出羽座をめぐる太夫たち - osaka city...
TRANSCRIPT
出
羽
座
を
め
ぐ
る
太
夫
た
ち
「道行揃」を手がかりに
阪
弘
口
之
日比谷図書館東京誌料に
「道行揃」と題す
て、興味ある事実を私たちに教えてくれる。
れるととろの、伊藤出羽嫁・山本角太夫・岡
る
一本が蔵されている。ζ
の「道行揃」は従来周知
よって、本稿では、乙の「道行揃」を紹介しながら、
本文弥といった出羽座をめぐる太夫たちの動きについ
の道行集にも増し
乙れを通して知ら
( 171 )
て考察を進めてみ
たいと思う。
-・・圃・・
先、ず
、「道行揃」の書誌について、その概要を紹介してお乙う。
偵
半
紙
本
。一二
・二
×一
五・四。
.
匡郭
一九・七
×一三
・七。
題策
表紙左肩に貼付跡がみえるが欠。
中央に脇方策の一部が残り、上段には「
信勝」、下段には
「ひやv
つ
出羽座をめぐる太夫たち
二五
闘E
HUコ】
工1吾首
行数
挿絵
出札肢をめぐる--
と
の
、しゅてんどうじ、
ζ
そでうり
ゑ冬
パたら
田四卜八ぐわんざ」の文句がみえる。
の本文ぷに
つ
日三亥年十.一jh」本隊」九兵衛開板
とある。
紙
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民次のような
i
が貼付され
目
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。武道之女
②鉢之木
⑮中将姫
⑤蓮花上人
@日判定品
⑤兵三
@
がそれぞれみえる。
ぷ文
':lf半である。
十自七1~1揃
七
みらゆ
揃ー
ウ
ニオ
ウ
櫛-Kオ。
その標題の上部44側
Kは・もに九枚笹
カづらきしんぢうのだん
北のカたちりやくのミちゅ
めさくらまつのたん
たゑまへのみちゆき
うのみらゆ
しゅーん
りうのみちゅ
名月ひめみらゆ
らいくわう山
のたん
みらゆ
持1
ナん側
Lは・しにカタ
e
ノミの
紋
( 172)
く、脇方策にも「藤原信勝」と共に「藤原吉勝」の角太夫(当時相模嫁)名もあったのではなかろうか。そして、
ζ
( 173 )
⑤小袖高貝
⑦四十八願記
まつよのひめミちゆき
あしゃくぶにん道行
さて、右のうち最も注目されるのが、標題の左右にみえる丸に九枚笹、丸にカタバミの紋である。これらは目録
の標題と照合する時、それぞれ伊藤出羽嫁と山本角太夫(相模橡・土佐嫁)の紋である乙とがわかる。丸に九枚笹は?
治加賀嫁の紋と区別がつきにくいが、脇方第に「門
U信勝」とあるのが「藤原信勝」を示すと思われ、出羽嫁の紋と
みて間違いあるまいc
一方、丸にカタ〆ミの紋も、
その他の角太夫の紋
たと、えば-月界長者」
「石山後日れん
げ上人」の脇方策、
「牛若弁慶嶋渡」「弁才天りしゃうものがたり」
「鞍馬山初寅詣」
「なごやさんざ六条がよい」
Jノ角堂数世菩薩」の挿絵、
「人倫訓蒙図案」などの紋
とくらべるとそれぞれ少しづっ違うところがある。し
かし、上記の紋自体の間でも、
それぞれイ異もあり、
そのことを考、えると、角太夫の紋はどうやら細部まで厳密に
規定されていなか
ったらしい。したが
って、
と認定してよいように思う。
この紋もカタ〆ミ紋
(普通は剣カタバミ)ということで、角太夫のそれ
ζ
のように
「道行揃」は二つの紋から、出羽橡と角太夫の合同「道行揃」である乙とが明らかとなった。
おそら
れらのζ
とは、出羽嫁と角太夫の交流がひとかたならぬものであったζ
とを如実に示しているともいえよう。
乙乙に
出羽嫁と角太夫との交流関係が考察されねばならない。
一体、出羽嫁と角太夫とが関係の深かった乙とは、古くから説かれてきた。すなわち、出羽嫁角太夫師弟説がそれ
である。角太夫が延宝三
・四年頃、京都で旗上げする以前、出羽擦に従い、
いろいろ指導を受けたという考え仁川であ
る。
出羽座をめくる太夫たら
二七
-
•
示された語り物の中に両者に共通したものが多い乙とからも伺える。現在、
「鉢之木」「酒天童子」「小袖費」「四十八
願記」は、出羽嫁・角太夫共にその正本が確認されている。おそらくは、角太夫が師の語り物を参考にして、自らの
正本として取り入れたためであろう。
しかし、標題の語り物には、現在、出羽嫁・角太夫関係の正本が確認できないものもあるし(「武道之女」は何かの
外題替と思われるが未詳)、
また、
その
一方だけの正本しか知られてないものもある。更に刊行年月の不明な正本も多
ぃ。したが
って、出羽嫁と角太夫の関係をきわめるに先立っ
て、標題の語り物について
一応の整理を試みておく必要
があろう。その場合、
「道行揃」にみえる
「天和三亥年十二月」という刊記は、正本の刊行年月を決定する上で、
-・・・4‘
つの有力な手がかりとなるはずである。そ乙で、次に標題の一訪問り物と両者の正本の関係について表示し、若干の検討
を加えてみる乙とにしよう。
( 175)
蓮 中 鉢 武 名
花 道護 標
将 之 屋上 ,-乙J..
山 題
人 姫 木 女 一一一
変喜1¥ 佐
寛野九姫文;源年之 出十左一御
ニ本 年衛羽
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月付fij ;象(情3己 頴ノ、..../
原鉢 正ーノ木
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一衛以衛 ん 角年・和上 年後又1也.人 jし門ノ一じ門4
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出羽賂をめくる太夫たら
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存在する。校合された本文は、「道行揃」のそれと対比する時、信猿性はかなり高いと思われる。したがって、水谷
氏の「浄瑠璃絵入本所在日録」通り、寛文七年板が存在した乙とは間違いないと考えられる。
また、「しゅ天どうじ」と「佐野源左衛門付情ノ鉢木」は正本に基づく所属太夫の確認が出来ない。しかし、乙れ
らも、前者については、頴原退蔵博士が出羽嫁正本と記され(『芸文』大正十年十一月所載「伊藤出羽嫁と岡本文弥」)、
室木弥太郎先生も大東急記念文庫蔵(寛文三年板は東洋文庫蔵)の出羽禄正本「しゅ天どうじ」と比較された上、出羽橡
系と認定されており(『金平浄瑠璃正本集』第て解題)、従うべきであろう。後者については、原本が焼失し、所属決
定は困難なものの、信多氏が文弥正本の段首と一致するζ
とから、出羽系正本とみておられるととが一つの手がかり
となろう(「山本角太夫について」)。
次に、先学の研究成果から、天和期以前の刊行である乙とが確実なものとして、出羽橡正本では、寛文中頃から末
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か事
信多氏のいわれるように
(「山本角太夫について」て
その曲節からみて、出羽系の正本と推定される。
一方、角太夫本では、「石山後日れムげ上人」が延宝頃の刊行と考えられている。先、ず、若月氏が内題下に「相模
嫁正本」とあるζ
とから、延宝天和頃と規定され(『古浄瑠璃の研究』第二巻)、信多氏も同じ理由から、天和二年七月
以降貞享二年九月までと一応みられたが、同時に、
ζ
れが延宝五年四月「江洲杉山兵衛国替付り石山開帳之事」の後
日である乙とから、更に遡る可能性のある乙とを含みとして残された
(「山本角太夫について」)。事実、横山氏との
共編で、引続いて出版された古典文庫
『古浄瑠璃集
(角太夫正本∞)』
では、延宝五年か、延宝九年頃までの上演と
ζ
の見解は至当といえよう。なぜなら、「道行揃」にみえる挿絵が、「石山後日れんげ主人」の八オ
みておられる。
出羽座をめぐる太夫たち
一一一・・ーー・・・
E
• ( 177 )
出羽座をめぐる太夫たち
、
一岨圃圃a・・-酬・咽a・-圃.
ー・
下段の挿絵を参照している乙とが明らかなためである。両者の挿絵において、「道行揃」
正本という関係
(実了)
は考えられない。したがって、正本
「道行揃」
という乙とになれば、
正本の刊行時は延宝頃、
少なくとも天和三
年以前である乙とが確認されよう。
それ,ならば、
残りの正本の刊行年月については、
以上が
「道行揃」
に先行して刊行されたと思われる正本である。
「道行揃」との関係からどのような手がかりが得られるであろうか。
まず、「名護屋山三」については、『古浄瑠璃正本集』第六所収、山減少嫁旧蔵「なごやさん
e
がよひ」(焼失)
が注目される。
ζ
の「なごやさんざア条がよひ」はその所属が明らカでない。しかし
司正本の挿絵第十
第十一一、
中の提灯めカタf
ミの紋と、
本文節付から角太夫正本である乙とは動かないであろう。しカるに
乙の本文と「道
パ和三年十二月以前、角・
4
(178 )
行嫡」のそれがほぼ一致する。したがって
ひ」がおおよそ確認できる。
乙れについては
「道行揃」の挿絵、か同正・
4
の挿画第七一火一と酷似し
その影
下にある
乙とも傍証となり戸るであろう。
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ては
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永孝雄先生蔵の十行本一刀ある(
近世文品一-
作家と作Em
所日付、機山
氏
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品山」
次に
と思われるず、
.,
計板戸肌J
山昭の
における海背の趣向」参照)。
これま「ナキブシ」
γ多く、
弥正-
その限りでは、角レヘ、
のようにもみ、える珍しし一品主である。
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かとすえられる。
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永本と「道行揃」をす照して
ると
後者は正・
4
グ〉
「名月姫道行」
のうち
で
この
•
•
.
幅な省略はあるが、あとの本文はおおむね一致する。
ただ、節章にはかなりの差異がある。
となると、
「道行揃」
は文弥正本に先行した角太夫系の正本に拠っているのではないかという可能性が考えられる。
おそらく、
この
「丘ハ
庫築嶋一も「道行揃L
の刊行よりも以前から、角太夫の語り物として行われていたとい、えるのではなかろうか。
ととろで、次章で詳述するが、出羽嫁・角太夫に共通の語り物がある場合、「道行揃」の本文は、両者に拠る他、
時に出羽嫁よりも角太夫正本に拠る場合がある。乙のζ
とは、寛文期の出羽嫁の諮り物のみならず、角太夫の語り物
の中にも、
「道行揃」に先立つ語り物があったζ
とを示している。事実、「道行揃」の「鉢之木」の挿絵は、角太夫本
系と認められる「佐野源左衛門情之鉢木」(六段)のそれと酷似している。
おそらく、同正本または同系統の諮り物
に、「道行揃」は依拠したものであろう。とすると、「佐野源左衛門情之鉢木」そのものの刊行年月がとまではいいき
れないまでも、少なくとも角太夫系の語り物が、天和三年十二月以前K存在した可能性はきわめて濃いといえよう
(げ9)
か同様の乙とは「法蔵比丘阿弥陀御本地」
についてもいえる。理由は後述するのでζ
こでは省略するが、天和貞享頃
の刊行という信多氏の発言もあり(「山本角太夫について」)、乙れを天和三年十二月以前に絞っても大過なカろう。
さて、以上述べてきたように、「道行揃」を通してみる時、それぞれの正本の刊行年月をある程度絞るととができ
る。出羽嫁の場合、正本の刊記、あるいはζ
れまでの研究成果から、
「道行揃」
κみえる語り物は、寛文期のもので
ある乙とがすでに明らかであ
った。しかし、角太夫の場合は、その所属すら不明のものがあった。また、刊記不明の
ため、
ζ
れまで推定された正本の刊行年月も、
かなり幅のあるものになら、ざるを得なかった。しかるに、「道行揃」
を介在させる時、所属の確認はもとより、語り物の行われた時期も、
ほぼ延宝天和期と限定する乙とができる。標題
の語り物に関してのみいうならば、寛文期の出羽嫁に対して、角太夫はζ
れを多く延宝天和頃に語ったととになる。
出羽肢をめぐる太夫たち
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.
•
なりの差異があり、
「道行揃」は角太夫正本に近いのである。もちろん、
「道行揃」と角太夫正本も全くの同文でな
ぃ。殊に「道行揃」は後半部分をかなり省いている。しかし、
乙れは意識的な省略といえるものである。となると、
「道行揃」の「酒天童子」は角太夫正本に基づいている乙とになる。すなわち、
乙乙で「道行揃」と角太夫正本との
関係が問題となってくる。
ただ、「酒天童子」の
一例をもって、
「道行揃」の本文典拠問題を律するのは危険であろう。角太夫にいくらかの比
重はかかっているものの、
やはり各語り物の上演事情などに基づいて、出羽・角太夫それぞれの正本に依拠している
とみるのが、最も穏当な結論といえるかもしれない。
では、節章についてはどうであろうか、
ζ
れを次にみてみよう。
先ず、角太夫正本の場合。本文がどちらかといえばややそれに拠る傾向がみえて、節章面も注目されるが、
7}宇'りp
り
( 181 )
は依拠した形跡はあまりない。
確かに、部分的には一致する節章は決して少なくない。しかし、道行部分全体にわた
る節付が、角太夫正本のそれら」踏襲していることがなレのである。乙れでは、
いくら本文が角太夫正本に拠っている
場合であっても、節章も角太夫に拠っているとはいいきれない。つまり、
「道行揃」の刊行の折、節付者として、角
太夫以外の他の者の手が新たに加わ
っている乙とが考えられるのである。
一方、出羽嫁関係では、
「和国ぴじん寄誇井一一小袖うり」の節章が、
「道行揃」のそれときわめて近い関係にある。
おそらく、「小袖売」はζ
の出羽嫁正本に拠ったのであろう。とすると、
乙乙で、本文とは逆に、
出羽嫁と「道行揃」
の関係が考察されねばならない。
ところが、
乙れを検討するのに絶好の
「中将姫之御本地」や
「曇驚記」はいずれも節章が極度に少なく、
「道行揃」
との比較は殆ど不可能である。「阿弥陀本地」も前述の天理本で本文は知り得ても、
節章の校合はなく、手がかりが
出羽座をめぐる太夫たち
三五
•
出羽
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カ
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え
ど乙?
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ただ、それにもかかわらず、
「道行揃」が出羽嫁節付本そのままの節付でない乙とは問題である。もし、節付面で
彼の積極的な関与があるならば、
「道行揃」の節付は出羽嫁節付本とおおむね
一致して然るべきであろう。ところウ
「酒天童子」の場合をいえば、まま一致する所はあるものの、差異も少なくない。したがって、乙乙に至って、どっ
しでも出羽嫁以外の他の太夫の節付面での関与とい
った点を考え、ざるを得なくなる。そ乙で、
乙の点を「四十八願
記」を例に考えてみようr
「四十八願記」は出羽嫁に「阿弥陀本地」、角太夫に「法蔵比丘阿弥陀之御本地」があるが、他に岡本文弥正本
「四十八願記あミだの本地」(貞享元年八月)が知られている。乙れら三者の本文は殆ど同じである。もちろん、「道行
揃」ともほぼ
一致する。しかるに、節付をみると、文弥正本のみが
「道行揃」のそれと酷似する(出羽嫁正本は不
明)l
乙れはどのように考えればよいのであろうか。
貞享元年八月といえば、「道行揃」の刊行天和三年十二月よりわずか八ヶ月後である。出羽嫁の後継者といわれる
文弥が、師の節付になる
「道行揃」の
「四十八願記」を忠実に踏襲したという考えも、
行揃」を出羽嫁節付の線にのみ限定して考えるのは疑問が多い乙とを、すでに述べた。とすると、残された考え方
一応成り立つ。しかし、「道
は、「道行揃」も文弥その人の節付になるという解釈である。乙
の考え方は、角太夫正本
(彰考館蔵)と文弥正本(東
大蔵)との挿絵を比較するζ
とによって、
らないからである。おそらく、文弥は角太夫(または出羽嫁)の本文に「道行揃」の節すを泡し、それを八ヶ月後に
自らの正本として刊行し、その際、角太夫の挿絵も覆刻し利用したものではなかろうか。
一層有力なものとなる。すなわち、文弥正本の挿絵は角太夫の覆刻に他な
文弥は正本刊行ζ
そ少なドけれども、
当時大変な人気を博していた太夫である。諸家によってしばしば引用される
とζ
ろであるが、すでに延宝七年七月の
「難波鶴」の「町浄瑠璃並だうけ諸芸」
の項でも、文弥風が七名を数え、播
出羽座をめぐる太夫たち
三七
•
• ( 183 )
出羽三をめくる
4
大たら
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出羽風を圧倒している。彼
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•
文弥系正本は、その段首からみるに、寛文版系のようであり(向上)、角太夫系とは段首が異なる。したがって、文
弥が「道行揃」に節付する折、角太夫系本のみに基づいたとみるのは危険であろう。そういえば、「道行揃」は角太
夫系本より、多少語句の省略があ
った。
寛文版が焼失しているためはっきりとはいえないが、おそらく、文弥は出
羽
・角太夫両系の正本に基づきながら、「道行揃」の節付をなし、後日それを自らの正本と仕立てたのではなかろう
か。推測が重なり過ぎるか)とにかく
「鉢之木」の節付にも、文弥が一枚噛んでいた乙とだけは間違いなかろう。な
お、余談になるが、文弥系正本は「道行揃」と全く毘じ節付というわけではない。「道行揃」よりも角太夫正本と一
致する所もあれば、その両方ともに異なる所もある。
おそらく、正本刊行の折、もう一度角太夫正本も参照し、独自
.
の修正を加わえたのであろうか。
.
きて、
このように考えてくると、
「道行揃」は出羽嫁と角太夫の合同
「道行揃」であったが、出羽座においては、
( 185 )
出羽嫁と共に、文弥の関与が考えられる。しかも、文弥は角太夫の語り物にも、節付面で積械的に介在していた。
つ
まり、文弥は出羽座内だけでなく、角太夫に対しても相当の影響力を持っていたことになる。そ乙で想い起ζ
される
のが、信多氏の文弥角太夫の師弟説である。氏は
「日本好色名所鑑」(元禄五年刊)の次のような記載などを論拠に、
文弥が角太夫の師でないかと説かれ丈
(「山本角太夫について」)。
山本角太夫。年比文弥を。まなぴよく其奥義を聞
て。
秘節をくはへ。
一流となして。人の心を。なぐさめり。奇妙の太夫な
りこの信多説は、「道行揃」から得ら
れた諸事実と照し合わせる時、
大いに注目すべき見解といえよう。
「道行揃L
が角太夫系本文に拠
っている場合も、
節付面では文弥が関与している事実は、
少なくとも文弥が角太夫に対して先輩
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乙乙でもう一度、「道行揃」の書誌面に自を転ずると、第一章の概要に記した以外に、丁付十一丁より十六丁まで
(実丁十了より十五丁まで)の刷りの悪さが自につく。おそらく、字体の摩滅の程度からみて、乙の部分は古い板木を
流用したものであろう。そこで、
乙の点を、刷り以外の別の面からも検討して、確かめておきたい。
「道行揃」は他の道行集と同様、目録の他に、各一訪問り物の本文の前
Kも標題が付せられている。そ乙で、乙の標題
を含んだ頁の行数をみてみると、普通、標題共に十五行である(ただし、初丁オだけは十三行)
のに対して、十一丁か
ら十六丁までは、
いずれも十四行である。
つまり、標題に二行分をあてている乙とになり、他と異なる。また、本文
の標題の上には、それぞれ第一から第十一までの漢数字が
つけられているが、乙れにかなりの乱れがある。今、順次
に番号および標題を示すと、次のようになる。
(187 )
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乙において、旧道行集も出羽と角太夫の合同道行集であったという推定が成り立つの
である。しかも、その柱題からみて、書名もまた「道行揃」であった可能性が濃い。
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の旧「道行揃」の存在は、天和三年暮、たまたま出羽一門の太夫たちが集って、新「道行揃」を出した
としうのではなく、彼等の間には、緊密な関係が以前からもずっと維持されていたととを示すものであろう。大阪出
羽座の出羽・文弥と、京都の角太夫との聞には、絶えず太いパイプが繋っていたと想像されるのである。
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の天和三年は、浄瑠璃史を紐解く時、近松が加賀嫁に「世継曾我」を提供した年である。その翌年乙ま、義太夫
が竹本座を起ζ
している。
竹豊両座が道頓堀の東西にその風を固執し、互いに座の存亡をかけて蛾烈なーんれを繰り広
げる時代は、もうすぐ眼の前にあった。
そういう浄瑠璃界の中にあって、
出羽一門の太夫たちは、自らの一派を確立し、それぞれゆるぎない名声を得た後
( 189)
も
iいに連携を密にし、深い交流を重ねていたのである。
それはもしかすると、京-大阪に旧新の対抗者をもら、
川f/とした出羽
一門の太夫たちが、結束して乙れに抗しようとした姿であ
ったかもしれない。しかし、その結束
判、しうまでもなく、それぞれの太夫がもっ語りそのものの個性を、座単位の中に埋没させるものではない。おそら
く、彼等はその連携の中で、互いの長所を取り入れながら、本出羽・角太夫・文弥など、
上げていったのであろう。そζ
に、出羽一門結束の裡にも、個性的で自由進取な気象に満ちた古浄瑠璃の太夫たちの
一世を風廃する語りを練り
それぞれの活躍ぶりが、初併とするのである。
出羽脹をめぐる太夫たち
四三
-・田園
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