世阿弥の時代の平家物語 -...
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1
はじめに
十五世紀前半の頃には、平家物語は多くの諸本が併存し、享受されていた。しかし、その実態はどのようなもので
あったのか、また、諸本が存在することについて、人々はどのような意識をもって接していたのか、具体的な様相は
摑み難い。別稿(注1)において、世阿弥作の能作品の詞章の分析から、主に平家物語の語り本系について、本文の流動の様
相や諸本が存在することに対する意識のあり方などを考えた。
結論を簡単に繰り返すと、世阿弥は語り本系の二種、一方系・八坂系の本文をそれぞれ利用しているが、意識的な
使い分けをしているとは思われない。たまたま入手できた本文をその都度利用した結果であろう。このことは即ち、
当時の人々の平家物語諸本に対する意識の所在を如実に表している。一方系であれ、八坂系であれ、語り本系の平家
世阿弥の時代の平家物語
その二
――読み本系を中心に――
櫻
井
陽
子
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2
物語としては大した相違はなかったのである。
また、一方系諸本の中で世阿弥が用いた覚一本は、現在流通している覚一本とはいささか異なる本文であった。現
在、一方系の諸本の中では「覚一本」が代表的な本文と位置づけられ、のみならず、その本文は固定的、絶対的に捉
えられがちである。しかし稿者は以前、八坂系ほどでなくとも、一方系の本文もやはり流動的であったことを指摘した。
そして、覚一本の本文は一方系本文の一形態と捉える方が適切であり、「覚一検校」の権威と、現在流通している「覚
一本」本文の権威性とを別物と考えたいとも述べた(注2)。覚一本本文の流動の様相、また、語り本系本文の受容の実態が、
能作品の詞章から、はからずも浮かび上がってきたのである。
しかしながら読み本系の問題については言及することができなかった。世阿弥が語り本系だけではなく、読み本系
とも接触していた可能性は、既に伊藤正義氏、島津忠夫氏などに指摘がある(注3)。先学の指摘を出発点として、世阿弥が
使った可能性の指摘されている読み本系の本文はいかなるものであったか、また、読み本系と語り本系との相違につ
いて、世阿弥はどのように認識していたのか、本文の取り入れ方について相違はあるのか、などを考えることとする。
具体的には、能〈清経〉〈敦盛〉を中心とするが、別稿で語り本系との関係で触れた能〈忠度〉〈実盛〉にも再度触れる。
一
能〈清経〉に用いた平家物語、源平盛衰記的本文
能〈清経〉は平家一門が都落ちをして西海に漂う中、行く末を悲観して入水した平清経を主人公とした作品である。
語り本系では巻八「太宰府落」に相当する章段を題材とする。まず、使用された本の種類を考えたい。
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3
〈清経〉は、妻の怨み、清経の形見の髪、妻が送った和歌が展開の
となっている。これらの要素を持つのは八坂
系及び、読み本系の延慶本・源平盛衰記である。これらでは、清経が都に妻を残して旅立つ際に与えた形見の髪を、
妻が和歌と共に清経に送り返す。〈清経〉では、形見の髪が清経の死後に妻のもとに届けられたり、妻が遺髪を見て
和歌を詠み、宇佐に髪を送るとしたりと、新たな物語が紡がれている。対して、一方系では、清経は将来を悲観して
入水するとのみ簡略に記され、妻も、形見の髪も、妻の和歌も登場しない。読み本系のうち、長門本は一方系以上に
簡潔である。
また、平家物語諸本共通の和歌、「世の中のうさにはかみもなきものを何祈るらん心つくしに」が〈清経〉にも使
われているが、一方系と八坂系一類本では四・五句が「心つくしに何祈るらん」であり、小異がある。
他にも、太宰府落ちの経路を、〈清経〉は太宰府を落ちて柳へ、そして宇佐参詣へと進行させる。これは八坂系一・
二類本及び盛衰記と共通するが、一方系や延慶本・長門本は宇佐参詣が太宰府落ちよりも先行している。
これらの要素を総合すると、〈清経〉は八坂系二類本もしくは盛衰記をもとにしていると考えられる(注4)。
八坂系二類本と盛衰記とでは、物語の展開に大きな差はない。しかし、本文を比較していくと、〈清経〉は盛衰記
をもとにしていると考えられる。左に〈清経〉6段サシ(注5)の詞章を掲げ、盛衰記と八坂系二類本を比較する。
さても九州①山鹿の城へも
②敵寄せ来たると聞きしほどに
③取るものも取りあへず④夜もすがら
⑤高瀬
舟に⑥取り⑦乗つて
⑧豊前の国柳といふ所に着く
げにや所も名を得たる
浦はなみきの柳蔭
いとかりそめ
の皇居を定む
それより⑨宇佐八幡にご⑩参詣あるべしとて
⑪神馬⑫七疋そのほか金銀種々の捧げ物
すなは
ち奉幣のためなるべし
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4
盛衰記(巻三十三)
是ヨリ又兵藤次秀遠ニ具セラレテ、筑前国山鹿城へソ入ラセ給フ。(略)①山鹿ノ城ニモ未御安堵ナカリケル
処ニ、惟義十万余騎ニテ②推寄ト聞ヱケレハ、又③トル物モ取敢ス山鹿城ヲモ落サセ給テ、⑤タカセ舟ニ⑦乗移、
﹇延・長:④終夜、﹈⑧豊前国柳ト云所へ渡入ラセ給ケリ。(
略
)主上女院ヲ始進テ、内府以下ノ人々、豊前
国⑨宇佐ノ宮へ有⑩参詣。(略)七箇日ノ御参籠トテ、大臣殿財施法施ヲ手向奉、神宝⑪神馬﹇「神宝神馬」=延:
⑪御神馬⑫七疋引セ給テ﹈、角テ七箇日ヲ送給へトモ、是非夢想ナントモナカリケレハ、第七日ノ夜半計ニ思ツヽ
ケ給ヒケリ。
(「延」は延慶本、「長」は長門本の略称)
八坂系二類本
去程に平家は筑前国御笠の郡太宰府におはしけるが、尾形の三郎維義三万余騎にて既によすと聞えしかば、③
とる物もとりあへ給はず、太宰府をこそ落られけれ。(略)われさきに〳〵とみづきのとを過て箱崎の津へこそ
落られけれ。(略)兵藤次秀遠に具せられて山鹿の城にぞこもられける。①山鹿へも又②敵寄すと聞えしかば、
急⑤蜑小船に⑥取⑦のつて、④よもすがら⑧豊前国柳の浦へぞ渡られける。(
略
)それより⑨宇佐へ行幸なる。
(奉納記事はなし)
語順、⑤「高瀬舟」の有無、奉納記事(⑩「参詣」、⑪「神馬」)の有無を見ると、八坂系よりも盛衰記本文の方が〈清
経〉に近い。盛衰記を参照した可能性が強いと言えよう。但し、〈清経〉には現存の盛衰記とは一致しない表現もある。
その中には他の読み本系(延慶本や長門本)と重なるもの(④⑫)がある。すると、世阿弥の用いた平家物語は、現
存諸本の中では盛衰記が最も近いものの、全く同じ本文とは言えない「盛衰記的本文」と考えられる。
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5
また、〈清経〉において妻が送った和歌、「見るたびに心づくしのかみなれば
うさにぞ返すもとの社に」は平家物
語に拠ったものだが、盛衰記は初句が「見るからに」と小異がある(注6)。これも現存盛衰記との距離を示すものかと思わ
れる。
二
能〈清経〉に用いた平家物語、一方系本文
〈清経〉6段の後半(クセ後半)には、
暁の
月に嘯く気色にて
⑲舟の舳板に⑳立ち上がり
腰より㉑横笛抜き出だし
音も澄みやかに吹き鳴らし
今様を歌ひ㉒朗詠し
来し方行く末を鑑みて (略)
ただひと声を最期にて
船よりかつぱと落ち潮の
底の
水屑と沈み行く
うき身の果てぞ悲しき
と、清経が横笛を取り出して音楽を奏した後に入水する場面がある。これは盛衰記の、
左中将清経ハ、⑲船ノ屋形上ニ昇ツヽ、東西南北見渡テ、アハレハカナキ世中ヨ、イツマテ有ヘキ所トテ角憂
目ヲ見ラン、都ヲハ(略)月陰ナク晴タル夜、閑ニ念仏申ツヽ、波ノ底ニコソ沈ミケル。
からは作れない。延慶本・長門本・八坂系二類本にも横笛は記されていない。いっぽう、覚一本や八坂系一類本では、
覚一本(京師本・流布本の相違は破線と傍書で記す)
小松殿の三男左の中将清経は、(略)月の夜
(京流:
心×××××
をすまし、)
⑲(流:
舟
舷
)
の屋形に⑳たちいでゝ、㉑やうでうねとり㉒朗
詠してあそばれけるが、
(京流: 略 )閑に経よみ念仏して、海にぞしづみ給ひける。
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6
八坂系一類本
かやうの事ともをおもひつゝけ給に、わかけれと、何ことをもおもひ入たまへる人にて、月の夜心をすまし、
⑲舟のやかたに⑳たちいてゝ、㉑やうてうをねとり㉒らうゑいしてあそはれけるか、都をは
と、横笛の音と朗詠の声が響く。〈清経〉は入水場面に限って、覚一本もしくは八坂系一類本を用いたのだろうか。
或いは語りの記憶を呼び起こして清経に横笛を吹かせ、朗詠させたのだろうか。
場面は少し戻るが、〈清経〉では、宇佐神宮で神の助けを拒絶された平家一門は柳に還幸し、まもなくそこも追われる。
その様子を左のように描く。
さては仏神三宝も
捨て果て給ふと心細くて
一門は気を失なひ力を落して
足弱車のすごすごと
⑬還幸な
し奉る
哀れなりしありさま
かかりけるところに
⑭長門の国へも
敵向ふと⑮聞きしかば
また⑯船に取り
乗りて
いづくともなく押し出だす
心の中ぞ
哀れなる
げにや世の中の
移る夢こそ真なれ
⑰保元の春の
花
寿永の秋の紅葉とて
散りぢりになり浮かむ
一葉の舟なれや
柳が浦の秋風の
追ひ手顔なる後の波
⑱
しらさぎの群れ居る松見れば
源氏の旗を靡かす
多勢かと肝を消す(6段)
前半の⑬〜⑯に該当する場面を盛衰記では、
柳御所ニハ、サテモト思召テ七箇日渡ラセ給ケル程ニ、又惟義寄ルナト⑮聞ケレハ、此ヲ出給ニ、⑯蜑小舟ニ
取乗、風ニ任セ波ニ随テ漂シ程ニ、
と描き、九州の惟義に追われて舟に乗る。長門国に関する記述はない。八坂系一・二類本は、
柳の浦に、たい(
二類:つくらる)
りつくるへしと
(二類:、
さ 聞 え )
たありしかとも、ふんけんなけれはかなはす、また⑯舟にとりのりて、う
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7
みにそうかひ給ける。(一類本)
と、かなり簡略で、海上に逃げた経緯の説明もない。
覚一本は配列が異なるため、宇佐参詣から⑬還幸して太宰府に戻った平家一門の逃走を描くことになるが、
山賀へも敵よすと聞えしかば、小舟どもにめして、夜もすがら豊前国柳が浦へぞわたり給ふ。こゝに内裏つく
るべきよし沙汰ありしかども、分限なかりければつくられず、又⑭長門より源氏よすと⑮聞えしかば、⑯海士を
舟にとりのりて、海にぞうかび給ひける。(「太宰府落(注7)」)
となる。盛衰記とは異なり、長門国(「より」と「へ」の違いはあるが)に関する情報によって移動している。こう
した内容・表現の共通性を見ると、語りの記憶による創作とは言い難い。また、八坂系一類本よりも覚一本的な一方
系の本文のほうが共通性が高い。
〈清経〉については、読み本系を骨格として劇的な構成を作り上げつつ、最後の入水場面と、そこに至る直前の場面は、
一方系を用いてクライマックスを作り上げたと言うことができよう(注8)。
三
能〈清経〉に用いられた平家物語、語り本系と読み本系と
左に巻七の福原落ちに相当する一場面を盛衰記(巻三十二)から引用する。
平家ハ、⑰保元ニ春ノ花ト栄ヘシカ共、寿永ニ秋ノ紅葉ト散ハテヽ、八条ノ蓬戸、六波羅ノ蓮府、暴風塵ヲ立、
煙雲焔ヲ払ツヽ、﹇福原ノ旧里ニ下テ、故相国禅門ノ墓ニ詣ツヽ、各法施ヲ進リ (略
管絃講)
サテモ主上ヲ
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8
始進セテ、﹈『竜頭鷁首ノ船ヲ海上ニ浮テ出サセ給へハ、浪路ノ皇居静ナラス、都ヲ落シ程コソナケレ共、是モ遺
ハ惜カリケリ。棹ノシツクニ袖濡テハ、古郷軒ノ忍ヲ思出テ、月ヲ浸潮ノ深愁ニ沈、霜ヲオホへル芦ノ脆命ヲ悲ム。
洲崎ニ騒ク千鳥ノ声暁ノ恨ヲ添、傍居ニカヽル楫ノ音夜半ニ心ヲ傷シム。⑱白鷺ノ遠樹ニ群居ヲ見テハ、東夷ノ
旌ヲ靡スカト肝ヲ消シ、夜雁ノ遼海ニ啼ヲ聞テハ、兵ノ船ヲ漕カト魂ヲ失フ。青嵐膚ヲ破テ、翠黛紅顔ノ粧ヤウ
〳〵衰ヘ、蒼波眼ヲ穿テ外土望郷ノ涙難押』。サコソハ悲カリケメト、推量レテ哀也。指テ行ヱハ知ネ共、露ノ
命ハ松浦船、
落ち行く人々の悲嘆と絶望、迫り来る恐怖感があますところなく描かれ、〈清経〉に共通する⑰⑱が見える。盛衰記
は間に管絃講の話が入り込んでいるために、⑰と⑱はかなり距離があるが、延慶本・長門本には、管絃講を含む﹇
﹈
の部分がない。管絃講は盛衰記の独自に増補した記事である。読み本系では本来、⑰と⑱が接近していたと考えてよ
かろう。
同じ表現を語り本系では、まず、巻七の都落ちの場面で、「聖主臨幸」に、
昨日は雲の上に雨をくだす神竜たりき。今日は、肆の辺に水をうしなふ枯魚の如し。禍福道を同うし、盛衰掌
をかへす、いま目の前にあり。誰か是をかなしまざらん。⑰保元のむかしは春の花と栄しかども、寿永の今は
(流:又)
秋の紅葉と落はてぬ。(覚一本)
と用い、巻八「太宰府落」では、清経入水記事に続けて、以下の場面が描かれる。
長門国は新中納言知盛卿の国なりけり。(略)其程はあやしの民屋を皇居とするに及ばねば、舟を御所とぞ定
めける。大臣殿以下の卿相・雲客 (京流:は)
、海士の篷屋に日を(
流:暮ゝ
しくり、し舟
の
中
に
て
)
づがふしどに夜を
(流:明す 京:かさぬ)
かさね、『竜頭鷁首を
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9
海中にうかべ、浪のうへの行宮はしづかなる時なし。月をひたせる潮のふかき愁にしづみ、霜をおほへる葦の葉
のもろき命をあやぶむ。洲崎にさはぐ千鳥の声は、暁恨をまし、そはゐにかゝる梶の音 (流:は)
、夜半に心をいたま
しむ。⑱ (京流: 白鷺の
遠)
松(京流:に
白×
×
×
)
鷺のむれゐるを見ては、源氏の旗をあぐるかとうた(
京流:はる)
がひ、野鴈の遼海になくを聞ては、
兵どもの夜もすがら舟をこぐかとおどろかる。清嵐はだえをゝかし、翠黛紅顔の色やう〳〵おとろへ、蒼波眼穿
て、外都望郷の涙をさへ難し。』
語り本系は、読み本系のような福原落ちの文章から、⑰を都落ちに、⑱及びその前後の一節(『
』部分)を巻八に
移したと考えられる。
さて、〈清経〉では、
⑰保元の春の花
寿永の秋の紅葉とて
散りぢりになり浮かむ
一葉の舟なれや
柳が浦の秋風の
追ひ手顔
なる後の波
⑱しらさぎの群れ居る松見れば
源氏の旗を靡かす
多勢かと肝を消す
とあるように、読み本系同様に⑰⑱が連続している。⑱は、前節で考えたように、それまでの詞章から見て、一方系
の巻八によって導かれたと考えるのは自然であろう。すると、⑰も同じく語り本系の巻七の表現を用いて作られたと
考えることになろうか。それならば、世阿弥の手元には語り本系巻七も備わっていて、そこから一フレーズのみを抜
き出したことになる。
いっぽう、用いられた盛衰記が現存盛衰記本文とは小異があることを踏まえると、管絃講のない盛衰記(本来の読
み本系の形態)の存在も考えられる。すると、次のような経緯は想像できないだろうか。一方系巻八を用いて⑱が記
されたと考えるのは同じだが、読み本系の福原落ちに同じような表現があることに気づき、それに引かれて⑰を⑱の
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10
前に加えたと。これはあくまでも想像の域を出ない。が、⑰⑱の表現は盛衰記に近い(⑰「散」、⑱「靡スカト肝ヲ消」)。
また、⑰を語り本系巻七から引用したのならば、結果的に読み本系と同じ配列になるが、これは偶然がすぎるように
も思われる。
〈清経〉の創作については、語り本系と読み本系とが融合、或いは重層しているようである。女房と形見の髪とい
う魅力的な設定を生かすために読み本系を用いたものの、やはり最終場面は語り本系によって作り上げることが要請
されたのだろうか。そして、両系共通の場面には融合的な表現が生まれた可能性がある。
四
能〈敦盛〉に用いられた平家物語、源平盛衰記的本文
次に能〈敦盛〉を考える。〈敦盛〉は平家物語巻九に描かれる一ノ谷の戦で、平家の武将平敦盛が熊谷直実に討た
れる有名な話を題材とする。
〈敦盛〉に用いられた平家物語については、近時、岡田三津子氏も盛衰記本文との一致を指摘している(注9)。その大き
な根拠が、〈敦盛〉に用いられている「仇をば恩にて」が盛衰記特有の表現であることにある。また、直実に果敢に
立ち向かう敦盛像は読み本系のものであり、〈敦盛〉にもそれが継承されていることも指摘している)10
(注
。
〈敦盛〉には平家物語本文があまり引用されていないが、次の場面には注目される。やはり最終場面(11段後半)
である。う
しろより熊谷の次郎直実、
さじと追つかけたり。敦盛も①馬②引き返し、波の③打物抜いて、二打三打は
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11
打つとぞ見えしが、④馬の上にて引つ組んで、⑤波打際に⑥落ち重なつて、つひに討たれて失せし身の、因果は
廻り合ひたり、敵はそれぞと討たんとするに、仇をば恩にて、法事の念仏して弔はるれば、つひには共に生るべき。
この場面は、盛衰記(巻三十八)では、
敦盛何トカ思ハレケン、①馬ノ鼻ヲ②引返シ、渚へ向テソ游セタル。馬ノ足立程ニ成ケレハ、弓矢ヲハ抛捨テ、
③太刀ヲ抜額ニアテ、ヲメキテ上給ケルヲ、熊谷待受テ上モタテス、水鞠サトケサセツヽ、馬ト〳〵ヲ馳並テ取
組、⑤浪打際ニトウト⑥落、上ニ成下ニナリ、二度三度ハコロヒタリケレ共、大夫ハ幼若也、熊谷ハ古兵也ケレ
ハ、遂ニ上ニ成、左右ノ膝ヲ以テ冑ノ袖ヲムスト押タレハ、大夫少シモハタラキ給ハス。
となっている。敦盛の積極的な戦いぶりは同様に描かれているが、同文表現とは言い難い。同じ場面を延慶本・長門
本では、熊
谷二郎直実、渚ニ打立テ此ヲミテ、「アレハ大将軍トコソミ進候ヘ。マサナウモ候御後スガタカナ。返合給ヤ」
トヨバイケレバ、イカヾ思給ケム、汀ヘムケテゾヲヨガセケル。馬ノ足立ホドニナリケレバ、弓矢ヲナゲステヽ、
③大刀ヲ抜テ額ニアテヽヲメイテハセアガリタリ。熊谷待ウケタル事ナレバ、上モタテズ、④馬ノ上ニテ引組テ
⑤浪打ギハヘ⑥落ニケリ。上ニナリ下ニナリ、三ハナレ四ハナレクミタリケレドモ、ツイニ熊谷上ニナリヌ。左
右ノ膝ヲ以テ鎧ノ左右ノ袖ヲムズトヲサヘタリケレバ、少モハタラカズ。
(延慶本による。長門本はほぼ同文。但し④は「くて」)
とある。僅かではあるが、④以降については盛衰記よりも本文の一致度が高い。〈敦盛〉が盛衰記に拠っているとすれば、
その盛衰記本文はやはり現存本文とはいささか異なるものであったと考えられる。
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12
この部分以外にも、読み本系からの影響の疑われる表現がある。それは9段の、
上にあつては下を悩まし、富んでは驕りを知らざるなり。しかるにA平家、世を取つて二十余年、まことにひ
と昔の、過ぐるは夢のうちなれや、B寿永の秋の葉の、四方の嵐に誘はれ、散りぢりになる一葉の、舟に浮き波
に臥して、夢にだにも帰らず。C籠鳥の雲を恋ひ、帰雁列を乱るなる、空定めなき旅衣、日も重なりて年月の、
のAである。
Aは、読み本系にのみある頼朝挙兵記事(十二巻本では巻五に相当)のうち、石橋山合戦における三浦一族の参加
場面に同様の表現がある。以下に盛衰記巻二十を引用する。
各聞給へ、義明今年七十九、老病身ヲ侵シテ、余命旦暮ヲ待、今此仰ヲ蒙事、老後ノ悦也、我家ノ繁昌也、倩
事ノ心ヲ案スルニ、廿一年ヲ一昔トス、ソレ過ヌレハ、淵ハ瀬ト成、瀬ハ淵トナル。而ヲ平家日本一州ヲ押領シ
テ既ニ廿余年、非分ノ官位任心、過分ノ俸禄思ノ如ナリ。梟悪年ヲ積、狼藉日ヲ重タリ、其運末ニ臨テ、滅亡期
極レリ。源氏繁昌ノ折節、何疑カ有ヘシ、一味同心シテ兵衛佐殿へ参ヘシ)11
(注
、
他に、盛衰記巻二十四の坂東落書(巻六の都帰りに相当)にも「抑自平治元年以降、数平氏持世、既廿一年也。是
則改一昔之代」と、より近似した表現がある。長門本では源頼政が以仁王に挙兵を唆す場面(巻七。十二巻本の巻四
に相当)に同じ文言がある。盛衰記のほうが移動させたと考えられ、本来は以仁王を唆す場面に記載されていた可能
性がある。どちらの例にしても、一ノ谷合戦を描く巻からはかなり隔たっているので確言はできないが、盛衰記(読
み本系)からの引用の可能性は指摘できよう。
なお、Bについては、『謡曲集』(日本古典文学大系)の注には、前節で引用した平家物語巻七「聖主臨幸」の一文
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13
が示されるが、この部分は〈清経〉を利用した表現ではなかろうか。覚一本「寿永の今は秋の紅葉と落はてぬ」や、
盛衰記「寿永ニ秋ノ紅葉ト散ハテヽ」よりも、〈清経〉「寿永の秋の紅葉とて
散りぢりになり浮かむ
一葉の舟なれ
や
柳が浦の秋風の
追ひ手顔なる後の波」が最も近い。〈清経〉〈敦盛〉それぞれが平家物語の影響を受けたとの考
えもあろうが、「(散りぢりに)なり浮かむ
一葉の舟なれや」(〈清経〉)、「(散りぢりに)なる一葉の、舟に浮き波に
臥して」(〈敦盛〉)は平家物語にはない表現である。平家物語を介したものではなく、両作品相互の影響が考えられる。
また、〈清経〉の「保元の春の花」は平家物語を下敷きにするが〈敦盛〉にはなく、〈清経〉の「秋の紅葉」も平家物
語とは同じだが〈敦盛〉では「秋の葉」で、〈敦盛〉は〈清経〉よりも平家物語との距離が大きい。以上から、〈敦盛〉
は平家物語から直接引用したのではなく、平家物語を取り込んだ〈清経〉の影響下にあると考えられる。
Cは既に指摘のあるように、巻十「八島院宣」の一節「籠鳥雲を恋るおもひ、遙に千里の南海にうかび、帰雁友
を失ふ心、定て九重の中途に通ぜんか」(覚一本に拠る)の利用が考えられている。ただし、諸本共通の表現であり、
どの本に拠ったかは定められない。
ところで、Bによって、〈敦盛〉が〈清経〉の詞章を前提にしていると考えてよいのならば、
それこそさしも敦盛が、最期まで持ちし笛竹の、音も一節を歌ひ遊ぶ、今様朗詠、声々に拍子を揃へ、声を上
げ(10段)
と描かれる場面には、〈清経〉の同じく6段クセの、
腰より横笛抜き出だし
音も澄みやかに吹き鳴らし
今様を歌ひ朗詠し
来し方行く末を鑑みて
との共通性を見出すことができる。
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14
五
能〈実盛〉〈忠度〉に用いられた平家物語、盛衰記的本文
世阿弥が読み本系、特に盛衰記的本文を持つ平家物語に接していたとするならば、また、都落ち相当巻(巻七。盛
衰記は巻三十二)まで入手していたとするならば、別稿でも触れた能〈実盛〉〈忠度〉にうかがえた盛衰記の影にも
積極的な説明ができる。〈実盛〉〈忠度〉は語り本系の本文を作品の主体としているが、盛衰記に拠るかと思われる表
現のあることが指摘されている。
〈実盛〉では、実盛が直垂を宗盛からくだされたとする表現である。
このたび
北国に
罷り下りて候はば
定めて討死つかまつるべし
老後の思ひ出これに過ぎじ
ご免あれと
望みしかば
赤地の錦の
直垂を下し給はりぬ(〈実盛〉)
語り本系や他の読み本系が「免ず」とする中で、盛衰記のみが「内大臣ノ我料トテ被秘蔵タリケルヲ取出テ下シ給
ヘリ」(巻三十)と、宗盛が直垂を下すと記す。
〈忠度〉では三箇所指摘されている。第一は、俊成の子供の定家の名前である。「読み人知らず」とされたことを恨
みに思った忠度の亡霊は、もう俊成も亡くなっているので、子供の定家に名前を出してくれるように願う。これは、
父俊成が『千載集』で読み人知らずとした歌人の歌を、定家が自ら編纂した『新勅撰集』では、名前を顕して入れた
事実に拠っている。この知識を与えてくれるのは読み本系の平家物語である。忠度の都落ちの話の次に、清盛の孫の
行盛が定家のもとに置いていった和歌を、定家が『新勅撰集』に入れた話が続く。
第二は、忠度が引き返した地点を「狐河」と記すことである。語り本系では、「いづくよりやかへられたりけん」
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と特定されず、読み本系のうち、延慶本・長門本は「四塚」である。盛衰記のみが「淀ノ河尻」(蓬左本は「川尻」)
とする。
第三は、忠度の衣装を「斑紅葉の錦の直垂」とすることである。〈忠度〉は、
いたはしやかの人の
おん死骸を見奉れば
その年もまだしき
長月頃の薄曇り
降りみ降らずみ定めなき
時雨ぞ通ふ斑紅葉の
錦の直垂は
ただ世の常にもあらじ
と描く。
平家物語諸本では、忠度は黒ずくめで、四十年配の落ち着きを感じさせるが、盛衰記は例外的に「赤地錦直垂ニ黒
糸威冑」を身につける。尤も、八坂系一類本も、鎧直垂は紺色だが、「赤縅の鎧」を着ている。〈忠度〉では、忠度は
「その年もまだしき」と、若い武将の設定となる。忠度の若々しさを赤色の鎧直垂で演出する。若い忠度の設定は〈忠
度〉の重要な要素となる「桜の若木」との対応もあるようだが、平家物語とは異なる印象となる。
傍線部分は、
神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける
(読み人知らず
後撰集445)
むらしぐれふりみふらずみ紅の初花ぞめのみねの紅葉葉
(道家
洞院摂政家百首709
夫木和歌抄6136)
などによる修辞である。若き武将忠度を視覚のみならず聴覚にも訴えるために、合戦が行なわれ、また舞台設定とも
なった二月の花の季節とは異なる九月を示して和歌的表現を導入し、言葉の移ろいの中で、語り本系にはない設定を
導く。
語り本系の詞章を骨格に据えるということは、聴衆になじんだ、耳慣れた風景を現前させることを意味する。よく
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知った作品世界の中から、異なる情景を滑らかに開くためには、言葉の連鎖によるずらしが必要であったかと思われ
る。華やかな修辞で彩られる分、忠度の若さが強調されることにもなる。
となれば、「狐河」が、「狐蔵蘭菊叢」(白氏文集)に基づいて、「さも忙がはしかりし身の
心の花か蘭菊の
狐河
より」と綴られたことにも、世阿弥の文芸意識を探ることになろうか)12
(注
。
〈敦盛〉に登場する直実の法名「蓮生」や、〈忠度〉に記される「定家」の名前は、ある程度の知識があれば記され
るものとも思われる。また、〈実盛〉の「下す」や、〈忠度〉の「狐河」も、単語レヴェルでもあり、これだけでは、
盛衰記からの影響とは断言できない。いっぽうで、同じ単語レヴェルであっても、忠度の年齢を変更させて視覚・聴
覚に訴える鎧直垂の色目には、作品全体の趣を決定する重要な要素が含まれている。
大胆な詞章引用といった、表面に噴出する利用ではないものの、世阿弥は盛衰記から得た知識を利用して、語りに
よって既知のものとなっている平家物語の世界を組み替える、新しい展開を用意したと言えよう。
六
世阿弥にとっての平家物語
以上、世阿弥が用いた平家物語諸本の中で、読み本系、特に盛衰記的本文を中心に考察してきた。当時、読み本系
の中では盛衰記的本文が多く流布していた、或いは入手しやすかったと考えてよかろう。但し、その本文は、一方系
の本文の調査から得た結論(現存覚一本によく似てはいるが同じではない一方系の存在)13
(注
)と同様に、現存盛衰記本文
とはいささか異なる盛衰記であった。
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少し時代は下るが、『看聞日記』永享十年(一四三八)六月二十七日条には、「平家一合〈四十帖〉」が後花園天皇
の求めに応じて差し出された記事が載る。更に下るが、『言国卿記』明応三年(一四九四)五月十九日条には、「平家
廿巻」を書写し進上するように命ぜられ、書写作業の進行が縷々記されている。これらはその分量からして、読み本
系と推測される。その実態は不明ではあるが、現存の四十八巻仕立ての盛衰記ではない読み本系の平家物語の存在が
知られる)14
(注
。
また、語り本系に対するとは若干異なる世阿弥の姿勢がうかがえる。勿論、語り本系と同様に、ある程度の本文の
引用は指摘し得たが、語り本系ほどに多用されるものではない。変幻自在、縦横無尽に詞章を引用し、切り貼りする
方法は、あまり用いられてはいない。
語り本系の詞章は耳慣れて、親しいものであったろう。従って、語り本系を主たる資料として用いる場合(〈忠度〉〈実
盛〉)、読み本系(盛衰記)は使われたとしても、部分的な利用であった。ただし、キーワード・キーセンテンスとし
て用いられ、作品を新しく作り替える素材を提供する役を負う場合もある。その点では、読み本系はじっくりと読み
込まれていたと思われる。
いっぽう、〈清経〉では、構成の骨格として盛衰記的本文が用いられた。しかし、最後の入水場面では、清経に横
笛を吹かせる語り本系の本文と展開が必要とされた。〈清経〉の語り本系の利用頻度は多くないものの、単なる修辞
に留まらず、舞台演出効果を存分に見せる幕切れとなった。
対して、〈敦盛〉では、語り本系の世界は必要とされなかった。〈清経〉をも意識しながら、盛衰記的本文によって、
新たな作品を紡ぎだしていった。敦盛最期譚の載る語り本系の平家物語巻九は、〈忠度〉にも素材を提供している。
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世阿弥はおそらく、語り本系の敦盛の最期譚を熟知していただろう。語り本系にはない敦盛を生み出そうとしたのだ
ろうか。
作品の内容に応じて、自在に語り本系や盛衰記的本文を操っているようである。世阿弥が読み本系全巻を読み込ん
でいたとは思われないが、少なくとも作能に必要と思われる重要な場面については入手し、読み込んでいたようであ
る。しかし、平家物語の詞章を思う存分に引用・流用する時には、やはり語り本系が用いられる。語りが享受者の脳
裏に刻み込まれている平家物語(八坂系でも一方系でも大差はない)が必要とされる。そのために、書物としての語
り本系平家物語が参考資料として用いられる。それとは別に、時に語り本系とは異なる部分を引き上げ、新たな物語
世界を展開させるため、好材料を提供する読み本系が用いられた。読み本系と語り本系は巧みに使い分けられ、時に
は重層も厭われなかった。
おわりに
平家物語の諸本は幅広く流通していた。語り本系相互については、多くの微妙に異なる本文が並立していたものの、
その差異についてはあまり拘泥されなかったであろう。しかし、語り本系と読み本系は同列ではない。異本としての
認識はもたれていたと考える。それ故に、世阿弥が両系を併用して用いることも可能となったのではないか。
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注(1) 「世阿弥の時代の平家物語」(「中世文学」60号
平成27年6月刊行予定)
(2) 拙著『『平家物語』本文考』(汲古書院
平成25年2月)第四部(初出は平成19年3月〜24年12月)、拙稿「覚一本平家物語
の伝本と本文改訂
その二│西教寺本・天理本・龍門文庫本の検討から│」(「駒澤国文」51号
平成26年2月)を基とする。
(3) 『謡曲集』(新潮日本古典集成)伊藤正義注・解題など、島津忠夫『島津忠夫著作集
第十一巻
芸能史』(和泉書院
平成15年)
第二章九「三道にいわゆる平家の物語」(初出は平成3年7月。『平家物語試論』再収)
(4)
中村格氏は八坂系、主に文禄本(八坂系一類本)に拠り、随時一方系や他の八坂系を用いたと指摘する(『室町能楽論考』(わ
んや書店
平成6年)第二編「「清経」観賞」(初出は昭和49年11月))。
(5)
引用に使用した『謡曲集』の段構成による小段番号と名称を用いた。以下同じ。
(6)
但し、結句を他諸本は「社へ」とするが、盛衰記は〈清経〉と同様に「社に」である。これも現存盛衰記本文の問題と見る
ことができよう。
(7)
京師本・流布本は以下のとおり。
山賀へも (又)敵よすと聞えしかば、とる物も取りあへず、 (平家)小舟に (取り)乗り(て)、終夜豊前国柳浦へぞ渡られける。是に都を定
て内裏造らるべしと、公卿僉議有しかども、分限なかりければそれも叶はず。又⑭長門より源氏よすと⑮聞えしかば、
とる物も取りあへず、⑯海人小舟に召て海にぞ浮び給ける。(京師本に拠る。流布本の相違点は傍書)
(8) 〈清経〉冒頭の「八重の汐路の浦の波
〳 〵
九重にいざや帰らん」には覚一本の灌頂巻「六道之沙汰」の「昔は九重の雲
の上にて見し月を、いまは八重の塩路にながめつゝ、あかしくらしさぶらひし程に」からの引用が『謡曲集』(日本古典文学
大系)の注で指摘されている。これは覚一本だけでなく、一方系共通の表現で、これに続けて清経の入水が語られる。また、
清経の遺髪を手にした妻が「見れば目もくれ心も消えはて
なほも思ひのまさるぞや」にも、『謡曲集』(新編日本古典文学全
集)に、同じく「六道之沙汰」の、「目もくれ心もきえはてて」を参考として注にあげている。後者は類型的表現で、平家物
語の中でも複数回用いられている。場面も先帝入水の直後であり、清経の場面とはいささか離れているので、典拠とは言い切
れない。が、前者には指摘されるように、語り本系の影響の可能性は考えられる。もし灌頂巻の影響があるとするならば、世
阿弥は清経に関する言説を収集していたと思われる。
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20
(9)
岡田三津子『源平盛衰記の基礎的研究』(和泉書院
平成17年)「結び」(初出は平成12年6月)。氏は慎重に、「世阿弥の周
辺に盛衰記的な本文を有する何らかの平家物語があったと仮定はできても、それをどの程度現存の盛衰記本文と重ねてもよい
のか、まだ答えは出ていない」と発言している。また三宅晶子氏も最近、盛衰記の使用を指摘している(「能の現代
⑬〈敦盛〉
仇をば恩にて」(「花もよ」13号
平成26年5月))。
(10)
他にも、直実の法名が「蓮生」であることは延慶本・盛衰記にある記述だが、盛衰記に拠らなくては得られない特殊な知識
ではないだろう。なお、〈敦盛〉に「小枝・蝉折」とあり、「蝉折」は盛衰記だけにしかないとの指摘もあるが、「蝉折」は諸
本共に巻四に記されている。尤も、巻四の本文を参照しなくとも、〈頼政〉の作者である世阿弥の脳裏にはある程度記憶され
ていたのかもしれない。
(11) 『謡曲集』(日本古典文学大系)の注では長門本を引用しているが、『謡曲大観』にあるように、盛衰記を考えたい。
(12)
岡田三津子氏は、「心の花」と合わせて、忠度の歌道への執心を凝縮させた「花への修辞」と再評価する(「謡曲《忠度》花
への修辞│心の花か蘭菊の狐河より引き返し│」(『世阿弥の世界』京都観世会編
平成26年10月))。
(13)
前掲注(1)
(14)
前掲注(2)拙著第六部第一章(初出は平成12年3月)で、検討を加えた。
《参考文献・引用本文》
〈敦盛〉=『謡曲集』(日本古典文学大系
岩波書店)、〈敦盛〉以外=『謡曲集』(新潮日本古典集成)、覚一本=『高野本平家物語
東京大学国語研究室蔵』(笠間書院
濁点・句読点などを施す)、京師本=『平家物語』(三弥井書店)、流布本=『平家物語』(桜
楓社)、八坂系一類本=『中院本平家物語』(三弥井書店)、八坂系二類本=『平家物語』(国民文庫刊行会)、盛衰記=『源平盛衰記』
(古活字版)、延慶本=『校訂延慶本平家物語』(汲古書院)
(本稿は科学研究費補助金
基盤研究(C)「覚一本『平家物語』の遡行と伝播・受容についての基礎的研究」(課題番号23520
242)の助成を受けたものである。)
(さくらい・ようこ/本学教授)