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スペイン独立 1カタルーニャ (105) スペイン独立戦争と「国民意識」 はじめに 「五月二日の事件は、スペインの全ての地方に筆舌 に尽くし難い憤激を引き起こした。そして全ての地方 は自主的にそれぞれに備えていた部隊を武装させて、 祖国(バトリア)の独立を擁護するために、フランス 勢力に対する蜂起を開始した。」 これは、フランコ独裁時代(一九三九〜七五年)に スペインで版を重ねた『スペイン史概説』の一節で (1) ある。五月二日の事件とは、一八O八年のこの日、マ ドリードの民衆が、「フェルナンド七世万歳! フラ ンス人に死を!」と叫んで、同市に駐屯していたナポ レオン派遣のミュラーの軍隊に対して蜂起し ランス軍によって過酷に鎮圧されたでき、ことを指 いる。上記の短い叙述から端的に窺えるように、伝統 史学によってこの事件は、「スベイン独立戦争」、すな わち、フランス勢力によって祖国スペインを躁踊され た人々が自発的・自然発生的に愛国心から繰り広げた 六年にわたる独立戦争の開始のでき、こととして描かれ てきた。フランコ政権が人々の歴史意識を左右する二 とに腐心していたことはヴィラールの鋭く指摘すると (2) ころであるが、各地方が「宗教、国王、祖国万歳!」 をスロiガンに掲げて、ナポレオンの軍隊と戦った 「スペイン独立戦争」は、カトリック的伝統とスペイン 613

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Page 1: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて

スペイン独立戦争と「国民意識」

   1カタルーニャに関する最近の諸研究を中心に

立  石

博  高

(105) スペイン独立戦争と「国民意識」

はじめに

 「五月二日の事件は、スペインの全ての地方に筆舌

に尽くし難い憤激を引き起こした。そして全ての地方

は自主的にそれぞれに備えていた部隊を武装させて、

祖国(バトリア)の独立を擁護するために、フランス

勢力に対する蜂起を開始した。」

 これは、フランコ独裁時代(一九三九~七五年)に

スペインで版を重ねた『スペイン史概説』の一節で

(1)

ある。五月二日の事件とは、一八O八年のこの日、マ

ドリードの民衆が、「フェルナンド七世万歳! フラ

ンス人に死を!」と叫んで、同市に駐屯していたナポ

レオン派遣のミュラーの軍隊に対して蜂起したが、フ

ランス軍によって過酷に鎮圧されたでき、ことを指して

いる。上記の短い叙述から端的に窺えるように、伝統

史学によってこの事件は、「スベイン独立戦争」、すな

わち、フランス勢力によって祖国スペインを躁踊され

た人々が自発的・自然発生的に愛国心から繰り広げた

六年にわたる独立戦争の開始のでき、こととして描かれ

てきた。フランコ政権が人々の歴史意識を左右する二

とに腐心していたことはヴィラールの鋭く指摘すると

    (2)

ころであるが、各地方が「宗教、国王、祖国万歳!」

をスロiガンに掲げて、ナポレオンの軍隊と戦った

「スペイン独立戦争」は、カトリック的伝統とスペイン

613

Page 2: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて

一橋論叢 第110巻 第4号 平成5年(1993年)10月号 (106)

愛国主義の称揚にとって恰好の材料であったのである。

 しかしながら、こうしたかたちで「スペイン独立戦

争」の「国民的神話」化が行なわれたことは、逆に、

スベインという近代国家が、二〇世紀に入ってもなお、

「国民国家」としての統合を十分に達成できなかった

            ^3)

ことの裏返しではないだろうか。歴史的事実としての

「スペイン独立戦争」は、近年の研究によってますます

                   (4)

その複雑さと多様性が明らかにされてきている。ちな

みに一九九二年五月に開かれた「五月二日」をめぐる

国際会議では、二の蜂起事件の自然発生的性格そのも

           ^5)

のが疑問に付されるぱかりか、この事件と諸地方の蜂

                ^6〕

起の因果関係もあらためて問われている。さらに、こ

の戦争はその過程を通じてますます「無神論者ナポレ

オン」に対する低抗とカトリック擁護という宗教的性

             (7)

格を帯ぴていったとされるものの、当初このマドリー

ド民衆の蜂起に対して教会当局や異端審問所は「卑し

い民衆のけしからぬ騒擾」として弾劾する態度をとっ

         (8)

た事実が明らかにされるなど、ここでも神話の解体が

大きく進展している。

 こうした見直しの中で、フランコ体制の崩壊後、歴

史的地域体ないし民族体(ナシオナリダー)と規定さ

れるに至ったスペイン国内の諸地域、とくにカタルー

ニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国

民意識」を抱いたかということもまた問題にされて

(9)

いる。「国民意識」の高揚ということ自体をとりあげ

るにしても、それがいかなる階層といかなる地域の

「国民」の意識であるのかを問うことが必要だからで

(10)

ある。そこで、本稿は、紙幅の制約もあることからカ

タルーニャに絞って、最近の諸研究を検討するかたち

をとりながら、カタルーニャの諸階層にとって反ナポ

レオンの戦争とはいったい如何なるものであったのか

を考察したい。何故ならぱ、スベインのなかで経済

的・杜会的に重要な位置を占めたカタルーニャという

地域体の独自の意識と運動の展開を見ていくことによ

って、近現代史におけるスペインという「国民国家」

の形成のあり方とその性格を考える上での極めて重要

な示唆が与えられると思われるからである。

614

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(107〕 スベイン独立戦争と「国民意識」

「スペイン独立戦争」と

「フランス人戦争」

 一八○八年から一八一四年にかけての戦争は、初め

から「スペイン独立戦争」と呼ぱれていたわけではな

                   (u)

いことは、フォンターナが明確に示している。すなわ

ち、同時代の人々は、スペインに侵入したフランス軍

に対する蜂起であると同時に、カルロス四世とその寵

臣ゴドイの専制政治に対して、王権を制約する新たな

政体(コンスティトゥシオン)を樹立しようとしたの

であり、「蜂起」、「戦争」という言葉の他に、とくに自

由主義老たちは「スベイン革命」という言葉を使って

いた。だがナポレオンによってフランスに止められて

いたフェルナンド七世が、一八一四年五月に絶対主義

的な国王復帰を果たすと、この戦争はフランス勢力に

よって纂奪された王位を取り戻すためのナポレオンに

対する戦いにその意味を限定されて、「(反)ナポレオ

ン戦争」という用語が好んで使われるようになった。

しかし、スペイン国家が旧勢力との妥協による「改革」

によって漸次的にアンシャン・レジームを廃棄して

「国民国家」を打ち立てていく過程で、「スペイン独立

戦争」という用語が定着していった。すなわち、ナポ

レオン戦争は「スペイン国民意識」の覚醒と高揚ので

き、こととして理解され、またそのように喧伝されたの

である。この点は、スペイン・ナショナリズムと歴史

学解釈の関係を追ったシルハーノらの研究も確認する

    (12)

ところである。以後、現在まで「スペイン独立戦争」

の名称は-その歴史的意味の評価は別にして-」

ほぼ共通に使われている。

 いま、「ほぽ」と述べたのは、実はカタルーニャで

は、近年になってますますフランス人に対抗する戦争

として、「(反)フランス人獣争(5o亮胃}宗-津彗・

○艀)」という用語が使われるようになっているからで

ある。フォンターナは、この言葉が「民衆のあいだに

起源を持つ」と言うが、いつ頃から使われだしたのか

には言及していない。いずれにしろ、二〇世紀に入っ

ていスベイン・ナシ目ナリズムの「国民意識」に対抗

する形で、カタルーニャ・ナショナリズムの「民族体

意識」-カタルiニャが独自の「国民国家」を形成

615

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一橋論叢 第110巻 第4号 平成5年(1993年)10月号 (108〕

しようとする意識ではないので、ここではとりあえず

このように区別しておくーの強調とともに、カタル

ーニャの歴史家が好んでこの言葉「フランス人戦争」

を使用するようになったことは間違いない。フランコ

時代にあって杜会経済史学の立場からマドリードの伝

統史学を批判したビセンス・ビーベスもまた、晩年に

         (13)

はこの用語を使っている。

 もっとも、一九七〇年代までは、「スペイン独立戦

争」の時期におけるカタルーニャの地域的特性が強調

され、事件史としてはいくつかの実証的研究が現れる

 竈)

ものの、カタルーニャ・ナショナリズムとの関わりで

この戦争の時期の人々の態度・意識を検証しようとす

る研究はほとんど見られない。おそらく、ソレ・トゥ

ヲに代表されるように、近代的カタルーニャ主義は、

マドリードの政治支配に対するカタルーニャ・ブルジ

ョワジーの自己主張として出発したと捉えられ、それ

以前のカタルーニャ主義は保守的伝統と結びつくもの

                     ^15)

であったとする解釈が支配的であったからであろう。

つい最近のカタルーニャ主義的な概説書のなかでも、

「フランス人に対する戦いは、(スペインと)一体的で

あり、カディス議会が召集されて最初の憲法が制定さ

れたとき、カタルーニャの古くからの諸権利を擁護す

                    命)

ることもなかった」といった記述がなされている。

 いわぱ階級的視点に立ったカタルーニャ主義の分析

に対しては、ククルーイが歴史的伝統を重視する立場

         (〃)

から批判を加えているが、「スベイン独立戦争」をカタ

ルーニャの民族体意識の形成のための画期と見る主張

は、近年、有力になっている。バルセルスは、この戦

争がアンシャン・レジームの崩壊にとってだけでなく、

「カタルーニャ人の特殊な集団意識の発展」にとって

              (18)

基本的エビソードであったと述べる。一方、プーチは、

この戦争のあいだに「カタルーニャ主義の数々の表

明」が見られるとして、反フランスという意味でのス

ペイン的一体性があったとしても、同時にカタルーニ

ャの差異と独自性、そして自治を要求する動きも存在

     ^”)

したと主張する。

 こうして、「スベイン独立戦争」から「フランス人戦

争」へと名称が変わることによって、カタルiニャ主

616

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{109) スペイン独立戦争と「国民意識」

義の表明が重視されることになったが、その内実をき

ちんと検討しておかなけれぱこうした解釈もまた、カ

タルiニャにとっての「歴史的神話」となってしまう

だろう。その論拠とされるものをもう少し詳しく見よ

、つo

二 「カタルーニャ主義」

の表明

 まずは、簡単に「フランス人戦争」の経過を追い

^20)

たい。ゴドイとフランス政府のあいだに結ぱれたフォ

ンテーヌブロー条約にもとづいて、ポルトガルヘ進軍

するという名目でフランス軍がカタルーニャに入った

のは一八○八年二月九日で、バルセローナには同月一

三日に駐屯を始めるが、二九日には突然シウタデリャ

とモンジュイックの要衝を占拠して、事実上同市の占

領を実現した。市当局および方面軍司令官はこれに逆

らうことなく治安の維持に努めるに過ぎない。三月に

はアランフエス暴動が起こってカルロス四世の退位と

寵臣ゴドイの失脚、そしてフェルナンド七世の即位が

行なわれるが、五月から六月にかけて、ナポレオンは、

新たに自分の兄ジ冒ぜフをホセ一世としてスベイン国

王に即位させ、スベインのフランスヘの従属さらには

併合の意図を明白にした。引き続きバルセローナは、

     一                   ^21〕

一八一四年春までフランス勢力の下におかれるが、占

領を免れていた諸都市では、五月二八日に結成された

リェイダのそれを皮切りに、低抗組織として地区評議

会が結成され、やがて六月一八日には地区評議会の結

集体としてカタルーニャ最高評議会がつくられた。し

かし、戦闘はフランス勢力に有利に展開し、カタルー

ニャ最高評議会は各地を転々とせざるを得ず、一八〇

九年=一月のジローナ陥落に次いで、リェイダ、トル

トザ、タラゴナも降伏し、一八一二年にロシア遠征の

ためにナポレオン軍そのものが動揺をきたすまでは、

有効な軍事的反撃を行なうことができなかった。その

後は、イギリス軍の支援を受けてスペイン正規軍が活

動を盛り返し、ゲリラ戦も活発化するなかで、フラン

ス勢力の支配域は次第に縮小していき、やがてその最

終的撤退を迎えた。なお、 一八一二年に制定された憲

法の規定に沿って、同年二月カタルーニャ地方議会

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一橋論叢 第110巻 第4号 平成5年(1993年)10月号 (110〕

                  (22)

(ディプタシオ・プロビンシアル)がつくられ、カタル

ーニャ最高評議会は解散した。一八一四年五月のフェ

ルナンド七世の復位によってこの制度も廃止されたこ

とは言うまでもない。

 さて、この時期のカタルーニャ主義を強調する歴史

家が、フランス占領下の地域での親フランス派の人々

の動きに注目している点は興味深い。なかでも一八一

〇年、オジュロ⊥兀帥のもとで進められた行政改革を

支えたトマス・プーチの思想が注目されており、彼が

中世カタルーニャの栄光と独自の伝統を擁護し、「カ

タルーニャ語は、カスティーリャ語(スペイン語)よ

りもずっと豊かで甘く、表現も豊富で思慮深いもの

だ」として、ナポレオン法典をカタルiニャ語に訳す

ことを積極的に進言したことが明らかにされている。

そして、こうした言動を受けて占領行政に携わ.ったフ

ランス人は、「カタルーニャ人は、(カタルーニャ人と

しての)民族的誇りをもづており、彼らはスペイン人

より勝っていると思っている。彼らのカスティーリャ

人に対する怒りと憎しみは、表現の仕様もないほどで

あるLといったことを本国へ報告したことが確認され

 (23)

ている。また、フランス支配地域では、カタルーニャ

語で書かれた新聞が発行されており、カタルーニャ語

              (刎)

化の進行が紛れもない事実とされる。

 このことは確かに、スペイン王位継承戦争(一七〇

一~一四年)で地域諸特権(フエロス)を廃止された

カタルーニャで、独自の政体主言語を復活させようと

する意識が少なくとも一部の人々によって抱かれ続け

ており、フランス勢力がこうした意識を利用しようと

したことを示す。しかしながら、ナポレオン側のこう

したカタルーニャ意識への譲歩は、やがて一八=一年

二月に行なわれた、スベインから切り離してカタルー

ニャをフランス内の四つの県とする領土併合政策の一

           (妬)

貫であったことは間違いない。そしてこの際に、何故、

反フランス意識が表明されなかったのかを間う必要も

あるだろう。一六四〇年代のカタルーニャの反乱では、

反スペイン的カタルーニャ意識とカタルーニャ政体の

独自性の強調は、杜会的支配層にとっては民衆反乱が

                     (㏄)

杜会反乱に転化することを防ぐための道具であった。

618

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(111) スペイン独立戦争と「国民意識」

そうした支配層ーエリオヅトの言葉では「政治的国

民」-が主張するカタルーニャ民族体の主張は、ど

こまで民衆レベルでの民族体意識と重なるのか、我々

は十分に注意する必要があるのではないか。

 そのことは、反ナポレオン側地域でのさまざまな表

明についても言えることである。一八二二年に入って

カディス議会において異端審問制度の廃止が問題とな

ったとき、この廃止に反対するカタルーニャ選出の議

員たちの多数は、議論の中断を求める。その論拠とい

うのは、カタルーニャは伝統的.に異端審問制度を支持

しているので、予めカタルーニャに戻って賛否を問う

必要があるというものであった。これは、まさにアン

シャン.レジーム的利害の擁護とカタルーニャ地域体

の独自性の主張とが結びついたものであって、このよ

うなかたちでのカタルーニャ主義の表明のあったこと

                   (27)

も我々は考慮にいれなけれぱならないのである。一方、

同じようにカディス議会の議員となった穏健派のカプ

マー二は、「カタルーニャによって、あるいはガリシア

によって選出された議員はいても、カタルーニャの、

あるいはガリシアの議員はい一ないLと述べて、議員が

「国民」の代表であって、「あれこれの地方」の代表で

          (㎎〕

はないことを主張している。しかし他方で彼は、「こ

れら(アラゴン人、バレンシア人、ムルシア人等々)

の小さな諸国民(量qo烏ω)から俸大な国民(屋q9)

が構成される」として、スペインの各地方がもつそれ

                  (29)

ぞれの一体性が尊重されねぱならないとする。

一一一民衆と戦争

 各地の民衆の蜂起について精力的に研究を進めてい

るモリネル・プラダは、市町村の評議会の結成は、一

方では、反フランスの低抗を組織するためであるが

ー一様に「宗教、国王、祖国」をスローガンとして

掲げているL他方では、既存の秩序が動揺する中

で民衆の動きをそうした低抗へと鶴導することによっ

て杜会秩序の温存を図るためであったことを明らかに

  ^釦)

している。例えぱ、最初に結成されたリェイダの地区

評議会は、全ての諸身分の代表二九人によって構成さ

れリェイダ司教を議長とした。そして、「侵略者のた

619

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一橋論叢 第110巻第4号 平成5年(1993年)10月号 (112〕

めには鋸一文渡さないLと述べてフランス勢力に対す

る低抗を毅然と表明したが、同時に、「騒擾と騒乱は無

政府状態を誘うものである」として民衆の当局への服

従と公安秩序の維持を強く要求した。さらに、カタル

ーニャ最高評議会も、当初から、領主的諸貢租を含め

てアンシャン・レジームの諸権利と財産を擁護する立

場に立っており、その結成後まもなくして治安を維持

し租税を徴収するために各地区に一五人規模の兵隊に

よる警備を命じている。このように、低抗組織11評議

会と民衆とのあいだには利害対立と杜会矛盾が含まれ

ていたことに注意しなければならない。

 また、モリネル・プラダは、こうした状況のなかで

「カタルーニャ主義」がスペイン正規軍への徴兵(キン

タス)への反対として表明されていると指摘する。す

なわち、一八〇九年一一月頃に流布した、「カタルーニ

ャの民衆よ、武器をとろう。我々の起こす轟音は、ス

ペイン人将校や高慢なフランス人を脅えさせるだろ

う」と述べた「カタルーニャの虎」の署名のあるバン

フレット類に注目して、敗北を重ねるスペイン軍隊に

失望して、かつての伝統であったカタルーニャ民衆の

                    ^31〕

武装を要求することを表明したのだと捉えている。そ

して、民衆と正規軍の関係が悪化し、軍隊に徴兵され

たカタルーニャ人の脱走が甚だしかったことを、カタ

ルーニャの独自性の主張のひとつの現れとみるので

^32)

ある。

 しかしながら、民衆の忌避は、スベイン正規軍への

徴兵だけにとどまらなかったことをカナレスの研究は

  ^33)

指摘する。彼は、フランス勢力に対する戦いの「一体

性」、戦争の集団的偉業といったことを疑問視して、兵

隊の徴募と免除、脱走などの具体的数字を追うという

作業を進めるが、正規軍からの脱走が場合によっては

部隊員数の三割にものぼっていたという事実を明らか

にする一方、カタルーニャ人自身が指揮した伝統的な

民兵隊(ミケレヅト)、予備隊、そしてカタルーニャの

低抗の「神話」に常に言及される自警団(ソメテント)

の場合にも、脱走は一般的現象であったことを指摘す

る。従って、民衆の兵役拒否という現象があって、そ

れに重なるかたちで、スペイン王位継承戦争で失われ

620

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1113) スペイン独立戦争と「国民意識」

たカタルーニャの伝統-カスティーリャの軍隊には

徴募されないという特権1の回復要求が現れたと解

            ’

すべきことを、このことは示唆しているのである。

おわりに

 六年間にわたる「スベイン独立戦争」の意味は、の

ちの歴史学によって、あるいは「歴史的記憶」を現在

に利用しようとする人々によって、さまざまに解釈さ

れてきた。「独立」という名称そのものが「スベイン国

民意識」の高揚の意図と関わって定着していったので

ある。さらに、「スベイン国民意識」に反発する力タル

ーニャでは、「フランス人戦争」という用語を馴染みあ

るものにしている。いずれにせよ、この戦争は、アン

シャン.レジームという杜会矛盾をかかえつつ生活す

る人々の生活圏に、名目はいかなるものであれフラン

スという外国の軍隊が侵入して、その生活を脅かすと

いうでき、ことであったことを忘れてはならない。当然

のことながら、人々の抱く意識は、それぞれの杜会階

層的立場に応じて、反フランス的であったり、反領主

制的であったり、反徴兵的であったり、反カスティー

リャ的-カタルーニャの一部ではーであったりし

た。そうした諸意識の錯綜を統合するもの、それが、

さしあたり「宗教、国王、祖国」であったのだろうか。

我々は、六年間の「戦争の悲惨」の実態に史料的に迫

           ^幽)

っていく必要があるだろう。

(1) >ω鼠目勺①饒P-O限F一きミ§…、昏嚢ざき昏

 壕s§一幅&ζα貝}胃8一〇墨L㊤雪一p曽蜆.

(2)く昌員雪賢9..甲α冨o凹5昌oき邑ま目

 ○名簑o『、,一3昌雰ざきき喜亀§一冑&巨αコ

昌昌竃まく君霧試巴§一霊秦一〇員岩鼻夢。。--O.

(3) この点に関しても、ヴィラールの指摘が参考にな

 る。彼は二〇世紀スペインの抱えた構造的不均衡の一

 つとして地域的不均衡をあげている。軍一5o§ミ

 、蓼§“(-§--§)一蟹募二竃9君.崖-曽(邦

 訳『スペイン内戦』白水杜、一九九三年、二二-三〇

頁)を参照。

(4) その全体的問題状況については、ζ◎冨長9

 0-印口o9..-”.勾凧くo巨巨o目oωoρ智◎斥.庄①Hooooo帥Ho0Hド

 雪卑oマ①g向ω8岸冒窃.、L彗ω卜s射§oぎ討§曽ミs泳“

621

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(114〕一橋論叢 第110巻第4号 平成5年(1993年)10月号

ミ㎞§ぜきぎ、§暑§“§ぎ-oo轟曳-曽ト

勺曽貢岩O.Oら甲畠-H塞が参考となる。なお、「スベイ

ン独立戦争」の時期にカディスでは最初の近代議会が

開かれて一八二一年憲法が制定される。このスベイン

自由主義の動きについても従来とは異なって、その隈

界性を見ようとする評価が現れている。この点に関し、

ては、拙稿「スペインの自由主義とカディス議会1

「出版の自由」をめぐってL(遅塚忠躬他編『フランス

革命とヨーロッバ近代』同文舘出版、一九九三年一〇

月刊行予定、所収)を参照されたい。この戦争の全体

的経過については、拙稿「炎のイベリア半島-スペ

イン独立戦争とウェリントン」志垣嘉夫編『ナポレオ

 ンの戦争』(講談杜、一九八四年、所収)で概観した。

最近の優れた通史的成果に、Uミo胃一〇畔胃p卜s

 9ミ§きsぎ曇“ミ昏ミ〔ざ一竃凹αユ〇一岩oooがある。

 この時期を含めて、スペインのアンシャン・レジーム

解体期をめぐる諸問題と文献については、>く目揮

宕彗由昌少、.雰君ぎ9昌Oi昌-雪8(-べ3.HO。崖)・

里ωξo巨;・宵螢8..一8旨き§、ミ§言ミ§}

良§§きき“辻s一…邑H員H㊤o。㊤一電-畠-旨㊤を参照。

一5一臣寝3ω害品oω…凹昌県.、向=睾彗冨邑8ε宣

】)oω宗;ξo、、一雪トo§き、9轟ミ8ぎ膏§s良o§、

 向、b畠きξo-吻§ま§きミ雪一竃ぎ『員岩竃ら甲

 トo㊤-{].ド

(6) ロンガレス・アロンソは、「五月二日」事件がのち

 に神話化された大きな理由として、それがスペインの

 中央部の「首都」で起こった事件であったということ

 を指摘している。と同時に、この事件からアストゥリ

 アス地方評議会の反フランス宣戦布告まで三週間以上

 が経過しており、中央から地方への低抗の波及という

 図式は、事実経過として誤りだとしている。■昌O目實窪

 ≧8ωoこ①昌9。.目N守昌簑oく窒竃5α旨o冒壷

 碧Rsく①二睾冒$ま8片◎宗一塞肩oi昌μ蕩..一8

 §ミもp竃㌣お①。その一方で、モラレス・モヤは、バ

 ルセローナ・オリンピックに表れたカタルーニャ.ナ

 ショナリズムに対抗して、いま現在、全国民的な「歴

 史的追憶の場」としての「五月二日」の意義を強調し

 たいとする旨の発言をしている。竃o冨-鶉 昌o着一

 >鼻冒亘、.-凹雪ω8ユo唄良冒彗耳①9Uoω宗竃ξo..一

 8§ミ。召、ω岩-竃o。.とくに¢.ωミを参照。自治州体

 制となってもなお民族主義問題を抱える多民族.多言

 語国家スペインの苦悩を表す言葉と言えようか。

(7) この点に関しては、雪o轟管9§。ミ。もP胃-雷一

 竃o-目實軍ぎ単>巨o邑9..-凹冒oま轟qgo①5

 丙睾o巨q旨窃寝ぎ5ま畠8、.し昌ω卜8完“§ぎ討o§

 §“㌻亀§}ミきぎ』§“ぎ§ぎ塞~、ざき“§姜

622

Page 11: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて

スペイン独立戦争と「国民意識」(115〕

 吻雪ぎ勺胃貝畠旨も軍-Nべ-畠o。らの強調するところで

 ある。

(8)U巨昌■9、、5垣①争<9U8宗竃ξo、,一8

 トh雰昏、9奏§Oぎ膏§§ざ§、・・…“OP雷甲蜆違-

 さらにデュフールは、かなりの聖職老が親フランス側

 に立ったことなどを論拠にして、この戦争の全体にと

 っても、聖職考の役割や「宗教的感情」を過度に強調

 することを戒め、その一方で、戦闘の地方的性格から

 して、諸地方の「地方主義的感情」の強さを指摘して

 いる。-庄.一..}O目『O=9-①ω①ωり與管O-ωOユHO目↓-昌ω庁ω

 印ヨ一鶉 8鼻8 z印oo-gえ.,一トs 暑亀§沫 ミ

 ξO帝§一>艮-①宇勺『Oく①目09-㊤OO戸O冒ω-べ-ωωト.だが、

 聖職老の動向の再検討がただちに、これまで主張され

 てきた反フランス戦争における民衆の「宗教感橘」の

 強さの見直しにつながるのかは疑問である。

(9) 最近の研究として、;o;胃睾生P>。、.5ω『①-

肩篶邑昌霧宗;ま竃貸o昌O凹邑邑凹、、一9ξ雪

 き、9嚢O§膏§§“§良……らPお㌣畠卜

(10) すでに、「国民」、「祖国」といった意識の錯綜につ

 いては、ヴィラールの問題提起がある。<旨■p

.、霊巨:;豊昌ま易5<OS巨曇冨宗5碧①罵

o.ぎ馬罵邑彗8鶉寝管〇一①..一トミ§雲婁ざ喜ミs昏

 ざ氏§oぎ弐§ぎミsぎ一〇g1・急o.岩戸君.8ω-

 轟も(カタルーニャ語訳で、ト嚢嘗㎞き§ざ9ミミ§

 き、}夷帝kミ一}胃8-O量L㊤べω一〇戸畠ω-H⇒に所

 収)。また、フランス勢力H占領者に対するスベイン

 人11被占領老の低抗といっても、低抗という「一体性」

 の背後に諸階層は、それぞれにさまざまなイメージを

 描いていたことをヴィラールは指摘する。軍一、.O篶--

 ○冨ω凹名g房o①-.o8=o印庄o目g宗5忍9ω3昌①①目

 雰寝管①昌ミ竃g豊8昌oω宗之名oH①罫..一ま易

 9ミ一§苧08§跨-§--OO旨一零妄竺09岩員暑.

 sH,Ns(カタルーニャ語訳で、㌧§雷。…:一〇p竃-

 H呂に所収)。彼によれば、「政治的に自覚した積極的

 少数老はナポレオンとアンシャン・レジームに対して

 同時に戦った。熱狂的な大衆は、ナポレオンが突然の

 新しい体制を代表しているが故にナポレオンに対して

 戦った。フランス勢力の行なう徴用によって彼らへの

憎しみと愛国心は駆り立てられ、二つの異なる特徴の

 政治的希望はますます大きくなった。そして、社会の

諸階層に通常見られるイデオロギー的傾向をもとに

 人々のさまざまな行動選択を分類することは必ずしも

 容易ではない。」(ト嚢雪--も」胃)

(u) }o目一凹目戸-oωop。.o目①昌與庄9}H顯目oω9①目=①胃凹o①

冒-邑君g箒昌亘管o冒}目遷o-&邑s二昌鶉9αo①

9彗ωOま8昌①貝①巴、、一トS§ミ一昌員H員H竃O。一暑1

623

Page 12: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて

{116〕一橋論叢 第110巻第4号 平成5年(1993年)10月号

§-曽一

(12)Oぎ一彗・竃胃貫霊一〇…一①;一’雰ざ辻夷慧k

 §艮oss淳§o慧亀高g-婁--的轟一雲凹守巨=畠oo坪oo-

 ].oo--o杜.

(13) 勺o箏冨目PS.h“、二P塞-

(14) 代表的なものに、O胃8冒『且鼻盲ぎ9婁、oき

菖、導§昏o町ざぎ§§ミ吻暗ざ薫一↓o昌〇一トs

 寒“ミsきざぎ曇§昏§貴}胃8-冒p岩雪一髪胃-

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(15)o.o示↓膏印こ冒負9ざぎ募§こ§きミ}ミー

寒§.旨雲“き、ミ昏ざ尋ぎ困螂§一〇員H§・カ

 タルーニャ・ナショナリズムの起源の議論に関して、

 }巴8=9>亭①貝b,ss,os亀涛§o§ざ§一呂邑ユp

 畠芦君-崖-岩を参照。

(珊) O団oo目P-oωoO峯.一ひ§昏沫}身}易昏〔ざざ、ミ§一

 }四8色o目戸岩oogoo.■蜆-HH①-

(17) O=昌昌旨一戸一〇曇§“§ミ§雪、雨、昏き§淳§“

 §§貴}胃8-o畠し竃o■この点に関しては、巾巴8--9

 §ーミー一署.畠-8を参照。

(18) }竺8=9>’9ざぎ§Sミ膏§o§§L一吻時ざ

 薫一;與oユp畠ミ一戸畠.

(19) }巨堕=巨ω;胃ζ』9、、-毫蕩ぎ畠寝-oo。邑8-

○蛯①ω饒α 目凹9◎目凹- 凹 O凹片巴目目く閂、、一〇ぎω 卜s “§§}、

 §SO膏qミ§一}①二斗O目戸HOO〇一〇?雷-S1

(20) 経過そのものについては、注14であげた文献に詳

 しいが、簡潔に全体状況をつかむには、}昌一彗p-、一

 5、昏、ざミ訟O鳶“§}ざざ麦ぎミ汀§鼠(-轟N1

 -的轟)一}彗8-o目戸H竃o。(くo巨雪<宗雰蓬き

 Ωoざぎ§さ昌『尉己葭o①『勺-①目①<=凹『)一〇p崖蜆1Ho0Hが

 参考となる。

(21) 占領下のバルセローナ市の経過については、…雪.

 ○印詩H-碧ず戸-一望§Wざ-§、ミ§ミ膏ざO§SO蟹S

書ミ、§(-OO§1-的-へ)一ζ凹~巨岩おがある。

(22一ω弩雪;墨一貴旨夢槧ミ、§ぎミ

 昏Ω-ざぎミ忘8§ぎoo婁辻§9へきΩ這汀(-的-~1

 畠忘}-§--竃)一}胃o9昌pH渇Hを入手したが、

 本稿では利用するに至らなかった。カディス議会との

 関係でこの制度の検討は、別の機会に行ないたい。

(23)

(24)

(25)

(26)

勺三〇目一§’}ごo戸$-昌1

§“、一〇-べN一

}o鼻§p§ミ.一筍」8--昌を参照。

向豪o員旨巨匡-一..寄くo巨ま目彗OO冒庄…ξ巨

霊身冬O宗∋冒昌温、,一麦、§~麦§㌻;.貞

崔箪君.寄-gを参照。

(27) 肉o員顯{>巨巨竃一巨昌9。.~■-す鍔急巴管目

624

Page 13: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10896/1/ronso1100401050.pdfニャが、「スベイン独立戦争」においてどのような「国 民意識」を抱いたかということもまた問題にされて

スペイン独立戦争と「国民意識」(117〕

 o『〇一〇〇”“巴印目げ昌①Oo旨巨o印O凹庄尿~、.-卜Se“ミ、目旦ヨ.

 旨ω一岩OOO〇一〇P竃-彗1

(28) §ミ’o.蟹.

(29) }昌3畠一§.ミ’P畠oに引用。カプマー二の思

 想については、9彗一丙印昌昌一■8s一竃胃一曽p

 ..>9o邑宗O署昌彗、9肩-§R目oま-090雪竃-

昌昌一筥葦os邑岬冒a①ヨ,.一昌畠曽、§竃§§、

 曽、導o§ざ鳶き、吻構帝k§亀§蔓亀ミ吻亀や奏一

 }彗8一〇昌二竃。。一筍1-ω-きを参照。

(30)竃o=9『軍ぎP>9昌員、.…〇三ま昌8ω

 oo〇三胃窪80顯S巨饒印O=冨巨①5管①胃印O①55ま-

 肩邑彗o5..一夢ぎミ畠き雰ざぎ豊、ミし㌣Nω㌧畠“

 OP墨-き.この論文を含めて彼の一連の仕事は、

 …o旨鳥二勺轟庄p>巨o目一旨9ざぎ§§§涼討ミ亀ざ

 き§“§良qざ§§(-oo轟山曽~)一}彗8-昌戸岩ooo

 に縄められた。本稿ではこの書物を利用する。

(31) さミ’oP3-雪.

(32) §ミj℃戸8-胃一胃-oご巨-一.、-麸8肩『ε色o畠ω

 …….、一01含N-

(鎚) Oφコ巴①9 原一①σ印貝 。、勺印↓ユo巨ω昌o < ら①ωo『qα目

 ○目『凹目↓o5血o官o『H団α①-凹-昌匝①O①目Oo目o5①目O”↓巴一』饒印.、-

 討§涼§きミ亮ミ§き雰妻㌧o昌o×曽月岩ooべもp

 ミー-ω8一5’ 、.-国 冨色ω詰目o討 印鼻罵量目o①窒 曽

9巨昌着一①ωε昌庄.巴O日冒ω8目君H3篶巨ω..一

 トS§ミ一目O昌」畠し㊤OOO〇一〇〇-墨-曽.

(34) 「スペイン独立戦争」に従軍した人々の回想録は

 これまでに利用されているが、当時の人々の日記類は、

 ようやく掘り起こされつつある。それらは、実態に接

近するうえでの重要な史料となろう。例えば、巨一

 、.ζ冒凹く赤a昌艀冨竺o①5o=彗轟庄9句量目o野二顯

巨9o。『旨宗}島饒昌O。昌}oω9…O彗宗昌彗=.,一完§ミ.

 §員曽一岩OOO。らPデ亀一ω{冒O箏-↓印冒伽9>津O具。.-印

管實S宗一軍彗&ωω晶昌ω-窃冒O昌αま二、冒募雪.

3け膏-8胃品-昌昌甘守9Hg即、,一トs§ミ一昌昌」H仰

岩ooo〇一〇p§-ミ.

            (東京外国語大学助教授)

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