フォルスタッフの誕生 ―シェイクスピア歴史劇と殉...

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フォルスタッフの誕生 シェイクスピア歴史劇と殉教の文化大 橋 洋 一 はじめに 200911月、東京の新国立劇場でシェイクスピアの『ヘンリー六世』作の一挙上演が実現する 1 。公演期間中は一日で作品の連続上演もあった が、いくら新しい劇場とはいえ新国立劇場の、あの中劇場の座席に、中休み が入るにせよ時間近く座って観劇するのはさすがに拷問に近いので、二日 作品を分けてみることにした。最初の日、第一部が終わったとき、知り 合いの女性とばったり会って、そのとき質問される。ひとつは台詞に出てく る「明太子」について(その日本語の台詞は私も記憶していた)、いまひと つは本稿とも関係する『ヘンリー六世・第一部』に登場するフォルスタッフ についてであった。 まず明太子問題。『ヘンリー六世・第一部』第幕第場に、イングラン ド側の武将トールボットが発する「乙女だろうが醜女だろうが、皇太子だろ うがメンタイコだろうが」という台詞がある。上演では昔懐かしい小田島雄 志訳を台本として使用していて、その特徴のひとつである日本語の言葉遊び を今回はあらためて堪能することになったが、それにしても「メンタイコ」 というのは、それを劇場で耳にする者が、原文は何かといぶかるに充分なも のがある。私もそうだった。その時は原文を記憶していなかったので、あと で調べてみると原文は‘Dolphin or dogfish’で、直訳すれば「海豚だろうがト ラザメだろうが」となる 2 。ここではdolphinにすでに言葉遊びが仕組まれて いる。フランスの皇太子のことをDorphinという。したがって「海 ドルフィン 豚だろう がト ドッグフィッシュ ラザメだろうが」の前段階に、「皇 ドーファン 太子だろうが海 ドルフィン 豚だろうが」という 『言語文化』14-1141ページ 2011. 同志社大学言語文化学会 ©大橋洋一

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化―

大 橋 洋 一

はじめに

 2009年11月、東京の新国立劇場でシェイクスピアの『ヘンリー六世』3部

作の一挙上演が実現する1。公演期間中は一日で3作品の連続上演もあった

が、いくら新しい劇場とはいえ新国立劇場の、あの中劇場の座席に、中休み

が入るにせよ9時間近く座って観劇するのはさすがに拷問に近いので、二日

で3作品を分けてみることにした。最初の日、第一部が終わったとき、知り

合いの女性とばったり会って、そのとき質問される。ひとつは台詞に出てく

る「明太子」について(その日本語の台詞は私も記憶していた)、いまひと

つは本稿とも関係する『ヘンリー六世・第一部』に登場するフォルスタッフ

についてであった。

 まず明太子問題。『ヘンリー六世・第一部』第1幕第4場に、イングラン

ド側の武将トールボットが発する「乙女だろうが醜女だろうが、皇太子だろ

うがメンタイコだろうが」という台詞がある。上演では昔懐かしい小田島雄

志訳を台本として使用していて、その特徴のひとつである日本語の言葉遊び

を今回はあらためて堪能することになったが、それにしても「メンタイコ」

というのは、それを劇場で耳にする者が、原文は何かといぶかるに充分なも

のがある。私もそうだった。その時は原文を記憶していなかったので、あと

で調べてみると原文は‘Dolphin or dogfish’で、直訳すれば「海豚だろうがト

ラザメだろうが」となる2。ここではdolphinにすでに言葉遊びが仕組まれて

いる。フランスの皇太子のことをDorphinという。したがって「海ドルフィン

豚だろう

がトドッグフィッシュ

ラザメだろうが」の前段階に、「皇ド ー フ ァ ン

太子だろうが海ドルフィン

豚だろうが」という

『言語文化』14-1:1-41ページ 2011.同志社大学言語文化学会 ©大橋洋一

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2 大 橋 洋 一

侮蔑的混淆が存在する。そして最終的に皇太子は、海豚に吸収され、それが

トラザメと対比されるのである。ではメンタイコは?皇太子という語が侮蔑

的言葉遊びの対象となっていることから、その日本語における等価物として、

翻訳者は「明太子」を選んだ。しかしこれは無意味な、あるいは冒険的な語

呂合わせであろう。漢字表現として「皇太子」と「明太子」と並べてみない

かぎり文字表現が語呂合わせになっていることが理解できない。少なくとも

耳からは語呂合わせとして入らず、中世イングランドの兵隊がなぜ「明太子」

を口にするのか違和感だけが際立つからである。しかし、耳で聞いているだ

けではわからない語呂合わせ、また「皇ド ー フ ァ ン

太子」を吸収し痕跡的にその存在を

髣髴とさせるだけの「海ドルフィン

豚」―この表象の狡知は、つぎの質問、ひいては

本稿の議論と、ゆくりなくも連動していた。

 第二の、そして本稿と直接関係する問題とは、フォルスタッフについてで

ある。シェイクスピアの『ヘンリー四世』第一部と第二部に登場し、『ヘンリー

五世』のなかでは死んだと報告される人物が、『ヘンリー六世4 4

・第一部』を

見る観客の前に何食わぬ顔をして登場する。多くの観客が疑問に思ったはず

である。いや同じ疑問は2009年の新国立劇場の観客だけでなく、およそ400

年前のイングランドの観客も抱いていた。当時の図書館司書であったリ

チャード・ジェイムズなる人物が、ある婦人から「なぜサー ・ジョン・フォ

ルスタッフが『ヘンリー五世』のなかで死んだと報告されているのに、『ヘ

ンリー六世・第一部』に登場しているのか」と質問される。その図書館司書

の回答とは、「シェイクスピアは、のちのヘンリー五世の遊び仲間の道化に、

フォルスタッフではなく、オールドキャッスルという名前をつけたが、それ

に対してオールドキャッスル家の血筋の者たちから抗議され、名前を変える

ことにした。その時、Sir Ihon FalstaffeあるいはFastolpheに変えた。こちらも

充分に徳高い人物だったのだが、オールドキャッスルほど有名な殉教者では

ないので、その名前を使った3」というものだった。推測の部分はべつとして、

私も問われた瞬間に返した答えは同じだった。つまり『ヘンリー六世・第一

部』のフォルスタッフというのは歴史上実在し百年戦争で活躍した人物。こ

のフォルスタッフと、『ヘンリー四世』に登場するフォルスタッフとは別人

である。そもそも『ヘンリー四世』のサー・ジョン・フォルスタッフは、も

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 3

とはサー ・ジョン・オールドキャッスルだったのである。

1. サー・ジョン・ファストルフSir John Fastolf

 実は、私の回答は、それだけでは満足のゆくものではなかったようで、さ

らに質問された。新国立劇場の中劇場でみる『ヘンリー六世・第一部』のフォ

ルスタッフは、太っていて臆病者で卑怯者呼ばわりされていて、どうみても

『ヘンリー四世』のフォルスタッフそのものではないか。こちらの実在した

フォルスタッフが、その後の『ヘンリー四世』のオールドキャッスルだかフォ

ルスタッフだかのモデルとなったのかと再質問された。『ヘンリー六世・第

一部』のフォルスタッフ/ファストルフを、『ヘンリー四世』のフォルスタッ

フに似せた人物として演出するのは演出家の選択であって、シェイクスピア

が造型した人物のなかではとりわけ人気の高い人物であるフォルスタッフの

人気にあやかってのことであろう。シェイクスピアの死後出版の全集でも『ヘ

ンリー六世・第一部』の人物がファストルフではなくフォルスタッフと表記

されているのも同じ理由から。ただ、このことが事態を混乱させる。

 そこで『ヘンリー六世・第一部』に登場するフォルスタッフ/ファストル

フから順を追ってみてゆくことにする。『ヘンリー六世・第一部』におけるフォ

ルスタッフの登場シーンならびに言及はそんなに多くない。以下の4箇所に

すぎない(なお引用では、小田島訳を再録するので、フォルスタッフはフォー

ルスタッフと表記している)―

 ⅰ )トールボットが捕虜になった戦闘におけるフォルスタッフの臆病ぶり

と敵前逃亡(第1幕第1場1.1.104-145/ 小田島15-184)

  使�者3 申しあげます、諸卿はいま、ヘンリー王〔ヘンリー五世〕の棺

を/涙にぬらしておられますが、そのお悲しみを増すような/ご報告

をせねばなりません、かの勇敢なトールボット卿と/フランス軍のあ

いだのすさまじい激戦に関しまして。

  ウィンチェスター おお、トールボットが敵をやっつけたか?

  使�者3 いえ、トールボット卿が敵にやられたのです。/その状況をもっ

とくわしく申しあげることにします。/去る八月十日、鬼と恐れられ

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4 大 橋 洋 一

たトールボット卿は、/オルレアンの囲みを解いて退陣されました

が、/そのとき手もとに残された軍勢は六千にも満たず、/三万三千

の数をたのむフランス軍の猛追に会って/たちまち包囲され、攻撃の

渦中に立たされました。/なにしろ味方は隊列を立てなおす暇もな

く、/弓の射手の前に植えつける防壁の槍にもこと欠き、/やむなく

近くの生垣から抜きとってきた鋭い杭を/めったやたらに地面に突き

刺してその代用とし、/敵の騎馬隊の侵入を防ぐ、といったありさま

でした。/そのようにして三時間以上、戦いは続きました。/勇将トー

ルボット卿は、剣と槍をふるって、/とうてい人の想像などおよばぬ

ほどの奮闘ぶり、/数百の敵を地獄へ送り、一人として敵するものな

く、/ここと思えばまたあちら、怒りに燃えて疾駆されるので、/フ

ランス兵は卿の武器に悪魔が乗り移ったと悲鳴をあげ、/全軍ただ呆

然として卿を見まもるばかりでした。/部下の兵たちは、恐れを知ら

ぬ卿の勇気を目にするや、/「トールボットに続け!」と一斉に雄叫

びをあげ、/戦闘のまっただなかに遮二無二に突進して行きました。/

ここにいたって勝利は約束されたようなものでした、サー ・ジョン・4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

フォールスタッフさえ弱腰にならなければ。4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

/サー ・ジョンは、先陣

のすぐ背後に位置しており、/こういう場合にいそぎ救援すべき立場

にありながら、卑怯にも逃げ出したのです、一撃もまじえることな

く。/そのため味方は総崩れとなり、虐殺の跳梁を許し、ついにはすっ

かり敵の包囲に身をさらすはめとなりました。/そしてある卑しいワ

ルーン人が、皇太子の愛顧を得ようと、/トールボット卿を背後から

襲い、槍を突き立てました、/全フランス軍が主力を結集してもなお、

その顔を/まともに見る勇気さえなかったトールボット卿の背中に。

  ベ�ッドフォード トールボットが死んだか? では私も死のう。/あの

ようなりっぱな指揮官が、援軍のこないために、/卑怯な敵兵どもの

手にかかって死んだというのに。/私はここで安逸をむさぼりのうの

うと生きていたのだ。

  使者3 いえ、卿は生きておられます、捕われの身として。〔強調引用者〕

 

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 5

 ⅱ )釈放されたトールボットの卑怯なフォルスタッフに対する怒り(小田

島版では第1幕第4場(小田島38)、The Oxford Shakespeare版では1.5.5-

15):

  ト�ールボット ベッドフォード公の捕虜に一人の貴族がおり、/……/

その男と引かえに私は釈放されたのです。/……/結局、/私は望み

どおり名のある相手と交換されました。/それにしても、あの卑怯極

まるフォールスタッフ!/やつのことを思うと胸が痛みます、自由に

してよければ/この拳でもってやつを処刑してやるところだ。

 

 ⅲ )逃げ足の速いフォルスタッフ(第3幕第2場3.2.102-107/小田島103-104)

  隊長 サー・ジョン・フォールスタッフ、いそいでどちらへ?

  フ�ォールスタッフ どちらへ? 安全な場所へ逃げるのさ。/どうやら

わが軍はまたしても負けそうだぜ。

  隊長 逃げる? トールボット卿を見捨てて?

  フ�ォールスタッフ もちろん、/何百人のトールボットより、この身が

かわいいからな。

  隊長 卑怯な騎士だ! いい死にかたはできないぞ!

 

 ⅳ )トールボットに公然と非難され国王の不興を買い、ガーター勲章を剥

奪されるフォルスタッフ(第4幕第1場4.1.9-47/小田島117-119)

  フ�ォールスタッフ おそれながら、陛下、戴冠式に参列すべく/カレー

より馬をいそがせておりました途上、/一通の手紙をこの手に託され

ました、それは/バーガンディー公から陛下に宛てたものです。

  ト�ールボット バーガンディー公もきさまも恥を知るがいい!/卑怯者

め、おれは今度きさまに会ったら、その臆病脛から/騎士のしるしで

あるガーターを引きちぎると誓ったのだ。(引きちぎる)/ざまあみろ、

おれがこうしたのは、きさまが/分不相応にこの高い爵位を授けられ

ていたからだ。/お許しください、ヘンリー陛下、ならびに諸卿、/

この腰抜けめは、パテーの戦いにおきまして、私の兵力がわずか六千

余であるのにたいし、/フランス軍がその十倍にもなると見てとる

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6 大 橋 洋 一

と、/両軍がまだ対戦せず、一撃も交わさぬうちに、/信頼すべき武

士にふさわしく逃げ出したのです。/このときの戦いで、わが軍は

千二百の兵を失い、/私自身、身分あるもの若干名とともに、/奇襲

を受けて敵の手に捕らえられた次第です。/どうか、諸卿、私のした

ことがあやまちであるか、/あるいは、こういう卑怯者がこの騎士の

飾りを/身につけていていいか、その当否をご判断ください。

  グ�ロスター 正直言って、そのようなふるまいは/一平民においても不

名誉、不釣合いな行為だろう、/まして騎士、隊長、指揮官たるもの

においてはだ。

  ト�ールボット 諸卿、この爵位がはじめて制定されたとき、/ガーター

勲章の騎士だと言えば、生まれは高く、/武勇に秀いで、徳を備え、

しばしば戦場に出て/勇猛果敢の士との名声をかち得ていたもので

す。/つまり死をも恐れず、苦難にもひるまず、/絶体絶命の危地に

あっても決然としていたものです。/とすれば、そのような資格を身

に備えぬものは、/いたずらに神聖な騎士の名を僭称し、/このもっ

とも名誉ある爵位を汚しているのです、/したがって、私の判断をの

べさせていただけるなら、/当然その爵位を剥奪すべきです。田舎生

まれの農夫が/先祖代々の貴族の称号を名のっている場合と同様に。

  王  同胞の面汚しめ、いまのことばがおまえへの宣告だ!/だから、か

つて騎士であった男として、失せるがいい。/すみやかに立ち去さら

ぬと、追放にとどまらず、死刑だぞ。(フォールスタッフ退場)/……。

 なんとも印象的な臆病者・卑怯者ぶりだが、このフォルスタッフ像は、シェ

イクスピアが典拠としたホリンシェッドの年代記の記述にもとづくもので、

史実とのずれは当然存在する。上記の台詞からフォルスタッフがガーター勲

爵士であることがわかる。つまり王国の要職につく家来で、後年の『ヘンリー

四世』に登場するフォルスタッフのような無頼の徒ではない。しかしここで

強調されるのは「パテーの戦い」における敵前逃亡である。上記ⅰ)とⅱ)

とⅳ)は、すべてこの戦いでのフォルスタッフの逃亡についての言及である。

そしてⅲ)でフォルスタッフは、なんの戦いかは不明だが(パテーの戦い以

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 7

外にありえないとしても)、実際に逃げている。したがってガーター勲爵士

が敵前逃亡で非難されるのは、異常事態でありこの上ない醜聞であるともい

えよう。おそらくその醜態ゆえにシェイクスピアの目を引き、フォルスタッ

フの名前は不滅のものになったともいえるのだが、実際のフォルスタッフは

『ヘンリー六世・第一部』のフォルスタッフとはかなり異なるようである。

 以下、諸種の伝記的・歴史的解説を綜合して『ヘンリー六世・第一部』の

フォルスタッフのモデルとなったジョン・ファストルフの経歴を簡単に記し

ておくと5 ―ジョン・ファストルフJohn Fastolf(1380-1459)は、ノーフォー

クの領主の息子として生まれ、少年時代にはボリングブルック(のちのヘン

リー四世)のエルサレム巡礼に同行。その後アイルランドにも従軍。1413年

から39年までフランスのイングランド軍のもとで軍事・政治活動に従事。ヘ

ンリー五世に仕え、五世死後は、弟の摂政ベッドフォードJohn of Lancaster,

Duke of Bedford (1389-1435)に仕えた。いうなれば彼は、ランカスター家の家

臣団の筆頭家老のような立場にあり、王国において常に要職に留まりつづけ

た。また彼が栄誉あるガーター勲爵士に選ばれたのも(正規のガーター騎士

は、国王のほかに25名に限られ生前に交替はなかった)、王家への献身が認

められベッドフォード公からの推薦を得たためと考えられている。

 ファストルフは1439年に軍籍を退くのだが、卑怯者呼ばわりしされたから

ではなく、60歳を迎え軍務から身を引いたにすぎない。ベッドフォードの死

後、ヨーク公に仕えた。帰国後も政府顧問として助言、またフランスで蓄財

し、投資家あるいは企業家の先駆け的存在ともいわれ、書籍蒐集、文芸文化

の保護育成によって、原プロト

人文主義者ともいわれる。1451年のジャック・ケイ

ドの反乱では、ノルマンディー喪失の責任者の一人として反乱者側から糾弾

された。なお帰国後のファストルフは、現在、中世の英語の第一級の資料と

して名高い『バストン家の書簡』のかなりの部分に登場し、その生活と意見

と人となりが伝えられている。シェイクスピアのフォルスタッフ(『ヘンリー

六世』と『ヘンリー四世』)とは似ても似つかぬ人物である。

 もちろんシェイクスピアの『ヘンリー六世・第一部』で揶揄された卑怯者

ぶりには根拠がないわけではない。その軍歴をみてみると、1415年ハーフラー

の包囲戦(シェイクスピア『ヘンリー五世』でも舞台化されているところの)

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8 大 橋 洋 一

に参加。アジンコート/アジャンクールの戦いには、負傷していて参加でき

なかった。1423年にはアンジューとメーヌの総督になる(この頃にはヘンリー

五世は、従来の略奪方式をやめ、フランス北部を植民地化することにし、植

民地経営の任にあたらせる総督を置いたのである)。その武功が顕彰された

のは1429年のへリングの戦いBattle of Herringであり、このときファストルフ

は指揮官としてフランス軍とスコットランド軍を撃退、第二のアジンコート

の戦いといわれるような勝利を収めることになる(スコットランド軍はフラ

ンス軍に協力して戦っていたが、この戦いでの損害が大きく、以後、フラン

スへの派兵をやめることになる)。だが、これがファストルフならびにイン

グランド軍の絶頂期であった。同じ年、イングランド軍は全戦線にわたって

崩壊し撤退を余儀なくされる。ジャンヌ・ダルクの登場によって劣勢にまわ

ることになったのだ。そして1429年の運命のパテーの戦いBattle of Patay―

『ヘンリー六世・第一部』で言及されていた―において、トールボットら

指揮官が捕虜になり、一方、生き残った兵をまとめて撤退してきたファスト

ルフは責任を追及される。不意打ちをくらい勝ち目のない戦さとなった以上、

戦死者や負傷者をふやさないためにも秩序ある撤退を敢行した指揮官ファス

トルフは、褒められこそすれ、卑怯者呼ばわりされる理由はなかったはずだ

が、百年戦争の後期1327年以降フランスで武勲をあげ「イングランドのアキ

レウス」と称されたトールボットが捕虜になったこと、またトールボットと

同じガーター騎士であるファストルフが死ぬか捕虜になるまで戦わずして撤

退したことが、問題となり、ファストルフはガーター勲章を一時的に剥奪さ

れる(ガーター勲章剥奪は前例のないことであった)。ただその後ファスト

ルフに敗戦の責任はなかったことが証明され名誉を回復し要職に返り咲く

が、捕虜になっていたトールボットが1433年釈放されて帰還すると、ファス

トルフ非難を展開し、汚名が完全に払拭されることはなかった。この点が敵

前逃亡者にして卑怯者というファストルフの人物像を決定付けた。そしてそ

れを興味深いとみなしたシェイクスピアがいた。

 なおジョン・ファストルフには跡継ぎはなく、また肖像画も残っていない。

そのため彼が太っていたかどうかは全く不明。実際の上演において彼は臆病

者だが太ってはいなかった可能性も高い。ただ『ヘンリー六世』三部作(成

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 9

立は現在の第二部から第三部、そして最後に第一部の順が妥当な推定とみな

されている)のなかで第一部にしか登場しなくとも、ジョン・ファストルフ/

フォルスタッフが、観客の注目を浴びたであろうことは、まずまちがいない。

 ちなみにランカスター家に仕えたこの人物をジョン・ファストルフと表記

したが、ファストルフFastolfとフォルスタッフFalstaffは、発音も似ていて、

綴りの上で、この程度の差異では、扱いは同じであり、つまりは同じ語であ

る。シェイクスピアの『ヘンリー六世・第一部』では最初から「フォルスタッ

フ」と発音され記載されていた可能性も高い。やがてそれが『ヘンリー四世』

におけるオールドキャッスル改名問題に関与してくるのである。

2. サー ・ジョン・オールドキャスル Sir John Oldcastle

 このサー・ジョン・ファストルフよりも二つ年長だが、同時代人といって

よいのがサー ・ジョン・オールドキャッスルであり、二人はともに王家と関

係をもった。前者は家臣あるいは側近として。そして後者は国王の友人とし

て。前者はフランスに従軍して王家ランカスター家に献身的につくし、後者

は、カトリック批判の原プロテスタントとして教会と王権に徹底して反抗し

処刑された殉教者となる。このサー ・ジョン・オールドキャッスルこそ、『ヘ

ンリー四世』二部作におけるフォルスタッフのモデルであった。

 シェイクスピアの『ヘンリー四世』第一部と第二部に登場するサー ・ジョ

ン・フォルスタッフは、実は最初、サー ・ジョン・オールドキャッスルの名を

持つ登場人物であった。それはファストルフと同様に実在した人物であり、

そのことがまた問題を引き起こした。以下、1)サー ・ジョン・オールドキャッ

スルであった証拠あるいは痕跡、2)オールドキャッスルの歴史的人物像、3)

改名問題を順に確認したうえで、オールドキャッスルからフォルスタッフの

道を考える。

 1)オールドキャッスルの痕跡

 ⅰ)『ヘンリー四世第一部』Henry IV, Part 1, 1.2.40.

Falstaff/ Oldcastle By the Lord, thou sayst true, lad. And is not my

hostess of the tavern a most sweet wench ? (38-39)

Hal As the honey of Hibla, my old lad of the castle.(40)

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10 大 橋 洋 一

解説:ここでのやり取りにおいて40行における呼びかけmy old lad

of the castleは「城(「城」という酒場)の私の昔からの仲間よ」と

なるが、これは相手がオールドキャッスルOldcastleの名を持つから

からこそ意味をもつ。

 ⅱ)『ヘンリー四世第一部』Henry IV, Part 1, 2.2.102

Hal Away, good Ned. Falstaff sweats to death  101

And lards the lean earth as he walks along  102

「いくんだ、いい奴ネッドよ。フォルスタッフは死ぬほど汗をか

いて、彼が歩くにつれて、痩せた大地に、その汗を豚のラード

のように吸収させるだろう」

解説:101行のAway, good Ned. Falstaff sweats to deathは、韻律が乱

れている〈弱強・弱強・弱強・強・弱強〉となり、Falstaffも最初

のaにあるべき強勢が後ろにずれる。もしこれがFalstaffではなく

Oldcastleだったら韻律上問題はない。

Away, good Ned. Oldcastle sweats to death

〈弱強・弱強・弱強・強・弱強〉

 ⅲ)『ヘンリー四世第二部』Henry IV, Part 2, 1.1.117

Falstaff(Folio)/Old.(Quarto) Very well, my lord, very well. (117)

解説:四折版QuartoではスピーチヘディングにOldcastleのOldが残っ

ている。

 ⅳ)『ヘンリー四世第二部』Henry IV, Part 2 エピローグ

where, for anything I know, Falstaff shall die of a sweat, unless already

a be killed with your hard opinions. For Oldcastle died martyr, and

this is not the man. My tongue is weary; when my legs are too, I will

bid you good night.(25-32;Emphasis mine)

「あと一言、お聞きください。もしあなたがたが、脂ぎった肉に

あまり満足していないのなら、わたしたちのつたない作家は、

物語を、続けることになるでしょう。その物語にサー ・ジョン

を含め、また、フランスの麗しい(王女)キャサリンを登場さ

せて、あなたがたを楽しませることになるでしょう。その物語(続

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 11

編)では、わたしの知る限りでは、フォルスタッフは、あなた

がたの手厳しい意見ですでに殺されていなくても、汗をかいて

〔性病で〕死ぬことになります。オールドキャスルは、殉教者と4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

して死にました。そしてこれは、その男ではありません。4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

わた

しの舌は疲れました。わたしの両脚も疲れています。皆様、お

やすみなさい」(強調引用者)

解説:第二部の最後においてアポロギアが登場する。これはフォ

ルスタッフがオールドキャッスルであったことを知らない観客や

読者、そしてそもそもオールドキャッスルが誰かについて知識の

ない観客や読者には無意味な断りであったはずだ。

2)経歴

 以下、サー・ジョン・オールドキャッスルSir John Oldcastle(1378-1417)(オー

ルドカースルの表記のほうが一般的かもしれない)の経歴について、諸種の

資料から、年表形式でまとめる。

1378-1400年代 ウェールズとの国境地帯であるヘレフォードシャーに生

まれ、反乱の絶えないその地で鎮圧行動に活躍した可能性がある。

1408年 結婚によって4つの領地の領主ならびにコバム卿Lord Cobhamと

なり、翌年、貴族院議員。

1400-1411年 ヘンリー王太子Prince Henry(のちのヘンリー五世Henry V)

との友情が深まる。ウェールズ反乱鎮圧、スコットランド遠征、さら

には1411年のフランス遠征に同行。

1413年 ヘンリー五世即位。ここからサー ・オールドキャスルの地位はゆ

るぎないものとなるはずが、栄光からの転落あるいは殉教者への道が

はじまる。

     ロラードLollard派は、ウェールズや国境地域に根強く、オールド

キャッスルも若い頃からロラード派の思想に接する。オールドキャッ

スルの領地の司祭が、ロラード派の説教をしているという文書が残存

するが、この事態に対してオールドキャッスルは、とくになんの処置

もしていない。

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12 大 橋 洋 一

     ボヘミアのフス派Hussiteと情報を交換していた可能性があり、ウィ

クリフWycliffeの文書をフス派に送っていた。

1413年6月 異端文書所有によって国王ヘンリー五世の前で審問をうけ

る。このときオールドキャッスルは、文書の所有は認めるが読んでい

ないと主張。国王は執行猶予を求めたが、審問官はそれを却下。しか

し国王の友人でもあるので処罰に対しては慎重に審議することになっ

た。その間、オールドキャッスルは地元のクーリング城Cooling Caslte

(ケントKent)に帰還。ロンドンに再喚問され有罪が確定するが、国

王のはからいで執行延期。その期間中に脱獄。以後4年間逃亡生活を

おくることになる。そしてその間、ロラード派の反乱を各地で支援す

る。

 1414 年のロラード派のロンドンでの蜂起を支援したか、指導者へと祭り上

げられる。反乱は失敗し、以後、地下にもぐる。これはオールドキャッ

スルの乱とも呼ばれる。

1415年 ウェスト・ミッドランド地方West Midlandsの反乱を教唆。同じ年

のサウサンプトンSouthamptonの反乱にも加担したといわれる。以後、

イングランド各地を点々とする。

1417年逮捕。12月14日ロンドンに移送され、議会で審判を下される。議会

でのオールドキャッスルは、自分にとっての正等な王はスコットラン

ドに生きているリチャード二世Richard IIであり、この議会は不当な

存在であると主張(リチャード二世がスコットランドに生きていると

いう噂は根強く、リチャード二世を国王とするいまひとつの王国設立

運動は、ロラード派のユートピア運動と関係していたといわれている。

これは18世紀において、名誉革命で追放されたジェイムズ二世の息子

や孫を指導者としたジャコバイトの反乱を髣髴とさせるものがある)。

オールドキャッスルは、こうして反逆罪にも問われ、異端と反逆罪の

両罪で死刑が確定。国王がフランス遠征中であっため、死刑は延期さ

れることになく執行された。オールドキャスルは、鎖につながれ、処

刑台ともども焚刑となった。

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 13

 かくしてサー ・ジョン・オールドキャッスルは殉教者となった。14世紀の

はじめ、のちに百年戦争と呼ばれる戦乱期に、イングランド内でロラード派

の反乱の首謀者のひとりともなって活動し、処刑されたサー ・ジョン・オー

ルドキャッスルは国王ヘンリー五世とも親交があった。このオールドキャッ

スルと『ヘンリー六世・第一部』のファストルフとの違いは、ファストルフ

がランカスター家につかえる―まあ乱暴な比喩を使って日本の歴史に等価

物を見出せば―旗本のような存在であるのに対し、『ヘンリー四世』二部

作の太った騎士のモデルとなった実在の人物サー ・ジョン・オールドキャス

ルは、旗本ではなく大名のような存在であったといえようか。またオールド

キャッスルは、国王とは家来・側近の関係ではなく友人の関係でもあったた

め、彼がシェイクスピアの『ヘンリー四世』二部作において、王子ハルの遊

び仲間となることは当然のことであった。

 なおオールドキャスルに関する当時の文献(おそらくシェイクスピアが執

筆に際して参照し、材源となった可能性の高い文献)は、以下のようになる7。

 a) プロテスタントの戦闘的牧師、著述家、劇作家であったジョン・ベイ

ルJohn Bale (1495-1563)が著した『サー ・ジョン・オールドキャッスル』

A Brief Chronicle concerning the Examination and Death of the Blessed

Martyr of Christ, Sir John Oldcaste, the Lord Cobham(1544)。図1は、ベ

イルの本の表紙におけるオールドキャッスル。シェイクスピアの『ヘ

ンリー四世』のオールドキャッスル/フォルスタッフとは異なり、プ

ロテスタントの英雄的闘士として描かれている。

 b) プロテスタント牧師、殉教史学者であったジョン・フォックスJohn

Foxe(1516-87)の『行為と記念碑』Acts and Monuments(1583)(『殉教者

の書』Book of Martyrsとして知られるもの)。全体で2000ページを超え

るこの本の中でオールドキャスルに割かれている頁は80ページ余とか

なり多い。ただしオールドキャッスルが扇動したと思われる反乱につ

いては多くを語っていない。またオールドキャッスルとボヘミアのフ

スとの関係を、そのなかで長く考察している。図2は、フォックスの

本に付された挿画。処刑架につるされ処刑架ともども焼かれたオール

ドキャッスルの最期を描く。

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14 大 橋 洋 一

図1

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 15

 c) ホリンシェッドRaphael Holinshed(1520-1580)の『年代記』Chronicles

(1587)。おそらくシェイクスピアが最も多く参照したと思われるもの。

 d) ジョン・ウィーヴァー John Weeverの『殉教者の鑑』The Mirror of

Martyrs(1601)は、『ヘンリー四世』以前に書かれた韻文形式の文章だが、

オールドキャッスルが盛名をはせていたことなどがわかる。

 

 まさにこうした文献を参照しつつ、サー ・ジョン・オールドキャッスルを

モデルとし(典拠となった年代記ならびに演劇経由で)、のちにフォルスタッ

フとして知られる人物が造型される。その特徴は以下のようにまとめること

ができるだろう。

 このオールドキャッスル/フォルスタッフは、喜劇的ステレオタイプとし

ての人物像としては、ハル王子が担当することになるギリシア喜劇(旧喜劇)

におけるエイロンeiron(知恵があり機転がきき他人を操るに長けた人物)に

対して、そのペアとなるアラゾンalazonを担当する。この場合、アラゾンは、

図2

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16 大 橋 洋 一

具体的には大言壮語する卑怯者で大酒飲みの兵士ということになる。ローマ

時代の喜劇(新喜劇)において、「ほら吹き兵士」Miles Gloriosus(英語では

Braggart soldierともいう)の名称で知られている喜劇的ステレオタイプであ

る。

 と同時にこの人物が出現させるのは、ギリシア・ローマの喜劇的空間のみ

ならず、土着的な祝祭空間でもあって、舞台に、その巨体で君臨する彼こそ、

中世以来の無礼講の王Lord of Misruleの祝祭的伝統の継承者だろう。負の支

配者と、その支配下にある一時的なさかしまの世界は、この人物とハル王子

(最終的に王国という舞台で覇権を争うふたり)、このいまだ国王たらざるふ

たりの〈国王ごっこ遊び〉を出現させ、国王をめぐる政治学を極限まで追究

することになる。そして舞台は、弱体化した王Weak Kingのあとに、強力な

王が君臨するまでの負の王国として/という祝祭空間を現出させながら、最

終的にそれが、新王戴冠に際して、排除されることも匂わせる―このオー

ルドキャッスル/フォルスタッフの追放によって。

 もちろんこうした象徴的次元から離れて、劇行為に集中すれば、そこにあ

るのは各地の大貴族の反乱に苦しむ国王の姿であり、父王の苦悩をよそに、

戦略的か否かはべつにして遊びほうけている王子の日常であり、この王子を、

悪の道にひきずりこみ、そこにとどめおこうとして働きかける人物こそ、中

世の道徳劇の伝統における〈悪徳人物〉Viceの復活あるいは、その末裔であ

るともいえる。ヴァイスは中世の演劇世界では、主人公に敵対する恐るべき

悪魔的人物として登場するのではなく、むしろ主人公の仲間・友人として登

場し、主人公の破滅を企むものであった。『ヘンリー四世』におけるこの人

物は、王子を利用しようとする悪魔的人物というよりも、王子を放蕩的無頼

の世界にとどめおこうとする〈寄食者=パラサイト〉として立ち現れるヴァ

イスである。仕事も財産もないようなこの人物にとって王子は生存の鍵を握

る。しかし伝統的なパラサイト的人物は、いっぽうで卑屈な依存者という面

もありながら、同時に、誰よりも主人に近い位置にいて、無遠慮な物言いも

辞さない、まさに直言御免の皮肉屋という道化的人物いわゆるLicensed Fool

でもある。

 さらにいえば、この人物の巨体は、小柄なハル王子との対比において、喜

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 17

劇におけるステレオタイプ的な痩せと肥満体との「チビ=デブ・コンビ」と

なるが(エイロン=アラゾンのコンビの変異体)、同時に、セクシュアリティ

的に見れば、この人物は王子とベッドをともにしており、中年男と若い貴族

という、シェイクスピアが『ソネット集』で定位させた同性愛的関係の典型

ともなっている。彼は、ハル王子の友人でもあり、また悪友でもあり、ベッ

ド仲間だが、同時に、学識もあり、堕落したやさぐれ人生を送っているとも

いえる。その資金源は、基本的に窃盗行為から生み出される。

 こうみてみると、この人物と現実のサー ・ジョン・オールドキャッスルと

の接点はそれほどないことがわかる。強いて言えば、王子の親友でもあった

ということか―とはいえ歴史的にみればヘンリー五世は、オールドキャッ

スルを追放してはいない。したがってこのシェイクスピア劇のサー ・ジョン

・オールドキャッスルは、舞台上ではきわめて魅力的な人物であることはま

ちがいないが、プロテスタントの殉教者にして英雄としての歴史的人物像と

は異なるだろう。オールドキャッスルというある意味、神聖な固有名詞が、

道化的人物の名前として使われたことに対し、当時、不快感をもよおす人び

とがいておかしくない。ただその不快感が、劇中人物の名称の変更を迫るよ

うな力、いや、そもそもそうした変更要求を伝えられる回路をもっているか

どうかは、歴史的状況のいかんによる。シェイクスピアの場合、彼に圧力を

かける権力も回路も存在していた。つぎにみるように。

 最終的にサー ・ジョン・オールドキャッスルという名前はとりさげられ、

同じ人物にサー ・ジョン・フォルスタッフの名前がつく。その経緯はいまと

なってはわからないが、いくつかの日付を確認することによって、スキャン

ダルの発生と結果を推測することはできる。

 3)オールドキャスル・スキャンダル

 1596年8月8日、内大臣Lord Chamberlainハンスドン卿Sir George Carey,

Lord Hunsdonが死去する。内大臣は演劇上演許可を与える職務もあり、また

Lord Hunsdonはシェイクスピアが所属していた劇団のパトロンであり、1594

年以降、劇団そのものも内大臣一座Lord Chamberlain’s Menを名のっていた。

ハンスドン卿亡きあと内大臣に就任したのが、コバム卿Lord Cobham, Sir

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18 大 橋 洋 一

William Brooke, 10th Lord Cobhamだった。サー ・ジョン・オールドキャッスル

の末裔の貴族である。そしてこれに伴い、劇団は、第二代ハンスドン卿をパ

トロンにして、ハンスドン卿一座Lord Hunsdon’s Menとなる。

 1596年は、シェイクスピアの『ヘンリー四世・第一部』が執筆されたか上

演された年でもあり、「オールドキャッスル」の名称変更が示唆するのは、

新たな内大臣コバム卿(Sir William)とその息子(Sir Henry)が、彼らの先

祖にしてプロテスタント殉教者の英雄でもあるオールドキャッスルの名をあ

ろうことか道化的人物に名乗らせることに対し批判を展開した可能性である。

 だがたんに末裔からの抗議というだけに留まらぬ問題があったはずで、コ

バム卿の息子サー ・ヘンリー・ブルックは、ウィリアム・セシルとは義兄弟で、

さらにウォルター ・ローリーと親友であった。つまりコバム卿はともかく、

その息子はローリー派であり、シェイクスピアの劇団がパトロンに仰いだハ

ンスドン卿サー・ジョージ・ケアリーは、反ローリー派の急先鋒であったエ

セックス派のひとりであった(この頃のローリーは、アイルランドでカトリッ

クを虐殺している)。となるとローリー派のブルックが、みずからの先祖の

名前の悪用に対して、エセックス派のケアリーの劇団に物申したということ

になった。おそらくこの圧力を前にして、シェイクスピアの劇団はオールド

キャッスルの名称を、フォルスタッフに変更した。

 1597年3月5日、内大臣となったコバム卿は就任一年を待たずして死去。

3月12日には第二代ハンスドン卿が、父と同じ内大臣に就任。これにともな

いハンスドン卿一座は、ふたたび内大臣一座へと名称変更する。同年5月に

は、内大臣のハンスドン卿が ガーター勲爵士に選ばれる。それを記念して、

劇団は、ガーター勲爵士とも関係する喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』

を創作したか上演した。この喜劇は、エリザベス女王が恋をするフォルスタッ

フを見たいと希望したので、シェイクスピアが二週間で書き上げたという伝

説が残っているが、もちろんそれは事実無根である。ただ、この『ウィンザー

の陽気な女房たち』に登場する太った騎士には、フォルスタッフという名前

がついているので、この時点で、オールドキャスルからフォルスタッフへの

変更は完了していたとみることができる8。

 さらに1598年『ヘンリー四世・第一部』第一・四折版First Quartoが出版さ

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 19

れるが、そこには「フォルスタッフ」が登場している。その表紙にWith the

humorous conceits of Sir/ Iohn Falstalffe (「サー・ジョン・フォルストルフの

面白い奇抜なせりふ表現もあり」)とある。なおFalstalffeという表記は、

Fastolfにもつながる曖昧なものとなっている)。

 またこの年にシェイクスピアは『ヘンリー四世・第二部』に着手し、『ウィ

ンザーの陽気な女房たち』は、まちがいなく初演を経ている。

 翌1599年10月下旬から11月上旬にかけて、内大臣一座のライヴァル劇団海

軍大臣一座Lord Admiral’s Menがローズ座The Roseで、ドレイトンMichael

Drayton, ハザウェイRichard Hathaway, マンディ Antony Mundy, ウィルソン

Robert Wilson作,『サー・ジョン・オールドキャスル・第一部』Sir John

Oldcastle, Part 1を上演している(おそらく初演)。そのプロローグ(ただし

版本に付されたもので、舞台で発せられた言葉ではないかもしれない)には

以下の文がある―

It is no pampered glutton we present

Nor aged counselor to youthful sins (6-7)9

わたしたちがお目にかけるのは食べ過ぎの大食漢でもなく

若者に罪を重ねさせる年とった相談役でもありません。

 1600年には『ヘンリー四世・第二部』第一・四折版First Quarto出版。その

エピローグでのアポロギアは、すでに引用した。

 これで問題は収束したかにみえたが、混乱はこれ以後もつづく10。1598年

に出版されたフランシス・ミアーズ Frances MeresのPalladise Tamia(「知恵

の宝庫」)ではSir John Falstoffが言及されている。1598年の時点で、オール

ドキャッスルからフォルスタッフへの変更は完了したかにみえるのだが、

1600年の内大臣一座の上演記録によると、3月バーガンディー公(バーガン

ディーとはブルゴーニュの英語表記である)の大使をもてなすために、シェ

イクスピアの『ヘンリー四世』と思われる演劇を上演(おそらく内大臣ハン

スドン邸で)。そのとき、タイトルがSir John Old Castell〔sic〕と言及される。

内大臣一座では、オールドキャスルを劇の代名詞として使っていたふしがあ

る。

 それから10年後、ネイサン・フィールドの劇Amends for Ladies (?1610-11)の

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なかで、‘the fat knight hight Oldcastle’(hightは呼ばれているcalledの意味)と

言及される。フォルスタッフではなくオールドキャッスルと。また1631年1

月6日コックピット座での上演でも1639年5月29日の宮廷上演でもould

Castelを含む劇のタイトルが言及されているが、これは上記Sir John Oldcastel

ではなくシェイクスピアの『ヘンリー四世』を示している。

 また最初に紹介したRichard James(図書館司書)のSir Harry Bourchierへの

書簡(1633年)では、なぜサー ・ジョン・フォルスタッフは『ヘンリー五世』

のなかで死んだといわれているのに、『ヘンリー六世』(第一部)に登場して

いるのかという質問をある婦人から受けたときの、リチャード・ジェイムズ

自身の回答が述べられている。すでに本稿の冒頭で紹介したものだが、繰り

返すと、シェイクスピアは最初、ヘンリー五世が王太子だった頃の遊び仲間

の道化に、フォルスタッフFalstaffeではなくて、オールドキャッスルの名前

をつけていたが、しかしそれはオールキャッスル家の血筋を引く者から抗議

され名前を変えSir Ihon FalstaffeあるいはFastolpheに変えた、と。フォルスタッ

フのもとの名前はオールドキャスルであることは、この時点でも伝承されて

いたのである。

 なお1604年イエズス会士ロバート・パーソンズRobert Parsonsは、オール

ドキャッスルについて、「ウィクリフ派のオールドキャスルというのは、イ

ングランド人誰もが知っているならず者で、喜劇役者たちによってよく上演

されていて、ヘンリー五世の時代に泥棒と反乱の罪で死刑になったものであ

る」と書簡で述べている。カトリック側はプロテスタントの英雄オールドキャ

スルを、あたかもフォルスタッフであるかのごとく否定的にみている。この

問題はこのあとすぐに考える。

4)暫定的結論

 道化であり無礼講の王としてのサー ・ジョン・オールドキャッスルは、シェ

イクスピアの『ヘンリー四世』二部作と『ヘンリー五世』の材源のひとつに

加えられている作者不詳の劇『ヘンリー五世の名高い勝利』The Famous

Victories of Henry the Fifth (1583-88)に影響を受けている11。このなかにはヘン

リー王子の友人として盗賊行為にも参加するサー ・ジョン・オールドキャッ

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 21

スルが登場する。劇中で「ジャック」とも呼ばれるこのオールドキャッスル

は、目立たぬ人物であり、フォルスタッフ的な性格は微塵もない。むしろフォ

ルスタッフ的なオールドキャッスルに近いのは、人気絶頂だった道化俳優リ

チャード・タールトンが演じた劇中の道化的人物で、この強烈な個性を発揮

する道化的人物とサー ・ジョン・オールドキャッスルを合体させて(Bevington

(1987,97:22)はタールトンが一人二役をしたという可能性を述べている)、

シェイクスピアは『ヘンリー四世』のオールドキャッスル=フォルスタッフ

を造型したとみることができる。

 歴史上のオールドキャスルは反乱の首謀者にしてプロテスタントの英雄で

もあり、道化的とは容易に呼べない属性の持ち主だが、それを道化的人物に

仕立て上げたことには、宮廷の人間関係力学も作用しているのかもしれない。

エセックス派に連なるシェイクスピアとその劇団は、反エセックス派でコバ

ム卿の先祖を茶化した。これがコバム卿の内大臣就任の前か後かは不明。コ

バム卿側からの反撃は、プロテスタントあるいはピューリタン勢力からの反

発に後押された可能性もある。内大臣だったコバム卿はオールドキャッスル

の名称については寛容に対処したが、プロテスタント勢力の猛烈な反発を前

にして問題化せざるをえなかったという解釈もある。

 シェイクスピアがカトリックだったかどうかは不明だが、おそらくその父

親はカトリックであった可能性が高い。そこでオールドキャッスル問題には、

カトリック的思考の関与をみることができるかもしれない。先にみたプロテ

スタントの英雄オールドキャッスルをならず者とみるカトリック側の表象

は、シェイクスピアにも継承されているのではないか(ただし、カトリック

側のオールドキャッスル表象は、シェイクスピア以前というよりもシェイク

スピア劇に触発されて定着したのかもしれないのだが)。問題は、なぜプロ

テスタントの英雄サー ・ジョン・オールドキャッスルを道化的人物にしたの

か。いや問題は逆かもしれない。私たちは、フォルスタッフが、実は殉教者

であった人物のメタモルフォーゼであったことに驚いてもいいのだ。フォル

スタッフを語るのに殉教者としての側面が語られることはなかった。私たち

はむしろそこにこだわりたい。オールドキャッスル問題を経由したからには。

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22 大 橋 洋 一

3. 殉教の甘美な暴力

 サー ・ジョン・オールドキャッスルの殉教の物語は、すでに述べたように、

ジ ョ ン・ フ ォ ッ ク スJohn Foxe(1517-87) の 殉 教 者 の 本(Actes and

Monuments, 1563, 1570, 1576, 1583)に記載されている。その分量のべ80ペー

ジ。この本は、フォリオ版2000ページにおよぶ大冊で、当時、プロテスタン

ト・イングランドでは全教会に購入が義務づけられていた。現在、これはネッ

ト上で公開されていて、校訂が進行中だが、その豊富な挿画とともに、閲覧

は簡単にできる。

 この本は、腐敗したローマ・カトリック体制のもとで信仰をつらぬいて殉

教した無辜の人びとの記録を後世に残すものであり、記述は、ロラード派か

らメアリ一世女王時代にまで及ぶ。書かれているのは歴史的記録と法律論議

ならびに宗教的神学的議論などでその内容は専門性が高く、一般庶民が読ん

でも理解できるものではない。そのため啓蒙的な内容あるいは信仰のゆらぎ

を止める強力な支援あるいは励ましなどとは無縁の本である。ただし庶民が

のぞいても興味深いのは、そこに添えられたおびただしい挿画であり、これ

は現在ネット上で簡単にみることができる。当時、異端者は焚刑にかけられ

ていたので、挿画も殉教者の最期に集中する(図3~図6参照。ネット上に

公開されている挿画から。図そのものは部分図である)。

 この挿画の意味は大きいと考える。それは過去の記録ではあるのだが、写

真ではないのはもちろんのこと、精密あるいは迫真的な画像でもなく、どの

ようなかたちで異端者の処刑がおこなわれたのかを示す記号的情報伝達手段

だが、そのぶん過去との強固なつながりがゆるみ、過去と現在を往還する可

能性を帯びることになる。プロテスタントの時代になってからも、焚刑は絶

えることはなかった。カトリックの扇動教唆者は体制攪乱を狙い、イングラ

ンド各地に潜伏し、摘発されれば異端者として焚刑に処せられていた。描か

れている殉教の図は、カトリック体制におけるプロテスタント犠牲者を描く

ものだが、同時にそれはまたいま現在のカトリック活動家の焚刑をも思い起

こさせるものとなっている。殉教の図は過去の記録であるとともに、現在の

記録ともなっていた。

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 23

図3

図4

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24 大 橋 洋 一

図5

図6

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 25

 この双方向性は、さらに殉教者像そのものへの憐憫と恐怖の双方向性と連

動するようにも思われる。なぜなら現在の図でもあるその殉教者像は、異端

者に訪れる焚刑の運命を強烈に暗示して脅迫効果を帯びるわけで、もちろん

描かれているのはプロテスタントの殉教者たちであり、彼らを死に追いやる

カトリックの権力者への憎悪こそ、この画像のめざすイデオロギー効果であ

るのだが、繰り返しになるがそれが現在の図でもあるからには、画像のもつ

意味が反転するのだ―カトリックの権力者ではなくプロテスタントの権力

者からの脅威的暴力として。

 だがもちろんこうした殉教図の効果はもっと深いところにあるとみること

もできる。図像は、焚刑に処される殉教者と、それをみる群衆とで構成され

る。描かれているのは共同体での儀礼的出来事である。群衆は、ギリシア演

劇のコロスに似て、出来事=劇中世界と観客との間を媒介する機能を担う。

画像の読者あるいは受容者は、群衆を媒介にして殉教の場に現前させられる。

そして群衆とともに、彼らの目線を共有して、つまり目撃者として、出来事

から強烈な刺激を受けて魂を震撼させることが求められるのだ。殉教者に同

情する者たちも少なからず群衆のなかに描かれている。それは焚刑にあう人

間が決して犯罪者ではなく犠牲者であること。カトリック系の権力者によっ

て群衆もまた、殉教者と同じく焼かれているのである―たとえ肉体でなく

とも、その内面を。かくして読者は群衆を介して、目撃者であると同時に、

みずからも犠牲者に、みずからも殉教者になる。おそらくこれがこうした画

像のイデオロギー効果であろう。信者に、信仰のためなら、すすんで殉教す

る精神を養う、あるいは殉教への道にすすんで身を投ずる精神性を育むこと。

ここには焚刑を命ずる権力者への憤怒と恐怖が、焚刑されることをも恐れぬ

殉教精神と共存するのである12。

 そしてさらに殉教図には、スケールの大きなものが存在する。殉教者の焚

刑そのものは小さく描かれ、それを見守る群衆の数の多さを強調するような

俯瞰図も現われる(図5と図6)。殉教者と群衆をクローズアップして描く

殉教図からも、そこに劇場性をうかがうことができたが(だからこそ群衆を

ギリシア演劇のコロスとみることができた)、このような広場あるいは町全

体を視野に入れるような俯瞰図となると、その劇場性も意味を変容させるだ

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26 大 橋 洋 一

ろう。ここにはもはや読者が一体化できるようなコロス的群衆は存在しない。

群衆そのものも、いわば見られている、つまり距離を置かれて視線の対象と

なっているからである。殉教者と観客として群衆をまるごと収める構図は、

この劇場あるいは舞台の観客が神であることを強烈に暗示する。この殉教劇

を見ているのは神であり、また逆にいえば、この殉教劇は究極的な観客であ

る神に供されるのである。

 そしてここにおいて殉教のパラドクスが頂点に達するであろう。殉教は、

みずからの生存の最終的消滅をみずからの手で行なうものだが、その消滅の

瞬間、共同体という劇場のなかで、刑場という舞台において、そのセンター

で英雄になれる。凡人を超越することになる。しかもその殉教は、神を唯一

の超越的観客とする劇場での出来事であり、みずからを神に祝福される英雄

として演出することでもある。神のみそなわす舞台の中心で栄光に包まれる

殉教者こそ、信仰によって到達できる最高の地位であるとともに、人生の諸

目標の成就の証左となる究極のシニフィアンとなるだろう。殉教者は、フロ

イトが別の文脈で使った言葉を借りると「場面の支配者Master of the Scene」

になる。名も知られぬ一個人が英雄へと変貌をとげる。かくして殉教図は、

裏切ったら処刑されるぞという脅迫とともに、信仰のために喜んで死ねる覚

悟を植えつけるという二重の効果をもつ。信仰のために死ねる、その限りな

い死の連鎖。殉教という死への魅惑。殉教図は、まさにタナトスの文化ある

いはタナトスの美学を導入する装置でもあったのだ。

 カトリックにおける告解という制度が、近代的主体の形成に貢献したとい

う議論が存在するが(たとえばフーコー)、しかし近代的主体の出自は、原

罪を背負う信者だけではなく、公開処刑される犯罪者ではないかとみること

も可能だ(これもフーコーが道筋を示しているのだが)。処刑前に聴衆に対

して罪を告白すること、まさにその時点で罪人は、みずからの人生を、犯罪

者のそれとして強固にまた明白に確立できる。だが誰もが望んで犯罪者にな

るわけではない。悪人になるには抵抗もある。しかし、いくら善人でも、死

の直前にみずからの善行を数え上げたら、それは善人とはいえないだろう。

善行は他人によって認知されるか、墓碑銘に刻まれるかのいずれかであって、

善は自己確立の手段とはならない。ただし殉教者の場合を除いて。殉教者は、

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 27

処刑する側からすれば許しがたき犯罪者・異端者であるが、同じ信仰の人び

とにとっては、最後まで信仰を捨てることなく貫いた英雄・偉人である。殉

教者は犯罪者でありながら、同時に、善人・偉人そのものであり、主体の自

己構築が批判の対象あるいは欺瞞的自己尊大化行為とならない例外状態であ

る。それゆえみずからの生は、それを告解のなかで提示する際には、犯罪者

のそれだが、同時に、異端者として処刑されるとき、その生は殉教者として

の聖なる生ともなりうるのであり、殉教者となる不運こそ、この上なき幸運、

みずからの生を主体として完結させる稀有な瞬間といえるのである。焚刑に

処せられる幸運。タナトスの呪縛。

 ヘンリー ・ウォルポールHenry Walpole(1558-1598)は、1581年、ロンド

ンで、イングランドに潜入したカトリックの司祭の処刑を目撃していた。処

刑は、典型的な反逆罪の処刑となり、絞首刑にし、まだ息のあるうちに首か

ら縄をはずし、内臓を取り出し、最後に四肢を切断するものであったが、そ

のとき処刑された男(カトリックの殉教者)の肉片が飛び散り、目撃してい

た23歳のウォルポールの衣服に付着する。この瞬間、彼の精神のなかで何か

が起こる。それまでは宗教にもさして関心をもつことのなかったプロテスタ

ントの法学生が、カトリックの殉教者を目撃し、カトリックに改宗にすべく

イングランドから大陸に渡る。「聖マタイの召命」を髣髴とさせるような劇

的挿話だが、この時ウォルポールが自覚した使命とは殉教者として死ぬこと

だったにちがいない(この題材を描いたカラヴァッジョの絵画『聖マタイの

召命』が『聖マタイの殉教』と対になっていることが示しているように、召

命は殉教と対になるものだった)。やがてイエズス会士となった彼は、イン

グランドに布教のため帰還し逮捕され裁判にかけられ、かつてロンドンで目

撃したイエズス会士の殉教者が受けたのと勝るとも劣らぬ残忍な拷問を受け

処刑される。殉教者から殉教者へ。殉教が殉教への限りない欲望を生み出す。

それは自らの消滅のまさにその瞬間に、栄光の肉体として輝きわたり、無定

形の人生を聖人の主体へと自己造型する―つぎの瞬間、肉体は完全に破壊

されるが、だが、栄誉は残る。殉教は、権力者の暴力への憤りを生むのでは

なく、その暴力を自らに引き受け拷問の苦しみと死の恐怖と恍惚のなかで栄

光の肉体へと変容する限りない欲望を育むともいえようか。権力者の暴力は、

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28 大 橋 洋 一

死=永遠の生へと導く甘美な暴力となる。

4. エドマンド・キャンピオン

 シェイクスピアよりも六歳年長のヘンリー ・ウォルポールが1581年12月1

日にロンドンで目撃したカトリックの殉教者とは、エドマンド・キャンピオ

ンのことである。『ヘンリー六世・第一部』に登場するフォルスタッフ/ファ

ストルフをめぐる私たちの調査は、いつしかプロテスタントの殉教者サー ・

ジョン・オールドキャッスルに出会い、ヘンリー ・ウォルポールという、こ

れもまた列聖されたカトリックの殉教者を経てエドマンド・キャンピオンに

辿り着く。しかしそれは偶然ではない。ウォルポールが、エドマンド・キャ

ンピオンの死体の血から神の召命を直観した追随者であったとすれば、シェ

イクスピアもまたエドマンド・キャンピオンの追随者になっていた可能性も

あったのだ。シェイクスピアはエドマンド・キャンピオンに会っていたとい

うのが、私たちの仮説である。そしてキャンピオンの追随者になった―だ

が、ウォルポール的な追随者ではなく、殉教の連鎖、タナトスの美学を反転

させる負の追随者に。

 1)生涯

 エドマンド・キャンピオンEdmund Campion(1540-1581)―カトリックの

司祭にして殉教者は、ロンドンに生まれ、オックスフォード大学セント・ジョ

ンズ・カレッジSt John’s Collegeに学んだ13。当時、セント・ジョンズ・カレッ

ジはカトリック色の強いカレッジだったが、キャンピオンはカトリック信条

を保ちながらアングリカンを便宜的に信仰していることに悩むようになる。

1569年にはオックスフォードを去ってアイルランドに移住、そのころ構想さ

れていたダブリン大学の設立計画に参与した。1571年、キャンピオンは密か

にアイルランドを離れてネーデルラント地方のドゥエー Duoai(現在はフラ

ンス領)に逃れ、その地でカトリック教会に復帰し、ドゥエー神学校に入学

した。ドゥエーは、イングランドからのカトリック亡命者たちの拠点でもあっ

た。大学の学位を取得後、キャンピオンはローマに赴き、同地でイエズス会

の修練者となる。

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 29

図7

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30 大 橋 洋 一

 1580年イエズス会のイングランドへの秘密伝道が始まり(実際これはイン

グランドへの軍事的侵略と連動する宗教的破壊工作の一環でもあった)、キャ

ンピオンは宝石商を装ってイングランドに上陸。1580年6月24日にロンドン

に到着すると、すぐに伝道を開始した。そしてバークシャー、オックスフォー

ドシャー、ノーサンプトンシャー、ランカシャーを転々として、その地に住

むカトリック教徒たちのために説教をし、司祭としての職務を行なうことに

なる。バークシャーでは請われて7月14日、15日と2日間続けて説教を行なっ

た。この町でキャンピオンは政府の密偵に逮捕されロンドンに連行される。

ロンドン塔に送られたキャンピオンは、自分を正統な女王と認めるよう要求

するエリザベスの臨席のもと、尋問を受けることになった。キャンピオンは

エリザベスをイングランド君主と認めたため、エリザベスは彼に財産と高官

の地位を与えると約束した。しかしカトリック信仰を破棄するよう求められ

ると、キャンピオンはこれを拒んだ。このためキャンピオンは釈放されるこ

となく長い牢獄生活を送る。そして1581年12月1日キャンピオンは反逆者と

して死刑を宣告され二人の仲間と共にタイバーンで首吊り・内臓抉り・四つ

裂きの刑に処せられた。41歳だった(図7はエドマンド・キャンピオンの肖

像(部分図)だが、本人を見て書いたわけではない後世の想像図である。首

にかけた縄は絞首刑になったことを、胸のナイフは、体を切り裂かれ内蔵を

取り出されたことを暗示するものといわれているが、所持品とも関係があろ

う)。

 キャンピオンの処刑時に実際に使われた縄は、所持していたナイフなどと

もに、現在ランカシャーのストーニーハースト・カレッジStonyhurst College

に置かれ、ガラス製の筒型容器の中に保管されている。この縄は毎年、キャ

ンピオンの祭日にセント・ピーター教会で行われるミサに際し、祭壇に展示

されるが、ランカシャーは、もともとカトリック勢力の強い地域でもあった。

ランカシャー―シェイクスピアはここに一時期逗留していた可能性があ

る。それもキャンピオンが布教活動のさなか立ち寄った時期に。

 2)シェイクスピアの失われた年月(Lost Years)

 1578年14歳でグラマースクールを辞めてから、1982年に8歳年上のアン・

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 31

ハザウェイAnn Hathawayと結婚するまで、シェイクスピアの名前がいっさい

記録にあらわれない一時期がある。この4年間をシェイクスピアのロスト・

イヤーズという(実際には、もうひとつ同じように記録に現われない時期が

あり、これを第二次ロスト・イヤーズともいうが、ここでは第一次ロスト・イ

ヤーズに限定する)。この時期、シェイクスピアが、どこにいて、何をして

いたのか、確かな証拠がまったくない。したがってすべて推測とならざるを

えないのだが、その推測のひとつに、シェイクスピアが教師をしていたとい

うものがある。この噂の出所は、ウィリアム・ビーストン―シェイクスピ

アの劇団の同僚であった俳優クリストファー・ビーストンの息子―である。

生前のシェイクスピアを知っていた人間の子供の証言というところが、他の

証言よりも強い信憑性を獲得することとなった。それによればイングランド

北部のランカスター近辺で、シェイクスピアは貴族の館で家庭教師として働

いていたというものだ。そしておそらく、そこでときには、エンターテイナー

としての才能を買われ、シェイクスピアは、余興のパフォーマンスを披露し

ていたのかもしれなかった14。

 だがなぜランカシャーでカトリックなのか。この点についてはシェイクス

ピアのグラマースクール時代ならびにグラマースクールの教員について確認

する必要がある。シェイクスピアがグラマースクールで学んでいた頃に接し

たかもしれない教師は、以下の3人。彼らは皆、カトリック系であった。

 サイモン・ハントSimon Huntは1575年ストラットフォードを去り大陸に渡

りイエズス会に入る。このときショタリー(ストラットフォードに隣接する

村)のカトリック系の若者を同行させている。

 後任のトマス・ジェンキンズThomas Jenkins(在任1575-79)は、オックス

フォードのセント・ジョン・カレッジ出身。このカレッジは、すでに述べた

ようにカトリック系でエドマンド・キャンピオンもそこで学んでいた。

 その後、着任したジョン・コタムJohn Cottam(在任1580-82)は、その弟が

カトリック布教のためイングランドで活動、しかもストラットフォードをめ

ざす途上で逮捕され、1582年5月30日に処刑された。グラマースクールの教

師の弟がカトリックの殉教者となったこの事件は、ストラットフォード市当

局を震撼とさせ、その衝撃の余波のなか兄のジョン・コタムは教員を辞任、

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32 大 橋 洋 一

ランカシャーに去ってゆく15。すでに述べたようにランカシャーはカトリッ

ク勢力の強いところであり、キャンピオンの遺品もそこに保存されていた。

おそらくシェイクスピアをランカシャーへと誘ったのは、ジョン・コタムで

はないかと推測される。コタムは貴族の館の家庭教師に、若くて才能もあり、

エンターテイナーとしてもすぐれていたカトリック信者のウィリアム・シェ

イクスピアを推薦し、またシェイクスピアにそこに行くよう促したのかもし

れない。

 運命的な遭遇があったとすれば、その地で、シェイクスピアが、エドマン

ド・キャンピオンに出遭ったことである。もちろんすべて推測にすぎない。

しかし現在、シェイクスピアの伝記あるいは伝記的記述において、エドマン

ド・キャンピオンに関する記事には必ずといっていいほど遭遇するため、い

まや推測が定説となった観がある。かりにシェイクスピアがキャンピオンに

出遭ったとしよう。以下は、スティーヴン・グリーンブラットが想像をふく

らませて書いている描写である(すでに翻訳もあるので、ここでは内容を要

約して示す)―

 16歳の駆け出しの詩人兼俳優と40歳のイエズス会士との交流を想像してみ

よう。シェイクスピアはキャンピオンを魅力的な人物と思ったにちがいない

―キャンピオンの敵たちも、キャンピオンのカリスマ的魅力は認めている。

いっぽうキャンピオンも、シェイクスピアの中に、相照らす精神を見出した

かもしれない。シェイクスピアはこの時点で、後の作品からはうかがい知る

ことはできないが、筋金入りのカトリックになっていたふしがあり、カトリッ

ク勢力が秘密を打ち明けても裏切られる心配のない信頼できる人物となって

いた。いっぽうウィルよりも25歳も年上のキャンピオンは、その雄弁な語り

口や知性や機転によって注目を集めることに長けていたし、本の世界だけで

なく実人生にも興味があった。彼の思想は深い学識に根ざしたものであった

が独創的なものではなく、伝統的な思想に新しい命を吹き込むものであり、

それを可能にしたのが、彼の言葉の明晰さと美しさならびに彼の存在そのも

のであった。機知にとみ、想像力豊かで、臨機応変で即興の才に長けたキャ

ンピオンは、真摯な思索を、演劇的要素で彩りながら伝えるべく腐心してい

た。こうしたキャンピオンの姿に、シェイクスピアが自らの未来の姿を見て

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 33

いたとしても不思議ではなかった。

 キャンピオンのほうはシェイクスピアのなかに理想の生徒を見出してい

た。キャンピオンが思い描いていた理想の生徒とは、精神的に柔軟で、卓越

した知性を誇り、また物腰が優雅で慎み深いが、朗らかな人間であったが、

こうした条件を満たすのにもっとも重要なことは、カトリックの両親のもと

に生まれることであった。そしてその実例としてシェイクスピアが選ばれて

いたとしてもおかしくはない。だが二人の交流はこれが限界であった。とい

うのもキャンピオンは、アカデミックな神学者であり、真摯な形而上的思索

に向かうのに対して演技者をめざすシェイクスピアの関心のありかは愛と欲

望、善と悪とが渦巻く世俗の生臭い世界であってみれば、ふたりの交流は分

岐する前の稀有な同調の瞬間だったのかもしれない……。(Greenblatt: 108-

109)

 とまだまだ続くグリーンブラットの語りだが、ここに少年ウィルと中年

キャンピオンとの同性愛的関係をみることも不可能ではない。おそらく恋の

手ほどきすら少年は受けているだろう。キャンピオンによれば、理想の生徒

は、詩を読み、自分でも詩を書く才があってよかったのだが、しかし、恋愛

詩だけはご法度だった。しかしそれは恋愛詩が不純な異性愛を歌っていたか

らであり、男どうしの純愛の強度には及ばなかったからとも考えられる。た

だいずれにせよ、シェイクスピアとキャンピオンの関係は、少年と師、若い

才能と中年の雄弁家・扇動者のそれであって、少年ウィルはキャンピオンとの

同性愛関係に導かれたと考えても、さほど不条理な想像とはいえないだろう。

 かくしてシェイクスピアのフォルスタッフをめぐって、あるいはフォルス

タッフの背後に、ふたりの殉教者を見出すことになる。ひとりはサー ・ジョ

ン・オールドキャッスル―原プロテスタントであるロラード派の闘士にし

て殉教者、そしてカトリック側からすれば、ただのならず者(演劇的にもな

らず者か?)。そしていまひとりが、シェイクスピアが実際に会っていたか

もしれないイエズス会士エドマンド・キャンピオン―その逮捕と処刑はイ

ングランドに(またシェイクスピアにも)衝撃をもたらした。シェイクスピ

アは、隠れカトリックであった父をもち、本人もまたおそらくカトリック信

者であった。

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34 大 橋 洋 一

 『ヘンリー四世・第一部』におけるハル王子とサー ・ジョン・オールドキャッ

スルとの関係の背後には、まさに重ね書き(Palimpsest)の下地として、シェ

イクスピアとエンドマンド・キャンピオンとの関係があった―これが私た

ちの賭けである。伝記的事実に関する新説を提出するつもりでも、確定的根

拠を明示するわけではない。実際、キャンピオンとの出会いはなかったかも

しれないのだから。ただハル王子とサー ・ジョン・オールドキャッスルの関

係の原関係としてシェイクスピアとキャンピオンとの関係を想定すると―

もちろんそれはたんなる反映ではなく、フロイト的な夢と現実との関係に似

て、加工と偽装によってなんども修正された重ね書き的関係だが―、そこ

から見えてくるものがあり、ひいてはそれが近代的主体の原基ともなりうる

と考えるからである。

 繰り返しになるが、フォルスタッフ的人物類型は当時の文化史にたしかに

存在するが、その人物に、当時のプロテスタント・イングランドで知る人ぞ

知る英雄的殉教者オールドキャッスルの名を付与することに、材源の影響な

りコバム卿たるブルックス家という限定的標的への揶揄といった要因だけで

はなく、同時に、偶像破壊的な悪意を、それもカトリックからプロテスタン

トに対する悪意をかぎとることはむつかしくない。だが宗教的であれイデオ

ロギー的であれ、揶揄と風刺は完遂できていないどころか、それを超える効

果を生み出すことになった。かりにオールドキャッスルをカトリック的立場

から揶揄するとしても、そこに、つまり中世の昔の伝説的殉教者のなかに、

同時代の殉教者の影が色濃く投影されることになった。

 そのためオールドキャッスルは、一方的な揶揄と嘲笑の対象とはならずに、

カリスマ的魅力を帯びることなり、たとえ最終的には排除・追放されるとし

ても、それまでは王子を、負の政治的世界へと誘う教師あるいは父親的存在

として、あるいは影の国王として舞台に君臨する。だが、そのカリスマ性に

よってかぎりない敬意と崇拝の念を集めるかにみえて、同時に、追放される

べき存在となるこの人物は、最終的にその殉教者性を否定され、タナトス的

欲望からの離脱が試みられるのである。

 プロテスタント殉教者としてのサー ・ジョン・オールドキャッスルが、生

への執着を捨てることができないとき、詐欺師的扇動者として周囲をあざむ

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 35

く人物として暴かれる。おそらくここにはカトリック系もしくはカトリック

に共鳴するシェイクスピアが抱いていたかもしれないプロテスタントの英雄

に対する反感があるのかもしれないが、そうした伝記的仮説を離れれば、こ

の道化は、殉教者オールドキャッスルの名をもつがゆえに、殉教者の偽善性

(名誉を否定しながら、名誉を得ようとする)を暴露され、殉教者にも、あ

るいは殉教者ゆえに強固に際立つ生への執着も暴露されて、タナトスの欲望

が距離化されるのである。

 オールドキャスルは、殉教者の名前をもつがゆえに、そこにシェイクスピ

ア自身とキャンピオンとの遭遇が影をおとしているかもしれない。そこにみ

られるのは少年と中年の導師との(擬似)性的関係であり、この導師は、や

はりそのカリスマ的魅力(演劇的雄弁さと柔軟な論理と執拗な自己正当化)

によって、弟子を圧倒するが、弟子もまた、この導師を乗越えてゆく。シェ

イクスピアがオールドキャスルを通してキャンピオンをみていたか、あるい

はキャンピオンを念頭に置きながら最終的にオールドキャスルという、彼自

身にとっての敵対的象徴をみていたかは、正解のない問題だが、もしオール

ドキャスルだけでなく、キャンピオンもまた、夜の帝王、無秩序に君臨する

君主、無礼講の王として立ち上げられることになったら、カトリックの殉教

者の生き様あるいは死に様もまた最終的に否定されていることになる。おそ

らく強く否定されるのはキャンピオンであり、このかつての導師あるいは父

的存在を殺すことが罪悪感をもたらすものであったがゆえに、キャンピオン

がオールドキャスルへと変容を遂げたのであるなら、つまりこの父殺しは、

シェイクスピアにとって殺しても安全なオールドキャスル殺しとして演出・

組織されたとすれば、ここでもまた殉教者から強く発散される死への誘い、

タナトスの欲望が断ち切られているとみることができる。たとえ、それが愛

惜と悔悟と苦悶をもっての断ち切りであったとしても。

 このシェイクスピアの個人的事情は、近代的主体にとっての、主体確立の

方法をめぐる問いとも連動する。いっぽうで殉教者として死ぬこと―殉教

者は、死を前にして自己証明を許される例外的存在としての犯罪者の裏返し、

あるいはやましさと縁を切り汚名にまみれることのない犯罪者(もちろん敵

方にとっては、ただの犯罪者)だが―は、近代的主体の確立の可能性の中

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36 大 橋 洋 一

心であった。こうした、反社会的犯罪者=反抗的殉教者が社会と主流政治に

対して示す抵抗のサディズムと、みずからの敗北と死をもって完結する主体

確立のマゾヒズムからなるタナトスの欲望に対して生起したものこそ、恐怖

に促された否定の身振りと離反であるともいえる。そして、その次に来るも

の、そのいまひとつの可能性は、すでにそこに実現していたににもかかわら

ず、サー ・ジョン・オールドキャッスルを造型したときのシェイクスピアは

まだ気づいていない。

5. サー ・ジョン・フォルスタッフ

 私たちにとって幸運だったのは、オールドキャッスル・スキャンダルが生

じたことである。『ヘンリー四世』に登場する太った道化的人物に、オール

ドキャッスルの名前が付されていたとき(あるいはそれが歴史上のオールド

キャッスルの再現であったとき)、オールドキャッスルの子孫であるブルッ

クス家(コバム卿)からの批判、あるいはプロテスタント側からの批判があっ

たとき、改名もやむなしとなったとき(何を言っても許されるLicensed Fool

たる役者たちも、限度を超えると不興を買い罰せられる一例であろうか)、

シェイクスピアが選択したのは、かつて『ヘンリー六世・第一部』で登場さ

せていた臆病者・卑怯者のサー・ジョン・ファストルフであった。ランカス

ター家に仕え、ヘンリー五世そして五世なきあとはベッドフォード公に仕え

たファストルフを、ヘンリー五世の友人で反乱者であったオールドキャスル

とまちがえた可能性もないわけではないだろうが、実在のファストルフ(そ

の臆病者説は多分に風説が入っていたとしても)とオールドキャッスルは、

ヘンリー五世の周辺にいた人物という点では同様の存在であったとしても、

そのほかの点では似ても似つかぬ人物であった。

 ただ現在の目からみると、『ヘンリー六世・第一部』のファストルフと『ヘ

ンリー四世』のフォルスタッフ(オールドキャッスル)とは似ているところ

がある。ともに敵前逃亡者であり、自己弁護(それもまた言論上における逃

亡の形態だが)に長けた不名誉な存在であるからだ。おそらく事態は逆であっ

て、シェイクスピアがオールドキャッスルのかわりに『ヘンリー六世・第一

部』に登場したフォスタルフの名を採用したときに、オールドキャッスルの

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 37

属性のなかの特定のものに光があてられることになったのだ。それによって

オールドキャッスルのキャラクターに変化が起こる。いや反転すら起こる。

 殉教者の名にふさわしからぬ生への執着は、欺瞞的人間の愚劣さとして揶

揄の対象となったが、殉教者の名が消えたとき、生への執着は、むしろ、名

誉と死を重んずるタナトスの美学の対極にある生の謳歌へと反転をとげるだ

ろう。もしフォルスタッフの名前の背後にオールドキャッスルを見る者がい

ても、それは問題なく、タナトスの美学への否定を強烈に感じ取ることにな

る。またフォルスタッフFalstaffの名前にはFalse Staff(偽りと欺瞞的な性格)

あるいはFull Staff(肥満体)の含意もあるだろうし、さらにはファストルフ

Fastolfの名称も考慮にいれれば、そこにFast Off(逃げ足の速い)など、逃亡

者・臆病者・卑怯者の含意も加わっているとみることもできる。

 かくしてフォルスタッフが誕生する。サー ・ジョン・オールドキャッスル

からサー ・ジョン・フォルスタッフに変わったとき、変貌をとげたのは名前

だけではない。その性格も変化したのだ。太った殉教者だったこの人物は、

フォルスタッフとなることで、太った人物(大酒のみの大食漢)として生を

強烈に謳歌する人物へと変更をとげる。思わずエロスの聖人とまで命名した

くなるこの人物は、いうなれば真摯な忠誠心と名誉という永遠の生を否定す

るため、聖人とは呼べないだろう。しかし、ここに誕生するのだ、何者とも

呼ばれることなく、あるいは名前のなかに一義的に収奪されることなく、矛

盾することもいとわず、一義的アイデンティティに拘泥せず多義的多様な演

劇的生を目指し、特定の制度なり慣習なりに束縛されることなく逃げ続ける

卑怯者であり、エピキュリアンでありつづけようとする人物が。もしフォル

スタッフの名前の背後にオールドキャッスルを見る者がいても、それは問題

なく、聖人性あるいは聖性から世俗への肯定的逃亡が見えてくるにすぎない。

 おそらくここに近代的主体のいまひとつのありようが、あるいは正確にい

えば、犯罪者=殉教者型アイデンティティを否定する、逃亡的世俗的主体、

いうなれば主体なき主体、根源的一者なり起源に拘束されない融通無碍で演

技的・遊戯的主体、くりかえせば主体ならざる主体への展望が、可能性の中

心として、成立したのではないか。フォルスタッフの誕生を、オールドキャッ

スルの消去とともに、あるいはオールドキャッスルの痕跡とともにみるとき、

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38 大 橋 洋 一

近代的主体の誕生を、双子の誕生物語として語る可能性がみえてくる。つま

り、いっぽうが強烈なタナトスの主体として成立したとすれば、いまいっぽ

うは、それに寄り添いながらも、限りなく逃亡する主体ならざるプロテウス

的演技的主体として成立したのである。アイデンティティの確立と脱アイデ

ンティティの確立。

 フォルスタッフ/オールドキャッスルは、『ヘンリー四世・第一部』の終わ

りのほうの、有名な「名誉」をめぐる台詞のなかで、こう述べている―’Tis not due yet; I would be loath to pay him before his day.(5.2.127-28)

「まだしかるべき時ではない。彼が定めた日以前に彼に借りを返すの

はいやだ」

 ここでいう「彼」とは神のことである。神が定めた運命の寿命を全うする

のを待たず、死にいそぐことはごめんだと述べているのだが、これがオール

ドキャッスルの台詞なら、殉教者にあるまじき生への執着として殉教者の欺

瞞性に対する批判的視点を導入することになるだろう。だがこれはフォルス

タッフの台詞であり、それは死に急ぐことのない生への直裁的な執着として、

たとえ不名誉であっても、息にすぎない言葉でしかない「名誉」など歯牙に

もかけないフォルスタッフの高らかな臆病者・快楽主義者宣言であろう。ま

だしかるべきときではない。たとえ死すべき運命から逃れることはできない

としても、それまでは逃げ続ける。いや、これは、しかるべき時を、遠く先

延ばし地平の彼方に追いやることで成立する脱タナトス的姿勢の立ち上げそ

のものでもあった。私たちは、それにフォルスタッフの誕生という名称を付

与しているのである。

1 『ヘンリー六世・三部作』新国立劇場・中劇場 10月27日(火)~ 11月23日(水)。作:ウィリアム・シェイクスピア、翻訳:小田島雄志、演出:鵜山仁、第一部 百年戦争、第二部 敗北と混乱、第三部 薔薇戦争。

2 以下、シェイクスピアの原文からの引用はすべて、The Oxford Shakespeare

(Oxford World’s Classics)に拠るが、『ヘンリー六世・第一部』Henry VI, Part Oneに

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 39

おける‘Puzzel or puchell, dolphin or dogfish’は、以下、訳文をそのまま使わせていただいた小田島雄志版(白水社Uブックス)とは場面分割が異なり、第1幕第5場85行となる(なお以下これを1.5.85の形式で表記する)。

3 詳細な情報ならびに原文は、Bevington(1987, 1994) p.6参照。 4 なお小田島版では「フォールスタッフ」と表記しているが、The Oxfrod

Shakespeare版ではFastolfと表記している。シェイクスピアの全集First Folio(1623)

所収の『ヘンリー六世・第一部』においてはFalstaffと表記されているが、実在して年代記にも記載のある人物はFastolfであり、まぎらわしいのでオックスフォード版ではFastolfに表記を統一するとの説明がある(Taylor(2003:93))。

5 以下の記述は百科事典あるいはウェブ・サイトなどから得た情報を取捨選択して単純化して整理したもので、新説を提示するものでもなければ学術的に遺漏のないものを目指しているわけではない。ファストルフに関する文献としてはCooper(2010)が最新のものだが、これは一般向け読み物であって過去の研究調査や情報を提供してくれるものの、学術的文献ではない。

6 とりわけ参考にしたのがCorbin & Sedge(1991: 2-6)である。なお本稿では年月日はすべて十八世紀にイングランドがグレゴリオ暦を採用する以前の旧暦をそのまま使っている。

7 こうした文献の全文ないし抜粋はCorbin &Sedge(1991)の付録参照。Foxeについてはネット上で、豊富な挿画とともに全文公開されている。Weeverに関してはHonigman(1989)を参照。そこにもThe Mirrors of Martyrsが収録されている。

8 なおオールドキャッスルの子孫であるコバム卿ブルックス家との確執は、『ウィンザーの陽気な女房たち』においてもつづいており、詳述は避けるが、Brooksの名前を揶揄した結果、変更を余儀なくされた台詞のあることが指摘されている。

9 Sir John Oldcastle, Part 1の現行版はいくつかあるが、Corbin & Sedge(1991)に収録されたものが便利で読みやすい。引用もCorbin & Sedge (1991: 40)より。この劇は、ヘンリー五世の友人たるオールドキャッスルが、悪意ある教皇勢力によって反乱者に仕立て上げられ糾弾され命すら狙われるが、逃亡し、再起を待つところで終わる。続編のPart 2は存在せず、失われたか、書かれなかった。

10 以下の記述に関する詳細はBevington(1987,97:7-9)を参照のこと。11 この劇もCorbin & Sedge(1991)に収録されている。シェイクスピアの『ヘンリー四世』から『ヘンリー五世』の材源のひとつとして重視されている作品だが、内容と形式は、シェイクスピア劇のダイジェスト版かと思われるものになっている。ヘンリー王太子につき従うオールドキャッスルたちが盗賊をはたらくエピソードが『ヘンリー四世・第一部』と関係する。

12 こうした焚刑図のもつ宗教的ならびに演劇的意味については、Diel(1997)を一部参考にしているが、ここでの議論と同じではない。なお殉教とアイデンティティあるいは主体については、ここではまだ思索の端緒に立ったにすぎないが、神学

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と思想史の見地からの殉教とアイデンティティの関係を考察した俊英の著作にJensen(2010)があり、チャールズ・テイラーの議論と殉教問題とを接続する示唆的考察を展開している。殉教という重要な大問題には安易に接触することはできないが、個々の文化的実例の考察を試みることは、それが脚注的考察にすぎないとしても、別の分野への界面を形成することになれば、つまり殉教の近代とシェイクスピアとの接触が実現すれば、地平の拡大につながることが期待できるはずである。

13 キャンピオンに関する記述は、カトリック関連の文献においては専門的なものから啓蒙的なものまで幅広く見出すことができる。以下の記述は、そうしたものの情報を整理したすぎない。なおキャンピオンの伝記にはイヴリン・ウォーのそれがある(Waugh(1935))。日本語の翻訳もあるこの伝記は、カトリック作家のウォーの面目躍如というべきか、記述がきわめて偏向的で、たとえ虚偽を書いてはいないとしても、事実の選択が、あきれるほど恣意的で、プロテスタントならずとも、その内容に対しては疑念と不快感を抱かざるをえないだろう。グリーンブラットは、そのシェイクスピアの伝記のなかでウォーのこの文献に触れ‘eloquent and highly partisan’(Greenblatt, 398)と語っている。

14 Lost Yearsに関して、ランカシャー滞在説を強く主張していたのがHonigman(1985)であり、Greenblatt(2004)の伝記も、シェイクスピア=カトリック説とランカシャー滞在説を重要な可能性のひとつとして採用している。シェイクスクスピアをラディカルなカトリックとみるものにWilson(2004)がある。また次の論集も参照のこと。Dutton et. al. (eds) (2004a); Dutton et. al. (eds) (2004b)

15 ジョン・コタムについてはHonigman (1985) に詳しい記述と議論がる(40-50 et

passim.)。16 なおシェイクスピアとエドマンド・キャンピオンとの出会いを重視するグリーンブラットだが、オールドキャッスル/フォルスタッフのなかにキャンピオンの影をみて、そこから議論をすることについてはグリーンブラットの影響は受けていない。グリーンブラットはフォルスタッフのなかに、シェイクスピアよりも前の時代の大学才人のひとりで、シェイクスピアを成り上がり者のカラスと呼んだロバート・グリーンの影をみている(Greenblatt: 227-255)。

参考文献

Bevington, David (ed) (1987) Henry IV Part One, The Oxford Shakespeare, Oxford World

Classics, Oxford: Oxford University Press.Cooper, Stephen (2010) The Real Falstaff: Sir John Fastolf and the Hundred Years War,

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フォルスタッフの誕生―シェイクスピア歴史劇と殉教の文化― 41

Barnsley, South Yorkshire: Pen & Sword Military.Corbin, Peter & Sedge, Douglas (eds) The Oldcastle Controversy: Sir John Oldcastle. Part

1 & The Famous Victory of Henry V, The Revels Plays Companion Library, Manchester: Manchester U. P., 1991.

Diel, Huston(1997) Staging Reform, Performing the Stage: Protestant and Popular Theater in Early Modern England, Ithaca: Cornell U. P.

Dutton, Richard, Findlay, Alison, and Wilson, Richard (eds) (2004a) Region, Religion and Patronage: Lancastrian Shakespeare, Manchester: Manchester U.P.

Dutton, Richard, Findlay, Alison, and Wilson, Richard (eds) (2004b) Theatre and Religion: Lancastrian Shakespeare, Manchester: Manchester U.P.

Greenblatt, Stephen (2004)Will in the World: How Shakespeare Became Shakespeare, London: Jonathan Cape.

Honigman, E.A. J.(1985) Shakespeare: The ‘Lost’ Years, Manchester: Manchester U.P.________ (1989) John Weever, The Revels Plays Companion Library, Manchester:

Manchester U. P.Jensen, Michael (2010) Martyrdom and Identity: The Self on Trial, T&T Clark.Taylor, Michael (ed) (2003) Henry VI, Part One, The Oxford Shakespeare, Oxford World’s

Classics, Oxford: Oxford University Press.Waugh, Evelyn (1935) Edmund Campion, rpt. in Evelyn Waugh, Two Lives: Edmund

Campion- Ronald Knox, London: Continuum, 2005.Weis, René (ed) (1997) Henry IV, Part Two, The Oxford Shakespeare, Oxford World’s

Classics, Oxford: Oxford University Press.Wilson, Robert (2004) Secret Shakespeare: Studies in Theatre, Religion and Resistance,

Manchester: Manchester U. Pr. .シェイクスピア『ヘンリー六世・第一部』小田島雄志訳(白水社uブックス, 1983)。

The Birth of Falstaff:The Culture of Martyrdom in Shakespeare’s Histories

Yoichi OHASHI

Keywords: Shakespeare, John Fastolf, John Oldcaste, John Falstaff, Martyrdom