八世紀後半のイタリアとビザンツ フランク ローマ …...(1)...

28
Hitotsubashi University Repository Title Author(s) �, Citation �, 53(5): 551-577 Issue Date 1965-05-01 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/2997 Right

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Hitotsubashi University Repository

Title 八世紀後半のイタリアとビザンツ フランク ローマ教皇

Author(s) 渡辺, 金一

Citation 一橋論叢, 53(5): 551-577

Issue Date 1965-05-01

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/2997

Right

( 1 ) 八 世 紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク

,ロ

マ 教皇

紀後半の

とビ

ザン

ツ、

ク、

ーマ

教皇

紀前

半の

教世

界で

東半

部で

も西

部で

も、

れ一

朝が

防衛戦を

歴虜の

舞台に

脚光

をあ

場し

た。

は、

七一

年八

月に

まっ

軍の

海陸か

らの

囲に

耐え

る一

年後に

艦隊を

首都海域か

撃退

した

世の

ア+

朝で

り、

ま一

十五

年後

イン

らピ

越え

進撃する

軍を

七三

野に

逝え

撃っ

がー

カロ

朝で

あっ

た。

教世

界の

続く

紀の

展開に

し、

の、

ザン

帝国の

ア+

朝と

国の

カロ

朝と

は、

す重

要な

役割

ずる

る。

しか

対イ

防衛の

もに

教世

界の

勇者で

あっ

も、

朝が

なか

歩む

途は

異なっ

た。

と、

中世キ

教世

界の

なか

朝の

持す

デオ

質上

相い

ない

もの

あっ

た。

すで

四、

紀の

族大

移動の

西

部領土

実際の

配か

ずり

まい

紀の

服+

成果

すま

すあ

しい

行き

なっ

て、

東半部を

領有する

すぎ

なっ

ず、

J

来の

数ロ

界帝国理

念を

けゥ

して

する

ア+

朝の

場■■で

り、

方、

西

方の

イ⊥

部族国

家を

統一

しっ

つ、

東方の

人の

国+

橋 論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 2 )

肩を.な

らべ

るキ・リ・ス・卜

莞㈲叫叫

利一

.サ

.

療治勢力と

卑ら

冬意識し

は.

たわ

.

奉が

サ∵

け卸ゆ

桓陽たっ

らで

る。

政治

的イ

デオ

場の

違と

らん

で、

朝の

宗教政

策上の

場に

微妙な

差異

あっ

た。

世、

.ユ

賢一

の.「

テス

帝+

表看板に

帝国東方

属州の

神租

義に

たい

して

国の

は、

ちに

年の

宗教

会議で

表明

する

な、

偶像破

壊+

拝+

もし

け+

像を

宗教的

思い

出の

めの

しる

しと

考え

宗教

感情が

流れ

る。

朝を

直接の

]

渉関

風.

端緒と

なっ

が、

引.㌻

れ+

てハ

.ル

ド.玉.固持.よ.そ

-~

-I

≡,

1

1

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一■

・■▲■◆†

`

呈-

-

1

1

:-

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.▲【

..r

■t

l

・111

--

配の

最大の

拓点

㌻ナ

の、古風

(

こ.耳むケ

た。

紀後半は

うし

開か

朝の

あい

渉関

すま

す複雅多岐に

展開し

年間で

あっ

た。

程の

なか

世キ

界そ

第に

られ

くる

に、

無視で

ない

手町

勢力と.し

介在

く句の

が、:

..い

.

シまで

針な

くロ

.教皇

であっ

た。

一=

】ノ

ーー

.

′J一

.‖「

■「.壬、

、..1

.i

..■′

i

.ノ一

卜.

J

′V

こC

て.町引

叫判ノヘ

+ハ

蟄二

七五

年「ロ

毅漫

.

ヰ、

す.ワげ

.沫

壬あ

5 ∂2

熟川

がが

ダイ

宮廷で

召いウ

け圧ての

交渉が

失敗し

後、

帰還す

ザン

使節と

て、

上を

け、

ゝ郭

頭フ

入り

し、

その

人の

息子.カ

+

■に′甥ン

ティ

■で

塗油をほ

どこ

レ、

同時に

嘗→

賢十

ぎ2

呂b

2日

称号を

授け

た。

.

皇に

称号附与が

ザン

皇帝か

らの

式の

託に

か、

もそ

は、

教皇の

(

帝と

教と

間に

時に

連か

ば)

越権的な

独断行動なの

か。

点を

ぐる

長い

論争

デル

争に

(

1)

て、

私自身か

展望する

横会を

もっ

た。

は、

私な

中世初期の

概観に

おい

て、

デル

説に

拠り

ティ

出来ご

中世キ

教世界の

当時の

歴史

(

2)

的連関の

なか

位置づ

うと

試み

た。

私が

釈を

採用した

は、

リ列

〃、

ボJ.唱和叫忍

ヰ=

1

醜男の

行為が

キン

引ハ

イサル

/「

プル

皇帝の

式の

委託に

よ・■つ

でおこ

れ、た

、。

。`

-・

解し

ない

限り

紀後半の.

全駅間針

通じ

て・の

サ.ン

鴎㌶約

㍑絹

パ叫

叫り

㍍絹

㍑㍑㌍絹

.ぜ

( 3 ) 八 世 紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,

ロー

マ 教 皇

紳.

らそ

際、

友好関係+

実際を

丹念に

迫サ

作巣を

私自身は

怠っ

た。

とこ

ろで

最近オ

好関

係+

実は

起伏に

富ん

もの

るこ

する

に、

そこ

ボン

ティ

出来事に

ちか

えっ

て、

その

意義

(

4)

たた

検討し

す一

論考を

発表し

た。

下に

その

趣旨を

記そ

う。

すで

に(

註)

1

拙稿で

指摘し

も、

教皇が

その

人の

息子

ティ

旦旨旨粁○

昌0

2m

称号をさ

ずけた

事件に

て、

史料情況はつ

ぎの

うで

る。

世が

ラン

行に

年々

あて

教皇書簡中で

その

人の

息子は

問題

称号を

帯びて

らわ

る。

首甘ロ○

岩的

-

e

t

-

岩∽t

3

S

p

首T

t

巴-

吉日p

賢→叶

e

C

賀○-

O

et

C

寛-

日巴}

こn

ヨ→

e

惣b

宏①

t

已い

ユ払

β

仁e

巳ユti

声O

mP

ロ○

コト

COn

訂舛

CP

3-

-

n

忘.

G・

Ep

やH

H

H

2→.

(

諾ぃ

)、

N

(

㌶n

)〉

¢

(

諾か

)〉

ロ(

㌶○

二、

なが

ら、

匂pt

ユ○

どs

河○

ヨP

nO

コト

称号の

附与の

事は

教皇列伝中の

伝の

も、

また

年の

諸フ

ラン

年代記の

見当ら

ない

三、

ラン

側で

事件に

初出史料は

型ドニ

修道院で

記さ

ZOt

]

巨P

PO

nOt

-

ロe

ロpp

-

n-

句当p

QU

2日

e

t

匂pt

→i

c-

声○

ヨP

ロ○

コー

m

る。

しこ

も、

ずさい

しょ

テフ

世に

人の

息子へ

油の

語ら

れ、

塗抽に

繰返して

くだ

で、

教皇はピ

その

息子た

を王

ぴ]

盲t

ユc-

して

塗油した

旨記さ

すぎ

(

G.

∽∽

.

岩→.

巳e

H

会ぃ

f

)

四、

教皇側で

初出史

料は

教皇列伝中の

(

宗∞

記)

伝で

(】

LF

匂O

nt

.

e

P

ロ∈U

Fe

平ロ

e

H-

烏山)

五、

終生

自ら

匂Pt

ユc

F払

称さ

ず、

また

子カ

も、

七四

年七

十二

月の

文書(

P

覧○-

.

竺”

00

匂Pt

ユ○

ど∽

河○

ヨP

2

称える

ない

し、

文書が

十二

世紀の

転写

とい

う理

由で

それ

除き

本史料の

をと

する

ば、

七五

年三

文書で

じめ

称号を

帯び

(

D.

寛○-

.

窒)

して

それ

後概し

例外な

く、

称号を

続ける

上の

うに

その

息子

ちが

七五

年ボ

ティ

教皇ス

世よ

与え

匂Pt

ユO

F∽

河○

巨p

ロOr

称号は

同時代史料に

けっ

われ

ない

うな

史料情況その

もの

めて

考察

象に

りあ

げた

ゾル

は、

を、

ぎの

うな

情、

すな

ち、

パー■〔小

りで

生れ

㌃之国

とロ

・㌧マ

・教

く、.

.5一

・・・

r

■。

■ノ1

皇との

新しい

払す

畔つ

示すよ

うな

表現が

あた

りフ

側で

教皇庁側で

見当ら

なか

たこ

と、

p

t

ユc

どs

河○

日p

n0

22

称号は

方側が

満足の

うな

種の

表現で

なか

たこ

と、

とづ

せる

ろの

ボン

ティ

生れ

国王

とロ

教皇と

J

新しい

すびつ

は、

ゲに

ば、

一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 4 )

テフ

世に

負うに

たっ

教皇庁防衛の

義務の

とで

ある

が、

とっ

て、

教皇との

間に

き上

たこ

うな

関係を

表現

巧言

葉と

して

官t

ユe-

河○

昌0

22

称号が

思わ

かっ

由は

ゾル

ば、

称号が

意味するコ

タン

ティ

従属関係の

に、

ラン

国で

pPt

ユ○

どの

用法に

あっ

た。

すな

ち、

ラン

国で

は、

巳ユ0

2.

0

0

日e

∽-

d

M

同義語と

して

慣用さ

り、

がっ

て、

廿Pt

ユ已

とい

う称号を

帯び

るこ

とに

よっ

て、

自分が

する

役人と

同列に

自己を

とい

う矛盾に

ちい

あっ

た。

七五

年い

自己の

教皇との

関係を

已U

f

e

n

琶→

e

0

0-

e∽-

Pe

称号を

帯び

よっ

言い

らわ

うと

が、

教皇側が

簡色を

た。

は、

ゾル

ば、

計f

e

ns

O【

2

C

已e

∽i

Pe

書記職の

格式を

もつ

すぎ

ない

教皇

庁の

下級役人の

称で

り、

教皇

とっ

て、

聖ペ

テロ

保護者と

して

国王の

位を

すに

くない

あっ

た。

なお

p

已ユci

声○

ヨP

nO

→ロ

m

称号は

教皇庁側に

とっ

も、

ラン

国王

との

すび

すの

しい

言葉と

考えら

かっ

が、

その

由は

称号が

古来か

らイ

ザン

督e

¥P

岩F

亡∽

すびつ

り、

またペ

テロ

保護者と

して

国王

位を

して

直裁に

らわ

すもの

なか

たか

る。

ゾル

匂Pt

ユO

F∽

声0

2pロ

宅ロ

史料情況

うに

説明する

それ

ず、

テフ

世は

年に

朗仁

J

ティ

聖ペ

テロ

防衛の

義務を

負わ

たっ

て、

なぜ

えっ

p

巳ユ○

ど∽

河○

ヨP

ロ0

2日

称号を

持ち

出し

うか

ゾル

はそ

裏に

ティ

プル

宮廷の

爵位司

胃勺

㌻べ

鼓ヒ

七F)

乱臣て

賜の

題が

介在し

考え

る。

すな

ち、

年、

ヨぺ

ぷぎ○

由て

也F-

乳eて

爵位をざ

叫る

む打

出、

アマ九

.

ル.叫グ

朝を

l■

-

一■、

..-

j

′・-

1

・----

-

一・′j

-

--

7

てl

-・~

-

-

う強固に

テ:

′.

-.ブ

宮廷

ず.ぴ

け、

フ:テ.ン

.■クモ国を

卦デ

りゴ

.′

ルdり

策に

東風し

ょ′シL

する

意向がス

アァ

■ヌス

特同行の

サン

使節か

が、

世は

とも

とロ

防衛の

めに

ラン

国王

救援を

仰ご

うと

考え

で、

ザン

側を

先廻

して

同じ

爵号

匂Pt

3 .

C

ど払

河○

日P

ロ○

岩m

自らの

手で

ずけて

まい

よっ

を、

ティ

関係が

きる

に、

手ま

聖ペ

テロ

市ロ

義務づ

けた

ゾル

はボ

ティ

出来ご

との

経過を

うに

解するの

る。

うに

e

習ぃ

♂}

-

c

2

の、

(

すな

ちビ

ザン

ツ)

帝国か

都市ロ

意味が

が、

すで

七五

年、

世に

よっ

断行さ

する

点で

ン+

立場は

デル

1

意味が

続く

歴史の

経過の

うち

点で

ゾル

すな

ち、

めて

くる

と、

れに

反して

七五

年の

者に

官r

t

ユD

旨Ⅶ

河つ

ヨp

寛仁

称号の

受容が

意味する

・鵬

`

( 5 ) 八 世 紀後半の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,

フ ラ ン ク,

ロ ー マ 教 皇

ブル

皇帝の

支配の

下へ

誉あ

属+

外な

らぬ

と、

換言

すれ

ば、

年、

リス

教世界の

西半部は

タン

ティ

プル

中心

する

教ロ

界帝

国の

念的秩序か

未だ

歩も

出て

はい

ない

と、

説く

異なっ

る。

らオ

は、

ガン

説くよ

うに

年の

教皇の

革命的行為+

ら、

直線に

教世

界西半部の

タン

ティ

・.へ

ノ(

ノし

1

・∫

・ノ

らの

独立

すすむ

考え

ない

ろ、

事件はコ

L

\.

/

づ㌧

∴‥

ブル

皇帝

竪丁

解なじ′

.-

教皇が

断で

なっ

行為で

故に

その

結果生

じたビ

ザン

皇帝と口

論獅

酢鮎鮎

㌶相

調…

鵬棚

課題で

う。

ゾル

註(

4)

論文で

過程を

討するこ

とに

よっ

て、

世紀後半の

リス

教世界の

歴史が

実はジ

歩ん

だこ

見事に

立証し

た』

稿は

述を

参考と

なが

ら、

世紀後半の

ぐる

ザン

皇帝

国王

教皇の

関係の

展開を

おっ

たい

う。

その

まえ

に、

ザン

支配の

情況に

簡単に

れて

きた

い。

は二

十年に

るゴ

役の

終了(

四)

後、

デ+

ティ

タン

ティ

体制に

固有の

官に

尾州行政組織が

導入さ

れど

も、

すで

年に

まる

ラン

族の

侵入で

第に

的行政組織は

放棄さ

れ、

侵入

残存地

域は

古来の

細川

醐仙

鋸′"

㍑抑帥

㌍鵬醐

帥川棚

㍑門相川

た。

そこ

d

とい

武官が

同時に

尾州行政をも

兼担

して

た。

うな

属州の

部単位に

ける

変化と

あい

れに

仕上

おこ

うぺ

く、

全土

して

e

当O

FPt

仁S

制が

世紀末に

施行さ

た。

うし

て、

グエ

駐在の

e

巨岩F

は、

タン

帝の

イタ

ける

代理

者と

して

盟鳳

叫町

郵勢

斗車打.

簸ね

∵各池

ぎH

自らの

命令

嘩の

下に

線醸し・た

ラン

族の

南下に

なっ

て、

ドゥ

トゥ

幾度

編成が

えさ

た。

その

間コ

タン

ティ

プル

政府は

放置して

命に

ねた

けで

ない

-

出耶

u

小∠

引ハ

..

での

対小.スデ

斗「

対ブル

小ア

戦闘に

精魂

傾けて

現在

救援大部隊を

派遣する

可能に

近かっ

た。

うし

て、

ドゥ

内で

防衛を

実際に

担当する

うに

なつ

たの

は、

e

営言

-

t

白∽

とい

う組織を

もつ

在住の

方住民で

あっ

た。

世紀の

め、

族の

さい

攻勢が

開始する

の、

イタ

残存ビ

ザン

はつ

ぎの

うな

九行政地

成っ

た。

(

)

イス

(

二)

ヴェ

ツィ

ア・

ドゥ

トゥ

(

三)

ラ・

ドゥ

トゥ

(

四)

グエ

辺の

サル

直轄地

(

五)

ドゥ

トゥ

∂∂う

一 橋論叢 第五 十 三 巻 第 五 号 ( 6 )

(

六)

ジ丁

ドゥ

トゥ

(

七)

ドゥ

トク

(

八)

リ・

ドゥ

ー■トク

(

九)

ラブ

ドゥ

トゥ

九行政地

は、

四一

年の

ヴエ

落と

トク

解体に

伴っ

て、

ぎの

うに

所属を

変更する

なる

イス

て、

ドリ

海沿

岸地

方に

ダル

ティ

軍管区が

設立さ

伴っ

て、

編入さ

う。

ヴェ

ネツ

ア・

ドゥ

トク

は、

ザン

名目的支配に

りつ

つ、

独立の

歩み

開始する

う。

南イタ

リ・

ドゥ

カー

トク

ア・

は、

すで

紀中葉軍管区

別の

導入

たシ

所属が

する

う。

して

中部イ

フェ

ララ

ドゥ

ヴエ

周辺の

直轄

韻、

ドゥ

トゥ

ス、

ジァ

ドゥ

トク

ス、

ドゥ

はロ

教皇領を

形成する

るで

う。

そし

うな

新しい

所属が

えの

裏に

は、

章に

うなビ

ザン

帝、

ラン

国王

教皇の

者の

関係がか

らん

あっ

た。

(

1)

拙稿

勺Pt

ユc-

声∽

河○

日甲ロ

コ一

日》

号の

釈を

論争+

(『

橋論

叢』

の一

-九

頁)

(

2)

拙稿

中世キ

界の

展開+

(

界の

史』

5・

界の

成立

四一

摩)

九一

-

頁。

(

3)

句・

U已ge

日日

3p

Ge

浄巴t

口内

-

且e

ge-

P①

才幹

訂O

F♂

やN

牢ロt

-

n-

sO

Fe

n

A仁

芳i

nP

n

計U

琵t

N

仁n

g

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-

P

すげ仁

n

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ユ∽.

せYN

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ロN

n

P

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岩p

巴岩

St

p

巳e

弓e-

t.

Et

t

p】

-

¢

い.

∽一

N

¢い

L

m.

-

P

(

4)

+

句.

〇F

n∽

○→

ge

}

ロe→

芝ユ○

どの・

→-

訂-

RP

ユ払

(

訂∽

G

冒∽∽

e

n◆

せN

訟(

-

宗○)

S一

0

0

+い

N

ラン

紀に

と、

(

七一

-七

四)

(

1

六)

もと

後的な

伸長

た。

国内で

は、

まで

事実上

国の

観を

して

南イ

ヴュ

ヴュ

国が

うう6

属さ

られ

た。

時に

笥.ツ

儀に

する

轡餌

ばじ

キっ

た。

夏に

は、

の.

匂因

習に

グエ

した

年、

撃の

先き

中部イ

領に

けら

た。

.

( 7 ) 八 億糸己後半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,

フ ラ ン ク ,ロ

マ 教 皇

ヴエ

落の

報が

と、

斗..ン

■.ん

久.ン

.

可十〃

.ス

:

五世は

請求を

うぺ

く、

七五

年十月

使節シ

た。

ぺ斗烈胤+

時町町

寸執

革み

L

】刀ナ

.

カネ.「

世あ

重蔵親書む

ず.

り、

ずロ

寄っ

皇に

皇帝

親書を

した

ち、

教皇の

身内の

にバ

グィ

ラン

宮廷

た。

く、

教皇

あて

親書が

ヴェ

請求に

て、

世に

協力を

めで

う。

帝の

グェ

返還

請求を

肯ん

ず、

グィ

渉は

破れ

使節はロ

経由で

還する

年十

月ま

え、

使節ヨ

現わ

る。

今回の

教皇

皇帝親書は

皇自ら

会見し

イス

ヴェ

返還を

実現さ

すぺ

旨を

うたっ

る。

で、

.

斗列■

ナ.外力「→

世は

四日

対人∴刊

l

もに

宮廷に

乗込

むが

交渉は

決裂し

はコ

タン

帰還する

皇の

尊づ

づ.

争珊上を・続けて.プ

プ.スJ

咽え

し、

翌モ

胡苛

日、

ン\

ン\

会見する

卑し■で

㌢ビ

ゾ.衷か

ぞの

子カ

盲.よ.ぴ

.

カー

油の

儀式を

な.

.い

.、

ス+

とい

う位を

ずける

史的

実で

る。

皇が

事前に

連絡を

保っ

確か

る。

軍の

進撃に

した

教皇と

は、

タン

りの

援軍に

期待で

ない

すれ

ば、

国王

にロ

防衛を

める

かっ

らで

ある

うえ

画列

J・・

パ・・

ル・ド

痕跡

整肝

すで.

打.

皇グ

..

ス二

面か

卦ア

例(

もっ

実現

ない

)

ある

うえ

七五

十年た

は、

劉島ツ・ア

∴.リ

ア、

の、八

グイ

朝に

する

久】〓

ヂダ

当化し

㌢、

教皇庁と

時カロ

朝に

借し+

あっ

たの

ある

問題は

うなフ

国王

とロ

皇と

接触が

7

側の

解と

認の

れ、

一 橋論叢 第五 十 三 巷 第五 号 ( 8 )

lヾ

仙…

ヰ∵

廿

ヾl

/

8央

q

∂∂8

U

V

N

V

≠ヽ

N飢

庫(

ヨト

ーヨu)

V

(

諾-

-宗00

)

8ヽ

-

叫≠

-

q

琳.

N

ー↓

(

T

→t

りl

∵へ

T

i叫

/

メ)

T

T。

H

(

昏諜\

T

カ)

~1

-

弾+

I

-

U

ロ已ge

J

河e

g一

-

N

N

(

T

q

m

メ)

ヾl

u.

{

T

-

(

弊払)

弊跡

¶人

-メ

庵†

1

r

ロ已ge

り〉

押e

g.

N

→■

N

障8

叫\

\カ

薩丸

r

計葺

ヾ-

N

庫8

妙血

.

トヽ

8ヾ

妙.

8

演-

回ぺ

如罵(

蟹叫

ゝ\

T

仙叫人

U

)一

て斗

d

8

斎藤覿漆+

弾妙鄭.

8

舘N

瓦斗

¶恕即

甫.

1V

ミH↑

桔卜

F て

にい〕

㍑卜【

〔。

さじ

T+

ごヾ斗\

長斗

ロ望粥e

J

声e

u

V

H

汀。

汀。

T

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T

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力・

ヽ斗+

カ)

ロ望ge

→-

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N

O

巧止

ヾ一

召㊦

蛋織

捗務沖

こ巴

1

1諾∽

)

Uひー

ge

J

声e

N

N

1

出†

ド.

[

ヾl

二Y

H

↑〔

け㌧

. 、

ほは.トいた

ご.

(

南中で

斗‥

( 9 ) 八 世 紀後半 の イ タ ワ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,

ロー

マ 教皇

且下

山…

一凶

止k

ヾ一

¢

U

lヾ

8キ

丑仰

E

七ヾ

→l

弾仙川

鮮.

N

D望ge

→)

河e

N

N

C叶

.

〇Fロ∽

蒜e

ロe

勺P〔

ユc

ぎゃ

→芹e-

.

ロN

(

-

示○)

.い

Aロ

m.

8

讃-

廿

-

(

劫)

空蒔

(

Y

q

ヰヾ

喜8

蛋柚拓

苧室)

、 J、 J

ヰゝ

-\

8入

郎胃(

蟹叫

岨、

ごr

叫で

叫亡

知)

.

-\

三汁

鴨、

でて

仙仲山

古か.

勺ト

ヽく

荘叫

叱、

ごT

r

+′

8

\亡

ヽ力

葬ヰ

でて

韓国、

識ゝ

戟哉

(

\、

ヰ}

戦ぃ

≠-

d\

)

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瓦甚琴噛

欝(

.

斗召

-\

8

巴叫

、 J、

・J

しn

=

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庫8

親.

T

斗V良+

(

ヨ小

1

謎○

)

宅辞

.

J

O O

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"

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8≠爪

U

V

N

V

叫▲

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庫(

詔0

1

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蒔一

捧⊥

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浄.

J

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トー

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H

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如)

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ゝ)

ロ茫ge

声e

ヒ¢

、 J

0 0

0 ヽ

-ヽ

三汁

叫\

r

ヽ知〕

展沖

封入

¶山

・胃不

敏伊

母(

(

カ・

U

).

、 J

-+

8払

\ヽ

詔.

勺卜

勺ト

T

吟¶

8≠

)

廿

-\

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8

顎出阿

鄭.

声ひー

的e

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河e

£

(

塙∵

召㊦

回相好き沖

00

-諾00

)

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J

l

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J

一 橋論叢 第五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 0 )

・滞

ヰ∵

¢

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8☆

"

5 β0

、 J

O o

O O

ー\

8伊

>

洩什

ワ汁

8、

叫ヽ

一+巾

¶\

≡汁

-\

三‖

昏肘押

嶋て〉

帝国

蔀〕

叫[

きバ

頂い

頂い

心け

か.

浅ヾ

不迫折

8

叫亡

8‥

拓叫

叫\

塙Y

\川

噛付

帯J

ヽ亡

霹伸

葬かヰか

慧、

ヾ1

勺ト

勺ト

て†

中胡

廿

舞]

F

\ J\

、○トー

8

勺卜

勺ト

抄画

~8u

(

O

N

令沖

d串

E

汁か).

、 J\

、⊂)

-Iゝ

糟よ

顎り

弾妙

執.

や¶

l

L 声ヽ

T

と蓋君U

叫人

再伸

健芽対

語.

(

笥-

00

O

N

)

¢

lヽ

H

u可

-\

(

】+

ぃ\

洩ヾ

メ)

(

汀。

≠\

→1

V

メ)

亡望ge

J

河e

¢

¢

鮮細

(

3山

-∞-

か)

廿

1

-

改訂斗

バ〉

叫+

鶉\

8

-

8

慎〔

.

0

0

ーヽ

8山

廿

8

糾温

々伊

ー\

三汁

8ロ

触粁

め川

d触沖

薄汁

バ迦州

別剛.

か.

-

8

炒軸什

ON

1 .

Y

枇†

-\

(

メ、

ドけ卜「ゝ

彗、

J斗

二博空辞一

(

00

O

N

E

よ「

D已gG

声e

甲一

設¶

( 1 1 ) 八 世 紀 後半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,

フ ラ ン ク,

ロ ー マ 教 皇

升環七

廿

lヾ

8☆

斡可

q

N l

-\

(

軸∽

津山

ぃ\

(

蚕掠蘭

知ム

メ)

(

カ、

1

頂、

二丁

知)

ロか一

驚→

河e

g.

韓日

き枯薄彗料藩8

頭却什

バー

画料勇者8

石彗8

墳惑8

義おヰ

洩Y一

蒋彗蒜

W

蕗寄付

J

汁一

教皇が

皇帝の

者と

動した

うか

とい

う点

ある

決定

する

確な

拠は

ない

だ、

続く

帝と

国王

との

渉関係か

推して

うもス

は、

宮廷と

連絡な

に、

人の

子カ

人の

ス+

とい

う位を

ずけ

うで

ある

若し

うな

らば

世が

うな

動に

出た

は、

聖ペ

保護

者と

して

義務づ

けよ

うと

らで

ある

解釈

する

く、

たが

教皇は

患味を

ス.ケンニ

イト

ア.ル.を

中心と

ずる

句リld「

〓機剖

顛1

射刊叫

〓+

変更し

キり

ない

もっ

もこ

はス

出すこ

称号

香し

た。

が、

護の

義務

もの

も回

避し

とい

うこ

ない

事夷.ご

.

.曳叫

垂掛野「ピ

■シ

はえ

J

千.フ

.

ァ…

き一

世に

画し

誓っ

ろの

保護の

義務に

実に

父カ

まで

朝伝統の

親ラ

策を

輝し

て、

ネタ

遠征を

ない

.

占領した

あっ

た。

王ア

すび

ドゥ

属する

占領地

皇に

ヴュ

ける

占領地

皇帝に

た。

常こ

もっ

皇へ

と、

教皇庁国家の

立が

ならい

ども

うな

解は

確で

ない

会見に

くキ

会で

世に

進を

約束した

とい

教皇

列伝+

事は

うまで

後に

皇ハ

一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 2 )

(

七二

-七

九五)

側近

げた

偽作で

り、

たバ

グィ

協定で

がロ

内の

占領地

還さ

も、

皇を

ける

帝の

者と

なの

あっ

て、

教皇に

占領地

還し

兵意は

まで

も、

来の

所有者

還に

あっ

た。

うして

は、

世の

出す「

人の

ス+

拒否する

よっ

て、

またバ

協定で

来の

所有権

着た

皇帝へ

領土

還と

原則を

らぬ

くこ

よっ

て、

帝を

戟し

ない

すん

あっ

た。

ばか

りか

て、

ヴェ

ア、

イス

内の

占領地

をビ

帝に

還さ

ょっ

て、

廷で

大い

数+

をか

う。

もか

くも

七五

年、

とボ

をへ

むか

う小

岸の

殿で

偶像

壊+

宗教

議を

催中

だっ

たコ

ティ

世が

出し

ない

らの

朗報を

き、

ろこ

変な

もの

あっ

舵-

察で

きる

年の

五・

月、

偶像破

壊+

宗教政

策の

伴う

乱をの

きっ

たコ

遣さ

許に

むか

う二

使節シ

とプ

が、

現わ

た。

的は

年の

ヴェ

ア、

占領地

き、

側か

らそ

占領し

ヴェ

辺の

総督管轄地

域を

還さ

と、

しこ

功すれ

ば、

功労者ピ

爵位

人の

ス+

ずけて

年金を

労を

ぎら

うと

に、

室の

室に

する

誠の

ずな

を一

うつ

と、

あっ

うで

る。

人の

ザン

使節は

到着して

て、

西

間お

態、

り、

皇と

間に

年以

新しい

すび

成立

と、

うに

教皇は

帝の

与え

うる

人の

+

( 1 3 ) 八 世轟己後半 の イ タ ワ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク

,ロ

ー マ 教 皇

とい

ずけ

と、

して

まや

すび

きに

基い

て、

撃を

なっ

しイ

遠征に

出馬中で

と、

知っ

ろい

た。

使節は

事の

真相を

とマ

イユ

き、

張り

越え

事実で

知っ

た。

はマ

まっ

て、

教皇が

分た

ちに

けて

随身を

傍に

きつ

けて

く一

方、

単身マ

た。

てバ

グィ

すで

とし

ぐり

うこ

た。

会見の

模様をつ

教皇列伝+

記事に

と、

使節が

品を

撒い

旧ビ

領の

返還

求を

なっ

たに

もか

ず、

は、

世の

間の

めで

聖ペ

テロ

武器を

とっ

戦い

とっ

て、

聖ペ

テロ

なっ

寄進を

消そ

かっ

た、

なっ

る。

ら、

ツ・

間の

交が

断絶し

説か

常識と

なっ

る。

しか

なが

実相は

異な

り、

間の

国交は

絶え

なか

を、

続く

年に

間の

使

節住来が

裏書き

して

る。

は、

使節に

むか

て、

自分は

との

第二

回パ

ブィ

協定

き、

旧ビ

督管

轄領お

教皇に

還し

と、

皇をコ

皇帝の

代理

者と

して

とで

あり

帝側は

皇とお

話し

あっ

結論を

けて

と、

述べ

ない

あろ

うか

ゲオ

は、

をつ

め、

経由でコ

還し

た。

ま一

人の

使節

イユ

遠征

帰り

待ち

うけて

た。

行が

到着する

と、

と一

緒に

して

渉を

なっ

た。

うし

て、

人の

ザン

使節ヨ

ネス

もコ

帰還

た。

帰還に

はピ

側の

使節を

伴っ

た。

もこ

年の

行動ぶ

は、

年の

場合と

様、

ザン

側か

ら、

どこ

ろの

ない

うな

もの

あっ

た。

3

関係は

うで

あっ

が、

一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 4 )

牛の

使節

渉の

結果

年の

ける

皇ス

世の

為が

側に

明ら

なっ

た。

後に

年の

日、

皇帝と

戴冠し

たロ

教皇レ

世は

時の

門の

処置を

うけ

た。

世の

易合

うで

あっ

うか

明で

る。

年、

世は

去っ

まい

教皇の

座に

登っ

(

七五

-七

七)

ら、

とい

世が

うな

処罰を

して

も、

措置は

御当

人の

ずじ

あっ

た。

年の

使節

到来は

う一

副産

物を

た。

使節ゲ

イユ

行の

教皇

側随身を

撒い

単独

たこ

は、

教皇の

機嫌を

大い

損じ

く、

結果

国王

とロ

教皇との

問に

気が

なが

しい

年初め

前年ビ

ザン

使節と

グィ

見し

を、

はコ

に、

高価な

物、

ずくオ

朗-h

J

ずさ

ずれ

た。

ら、

係+

打ちた

した

ザン

使

は、

渉を

てコ

ティ

世の

意に

うよ

うな

果に

たっ

なか

らしい

拠に

使

は、

滞在

中に

国内の

反教

皇・

派と

交渉し

る。

教政

策上の

問題に

とロ

皇の

打ち

むた

あっ

しい

七た

使節は

争、

上イ

王デシ

(

-七

巴と

見し

反..ピ

策謀を

練っ

る。

うし

で.ビ

ザン

.・.

.ブ.■テ

間に

戦状鰻が

た。

実七

年に

側は

デモ

なっ

た。

うし

ザン

ツ・

間に

は一

時国

交が

途絶え

が、

七+

尊の

ザン

使節の

来訪に

よっ

交は

開する

しこ

使節の

はっ

して

ない

使節の

ティ

帰還に

して

は、

側の

使節が

行する

もこ

敬して

( 1 5 ) 八 世糸己後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,

ロ ー マ 教 皇

年以

来の

とロ

あい

気ま

ずい

雰囲

気は

すで

滅し

うで

ある

皇庁使節

はコ

ら、

人の

使節ス

ティ

官シ

伴っ

当川

めて

帰還し

た。

, 1

ゴ叫

ヰず

使節

きつ

ぎ.

滞在し

翠七

麿囁

開催取】カ

泉教会

琴に

出■

席する

使節の

人ス

ティ

使節

伴っ

帰還

する

が、

官シ

方は

まフ

許に

滞在して

る。

使節が

たコ

ティ

世の

帝親書は「

勲な

言と

山は

約束+

含むも

で、

帝の

教皇

する

ぎの

うな三

非難が

記さ

た。

すな

ち、

(

)

宮廷で

皇帝

親書を

語か

語に

翻訳

する

役目の

暑が

買収さ

書面に

ない

報告を

なっ

と。

(

二)

教皇庁の

リ、

は、

教皇か

権限を

ない

もか

ず、

皇の

名で

像の

皇帝に

難を

なっ

と。

(

三)

はピ

使者に

し、

際に

ちが

聞か

と。

不タ

世の

親書

は、

ン:

ティ

の一

時二

歳ち

くの

..と

歳年下

娘ギ

との

結婚の

談に

する

申し

出で

含ん

たっ

要する

コ.

え.久

.

テ.ィ

え.五

世の

簡は

第一

に、

時フ

宮廷

くなっ

た.

偶像感観]

ナ秒

間題に

て、

自らの

宗教

策「

偶像

壊+

義へ

調

する

うフ

側に

きか

ける

らっ

た。

と.関連して

第二

に、

教皇が

偶像破

壊+

帝の

息子

とピ

娘ギ

結婚話し

力か

けて

する

し、

結婚の

現に

よっ

宮廷

を一

うしっ

とコ

ティ

すび

ける

して

た。

くコ

世は

事力

東方に

釘づ

けさ

在、

グエ

失、

ける

配の

南方ヘ

ー〔J

縮、

とい

うイ

難な

情勢を

一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 6 )

よっ

すべ

く、

しこ

宗教政

策お

結婚政

策に

る。

して

い、

宗教

結婚政

策と

年以

来何回か

持出

のノ1ベ

トい

軒.

爵位の

賜の

間.

題が

今回

た、

よっ

札とし

たに

ちが

ない

なか

ゲン

デイ

宗教

会議の

年で

ある

六八

年ピ

去る

と、

勢力

をつ

部お

部に

ける

旧ビ

領を

復する

とい

うコ

ティ

交政

策も

打ち

切ら

ない

なっ

反ビ

ザン

ツ・

親ラ

策を

打ち

出した

らで

る。

して

ザン

ツ・

宮廷

間の

使節交換も

跡絶え

まっ

た。

頃ラ

位に

あっ

(

-七

四)

あっ

が、

同王

は、

すで

父ピ

晩年に

復帰し

カロ

リン

朝伝

親ラ

策を

后で

あっ

たベ

ゥ.ラ

ダの

意向に

もと

て、

推進し

た。

煎り

デシ

娘と

結婚式

挙げた

もこ

頃で

あっ

た。

しか

親ラ

策もつ

間で

あっ

た。

七一

年に

ける

尉∂

-

親ラ

派外

親フ

ラ.バ

派に

利。

年そ

デシ

娘と

結婚解

消。

弟カ

国単独

支配

権の

確立

続か

排除さ

妻子の

デシ

許へ

亡∪

デシ

デリ

囲。

教皇ハ

ニ.〕世

・の

救野要請㌃

軒トナ

年ア

をこ

え、

九月

末.パ

ブィ

包囲臥

陣を

しい

た。

固な

防衛工

事を

どこ

たバ

グィ

まち

なか

陥落し

なかっ

た。

間、

デシ

デリ

子で

すで

七五

年以

来そ

統治

者と

なっ

デル

くみ

あい

をぬ

てコ

廷に

ちの

とに

功し

た。

年の

ブィ

外の

陣営で

すご

は、

囲を

行する

傍ら

年の

復活

祭をロ

祝うこ

とに

なっ

た。

教皇ハ

世(

-七

五)

放者カ

もっ

むか

えい

た。

.こ

うし

て.オ

は、

父ピ

ちょ

ど二

年まえ

時の

皇ス

( 17 ) 八 世紀後半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,

フ ラ ン ク ,ロ

マ 教 皇

して

けた

聖ペ

防衛の

義務を

事に

る。

は、

父が

教皇の

出す「

+

に、

ア、ズ

スエ

世の

出すこ

帯び

肯ん

なか

た。

なお

年の

訪問は

最初の

聖都「

礼+

あっ

た。

はハ

と、

戦役終結後の

要な

治的

うと

グィ

とっ

返し

た。

月の

め、

デシ

勇敢な

抵抗の

ち、

軍門に

下っ

た。

もは

ず、

デシ

デリ

わっ

自ら

王+

なっ

た。

うし

族に

リ.

女酪は

焉し

た。

しか

しそ

党は

ル、

シ、

どの

各地に

拠点を

た。

なか

も、

ヴュ

ヴュ

は、

デシ

娘を

后に

り、

位さ

舅に

わっ

て、

族の

首長+

称し

た。

は、

後楯と

ヴュ

ヴュ

領一

教皇

庁の

もの

する

ない

危倶し

■わ

ーゴ

軍司

官と

すび

教皇の

勢力の

南イ

アへ

大に

等し

く重

大な

関心

ナ、

タ、

リ、

どの

在地

勢力

連携

して

反ロ

教皇

戦線を

結成

した

もっ

利害ほ

錯綜

して

り、

戦線側の

内部で

争が

ずる

なか

た。

うな

情況の

早ザ

年ダェ

ヴュ

党を

支援して

力の

南下

喰い

めよ

うと

かっ

が、

は、

時対

策の

貴重

札を

中に

ぎっ

た。

うに.■

デシ

息子

デル.奉

は、

グィ

落城に

ちコ

落ちの

が、

王の

遺児が

まで

くい

まの

場合の

札で

あっ

た。

ザン

札を

すま

す価値

ある

もの

する

め、

がコ

タン

ティ

する

く、

ラ.

族の

命者にコ

爵位「

+

賜し

た。

くこ

触発さ

う、

淘̀ト

年以

分か

人の

+

称する

うに

なる

一 橋論 叢 第 五 十 三 春 ‾第 五 号 ( 1 8 )

年の

訪問の

も、

年の

領後も

世の

出す「

+

拒否し

た。

は、

側が

位の

後継

者で

継承

者で

デル

+

爵位をさ

ずけ

や、

抗的に

自分が

国の

着で

すた

め、

度は

自分

+

乗っ

あっ

た。

㍉捌

旬刊

司田は

儀大な

.・

偶像破

頓+

㌻垂

帝千ン

.㌢

世が

世を

去っ

て、

.

:

ザ.

ン‥

γ

嘩が二

代に

力づ

統御め

離れ

なっ

時に

た。

うし

後何十

年もの

間、

帝国

は、

有能で

ない

連の

者に

よっ

統治

けれ

らない

命を

とに

なっ

た。

一ス

ティ

ltt

l

l一-

-

.′1-

!一-.1

一1

.′

世に

帝位に

任し

子の

}悌

抵〕

(

七五

-

〇)

あっ

た。

死ぬ

まで

の一

子の

めに

娘ギ

とめつ

た。

すで

が、

.ピン

死セフ

国の

策が

反ビ

ツ⊥り

線に

流れ

と、

タ..

.テ.ィ

ノ.

.斗

ばこ

妙に

.アー

出身

やイ

侶rハ

斡両

者を

叡.材サた

世が

短い

位の

世を

去る

と、

子で

ぁる

時十

嵐の

メい

†ア.イ

已八

色(

1七

七)

極し

皇母.■

政と

なっ

する

なっ

た。

七五

-七

年、

側は

的困

難に

えて

まの

内の

情、

策上

像崇

拝復

活の

備の

め、

アヘ

極的

軍事介入

まで

かっ

た。

しか

し.

㍗㌢

ク・

皇共

線が

南小

加え

圧に

抗す

め、

うに

南イ

チネ

ヴュ

公ア

組ん

撃に

出て

た。

ら、

西

方の

事態を

率直に

めて

実力

式の

国交を

復する

ない

判断し

う。

刈り都

新摂政

府は七

人+

「隼は

め二

人の

使節サ

タエ

リ、

カ.

1

遣して

きた

頃カ

第二

回の.小ダ

存を+

し.

Jた

年の

秋、

国の

方の

秩序が

建さ

機に

係を

調

する

( 1 9 ) 八 世紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,

フ ラ ン ク,

ロ ー

マ 教 皇

越え

を「バ

グィ

すご

後ロ

した

復活祭

人の

子で

歳未満の

ラン

王ピ

と、

弟の

新ア

タニ

教皇ハ

世が

油の

儀式

うの

立ち

会っ

た。

まの

使節が

らわ

うし

滞在

して

あっ

た。

使節が

もと

は、

年に

吾が

子コ

ティ

世の

花嫁と

娘ロ

もと

申し

入れ

あっ

た。

くビ

使節は

グェ

心と

する

旧ビ

領に

する

領土

請求権を

ぴっ

め、

族の

服お

教皇庁

家の

立と

成事実

する

ろの

意向を

に、

平和

好条約の

結を

めて

来た

しい

して

うな

ら、

ザン

ツ・

廷の

すび

との

結婚に

よっ

うか

めよ

うと

う。

らに

また

脈か

推し

て、

ス+

爵位

賜の

問題が

時に

題に

ぼっ

たこ

も、

易に

像で

る。

年ビ

側か

命ラ

族ア

デル

+

爵位

ずけた

抗し

年以

来勝手

乗っ

+

称号を

追認する

が、

交を

復し

うとね

がっ

府の

打た

ない

手だっ

らで

ある

うな

情況

下で

は、

側も

無下

ス+

爵位を

拒否する

由が

なかっ

われ

る。

事実カ

伝記

作者

は、

終生フ

来の

服装

愛用し

靂な

国衣

身に

なか

こ■と

教皇ハ

請し

き、

後継者レ

懇望し

回だ

けに

限っ

て、

長い

トニ

ラ、

着用

し、

風に

しつ

と、

をつ

えて

る。

場合が

年の

係する

うまで

ない

が、

八一

年、

使節は

ス+

爵位就任の

令と

に、

爵位の

礼服をコ

めに

ずさ

る。

引い竹

ヨ叫山

男川

;r。.

ぺ‖ド■小.

不対

斗一

一也叫

㌻、㌃

一 橋 論叢 第 五 十 三 巻 第五 号 ( 2 0)

-

プ.一

■ル・

例の

代車者の

筏藍見

?

て、

あい

友好関係の

立に

力し

しい

皇側に

とっ

て、

聖ペ

テロ

護者と

して

義務づ

ける

自分が

持ち

出し

人の

ス+

号が

まビ

側か

ら、

宮廷

爵位

ス+

とい

うか

ちで

認さ

結果

なれ

ば、

よっ

自分の

動は

法化さ

て、

教皇が

帝に

権行為をお

した

難は

後永

久に

う。

慮の

世の

脳裡に

は、

像崇

的傾

向が

らか

渉し

て、

東方

教会と

間に

宗教

策上で

和解を

うと

する

希望が

うご

とお

もわ

る。

もか

くもこ

うし

て、

d功ゝ

.

J∵

.

間に

関係が

確立を

た。

妹とレ

間の

縁談が

成立

かっ

きか

え、

今や

娘とレ

世の

場合に

は、

実現の

能性が

濃くなっ

た。

使節に

加わっ

員の一

官官エ

きフ

留七

てロ

的生

様式を

教え

m】

分の

許の

聖職者に

ディ

アコ

教授さ

せ、

嫁入

随行で

訓練を

どこ

た。

御成

婚の

りは

花婿が

成年に

たっ

する

六・

年に

られ

が、

紀町

人一

代(

述)

は、

府が

朝+

伝統の

宗教

策を

転回さ

像崇拝を

復活し

うと

着々

準備しっ

ある

時期で

あっ

た。

年、

府が

任命し

総主

教パ

職さ

せ、

書で

神学

的素養も

豊か

な、

政治

識見に

とん

俗人

後任に

すえ

もに

ゼ司四

年の

偶像破

壊}

、】

㌣エ

宗■

教会議

なっ

決議を.く

すべ

全キ

数値

界の

宗教

会議開催を

論ん

だ。

はロ

庁の

後援が

要不

欠の

前提で

あっ

た。

稽八

塵+

府は

絵主

教就任

つ.

教皇か

認を

りつ

け、

あわ

来るべ

きシ

宗教会議に

教皇

自ら

出馬

象諾す.

め、

使節を

派遣し

た。

許に

同じ

出席招請状

られ

( 2 1 ) 八 世 紀 後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク・

ロ ー マ 教 皇

.恥

ない

が、

はコ

する

使節の

人ヨ

に、

礼拝堂つ

祭ウ

行さ

た。

使節の

的は

皇帝コ

ティ

めて

娘ロ

する

あっ

た+

滞在中の

年、

事件に

うこ

た。

イレ

府は

す宗教

策上の

換の

め、

打つ

すで

打ちつ

くし

判断し

た。

して

モ八

ぬ年七

月二

日、

㌢ン

ティ

・ノ1

■l

・11

、~1

ゝ■

剰、

使徒教会に

象教

議を

集し

た。

討議が

うと

き、

牧コ

ティ

世の

命令を

忘れ

ない

首都防衛部隊の

兵士

らが

刀を

教会に

し、

参集した

司教

ちの.

部が

感激

うちふ

ろこ

声を

げる

で、

会議を

散らせ

まっ

ある

イレ

府は

うして

像破

壊+

義の

底流が

根強い

とを

身を

もっ

た。

しか

なか

た。

偶像破

壊+

派の

隊を

戦の

称し

出し

聖像崇拝派の

軍隊

をト

都の

衛に

ずる

と、

問題の

宗教

議を

翌-

曙八七

厘にニ

開催すべ

決定

うと

に、

各方

面に

請状

逸し

た。

八七

御成

婚の

儀に

年で

もあっ

た。

事件の

撃者

なっ

吾が

許に

くる

は、

て、

年の

宗教会議へ

出席

招請状をた

ずさ

ずれ

使

節と

だっ

あっ

た。

間カ

は、

七八

年に

発っ

らい

年以

帰っ

来ない

待ち

ず、

プア

修道

院長の

人に

与え

まっ

た。

は、

八七

年初め

南イ

再会する

なっ

た。

年晩

秋ア

越え

むか

後、

年の

初め

第三

た。

今回

行の

的は

自国ラ

国の

殴打

事情■の

整備

南イ

ける

事態の

定に

あっ

た■L■

卑針わ

る。

行を

聞く

と、

ヴュ

ヴュ

長子

一橋 論 叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 2 2 )

に、

贈物を

持た

許に

むか

せ、

忠誠を

国へ

撃を

未然に

防しよ

うと

た。

今や

盟関

係に

立っ

らの

救援を

期待で

ない

すれ

ば、

する

なか

たの

う。

結局

教皇ハ

ア.

斗可「

嘩の

請をい

南イ

㈲な教

卓庁

磁針.

?

㌣エ

むし

.オ

‥ル

ざ不

ヴュ

領内に

遠征

ない

下に

陣を

しい

た。

は、

明が

あっ

築城工

事をほ

どこ

が、

まこ

落の

要塞に

もる

に、

誠の

誓い

すた

め、

男の

リモ

質と

許に

遣し

た。

が、

する

γ

する

ザン

使節

むか

は、

年早

春の

陣営に

あっ

た。

使節は

指令に

ずき

花嫁ロ

交渉し

た。

渉の

程の

で、

自分の

愛娘を

質の

うに

うと

する

側の

能度が

りし

て、

立ち

乃-h

J

なかっ

た。

なに

りも

使節の

苧見

宗教

会議招請状を

て、

府の

像崇拝とい

う宗教政

策の

旗印が

鮮明

化さ

知っ

た。

和な

偶像破

壊+

洗を

する

結婚な

能で

あっ

も、

聖像崇拝派

との

結婚は

断じ.て

能で

する

朝の

家憲せ

創り

とっ

て、

以上

交渉する

無駄

なっ

た。

うし

今回

た、

ア+

朝と

朝の

あい

結婚ば

しは

談と

なっ

た。

は、

年以

もコ

ティ

愛娘ロ

結婚の

めに

奔走して

くれ

らい

とお

もっ

た。

すで

人に

与え

まっ

プア

修道院長の

位の

に、

修道院長の

職を

与え

やっ

た。

して

御代

髄以

来、

)

敵国

ラ一

を軋

間に

交途絶の

状態が

舞い

どっ

た。

理の

然上

+

保持者で

なか

た。

ずカ

ス+

する

なか

た。

( 2 5 ) 八 世 紀 後半 乃 イ タ リ ア と ピ ザ ン ツ,

フ ラ ン ク,

ロ ー マ 教 皇

血叩

場合

+

容は

年、

+

爵位と

的に

自ら

+

乗っ

場合と

同一

なっ

た。

間七

八一

年の

側の

認を

で、

価値は

高まっ

た。

ちょ

うど

尽か

ら.「パ.-

。い.

γ

り■

+

は、

領域

者の

念の

意味に

変じ

る。

教皇

部分を

らわ

す「

聖ペ

テロ

ス+

と、

支配の

部分を

す「

ス+

とが

置的に

用い

られ

うに

なっ

る。

うして

年の

皇帝+

まで

+

続けた

吾々

最後に

八七

年の

断絶い

宵小

タ■ト

ナか

事態は

㌻な

サ.

で.

たか

転じ

けれ

ない

なぜ

なら

ば、

域で

国と

国とが

ず外

交的に

鍔迫合

をお

ない

軍事衝突に

突入

らで

る。

すで

うに

年カ

南下

けて

グェ

ヴュ

もっ

が、

方に

使節の

渉が

敗し

たこ

くや

陣営を

未だ

滞在中に

使節

遣し

ツへ

恭順の

意を

すと

に、

代償と

して

風の

帽子

服を

着用し

と、

自らに

宮廷

爵位

ス+

えて

しい

と、

男ロ

皇族の

性を

花嫁に

と、

申し

て、

たコ

タン

ティ

宮廷

族の

命者ア

デル

帰還

せ、

軍を

遣し

しい

要請して

きた

府は

持ち

前の

慎重さ

ら、

デル

隊と

送っ

なか

が、

年は

め、

すぐ

折返

て、

ス+

爵位を

ずけ

爵位の

凧用

者用の

礼服そ

他一

式を

する

使節を

ヴュ

ヴュ

国へ

けて

派遣し

きた

使節の

長は

人の

した

あっ

た。

間ヴュ

ヴュ

国に

けて

使者を

送っ

き、

がハ

世に

一 橋論 叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 2 4 )

なっ

ヴュ

ヴュ

部の

教皇

庁へ

割譲の

約束

果た

うと

た。

ヴュ

ヴュ

側で

年の

月に

長男ロ

が、

月に

身が

去っ

で、

使節団の

頼子

なっ

は、

妃ア

あっ

た。

妃は

デシ

娘で

り、

がっ

滅亡

時コ

命し

デル

姉妹に

あたっ

た。

デル

は、

デシ

ら王

国を

弟ア

デル

由を

ばい

大の

下と

する

足せ

ずに

教皇に

自嶺を

割譲さ

うと

する

激しい

嫌悪の

情を

懐い

が、

しカ

質と

なっ

男グ

帰還

ヴュ

ヴュ

をた

す第

条件で

ば、

場合カ

た。

うか

とい

渉の

ずな

断ち

ば、

援軍を

人に

して

らせ

機会も

うし

うな

苦しい

情況の

もと

は、

逆に

許に

使者を

遣し

て、

リモ

帰還を

ゆる

し、

ヴュ

ヴュ

国を

続する

指石じ

可し

懇願する

に、

方ビ

使節か

ら、

リモ

許か

帰還し

後、

父ア

様ビ

誠を

続け

ば、

もグ

続を

ゆる

すで

う、

とい

う保証

をと

けた

皇ハ

はこ

ヴュ

ヴュ

例の

うご

察知する

躍起

なっ

け、

釈放

する

結局

敵方の

中に

貴重

札を

委ね

と、

事態の

窮極的処

自らの

出馬を

ない

と、

納得さ

た。

なが

らカ

とっ

人の

国の

問題の

は、

時カ

めて

領域の

幾つ

もの

複楚な

問題の

なか

第二

意味

すぎ

なか

た。

て、

年の

まで

威運動が

精一

ばい

界で

り、

軍事的

段に

策に

方で

人の

蜂起を

防し

うと

した

また

庁へ

寄進の

完全

施に

もさ

どの

熱意を

示さ

かっ

た。

すで

うに

頃、

.血

八世 紀 後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,

ロ ーマ 教 皇)52(

.

▲叩

,事

文配

教皇支

部分と

ち、

領の

異状な

は、

デシ

デリ

戦い

獲得し

国領の

犠牲に

か、

現で

ない

なっ

る。

うし

オト

嬢七

卑の

皇ハ

歯掘腕を

に、

リモ

誠の

誓い

直ちに

故国へ

帰還

ゆる

し、

ヴュ

ヴュ

国の

続を

る。

年の

続く

歴史

経過

は、

しか

実証

た。

年、

故ア

まで

熱烈に

かっ

デル

が、

職と

兼ね

るヨ

指揮下の

軍とと

もに

た。

に、

増援軍が

合流した

逝え

撃つ

ヴュ

ヴュ

公ア

公ヒ

連合軍お

び、

ブィ

指揮

する

軍で

あっ

た。

国境で

軍は

激突し

た。

軍は

完敗し

者は

実に

名、

捕虜は

とい

れ、

捕虜の

軍を

指揮し

含まれ

た。

デル

残っ

うか

明で

ある

が、

は、

ティ

年を

終え

る。

リモ

うし

て、

誓っ

誠を

行動を

もっ

した

なが

らグ

王に

する

傾倒ぶ

は、

帝に

する

傾倒ぶ

長くつ

けで

ない

リモ

は、

八八

年亡

命ラ

帰還の

阻止

功し

とで

義務

果した

考え

た。

して

九一

年か

イレ

中に

対カ

札に

変じ

た。

い.

する

側か

らの

しが

年か

〇二

年まで

回に

たっ

なわ

ろの

対ブ

アル

征で

あっ

た。

は、

男ロ

花嫁に

非と

かっ

たコ

世の

妃マ

を、

ない

兄に

妻と

た。

真に

母ア

デル

腕が

あっ

た。

もっ

結婚は

幸な

結末に

わっ

ー+

J

い。

離婚して

5 7

一橋 論叢 第 五 十 二 巻 第 五 号 ( 2 6 )

廷に

りか

えさ

る。

うに

七八

年い

国⊥

断絶し

帝国

国と

は、

南イ

舞台

互い

勢力

長を

た。

宗教

領域で

も、

国は→∴

七八七

尭聖像崇拝復活を

議し

た・ニ

宗教会議七たい

し、

する

糾問世の

上示

会議を

もっ

応えた

なか

年政

変が

あり

子の

帝コ

盲目と

し、

位して

女帝とし

七ビ

史上

前例を

ない

単独

有配む

開始す

宅つ

年イレ

は、

に、

修道

院長テ

使

節と

し、

国の

交戦

状態に

終止

符を

打っ

交を

復した

申し

込ん

る。

まる

間の

渉関係に

は、

年の

戴冠を

して

箇に

ない

(

五・

八)

後記〕

稿

しょ

戴冠に

世キ

界の

態ま

筆を

める

定で

た。

それ

は、

ゲの

ま一

新しい

文が

最も

参考に

る。

W.

〇ビ

ゴ払

琴DP払

内巳

e

ユ仁

m(

訂1

J

空言ロe

ゴd

已e

内已岩r

打1

…J

g

内p

ユ∽

d2

G

3∽

給n

.紆e

告ごー

(

-

諾ぃ

)

S.

N

N

T【

N

革そ

文が

すご

く、

らぷ

ま一

来か

らの

争主

題、

COn∽t

已仁

2

CO

ロ∽t

p

ロt-

ロー

ない

戴冠に

ゲが

する

は、

れに

先立

年間

ザン

国が

題で

る。

年い

らい

吾が

子コ

世の

摂政

あっ

イレ

は、

年初めい

配を

くわ

たが

隊の

対に

遭っ

敗、

年末に

時引

退し

九二

年ふ

たた

共同

治者

して

する

が、

年か

まで

はコ

世の

単独

配の

た。

帝支

配の

性の

題は

うし

すで

きい

らい

くす

が、

それ

はっ

たっ

たの

は、

まで

なく

年イレ

位し

実と

きか

らで

あっ

た。

ゾル

は、

配を

ぐっ

ザン

内に

的な

あっ

と、

法と

する

は、

ずン

統に

に、

来、

家の

打っ

て一

とし

帝に

ない

する

解で

り、

れに

00

( 2 7 ) 八世 紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,

フ ラ ン ク ,ロ ー マ 教 皇

は、

帝に

際に

する

誰で

うと

能が

問題で

ある

とし

行の

未成

人で

梼わ

い、

と、

もに

なイ

側の

は、

紀の

経過の

うち

ザン

しは

り、

場は

デオ

ギー

的に

安定

状態

たこ

と、

内に

なさ

座を

ぐっ

動が

各地

たこ

と、

する

して

を、

戴冠

ける

最も

要な

前提

る。

CO

n∽

t-

t

已仁

m

CO

n

監P

n

ュn

て、

ゾル

は、

三・

年ロ

皇レ

して

成立

偽作

する

年の

役を

市ロ

民に

推挙に

らぺ

味の

ない

為に

なか

たロ

皇に

冠の

契機が

めて

味が

け、

前面

出さ

くる

うオ

ゾル

考え

る。

張は

れの

まで

解を

裏打ち

し、

を一

定づ

けた

もの

うこ

う。

私自

身、

ゾル

ゲの

つ、

(

2)

をお

なっ

たが

回の

れの

しい

文に

接し

て、

身の

叙述

を、

箇の

会に

して

う。

(

九六

二二

六)

(

橋大

学助

教授)

5 7 7