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―  ― 1 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第64集・第1号(2015年) 本研究は,ドイツの哲学者マックス・シェーラー(Max Scheler, 1874-1928)の思想を,人間形成 論的観点から再構成することを目的としている。本稿では特にシェーラーの典型論に着目し,人間 形成の道徳的形成過程における「典型(Vorbild)」の意義について検討をおこなった。それにより, 典型は各人に対して「汝があるところのものになれ」と呼びかけ,それに各人は自らの典型による呼 びかけとして自律的に追随し共に形成することが,道徳的形成であり同時に調和的人間形成である ということが示された。今日,道徳教育の教科化に伴い,その在り方と是非に関する議論が活発化 している。シェーラーの典型論は,それらの道徳教育における問題に対して,教育の限界と可能性 を踏まえつつ,より広い人間形成論的視点から道徳的形成をとらえる必要性と,その際の新たな視 座を提示していると考える。 キーワード:道徳的人間形成,典型,反型,自律性,調和 1. 問題の所在と本稿の目的 マックス・シェーラーは,19世紀末から20世紀初頭にかけて倫理学,現象学,哲学的人間学など 多彩な思想を展開し,多くの分野に影響を与えたドイツの哲学者である。そのなかでも教育学的観 点からたびたび取り上げられるのが,シェーラーの典型論である。これまでシェーラーの典型論は, 「典型としての教師」という理想の教師像として論じられることが多かった。三輪(1966)は,シェー ラーの典型概念(ここでは「模範」と訳されている)を道徳教育と関連づけて,以下のように述べて いる。 道徳教育の中心には,いつも教師が,教師の模範人格存在が,光背を担って立っていなければ ならない……かような模範存在としての教育により,はじめて子どもは,自己自身の理想像を 教師の中にみいだし,よろこんでこれに追随する。 1 ここでは,道徳教育においては教師こそが生徒の「典型」となるべきである,とする理想の教師―生 M. シェーラーの道徳的人間形成論 ―典型論を中心として― 盛 下 真優子 教育学研究科 博士課程後期

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� 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第64集・第1号(2015年)

 本研究は,ドイツの哲学者マックス・シェーラー(Max Scheler, 1874-1928)の思想を,人間形成

論的観点から再構成することを目的としている。本稿では特にシェーラーの典型論に着目し,人間

形成の道徳的形成過程における「典型(Vorbild)」の意義について検討をおこなった。それにより,

典型は各人に対して「汝があるところのものになれ」と呼びかけ,それに各人は自らの典型による呼

びかけとして自律的に追随し共に形成することが,道徳的形成であり同時に調和的人間形成である

ということが示された。今日,道徳教育の教科化に伴い,その在り方と是非に関する議論が活発化

している。シェーラーの典型論は,それらの道徳教育における問題に対して,教育の限界と可能性

を踏まえつつ,より広い人間形成論的視点から道徳的形成をとらえる必要性と,その際の新たな視

座を提示していると考える。

キーワード:道徳的人間形成,典型,反型,自律性,調和

1. 問題の所在と本稿の目的 マックス・シェーラーは,19世紀末から20世紀初頭にかけて倫理学,現象学,哲学的人間学など

多彩な思想を展開し,多くの分野に影響を与えたドイツの哲学者である。そのなかでも教育学的観

点からたびたび取り上げられるのが,シェーラーの典型論である。これまでシェーラーの典型論は,

「典型としての教師」という理想の教師像として論じられることが多かった。三輪(1966)は,シェー

ラーの典型概念(ここでは「模範」と訳されている)を道徳教育と関連づけて,以下のように述べて

いる。

道徳教育の中心には,いつも教師が,教師の模範人格存在が,光背を担って立っていなければ

ならない……かような模範存在としての教育により,はじめて子どもは,自己自身の理想像を

教師の中にみいだし,よろこんでこれに追随する。1

ここでは,道徳教育においては教師こそが生徒の「典型」となるべきである,とする理想の教師―生

M. シェーラーの道徳的人間形成論―典型論を中心として―

盛 下 真優子*

*教育学研究科 博士課程後期

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

徒関係がシェーラーの典型論から導きだされている。しかし,道徳の教科化がすすめられているの

と同時に,教師の資質や人間性がたびたび問題となっている今日,道徳教育さらには教育自体の基

礎となる人間形成という視点へと立ち戻り,どのようにして人間は道徳的に形成されうるのか,そ

してその際に何が大きな影響を与えうるのか,という大前提こそ問い直す必要があるのではないだ

ろうか。このような視点に立つとき,シェーラーの典型論は人間形成論的に非常に示唆に富むもの

である。というのも,シェーラーの典型論は教師―生徒関係をも包括するような,道徳的人間形成の

原理として理解することができるのであり,またそのように理解してこそ,シェーラーの典型論の

真の教育学的意義が明らかになると考えるからである。

 以上のような問題意識から,本稿ではシェーラーの典型論を道徳的人間形成の観点から考察し,

道徳的人間形成の過程における典型の意義を明らかにしていきたい。そしてそれにより,今日の道

徳教育に対して,人間形成論の立場から新たな視座を提示する試みをおこないたい。

2. 実質的価値倫理学と典型類型 シェーラーが最もまとまった形で典型論を展開しているのが,倫理学の著作である『倫理学にお

ける形式主義と実質的価値倫理学(Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik,

1913-1916)』および,『典型と指導者』(Vorbilder und Führer, 1911-1921)』である。シェーラーが倫

理学において典型論を論じた意図は,「道徳的主体としての人格の,道徳生活への現実的かかわり

を明らかにする」ためであり,それによってシェーラーが当時受けた「客観主義的価値倫理学という

ネガティヴな評価に対して答えようとした」というように位置づけられている2。したがって,シェー

ラーの典型論とそこで展開されている道徳的人間形成論を理解するために,まずはシェーラーの倫

理学思想を取り上げたい。

2-1 実質的価値倫理学

 シェーラーの実質的倫理学におけるキーワードとしては,①情緒的なものの価値認識作用,②ア

プリオリな価値位階,③人格の個別性と自体的善,④連帯性と共同責任の四つをあげることができ

る。シェーラーは倫理学において,人間が一切の知覚や把握に先行して,第一に価値把握的な態度

で世界と接しているとしている。その際シェーラーが注目するのが,ある対象を「~として」志向

的に把握する感得作用や,価値を比較し「より高い」のか「より低い」のかを認識する先取・後置作用,

それらの諸作用を基づけている愛の作用などの,情緒的なものによる価値把握的態度である。特に

重視されているのがこの愛の作用であるが,愛の作用はそれ自身ではけっして積極的価値や消極的

価値など,価値の高低の認識を目指すものではない。むしろ,価値の高低以前の価値認識作用の原

動力なのであり,その働きにおいて価値が「おのずから」あふれ出るような,価値の発見的役割を果

たしている(GWⅡ,275; GWⅦ,160)3。

 このような価値認識作用が働くうえで前提とされているのが,アプリオリな,すなわち経験に先

立って与えられているような,価値位階の存在である。キリスト教カトリックの影響を大きく受け

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� 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第64集・第1号(2015年)

ていた中期のシェーラーにとって,諸価値はアプリオリな序列的関係にあり,価値認識作用もまた,

アプリオリな価値位階に対応した諸価値へと作用するものと考えられている。そのアプリオリな価

値位階は,下位の価値から順に快・不快の価値,有用価値,生命的価値,精神的価値,聖なる価値あ

るいは人格価値であり,人格神が頂点に据えられている(GWⅡ,125-130)。そして,上位の価値を

先取しうる準備ができている人ほど,善い人格であるとされている。ここでは,快適なものや生命

的なものもアプリオリな価値として認められている点に,情緒的なものを再評価しようとする

シェーラーの試みがみられるだろう。

 さらに,シェーラーの倫理学において特徴的であるのは,「各人は彼がまさに純粋4 4

な人格である

のと同じ4 4

程度に個性的4 4 4

存在であり,それゆえ他の人格から区別された唯一回的存在であり,それと

類似的に彼の価値は個性的唯一回的価値である」ため(GWⅡ,499),代替不可能な存在であるとし

ている点である。このようにシェーラーは,人格の個別性を認めると同時に,各人格による価値の

実現も重視している。すなわち,普遍妥当的な価値および規範に従って諸価値を実現することを重

視していた従来の倫理学(主にシェーラーの批判はカントの形式主義的倫理学に向けられている)

に対して,シェーラーの実質的価値倫理学では,各々の人格の個別的な価値実現こそが求められて

いるのである。このことをシェーラーは,「私にとっての自体的善(das An-sich-Gute für mich)」と

いう言葉で表現し,以下のように説明している。

一人の個人のみ4 4

が自分自身4 4 4 4

だけに関連していて,かつこの唯一の「場合」にのみ妥当である当為

内容に関して完全な明証をもっており,その当為内容が普遍的立法4 4 4 4 4

の原理にも,類似した状況

や「場合」に関してと同様あらゆる人間に関しても「普遍的に」有効ではけっしてなく4 4

,その当

為内容は唯一の個人にとってだけ4 4

「べき」であり,この場合にだけ4 4

,そして自分自身にとって洞

察的であるということを同時に彼が完全に明晰に意識している,ということも全く可能なので

ある。(GWⅡ,288)

しかし,注意したいのがこの「私にとっての自体的善」とは,〈それが自体的に善であるのは私に

「とって」のみである〉ということを意味していない点である。すなわち,積極的価値を減損あるい

は制限するような「個性的な気ままな衝動」を意味するのではない。なぜなら「善なるものの客観的

な本質と価値内実のうちには個性的人格への指示があり」(GWⅡ,495),アプリオリな価値領域の

うちにすでに,個別独自的な価値実現の要請が含まれているからである。したがって,「自体的に善」

を含んでいるからこそ「私の知識から独立して」いるという意味で非主観的な善なのであり(GW

Ⅱ,495),アプリオリな価値位階に裏づけられた独自的価値要求といえるだろう。

 以上のようにシェーラーは,人格間に価値相違性(Wertverschiedenheit)を認めるのであるが,そ

れに伴い人格相互間の連帯性(Solidarität)も重視している。この連帯性のもとでは,各人は自分自

身の個別的価値実現に対してのみならず,すべての他の人々の価値実現に対してもまた,「共同責任」

を負う。というのも,自らの価値の実現は同時に,人格神へ向けた価値位階の価値の実現の一端を

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

担うものとして位置づけられるからである。したがって人間は,個別独自的人間であると同時に,

共 に 活 動 す る も の(Mittäter),共 に あ る 人 間(Mitmensch),共 に 責 任 の あ る も の

(Mitverantwortlicher)なのである(GWⅡ,524)。

2-2 典型類型

 以上のような倫理学思想と典型論は,密接な関係にある。というのも,シェーラーは典型を「そ

の内実によれば人格統一性の統一形式のうちにある構造化された価値事態であり,人格形式のうち

にある構造化された特定のかくある価値性であり,その内実の典型具有性によればこの内実に基礎

づけられている当為存在要求の統一態である」と定義づけているからである(GWⅡ,579)。つまり

典型とは,いわば価値を人格化・具現化した存在なのであり,人格が有する価値を現実的な世界に

おいて,倫理的に最高形式の存在と態度で示しているのである。そしてこのような典型は,偶然的

な歴史的経験などから抽象化されて導きだされることはないのであり,あくまでアプリオリな存在

であるとされている。

典型の理念は,偶然的な世界経験や歴史経験から経験的に抽象された概念ではなく,人間精神

の本質とそれに対応する最高の価値範疇,すなわち聖なるもの,精神的価値,高貴なるもの,有

用なるもの,快適なるものとを伴った,それ自体で与えられた,いわゆる「アプリオリな」(す

なわち偶然的経験の量から独立の)価値理念なのである。(GWⅩ,262)

このように典型は,アプリオリな価値位階における諸価値と対応関係にあるのであり,快・不快の

価値―生の芸術家(der Lebenskünstler),有用価値―文明の「指導的精神」(der Führende Geist

der Zivilisation),生命的価値―英雄(der Held),精神的価値―天才(der Genius),聖価値―聖者(der

Heilige)という典型類型に分けられている4。

 次に各々の典型類型について,簡単な説明を加えていきたい。生の芸術家の意義は,快適さとい

う新しい価値の発見者という点にある。そして,他者を最大の快と最大の快適さを先取することへ

と必然的に導き,生全体の快と快適さを,瞬間の快適の快よりも先取することは無意味であるとす

る洞察をおこなう(GWⅩ,315)。文明の「指導的精神」は,具体的には研究者,技術者,経済の指導

者であり,「進歩」を欲し「厳密な科学(哲学とは異なった),芸術的技術(芸術とは異なった)のよう

に,後からの価値がそれに先行する価値を無価値にする」ような働きをおこなう(GWⅩ,315)。英

雄は例えば政治家,将軍,植民地開拓者であり,彼らは意志の人間であると同時に権力のある人間

である。そして,自己自身を支配する者だけが人間を支配する権力を行使しうるという理由から,

英雄における根本的な徳は「克己」にある。天才は美,純粋な認識,正義という三つの純粋な理念か

ら導き出すことのできる芸術家,哲学者にして賢者,立法者にして裁判官の三者であり,創造的愛

を原動力として「世界を拡張する」働きをおこなう(GWⅩ,322)。聖者にはイエス,仏陀,マホメッ

ト,孔子などがあてはまり,彼らは「つねに根源的に,愛しまた直観するという仕方で,神的なもの4 4 4 4 4

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に関係づけられている」(GWⅩ,280)。また,人びとに対しては「みずからを神性の中心に置き換え,

神性の愛のうちから愛する」ように作用する(GWⅩ,321)。

 シェーラーは以上のような典型の存在を,理念的な典型自体と現実の歴史における経験的な典型

に分けて考える必要があるとしている。というのも,理念的典型は影のように弱々しいものであり,

それ自体では何ら影響力をもたないからであり,理念的典型は経験的素材と結合することによって

初めて,作用力を有するものになるからである(GWⅩ,269)。それゆえ理念的典型は歴史的に変化

することはなく普遍妥当性を有しているが,経験的典型は民族や時代によって異なったものとなる。

また,典型が有するこの理念と経験の二重性は,時間的二重性としても説明されている。

典型は人格生成のための典型としては,同時に期待像と希望像であり派生的には努力像であり,

そのようなものとしてはその内実は現象的未来に関連しているが,しかし典型はある歴史的に

事実である人格存在に(基づいてはいないが)即して4 4 4

獲得されたものとしては同時に記憶像と

崇拝像であり,派生的には礼拝像であり,その内実は現象的過去に,すなわちそのつどに「過ぎ

去ったものとして」与えられているものに関連している。(GWⅡ,588)

以上のことから典型は,その内実は変化しても理念自体は不変的なものであり続けるのであり,そ

れゆえ理念と経験,未来と過去,アプリオリとアポステリオリを仲介する役割を果たしているとい

えるだろう。

3. 典型と道徳的人間形成3-1 典型と指導者

 シェーラーの典型概念をよりよく理解するために,シェーラーがその相違点を強調している「指

導者(Führer)」との関係を取り上げたい。シェーラーはまず典型と指導者の両者ともが,「われわ

れの人間生活―個人の生活ならびに共同体のあらゆる種類の生活―をそれ独特のものにつくり

あげ,そのうえ善の方向ないしは悪の方向へと向けさせるおびただしい神秘的なもろもろの力のう

ちの二つ」であるとし(GWⅩ,257),形成への影響力を認めている。しかし同時に,シェーラーは

このような指導者と典型の概念が,次の三つの点で大きく異なっているとしている。

 第一に,指導者と服従者の間には相互的な意識関係がみられるのに対して,典型とその典型を善

しとする人のあいだでは,互いの存在を知る必要がない。すなわち,指導者は自分が指導者である

ことを知っていなければならず,そして指導しようと欲するのでなければならない。しかし典型は,

自分が典型であることを知り,また欲する必要はないのであり,たとえその人格を典型としている

者のほうが,その人格が典型であることを知っているにしても,そうなのである(GWⅩ,259)。さ

らに,典型を有している人(ないしは集団)でさえも,典型を意識的に知っている必要はないのであ

り,自分が典型を有し,実際にその典型にしたがって自分の存在や自分の心情を形成しつくりあげ

るのだということを知っている必要もないのである(GWⅩ,267)。

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

 第二に,指導者は実在的人間でなくてはならないのであり,ここにそして今いなくてはならない

のに対して,典型は空間・時間・実在的現在から独立しており,観念的関係に基づいて成立している。

それゆえシェーラーは,ソクラテスや仏陀など,かつて現実に生きていた人間のみならず,ファウ

ストやハムレットなどの作品中の人物,ヘラクレス等の神話におけるギリシア人の英雄理念なども

また,典型となりうるとしている。

 第三に,指導者はもっとも普遍的・没価値的・社会学的概念であるのに対して,典型はつねに一個

の価値概念である。すなわち,どの集団も数において小さい「指導者」と,数において大きい「服従者」

という二つの部分に分かれるという法則は,価値評価の対立や世界観の対立とはまったく関わりが

ないのであって,いかなる価値的意義も有してはいない。それに対して典型は,つねに一個の価値

概念であるため,人々は自らの典型を善いもの,完全なもの,あるべきものとして典型に関与する

ことになる。したがってそこには,「何かある種の愛と,宗教的・道徳的・美的意味における何かあ

る種の積極的な価値把持とが,各人の魂をその典型と結び付ける―つねに熱烈で情動的な関係」

が成立しているのである(GWⅩ,262)。

 また,典型と指導者の関係に関しては,典型は指導者を必要としないものの,指導者は典型を必

要とするとされている。すなわち,すべての民族や集団にとってまず第一に典型的であるのは,一

般に人間ではなく彼らの神々であり,これらの神々によって何らかの方法で規定され,動かされ,

恩寵され,教化され,誘惑されて現われる人間こそが指導者なのである。したがって両者は,指導

者が典型を規定するのではなく,支配的な典型が誰が指導者になるか,いかなる種類の指導者が生

まれるかを規定するという作用関係にある。それゆえにシェーラーは,「指導者は典型でもまたあ

りうる4 4

」のであり(GWⅩ,263),とくに宗教的指導者,道徳的指導者,政治的指導者,教育的指導者

は典型になりうる4 4

としている。

3-2 道徳的形成過程における典型とのかかわり

 以上のように指導者の存在とは区別される典型の存在は,道徳的人間形成の過程において各人に

対してどのように関与し,影響を与えるのだろうか。まず第一に,シェーラーがこの典型の存在を,

「社会的集団および個別的人格の形成(Bildung)にとって最も有効な,最も力強い外的な刺激手段」

として理解している点に注目したい(GWⅨ,104)。「つねに人格的に形成された価値=形態」であ

るところの典型は,形成に対して次のような関係にある。

この価値=形態は,一人の人間ないしは一個の集団の魂が成長し,形成されて,この形態に合

うようになるほど,その魂の前に懸っている(schweben)。そしてまた,その魂が,自分の存在,

生,作用をひそかに,ないしは意識的にその形態で測り,その魂がその形態と一致してあるか

あるいはそれと矛盾してあるかに応じて,おのれみずからを肯定し,称賛し,ないしは否定し,

非難する,それほど価値=形態は,その魂の前に懸っているのである。(GWⅩ,267)

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すなわち,典型は各人が道徳的に形成する際に,その指針を与えるような存在なのである。また,

ここでも述べられているように,シェーラーは典型が形成に与える影響は個別的人間形成のみなら

ず,歴史的形成にまでも及ぶと考えている。したがって根源的な理想そのものの歴史,理想の変更,

道徳性の規準の変更は,そのときどきの歴史的な生の現実性やその発展を参照することによっては

けっして生じえないのであり,この発展は典型による「理想4 4

の本源的方向付け」のもとでのみ,初め

て生じることになる(GWⅩ,320)。

この根本法則は,典型的4 4 4

としてそのつど作用し,だからこそ4 4 4 4 4

指導と先導に達する人間類型の交

替であり,この交替がはじめて事実的な理想形成に導いていく―さらにこの交替が,可能な4 4 4

歴史4 4

の活動領域の交替をそのつど規定する。(GWⅩ,321)

以上のことから,典型は人間形成および歴史的形成を「根源的に制約しかつ規定する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

」ことにより,

形成の方向づけをおこないうるような形成的原理であるといえるだろう。

 では,道徳的形成の過程において,このような典型と具体的にどのようにして関与することがで

きるのだろうか。シェーラーが典型を「つねに人格的に形成された価値=形態」や「典型人格」と表

現していることからもわかるように,典型との関わりにおいて前提とされているのが,シェーラー

の人格理解である。シェーラーは人格が,「おのれの存在をおのれの諸作用の自由な遂行のうちに4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

のみ有している」としており(GWⅨ,39),つねに諸作用のうちにのみ存在しうるものとして考えて

いる。したがって,対象化する作用もまた一つの作用であるから,自らの人格自体を対象化して捉

えることはできない。同様にまた,他者の人格についても対象化することはできず,他者の人格に

関与するには他者の人格の自由な諸作用を共に遂行するか(共遂行),追遂行する必要があるとされ

ている。このような人格理解に基づき,シェーラーは典型という一つの人格存在に対してもまた,

その諸作用を共同遂行することによってのみ関わりうるとする。すなわち,典型が有する道徳的価

値は,「その人格の諸作用を『共同遂行する4 4 4 4 4 4

(mitvollziehen)』ことによってのみ,すなわち,認識的

には『了解(Verstehen)』と『追随的生(Nachleben)』によって,道徳的には『服従(Gefolgschaft)』に

よってのみ」人びとに与えられることができるのである(GWⅦ,168)。

 このような典型への関与をシェーラーは同時に「随従(Folge)」とも表現しているのであるが,注

意しなければならないのは,これらはいずれも典型を目的対象と位置づけ,その対象を目指して形

成することを意味しているのではないという点である。というのもシェーラーは,「典型が目標を

規定しつつ生成する4 4 4 4 4 4 4 4 4

が,しかし典型は目標としては追求されもしないし,目的としては全然定立さ

れもしないもの」であると考えており(GWⅡ,580),それゆえ典型への随従とは,「典型に参入して

成長しつつ自己形成する」ということを意味しているからである。それに伴って,随従においては

「典型が意志するものと行動するものを,意志し行動すること」を学ぶのではなく,「典型としての

存在者が意志し4 4 4

行動するような様相4 4 4 4 4

で意志し行動すること」を学ぶことになる(GWⅡ,581)。すな

わち,典型の「人格としていかように4 4 4 4 4

存在しているかという様相4 4

」こそが重視されるのである。この

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

存在様相が担う道徳的価値は,典型の愛の作用のうちに現れ出る(GWⅡ,580)。したがって各々の

人格は,典型による独自の愛の作用を共同に遂行すること,すなわち典型が愛するものを「共に愛

すること」においてのみ,この典型の究極的な道徳的人格価値が与えられることになる。シェーラー

はこの随従による形成を「新たな形成(Neuebildung)」と呼んでおり,そのもとで心情の改良,変更,

改心が生じるとしている(GWⅡ,581)。

 以上のことから,典型への追随による道徳的形成の在り方が示されただろう。ただし,シェーラー

の道徳的人間形成論を考察する際には,中期思想と後期思想とではその意味内容が変わっている点

を考慮する必要がある。というのも,中期思想ではキリスト教カトリックの影響下にあり,道徳的

人間形成も価値序列の頂点に位置する人格価値に近づけば近づくほど,道徳的になると考えられて

いるからである。それに伴い,典型類型もまた人格価値に対応している聖者こそが最も価値の高い

典型とされている。そこでは,「あるのはただあの鎖のみであり,過度に高められた人格的典型の

あのピラミッドのみ」なのである(GWⅩ,270)。それゆえ典型は,より高い価値へと近づくための

仲介者としての役割を担っているといえる。後期思想に至るにつれて,価値序列の崩壊と「調和

(Ausgleich)」のテーマのもと,道徳的人間形成における典型の意義も変容していると考えられる。

4. 調和の時代における道徳的形成と典型の意義4-1 典型と全人

 第一次世界大戦による人間の確固たる地位の崩壊,価値観や世界観の不明瞭化を経験したのちに

展開された後期思想では,シェーラーは中期まで維持していたカトリック的思考から次第に離れて

いくことになる。そして,無力な精神と強力な生というテーゼのもとで,精神と生をはじめとする

諸々の「調和」という視点から「人間とは何か」が問われている。しかし,このような価値の序列的

関係の解消がみられるにもかかわらず,シェーラーにとってアプリオリな「絶対的価値領域」の存在

は変わらず,自らの思想の中心的役割を果たしていると考えられる。この「絶対的価値領域」のもと

では,諸価値は等価値的関係にあり,アプリオリなものとして維持されている。そこでは,一方で

価値そのものの間での優先法則は相対的で動的なものなのであって,絶対的価値領域に決定権はな

いものの,他方で絶対的価値領域のうちにすでに,一定の個別的で代替不可能なものとの関係が含

まれている。このように絶対的価値領域の理念を保持することによって,シェーラーは経験的かつ

相対的な現実的次元と,アプリオリかつ絶対的な価値の本質的次元の両方を想定し,自らの思想が

相対主義に陥ることがないよう試みたのである。そして,シェーラーが後期思想において理念とし

て掲げている「調和」は,この絶対的価値領域における諸価値を各々が個別的に実現していくことに

より,達成されると考えられている5。

 シェーラーは調和の時代における理想の人間像を,「全人(Allmensch)」と表現している。全人と

は,人間のあらゆる本質的可能性を実現し,自己のうちに包含しているような人間像を意味する。

しかし,私たち有限的存在者である人間は,そのような絶対的意味での全人の実現からは,いまだ

遠く隔たっているのも事実である。シェーラーもまた,全人を「超人(Übermensch)」でも「劣人

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(Untermensch)」でもなく,あくまで「人間4 4

でなくてはならない」とすることで,人間の有限性に即

して全人を理解しようとしている(GWⅨ,150-151)。そしてそれゆえに,それぞれの時代において

近づくことのできる全人性の最大量を意味する「相対的全人(relative Allmenschen)」こそが,調和

の時代において目指されるべきであるとするのである。

 相対的全人の概念からもうかがえるように,シェーラーは「調和の時代」においてけっして一個

人,一時代のうちで「全ての諸能力のバランスのとれた状態」を達成することを目指しているのでは

ない。むしろ,シェーラーの意味する調和は,個別性を追求した結果として実現されるものである

といえるだろう。というのも,シェーラーは調和においてこそ,「精神的差異,個的差異,および相

対的な意味での個的な差異―たとえば民族間の差異など―のいちじるしい増進4 4

」がみられると

しているからである。そしてこのような形成過程では,そのときどきの到達段階は新しい段階が加

わることで,その意義や価値を失うような「進歩」ではなく,各段階を絶対的価値領域の一端を担う

段階とするような「成長」がみられるのである(GWⅩ,305)。

 以上のような調和思想および,全人・相対的全人の思想をシェーラーの典型論と関連づけると,

全人とは「聖者」,「天才」,「英雄」,「文明の指導的精神」,「生の芸術家」の典型類型が,いまやその

序列的関係から解放され,これらすべての要素をあわせもっている人間を指し示すのであり,相対

的全人とは等価値的典型類型における各人にとっての典型を意味すると考えられる。というのも,

シェーラーは後期思想において,以下のように典型について述べているからである。

どの人間もすべて―いな,どの集団,どの職業,どの時代も,その指導者についていえば,す

べて―その者自身4 4 4 4 4

の特殊な類型的な衝動構造を,すなわち衝動の特定の優先順序をそなえて

おり,各自4 4

固有のエトスを有する。そしてそれゆえにまた,つねに各自の特殊な典型4 4 4 4 4 4 4 4

をも有す

るのである。(GWⅨ,105)

このように,相対的全人という理念のもとで典型の各自性が,中期思想よりもいっそう強調されて

いるといえるだろう。したがってこの意味で典型は,「すべての人にそれぞれ自分4 4

の使命を明らか

にさせる階梯であり,開拓者」なのであり,「われわれに自己の真の力4

を知ってそれを活動的に使用

するようにと教える」存在,「自らの力の完全な放出へ向けて開放する存在」,「人間の自由な自己

形成を許容する存在」として,「汝があるところのものになれ」という存在当為(「あるべし」)を与え

るとされている(GWⅨ,105-106)。

4-2 道徳的形成における動的自律性

 さらにシェーラーは,この「汝があるところのものになれ」という典型による存在当為が,論理や

意識以前の次元での呼びかけであるとする。すなわち,シェーラーは「典型の意識はあくまでも論

理以前4 4

の意識であり,またまだ可能的にすぎない選択圏4

を把捉するより以前4 4

の意識である」とし

(GWⅡ,579),私たちはすでに「自分にも説明できない人格に対するつながりと無関心さをもって

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

いる」ため(GWⅩ,273),意識以前の段階で典型から大きな影響を受けていると考えている。ここ

には典型の「牽引力(Zugkraft)」が働いているのであり,各人が典型を選ぶ前にすでに「典型のほう

が誘い,招き,その胸に人を知らぬ間に引き寄せることによって,人はこれに捉えられている」状態

にある(GWⅨ,104)。

 このようなシェーラーの典型理解をうけて阿内(1995)は,「あたかもわれわれは意識的な選択を

行うことなく自らの典型を獲得し,それを模倣することでたやすく道徳的になりうるかのようであ

る」と批判をしている6。しかし注目すべきなのは,このような典型の牽引力をふまえてもなお,

シェーラーが典型を,典型に引きよせられた人にとっての自律的原理であるとしている点である。

シェーラーは,自律には「それ自体で善なるものに対する人格的洞察の自律」と「洞察された善に対

する意欲の自律」という二つの在り方があるとしている(GWⅡ,499)。このように二つの自律性を

想定することで,シェーラーは教育の意義も認めている。というのも教育された人においては,価

値自体に対する洞察は自律的ではないものの,教育を通じて洞察された価値に服従する意欲は自律

的でありうるからである。以上のような教育された人の意欲の自律性を,シェーラーは「倫理的に

大いに価値のある服従」とよんでいる(GWⅡ,505)。

 そしてシェーラーは,教育された人においては「洞察された善に対する意欲の自律」のみが自律的

であるのに対して,典型に引きよせられた人においては,「それ自体で善なるものに対する人格的

洞察の自律」と「洞察された善に対する意欲の自律」という自律性の二つともが,維持されていると

考えている。なぜなら,典型はあくまで各人の存在の次元に対して「あるべし」と呼びかけるのであ

るが,この呼びかけに自らの典型によるものとして応じ,心情の変更をおこない,典型の愛の作用

を共同遂行することは,各人にとって自律的であり続けるからである(GWⅡ,506)。すなわち,各

人は存在の次元で無意識的に引きつけられている典型に,「一度は全4 4 4 4

人的に没入しなくてはならな

い」のであるが(GW Ⅸ ,104),この典型を自らの典型として4 4 4 4 4 4 4 4

,価値あるものとして4 4 4 4 4 4 4 4 4

みなすのは,当人

の自律的洞察によるのである。この意味でシェーラーは,典型には「洞察の傾向」があるのみであり,

「暗示力」のような盲目的強制の形態ではないとする。

典型はたんに,われわれが自分の4 4 4

人格の呼び声に耳を傾けるようにする先達にすぎず,われわ

れの個的な4 4 4

良心と法則の晴れやかな日の明けそめの曙光(Wegbereiter)であるにすぎない…。

(GWⅨ,106)

したがって,この意味で各人は「自分の立場において4 4 4 4 4 4 4 4 4

(an seiner Stelle)あらねばならない」のであ

り,「その長所である個所にふさわしい典型を探し求めなくてはならない」といえるだろう(GWⅩ,

263)。

 価値の序列的関係から解放された後期思想では,道徳的形成におけるこの自律性がより重視され

ていると考えられる。というのも,中期思想では人格神へと向けて形成することが道徳的であり,

典型は頂点に位置する人格神へと近づくための,媒介的役割としての意義をもっていた。そこでは,

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先述した「私にとっての自体的善」という考え方は,各人は神によってあらかじめ定められている自

らの使命を果たすために,典型を介して個別独自的に形成しなければならないというような,運命

論的で固定的なニュアンスが強かったといえる。しかし,後期思想では諸価値間の関係が等価値的

になったことにより,人格神へ近づくための媒介者としての典型の意義は減ってはいるものの,そ

の分,それぞれの個別独自的形成に対する典型の意義は増していると考えられる。というのも,神

へ向けた形成という形成観が退けられ,向かうべき形成の方向が不明確になったことで,典型こそ

が形成の方向を示唆する役割を担っているからである。そしてその際に,典型を自らの典型として

受け入れ,「汝があるところのもの」へと形成していく契機は,自らがそのつど見いだすよりほかな

いといえるだろう。それゆえに,人間形成における自律性が強調されていると考えられるのである。

この自律性の強調に関しては,若原(1983)も同様に指摘している。すなわち,シェーラーの典型論

には「初期のようにただ対象的な模範に随従することを力説するだけではなく」,「むしろ一人ひと

りの主体の側へ目が向けられている」という変化が認められるのである7。

 そしてこの自律的な形成において,同時に重要な役割を果たしている概念として,倫理学思想の

なかですでに論じられていた「時の要求(Forderung der Stunde)」をあげることができる。時の要

求とは,けっして反復されえず,もしもそのときに利用されないならば永遠に失われてしまうよう

な,独自的でただ一回的な課題を意味している(GWⅡ,498)。この時の要求のもとでは,その当為

内容が普遍的立法の原理にも,類似した状況や「場合」に関しても,またあらゆる人間に関しても「普

遍的に」有効なものではけっしてなく,唯一の個人にとってだけ「べき」であり,この場合にだけ,

そして自分自身にとってのみ洞察されることになる。したがって各人は,「一連の歴史的にそのつ

ど一回限りの存在・行為・創作契機―この契機のおのおのが,おのれの『日々の要求(Forderung

des Tages)』,おのれの『時の要求』をもっているのである―のうちで,おのれをまた現わす」こと

が求められる(GWⅩ,351)。

 後期思想において,このような「時の要求」がその本来的意義を発揮すると考えられる理由は,

シェーラーが人間をより動的で生成的存在として捉えなおしているからである。

人間は事物ではなく,いわば宇宙4 4

そのものの運動4 4

の,さらには宇宙の根拠の運動の方向である。

〔略〕それゆえに4 4 4 4 4

,人間と本質的に無限なその運動とに余地を与えるべきであって4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

,けっしてあ4 4 4 4 4

る一つの「範例」に結びつけたり,また自然史的形姿にせよ世界史的形姿にせよ一つの形姿に固4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

定したりしないようにしなくてはならない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

!(GWⅨ,151)

したがって,道徳的人間形成の過程においても,この時の要求はただ一回のみならず,動的に各人

へと呼びかけられるものであるといえるのではないだろうか。このような人間理解をふまえると,

道徳的人間形成においては一つの価値および一つの典型だけに追随し形成するのではなく,時の要

求に応じて動的に典型をとらえ,そしてその典型を自らの典型として共同遂行し共に形成していく

という道徳的人間形成の在り方が,シェーラーの典型論から導き出されると考える。

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

4-3 道徳的人間形成における典型と反型

 これまで,後期思想における道徳的人間形成と典型の意義について考察してきた。しかし,ここ

でシェーラーの典型論および道徳的人間形成論を理解するうえで,さらに注目しなければならない

のが「反型(Gegenbild)」の概念である。というのも,シェーラーは典型を「善でも劣悪でもあり高

でも低でもありうる」としており,それゆえに典型と同時に反型の存在も認めているからである。

シェーラーによると反型とは,「支配的な典型に対する明確な反対として構成された,倫理的人格

存在の像」を意味する(GWⅡ,576)。そしてこの反型は,典型と同様に人間形成に対して大きな影

響を与える存在として考えられている。具体的な例としては,反型は人間と集団とが,人格的な価

値形態に対する最初の憎によってこの形態に逆らって,すなわちその典型であるべき人格の人格像

に逆らって発展しつつ,人間と集団とがその中で発達する非常によくある形式(父に対する子ども

など)であるといわれている。

 このような反型を成立せしめる要因として,シェーラーは「ルサンチマン」を挙げている。ルサン

チマンが生じるのは,他者の価値によって自己価値が傷つけられ侵害されたと感じたり,他者の価

値と自らの価値を比較して敵対衝動を抱いているにもかかわらず,その感情が押し込められる場合

や,ある価値の実現をめざす強い志望が存在するとき,それと同時に,この志望を意欲的に実現す

ることができない無力さが感じられる場合である。その際,他者の価値や志望される善さの積極的

価値を,価値のないものとして引き下げ拒否したり,この善さとは何か反対のものを積極的に価値

ありとみなすことによって,自らの充たされない状態を克服しようとする作用が生起する。シェー

ラーはこのことを,ルサンチマンとよぶのである。ここでは,ルサンチマンを抱く当人は,支配的

価値や他者の積極的価値を,価値としてまったく認めていなかったり,誤って低い価値として認識

しているのではない。それらの価値は積極的価値4 4 4 4 4

もしくは支配的な価値として4 4 4 4 4 4 4 4 4

認識され,その後に

ルサンチマンが生じるのである(GWⅢ,46-51)。

 以上のようなルサンチマン的反型が成り立つということはすなわち,ある者にとっての典型が他

の者にとっては反型を定立させる要因になる,ということを意味するだろう。したがってたとえば,

支配的典型としての「文明の『指導的精神』」に対して,反型として「天才」が定立される場合も考え

られるのである。またさらには,ある典型からの引きよせに対して,その典型を自らの典型として

価値あるものとして洞察し,自らの時の要求を意識しているにもかかわらず,それに応じることが

できない場合には反型が成立される,ということも意味するだろう。したがって,シェーラーの道

徳的人間形成の過程には,典型と反型という対立が含まれているといえるのである。そもそもシェー

ラーは哲学的人間学において,精神と生の関係を相互補完的で統一的結合関係にあるとする一方で,

あくまで両者が根源的緊張関係にあり,本質―対立的関係であるとしている。なぜなら,世界開放

的存在である人間は,精神的作用によって生命的現実性を否定し,生を放棄することもできるから

である。そしてまさに,この対立的関係を保った精神と生の相互作用こそが,人間形成の原動力と

考えられているのである(GWⅨ,33)。

 したがって,シェーラーの典型論から導き出される道徳的人間形成の過程では,個別性や差異が

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認められている同時に,ルサンチマンに基づく反型や精神と生の対立など,対立をも包括されてい

るといえるだろう。シェーラーは,この対立を免れえない人間の存在を,「悲劇的である」と表現し

ている。というのも,価値の担い手同士のあいだで抗争が起こった場合,ある個別独自的価値の実

現に至らしめる力が同時に,この働きの過程そのもののなかで他の価値の存在条件を破壊する,と

いう事態が生じるからである(GWⅢ,153-155)。この悲劇性は,全ての価値を一個人において十全

に実現することは不可能である,という人間の有限性に由来しているといえるだろう。

 しかしここで注意したいのが,典型および反型の存在そのものは,あくまでも絶対的価値領域に

おける価値と対応関係にあり続けるという点である。したがって,反型や反型に基づく人間形成も

また,絶対的価値領域の一部分を担う価値様態の一つなのであり,道徳的人間形成の過程において

欠かせない要素であるといえるだろう。このことは換言すると,道徳的形成過程に含まれる差異や

対立には,「絶対的価値領域内での」という条件が付け加わらなくてはならないことを意味する。先

に述べた「私にとっての自体的善」の概念と同様に,ここではまったく無制限の多様性と豊かさが認

められているのではないのである。したがって「人間的なものすべてに妥当する価値秩序の内部に

おいて,人間的なものの各々の特殊な形式には,価値の一定の質圏(Qualitätenkreise)が割り当てら

れており,ただ,共通の世界文化の構築におけるそれらの調和・結合のみが,人間の心情のまったき

大きさと広がりを表現しうる」のであるから(GWⅩ,357),道徳的人間形成の過程においても相互

間の連帯性が求められている8。それゆえに,各人の典型を介した道徳的形成が,歴史的経過のうち

で一面性を消すことが道徳的形成においても求められるのである。

各民族や各時代は,それ固有の天才,英雄,指導者,生の芸術家をもつ。そうして,これらの連

続して生じる形象が歴史の進行のうちで相互に混合し合ってその一面性を消し,その積極的価

値を凝縮させることによってのみ,このモデルを意味するいっぱいに満たされたうまい杯は,

いわば飲みほされる。(GWⅩ,269)

このように,多様な価値と形成の在り方を視野に入れた人間形成こそが,シェーラーの後期思想に

おける道徳的形成の在り方であるといえるだろう。

 むしろシェーラーの道徳的人間形成論では先述したように,典型という他者の作用の共同遂行に

基づく形成という意味のみならず,反型の概念にみられるような「他なるもの」に対する対立でさえ

も,形成の原理として意義をもっていたのであった。この意味で「調和の時代」においては,各人の

道徳的形成に対して「他者が力強い援助をすることもありうる」のであり,「ともに4 4 4

生き,ともに4 4 4

為し,ともに4 4 4

信じ,ともに4 4 4

希望し,ともに4 4 4

形成するという形において存在し,互いのために4 4 4 4 4 4

存在し,

そして価値評価すること」は各人に課せられた課題なのである(GWⅩ,352)。

5. 結論的考察と今後の課題 以上,シェーラーの典型論を道徳的人間形成という視点から再構成してきた。これまでシェーラー

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

の典型論および人間観からは,「教育の必要性」が導き出されることが多かった。そこでは,人間を

世界へより開かれた存在にするためには教育が必要であるという見方や,「人間は,自己をして環

境を越えていくという点において,その自己の決断を援助するところに教師の役目があるのではあ

るまいか」というような,実存的観点と関連付けて論じられてきた9。しかし本稿で明らかにしたよ

うに,シェーラーの典型論は人間形成の原理として理解することができるのであり,そこからは人

間形成の力強さというようなものが読み取られるべきではないだろうか。

 シェーラーは典型論において,たびたび教育のもつ限界についても言及している。シェーラーに

よると,人間形成の過程においてみられる心情の変更には,意欲のみならず,そのつどの意欲と選

択を基礎づけている先取作用や愛の作用など,価値認識作用の変更が含まれている。そして,この

心情の変更は,「命令と服従にでも,普遍的な法則規範とその規範に対する態度にでもなく,いわん

やまったく『道徳教育』にでもなく,結局は典型に,ないしはわれわれが『善い実例4 4 4 4

』と『悪い実例4 4 4 4

と呼んでいるところのものに帰属すべきである」としている(GWⅩ,268)。というのも心情の変更

は「倫理的な出来事であり,これをけっして命令は(自己命令も),またけっして(心情にまで到達

しえない)教育的指示も,また忠告も序言も規定しえない」からである(GWⅡ,581)。このように

みなすことで,シェーラーは教育よりもいっそう深い次元において,人間の道徳的形成の可能性を

考察しているのである。

 ただし,自律性に関する議論の際に述べたように,シェーラーは道徳的形成に対する教育そのも

のの意義を全く認めていないわけでもないし,教師的指導者が典型になりうるともしている(ただ

しそれは,「教師は典型であるべし」ではない)。むしろシェーラーの道徳的人間形成論は,道徳を

教育によって教えることができるという前提に,何ら疑問を抱かずに議論をしている今日の教育学

的状況に対して,教師の持つ役割や教育の限界および可能性を再考する契機を与えてくれているの

ではないだろうか。

 今後の課題としては,シェーラーの他者論と愛の概念の人間形成論的考察があげられる。シェー

ラーの典型論は,その前提としての他者論に基づいている。この他者論における「共同感情」の概念

からは,人間形成における他者存在の意義や,新たな教師―生徒関係を読み取ることができると考え

る。またその際に人間形成の過程において,ある価値を優先し意義があるものとみなす「愛の秩序」

が,どのように変容し形成されていくのか,という点の考察にも取り組んでいきたい。

【註】1  三輪(1966)『道徳教育の原理』7頁

2  『シェーラー著作集15』解説391頁

3  シェーラーからの引用は,Max Scheler Gesammelte Werke, Francke, Bern u. München 1954-1979, Bouvier,

Bonn 1987-1997に依拠する。本文中に GW と略記し,続いて巻数,頁数を示した。なお,引用文の翻訳は『シェーラー

著作集』飯島・小倉・吉沢編,白水社(1976-1978)を参考にし,適宜変更を加えている。

4  このようなシェーラーによる典型の類型化は,シュプランガーの思想との類似性を感じさせるかもしれない。実

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� 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第64集・第1号(2015年)

際シェーラーは典型類型について論じる際に,たびたび自らの理論の精緻化としてシュプランガーの類型論を指摘

し,参照するように言及している。さらにシェーラーは,「E・シュプランガーが最近その著『生の諸形態』において,

われわれの具体的な人間生成ないし人間化の類型的な方向性を,人格形態のなかで決定する資質構造に対応して,

形成理想が分化4 4

すべきことを要求したのは,きわめてもっともなことである」と賛同している(GWⅨ,105)。

5  中期思想と後期思想の神観の変容および,「調和」思想における「絶対的価値領域」の存在に関しては,拙著「シェー

ラーの形而上学における人間形成論」(『教育思想』第42号)を参照。

6  阿内(1995),165頁

7  若原(1983),180頁

8  Henckmann(2003)はシェーラーの連帯性概念について,「個人と共同体,我々における私,私における我々の内

的・間主観的仲介」の役割を果たしているとしている(18頁)。道徳的形成における各々の「連帯性」の意識やその範

囲,限界については,今後あらためて考察していきたい。

9  森田(1992),15頁;小島(1976);菅井(1994);熊野(2003)などの研究にそのような傾向が見られる。

【引用参考文献】Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik, 1913-16. Max Scheler. Gesammelte Werke Bd.II.

Francke, Bern u. München 1954

  『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』〔上〕(『マックス・シェーラー著作集』1,吉沢伝三郎訳,白水社,

1976年)

  『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』〔中〕(『マックス・シェーラー著作集』2,吉沢伝三郎・岡田紀子訳,

白水社,1976年)

  『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』〔下〕(『マックス・シェーラー著作集』3,小倉志祥訳,白水社,

1980年)

Vom Umsturz der Werte, 1912-15. Max Scheler. Gesammelte Werke Bd.III. Francke, Bern 1955

  『価値の転倒』〔上〕(『マックス・シェーラー著作集』4, 林田新二・新畑耕作訳 , 白水社 , 1977年)

Wesen und Formen der Sympathie, 1923. Max Scheler. Gesammelte Werke Bd.VII. Francke, Bern u. München 1973

  『同情の本質と諸形式』(『マックス・シェーラー著作集』8,青木茂・小林茂訳,白水社,1977年)

Späte Schriften. Max Scheler. Gesammelte Werke Bd.IX. Francke, Bern u. München 1976

  『宇宙における人間の地位・哲学的世界観』(『マックス・シェーラー著作集』13,亀井裕・山本達・安西和博訳,白

水社,1977年)

Schriften aus dem Nachlaß Bd.I. Zur Ethik und Erkenntnislehre. Max Scheler. Gesammelte Werke Bd.X. Francke,

Bern 1957

  『羞恥と羞恥心 典型と指導者』(『マックス・シェーラー著作集』15,浜田義文・水野清志・田島孝・小林靖昌訳,

白水社,1978年)

阿内正弘(1995)『マックス・シェーラーの時代と思想』春秋社

Bokelmann, H.(1958) “Die Pädagogik Max Schelers”, Zeitschrift für Pädagogik, 4, pp.1-28.

Deeken, A.;阿内正弘訳(1995)『人間性の価値を求めて―マックス・シェーラーの倫理思想』春秋社

フリングス;深谷昭三・高見保則訳(1988)『マックス・シェーラーの倫理思想』以文社

畠中和生(2013)『マックス・シェーラーの哲学的人間学 : 生命と精神の二元論的人間観をめぐって』ナカニシヤ出版

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M. シェーラーの道徳的人間形成論

Henckmann, W. (2006) “Bemerkungen zur Entwicklung des Solidaritätsproblems bei Max Scheler”, in Bermes, C.,

Henckmann, W., Leonardy, H.(eds.), Solidarität Person & Soziale Welt, Königshausen & Neumann, pp.9-28.

五十嵐靖彦(1999)『愛と知の哲学 : マックス・シェーラー研究論集』花伝社

金子晴勇(1995)『マックス・シェーラーの人間学』創文社

小島新平(1976)「人間の本質への問いと自己形成―シェーラーの人間学についての教育哲学的探究」(名古屋大学

教育学部『名古屋大学教育学部紀要 教育学科』第23巻,pp.155-162.)

熊野真美(2003)「哲学的人間学と教育人間学の関係性の問題―マックス・シェーラーの人格概念と教育」(上智大学

教育学研究会『上智教育学研究』第17巻,pp.19-33.)

Mall, R.A.(1993) “Schelers Idee einer werdenden Anthropologie und Geschichtsteleologie”, in Orth, E.W. &

Pfafferott, G. (eds), Internationales Max-Scheler-Colloquium “Der Mensch im Weltalter des Ausgleichs”,

Universität zu Köln, pp.35-69.

三宅剛一(1964)『道徳の哲学』岩波書店

三輪健司(1966)『道徳教育の原理―M. シェーラーの実質的価値倫理学と人格の道徳的形成』有信堂

盛下真優子(2015)「シェーラーの形而上学における人間形成論」(東北教育哲学教育史学会『教育思想』第42号,

pp.105-124.)

森田孝他編(1992)『人間形成の哲学』大阪書籍

奥谷浩一(2004)『哲学的人間学の系譜―シェーラー,プレスナー,ゲーレンの人間論』梓出版社

菅井保(1994)「哲学的人間学の教育学への移行:ボルノウとの関連から」(東海大学『東海大学紀要 課程資格教育セン

ター』第4巻,pp.94-102.)

シュテークミュラー ; 中埜肇・竹尾治一郎監修(1978)『現代哲学の主潮流1』,法政大学出版局

若原道昭(1983)「M. シェーラーの哲学的人間学に関する教育学的考察」(龍谷大学『龍谷大学論集』第423巻,pp.159-

183.)

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� 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第64集・第1号(2015年)

Diese Forschung setzt sich mit dem wiedergliedern die Gedanke des deutschen Philosophen

Max Scheler (1874-1928) auseinander, ausgehend vom menschenbildungstheorischen

Gesichtspunkt. Dieser Aufsatz ist besonders auf die Vorbildtheorie bei Scheler fokussiert, und die

Bedeutung des „Vorbilds“ im moralischen Bildungsprozess der Menschenbildung wird erwägts.

Der Aufbau dieses Aufsatzes wird folgendermaßen skizziert.

Erstens wird der Gedanke der materialen Wertethik von Scheler geordnet, dann werden

durch die Entsprechung dieser Vorbildtheorie mit dem ethischen Gedanken von Scheler, einige

Typen der Vorbilders eigenführt. Zweitens werden die verschiedenen Begriffe von „Führer“

betrachtet, den oft mit dem Vorbild identifiziert wird, um es zu erklären, dass das Sein des

Vorbilds gerade ein Bildungsgrundsatz ist, welcher grundlegend ist, orientiert an der

Menschenbildung. Zuletzt, werde ich aufzeigen, dass solche Vorbildtheorie bei Scheler in seinen

späten Schriften als mehr dynamischer und autonomischer Grundsatz im Gedanken des

„Ausgleichs“ redefiniert wird, und daher, die Bildungmöglichkeit auf das Sein des „Gegenbildes“

übergbleibt,welches den Begriff des Gegensatzes in sener Tehorie einthält.

Aus der oben erwähnten Betrachtung, werde ich die Methode der moralischen Bildung und

ausgleichenden Menschenbildung, aufzeigen, dass das Vorbild jeder Person anredet mit „werde,

der du bist“, und jede Person es autonomisch nachzieht als die Anrede bei sich Vorbild und bildet

mit es, ferner dass dabei der Gegensatz und die Verschiedenheit auch großen Einfluss als

Bildungrundsatz haben.

Die Moraleriziehung wird heutzutage an Schulen unterrichtet, und sie löst heftige

Diskussionen über ihre Methode aus. Bezüglich dieses Problems, denke ich, dass die

Vorbildtheorie bei Scheler, in Hinsicht auf die Grenze und die Möglichkeit der Erziehung, einen

neuen Blickpunkt darüber und die Notwendigkeit dafür zeigt, dass die moraliche Bildung durch

den Menschenbildungsgrundsatzes in weiterem Sinne begriffen werden soll.

Schlüsselwörter:moralische Menschenbildung, Vorbild, Gegenbild, Autonomie, Ausgleich

Die moralische Menschenbildungstheorie bei M. Scheler:Im Brennpunkt der Vorbildtheorie

Mayuko MORISHITA(Doktorprogramm für Pädagogik, Tohoku Universität)

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