トーラー 律法 を学ぶ ことはいのちの源...
TRANSCRIPT
1
トーラー(律法りっぽう
)を学ぶまな
ことはいのちの 源みなもと
につながること
三笠みかさ
教会きょうかい
主任しゅにん
司祭しさい
浜崎はまさき
眞まさ
実み
この絵え
は、中世ちゅうせい
の修道院しゅうどういん
の「朗読ろうどく
福音ふくいん
書しょ
」
のイエス誕生たんじょう
の場面ばめん
の挿絵さ し え
として描か
かれたもの
のパロディのようです。
ユダヤ教きょう
では、「女性じょせい
にトーラー(律法りっぽう
)を
読ませるよ
くらいなら焼き捨てたや す
方ほう
がマシ」等など
とラビ
たちの 間あいだ
で言われてい
いたのに、イエスの誕生たんじょう
で
母マリアはは
が聖書せいしょ
を読んでよ
います。そして幼子おさなご
のイ
エスは、飼い葉か ば
桶おけ
でなく、ヨセフの腕うで
に抱かれてだ
います。エリザベス・シュスラー・フィオレンツァと
いうフェミニスト神しん
学者がくしゃ
がこの風刺画ふ う し が
の発信源はっしんげん
で
す。去年きょねん
のクリスマスシーズンに送られておく
きたもの
です。マリアとマルタの 話はなし
と関連づけかんれん
、この絵え
の
意味い み
を読み取るよ と
と次つぎ
のようになります。
1
発行日: 2020 年 12 月 27 日
発行者: カトリック横須賀三笠教会
TEL: 046-823-0042
FAX: 046-823-1031
月号
2021 年
e-mail:[email protected]
2
ルカ 10章しょう
のマルタとマリアの話しはな
で、「マリアは主しゅ
の足あし
もとに座ってすわ
話はなし
に聞き入ってき い
いた」
(ルカ 10:39)という箇所か し ょ
の「足あし
もとに座るす
」は実はトーラー(律法・聖書せいしょ
)の学びまな
のことをシンボリ
ックに表現ひょうげん
しています。ある種しゅ
の慣用句かんようく
として「足
あし
もとに座る
すわ
」がトーラーを学ぶ
まな
ことを表 し て
あらわ
い
るのです。マリアとマルタの話
はなし
は「マルタが活動
かつどう
でマリアは祈り
いの
」という具合
ぐあい
に解釈
かいしゃく
されてきまし
たが、実は
じつ
女性
じょせい
がトーラーを学ぶ
まな
というあり得ない
あ え
ことがイエスを通して
とお
実現
じつげん
したということが
大事
だいじ
なメッセージなのではないでしょうか。
それは、トーラーを学ぶまな
ことは本来ほんらい
生きるい
力ちから
になるはずなのに、女性じょせい
はそこから排除はいじょ
されてい
たということです。それに対してたい
イエスは男おとこ
と 女おんな
の境界きょうかい
線せん
を無くな
して、いのちの神かみ
(ヤーウェ)と
の契約けいやく
の内容ないよう
であるトーラーを学ぶまな
ことで、もとの 命いのち
につながるようにしたということに意味い み
があ
ります。
ここで、トーラーを読むよ
ことがいのちの豊かさゆた
につながると言うい
だけでは、宗 教しゅうきょう
がかった 話はなし
、
特別とくべつ
な人ひと
のありがたい話はなし
になってしまいます。
わたしの個人的こじんてき
な経験けいけん
を被せるかぶ
と、「マリアとマルタの話はなし
」(ルカ10章しょう
)は、福祉ふ く し
事務所じ む し ょ
の現実げんじつ
に重なりますかさ
。2000年ねん
頃ころ
、家いえ
のない人ひと
には生活せいかつ
保護ほ ご
を受けるう
資格し か く
はないなどとの嘘うそ
を言ったりい
して申請しんせい
をさせない「水際みずぎわ
作戦さくせん
」で、野宿のじゅく
を強いられてし
いる人
ひと
が生活
せいかつ
保護法
ほ ご ほ う
から排除
はいじょ
されていま
した。そういうとき、路上ろじょう
からの生活せいかつ
保護ほ ご
申請しんせい
に同行どうこう
し、生活せいかつ
保護ほ ご
に繋げてつな
最低さいてい
生活せいかつ
の保障ほしょう
に
取り組んだと く
ことがあります。路上ろじょう
で生活せいかつ
している自分じぶん
たちには、生活せいかつ
保護ほ ご
を利用り よ う
することなど
無理む り
だと思い込まされおも こ
、諦めてあきら
いる人ひと
たちと関係かんけい
を紡いでつむ
福祉ふ く し
事務所じ む し ょ
が作ってつく
いる壁かべ
を突破と っ ぱ
す
る取り組みと く
を実施じ っ し
したのです。
福祉ふ く し
事務所じ む し ょ
のケースワーカーは『生活せいかつ
保護ほ ご
手帳てちょう
』などを持ちも
、法律ほうりつ
の知識ち し き
はありますが、一番いちばん
必要ひつよう
としている人ひと
を生存権せいぞんけん
保障ほしょう
の場
ば
(=いのち)から排除
はいじょ
し、壁
かべ
となっているのです。それはイエス
時代
じだい
の女性
じょせい
がトーラーの学び
まな
の場
ば
(=いのち)から排除
はいじょ
されていたのと同じ
おな
ことではないでしょうか。
いのちを寿 ぐ
ことほ
新しい
あたら
年
とし
の初め
はじ
にあたり、いのちの 源
みなもと
につながる学び
まな
の場
ば
を教会
きょうかい
でもつくっ
ていけたらいいと思いおも
ます。
3
10月がつ
4日か
年間ねんかん
第 27だ い
主しゅ
日じつ
の説教せっきょう
(浜崎はまさき
眞まさ
実み
師し
)
マタイによる福音ふくいん
21章しょう
33節せつ
~43節せつ
(文責ぶんせき
神山かみやま
道也みちなり
)
ブドウ園
えん
の農夫
のうふ
の例え話
たと ばなし
ですが、これは酷い
ひど
話
はなし
を語った
かた
ものだなと思います
おも
が如何
いかが
なもので
しょうか。
虐待ぎゃくたい
・虐殺ぎゃくさつ
の物 語ものがたり
とも思えるおも
話はなし
です。この 話はなし
を私たちわたし
はどのように受け止めてう と
きたのでし
ょうか。救済史きゅうさいし
という枠組わ く ぐ
みの中なか
で読み取ってよ と
きたのがキリスト教きょう
の今いま
までの読み取り方 よ と かた
ではな
いのかなと思いおも
ます。すなわち救済史きゅうさいし
というのは、神様かみさま
が良いよ
世界せかい
を創ったつ く
にもかかわらず、人間にんげん
が罪つみ
を犯しおか
、背いたそ む
のでこの世よ
が荒れ果あ は
てしまった。そこで神様かみさま
は、荒れ果てたあ は
世界せかい
を救うすく
ために
ご自分 じ ぶ ん
の独りひと
子ご
を遣わしてつ か
この世界せかい
を良くよ
しようとしたけども人々ひとびと
によって殺されこ ろ
、十字架じゅうじか
にかけ
られて死んでし
しまった。しかしこの十字架じゅうじか
にかけられて死んでし
しまったお陰 かげ
で、私たちわたし
人類じんるい
の罪つみ
が
赦されてゆ る
救われたす く
というシナリオです。これが通用つうよう
した時代じだい
もあったのですが、今いま
この 話はなし
をしたと
ころで聞き耳き み み
を立てるた
こともないし、この救済史きゅうさいし
を利用り よ う
して統一とういつ
教会きょうかい
とかキリスト教きょう
の新興しんこう
宗 教しゅうきょう
が生まれてう
きたのは、ご承知 しょうち
の通りとお
です。私たちわたし
は救済史きゅうさいし
という事こと
だけでこの枠組みわ く ぐ
以外いがい
の
昔むかし
からの救済史きゅうさいし
の枠組みわ く ぐ
で聖書せいしょ
を読み取るよ と
ことに慣らされてな
いますが、その危険性きけんせい
を自覚じ か く
しな
いといけないという時代じだい
に私たちわたし
は生きてい
いるのではないでしょうか。特とく
にこのような 話はなし
の場合ばあい
は、
救済史きゅうさいし
に当てはめてあ
解釈かいしゃく
すると、ユダヤ人 じ ん
たちのところに神様かみさま
は一生懸命いっしょうけんめい
預言者よげんしゃ
を送り込んだおく こ
けれど預言者よげんしゃ
の言うい
ことを聞かないでき
殺してころ
しまった。最後さいご
に自分じぶん
のひとり息子むすこ
を送ればお く
言うい
こと
を聞くき
だろうと思ったらお も
、言うい
ことを聞くき
どころかブドウ園えん
の外そと
に連れ出しつ だ
殺してこ ろ
しまった。だから
神様かみさま
は、ブドウ園えん
を取り上げてと あ
他た
の人ひと
に与えたあた
、というように解釈かいしゃく
した。これはユダヤ人 じ ん
排除はいじょ
につ
ながるような考えかんが
を生んでう
しまった。600万人まんにん
のユダヤ人 じ ん
が虐殺ぎゃくさつ
されるホロコーストという 20
世紀せいき
最大さいだい
の悲劇ひげき
がありましたが、直接ちょくせつ
の原因げんいん
ではないとしても、根底こんてい
には聖書せいしょ
の読み方よ か た
の
間違いま ち が
があったということが、ホロコーストを体験たいけん
した人ひと
たちに自覚じ か く
を促がしてう な
いるのではないの
かなと思いますお も
。 それではこのような例え話たと ばなし
をどのように読むよ
かというと、第 1だ い
朗読ろうどく
と
組み合わせてく あ
読むよ
ことが大事だいじ
だと思いますお も
。聖書せいしょ
でブドウ
園えん
、ブドウの実りみの
と言ったらい
「正義せいぎ
」のこ
4
とを指しますさ
。正義せいぎ
が実現じつげん
された社会しゃかい
のことを“シャローム”:平和へいわ
な社会しゃかい
と言いい
、正義せいぎ
が実現じつげん
して
いない社会しゃかい
を不正ふせい
な社会しゃかい
であるという。このことを第 1だ い
朗読ろうどく
では、神様かみさま
は一生懸命いっしょうけんめい
丹精たんせい
込めてこ
ブドウ園えん
を整備せいび
してよいブドウが実るみの
のを期待きたい
したのに、実ったみの
のは酸っぱいす
ブドウの実み
であった。
それを正義せいぎ
が実現じつげん
していない不正ふせい
な社会しゃかい
だと言うい
文学的ぶんがくてき
な言い回しい ま わ
である。最後さいご
に主しゅ
は裁きさば
(ミシュパト
)を待ってま
おられたのに、見み
よ流血りゅうけつ
(ミスパハ)、それは神かみ
は裁きさば
(ミシュパト)、すなわ
ち抑圧よくあつ
されて踏みつけられてふ
いる人ひと
が、解放かいほう
されることを期待きたい
していたのに逆ぎゃく
に殺されこ ろ
流血りゅうけつ
に
合い血あ ち
を流すなが
目め
にあってしまうという皮肉ひに く
。正義せいぎ
(ツェダカ)を待ってま
いたのに、人々ひとびと
は泣き叫ぶな さ け
こ
とになる叫喚きょうかん
(ツェアカ):言葉こ とば
遊びあ そ
ですね、このようにして神様かみさま
は何なに
を期待きたい
しているのか。弱いよ わ
立場たちば
に置かれたお
人ひと
が自由じ ゆ う
に解放かいほう
されていくことと、正義せいぎ
が実現じつげん
していくことを神様かみさま
は望んでの ぞ
いら
っしゃるという事こと
をイザヤは歌ってうた
いる。さらに、2年前ねんまえ
に行ったい
現在げんざい
のイスラエルでは、献金箱けんきんはこ
(お賽銭箱 さいせんばこ
)に“正義せいぎ
”という文字も じ
が書かれてか
いました。神社じんじゃ
やお寺 て ら
の賽銭箱さいせんばこ
にそのような文字も じ
が
書かれてか
いたら、ぎょっとしませんか。そのことについてガイドさんとお話し は な
したら、ガイドさんは「イ
スラエルでは、ホームレスの状態じょうたい
で物乞いも の ご
をする人ひと
も“お恵み め ぐ
を”と手て
を出すだ
のではなくて“ツ
ダカー、ツシダカー(正義せいぎ
、正義せいぎ
)と言ってい
手て
を出しますだ
。」とのこと。なにが正義せいぎ
かというと、
持たないも
人ひと
が持つも
のは正しくてた だ
、沢山たくさん
持っても
いる人ひと
は持たないも
人ひと
に分け与えるわ あ た
のが正義せいぎ
なのです。
皆みな
が同じおな
だけ貰うも ら
のではなく、持たないも
人ひと
が持つも
のが当たり前あ ま え
。沢山たくさん
持っても
いる人ひと
は手放すて ば な
のが
当たり前あ ま え
。正義せいぎ
とは、こうゆうことことであるとの認識にんしき
です。
今日き ょ う
は「 命いのち
を守るま も
」月間げっかん
の最終さいしゅう
日び
になっています。9月がつ
のはじめから 10月がつ
4日か
まで。4日か
は、
アシジのフランシスコ祝日しゅくじつ
でもあり、教皇きょうこう
フランシスコは回かい
勅ちょく
『ラウダート・シ』に、環境かんきょう
問題もんだい
、
私 た ちわたし
の地球ちきゅう
というのは人類じんるい
の家いえ
なのだ、その人類じんるい
の家いえ
が壊れてこ わ
しまうともう住めなくす
なってし
まう。という警告けいこく
を発しては っ
いるのだが、この回かい
勅ちょく
ラウダート・シから「 命いのち
を守るまも
月間げっかん
」としてこの
一 月いっかげつ
を過ごしてす
来ましたき
。特とく
に今日き ょ う
は最後さいご
の日ひ
ですが、福音ふくいん
と第一だい
朗読ろうどく
で正義せいぎ
とは何なん
なのかと
いう事こと
が問われてと
いる。 昔むかし
は、女性じょせい
に投票権とうひょうけん
がないのは当たり前あ ま え
でしたが、今いま
は男女だんじょ
の区別くべ つ
な
く投票権とうひょうけん
がある。今いま
は、外がい
国籍こくせき
の人ひと
に選挙権せんきょけん
がないのは、如何いかが
なものかという 話はなし
が出てで
いるが、
それも時代じだい
と共とも
に変わってか
行くい
。今いま
まで当たり前あ ま え
に思っておも
いた成人せいじん
男子だん し
だけが社会しゃかい
に参加さんか
できる
5
という事こと
が、今いま
ではすべての人ひと
が社会しゃかい
に参加さんか
できるという事こと
で選挙権せんきょけん
が男性だんせい
・女性じょせい
に同じおな
ように
与えられるあ た
世の中よ なか
になって来ましたき
。と同時ど う じ
に、何なに
が正義せいぎ
かという事こと
も時代じだい
と共とも
に変化へんか
して行くい
。
最近さいきん
は、Climate Justice(気候き こ う
正義せいぎ
)という新しいあたら
概念がいねん
が言われてい
いる。私たちわたし
先進国せんしんこく
と
言われてい
いる国々くにぐに
が電気でんき
を使い車つか くるま
を使いつ か
、炭酸たんさん
ガスを発生はっせい
して地球ちきゅう
温暖化おんだんか
を促進そくしん
させ、
南太平洋みなみたいへいよう
の国くに
ツバルが海うみ
に沈もうしず
としている。ツバル共和きょうわ
国こく
の人ひと
たちは、私たちわたし
先進国せんしんこく
の人ひと
たちが沢山たくさん
の炭酸たんさん
ガスを排 出はいしゅつ
するために、温暖化おんだんか
が進 み 南 すす みなみ
の島しま
の人ひと
に被害ひがい
が及んでお よ
しまう。
これは気候き こ う
正義せいぎ
という面めん
から、ほっておいてはいけないのではないかとの声こえ
が国際的こくさいてき
にも
上がってあ
いる。
ブドウ園えん
の労働者ろうどうしゃ
が、神様かみさま
から送られてお く
きた人ひと
を殺してころ
いく。ひどい話はなし
であるが、ただ単たん
に人ひと
の
首くび
を絞めたりし
、ナイフで刺したりさ
しなくても、私たちわたし
の生活せいかつ
の仕方しかた
によっては 南みなみ
の島しま
の人ひと
達たち
が
消えてき
行ってい
しまうようなことに加担かたん
していくことになるならば、見直さなければみなお
ならない。一人ひ と り
ひと
りの生き方 い かた
も大事だいじ
なのでしょうが、社会しゃかい
構造こうぞう
を変えてか
いくような取り組みと く
も必要ひつよう
なのではないか。
10月がつ
11日にち
第 28だ い
主しゅ
日じつ
の説教せっきょう
(浜崎はまさき
眞まさ
実み
師し
)
マタイによる福音ふくいん
22章しょう
1節せつ
~14説せつ
(文責ぶんせき
神山道也かみやまみちなり
)
先週せんしゅう
もひどい 話はなし
でした。今週こんしゅう
も似たに
ような 話はなし
です。ルカの福音書ふくいんしょ
にも似たに
ような 話はなし
が
載っての
いて、シナリオは似てに
いるが、詳細しょうさい
はかなり異なってこ と
いる。ルカはルカなりの考 え 方かんが かた
に
従ってしたが
イエスの例え話たと ばなし
の中なか
に入れ込みい こ
、 マタイはマタイなりの 考 えかんが
でイエスの 話はなし
に
入れ込んだい こ
。しかしこれがそのままイエスが語ったかた
ものではない。聖書せいしょ
と典礼てんれい
の福音書ふくいんしょ
の注 釈ちゅうしゃく
を
見るみ
と、酷いひ ど
話はなし
ですが、断ったことわ
だけではなく家来け らい
を捕まえつ か
乱暴らんぼう
して殺しこ ろ
てしまった。
こういう 話はなし
が何なん
でできたか。キリストとその弟子で し
が受けたう
迫害はくがい
が語られてか た
いるのであろう、と
書かれてか
いる。この注ちゅう
は時々ときどき
合ってあ
いるが余りあま
信用しんよう
しないように。これは、聖書せいしょ
学者がくしゃ
たちが述べての
いることを踏まえたふ
話はなし
なので受け入れてう い
いいのではと思いますおも
。マタイは紀元きげん
後ご
70年ねん
にエルサ
6
レムがローマ人 じ ん
によって滅ぼされほ ろ
、焼き尽くされたや つ
という体験たいけん
を知ってし
いるその後 ご
に書かれてか
いた、
編まれてあ
いたと言われてい
います。イエスはエルサレムの崩壊ほうかい
を知ってし
いない。十字架じゅうじか
にかかって
亡くなったな
のは、紀元きげん
後ご
30年ねん
頃ごろ
と言われてい
いますから、そこから 40年ねん
ほど経ってた
からエルサレム
が滅んだほ ろ
。マタイはその体験たいけん
を知ったし
上うえ
で、福音書ふくいんしょ
を編んだあ
。エルサレムの崩壊ほうかい
を体験たいけん
しそれを
40年前ねんまえ
に 遡 っ てさかのぼ
体験たいけん
をイエスの 話はなし
の中なか
に入れ込んでい こ
このような 話はなし
が出てで
くる。このたと
えをマタイは 私 た ちわたし
にどう読ませたいよ
か。神様かみさま
が一生懸命いっしょうけんめい
古代こだい
イスラエルの人ひと
たちを
呼び掛けてよ か
招いてま ね
いたのに、拒絶きょぜつ
された。拒絶きょぜつ
してイエスや弟子で し
たちがひどい目め
にあわされた。だ
から取り上げられてと あ
、宴会えんかい
にはキリスト者 し ゃ
が呼ばれるよ
ようになった。というようなことを伝えたいつ た
と
いう感じかん
である。それは果たしては
イエスが、ガリラヤの民衆みんしゅう
に語ったかた
話はなし
と合うあ
のかどうなのか。こ
れが現代げんだい
に生きるい
私たちわたし
はきちんと区別くべ つ
しなければならない。この 話はなし
をそのままマタイが
読ませたいよ
ように読んでよ
しまうと、“マタイの弟子で し
”になれるかもしれないが、“イエスの弟子で し
”には
なれるとは限らないかぎ
。 私たちわたし
はあくまでも模範もはん
としてついていくのは“ナザレのイエス”の生き方い かた
、
イエスは何なに
を考え何かんが なに
をしたのか。そのイエスの生き方い かた
に合わせてあ
生きてい
行くい
というのが、私たちわたし
の
生き方い かた
の基本きほん
だろうと思いますお も
。
だとすれば、イエスが何なに
を意図い と
してこのような 話はなし
を語ったかた
のかをしっかり受け止めるう と
必要ひつよう
があ
る。
話はなし
がそれますが、招かれなかったまね
誕生会たんじょうかい
と言ったらい
、「願児がんじ
我が
楽夢ら め
」という九 州きゅうしゅう
で人権じんけん
バン
ド、随分ずいぶん
前まえ
90年代 ねんだい
からあちこちで自分じぶん
たちの歌うた
を作ってつく
CDも出してだ
いるが、この“願児がんじ
我が
楽夢ら め
”
の歌うた
の中なか
に、「招かれなかったまね
誕生会たんじょうかい
」という歌うた
があります。それは被ひ
差別さべつ
部落ぶ ら く
の出身しゅっしん
であるが
故ゆえ
に、クラスメートの誕生会たんじょうかい
に自分じぶん
は招待しょうたい
されなかったという歌うた
なのです。今日き ょ う
の話はなし
は逆ぎゃく
です。
招かれたんま ね
だが来なかったこ
という 話はなし
です。その理由り ゆ う
にはもっともらしい理由り ゆ う
が書かれてか
いる。
一人ひ と り
は 畑はたけ
に、一人ひ と り
は商売しょうばい
に出かけたで
。日常にちじょう
生活せいかつ
の仕事し ご と
や、やらなければならないことをおっぽ
り出してだ
でも喜びよろこ
の宴会えんかい
に行ってい
非日常ひにちじょう
の体験たいけん
を味わうあじ
というのが人間にんげん
のあり方 かた
なのではない
のかなと思いますお も
。それなのに、仮面かめん
をかぶって、 畑はたけ
に行ったりい
、商売しょうばい
をした。喜 ば し いよろこ
宴うたげ
の
席せき
に招かれてま ね
いるにも関わらずか か
、日常にちじょう
生活せいかつ
の仕事し ご と
、あるいは辛いつら
ことを理由り ゆ う
に断 っ てことわ
しまうよ
うな愚かお ろ
なことをしていませんかというような呼びかけよ
ともとれる。さらにそれよりも大事だいじ
なのは
7
最後さいご
の方ほう
に出てで
くる、招かれたま ね
人ひと
は来なかったこ
のにで、招かなかったま ね
人ひと
たち、自分じぶん
が選んだえ ら
ので
はない、その辺へん
にいる人ひと
たちを連れてつ
きなさいという事こと
になった。するとそこには悪人あくにん
も善人ぜんにん
も
集まってあ つ
きた。ここがイエスの言いたいい
ことのポイントでしょう。マタイの福音書ふくいんしょ
では他ほか
の箇所か し ょ
で
「天てん
の父ちち
は、悪人あくにん
にも善人ぜんにん
にも太陽たいよう
を昇らのぼ
せ、良いよ
人ひと
にも悪いわ る
人ひと
にも雨あめ
を降らせるふ
」(マタ 5:
45)という表現ひょうげん
があるのですが、それとかなり近いちか
話はなし
かなと思いますおも
。私 た ちわたし
は、神かみ
の招きまね
と
いうのは、何なに
か良いよ
ことをしたからとか、実績じっせき
があるから呼ばれてよ
いるのではなくて、有りあ
のままで、
そのままで呼ばれてよ
いる。条件じょうけん
なしで呼ばれてよ
いる。こういう世界せかい
、そこには善人ぜんにん
悪人あくにん
と言ってい
、
分けてわ
集めるあつ
のではなく、全 てすべ
の人ひと
を招いてまね
いる。それが今日き ょ う
の福音ふくいん
のポイントと言えるい
でしょう。
日常にちじょう
生活せいかつ
や社会しゃかい
の中なか
では、いろいろな資格し か く
とかあるいは地位ち い
とか、そういったもので枠組みわ く ぐ
が
出来てで き
しまうのでしょうが、イエスの宴会えんかい
、神かみ
が招くまね
宴会えんかい
というのはそういった枠組みわくぐ
が
取っ払われてと ぱ ら
しまう。そこには善人ぜんにん
・悪人あくにん
の区別くべ つ
が無くな
なってしまうような世界せかい
である。神かみ
の国くに
とは、
良いよ
人ひと
ばっかり集まるあ つ
のではなく、訳わけ
の分からないわ
人ひと
たち。 男おとこ
か 女おんな
、子こ
どもか大人おとな
かわからない
曖昧あいまい
な人ひと
たちの集まりあ つ
ではないんでしょうか。このような 話はなし
が今日き ょ う
の福音ふくいん
には隠されてか く
いるよう
な気き
がします。
12月がつ
の教会きょうかい
委員会いいんかい
12月がつ
6日にち
(日にち
)に開 催かいさい
された教会きょうかい
委員会い い ん か い
の報告ほ う こ く
です。
Ⅰ.典 礼暦てんれいれき
と行 事ぎ ょ う じ
12月 がつ
6日 にち
(日にち
)典 礼てんれい
部会ぶ か い
8日 にち
(火か
)無 原 罪む げ ん ざ い
の聖せい
マリアの祝日しゅくじつ
24日 にち
(木も く
)主し ゅ
の降誕こ うたん
(前 夜ぜ ん や
)15:00,19:30
25日 にち
(金きん
)主し ゅ
の降誕こ うたん
9:00,11:00
27日 にち
(日にち
)聖せい
家族か ぞ く
の祝日しゅくじつ
8
2021年ねん
1月 がつ
1日 にち
(金きん
)神かみ
の母聖ははせい
マリアの祝日しゅくじつ
9:00,11:00
3日 にち
(日にち
)主し ゅ
の公こ う
現げん
10日 にち
(日にち
)主し ゅ
の洗礼せんれい
新成人しんせいじん
のお祝いいわ
典礼てんれい
部会ぶ か い
16日 にち
(土ど
)第 1回だい かい
福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶ か い
Ⅱ.協 議き ょ う ぎ
事項じ こ う
1.教 会きょうかい
活動かつどう
を見直 すみな お
(浜 崎はまさき
神父し ん ぷ
)
教会きょうかい
活動かつどう
の焦点しょうてん
~復活ふっかつ
のキリストから託 されたたく
使命し め い
を継続けいぞく
するために
派遣は け ん
される~
教会きょうかい
とは、
復活ふっかつ
のキリストを中 心ちゅうしん
として(何なに
を中心ちゅうしん
として集 まってあつ
いますか)
共同体きょうどうたい
となり(共 同 体きょうどうたい
と仲 間な か ま
主義し ゅ ぎ
の区別く べ つ
はできていますか)
託 されたキリストの使命し め い
を継続けいぞく
するために(託 されたたく
キリストの使命し め い
とは
何なん
ですか)
派遣は け ん
される(死 んでし
から天国てんご く
に行 くい
ためではなく現 実げんじつ
の世界せ か い
に派遣は け ん
されて
いる)人 々ひとびと
の集つど
いである。
2.四し
旬じゅん
節せつ
の黙想会も く そ うかい
に向 けてむ
提案ていあん
:黙 想 会も く そ うかい
の代わりか
に聖堂せいどう
で、八 重樫信之や え が し の ぶ ゆ き
写真展し ゃ しん て ん
「これまでは、今 日き ょ う
の
ために」 ~ハンセン病びょう
23年 ねん
の記録き ろ く
~を展示て ん じ
してはどうか。
期間き か ん
:四し
旬じゅん
節中せつちゅう
の月げつ
~金曜きんよ う
、最 終 日さい し ゅ うび
土曜ど よ う
にご本人 ほんにん
を招 いてま ね
お話 し はな
を聞 くき
。
3.来 年 度ら い ね ん ど
教会きょうかい
委員い い ん
の交代こ うたい
について
9
Ⅲ.その他
1.合 葬がっ そ う
墓ぼ
が完成かんせい
し、12月 がつ
11日 にち
(金きん
)曹 源 寺そ う げ ん じ
にて引 き渡 しひ わ た
式し き
が
行われましたおこな
。
同日どうじつ
、名 前な ま え
の判 らわか
ないお骨 こつ
を合葬がっ そ う
しました。
2.新 成 人しんせいじん
のお祝い いわ
:2021年 ねん
1月 がつ
10日 にち
(日にち
)10:00ミサ中 ちゅう
に行 いますおこな
。
3.2021年 ね ん
1 月 がつ
より主し ゅ
日じつ
のミサ後 ご
に「ミサとは何なに
か」の解説かいせつ
を行 いますおこな
。
次回じ か い
教会きょうかい
委員会い い ん か い
2021年 ね ん
1月 がつ
10日 にち
(日にち
)11:15から
~ミサについての小講話し ょ う こ う わ
~
1 .開催かいさい
日時に ち じ
: 2021年ねん
1月がつ
24日か
(日にち
)ミサ直 後ち ょ く ご
10~15分ふん
以後い ご
、主し ゅ
日じつ
のミサ直後ち ょ く ご
10~15分ふん
2 .会かい
場じょう
: 三笠み か さ
教会きょうかい
聖堂せいどう
3 .講こ う
師し
: 浜崎はまさき
眞ま さ
実師み し
4 .テキスト:『カトリック生 活せいかつ
』誌し
に連載れんさい
された
太田お お た
道子み ち こ
「神かみ
のことばと祭 りまつ
」
5 .その他 た
: 第 2回目だ い か い め
は第 1回だい かい
の続 きつづ
からとします。以 降い こ う
同様ど う よ う
です。
10
「福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶ か い
」の設立せつりつ
について(その2)
名 生め お
尚た か
雄お
「12月号
がつごう
」に引き続き
ひ つづ
1 月
がつ
から設立
せつりつ
される「福音
ふくいん
宣教
せんきょう
部会
ぶかい
」についてご説明せつめい
します。
1 2021年ねん
福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶかい
計画けいかく
① コロナ感染かんせん
拡大かくだい
がとまりません。今後こんご
の状 況じょうきょう
によっては、一部いちぶ
、計画けいかく
の変更へんこう
もありうること
をご承知 しょうち
ください。
② 当面とうめん
、1~3 月 がつ
は試行し こ う
期間きかん
とし、4 月 がつ
以降い こ う
を本格ほんかく
実施じ っ し
とします。
2 「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本にほん
」をあなただったらどうレクチャーしますか?
① 2~3月 中がつちゅう
のミサ後 ご
に「カード記述きじゅつ
」をお願い ねが
します。
② 「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本にほん
を知るし
講座こ う ざ
」へのご参加 さんか
もよろしくお願い ねが
します。
3 福音ふくいん
の生涯しょうがい
学習がくしゅう
のお知らせし
「学びなおしまな
セミナー」「旧約きゅうやく
聖書せいしょ
を読んでよ
イエスを知るし
」がスタートします。
4 「福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶかい
」の部ぶ
会員かいいん
の募集ぼしゅう
① 第 1 回だい かい
会議かいぎ
:1月 がつ
16日 にち
(土ど
)10:00~12:00集会室しゅうかいしつ
② 事前じぜん
連絡れんらく
は不要ふよ う
です。当日とうじつ
、集会室しゅうかいしつ
にご参集 さんしゅう
ください。
2021年 ね ん
福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶ か い
計画けいかく
1 目もく
標ひょう
イエスのムーブメントにならった「社会しゃかい
の福音化ふくいんか
」と「福音ふくいん
の生涯しょうがい
学習がくしゅう
」の新 し いあたら
スタートを
切るき
。
① 「わが街まち
よこすかの現状げんじょう
」への関心かんしん
が高まるたか
こと。
② 「福音ふくいん
の生涯しょうがい
学習がくしゅう
コース」がスタートを切るき
こと。
③ 三笠みかさ
教会きょうかい
の歩みあゆ
が「福音ふくいん
宣教せんきょう
」の実践じっせん
に向かうむ
こと。
2 「福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶかい
」の設置せ っ ち
と当面とうめん
の仕事し ご と
(月つき
1回 かい
)
11
① 「2021年ねん
福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶかい
計画けいかく
」を推進すいしん
する。
② 「福音ふくいん
宣教せんきょう
の将来しょうらい
構想こうそう
」を企画き か く
する。
3 ふたつの活動かつどう
をスタートさせる
(1)社会しゃかい
の福音化ふくいんか
「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本にほん
を知るし
講座こ う ざ
」
あなただったら「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本にほん
」をどうレクチャーしますか?
(担当たんとう
:浜崎はまさき
眞まさ
実師み し
、土曜ど よ う
10~12時、月1回)
(2)福音ふくいん
の生涯しょうがい
学習がくしゅう
① 「学びまな
なおしセミナー」
「正解せいかい
」を学習がくしゅう
するのではなく、おたがいの学びなおしまな
をトライする
(担当たんとう
:浜崎はまさき
眞まさ
実師み し
、日曜にちよう
8:30~9:50月 つき
1回 かい
)
② 「旧約きゅうやく
聖書せいしょ
を読んでよ
イエスを知るし
」
旧約きゅうやく
聖書せいしょ
を学ぶまな
ことでイエスがどのような伝統でんとう
を生きたい
かを知るし
(担当たんとう
:浜崎はまさき
眞まさ
実師み し
、水曜すいよう
10:00~11:30)
③ 外部がいぶ
講師こ う し
による学習会がくしゅうかい
「ナザレのイエスに出会うで あ
」 聖書せいしょ
を読んでよ
語りあうかた
会かい
(若手わかて
世代せだい
を想定そうてい
)
(担当たんとう
:中央協議会森山信三師ちゅうおうきょうぎかいもりやましんぞうし
、毎月まいつき
第3だい
日曜にちよう
11:15~13:00)
その他 た
④ 「教会きょうかい
図書と し ょ
」を充実じゅうじつ
させ「福音ふくいん
の生涯しょうがい
学習がくしゅう
環境かんきょう
」を整えるととの
。
「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本に ほ ん
」をあなただったらどうレクチャーしますか?
「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本にほん
を知るし
講座こ う ざ
」テーマ設定せってい
のために
・・・・・・・・ミサ中ちゅう
のご協力 きょうりょく
のお願 ねが
い・・・・・・・・
日本にほん
も横須賀よ こ す か
も初めてはじ
の外国人がいこくじん
司祭し さ い
が三笠みかさ
に赴任ふにん
されたら・・・・・・・・
あなただったらどんなテーマを選えら
んでレクチャーしますか?
12
① 「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本にほん
を知るし
講座こ う ざ
」を4 月 がつ
以降い こ う
、一年いちねん
にわたり開催かいさい
します。
② ついては、テーマ設定せってい
を全員ぜんいん
参加さんか
で選択せんたく
していきたいと思いますおも
。
③ 2~3月 がつ
ミサ後 ご
、テーマ
の「カード記述きじゅつ
」をお願い ねが
します。
それぞれ2つずつ書いてか
ください(事前じぜん
に考 え てかんが
みてください)
「横須賀よ こ す か
はここがすばらしい。」 「横須賀よ こ す か
はここが問題もんだい
・課題かだい
ありだ。」
「現代げんだい
日本にほん
はここがすばらしい。」 「現代げんだい
日本にほん
はここが問題もんだい
・課題かだい
ありだ。」
「福音ふくいん
宣教せんきょう
部会ぶ か い
」の部ぶ
会員かいいん
の募集ぼしゅう
(お願い ねが
)
1 期
き
間
かん
:2021年
ねん
1 年間
ねんかん
2 会かい
議ぎ
:原則げんそく
、毎月まいつき
第1だい
土曜ど よ う
10:00~12:00
最終的さいしゅうてき
には参加者さんかしゃ
のご都合 つごう
で決定けってい
します。
3 第1回だいかい
会議かいぎ
2021年 ねん
1月 がつ
16日 にち
(土ど
)10:00~12:00
当日とうじつ
、集会室しゅうかいしつ
にご参集 さんしゅう
ください。事前じぜん
連絡れんらく
は不要ふよ う
です。
4 2021年 ねん
に求められるも と
こと(一応いちおう
の予想よ そ う
)
① 「横須賀よ こ す か
と現代げんだい
日本にほん
を知るし
講座こ う ざ
」を実施じ っ し
する。
② 「福音ふくいん
の生涯しょうがい
学習がくしゅう
」を企画き か く
し、自主じ し ゅ
開催かいさい
する。
③ 図書と し ょ
を充実じゅうじつ
、整備せいび
する。
5 部会ぶかい
の開き方ひら かた
① がんばらない会議かいぎ
にしたいと思いますおも
。
・だれでも参加さんか
できる会議かいぎ
をめざします。
② いろいろな欲求よっきゅう
にも応じられるおう
会議かいぎ
にします。
・学びたいまな
人ひと
、仕事し ご と
をしたい人ひと
、語りたいかた
人ひと
のための場ば
をつくります。
② コロナ感染かんせん
拡大かくだい
のとき、とりあえずスタートし、広げてひろ
いきます。
13
~三笠み か さ
教会きょうかい
の歴史れ き し
を振 り返ふ かえ
る~
昭和し ょ う わ
20年代 ねん だ い
の横須賀よ こ す か
カトリック教会きょうかい
(5)
櫻さくら
井い
達さとし
<聖歌隊せ い か た い
の活動かつどう
状 況じょうきょう
のいくつか>
前回ぜんかい
お話 はなし
した経 緯け い い
で誕生たんじょう
した聖 歌隊せ い か た い
の活動かつどう
状 況じょうきょう
を、次つぎ
に書いてか
みます。
畑田は た だ
神父し ん ぷ
様さ ま
は長崎ながさき
に原爆げんばく
が落 とされたお
頃こ ろ
は長崎ながさき
教きょう
区く
所属し ょ ぞ く
の司祭し さ い
でした。そ
の関係かんけい
で、原 爆げんばく
被災ひ さ い
信者し ん じ ゃ
を訪 ねてた ず
はご聖体 せいたい
を与 えたりあた
、終 油し ゅ う ゆ
の秘蹟ひ せ き
を授 けさ ず
たり
なさったとか。横 浜よこはま
教きょう
区く
に来 られたこ
後あと
は、横 須賀よ こ す か
カトリック教 会きょうかい
主任しゅにん
司祭し さ い
として、
大 津お お つ
カトリック教 会きょうかい
の創設そうせつ
にご尽力 じんりょく
なさり、大 津お お つ
教会きょうかい
初代し ょ だい
主任しゅにん
司祭し さ い
として赴 任ふ に ん
されました。その後ご
19年 ねん
近 くち か
も主 任しゅにん
司祭し さ い
を務 めらつと
れています。
古いふ る
信者し ん じ ゃ
は覚 えておぼ
いるかもしれませんが、畑 田は た だ
神父し ん ぷ
様さ ま
は結構け っ こ う
怒 りっぽいおこ
方かた
で
した。ミサ中 ちゅう
一寸ち ょ っ と
でも気き
に障さわ
ることがあると、祭さい
壇上だんうえ
から 表おもて
に行 きなさいい
と命 令めいれい
することがありました。しかし、面 倒めんどう
見み
の良いよ
面めん
もお持 ち も
でした。
当時と う じ
の 日曜日に ち よ う び
の ミ サ は 7時 じ
、 9時 じ
、 11時 じ
と 3回 かい
あ り ま し た 。 7時 じ
と 9時 じ
は
日本人向 けに ほ ん じ ん む
のミサで したが 、 7時 じ
のミサで侍者じ し ゃ
を務 めるつ と
と 、 畑 田は た だ
神父し ん ぷ
様さ ま
から
100円 え ん
渡 されわ た
、アンパンを買 いか
に行かされましたい
。当 時と う じ
アンパンは1ヶこ
10円 えん
でし
たが、買 ってか
帰 るかえ
と、「はいよ」と言 いながらい
一つひ と
下 さいますく だ
。当 時と う じ
の侍者じ し ゃ
仲間な か ま
は
皆みな
アンパン
の恩恵おんけい
を受 けましたう
。何 時い つ
しか「アンパン神父し ん ぷ
様さ ま
」と呼 ぶよ
ようになって
いました。
また、我 々われわれ
の結婚式け っ こ ん し き
に際 してさ い
、司 式し し き
司祭し さ い
のお願い ね が
に伺 ったうかが
時と き
には、気 軽き が る
に「い
いよ」と 仰おっしゃ
って下 さいましたく だ
。そういう方かた
でもあったのですが、神 父し ん ぷ
様さ ま
は、聖 歌隊せ い か た い
活動かつどう
を重視じ ゅ う し
しておられました。
上 述じょうじゅつ
のように、歌う た
の経験けいけん
がある平田ひ ら た
さんを指名し め い
して聖 歌隊造 りせいかたいづく
をさせたので
す。平 田ひ ら た
さんは年と し
の違 うちが
若いわか
我 々われわれ
を、実じつ
に熱心ねっしん
に指導し ど う
してくれました。その平田ひ ら た
さ
んですが、戦 争せんそう
終結しゅうけつ
が2日ふつか
遅れてお く
いたら、多 分た ぶ ん
生 きてい
いない、と言 ってい
いたことが
ありました。終 戦しゅうせん
当時と う じ
、陸 軍り く ぐ ん
中尉ち ゅ うい
で200人 にん
程ほど
の部下ぶ か
がいる戦闘機せ ん と う き
“ 隼はやぶさ
”乗 りの
14
の中隊ちゅうたい
長ちょう
。最 後さ い ご
は特攻と っ こ う
隊員たいいん
の指名し め い
を受 けてう
いたそうです。その平田ひ ら た
さん、経 歴けいれき
に似合わずに あ
温厚おんこう
な方かた
でしたが、指 導し ど う
の仕方し か た
は常 につね
先頭せんとう
に立 ってた
やっていこうとし
ていたようです。多 分た ぶ ん
、戦 闘 機せ ん と う き
乗 りの
であった時と き
の部下ぶ か
に対 するたい
指導し ど う
方法ほうほ う
で、我 々われわれ
を指導し ど う
してくれたのでしょう。
この頃こ ろ
の聖歌隊せ い か た い
メ ンバ -は 30人 にん
を超 してこ
いま した 。 女 声じ ょせい
は清泉女せいせんじょ
学院がくいん
の
高校生こ う こ う せい
が、男 声だんせい
は栄光えい こ う
学園がくえん
の高校生こ う こ う せい
が中心ちゅうしん
で、 女おんな
2: 男おとこ
1の割 合わりあい
だったでしょ
うか、人 数 的にんずうてき
にはバランスはとれていました。しかし、内 容 的ないようてき
にはお粗末 そ ま つ
そのもの
でした。しかし、1年ねん
経 ちた
2年 ねん
経 ちた
していくうちに、何なん
とか歌声うたごえ
として聞 かれるき
ように
なってきていました。
そ う い う 聖 歌隊せ い か た い
で し た が 、 活 動かつどう
の 場ば
は 非常ひ じ ょ う
に 広 くひろ
多彩た さ い
で し た 。 歌 ううた
の は
日曜日に ち よ う び
のミサだけではありません。ご復 活 ふっかつ
やクリスマスでは、真 夜中ま よ な か
と朝あさ
の2回 かい
歌いましたう た
。また、年ねん
7日 にち
もあった当時と う じ
の守 るまも
べき大祝日だいしゅくじつ
のミサでは必 ずかなら
歌いう た
ま
した。それに枝えだ
の祝日しゅくじつ
から始 まるは じ
聖せい
週間しゅうかん
でも歌 いましたう た
。聖せい
木曜日も く よ う び
、聖せい
金曜日き ん よ う び
、
聖せい
土曜日ど よ う び
と続 けてつづ
歌 うう た
のです。
聖せい
週間しゅうかん
で歌 ううた
のはグレゴリオ聖 歌せ い か
が主体しゅたい
です。同 時ど う じ
に真夜中ま よ な か
に始 まるは じ
ご復活 ふっかつ
のミサで歌 ううた
合唱曲がっしょうきょく
も平 行へいこう
して準 備じゅんび
しなければなりません。ですから、この時 期じ き
は
殆 どほとん
毎日まいにち
練習れんしゅう
がありました。ということで練習れんしゅう
は結構け っ こ う
大変たいへん
でした。でも、お蔭 かげ
で
今いま
でも歌 えるう た
歌う た
は結構け っ こ う
あります。それだけでなく、仲 間な か ま
意識い し き
が強 まりましたつ よ
。当 時と う じ
の生 き残 り い の こ
は今いま
も時 々ときどき
集 まってあつ
はわいわいやっています。
結婚式け っ こ ん し き
、葬 儀そ う ぎ
等など
でも歌 いましたう た
。結 婚 式け っ こ ん し き
は、ミサ 或あるい
はベネディクション両 方りょうほう
の
式し き
がありましたが、どちらにもよく歌 いましたう た
。昭 和し ょ う わ
20年 代 ねんだい
といいますと 、戦 後せ ん ご
復員ふくいん
してきた兵士へ い し
達たち
が大勢おおぜい
いて、それらの人ひと
達たち
が結婚け っ こん
するのです。ですから結構け っ こ う
出番で ば ん
がありました。また、葬 儀そ う ぎ
は衛生えいせい
状態じょうたい
や医療い り ょ う
体制たいせい
の不備ふ び
ということもあった
からでしょう、葬 儀そ う ぎ
ミサで歌 ううた
場面ば め ん
も多 くおお
ありました。
葬儀そ う ぎ
ミサで歌 ってう た
きたグレゴリオ聖 歌せ い か
のレクイエムは大好 きだ い す
です。全 曲ぜんきょく
ではあり
ませんが、今いま
でも死者し し ゃ
ミサ
で、 或あるい
は納骨のうこつ
時じ
に、レクイエムの中なか
の短 いみじか
曲きょく
を歌 ううた
こ
15
とがあります。レクイエムという歌う た
は死者し し ゃ
の永遠えいえん
の安息あんそ く
を祈 るいの
曲きょく
ですけど、葬 儀そ う ぎ
に
参列さんれつ
した人 々ひとびと
に不思議ふ し ぎ
な感動かんどう
を与 えるあた
のです。長 年ながねん
歌 ってう た
きた経験けいけん
からそのよう
に思 いますお も
。ですから、自 分じ ぶ ん
の時と き
には、献 花け ん か
なんてしなくていいから、是 非ぜ ひ
全曲ぜんきょく
歌 ってう た
ほしいと願 ってねが
います。これ、願 望がんぼう
ではありません。遺 言状ゆいごんじょう
の中なか
に歌 ってう た
ほし
い歌名うためい
を書 き入れてか い
ありますので、どうぞ宜 しくよ ろ
お願い ね が
致 しますいた
。
当時と う じ
の聖歌隊せ い か た い
で歌 ったう た
のはグレゴ リ オ聖 歌せ い か
ばかりではあり ません 。 古 くふる
は
ルネッサンス期 き
のパレストリ -ナのミサ曲 きょく
を歌 ったう た
かと思 うおも
と 、 A ・デュモンの単たん
旋律せんりつ
ミサ曲 きょく
を歌 ううた
、モ-ツアルト、ベ-ト-ヴェン、メンデルスゾ-ンにフォ-レとい
う大 作曲家だいさ っ き ょ く か
が作曲さっきょく
した合 唱曲がっしょうきょく
、それに20世 紀せ い き
システィ-ナ礼 拝堂れいはいどう
の指揮者し き し ゃ
ペ
ロ-ジの作品さ くひん
の他ほか
、名な
が知 られてし
いない作曲家さ っ き ょ く か
の作品さ くひん
等と う
を含 めふ く
、本 当ほんとう
によく歌う た
いました。
そのなかで、ランビロッテという作 曲家さ っ き ょ く か
の作品さ くひん
で、オラトリオ・プル・ノエルという
クリスマスで歌 ううた
曲きょく
があります。パスト-レスという言 葉こ と ば
で始 まるは じ
ソプラノソロの
綺麗き れ い
な曲きょく
です。そして、二 重 唱にじゅうしょう
から合唱がっしょう
へと導かれてみちび
いく素 晴 らしいす ば
曲きょく
です。これ
と同 じおな
作曲家さ っ き ょ く か
のサルヴェ ・レジナの 2曲 きょく
は 、三 笠み か さ
聖歌隊せ い か た い
の十八番お は こ
的て き
な曲きょく
で 、
結 構け っ こ う
長いなが
曲きょく
ですが、今いま
でも音符お ん ぷ
を余 りあま
見なくてみ
も和 すわ
ことが出来 るで き
でしょう。
活動かつどう
の場ば
と書 きましたか
。次つぎ
にその具体例ぐ た い れ い
を一 つひ と
二つふた
を書 いてか
みます。
<米べい
海軍かいぐん
航空こ う く う
母艦ぼ か ん
で行われたおこな
ミサで歌 ううた
>
昭和し ょ う わ
26年 ねん
のご昇 天 しょうてん
の祝日しゅくじつ
であったか、聖 霊せいれい
降臨こ う り ん
の祝日しゅくじつ
であったか忘れわ す
まし
たが、まだ大津お お つ
教会きょうかい
が独立ど く り つ
する前まえ
です。教 会きょうかい
のミサを終 えたお
後あと
、横 須 賀港よ こ す か こ う
沖おき
に
停泊ていは く
し て い た 米軍べいぐん
の 航空こ う く う
母艦ぼ か ん
に 、 平 田ひ ら た
さ ん の 引率いんそつ
で 聖歌せ い か
隊員たいいん
全員ぜんいん
で
行 きましたい
。
今いま
でも横須賀駅よ こ す か え き
手前て ま え
に旧日本きゅうにほん
海軍かいぐん
時代じ だ い
に使 ったつ か
という二 つふた
の門もん
が残 っての こ
い
ます 。そこから波 止場は と ば
に向かいむ
、上 陸 用じょうりくよう
舟艇しゅうてい
に乗せられての
行 ったい
のです 。風かぜ
が
強いつ よ
雨模様あ め も よ う
の日ひ
で、湾 内わんない
でも白 くしろ
波頭は と う
が立 ってた
います。艦かん
に着 きつ
タラップに渡 るわた
16
時と き
、男 共おとこども
は上陸用じょうりくよう
舟艇しゅうてい
と母 艦ぼ か ん
との 間あいだ
に出来 たで き
隙間す き ま
を上手 くう ま
飛び越 えてと こ
いまし
たけど、女 性じ ょせい
達たち
は怖がってこ わ
、タラップに移 るう つ る
まで結構け っ こ う
手間取 ってて ま ど
いました。狭 くてせ ま
急きゅう
なタラップを登 っての ぼ
行 ったい
先さ き
は中甲板ちゅうかんぱん
=格 納庫か く の う こ
甲板かんぱん
でした 。畑 田は た だ
神父し ん ぷ
様さ ま
も
同 行ど う こ う
してます。平 坂 上ひらさかうえ
聖堂せいどう
から三笠み か さ
に来 てき
いたオルガンも運び込 まれましたは こ こ
。
多 くお お
の兵士へ い し
が待 ってま
いた中なか
で、ミサが始められはじ
、歌 いましたう た
。航 空こ う く う
母艦ぼ か ん
の中なか
で
歌 ったう た
ことは最初さ い し ょ
で最後さ い ご
の経験けいけん
ですが、記 憶き お く
に残 っての こ
います。その後 ご
、艦 内かんない
の
食堂しょくどう
で昼 食ちゅうしょく
をご馳走 ち そ う
になりました。アイスクリ-ムが美味 しかったお い
ですね。
しかし、それで終 りおわ
ではありませんでした。航 空こ う く う
母艦ぼ か ん
の1 /5くらいしかない駆逐く ち く
艦かん
クラスの小 さなち い
艦かん
にも行 きい
、その艦かん
で行なわれたお こ
ミサでも歌 ったう た
のです。小 さなちい
艦かん
でしたからオルガンは持込めませんも ち こ
でした。ですから、全 てすべ
無伴奏む ば ん そ う
です。ミサが
進 みす す
聖体せいたい
拝領はいりょう
の場面ば め ん
にさしかかりました。すると、一 人ひ と り
の兵士へ い し
がヴァイオリンを
取 り出 しと だ
、奏かな
で始めた は じ
のです。無 伴奏む ば ん そ う
で奏でられたかな
曲きょく
はグノ-のアヴェ・マリアで
す。演 奏えんそ う
の上手じ ょ う ず
下手へ た
ではなく、本 当ほんとう
に良かったよ
ですね。今いま
でも思 い出 すお も だ
と 涙なみだ
が
出で
てきます。
(次 号じ ご う
に続 くつづ
)
於おいて
米べい
空母く う ぼ
飛行ひ こ う
甲板かんぱん
および格納か くの う
甲板かんぱん
17
役割やくわり
分担ぶんたん
・お仕事 しごと
の紹介しょうかい
三笠みかさ
教 会きょうかい
には役割やくわり
分担ぶんたん
があり、日頃ひごろ
から多くおお
の方かた
が 私わたし
たちの 教 会きょうかい
のために
働いてはたら
くださっています。先月号せんげつごう
から 順じゅん
にそれぞれのお仕事 しごと
を担当たんとう
されている方かた
に
お 話 はなし
をお 伺うかが
いし、どんなお仕事しごと
をされているのか紹 介しょうかい
しています。
聖書せいしょ
朗読ろうどく
主おも
な活動かつどう
日び
: 日曜日にちようび
および聖せい
週 間しゅうかん
など特別とくべつ
な典礼てんれい
が行 わ れ るおこな
日ひ
係かかり
: 川嶋かわしま
理夫みちお
ミサで聖書せいしょ
(第一だいいち
朗読ろうどく
、第二だいに
朗読ろうどく
)を朗読ろうどく
し、奉納ほうのう
の時とき
にパンとぶどう酒しゅ
を祭壇前さいだんまえ
の神父しんぷ
様さま
へ届けますとど
。朗読者ろうどくしゃ
は、集まってあつ
いる人々ひとびと
全員ぜんいん
に神かみ
のメッセージを届けるとど
気持ちき も
で、聞くき
人ひと
が御言葉みことば
を味わえるあじ
ように、落ち着いてお つ
、はっきりとした声こえ
で丁寧ていねい
に
読むよ
ことが大切たいせつ
です。そのためには前まえ
もってよく練 習れんしゅう
し、発音はつおん
、適当てきとう
な間ま
とリズム、
強 調きょうちょう
すべきことばを考 え な が らかんが
準備じゅんび
をすることになります。聖書せいしょ
そしてミサを
深くふか
味あじ
うことになりますので、参加さんか
することをお勧め すす
します。
献 金 係けんきんがかり
主おも
な活動かつどう
日び
: 日曜日にちようび
ミサ後ご
15~20分 ふん
係かかり
: 黒田くろだ
佳子よしこ
当日とうじつ
の献金けんきん
を集 計しゅうけい
します。各人かくじん
都合つごう
の良いよ
日曜日にちようび
を決めき
、当番制とうばんせい
にしております。
都合つごう
変更へんこう
は随時ずいじ
可能かのう
です。また、クリスマス、聖せい
週 間しゅうかん
の夜よる
のミサの時とき
は集めるあつ
のみで、
後日ごじつ
日曜日にちようび
に集 計しゅうけい
を致しますいた
。仕事しごと
は、簡単かんたん
ですので参加さんか
されたい方かた
は是非ぜ ひ
お申し出 もう で
く
ださい。
18
三笠み か さ
幼稚園よ う ち え ん
園庭え ん て い
改修費か い し ゅ う ひ
の協力きょうりょく
金き ん
について
自動車じ ど う し ゃ
で教会きょうかい
に来 られてこ
いる方かた
に、園 庭えんてい
改修費かいしゅうひ
協 力きょうりょく
金きん
として
募金ぼ き ん
をお願い ね が
しています。募 金 用ぼ き ん よ う
封筒ふ う と う
を信徒館し ん と か ん
のレターケースに
入れい
、毎 月まいつき
千円せんえん
(年 払ねんばらい
:1万 2千円まん せんえん
)をお願い ね が
しています。
募金用ぼ き ん よ う
封筒ふ う と う
は車くるま
を利用り よ う
されていない方かた
のレターケースにも入 れてい
います。 ご 協 力 きょうりょく
頂 けるいただ
方かた
は募金ぼ き ん
をお願い ね が
します。
募金ぼ き ん
は毎月まいつき
教会きょうかい
維持費い じ ひ
と同 じおな
場所ば し ょ
(教 会きょうかい
ポスト)に入 れい
納付の う ふ
してください。
来年らいねん
の募金用ぼ き ん よ う
封筒ふ う と う
を皆様みなさま
のレターケースに入れましたい
。納 付の う ふ
の
際さい
、各 自か く じ
でお名前 な ま え
とレターケース№をお書 き か
くださいますようお願い ね が
いたします。