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春闘史からみたチッソ㈱の労使関係:1963-81年 はじめに 本論文は1960年代初頭から80年代劈頭にかけての春闘をめぐるチッソ㈱ (以下,チッソ)の労使関係をあつかう。執筆の動機は二つある。表題には 春闘史を掲げてあるが,第一にチッソ史の文脈,第二に春闘史の文脈におけ るそれである。 チッソ史の文脈とは,本稿が主たる対象とするチッソの第一組合たる新日 窒労組が関わる。この組合は水俣病問題や公害問題に取り組んだことで名高 い。一般に企業別組合が自企業の公害問題を活動課題とすることはたいへん 難しいとされる。新日窒労組をしてその難題に取り組ませる下支えになった のがこの組合が作った春闘の仕組みとその強固さであると筆者はみている。 そのあたりを示してみたい。これが第一の動機である。 第二の春闘史の文脈では次のような論点をとりあげる。チッソは複数の労 働組合の存在した企業である。特異なのは,二つといっても,拮抗した勢力 を保った二つの組合が対抗しつつ存続した事例であることである。そのよう な状況のなかでどのような春闘が展開したのか。これが第一の論点である。 第二は,経営危機に陥り,しかもある時期からは公的資金の投入により救済 される企業において,どのような春闘が展開されたのか,これである。第三 は,一般に春闘が変質したとされる 1) 1970年代においてその変質から遠い位 置にあった産別組合である合化労連の傘下の単組が力をもった企業ではどの ような春闘が展開されたのかという論点である。 具体的事実の叙述に移るまえに注意したいポイントをいくつかあげておく。 新日窒労組の運動の原点をかたちづくったのは言うまでもなく安賃争議 (1962~63年) 2) である。これはほかならぬ本稿であつかう賃金運動に端を発 ―27―

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春闘史からみたチッソ㈱の労使関係:1963-81年

富 田 義 典

はじめに

本論文は1960年代初頭から80年代劈頭にかけての春闘をめぐるチッソ㈱(以下,チッソ)の労使関係をあつかう。執筆の動機は二つある。表題には春闘史を掲げてあるが,第一にチッソ史の文脈,第二に春闘史の文脈におけるそれである。チッソ史の文脈とは,本稿が主たる対象とするチッソの第一組合たる新日

窒労組が関わる。この組合は水俣病問題や公害問題に取り組んだことで名高い。一般に企業別組合が自企業の公害問題を活動課題とすることはたいへん難しいとされる。新日窒労組をしてその難題に取り組ませる下支えになったのがこの組合が作った春闘の仕組みとその強固さであると筆者はみている。そのあたりを示してみたい。これが第一の動機である。第二の春闘史の文脈では次のような論点をとりあげる。チッソは複数の労

働組合の存在した企業である。特異なのは,二つといっても,拮抗した勢力を保った二つの組合が対抗しつつ存続した事例であることである。そのような状況のなかでどのような春闘が展開したのか。これが第一の論点である。第二は,経営危機に陥り,しかもある時期からは公的資金の投入により救済される企業において,どのような春闘が展開されたのか,これである。第三は,一般に春闘が変質したとされる1)1970年代においてその変質から遠い位置にあった産別組合である合化労連の傘下の単組が力をもった企業ではどのような春闘が展開されたのかという論点である。

具体的事実の叙述に移るまえに注意したいポイントをいくつかあげておく。新日窒労組の運動の原点をかたちづくったのは言うまでもなく安賃争議(1962~63年)2)である。これはほかならぬ本稿であつかう賃金運動に端を発

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した大争議であった。それゆえ安定賃金(以下、安賃と略記することもある)という賃金交渉方式がチッソならびに新日窒労組の春闘にどのような影響をおよぼしたかが逸することのできないポイントになる。とりわけ新日窒労組は安賃争議に先立って特徴のある交渉方式を作り上げており,それがどのような影響をうけたかに注目したい。第二点は,上で二つの組合が併存したと述べたことに関わる補足である。

安賃争議を境にチッソは複数組合となったが,単に少数派組合が存在したというものではなく,四半世紀ちかく拮抗した二つの組合が並び立っていた。そして1970年代に入ると,新日窒労組はチッソの複数の子会社をも組織する組合へと変貌する。そのような企業ゾーンを組織することになった企業別組合がどのような春闘システムを作り上げたか。この点にも注目したい。次いで,叙述のスタイルに関わるポイントをあげておく。本稿があつかう

時期は,安賃争議直後(1963年)から1981年までである。主に春闘に関わる事業を時系列的スタイルで追ってゆく。春闘は直接には企業別組合が担ったわけであり,新日窒労組もその例に漏れないが,同時に化学産業の単組は,春闘方式を生み出した太田薫その人の本籍地である合化労連の傘下にあり,産別組合からの入力がことのほか大きかった。そして言うまでもなく全産業レベルの春闘の動向からもつよく影響を受けた。それゆえ,各年の春闘の説明のはじめに全国的な景気動向や産業レベルの春闘状況の説明をおくことにする。主に取り上げるのは春闘であるが,一時金の交渉も賃金交渉のあり方を左

右する場合は説明に加える。また,第二組合であるチッソ労組の春闘・一時金交渉も,さらにチッソの子会社の春闘も必要な場合は取り上げることにする。くわえて,獲得された賃上げ幅のレベルを見定めるため,当時化学産業界

の労使により目安とされることの多かった住友化学(鉄鋼業の八幡製鉄にあたる)の賃上げ実績を参照基準として示すことにする。

時期区分は,以下のとおりとする。1963-65年:安定賃金下の春闘

佐賀大学経済論集 第51巻第4号

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1966-72年:大合理化期の春闘1973-76年:経営危機下の春闘1977-81年:緩やかな収束へ1963-65年は安賃争議の結果により安定賃金が協約化され,いわゆる春闘方式が停止されたわけだが,新日窒労組もチッソ労組も安定賃金方式の明ける年をにらみながら準備を進めていた。そのあたりの取り組みを二つの組合を対比しながら見てゆく。1966-72年は,チッソで進行した大合理化の時期である3)。この時期にも会社は安定賃金に固執する。それに対し新日窒労組は独自の春闘方式を対置しようとし,ぶつかり合いとともに奇妙ともいえる妥協体制がみられる時期である。1973-76年は,73年が水俣病裁判の判決が下される年でもあり,チッソの経営はまさに行き詰る。そのなかにあっても組合は積み重ねてきた春闘の方式を貫こうとする。1977-81年は,経営のさらなる行き詰まりとチッソをめぐる社会大の環境変化があり,労使にも組合にもそれまでとは異なる性格が生まれてくる。

1 安定賃金下の春闘- ポスト安賃方式への模索:1963-65年

1963年の安賃争議の終結時に新日窒労組が会社と結んだ賃上げに関する協約(安定賃金協約)を振り返っておこう。64年賃上げまでの協約であり。次のような中身であった。1962年度 賃上げは2,600円とする1963年度 賃上げは同業8社(東洋高圧,日東化学,日産化学,住友化学,宇部興産,東亜合成,三菱化成,三井化学)の賃上げ上位6社の平均に500円を加算した額とする1964年度 賃金引き上げは地労委による裁定額とする以下,順を追って各年の春闘および一時金交渉の実際をみてゆく。

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1963年春闘八単産共闘からはじまった全国レベルの春闘4)も開始後8年を経過し,い

ま一つ沈滞ムードから抜け出せないでいた。そのようななかこの年は「ヨーロッパなみの賃金を」というスローガンを掲げて臨んだ春闘であった。しかし総じて低調な賃上げストの連鎖しかつくりだせず,要求額こそ4,000円以上を掲げた単産が多かったものの,結果は平均2,000円台の賃上げにとどまり,前年度の実績にとどかなかった。

チッソの春闘はどのようであったか5)。新日窒労組に関しては,組合新聞「さいれん」の4月のいくつかの号に他社の春闘の経過が記載されているくらいで,安賃協約(上述)にそった検討と計算がなされて金額が決定されたものと考えられる。とくに賃上げ運動らしいことは行われなかった。チッソ労組についても同様である。しかし,賃金をめぐる紛争は生じていた。チッソはこの時期,労働者各人

の賃金を格付けるための等級制度の改変を行った。等級制度を「資格制度」から「職能制度」へと変更した。この両制度とも一般にイメージされる「資格制度」や「職能制度」とは異なるが,労働者個々の格付けを旧制度の等級から新制度のそれへと乗り移らせるさいに二つの組合間で差が付けられているのではないかとの疑義が生じていた(詳細は富田(2017c))。

それらのこととは別して,賃金交渉に関わって,ここで確認しておくべきことがらが生じている。春闘の方式に関わることである。1963年・64年は新日窒労組は安定賃金を

協約化していたため春闘方式は取れなかった。そのかわり組合は,安賃協約から抜け出る65年以降の春闘の交渉のあり方をどうするべきかを考えていた。そこで選択された方向は,安賃争議の起こる少し前に自らが定めた方式の再確認を行い,その新日窒労組ならではともいうべき春闘方式をできる限り安賃明けにおいても貫くということであった。それは次のような手順を踏むということである。比較較対照のため,その

後にチッソ労組の春闘方式をあわせて記しておく。

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[新日窒労組の春闘方式]①組合員アンケートを採る⇒②それをもとに賃上げ要求の執行部案を作成

する⇒③それを職場に持ち帰り討議する⇒④職場の代表からなる代議委員会で討議し要求案を完成⇒⑤それを組合員全員投票にかける⇒⑥その決定とともに,企業内のストライキ権およびスト権の産別組合=合化労連春闘中闘への委譲を決定する⇒⑦労使交渉⇒⑧交渉結果を代議委員会で討議し収拾を決定⇒⑨代議委員会の決定を組合員全員投票にかける⇒⑩春闘の妥結。春闘では以上の手順をたがえなく踏む。これが新日窒労組の春闘方式で

あった。これらのなかで特徴的なのは,第一は,要求の決定と同時にスト権の確立とスト権の中闘委譲を行うこと,第二は,交渉の妥結のさいの組合員全員投票である。スト権の中闘委譲は,合化労連傘下の単組ではめずらしくないが,会社からは,つよい違和感をもって受け止められた手続きである6)。妥結のさいの全員投票につては,春闘の収拾の判断を組合執行部だけに任せるべきでないとの考えにもとづいており安賃争議の直前に制度化された。これは時には組合大会を開きそこでの投票によって替えられることもあった7)。[チッソ労組の春闘方式]チッソ労組の春闘の手順には一定しないところがある。ここでは,比較的

丁寧な手順が踏まれた1965年のそれを示す8)。①組合員アンケートの実施⇒②賃金専門委員会で労使協議⇒③組合協議会

(=執行部)で要求案作成⇒④組合代議員会で要求を決定⇒⑤職場巡回により要求を説明⇒⑥労使交渉⇒⑦代議員会にて妥結案決定⇒⑧全員投票にて妥結決定。最後の妥結は全員投票ではなく代議員会決定で代えられることも多く,こ

れらのなかで安定的に行われ,チッソ労組の春闘の特徴といえるのは,賃金専門委員会の存在である。これは労使協議機関であり,要求決定の前段に労使協議をはさむ形が採られていた点に,注目しておきたい。ちなみにチッソ労組は,発足当初は同盟への参加は認められなかったが,

安賃争議後に同盟に加盟している。

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1963年夏季一時金交渉1963年の春闘は安定賃金協約の内にあったが,一時金交渉はその枠にはなかった。それゆえ新日窒労組はそれまでの方式を堅持することを確認したところでもあり(上述),きちんとしたスケジュールを立てて交渉を運ぼうとした。経過を説明すると,5月に要求額の検討を開始し,6月初旬に組合代議委員会で要求額(案)を決定し投票を経て要求額を決定した。それと同時にストライキ権も確立した。スト権の合化労連への委譲は,一時金交渉では行われない(以降も同様)。要求額は,基本給*=1.8ヵ月分(54,000円),一律=20,000円,手当その

他=2,832円,計76,832円であった。* 当時のチッソの賃金体系では基本給の構成は,基本給=職場給+年齢給であった。「職場給」には,個人査定分が含まれる。この基本給の構成は1968年の「職能給」の導入まで変わらない。詳しくは,富田(2017c)をみられたい。

上記を受けて,組合と会社との交渉は7~8月に行われ,三度の交渉を経て会社は回答を提示した。回答額は,基本給=1.3ヵ月分(38,667円),一律=5,500円,特賞=2,539円,手当その他=735円,計47,441円であった。回答の提示は8月10日で,新日窒労組は同17日回答額での収拾を決めた。その間にストは打たれなかった。交渉過程のなかで労使が対立したのは,会社が特賞という個人査定にもと

づく部分を建てて金額提示してきたことをめぐってであった。もともと基本給の職場給に査定分がはいっているので,この回答方式ではいっそう査定分が増えることとなり,新日窒労組ではチッソ労組との差別が増すのでないかという懸念が生じたためである。しかし組合はこの問題については次期の一時金交渉にもちこすことで矛を収めた。チッソ労組の交渉も,妥結金額は新日窒労組と同額であった。また,本稿

で参照基準とするとした住友化学の妥結額をしめすと,59,000円であった。

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1963年 年末一時金交渉1963年年末一時金交渉は,11月初旬,新日窒労組が要求額を,基本給=1.9ヵ月分(56,082円),一律=20,000円,手当その他=2,388円,計78,470円と決したところから開始された。スト権も同時に確立された。会社との交渉は11月いっぱい行われ,同月末,会社は回答として,基本給=1.25ヵ月分(36,511円),一律=6,500円,特賞=3,771円,手当その他=1,020円,計47,802円をしめした。この回答については,夏季一時金と同じく特賞分での折り合いがつかず,

組合が熊本地裁へ調停申請をする姿勢をみせたため,会社が譲歩し,「特賞の最低保証500円,職能等級の下位者の平均額1,000円の確約」を示したため,回答どおりでの収拾が決まった。この間ストは打たれなかった。チッソ労組の交渉も同額で決した。住友化

学の妥結額は,61,000円であった。

1964年春闘この年は東京オリンピックの年にあたり景気は上向き,太田薫総評議長の

「青年よ ハッスルせよ!」の掛け声のもと,民間単産中心のストのラインアップが組まれ盛り上がりをみせた。しかし警戒した政府が「池田・太田のトップ会談」を組んだため水を差された。それでも,民間諸単産による相場作りで前進を見せ,上げ幅は3,000円を越え前年を上回った。

チッソの春闘はどのようであったか。新日窒労組の64年春闘は安定賃金協約の最終年にあたり,先に紹介したように引き上げ額は地労委の裁定によるとされていた。実際の進め方は最初から地労委を煩わすのではなく,通常のように組合の要求提示・交渉・会社回答の順で進められた。新日窒労組は先に紹介した手順を踏むこととして,2月下旬引き上げ要求

額を決定し経営に提示した。基本給=5%(1,363円),一律=4,000円,手当その他=1,287円,計6,650円であった。これは合化労連の決めた要求水準である一律3,000円プラスα,計5,000円以上に沿うものであった。交渉に移ったが,会社がたいへん固く,4月は交渉開始にすら至らなかっ

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た。5月に入り,地労委の勧告もあり交渉はできたが,出された回答は,基本給=4.8%(1,338円),一律=1,300円,個別査定=1,664円,手当その他=445円,計4,747円であった。組合は前年の一時金回答と同様査定分が入っていることに反発した。そのため,当初の予定どおり地労委の裁定にもちこまれ,ようやく6月10日回答どおりで決着した。その過程で組合は前年に改定された「職能制度」の等級の昇進においてチッ

ソ労組と新日窒労組との間に差別があったことを主張した。地労委はそれを一定認め,個人査定の下限額を査定の基準額の20%に定めるという規制を示した9)。それにより新日窒労組は回答額での収拾を決めた。

1964年 年末一時金交渉1964年の一時金交渉については年末一時金交渉をとりあげる。新日窒労組は,10月下旬要求を決めた。基本給=1.9ヵ月分(65,064円),一律=20,000円,手当その他=4,510円,計89,574円であった。スト権の確立も同時に行った。11月に数度交渉したのち,12月初旬会社から回答が示された。回答は,基本給=1.4ヵ月分(48,240円)一律=10,000円,特賞=7,000円,手当その他=1,119円,計66,359円であった。この期も特賞の存在をめぐって紛糾したが,会社が最低特賞額として700円を保証するとしたことで妥結した。ストは行われなかった。住友化学の同期の妥結額は,68,860円であった。

子会社・南九開発との賃金交渉の開始1964年のチッソの一時金交渉には新たな動きがあった。先に説明したように63年末にチッソから子会社・南九開発(後にチッソ開発と改称)に指名配転された新日窒労組の組合員は,配転を不服として福岡高裁に抗告し係争中であったが,実際は64年年初から南九開発の仕事に従事していた10)。それゆえ新日窒労組は南九開発に新日窒労組との春闘・一時金交渉に応ずるよう求めていた。当初はチッソと南九開発は難色を示していたが,64年10月チッソは南九開発をめぐる新日窒労組との交渉(実際は南九開発と新日窒労組との

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交渉)を認めた。これによってチッソから切りはなされて子会社に移った新日窒労組組合員の賃金交渉等を新日窒労組が担う体制ができたことになる(後出図表2を参照)。実際の新日窒労組と南九開発との交渉は1964年12月から始まり,新日窒労

組は南九開発に64年の春季賃上げ,夏と年末の一時金の引き上げ要求を提出した。ただし,この時点では南九開発への配転が法的な決着をみていないので(組合員が正式に南九へ移籍していないとみて)新日窒労組は南九に別の要求を別途提示したわけではない。しかしともあれ会社は,一時金の回答として一人平均38,600円(構成要素の配分は省略)を提示した。これには組合も配転者も「俺たちをバカにしている」とつよく反発し,組合内で激論がたたかわされた。だが年末でもあり,年を越しても勝算は乏しいとして,組合内で配転者向けの支援のカンパを募ることとして,収拾を決定した10)。

1965年春闘1965年は不況下の春闘であった。特筆すべきは合化労連が春闘の賃上げストの先陣に立ったことである。合化労連は無期ストに入った住友化学と東洋高圧を中心に果敢に闘った。全産業レベルでも件数・損失日数とも春闘史上屈指の数字に達し強力なスト戦線をつくり上げた。ところが上げ幅は,前年を上回ることができなかった。この年は春闘史においても屈折点を刻した年でもある。第一は,公労協の

主力部隊の一つである全電通が総評の春闘方針に批判を加え,それ以降の春闘や公労協の運動の足なみのみだれにつながっていった。第二は,鉄鋼労連が春闘共闘のストの隊列のなかに加われなくなる,いわゆる JC春闘の足音が近づいてきていたことである。

チッソの春闘に移ろう。すでに述べているように,1965年は安定賃金協約から抜ける年であった。新日窒労組はかねて確認していたとおり確固としたスケジュールで春闘を運ぼうとした。65年2月初旬,組合は要求額を決定した。基本給=10%(3,241円),一律=5,000円,計8,214円の引き上げであった。他方会社は,再建を託された興銀出身の江頭豊が社長に就任して最初の

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春闘であり,たいへん固かった。4月には交渉に入ったが,会社が示した回答はゼロであったので交渉は中断した。ようやく5月半ばに再開し,会社は回答を示したものの,2,000円の引き上げであった。組合は論外であるとして,5月20日24時間全面ストを実行した。安賃争議以来,3年ぶりのストであった。会社もさすがに打開策を出さざるを得ず,次のようになった。すなわち65年度の化学春闘の標準額は3,500~3,600円であり,さしあたり2,000円を支払い,それと3,600円との差額1,600円は67年以降に支払う,そして基本給は退職金の算定ベースであるので退職時までに不利にならないように配慮を行うとした。組合は,議論の末やむを得ずとして会社回答を受け入れることを決めた。ちなみに,住友化学の春闘妥結額は3,900円であった。

チッソ労組の春闘-労使協議機関「賃金専門委員会」の介在1965年に安定賃金協約から抜け出たのはチッソ労組も新日窒労組と同じである。同年チッソ労組はあらためて会社と協議を行い,1965年・66年に関わる「長期賃金協定」を結んだ。協定の中身については,組合新聞「しんろう」には記載がないものの,68年の同協定の延長のための協議のさいの労使のやり取りから12)推して,賃金自粛とまでは言わないにしても生産性の伸び以上の賃上げを基本とするいわば生産性基準原理にちかいものであったと考えられる。交渉制度にそくして見ておくと,チッソ労組ではこの年(65年)から立ち

上がった労使協議機関「賃金専門委員会」(先掲)において労使で揉んだうえで賃上げ水準を提示してゆくという方式が採られることになる。65年3月に,チッソ労組は賃金専門委員会にて労使で他企業のデータや自社の業績等の検討を行い,あらかじめ実施しておいた組合員アンケートの結果を加味し,4月に賃上げ要求を,一律=1,400円,基本給定率分=1,551円,基本給査定分=1,109円,年齢給=80円,計4,140円と決定した。査定分を自ら掲げている点が新日窒労組とは異なるところである。次いで交渉に入ったが,会社は固くゼロ回答であった。それにはチッソ労組もつよく反発した。5月に入り,会社は新日窒労組と同じ日に同じ額2,000円の回答をチッソ労

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組にも示した。これには新日窒労組に示したのと同様の趣旨で業界の標準額との差額である1,600円をいずれ補填するとの但し書きが附加されていた13)。チッソ労組は新日窒労組よりも3日前の5月24日に賃上げ額2,000円の受け入れを決めた。65年の賃上げに関しては,チッソ労組も想像以上に奮戦したのちに回答を呑んだ印象を受ける。しかし,同労組は65年の賃上げ妥結にとどまらず66年の賃上げについても協約を結んでいた(上述「長期賃金協定」)。そこでは66年の賃上げは「普通並みの額を引き上げる」とされていた。

ともあれ,65年の賃上げでは二つの組合は同じ引き上げ額で事態を収拾したわけである。その過程においてチッソ労組は新日窒労組による24時間全面ストをはげしく非難し,スト中は彼らの機転と尽力により設備の稼働は維持されたと自らを誇った13)。対する新日窒労組はチッソ労組の締結した「長期賃金協約」は安定賃金に他ならないと激しく批判した。

1965年 年末一時金交渉新日窒労組はこの期からチッソ開発に対しても要求金額を提示し交渉を開

始することになる。同労組としては、チッソ開発に配転されたとはいえ同一組合員である以上チッソ開発の組合員もチッソと同一の労働条件を保証されるべきであるとの構えをくずしていないためチッソと同一の要求額をチッソ開発にも提示する。この場合は一時金であるので、基本給=2ヵ月分、一律=20,000円、手当その他=15,000円の要求を行った。金額ベースにすると、両社には基本給の差があったので、チッソは計97,400円、チッソ開発は計94,700円と差が付いたが、基本給の月数や一律分などはまったく同一の要求を行うことにこだわった。スト権についてもチッソ開発へのスト権をチッソと同じように確立した。実際の交渉は、11月半ばから両社並行して行われた。会社側は、チッソ開

発の労働条件については組合と立場を異にしており、配転当初は両社の組合員の賃金は同一であるべきだとしてもその後はそれぞれの会社の事情により決するべきだとして、チッソは11月下旬、基本給=1.48ヵ月、一律=4,500

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円、特賞=7,000円、計64,500円、チッソ開発は12月初旬、基本給=0.83ヵ月、一律=9,000円、計47,033円(その他5,000円を無利子貸し付け)と、それぞれ別個の回答を示した。チッソ開発は、賃金に加えて無利子貸し付けを提示しているところが注目される。これに対して新日窒労組内では議論がたたかわされ、結局、執行部提案に

より、チッソに遅れること一週間でチッソ開発も回答を受け入れるかたちで、一時金交渉は終結した。このような、新日窒労組はチッソにもチッソ開発にも同一要求を提示し、

会社側は、別個・別額の回答を示すパターンは、この後の一時金交渉・春闘に定着してゆくことになる。

2 大合理化期の春闘― 安定賃金と春闘方式との妥協:1966-72年

1966年という年はチッソがはっきりと経営の行き詰まりをしめした年であった。すなわち66年度の決算では10億円超の赤字を出し,春闘期の3月決算でも2億円近い赤字を計上していた。2年連続の無配にも落ち込んでいた15)。会社はそのようななか再建を託された江頭社長のもと大合理化計画である「再建5か年計画」の策定を進めていた。それゆえ春闘での会社の固さは論をまたないものであり,組合にはふたたび安定賃金の協約を求めてくることになる。それに対して,新日窒労組はこれまた前の時代に確認されていた自らの春闘方式の堅持を基本にしようとしていた。双方ははげしくぶつかることとなる。それがこの時期の特徴であり,また一種独特な妥協体制を現出させることになってゆく。

1966年春闘まず全国の動向を振り返っておこう。この年も不況の春闘で,前年に引き

つづき合化労連が先頭に立つスト・スケジュールが組まれた。ところがその一角である東洋高圧の組合に合化労連脱退問題が起こり,同組合が分裂したため大手総合化学メーカーが先頭に立てず,硫安三社(日本水素,製鉄化学,

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東北肥料)が先陣を切ることになった16)。また,この年は鉄鋼労連が正式にJC加盟し,「鉄の一発回答」がはじまる年でもある。しかしそれでも,硫安三社から総合化学大手への賃上げ相場の波及がうまくいったこともあり,全産業平均での賃上げは3,200円を超え戦後二番目の水準を獲得することとなった。さて,チッソの春闘は,新日窒労組が同年2月9日に要求を決定したとこ

ろから始まった。賃上げ要求額は,基本給=10%(3,857円),一律=5,000円,計8,857円(手当その他を除く)であった。スト権とその委譲も型どおり決定された。交渉は3月に始まったが,進展せず翌月に持ち越され,再開された4月に会社は職場給スライド=3.6%(1,206円),一律=1,200円,査定分=1,248円,計3,654円(手当その他を除く)を回答した。組合は不服とし,4月中に24時間と16時間の二波のストを打ったが,それ

でも進展を見ず,5月に入り地労委へあっせんの申請がなされた。このとき同時進行していたチッソ開発の春闘交渉もあっせんに掛かることとなり,双方のための聞き取りが行われた。それでも出口が見えず,6月中旬組合は40時間のストを敢行したが,結局,組合は回答額での収拾を決めた。6月28日まで持ち越された末の決着であった。同年の合化労連傘下の組合の平均賃上げ額は3,890円であった。

1966年夏季一時金交渉1966年の新日窒労組の夏季一時金交渉は,春闘が上記のような経過をたどったため春闘の終盤と重なり合いながらはじまった。6月初旬,組合は一時金要求を基本給=2ヵ月(7,1336円),一律=20,000円,計91,336円(手当その他除く)と決定した。スト権も確立した。春闘交渉と並行して行われた交渉で,会社は比較的短期で回答を示した。基本給=1.35ヵ月(52,888円),一律=10,000円,特賞=7,000円,計69,888円(手当その他除く)であった。組合は反発し,7月2日から32時間ストを打ったが,7月12日回答額での収拾を決めた。この夏季一時金交渉の過程で交渉制度に関わる一つの問題が生じていた。

会社が,この後も夏季一時金交渉は春闘と同じ時期に並行して行いたいと提

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案してきたのである。実際にこの年はそのようになりかけていたのであるが,新日窒労組はそれとは裏腹に,夏季と年末の一時金交渉を同じ時期に(年末に)行いたいと考えおり,現にそのことを会社に提案していたのである。

1967年春闘-再び安定賃金へ1967年は久々に景気が上向いた年であった。この年も合化労連が先頭に立ち,決着は5月になったもののストの山場をつくることに成功した。JC春闘と呼ばれはじめ経済整合性論が唱えられるなかで奮闘したと評価されよう。上げ幅は,全産業平均で3,400円を超え,戦後最高を記録した。チッソの春闘に移ろう。会社は8月に「再建5か年計画」を発表し,本格

的合理化に乗り出すことになる。それゆえ会社がいつになく固くなることは予想されていた。その結果春闘の交渉のあり方にも一つの屈折点が訪れる年になる。新日窒労組は,1967年2月春闘の要求額を,基本給=10%(3,686円),一律=5,000円,計8,686円の引き上げと決めた。スト権とその委譲も決定した。会社は4月に入りようやく交渉に応じ,他社では回答が出始めていたにもかかわらず,回答はできないとした。5月に入り,東京で交渉は再開されたが,会社は収益の落ち込みを説明するだけで具体的な進展はなかった。5月中旬交渉は水俣で再開され,会社は,①2年間の安定賃金,②賃上げ額は「普通並み」とする,その意味は,財閥系を除く会社で「チッソと同じような業績の会社」なみということである,③安賃料として2,000~3,000円を一時金として払う,以上の提案をしてきた。組合は,むろんはねつけたが,会社は「普通並み」とはこの年では4,400

円となり,また安賃料はベースアップへの加算ではなく当該年度限定の月給への加算であることを明らかにした。組合は拒否の意思をこめ,5月24日19時間ストを打った。会社は,さらに6月に入ると,新たに合理化への協力協定の締結を求めて

きた。組合は安定賃金への嫌悪感もつよく,6月6日から再度43時間ストを敢行した。ここまでくると,先の安賃争議の再発かという雰囲気も漂ってきた。しかし今回は労使に厭戦気分もはたらき,東京で夏季一時金も含めて交渉を再開することになった。それに際し,水俣の組合は6月に代議委員会を

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三度開催し,①67年単年度の安定賃金を認める,②安賃料は拒否することを決めた。それを受け団交が再開されたが,会社は次年度までの安賃以外は認めないとした。組合は6月27日,7月3日と代議委員会を開き,今回の安賃提案には合理化協力は含まれず賃金協定だけであることが確認できれば会社提案を呑むことを決議した。組合新聞「さいれん」では,その決議に関して,代議委員会では「いまは勝負する時ではないと(して)提案」されたと報じている17)。おりしも大きな課題となりかけていた会社による合理化提案への対応に力を注ぎたいとの組合の意思がそこにはあったとみることができる。結局,1967年の新日窒労組の春闘は賃上げ4,400+2,000~3,000円(安賃

料は単年度分),安定賃金は2年度の間と決した。2月からの春闘は5ヵ月をかけてようやく収束した。一方,チッソ労組の春闘は,やはり会社の「長期賃金協定」の2年間の延

長の提案を受け入れ,当該年度の賃上げは新日窒労組のそれと同額で決していた。「長期賃金協定」でも,賃上げは「普通並み」とされており,その目安は新日窒労組の安賃協約と同じであった。

1967年夏季一時金交渉新日窒労組の要求額は,基本給=2ヵ月(85,350円),一律=20,000円,

計105,350円(手当その他除く)で,春闘の交渉のつづくなか6月14日に決められた。会社からの回答は,同月末,基本給=1.37ヵ月(58,469円),一律=12,000円,特賞=8,500円,計78,969円(手当その他除く)と示された。組合は,春闘の賃上げと同日にこの回答の受け入れも決めた。住友化学の同期の妥結額は,88,451円であった。

1967年の賃金交渉は以上のようであった。前年から持ち越されていた,会社側提案,春闘と夏季一時金の並行交渉案と,組合側提案,二度の一時金交渉の年末同時交渉への一本化案,いずれを採るかについては,上の一時金交渉の経過からもわかるように経営側提案の春闘と夏季一時金交渉の同時並行交渉に落ちつくことになった。

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1968年春闘1968年は引きつづき好況下の春闘となった。態勢を固くした財界は所得政策を提唱したくらいであったが,各単産とも要求水準を高めに設定した。合化労連がこの年もスト隊列の先頭に立ち,つづく私鉄・電機労連等により比較的強力なストの連鎖が形成された。結果は,全産業平均で5,000円を上回る賃上げとなり,戦後最高額を記録した。チッソの春闘は,この年は安定賃金協約の内にあった。ところが,会社が

職能給の導入という賃金体系の変更を提起し,それが賃金交渉の帰趨に響いてくることは確実で,労使および組合間の対立とも激しく,しかも「再建5か年計画」による合理化も動きだしたため,いつになく紛糾した経過をたどることになった。導入される職能給とは,それまでのチッソの賃金体系の中身を大きく変え

るもので,仕事要素と年功(年齢)を中心とした賃金から4割程度を個人査定による等級の昇進を基礎にした能力給へと変えようとするもので17),それをめぐる二つの組合の立場はまったく相いれなかった。1968年春闘を,新日窒労組とチッソ労組のそれを対比的にまとめておく。

新日窒労組の68年春闘この年の新日窒労組は,眼前には,CEC配転問題,五井等への配転問題

など合理化への対応,チッソ開発に移った組合員で退職期に入った者の退職金の差別問題(チッソに残った者との差が大きかった),1965年春闘での賃上げの未実施分(賃上げ3,600円のうちの未実施分の1,600円の補填。65年春闘の項参照)の支払いの組合間差別など問題が山積みであった。それらに力を入れるということであったか,賃金体系に大きな変更があるとの情報が入っていたためか,新日窒労組は,この年は要求額を提示することを控えて18),賃上げ交渉に臨んだ。その代わり,新日窒労組はより力を入れたい上記のチッソ開発の退職金問

題,1600円問題,CEC配転問題の改善を求めて,春闘期の4月に二波のスト(24時間スト,48時間スト)を打った。実際に賃上げ交渉に入った5月にも,それらの問題の改善を求めて32時間ストを敢行している。

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賃上げ交渉では,職能給の導入は認めないとしながらも,賃上げ協議は行い,「普通並み」と言われているのはどの程度の金額となるかについて会社と厳しい協議を行った。賃上げの参考とすべき企業の選択で,財閥系の三井化学や住友化学を取りあげることは会社が嫌うのでむずかしかったが,日東化学や東亜合成,日産化学など合化労連傘下企業および同硫安三社(前出)の上げ幅を参照させることには成功し,会社回答として5,600円を引き出した。そして5月下旬会社回答を受諾し,賃金体系の改訂もやむを得ずとして認

めた。ただし,新日窒労組は職能給部分の基礎となる等級の昇級に関しては,実際にこの賃金体系が動きだせば二つの組合間での差別が発生するおそれが大であり,警戒を怠らないようにすることを確認したうえで,賃金体系の変更を早々と受入れたチッソ労組をはげしく批判した。

チッソ労組の68年春闘チッソ労組の春闘は,前年と同じく賃金専門委員会での会社との協議に多

くの時間が割かれた。そこでの協議の中心は職能給の導入,賃金体系の改訂であり,なかでも職務給の能力給部分の構成比をどの程度にするかに論議は集中したようであり,おおよそ40%弱とすることで折り合った。職能給の導入については,その年功部分による生活の下支えの必要は認め

つつも時代状況を踏まえるならば個別の労働者の能力(「職務遂行能力」という用語が用いられている)を反映した賃金のあり方が現に求められているとして極めて前向きにとらえるのが,チッソ労組の基本姿勢であった。あるべき賃金水準に関しても,企業の生産性の上昇を踏まえた賃上げが求められるとしており20),JC 型春闘への傾斜が進みつつあったことを認めることができる。他方で,実際の賃上げ交渉に際しては,チッソ労組が会社と結んでいた「長

期賃金協定」で賃上げは「普通並み」とするとされており,「普通並み」という目安が存在していた。ところが当時の化学業界を見わたすと,多くの企業が合化労連傘下組合に組織されていた。この状況をふまえれば,チッソ労組と会社との交渉で参考にするため想定されていた企業群と新日窒労組と会

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社との交渉で想定されていたそれとは似たものなるはずであった。チッソ労組をとり巻いていた上記二つの賃金観には質的な違いがある。実

際にいずれが用いられていたかについては,組合新聞に収録されている議事記録では他社の動向にポイントがおかれることがしばしばで後者ではなかったかと想像される。結果としてこの年打ち出された賃上げは5,600円であった。ちなみに,同

年の住友化学の春闘妥結額は5,957円であった。

以上,二つの組合の春闘の経過をふり返った。妥結した賃上げの水準についていま少しふれておきたい。新日窒労組とは安定賃金協約が結ばれ,賃上げは「普通並み」にするとされていた。その意味は,企業の力や製品が近似した企業を参照するということであり,当時チッソから見てそのような条件を満たす企業は多くが合化労連に組織された組合をもつ企業であった。また別の言い方をすれば,安定賃金を結んでいてもそうなのであるから,仮にそうでない年次であるならば,なおさら合化労連のつくる相場に近いところに賃上げの妥結水準は落ち着いてくることになっていただろうと考えるのが自然である。チッソの春闘について,二つの組合があったことを念頭において言うならば,その妥結水準はいずれかといえばチッソ労組ではなく新日窒労組が矛を収める付近に引き寄せられる可能性が大であった。新日窒労組の交渉力が減退しないかぎりそのようであったと考えられるのである。

1969年春闘・夏季一時金交渉この年も全国春闘は上げ潮で,1万円要求を掲げる単産・単組が前年より

多く,また例年より早めの4月に各単産のストを集中させる戦術が奏功し相場波及も順調に進んだため,上げ幅1万円に乗せる組合が少なくなかった。上げ幅は戦後最高を記録し成功した春闘と評価された。

チッソの春闘に移ろう。新日窒労組のこの年の春闘は,2年続いた安定賃金協約の明ける年であった。とはいえ1969年とは,いうまでもなくチッソをとりまく環境は厳しい年であった。新日窒労組は,3月下旬,引き上げ要求

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を,一律=5,000円,年齢別一律=3,075円,本給スライド4.4%=2,004円,計10,079円(手当その他除く)と決めた。スト権の確立と委譲も決定した。ここまでは型通りの手順で進められた。当初会社は交渉に応じず,スト一度を挟んで,ようやく4月下旬に交渉が

行われたが,会社はそこで,2年間の安定賃金を結びたい,一時金交渉もあわせて行ないたいとの提案を行った。むろん組合は応ずるはずもなく,4月26日第二波の40時間ストを打った。その後は膠着状態がつづくなか団交は東京で再開され,会社は2年間の安定賃金を前提に,69年の賃上げとして,一律=2,000円,年齢別スライド=1,833円,職能給増=2,522円,計6,355円(手当その他除く)と回答してきた。それとあわせて夏季一時金として,一律=19,500円,基本給スライド=74,900円,特賞=12,700円,計107,100円(手当その他除く)も提示した。組合は,安定賃金への抗議を込めて5月15日第三波の43時間ストを敢行し

た。会社が固いことは組合も承知であり,同26日,31日の組合代議委員会では激論の末,住友化学の回答も7,500~7,600円であること,「市民対策の件についても,…チッソに関係のない人は…7,300円と言えば,何でストを打つのかと組合が悪いように受け取る」(委員長発言)という配慮のもとに収拾することが提案され,可決に至った21)。次いで行われた夏季一時金についても会社回答を受け入れることで決着し

た。安賃も受諾した。このような新日窒労組の春闘の終結劇の背後には,前年から活発化した水

俣病をめぐる運動,とりわけこの69年6月から始まるチッソを対象とする水俣病患者による法的訴追の地域社会にあたえた衝撃があったことを忘れてはならないだろう。また,夏季一時金交渉については,新日窒労組は既定の手順を踏んで要求

決定,交渉と進める予定でいたが,会社はそれを待たず春闘賃上げと同日に夏季一時金の回答提示も行った。そして組合は,回答の受諾を決定した。それまで一時金の交渉時期をどうするかに関しては労使のもみ合いがつづ

いていたが,これを境に夏季一時金交渉は,春闘と並行して行う方式が定着することになる。

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1970年春闘・夏季一時金交渉1970年の春闘は,やはり好景気のなかで進行した。経営側は,より強く生産性基準原理を押し出し,労働側は,運動の射程を生活課題へと拡げてゆくことをあらたな課題として取り組んだ。賃上げについても平均1万円を上回り,活発なうちに終結した。新日窒労組の春闘は,ふたたび安定賃金であり,夏季一時金交渉も並行し

て行われた。春闘に関しては,賃上げ金額の要求提示は行わず,年齢別最低賃金や退職金の引き上げ等の要求を提示した。夏季一時金交渉は,型通り要求決定から交渉・妥結を進め,スト権の確立も行われていた。ただしこの期の交渉は,春闘・一時金とも5月に妥結しいつになく短期の

うちに終結した。妥結金額は,春闘賃上げ=計9,500円,一時金=計136,500円であった。住友化学の賃上げは9,883円であった。この年は,67年以降の大規模合理化・配置転換が大詰めを迎え,その関連

で生じた自宅待機問題をめぐる労使の角逐がはげしく,春闘への両者の余力が乏しかったといえよう。

子会社・チッソ開発における1970年春闘新日窒労組は1966年以降定着してきていたチッソ開発の春季賃上げ交渉に

ついては,チッソとの春闘交渉と同じ手順を踏むこととして,要求決定から交渉・妥結を進めてきた。スト権も,新日窒労組で確立し,それを合化労連中闘へ委譲する形がとられた。交渉相手こそチッソではなくチッソ開発であるが,チッソに対するのと同じ手順が踏まれたのである。年二度の一時金交渉についても新日窒労組が担い,夏季の交渉はやはり春闘期に並行して行われ,チッソと同じ手順を踏んで行われていた。要求額についても、ベースとなるチッソ開発の基本給がチッソのそれより

も低かったので実額まで同一とはいかなかったものの、原則的には同額の要求を掲げて交渉に臨んだ。それはチッソ開発が創設され組合員が配転された際の経緯により労働条件はチッソと同一とすべきだとする立場を新日窒労組がくずしていなかったためである。他方、会社は配転後は所属会社の事情により賃金等は決すべきであるとして、チッソとは別途・別額の回答を示すこ

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とを常としてきた。これらのことにより、数年を経るなかで、チッソとチッソ開発の組合員同士には小さくない差がつき始めていた。1970年春闘は、チッソは安賃協約の内にあったため具体的な要求額は提示されず進められたが、チッソ開発へは、引き上げ要求額、一律=7,000円、年齢別一律=2,900円、本給スライド分=3,686円、計13,586円を提示して進められた。そして5月末,会社(チッソ開発)が回答6,599円(各要素の配分は省略)を示し,組合は代議委員会では一度は拒否し,再回答を求めてストを打つべしと声があがった22)ものの,次の代議委員会で平和裏に受け入れることで決着をみた。チッソの春闘妥結よりも10日後であった。ちなみにチッソ開発の案件で新日窒労組がストを打った場合,新日窒労組

は本体であるチッソ水俣からチッソ開発およびその他子会社にまでまたがる組織となっていたため,広い範囲にスト指令が及ぶ構造ができあがっていた(1971年の水俣合弁子会社への配転後はその範囲は10社に及ぶようになっていた)。先にふれた1968年春闘期の,チッソ開発退職予定者の退職金の是正を求めるストライキなどはそのような形をとって広範囲で波状的に実施されたのである。

1971年春闘・夏季一時金交渉 - 子会社への大量配転進行期の春闘1971年は久々に不況下の春闘であった。賃上げ幅は,経営側の官民の連携が強固でストによる相場の波及がうまくゆかず,前年を下回る結果となった。チッソの春闘は,新日窒労組は前年までの安賃協約からは抜けていたが,

会社の前年度末の経常収支の赤字が17億に上ったこともあり,むずかしくなる材料は多かった。進められてきた大合理化が大詰めをむかえ水俣合弁子会社への大量配転が行われた時期にもあたる。とくにその配転に関わる71年「2月協約」をめぐる新日窒労組と経営の対立ははげしかった23)。また,社会の耳目を引き進行中であった水俣病裁判も1月に行われた裁判関係者による工場検証において患者側からの立会人として新日窒労組の組合員が証言をするなど,組合の動きも活発であった24)。春闘に関しては,新日窒労組は,型通りの手続きを踏んで進めようとした。

3月初旬春闘賃上げと夏季一時金の要求額を提示した(賃上げ要求=14,288

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円25))。スト権の確立とその委譲も決めた。ところが,会社はまたもや安定賃金(2年間の)を提起してきた。くわえて退職金の算定基礎の縮小をもちだしてきたため,荒れた春闘となった。会社は合弁子会社の立ち上げが迫っているため,早めに進めようとして5月中旬に,賃上げにも夏季一時金にも回答額を示した(春闘賃上げ=8,500円,一時金=15,4000円)。安定賃金の提案は降ろそうとはしなかった。それに対して,新日窒労組は代議委員会ではげしく議論を行い,一時金については受け入れを決めたものの,春闘賃上げについては収拾しようとした執行部案を否決した。この組合で執行部案が否決されることはたいへんめずらしい。退職金の引き下げが反発を招いたためである。しかし,最終的には一度抗議スト(6月12日)をうち,1か月後に回答額での収拾が決定された。組合は安賃協約の締結,退職金の引き下げも押し切られた。

1972年春闘・夏季一時金交渉 -「14項目」をめぐる紛糾この年はそれまでの大合理化にもかかわらずチッソの経営が本格的な行き

詰まりを見せた年である。営業利益こそマイナスにはならなったものの,負債は約325億円に積み上がり,くわえて水俣病第一次訴訟の帰趨(判決は次年)が見え始め,この年から水俣病補償引当金が特別損益として計上されることになった。会社更生法の適用も噂にのぼっていた。新日窒労組の春闘は,安賃協約下にあり金額要求ではなく賃金の構成要素

の配分比率を示すかたちでの要求が行われ,子会社チッソ開発へは要求金額を示すかたちで行われた(チッソ開発春闘賃上げ要求=15,487円)。スト権については確立し合化労連への委譲も型通り行われた。4月に交渉に移ったが,会社は当年度の賃上げはむりであるとしたため,組合は安賃とは「普通並み」の賃上げのはずで,ゼロとはなにごとか,と反発した。組合はくわえて夏季一時金要求額を提示し,スト権の確立も行った。会社は,5月に入り,「14項目」なる提案を行ってきた。一部を示すと,

①1975年まで労使間の問題はすべて話し合いにより解決する。組合は実力行使を行わない。②75年までの春の賃上げ,一時金は「普通並み」とする。③賃上げ分の退職金への反映は行わない。④一時金の半分は社内預金とする。

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⑤オールチッソでの配転に協力する。⑥協約有効期間中は人員整理を行わない。希望退職はその限りでない。⑦会社は企業健全化のため全力を傾注する。以上である。会社は「14項目」を協約化するなら,チッソ労組に示してある回答(春闘

賃上げ=9,300円,一時金=145,500円)を新日窒労組にも実施するとした。「14項目」のうちで目を引くのは,春闘賃上げにとどまらず一時金までも安賃協約の内に入れようとしていること,前年の71年「2月協約」で約束されたばかりの水俣の人員941名の維持を反故にしかねない人員調整が示唆されていることなどで,紛糾するのは目に見えていた。新日窒労組としては,ⅰ)示された回答金額は受け入れる。ⅱ)退職金の

引き下げは認めない。ⅲ)「14項目」セットでの受け入れはできない旨の回答を行った。会社は,それに対し「会社はキトクである」「希望者には賃上げも一時金も支払う」と少々意味不明な言葉を交えながら,「14項目」セットでの協約化を譲ろうとはしなかった。組合は硬化し,8月末まで時間外労働のストを行った。それと並行して組

合は,熊本地裁に賃上げと一時金の支払いを求める救済の仮処分申請,さらに8月には地労委に「14項目」セットで強要してくることの不当性(不当労働行為)からの救済申し立てを行った。この混乱は,9月に地裁が会社に支払いを求めたことにより会社が賃上げ

の実施と一時金の半額の支払いに応じ,翌73年5月地労委が会社の不当性を認め「14項目」の項目ごとに協議を行うよう求めたことにより,一応収まった。結局,春闘賃上げは会社回答額(9,300円)を組合が受諾した形に収まっ

た。ちなみに同年の住友化学の賃上げは8,927円であった26)(図表1参照)。合化労連平均では10,920円であった。

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図表1 新日窒労組の春闘賃上げ額(チッソ労組および同業他社等との対比)年度 新日窒労組の春闘賃上げ額 チッソ労組の春闘賃上げ額 他社賃上げ額(主に住友化学)

1963年64年65年66年67年68年69年70年71年72年73年74年75年76年77年78年79年80年81年

安定賃金協定 2,600円安定賃金協定 4,747円

2,000円*1

4,098円安定賃金協定 4,400円安定賃金協定 5,600円安定賃金協定 7,300円*2

安定賃金協定 9,500円8,500円

安定賃金協定 9,300円*3

16,000円31,500円16,200円*4

10,500円11,500円4,630円*5

8,200円11,800円13,000円

安定賃金協定 2,600円安定賃金協定 4,747円長期賃金協定 2,000円*1

長期賃金協定 4,098円長期賃金協定 4,400円長期賃金協定 5,600円

7,300円*2

9,500円8,500円9,300円*3

16,000円31,500円16,200円*4

10,500円11,500円4,630円*5

8,200円11,800円13,000円

2,435円(合化労連平均)3,737円(同上)3,952円(住友化学)4,260円(同上)4,906円(同上))5,957円(同上)7,548円(同上)9,838円(同上)9,704円(同上)8,927円(同上)14,119円(同上)27,500円(同上)16,000円(同上)5,000円(同上)14,094円(合化労連平均)9,005円(同上)10,210円(同上)13,088円(同上)15,050円(同上)

注)新日窒労組「さいれん」,チッソ労組「しんろう」,「しんろうニュース」,合化労連『合化労連二十年史』(1971),労働省『資料労働運動史』(各年版)により作成。

*1)形式上の妥結額は3,600円(本文参照)。*2)他に安賃料がプラスされる。*3)実施は10月。*4)実施は年末。*5)年末に熊本県債発行決定。

この1972年の「14項目」をめぐるなんとも不毛な対立は14項目すべてがペンディングとなり,翌年春闘まで持ち越されることになる。

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3 チッソ経営危機下の春闘:1973-76年

1973年は水俣病第一次訴訟の熊本地裁による判決が下った年である(3月28日)。上告は断念されチッソの犯罪は確定した。あわせて第二次訴訟も提起され,それらがなくても不振を極めていたチッソの経営はいよいよ危機の本番に入ってゆくことになる。チッソの労使関係に話題を戻すと,1971年の「2月協約」・72年の「14項

目」による紛争も,上記の事態を予期したチッソのあせりが招きよせたものと見ることができる。とくに「14項目」をめぐる協議は73年春闘にまで持ち越されたものの,提起されている内容および提起の手法の強硬さからしても,またそれまで長くつづいてきたチッソ労使(新日窒労組と経営との)関係の経緯と性格からしても,とうてい着地点など見出しようはなかったと言ってよい。それゆえこの時期は,新日窒労組としては春闘では,安賃等の縛りがない

ため組合としての型通りの春闘交渉を進めようとした。対する会社は,進行する経営の窮状を理由に,賃上げの回避を主張し,合意したにしても引き上げや支払いの延期や分割支給をたびたび求めるようになる。そのような両者の方針がぶつかるわけであるから,紛争は激しさを増すことも多かった。新日窒労組は戦術としてそれ以前から用いてきた時間外ストを定着させ,夜勤ストなどあらたなかたちも持ちだし,対抗力を維持しようとした。少し視野を拡げてこの時期の新日窒労組の運動をみると,環境条件である

チッソ経営が危機に陥り,水俣病患者の補償問題の本格化などもあり,社会大の耳目が集まりもし,またひとりチッソという一企業内で組合員の利害を守るのが容易ではない状況におかれていたといえる。それゆえ運動自体にそれまでにない広がりを持たせるようになり,運動の本質は変わらないまでもその形態はゆっくりと変化をみせ始めていたのである。具体的には,運動のターゲットにチッソの主力銀行(興銀など)を含むようになり,水俣病患者と共同でチッソ追及のための首都行動を組むことや,自らの組合員への水俣病健診や自社工場の塩ビ労災問題などのあらたな取り組みを行うようになっていた。

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1973年春闘1973年春闘においては,新日窒労組は,2月に要求額を決めた(21,187円の引き上げ)。チッソ開発への春闘要求額と一時金要求額も決めた。それらに関わるスト権と春闘賃上げに関わるスト権の合化労連中闘への委譲も決定した。さらに同年の春闘では,チッソとチッソ開発の退職金の格差の是正,71年「2月協約」の雇用維持条項の実施,水俣病患者への保障の順調な遂行をも求めた。4月には交渉に移ったが進展せず,その間,子会社分も含めて二度の波状ストを打った。5月に入ると,前年度から持ち越していた「14項目」に関する地労委の救済申し出への判定が下り,「14項目」セットではなく項目ごとに協議すべしとされた。結局,それに関わる協議はなされず「14項目」はどの項目も日の目をみないままに流れてしまう。経営の失策であったといっていい。春闘交渉については,この地労委の決定のあと,会社が16,000円の引き上

げ回答を示し,5月末新日窒労組がそれを受け入れ,比較的短期の内に収束した。

1974年春闘 -「格差是正闘争」本格化する1974年の全国春闘は前年の石油ショックに端を発する狂乱物価の次年度であるため各単産ともそれまでにない要求額を掲げて取り組んだ。また狂乱物価の余波が生活全般におよんだため賃金にかぎらず物価の抑制や賃金の下支え(最低賃金)の引き上げや福祉の充実など広範な要求を追求せんとする「国民春闘」が提唱された。チッソの74年春闘と夏季一時金交渉は例年と変わらず並行ないし連続的に

取り組まれたが,あらたな内容が付け加わった。

チッソの春闘は,チッソへの要求額と,チッソ開発をはじめとする水俣合弁子会社への要求額を同時に決定し提示することからはじまった。それは合弁子会社が立ち上がってから新日窒労組が追求してきた交渉の形であって,それができあがってきたことを意味する(新日窒労組とチッソ,チッソの子会社との交渉システムは図表2に図示した)。チッソとチッソ開発の要求額

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にかぎって紹介しておくと,チッソ=44,063円,チッソ開発=47,179円であった。スト権およびその委譲も決定された。この年は,賃上げにくわえて新日窒労組とチッソ労組との賃金格差の是正,チッソとチッソ開発の退職金の格差の是正なども求めていた。退職金の差については数年前から問題視してきており,安賃闘争から10年を経過しチッソに残った組合員とチッソ開発に移った組合員との間に差が大きくなった(後述)ため,格差是正に重点的に取り組むとされたものである。交渉に移って,会社はチッソへもチッソ開発へも早めに回答を示した。チッ

ソへは二度目の回答で,チッソ開発へは最初の回答で組合は収拾を決めた(5月初旬)。チッソ=31,500円,チッソ開発=25,049円であった。ところが,退職金格差の是正についてはなんの沙汰もないため,3月に二波の24時間全面ストを打ち,3月下旬から5月上旬にかけて前夜勤および後夜勤のストをつづけた。この時のストは組合としては力を注ぎ,会社としてはそうとうのロスとして受け止めるところまで行ったと見てよい27)。それでも会社は動こうとはせず,組合側のフラストレーションは昂じた。

1974年夏季一時金交渉1974年夏季一時金交渉は春闘と並行して行われた。要求はチッソもチッソ開発へも同じで,計約35万円(基本給3.5ヵ月,一律90,000円,その他手当)

図表2 チッソ企業圏における団体交渉制度図

新日窒労組チッソ

チッソ開発

合弁子会社A

合弁子会社B

合弁子会社C

合弁子会社D

団体交渉

協 議

指 揮 団体交渉

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であった。会社はやはり早めに回答をしめし,チッソ29万2千円,チッソ開発21万円であった。新日窒労組は,これではまたもや差が拡がるとして,チッソ分は受け入れたのに対し,チッソ開発の回答は拒否し,引き上げを求めて19時間の全面ストを打った(7月1日)。その後,収拾を決めたものの,チッソとの格差,とくに退職金の格差を求める交渉をつづけた。

74年「10月協約」(格差是正協約)の締結上記のチッソとチッソ開発の賃金・退職金格差および水俣工場内の新日窒

労組とチッソ労組との処遇格差是正の交渉は,いったんはデッドロックに乗り上げたかに見えたが,地元選出の馬場昇衆議院議員(社会党)と経営者田中正直28)(元大正鉱業社長)を立会人にむかえて再開されていた。会社が再開に応じたのは先の「14項目」でほとんど成果が生み出せなかったことへの反省からではないかと考えられる。10月末立会人らの尽力により話し合いは進み次のような結論にたどり着いた。①組合は長期抵抗路線をとらない,会社は組合間差別をしない。②労使間

の問題はすべて話し合いにより解決する。ただし正当な争議権は制限されない。③会社は人員整理を行わない。④組合間の賃金格差は3年間で是正する。⑤チッソ開発の退職金問題は前向きに誠意をもって改善する。その(⑤)ための委員会を置き協議を行う。協議において具体的な結論が得られない場合は立会人による調停を行う。これが「10月協定」の骨子である。依然退職金問題の解決策にはたどり着

いていないが,組合間およびチッソとチッソ開発間の格差是正に一定の目途が立ったと見てよい。

1975年春闘・夏季一時金交渉チッソは1973年3月の第一次水俣病訴訟の判決以降,補償金の支払いのた

め特別損益を積み増してきていた。チッソが国の金融支援を受け始めるのが78年であるから,その間資産等を切り売りしてまかなってきていたが,それも尽き借入金で乗り切るほかなくなっていた。74年3月期期首の長期借入残高は約413億円にのぼり29),しかも当然のことながらさらなる借り入れは思

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うに任せなくなっており,資金繰りでは出口のない状況に追い込まれていた。そのようななかで行われた春闘はどのようなものであったか。1975年3月

新日窒労組は例年通り賃上げの要求額を提示する。チッソ=45,910円,チッソ開発=49,649円であった。4月交渉に入ったが,会社は年末まで賃上げは凍結したいと返答した。その後膠着状態に入り,会社は9ヵ月後の76年1月から15,000円の賃上げを実施したいと回答してきた。その後,12月から16,200円賃上げするとの回答に変わる。組合は拒否し,その時点でスト権を確立した。会社は,チッソ開発へは10,000円の引き上げを春季実施する回答した。どちらの交渉とも膠着したが,先年の立会人の馬場代議士が仲立ちし,8

月下旬組合が両社の回答を受け入れるかたちで収拾をみた。チッソの賃上げの実施はやはり12月からとされた。ちなみに同年住友化学の妥結額は16,000円であった。夏季一時金の交渉もなんとかまとまったが会社が分割支給(5月と12月以

降)を提案してきたため紛糾の末であった。分割支給もくずせなかった。

同年の年末一時金交渉に関しても,スムーズにはいかなかった。会社からのチッソ分の回答金額のみ紹介すると,31万5千円であった。ただし,そのうち3万円は貸し付け(会社から労働者へ。利子なし)で支払い,残りの28万5千円も一括ではなく二度に分けて支払うかたちに落ち着いた。

74年「10月協約」(格差是正協約)の補訂1975年の春闘も一時金交渉も,上記のようにおおいに紛糾した。そのなかで新日窒労組側の懐いたいくつかの不満のなかで直ちに表面に出たのは,先年結ばれた74年「10月協約」にはチッソとチッソ開発の処遇格差を拡げないという合意があったはずなのに,舌の根も乾かぬうちにそれが反故にされているという感情であった。それもはたらいて,先年の協約が積み残したチッソ開発の退職金問題の協議(立会人は前年と同じ)には力が注がれ,次のようにまとまった。①安賃争議後チッソ開発に配転された組合員をチッソに戻す,②その際の賃金は「チッソ並み」とする,③3年でその過程を終える。

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これによってチッソに残った組合員とチッソ開発に配転された組合員との退職金差別が解消される可能性が大きく拡がった。

4 チッソ救済下の春闘 ― 緩やかな収束へ:1977-81年

1977年は鉄鋼・造船・電機・自動車等の8単産集中方式を軸とするいわゆる JC春闘がうごき始め,春闘の「変質」(本稿冒頭参照)が明瞭になった年である。チッソ・新日窒労組の春闘は,それ独自の性格も,合化労連傘下であったこともはたらき,そうした全国的流れとは一線を画すところにあった。ただし見逃せない変化も進んでいた。それまで多少は形を変えつつも堅持

されてきた新日窒労組ならでは春闘の型に変化が生ずるのである。

1977年春闘・夏季一時金交渉新日窒労組の春闘は,3月初旬,賃上げ要求額をチッソ=28,916円,チッ

ソ開発=28,242円と決定したところから始まる。あわせて一時金の要求も,チッソ=(基準内賃金×3.2ヵ月)と決定した(チッソ開発の要求額は不明)。交渉は5月までつづき,同月中旬,会社はチッソ=11,500円,チッソ開発=9,000円と回答した。新日窒労組は比較的あっさり同月下旬回答額による収拾を決めた。6月に入ると一時金の交渉に移り,7月初旬会社は,まず1か月分を貸し

付けで払ったのち,残りについては,3か月後に交渉したいと申し入れた。そして交渉は10月に再開され,チッソ=30万円,チッソ開発=22万円の回答が示され(要求額は上記),組合は受諾した。この一時金交渉においては,組合は会社の引き延ばしに抗議する目的で,6月にスト権を確立し7月8日24時間のストを行った。

この年の春闘賃上げ・一時金交渉では,それまでは安定賃金の年ですら要求額決定と同時にスト権を確立し春闘ではスト権の委譲を行ってきた新日窒労組であったが,それらを行わなかった。この後は,交渉がもつれた場合に

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スト権を確立することはめずらしくなかったものの,要求確定時のスト権の確立と委譲はなされなくなった30)。いま一つの変化として,チッソ労組との関係がある。この年から春闘や一

時金交渉の過程でチッソ労組に情報共有のための交流を申し入れるようになった。それは,チッソの賃金の賃金カーブが45歳以上の中高齢者のところで他企業に比べて傾斜が緩む,つまり他社との格差が大きくなっており31),その年齢層での賃上げを求めるのを新日窒労組が春闘の重点項目としたことと関わりがある。二つの組合は,安賃争議以来,組合へのリクルートのあり様が固定された(安賃争時の若手とその後の新入社員はことごとくチッソ労組に組織されるようになり,新日窒労組は新人の組織化はできなくなった)ため,二つの組合の組合員には年齢層の隔たりが大きくなっており,上記の重点要求を押してゆくならば,組合間の反目というよりも年齢層間での反目につながってしまう懸念があった32)。チッソ労組への交流の呼びかけは,中高齢層を多くかかえる新日窒労組がその辺りへの配慮の必要を考えたということであった。

1977年チッソ労組の春闘・夏季一時金交渉ここでチッソ労組の交渉を紹介しておこう34)。この年の同労組の交渉

は,3月初旬,春闘賃上げと夏季一時金の要求額を提示することから始まった。春闘賃上げ要求は,21,500円,一時金要求は,36万円であった。春闘の交渉は4月中旬に行われ,会社回答は,11,500円であり,同月中にチッソ労組は回答を受諾した。一時金に関しては,6月に交渉が始まったが,新日窒労組と同様交渉は10月に延期され,同月回答30万円が提示され,チッソ労組はそれを受け入れた。春闘賃上げも一時金も,二つの組合の妥結額に差はなかった。そのさい注目されるのは,会社が交渉において参照基準としてもちだす他

社とは,日東化学や日産化学,東亜合成,三井東圧,石原産業など主に合化労連傘下の組合のある企業であったことである。これは会社とチッソ労組の交渉でも新日窒との交渉でも用いられるチッソ用語の「普通並み」を意味しており,合化労連傘下にはないチッソ労組の交渉においても他社を参考にす

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るとなっている以上,現にある化学産業の単組の動向を観るほかなく,それらは合化労連の組織化の度合いが依然として高いわけであるから合化労連相場からは離れがたい,そのような仕組みがチッソ労組の春闘にもはたらいていたことになる。

1977年 年末一時金交渉新日窒労組の交渉に戻ろう。同労組の1977年年末一時金交渉は夏季一時金

にひきつづき分割支給が提案された。組合は反発し,収拾までにはかなりの時間を要した。要求額から振り返ると,チッソ=49万3千393円,チッソ開発=44万2千345円であった。回答は12月初旬に示され,チッソ=27万+金一封(5千)円,チッソ開発=22万2千円,ただし支払いは,年内に20万,残りは翌年とされた。組合は不満ながらも上旬に回答を受諾した。その残金が払われたのは,78年7月であった。このような分割支払いは,その後も頻発する。またこの期には,エポキシ系の樹脂で電線外皮などに用いられる「ビニレッ

ク」の製造職場などの合理化を含む「中期計画」が示され,雇用への不安が高まり始めていた。同時に組合は,その翌年早々に結ばれる「協定」の協議も進めていた。こ

の協定は「存続協定」34)と呼ばれる。主内容は以下のとおりである。①組合は会社の中期計画に協力する。②会社は水俣に新規事業を起し,水俣工場を存続させる。③労使間の問題は話し合いにより解決する。④会社は人員整理は行わない。⑤組合間の差別はしない。

1978年春闘・夏季一時金交渉1978年もチッソは赤字経営が続き,資金繰りも思うに任せず,苦境にあえいでいた。春闘に関しては,3月の新日窒労組の要求提示により始まった。チッソ=21,916円,チッソ開発=25,941円であった。一時金要求は,基準賃金の3か月分であった。交渉は,5月,7月と持たれたが,チッソ開発分が,4,700円の回答・妥結で収束しただけで,チッソ分は,10月に交渉再開するということで,結局,11月に入って,春闘賃上げ=4,630円,一時金=

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27万5千円の回答提示で,収拾が決まった。その間会社は,熊本県の県債の発行をもとにした公的融資が計画されているので,その発行まで賃上げは待ってほしいとくりかえすばかりであった。

つづく1978年年末一時金交渉も,経過は似たりよったりで,会社は,年度内は「モチ代」で「我慢してくれ,次年度4月に再交渉したい」とした。しびれを切らした新日窒労組は,12月に一度ストを打ったものの,翌年4月に回答が示されるのを待って収拾を決めた。熊本県債の発行は1978年12月に決定され,それをもとにした融資でもって,

チッソ経営は息をつくことになる。

1979年春闘・夏季一時金交渉1979年度はチッソは経常損益ではマイナスから脱した。むろんそれまでに背負った負債は巨額のままであったのだが。賃金交渉については,この年は前年までとは異なり,春闘も一時金も分割

支給には追い込まれなかった。新日窒労組は,チッソに対し,春闘賃上げ=18,256~20,756円(他企業との格差是正分含む),一時金=基本給3ヵ月分,退職金=30年勤続で1,200万円への引き上げ,チッソ開発に対し,春闘賃上げ=20,617円,一時金=基本給3ヵ月分の要求を提示した。5月下旬に会社が回答を示し,チッソ春闘賃上げ=8,200円,退職金は上

記モデルで47万3千400円の引き上げ,チッソ開発賃上げ=8,000円が示され,組合は受け入れを決めた。一時金は7月に交渉され,回答としてチッソ=31万5千円,チッソ開発=25万3千円が示され受諾された。比較的あっさりと収束したといえよう。この期で印象にのこるのは,退職金引き上げの要求が建てられたことであ

る。退職金に関しては,75年には引き上げ要求が出されているが,その年あたりから30年勤続者をモデルとして退職金額を要求として提示するようになり,会社は退職金引き上げ額を回答するというかたちが定着してくる。

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オキシクロ工場 肥料工場

カリ変成工場

ニポリット工場

塩酸 硫酸カリ

塩ビモノマー

図表3 チッソ水俣工場の主な工程図(1980年頃)

1979年 年末一時金交渉 - 新たな「中期計画」(塩ビ合理化)の進行この期の交渉も比較的短期間に収束した。10月24日新日窒労組は,チッソ

=基準賃金×3.055ヵ月分(49万8千164円),チッソ開発=44万5千152円の要求提示を行った。12月に入り,相次いで回答が出され,チッソ=40万円(手当含む),チッソ開発=30万円であった。組合はほどなくして回答を受け入れた。この期には,賃金交渉の行方はともかくも,きわめて重要な意味をもつ合

理化計画が明らかにされた。ニポリット35)職場の合理化計画がそれである。1970年代中頃ニポリットの原料物質である塩ビモノマーに発がん性があるとの学説が出され,また塩ビ系の設備過剰による過剰生産も重なり,ニポリットは不振を極めていた。その職場の停止については,経営は当該の職場以外には波及させないとしてはいたものの,組合にも社外からも深刻に受け止められた。すなわち,水俣工場の工程をみると,ニポリットの原料たる塩ビモノマーの製造工場であるオキシクロ工場,塩ビモノマーの原料たる塩酸の生産に関わるカリ変成工場に必然的に影響がおよぶ流れになっていたのである。くわえてカリ変成工場は硫酸カリの合成も行っており,硫酸カリは肥料工場の主要原料でもあった(図表3)。当時水俣工場の製造部門の人員数(500名弱)のうちこれらニポリット以下の4工場には約230人が働いており,深刻に受け止めざるを得なかった。そして,はたせるかな80年春の「中期計画」には,ニポリット廃止とともに肥料生産の半減も謳われていたのである。

この計画が進行するのは1980年後半からである。ちなみにチッソ水俣工場には,1978年には1,000人を少し超える人員がいた。そのうえこの時期は定

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年も多く出る時期に当たり,かりに合理化がないとしても85年には479人に減員してしまうと見込まれていた。この「中期計画」による衝撃は1967年から水俣工場で進行した大合理化にも劣らぬものであると言ってもよかった。この負の展望をもとに新日窒労組は,ふたたび対応を迫られることになるのである。

1980年春闘・夏季一時金交渉この年は化学産業全般としては明るい年であった。チッソはその輪のなか

には入れなかったものの,新日窒労組は春闘では高めの要求を提示した。春闘賃上げ=23,095~25,095円(他企業との格差是正分含む),退職金=(前年度と同額要求)であった。一時金は3ヵ月分を要求していた。交渉は4月に始まり,5月中旬に会社は回答を示した。賃上げ=11,800円,

退職金=45万円引き上げであった。一週後に組合が回答を受諾し春闘は終了した。その後一時金の交渉に移り,会社は7月初旬42万円の回答を提示した。一週後組合は回答を受諾した。この年はそれまでに比べ春闘も一時金交渉もいわばよりスケジュール的に

経過した。年末一時金交渉についても同様の印象を受ける。ただし先に記したように,合理化問題では深刻な事態が迫っていたことは組合も十分に認識していたのである。

1981年春闘・夏季一時金交渉新日窒労組は3月初旬,春闘賃上げ要求=36,001~46,001円(他社との格

差是正分含む),退職金=(前年度と同額要求)と決めた。この年は,久々に賃上げに関わるスト権をこの要求額決定と同時に確立した。交渉は4月に開始され,会社は5月中旬回答を示した。賃上げ額=13,000円,退職金=47万7千円引き上げであった。組合は,10日後に回答受諾を決めた。その間ストは打たれなかった。年末一時金交渉についても,スケジュール通り進んだといってよい。しか

し,先にも述べているようにこの年は,深刻な合理化問題が進行し,組合も経営も精力はそちらに費やすほかはなかった。塩ビと肥料工場に関わる合理

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化が中心であり,そのほかに保全部門の子会社の合理化もあり,水俣地区のチッソ全般におよぶ合理化であった。この時点で新日窒労組は,300名を切るくらいの勢力になっていたが,熊

本県債による公的資金を受けておきながら水俣全体をさびれさせるのかとチッソをきびしく批判し,反合理化を旗印にたびたびストを実施している。列挙してみると,4月30日24時間全面スト,5月・6月時間外スト,7月13日24時間全面スト,8月時間外スト,9月18日チッソプラスチック(子会社)での24時間スト,11月5日24時間全面スト,12月17日24時間全面ストなどである。この間,反合理化の要求書も提出し交渉も試みている36)。しかし計画された工場の閉鎖自体は撥ね返すことはできなかった。水俣工

場の人員は1982年には800名を少し超えるくらいになり,先に示した78年時の人員数約1,000人から200人程度の減にとどまっているはいるものの,製造部門にかぎれば,500人をはっきりと割るレベルにまで減ってしまった。新日窒労組の組合員はそのうちの,4分の1であった(組合員総員は約200名)。あらためて水俣工場の人員数をふりかえると,1960年代の大合理化が始ま

るまでは3,000人を数えた。それが大合理化を経た72年には約1,000人に,さらにこの80年前後の合理化により800人へと急坂を転げ落ちるように減員したことになる。この時点において,1960年頃からつづいたチッソの労使の過酷で激しかっ

た物語も一つの時代を終えなければならなかった。

まとめ

(1)本論文の主役である新日窒労組はチッソという企業において特徴のある春闘を作り上げていた。まず決められた手順を丁寧に踏んでゆく春闘の型=制度をつくった。途中,なんどか安定賃金協約の再協定によりその手順を乱されはするが,肝腎の型をくずすことはなかった。安賃協約によりストは打ちづらくなっても,時間外ストや夜間勤務の拒否などの新手の手法を繰り出し,打つ気になればいつでもストは打てる態勢を保った。新日窒労組は1970年代末に賃上げ要求の決定のさいのスト権確立・スト権

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単産委譲の同時決定という自前の型の一部を手放したが,ちょうどその時期に生じた60年代後半の大合理化に次ぐきびしい合理化には波状ストで対抗する力を示した(81年)。(2)チッソは安賃争議(62-63年)と60年代後半の大合理化期に10を超える子会社を派生させた。それにより労働組合は組合員が各社にばらばらになる状況に追い込まれた。新日窒労組はそのようななかで組合員が移っていった企業に自らの組織を拡げ,それぞれの企業と交渉関係をつくることに成功した。各企業と新日窒労組との間での交渉と,必要な場合はそこに親会社であるチッソを介在せしめる交渉関係をつくった。なかでも初期に派生した子会社チッソ開発との交渉はチッソとの交渉ととくに近い位置を保ちながら持続され,両社の組合員の労働条件に差を大きくさせないよう力が注がれた。このように新日窒労組は企業別組合でありながら企業圏的労使関係ともいうべき仕組みを作るに至っていた。(3)以上のような,経済主義的運動の範囲内であるが,堅固な運動の型=制度を作り上げていたことが,新日窒労組が水俣病患者への支援活動や自企業内の労災・環境問題に取り組む背景となり,またそのように運動に社会的性格が帯びるにつれて経営から加えられる圧力に耐える基盤をつくり上げることにつながったと考えられる。(4)チッソの二つの労働組合は,経営からの距離においてまったく異なり,賃金交渉でも異なったスタイルを取っていた。両組合が賃金交渉においてどのくらいの賃上げ額を獲得したかについては,春闘賃上げも年二度の一時金に関しても本稿の観た期間では一度も差が付けられてはいなかった。両組合の獲得した賃上げは一致していたのである。妥結するまでの期間が新日窒労組のほうが長いというほどの違いはあった。賃上げ額についてチッソ労組はなぜ自分たちのほうが高くないのかという不満を常々漏らしているが,経営はあえて差を付けなかった。それは仮に法的訴訟に持ち込まれた場合組合の違いによる差とみなされ勝ち目が薄いと経営が考えていたことによると思われる。とはいえ個々の労働者に実際に支払われた賃金に組合による差がなかった

わけではない。労働者の所属組合によって賃金等級の昇給ないし昇級に差を

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付ければ,差がつくはずである。その差がどの程度であったかについては前稿37)で検証しており,安賃争議の組合分裂後12年を経た時点(1974年)で,同年齢同勤続のもともと同じ賃金ランクにあった者同士を比較すれば月当たり約5,000円の差がつくに至っていたことがわかっている。(5)チッソの春闘で獲得された賃上げ幅は世間相場からすればどの程度のものであったのだろうか。考えられるのは,チッソ経営は第二組合であるチッソ労組の要求水準を重視しようとしたのではないかということである。実際はそうではなかった。賃上げ交渉の際に採用されたのは「普通並み」と呼ばれる目安であり,これは財閥系を除く化学企業の相場という意味であり,多くは合化労連傘下組合のある企業群のつくる相場であった。そして少なくとも1970年代中盤までは合化労連の春闘相場の波及力は強力であり,チッソにおいては新日窒労組が矛を収める付近の水準を意味した。チッソの賃上げではチッソ労組の要求水準は力をもたず,新日窒労組の納得する付近が妥結の水準となっていたということである。それゆえ,チッソの賃上げの水準は化学産業の賃上げの目安とされることの多かった住友化学のそれと比べても一定以上に差が開かないレベルにあった。その傾向は1970年代中盤以降チッソが経営危機・倒産状態に陥った時にも

大きな変化をみせなかった。その時期においても賃上げ水準は想像したほど落ちてはいないのである。それは,新日窒労組を中心にそれまでに積み上げてきた労使の関係性や交渉システムの耐久性が作用したためであろう。ただし倒産状態であってもなんら変化がなかったとはいえず,春闘賃上げや一時金交渉では,妥結後の賃上げ実施の延期や一時金の分割支給などが頻発し,経営はそれらにより労働コストの調整を行っていたのである。賃上げの延期や基本賃金の引き上げを退職金に反映させるか否かをめぐる労使の葛藤ははげしかった。しかしそれも,チッソに公的資金が投入されて以降は一定の落ち着きを見せたといえる。

(2019年1月8日脱稿)

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[注記]

1)春闘の変質についての理解は,兵藤(1997)Ⅲ~7によっている。2)この1962~63年に起こった化学産業史上最大の争議は,意外に知られておらず研究も少ない。さしあたり筆者による富田(2015)を参照されたい。

3)1960年代後半のチッソの大合理化については,富田(2017b)を参照せよ。4)春闘の全国的動向の叙述は,小島(1975),上妻(1976)に負っている。以下同様である。5)チッソの春闘の叙述は,新日窒労組の春闘については,同組合の組合新聞「さいれん」の該当する時期の各号による。とくに必要な場合を除き,事項ごとに逐一注記は付さない。チッソ労組の春闘については,同労組の組合新聞「しんろう」による。これについても注記の付け方も同様とする。以下,同様である。6)会社側のこのような受け止め方については,チッソ社史(チッソ(2011)268‐269頁)を参照。7)収拾のさいの全員投票ないし組合大会での投票は,1960年代末には,執行部が代議委員会に収拾案を提案し,代議委員が職場に持ち帰り討議し,その結果を代議委員会に持ちより審議決定する仕組みに変わる。その変更がいつからであったかは特定できていない。8)チッソ労組「しんろう」1965年5月29日。9)新日窒労組「さいれん」1964年6月11日。10)南九開発への配転問題については,富田(2017a)を参照されたい。11)新日窒労組「代議委員会記録」1964年12月9,14,16日。12)チッソ労組「しんろう」1668年3月21日。13)チッソ労組「しんろう」1965年5月23日。14)チッソ労組「しんろう」1965年5月29日。15)チッソ(2011)304‐307頁。16)合化労連(1971)408‐410頁。17)新日窒労組「代議委員会記録」1967年6月29日,7月4日。18)職能給の導入の実態とその解釈については,富田(2015c)23‐29頁を参照。19)新日窒労組の組合新聞「さいれん」にも,「代議委員会記録」にも,賃上げ要求額が決定・提示されたという記事も議事も記されていない。そのことに関わって組合内部を引き締めるためか,「代議委員会記録」には次のような委員長の言が記録されている。「安賃だから何もしないという事になれば,本当の安賃になってしまって・・・安賃だから何もしない,他が取ってくれるからと他力本願的な考え方があれば,それは止め考え直して貰いたい。」(「代議委員会記録」1968年2月10日)。

20)賃金水準に関しては,チッソ労組「しんろう」1968年3月21日,賃金体系に関しては同5月16日,同23日を参照。

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21)新日窒労組「代議委員会記録」1969年5月26日,5月31日。22)新日窒労組「代議委員会記録」1970年6月9日。23)71年「2月協約」をめぐる労使紛争とは,準備しつつある別稿であつかう予定である。主たる内容にふれておくと,当時チッソが水俣に設立する合弁子会社(5社)にチッソから移籍する組合員に退職金を払うがその退職金をチッソに貸し付ければ将来その者を優先的にチッソに戻すことを約束したい,と会社が発案したことをめぐる紛糾事である。結局,種々の条件を附したうえで,退職金の貸し付け,チッソ復帰の優先権の付与が協約に盛り込まれることになる。

24)新日窒労組「さいれん」1971年1月12日。25)この期の一時金要求額も記すべきだが,組合新聞「さいれん」にも「代議委員会記録」にも記録が残っていない。

26)この住友化学の賃上げ額に関しては,その背景として,春闘開始以降,合化労連の春闘戦術の枢要な位置を担ってきた住友化学労組の内部変化とその結果としての合化労連中枢との関係変化をあげることができる。具体的には,合化労連の春闘のスト戦術(隊列)の中核に立つことを同労組が嫌い,1969年以降,ストなしでの賃上げ決着を志向するとしたり,スト権の合化中闘へ委譲を控える年もあり,また中闘からの交渉決着の引き延ばし要請を突っぱねることなどもあった(水野(2002)68‐272頁)。

27)チッソ社史には,「73年には29回,翌74年には16回に及ぶ争議行為が行われるような状況であり,……水俣工場の事業体質改善への取り組みは難渋し,その遂行に支障を来すこともしばしばであった」(チッソ(2011)494頁)と記録されている。

28)田中正直は,チッソのメインバンクの興銀が推薦した人物である。田中は,谷川雁らが組織した大正行動隊の運動の舞台となった大正炭鉱の社長を務めた人物であった。

29)「有価証券報告書」による。30)この賃金交渉制度に関わる重要な制度変化については,その根拠や経緯に関する記録が,公開資料にちかい組合新聞「さいれん」や「代議委員会記録」にはのこされていない。この変化の背景には,差別是正の74年「10月協約」,78年「存続協約」において長期抵抗路線の停止が協約化されたこと,とくに前者との関わりが強いと考えられる。ちなみに,当時新日窒労組の委員長(1970‐78年)であった岡本達明は,「10月協約」中の長期抵抗路線の停止に関して以下のように述べている。「長期抵抗路線の文言取り下げは,組合員の精神に変化はないと考えた筆者(岡本)の判断は誤りで,組合員に微妙な影響を与えた」(岡本(2015)66頁)。この,「微妙な影響」とはどのようなものであったかについては,岡本も明示的には説明していない。

31)新日窒労組の調べによると,50歳の基準内賃金は同業(住友化学,三菱化成,三井東圧,日東化学等7社)平均が約19万2千円であるのに対しチッソは16万9千円にとどまる。40歳までの差はさしたることはないとされている(新日窒労組「さいれん」1977年4月7日号外)。

32)新日窒労組「代議委員会記録」(1977年2月26日)による。33)以下はチッソ労組「しんろう」(1977年)の該当時期号による。

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34)「存続協定」については,新日窒労組「さいれん」1978年2月8日,15日を参照。35)「ニポリット」とは,チッソが日本で最初に製品化した塩ビ樹脂であり,素となる塩ビモノマーから乳化重合法により生産される。フィルムや農業用ビニールなどに利用され,戦後高度成長期の化学産業の主力製品の一つである。

36)1980年前後の合理化の過程については別稿による観察を用意している。37)富田(2017c)2‐29頁を参照されたい。

[文献]

岡本達明(2015)『水俣病の民衆史 第五巻補償金時代1973-2003』日本評論社。上妻美章(1976)『春闘』労働教育センター。小島健司(1975)『春闘の歴史』青木書店。合化労連(1971)『合化労連20年史』合化労連。チッソ(2011)『風雲の百年 チッソ株式会社史』チッソ㈱。富田義典(2015)「戦後労使関係史における安賃闘争の位置」法政大学大原社会問題研究所『大原社会問題研究所雑誌』675号。

同 (2017a)「大合理化期チッソ㈱の労使関係:1963‐71年(1)」佐賀大学『経済論集』第49巻4号.

同 (2017b)「大合理化期チッソ㈱の労使関係:1963‐71年(2)」佐賀大学『経済論集』第50巻1号.

同 (2017c)「大合理化期チッソ㈱の労使関係:1963‐71年(3・完)」佐賀大学『経済論集』第50巻2号.

兵藤 釗(1997)『労働の戦後史 下』東京大学出版会。水野 秋(2002)『太田薫とその時代-「総評」労働運動の栄光と敗退(下)』同盟出版サービス。

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