〈アルゼンチン文学〉の誕生と文化的実践としての読書 林 み …...during...

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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 52: 339-353 URL http://hdl.handle.net/10291/9904 Rights Issue Date 2003-03-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Page 1: 〈アルゼンチン文学〉の誕生と文化的実践としての読書 林 み …...During that period, the丘rst important center for national folklore studies was founded

Meiji University

 

Title<アルゼンチン文学>の誕生と文化的実践としての読

書≪個人研究≫

Author(s) 林,みどり

Citation 明治大学人文科学研究所紀要, 52: 339-353

URL http://hdl.handle.net/10291/9904

Rights

Issue Date 2003-03-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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明治大学人文科学研究所紀要 第52冊 (2003)339-353

〈アルゼンチン文学〉の誕生と文化的実践としての読書

         林   みどり

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Abstract

Birth of‘‘Literatura Argentina”and Reading as Cultural practice

HAYASHI Midori

    The preoccupation with indigenous cultural values and national identity in Latin America has its

historical origin in the nation-building stage of the nineteenth century. In the case of Argentina, the

cultural discourse from the turn of the century to the五rst decades of the twentieth is characterized as

the culmination of the explosive intensity of the preoccupation with autochthony, or‘‘la argentinidad”

(the Argentinity).This paper focuses on this phenomenon trying to show how the comprehensive for-

mulation of the discourse around cultural nationality is related to contemporary socio-cuitural condi-

tions.

    The anxiety for-or the desire to-construct cultural nationality is expressed in the disciplines of

Humanities such as History, Folklore and Literature. With respect to History, Argentina’s且rst

authoritative school of national history(Nueva Escuela Hist6rica)was formed in 1910’s, and remained

one of the most respected until the 1970’s. Not surprisingly, Emilio Ravignani and Ricardo Levene, the

founders of that school, were the first students to hold the chair of Argentinean History after 1905 at

the Universidad Naciona五de Buenos Aires, the most privileged institution in the country. Until that

                                                            ’.J

year, Argentina’s national history was not considered worthy of being taught in the country’s highest

institution of learning and research.

    During that period, the丘rst important center for national folklore studies was founded at the same

university. These studies create speci且c values for residents of remote areas, places that have been left

far behind from contelnporary radical process of modernization. The discipline of National Folklore

functions as a social apparatus to realize‘‘melancholic invention of the traditions”(Garcfa Canclini),

    Literature has experienced the most remarkable shift from a Europe-centered to a national-cen-

tered discipline. In 1913, the first Chair of Argentinean Literature was created at the Universidad de

Buenos Aires, from which branched out the National Literature Institute(Instituto de la Literatura Ar-

gentina).Within a short time this institute became the center for the research of indigenous and na-

tional cultures. Through university lectures and research the foundations of phnological discourse

were formed.

    Philological interpretive practice allows establishing the norm of nationalマalues of indigenous-

ness, defining the legitimacy of autochthonousness, and discriminating between‘‘national and authen-

tic”texts and others. The formation of so-called‘‘national literary tradition”derived from this philo-

10gical discourse functions as a sort of taxonomy for literary texts.

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    Far from being separated from the socio-cultural context of the contemporary era, philological for-

mulation is a prerequisite for intellectuals to confront with emerging cultural hybridity in Argentina’s

society. Millions of Italian, Catalonian, Galician, and Russian immigrants over且owed Buenos Aires

port, streets, factories and“conventillos”(slums)。Working and living with natives, they read and

publish crude popular books of gaucho literature, producing and creating new types of native heroes.

These gaucho figures were originally created by‘“traditional”literary texts where they were to be im-

miscible with non-Argentineans. But now, throughout practice of reading, they are translated into

hybrid cultural agencies. Philological discourse intervenes in this popular production process, contex-

tualizing and classifying that which is inherently‘‘popular”and that which is not, in this way works out

to dominate hybrid cultural sphere.

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《個人研究》

〈アルゼンチン文学〉の誕生と文化的実践としての読書

林 みどり

[1] 人文諸学の専門化と〈国民的なもの〉の探究

 「国民芸術」を創出することへの強烈な欲望。1900年ごろのアルゼンチンの文化をめぐる言説空間

において,それはもっとも強力な磁場のひとつを形成していたと,作家で批評家のダビ・ビーニャス

はいっている(1>。有力政治家たちはもとより,かれらと緊密な関係をとりむすぶ作家やジャーナリス

トたちは,ことあるごとにその必要性を主張していた。むろん,アルゼンチンには国民的ひろがりを

もつ芸術が欠如しているとの認識が提示されたのは,この時期が最初ではなかった。独立から20余

年を経た19世紀前半の国民国家建設期以来,それは幾度となく反復されてきた主張ではあった。だ

が,それが20世紀初頭ほどに切迫したしかたで語られ,特権的な話題となったことはそれまでには

なかった。

 芸術にかぎらず,この時期,人文科学のさまさまな領域で,〈国民的なもの〉を探究する動きがあ

らわれた。同様の探究はそれまでにもなされてきてはいたが,専門的な研究者集団を育成する高等教

育機関での制度化がめざされたのは,20世紀初頭に顕著な特徴である。核となったのは,アルゼン

チンでもっとも権威ある教育研究機関とみなされるようになる,国立ブエノスアイレス大学の哲文学

部である。

 その少し前まで,人文諸学は,アルゼンチンの高等教育機関のなかでは,まったくといってよいほ

どかえりみられることのない学問領域であった。歴史学や文学など,哲文学部が担う専門的研究者の

育成や教育者養成には,ほとんど関心が払われていなかったのだ。ブエノスアイレス大学に哲文学部

が設置された1895年の哲文学部入学者29名にたいして,同年の医学部の入学者数は1500名,法学部

は780名,工学系の授業を基とする精密化学部は350名であった。哲文学部の学生が大学全体に占め

る割合はわずか1パーセントにすぎず②,哲文学部の存在意義は,当の大学生自身にとってかなり疑

わしいものとならざるをえなかった。のちに文学活動を開始し,雑誌『イデアス』や『ナシオン』紙

といった主要なジャーナリズムを舞台に活躍することになる,批評家で詩人のエミリオ・ベチェール

の場合,かれは「人にいわれるまま,資質もないのに法学部に入学した。というのも,1898年の段

階で,高校の卒業生たちは,ブエノスアイレス大学に哲文学部が存在するなどということすら知らな

かったからである。哲文学部は生まれたばかりで,他のドクトールたちからさえ侮蔑の眼差しで見ら

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〈アルゼンチン文学〉の誕生と文化的実践としての読書

れていた」(3)。

 しかし,1905年におこなわれたブエノスアイレス大学改革をつうじて,哲文学部にはあらたな役

割が付されるようになったのである。改革の前年に哲文学部長の座を離れたミゲル・カネーは,職を

辞するにあたっておこなった講演のなかで,哲文学部で教えられるべきは従来通りヨーロッパ中心の

「世界史」であるべきであり,そこにアルゼンチンでおこったいくつかの対外戦争をつけくわえれば

事足りるとし,また文学講座についても,南欧文学に加えて「アングロサクソン文学やゲルマン文

学,スラブ文学の理解にむけた枠の拡大が望ましい」とはのべたが,アルゼンチンはおろかラテンア

メリカの文学など教育の対象として言及することさえしなかった(4)。しかしながら,カネーの演説か

らわずか2年後,大学改革後初の新哲文学部長のもとでは,アルゼソチソにかんする研究と教育を

拡大し,もろもろのテーマについて週ごとの講義を組織化していくための具体的な教育プランがたて

られ,さらには,「国民主義的な傾向」をもつ専門的な人文諸研究を褒賞する新制度が哲文学部の内

部につくられて,かなりの規模の国家予算がそこに投じられるようになったのである。これ以後,大

規模な考古学調査や博物館展示物の収集,歴史文書館の文書や蔵書の収集の促進には,国庫からの資

金が投入されるようになる。

 歴史学の領域で,哲文学部の新しい教育プランにくわわった研究者たちは,ほどなくして支配的な

学派へと急成長する「新歴史学派」Nueva Escuela Hist6ricaを構成した。なかでも中心的な役割を

はたしたのが,リカルド・レベーネとエミリオ・ラビニャー二である。レベーネは,アルゼソチソ歴

史学のもっとも権威的な研究機関として現在までつづく「国民史アカデミー」Academia de la

Historia・Nacionalの会長をつとめ,ラビニャー二は,かれの名前が付されることになる学部付属の

歴史学研究所の長をつとめるかたわら,膨大な数の記念碑的な史料編纂や史料収集を指揮した。どち

らも歴史家としての自らの専門性にきわめて自覚的で,厳密な史料批判や編纂などの作業をすすめる

その一方では,専門家集団以外の社会の幅広い層にむけて啓蒙活動をくりひろげた。社会の中間層を

対象に,平易な歴史書をつぎつぎと出版することをつうじて,アルゼンチンの過去についての公的歴

史像の大衆的普及をはかったのである。

 社会に広く文化的ヘゲモニーを確立することになる「新歴史学派」の傾向には,ひとつの特徴があ

る。植民地時代と19世紀初頭のアルゼンチン史への圧倒的な傾斜である。たとえば,1940年代に流

通していた一般向けの歴史書のなかでは,独立戦争期についての記述が全体の半分以上を占め,19

世紀前半までの歴史叙述で全体の90%以上が費やされていた。似たような傾向は,歴史家の政治

的・イデオロギー的な違いを問わず,1960年代から70年代ごろまで継承され,かくて「新歴史学派」

成立以降,すくなくとも70年代なかばまでのアルゼンチン史の叙述には,ある種の暗黙の了解が成

立するようになった。19世紀なかば以降を歴史対象として扱わないことによって,それ以降のでき

ごとを歴史叙述から排除するという了解である。必然的に,そうした歴史叙述からは,それ以降にア

ルゼンチンにやってきた移民についての叙述は排除された。移民については,せいぜい国家の移民事

業の「成功」が論じられるか,一部の過激な「外国人」がかもした社会不安にほんの少し触れられる

程度で,移民を管理する法整備はおろか,労働組合の起源についても,都市住民の生活空間の変容に

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ついてもほとんど言及されなかった(5)。そこには,移民不在の歴史的な過去の時間をつむぎだすこと

への意志に貫かれた,歴史叙述の空間が構成されたのである。

 アルゼソチンを研究対象領域にした学問分野の体系化と高等教育の制度化が進んだのは歴史学にと

どまらず,民俗学についても同様であった。民俗学研究はすでに19世紀からなされていたが,それ

が権威ある制度的な中心をともなって発展しはじめたのは20世紀にはいってからのこと。研究の中

核が設置されたのは,これもやはりブエノスアイレス大学哲文学部であった。1906年には学部付属

の民族学博物館が設置され,フアソ・B・アンブロセッティが館長に迎えいれられた。アンブロセッ

ティは,1917年に死去するまでに,アルゼンチン各地の考古学的・民俗学的研究にかんして60以上

の論文や著作をあらわし,2万点以上にのぼる収集品を残した(6)。こうして1935年には,民俗学的観

光地の名所のひとつとして名高いフフイ州ウマウァカ山峡を,考古学や民俗学の宝庫として発見した

功績を讃えるためとして,アンブロセッティとその弟子を記念するピラミッド型の碑が,同地ティル

カラに建てられた。

 考えてみれば,これは奇妙な現象ではないか。地元出身の有名な政治家でもなければ,軍人でもな

く,また現地の産業振興に寄与した企業家でもなく,なにひとつ具体的な貢献をしたわけでもない,

たかだか一介の研究者にすぎない両者の記念碑が建てられたのだ。しかし,この事実それ自体が,民

俗学という学問そのものがもっていた社会的機能を象徴していよう。富の大部分を占有する湿潤なパ

ンパ地帯から数千キロも離れてボリビアと境を接するフフイ州,移民流入の波をほとんど受けず,

19世紀末の近代化の時期に産業構造のドラスティックな変化から完全に取り残されたアルゼンチン

最北端のこの高原一帯において,アンブロセッティが推進した民俗学は,いわば「伝統のメランコリ

ックな発明」(ガルシア・カンクリー二)ωを実現し,近代的な諸価値とは異なるあらたな価値をこの

地域に与えたのである。アルゼンチン民俗学は,経済エリート層が前提していたレッセ・フェールの

経済的諸価値では測ることのできない文化的な価値の基準をつくりだし,それを社会的に機能させる

学問領域として再配置されたのである。

 文学研究の領域でも,アルゼソチンを対象とする高等教育制度の確立が実現された。1913年に

は,アルゼンチン史上はじめて,「アルゼンチソ文学」という名称をかかげた講座が大学に設置され,

その初代教授にリカルド・ロハスが就任した。ほどなくして,アルゼソチン文学講座は,文学はもと

より,民俗学,考古学,歴史学,文献学などの領域で,アルゼンチンを対象とする研究を体系的に学

習する中心的な場と定義され,そこからは,専門的な研究者集団を育成し専門雑誌を出すなどの学的

機能をはたす研究機関「アルゼソチン文学研究所」が分岐することになる。

 1905年以降,ブエノスアイレス大学哲文学部は,徐々に増えつつあった移民の師弟と大ブルジョ

アの師弟が接触する場として,また神聖視されていた大作家や研究者がたがいにコミュニケーショソ

をとることのできる場として,あるいは家の蔵書に恵まれない若い作家や研究者が著作物にアクセス

したり,研究や執筆の仕事にめぐりあう場を若者に提供する場として機能するようになる。そこに

は,それまでは存在しなかった階級横断的なあたらしいタイプの知的ソシアビリティを発展させる可

能性の場が開かれた(8)。だが同時に,そこは,アルゼンチソの国民的なものの探究への欲望を知識人

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〈アルゼンチン文学〉の誕生と文化的実践としての読書

層が広く共有し,アルゼソチン性argentinidadをめぐる議論の特権性を自明のものとし,国民主義

的な諸価値を社会に発信していくための文化的な基地へと変貌をとげていくのである。

[2]「アルゼンチン文学」の誕生  リカルド・ロハスの場合

 文学講座設置の4年前に出版されたr国民主義の復古』のなかで,リカルド・ロハスは,1905年

の教育改革以前のアルゼンチンは「真の国民的な教育をまったくもっていなかった」(9>としたうえで,

世紀転換期の「コスモポリタンな社会環境」にあって従来の教育は時代遅れになっていると批判して

いる㈹。ロハスがくりかえし言及している「コスモポリタンな社会環境」とは,19世紀末以降のヨー

ロッパ移民の大流入と従来型の労働市場の激変によってもたらされた,都市部における新しいタイプ

の社会環境のことである。

 1880年代から20世紀はじめにかけてのアルゼソチン社会は,それまで経験したことのなかった社

会変容のただなかにあった。1840年代にブエノスアイレス州ではじまった羊毛生産や70年代のサン

タフェ州での穀物生産は,国際市場における需要拡大やフロンティア戦で獲得した広大な土地の利用

によって飛躍的にのび,農牧生産の人手不足をおぎなうための私的な植民事業や政府の移民奨励政

策,労働賃金の高さなどに牽引されて,イタリアやスペインをはじめとする多地域から膨大な数の

ヨーロッパ移民がやってきた。故郷の貧しい借地農の生活を捨てて新天地で地主になる可能性を求め

てやってきた移民や,出身国の都市貧困層から抜け出てより良いチャンスを探そうとしていた移民,

北半球の農閑期を利用して南半球に渡ってきた「ゴロソドリーナ」〔ツバメ〕と呼ばれる出稼ぎ老,

長期間滞在して一財産稼いで故郷に戻るつもりの者たちなど,さまざまな思惑を抱いたひとびとの流

入数は1871年から1914年のあいだに590万人にのぼり,うち310万人がアルゼソチンにとどまった。

19世紀なかばのアルゼソチソの全人口が100万人に満たなかったことを考えれば,驚くべき数字とい

わざるをえない。1871年には182万人だった人口は,1915年にはその4倍を超す825万人にふくれあ

がったのである。移民流入にささえられた人口増加の規模は,とりわけ首都ブエノスアイレス市に顕

著だった。1855年のブエノスアイレス市の人口約93,000人のうち,統計上「ネイティヴ」とくくら

れたひとびとの数は60,000人で「外国人」が33,000人あまりであったのにたいして,14年後には

「ネイティヴ」は90,000人で「外国人」は88,000人とその数はほぼ拮抗し,1887年には前者が

204,000人,後者が228,000人と逆転した。この32年間でブエノスアイレス市人口は4倍半となり,

単純計算でも34万人が増えたことになる⑪。

 工業化に端緒がつけられたばかりのブエノスアイレスでは,労働争議が多発した。社会主義運動が

活発化し,この時期のアルゼンチンは世界でもっともアナキズム運動がさかんな場のひとつになっ

た。アルゼソチン全体で1900年から10年間に何百ものストライキがうたれ,うち6回はゼネストに

発展し,これにたいして政府は徹底した弾圧策を講じ,この間5回の戒厳令を敷いた。支配層のあ

いだには,このような社会変動の原因を移民の増加に還元する主張が高まり,明確に移民の排除をう

たう法令の必要性が叫ばれはじめた。1899年に上院議員に提出された移民制限法は,移民の自由な

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流入をうたった1852年憲法を事実上改変することであるとして,いったんは棄却されたものの,3年

後の1902年には議会を通過した。ロハスのr国民主義の復古』は,このような状況のもとで書かれ

たのである。

 『国民主義の復古』のなかで,ロハスは,移民の子どもたちにたいする同化主義的な教育の必要性

をくりかえし説いた。そして,同化主義的教育を浸透させていくうえで,他の何にも先駆けて取り組

まれなければならないにもかかわらず,アルゼンチンでは決定的に欠如しているものが,国民精神の

「持続的遺産」についての専門的研究への着手であるとのべている。なぜなら,それなくしては,国

民的自己意識を内在化させるにあたってもちいるべき素材の選定にさえ事欠くからである,としたう

えで,ロハスが注目したのは,「<民衆についての研究>estudio del pueblo,すなわちフォーク=民

衆,ロア=研究」である。

 フォークロアとは,19世紀のクリオージョ知識人層が深く魅了されたく民衆自身に内在する知の

形態〉それ自体ではなく,対象化されるべき風俗や意識といったいくつかの側面ないし属性を民衆か

ら切りとり,外在化し,資料化し,眼差し,分析する営為である。19世紀の文学作品でくりかえし

素材とされてきた「民衆に内在する知saber popular」と,研究分野としてあらたに配置される「民

衆についての学folk-lore」の両概念を峻別し,後者を,ひとつの自律性をもった学問領域ないし科学

として構想するロハスは,この「民衆についての学」のなかに,「あるひとつの政治的な重要性」を

みいだすのである。

 進歩や外的な諸変化にもかかわらず,諸国民の生のなかに生きつづけるあるひとつの歴史内在

的な持続がどのように存在しているかをしめすことによって,民俗学は,国民精神alma

nacionalの存続を明示するのである。あるひとつの民族/民衆puebloが自分たち自身をつねに意

識しているためには,この歴史内在的な持続こそが救済されなければならない。それゆえ歴史家

や芸術家は民俗学を再構築しなければならないのであり,またそれゆえに教師は民俗学を教えな

ければならない。民俗学的な踊りや歌も,その歴史的な意味の説明をくわえながらそれぞれの授

業のなかで役立たせることができるし,哩諺は倫理の授業のなかで,慣例的な規則は市民教育の

授業のなかで,古めかしい語彙は文法の授業のなかで,経験主義は科学のなかで,伝説や物語

は,文学の授業を終えたのちに補助的な読み方の授業のなかで,それぞれ利用することができ

る⑫。

 「民衆についての学」(フォークロア)をつうじて,国民の起源と持続をみいだし,そうした研究の

成果を教育実践の場にもたらすことによって,真の国民主義的教育は実現されるとロハスは考えた。

アルゼンチンにおいて,国民の起源とその持続を表現する題材とはいったい何だったのか。ガウチョ

の口頭伝承を素材にした文学作品である。

 r国民主義の復古』の8年後に刊行が開始されたロハスのrアルゼンチン文学史』のなかで,クロ

ノロジカルな秩序に反して配置されている唯一の例外的な巻が「ガウチョたち」の巻で,それは植民

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〈アルゼソチソ文学〉の誕生と文化的実践としての読書

地時代の巻のさらに前,つまりすべての文学作品の出発点に置かれている。ここには,アルゼンチン

の国民文学全体を貫く文化的古層としてのくガウチョ文学〉というジャンルを自明のものとし,それ

を学問制度の内部で承認済みのものにしようとする,著者ロハスの構えがしめされている。rアルゼ

ンチン文学史』の第一巻第一章にはつぎのようにある。

 ガウチョたちを登場人物とし,荒削りのパジャドール〔ガウチョの吟遊詩人〕たちを最初の吟

唱詩人として有していた文学こそは,わたしたちの文学史のなかで回復されなければならないも

のである。なぜなら,それはわたしたちが持っているもののなかで最も美しく,またそうでない

とすれば,最もわたしたちらしいものだからである。パンパの荒れ地すべてを包摂する地理的広

がりにおいても,わたしたちの国民的な進化の全体を含みこんでしまうクロノロジカルな持続に

おいても,あらゆる文学ジャンルにまでひろがる美学的な変奏の豊かさにおいても,さらには,

もろもろの起源に存在する無名性という性質,およびそのゆっくりした形成をすすめる集合的な

作業においても,ガウチョ的なものlos gauchescosの芸術は,祖国の精神を特徴づけながら,

土着の大地,土着の人種,土着の言語と同一視されるはずのものなのである㈹。

 ガウチョに国民精神の起源と持続をみいだそうとする見方は,ロハスがはじめて提示したものでは

ない。すでに19世紀の国民国家形成期には,ガウチョの地方的な風俗やかれらが生きる荒野の風景

は,文化的な自己同一性をめぐる言説と土着的なものへの関心の結節点において,重要な役割をはた

していた。独立以後のアルゼンチンでは,植民地時代以来つづけられてきた先住民の征服=植民地化

を継承し,移民導入や教育や物理的近代化をすすめながら,他方では,近代化から自律的なアルゼン

チン独自の国民的精神の営みの根拠をガウチョの形象に帰着させることによって,文化的同一性が主

張されてきた。このときガウチョ的な風俗やかれらの生きる荒野の世界は,自然的(非西洋的)であ

りながら文化的(国民共同体的)な世界として定義された。自然的であると同時に文化的であるとい

う二重性が自然化されることによって,ガウチョの生きる世界は,近代ヨーロッパ世界をまえにして

クリオーリョ知識人たちがみずからの種差性を主張するための根拠たりえたからである。したがっ

て,国民的なものの連続性やその不変性ないし有機的成長といった概念について論じるにあたって

は,牧畜的世界のあらわれへの参照は必然であり前提であった。国民精神は,牧畜的世界の風俗や言

語の内に示されていると考えられていたからだ。

 では,『アルゼンチン文学史』のなかでロハスが提示した新しい点はなにか。それはひとえに,か

                                             れがガウチョ的とされる諸表現をひとつの文学史として体系化し,アルゼソチン文学講座という制度

のなかに配置したことにある。文学史として体系化するとは,もろもろの作品/作家を分類し,作品/

作家ごとに詳しい分析をおこない,評価をくだすことである。あらゆる分類行為がそうであるよう

に,そこでは記憶されるべきものとそうでないもの,価値づけされるべきものとそうでないもの,継

承していくべきものとそうでないものが区別される。長い注が付され,詳しい文献考証がなされ,ク

ロスレファレソスがなされ,将来探究されるべき諸テーマが整理された作品や作家は,言及される頻

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度においてひとつの価値ある作品として認知され,それ以外の作品や作家は切り捨てられ忘却される

か,せいぜい脚注のなかで申し訳程度に言及されるだけである。偉大な作品や作家といったものは,

このような体系化のなかで見いだされ生みだされるものであるわけだが,そうした価値を生みだす体

系の弁別作用は,機能するやいなやすぐさま隠蔽されてしまうために,あたかもはじめからひとつの

作品の偉大さが作品の内部に潜んでいて,それが発見されるかのような錯誤が生じてしまうのだ。

 1913年のアルゼンチン文学講座の設置にあたって,ホセ・エルナンデスの『マルティソ・フィエ

                                            ロ』がガウチョ文学の金字塔として位置づけられたことも,こうしたアルゼンチン文学という制度が

構築されるにあたって生じた必至の出来事であったにすぎない。1872年と79年にそれぞれ一作目と

その続編が出された『マルティン・フィエロ』について,ロハスは,これこそはアルゼンチン国民の

生粋な表現であり,フラソスの『ロランの歌』やスペインの『わがシッドの歌』と同じ国民的叙事詩

であると位置づけた。同年,文学者として名声を得ていたレオポルド・ルゴーネスも,大統領ロケ・

サエンスペニャをはじめとする諸大臣が出席する異例の文学講演のなかで,『マルティン・フィエロ』

に同様の賛辞を贈った。また文化的エスタブリッシュメントの雑誌『ノソトロス』誌は,著名な文学

者たちにこの作品の「国民的価値」を問うて議論を加熱させた(14。

 「rマルティン・フィエロ』の価値は何か?」と問いかけ,「はたしてわたしたちは民族razaの声が

そこに響いているような詩節からなる,国民的なひとつの詩を本当にもっているのか?」と尋ねる

『ノソトロス』誌のアソケートに対して,ブエノスア・イレスの多くの主要な文学者が回答を寄せた事

実は意義深い。なぜなら,その問いかけにたいして,肯定の身振りで答えようと否定の身振りで答え

ようと,そこには,「民族の声」が響く「国民的なひとつの詩」なるものの存在を問う言説の磁場が

あらかじめ構築されるからである。〈問いかけ一答える〉という審問の領域においては,rマルティン・

フィエロ』が国民主義的な文学表現なるものの基準点として再配置された。しかし,それだけではな

い。文学一般について,〈アルゼソチソ的なもの〉の内と外について論じることを可能にする認識論

的な場こそが,そこにはつくりだされたのである。

[3] あらたな読者層の出現と模倣の危険性

 1880年代から1910年代にかけてのアルゼソチソでは,公教育を推進する19世紀後半以来の近代化

政策の結果,かろうじて読み書きができる程度の識字力をもつひとびとの数はめざましく増大した。

だがかれらは,教養層のあいだで流通していた作品の消費老とはならなかった。新聞や雑誌といった

定期刊行物のなかの情報を読むだけで手一杯だったからだ。他方でこうしたあらたな読老層は,新聞

連載小説を冊子化した粗悪な出版物を読んだり,街中に登場する即興の歌い手の詩を吟唱したり,

サーカスで演じられる幕間劇に興じるといったように,教養層の文化が正統なものとみなしていなか

った,いわゆる〈二流〉の文学形態の消費へと向かっていったのである㈲。

 この時期に出現したあたらしいタイプの粗悪な出版物は,まずなにより,そのすさまじい数の版数

において特徴的である。当時どれほどの規模で社会的に流通していたのか,その全体像を今日把握す

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〈アルゼンチソ文学〉の誕生と文化的実践としての読書

ることは出版の性質からして不可能だが,正規の書店ルートではなく,版元みずからがそのつど開発

する経路で販売されていたことはよく知られている。書店の外で流通していたそれらの本は,路上の

新聞売りの手によって市内のあちらこちらで売りさばかれたり,キオスクや,タバコ屋,靴磨きのス

タンド,飲み屋,その他さまざまなタイプの休憩場所で売られた。たとえば,ある雑貨卸商が内陸の

パソバ地域のプルペリーア(居酒屋兼雑貨屋)に卸していた品物のリストには,「マッチ12ダース,

酒12樽,サーディン100箱」といった品目とともに「『マルティン・フィエロの帰還』12冊」と記載

されていたという㈹。農牧労働者たちが生活必需品を調達したり,酒を酌み交わしたりするプルペ

リーアのカウソターのうえで,『マルティン・フィエロ』がやりとりされていたことを示す興味深い

例といえよう。

 第一作目のrガウチョのマルティン・フィエロ』は,初版から4年間で8回ほど重版され,二作

目の『マルティン・フィエロの帰還』が出版された時点ではすでに11版を重ねていた。正規版の重

版数をみるだけでアルゼンチソ史上初の大ヒット作であったことがわかるが,実際にはそれをはるか

に超える数の海賊版が一般に流通していたのである。たとえばロハスは,エルナンデスが死去した

1886年以前に出されたオリジナル版を八方手を尽くして入手しようとしたが,古本屋にも版元の在

庫にもなかったといっている。初版を出した版元の好意でやっとのことで正規版を手にし,同時期に

出された「粗悪な海賊版」も入手して検討してみたところ,海賊版は「真正な版元の奥付までグロテ

スクにも偽造して」おり,さらにそれ以後出版された数多くの海賊版では,「テクストの改竃はいよ

いよ凄まじいものになっていった」とのべている㊥。

 ところで,rマルティン・フィエロの帰還』が出された1879年には,ブエノスアイレスではそれを

凌ぐ大ヒットとなる作品が出現した。1カ月あまりかけて『バトリア・アルヘンティーナ』紙に連載

された『フアン・モレイラ』である。『フアン・モレイラ』は,パワーエリートに抑圧されたガウチ

ョの主人公による民衆的暴力を,正当なものとみなしている点で,エルナンデスの一作目『ガウチョ

のマルティソ・フィエロ』と内容的に似かよっている。だが,テクストの形式からし,両作品のあい

だには決定的な違いがあった。『マルティン・フィエロ』は,叙事詩形式をとっていたのにたいして,

『フアン・モレイラ』は小説形式で発表されたのである。『フアン・モレイラ』の著老エドゥアルド・

グティエレスはジャーナリストで,実際に存在したフアソ・モレイラというガウチョが警察においつ

められて壮絶な死を遂げるにいたった最後の2年間を取材し,集めた証言などをもとにモレイラの

人生を再構成して,著者の視点から三人称形式で語る小説に仕立てあげた。つまりrフアン・モレイ

ラ』とは,ジャーナリストの語りでもってガウチョの声を完全に置換することによって生みだされた

作品なのであり,「ジャーナリズムと,メロドラマと,技術的近代化と,文化的な近代化の時代の暴

力的な民衆的ヒーロー」だったのである⑱。

 『フアン・モレイラ』は,なぜポピュラリティを得たのか。第一の理由はこの作品の素材にある。

そこで扱われているのは現実におこった耳目をひく殺人事件であり,読者はそれを通常扱いなれた新

聞記事の延長として読むことができたと考えられる。第二の理由はテクストの構成のしかたにある。

『フアン・モレイラ』は,歴史家ロジェ・シャルチエが17~18世紀のフランスの青表紙本の特徴とし

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てあげている性質の多くを兼ね備えている。出来事や登場人物を記憶することを読者に強いる複雑な

筋立てをもっておらず,短い断片をかさねあわせたり同じモチーフを何度も使用し,また一文を細か

に区切ったり,改行を多用することによって文章を区切ったり,章のタイトルだけで内容を把握でき

るようにするなどの工夫がこらされている。こういった特徴は,シャルチエによれば「読書の名人た

ちの読み方ではもちろんないし,息の長い持続的な読み方でもなく,本を手にしてはまたすぐに投げ

だしてしまうといったたぐいの不安定な読書,容易に判読できるものといえば,高々短くまとまった

シークエソスぐらいのもので,読みの手助けとなるさまさまな印をふんだんに必要とする読書」㈹で

あり,おそらくはそうした読書形態を想定したテクストに共通している構成手法である。19世紀末

から20世紀初頭にかけてアルゼンチソに出現しつつあったあらたな読者層,つまりスペイソ語で書

かれたものの読書に慣れていない移民や,読書にさほど精通していない内陸の農牧地域出身の移住者

といったような裾野の広い読者層にとって,青表紙本的な読書形態は,自分たちの生活にとりこみや

すいものであったと考えてよいだろう。

 このような,テクスト自体の特徴とは別に,『フアン・モレイラ』を大ヒットさせた別の要因があ

った。それは文字で書かれたテクストの外部で,読書行為から切り離された領域で発展した。活字媒

体として世に出た4年後の1884年,イタリア系移民二世のポデスター兄弟が,自分たちのサーカス

ー座で『フアン・モレイラ』を下敷きにしたパントマ・イム劇を演目にのせたところ,これが思いがけ

ず大好評を博し,さらに1890年には台詞と音楽や歌が加えられてガウチョ劇として上演されるにい

たって,空前の大ヒットとなったのであるe°)。このヒットをうけて,類似の小説が数多く出版される

ようになり,「モレイリスモ」と呼ばれる社会現象を生みだした。のちに犯罪学者のホセ・インヘニ

エロスは,当時のことについて次のように回顧しいてる。

 1900年ごろ,新聞雑誌や演劇の舞台にあおられて,ブエノスアイレスでは「モレイリスモ」

の伝染病がはやった。しばしば街の郊外では,暗黒世界の連中が  rエル・メレーナ』やr新

フアン・モレイラ』や他の似たような人物のように  普段着の上に,古めかしいガウチョの衣

服の味わいをもたせた衣服を身にまとい,武器を手に,警察当局に決然と抵抗しようとしてい

た。ギターを抱えたおきまりの姿で  とはいっても,たいがいギターを弾けはしなかったが

  ,バリオ〔下町〕のマトン〔ごろつき〕は,たいていはカタルーニャ系かイタリア系の出版

社が編纂した質の悪い詩の小冊子で習い覚えた,「伝承的な」デシマ〔十行詩〕のようなものを

調子っぱずれの声で歌いながら,アグアルディエンテ〔焼酎〕の売り場をめぐり歩きにでかける。

警察が連中を牢獄にぶちこむ前に,どこぞの警察もののクロニクル作家たちは,大量に流通して

いる新聞や雑誌のなかでかれらをつこうのいい宣伝文句にしてしまうので,この伝染病に感染し

やすい者たちは,より地味なステージで「モレイリスモ」のまねをする決意をするのに必要不可

欠な犯罪発生症的環境ambiente crimin6genoを創りだしてしまうのであるe’)。

犯罪学的な観点からモレイラ・ブームを危険視していたインヘニェロスとは別に,文学や言語の領

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〈アルゼンチン文学〉の誕生と文化的実践としての読書

域からブームを危険な徴候とみなす言説があらわれた。その代表例が,1902年に歴史家エルネス

ト・ケサーダが人文諸学の月刊誌『エストゥディオス』に発表した「アルゼンチン文学における〈ク

リオジスモ〉」である。ロハスと同じ視点から,民俗学の必要性を主張しているこの作品のなかで,

ケサーダは,モレイラ・ブームを次のように批判した。

 安売りのパジャドール〔吟遊詩人〕たち,抜け目のない興行主に雇われた連中がステージで向

かいあわせになり,ギターを抱えて即興的な対立旋律を歌い,〔ガウチョが実際にやった〕歌の

競薄を模倣して順繰りに相手の歌に反駁して歌うといったさまが繰り広げられる舞台やサーカス  タ

は,おそらくはこうした地方色を必要とする本能によって満たされているのだ。ガウチョの吟遊

詩人たち,正統なパジャドールたち,街の劇場で金のために「即興に歌う」ガウチョたちとは!

このような趣向には,ほとんど残酷といってよいほどの皮肉があるのであって,まさにそのこと

だけでガウチョ民族raza gauchaの衰亡を示していび⇒。

 ガウチョを主人公にした『フアン・モレイラ』のような作品を読む行為は,ひろく社会的にみて,

シャルチエのいう「活字をとおしての文化的同化(acculturation)」tl⇒を可能にするプロセスであった

ことは間違いない。だが,そのような文化的同化は,一方が他方の文化を包摂していって完全に“a-

culturate”する,つまりく無=文化〉化することではなかったろう。ケサーダが非常な危機感のもと

に探りあてていたのは,言語の引用可能性がもたらす別種の意味作用,あるいは引用の恣意性,流用

や盗用への怖れであり,つまりは読みの実践によって異なるテクストが社会的に生成させられていっ

てしまうことへの畏怖だったのである。〈活字文化に属する教養層〉とく口頭伝承の文化に属する大

衆〉という二項対立的な読者層がたがいに浸食しあうことはないとする,19世紀的な前提のうえに

成立してきた解釈共同体の絶対性が,ここにきて流動化しつつあることを,ケサーダは敏感に察知し

ていたといってよい。

 アルゼンチンの国民精神のあらわれとして,教養層が特権視してきたガウチョ的な世界の表現が,

模倣され,流用され,盗用され,読みかえられてしまいうるものであること。そのことに気づいた教

養層の痙攣的な反応。それが,読みの管理技術の学としての民俗学や文献学への飽くなき志向として

表出したのではなかったか。こうしたガウチョ的な意匠を模倣するモレ・イラ・ブームをとりまく文化

言説について考えるとき,模倣に関するホミ・バーバの指摘は有効であるように思われる。「模倣の

言説は両義性の周囲に構築されるのであり,それが効果的であるためには,模倣はたえずそれ自身か

らのずれや,過剰,差異を生みださなければならない」とのべたうえで,バーバはいっている。「模

倣とは二重の分節化のしるしである。それは権力を可視化するものとしての他者をく領有する〉,改

良や,規則や,ディシプリソの複合的な戦略である。しかしながら,模倣は,領有されざるもののし

るしでもあるのであって,コロニアルな権力の支配的な戦略的機能にぴったりと密着して,監視を強

化し,<規範化されたnormalized>知と規律化する権力の双方にとって内在的な脅威の構えをとる,

ひとつの差異ないしは不服従なのである」tlO。世紀転換期のアルゼンチンの文化状況を分析するにあ

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たって重要なのは,同時期に出現した人文諸学のディシプリソの再編成や,社会コソトロールの学と

しての犯罪学の戦略的言説㈱に領有された,この「領有されざるもののしるし」を注意深く見極めて

いくことにあるだろう。

                                        [注]

(1)David Vifias, Literaturaαrgentina y politica, t. II(Buenos Aires, Sudamericana,1996),p.51.

(2) Juan Carlos Tedesco, Educacio’n y sociedad en la Argentina(1880-1900)(Buenos Aires, Centro Editor de

 Am6rica Latina,1982),pp.149-52.

(3)Cit. in:Carlos Altamirano&Beatriz Sarlo, Ensayos argentinos.1)e Sarmiento a la vanguardia(Buenos Aires,

  Centro Editor de Am6rica Latina,1983),p.79.

(4)Miguel Can6, Discursos y Conferencias(Buenos Aires, Casa Vaccaro,1919),pp. 23-24.

(5)Fernando J. Devoto,‘‘ldea de naci6n, inmigraci6n y‘cuesti6n social’en la historiograffa acad6mica y en los

 libros de texto de Argentina(1912-1974),”Estudios Sociales, No 3, Santa Fe, pp.9-30.

(6) Jos6 Babini, Historia de la ciencia en.4rgentina(Buenos Aires, Solar,1986),pp.60-61, pp. 242-43.

(7)N6stor Garcia Canclini, Czalturas hibrides. Estrategias para entrar y sαlir de la moderni(lad(M6xico, Grijalbo,

  1990),p.193.

(8) Altalnirano&Sarlo, Ensayosαrgentinos, p.87.

(9) Ricardo Rojas, Lαrestauraci6n nacionalista. Critica de la edacaci6n argentina二y bases 1)ara un reforma en el estudio

  de las humanidades modernas(3a ed., Buenos Aires, Peia Lillo Editor,1971),p.81.

(ie) ibid。, p.178.

⑪ t‘El crecimiento de la poblaci6n argentina entre 1895 y 1980,”en:Elena Chiozza&Ricardo Figueira(dir.),At-

  lzs demogrtiflco de la Repdlblica Argentina(Buenos Aires, Centro Editor de Am6rica Latina,1982),pp.86-88. Er-

  nesto J. A. Maeder,“Poblaci6n e inmigraci6n en la Argentina entre 1880-1910,”en:Gustavo Ferrari&Ezequiel

  Gallo(comp1.),La Argentina del Ochen ta al Centenario(Buenos Aires, Sudamericana,1980),p.556. Hilda Saba-

  to&Luis Alberto Romero, Los trabnjadores de Buenos Aires. hαexperiencia del mercado’ヱ850一ヱ880(Buenos

  Aires, Sudamericana,1992),p.289.

⑫ Rojas, hαrestαuracio’n nacionalista, p.62.

(i3) Ricardo Rojas, Historia de la literatura argentina. Ensayonlos6jco sobre lz evolucio’n de lz cultura en el Pla ta, vol.1

  (Buenos Aires, Editorial Guillermo Kraft,1957),p.84。

⑯ Altamirano&Sarlo, Ensのyos argentinos, pp.107-12.

㈹ Adolfo Prieto, El discurso criollista en la formacio’n de如Argentina moderna(Buenos Aires, Sudamericana,

  1988),p.15.

㈹  Rojas, Historia de lz literaturaαrgentinα, vol.2, p.52.1.

(iO  ibid., PP.519-20, nota 1.

⑯ Josefina Ludmer,“Los escandalos de Juan Moreira,”en:Josefina Ludmer(compl.),Las culturas de.fin de siglo

  en/Am6rica Latina(Rosario, Beatriz Viterbo,1994),p.103.

㈹ ロジェ.・シャルチエ編『書物から読書へ』(水林章・泉利明・露崎俊和訳,みすず書房,1992年)122~33ペー

  ジ。

?e)Raul H. Castagnino, El circo criollo, Datos y documentos para su historia,1757-1924(Buenos Aires, Lajouane,

  1953),p.71.

ili)Jos6 lngenieros,“La vanidad criminal,”en:Obras ComPletas, t.1(Buenos Aires, Mar Oc6ano,1962),p. 354.

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〈アルゼンチソ文学〉の誕生と文化的実践としての読書

㈱ Ernesto Quesada,“El criollismo en la literatura argentina,”en:Alfredo V. E. Rubione(compL),En torno al

 criollismo. Textos y pol6mica(Buenos Aires, Centro Editor de Am6rica Latina,1983),p.107。

㈲ シャルチエ,前掲書,118ページ。

図 Homi K. Bhabha, The Location of Culture(London&New York, Routledge,1994),p.86.

㈲ 同時期のアルゼンチン犯罪学については,林みどり「精神分析前夜  〈ポストコロニアル・ブエノスアイ

 レス〉の構築」(『現代思想』1996年10月号)参照。

(はやし・みどり 政治経済学部専任講師)