![Page 1: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/1.jpg)
スペイン独立戦争と「国民意識」
1カタルーニャに関する最近の諸研究を中心に
立 石
博 高
(105) スペイン独立戦争と「国民意識」
はじめに
「五月二日の事件は、スペインの全ての地方に筆舌
に尽くし難い憤激を引き起こした。そして全ての地方
は自主的にそれぞれに備えていた部隊を武装させて、
祖国(バトリア)の独立を擁護するために、フランス
勢力に対する蜂起を開始した。」
これは、フランコ独裁時代(一九三九~七五年)に
スペインで版を重ねた『スペイン史概説』の一節で
(1)
ある。五月二日の事件とは、一八O八年のこの日、マ
ドリードの民衆が、「フェルナンド七世万歳! フラ
ンス人に死を!」と叫んで、同市に駐屯していたナポ
レオン派遣のミュラーの軍隊に対して蜂起したが、フ
ランス軍によって過酷に鎮圧されたでき、ことを指して
いる。上記の短い叙述から端的に窺えるように、伝統
史学によってこの事件は、「スベイン独立戦争」、すな
わち、フランス勢力によって祖国スペインを躁踊され
た人々が自発的・自然発生的に愛国心から繰り広げた
六年にわたる独立戦争の開始のでき、こととして描かれ
てきた。フランコ政権が人々の歴史意識を左右する二
とに腐心していたことはヴィラールの鋭く指摘すると
(2)
ころであるが、各地方が「宗教、国王、祖国万歳!」
をスロiガンに掲げて、ナポレオンの軍隊と戦った
「スペイン独立戦争」は、カトリック的伝統とスペイン
613
![Page 2: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/2.jpg)
一橋論叢 第110巻 第4号 平成5年(1993年)10月号 (106)
愛国主義の称揚にとって恰好の材料であったのである。
しかしながら、こうしたかたちで「スペイン独立戦
争」の「国民的神話」化が行なわれたことは、逆に、
スベインという近代国家が、二〇世紀に入ってもなお、
「国民国家」としての統合を十分に達成できなかった
^3)
ことの裏返しではないだろうか。歴史的事実としての
「スペイン独立戦争」は、近年の研究によってますます
(4)
その複雑さと多様性が明らかにされてきている。ちな
みに一九九二年五月に開かれた「五月二日」をめぐる
国際会議では、二の蜂起事件の自然発生的性格そのも
^5)
のが疑問に付されるぱかりか、この事件と諸地方の蜂
^6〕
起の因果関係もあらためて問われている。さらに、こ
の戦争はその過程を通じてますます「無神論者ナポレ
オン」に対する低抗とカトリック擁護という宗教的性
(7)
格を帯ぴていったとされるものの、当初このマドリー
ド民衆の蜂起に対して教会当局や異端審問所は「卑し
い民衆のけしからぬ騒擾」として弾劾する態度をとっ
(8)
た事実が明らかにされるなど、ここでも神話の解体が
大きく進展している。
こうした見直しの中で、フランコ体制の崩壊後、歴
史的地域体ないし民族体(ナシオナリダー)と規定さ
れるに至ったスペイン国内の諸地域、とくにカタルー
ニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国
民意識」を抱いたかということもまた問題にされて
(9)
いる。「国民意識」の高揚ということ自体をとりあげ
るにしても、それがいかなる階層といかなる地域の
「国民」の意識であるのかを問うことが必要だからで
(10)
ある。そこで、本稿は、紙幅の制約もあることからカ
タルーニャに絞って、最近の諸研究を検討するかたち
をとりながら、カタルーニャの諸階層にとって反ナポ
レオンの戦争とはいったい如何なるものであったのか
を考察したい。何故ならぱ、スベインのなかで経済
的・杜会的に重要な位置を占めたカタルーニャという
地域体の独自の意識と運動の展開を見ていくことによ
って、近現代史におけるスペインという「国民国家」
の形成のあり方とその性格を考える上での極めて重要
な示唆が与えられると思われるからである。
614
![Page 3: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/3.jpg)
(107〕 スベイン独立戦争と「国民意識」
「スペイン独立戦争」と
「フランス人戦争」
一八○八年から一八一四年にかけての戦争は、初め
から「スペイン独立戦争」と呼ぱれていたわけではな
(u)
いことは、フォンターナが明確に示している。すなわ
ち、同時代の人々は、スペインに侵入したフランス軍
に対する蜂起であると同時に、カルロス四世とその寵
臣ゴドイの専制政治に対して、王権を制約する新たな
政体(コンスティトゥシオン)を樹立しようとしたの
であり、「蜂起」、「戦争」という言葉の他に、とくに自
由主義老たちは「スベイン革命」という言葉を使って
いた。だがナポレオンによってフランスに止められて
いたフェルナンド七世が、一八一四年五月に絶対主義
的な国王復帰を果たすと、この戦争はフランス勢力に
よって纂奪された王位を取り戻すためのナポレオンに
対する戦いにその意味を限定されて、「(反)ナポレオ
ン戦争」という用語が好んで使われるようになった。
しかし、スペイン国家が旧勢力との妥協による「改革」
によって漸次的にアンシャン・レジームを廃棄して
「国民国家」を打ち立てていく過程で、「スペイン独立
戦争」という用語が定着していった。すなわち、ナポ
レオン戦争は「スペイン国民意識」の覚醒と高揚ので
き、こととして理解され、またそのように喧伝されたの
である。この点は、スペイン・ナショナリズムと歴史
学解釈の関係を追ったシルハーノらの研究も確認する
(12)
ところである。以後、現在まで「スペイン独立戦争」
の名称は-その歴史的意味の評価は別にして-」
ほぼ共通に使われている。
いま、「ほぽ」と述べたのは、実はカタルーニャで
は、近年になってますますフランス人に対抗する戦争
として、「(反)フランス人獣争(5o亮胃}宗-津彗・
○艀)」という用語が使われるようになっているからで
ある。フォンターナは、この言葉が「民衆のあいだに
起源を持つ」と言うが、いつ頃から使われだしたのか
には言及していない。いずれにしろ、二〇世紀に入っ
ていスベイン・ナシ目ナリズムの「国民意識」に対抗
する形で、カタルーニャ・ナショナリズムの「民族体
意識」-カタルiニャが独自の「国民国家」を形成
615
![Page 4: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/4.jpg)
一橋論叢 第110巻 第4号 平成5年(1993年)10月号 (108〕
しようとする意識ではないので、ここではとりあえず
このように区別しておくーの強調とともに、カタル
ーニャの歴史家が好んでこの言葉「フランス人戦争」
を使用するようになったことは間違いない。フランコ
時代にあって杜会経済史学の立場からマドリードの伝
統史学を批判したビセンス・ビーベスもまた、晩年に
(13)
はこの用語を使っている。
もっとも、一九七〇年代までは、「スペイン独立戦
争」の時期におけるカタルーニャの地域的特性が強調
され、事件史としてはいくつかの実証的研究が現れる
竈)
ものの、カタルーニャ・ナショナリズムとの関わりで
この戦争の時期の人々の態度・意識を検証しようとす
る研究はほとんど見られない。おそらく、ソレ・トゥ
ヲに代表されるように、近代的カタルーニャ主義は、
マドリードの政治支配に対するカタルーニャ・ブルジ
ョワジーの自己主張として出発したと捉えられ、それ
以前のカタルーニャ主義は保守的伝統と結びつくもの
^15)
であったとする解釈が支配的であったからであろう。
つい最近のカタルーニャ主義的な概説書のなかでも、
「フランス人に対する戦いは、(スペインと)一体的で
あり、カディス議会が召集されて最初の憲法が制定さ
れたとき、カタルーニャの古くからの諸権利を擁護す
命)
ることもなかった」といった記述がなされている。
いわぱ階級的視点に立ったカタルーニャ主義の分析
に対しては、ククルーイが歴史的伝統を重視する立場
(〃)
から批判を加えているが、「スベイン独立戦争」をカタ
ルーニャの民族体意識の形成のための画期と見る主張
は、近年、有力になっている。バルセルスは、この戦
争がアンシャン・レジームの崩壊にとってだけでなく、
「カタルーニャ人の特殊な集団意識の発展」にとって
(18)
基本的エビソードであったと述べる。一方、プーチは、
この戦争のあいだに「カタルーニャ主義の数々の表
明」が見られるとして、反フランスという意味でのス
ペイン的一体性があったとしても、同時にカタルーニ
ャの差異と独自性、そして自治を要求する動きも存在
^”)
したと主張する。
こうして、「スベイン独立戦争」から「フランス人戦
争」へと名称が変わることによって、カタルiニャ主
616
![Page 5: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/5.jpg)
{109) スペイン独立戦争と「国民意識」
義の表明が重視されることになったが、その内実をき
ちんと検討しておかなけれぱこうした解釈もまた、カ
タルiニャにとっての「歴史的神話」となってしまう
だろう。その論拠とされるものをもう少し詳しく見よ
、つo
二 「カタルーニャ主義」
の表明
まずは、簡単に「フランス人戦争」の経過を追い
^20)
たい。ゴドイとフランス政府のあいだに結ぱれたフォ
ンテーヌブロー条約にもとづいて、ポルトガルヘ進軍
するという名目でフランス軍がカタルーニャに入った
のは一八○八年二月九日で、バルセローナには同月一
三日に駐屯を始めるが、二九日には突然シウタデリャ
とモンジュイックの要衝を占拠して、事実上同市の占
領を実現した。市当局および方面軍司令官はこれに逆
らうことなく治安の維持に努めるに過ぎない。三月に
はアランフエス暴動が起こってカルロス四世の退位と
寵臣ゴドイの失脚、そしてフェルナンド七世の即位が
行なわれるが、五月から六月にかけて、ナポレオンは、
新たに自分の兄ジ冒ぜフをホセ一世としてスベイン国
王に即位させ、スベインのフランスヘの従属さらには
併合の意図を明白にした。引き続きバルセローナは、
一 ^21〕
一八一四年春までフランス勢力の下におかれるが、占
領を免れていた諸都市では、五月二八日に結成された
リェイダのそれを皮切りに、低抗組織として地区評議
会が結成され、やがて六月一八日には地区評議会の結
集体としてカタルーニャ最高評議会がつくられた。し
かし、戦闘はフランス勢力に有利に展開し、カタルー
ニャ最高評議会は各地を転々とせざるを得ず、一八〇
九年=一月のジローナ陥落に次いで、リェイダ、トル
トザ、タラゴナも降伏し、一八一二年にロシア遠征の
ためにナポレオン軍そのものが動揺をきたすまでは、
有効な軍事的反撃を行なうことができなかった。その
後は、イギリス軍の支援を受けてスペイン正規軍が活
動を盛り返し、ゲリラ戦も活発化するなかで、フラン
ス勢力の支配域は次第に縮小していき、やがてその最
終的撤退を迎えた。なお、 一八一二年に制定された憲
法の規定に沿って、同年二月カタルーニャ地方議会
617
![Page 6: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/6.jpg)
一橋論叢 第110巻 第4号 平成5年(1993年)10月号 (110〕
(22)
(ディプタシオ・プロビンシアル)がつくられ、カタル
ーニャ最高評議会は解散した。一八一四年五月のフェ
ルナンド七世の復位によってこの制度も廃止されたこ
とは言うまでもない。
さて、この時期のカタルーニャ主義を強調する歴史
家が、フランス占領下の地域での親フランス派の人々
の動きに注目している点は興味深い。なかでも一八一
〇年、オジュロ⊥兀帥のもとで進められた行政改革を
支えたトマス・プーチの思想が注目されており、彼が
中世カタルーニャの栄光と独自の伝統を擁護し、「カ
タルーニャ語は、カスティーリャ語(スペイン語)よ
りもずっと豊かで甘く、表現も豊富で思慮深いもの
だ」として、ナポレオン法典をカタルiニャ語に訳す
ことを積極的に進言したことが明らかにされている。
そして、こうした言動を受けて占領行政に携わ.ったフ
ランス人は、「カタルーニャ人は、(カタルーニャ人と
しての)民族的誇りをもづており、彼らはスペイン人
より勝っていると思っている。彼らのカスティーリャ
人に対する怒りと憎しみは、表現の仕様もないほどで
あるLといったことを本国へ報告したことが確認され
(23)
ている。また、フランス支配地域では、カタルーニャ
語で書かれた新聞が発行されており、カタルーニャ語
(刎)
化の進行が紛れもない事実とされる。
このことは確かに、スペイン王位継承戦争(一七〇
一~一四年)で地域諸特権(フエロス)を廃止された
カタルーニャで、独自の政体主言語を復活させようと
する意識が少なくとも一部の人々によって抱かれ続け
ており、フランス勢力がこうした意識を利用しようと
したことを示す。しかしながら、ナポレオン側のこう
したカタルーニャ意識への譲歩は、やがて一八=一年
二月に行なわれた、スベインから切り離してカタルー
ニャをフランス内の四つの県とする領土併合政策の一
(妬)
貫であったことは間違いない。そしてこの際に、何故、
反フランス意識が表明されなかったのかを間う必要も
あるだろう。一六四〇年代のカタルーニャの反乱では、
反スペイン的カタルーニャ意識とカタルーニャ政体の
独自性の強調は、杜会的支配層にとっては民衆反乱が
(㏄)
杜会反乱に転化することを防ぐための道具であった。
618
![Page 7: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/7.jpg)
(111) スペイン独立戦争と「国民意識」
そうした支配層ーエリオヅトの言葉では「政治的国
民」-が主張するカタルーニャ民族体の主張は、ど
こまで民衆レベルでの民族体意識と重なるのか、我々
は十分に注意する必要があるのではないか。
そのことは、反ナポレオン側地域でのさまざまな表
明についても言えることである。一八二二年に入って
カディス議会において異端審問制度の廃止が問題とな
ったとき、この廃止に反対するカタルーニャ選出の議
員たちの多数は、議論の中断を求める。その論拠とい
うのは、カタルーニャは伝統的.に異端審問制度を支持
しているので、予めカタルーニャに戻って賛否を問う
必要があるというものであった。これは、まさにアン
シャン.レジーム的利害の擁護とカタルーニャ地域体
の独自性の主張とが結びついたものであって、このよ
うなかたちでのカタルーニャ主義の表明のあったこと
(27)
も我々は考慮にいれなけれぱならないのである。一方、
同じようにカディス議会の議員となった穏健派のカプ
マー二は、「カタルーニャによって、あるいはガリシア
によって選出された議員はいても、カタルーニャの、
あるいはガリシアの議員はい一ないLと述べて、議員が
「国民」の代表であって、「あれこれの地方」の代表で
(㎎〕
はないことを主張している。しかし他方で彼は、「こ
れら(アラゴン人、バレンシア人、ムルシア人等々)
の小さな諸国民(量qo烏ω)から俸大な国民(屋q9)
が構成される」として、スペインの各地方がもつそれ
(29)
ぞれの一体性が尊重されねぱならないとする。
一一一民衆と戦争
各地の民衆の蜂起について精力的に研究を進めてい
るモリネル・プラダは、市町村の評議会の結成は、一
方では、反フランスの低抗を組織するためであるが
ー一様に「宗教、国王、祖国」をスローガンとして
掲げているL他方では、既存の秩序が動揺する中
で民衆の動きをそうした低抗へと鶴導することによっ
て杜会秩序の温存を図るためであったことを明らかに
^釦)
している。例えぱ、最初に結成されたリェイダの地区
評議会は、全ての諸身分の代表二九人によって構成さ
れリェイダ司教を議長とした。そして、「侵略者のた
619
![Page 8: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/8.jpg)
一橋論叢 第110巻第4号 平成5年(1993年)10月号 (112〕
めには鋸一文渡さないLと述べてフランス勢力に対す
る低抗を毅然と表明したが、同時に、「騒擾と騒乱は無
政府状態を誘うものである」として民衆の当局への服
従と公安秩序の維持を強く要求した。さらに、カタル
ーニャ最高評議会も、当初から、領主的諸貢租を含め
てアンシャン・レジームの諸権利と財産を擁護する立
場に立っており、その結成後まもなくして治安を維持
し租税を徴収するために各地区に一五人規模の兵隊に
よる警備を命じている。このように、低抗組織11評議
会と民衆とのあいだには利害対立と杜会矛盾が含まれ
ていたことに注意しなければならない。
また、モリネル・プラダは、こうした状況のなかで
「カタルーニャ主義」がスペイン正規軍への徴兵(キン
タス)への反対として表明されていると指摘する。す
なわち、一八〇九年一一月頃に流布した、「カタルーニ
ャの民衆よ、武器をとろう。我々の起こす轟音は、ス
ペイン人将校や高慢なフランス人を脅えさせるだろ
う」と述べた「カタルーニャの虎」の署名のあるバン
フレット類に注目して、敗北を重ねるスペイン軍隊に
失望して、かつての伝統であったカタルーニャ民衆の
^31〕
武装を要求することを表明したのだと捉えている。そ
して、民衆と正規軍の関係が悪化し、軍隊に徴兵され
たカタルーニャ人の脱走が甚だしかったことを、カタ
ルーニャの独自性の主張のひとつの現れとみるので
^32)
ある。
しかしながら、民衆の忌避は、スベイン正規軍への
徴兵だけにとどまらなかったことをカナレスの研究は
^33)
指摘する。彼は、フランス勢力に対する戦いの「一体
性」、戦争の集団的偉業といったことを疑問視して、兵
隊の徴募と免除、脱走などの具体的数字を追うという
作業を進めるが、正規軍からの脱走が場合によっては
部隊員数の三割にものぼっていたという事実を明らか
にする一方、カタルーニャ人自身が指揮した伝統的な
民兵隊(ミケレヅト)、予備隊、そしてカタルーニャの
低抗の「神話」に常に言及される自警団(ソメテント)
の場合にも、脱走は一般的現象であったことを指摘す
る。従って、民衆の兵役拒否という現象があって、そ
れに重なるかたちで、スペイン王位継承戦争で失われ
620
![Page 9: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/9.jpg)
1113) スペイン独立戦争と「国民意識」
たカタルーニャの伝統-カスティーリャの軍隊には
徴募されないという特権1の回復要求が現れたと解
’
すべきことを、このことは示唆しているのである。
おわりに
六年間にわたる「スベイン独立戦争」の意味は、の
ちの歴史学によって、あるいは「歴史的記憶」を現在
に利用しようとする人々によって、さまざまに解釈さ
れてきた。「独立」という名称そのものが「スベイン国
民意識」の高揚の意図と関わって定着していったので
ある。さらに、「スベイン国民意識」に反発する力タル
ーニャでは、「フランス人戦争」という用語を馴染みあ
るものにしている。いずれにせよ、この戦争は、アン
シャン.レジームという杜会矛盾をかかえつつ生活す
る人々の生活圏に、名目はいかなるものであれフラン
スという外国の軍隊が侵入して、その生活を脅かすと
いうでき、ことであったことを忘れてはならない。当然
のことながら、人々の抱く意識は、それぞれの杜会階
層的立場に応じて、反フランス的であったり、反領主
制的であったり、反徴兵的であったり、反カスティー
リャ的-カタルーニャの一部ではーであったりし
た。そうした諸意識の錯綜を統合するもの、それが、
さしあたり「宗教、国王、祖国」であったのだろうか。
我々は、六年間の「戦争の悲惨」の実態に史料的に迫
^幽)
っていく必要があるだろう。
(1) >ω鼠目勺①饒P-O限F一きミ§…、昏嚢ざき昏
壕s§一幅&ζα貝}胃8一〇墨L㊤雪一p曽蜆.
(2)く昌員雪賢9..甲α冨o凹5昌oき邑ま目
○名簑o『、,一3昌雰ざきき喜亀§一冑&巨αコ
昌昌竃まく君霧試巴§一霊秦一〇員岩鼻夢。。--O.
(3) この点に関しても、ヴィラールの指摘が参考にな
る。彼は二〇世紀スペインの抱えた構造的不均衡の一
つとして地域的不均衡をあげている。軍一5o§ミ
、蓼§“(-§--§)一蟹募二竃9君.崖-曽(邦
訳『スペイン内戦』白水杜、一九九三年、二二-三〇
頁)を参照。
(4) その全体的問題状況については、ζ◎冨長9
0-印口o9..-”.勾凧くo巨巨o目oωoρ智◎斥.庄①Hooooo帥Ho0Hド
雪卑oマ①g向ω8岸冒窃.、L彗ω卜s射§oぎ討§曽ミs泳“
621
![Page 10: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/10.jpg)
(114〕一橋論叢 第110巻第4号 平成5年(1993年)10月号
ミ㎞§ぜきぎ、§暑§“§ぎ-oo轟曳-曽ト
勺曽貢岩O.Oら甲畠-H塞が参考となる。なお、「スベイ
ン独立戦争」の時期にカディスでは最初の近代議会が
開かれて一八二一年憲法が制定される。このスベイン
自由主義の動きについても従来とは異なって、その隈
界性を見ようとする評価が現れている。この点に関し、
ては、拙稿「スペインの自由主義とカディス議会1
「出版の自由」をめぐってL(遅塚忠躬他編『フランス
革命とヨーロッバ近代』同文舘出版、一九九三年一〇
月刊行予定、所収)を参照されたい。この戦争の全体
的経過については、拙稿「炎のイベリア半島-スペ
イン独立戦争とウェリントン」志垣嘉夫編『ナポレオ
ンの戦争』(講談杜、一九八四年、所収)で概観した。
最近の優れた通史的成果に、Uミo胃一〇畔胃p卜s
9ミ§きsぎ曇“ミ昏ミ〔ざ一竃凹αユ〇一岩oooがある。
この時期を含めて、スペインのアンシャン・レジーム
解体期をめぐる諸問題と文献については、>く目揮
宕彗由昌少、.雰君ぎ9昌Oi昌-雪8(-べ3.HO。崖)・
里ωξo巨;・宵螢8..一8旨き§、ミ§言ミ§}
良§§きき“辻s一…邑H員H㊤o。㊤一電-畠-旨㊤を参照。
一5一臣寝3ω害品oω…凹昌県.、向=睾彗冨邑8ε宣
】)oω宗;ξo、、一雪トo§き、9轟ミ8ぎ膏§s良o§、
向、b畠きξo-吻§ま§きミ雪一竃ぎ『員岩竃ら甲
トo㊤-{].ド
(6) ロンガレス・アロンソは、「五月二日」事件がのち
に神話化された大きな理由として、それがスペインの
中央部の「首都」で起こった事件であったということ
を指摘している。と同時に、この事件からアストゥリ
アス地方評議会の反フランス宣戦布告まで三週間以上
が経過しており、中央から地方への低抗の波及という
図式は、事実経過として誤りだとしている。■昌O目實窪
≧8ωoこ①昌9。.目N守昌簑oく窒竃5α旨o冒壷
碧Rsく①二睾冒$ま8片◎宗一塞肩oi昌μ蕩..一8
§ミもp竃㌣お①。その一方で、モラレス・モヤは、バ
ルセローナ・オリンピックに表れたカタルーニャ.ナ
ショナリズムに対抗して、いま現在、全国民的な「歴
史的追憶の場」としての「五月二日」の意義を強調し
たいとする旨の発言をしている。竃o冨-鶉 昌o着一
>鼻冒亘、.-凹雪ω8ユo唄良冒彗耳①9Uoω宗竃ξo..一
8§ミ。召、ω岩-竃o。.とくに¢.ωミを参照。自治州体
制となってもなお民族主義問題を抱える多民族.多言
語国家スペインの苦悩を表す言葉と言えようか。
(7) この点に関しては、雪o轟管9§。ミ。もP胃-雷一
竃o-目實軍ぎ単>巨o邑9..-凹冒oま轟qgo①5
丙睾o巨q旨窃寝ぎ5ま畠8、.し昌ω卜8完“§ぎ討o§
§“㌻亀§}ミきぎ』§“ぎ§ぎ塞~、ざき“§姜
622
![Page 11: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/11.jpg)
スペイン独立戦争と「国民意識」(115〕
吻雪ぎ勺胃貝畠旨も軍-Nべ-畠o。らの強調するところで
ある。
(8)U巨昌■9、、5垣①争<9U8宗竃ξo、,一8
トh雰昏、9奏§Oぎ膏§§ざ§、・・…“OP雷甲蜆違-
さらにデュフールは、かなりの聖職老が親フランス側
に立ったことなどを論拠にして、この戦争の全体にと
っても、聖職考の役割や「宗教的感情」を過度に強調
することを戒め、その一方で、戦闘の地方的性格から
して、諸地方の「地方主義的感情」の強さを指摘して
いる。-庄.一..}O目『O=9-①ω①ωり與管O-ωOユHO目↓-昌ω庁ω
印ヨ一鶉 8鼻8 z印oo-gえ.,一トs 暑亀§沫 ミ
ξO帝§一>艮-①宇勺『Oく①目09-㊤OO戸O冒ω-べ-ωωト.だが、
聖職老の動向の再検討がただちに、これまで主張され
てきた反フランス戦争における民衆の「宗教感橘」の
強さの見直しにつながるのかは疑問である。
(9) 最近の研究として、;o;胃睾生P>。、.5ω『①-
肩篶邑昌霧宗;ま竃貸o昌O凹邑邑凹、、一9ξ雪
き、9嚢O§膏§§“§良……らPお㌣畠卜
(10) すでに、「国民」、「祖国」といった意識の錯綜につ
いては、ヴィラールの問題提起がある。<旨■p
.、霊巨:;豊昌ま易5<OS巨曇冨宗5碧①罵
o.ぎ馬罵邑彗8鶉寝管〇一①..一トミ§雲婁ざ喜ミs昏
ざ氏§oぎ弐§ぎミsぎ一〇g1・急o.岩戸君.8ω-
轟も(カタルーニャ語訳で、ト嚢嘗㎞き§ざ9ミミ§
き、}夷帝kミ一}胃8-O量L㊤べω一〇戸畠ω-H⇒に所
収)。また、フランス勢力H占領者に対するスベイン
人11被占領老の低抗といっても、低抗という「一体性」
の背後に諸階層は、それぞれにさまざまなイメージを
描いていたことをヴィラールは指摘する。軍一、.O篶--
○冨ω凹名g房o①-.o8=o印庄o目g宗5忍9ω3昌①①目
雰寝管①昌ミ竃g豊8昌oω宗之名oH①罫..一ま易
9ミ一§苧08§跨-§--OO旨一零妄竺09岩員暑.
sH,Ns(カタルーニャ語訳で、㌧§雷。…:一〇p竃-
H呂に所収)。彼によれば、「政治的に自覚した積極的
少数老はナポレオンとアンシャン・レジームに対して
同時に戦った。熱狂的な大衆は、ナポレオンが突然の
新しい体制を代表しているが故にナポレオンに対して
戦った。フランス勢力の行なう徴用によって彼らへの
憎しみと愛国心は駆り立てられ、二つの異なる特徴の
政治的希望はますます大きくなった。そして、社会の
諸階層に通常見られるイデオロギー的傾向をもとに
人々のさまざまな行動選択を分類することは必ずしも
容易ではない。」(ト嚢雪--も」胃)
(u) }o目一凹目戸-oωop。.o目①昌與庄9}H顯目oω9①目=①胃凹o①
冒-邑君g箒昌亘管o冒}目遷o-&邑s二昌鶉9αo①
9彗ωOま8昌①貝①巴、、一トS§ミ一昌員H員H竃O。一暑1
623
![Page 12: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/12.jpg)
{116〕一橋論叢 第110巻第4号 平成5年(1993年)10月号
§-曽一
(12)Oぎ一彗・竃胃貫霊一〇…一①;一’雰ざ辻夷慧k
§艮oss淳§o慧亀高g-婁--的轟一雲凹守巨=畠oo坪oo-
].oo--o杜.
(13) 勺o箏冨目PS.h“、二P塞-
(14) 代表的なものに、O胃8冒『且鼻盲ぎ9婁、oき
菖、導§昏o町ざぎ§§ミ吻暗ざ薫一↓o昌〇一トs
寒“ミsきざぎ曇§昏§貴}胃8-冒p岩雪一髪胃-
s守『-雲σ印こoφ阜o町ざ、ミ§§“、、“ミ冬、§§o膏qミ♪
}與890冒P-㊤べO〇一
(15)o.o示↓膏印こ冒負9ざぎ募§こ§きミ}ミー
寒§.旨雲“き、ミ昏ざ尋ぎ困螂§一〇員H§・カ
タルーニャ・ナショナリズムの起源の議論に関して、
}巴8=9>亭①貝b,ss,os亀涛§o§ざ§一呂邑ユp
畠芦君-崖-岩を参照。
(珊) O団oo目P-oωoO峯.一ひ§昏沫}身}易昏〔ざざ、ミ§一
}四8色o目戸岩oogoo.■蜆-HH①-
(17) O=昌昌旨一戸一〇曇§“§ミ§雪、雨、昏き§淳§“
§§貴}胃8-o畠し竃o■この点に関しては、巾巴8--9
§ーミー一署.畠-8を参照。
(18) }竺8=9>’9ざぎ§Sミ膏§o§§L一吻時ざ
薫一;與oユp畠ミ一戸畠.
(19) }巨堕=巨ω;胃ζ』9、、-毫蕩ぎ畠寝-oo。邑8-
○蛯①ω饒α 目凹9◎目凹- 凹 O凹片巴目目く閂、、一〇ぎω 卜s “§§}、
§SO膏qミ§一}①二斗O目戸HOO〇一〇?雷-S1
(20) 経過そのものについては、注14であげた文献に詳
しいが、簡潔に全体状況をつかむには、}昌一彗p-、一
5、昏、ざミ訟O鳶“§}ざざ麦ぎミ汀§鼠(-轟N1
-的轟)一}彗8-o目戸H竃o。(くo巨雪<宗雰蓬き
Ωoざぎ§さ昌『尉己葭o①『勺-①目①<=凹『)一〇p崖蜆1Ho0Hが
参考となる。
(21) 占領下のバルセローナ市の経過については、…雪.
○印詩H-碧ず戸-一望§Wざ-§、ミ§ミ膏ざO§SO蟹S
書ミ、§(-OO§1-的-へ)一ζ凹~巨岩おがある。
(22一ω弩雪;墨一貴旨夢槧ミ、§ぎミ
昏Ω-ざぎミ忘8§ぎoo婁辻§9へきΩ這汀(-的-~1
畠忘}-§--竃)一}胃o9昌pH渇Hを入手したが、
本稿では利用するに至らなかった。カディス議会との
関係でこの制度の検討は、別の機会に行ないたい。
(23)
(24)
(25)
(26)
勺三〇目一§’}ごo戸$-昌1
§“、一〇-べN一
}o鼻§p§ミ.一筍」8--昌を参照。
向豪o員旨巨匡-一..寄くo巨ま目彗OO冒庄…ξ巨
霊身冬O宗∋冒昌温、,一麦、§~麦§㌻;.貞
崔箪君.寄-gを参照。
(27) 肉o員顯{>巨巨竃一巨昌9。.~■-す鍔急巴管目
624
![Page 13: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022050514/5f9df851255d7812017af2ca/html5/thumbnails/13.jpg)
スペイン独立戦争と「国民意識」(117〕
o『〇一〇〇”“巴印目げ昌①Oo旨巨o印O凹庄尿~、.-卜Se“ミ、目旦ヨ.
旨ω一岩OOO〇一〇P竃-彗1
(28) §ミ’o.蟹.
(29) }昌3畠一§.ミ’P畠oに引用。カプマー二の思
想については、9彗一丙印昌昌一■8s一竃胃一曽p
..>9o邑宗O署昌彗、9肩-§R目oま-090雪竃-
昌昌一筥葦os邑岬冒a①ヨ,.一昌畠曽、§竃§§、
曽、導o§ざ鳶き、吻構帝k§亀§蔓亀ミ吻亀や奏一
}彗8一〇昌二竃。。一筍1-ω-きを参照。
(30)竃o=9『軍ぎP>9昌員、.…〇三ま昌8ω
oo〇三胃窪80顯S巨饒印O=冨巨①5管①胃印O①55ま-
肩邑彗o5..一夢ぎミ畠き雰ざぎ豊、ミし㌣Nω㌧畠“
OP墨-き.この論文を含めて彼の一連の仕事は、
…o旨鳥二勺轟庄p>巨o目一旨9ざぎ§§§涼討ミ亀ざ
き§“§良qざ§§(-oo轟山曽~)一}彗8-昌戸岩ooo
に縄められた。本稿ではこの書物を利用する。
(31) さミ’oP3-雪.
(32) §ミj℃戸8-胃一胃-oご巨-一.、-麸8肩『ε色o畠ω
…….、一01含N-
(鎚) Oφコ巴①9 原一①σ印貝 。、勺印↓ユo巨ω昌o < ら①ωo『qα目
○目『凹目↓o5血o官o『H団α①-凹-昌匝①O①目Oo目o5①目O”↓巴一』饒印.、-
討§涼§きミ亮ミ§き雰妻㌧o昌o×曽月岩ooべもp
ミー-ω8一5’ 、.-国 冨色ω詰目o討 印鼻罵量目o①窒 曽
9巨昌着一①ωε昌庄.巴O日冒ω8目君H3篶巨ω..一
トS§ミ一目O昌」畠し㊤OOO〇一〇〇-墨-曽.
(34) 「スペイン独立戦争」に従軍した人々の回想録は
これまでに利用されているが、当時の人々の日記類は、
ようやく掘り起こされつつある。それらは、実態に接
近するうえでの重要な史料となろう。例えば、巨一
、.ζ冒凹く赤a昌艀冨竺o①5o=彗轟庄9句量目o野二顯
巨9o。『旨宗}島饒昌O。昌}oω9…O彗宗昌彗=.,一完§ミ.
§員曽一岩OOO。らPデ亀一ω{冒O箏-↓印冒伽9>津O具。.-印
管實S宗一軍彗&ωω晶昌ω-窃冒O昌αま二、冒募雪.
3け膏-8胃品-昌昌甘守9Hg即、,一トs§ミ一昌昌」H仰
岩ooo〇一〇p§-ミ.
(東京外国語大学助教授)
625