ドラクロワとショパンの 作品構造に見られる古典的...

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ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性 ドラクロワ 作品構造に見ら はじめに ドラクロワの絵画を語る際、常に音楽との関わりが指摘 それは主として「絵画で情感を描く」ということが既に情感 達成している音楽と重ね合わされ、その領域を共有しようとする のである。何故ドラクロワの絵画が異なるジャンルである音楽に接 近しようとするのかということは、「絵画でも音楽同様の情感が描 ける」と述べたスタール夫人の「コリンヌ』を源泉とした影響があ るが、それ以上にドラクロワがその主張を新古典主義を超克するた めの有力な手段としたからである。このことはドラクロワにとって 伝統の継承と同時に新しい絵画創造の模索という問題に直面させ た。情感という眼に見えないものをいかにして具体的な個物を通し て表現するかという問題は、必然的に彼を色彩や形態など従来の伝 統的手法の変容に立ち向かわせた。このことは生涯にわたるドラク j A ロワの膨大な記述から読み取れる。絵画と音楽 象として扱うドラクロワは音楽との共通点、相違点を 中から自らの新しい絵画創造の手掛かりと方法を獲得し ある。 51 この点に関して従来のドラクロワ研究では常に音楽との関連が語 られるものの、作品と関わる具体性に欠ける。例えばパルテレミ ー・ジヨベ l ルは「音楽は彼の絵画理論と美学的思考双方の本質的 な部分を占め、ドラクロワの作品生成に大きな役割を占めている」 と言い、ルネ・ユイグは「ドラクロワは絵画というよりシンフォニ ーを創造しようとした」という文節で語る。また展覧会図録 baR3R athhst MMah ミ宮内には音楽と関わる論文が収録さ れている。しかし、どちらにおいてもドラクロワの作品にどのよう な音楽が反映され、どのような音楽の要素が絵画理論と関わって作 品創造へと至ったのか、またそこにどのような音楽家からの影響が

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ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

ドラクロワとショパンの

作品構造に見られる古典的志向の類似性

はじめに

ドラクロワの絵画を語る際、常に音楽との関わりが指摘される。

それは主として「絵画で情感を描く」ということが既に情感表現を

達成している音楽と重ね合わされ、その領域を共有しようとするも

のである。何故ドラクロワの絵画が異なるジャンルである音楽に接

近しようとするのかということは、「絵画でも音楽同様の情感が描

ける」と述べたスタール夫人の「コリンヌ』を源泉とした影響があ

るが、それ以上にドラクロワがその主張を新古典主義を超克するた

めの有力な手段としたからである。このことはドラクロワにとって

伝統の継承と同時に新しい絵画創造の模索という問題に直面させ

た。情感という眼に見えないものをいかにして具体的な個物を通し

て表現するかという問題は、必然的に彼を色彩や形態など従来の伝

統的手法の変容に立ち向かわせた。このことは生涯にわたるドラク

j可

A 口

ロワの膨大な記述から読み取れる。絵画と音楽を極めて近接した対

象として扱うドラクロワは音楽との共通点、相違点を考察して行く

中から自らの新しい絵画創造の手掛かりと方法を獲得して行くので

ある。

51

この点に関して従来のドラクロワ研究では常に音楽との関連が語

られるものの、作品と関わる具体性に欠ける。例えばパルテレミ

ー・ジヨベ

lルは「音楽は彼の絵画理論と美学的思考双方の本質的

な部分を占め、ドラクロワの作品生成に大きな役割を占めている」

と言い、ルネ・ユイグは「ドラクロワは絵画というよりシンフォニ

ーを創造しようとした」という文節で語る。また展覧会図録

baR3R凶

athhstミMMahミ宮内には音楽と関わる論文が収録さ

れている。しかし、どちらにおいてもドラクロワの作品にどのよう

な音楽が反映され、どのような音楽の要素が絵画理論と関わって作

品創造へと至ったのか、またそこにどのような音楽家からの影響が

喜術研究第19号 2006

あったのかという点に関して具体的に述べられてはいない。そのよ

うな中でカレン・ジョン・ロ

1レルの学位論文はベルリオlズの

〈幻想交響曲〉とドラクロワの〈サルダナパ

lルの死〉について音

楽と絵画における色彩の共通性という観点から作品分析に踏み込ん

で考察しているが、恋意的であり実証性に欠ける。

このような研究動向からドラクロワの画業のスタートと時を同じ

くして隆盛したパリの突出したオペラ状況との関わりゃ、

一八三六

年から始まる音楽家ショパンとの交流、また一人四五年以降、ドラ

クロワの色彩と音楽とを対時させたボlドレlルの際立った美術批

評との関連などは今後の課題として検討されねばならないと思う。

そのような考察の一環として本論ではドラクロワ

(回ロ

mw口。

UO】釦の

gwH4C∞ム∞∞ω)とショパン

(司見山内回向山江口のF。同】片岡

H

H

∞H0

・]EAFC)

の交流に焦点を当て、ショパンの芸術がどのような点でドラクロワ

の作品創造と関わるものなのかを考察する。多くのドラクロワ研究

でも必ず両者の関係は重要として語られる。しかし、それは殆んど

エピソードの域を越えるものではなく、まして具体的な作品を通し

ての考察は殆んどなされていない。しかし、ドラクロワのショパン

に対する尊敬は同時代の芸術家としてはひときわ際立っているもの

であり、またドラクロワが常に絵画と音楽をその境界を超えてパラ

レルに捉える傾向からみても、ここには単なる友情だけでは捉えら

れない両者の芸術に対する本質的基盤と関わるものがあったと推測

される。

この点を踏まえて本論では第一に両者の芸術に共通して見られる

「ロマン主義に内在する古典的志向」という側面から多様性をまと

める多層的な統一構造とその上で展開される草新性について作品分

析をする。取上げる作品はドラクロワの〈十字軍のコンスタンチノ

ープル入城〉

(一八三人|四

O)とショパンの〈但の前奏曲集〉

(一八三人|三九)

である。第二にそこで導き出された結論はシヨ

パンと関わることによってドラクロワの新古典主義批判の根拠とな

ったことを検証する。そして、ドラクロワにとってショパンは自ら

の草新的な絵画創造を肯定する存在であり、同時に新古典主義を超

克する根拠を提示し得た重要な存在であったことを結論とする。

52

-《十字軍のコンスタンチノlプル入城》

二八三八|四

O)とシ

ヨパンの《剖の前奏曲集》

(一八三八|三九)

の作品概要

ドラクロワの〈十字軍のコンスタンチノlプル入城〉

(図1)と

ショパンの〈但の前奏曲集〉を取上げた理由は、第一に前者は

八三人|三九年、後者は一八三人|四

O年にかけて制作されており、

どちらの作品もほぼ同じ時期に完成されていること、第二に両作品

は共にそれまでの作品の集大成としての意義を有すると同時に、続

く円熟期の作品へと移行する重要な作品であること、第三にこの時

ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

図 1 ウージェーヌ・ドラクロワ

〈十字軍のコンスタンチノープル入城)1840年

410X498cm ルーブル美術館

期を境として二人の交流が急速に親密度を増していくため、そこに

れるからである。

は互いの芸術への相互理解、共有する芸術観が認められると推測さ

〈十字軍のコンスタンチノlプル入城〉はドラクロワにとって一

主題の選択、

八二

0年代の模索と一八三

0年代のモロッコ旅行での体験を経て、

フオルムの形成、色彩や筆触の効果など様々な絵画に

おける情感表現の手段をスケールの大きい「歴史画」に盛り込んだ

畢寛の大作である。それゆえ〈十字軍のコンスタンチノ

lプル入

城〉はそれまでのドラクロワの芸術観(一八二

O

三0年代)を集

大成し、続く一八四O年以降の作品への方向性を示唆する重要な作

品である。

ショパンの〈自の前奏曲集〉もまた、

一人三

0年代に開拓してき

たエチュード的音響、

マズルカ的民族語法、

ノクターン的情趣など

の様々な実験を総集した作品である。そしてこの作品に盛り込まれ

た基本モチーフによる多様性の統一という成果の発展は一八四O年

以降のより複雑で大規模な作品を生み出す契機となった重要な作品

である。

一八四O年はまた両者にとって創作の転機となった年であった。

53

ドラクロワはこの年〈十字軍のコンスタンチノlプル入城〉を完成

させているが、この作品に着手した一人三八年を境として、それ以

前の作品とを比較してみるとその作風の変化は明らかである。例え

ば国家から依頼され、中世を舞台とした戦闘を描いた同主題の〈タ

ーユブルの闘い〉

(一八三七)(図2)にみられる混沌はここでは

みられない。また、

)¥.

一八三八年に描かれた〈クレオパトラ〉

(一八三八)(図4)など古典的

三人)(図3)

〈怒れるメディア〉

主題への志向がこの時期から顕著になる。この傾向は初年代の作品

にも続き、ドラクロワは積極的にラファエロやロッソ・フイオレン

ティ

lノやル

1ペンスなど過去の巨匠の作品を下敷きにした宗教的

事術研究第19号 2006

図2 ウージェーヌ・ドラクロ

〈ターユブルの闘い)1837年

485X555cm ヴェルサイユ美術館

主題を取上げるようになる。このように一八三人年から顕著になる

古典的主題を持つ作品は一八四O年の〈十字軍のコンスタンチノl

プル入城〉の完成を経て大きく変化するのである。それは色彩表現

やスケッチ風の仕上げ、細部を陵地休なままに残すなどの手法の変化

クルマン教会から依頼された壁画装飾〈ラマンタシオン〉

であり、この顕著な例は一八四

O年にサン・ドニ・デュ・サン・サ

(一八四

一四四)

(図5)に認められる。同様に一人四

O年に国家から依

図3 ウージェーヌ・ドラクロワ

〈クレオパトラ)1838年

98X122.7cm アークランド・メモリアル・センター

54

頼されたリユクサンブlル宮天井画(一八四一|四五)もまた著し

い色彩の変化がみられるものである。当時ドラクロワは鮮明な色彩

反照をつくる為に、新たに絵の具を増やして彼独自の色彩を開発し

ていた。ドラクロワはこれらの壁画装飾について従来のフレスコ技

法を使わず、油彩にワックスを混ぜ漆喰という支持体に使用すると

いう彼独自の技法を使っている。これはドラクロワが開発した油彩

における輝かしい色彩反照を損なわずして壁画にも保持することを

ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

目指したものと捉えられる。そこに〈十字軍のコンスタンチノlプ

ル入城〉でなされた成果が盛り込まれていることは明瞭である。

ショパンにとっても一八四

O年は創作の転機となった年であっ

た。

〈Mの前奏曲集〉が完成された一八三九年以前、小曲、中規模

集〉第1巻(一八二九|一三一)第2巻(一八三

Oi三回)、

の曲ばかりを手がけていたショパンはこの年を境に大規模な構成を

もつ作品を作曲するようになる。それはこの曲集で試みられた統一

図 4 ウージェーヌ・ドラク口ワ

〈怒れるメディア)1838年

260X165cm リール美術館

図5 ウージェーヌ・ドラク口ワ

〈ラマンタシオン)1844年

サン・ドニ・デュ・サン・サクルマン教会

55

355X475cm

的技法を更に発展、展開することで〈ソナタ第2番〉

(一八三九)、

ルツオ〉第1番(一八三一

i一二二)、第2番(一八三七)、第3番

〈スケ

続く〈ファンタジー〉

(一八四三)

(一八三人|一一一九)などで表現された烈しいパトス的表現は〈出の

前奏曲集〉の直後に作曲された〈ソナタ第2番〉

(一八四

O)

〈ソナタ第3番〉

〈幻想ポロネーズ〉

(一八四六)などの複雑な構成をもっ作品を生

、っ多楽章形式をもっ構造の中に集約され、

(一八三九)とい

み出して行った。また、

一八三九年以前に作曲された〈エチュード

られた荒々しい作風はみられなくなる。そして一八四O年以降の作

一八四O年以後単品でみ

事術研究第19号 2006

品にみられる特徴は何と言つでもソナタ形式という重厚な構造をも

った作品に重点がおかれていることである。

これらのことからも、今回取上げる両作品のもつ重要性と共にこ

の時期に始まる古典的志向や新しい技法の開拓という共通した傾向

がわかるだろう。そしてこの時期を端緒に始まる二人の親交が時を

同じくして、その後の充実した創作へと発展していったことを考え

合わせると、そこには双方の芸術に対する何らかの相互交流が起こ

っていたと考えられる。

Eドラク口ワのショパン評価

次にこの両作品が制作された一八三八年から一八四

O年という時

期の両者の関係を見て行きたい。

一八三六年に知り合った二人の親

交はこの時期、急速に親密度を増していた。

一人三八年夏、ドラク

ロワは自らのアトリエにピアノを運ばせ、「ピアノを弾くショパン

と傍らで聴くジヨルジュ・サンド」というこ人の肖像画を彼らが十

月マジヨルカ島に出発する直前まで描いていた。(図6)

(図7)

(図8)

一方ショパンは〈Mの前奏曲集〉を

一八三人|一一一九年にか

けてジヨルジュ・サンドと出かけた冬のマジヨルカ島で完成させて

おり、パリにいる時分その大半は仕上がっていたことを考え合わせ

ると、この時期ドラクロワはこの作品の構想を既に知っていたと推

主る

図6 ウージェーヌ・ドラクロワ

〈ジョルジュ・サンドとショパン) (スケッチ)1838年

12.6X57cm ルーブル美術館

56

ロワの〈十字軍・のコンスタンチノ

lプル入城〉は

測される。また、同年一八三八年四月に国家から依頼されたドラク

一八三八四O

年にかけて制作されているので当然ショパンも日にしていたはずで

ある。この間、

一八三九年にマジヨルカ島からノアンを経て十月パ

た リに戻ったショパンはドラクロワとますますその親交を深めていっ

事実ドラクロワとショパンは一人四二年、四三年、四六年とジヨ

ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

図7 ウージェーヌ・ドラクロワ

〈ジョルジュ・サンド像}1838年

79X57cm オードロップゴ一美術館

ウージェーヌ・ドラクロワ

〈ショパン像}1838年

45.7X37.5cm ルーブル美術館

図8

図9 ウージェーヌ・ドラクロワ

〈ダンテと偉大な聖人たち}1841-45年

680cm diameter ルクサンブール宮殿天井函

57

ドラクロワはショパンについて絶大な称賛の言葉を残している。

ルジュ・サンドの領地ノアンに滞在して共に制作しており、この頃

「僕は大好きな彼と膝をつきあわせて際限なく話したJ

彼は稀に

みる傑出した人物、私が出会った中で最高の芸術家、称賛に値し高

い価値をもっ数少ない一人」(一八四二・六・二一一)と絶賛してい

る。ショパンもドラクロワについて「彼は考えられる限り最も称賛

される芸術家」と(一人四六・一

0・三

O)と述べ、二人が互いに

事術研究第19号 2006

部分図10

唖E

図11 ウージェーヌ・ドラクロワ

〈ダンテとしてのショパン) (スケッチ)1843-46?年

27.1X21.1cm ルーブル美術館

58

しく弾いてくれた。それは美学に匹敵するものだった。」(一八四

六・八・一九)と書いている。また、ドラクロワは当時から自身の

創作上の問題であったスケッチと仕上げの問題(切号ど吉宮古ミ

尊敬し合っていたことがわかる。また、被らが様々な芸術上の問題

同定可~問、日ミ)を、ショパンの即興にみられる大胆さと完成作との関

係に置き換えて考察している(一八五三・四・二

O)。

を語っていたことも記されている。ショパンは「ドラクロワと二時

更に、

一八四一年から始められたリュクサンブlル宮天井画の図

(図9)

像プログラムをドラクロワは、

間半も音楽と絵画について語り合った」(一入四四・九・二一二)と

〈ダンテと偉大な聖人たち〉

(図叩)としているが、それは

書き、ドラクロワも「ショパンは私のためにベートーヴェンを神々

『神出」

の中の「ウエルギリウスに

ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

図12 ウージェーヌ・ドラクロワ

〈ダンテの小舟)1822年

189X246cm ルーブル美術館

導かれるダンテ」という場面である。ドラクロワはその最も中心人

物、ダンテにショパンを模しているのである。(図日)ドラクロワ

作である〈ダンテの小舟〉

にとってダンテがとりわけ重要な人物であったことは彼のデビュー

(図ロ)からしでも明らかであろう。こ

の作品は既に描かれた「ウェルギリウスに導かれるダンテ」が再度

選択されているが、ここでダンテはウエルギリウスに導かれて地獄

を渡るのではなく、導かれて晴れやかにホメロスに出会うという場

面に置き換えられている。ダンテはフランスでは独創的な孤高の詩

人として、

ロマン主義的な芸術家としてシェークスピア同様の評価

を与えられていた人物である。またドラクロワが影響を受けたスタ

ール夫人の『コリンヌ』においては「ホメロスの再来」とまで言わ

れているのである。また、音楽にも造詣の深かったドラクロワはモ

ーツアルトを最高の音楽家として位置付け、古典主義のラシ

lヌと

同等の地位を与えており、「ショパンはショパン自身であるという

よりまるでモーツァルトのようだ」として高い評価を下している。

このようにドラクロワにとって過去の芸術家ではなく、同時代の

芸術家に対して向けられたこれほどの称賛を勝ち得たのが何故シヨ

59

パンだったのか、この点も踏まえて実際に作品を分析していきたい。

直《却の前奏曲集》

〈Mの前奏曲集〉の構成の特色はハ長調に始まる別種類の長・短

調全てを使った

M曲が連続して連なる作品集という形をとってお

り、各曲はそれぞれ短い小品ばかりである。また各曲はそれぞれが

一つのパターンを核として、

いくつかの転調を繰り返すだけで終了

するという極めてシンプルなつくりとなっている。このような意味

ではいわばワンショット風な小品が自由連鎖していると言える。し

喜術研究第19号 2006

かし、そのような共通するシンプルなつくりを持ちながら、

M曲そ

れぞれの内容は極めて多彩である。ここでは作曲の基本素材となる

調性、速度指示、表現記号、拍子、基本パターンなどは実に多彩で

どれ一つとして同じものはない。これらの音素材はばらばらに撒き

散らされた後、全体的構成に従い、

M曲の推移に合わせて組み合わ

されていると捉えられる。またその各曲の曲想の多彩さはそれぞれ

が内包する情感の表出にも及んでいる。長調と短調が交代して現れ

ることによる陰影、濃淡ともとれる変化を伴いながら、作品全体を

通じての印象は、曲集が後半に向かうにつれて次第に烈しい曲、や

や長い曲が現れ、最後には大変烈しい曲で終了するクライマックス

が待ち構えている。そしてこの

M曲は以下に述べるような堅固な音

楽構造の中に組み込まれている。

この「前奏曲」という名称と担調全てを使用するというスタイル

がバッハの〈平均律クラヴィア曲集〉を踏襲していることは周知の

事実である。しかし、両者が異なる点は、バッハの場合の調性プロ

グラムが半音階順であるのに対して、ショパンの場合は5度圏をめ

ぐる順番となっていることである。(資料1)そのため同じ担調を

使用するにしても、第1番はハ長調に始まり、第2番はその平行調

であるイ短調、第3番は属調に当たるト長調というように長調、短

調が交代して現れる。またバッハと違い、ショパンの場合は近親調

で移行するため、

M曲全体を巨視的にみればバッハの場合より各曲

ははるかに調性的なつながりをもって緊密に移行していると言えよ

ぅ。そのように5度固を巡りながら一巡し、第担番はニ短調として

ハ長調に繋がる円環構造となっている。

しかもショパンは

M曲をまとめるための統一要素を全曲にもりこ

んでいるのである。(資料2として

M曲の一部を掲載する)ここに

は6度上行2度下行という音程差を持つ

Xそれらを含む6度上行3

度下行Yという基本モチーフ

(gSFins--)が全ての作品に見ら

れ、それは転回形であったりする。

つまり全ての曲はこのシンプル

なモチーフから作られていることになり、逆にき守えばこれほど多彩

なM曲は全て同じ成分から成り立っていることになる。このように

この曲集は一方では

M曲という大量の曲を統一するための統一要素

60

が張り巡らされ、更にそれは堅固な構造にはめこまれることで、多

層的、二重とも言える統一構造がつくられていることになる。

つま

り、このような構造を構築すればどれほど多様なものを持ち込んで

も混乱することなく全体的統一は図れるわけである。

〈Mの前奏曲集〉でショパンはこのような堅固な構造を土台とし

ながら実験的手法を駆使している。当時の最新の楽器としてのピア

ノの特質を生かした音響性の開拓、聴覚的刺激の問題、斬新な和声、

スラプ的リズムや音階の導入などの要素が近代音楽の指標を示す先

駆であることも重要であろう。

〈Mの前奏曲集〉はバッハを踏襲し

ながらもきわめて前衛的な作品に仕上げられているのである。

ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

(資料 1)

(資料 2)

~

1.C

E. A

Fis

F.ショパン f前奏歯集Jop.28

C Cis 0 Dis藍 F Fis GAaABH

1. 3. 5. 7. 9. 11. 13. 15. 17. 19. 21. 23

J.Sバッハ『平均律ヲラヴィーア幽集第 1巻j

u.ミヒェレス編 角倉一朗監修『図解音楽事典J白水社 1989 p.140

事急通. 務

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61

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62

喜術研究第19号 2006

ーーーーー~Y(E rnin.)

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ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

① Molto agitato =x

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X (Dmin.) Y 「一ーーー一一ー』ー-------,①

昨摩陸一

Jim Samson, ed, ChopIn Studies, Cambridge,1988, pp.186-193

Jean-Jacques Eigeldinger, Twenty-four Preludes op.28: genre, structure, significance

63

事術研究第19号 2006

ν《十字軍のコンスタンチノ

lプル入城》

この作品はヴエルサイユ宮「王のパヴイオン」を飾るために国家

から依頼されたもので歴代のフランスの戦勝を描くというモニユメ

ンタルな性格を持っている。キリスト教徒の聖地を奪回するために

勇敢に赴く十字軍の騎士たちは壮大、なおかつヒロイックな感情を

有して歴史画の主題として十分である。この作品は一二

O四年第四

回十字軍・の史実に基づいて描かれている。しかしこの作品は史実を

描くという目的に反して、描かれた続士たちの素性は先頭の騎士が

ブランドル伯ボlドワン四世、後方の騎士にヴエネツィア総督ダン

ドロは認められるがそれ以外は特定できず不明である。それ以上に

この作品には当時のオペラなどにみられるオリエントを舞台とした

ファンタジックな演劇的性格が反映され、従来の歴史画とは異なる

様相を呈している。これらの匿名性の高いこと、演劇的性格は当時

から指摘されていた。

画面構成は中央の騎士を中心にした大三角形が置かれ、上下は上

方の水平線、前景の建造物の床のラインとで水平的にほぼ三等分に

分割される。また左右はやはり大三角形を中心として左方の円柱、

騎士たちの持つ槍によって、垂直的に同じくほぼ三等分される。

(図日)このような三角形を中心とした上下、左右対称の水平、垂

〈十字軍のコンスタンチノープル入城〉

構図

64

図13

直分割による明解で堅固な構造の先例は古典主義のプツサンやルネ

サンス期の作品に容易に看取できるものである。(図H).(図日)

このような構図上の堅固さを構築しつつ、画面の細部はショパン

のそれと同様、多様であり個々の部分はきわめて個性的である。例

えば中央に描かれた馬上の一群の騎士たちは、先頭の騎士を除いて

密集して描かれており、各続士たちの動作と馬との関連は明瞭さを

ドラク口ワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

プッサン〈聖家族)1648年図14

堅固な構造に収められることによって乱雑になることを免れてい

欠いている。またクローズ・アップされた先頭の騎士の馬は奇妙に

伸びた首を持っていて、その形態はデフォルメされている。また函

面は下方へ行くにつれて次第に烈しさを増し、人物、馬などは動勢

同時にこの作品でドラクロワは異なる要素でも画面全体を統一し

ている。それは青とオレンジという補色の使用である。この色彩照

を伴った流動的フオルムや筆触の烈しさの中に組みこまれているか

のようである。これらの不明療さ、圧縮性、解剖学的不自然さ、筆

応は画面全体を被い、それは主題や構図、個々の対象とは関わりな

く、別次元で働く極めて主観的なものである。例えば青は遠景の空、

触の烈しさについては当時の批評家たちから非難されたものであっ

た。しかし、このようなドラクロワ特有の個性的な要素も画面上の

海から中景の騎士たちの軍旗、兜、鎧の模様へ、更に前景の人物た

図15 フラ・バルトロメオ

〈聖母マリア)1512年

65

事術研究第19号 2006

、海j

アクセサリーなどに配置されている。

マント、馬、前景の人物たちの衣

ちの衣服、

ジは円柱の模様、続士たちの鎧、

jど、"ぷゼ句"

予‘'‘宅岳、ぞきc/ぷァ

1" /... _'/ '申4:-<ふ~.-"n州、

・4

図16(註18) ウージェーヌ・ドラクロワ

〈三角形の色彩対照)1834年 コンデ美術館

またこの荒々しい色彩反照を使用すること

で、ドラクロワが絵画に情感や感覚的雰囲気

の表出を盛り込もうとしたことは容易に推測

できる。また背景になだらかな風景を配する

たきこ。と

も当時の歴史画では斬新なものであてコ

このようにドラクロワにおいては多様なフ

オルム、揺れ動く筆触の流動的な曲線などの

烈しさは堅固な構造の中に収められ、同時に

色彩の相互関係による論理によっていかなる

強烈な素材を持ち込もうとも画面全体は統

66

が図られる構造となっている。しかもショパ

一方補色のオレン

覚的表現や視覚効果の創出において近代絵画へと移行する先駆とな

ン同様、その内実は実験的な手法、色彩の感

っていることである。

服、アクセサリーなどに配置され、各細部にこの補色の反照が見ら

V

ベルリオlズ批判

れる。その個別の反照はトータルして函面全体を反照するものにま

で拡大されている。ドラクロワがショパンの〈Mの前奏曲集〉に見

このような作品構造をみれば、ドラクロワとショパンの作品制作

つまり全体的

たであろう個々の多様性を統一する論理構造とバッハを先例とした

への基本的アプローチは殆ど同じと言えるであろう。

堅固な音楽構造とがここで比較される。ショパンの作品の特色と同

には明解で堅田な構造という枠組みをつくり、個別にも統一的要素

等のものがドラクロワのこの作品の中に見出されると考えられる。

を張り巡らせることで、多層的、二重ともいえる統一構造をつくっ

ていること。しかもそのような構造を土台としながらその上に展開

される要素は極めて多彩、独創的、前衛的革新性をもっていること

である。

では、このような制作への基本姿勢はドラクロワにとってどのよ

うな意味を持っているのだろう。このことを同時代の作曲家ベルリ

オlズに対するドラクロワの烈しい批判を今一度検証することで明

ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

らかにしたい。

ベルリオlズはドラクロワと同時代の作曲家で、

一八三

O年〈幻

想交響曲〉を作曲したことで一躍ロマン主義音楽家としての名戸を

得たことで知られている。その悪魔的な内容や、パイロンの〈サル

ダナパ

1ル〉、シェークスピアの〈ロミオとジュリエット〉やゲl

テの〈ファウスト〉を作曲していることで同主題の作品を描いてい

(却)

るドラクロワとの関連が指摘されるのであるが、現実的にはそれと

矛盾するようにドラクロワの『日記』に見られるベルリオlズは常

に痛烈な批判の対象となっている。その最大の批判は「統一がない」

というものである。「(彼らは)よいものを創ろう、人と違うものを

創ろう、

つまり変革しようとするあまり芸術を支配する論理的、美

的判断の不朽の法則を見失っている。ベルリオlズやユゴ

lのごと

き自称革新家たちは我々が話してきたこれらの考えを全く無視して

(n)

いる」(一八四九・四・二二一)と書かれている。

ここには同じロマン主義者としてひとくくりにはできないドラク

ロワのベルリオlズ批判がある。ドラクロワにとって芸術の現代的

草新はベルリオlズには当てはまらないのである。このようなベル

リオlズに対する痛烈な批判の根底にはダヴイツド、

アングルらの

新古典主義へのドラクロワの反発、批判がある。このベルリオlズ

のロマン主義音楽批判と新古典主義批判とが底流において繋がるこ

とはドラクロワの『日記」に書かれたショパンとの会話から読み取

ることができる。

「音楽において何が論理となるのかという問いについて、ショパン

は和声と対位法であることを私に納得させた。フーガは音楽におい

て純粋な論理であるから、

フーガに精通することは即ち音楽上の全

67

ての理論と関係の原理を知ることであると。凡俗な音楽家たちを悩

ませるこれらのことを研究したらどんなに幸せだろうと私は思つ

た。このようなことは立派な学者たちが科学において見出す喜びに

等しいと思われる。真の科学とは、世人が一般に解する芸術と異な

った一部の知識ではない。否、ショパンのような人に証明され、考

えられた科学は芸術そのものである。芸術はもはや俗人が信じてい

るような何処から来るともわからず、あてのない運行をしてものの

ピトレスクな外面だけを表示するような霊感のようなものではな

ぃ。これは天才によって飾られ、しかも必然的な道程を踏んでより

高い法則に支配された理性そのものである。これがモーツァルトと

喜術研究第19号 2006

ベートーヴェンの差を思わせる。これは人々が尊敬する少し粗野な

ひとりよがりの独創に基づくのではなく不朽の原理に彼が振り向か

ないからだ。モーツァルトは決してそうではない。進行するどの部

分も他の部分と一致させながら歌を形作り、完壁に調和させている。

これこそが対位法だとショパンは言った。」と書き、続いてベルリ

オlズについて「是が非でもスタイルに夢中になっているこれらの

連中は荘重さを欠くというよりも下劣であることを好むのだ。この

ことはアングルやその流派にあてはまる」(一八四九・四・九)と

(回)

対比させて非難している。

ここでは一見相反するように見えるべルリオlズの音楽のロマン

主義とアングルらの芸術の新古典主義が「スタイルにのみ酔いしれ

る」芸術として等しく烈しい非難の対象となっているのである。

このようにドラクロワにとって、革新的な芸術とは単に新奇なこ

とを追い求めるのではなく、それは堅固な法則と論理を遵守するこ

とを前提としなければならないのである。この点においてドラクロ

ワとショパンの芸術に対する姿勢は一致するものである。

一方それ

らを道守せずに新奇なスタイルばかりを追うとされるベルリオlズ

は「自称改革家」としてアングルら新古典主義と同じとされるので

ある。このことはドラクロワが一八五七年に書いた美術辞典のため

の草稿「古典

(nFEEg)」という項目でより明確にその思考がわ

かるだろう。ドラクロワは次のように書いている。

「古典とは法則に則った作品であり、それは正しく壮大で、感情や

事象に刺激がある絵というだけでなく、統一性と論理的構成を持ち、

一口で言えば簡潔さという印象を強く感じさせることで精神を満足

させるもの」としている。また、古典主義のラシlヌについて「ラ

シlヌはその時代の人々にとってはロマン主義者だった」と述べ、

しかも「彼はあらゆる時代において古典的であり、

いわば完壁だっ

たのだ」としている。

一方新古典主義について「この流派の模倣は

知性に欠け、閉鎖的であり、古典的流派の本質的特徴である永続的

なものを失っている」とし、「多くの人は

(ダヴイツドの流派の)

冷やかさと古典本来のそれとの区別がつかない」、あるいは「多く

の芸術家たちは冷やかだということがつまり古典と思い込み」、「同

じように熱情的と感じるときはロマン主義と呼ぶ」と批判している。

68

このような記述からドラクロワの新古典主義に対する自らの制作

上の立脚点、その思考が明解にわかるであろう。

結びド

ラクロワ独自の「古典」解釈によるロマン主義の定義に従えば、

ショパンへの絶大な称賛の理由も理解できる。ドラクロワはシヨパ

ンの芸術に独自の個性、

ロマン主義的な性質と革新的前衛性を認め

つつ、しかもその思考に内包される統一性への強い志向、過去の倖

大な芸術家に倣う堅固な造形性と法則を道守するという姿勢を評価

しているのである。それはドラクロワにとって最も評価される芸術

家であるラシ

lヌやモーツァルト、ダンテに匹敵する其の草新的芸

術家としての姿をショパンに見ていると言える。それはとりもなお

さずショパンの芸術の中にドラクロワ自身の芸術との類縁性を認

め、自らの実践の確認とその手応えを確信していたことが推測され

るのである。

ドラクロワとショパンの作品構造に見られる古典的志向の類似性

註・本論考の引用文はすべて筆者による訳であるが、邦訳が出版されている

場合は適宜参照した。註に従って原文を表記する。

(1)mEm--門川口江ロ担保川

DEF・haNH向"出口ロロなの聞岡田BM】肋CPHM由江田wMCoo-匂唱-MCC8

NHC

(2)匂DVm円F回同ユvb臥gupb内向。nさR-C白臣自由同・円y-M白江田-HCむ4・同】・臼串

出口同四回Mmu切由ロRrb内向。円可巴HH-】M白江田wHcmp同YH。。

(3)

巴町内向円ERH吋宮ミstc刊、巳患者-OEEESE-。品目ロEmg・Mg。

(4)HHC回目-Y

関白『白ロ旬。白ロ"の。』い。勾~与の均同UN凶』い凶』いHh『阿国同町吋司同町阿見

同】同旬、bL『弓凶】』『」くの句。、同門HCN吋弓図。同hb。見。hM門〉同b同1回同町』hq-め』ーの

。『同闘の同10勾凶同勾』いL『。N判一呂田回申吋仲田仲同op。V白山od包42aqwHむ∞。

例えば〈サルダナパ

lルの死〉の問中の宝石がライト・モチーフに相

当する(一人三頁)とか、色彩の赤が主和音に相当し(一人五頁)、

〈サルダナパ

1ルの死〉の色彩と〈幻想交響曲〉の第5楽章が同じ色

彩を示している(一九七頁)という比較は多分に怒意的である。

(5)

拙稿「ドラクロワの絵画におけるグランド・オペラの受容と変容」

同志社大学『美学芸術学』第二十一号、二

OO五を参照されたい。

(6)

古典的、ロマン主義という用語は広範な定義を含むが、本論では前

者は法則性、統一性、論理性を有する様式上の特性という意味、後者

は一八二

0年代のドラクロワの登場がロマン主義の旗手とされたよう

に新古典主義、アカデミーの絵画に対抗する対概念として使われた意

味で使う。

(7)

輝かしい色彩の反照をつくることに関心をもっていたドラクロワは

リュクサンブ

lル宮天井画、及び図書室の壁画装飾にあたって「ヴア

ン・ダイクのパレット」とよばれる絵の具混合法をメイエンドルフ男

爵から譲り受けていた。この絵の具混合法によって鮮明な色彩反照を

つくり壁画にも応用した。白血E--R冨白ロユnpNvmNQngp同JEFE∞P

M

】唱・APHM・品]戸町

(8)

ベートーヴェンが完成させた訟のピアノ・ソナタの後ソナタ形式は

時代遅れのものとされていた。ショパンの〈ソナタ第

2番〉について

述べた同時代のシュ

lマンの批評が当時の状況を物語っている。シユ

lマン『音楽と音楽家』吉田秀和訳岩波文庫包包-uu-H2・Hm∞

(9)

この作品は完成されないままドラクロワの死までアトリエに保存さ

れていた。当初はスケッチに残されていたように一枚の絵であったが

その後の所有者によって何らかの理由で切り離され、現在ショパン像

はルーブル美術館に、サンド像はオlドロップドゴ

l美術館にある。

司な仏肌江口のHHD-PzoH岡田ロゲ

HC匂山ww回凶一宮即時江口ロの色白】cmcp回当・∞ゲ∞印

(叩)〈却の前奏曲集〉はショパンが数年にわたり推敵していた作品で一

八三八年秋までにはほぼその全容が出来上がっていた。同年十二月マ

ヨルカ島でほぼ完成し一人三九年に出版された。

E--m曲目田口ロ

bg-

句、H向。oSF可丘町内。ロヨ』UQミロロ

HDnF口、swの回目V江島modE〈・-MHmmpH匂むN

(日)匂白山内同2芯仲間-vggu宮吋仲田島巾

4522CFD同】ESE町田仲gm

FEED巨句

"23己申田仲ロロ

FOBBoqロロ間島田江田口丘OロESunda-015

4円曲目白邑田宮内山口乙.EFBロ口自主-ロ由回二由

858M】伯仲宗

EBVB宮

.0ロ

宮己主宮町2

2

2広岡出向・(冨品M・o・MM)呂田gp戸唱。。可『問的、sagR門出向

、コ氏九江町内川FCMMむH40戸HE臼・-M由民団uHC∞ゲ4DF臼・同】-HH臼

ロm-RgHHF・-}mar-E田島田町田宮目白ユUZ句DgF-0・2∞品。・∞-uSPE--

匂・M臼∞

(ロ)ショパンはジヨルジュ・サンドに宛てて匂包

4gum-SHOWSロ仲間釦吋乱。

69

喜術研究第19号 2006

】回口}gBVZ-ZDEs-ロ田

Eロ印私唱団ロ島田己円四四回HFOE-m回目酔島2E

BESロ0・宮山ロZ822ユoESE-(Et・。・MgpF切

-Ha・と書いて

いる。ドラクロワはショパンと共に滞在した一八四六年、ノアンから

次のように書いている。[・:}のFD唱吉田〆』

Dg肌色ロ回

mmF042M

E4吉田百四回け玄Bug-田SEEBr--gF3Z居間{:](毘品。・∞・

5)

HV日【ゲ回以-Nω4

またスケッチと仕上げの問題

SE--SEnr忠由民

FP払)はドラク

ロワにとって創作上の課題であった。(呂町。・∞

-H)Um-SEW-国よ

~。=、『HCNへ回目凶MM-H∞白臼)ω40Z・同】ロσロR山唱曲吋〉回向凶同臥臼ロ巨げ町r円岳山門戸市ロ

H40--

HJEPE∞。ゐ・4印。タブロ

l画の〈ラマンタシオン〉

(EAH∞)ではこの

ことを重要な問題として取り組んでいることがわかる。

(ZAP-叫

-N-H日)

回目)山内同・・唱-HωN

(日

)mgmy門川口ミロロ向。ロト

4haNF出。ロD尽のF曲目同】MOHM--M白江田wM000・匂・ωα

ダンテの『神曲』のフランス語訳は一七八三年に翻訳されており、ド

ラクロワの〈ダンテの小舟〉(一人二二)以前に「パオロとブランチ

ェスカ」の主題ではジロデが一人

O五年、アングルが一人一九年、ア

リ・シェフルが一人二二年に描いている。その他「ウゴリ

Iノ」の主

題ではフユスリが一人

O六年に描いている。ドラクロワもこれらの主

題を扱っているが、ドラクロワにとって最も重要な場面は「ウエルギ

リウスに導かれるダンテ」である。この場面を主題とした絵画は同時

代では殆んど見られない。ここにはダンテがウエルギリウスに導かれ

ることで、ダンテが革新者でありながら古典・古代と速なるイメージ

が付与されている。一八四

O年にはやはり『神曲」から取られた主題

〈トラヤヌスの正義〉も描いている。この作品もまた古典・古代と結

び付けられている。ショパンに投影されたイメージは明瞭である。

(M)

ggmHHHEm-gu呂DNOユ353巳S458mop(Eg-M-HSF広・・

yNNω

(日)とりわけ画面左の建物から走り出る老人が誰かは当時から議論の的

であった。盲目の皇帝、その兄、祭司、捕囚者などが上げられている。

crmユゆ回目品目HS吉岡山『・匂同町EH3R.HMP同仲間w]5ω4.回以・M町一戸

(日)同Epw同ywM印N

(口)コンステイテュ

Iシヨナル誌一人四一年一一一月二三日に匿名の批評家

同・は「不自然な形態、解剖学的な過ち、圧縮され、混乱した構成」を

指摘し、「虹のようなパレットの烈しいコントラストをもっ色彩のかわ

りに暗い色調があればよいのに」と嘆いている。

EHHロgp円、白0・NF問

、ミミ宮句恒久同町Hhh室町

baan可cpa。忌昨日町内QHQNohRP。40】回・。民c邑u

H

∞∞]「∞∞-4D】・臼切回】-C∞

(問)ドラクロワは一八三四年に既に三角形のスケッチを描いて、科学的

根拠に基づく色の三原色とその補色による照応関係に関心をもってい

た。(図日)ここでは影の問題について従来の明暗法を脱却しようとす

る試みがみられる。ドラクロワによれば、赤の影はその補色の緑、青

の影はその補色のオレンジとなるということを戸外での観察によって

実証している。従来、この理論は一八三九年に出版されたシユヴルー

ルの『色彩の同時対照の法則』との影響が指摘されていたが、現在で

は一人コ二年にドラクロワと親交を結んでいたメリメの色彩理論に基

づくものであるとされている。。同mp!『DHHP。。NOR可。『支出。HhNE可悶u

HhDロ円同ロロ・

Hωωω"同M-H4

(悶)当時画壇を席捲していた新古典主義の「歴史函」にこのような豊か

な自然の風景が描かれることはまれであった。このようなパノラマ的

風景を添えることはヴエネツィア絵画の影響が指摘される。

(却)ベルリオlズの〈サルダナパ

lル〉はロ

1マ賞のためカンタータと

して一八三

O年に作曲されたが楽譜は現存していない。ベルリオIズ

と共通する主題として、ドラクロワの作品にはパイロンによる〈サル

ダナパ

lルの死〉、シェークスピアによる〈ハムレット〉はリトグラ

フ集、泊彩聞など

7作、〈ロメオとジユリエット〉の油彩画がある。

ゲlテの〈ファウスト〉はリトグラフ集がある

(幻

)[:-BUSSEs-∞EHCNrzgugゲ

EZmZ田Egggf

n.冊目許ロロ何回向山H・CMGZommwnV仲間刷・(H∞印。・N-HC)HV日仏-u

同YMMAF

(辺

)

F・515ロ回目忠nmg宮

cc出回-manE骨在吋白

EOE225nyo白血

門戸己申

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nHH白ロmmH1・-C日目同白宗同】由同1仏門白色04zo-mm-DE

E由同Hg-U門問。

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F四国回申ユZPFg

出ロ問0・件。己円曲目『RD『自己申局面匂尽窓口島5

5

8ロζgS85宮司g

g

70

qui satisfont l' esprit n

on seu1ement par une peinture exacte o

u

grandiose ou piquante des sentiments et des choses ,

mais encore p

ar

l' unite,

l' ordonnance 1ogique,

en un mot par toutes ces qua1ites qui

augmentent l'

impression en amenant 1a simp1icite.

[…] Racine etait u

n romantique pour 1es

gens de son temps. P

our

tous 1es temps i1

est classique ,

c'est-a-dire parfait.

[…] C'est precisement cette imitation s

ouvent peu intelligente et

exclusive qui ote a

cette eco1e 1e

principa1 caractere des eco1es

classiques,

qui est 1a duree.

[…] Il

est vrai qu'un bon nombre d'artistes se figurent qu'i1s sont

classiques parce qu'i1s sont froids. Par une raison a

na1ogue ,

i1 y

en a

qui se croient de 1a cha1eur parce q

u'on 1es appelle des romantiques.

(1857.1.1

3) Ibid.,

p.615

...... t、

E鴇

1己4くえゆ・-Kえゆ~料品令l:ã~~*.位制紙製)

(会~é二ν:;'1

J

a abo1ir toutes 1es idees dont n

ous parlons ;

mais i1s

ont fait croire a

1a possibilite de faire autre chose q

ue vrai et raisonnab1e. (18

49.4.23)

Ibid.,

p.193

(民Je1ui

demandais ce qui etab1issait 1a 10gique e

n musique. Il

m'a

fait sentir ce que c'

est qu' harmoni巴et

contrepoint ;comme quoi 1a

fugue est comme 1a 10gique p

ure en musique ,

et qu' etre s

avant dans

1a fugue,

c' cst connaitre l'

e1ement de toute raison et

de toute

consequence en musique. J'ai p

ense combienj' aurais ete h

eureux de

m' instruire e

n tout ce1a qui deso1e 1es

musiciens vu1gaires.

Ce

sentiment m'a donne une ide

巴dup1aisir q

ue 1es savants,

dignes d

e l'

etre ,

trouvent dans 1a science. c'

est que 1a vraie science n'

est pas ce

que l'

on entend ordinairement p

ar ce m

ot,

c'est-a-dire u

ne partie d

e

1a connaissance defferente de 1'art.

Non,

1a science envisagee ainsi,

demontree par un homme comme Chopin,

est l'

art 1ui-meme,

et p

ar

contre l' art n'

est p1us a10rs ce que 1e

croit 1e vu1gaire ,

c'est-a-dire

une sorte d'inspiration qui vient d

巴je

ne sais o

u, qui m

arch巴au

hasard ,

et ne presente q

ue l'exterieur pittoresqu

巴des

choses. C'est

1a raison elle-meme ornee p

ar 1e

genie , mais suivant u

ne marche

necessaire et contenue par des 10is superieuses. Ceci m

e ramとn

ea 1a

defference de Mozart et de Beethoven. L

a , m'a-t-il dit,。色

cedernier

est obscur et parait manquer d'

unite, ce n'est p

as une pretendue

originalite un peu souvage,

dont on 1ui

fait honneur,

qui en est

causej c'est

qu' i1

tourne 1e

dos a

des principes eterne1s.

Mozart

jamais. Chacune des parties a

sa marache ,

qui,

tout e

n s'

accordant

avec 1es autres ,

forme u

n chant et

1e suit parfaitment ;c'est

1a 1e

contrepoint,‘'punto contrapunto"

[…] Ces hommes epris a

toute force du sty1e,

qui a

iment mieux etre

betes que n

巴pasavoir l'

air grave. App1iquer ceci a Ingres et

a son

eco1e. (1849.4.6) Ibid.

p.190

(罰)

CLASSIQUE

J' appellerais vo1ontiers classiques tous 1es ouvrages regu1iers,

ceux

組問車販G直嶋君寵h刊の即£心眼リ-細川鍵唱MCQ入丈問、昨日吋トロふれ中

h -