寄り道・まわり道・弁理士までの道2008年 第10号 59...

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2008年 第1059 寄り道・まわり道・弁理士までの道 前  直美 は,研究者になりたいと思っていましたが,今は, 理士・技術生物工学として,研究開発のポー トおよ主に特許による研究成・活用をお手伝 いする事をしています.曲折ここにるまで は,の中でさまようウスのように計画もなく,あまり他人考にならないかもしれま .しかし,み多き若手の者の方々がしはになるかもしれないということで,そな「の場合」 のお話をさせていただくことになりました. 好きの延長で研究所に就職 将来について真に考えたのは,大学高校 卒業近づいてからでした.った,そのまま進学 できる大学の学の中から生物学を選びました. 然と, これからはの時代だと思っていたのですが,何よ りも,きなことでないとくできない性質なので,自 分が本当にきなことをとこと考えた結果子供の時 からきだった生き物に事にきたい,と思った からです. しかし,研究ができる事の集はどなく,何 もないのに活動も熱にしなかったので,大 卒業近づき,年が明けても職先はでした. 命科学研究に研究手として職できたのは的でした.ここは 年大女子集は 1 採用は数なのに,その年 しく集がありました.はすでにその 2 集をしてしまっていました.が,そこに,集があるからしたらどうかと大学の職支援当の 方から話があったのです.きわめて異例集と 大学からのお知らせのおかで,当希望のとおり研 究の事にけることになりました.大変幸運なことで した. この研究は大学に雰囲気研究で,しく事していました.研究手は,本的には 上司の研究員の指示で実をしていましたが,不在がちな研究配属されたため,かな り自広い実経験させてもらうことができまし た. しかし,がて自分が博士号を持っていないことに界を感じめました.また,研究のしさとはに,も し,自分のしていることが世のに立っている 実感が得られるような事をしたいと思うようにもなっ ていました.さらに,当時読んだ本に大変影響を受けま した.「環境報」という本で,80 年代であった当 時,すでに現環境に大いに警鐘らすでし た.とはいえ,当時日本では,社会が大学もあまりなく,にはとてもそれをするはありませ でした. そこで,するならアメリで,環境問題につ いて学たいと思い,学のめました.しかし 備期間TOEFL を受けている中で,ろうかとさえ思いましたが,とりあえまで受 けました.これが何とか事必要レベルの点数に達し, 一願を出したシントン DC の大学から入学をされました. 米国の大学院から企業へ 5 りお世話になった研究退職し,しまし た.が入ったのは環境学という,環境生などに関する理系目と,経済や環境策決定プロ スなどに関する社会学系目とが々の面ースでした.何もかも新学生生で,しいこ とも多い一方,でした.シントン DC は場政府関などでくパートタイ ムの学生が多く,で,らは事のに来て,わるとするというパターンで した.一方,は一していました.それ でも時りないど,むべき本や資が多く,つ いていくのに必でした. 目に入ってから,でお世話になった研究の先輩から, ニュージャージー会社 で日本研究者が自分の部しているので, しないかと連がありました.いろいろ考えたそのポジションにし,採用されました.目の に,大学学し, 引越しをして入社しました. 社には,多くの工場があり,移民や外国 も多く, に新入社員が大入社してきました. な中で,日本上司私以どいま でした.は研究職としてき,トガーに通ってしました.今度はがパートタイムの 著者紹介 サイリックス特許事務所 弁理士・技術士(生物工学) E-mail: [email protected]

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Page 1: 寄り道・まわり道・弁理士までの道2008年 第10号 59 寄り道・まわり道・弁理士までの道 前 直美 私は,研究者になりたいと思っていましたが,今は,弁理士・技術士(生物工学)として,研究開発のサポー

2008年 第10号 59

寄り道・まわり道・弁理士までの道

前  直美

私は,研究者になりたいと思っていましたが,今は,

弁理士・技術士(生物工学)として,研究開発のサポー

トおよび主に特許による研究成果の保護・活用をお手伝

いする仕事をしています.紆余曲折の末ここに至るまで

の経緯は,迷路の中でさまようマウスのように不器用で

計画性もなく,あまり他人の参考にならないかもしれま

せん.しかし,悩み多き若手の読者の方々が少しは気が

楽になるかもしれないということで,そんな「私の場合」

のお話をさせていただくことになりました.

好きの延長で研究所に就職

将来について真剣に考えたのは,大学付属の私立高校

で卒業が近づいてからでした.迷った末,そのまま進学

できる大学の学科の中から生物学を選びました.漠然と,

これからはバイオの時代だと思っていたのですが,何よ

りも,好きなことでないと長くできない性質なので,自

分が本当に好きなことをとことん考えた結果,子供の時

から好きだった生き物に係る仕事に就きたい,と思った

からです.

しかし,研究ができる仕事の募集はほとんどなく,何

の縁故もないのに就職活動も熱心にしなかったので,大

学卒業が近づき,年が明けても就職先は未定でした.

そんな私が三菱化成(現・三菱化学)生命科学研究所

に研究助手として就職できたのは奇跡的でした.ここは

例年大卒女子の募集は 1回,採用は数名なのに,その年

は珍しく二次募集がありました.私はすでにその 2回の

募集を見逃してしまっていました.が,そこに,三次募

集があるから応募したらどうかと大学の就職支援担当の

方から電話があったのです.きわめて異例の三次募集と

大学からのお知らせのおかげで,当初の希望のとおり研

究の仕事に就けることになりました.大変幸運なことで

した.

この研究所は大学に似た雰囲気の基礎研究所で,皆仲

良く楽しく仕事していました.研究助手は,基本的には

上司の研究員の指示で実験をしていましたが,私は偶々

多忙で不在がちな研究室長の下に配属されたため,かな

り自由に幅広い実験を経験させてもらうことができまし

た.

しかし,やがて自分が博士号を持っていないことに限

界を感じ始めました.また,研究の楽しさとは別に,も

う少し,自分のしていることが世の人の役に立っている

実感が得られるような仕事をしたいと思うようにもなっ

ていました.さらに,当時読んだ本に大変影響を受けま

した.「地球環境報告」という本で,80年代であった当

時,すでに現在の環境危機に大いに警鐘を鳴らす書でし

た.とはいえ,当時日本では,社会人が大学院に戻る例

もあまりなく,私にはとてもそれをする勇気はありませ

んでした.

そこで,再び勉強するならアメリカで,環境問題につ

いて学びたいと思い,留学の準備を始めました.しかし

準備期間が足りず,TOEFLを受けている途中で,諦め

て帰ろうかとさえ思いましたが,とりあえず最後まで受

けました.これが何とか無事必要レベルの点数に達し,

唯一願書を出したワシントン DCの大学院から入学を許

可されました.

米国の大学院から企業へ

5年余りお世話になった研究所を退職し,渡米しまし

た.私が入ったのは環境科学という,環境汚染や公衆衛

生などに関する理系科目と,経済学や環境政策決定プロ

セスなどに関する社会科学系科目とが半々の面白い修士

コースでした.何もかも新鮮な留学生生活で,楽しいこ

とも多い一方,勉強はハードで孤独でした.ワシントン

DCは場所柄,昼間は政府系機関などで働くパートタイ

ムの学生が多く,授業はほとんど夜で,彼らは仕事の後

授業に来て,授業が終わるとすぐ帰るというパターンで

した.一方,私は昼間は一人で勉強していました.それ

でも時間が足りないほど,読むべき本や資料が多く,つ

いていくのに必死でした.

二学期目に入ってから,卒論でお世話になった研究室

の先輩から,ニュージャージー州の製薬会社(ロシュ社)

で日本人の女性研究者が自分の部下を探しているので,

応募しないかと連絡がありました.いろいろ考えた末,

そのポジションに応募し,採用されました.二学期目の

終了後に,大学院を休学し,引越しをして入社しました.

ロシュ社には,多くのビルや工場があり,移民や外国

人も多く,毎週月曜に新入社員が大勢入社してきました.

そんな中で,日本人は私の上司と私以外,ほとんどいま

せんでした.昼は研究職として働き,夜はラトガーズ大

学院に通って勉強しました.今度は私がパートタイムの

著者紹介 サイリックス特許事務所 弁理士・技術士(生物工学) E-mail: [email protected]

Page 2: 寄り道・まわり道・弁理士までの道2008年 第10号 59 寄り道・まわり道・弁理士までの道 前 直美 私は,研究者になりたいと思っていましたが,今は,弁理士・技術士(生物工学)として,研究開発のサポー

60 生物工学 第86巻

学生でしたが,ラトガーズでは逆にほとんどがフルタイ

ムの学生でした.上司をはじめ,他の研究者や従業員か

ら学ぶものも多く,外国企業での研究や情報管理,人事

システムなども,すべて貴重な経験となりました.

ところが,1年後,ワシントンDCの大学院の休学の延

長が許されなかったため,退学か退社かの選択を迫られ

ました.退学して,ロシュで働きながらラトガーズ大学

院で博士号を取得することもできました.しかし結局,

いったん戻って最初の環境科学のプログラムを修了しよ

うと考え,1年2ヶ月で退社となりました.

再び引越しをし,復学しました.なんとか無事修士号

を取得したところで,いったん帰国しました.滞在中に

グリーンカードが取れたので,ここで帰国しないともう

日本に帰らないように思い,また逆にいつでもアメリカ

に戻ってこられると考えたためです.しかし,結果的に

は,その後,グリーンカードは返上しました.

特許事務所との出会い-弁理士・技術士の仕事

日本での再就職は厳しいものでした.当初は環境保護

関係の仕事を希望しましたが,当時日本はいわゆるバブ

ル崩壊直後であり,環境に関する社会の意識も低い状態

だったため,仕事自体がありませんでした.また,当時

の日本はまだ求人の条件に性別や年齢の制限があり,希

望に近いものがあっても私は応募すらできませんでした.

しかし,落胆していても仕方ないので,これまでの自

分の専門知識・経験を生かせ,自分に続けられそうな仕

事を探しました.生物系の研究開発のキャリア,米国企

業での経験,多少の英語,それらが生かせ,なおかつ年

齢や性別で制限がないのは,特許事務所だったのです.

そこで特許事務所の求人を見つけ,応募し,就職しま

した.よく知らないまま,他に選択肢が乏しい状況で飛

び込んだ世界でしたが,すぐにこの仕事なら一生続けら

れるかもしれないと考えるようになりました.面白かっ

たからです.

一生続けるなら弁理士資格を取りたいと思いつつ,ま

ずは実務を覚えることを優先し,並行して技術士の資格

を取得しました.これは研究開発経験がベースになり,

運よくさほど苦労せずに済みました.そして,次に弁理

士資格を取得しようとしたところへ,駆け出しの身で訴

訟がらみの重要案件を担当することになりました.こう

なると,仕事はおもしろい,おもしろいので資格は取り

たい,資格は取りたいが勉強時間がない,という状況で,

資格のための勉強をいったん中止して仕事に没頭しまし

た.その案件が一段落してから,今度は仕事を減らすた

めに事務所を退職し,少しだけ技術士として仕事をしな

がら集中的に試験勉強をし,運よく弁理士資格を取得す

ることができました.

弁理士の仕事は,研究そのものではなく,あくまでサ

ポート役です.研究者(発明者)と特許庁との間で,あ

るいは訴訟案件では研究者と弁護士さんとの間で,橋渡

し役をしたり,文献調査や海外とのやりとりをしたりし

ます.ほとんどがデスクワークであり,勝負の土俵は基

本的には紙の上,つまり言葉であり,文章です.句読点

ひとつにもこだわります.そこに句読点があるかないか

で,文脈が変わり,ひいては裁判に負けることもあるか

らです.また,逆に,訴訟チームの一員として働く場合

には,相手方の細かいミスを徹底的に探すこともします.

そういった,いわば重箱の隅をつつくような作業は注意

力と忍耐力を要します.また,書類などの提出期限は絶

対なので,常に時間に追われ,期限に追われ,場合によっ

ては年末年始さえ休みもないこともありますし,期限が

近いのに書類ができないときは寿命が縮むような思いも

します.法改正や新しい判例,国際動向など,勉強は一

生続きます.

一方,弁理士は,専門分野に限っても広くいろいろな

テーマについて,常に新しい技術を勉強し,驚いたり感

心したりの連続で,飽きることがありません.そして,

従来から年齢や性別による差別がなく,実力があれば,

一時仕事を離れても復職が困難ではなく,短時間の就労

や自宅勤務など,さまざまな働き方が可能です.女性の

弁理士は,まだ全体の1~2割程度ですが,これらの点か

ら女性には特に有利な仕事といえると思います.

いつからでも何度でも-気持ちがあれば実現する

最初に書いたとおり,私は,研究者になりたかったけ

ど,なりきれず,今後なることもないと思います.しか

し,どうしてもなりたければなれたはずです.今からで

は無理と思った後も,何度かチャンスはありました.

結局,私はそれらのチャンスを選ばずここに至ったわ

けですが,簡単にそう決められたわけではなく,迷路の

中で何度も行くべき方向を見失ったり,行きたい方向に

うまく進めなかったりしました.しかし,そうした中で,

壁にぶつかっても,ちょっと冷静になって見回せば必ず

出口があるし,転んだら何か拾って立ち上がればよいと

いうことも覚えました.つらい時期や回り道は一切無駄

になっていないと思います.これからも迷路は続きます.

若い方には,もし万が一,希望の進路へまっすぐ進め

なくても,少し見方を変えてみると必ず別の道や行きた

い方向へ続く道が見えてくる,いつかまた次のチャンス

にも出会うということを信じてみてほしいと思います.