造をもつのか?

1.2 意識はいくつの次元をもつのか?(Kriegel, The Varieties of Consciousness, 2015)

2 意識の存在論:意識はどのように存在しているのか?

2.1 意識は世界とどのような関係にあるのか?(物的一元論、二元論、観念論)

2.1.1 意識は脳とどのような関係にあるのか?(同一説、因果説、根拠づけ説など)

Page 55: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-20

53

L-20

2.2 誰(何)が意識をもつのか?(汎心論など)

3 意識の認識論:意識について私たちはどのように知るのか?

3.1 自身の意識について私たちはどのように知るのか?(Smithies and Stoljar, Introspection

and Consciousness, 2012)

3.2 他者の意識について私たちはどのように知るのか?(マイクロ現象学的面接法(Micro-

Phenomenological Interview)、記述的経験サンプリング法(Descriptive Experience Sampling

Method))

4 意識の形成論:意識のあり方は何によって決まっているのか?

4.1 意識の可能なあり方の範囲は何によって定まっているのか?(Northoff, Unlocking the

Brain, 2013)

4.2 ある時点における意識のあり方は何によって決まっているのか?(統合情報理論、グロ

ーバルワークスペース説、高階説)

5 意識の価値論:意識をもつことにどのような価値があるのか?

5.1 意識をもつことにどのような機能的価値があるのか?

5.1.1 意識をもつことによって可能になる認知活動とはどのようなものか?

(Graziano, Consciousness and the Social Brain, 2013)

5.1.2 私たちが世界や自身の身体について知るとき意識はどのような役割を果たして

いるのか?(Johnston, “Better than Mere Knowledge? The Function of Sensory Awareness”, 2006)

5.2 意識をもつことにどのような道徳的価値があるのか?(Shepherd and Levy,

“Consciousness and Morality” forthcoming)

これらの問いはそれぞれ独立しているとは限らない。ある問いに対して特定の立場をとること

で、他のいくつかの問いに対する制約が生じるかもしれない。本発表では、そうした問いどうし

の関係や、異なる問いへの答えとして提示された理論や立場どうしの関係についても論じたい。

また発表内では、ここで提案する問いのリストを既存の意識についての問いのリストと比較

し、前者の利点を示すという作業も行う予定である。たとえば、Stanford Encyclopedia of

Philosophy における「意識」の項で提示された枠組みでは、意識の認識論と形成論が十分に扱わ

れていないと指摘する。

ところで、本発表で提案する問いのリストはあくまで暫定的なものである。議論を通じてこの

リストをより洗練させることも、本発表を行う理由の一つである。

Page 56: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-21

54

L-21

L-21

A14 教室(1 階)

4/8(日)10:00-10:50

森岡正博(司会:伊勢俊彦)

人称的世界はどのような構造をしているのか

ジャンケレヴィッチは「死」を、「一人称の死(私の死)」、「二人称の死(近親者の死)」、「三

人称の死(他人の死)」の三つに分類した。そしてこれら三つは存在論的に別種のものであると

主張した(『死』)。この考え方は非常にインパクトの強いものであり、日本の脳死論議にも影響

を及ぼした。たとえば柳田邦男は肉親の脳死において人が出会うものを「二人称の死」として取

り出し、三人称的な視線でもって制圧的に語られる脳死問題に警鐘を鳴らした(『犠牲』)。

この論に乗って考えれば、「死」というものに、互いに相容れることのない三つの人称の次元

があるということになる。しかしながら、実は、本質的問題はそこにあるのではないと発表者は

最近考えるようになった。本質的問題は、「私」や「あなた」や「あの人」が三つの人称の次元

を貫いて存在しているところにあり、そのような存在が「死ぬ」ときに、それらの三つの次元が

一気に露呈するのではないかと発表者は思っている。

本発表では、人称的世界において三つの人称がどのような構造をもって組み立てられているの

かについて、ひとつの仮説を提示し、参加者の方々とディスカッションを行なっていきたい。

発表者は、人称的世界における三つの人称が「指示対象」と「界」によって構成されると考え

る。「指示対象」とは、人称的な存在者がどのような仕方で指示されるかにかかわるものであ

る。すなわち、再帰的指示によって「一人称的対象(私)」が指示され、直示的指示によって

「二人称的対象(あなた)」が指示され、遠隔的指示によって「三人称的対象(あの人)」が指示

される。そしてこれとは独立に、「主体」としての次元によって成立する「一人称界」、「ペルソ

ナ」としての次元によって成立する「二人称界」、「等根源的存在」としての次元によって成立す

る「三人称界」が設定される。これによって9個の領域を持つマトリックスができあがる。本発

表の独自性のひとつは、人称的世界を「指示対象」と「界」による9領域のマトリックスとして

考察する点にある。

まず、再帰的指示によって指示される一人称的対象である「私」は、主体としての一人称界、

ペルソナとしての二人称界、等根源的存在としての三人称界を一気に貫きながら生きる。それが

人称的世界における「私」の「生きるリアリティ」である。そして「私」の場合は、「主体とし

ての一人称界」が基盤であり、他の二つ(ペルソナとしての二人称界、等根源的存在としての三

人称界)は派生物となる。このうち、「私」が一人称界に組み込まれたときにそれは「独在的存

在者」となる。「私」が二人称界に組み込まれたときそれは「ペルソナとしての私」となる。こ

れはちょうど柳田が脳死の息子を前にして「そこに誰かがいる」と実感した、そのような実感を

もって「私」の身体がまわりの者たちによって受け止められることを意味している。「私」はそ

Page 57: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-21

55

L-21

のような実感を自分では持つことができないので、これは派生物である。「私」が三人称界に組

み込まれたときそれは「等根源的存在としての私」となる。これは「私」が他の者たちと同等な

存在論的資格をもった者として基礎づけられたときの「私」を意味している。「私」は、他の者

と、存在論的には全く平等で差別のない、単なる多数のうちのひとりの者となるのである。ただ

し、「私」が地上で最後の人類になったときにこのケースは成立しないから、これもまた派生物

だと考えられる。派生物は虚構性を色濃く含むと言える。

同様にして、直示的指示によって指示される二人称的対象である「あなた」と、遠隔的指示に

よって指示される「あの人」についても類似のことが成立する。詳細は本発表の際に述べる。

以上の考察によって人称的世界の構造はきわめて複雑に入り組んだものであることが示され

る。さらには、これらの側面によって構成される「人間」という概念が、きわめて脆い基盤によ

って成立していることが示唆される。また、ロボットや人形や人工知能に心はあるのかといった

問題を考える際にもこの議論は役立つであろう。関連する先行研究としては、一人称については

indexicals と solipsism の研究があり、二人称についてはブーバーの「我-汝」問題、レヴィナス

の「他者性」問題の研究があり、三人称についてはフッサール的問題設定における「等根源的人

間・存在者の存在論的基礎づけ」問題の研究があるので、それらについても関連性を確認してお

きたいと考えている。

Page 58: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-22

56

L-22

L-22

A26 教室(2 階)

4/8(日)10:00-10:50

太田紘史(司会:神崎宣次)

実験哲学への誤解反論に潜む誤解:フランクファート型事例の場合

私は以前、ある研究発表を聞く機会があった。それは、実験哲学に対する批判的なコメントか

ら始まるものであった。それ自体は驚くようなものではない。私が驚いたのは、その発表者がそ

のコメントの数分後に、その発表者自身に起きた身近な事例を一つとりあげ、それについての発

表者自身の直観的判断に訴えながら議論を展開したときであった。

哲学者(とりわけ分析哲学者)はしばしば個別事例についての直観的判断に訴えながら議論を

展開する。とくにそうした事例は、仮想的なものであれば、思考実験とも呼ばれる。その代表

は、認識論におけるゲティア事例、言語哲学におけるゲーデル事例、倫理学におけるトローリー

問題といったものだろう。こうした事例や思考実験にまつわる直観的判断を「ケース直観」と呼

ぼう。実験哲学が意義を持つとされる一つの仕方は、ケース直観のバリエーションが人々の間に

存在することを経験的に示すことで、特定のケース直観に依拠した哲学的議論に疑いをかけると

いうものである(ネガティブ・プログラム)。他方で、哲学者が採用するケース直観を、むしろ

人々に広く共有されたケース直観で置き換えることで哲学的議論を改善することができるという

考えも存在する(ポジティブ・プログラム)。

しかし最近、こうした実験哲学の意義の取り出し方に対するある種の反論が充実した仕方で展

開されている。私は今回それを「誤解反論」と呼ぼう。それによれば、哲学はケース直観に訴え

るような方法論を実は採用していない。それゆえ人々のケース直観についての調査結果から哲学

的含意を取り出そうとするのは、一階の哲学実践についての誤ったメタ哲学的見解に基づいた試

みでしかないというわけである(Cappelen 2012; Deutsch 2015; c.f. Williamson 2007)。

誤解反論の面白いところは、いくつかある。第一にそれは、他のタイプの反論よりもかなりう

まいものに見える。哲学者のケース直観は特別に信頼可能であるという反論(エキスパート・デ

ィフェンス)や、実験哲学はケース直観をうまく調査できていないといった反論は、結局はさら

なる実験哲学的研究によって棄却されうる(そして実際にしばしば棄却されている)。誤解反論

にはこうした困難は伴わない。第二に、誤解反論の射程はかなり広い。それはもっぱらネガティ

ブ・プログラムへの抵抗として登場したが、ポジティブ・プログラムにも適用できるだろう。第

三に、実験哲学の意義とは独立のメタ哲学的な面白さが誤解反論にはある。哲学者は、哲学にお

いてケース直観は重要な認識的役割を担うというメタ哲学的見解をときに表明するが、誤解反論

はそうした見解を否定するのである。

私は今回、自由意志論に関する範囲で誤解反論の妥当性について検討したい。この制限の理由

はいくつかある。第一に、ケース直観の認識的役割は多様であって、かならずしも哲学諸分野を

Page 59: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-22

57

L-22

通じて均質なものではないかもしれない。過剰な一般化を控えるためには、分野や問題領域を制

約して検討すべきだろう。第二に、自由意志論は、フランクファート型事例という強力な思考実

験が影響力を持つ分野であるので、ケース直観の認識的役割を検討するための材料として好都合

である。第三に、自由意志の実験哲学の成果はかなり蓄積されているので、自由意志論はその意

義を検討する材料として好都合である。もちろんこれらの特徴を満たす領域は他にも多数あるだ

ろう。今回の検討はケース・スタディーにすぎない。

私は今回、次のように提案する。やはりフランクファート型事例に関連する範囲でケース直観

は重要な認識的役割を担っており、その点で誤解反論は誤っている。だがそれでも、誤解反論に

は重要な洞察が残されており、それは実験哲学の意義を失わせるうえで一見十分である。そこで

私はまた別の観点から実験哲学の意義を示してみたい。自由意志の実験哲学は、単にケース直観

を調べているわけではなく、むしろケース直観を生みだす心理メカニズムを解明するとともに、

それを通じて道徳的責任にまつわる人間のコミットメントを解明しようとしている。その成果

は、自由意志や道徳的責任にまつわる哲学的問題について明快な含意を持つはずである。さら

に、このような含意があることは、むしろフランクファートやそれに連なる哲学者達が論じてき

たことを精査することで、説得力を持ったものになるだろう。

実験哲学の代表的研究としては、ケース直観のバリエーションを強調するものや、哲学者と非

哲学者のケース直観の違いに焦点を合わせるものがイメージされやすいのかもしれない。だが少

なくとも自由意志の実験哲学では、そうした研究はほとんど存在しない。それゆえ、このような

イメージに基づいて実験哲学の意義を切り下げようとすることが誤解反論の趣旨なのだったとし

ら、それは実験哲学についての誤解に基づいているというのが、私の結論である。

Page 60: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-23

58

L-23

L-23

A27 教室(2 階)

4/8(日)10:00-10:50

鈴木真奈(司会:成瀬尚志)

ゲーミングツール nocobon のクリティカル・シンキング授業への応用例

ゲーミングツール nocobon は、東京大学総合文化研究科・教養学部附属教協教育高度化機構

によって開発された、自然科学技術と社会、ならびに科学的・統計的な知識に関する問題をテー

マとしたコミュニケーション型推理ゲームである。提題者は京都大学の文学部の授業『基礎現代

文化学系ゼミナールⅡ』において実施する目的で、開発者より「nocobon データリテラシー入

門」の貸与を受けた。開発者は nocobon が必ずしもクリティカル・シンキング(以下 CT)の教

材となりうることを意識してはいなかったが、提題者は「暗黙裡の前提」の事例として適切であ

ると見なして、CT 授業の教材とした。

暗黙裡の前提とは、自然言語の推論において、言語表現として明示されていないが、その推論

を構成するのに必要な前提のことである。nocobon はこの暗黙裡の前提によって推理ゲームとし

て成立していると考えられる。たとえば、公表されている教材の一例として「不健康志願者?」

がある。設問と答えを要約すると「なぜ PM2.5 を好き好んで吸う人間がいるのか?」「なぜな

ら、PM2.5 とは粒径 2.5 マイクロメートル以下の微小粒子状物質であり、ここでは木が放出する

揮発性化学物質フィトンチッド(森林の香り)を意味するからだ」というものだ。「PM2.5 と

は、吸引することで人体に有害な影響を与える微小粒子状物質である」という前提を置くと、答

えには辿り着けない。この前提は誤りであるものの、マスメディアにおいて黄砂飛来などの情報

と共に PM2.5 という単語を聞く機会が多いことを踏まえれば、暗黙裡の前提として採用されや

すいと考えられる。

nocobon の本来の目的は、我々が科学的な知識を定義通りに理解していないことに対する「気

づき」を与えることにあるが、提題者はそこから「nocobon が推理ゲームとして成立しうるのは

何故か」という問題と、「暗黙裡の前提」を結びつけて学生に考察を促した。提題者は、

nocobon を開発者が設定したルール通りに実施した後に(A)設問がいかなる前提を想定した上で

推理ゲームとして成り立っているのか(B)設問にどのような前提を付け足せば正答に至れるか、

という「暗黙裡の前提」探しの教材として、授業およびレポートの課題とした。

「nocobon データリテラシー入門」の中で、学生らが最も関心を示したのは「捕食者 X」であ

った(設問内容については紙上での公表許可を得ていないので、予稿の段階では触れない)。

nocobon 実施後に、複数回答を許した上で、印象に残った問題を問うたところ、23 名中 16 名が

この問題が印象に残ったと答えた。授業実施校の学生らにとって、nocobon の正解に行き着くこ

とは比較的容易であったようだが、「捕食者 X」については正答に至れなかったグループも出

た。

Page 61: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-23

59

L-23

「捕食者 X」の(A)の意味での暗黙裡の前提は、設問中に出てくる単語の外延を見落とすもの

である。たとえば、「傘」という単語を見て「ここでいう傘とは雨傘である」と仮定してしまい

「日傘」を見落とす、ということが「捕食者 X」では複数回起こりうる。それによって、本来無

関係である事象に相関関係を見出してしまい、本来の相関関係が見落とされてしまう。「捕食者

X」で見落とされる外延は、日常言語の使用においては見落とされても支障がないものであるこ

とが、「捕食者 X」の解答を困難にした。

nocobon には五段階評価で難易度が設定されており、「捕食者 X」はもっとも易しい難易度一

である。難易度三の問題は統計・確率の知識がなければ問題の理解自体が難しいものであり、そ

れらと比較すると「捕食者 X」は設問内容を理解することは確かに容易であるが、相当数の学生

に「難しい問題だった」という強い印象を与えた。

統計的な推論において誤謬が起きやすいことはよく知られており、「捕食者 X」も見かけ上の

相関(spurious correlation)の問題であると言える。実施した授業は輪講形式であったため、統計

学的な相関関係の説明を十全に行えたとは言いがたいが、レポートにおいて「捕食者 X」に見か

け上の相関があることは指摘された。その問題の原因が、先に述べた外延の取り違えである。こ

の誤解は、統計学的な知識の有る無しに関わらず起こりうるため、見かけ上の相関について知識

があっても「捕食者 X」の解答に行きづまる可能性が考えられる。「捕食者 X」は日常言語の知

識で了解可能な事例であることから、かえって統計的な推論の誤謬に陥っても気づきづらい構造

になっている。このような問題は、CT と科学リテラシーの関係を考える上でも、常に意識せね

ばならないだろう。個別の知識(たとえば統計学)をどれだけ持っているかはペーパーテストな

どで定量的に表される機会があるが、我々が言語を使用する際に何を外延として認識しているか

を問い直す機会はあまり存在しない。にもかかわらず、暗黙裡の前提という形で、推論の正誤を

左右するほどの強い影響を持つのである。

ゲーミングツール nocobonWeb サイト

http://science-interpreter.c.u-tokyo.ac.jp/nocobon/

「不健康志願者?」掲載の nocobon リーフレット

http://science-interpreter.c.u-tokyo.ac.jp/nocobon/wp-

content/uploads/2016/03/nocobon_ao.pdf

Page 62: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-24

60

L-24

L-24

A28 教室(2 階)

4/8(日)10:00-10:50

岡本慎平(司会:直江清隆)

構成主義者にとって「行為者モドキ(shmagency)」問題はどれほど致命的か?

ある自動車が良い自動車なのかどうかを判断するためには、そもそも自動車とはどのような機

能を持っており、どのような基準で評価すべきものなのか知らなければならない。あるゲームの

プレイを評価するためには、そのゲームの規則や目標を知らなければならない。それと同じよう

に、「行為の正しさ」を判断するためには、そもそも「行為とは何か」を適切に理解する必要が

ある――このように行為や行為者の概念と規範性を結びつけるメタ倫理学上の立場に「構成主義

(Constructivism)」がある。構成主義によれば、どのような者であれ、抽象的な「行為者として

の規範」に従わない者はいない。そして我々が持つ「行為の正しさ」についての基準は――それ

が「行為」である以上――「行為者としての規範」から引き出されなければならない。ジョン・

ロールズに始まる構成主義は、現在でも多くの支持を得ている有力な見解である。この立場の利

点の一つは、「なぜ道徳的でなければならないのか?」という懐疑論者の問いに対して「質問を

している時点であなたは行為者であるため、既に行為者としての規範にコミットしている」と応

答できる点にある。また、行為者性に由来する理由はあらゆる人に当てはまるため、主観的動機

群を理由の必要条件とする理由の内在主義に、ある種の客観性を確保できる。

とはいえ構成主義には様々な批判が寄せられている。なかでもデイヴィッド・イーノックがお

こなった「行為者モドキ問題 (Shmagency Objection)」は非常に強力である。論証を単純化すれ

ば次のようになる。行為を構成するものに規範性を基づかせる構成主義の試みがどれだけもっと

もらしく見えても、行為を構成するものからは、そもそも「行為者であるべき理由」は出てこな

い。ここに、行為の構成的目標を追求しようとする動機を欠いているが、それ以外の点では行為

者と相違なく振る舞う人物――行為者モドキ(Shmagent)がいたとしよう。この人物が、「行為者

であるなら云々のことをせよ」という規範に抗弁して、「行為者であればその規範に従わなけれ

ばならない、ということは認めましょう。しかし、私は行為者でありたいと全く思っておらず、

行為者モドキでかまいません。そのため、私は行為者としての規範に従わなくてもまったく不都

合がありません。」と主張すると想定しよう。この時、構成主義者は行為者モドキに対して、何

一つ規範的拘束力を備えた主張をできなくなる。なぜなら、構成主義者の想定する規範性の効果

範囲は、どれだけ広くても、「行為者でありたいと望む者」に限定されてしまうからである。も

しそうであれば、道徳や実践理性への懐疑論者に対する応答は不発となり、内在主義的に理解さ

れた理由は「単なるありふれた欲求」と変わらず不安定となる。こうして行為を構成するものか

ら規範性を引き出そうとする構成主義者のプロジェクトは完全に破綻する――これがイーノック

の主張である。

Page 63: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-24

61

L-24

この問題に対する構成主義者からのオーソドックスな反論は、「我々は行為者であることから

逃れることができないため、行為者モドキの主張はナンセンスだ」という「行為者性の不可避性

(the inescapability of agency)」に基づく反論である。イーノックもこうした反論に対して再反論

を行っているが、両者の議論が十分に噛み合っているとは言い難い。というのも、ヴェルマンら

構成主義者が目指す目標と、イーノックが「強固な規範的実在論」という立場で目指している目

標との間には、若干の――しかし重大な――食い違いが存在しているように思われるからであ

る。

発表は次のように進める。第一に、イーノックが提示した「行為者モドキ」問題を再構成し、

その射程と効力を確認する。第二に、構成主義を擁護するヴェルマンやフェレッロからの反論

と、それに対するイーノックの再反論を検討して、両者の目標がすれ違いを起こしていることを

確認する。第三に、イーノックが想定する「規範的問いには規範的真理でしか答えられない」と

いう議論は論点先取であり、彼の課題を構成主義者に押し付けることはフェアとは言えないこと

を論じる。最後に、たとえイーノックの提示した問題に構成主義者が応えられなくても、それは

構成主義の躓きの石とはならないことを示す。構成主義者は、ある程度の後退戦略を認めさえす

れば、「行為者モドキ」問題に付き合う必要はない。

もちろん、だからといって構成主義の主張そのものが正しい保証にはならないし、イーノック

の強固な実在論が間違っていると結論するわけでもない。本発表の論点は「目標地点次第では、

構成主義者は「行為者モドキ」問題に応答しなくてもよい」ということだけである。

Page 64: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-25

62

L-25

L-25

A13 教室(1 階)

4/8(日)10:55-11:45

鈴木 聡(司会:大西琢朗)

Scale Types in Measurement-Theoretic Semantics

Delineation semantics and degree semantics are two most prevailing semantics for such positive

and comparative constructions of gradable adjectives as:

(1) Mary is taller than Harry is.

(2) Mary is exactly twice as tall as Harry is.

(3) Atlanta is hotter than Boston.

(4) (It is 30 Celsius in Atlanta, 10 Celsius in Boston, 35 Celsius in Rio de Janeiro, and 25 Celsius

in Rome.) So, Atlanta is hotter than Boston by twice as much as Rio is hotter than Rome.

(5) Mary is taller than Harry by more than Mary is more intelligent than Harry.

Measurement-theoretic semantics is a general framework into which both delineation semantics

and degree semantics can be incorporated. Lassiter (2017) is one of the most influential literatures

in measurement-theoretic semantics.

We can classify scale types in terms of the class of admissible transformations φ as follows: (I)

absolute scale, (II) ratio scale, (III) interval scale, (IV) ordinal scale, (V) nominal scale, (VI) log-

interval scale, (VII) log-proportional scale, and (VIII) difference scale. We explain the scale types

relevant to the content of this talk: ratio scale, interval scale, ordinal scale, log-interval scale, and

log-proportional scale. A scale is a triple <U,V,f> where U is an observed relational structure that

is qualitative, V is a numerical relational structure that is quantitative, and f is a homomorphism

from U into V. A is the domain of U and B is the domain of V. When the admissible

transformations are all the functions φ: f (A)→B, where f(A) is the range of f, of the form

φ(x):=αx; α>0, φ is called a similarity transformation, and a scale with the similarity

transformations as its class of admissible transformations is called a ratio scale. Length is an

example of a ratio scale. When the admissible transformations are all the functions φ: f (A)→B of

the form φ(x):=αx+β; α>0, φ is called a positive affine transformation, and a corresponding

scale is called an interval scale. Temperature on the Fahrenheit scale and temperature on the

Celsius scale are examples of interval scales. When a scale is unique up to order, the admissible

transformations are monotone increasing functions φ(x) satisfying the condition that x≳y iff

φ(x)≧φ(y). Such scales are called ordinal scales. The Mohs scale of hardness is an example of an

ordinal scale. A scale is called a log-interval scale if the admissible transformations are functions of

Page 65: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-25

63

L-25

the form αx^β; α,β>0. A scale is called a log-proportional scale if the admissible

transformations are functions of the form x^β; β> 0.

Roberts and Luce (1968) prove the following theorem: Suppose A is a set, R is a binary on A and

○ is a binary operation on A. Then there is a real-valued function f satisfying aRb iff f(a)>f(b)

and f(a○b)=f(a)+f(b) iff U:=<A,R,○> is an extensive structure, that is, a structure satisfying

Weak Associativity, Strict Weak Order, Monotonicity, and Archimedeanity. <U,V,f> is a ratio

scale, where V:=<Re,>,+> (cf. Roberts (1979)). Krantz et al. (1971) prove the following theorem:

If U:=<A,D> is an algebraic difference structure, that is, a structure satisfying Strict Weak Order,

Sign Reversal, Weak Monotonicity, Solvability, and Archimedeanity, then there is a real-valued

function f on A so that for all a,b,s,t∈A, abDst iff f(a)-f(b)>f(s)-f(t). <U,V,f> is an interval scale,

where xyΔuv iff x-y>u-v and V:=<Re,Δ> (cf. Roberts (1979)).

Lassiter (2017, p.42) defines a ratio scale as follows: U:=<A,R,○> is a ratio scale iff U is an

extensive structure. He (2017, p.46) also defines an interval scale as follows: U:=<A,D> is an

interval scale iff U is an algebraic difference structure.

The FIRST aim of this talk is to demonstrate that both Lassiter's definition of a ratio scale and that

of an interval scale are not only inappropriate but also have their respective counterexamples. A

observed relational structure U cannot be a scale because only <U,V,f> (or f ) can be a scale. His

inappropriate conception of a scale leads to the inappropriate definition of a ratio scale that has

the following counterexample; Suppose that U:=<A,R,○> is an extensive structure. Then there is

a real-valued function f so that for all a,b∈A, aRb iff f(a)>f(b) and f(a○b)=f(a)・f(b), where ・

means multiplication. <U,V,f> is a log-proportional scale. His inappropriate conception of a scale

also leads to the inappropriate definition of an interval scale that has the following

counterexample: Suppose that U:=<A,D> is an algebraic difference structure. Then there is a

function g: A→Re^+ so that for all a,b,c,d∈A, abDcd iff g(a)/g(b)>g(c)/g(d). <U,V,g> is a log-

interval scale.

Lassiter (2017) thinks that one adjective can relate to only one scale type. So he (2017, p.34) gives

both the truth condition of (1) and that of (2) in terms of ratio scales, whereas he would give both

the truth condition of (3) and (4) in terms of interval scales. The SECOND aim of this talk is to

criticize Lassiter's presupposition that one adjective can relate to only one scale type and to

propose a new idea that one adjective can relate to many scale types according to such types of

measurement as ordinal measurement, extensive measurement, algebraic difference measurement

and cross-modality matching measurement: Because (1) is considered to have ordinal

measurement, a ratio scale is not necessary to justify the truth condition of (1), but an ordinal

Page 66: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-25

64

L-25

scale is sufficient to do so. Because (2) is considered to have extensive measurement, a ratio scale

is sufficient to justify the truth condition of (2). Because (3) is considered to have ordinal

measurement, an interval scale is not necessary to justify the truth condition of (3), but an ordinal

scale is sufficient to do so. Because (4) is considered to have algebraic difference measurement, an

interval scale is sufficient to justify the truth condition of (4). Because (5) is considered to have

cross-modality matching measurement, a log-interval scale is sufficient to justify the truth

condition of (5).

● References

Krantz, D.H. et al. (1971). Foundations of Measurement Vol.1. New York: Academic Press.

Lassiter, D. (2017). Graded Modality. Oxford: OUP.

Roberts, F.S. (1979). Measurement Theory. Reading: Addison-Wesley.

Roberts, F.S. and Luce, R.D. (1968). Axiomatic Thermodynamics and Extensive Measurement.

Synthese 18. pp. 311-326.

Page 67: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-26

65

L-26

L-26

A14 教室(1 階)

4/8(日)10:55-11:45

山森真衣子(司会:鈴木真奈)

哲学的自己言及のパラドクスは解決可能か?

自己言及のパラドクスは、嘘つきのパラドクスやカリーのパラドクスなどの「論理的」とみな

されるパラドクスと、床屋のパラドクスなどの「論理的ではない」とみなされるパラドクスに二

分されうる(正確な区別の仕方は発表で説明する)。後者には簡単な解決方法が存在するという

こともあって、これまで論理的探求の対象となってこなかった。しかし、「論理的ではない」自

己言及のパラドクスの中には、その「簡単な解決方法」を採用するのが哲学的に躊躇われるよう

なパラドクスも存在する(理由は発表で説明する)。そのようなパラドクスを本発表では〈哲学

的自己言及のパラドクス〉と呼ぶ。発表者は、そのような〈哲学的自己言及のパラドクス〉の論

理学的な探求を行い、それがどのような原因から生じるか、解決可能かどうかを明らかにするこ

とを目的としている。この目的のために、本発表では、さしあたって、〈哲学的自己言及のパラ

ドクス〉の一つである「語り得ぬもののパラドクス」–––〈語り得ぬもの〉への言及から生じる

パラドクスであり、古今東西を問わず哲学や宗教において立ち現われてきたパラドクス–––につ

いて、上述の「容易な解決方法」以外の良い解決方法がないかを論理学的な観点から考察する。

第 1 節では、論理学的な観点からの考察のためにまず、「語り得ぬもの」という概念を形式的に

表す。そして、「x は語り得ぬものである」と述べると、「x は語り得ぬものである、かつ、語り

得ぬものではない」という形の矛盾が生じることを証明する。

その後の第 2 節、第 3 節では、これまでに提案されてきた解決策をいくつか紹介しつつ、それ

らの解決策がパラドクスの根本的解消につながらないことを示す(以前の発表でも述べたため概

要のみ示すに留めるが)。具体的には、第 2 節では、多くの人が思い浮かぶであろう素朴な解決

方法、「言語の階層化」について論じる。この解決方法は、一言で言えば、嘘つきのパラドクス

に対して Tarski が提示した解決方法である。この手法を取れば、「x は語り得ぬものである、か

つ、語り得ぬものではない」という形の矛盾を回避することはできる。しかし語り得ぬもののパ

ラドクスに底流していた他の矛盾が回避されないことを示す。第 3 節では、「自己言及のパラド

クスは同じ構造を持っており、同じ解決方法が適用可能である」と主張した G. Priest と M.

Pleitz の先行研究で示された、その「共通の解決方法」について考察する。そして、その解決方

法が、語り得ぬもののパラドクスではうまく働かず、別の問題(「自明化」)を引き起こしてしま

うことを明らかにする。

第 4 節では、それではこの自明化を起こさないためには、どの推論規則を制限すればよいか、

そして「その推論規則を制限する」とはどういうことなのかを考察する。具体的に言うと、自明

化を起こさないようにするためには、「全称例化の制限」「T-Schema の制限」「De Morgan 則の

Page 68: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-26

66

L-26

制限」「論理積の消去の制限」の少なくとも一つを行えばよい。そこで、それぞれの推論規則を

制限したときにどのような問題が生じるかを明らかにする。

Page 69: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-27

67

L-27

L-27

A26 教室(2 階)

4/8(日)10:55-11:45

稲岡大志(司会:神崎宣次)

哲学者は「ポピュラー哲学」から何を学び、何を期待することができるか?

哲学の入門書には、その分野の専門家が執筆し、大学での教科書や参考書として使用されるこ

とを意図されて出版されたものもあれば、主に哲学の専門教育を受けていない(博士号を習得し

ていない)著者による、より広範な読者に読まれることを念頭に置いて出版されたものもある。

前者の入門書には、専門家による最新の研究成果が反映されている場合も少なくない。後者の入

門書は、前者のような専門性の反映は乏しいとしても、わかりやすさや書籍としての見やすさの

点で特徴がある。本発表では、後者のタイプの入門書において展開される哲学を、専門家と一般

人との架け橋的役割を果たす通俗科学が「ポピュラーサイエンス」と呼ばれることを踏まえた上

で、「ポピュラー哲学」と呼ぶことにする。本発表の目的は二つある。一つは、ポピュラー哲学

の入門書の歴史を概観し、その特徴を整理することであり、もう一つは、アカデミックな哲学と

ポピュラー哲学の望ましい関係について提言を行うこと、である。

一つ目の論点に関しては、ポピュラー哲学入門書の歴史においてメルクマールとなる著作をい

くつか挙げることができる。ポピュラー哲学の前史としては、哲学の専門教育を受けていない批

評家や思想家が中心となって起こった 1980 年代のいわゆるニュー・アカデミズムブームにおい

て、過度に難解な著作が広く読まれていたことが挙げられる。その後、1995 年にヨースタイ

ン・ゴルデル『ソフィーの世界』が刊行され、ポピュラー哲学の需要に著しい変化が訪れる。こ

の書は帯に「あなたはだれ?」と大きく書かれていることからもわかるように、アイデンティテ

ィをめぐる関心から読まれ、ベストセラーとなった。こうした現象には同年に起きた阪神大震災

やオウム真理教事件といった社会の基盤を揺るがす出来事もまた関連しているように思われる。

これ以降、哲学や精神医学や社会学といった分野で「自分探し」に関する書籍が多く出版される

ようになる。ついで、2010 年に刊行された白取春彦『超訳 ニーチェの言葉』は、ニーチェの

著作からの抜粋という構成自体に目新しさはないものの、1 ページに一つの引用、読みやすく大

きな文字、自己啓発書やビジネス書を思わせる装丁、といった点で、新しい読者層を開拓したと

言ってよいだろう。すなわち、この書は、自分探しとしての哲学という路線を緩やかに受け継ぎ

つつも、より実践的な、自己啓発的な要素も合わせ持つ本として、ビジネス書の読書層にも広く

読まれたのである。これ以降、エピゴーネンとも言ってよい著書が数多く出版されるようにな

る。こうしたビジネス書的需要に訴える傾向に「教養」という新しい要素が入り始めるのが

2015 年に刊行された田中正人『哲学用語図鑑』である。本書は古代ギリシアから現代に至る哲

学者に関する入門書であるが、イラストが多く使われており、初学者でも読めるような工夫が取

り入れられている。また、表紙に「ビジネスにも交渉にも役立つ、教養としての哲学思考」とあ

Page 70: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-27

68

L-27

るように、単なる自己啓発としての側面に加えて、教養という意義があることが自覚的に主張さ

れている。教養としての哲学という特徴付けを持つ書の需要には、2000 年代以降の長期不況や

大学教育改革による教養教育の軽視といった現象が反映されているように思われる。以後、ビジ

ネス雑誌でも哲学の特集が組まれるようになる(たとえば、最近では『PRESIDENT』誌が

2016 年 12/5 号、2017 年 9/18 号で哲学の特集を組んでいる)。

二つ目の論点に関しては、こうしたポピュラー哲学入門書の人気を踏まえた上で、哲学という

学問に従事する者(つまり、本学会に集まるような哲学者)がポピュラー哲学入門に対してどの

ような関係を取ることが望ましいかを考えたい。まず、ポピュラー哲学入門書の著者や読者層と

専門的教育を受けた哲学者との間には断絶とも呼べる壁があった(あるいは、ある)ことを指摘

しなくてはならない。たしかに、大学の授業でこうしたポピュラー哲学入門書が教科書ないし参

考書として指定されることは少ないと言っていいだろう。しかし、ポピュラー哲学入門書が持つ

「敷居の低さ」はもっと強調されてよい。哲学という学問は研究対象も研究手法も多様で、画一

的に哲学という学問の特徴付けを提示することは不可能に近く、したがって、ポピュラー哲学を

哲学のあり方の一つとしてみなすことはできないと無下に否定されるべきものでもないはずであ

る。むしろ、ポピュラー哲学入門書の人気を好機と捉えた上で、アカデミックな哲学にとっても

ポピュラー哲学にとっても望ましいかたちを模索することが必要だろう。そこで本発表ではこの

点に関して具体的な提言を挙げた上で、フロアとの意見交換を行いたい。

Page 71: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-28

69

L-28

L-28

A27 教室(2 階)

4/8(日)10:55-11:45

高野保男(司会:成瀬尚志)

言語ゲームの外部、あるいは、教育と哲学の関係性について

本発表は、『哲学探究』においてウィトゲンシュタインが「言語と言語が織り込まれた行動の

全体」(Wittgenstein [1968],§7)と呼んだ言語ゲームの外部について論じる。その目的は、

我々と言語ゲームの外部との関わり合い方には「外部からの離脱」と「外部への逸脱」の二種類

があり、前者は教育として、後者は哲学(形而上学)として特徴づけることができるということ

を確認し、それを踏まえたうえで両者の関係性について再考することにある。

言語ゲームの外部への逸脱は、我々の世界認識における本来的な言語への依存性に注意を払わ

ず、言語を介さない直観的認識を用いた客観的世界の実在のあり方を追求することによって起こ

る。そのような実在の追求可能性を自明のものとする思索こそウィトゲンシュタインが哲学と呼

んだものに他ならない。周知のとおり、彼は哲学を「我々は世界そのものを外から眺めることが

できる」という不合理な想定による病とみなし、その治療として哲学批判を展開したのだった。

この文脈において、言語ゲームの外部とは否定されるべき幻想である。

対して、言語ゲームの外部からの離脱とは、我々がいまだ言語を操れない段階から、言語を学

ぶことで世界へと受け入れられていくプロセスのことを指す。一口に言えば、それはイニシエー

ションとしての教育である。人間にとって自らの認識が言語依存的であることは決して無視でき

ないが、他方、あらゆる人間が言語を獲得せずに生まれてくることも厳然たる事実である以上、

我々のスタートラインが言語ゲームの外部にあること、そこから言語ゲームへと参入する教育の

プロセスが不可欠であることもまた無視できない。むろん、この文脈において、言語ゲームの外

部は否定されるべき幻想などではない。

では、言語ゲームの外部への逸脱(哲学)と外部からの離脱(教育)との関係はどのようなも

のなのか。ウィトゲンシュタインの洞察に従えば、我々は教育を受け、そのあと(場合によって

は)哲学に出会うのであって、決してその逆ではない。このように考えることは、言語軽視の態

度を伴う哲学者の思索が他ならぬイニシエーションとしての教育(言語学習)を契機としている

可能性や、そもそも哲学者に固有の発想が言語軽視と本質的には結びついていない可能性を示唆

するもののように思われる。たとえば、哲学的懐疑は「疑いの言語ゲーム」の学習を前提として

いるのである。ところが、これらの可能性は、従来の解釈のように、ウィトゲンシュタインの洞

察を哲学批判の文脈でのみ理解し、言語学習のプロセスを正しく思い出しさえすれば哲学によっ

て歪んだ言語観も平常化されると考えるだけでは視野にさえ入らない。とはいえ、そのことが従

来の解釈の不備なのか、ウィトゲンシュタイン自身の視野の狭さの問題なのかについては議論の

余地が大いにある。

Page 72: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-28

70

L-28

そこで、本発表では、教育と哲学という言語ゲームの外部にまつわる二つの領域間で成立する

関係の可能性の幅をウィトゲンシュタインがどこまで考慮できていたのかを改めて検討する。そ

して、その作業をとおして、哲学が、イニシエーションとして教育された言語の自明性を(少な

くとも部分的には)否定する営みであるにもかかわらず、否、そうであるからこそ、教育抜きに

は成立しえないこと、故に、イニシエーションとしての教育プロセスを正しく記述することが必

ずしも哲学的思索の不合理性の暴露にはつながらないことを確認する。

引用文献

Wittgenstein, L. [1968], Philosophische Untersuchungen, Oxford: Blackwell

Page 73: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-29

71

L-29

L-29

A28 教室(2 階)

4/8(日)10:55-11:45

太田雅子(司会:直江清隆)

無知の責任と無知による行為の責任

悪い行為は非難され、道徳的責任を追及されるが、あることを「知らないがゆえに」行為した

場合は非難および責任を免れられることがある。Gideon Rosen は「責任の懐疑論的論証」なる

ものを提示し、無知による行為の責任追及が困難であることを示す。Rosen の提示している前

提は「X が A を行ったならば、その行為で X が責められるのはそれを行う際の X の無知が責め

られるものである場合のみである」、および「X が P を知らなかったことで責められるのは、そ

の無知が(当該行為に)先立つ有責な行為や怠慢さの結果である場合のみである」の 2 つからな

り、これら 2 つの原則に従うならば、無知による行為は、それがどのような害につながろうと

も、当該行為における無知の理由や原因を遡り、有責性や怠慢さが見いだされるまで道徳的責任

を問えないこととなる。そのような有責性の遡及は終着する保証がなく、その意味でこの論証は

「懐疑論的」と呼ばれる。Rosen が責任追及の終着点として想定しているのは「アクラシア」

である。アクラシアとは、するべきことがわかっていながらそれとは別のことを行ってしまうこ

とで、無知であるとはいえない状態である。

Rosen のこの論証は、行為の結果において責任の有無を判断する一般的傾向とは相容れず、

(彼自身が明言しているように)法的責任とは独立した形で道徳的責任を問う方針を示している

点で通常の道徳的責任の捉え方とはかけ離れているように見える。本発表ではこのような印象と

は対照的に、Rosen の懐疑論的論証が、私たちの道徳実践とさほど大きく乖離しているわけで

はないことを示す。「大きく乖離していない」という評価は、懐疑論的論証によって表される責

任追及の困難さも含めてのものである。とはいえ、Rosen の論法が行為者の無知とそれに伴う

出来事の連鎖に限定されているがゆえに有責性の所在をより曖昧にしている面があることを指摘

し、懐疑的論証の改善点を提示したい。無知による行為の責任追及には行為者の「属性」や状況

も重要な意味をもつ。例えば医師や弁護士など特定の知識をもつことが資格取得の要件とされて

いる職種の場合、それらのうち一つの知識の欠如が致命的であり、道徳的責任を免れ得ないだろ

う。さらに、懐疑論的論証の終着点がアクラシアであるとされている点にもより洗練された説明

が必要である。

本発表ではさらに、日常における「無知への非難」に対する Rosen の主張の応用可能性を探

りたい。近年、特定のことを知らないがゆえの発言が非難されることが頻繁に見られる。それら

の非難はおおかた、当該の知識にアクセスできる立場にありながらそれを行わないことが怠慢さ

と見なされることから生じる。この状況は Rosen の論証における二番目の前提にある「先立つ

有責な行為や怠慢さ」に当てはまるように思える。しかし、現代では「有責な行為や怠慢さ」が

Page 74: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

L-29

72

L-29

相当に狭く捉えられている。ネットで検索すればわかることを調べなかったことや、発言者が生

まれる前のことを思い違いしたのはそれほどまでに責められることであろうか?これらの非難の

性質について考察するには非難する側の立場や寛容度も考慮に入れるべきであるが今回はそれら

は扱わず、無知による発言および無知による行為の道徳的責任を問うことの意義に関して、発言

と行為との責任追及の違いを意識しつつ、ひとつの見解を提示する。

Page 75: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-1

73

P-1

P-1

A15 教室(1 階)

4/7(土)-4/8(日)。コアタイムは 4/8(日)11:50-12:50

Hiroyuki Matsumoto

Poster

Ontology log illustrates discrepancy among knowledge representations built in

different disciplines

Knowledge systems built in different disciplines should ultimately be unified. However, the

empirical outcome often fails to draw a coherent picture of a biological system. We argue that

category theory, a branch of abstract algebra or conceptual mathematics, could help us to

consolidate discrepancies between “local vs. global world-views”, and finally to unify diverged

reality built in various disciplines. For the argument, we use a model system for clarifying the

relationship between visual sensitivity and the regeneration of rhodopsin, a visual pigment

molecule that absorbs light and initiates visual sensation. We adapt Spivak’s olog (ontology log)

[7] to represent the reality established in different scientific disciplines with hope to draw a

coherent picture of visual adaptation at the molecular level.

A modern effort to study the relationship between visual sensitivity and rhodopsin regeneration

has been made in various disciplines as summarized below:

I. In 1935, Hecht, Haig & Wald [1] observed that the recovery of visual sensitivity in human

consists of fast (due to cone photoreceptor cells) and slow (due to rod photoreceptor cells)

components.

II. In 1955, Wald, Brown & Smith [2] reported that in vitro regeneration of chicken cone pigment

iodopsin was 527 times faster than that of rod pigment rhodopsin. These observations, although

studied in different systems, render a coherent image on the premise that re-association of the

chromophore with opsin caused recovery of visual sensitivity.

III. In Matsumoto and Yoshizawa’s model [3,4] of rhodopsin regeneration, a non-covalent 11-cis

retinal-opsin complex via the β-ionone ring-binding site accelerates the following Schiff base

formation. This model predicts that the non-covalent complex is favored either toward the

complex formation or toward the following Schiff base formation or both in iodopsin compared to

that in rhodopsin.

Page 76: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-1

74

P-1

IV. Imai et al. in 2005 [5] reported that in vitro regeneration was significantly accelerated by a

mutation that eliminates a negative charge at E-122 near the β-ionone ring binding site in

rhodopsin into a neutral side chain as observed in cone opsins, offering molecular interpretation

on the difference in regeneration rates between iodopsin and rhodopsin.

V. However, a recent report from Miyazono et al. [6] that carp cones exhibit more efficient 11-cis

retinal regeneration system than in rods demands us to re-evaluate the reason why dark adaptation

in cone vision (caused by the regeneration of cone pigment iodopsin) is faster than that in rod

vision (caused by the regeneration of rod pigment rhodopsin); the difference in regeneration rates

between the two pigments could be due to the difference in the components involved in the

regeneration process that function in vivo, but not due to the difference in intrinsic molecular

architecture between iodopsin and rhodopsin.

Although all scientific efforts summarized above aim to represent a single physiological

phenomenon called “visual dark adaptation”, it still remains unclear whether the difference in the

molecular structure between the two classes of visual pigments, iodopsin and rhodopsin, is really

responsible for its biphasic characteristic. In order to illustrate the ambiguity existing in different

disciplines, we; 1) adapt Spivak’s “olog (ontology log)” [7] to represent each experimental

conclusion acquired in different disciplines and compare the relationship between them, and 2)

suggest that representing experimental data using ologs and illustrating the relationship acquired

in various disciplines would help us to draw a converging picture, and such effort could lead us to

formulate questions necessary for a better understanding of reality coherent at all disciplinary

levels. We argue that the formula of knowledge representation presented here as an example can

universally applicable to other intellectual domains seeking for the unification of knowledge

system.

[1] Hecht S, Haig C, Wald G. 1935. The Dark Adaptation of Retinal Fields of Different Size and

Location. J. Gen. Physiol. 19, 321–337.

[2] Wald G, Brown PK, Smith PH. 1955. Iodopsin. J. Gen. Physiol. 38, 623–681.

[3] Matsumoto H, Yoshizawa T. 1975. Existence of β-ionone ring binding site in the rhodopsin

molecule. Nature 258, 523–526.

[4] Matsumoto H, Iwasa T, Yoshizawa T. 2015. The role of the non-covalent β-ionone-ring

binding site in rhodopsin: historical and physiological perspective.

Photochem. Photobiol. Sci. 14, 1932-1940.

[5] Imai H, Kuwayama S, Onishi A, Morizumi T, Chisaka O, Shichida Y. 2005. Molecular

properties of rod and cone visual pigments from purified chicken cone pigments to mouse

Page 77: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-1

75

P-1

rhodopsin in situ. Photochem. Photobiol. Sci. 4, 667–674.

[6] Miyazono S, Shimauchi-Matsukawa Y, Tachibanaki S, Kawamura S. 2008. Highly efficient

retinal metabolism in cones. Proc. Natl. Acad. Sci. 105, 16051-16056.

[7] Spivak, D., 2011. “Ologs: A categorical framework for knowledge representation”

(https://arxiv.org/abs/1102.1889v1)

Page 78: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-2

76

P-2

P-2

A15 教室(1 階)

4/7(土)-4/8(日)。コアタイムは 4/8(日)11:50-12:50

太田和彦

ポスター

日本型環境倫理は誰から何を期待されているのか―環境政策評価と自然観の分析

本報告の目的は、①「日本型環境倫理」という領域が論じられることでどのような議論(公論

形成)が可能となるのか、②どのような議論状況(公論形成の場)のもとで「日本型環境倫理」

という領域が成立しているか、という問いに沿った形で国内外の環境倫理学の議論を整理するこ

とである。

本報告の学術的背景として、「日本型環境倫理」(Japanese environmental philosophy / ethics)

に関する近年の国際的な関心の高まりと議論の活発化があげられる。「日本型環境倫理」とは、

様々な恵みや災厄をもたらす八百万の神に対する信仰、人間―人間関係だけでなく動植物との関

係も包括する倫理、主に 12 世紀以降の日本思想、そして日本人論をふまえた公害対策・予防の

ための価値体系とされる(Kagawa. 2012)。2017 年には「日本型環境倫理」に直接的・間接的に

関連する論文集が相次いで刊行された(Callicott et al. 2017; Yusa et al. 2017)。

これらの研究動向と国際学会での議論をふまえ、報告者は次のような見通しを立てている。今

日、「日本型環境倫理」という領域は、大きく 2 種類の議論状況および公論の構築に寄与してい

る。ひとつは、モンスーン地域における気候変動への対処、地域分業のあり方、公害輸出の問

題、海洋資源の保全などの環境政策の評価である。もうひとつは、情緒や儀礼などを通じて非明

示的な自然と直接に関わろうとする自然観や文化の分析である。環境政策の評価は、主に日本を

含む東・東南アジア圏で希求されている。この背景には、「日本型環境倫理」が水俣病から福島

第一原発事故に至るまでの戦後の公害運動や、自動車や工場の排気ガス規制、風力発電などの再

生可能エネルギーの実践に市民活動や地域自治体が着手した経緯を反映しているという期待があ

る。また、自然観や文化の分析は、主に北米や西欧で希求されている。この背景には、「日本型

環境倫理」が自文化の自然観を相対化し、より自然と調和した都市計画や環境政策を構想する参

照項となりうるだろうという期待がある。

だが、「日本型環境倫理」の研究において、上記のような観点からの分類の試みはほとんどな

されていない。「日本型環境倫理」において何に価値が認められるのか、それに沿って私たちは

どのように行動すべきなのか、「日本型環境倫理」に含まれる様々な主張は誰によって、どのよ

うな歴史的背景のもとで、いかになされたのか、という課題の探究に集中している。これらの探

究にはもちろん意義があるが、それらの探究の成果を、誰に向けて、どのような課題に焦点化し

て発信するべきか、という実践的反省の契機はまだ十分に形成されていない。本報告はこの契機

の一端を形成することを目指している。

Page 79: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-2

77

P-2

・Kagawa-Fox, M. (2012). The ethics of Japan's global environmental policy: The conflict

between principles and practice. Routledge.

・Callicott, J. B & McRae, J eds. (2017). Japanese Environmental Philosophy. Oxford University

Press.

・Yusa, M eds. (2017). The Bloomsbury Research Handbook of Contemporary Japanese

Philosophy. Bloomsbury Publishing.

Page 80: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-3

78

P-3

P-3

A15 教室(1 階)

4/7(土)-4/8(日)。コアタイムは 4/8(日)11:50-12:50

木山幸輔

ポスター

デモクラシーへの人権の論証に関する予備的考察

デモクラシーへの人権は存在するか。この問いをめぐる議論は、特に現代倫理学・政治哲学・

法哲学の重要論者 J・ロールズが「存在しない」という回答を示したのち、活発化してきた。こ

の問いが重要である理由の一つは、現在の人権の言語の影響力の増大の中で、この問いへの回答

が、デモクラティックな諸国の対外政策の構想に際し大きな影響力をもつことに求められる。

本報告は、「デモクラシーへの人権は存在するか」という問いに対し、回答を示すための予備

的作業として以下のことを試みる。まず、「デモクラシーへの人権は存在するか」の問いに肯定

的・否定的な回答を示す先行研究を3つに区分し、それぞれの擁護可能性を吟味する。第 1 が、

人権が果たす機能に着目した「デモクラシーへの人権」の存否の論証である(機能論証)。これに

は、人権は国際的正統性の条件として機能するとし、そうした人権を社会的協働の必要条件を示

すものとして正当化するロールズらの議論が含められる。第 2 が、道具的論証である。これは、

デモクラシーが他の重要とされる価値――例えば生存や飢饉の不在など――の実現に道具的価値

を持つか否かによって「デモクラシーへの人権」の存否の論証を行う。第 3 が、内在的論証であ

る。これは、全ての人間がその人間性ゆえに持つ価値――根本的価値――から、直接的に「デモ

クラシーへの人権」が導かれるとする。本報告は、これら 3 論証の吟味を通じ、「デモクラシー

への人権」(の存否)の論証が依拠すべき推論を提示する。

具体的には、まず第1の機能論証が棄却される。すなわち、国内的な社会的協働の成立条件と

して諸権利(人権)が示されたとしても、そうした諸権利が国際的な諸政策(例えば外交・経済政

策)の可否とは関連しないことが示される。次に、第 2 の道具的論証の限界が示される。つま

り、これは一定の意義を持つと評価されながら、そもそも従属変数たる重要な価値に貢献すべき

独立変数としてのデモクラシーの概念を設定する時点で、依拠すべきデモクラシーの内在的構想

が求められることが指摘される。そこで、そうしたデモクラシーの内在的構想を提示しうるもの

として、人間性に付与される価値からデモクラシーへの人権(の存否)を導く内在的論証の意義が

説かれ、その洗練のための課題が示される。

Page 81: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-4

79

P-4

P-4

A15 教室(1 階)

4/7(土)-4/8(日)。コアタイムは 4/8(日)11:50-12:50

大庭弘継

ポスター

トロッコ問題の「適用」:人道的介入にみる取り扱い上の注意

トロッコ問題(トロリー問題)は、5 人を見殺しにするか、1 人を殺して5人を救うか、とい

う二者択一の状況下での決断を迫る思考実験である。フィリッパ・フットによって生み出され、

様々な派生形を生み出したトロッコ問題は、いまでは自動運転車へ実装する「倫理」を考えるツ

ールとしても使用される。(例:米国 MIT によるアンケート調査「モラル・マシーン(Moral

Machine)」)。

だが、トロッコ問題に対する「回答」を実社会に適用することには、いくつかの論点がある。

それは単に「心理と倫理を峻別するべき」という点にとどまらない。本報告では、いくつかの取

り扱い上の注意を、人道的介入を事例に考察する。

人道的介入とは、ジェノサイドや民族浄化といった人道危機に対する最終手段として行われる

軍事介入である。この際、国際政治の選択肢に含まれる倫理的問題として、他国の人民を救うた

めに自国の人民である兵士を犠牲にすることが許されるかという点と、より多くの人々を救うた

めとして、軍事介入という劇薬が許されるのかという点が問題視されてきた(最上 2001、高

橋・大庭編 2014)。特に、より多くの人々を救うためであっても、軍事介入は民間人の犠牲を避

けられず、保護するべき人々を少数であっても犠牲にしてしまうという問題を含んでいる(大庭

2012)。

つまり、人道的介入は、放置しておけば大多数が犠牲になる状況において、多数を救うためと

して少数を犠牲にすることが許されるのか、という倫理問題だと考えることができる。これはト

ロッコ問題と相似であり、また自動運転車と異なり、すでに実社会に「適用」されている。

逆説的だが、人道的介入をめぐる論争と混乱から、トロッコ問題を実社会に「適用」した際に

生じてしまった問題点がみえてくる。それらを以下、取り扱い上の注意として列挙する。

第一に、因果の不明確さである。トロッコ問題は行為と結果の因果関係を明確にすることで、

問題を明確に規定してきた。だが現実の人道的介入においては、行為と結果の因果関係が不透明

である。それゆえ、数十万人の犠牲は生じなかったが、軍事介入による数万人の犠牲は事実であ

る、と批判される。

第二に、意図の複数性への疑念である。トロッコ問題は、「人々を救う」という意図を前提に

している。だが、人道的介入において、介入する側は、単に「人々を救う」という意図のみなら

ず、国益など様々な思惑を有していることが多い。そのため、介入の決断者の意図に対して、常

に疑問が付されることになる。

Page 82: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

P-4

80

P-4

第三に、トラウマの束縛である。1990 年代以降の人道危機に対して、国際社会は介入と不介

入を繰り返すという混乱に置かれている。特に、因果の不明確さが影響し、直近の事実が影響を

与える。不介入によって犠牲が生じれば、次回は、介入へと傾く。だが介入の結果、犠牲が生じ

れば、次回は不介入となる。

第四に、別の選択肢の可能性である。トロッコ問題は、選択肢を二つに限定して決断を迫る。

だが、実社会において、選択肢はより多くあるように思われてしまう。実際には、限定合理性の

なかで決断を迫られるのだが、たとえ後付けであっても、別のより良い手段があったという思い

が数々の摩擦を生み出すことになる。

倫理学は抽象化をつうじて問題の本質を顕在化させようとするが、抽象化の際に捨象した問題

が、実社会への「適用」に際しては再び混入してしまう。敷衍すると、トロッコ問題への「決

断」は、実社会の問題に対する判断根拠の一つにはなるが、それでもって十全とする態度を取る

べきではないだろう。

参考文献

最上敏樹『人道的介入―正義の武力行使はあるか』岩波書店、2001 年

高橋良輔、大庭弘継編『国際政治のモラル・アポリア-戦争/平和と揺らぐ倫理』ナカニシヤ出

版、2014 年

大庭弘継「「保護するべき人々を犠牲に供する」というアポリア : 2011 年のリビア介入の教

訓」、『社会と倫理』第 27 号、南山大学社会倫理研究所、2012 年

Page 83: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-1

81

W-1

W-1

A27 教室(2 階)

4/7(土)14:10-16:10

杉本俊介、井戸田博樹、岡部幸徳、中谷常二

ワークショップ

ソーシャルメディアのビジネス倫理

スマートフォンの普及に伴い、SNS や Twitter を含め、ソーシャルメディアの利用が急増して

いる。「ソーシャルメディア」の範囲は調査機関や研究者によって異なる。たとえば、総務省の

「次世代 ICT 社会の実現がもたらす可能性に関する調査(平成 23 年)」では、ソーシャルメデ

ィアを SNS(mixi、Facebook、GREE やモバゲータウン等)、ブログ(Ameba ブログ、Yahoo

!ブログ等)、Twitter、ネット上の掲示板、地域 SNS(地域のコミュニティ活動に特化した

SNS)、ミニブログ(前略プロフィール、リアル等)に分類している(総務省, 2011)。

ソーシャルメディアは企業へのビジネスチャンスをもたらす一方で脅威にもなりうる。企業

にとってソーシャルメディアは、CGM(Consumer Generated Media:消費者生成メディア)で

あり、マーケティングコミュニケーションを変革するものである。その一方で、従業員による顧

客の個人情報や企業機密の漏えい、投稿された情報で起こる炎上など、企業リスクを高めるもの

でもある。

さらに、ソーシャルメディアの問題の複雑さはそれにかかわるのが企業や利用者に限らない点

にある。ソーシャルメディアに巻き込まれる人々についても考えなければいけない。ソーシャル

メディアを利用しなくとも、写真を勝手に掲載されたり、飲食店や大学の講義が評価サイトで勝

手に評価されたりもする。また、LINE などのソーシャルメディアを利用しないことで仲間外れ

になってしまう問題もある。ソーシャルメディアを運営する企業はこうした形で巻き込まれる

人々に配慮していかなければならないだろう。

本ワークショップでは、ソーシャルメディアをめぐるこうした倫理的課題をビジネス倫理の

観点から検討しようと試みる。

まず、経営情報システム論を専門にする井戸田博樹(近畿大学)がソーシャルメディアとは

何か、そして企業におけるソーシャルメディアの利用について紹介する。ソーシャルメディアは

情報発信者から受信者への一方向の情報提供にすぎなかった従来の Web とちがい、誰もが発信

者にも受信者にもなりえる動的で双方向のコミュニケーション手段としての Web2.0 をベースに

している。この特徴が企業経営に与える影響、また海外でソーシャルメディアの活用事例を紹介

する。

続いて、経営倫理と技術者倫理を専門にする岡部幸徳(金沢工業大学)が企業の SNS マーケ

ティングと従業員のバカッター行為について考察する。まず SNS を使ったステルスマーケティ

Page 84: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-1

82

W-1

ングの事例を紹介し、その問題を検討する。次いで、いわゆる「バイトテロ」や「バカッター」

を表現の自由や愚行権から考察する。

さらに、ビジネス倫理を専門にする中谷常二(近畿大学)が未成年に向けられたソーシャル

メディアビジネスを問題にする。ソーシャルメディアを利用している高校生は全体の9割に達し

ている(総務省, 2014 年)。その 4 割は「ネットが原因で、勉強の能率に悪影響がでることがあ

る」と回答している。高校生の保護者のなかで、スマートフォンの使い過ぎによる弊害を防ぐた

めの「利用時間帯を制限している」、「利用時間の上限を決めている」、「成績が下がったら利用を

制限する」といったルールを作る保護者は少ない。このような状況で、未成年のソーシャルメデ

ィアを制限すべきか、そもそもスマートフォンを持ってはいけないかを考察してゆく。

最後に、倫理学を専門にする杉本俊介(大阪経済大学)がソーシャルメディアは「ギュゲスの

指輪」になりうるかと問う。インターネット上でモラルが崩壊しやすいのは何故だろうか。その

理由として、従来の Web は不可視性や匿名性といった特徴をある程度もつ点でプラトンの「ギ

ュゲスの指輪」の状況に似ているからだと指摘されることがある(伊勢田, 2000)。Web2.0をベ

ースにしたソーシャルメディアでも同様のことが言えるかを検討する。

以上の発表をふまえて、フロアを交えて意見交換を行い、ソーシャルメディアの倫理的課題

について議論を広げたい。

Page 85: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-2

83

W-2

W-2

A28 教室(2 階)

4/7(土)14:10-16:10

吉永明弘、山本剛史、熊坂元大、寺本剛

ワークショップ

ローカルな環境倫理に関する新しい研究アプローチ

本ワークショップは、環境倫理学の新しいアプローチを提示することを目的とする。環境倫理

学の方法論は、哲学者・倫理学者による文献研究と、フィールドワーカーによる事例研究に二分

されているきらいがある。ここでは第三の道として、「地域の現場で活動している人々の思想を

インタビューによって掘り起こし、ローカルな環境倫理の視点から普遍化して提示する」という

アプローチを提示する。

奥田太郎氏は、応用倫理学において哲学者・倫理学者が果たすべき、そして得意とする作業と

して、領域横断的問題把握とともに、「個別事例と概念・原理との間の往復的思考による問題把

握」を挙げている(奥田太郎 2004「応用倫理学論序説――担い手、方法、名宛人」9 頁)。しか

しこのようなアプローチがこれまで環境倫理学の中でなされてきたかというと、いささか心もと

ない。哲学者・倫理学者はフィールドワーカーの活躍を横目に見ながら文献研究に専念してきた

というのが実情といえる。もちろん文献研究は重要である。しかしフィールド研究においても哲

学者・倫理学者には果たしうる役割がある、というのが今回のワークショップで提起したいこと

である。これは「応用哲学」の方法論を考えるうえでも何らかの示唆を与えうるものと思われ

る。

報告者たちは、2016 年度に、小平市で道路問題に取り組む神尾直志氏、多くの町民を埼玉に

避難させた井戸川克隆・福島県双葉町前町長、移動スーパー「とくし丸」の創設およびサポート

に関わっている村上稔氏にインタビューを行い、すでにそれらを冊子にまとめている。本ワーク

ショップでは、それをもとに 3 人が報告を行い、そこから共通に浮かび上がる思想について議論

する。

第一報告では、吉永明弘が、小平市の都道建設問題の概要と、住民投票の顛末について概説

し、そこで住民運動に関わり、住民投票後も「現地を歩く会」を続けてきた神尾直志氏の、地域

環境保全に関する思想を提示する。神尾氏の活動と考え方は、関野吉晴氏や岸由二氏の「地域で

地球を生きる」という思想にも通じ、一地域の活動の普遍化可能性に示唆を与えるものになって

いる。

神尾氏の運動に対するスタンスは、「反対運動にはしない」ということに尽きる。神尾氏が重

視しているのは、党派性を排除して多様な声を聴くという点である。そもそも「対話」とは、意

見の異なる人と行うことが目的であろう。

また、神尾氏が「歩く会」を継続的に行っているのは、現場を知ること、知らせることがまずは

Page 86: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-2

84

W-2

大切で、知らないとそもそも意見が出てこないからである。それに加えて、地域の歴史を知るこ

とは、その地域を知るだけでなく問題解決のための合意形成の基盤になるということを知ってい

るからである。桑子敏雄氏のいう「空間の履歴」を調べることによって、現在の人間の短期的利

益(時価)を超えて、地域の未来を見据えた判断ができるようになる。

第二報告では、山本剛史が、福島第一原発事故後の福島の状況について概説し、そこで町民を

埼玉に避難させた双葉町前町長・井戸川克隆氏の「仮の町」構想について紹介する。井戸川氏の

震災に関する一連の、特に町民を埼玉に避難させるという対応は、理にかなったものといえる。

そもそも双葉町はほぼ全域が今なお帰還困難区域に指定されるほど線量が高い地域である。しか

し、たとえ低線量の放射線であっても、今回の事故で被ることによる利益などないのだから、で

きるだけ遠くに逃げることが正しい選択である。そして後からでも町民を一か所に集めてコミュ

ニティを維持していくのが望ましい。しかし結果として双葉町しか、井戸川氏しかそのような対

応をしなかった(もしくはできなかった)のである。

この井戸川氏の一連の対応は、「未来倫理」に関する具体的な責任のあり方を問うものともな

っている。すなわち、原発事故の被災者の基本的人権を確保するための責任ある施策がほとんど

なされない状況において、ハンス・ヨナスのいう「人間の理念」を毀損しない形で次世代以降に

つなぐにはどうしたらよいのかという問いに、井戸川氏は行動で答えようとしている。

第三報告では、熊坂元大が、徳島市の吉野川可動堰問題と住民投票について概説し、住民投票

の成立に尽力したのちに移動スーパーの創設とサポートを行うようになった村上稔氏の思想につ

いて紹介する。村上氏はシューマッハーの『スモールイズビューティフル』を仕事の哲学として

読み解き、それを血肉化している。地域社会を維持するために「仕事」という観点から切り込ん

でいるともいえる。村上氏は、収入を度外視するわけではないが「やりがい」が大事だと語る。

これは決してシューマッハーの受け売りではないし、彼に賛同する一部の人びとの現実離れした

理想でもない。「人は合理的に自己利益を追求する」という人間観のほうが、経済学の一面的な

人間観にすぎないともいえる。

村上氏の著書には、地方自治や市民の政治参加を考えるうえで理論的にも戦略的にも興味深い

洞察がある。一方でイデオロギーに縛られた党派的アプローチを批判的に論じつつ、他方でワン

イシューの一点突破型の手法を批判的に論じる。また、地域の規模の問題など、先の二つの報告

と共通する話題も多い。

以上の報告の後に、寺本剛が、あらためて「ローカルな環境倫理」という観点からこれらの活

動を評価する。報告内容だけでなく、研究方法についても、フロアから多くの意見を募りたいと

思う。

Page 87: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-3

85

W-3

W-3

A13 教室(1 階)

4/8(日)13:40-15:40

清水右郷、戸部真澄、藤岡典夫、林岳彦

ワークショップ

予防原則のメジャーアップデート

科学技術のリスクをめぐる社会的意思決定をどのように行うべきなのか。選択肢は様々だ。代

表制民主主義による政治プロセスに任せる、科学的リスク評価や費用便益分析に頼る、市民によ

る熟議を行う、ステークホルダーの関与と合意形成を図る、そして、予防原則の採用も一つの選

択肢かもしれない。このように状況を捉えてみると、決定的な問いは、これらの中から一体どれ

を選ぶのか、あるいは、どのような組み合わせを採用すればよいのかだと気づく。

問題をこのように捉えた時、予防原則をめぐる議論は興味深い。予防原則は、その曖昧さのせ

いもあって実に多様な解釈がなされており(cf. 植田・大塚, 2010)、社会を統治する既存の原理

と整合するのか、科学的リスク評価や費用便益分析と相入れるのか、市民参加やステークホルダ

ー関与と結びつけて考えるべきではないかと、他のアプローチとの関連性をめぐって議論がなさ

れてきた。予防原則は比較的伝統が浅く、発展の過程で多くの批判を受け、その批判に応えるた

めに形を変えようとしてきたのだと理解できるかもしれない。例えば、よく言及される区別とし

て、弱い予防原則と強い予防原則という区別があるが、強い予防原則はリスクトレードオフ問題

に対処できないと強く批判されてきた一方、弱い予防原則ではリスク・費用・便益を考慮するも

のになっている(cf. 松王, 2008)。論争は今なお続き、誰もに共有される予防原則の定義は存在

していない。しかし、予防原則のあり方をめぐる議論からは、社会的意思決定において何が最も

望ましい組み合わせなのかの手がかりが得られるはずだ。

このワークショップでは、予防原則の理解の「メジャーアップデート」を試みながら、社会的

意思決定の望ましいあり方を探りたい。環境法分野を中心に、予防原則の詳細な理解が進みつつ

ある(報告者のうち2名はまさにその仕事をしてきた)。しかし、前述の通り予防原則は様々な

解釈に開かれたままであり、その中心的な要素が何であり、他のアプローチとどの点で相入れな

いのかがはっきりしていない。ワークショップではこれらの問題に取り組む。すなわち、予防原

則の核になる要素を捉え直すことを目標とする。この作業から、予防原則に固有の強みが何かだ

けでなく、望ましい社会的意思決定の基本的要素が何かについても重要な洞察が得られるだろ

う。

まず、法学分野から2名の報告を受ける。最も熱心に予防原則を検討してきたのは明らかに法

学分野であり、法学における予防原則の理解を踏まえることはアップデート作業に必須だ。

戸部真澄からは、予防原則を正当化する根拠について話題提供する。公法学(憲法学・行政法

学)における国家・社会関係論や、日本とドイツにおける予防原則をめぐる法状況の違い等を踏

Page 88: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-3

86

W-3

まえ、予防原則を基礎付ける理論的根拠を探る。予防原則の法学的検討は、憲法や国家の役割の

議論と結びつくことで、特定の条文解釈の問題を超えて遥かに広い射程を持った議論になるだろ

う。

藤岡典夫からは、予防原則を統制する法原則について話題提供する。予防原則の適用は立法や

行政の裁量を拡大することとなるが、無制限の措置が認められるとするのは適切ではなく、比例

原則等の他の原則によって統制を受ける必要があるだろう。この問題に関するこれまでの議論を

踏まえつつ、予防原則と他の原則との関係、および予防的措置に対する統制をどのように考えた

らいいのかについて提案を行う。この場での議論を通じて、どのような予防的措置ならば正当化

されるのかについて重要な知見が得られるだろう。

残る2名からは、リスク評価の性質に焦点を当てた報告を受ける。予防原則はしばしばリスク

管理に関わる原則だとされるが(e.g. Commission of the European Communities, 2000)、リスク

評価の理解が変わることで予防原則の理解が変わることも十分にありうるはずだ。

林岳彦からは、リスク分析者の立場から見た予防原則について話題提供する。行政の意思決定

に用いられるリスク評価はしばしば(部外者から)「科学的リスク評価」と称されることがある

が、現実にはそのようなリスク評価のかなりの部分はテクノクラティックなコンセンサスに依拠

している。その意味で、リスク評価により得られる「確率」は頻度論的概念ではなく間主観的概

念として解釈されるべき場合が多く、また、確率論的なリスク評価と定性的なリスク評価の境界

は一般に認識されているよりも曖昧である。こうした議論は、リスク評価と予防原則の関係性、

および予防原則の適用がどのような場合に/誰によって決定されるべきかについての議論への示

唆を与えるだろう。

清水右郷からは、予防原則の認識規則解釈について話題提供する。予防原則の分類として「意

思決定規則」「手続き規則」「認識規則」の三つが区別されている。このうち認識規則解釈は、科

学における価値判断の問題、とりわけ、「帰納のリスクからの議論」と呼ばれる最近の科学哲学

のトピックとして理解することができる。この種の解釈は費用便益分析などの他のアプローチに

は含まれていないため、予防原則を際立たせる鍵になるかもしれない。

植田和弘・大塚直 監修 (2010) 『環境リスク管理と予防原則 』, 有斐閣

松王政浩 (2008) 「予防原則に合理的根拠はあるのか」『21 世紀倫理創成研究』1 号

Commission of the European Communities. (2000) Communication from the Commission on the

Precautionary Principle

Page 89: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-4

87

W-4

W-4

A14 教室(1 階)

4/8(日)13:40-15:40

金光秀和、河野哲也、久木田水生、直江清隆、鈴木俊洋

ワークショップ

技術哲学のアクチュアリティ:人とモノの関係の考察

技術は人間の誕生以来、生活の便利さや豊かさの向上に密接に関連してきたが、現代ほど人間

の営みを規定し、また社会のあり方に大きな影響を与える時代はない。事実、技術は新しい行為

の形を次々と生み出し、社会のあり方を大きく変えている。このような現実を目の当たりにし

て、近年、技術がもたらす具体的な倫理的問題だけでなく、技術がもたらす哲学的問題について

もさかんに議論されている。本ワークショップでは、人とモノの関係の考察を軸としながら、現

在の技術哲学が問題としている事柄を取り上げて議論したい。

本ワークショップでは、技術哲学の「アクチュアリティ」として、現実の技術が生み出してい

る、あるいは生み出しつつある問題を取り上げる。すなわち、古典的、観念的な技術哲学の考察

を紹介することではなく、技術それ自身から出発し、それがわれわれの文化や生活においてどの

ような役割を演じているかを問いながら、現代の技術がもたらす哲学的問題について考察した

い。

趣旨説明 金光秀和(金沢工業大学)

「技術哲学の問題圏と課題」

技術の哲学(philosophy of technology)は、哲学において新興の領域である。というのは、現

在のテクノロジーという意味での技術が社会に出現したのはせいぜい 18 世紀以降のことであ

り、それを考察の主題とする哲学もそれ以前には生じ得なかったからである。しかし、技術がま

すますわれわれの生活に浸透し、世界がいまや「技術によって織りなされた世界」(村田純一)

である現在、少なからぬ哲学者が技術を議論の俎上に載せている。本報告では、ワークショップ

の趣旨説明をかねて、現在の技術哲学が問題としている事柄を紹介し、その課題について確認す

る。

提題 1 河野哲也(立教大学)

「シンギュラリティと教育の問題」

近年、何人かのフューチャリストが、技術的特異点の到来を予告している。筆者の見解では、

人間と同じような汎用型の知能を作り出すことはきわめて困難であり、ましてや技術的特異点な

どは起こりそうにない。しかし、フライとオズボーンの「雇用の未来」という論文が示すよう

な、AI とロボット工学の発展による雇用の大幅な変化についての予測は真剣に受け止めるべき

Page 90: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-4

88

W-4

である。そして本当の危機は、教育や再教育がこの現実にまるで追いついていない点、そして現

在の教育資源分配の不均等にあることと指摘する。

提題 2 久木田水生(名古屋大学)

「ソーシャルテクノロジーへの賛否両論、あるいはテクノロジーの中立性について」

テクノロジーは人と環境を媒介するメディアであり、それは人が環境をどのように認知する

か、あるいは人が環境に対してどのように働きかけるかということに大きな影響力を持ってい

る。そして情報通信技術(ICT)は特に人と人の間をつなげるメディアとして、私たちの人間関

係形成、あるいは社会の構造に影響を与えている。近年の ICT の急激な発展、特にソーシャ

ル・メディアやビッグデータ、人工知能は私たちの人間関係を大きく変化させつつある。もちろ

んこの変化には正と負の両面があり、これについての人々の意見も賛否様々である。本発表では

ソーシャルテクノロジーがどのような負の側面を持つか、それに対処するため私たちはどのよう

にこのテクノロジーに向き合わなければならないのかを論じる。またそれとともに、より一般的

に「テクノロジー自体は価値中立であり、それを良くするのも悪くするのもそれを利用する人間

次第だ」というしばしば聞かれる見解の危うさについて考察する。

提題 3 直江清隆(東北大学)

「人工知能の導入と人間関係─医療における意思決定を例にした試論」

医療の分野においても AI や IoT の導入が唱えられている。その範囲は手術ロボットから入

院・在宅患者の数値のコントロールまで多岐にわたる。その中でも注目されるのは、画像診断を

はじめとする診断技術であり、治療に関わる患者との意思決定に対するその影響である。測定技

術が及ぼす人間─世界、人間─人間の関係への変容については、つとに D. Ihde らによって分析

がなされてきている。ビッグデータや深層学習を駆使した AI による診断は人間による見落とし

の可能性などに対して絶大な効果を持つと予想されるが、意思決定にもたらす変容についてはこ

れから議論が起こされる必要がある。また他方、昨今の議論を見るに、AI の技術的可能性とそ

の社会実装のみが強調される傾向があることは否めない。本報告では、AI は人間の能力を補助

するという所謂「弱い」AI の立場を検討し、AI の導入に伴う新たなスキルの発生と医師─患者

関係の変容の可能性について議論し、AI 診断に組み入れられる価値について展望する。

提題 4 鈴木俊洋(崇城大学)

「集団的暗黙知と『弱いロボット』」

ロボットや AI が、人間の専門家が持っているのと同様の、暗黙知を伴った専門知(熟練知)

を持つことができるだろうか。第一に、人間の専門家の持っている熟練知を「明示化」すること

は可能だろうか。そして、第二に、それが不可能だったとしても、機械が暗黙知を持つことは可

能だろうか。科学社会学者のハリー・コリンズは、暗黙知を身体的暗黙知と集団的暗黙知に分け

る。彼によれば、技術の発展により、「身体的暗黙知」は明示化されうるが、コミュニティーに

社会化されることによって獲得される「集団的暗黙知」を、機械が獲得するためには、機械が

Page 91: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-4

89

W-4

「コミュニティーに社会化される」能力を持たなければならない。近年登場してきた、人間の助

けを必要とするような「弱いロボット(機械)」という発想は、機械のコミュニティーへの帰属

に焦点を当てている。本発表では、集団的暗黙知について論じた後、「弱いロボット」という発

想と集団的暗黙知の関係について論じる。

Page 92: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-5

90

W-5

W-5

A26 教室(2 階)

4/8(日)13:40-15:40

成瀬尚志、笠木雅史、稲岡大志

ワークショップ

型と暗記

われわれ哲学教育研究会では、哲学の授業をどのように行なえばよいかについて、2015 年の

応用哲学会ワークショップ、2016 年の日本哲学会ワークショップ、2017 年の応用哲学会ワーク

ショップにおいて検討してきた。われわれが今回のワークショップで取り上げるテーマは「型」

である。

高度な技法を身につけるために、基本的な「型」を何度も繰り返し、自然にできるようになる

ことが重要であることは、外国語や数学といった分野を見ると明らかである。では、哲学教育に

おいてそうした「型」の習得は有効だろうか。あるいは、方法論としての「型」ではなく、知識

そのものを暗記するということも時には求められるだろうが、哲学においても暗記は重要であろ

うか。この問題について、本ワークショップでは以下の三つの観点から検討する。

成瀬尚志「論証型レポートの問題点」

レポートの書き方に関するテキストでは「論証型レポート」という型がよく取り上げられる。

これは、レポートが単なる感想にならないようにするための型であり、戸田山(2012)では、

(1)与えられた問い、あるいは自分で立てた問いに対して、(2)一つの明確な主張をし、

(3)その主張を論理的に裏付けるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する、と

説明されている。また、井下(2014)では論証型レポートを次のように説明している。(1)論

点を提示し、その問題の背景を説明する。(2)根拠に基づき、自分の意見を述べる。(3)自分

の意見とは異なる意見を根拠に基づき批判する。(4)結論として、自分の意見を明確に主張す

る。

この論証型レポートは、特に初年次教育においては非常に一般的なものであり、レポートの汎

用的な型として教えられている。しかし、この論証型レポートにはどれほどの汎用性があるのだ

ろうか。特に、各授業でのレポート課題を論証型で書くことを学生に求める場合、学生の創意工

夫を求めることは非常に困難になるのではないだろうか。本提題では、こうしたレポート課題に

おける型の是非について検討する。

文献

井下千以子(2014)『思考を鍛えるレポート・論文作成法(第 2 版)』慶應義塾大学出版会

戸田山和久(2012)『新版 論文の教室―レポートから卒論まで』NHK 出版

Page 93: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-5

91

W-5

笠木雅史「知識と方法:哲学とクリティカル・シンキング」

個々の学問は、一群の概念的・事実的知識と知識を生み出すための一群の方法によってある程

度区別される。多くの学問の教育では、両方が教えられることが多い。しかし、日本の哲学教育

は、方法ではなく、概念的・事実的知識の学習のみを主目的としてきた。他方、多くの学問に共

通する方法の基盤だと考えられてきたクリティカル・シンキングについては、哲学を専門とする

教員が担当することが多い。このようなギャップの存在は、哲学教育における方法軽視だけでな

く、クリティカル・シンキング教育における知識重視という形で現れていると考えられる。特

に、クリティカル・シンキングでも形式論理学の基礎概念や形式によって区別される論理的誤謬

の教育に重点を置く場合、この知識重視の方向性は顕著となる。本発表では、近年の論証法

(argumentation theory)の研究から、論理的誤謬の教育が実践的な意義をほとんど持っていない

という批判と、それに代わるクリティカル・シンキング教育の方向性を紹介する。その後、こう

した方向性を拡張しつつ、方法を重視した哲学教育の方針について考察し、まとめる。

稲岡大志「哲学教育の目的としての汎用的スキルの養成とその習得方法としての暗記」

大学における哲学科目に期待される役割の一つとして、汎用性を持つ思考力として特徴付けら

れる「ジェネリック・スキル」を身に付けさせること、が挙げられる。ジェネリック・スキルと

は、読み書きの能力、情報の収集・整理能力、論理的思考力、他人とのコミュニケーション能

力、といったさまざまな個別のスキルを含む総称であり、専門分野での学習を支える基礎的能力

としての位置付けも持つ。もちろん、一般教養の哲学科目単体ではこれらの広範なスキルのすべ

てに配慮した教育は難しく、授業設計に際してはどのスキルに焦点を絞って授業を行なうかを考

慮することが求められる。ジェネリック・スキルの養成を念頭に置いた授業設計で考慮すべき問

題の一つが、評価である。レポートなり試験なり、教師は何らかの手段を用いて受講生が身に付

けるべきスキルを身に付けることができたかを測定しなくてはならない。しかし、具体的に試験

やレポートの内容を考えようとすると、さまざまな個別の問題に直面する。その一つとして、受

講生に授業外学習をどう求めるか、という問題を挙げることができる。試験やレポート課題の内

容や形式が決まれば受講生が取り組むべき授業外学習の内容も自ずと決まってくるだろう。しか

し、評価の目的が何らかの知識やスキルの理解・習得を測定することにある以上、たとえば試験

への対策として暗記が重んじられてしまう点は否定できない。そして、哲学を教える教師の多く

は暗記によるスキル習得に対しては否定的ではないだろうか。では、このような否定的な態度が

ある程度の哲学教師によって共有されているとするならば、その理由はなんだろうか。また、そ

れは正当なものだろうか。本提題では哲学教育が目指す汎用性を持つスキルの養成とその評価に

関して、とりわけ暗記の役割という観点から考えてみたい。

Page 94: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-6

92

W-6

W-6

A27 教室(2 階)

4/8(日)13:40-15:40

神崎宣次、篭橋一輝、江間有沙、太田和彦

ワークショップ

食と農のための応用哲学

食や農業は持続可能性を構成する重要な要素の一つである。持続可能性という現代の世界にと

って優先度の最も高い問題の解決に応用哲学が貢献しようとするなら、これらの話題を扱うこと

を避けては通れない。しかしながら、そうするにはいくつかの克服すべきポイントが存在する。

1) 伝統的なタイプの環境倫理学では農業や食料生産という問題はあまり論じられてこなかっ

ただけでなく、場合によっては「自然」を人の手や技術による介入によって改変してしまう営み

として批判の対象ともされてきた。したがって、食や農という問題を扱うための議論の枠組みを

整備する必要がある。

2) 食や農は、科学技術だけでなく、経済や社会制度、慣習などの幅広い要因が関連する問題

領域である。そのため単一の学問領域殻では十分に扱うことのできず、領域横断的なアプローチ

を要する。

そこで本ワークショップでは、現在の食と農に関わる諸問題に対して、倫理学、経済学、科学

技術論、フィールドワークなどの多様な観点からのアプローチを試みたい。また、報告者が提示

できるよりも広い観点から検討を深めるために、参加者とのディスカッションも行う。

報告 1 太田和彦「食農倫理と環境倫理」

近年、Encyclopedia of Food and Agricultural Ethics(2014)や学術誌 Food Ethics(2016 - )が刊

行されるなど、国際的に食農倫理に関するこれまでの議論の蓄積が整理されつつある。日本にお

いて食農倫理は、個別の研究分野ではなく、環境倫理の一部として把握されているように思われ

るが、報告者は両分野の特徴を整理する必要性を提起する。確かに、機械的畜産や屠畜、農業に

よる水質汚染や土壌劣化などは、食農倫理と環境倫理がともに扱う問題領域と言えるだろう。し

かし、食農倫理が、Food Policy、Food System、Food Citizenship などの概念を用い、食料生産

だけでなく、流通、加工、小売、消費の持続可能性や、既存の政策の統合、都市計画の策定など

のテーマも扱っていることをふまえると、環境倫理の一部として食農倫理を把握することは双方

の研究分野に混乱を生じさせる懸念がある。 そこで本発表では、A「食べるもの」、B「食べさ

せるもの」、C「食べられるもの」の 3 項の組みあわせを用いて、食農倫理と環境倫理のそれぞ

れの特徴づけを試みる。具体的には、「A の C に対する倫理」「B の C に対する倫理」を環境倫

理として、「A の B に対する倫理」「B の A に対する倫理」「A の A に対する倫理」「B の B に対

する倫理」を食農倫理として見なし、両領域の基礎文献を分類する。

Page 95: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-6

93

W-6

報告 2 篭橋一輝「経済学における持続可能な発展論と水資源」

本報告では、食料生産に不可欠な生産要素である水資源に焦点を当てる。水の経済分析やフィ

ールドワーク等の知見を参照しながら、「弱い持続可能性」と「強い持続可能性」という2つの

理論的枠組みの中で、水がどのように位置づけられるかを整理する。その上で、「自然資本」と

して水を概念化する際に考慮すべき課題や論点を提示する。

報告 3 江間有沙(報告者)・大澤博隆・神崎宣次・久木田水生・駒谷和範・西條玲奈・服部宏

充・吉添衛「AI 農業の今後の可能性と課題」

筆者らの研究グループでは乳牛管理に AI を用いている農家にて見学とインタビューを行っ

た。当農家はリアルタイムの牛の活動情報を収集し、発情・疫病検知を行う AI を活用してい

る。インタビューからは経営にあたっては農業の効率化を進めるためには、AI 個別技術だけで

はなくそれを支える通信インフラや、天候などの環境といった外部要因が重要であること、また

それを使いこなす人材リテラシーやユーザビリティ、今後の農業コミュニティの在り方について

の示唆を得た。本発表では情報技術を導入した今後の農業の可能性と課題について、インタビュ

ー内容や研究グループ内での議論を報告する。

報告 4 神崎宣次「食と農に対する技術的解決の倫理」

食や農の問題は地球の環境収容力の問題、つまりどれだけの人口を扶養できるかという問題と

しても議論されてきた。その際の中心的な論点の一つは、技術革新によって今後どれだけ環境収

容力そのものを押し上げる見込みがあるか、であった。また、食料の生産効率を向上させうると

される技術に対して、持続可能性に対する悪影響、安全性、貧富の格差を固定化・悪化させると

いった倫理問題が指摘されてきてもいる。本報告では、イノベーションが農業などの食料生産に

関わる職業そのものの持続可能性に与える影響なども含めて、食や農に対して提案される技術的

解決に関わる倫理問題を検討する。

Page 96: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-7

94

W-7

W-7

A28 教室(2 階)

4/8(日)13:40-15:40

服部俊子、堀江剛、大北全俊、樫本直樹

ワークショップ

「医療の組織倫理」という視点

病院組織を対象とした倫理の必要性、およびそれが臨床現場の倫理的実践をサポートするシス

テムとどのようにつながっていけるのか。これをテーマに、服部・大北・樫本は、これまで「病

院組織を対象にした倫理を考える」ワークショップを2回行った。病院組織と倫理とはどのよう

な関係にあるのか、また倫理的な医療実践をサポートするため何が求められるのかについて、調

査した病院の臨床倫理委員会活動を事例に現状分析を報告した。今回は、堀江も加わり、臨床倫

理の諸問題と密接に関連しているにもかかわらず十分な議論が進んでいない「医療の組織倫理」

(organization ethics of healthcare)という視点に焦点を当てる。

臨床倫理は日常診療の倫理問題を問い、そうした問題について協議・助言・解決しようとする

実践領域である。1950 年代後半に誕生した人工呼吸器や人工透析器などの人工的な生命維持装

置による治療が臨床で使用されるようになり、新たに重症の意識障害という「非人格的な生」の

状態が生みだされた。その状態を目の当たりにした患者や家族の意見と、病院側の意見が対立す

る事態が増え、1960 年代、(主にカソリック系)病院は、自主的に、多くの職種で構成される臨

床倫理を扱う倫理委員会を病院内に設置し始めた。1976 年、カレン・クインラン裁判の判決で

は、医療上の倫理的判断を医師個人に判断を委ねないよう、責任を分散する装置として、医療機

関に倫理委員会の設置と活用が推奨され、1980 年代には、医師と病院を守るシステムとして、

特に大規模の医療機関で病院内倫理委員会(hospital ethics committees)の設置が進められてい

った。

病院内倫理委員会は、もともと患者の治療決定をめぐる検討を役割とする委員会として始まっ

たが、1970 年代前半にマネジド・ケア普及対策が連邦政府から打ち出されると、病院経営管理

のような問題が、病院内倫理委員会に持ち込まれるようになっていった。マネジド・ケアとは、

米国の民間医療保険において提供される主な医療保障プランで、保険が医療の方法・質、並びに

医療にかかるコストを管理する仕組み(これ以外の主な医療保障プランは出来高払い型)であ

る。医療機関との関係やコスト抑制の方法などによってさらにいくつかのタイプに分かれるが、

代表的な分類は、HMO(Health Maintenance Organizations)、POS(Point-Of-Service

plans)、PPO(Preferred Provider Organizations)の 3 つである。マネジド・ケアの主たる問題

とは、利用者の具合が悪くなっても、すぐに都合のいい場所で診療してもらえず病状が悪化す

る、診療する医師にとって医師の治療内容選択に対するプランの管理が厳しすぎ医師が適切だと

判断する治療が行えない、といったことである。1990 年代には、医療機関・医師・利用者から

Page 97: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-7

95

W-7

の訴訟が増加した。病院内倫理委員会は、こうした問題への対応に、多くのコストと労力を費や

さざるを得なかった。

1995 年、米国の医療評価機関が、医療組織認定の条件に「組織倫理 organization ethics」に関

するセクションを追加したため、病院内倫理委員会が全米の中小病院にも設置されていった。臨

床倫理では臨床倫理の役割を拡充させ、組織の倫理問題にもアプローチする必要性が指摘される

ようになった。その一方で、一部の病院では、病院内倫理委員会での臨床倫理アプローチの限界

があり、医療評価機関の組織倫理に対応するために、法令遵守委員会や組織倫理委員会のよう

な、組織倫理に対応する委員会が設置されていったようである。2000 年には「医療における組

織倫理」(organization ethics in healthcare)が生命倫理系雑誌で特集として組まれ、専門職団体

からも報告書が発刊されるようになる。また、テキストも数冊だが出版された。

しかし、これらはいずれも、企業倫理の概念を援用し、そこから「医療'における'組織倫理」

を検討し、対応したものに過ぎない。つまり、主に経営管理の観点から生じる組織倫理の問題を

病院組織に適用しているだけで、臨床倫理の問題を含めた(企業とは異なる)「病院」という組

織が抱える「医療'の'組織倫理」(organization ethics 'of' healthcare)に関する視点を欠いてい

る。その種の議論もほとんど見当たらない。また、医療組織の上位概念である「組織」を対象に

した倫理に関する理論的検討も、企業倫理の領域でさえ多くはないようである。

今回のワークショップでは、まず大北が私たちがこれまで行ってきた病院での調査の概要につ

いて説明した後、「医療組織の倫理」という視点を検討するために、服部が、医療組織倫理が登

場した背景と医療組織倫理研究の現状の概要について、英米圏の文献をレビューにした結果を報

告する。そして、今後の医療組織の倫理という視点を考えていくために、樫本が「対話」という

観点から、そして堀江が「システム論」の観点から検討し、「医療組織の倫理」を考察する視点

を提供する。これらの発表を素材として、医療組織の倫理について、またその応用倫理領域にお

ける可能性についてフロアのみなさんと議論したい。

Page 98: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-8

96

W-8

W-8

A13 教室(1 階)

4/8(日)15:50-17:50

神崎宣次、杉本俊介、大庭弘継、 岡本慎平、清水雄也

ワークショップ

応用哲学としての宇宙倫理学の現在

第五回年次研究大会で「宇宙倫理を考える」というシンポジウムが開かれ、JAXA でサマース

クールが開催されるなど、応用哲学会は日本において宇宙倫理学が議論される場となってきた。

議論の進展に伴い、当初の宇宙開発全般を扱うような話題だけではなく、より具体的な場面や問

題関心に焦点を当てた研究がなされるようになっている。この意味で、「宇宙」は応用哲学のさ

まざまな問題関心がその上で展開される議論のプラットフォームとして確立されたと言ってもよ

いだろう。本ワークショップでは、宇宙倫理学の多面的な話題を示すことによって、その更なる

可能性を検討したい。

杉本俊介「宇宙ビジネスにおける社会的責任 ――社会貢献と営利活動をどう両立させるか

――」

現在、日本を含め世界の宇宙ビジネスは急速に拡大している。宇宙ビジネスは、宇宙機器産業

と宇宙利用産業に大別される。宇宙機器産業とは人工衛星やロケットの本体や部品を製造する産

業であり、宇宙利用産業とは衛星通信・放送・GPS 等の宇宙インフラを利用する産業である。

日本では、宇宙機器産業が極端な官需依存のため伸び悩んでいる。そこで、最近では宇宙利用産

業への注目が高まっている。政府は、宇宙関係予算を増やすことが困難であるため、宇宙の利用

方法を拡げ(宇宙利用の拡大)、産業基盤を維持し強化することで、日本の宇宙活動を自律的に

展開しようとしている(自律性の確保)。そのために現在注目されているのが、測位衛星、リモ

ートセンシング衛星、通信・放送衛星、宇宙輸送システム、の四分野である。

本発表では、こうした宇宙ビジネスが今後どうあるべきか、と問う。まず、ビジネスにおける倫

理のあり方として CSR(企業の社会的責任)に注目し、宇宙ビジネスの特徴を活かした CSR の

可能性を検討する。次いで、宇宙旅行ビジネスに伴う健康リスクの問題と、オランダの NPO マ

ーズワン(MARS ONE)の問題を考察する。

大庭弘継「宇宙安全保障の倫理的論点」

宇宙安全保障の問題を、応用倫理学の観点から論じるのは、現時点で3つの困難を抱えてい

る。第一に、宇宙の安全保障利用は、地上の戦争の補助的位置づけであり、これを単独で取り上

げる必要性が薄い。第二に、いま宇宙空間が戦場になったとしても、インフラに大きな被害は生

じるが、直接的な犠牲者はほぼ生じない。第三に、宇宙兵器の情報が公表されていないという、

Page 99: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-8

97

W-8

議論の材料が欠如した状態であり、ある種の空想を持ち込まざるを得ない。

これらの困難を前提に、本報告では、今後の課題になると考えられる倫理的論点を提示する。

1) 致命的でないインフラ破壊に焦点を当てた、つまり人命の犠牲を前提にしない、戦争(安全

保障)倫理は可能か。2) 人類を標榜できる政治的主体が存在しない状況で、宇宙安全保障を語

る主体をどう考えるべきか。3) 軍事と民生の境界がこれまで以上に曖昧となる宇宙でのデュア

ルユース問題にどう対処するべきか。

岡本慎平「火星(テラ)へ… ――惑星改造の道徳的正当化――」

これまでの環境倫理学の成果の一つは、我々の道徳的配慮の対象を、人間だけから人間以外の

動物に、そして動物から生態系に、様々な形で拡張した点にある。いまや自然保護の観点を抜き

にして土地開発の是非を論じることはできないだろう。

しかし、これが地球外の天体となれば話は別である。例えば一切の生態系が確認されない地球外

惑星に介入する際、「その惑星の自然保護」を考慮する必要はどの程度あるのだろうか。本発表

では地球外惑星の大規模開発の典型例として「火星のテラフォーミング」を取り上げる。

周知の通り火星は地球とよく似た天体でありながら、その自然環境は人類の生存に適さない。そ

のため、もし将来的な火星植民を考えるのであれば、大気の組成そのものを作り変える大規模な

改造が必要となる。だが、人類が生存の場を地球外に広げていくために、テラフォーミング技術

の確立と実行は道徳的責務だと主張する論者がいる一方で、見方を変えればテラフォーミングは

途方もない自然破壊に過ぎないと考える論者もいる。本発表では、この問題の是非を検討する。

清水雄也「宇宙倫理学とエビデンス ——社会科学との協働に向けて――」

宇宙倫理学的議論の妥当性は、しばしば特定の事実に関する主張の正しさに依存する。たとえ

ば、宇宙探査の道徳的正当化に関する議論の多くは、その前提に自然や社会に関する何らかの事

実的主張を含む。当然、その主張が正しくなければ当の議論は妥当性を欠き、結論を受け入れる

理由を提供しない。宇宙倫理学を論ずる者が知的な説得によって人々に主張を受け入れさせよう

とするならば、その主張を導く推論に必要な前提が正しいと判断するためのエビデンスを提示す

る必要がある。

しかし、倫理学的な議論に参加する者は、必ずしも特定の事実に関する主張を支えるエビデン

スを示したり適切な推論を遂行したりするために要求される専門的な技能を持たない。したがっ

て、説得的な宇宙倫理学を展開するには、然るべき技能を持つ専門家との協働が欠かせない。

本発表では、エビデンスが要求される 3 つの場面に注目しつつ、宇宙倫理学が様々な科学領域の

専門家と積極的に協働すべき理由を述べる。その際、特に宇宙倫理学との関連性が見落とされが

ちな社会科学との協働が要求されるケースを取り上げる。

Page 100: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-9

98

W-9

W-9

A14 教室(1 階)

4/8(日)15:50-17:50

出口康夫、加藤猛、工藤泰幸、唐沢かおり、西郷甲矢人

ワークショップ

Society 5.0 を応用哲学する:IT システムと社会規範

「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムによ

り、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」(内閣府HP)とさ

れる 「Society 5.0 」は、サイバー空間とフィジカル空間が分離したままの情報社会(Society

4.0)に代わる、「我が国が目指すべき未来社会」(同)として、国の第5期科学技術基本計画に

盛り込まれ、例えば文科省の国立大学関連予算においても、その実現に向けて十数億円単位の予

算計上がなされている。

日立製作所と京都大学によって設立された「日立京大ラボ」では、日立製作所の情報技術者と

京都大学文学研究科応用哲学倫理学教育研究センター(CAPE)のメンバーを中心に、2017年秋か

ら、この「Society 5.0 」を、応用哲学・倫理学・統計学・数学・社会心理学といった文理横断

的で多角的な観点から分析・検討する作業を進めてきた。これら両者による共同研究では、ITシ

ステムを社会実装することを通じて、「フィジカル空間」を「サイバー化」する(ないしは「サ

イバー空間」を「フィジカル化」する)際に起こりうる哲学的・倫理学的な諸問題を顕在化させ

ることが試みられてきた。具体的には、それは、「Society 5.0」が、一方では、どのような既存

の社会規範を暗黙の前提としつつ、他方では、どのような新たな社会規範を生み出しうるのかを

見定めること、言い換えると、ITシステムの社会実装と社会規範との間の循環的でダイナミック

な関係を明らかにすることを目指してきたのである。

本ワークショップは、この共同研究の、いわば「公開ライブ」バージョンとして企画された。

そこでは、日立側の二人の情報技術者が、IT システムの社会実装と社会規範との関わりについて、

それぞれ問題提起を行い、それらに対して出口康夫・西郷甲矢人・唐沢かおりが、それぞれの立

場からコメントを加えることになる。

加藤猛「個人主義的合理的選択理論から個人間の相互作用モデルへ」

「Society 5.0」において実現されるべき社会や、その中で働く個人間の力動的関係、さらにはそ

れらの関係をレギュレートする社会規範のモデルとして、本発表では、アダム・スミスによる「見

えざる手の定理」に見られる「方法論的個人主義に基く合理的選択理論」を排し、ヘルマン=ピ

ラートとイヴァン・ボルディレフが唱える「相互承認論」、ジョセフ・ヒースの「規範的同調性」

概念、カウシック・バスーの「道徳的費用」概念を取り入れた「個人間の相互作用的」代替案を提

案する。具体的には、「コモンズの悲劇」や「公共財ゲーム」などの資源共有問題に即して、他者

Page 101: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-9

99

W-9

行動に対する承認や同調によって個人間の効用格差が効果的に抑えられうることを示す。この場

合、周囲の他者の効用/能力比を考慮に入れながら自身が負担するコストを調整することで、個

人ごとの能力に応じた格差、即ち許容できる不平等が実現可能となる。ここで個人が負担するこ

とになるコストは、(固定税的または消費税的ではなく)個人の能力に応じた累進税的なものであ

るべきだが、個人間の偏りやフリーライダーを抑えるためには、規範に対して社会的合意として

の実効性を持たせた上で、場合によっては個人間の相互作用(承認や期待)に社会システムが適

切に介入する必要がある。なお、このような「相互作用的」代替モデルが抱える課題としては、

許容される介入とそうではない介入の間に明確な線引きを図ることと、介入によって個人の規範

的行為をいかに促進するかを明らかにする点にあると思われる。

工藤泰幸「社会的ジレンマ解決の AI 化とその効果のメタアナリシス」

個々人の効用を最大化する短絡的な行動の結果、社会全体にとっての不利益を招く現象は、コ

モンズの悲劇やフリーライダー問題として知られるとともに,一括して「社会的ジレンマ」と呼

ばれている。社会的ジレンマの具体例としては、ごみのポイ捨てや放置自転車、広域的には交通

渋滞や環境問題までもが含まれる。また、このような社会的ジレンマを解消する方法としては、

それぞれ機構・制度・心理を介入的に操作するアプローチが提唱されてきた。中でも、心理を操

作するアプローチは、人々に大きな負担を強いることなくその行動を変えることを可能とする方

策であり、例えば行動経済学においては「ナッジ」と呼ばれ注目を集めてきた。

一方、この心理的アプローチは、その効果が環境に依存しすぎるという弱点も抱えており、あ

る現場では有効であった方法が別の環境では全く効力を発揮しないこともままある。このため、

効果的な心理的アプローチを実現するためには、かねがね専門家によるきめ細かな現場調査や分

析が必要とされてきた。本発表では、この適用現場の調査・分析という、従来は専門家の手作業

やスキルに全面的に委ねられてきた操作を、IT を用いて自動化することで、社会的ジレンマの心

理アプローチの適用可能性を一挙に拡大することを目指している。

上記の IT による自動化において、現場の状態診断はセンシングデータの解析として実行されう

る。一方、アプローチの適用効果の予後診断は、まだそのアプローチが実施されていない現場に

おいては困難である。そこで、アプローチの効果を予測するために、「メタアナリシス的統合心理

モデル」の導入を試みたい。20 世紀の後半以降、社会的ジレンマを模倣した公共財ゲーム等を用

いた心理実験が盛んに行なわれるようになり、様々なアプローチの介入効果を測定した事例が多

数報告されてきた。これらのデータを網羅的に収集して巨大な重回帰モデルを構築するというメ

タアナリシスを行い、心理的アプローチの効果予測をシミュレートするとともに、メタアナリシ

ス的統合心理モデルの方法論、特にデータ収集およびモデル構築の仕方についても議論を深めた

い。

Page 102: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-10

100

W-10

W-10

A26 教室(2 階)

4/8(日)15:50-17:50

矢田部俊介、朱喜哲、大西琢朗

ワークショップ

論理学の哲学と推論主義

論理学の哲学においては、長らく真理値を基礎概念として論理的帰結関係などを説明するモデ

ル論的なアプローチが主流であった。しかし近年、人間の日常的な推論実践そのものを基礎概念

とし、その推論実践から指示や真理値などの概念を導出しようとする推論主義が言語の意味の理

論において勃興すると共に、論理学の哲学においても、推論主義的なアプローチを採用し、推論

を基礎概念として他の概念を説明しようという動きが出てきた。

本ワークショップでは、3 人の提題者がそれぞれの専門分野において推論主義がどのように有

効に機能しうるかを紹介し、同時に、証明論的意味論やモデル論など既存の研究プログラムとの

関係についても討議する。第一発表は、ブランダムの「論理的表現主義」をいかにして確率や様

相のボキャブラリーを伴なう「蓋然性推論」へと拡張するかを論じる。第二発表は、証明論とモ

デル論の協働によって「推論の構造」を解明する戦略について、推論主義の立場から考察する。

第三発表は、哲学的に負荷の少ない「真理理論」を得るには、推論主義的観点が有用ではないか

という見通しを提示する。

第一発表「規範と論理ー蓋然性推論の明示化を通じて」

推論主義では、日常の言語使用における推論実践を議論の出発点とする。日常的な推論のただ

しさは、それ自体で実質的によい(materially good)ものであり、それらは規範的な性格をも

つ。論理学ひいては論理的ボキャブラリーの役割は、推論実践において暗黙にはたらく規範を明

示化することにある。これがブランダムの論理的表現主義(logical expressivism)である。ここ

で問題となるのは、基本的な概念として導入される「実質的によい推論」のよさと「論理的にた

だしい推論」のただしさとの関係である。ブランダムの立場では、後者を前者から独立に理解す

る(Cf. Sellars(1953)、Olen(2016))ことはできず、広範な実質推論の一部に形式推論として明

示化可能な推論があると考えられる。またこのとき、より広範な推論実践を明示化しうる論理体

系の検討というさらなる課題も提出できる。本発表では、とりわけ確率や様相のボキャブラリー

をともなう蓋然性推論について、この課題にとりくむ。

Brandom, R. (1994) Making It Explicit, Harvard University Press

Brandom, R. (2008) Between Saying and Doing, Harvard University Press

Olen, P. (2016) Wilfrid Sellars and the Foundation of Normativity, Palgrave Macmillan

Porello, D. (2012) “Incompatibility Semantics from Agreement,” Philosophia40: p.99-119.

Page 103: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-10

101

W-10

Sellars, W. (1953) “Inference and Meaning,” Mind 62: pp.313-338.

第二発表「推論の構造―証明論的観点とモデル論的観点」

ブランダムが論文”Asserting”やその後の著作 Making It Explicit で鮮やかに示しているよう

に、われわれの推論という活動は、命題同士あるいは推論主体同士のあいだで「コミットメン

ト」や「資格」が飛び交う、かなり複雑で豊かな構造を備えている。そして、個々の結合子の意

味を定める推論規則のレベルではなく、このような推論の構造のレベルこそ、推論主義的意味論

ないしその一下位種としての証明論的意味論が解明に乗り出すべき「主戦場」ではないか、とい

う認識は徐々に広まってきているように思われる。本発表ではこのような現状認識を提示したあ

と、この「主戦場」においては、(規範的語用論や結合子についての表現主義を含む広い意味で

の) 推論主義の掛け声のもと、証明論とモデル論が仲良く協働できるし、またするべきだ、と論

じる。モデル論、とくに関係意味論における到達可能性関係は、まさに推論の構造のモデルを提

供してくれる。それに対する証明論の武器は、推論の構造と論理結合子の相互作用、ブランダム

的に言えば「明示化」の明確な表現である。これらの「協働」がいかになされるかを、ラベル付

きシークエント計算・ディスプレイ計算などの拡張シークエント計算の体系や、関連性論理のモ

デル論などいくつかの具体的事例を参照し、説明する

第三発表「推論主義的な真理観」

デフレ主義的な真理理論においては、真理概念は基本的に冗長なものであるが、真理概念は一

方で「彼の言ったことは全て真である」や「形式的算術の定理は全て真である」といった一般論

を述べることを可能にする。ホーウィッチは「真理」において「彼の言ったことは全て真であ

る」から「彼の言った『マウンテンはマウンテンである』は真である」という形で推論的役割を

果たすことが真理概念の有用性の源泉であると主張しており、この視点はデフレ主義者に共通し

ている。この延長線上で、推論主義的な視点から真理概念を捉え、推論における役割、振る舞い

のみを真理理論の主要な対象とすることは有望であると思われる。その際には、モデルではな

く、証明論的な記号の振る舞いのみに着目すれば充分であり、哲学的に負荷の小さい理論が得ら

れると期待される。本発表では、このアイディアについて予備的な検討を加える。

Page 104: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-11

102

W-11

W-11

A27 教室(2 階)

4/8(日)15:50-17:50

寺本剛、鈴木俊洋、齋藤宜之、竹中真也

ワークショップ

農業という技術について考える

国連食糧農業機関(FAO)によれば、世界人口が今後も増え続けた場合、2050 年には現在よ

り 60 パーセントも多くの食料が必要となる。しかし、気候変動、森林伐採、地力収奪型農業な

どを原因として、侵食、塩類集積、圧密、酸性化および化学物質汚染が発生し、一人当たりの利

用可能な農地面積は減少している(1960 年では 0.45 ha、1980 年では 0.32 ha、2020 年 の予

測では 0.22 ha) (Status of the World’s Soil Resources(SWSR) – Technical Summary,2015 )。

一方で、農業生産の場面では、管理された温室や植物工場での野菜作り、ICT やロボット技術を

駆使した省力化、高度なセンシング技術で収集されたビッグデータをもとに施肥のタイミングや

収穫時期を予測する技術など、新たな技術的試みがはじまっているが、こうした試みが将来の安

定的な食料生産や農業の持続可能性に寄与するかどうかはまだ不明である。

こうした現状認識を踏まえて、本ワークショップでは、従来の農業のあり方や現在進行中の農

業技術の動きを評価するための出発点として、農業という営みとそれを可能にする技術の本質に

ついて哲学的に検討する。各提題の内容は以下の通りである。

提題1 竹中真也「農業の哲学的含意―P.B.トンプソンを手がかりにして」

トンプソンは、将来のアメリカの農業にたいして、二つの仮想のシナリオを描いている。ま

ず、環境に配慮しつつ、市場や顧客のニーズを意識し、要望に応じた野菜を必要な分だけ――遺

伝子組み換えも許容しながら――都会のビルの中で栽培する農業が、第一のシナリオである。こ

れに対して、第二のシナリオによれば、土地に根付き、その土地固有の文化や生態系に配慮し

た、土地の景観をも守りながら行う農業、しかも教育の一環として若者の農業体験が可能な農業

がある。トンプソンは、それぞれを industrial agriculture と agrarian agriculture と呼び、これら

の二つの農業の背後に控える哲学的立場を解明し、両者の関係を考察している。管見によれば、

そこから見えてくるのは、農業という営みに含まれる政治や経済や倫理の複合的な在り方であ

る。本報告は、トンプソンによる議論を踏まえて、農業という営みの哲学的含意を解明するとと

もに、その議論の正当性を吟味してみたい。

提題2 齋藤宜之「農業労働の意味―アーレントとトンプソンに即して―」

アーレントによれば、「労働」とは、第一に食物に代表されるような人間の生命維持のために

不可欠な必需物・消費物を生産する営為であり、第二に「自然」による浸食から人工的「世界」

Page 105: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-11

103

W-11

を保護するための継続的・反復的な営為でもある。このような見方は、「労働」の一種である

「農業」という営為の意味を理解するための重要な出発点となる。というのも、農業とは農産物

の生産活動であると同時に、土地・土壌の維持管理という重要な側面を合わせ持っているからで

ある。とはいえ、「自然」と「人為」の二項対立という図式を前提とするアーレントの説明は、

農業という営為の特殊性を理解するのに十分であるとは言いがたい。そこで参照したいのが、

P.B.トンプソンである。彼は、農業をたんなる「産業」の一種と見なす “industrial philosophy of

agriculture”という立場と、農業に他の産業とは異なる独自の特色を見出す“agrarian philosophy

of agriculture”という立場を区別することで、「自然」対「人為」という二項対立を止揚すること

を提案している。本報告では、上述のようなアーレントの労働論とトンプソンの農業論を理論的

な基礎に据えたうえで、近代以降のテクノロジーの発展と経済システムの変化にともない様々に

変転した農業労働のあり方の意味を、哲学的な観点から分析してみたい。

提題3 鈴木俊洋「テクノロジーとしての農地」

農業技術とは何を指すのだろうか。鍬、鎌、脱穀機からトラクターを経て現代における「スマ

ート農業」に至るまで、これまで農業は、常に技術革新と共にあった。「人間」が「自然」を加

工して食物を生み出すために使う「人工物」が技術だとする枠組みにおいて、「農地」はどのよ

うに位置づけられるだろうか。農業において、「人間」は、「技術」によって、「農地」を加工し

て食物を生み出しているのだろうか。それとも、「人間」は「農地という人工物」を使って「自

然」から食物を生み出しているのだろうか。本発表では、「農地」を、ラトゥールの述べる「人

間と非人間の(主体と客体の)ハイブリッド」として捉えることにより、どのような農業技術観

が得られるかを論じ、結果として得られた農業技術観や農地観の中で、日本的農業や環境思想に

おける「里山」の概念がどのように捉えられるかを検討する。

提題4 寺本剛「農業技術の評価をめぐって:持続可能性の観点から」

農業は自然を利用して生物を育て、食料として供給する営みである。そこでは、程度の差はあ

れ、食料となる生物の育成に適した環境を人為的に整備・維持することが求められる。これはエ

コシステムの中に特定の目的に適う理想的なサブシステムを形成することを意味する。農業のた

めの技術・技能とは、このサブシステムを形成・維持する技術・技能ということになる。重要な

のは、農地がエコシステムから資源やエネルギーを与えられ、そこに廃棄物を還元していくとい

う点で、エコシステムに依存的だということだ。それゆえ、農業技術の「よし・悪し」や農業の

「上手い・下手」を、とりわけ農業の持続可能性の点で評価する際には、それが再生不可能な資

源に強く依存しているかどうか、再生可能な資源(例えば土のような)を毀損していないかどう

かということが重要な指標となる。こうした見通しのもと、本発表では、いくつかの農業形態の

事例を参考にしながら、農業技術・技能を評価する枠組みについて検討する。

Page 106: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-12

104

W-12

W-12

A28 教室(2 階)

4/8(日)15:50-17:50

奥田太郎、唐沢穣、膳場百合子、松村良之、村上史朗

ワークショップ

責任と法をめぐる「素朴理解」に関する実証研究とその哲学的含意

2009 年の裁判員制度の導入によって、法律専門家でない一般の人々が一定の重大な犯罪事件

に関する刑事裁判に加わって実際に有罪無罪および量刑の判断に参与することとなり、「国民に

わかりやすい司法」「国民の司法への参加」が制度的に推進されてきた。しかしその一方で、9

年を経た今もなお、法律専門家と一般の人々の判断の間にどれほど隔たりがあるのかを明らかに

するような実証的な研究が十分に行われてきたわけではない。また、法律専門家にも、一般の

人々の判断が自分たちの専門的な判断との間にどれほど隔たりがあるのかを実感レベルを超えて

把握している者は多くはないだろう。こうした隔たりの実態を実証的に明らかにすることは、裁

判員制度を含む広い文脈での法律専門家による専門的な業務遂行のあり方を見つめ直すことに貢

献し、場合によっては、司法の判断が一般の人々の理解と信頼を得ることに役立ちうる。また、

そうした研究成果は、実際の政策立案や制度運用にも直接間接的に関わりうるため、それがもち

うる様々な政治的・社会的・倫理的含意を明確化することも必要であろう。そこで、本ワークシ

ョップでは、一般の人々が法的な概念についてもつ意識や理解の様式(「素朴法意識」「素朴法理

解」)と法律専門家の見地との間にどれほどの隔たりがあるか、という問いを軸として、主に、

責任と法をめぐる一般の人々の意識と理解のあり方について実証的な方法で解明した社会心理学

および法社会学の研究成果を提示する。そのうえで、本ワークショップ参加者との間で哲学的な

関心に基づく質疑応答および討議を行なうことを試みる。こうした作業を通じて、責任と法に関

する社会心理学、法社会学、哲学・倫理学の学際的共同研究の今後の見通しを立てる場とした

い。

社会心理学、法社会学からの実証的研究については、以下の4本の報告を行なう。[第一報

告:唐沢穣]私たちは、日常的に様々な不祥事のニュースに接するなかで、しばしば会社などの

集団や組織の責任を問う。このことは、一般の人々による素朴理解として、集団に固有の心的状

態、および、それに基づき責任を問う判断過程が存在する、という仮説を想起させるだろう。第

一報告では、この仮説を検証すべく行なわれた社会心理学的な研究について報告する。実験の結

果、集団に備わった能動性の認知が、集団に対する非難の構成要素としての意図性認知、ならび

に応報的感情を喚起するという過程が発見された。同様に、「心理的本質主義」の影響も部分的

に示された。これらの結果の含意について、当該分野における他の知見も参照しながら統合的討

論を試みる。[第二報告:膳場百合子]次に、ある組織に属する個人の行為について組織に責任

があると一般の人々が判断する際の判断過程を明らかにするための社会心理学的な調査研究につ

Page 107: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

W-12

105

W-12

いて報告する。ここでは、組織に責任があると判断する際に日本の人々の特徴として、組織が逸

脱行動を主導したこと(組織の行為主体性)よりも、組織が逸脱を防ぐ義務を十分に果たさなか

ったこと(組織の監督義務)を重視する傾向がある、ということが示される。[第三報告:松村

良之]第二報告の調査結果を踏まえたうえで、責任帰属について、法律専門家と一般の人々とを

比較する。ここで示されるのは、法律専門家の責任判断は一般の人々の責任判断と大きく異なる

わけではなく、むしろ、両者の違いはその精密性の度合い(認知の分化度)に存している、とい

うことである。他方で、一般の人々に比べて法律専門家は、組織の成員の過失の有無を問いうる

状況下では責任の判断は拡散的にならない、ということも示される。さらに、組織の逸脱との関

係で重要な法人に対する刑罰について、法律専門家も、教義学的なドイツ刑法学には反して、好

意的であることが示される。[第四報告:村上史朗]最後に、一般の人々の法に関する理解や意

識に関連して、ルールを道具的に用いてそれまでとは異なる行為や社会状態を導こうとするとき

にルール遵守を促進する方略に関する社会心理学的な研究について報告する。ここでは、制裁の

威嚇効果や啓蒙的教育に一定の効果を認めつつも、〈ルール遵守に関わる知識について、「周囲の

人々もそれを知っている」ことを知っている〉という「共有認知」が行動にもたらす効力に着目

する。具体的には、周囲の他者のルール遵守率の認知(共有認知の手がかり)と本人のルール遵

守が相関するという仮説の検証が試みられる。

これら4本の報告を受けて、多様な専門的バックグラウンドを有すると予想される本ワークシ

ョップ参加者との間での質疑応答および討議を行ない、責任と法をめぐる「素朴理解」に関する

実証研究がいかなる哲学的含意をもちうるのかを報告者と参加者の協働によって検討する。

Page 108: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

シンポジウム

Symposium

106

シンポジウム

Symposium

シンポジウム

A31 教室(3 階)

4/7(土)16:15-18:30

英語、通訳なし、一般公開

[Symposium] Modernism and Modernisation of Mathematics

Speaker:Jeremy Gray, Susumu Hayashi(林晋) Moderator : Masao Morita(森田真生)

趣旨

19 世紀から 20 世にかけて、数学はかつてないほどの大きな変容を経験した。カントールやデ

デキントによる集合論的基礎の構築、ヒルベルトらによる公理的手法の確立よって、数学はそれ

以前とは大きく異なる方法で探求されるようになり、そして数学そのものについての人々の考え

方も大きく変わった。この変容は、しかし、数学の中で独立に起こったわけではなく、芸術にお

ける modernism や他の学問分野における modernisation と密接な関連を持っている。本シンポ

ジウムはこの数学の変容を中心的なテーマにして、その変容に関わった、あるいは反発した数学

者たちについての歴史的研究を通じて、その当時に数学に何が起こったのか、そしてそれが例え

ば物理学などの分野に起こったこととどのように関係しているのかを深く掘り下げる。

Jeremy Gray: Poincaré and Weyl: two dissenters from mathematical modernism.

Around 1900 a characteristic form of modern mathematics took over the subject, which we

associate with Georg Cantor, Richard Dedekind, and David Hilbert among others. It sees

mathematics as an autonomous system of ideas, emphasises the formal or axiomatic aspects, and

brings about a complicated relationship with the sciences. Henri Poincaré (1854—1912) and

Hermann Weyl (1885—1955) preferred a much more intimate connection between mathematics

and physics and argued in different ways for a symbiotic approach, which they also linked to a

broader philosophical vision.

Susumu Hayashi: How was Mathematics modernized?

I have been developing a historical view on the modernization, in the sense of Max Weber

sociology, of mathematics for the last 19 years. I will outline it in this presentation. The starting

point of my research was an enigmatic (to me) claim by Kurt Gödel in his unpublished

philosophical essay. His claim may be interpreted as “World-views have been disenchanted

(modernized) through the history since the Renaissance. Particularly in physics, this development

reached a peak in the 20 th century. However, mathematics alone went in the opposite direction as

set theory was introduced into it.” My historical view was slightly changed from Gödel’s to make it

Page 109: WordPress.com - 応用哲学会第10回年次研究大会 プログラム ......応用哲学会第10回年次研究大会 プログラムと予稿 2018年4月7日(土)・8日(日)

シンポジウム

Symposium

107

シンポジウム

Symposium

fit into Weber’s modernization theory. I will discuss how important Hilbert’s program and Gödel’s

incompleteness theorems were for the modernization of mathematics, and how they made the

process of modernization of mathematics somewhat different from the process of modernization of

physics.