7 為替レートと国際収支 - esri7 為替レートと国際収支...

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7 為替レートと国際収支 ――プラザ合意から平成不況のマクロ経済 河合正弘 高木信二 日本経済は 1980 年代後半に資産価格バブルを経験したが,それは 90 年代 初めに崩壊し,長期に及ぶ平成不況に陥った.10 年間に及ぶ長期停滞から 脱却したのはようやく 2000 年代初めになってからである.この間,円の為 替レートと経常収支は何度かの変動の波を経験した.為替レートは,プラザ 合意の 1985 年から 88 年に向けて円高となり,1995 年に瞬間的に 1 ドル 80 円を割る超円高を経験し,2000 年には 3 度目の円高となった.経常収支は 一貫して黒字を計上したが,黒字増大と減少の波を何回か経験した. 本稿は「バブル期」から平成の「失われた 10 年」の末期までに焦点を当 て,日本のマクロ経済状況を為替レートおよび国際収支の観点から評価しよ うとする試みである.為替レートは,その短期的・中期的な変動が経常収支 や経済成長率に影響を及ぼすとともに,経常収支動向の影響を受けて変動す るという関係にある.日本の政策当局が,プラザ合意を契機とする急激な円 高に過剰に反応して財政拡大・金融緩和政策をとったことが,バブル生成の 一因となった可能性がある.1990 年代に「失われた 10 年」がもたらされた のは,バブル崩壊後の資産価格の下落,銀行不良債権の増大に加え,1995 年,2000 年と波を打って続いた円高の要因の影響も大きかった可能性があ

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Page 1: 7 為替レートと国際収支 - ESRI7 為替レートと国際収支 ――プラザ合意から平成不況のマクロ経済 河合正弘 高木信二 要旨 日本経済は1980年代後半に資産価格バブルを経験したが,それは90年代

7 為替レートと国際収支――プラザ合意から平成不況のマクロ経済

河合正弘 高木信二

要 旨

日本経済は 1980 年代後半に資産価格バブルを経験したが,それは 90 年代初めに崩壊し,長期に及ぶ平成不況に陥った.10 年間に及ぶ長期停滞から脱却したのはようやく 2000 年代初めになってからである.この間,円の為替レートと経常収支は何度かの変動の波を経験した.為替レートは,プラザ合意の 1985 年から 88 年に向けて円高となり,1995 年に瞬間的に 1 ドル 80円を割る超円高を経験し,2000 年には 3 度目の円高となった.経常収支は一貫して黒字を計上したが,黒字増大と減少の波を何回か経験した.

本稿は「バブル期」から平成の「失われた 10 年」の末期までに焦点を当て,日本のマクロ経済状況を為替レートおよび国際収支の観点から評価しようとする試みである.為替レートは,その短期的・中期的な変動が経常収支や経済成長率に影響を及ぼすとともに,経常収支動向の影響を受けて変動するという関係にある.日本の政策当局が,プラザ合意を契機とする急激な円高に過剰に反応して財政拡大・金融緩和政策をとったことが,バブル生成の一因となった可能性がある.1990 年代に「失われた 10 年」がもたらされたのは,バブル崩壊後の資産価格の下落,銀行不良債権の増大に加え,1995年,2000 年と波を打って続いた円高の要因の影響も大きかった可能性があ

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る.構造的に黒字体質にあった日本にとっては,円高が脅威と見られ,政策当

局者の間にそれを受け止める用意がなかったことが問題を深刻化させたものと思われる.日本経済を円高に対して強靭な産業構造に転換していくこと,とりわけ,サービス産業を中心とする非貿易財部門で競争力,効率性,生産性を高めていくことが今後の課題である.日本銀行,財務省,金融庁が政策調整を行うための制度を整え,急激な為替レート変動への対応,マクロプルーデンシャルの枠組み強化,危機時に備えた政策対応の態勢づくりを行い,経済パフォーマンスの安定化をめざす必要があろう.さらに,東アジア新興諸国と各種の経済連携を進め,相互の為替レートを安定化させる仕組みを構築していくことを中期的な課題とすべきだろう.

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1 はじめに

本稿は,1980 年代後半の「バブル期」から平成の「失われた 10 年」の末期までに焦点を当て,日本のマクロ経済状況を為替レートおよび国際収支の観点から評価しようとする試みである.

日本経済は 1980 年代後半に未曾有の資産価格バブルを経験したが,90 年代初めにバブルが崩壊し,長期に及ぶ平成不況に陥った.2000 年代初めにようやく平成不況から脱却したが,2008 年の世界金融危機の影響を受け,再び深刻な景気後退の状況にある.この間,日本の為替レートと経常収支は波を打つように変動した.為替レートは,プラザ合意の 1985 年から 88 年に向けて円高となり,1995 年に瞬間的に 1 ドル 80 円を割る超円高を経験し,2000 年には 3 度目の円高となった.経常収支は,一貫して黒字を計上したが,黒字幅は大きく増減した.黒字のピークは 1986 年,1993 年,1997 年,2007 年となったが,現行の世界金融危機で経常収支黒字は大幅に縮小し,赤字になる可能性もある.

この時期は,為替レートや経常収支の大幅な変動はどのような要因で起きたのか,為替レートは経常収支調整機能を果たしたのか,バブルの生成,平成不況の深まり,平成不況からの脱却に為替レートはどのような役割を果たしたのか,為替市場介入は為替レートに影響を及ぼしたのか,為替政策と金融政策はどのような関係にあるのか,円高に抵抗力のある経済体質にするには何が必要なのか等々興味深い問題点を提供している.

そのような観点から本稿では,まず次節の「為替レートと国際収支」でこれまでの為替レートと国際収支の動向をレビューする.第 3 節の「為替政策の推移」では,日本の金融市場の対外開放の問題(資本自由化,金融ビッグバン)を取り上げ,為替市場介入の現状認識とその評価を行い,為替政策と金融政策の関係について論じる.第 4 節の「為替レートとマクロ経済」では

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プラザ合意後の円高,為替レートと経常収支の関係,内外価格差の問題,円高と産業構造調整の関係について述べる.第 5 節の「為替政策の将来」では,円と東京市場の国際化,日本の外貨準備に関する政策,為替政策と金融政策の整合性,円高と経常収支黒字の関係,アジアとの政策協調の可能性について将来展望を行う.第 6 節は「まとめ」である.

2 為替レートと国際収支

2.1 為替レートの動向1980 年から直近に至る 30 年近い期間を通じて,円の為替レートは大きく

変動してきた.全体的な趨勢としては,名目円レートは大きく増価してきたといってよい(図表 7-1).まず,円の対ドルレートで見ると,バブル期は円がドルに対して大幅に増価した時期であった.1980 年代の前半,円は 1 ドル 200 円強から 250 円強にまで減価した.しかし,1985 年のプラザ合意を機に,円はいっきに増価し,1987 年には 1 ドル 120 円の水準に達した.その後は一時的に 140 円以上の水準にまで減価した時期もあったが,平均で見ると,2008 年にいたるまでおおむね 100 円から 130 円の範囲内で変動して

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円/ユーロレート円/ドルレート

図表 7-1 円の対ドル,対ユーロ為替レート(年平均)

注) ユーロが導入された 1990 年以前の時期は,円の対ユーロレートの代わりに対 ECU レートが用いられている.

出所) IMF, International, Financial, Statistics, CD-ROM より作成.

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いる.円の対ユーロレートを見ると(ユーロ導入以前の時期には対 ECU レー

ト),1980 年代と 2000 年代の 2 つの時期で円の対ドルレートの動きと異なっていることがわかる.1990 年代には両者はおおむねパラレルに動いている.第 1 の 1980 年代の時期には,1980 年から 85 年にかけて円はドルに対して安定的に推移していたが,ECU に対しては大幅かつ急激に増価した.しかし 1985 年のプラザ合意後は,円はドルに対して大幅に増価したものの,ECU に対して若干切り上がっただけである.第 2 は,2003 年以降の時期において,円はドルに対して比較的安定的に推移したものの,ユーロに対しては大幅な円安となった.2000 年から 2006 年にかけて円はユーロに対し約60%切り下がったことがわかる.

1980 年代の前半,政策当局者の間では,基礎的経済要因に照らして見ると,ドルは他の主要通貨に対して過大評価され,円はドルに対して過小評価されているという見方が支配的だった.その是正を図ろうとしたのが 1985年 9 月のプラザ合意である.バブル期を通して見られた円の趨勢的増価は実は 1985 年 2 月ごろから始まっていたが,プラザ合意によって増価のペースは加速した.円ドルレートはプラザ合意直前には 1 ドル 240 円前後の水準にあったが,1 カ月後に 210 円台,2 カ月後に 200 円台と急激に円高,ドル安が進んだのである.1980 年代後半のバブル期の直前に大幅かつ急激な円レートの増価が起きたことは,円高ないしそれへの政策対応がバブルの生成に重要な意味をもった可能性があることを示唆する.

1990 年から 1991 年にかけてのバブルの崩壊とともに,経済成長率は鈍化し,日本経済は 1992 年から本格的な景気後退を経験することになった.1990 年代前半の時期において特記すべき事実は,マクロ経済状況の低迷にもかかわらず,1 ドル 140 円強から 100 円の水準へと円高,ドル安が進行したことだった.プラザ合意後の急激な円高は 1989 年までに踊り場に入り,その後,円はドルに対しむしろ減価したが,1990 年 4 月の 1 ドル 160 円近くから再度増価を始め,1994 年には 1 ドル 100 円を割り,1995 年 4 月には一時的に 1 ドル 79.75 円という戦後の最高値を記録した.その後,円は緩やかな減価と増価の波を繰り返していくことになるが,1995 年から 2008 年までの長期にわたり,円ドルレートは 1 ドル 100 130 円の比較的安定したレン

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ジで変動したのである.ただこの間,2000 年に円は対ユーロで 1 ユーロ 99円という歴史的な円高を記録している.

日本の全般的な対外経済関係を考慮した実効ベースで名目円レートを見ると,別な視点が得られる.図表 7-2 は,IMF,BIS,日本銀行による名目実効円レートをプロットしたものであるが,これら 3 者の動きはおおむねパラレルになっている.すなわち,円の名目実効レートは 1980 年から 1995 年までほぼ一貫して(1989 90 年の円安の時期を除いて)増価している(図表7-1 と異なり,値の上昇は増価,下落は減価を意味する).また 2000 年にも円高になっており,それ以降は緩やかな円安基調になっていることがわかる.

次に,内外の価格の変動を調整した円の実質実効為替レートを見ると,2000 年代に入ってさらに注目すべき変化が起きていることがわかる(図表

7-3).実質実効レートは,名目実効レートと同じように,1985 年のプラザ合意後 1988 年に向けて急激に増価した後 1989 90 年に一時的に減価したものの,その後は 1995 年の超円高期までほぼ一貫して増価した.1995 年には1980 年の水準に比べ 60 80%の実質円高になったのである.その後減価と増価の局面を経るが,2000 年の円高のピーク後は 2007 年まで一貫して減価を続けるのである.実際,2007 年の円の実質実効レートは,プラザ合意前の水準にまで下落したことが見て取れる.1990 年代の実質実効ベースでの円

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BOJ指数BIS指数IMF指数

図表 7-2 円の名目実効為替レート(1980 年=100)

注) 指数の上昇は円の名目実効価値の増値を,低下は減価を意味する.出所) IMF, International Financial Statistics, CD-ROM; BIS, BOJ のウェッブサイトより作成.

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の高騰が「失われた 10 年」の一因となった可能性があり,2002 年以降の日本経済の回復は,実質実効ベースで見た円安に支えられた外需主導型の成長によってもたらされた可能性がある.

2.2 国際収支の動向国際収支図表 7-4 は日本の国際収支を全般的にとらえたもので,経常収支,資本収

支,外貨準備の増減が金額ベースでプロットされている.まずここから見てわかることは,経常収支が一貫して黒字で(1980 年を除く),増減を繰り返しながらも上方トレンドをもって動いていることである.次に,1980 年代から 90 年代にかけて,資本収支はおおむね赤字(=資本純流出)を計上し,経常収支黒字をほぼ相殺していたが,2000 年代に入ってそのパターンが崩れている.すなわち,資本収支は 2000 年代に入ると経常収支を相殺するものとはならず,とくに 2003 年には大幅な資本純流入を記録した.経常収支,資本収支がともに黒字になったため,外貨準備の増減が大幅なプラスになった(外貨準備の積み増しが起きた)のである.これは後述するように,この時期に通貨当局が大規模の為替市場介入を行ったからである.

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BOJ指数BIS指数IMF指数

図表 7-3 円の実質実効為替レート(1980 年=100)

注) 1.IMF 指数は内外の単位労働コスト,BIS 指数は内外の消費者物価指数(CPI),BOJ指数は基本的に内外の企業物価指数(貿易相手国によっては CPI)で評価.

2.指数の上昇は円の実質実効価値の増大を,低下は減少を意味する.出所) IMF, International Financial Statistics, CD-ROM; BIS, BOJ のウェッブサイトより作成.

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日本の経常収支は 1980 年に第 2 次石油危機の影響で赤字を記録したが,それ以来,経常収支が年次で赤字になったことはない.1981 年以降,経常収支は改善を続け,1986 年に 13.7 兆円の黒字を記録した後,黒字額は 1990年に向けていったん縮小した,その後は増大と減少を繰り返した.経常黒字額は 2001 年以降一貫して増大し,2007 年には実に 25 兆円の水準に達した.しかし,2008 年には世界金融危機の影響で黒字額が減少している.

経常収支これを対 GDP 比で見ると,1986 年の経常黒字は 4%と際立って大きかっ

たが,その後減少して 1990 年には 1.5%以下の水準になり,平成不況期を通じておおむね 2-3%の範囲内に抑えられていた.しかし,黒字額は 2002年頃より増え始め,2005 年には 4%に迫り,2007 年には 4.9%まで膨れ上がった(図表 7-5).2002 年からの平成不況からの景気回復期において,外需が内需の低迷を補う役割を果たしたことがわかる.この時期の経常収支の動きを一言でまとめるならば,① 1980 年代前半の急速な黒字幅の拡大,②1986 年から 1990 年までの経常黒字の一時的な是正,③平成不況期を通じた経常黒字の安定的な推移,④ 2002 年以降の景気回復期における黒字の大幅

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経常収支資本収支のマイナス値外貨準備増減

図表 7-4 日本の国際収支:経常収支,資本収支,外貨準備の増減(1,000 億円)

注) 1.資本収支のマイナス値は資本純流出(赤字)を示し,グラフで上昇は純流出増,下落は純流出減(ないし純流入増)を示す.

2.外貨準備増減のプラスの値は増大をマイナスの値は減少を示す.出所) 財務省ホームページより作成.

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な拡大,と特徴づけられよう.経常収支を財貿易収支,サービス貿易収支,所得収支に分けると,財貿易

収支は黒字(受け取り超過)だが変動が大きく,サービス貿易収支は赤字(支払い超過)で安定的に推移し(対 GDP 比で約 1%),所得収支は着実に伸びてきたことがわかる(章末の付表 1 も参照のこと).財貿易収支は 1990 年代まで経常収支とほぼ同じ動きを示してきたが,2000 年代に入っても安定的な水準にあり,拡大する経常収支の動きと乖離を示し始めている.それは,所得収支の黒字幅がほぼ一貫して増大し,2005 年以降は財貿易収支を上まわるほどの額になっているからである.所得収支の対 GDP 比は 2007 年に3.2%になり,財貿易収支の 2.4%を 0.8 ポイント上回った.これは,日本が経常収支黒字を累積してきた結果,国際投資ポジションを大幅なプラスにし,海外から金利・配当などのかたちで資産所得を得るようになっていることを示している.日本は対外純資産国として,次第に成熟した国際収支構造をもつ方向に進んでいるといってよい.

資本収支資本収支の内訳を直接投資,証券投資,その他に分けて見ると,直接投資

はほぼ安定的に純流出を計上してきたが,証券投資とその他の資本収支は変動が大きかったことがわかる(付表 2).まず直接投資の純流出額は,1988-

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経常収支 財貿易収支サービス貿易収支 所得収支

図表 7-5 日本の経常収支とその内訳の推移,1980-2007 年(対 GDP 比率,%)

出所) 財務省ホームページより作成.

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90 年と大きく伸び,その後は 2 兆円前後の水準を推移していたが,2005 年から再び増大した.対外直接投資(資産項目のマイナス値)の動きは,直接投資収支の動きをおおむね決めており,1980 年代末から 1990 年にかけて大幅に増え,2000 年代を通じて高い水準を維持した.対内直接投資(負債項目のプラス値)は多少の変動はあるものの,その規模は他の資本取引と比べると限られていた.

証券投資の純流出は,1984 年から目だって増え,1986 年には 17.5 兆円を記録した.その後,数年(1990-91,1997 年)を除いては 2003 年まで純流出を計上し,とくに 2002-03 年には 11 兆円以上の額に上った.対外証券投資(資産項目のマイナス値)は 1980 年代前半に増え始め,1980 年代を通じて高い水準を維持した.1990 年代以降も対外証券投資は順調に推移し,1990 年代後半から再び増え始め 2003-05 年には 20 兆円の規模に達した.とくに 2003 年以降,証券投資は流出,流入の双方向で活発になっている.

その他資本収支とは,銀行融資や金融派生商品などを含むもので変動が大きく,いくつかの時期で資本収支全体の動向を決めるものになっている.1980 年代にはその傾向は強くなかったが,1990 年代以降になると,証券投資収支が黒字(純流入)でもその他資本収支が大幅な赤字(純流出)のため資本収支全体が流出となる年が見られるようになった.1991 年,1997 年,2006-07 年がそうである.逆に,2003 年には,証券投資収支が大幅な赤字

(純流出)でもその他資本収支がそれを上回る黒字(純流入)であったため,資本収支全体が流入を計上した.

円キャリートレード日本の国際資本取引においては,2004 年から 2007 年後半の期間まで,史

上最大のいわゆる「円キャリートレード」が進んだといわれる.円キャリートレードとは,機関投資家・ヘッジファンド等が用いる資金調達・運用取引で,日本円など金利の低い通貨で資金調達して,ニュージーランド・ドルなど金利の高い通貨建て債券などで資金運用して名目金利差を得ようとする取引である.とくに,日本では 2001 年以来,事実上のゼロ金利政策が導入されており,欧米やオーストラリア,ニュージーランドなどでは,インフレ懸念の台頭で,政策金利を引き上げていたため,内外金利差が拡大し,円キャ

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リートレードが助長された1).経常収支の黒字で円高が進行しておかしくないところに,円キャリートレードの加速が逆に資本流出を加速させて,円安をもたらしたといってよい.

円キャリートレードの規模を日本の国際収支から推計することは難しい.その一部は,2004-07 年に計上された対外証券投資やその他資本収支の資産項目でとらえることができよう.OECD の調査によれば,その規模は 4 兆ドル(約 400 兆円)に上るといわれる.

3 為替政策の推移

3.1 資本自由化1980 年代の対外証券投資の拡大は,資本の自由化によるところが大きい.

もともと日本では,対外資本取引は「外国為替及び外国貿易管理法」(いわゆる「外為法」)と「外資に関する法律」(いわゆる「外資法」)により厳しく規制されていたが,1980 年,外為法は対外取引を原則自由とする法体系に改められるとともに,外資法は廃止された.こうして,個人や非金融企業にかかわる対外資本取引はほぼ前面的に自由化されたが,金融機関を含む機関投資家の対外資産運用に関してはかなりの規制が残されていた.1980 年代を通して自由化されたのは,こうした金融機関やその他の機関投資家にかかわるものだった.円安が顕著に進んだとき,当局は対外投資の自由化を一時的に後退させることもあったが,1980 年代全体として大幅な自由化が進んだ.

1980 年代の前半には,金融機関は金融自由化による競争の激化から,収益機会の拡大をねらっていた.米国金利の上昇によって内外金利差が拡大するなかで,外国資産保有規制が緩和されたことから,日本の金融機関・投資家は対米証券投資を活発化させた.植田・藤井[1986]は,当時の急激な円安の背景には,とりわけ機関投資家による分散投資の拡大があったとしている.

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1) 日本銀行は 2006 年 7 月にゼロ金利政策を解除したが,日本の金利は絶対的にも国際的にも相当に低い水準にあることから,円キャリートレードはその後も続いた.2007 年夏以降は,それが終息し,逆にその巻き戻しが起きて急速な円高の要因になったといわれる.また,円キャリートレードはアイスランド,ハンガリー,韓国などでも行われたといわれ,2008 年に世界金融危機が起こるとこれら諸国から資金流出が起き通貨危機や為替レートの下落に寄与したといわれる.

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当局は為替市場介入や一時的な資本流出規制強化によって円安を食い止めようとしたが,分散投資への動きを抑えるには不十分だった.Koo[1993]によれば,高金利の外貨建て資産への需要はあまりに強かったため,1984 年までに生命保険会社の外国資産の保有高は許容最大額に達する勢いだったという.

資本自由化は,金融自由化を背景とした金融機関・投資家のリスク選好の変化など,日本の経済・金融環境の変化に即した政策対応だったと考えられる.そのなかで,いわゆる「日米円ドル委員会」(正式には Joint Japan-USAd Hoc Group on Yen/Dollar Exchange Rate, Financial and Capital MarketIssues)が果たした役割も重要だった.円ドル委員会は,円安が日本の経常収支黒字と米国の経常収支赤字の拡大をうながした主要因だという米国政府の見解に基づき,1983 年秋に,両国政府間で設置が合意されたものである.米国政府の立場は,必ずしも厳格な経済論理に基づくものではなかったが,それは①日本の金融市場は国際投資家にとって魅力的な市場ではない,②円は国際投資家や多国籍企業にとって魅力的な通貨ではない,③日本の金融市場と円の国際的な利用を自由化すれば,日本に資本流入が起きて円高が生じる,という観点から東京市場と円の国際化を日本側に求めたのである.

円ドル委員会の報告書は 1984 年 5 月に公表されたが,これには対内外投資のさらなる自由化,円の国際化,国内金融市場のさらなる規制緩和を目的とする諸策が盛り込まれた.こうして,日本側は①円建て国内債(サムライ債)の起債条件の緩和(1984 年 4 月),②先物為替取引における実需原則の撤廃(1984 年 4 月),③居住者によるユーロ円債の発行条件の緩和(1984 年4 月),④非居住者によるユーロ円債の発行条件の緩和(1984 年 12 月),⑤円建て銀行引受手形(BA)市場の創設(1985 年 6 月)等の諸策を確認あるいは約束した.これらの諸策は,円の潜在的な強さを引き出すことを目的としていたものの,その多くは日本からの資本流出を促進するものだったため,円ドル合意の直接的な結果はむしろ円安に働いたと評価されている

(Frankel[1984]).それにもかかわらず,円ドル委員会が日本の金融自由化・国際化を推し進める上で重要な役割を果たしことは間違いない.

プラザ合意の後,通貨当局にとって対外証券投資の自由化をためらう理由はもはやなかった.1986 年春より,機関投資家に課せられた対外証券投資

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のストックおよびフローの規制は徐々に緩和され,同年 8 月,フローの規制は撤廃された.ストック規制は残ったが,1987 年頃までには,機関投資家の投資行動に影響を与えないほどまでに緩和されていたといわれている

(Fukao and Okina[1989]).つまり,日本の資本勘定は,1980 年代後半には事実上完全に開かれたものになり,内外金融市場の一体化がもたらされたのである.

3.2 金融ビッグバンと円の国際化資本自由化がほぼ完結した後も,対外金融・資本取引をより円滑にする努

力は続いた.これは,1990 年代に入って,居住者外貨建て海外預金の自由化,非居住者ユーロ円債および円建て外債の適債基準の撤廃,諸取引の許可・届出手続きの弾力化および簡素化,居住者ユーロ円債の還流制限の撤廃などの形で進められた.このような実績を踏まえ,さらには 2001 年までに東京をニューヨーク,ロンドンと並ぶ国際的な金融市場として復権させるという観点から,1998 年 4 月に「外国為替及び外国貿易管理法」が廃止され,それに代わる「外国為替及び外国貿易法」が施行された.これは「fair, free,and global」というスローガンの下で推し進められることになる「日本版金融ビッグバン」の第 1 弾として位置づけられた.

このいわゆる新外為法は,事前の許可・届出制度,外国為替公認銀行制度(いわゆる為銀制度),指定証券会社制度,両替商制度を廃止し,さらに制限業種を除く対外直接投資の事前届出制を廃止することにより2),法運用上の基本原則を事前許可・届出制から事後報告制に移行させるものだった.外国為替市場の働きに関しては,2 つの法律上の変更点があった.第 1 に,為銀制度の廃止により,非金融企業は為銀の仲介なしに直接外国為替取引に参加することが可能になった.そのため,支払いの相殺やマルチネッティングなど為銀を通じない決済が可能になった.第 2 に,居住者は制約なく外貨建て預金を外国に保有したり,それを利用して海外金融機関を相手に債券投資や株式投資を行うことが可能になった3).

7 為替レートと国際収支 247

2) 対内直接投資については,1992 年の改正によって原則事後報告制に移行済みになっていた.3) また,有事規制については,経済的な事由による規制は残され,政治的有事に対応するための

規制は強化された.外為法改正に関しては,河合[2000]を参照されたい.

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「日本版金融ビッグバン」が外国為替市場,さらには国際金融・資本取引全般の効率性を高めたことは否めないであろう.しかし,それが東京市場の復権という目的にどれほど寄与したのかは定かでない.東京市場の地位はさまざまな国内的な経済要因に加え,他の主要国際市場の動向にも影響を受けるからである.事実,ビッグバンの後も,東京市場の相対的な地位はさほど高まらず,むしろ低下した部分もある.たとえば,非居住者による国債保有高は 1997 年の約 250 兆円から 2000 年には 330 兆円に増えたものの,非居住者による債券発行高に占める日本市場のシェアは微々たる額にとどまった

(2000 年は 2.5%,2002 年は 0.6%に低下).東京オフショア市場の規模は,1997 年をピークに 2000 年まで縮小を続けた.

こうした事態を背景に,大蔵大臣(現,財務大臣)の諮問機関である外国為替等審議会は専門部会を設け,円のさらなる国際化を促進し,ひいては東京金融市場を主要な国際金融センターとするために必要な施策の検討を始めた.1999 年 4 月,外国為替等審議会は答申を出し,同年 9 月,答申のフォローアップと円の国際化のいっそうの推進に必要な政策を調査するために,新たな研究会を設けた(その報告書は 2001 年 6 月に公表).この作業は2001 年 10 月発足の「勉強会」,2002 年 9 月発足の「研究会」によって継続されたが,何ら具体的な成果を出すことなく終結した.その後,財務省の関心は「円の国際化」から「金融・資本市場の国際化」にシフトしたようであるが,そのために設立された財務省国際局の研究会が数カ月の活動のあと,2003 年 7 月に「座長とりまとめ」を発表した後,円の国際化や東京市場の国際金融センター化をめざした包括的な施策はとられていない.

3.3 外国為替市場介入ルーブル合意の時期G5 諸国(米・英・独・仏・日)は米ドルが基礎的経済要因に照らして過

大評価されているという認識の下,1985 年 9 月 21-22 日,ニューヨークのプラザホテルにおいて,ドルを他の主要通貨に対して減価させるために協調することを合意した.東京市場では 9 月 23 日の祭日明け,円ドルレートは金曜日の終値に比べ 10 円高い初値で取引が開始された.その日の新聞報道によると,通貨当局は大量のドル売り介入を行ったとされるが,その日の取

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引ではドルは若干値を戻した.ところが翌日から再び円に対して減価を始め,ドル安基調は 10 月初めまで続いた4).為替レートはプラザ合意前の 1 ドル240 円程度から大幅に調整され,10 月には 214-218 円程度で推移した.

ところが,円高が急速に進みすぎたため,急激な為替調整が実体経済に与えるマイナスの影響が危惧されるようになった.1986 年に入ると,日本銀行はそれまでの高金利政策から金利を段階的に引き下げる政策に転じた.さらに通貨当局は春から夏にかけて,大規模なドル買い介入を行って円高・ドル安に歯止めをかけようとした.秋から翌 1989 年の 1 月にかけて,日米当局はマクロ経済政策の協調を通して為替レートを安定化させようと試みた.しかし,これらの諸策にもかかわらず,円高・ドル安の動きがおさまる気配はなかった.1987 年 2 月に,G5 にカナダを加えた G6 諸国によって,主要為替レートの安定化に向けた政策協調がパリのルーブル宮で合意されたのはこのような状況によるものだった.

1987 年 2 月 22 日に公表されたルーブル合意での公式声明は,現行の為替レートがおおむね基礎的経済要因と整合的な水準にあると述べ,「現状においては,為替レートを現在の水準の周辺に安定させることをうながすために緊密に協力する」としている.しかし,ルーブル合意の政策上の詳細は明らかにされていない.船橋[1988]は,複数の政府高官から得た情報に基づき,円とマルクに対するターゲットゾーンがドルに設けられたと主張している.円に関して具体的な数値をあげると,当初の中心レートは 1 ドル 153.5 円であり,変動幅は上下 5%だった.その後,4 月 7 日の G5 会議において,中心レートは 1 ドル 146 円に改められ,新ターゲットゾーンは 10 月 18 日まで有効だったとされる5).

この期間を通じて,通貨当局は,為替レートを安定化させるために双方向に活発に介入したものと思われる.当時の新聞報道によると,1987 年 2 月22 日から 10 月 18 日までの 169 日のうち,日本の通貨当局は合計 37 日間外

7 為替レートと国際収支 249

4) こうした事実,またドルの円に対する減価がほぼすべてニューヨーク市場が開いていたときに起こったという観察に基づき,Ito[1987]は円ドルレートを動かしたのは為替市場介入自体ではなく,連邦準備制度が介入したというアナウンスメント効果だったと論じている.

5) Lewis[1995]および Esaka[2000]は,ロジットモデルを推計することにより,日米通貨当局による為替市場介入のパターンが船橋[1988]の示唆するターゲットゾーンとおおむね整合的であることを示している.すなわち,ドル売り介入とドル買い介入の確率がターゲットゾーンの上下限とされる水準で同一になったという結果が得られたのである.

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国為替市場に介入した.とくに 5 月初め,円が想定される下限(1 ドル138.7 円)に達したとき,日米通貨当局は協調して大規模なドル買い介入を行ったとされる.このようにして約 8 カ月間,為替レートはターゲットゾーンと想定される範囲に完璧におさまっていた(図表 7-6).しかし,為替安定を目的としたと考えられた協調介入は長く続かなかった.1987 年夏には円高傾向は終結したかのように見えたが,9 月に入り,円はドルに対して増価を再開した.円高傾向は 10 月のブラックマンデーの後さらに顕著になり,円は 1 ドル 150 円から 10 月には 140 円台,12 月には 120 円台まで上昇したのである.

1995 年の超円高円レートの増価は 1989 年に入ると逆転し,1990 年 4 月には 1 ドル 158 円

のボトムにまで減価した.しかしその後,再び増価し,とりわけ 1993 年以降円高のスピードが速まり,1995 年 4 月 19 日には東京市場で一時的に 1 ドル 79.75 円という歴史的な値を記録した.1990 年 4 月から 95 年 5 月の 1 ドル 83 円へと 88%(月平均 1.5%)のペースで切り上がったのである.この円高は,長期にわたる深刻な景気後退のなかで進行したことに特徴がある.

250

135

140

145

150

155

160

165

135

140

145

150

155

160

円ドルレート

16587/2/23

87/3/2

87/3/9

87/3/16

87/3/23

87/3/30

87/4/6

87/4/13

87/4/20

87/4/27

87/5/4

87/5/11

87/5/18

87/5/25

87/6/1

87/6/8

87/6/15

87/6/22

87/6/29

87/7/6

87/7/13

87/7/20

87/7/27

87/8/3

87/8/10

87/8/17

87/8/24

87/8/31

87/9/7

87/9/14

87/9/21

87/9/28

87/10/5

87/10/12

図表 7-6 ルーブル合意下の円ドル為替レートのターゲットゾーン(1987 年 2 月 23 日-10 月 16 日)

出所) 日本経済新聞,船橋[1988].

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資産価格デフレ,不良債権問題,さらには阪神・淡路大震災(1995 年 1 月)のなかで円高が生じ,93 年 10 月を底に緩やかな回復過程に入ったといわれた景気を脅かしたのである.

通貨当局は 1993 年,94 年と市場介入を行ったが小規模であり,円高に歯止めはかからなかった.95 年には 2 月から 9 月まで毎月為替市場介入を行った.3 月には大規模介入を行ったにもかかわらず円高は 5 月まで続き,ようやく 6 月になって反転を始め,9 月の第 2 弾の大規模介入で 10 月に 1ドル 100 円の水準にもどった.それ以降の時期は,1996 年 2 月に市場介入が行われたほか,しばらく円売り・ドル買い介入は行われなかった.1993年から 95 年にかけての為替市場介入は,95 年の超円高を阻むことはできなかったが,95 年に入ってからのそれは頻度が高く,規模も大きくなったことから,円高を反転させる力になったものと思われる.

平成の大介入平成不況の間,通貨当局は記録的な外国為替市場介入を行った.1993 年 1

月から 2004 年 3 月まで,実に 341 日間介入したのである.とりわけ 2003 年1 月以降最後の介入が行われた 2004 年 3 月までは,介入は以前よりも頻繁であり大規模なものになった(図表 7-7).1998 年を除き,介入はほぼ一貫

7 為替レートと国際収支 251

円/ドル為替レート(右目盛)外国為替市場介入(左目盛)

8,000

外国為替市場介入(10億円)

円/ドル為替レート

6,000

4,000

2,000

0

-2,000

-4,000

150

140

130

120

110

100

90

801993 (年)0402 03012000999897969594

図表 7-7 円ドル為替レートと外国為替市場介入(1993 年 1 月-2004 年 12 月)

出所) 財務省,IMF.

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して円売り,ドル買い介入だった.とくに 2003 年 1 月から 2004 年 3 月に至る「大介入」(Taylor[2006])は,経済が長期低迷からようやく回復の兆しを見せ始めた時期に対応していた.この 15 カ月間,通貨当局は実に 35 兆円の円売り介入を行ったが,それは日本の GDP の 7%に相当する額であり,その間の経常収支黒字(21 兆円)を上回る額でもあった.その裏側として,2003-04 年に,民間部門は資本の純流入(資本収支の黒字)を記録していたのである.

この間の為替介入をやや詳しく見ると,2002 年まで,介入の強弱は為替レートの動向に依存していたことがわかる.すなわち 1995 年および 1999-2000 年という円増価期の最後の局面で円売り・ドル買い介入の規模が増し,1998 年の金融危機を背景とする強い減価圧力期の最後の局面では,円買い・ドル売り介入の規模が増している.ところが,2003-04 年の時期では,介入は頻繁かつ大規模であり,為替レートの動きとさほど連動していないようにも見える(この間,円は持続的に増価していた).この時期における介入は,後述のように,為替レート以外の要因が考慮に入れられていた可能性が高い6).

3.4 為替政策と金融政策多くの実証研究によれば,1980 年代から 1990 年代初めにかけて,日本の

金融政策は為替レート水準を考慮して運営されていた.実質円高が進むと短期金利は引き下げられ,実質円安が進めば短期金利が引き上げられる政策がとられていたと考えられるのである7).たとえば日本銀行は,プラザ合意後

252

6) いくつかの実証研究は,1995-2002 年の介入が,為替レートを短期的に望ましい方向に誘導することにおおむね効果的であったと結論している(Ito[2005],Kim and Sheen[2006],Fatumand Hutchison[2006]など).しかし,2003-04 年の介入の効果に関して,実証研究はより懐疑的である.Ito[2005]は,介入は 1995-2002 年ほど効果的ではなかったとし,その理由を後期の介入が非公表でしかも予期されていたことに求めている.Fatum and Hutchison[2006]は,介入は2003 年では為替レートに影響なく,2004 年ではむしろ反対方向に作用したと結論している.ただし,これらの実証研究は日次データを用いて,為替介入が短期的に為替レートの日次変動に与えた影響を見ているのであって,平成の大介入が中長期的に為替レートにいかなる影響を与えたのかを検証したものではない.後者に関して,深尾・望月[2005]は,実質金利差や経常収支を為替レートの変動要因としたアセットアプローチのモデルを推計することにより,2003-04 年の大介入にともなう内外資産の構成比の変化が円レートを 20%程度押し下げたという結果を示している.

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の 1985 年 10 月に高金利政策に転じることによってそれまでの過度な円安を是正しようとしたと考えられ,この間コールレートは 6.2%から 12 月中旬の 8.5%まで上昇した.

また 1986 年に入って急激な円高が進むと,日本銀行は実質円高が実体経済に与える影響を懸念し,連邦準備制度と協調して短期政策金利を引き下げる方向に金融政策を転換した.

こうして,5%の水準にあった公定歩合はルーブル会議直前の 1987 年 2 月には 2.5%まで引き下げられた.ルーブル合意後も金融緩和スタンスは続き

(コールレートは 3 月中旬の 3.9%から 5 月中旬の 3.1%まで低下),1989 年5 月,円が減価を始めるまで維持された.日本銀行は,円の減価にともない公定歩合を 3.25%に上げ,さらに 10 月には 3.75%にまで引き上げた.1990年に入っても,円安・ドル高はおさまらず,日本銀行は 3 度にわたる公定歩合の引き上げを行った.

このように,プラザ合意の時期から 1990 年代初めまで,金融政策は為替レートに反応するかたちで運営されたと解釈できよう.しかし,1990 年代に入ってバブルが崩壊し,実体経済の低迷が始まると,金融政策の為替レートに対する反応は変化することになった.金融政策の運営が,デフレからの脱却と景気の回復を主眼とするものになったからである.すなわち,1991年末から金融政策は再び緩和に転じ,公定歩合は段階的に引き下げられ,1995 年 9 月には 0.5%にまで下げられた.さらに,1999 年 2 月,日本銀行はオーバーナイトの無担保コールレートを事実上ゼロである 0.15%に誘導することによって,いわゆる「ゼロ金利政策」を始めた8).ゼロ金利政策の下では,政策金利を引き下げることによって金融緩和を行う余地はもはや存在しなくなる.そのため,日本銀行は 2001 年 3 月に「量的緩和」政策を打ち出し,市中銀行が日本銀行に保有する当座預金残高の目標値を公表して,それを定期的に引き上げていくという「非伝統的」な金融政策を採用した

7 為替レートと国際収支 253

7) De Andrade and Divino[2005]は,コールレートを購買力平価からの乖離(実質為替レートのミスアラインメントの代理変数)を含む説明変数に回帰させ,この期間,コールレートが実質為替レートと反対の動きをしていたことを示した.短期金利が実質為替レートの動きを抑えるように決められるという関係は,プラザ合意直後から 1987 年 5 月までとくに顕著だった.

8) いわゆる「ゼロ金利政策」は 2000 年 8 月に一時的に解除されたが,2001 年 3 月に復活し 2006年 7 月まで続いた.

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(図表 7-8).量的緩和政策の期間(2001 年 3 月-2006 年 3 月),日本銀行は当座預金残高の目標値を約 5 兆円から 30-35 兆円程度に段階的に引き上げた.2003 年 1 月から 2004 年 3 月の為替大介入の期間に限ると,当初の 15-20 兆円程度の目標値から 30-35 兆円程度の目標値へと,約 15 兆円の目標積み増しを行ったのである.

この間の外国為替市場介入と金融政策の関係は,量的緩和政策の文脈で理解することができよう.大規模な市場介入の一次的な目的は急激な円高を抑えることであったとしても,円売り介入による市場への円資金供給は,量的緩和の目標を達成する手段ともなりえた.たとえば,2003 年 1 月から 2004年 3 月までの大介入の時期における円売り・ドル買い介入の累積額が 35 兆円であったのに対し,同期のマネタリーベースの累積増加額が 18 兆円であり,為替介入の半分程度しか不胎化されなかったことになる9).しかし,量的緩和の当初から大介入の終わりまで(2001 年 3 月-2004 年 3 月)を見ると,介入の累積額は 42 兆円であったのに対してマネタリーベースの純増額は 44

254

9) Watanabe and Yabu[2007]は,日次データを使った分析によって,この間の介入額の約 60%が不胎化された(すなわち 40%が不胎化されなかった)と推定しており,本文中の数字と大きく離れたものではない.日本の為替市場介入は,もともと自動的に不胎化される仕組みになっている.それは,財務省が円売り・ドル買いのための円資金をあらかじめ市中から調達して(為券を発行して)それをドル買いに使うからである.ところが,2003 年 1 月から 2004 年 3 月の期間の市場介入は規模がきわめて大きく,一時的に日本銀行が為券を引き受けざるをえず,後日市中に売却するまで時間がかかったといわれる(谷内[2008]).このことから,為替介入の一部は結果的に不胎化されなかったのである.

図表 7-8 量的緩和政策下の当座残高目標値(2001 年 3 月-2004 年 1 月)

政策審議委員会の決定日 当座預金残高目標値2001 年 3 月 19 日 約 5 兆円2001 年 8 月 14 日 約 6 兆円2001 年 9 月 18 日 6 兆円以上2001 年 12 月 19 日 10-15 兆円程度2002 年 10 月 30 日 15-20 兆円程度2003 年 3 月 25 日 17-22 兆円程度2003 年 4 月 30 日 22-27 兆円程度2003 年 5 月 20 日 27-30 兆円程度2003 年 10 月 10 日 27-32 兆円程度2004 年 1 月 20 日 30-35 兆円程度

注) 03 年 4 月 1 日より.出所) 日本銀行.

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兆円に上った.中長期的視野からは,量的緩和政策の下で,不胎化されない為替介入が可能になったと考えることもできよう.

4 為替レートとマクロ経済

4.1 円高と景気動向プラザ合意後の円高1985 年 9 月のプラザ合意後の急激な円高の要因を分析するに当たり,G5

諸国によるマクロ経済政策協調のアナウンスメント効果が一定の役割を果たしたことは否めない.しかし,1985 年 2 月からすでに,円はドルに対して増価を始めており,また,基礎的経済要因とは無関係にアナウンスメント効果のみで円が 1989 年までの 4 年間増価し続けたと考えることは難しい.

プラザ合意後の円高の背後にあった経済要因の 1 つとして,資本自由化の下で活発になった国際資本移動の動きが挙げられる.すでに述べたように,プラザ合意以前の円安の背景には,内外金利差と機関投資家による対外証券投資の規制緩和があった.円安が進むと,日本の通貨当局は一時的に対外流出規制を強めたが,プラザ合意以降の円高の局面で,これらの規制は撤廃された.深尾[1989]によると,こうした対外証券投資に関わる規制撤廃によって,プラザ合意後も 1987 年前半まで,円レートの増価にもかかわらず機関投資家による長期資本流出は増え続けたという.しかし,対外投資によるキャピタルロスがかさんだ結果,機関投資家による対外証券投資は減少し始めた.1985 年に始まった米国金利の低下を背景に,1987 年以降は対外証券投資の減少が円高に拍車をかけたのである.

プラザ合意後の円高の第 2 の背景としては,石油価格の下落による交易条件の大幅な改善が挙げられよう(浜田・岡田[2009],伊藤[1991]).石油価格は 1986 年から半年で 3 分の 1 に下落し,その後回復したものの 1989 年でも1985 年の半値という水準にあった.

第 3 に,米国の累積経常赤字の蓄積が急速な円高を進めた可能性もある.経常収支不均衡の持続は,内外資産の相対的な供給を変えることによってドル資産保有のリスクプレミアムを引き上げた可能性がある.

7 為替レートと国際収支 255

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円高不況,バブル景気,平成不況プラザ合意後の急速な円高により,製造業の生産活動は約 2 年間停滞した

(いわゆる「円高不況」).しかし,1987 年秋以降,円高にもかかわらず生産活動は急速に回復した.西川[1989]の実証分析によると,円高の製造業への影響が比較的限定的であったのは,①財政拡張や金融緩和が効果をもったこと,②原材料価格が円ベースで大幅に低下したこと,③国内市場と海外市場が比較的分離されていたため,国内価格が輸出価格に比べて高止まりしたこと(内外価格差については後述)などの理由による.

円高不況からの回復後,日本経済はバブル期に入った.このバブル期を通して経済活動が好況であったことの説明として,浜田・岡田[2009]は,上述の交易条件改善のプラス面が実質円レート増価のもつマイナス面を相殺した点を強調している.サービス産業の好況が,輸出産業,輸入競合産業の落ち込みを補ったが,その後交易条件が悪化すると,1989 年から実質円高が修正され始めていたものの日本経済は不況に陥った.

1990 年代の前半にバブルが崩壊し,日本経済は長期の平成不況に入ったが,それは資産価格の下落から,企業の間で資本設備,雇用,債務のいわゆる「3 つの過剰」が顕在化し,経済活動が停滞したからである.円レートは1990 年に円安のボトムに達した後,95 年まで大幅に増価したが,95 年のピーク時の実質円レートはプラザ合意時点のそれよりも 60-80%高い水準になった.円はその後減価し,1998 年にボトムに達したが,再び 2000 年に向けて増価した.浜田・岡田[2009]は長期にわたる実質為替レートの高騰が

「失われた 10 年」の一因であり,金融緩和の遅れは実体経済をさらに深刻化させたにすぎないと論じている.

4.2 為替レートと経常収支すでに見たように,日本の経常収支の黒字は 1983 年ころから急激に拡大

し,1986 年には 13.7 兆円の規模に達した.プラザ合意後,円レートが上昇を続けるなか,経常収支は高水準の黒字を計上した.日米の経常収支不均衡の要因に関しては,さまざまな議論がなされてきた.主として日本側からは,日米両国の財政政策スタンスの相違,日本の将来の高齢化を背景とした高貯蓄率,米国の高い消費性向などのマクロ的要因が強調された.欧米側からは,

256

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日本市場の閉鎖性,不公正な取引慣行,政府による産業助成など,日本経済に内在する構造的問題が指摘されることもあった.

1986 年 4 月には,首相の私的諮問機関「国際協調のための経済構造調整研究会の報告書」(いわゆる「前川レポート」)が公表され,マクロ要因を強調する観点から,内需中心の経済構造への転換とそのための規制緩和が提言された(ボックス 1. 参照).その後急速な円高のもとで国内製造業の将来への懸念が高まったため,首相の諮問機関である経済審議会の「経済構造調整特別部会」で,1987 年 4 月に,前川レポートを具体化するための報告書

(いわゆる「新前川レポート」)が発表された.プラザ合意後の急速な円高にもかかわらず,日本の経常収支黒字はさほど

7 為替レートと国際収支 257

ボックス 1.「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」(いわゆる「前川レポート」)

•経常収支不均衡を国際的に調和の取れるよう着実に縮小させることを中期的な国民的目標として設定し,わが国の構造調整という画期的な施策を実施し,国際協調型経済構造への変革を図る

•内需拡大 ⑴住宅対策および都市再開発事業の推進,⑵消費生活の充実,⑶地方における社会資本整備の推進

•国際的に調和のとれた産業構造への転換 ⑴産業構造の転換と積極的産業調整の推進,⑵直接投資の促進,⑶国際化時代にふさわしい農業政策の推進

•市場アクセスの一層の改善と製品輸入の促進等 ⑴市場アクセスの一層の改善,⑵製品輸入等の促進,⑶節度ある企業行動

•国際通貨価値の安定化と金融の自由化・国際化 ⑴適切な国際通貨価値の安定と維持,⑵金融・資本市場の自由化と円の国際化

•国際協力の推進と国際的地位にふさわしい世界経済への貢献 ⑴国際協力の推進,⑵新ラウンドの積極的推進

•財政・金融政策の進め方•フォロー・アップ

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縮小しなかった.図表 7-9 は 1980-2007 年の時期について,部門別の貯蓄・投資バランスを示したものである.この図では,民間部門を法人企業部門

(非金融法人企業と金融機関)と家計部門とに分け,その各々と,一般政府部門,海外部門(マイナス値)の貯蓄・投資バランスの対 GDP 比率がプロットされている.海外部門の貯蓄・投資バランスについては,その符号を逆にしたものが国際収支ベースでの経常収支に対応するので,そのマイナス値が示されている.

図からわかるように,海外部門の貯蓄・投資バランスは 1980 年代央以来一貫してほぼ 3-5%の間で推移しているが,その他の経済部門のバランスはそれ以上の変動を示している.そのなかでも家計部門のバランスは 1980 年代の 10%程度の水準から,90 年代には 6-7%の水準に低下し,2000 年代にはさらに 2-3%の水準に落ち込んでいる.法人企業部門は 1980 年代を通じて投資超過の状態にあり,とくに 80 年代後半のバブル期から 91 年までは大幅な投資超過を経験したが,バブル崩壊後,次第に投資超過が減りむしろ貯蓄超過になった.1990 年代を通じて貯蓄超過額は拡大し,とくに 2002-05年には対 GDP 比 7-8%の貯蓄超過を記録した.深刻な経済低迷に面した法人企業部門は,貯蓄超過をつくり出すことによって,バブル期に累積した過剰債務の返済・処理を進めたものと思われる.2005 年以降は,おりからの

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-15

10

5

0

-5

-10

15

1980 85 90 95 2000 (年)05家計部門 法人企業部門 政府部門 海外部門のマイナス値

図表 7-9 日本の部門別貯蓄・投資バランス(対 GDP 比率)

出所) 内閣府の国民計算勘定より作成.

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経済回復にともない,貯蓄超過を減らす方向に動いている.他方で,一般政府部門の投資超過額(財政赤字)は 1983 年まで大きかっ

たが,その後は 1986 年からの円高不況にもかかわらず順調に減り,1988 年にはバブル経済の進展もあり貯蓄超過(財政黒字)に転じた.しかし,バブルが破裂し経済停滞が始まると,1990 年代を通じて相次ぐ経済対策が打ち出されたため,投資超過になり,その額も増大した.2000 年代初めに経済回復が始まると,一般政府部門の投資超過は減り始めた.

この部門別の貯蓄・投資バランスの分析からわかることは,1980 年代後半のプラザ合意以降の円高にもかかわらず経常収支黒字が続いた背景として,一般政府部門のバランス(財政収支)の改善,家計部門の貯蓄超過の高止まりが見られたということである.この背景を支えるさらなる要因としては,日米貯蓄率の差異,日米金利差,交易条件の改善が円高下での経常収支黒字を長期化させた可能性が挙げられる10).また,1990 年代前半から 1995 年にかけての超円高にもかかわらず経常収支黒字が続いたのは,法人企業部門が貯蓄超過をつくり出して債務返済・処理を行ったからである.

4.3 内外価格差プラザ合意後の急速な円高にもかかわらず,経常収支黒字がさほど縮小し

なかった理由として,貿易財価格の動きに注目する議論もある.この議論の背後には,1980 年代に入り,少なくとも米国において為替レート変動が相対価格に十分な影響を与えなくなったという認識があった.すなわち,プラザ合意後の大きな為替レート調整にもかかわらず,日米の経常収支不均衡が持続したのは,企業の市場別価格設定行動により,米国における輸入価格が十分に上昇しなかったからだと議論された11).これは,日本の輸出企業の観点からすると,輸出価格が円建てで据え置かれず,むしろ引き下げられた

7 為替レートと国際収支 259

10) 植田[1986]は貯蓄・投資バランスによるアプローチを用い,1984 年時点で,GNP 比 3%の経常黒字のうち 2%は官民部門の純貯蓄の動き,残り 1%は景気循環的な部分(おもに日米の景気局面のずれによる部分)によって説明されると結論づけた.Song[1997]は,標準的な為替レート・モデルを推定することによって,1980 年代後半における円高下の経常黒字の拡大が,日本の貯蓄率の上昇,交易条件の改善(原油価格の下落),米国の長期金利の高止まり(それによる海外への資本流出)によって説明できることを示した.

11) 収益マージンを変えることによって,企業が貿易財価格の変動を為替レートの変動に対して抑える行動は市場別価格設定行動と呼ばれる

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可能性があったことを示唆する.事実,1985 年から 1988 年まで,日本の輸出物価指数は約 20%下がったのである(高木[1993]).

松本・白井・松田[1989]は,円高の輸出価格への累積転嫁率は,1986 年で 52%程度だったが,その後急速な転嫁が進んだことを示した(ただし,価格転嫁率は海外生産の割合が高い企業ほど小さくなり,電気機器では40%にとどまった).一方,国内価格は輸出価格に対して高めに設定された.国内価格を高めに設定することにより,企業は国内部門での利幅で輸出部門における採算の悪化を相殺したと考えられるのである.プラザ合意以降の急激な円高によって日本経済は一時的な景気後退を経験したが,景気は 1987年春頃から緩やかに回復し,1988 年には製造業は全体として史上最高益を更新した.この背景には企業の価格設定行動による内外価格差があり,またそれが為替レートの経常収支調整効果を妨げていた可能性が示唆される.

内外価格差は輸入財についても観察された.Sazanami, Kimura, andKawai[1997]によると,1985 年から 1995 年まで輸入財の内外価格差は拡大した.為替レートの増価率と比較して,輸入財価格はそれほど低下せず,卸売り価格の低下率は輸入財価格のそれを大きく下回っていた.佐々木百合は経済企画庁(現,内閣府)のデータに基づき,1985 年から 1990 年まで,日本の物価は購買力平価に比べて割安であったことを示している(本巻第 9 章

参照).その後,日本の物価は割高になり,内外価格差は 1995 年ごろにピークを迎えたが,2000 年代のデフレ期を通して,日本の物価は下落を続け,内外価格差は縮小することになった.

4.4 円高と産業構造円高は,国際的には日本の貿易財価格を海外の貿易財価格よりも割高なも

のにすることによって,日本製品の国際価格競争力を低下させる.それはまた,国内的には貿易財価格を非貿易財価格よりも割安なものにすることから,貿易財の生産を相対的に不利にし,非貿易財の生産を有利にする.こうした相対価格変化は,貿易財産業のうち価格競争力を失われた分野の国内生産を縮小させてそれらの海外展開(対外直接投資)をうながし,同時に国内的には非貿易財産業を拡大させ,経済のサービス化を促進する.これが産業構造の変化にほかならない.要するに,産業構造の変化は,①貿易財産業の縮小

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や海外生産の拡大,②貿易財部門における高付加価値化,③非貿易財産業への生産資源のシフト,というかたちをとる.

図表 7-10 は,1980 年以降の,非貿易財部門と貿易財部門の間の国内生産比率をプロットしたものである.ここで,非貿易財部門としては,建設業,電気・ガス・水道業,卸売・小売業,金融・保険業,不動産業,運輸・通信業,サービス業が考慮に入れられ,貿易財部門としては製造業が考慮に入れられている.興味深い点は,両部門の生産比率を名目値でとると,非貿易部門が貿易財部門と比べて傾向的に増大しており,経済のサービス化が進んでいるように見えるが,両部門の生産比率を実質値でとると,上方のトレンドは見られず,経済のサービス化は進んでいないということである.この違いは,図には示していないが,両部門間の相対価格に現れている.すなわち,非貿易財部門の価格が貿易財部門の価格よりも急速に上昇していることから,その実質的な生産規模は貿易財部門のそれとほぼ同程度で推移しつつも,名目ベースでは増大しているのである12).

また,この図からわかるもう 1 つの点は,平成不況の時期においては,名

7 為替レートと国際収支 261

80

90

100

110

120

130

140

1980 85 90 95 2000

(1980年=100)

(年)05非貿易財部門の生産/貿易財部門の生産比率(名目値)非貿易財部門の生産/貿易財部門の生産比率(実質値)

トレンド線トレンド線

図表 7-10 非貿易財部門の生産/貿易財部門の生産の比率(名目値と実質値)

注) 1.非貿易財部門は,建設業,電気・ガス・水道業,卸売・小売業,金融・保険業,不動産業,運輸・通信業,サービス業を指す.貿易財部門は製造業をさす.

2.名目値は各産業の名目 GDP 値,実質値は各産業の実質 GDP 値をさす.出所) 内閣府の国民計算勘定より作成.

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目値を見ても実質値を見ても,非貿易財部門の生産が貿易財部門の生産をトレンドよりも上回っており,不況から脱却した 2005 年以降はトレンドを下回っていることである.平成不況の時期においては,実質円高が基調であったことから,非貿易財部門の生産が相対的に伸びたが,2000 年代に入って実質円安になるとそれが逆転したのである.2002 年から見られる,非貿易財部門から貿易財部門への生産シフトが平成不況からの脱却のテコになったのである.しかし,それは 2008 年に始まった世界金融危機で日本が大きな打撃を受ける下地ともなったといえる.

5 為替政策の将来

5.1 円の国際化,東京の国際金融センター化2003 年以降,政策の焦点は「円の国際化」から「東京市場の国際金融セ

ンター化」に移ったが,その後,いずれの政策目標においても,目だった政策はとられていない.円の国際化への政策的な関心が薄れた背景には,国際通貨の選択は民間の市場参加者が決めることであり,これ以上,政策に果たせる役割は残されていないという認識がもたれたり,「失われた 10 年」の期間に円の国際化がほとんど進捗せず,これ以上進めようとする熱意が失われたことがあった可能性がある.その意味で,政策の焦点が「東京市場の国際金融センター化」に移ったのは自然なことであった.しかし,具体的な施策は,東京市場の国際金融センター化においてもとられてこなかった.これには,財務省(および旧大蔵省)が行っていた金融行政の企画業務が金融庁に移管されたことと大きく関連しているように思われる.わが国が国際金融取引において果たすべき役割を一体的に考え,実施する仕組みが欠如している

262

12) 河合[1995]は,1970 年から 1990 年代前半の時期において,非貿易財部門と貿易財部門の間の雇用者比率と新規設備投資(実質)比率とを比べ,両者ともに上方トレンドをもって推移していたことを示している.雇用と資本ストックが徐々に非貿易財部門にシフトしつつあったことになる.とりわけ,円高期に非貿易財部門への大きなシフトが起こり,トレンド線よりも活発な活動が起こっていた.したがって,貿易財部門が,労働,資本ストックを相対的に低下させるなかで,実質産出量を引き下げずにすんだのは,高い生産性をもっていたからである.逆に,非貿易財部門が,労働,資本ストックを増大させながらも,その実質産出量を大幅に拡大できなかったのは,生産性が低かったからである.このことは,実質ベースでの円高をテコに産業構造を図ろうとすると,非貿易財部門での生産性向上が大きな課題になることを意味している.

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ことは,大きな問題だろう13).20 年間にわたる円の国際化に向けた取組みにもかかわらず,円の国際的

な使用が高まることにはならなかった.しかし,政策が失敗したと結論づけることは性急である.「円の国際化」という旗印のもとで,各種の金融資本取引が自由化され,国債の多様化や国債市場の機能向上など,さまざまな金融資本市場改革が進められてきたからである.結果は何であれ,円の国際化に受けた取組みを通して,日本経済は国際金融市場との統合を深め,対外的金融取引はより効率的になってきたと考えられる.同様に,今後も「東京市場の国際金融センター化」を旗印に,わが国の金融資本市場において残された非効率性や障壁をさらに除去していく努力は必要であろう.法人税や非居住者の源泉徴収など,これまで以上に横断的に対処すべき問題は多い.「円の国際化」のメリットが大きいことも今では広く認識されている.財務省の関係局はもちろん,金融庁,日本銀行,民間金融機関等が認識を共有し,1つの国家目標に向けて協力していくための枠組みを構築することが求められよう.

5.2 蓄積した外貨準備をどうするかこれまでの為替政策の結果として蓄積された 1 兆ドルにのぼる外貨準備

(図表 7-11)をどうするかは,政府が真剣に考えるべき問題の 1 つである.先進国でこれだけの外貨準備を有する国は例を見ない.米国も,ヨーロッパの主要国も,またオーストラリアなどの国でさえ,わが国の数十分の一の外貨準備しか保有していないのが現状である.そもそも外貨準備とは,金融危機その他で国際資本市場へのアクセスが失われる場合に備えてもつ保険だと考えられる.通常,先進諸国の政府や高格付けの金融機関・企業はほぼ常に

7 為替レートと国際収支 263

13) 1998 年 6 月に,大蔵省から銀行局・証券局の所掌事務のうち民間金融機関等の検査・監督業務が分離されて金融監督庁が設立され,2000 年 7 月には大蔵省に残されていた金融制度の企画立案業務も移管されて金融監督庁は金融庁へと改組された.金融部門が財務省から分離されたことから,同国際金融局は国際局と呼ばれるようになった.「円の国際化」が依然として財務省国際局の担当であることに変わりはないものの,「日本の金融・資本市場の国際化」が金融庁の担当になることで,財務省と金融庁(ならびに決済システムを受けもつ日本銀行)の間で「円と東京市場の国際化」という統一的な政策体制を打ち出すことが困難になったという事情がある.金融庁はその設立後(2001 年 1 月内閣府の直接の外局となる),しばらくの間国内金融システムの健全化に向けて総動員体制をとってきたため,「日本の金融・資本市場の国際化」の重要性の検討を始めたのは,ようやく 2008 年になってからのことである.

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国際資本市場での資金調達が可能だとされる14).さらに日本の場合,世界第一の対外純資産国でもある.1 兆ドルの外貨準備が必要だと主張する根拠はほとんどない.

日本の場合には,政策当局者や産業界の間に「円高恐怖症」が根強くあり,円高は輸出に悪影響を与え,景気を悪化させると考えられる傾向にある.そのため,円高期に大量の円売り・ドル買い介入を行い,巨額の外貨準備を累積させてきた.為替市場介入が円高を防止するための政策としてとらえられ,その結果外貨準備が積み上がってきたのである.通貨当局は,2004 年 3 月までの大介入の後は市場介入を控えてきた.2008 年の世界金融危機にあたり,国内経済の落ち込みにもかかわらず円が増価したときでさえ,通貨当局は円売り介入を行っていない.

おそらく今後も,かつてのような大規模介入は行わない可能性が高い.そうした介入は本来,為替変動をスムーズなものにする介入に限るべきであり,ある一定期間では外貨買いと売りがバランスすることが望ましいものと思われる.

そうだとすれば,長期的には,現在外貨準備としてもつ 1 兆ドルのうち,

264

14) むろん先進国であっても,アイスランドのように巨額の短期対外債務を累積して,通貨危機・金融危機に陥り,IMF 支援を仰がざるをえなく場合もあろう.しかし,そうした事態は,適切なマクロ経済政策や金融機関監督によって防げるはずである.

10億ドル(年末値)

0

1000

800

600

400

200

1980 85 90 95 2000 (年)05

図表 7-11 日本の外貨準備高(1980-2007 年)

出所) IMF.

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相当部分(たとえば半分程度)を時間をかけて安定的なかたちで取り崩していくことが望ましい.残りの部分は,将来の危機対応に備えて保有し続けることの意義があろう.

たとえば,今回の世界金融危機に際して見られたように,日本企業であっても,ドルの流動性が逼迫しているおりから,市場でドル調達を行うコストが高くなるような場合には,外貨準備を国際協力銀行(JBIC)経由等で日系企業に貿易信用などの目的で貸し付けることが望ましいこともあろう.しかも,国際流動性問題で通貨・金融危機に陥る国に対して,それらを 2 国間ベースで直接に,あるいは国際機関を通じて間接的に支援することも日本の国際貢献として意義があろう15).とくに東アジア諸国とはチェンマイ・イニシアティブを結んでおり,そのマルチ化や規模拡大に備えて日本の拠出額も増える可能性があろう.

このように,流動性の高い外貨準備を危機に備えてある程度保有することの意義は大きいといってよい.しかし,日本が過剰な外貨準備を元手に,国家ファンドをつくって運用益の高い長期資産にシフトさせることは,G7 のメンバー国としてふさわしいものかどうか,十分検討すべきだろう.ただ,流動性の高い外貨準備の部分に関しては,相場変動による評価損を最小化するためにも,多様な短期資産運用をめざすことが望ましいことはいうまでもない.

5.3 為替政策と金融政策の整合性をいかに確保するか1990 年代初めまで,日本は資本移動規制,金融政策,および為替市場介

入を為替レート変動に対処するための政策手段として使ってきた.しかし,1980 年代に進んだ国際資本移動の自由化によって,資本移動規制の強弱を変えることで為替レートを操作することは,選択肢として存在しにくくなっている.

そこで残された手段は,金融政策と市場介入であるが,両者は密接に関係している.むしろ,介入政策は金融政策の一部だとさえいえよう.とくに1998 年のビッグバンにより,国境を越えた資本の動きは膨大な量になって

7 為替レートと国際収支 265

15) この点,2009 年 2 月に,日本政府が必要に応じて外貨準備から最大 1000 億ドルまでを SDR金利で貸し付けるという取り決めを IMF と交わしたことは注目に値する.

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おり,介入が金融政策の支持なしに有効性をもつことはますます難しくなっている.ここで問題になるのは,残された政策手段としての為替市場介入と金融政策の整合性をいかにとるかという点である.

日本では,為替市場介入を含む為替政策は財務省の管轄事項であり,金融政策は日本銀行の管轄事項となっている.1998 年施行の新日銀法によって日本銀行は独立した中央銀行となり,政策審議委員会で金融政策を決められるようになった.

しかし,1998 年以前の時期では,財務省(当時大蔵省)が金融政策に対してある程度の影響力をもっており,為替政策と金融政策の整合性を図ることが可能だった.たとえば,プラザ合意からルーブル合意にかけて,財務省による介入政策は日本銀行による金利政策と整合的に運営され,当初は円のドルに対する増価,その後は円のドルに対する安定化に向けた取組みが一体的に行われた.

ところが,新日銀法の下では,金融政策の運営に関して,日本銀行には一定の独立性が確保されている.そのため,日本銀行が独立した金融政策の下で財務省による市場介入を完全に不胎化するとしたら,介入はその効果を失ってしまうことになろう.

平成の大介入の際には,日本銀行は量的緩和政策をとっており,日本銀行の金融政策スタンスと財務省の為替政策は整合的なものになりえたといえるが,このような状況は今後は稀であろう.近年,中央銀行は短期金利を操作変数として金融政策を運営するようになっている.その場合,短期金利を同時に変更しない限り,介入は不胎化されることになる.つまり,財務省と日本銀行が責任を分担し,両者の協調が制度化されていない現状においては,為替政策と金融政策の整合性を確保できる保証はないのである.そのため,危機時を想定した両者の協調のあり方を,将来的に検討していく必要があろう16).

266

16) 危機時における財務省と中央銀行の協調がきわめて重要であることは,今回の金融危機に際して,米国の財務省と連邦準備銀行が協調して金融システムの安定化に乗り出していることから明らかだろう.このような協調は中央銀行の独立性を脅かすものでもない.

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5.4 経常収支黒字の解消には円高が必要か日本の経常収支黒字は,1980 年代央から国際的な経済摩擦問題をつくり

出してきた.米国が大幅な財政赤字を出し,ドル高が進むなかで経常収支赤字が拡大していたことから,米国内で保護主義的な動きが高まったのである.日本の経常収支黒字は米国への失業の輸出だ,それを防ぐために日本からの輸入を制限すべきだ,黒字削減のためには閉鎖的な日本市場の対外開放が必要だ,日本の黒字が縮小しないのであれば日本は円高を覚悟すべきだ,などの議論が米国の経済学者の間でも主張されるようになった(伊藤[1994]).

プラザ合意によるドル高是正は,こうした経常収支不均衡を縮小させることによって,米国国内の保護主義的な動きを封じることが期待された.これを受けて日本でも,1986 年の「前川レポート」で,経常収支不均衡を国際的に調和のとれるよう着実に縮小させるとして,黒字の縮小を政策目標に掲げた.

たしかに日本の経常収支は,1980 年代後半のバブル景気と円高のなかで縮小に向かった.しかし,1990 年代に入ってバブルが崩壊し平成不況が始まると,輸入が伸び悩み経常収支黒字が再び拡大した.1995 年の円高を受けて経常収支は一時的に縮小したが,98 年の円安と 2000 年の円高で拡大・縮小を繰り返し,2000 年代の 7 年間に及ぶ円安で経常収支黒字は拡大を続けたのである.

経常収支の問題を考える際には,小宮[1994]の主張するように,「趨勢的」な変動と「循環的」な変動を分けて整理することが有用である.趨勢的な経常収支とは,国民経済が完全雇用の状態にあるときの構造的・長期的な貯蓄と投資の差額であり,循環的な経常収支とは,趨勢的なトレンドからの一時的・短期的な乖離である.そうした観点からすると,趨勢的な経常収支は,人口変動,技術革新,時間選好率,政府規制など経済活動を律する構造的な要因で決まるが,循環的な経常収支はそのときどきの一時的なショック,マクロ経済変動,マクロ政策対応等を反映して変動する.また,趨勢的な実質為替レートは,趨勢的な貯蓄・投資バランスに見合う経常収支を実現させる水準に決まるはずである.したがって,趨勢的な経常収支や趨勢的な実質為替レートは構造的に与えられるので,マクロ政策などによって長期的に変えることはできず,変えることができるのは循環的な経常収支や循環的な為替

7 為替レートと国際収支 267

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レートだということになる.たとえば,これまでの日本のように将来の高齢化に備えて人々が貯蓄に励

むという経済社会では,家計貯蓄が過剰となり経常収支黒字が常態となる.こうした状況を変えるには,社会保障制度を充実させて,人々が将来に対して不安感をもたないようにさせることが必要で,それは景気対策としてのマクロ経済政策では解決できないのである.要するに,趨勢的な経常収支不均衡を是正するには,構造的な政策が必要であって息の長い政策努力が要請されるということになる.このことを逆にいえば,循環的・短期的な経常収支不均衡はマクロ政策や為替レートの変化によって変えていくことができる,あるいは為替レートの変化は短期的・一時的には経常収支に影響を与えることができる.その意味でマクロ政策や為替レート政策は有効なのである.しかし,それは長期的・趨勢的な経常収支には影響を与えることはできないのである.

5.5 アジア域内の為替レート協調の可能性東アジア諸国は,97-98 年のアジア通貨危機を経て通貨・金融協調を強化

させてきた.通貨・金融危機の再来を防止するという考え方がその出発点だといってよい17).たとえば,2000 年から ASEAN+3(ASEAN 10 カ国に日本,中国,韓国を加えたグループ)の枠組みでチェンマイ・イニシアティブと地域経済サーベイランスを開始させ,2003 年からはアジア債券市場を発展させるための各種の試みがなされている.

チェンマイ・イニシアティブは通貨投機を受けたり通貨危機に陥った国に対して短期流動性を供与して流動性不足から脱却させるための 2 国間通貨スワップ協定の枠組みである.2009 年 4 月までに 16 の 2 国間協定が締結され,総額 900 億ドルの通貨スワップ枠が設定された.2005 年には IMF プログラムなしでチェンマイ・イニシアティブを発動できる枠が 10%から 20%に引き上げられ,2007 年にはチェンマイ・イニシアティブの多国間化(マルチ化)が合意された.地域経済サーベイランスは,域内各国の経済状況について,多国間枠組み(ASEAN+3 など)での政策対話を通じて相互に監視し,

268

17) Kawai[2005]が詳しい.

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ピアプレッシャー(友邦の圧力)により域内各国の政策改善をめざすものである.

2009 年には地域経済サーベイランスを強化する目的で,専門の事務局を設置することが決まった.アジア債券市場の発展は,アジア現地通貨建ての債券市場を発展させることにより,通貨と満期のダブル・ミスマッチを回避しつつ,アジアの貯蓄をアジアの投資に直接つなげることをめざすものである.これは現在のところ,中央銀行当局によるアジアボンド・ファンド

(ABF-1 と ABF-2)と財務省当局によるアジア債券市場構想(ABMI)の両輪で進められている.

このように東アジアでは,通貨・金融協調が活発化しているが,域内為替レートの相互安定のための政策協調はいまだ始まっていない.東アジアにおいては,貿易・投資を通ずる経済的な相互依存関係が高まっており,またマクロ経済変動の連動性・同調性も緊密化しつつある.こうした域内経済相互依存の大きさや緊密化にマッチした域内通貨安定の枠組みづくりが求められているのである.

当面は,東アジア各国が対ドルレートの変動幅を拡大する方向へ向けた為替レート制度の収斂が必要だろう.さもなければ,お互いの間での為替レートの安定が望めないからである.そうした方向に向けて,アジア通貨単位

(ACU)の創出や SDR(特別引出権)ないし SDR-プラスの通貨バスケットを参照とする管理フロート制の採用など,非公式かつ緩やかな為替協調を行いつつ,チェンマイ・イニシアティブと経済サーベイランスの強化,域内金融システムの開放・統合など協調的な制度づくりに努めていくことが現実的だろう.そうした努力を通じて,各国間で信頼性を醸成しつつ相互の為替レート安定化に向けた機会を探っていくことができよう.

そうした機会は,今回の世界金融危機の安定化後に起こるであろう,急激なドル安圧力や,グローバルな流動性が急激に東アジアに流れ込むことによる東アジア通貨上昇圧力によって意外と早くもたらされる可能性がある.大量の資本流入に面したときに,通貨価値上昇圧力に抗して市場介入を行い外貨準備を積み上げようとすると,国内での流動性の増大,インフレや資産バブルの発生などマクロ的,金融的な不安定性が高まるリスクが大きい.そうした際には為替の切り上げを許して,国内での金融政策の自由度を確保する

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ことによって,マクロ経済の安定性や金融部門の安定性を保つことが望ましい.

しかし,東アジアのように各国ともに国際価格競争力の観点から,為替レートを調整しづらい場合には,域内諸国が協調して,共同で同程度の為替レートの切り上げを容認するという方法が考えられよう.市場圧力に押されるかたちで,域内通貨が共同で米ドルに対してフロートアップしていく態勢をつくっていくのである.それにともない,より公式的な為替レート政策協調の枠組みがつくられていくことも考えられる18).

しかし,通貨・金融面での国際協調を強化するためには,実物面での経済統合と協調が欠かせない.東アジアで進んでいる,貿易・投資面での事実上

(デファクト)の経済統合を後押しするかたちで,各種の FTA/EPA をまとめて東アジアを包括する広域的な FTA/EPA をつくり,制度的にも市場統合を進めていくことが望ましい.そうした努力がなければ,通貨・金融面での協調も十分進みえまい.

6 まとめ

日本経済は,過去 30 年近く,大幅な為替レート変動の波を何度か経験し,かつ大きな影響を受けてきた.為替レートは名目ベースでも実質ベースでも変動し,経常収支も黒字増大と減少の波を何回か経験した.為替レートの短期的,中期的な変動は企業の輸出入や利潤だけでなく,マクロ経済パフォーマンスにも大きな影響を与えうる.

そのため,為替レートの大幅なミスアラインメントを避けることが望ましいが,為替市場介入だけでは効果はうすい.また,金融政策に裏打ちされた市場介入は有効であっても,それは実質為替レートを中・長期的に変えるものではない.日本の経常収支は,変動しつつも一貫して黒字を計上し続けており,そのことは日本経済のファンダメンタルズが貯蓄超過の構造であることを示唆している.

日本は円高恐怖症の下で,1985 年からのプラザ合意を契機とする円高に

270

18) Kawai[2008]を参照のこと.

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過剰なかたちで反応した.政策当局が拡張的な財政政策と金融政策をとり,とりわけ低金利政策を 1989 年まで続けたことから,80 年代後半のバブル生成の一因となった可能性がある.1990 年代の「失われた 10 年」は,バブル崩壊後の資産価格の下落,銀行不良債権の増大などで長期的な経済停滞の時期だったが,1995 年,2000 年と続いた円高もそれに寄与したものと思われる.しかし,この円高の期間に仮にサービス産業を中心とする非貿易財部門で生産性の向上が見られたとしたら,平成不況も和らいだものになったと思われる.

マクロ経済パフォーマンスが円レートの変動から大きな影響を受けないようにするためには,いくつかの方策が挙げられる.

第 1 は,日本経済を円高(実質実効ベース)に対応できる産業構造に転換していくことだろう.経済構造改革を進めて,経済の供給サイドを強化することにより,円高に対して柔軟に調整でき成長を続けられる構造にしていくのである.とりわけ,非貿易財部門での競争力と効率性を高め,生産性を強化していくための政策が必要とされている.

第 2 に,日本経済を内需主導型の経済にしていくことが重要で,そのためには,女性労働の活用や,人々が安心して消費できる環境をつくることが望ましい.社会保障制度を改善させ,将来設計しやすい社会経済システムにしていくことが必要だ.

第 3 に,日本銀行,財務省,金融庁が政策調整するためのフォーマルな枠組みをつくることが必要だろう.危機時に備えた態勢づくりを行うだけでなく,為替レート変動への対応や金融部門の安定化を含めたマクロプルーデンシャルの枠組み強化を図って金融システムやマクロ経済の安定化をめざす必要があるからだ.

第 4 に,日本でも周辺諸国と,ユーロ圏のように安定的な通貨圏を形成できれば,為替レートの変動に左右されないかたちで広域的な経済活動を行うことができる.その意味で,東アジア新興諸国と経済連携を進め,相互の為替レートを安定化させる仕組みを模索していくことが課題だろう.

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付表 1 日本の経常収支(億円)

年 経常収支財・サービス貿易収支

所得収支 経常移転収 支合 計 財貿易収支 サービス収支

1980 −24,375 −22,651 4,830 −27,481 1,746 −3,4691981 10,520 15,879 44,019 −28,140 −1,786 −3,5731982 17,062 16,514 45,033 −28,519 3,985 −3,4371983 49,402 46,101 74,721 −28,620 6,983 −3,6811984 83,133 76,862 105,127 −28,265 9,857 −3,5871985 119,698 106,736 129,517 −22,781 16,036 −3,0771986 142,437 129,607 151,249 −21,640 15,675 −2,8421987 121,862 102,931 132,319 −29,389 23,483 −4,5531988 101,461 79,349 118,144 −38,800 26,436 −4,3231989 87,113 59,695 110,412 −50,713 31,773 −4,3541990 64,736 38,628 100,529 −61,899 32,874 −6,7681991 91,757 72,919 129,231 −56,311 34,990 −16,1501992 142,349 102,054 157,764 −55,709 45,125 −4,8331993 146,690 107,013 154,816 −47,803 45,329 −5,6511994 133,425 98,345 147,322 −48,976 41,307 −6,2251995 103,862 69,545 123,445 −53,898 41,573 −7,2531996 71,532 23,174 88,486 −65,312 58,133 −9,7751997 117,339 57,680 120,979 −63,299 70,371 −10,7131998 155,278 95,299 157,526 −62,227 71,442 −11,4631999 130,522 78,650 137,783 −59,133 65,741 −13,8692000 128,755 74,298 123,719 −49,421 65,052 −10,5962001 106,523 32,120 84,013 −51,893 84,007 −9,6042002 141,397 64,690 115,503 −50,813 82,665 −5,9582003 157,668 83,553 119,768 −36,215 82,812 −8,6972004 186,184 101,961 139,022 −37,061 92,731 −8,5092005 182,591 76,930 103,348 −26,418 113,817 −8,1572006 198,488 73,460 94,643 −21,183 137,457 −12,4292007 247,938 98,253 123,223 −24,971 163,267 −13,5812008 162,803 17,973 40,338 −22,365 158,324 −13,494

出所) 財務省ホームページ.

付表 2 日本の資本収支(億円)

年 資本収支

直接投資 証券投資 その他収 支

外貨準備増減収支 資産 負債 収支 資産 負債

1980 42,809 −4,784 −5,419 635 21,223 −8,503 29,726 26,3701981 −3,440 −10,387 −10,806 419 9,814 −19,341 29,155 −2,8671982 −40,350 −10,212 −11,308 1,096 5,280 −24,260 29,541 −35,4191983 −50,638 −7,600 −8,574 974 −4,441 −38,049 33,608 −38,5961984 −86,862 −14,180 −14,156 −24 −56,055 −72,753 16,698 −16,627

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1985 −130,134 −13,910 −15,362 1,452 −100,047 −144,736 42,913 −15,157 6021986 −122,503 −23,863 −24,271 408 −171,729 −177,960 2,848 73,952 −24,8341987 −61,511 −27,368 −29,073 1,703 −154,645 −138,483 −16,460 121,637 −55,4921988 −83,420 −46,032 −45,412 −620 −98,164 −125,802 27,950 62,074 −21,2551989 −74,651 −65,271 −63,810 −1,462 −25,790 −157,569 133,825 18,287 18,4871990 −48,679 −70,903 −73,518 2,615 11,900 −54,729 67,589 11,857 13,7031991 −92,662 −40,887 −42,619 1,730 60,212 −109,957 171,535 −110,371 11,3911992 −129,165 −18,426 −21,916 3,490 −33,401 −43,004 12,127 −75,697 −7531993 −117,035 −15,234 −15,471 234 −77,620 −70,877 −6,793 −22,533 −29,9731994 −89,924 −17,611 −18,521 908 −23,657 −94,005 65,950 −46,738 −25,8541995 −62,754 −21,249 −21,286 39 −30,772 −80,935 56,234 −8,585 −54,2351996 −33,425 −25,236 −25,485 248 −37,082 −109,437 72,648 32,431 −39,4241997 −151,323 −27,548 −31,449 3,901 41,402 −56,944 95,817 −160,297 −7,6601998 −170,821 −27,437 −31,616 4,179 −57,989 −124,668 73,389 −66,083 9,9861999 −62,744 −11,393 −25,906 14,513 −30,022 −175,884 144,581 −2,241 −87,9632000 −94,233 −25,039 −34,008 8,969 −38,470 −89,835 51,066 −20,778 −52,6092001 −61,726 −39,000 −46,586 7,585 −56,291 −129,778 73,528 37,028 −49,3642002 −84,775 −28,891 −40,476 11,585 −131,486 −107,747 −25,133 79,819 −57,9692003 77,341 −26,058 −33,389 7,332 −114,731 −204,379 94,116 222,802 −215,2882004 17,370 −25,032 −33,487 8,456 23,403 −188,010 212,838 24,132 −172,6752005 −140,068 −47,400 −50,459 3,059 −10,700 −235,674 203,461 −76,479 −24,5622006 −124,665 −66,025 −58,459 −7,566 147,961 −96,890 221,985 −201,068 −37,1962007 −225,383 −60,054 −86,607 26,552 82,515 −129,298 249,226 −243,113 −42,9742008 −195,560 −112,006 −131,686 19,680 −293,753 −141,651 −103,414 215,739 −32,001

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