マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明...
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鋤
マ
ッ
ク
ス
・ウ
ェー
バ
ー
に
お
け
る
社
会
科
学
方
法
論
ω
齢勤
岩
野
弘
一
翻社掲捌に一
..b匙物
ミ
魯、鳴
"無
駄皆
ミ
尋、魯ミ
、「
さ
続
き
守鳴、
一九即妙
本稿は、私のマックス
・ウ
ェーバーに関する研究計画、すなわち①社会科学方法論、②社会学理論、③政治思想の三
つ
マ
の視
角
か
ら
「マ
ック
ス
・ウ
ェー
バー
の全
体
像
」
を
究
明
し
よ
う
と
す
る
計画
の
一環
を
な
す
も
の
であ
る。
す
で
に②
の領
域
に
つ
い
て
は
、
そ
の
一部
分
と
し
て
、
「マ
ッ
クス
・ヴ
ェー
バ
ー
『国家
社
会
学
』
ノ
i
ト」
(本
誌
第
四
十
二巻
・第
三
号
)、
「マ
ック
ス
・ヴ
ェ
ー
バ
ー
の
『政
治
の世
界
』
に
つ
いて
」
(「現
代
と
思
想
」15
号)、
「ウ
ェー
バー1
『国
家
社
会
学
」
の体
系
化
に
む
か
って」
(『国
家
ヨ
思
想
史
』
下)
を
発
表
し
た
が
、
本
稿
の作
業
は
そ
托ら
と
同
時
に
、
あ
る
いは
、
む
し
ろ
先
に進
めら
れ
つ
つあ
った
も
の
で
あ
る。
本
稿
8
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は、かかる全体のテー
マを志向し、ともかくも自分自身の眼でウ
ェーバーの社会科学方法論に関する主要作品のす
べてに
あたり
、その内容を確認することにある。すなわちウ
ェーバーの社会科学方法論の論理構造をできるだけ全体にわたって
素描し、そこに表出されている
マックス
・ウ
ェーバーの人間像ないし思想像に照明をあてようとする作業で
あ
る。
内
容
は、ウ
ェーバーの
「社会科学方法論」の論理構造を①ヴ
ェルトフライ
ハイト、②客観性と価値、③因
果帰属、④理解的方
84
論磁
法
、⑤
イ
デ
ア
ル
テ
ィプ
ス、
の五
つ
の側
面
から
考
察
し、
そ
し
て、
あ
ら
か
じ
め必
要
最
小
限
で社
会
思
想
史
的
な
いし
、哲
学
的
な背
学科
景
にも
言
及
す
るも
の
にな
って
い
る。
会社るキノ
エ
押にし
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バ
ー
の方
法
論
的
立
場
の背
景
と
し
て
と
ら
え
て
お
く
べき
第
焼点
は
、
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バ
ー
が
、自
ら
を
「ド
ノー
ユンガー
キンデ
ルン
エ
イツ歴史学派の門弟」とも
「歴史学派の子供」とも称しているように、絶えず歴史学派の後継者たることを意識していた
ウ距
ことである。より正確には、旧歴史学派、特にロッシャー、クニースに対して仮借なく、完膚ないほどの批判
を
加
え
た
〃
「歴史学派の鬼子」であった、と育
つべきかもしれない。歴史主義は、イギリス自由主義思想
(古典経済学)に対する・
マ
す
ぐ
れ
て
プ
ロイ
セ
ンH
ド
イ
ツ的
な
三
つの対
抗
思想
の
一つで
あ
る
。
ロマ
ン主義
お
よび
社
会
主
義
と
と
も
に
。
マ
ッ
ク
ス
・ウ
ェー
バー
は
、方
法
論
の展
開
に
あ
た
って
、
(現代
の.論
理学
者
-
私
は
た
だ
ヴ
ィ
ンデ
ル
バ
ン
ト、
ジ
ンメ
ル、
及
(1)
ぴ
我
々の
目的
の
た
め
に特
に
ハイ
ンリ
ヒ
・リ
ッカー
トを
あげ
る
に
と
ど
め
る
一
の労作
を
知
る
人
は
誰
でも
、
我
々
の論
述
が本
質
の38
的な点ではすべて全くこれらの労作に結び
ついていることに直ちに気づくであろうVと注記していることからも明らかな
(
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(2)
ように新カント派とくにバーゲ
ン学派(西南ドイツ派、価値論派)の成果によ
っていること、.これが第
二の点である。当時
)ヨ
は、
ヘーゲル流の絶対精神の存在論やその正反対と考えられる
マルクス主義の哲学に形而上学的臭気をかいで、それらに
僻
与みせず、またコントの系統をひく実証主義に対しても哲学的根拠が薄弱であるとして、それを斥けて、「カントに還れ」
という
スローガンとともに、人文科学や社会科学の認識論的基礎づけが哲学の課題であるという主張が、哲学界を圧して
論磁
いた。後期新・・旅
の特色は論理義
的な点にあ
・た。バ嘉
・学派はヴ・ンデルバ・ム
・・幽・・き
5
の創唱により、
学科
リ
ッカ
i
ト
(μ◎。①ω~
Hりω①)
に
よ
って
発
展
せ
し
め
ら
れ
た
。
マー
ルブ
ル
ク学
派
が
自
然
科
学
の基
礎
づ
け
を
試
みた
の
に対
し
て、
こ
会
(3)
耐
の派
は歴史学ないし文化科学の基礎づけを試みた。ヴィンデルバ
ζ
およびリ
・カー-によると、歴史学ないし文化科学
ナ韻
が自然科学から区別されるのは決してその取り扱う対象の相違によるものではなく、対象を取り扱う方法の相違によ
って
にし
いるのである。同
一の対象、例えば
一つの建築物というものを考えても、それは自然科学的研究の対象ともなれば、また
ノゴ
歴史学的研究の対象ともなる。ただ前者はその対象を取り扱う場合にその対象の有する特殊性
・個性を捨象して専らその
ウ・
普遍性のみを把握しようとする
「普遍化的方法」を用いるのに対して、後者は対象の持つ
一回限りの特殊性
・個性、即ち
沸
その有している文化的価値を把握しさっとする
「個別化的方法」をとる点に特徴が蒙
塾
「マ
ック
ス
・ウ
ェー
バー
の
う
ち
に
わ
れ
わ
れ
の
時
代
の実存
的
な
現象
を
見
る
こ
と
が
で
き
る」
と
カ
ー
ル
・ヤ
スパ
ー
スは
追
憶
す
(5)
る
。シ
ュモラーを頂点とする倫理的経済学、つまり
「講壇社会主義」の名で呼ばれる社会改良主義は、十九世紀後半におけ
ら
るドイツの国民国家の統
一とその発展に適応してきた。しかし、
一九七〇年までは倫理的に唯
一の正しいもの之考えられ
8
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た社会改良
への信念も十九世紀末に至って動揺せざるをえなくな
った。それはドイツにおける資本主義の発達が労働者階
68
級を講壇社会主義者のいわゆる
「弱者」から社会主義的イデオロギーをもつ階級にまで成長させると共に、産業資本をし
て海外市場との競争における社会改良的費用の負担を拒否しようとする傾向におしやったからである。そこには、もはや
る
統
一的なドイツ的利害は存在しなかった。
一階級の利害は他の階級の利害と衝突する。
一党派の立場は他の党派のそれと
論施
抗争
せざるをえない。かくして、世界観も、またそれに基づく政治的倫理的価値判断も、相互に調停
しがたい闘争に入ら
群
ねば
ならなか・た・しかも・このような現象は・
「知的誠実三
に従
・べき
「蟻
」に現われたのである。このような事
会社
態
を
、
マ
ックス
・ウ
ェー
バー
は
、
誰
よ
り
も強
烈
な
科
学
的
誠
実
さ
を
も
って
見
抜
いた
。
あ
る
立
場
に
と
って
の神
は
他
の立
場
にと
拓捌
って
は
悪
魔
で
あ
り
、
自
己
の価値
判
断
と
同
様
に反
対
の価
値
判
断
も
そ
の信
奉
者
にと
って
は
等
し
く
神
聖
であ
る
と
いう
状
況
、
そ
れ
に
(6)
一
が
彼
の
時
代
であ
った
。
そ
し
て
、
こ
の
「神
々
の永
遠
の闘
争
」
と
いう
時
代
認
識
に基
づ
い
て、
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バ
ー
の
「社
会
科
パゴ
学
方
法
論
」
は
生
み出
さ
れ
た
の
であ
る
。
ウ・
し
かも
、
ウ
ェー
バ
ー
にと
っては
、
「こ
の
時代
的状
況
は
、
認識
の
木
の実
を
食
ん
だ時
代
の
認
めざ
る
を
え
な
い
「宿
命」
であ
り
、
スク
これに目を覆うことは自己欺瞳であった。資本主義的合理化の過程は、同時に、その重要な部分を科学が担う主知主義的
ツマ
合理化過程で
あり・『魔術からの世界の鰍拠』(国§
。げ§
α・量
琴
)
の時代的推移過程であ
・た・しかも・この△・理
化は他面においては非合理を生み、支配的であった神の存在を見失わせる。それは逃れえな
い時代的宿命であり、この宿
命的過程において専門化した科学は、これの神
々の何れが勝利するかを決定することができな
い。それは科学ではなくて
助ヨ
運命
が決定するのである。また科学は、何れの神につくべきかをも教えることはできな
い。それは科学の仕事ではなくて
(
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(8)
個人的な信仰の問題である」。
.
)ヨ
以上の如く、彼の
「社会科学方法論」は彼の鋭敏な知性にう
つった時代の反映であ
ったが、同時にまた彼の妻
マリアン
御
ネ
・ウ
ェー
バ
ー
が
いう
よう
に
、彼
の
人格
の奥
底
か
ら発
し
たも
の
で
あり
、そ
の人
間
的
本
質
そ
のも
の
でも
あ
った。
論
注(1)
ウ
ェーバーは
リ
ッカートについて、次
のよう
に言
って
いる。(リ
ッカi
トを読
み終えた。これは非常に
いい。私はこ
のなかに、
法方
論
理的に精練された形式
ではなくともとにかく自分なりに考えて来たことを相当たくさん見出す。用語に
ついては私には疑
義が
酵
,
あ・がv。(『伝記・』二・七頁)^われわれ
の学科に対す・・
の薯
〔・
ッや
ド三
思想を検証す・
のが、本研究
の目的
の
;
会
で
あ
る
y
と
「ロ
ッシ
ャー
と
ク
ニー
ス』論
文
で注
記
し
て
いる
。
耐
なお・ウ
・失
産
蜜
や
あ
相違点に
ついては・安
肇
治
『・・ク
ス
・ウ
・人
意
究』
一六二頁⊥
七・頁
にお
い農
鮒
開
されて
いる。佐久
間孝
正
「M
・ウ
、-パ直
おける
『姦
的可
能性
』判断
の成立過程とそ
の限界」
(『社会学
評論』第八二口写)
に
(2)
ポ
ヘンスキー
『現代
のヨー
ロッパ哲学」
(桝
田啓三郎訳
}〇九頁1
=
○頁)
は新カ
ント派を七
つの学派
に区分して
いる。
{
(・)
鐘
学
的方向
(ヘル・ホ
ル・・ラ
ンゲ)・この派
はカ
・あ
先
天的諸形式
を生
理学約諾性向
として解釈
した・
一
(b)
形而
上学的方
向
(リープ
マン、
フォルケ
ルト)、この派
は批判的
形而上学
が可能
と考
えた。
エウ
(c)
実在論
的方向
(リー
ル、
へー
ニヒスヴ
ァル.ト)、
この方向
は物自体
の存在と
いう意味
で表明
され
た。
ス
(d)
ジ
ンメルなどの相対主義的方向
、彼
にと
っては、カ
ントのア
・プ
リオリは心理学的
.相対的性質
のも
のである。
〃
(e)
心理学的方
向
(コルネリウ
ス)、
これは前者よりなお
一層実証主義
に接近
する。
以上
の五学派
は現在
では古臭
く且つ正統
カ
マ
ント主義
とは認められな
い。これに対
して、残
る二
つの、より重要
な、両大戦
あの
いだ
の時代
に非常
に有力
であ
った方向
はカ
ントの精神
にあくま
で忠実
である。そ
れは、
(f)
論
理主義的
(マー
ルブルク)学派と
(9)
価値論的
(西南ドイ
ツ、
ないし
バーゲ
ン)学派
である。
その後
、すぐれた思想家
であるブ.ルノー
・バウフが最後
にあげた両学派
の
一種
の綜合
に達し、両者を超克す
ると同時
に発展
.させる。〔以上
がポ
ヘンスキー
の理解と分類である〕。
8
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'
(3
)
「ウ
ェー
バー
の当面した論理的H認識論的な中心問題は、デ
ィルタイ、ヴ
ィンデ
ルバ
ント、ジ
ンメル、
ハイ
ンリ
ッヒ
・リ
ッカ
ートに導かれて当時
の大抵
の哲学
者論理学者が従事した、自然科学と
いわゆる精神
科学
と
の大
規模な対決であ
った」と
マリア
ン
8
ネ夫
人は記して
いる。(『伝記
』1二四五頁)
(4)
大河内
一男
『続社会
思想史
』(改
訂版)、岩崎武
雄
『西洋哲学史』、出
口勇蔵
『社会
思想史』、参
照。
(5)
ヤスパー
ス
『マックス
・ウ
ェーバー』樺俊雄訳
、
一四五頁
。
論
(6)
をい
(≦
一ω詔旨ωo富
津
巴ω切。歪h)"9
08・『職業とし
ての学問』(以下
『学問』と略
す)出口勇蔵訳
(『世界
の大思想』皿一7所
磁
収)}=八二頁
。
学
(7)
旨5
嚇ω・切逡
三七
二頁。
餌
(・)
福武直
『社会科学と腰
判断』、=〒
四頁。
碓ナ
ロ
謝{
かくして、われわれは、ウ
ェーバーの
「社会科学方法論」の論理的構造の問題
へ入る。
腎
「新しじ創造の局票
はじま・た・・の局面
〔充
・三年〕は・以前のそれとは全垂
格糞
にす・もので襲
」・
距
ほ
ぼ五
年
間
に
わ
た
る強
度
の神
経
疾
患
に
お
そ
わ
れ
、
あ
た
か
も
"翼
を折
ら
れ
た鷲
"
の
よう
であ
った
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バー
は
、
汐
『ロ
ッシ
ャー
と
ク
ニー
ス、
お
よび
歴
史
学
派
経
済
学
の論
理的
諸
問
題
』
の論
文
を持
し
て
、
こ
の
局面
を
迎
え
る
に
いた
っ(罷
。
マ
《科学そのものの作業にとってこのような方法論的な諸々の論究が重要となるのも通常、
一つの素材を叙述の対象とな
す際
の
"観点"が非常に混乱し、
その結果従来の
〔科学的〕畷作業"
を動かしてきた論理的諸形式にも新し
い観点によ
っ
て、
一つの修正を加えようといった考えが現われ、そのため
〔研究者の心の中に〕自分のや
っている研究の
"本質"につ
の38
いて
の疑問が生じてきたりするような場合でしかないのである。しかしながら、こうした状態が現代において歴史学
〔社
(
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論撚
れの追求する認識にまで導いていくであろう多くの仕事の最初のものであるにすぎないであろ診
。この文意は、「イデア
群
ルテ・プス」として・ポジテ・ヴに展開される・要約的にいえば・ウ
・去
走
と
・て
「法則」とは・
一方ではイデアル
会
チャンス
社
ティプスの構成
のための基本的契機として、他方では、
「規則性」ないし
「確率」として、理解されている。
掲謝
(2)、《このような
「因子」がその時
々に歴史史的に与えられた個性的な結合や、
それによ
って制約された、
具体的に
ヒモ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
一
独
特
の意味
を
も
つ共
働
作
用
の様
式
を
分
折
し、
秩
序
立
て
て叙
述
す
る
こと
、.と
り
わ
け
こ
の意
味
の根
拠
と様
式
と
を
理
解
さ
せ
る
こ
バゴ
とが、おそらく第二の、もちろん第
一の予備作業を用
いて解決されるべきであるがそれに比べて全く新しい独立伽課題で
ウ・
あろうV。
つまり、・第二の課題はカオスとしての現象の中の
「意味のある」現象、すなわち文化現象
を
「理解させる」こ
スク
と
であ
る。
ツマ
(3)、(第三の課題は、
このような結合がもつ、
恥萄にとって意味のある、個
々の個性的特質を、その生成においてで
きるだけ遠い過去にまで追跡し、これを同様に個性的な先行様相から歴史的に説明すること、であろうV。
こ
の課題は、いいかえれば、「因果帰属」の問題である。(2)と
(3)の関係は、次のように位置づけられる。
(われ
、、
、、
、、
(5)
9
われ
の意味する社会経済的認識の目標とは、すなわち現実をその文化意義と因果関連とにおいて認識することであるV。
8
(3)
(4)
会
科
学
〕を
お
お
って
い
る
のは
疑
いの
な
い
こと
〉で
あ
り
。
そ
れ故
、《避
け
る
こと
の
でき
な
い問
題
であ
るV
と
ウ
ェー
バ
ー
は、
「社
)87
会
科
学
方
法
論
」
の論
究
の必
要
性
を
当
時
の学
問的
問題
状
況
か
ら提
起
す
る
の
で
あ
る
。
ω
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バ
ー
は
、
社
会
科学
の課
題
を
次
の
四
点
と
し
て
理解
す
る。
ゲゼツツ
(1
)、(こ
のよ
う
な
〔自
然
科
学
に
おけ
る
よう
な
〕
(仮
説
的
な)
「法
則
」
や
「因
子
」
を
確
定
す
る
こ
と
は
、
い
つで
も
、
われ
わ
![Page 8: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/8.jpg)
(6)
(4
)、《最
後
に
、
第
四
の課
題
と
し
て
は
、
可
能
な
将
来
の様
相
を
評
価
す
る
こと
であ
ろ
う
V。す
な
わ
ち、
社
会
科
学
に
お
け
る
予
測
09
の
問
題
で
あ
る
。
こ
の
四
点
を
念
頭
に
置
き
つ
つ、
以
下
の構
成
に
し
た
が
って
、
ウ
ェー
バー
の
社
会
科
学
方
法
論
の
論
理
構
造
の解
明
に向
う
こと
にす
る。
論磁
ω
ヴ
ェルト
フ
ライ
ハルト
学
、
、
、
、
科
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バ
ーは
、
『存
在
す
るも
の』
と
『存
在
す
べき
も
の』
と
の認
識
を
原
理的
に区
別
す
る。
従
来
、
こ
の区
別
を妨
会耐
げた要因として、経済現象
〔文化盛
会現象〕を
ナ捌
ω
不変的に同様なる自然法則
に.い
回
一つの
一義的な発展法則
ノゴ
囚
倫
理
的
進
化
論
と歴
史
的
相
対
主義
と
の結
合
ウ
(7)
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
距
が
支
配
す
る
と
いう
三
つの見
解
を指
摘
す
る。
従
って
、存
在
す
べ
きも
の
は
、ω
の意
見
に
お
いて
は
、不
変
的
に
存在
す
る
も
のと
一
〃
致
し
、
回
の意
見
にお
いて
は
、
不
可
避
的
に生
恥
ホ
かひ
0と
一致
す
る
こ
と
にな
る。
そし
て囚
に
お
いて
は
、素
材
か
ら
理想
を
生
み
マ
出し、あるいは普遍的倫理命令をその素材に適用することによって具体的規範を生み出さねばならぬとされる。
ウ
ェーバーにとって、かかる三つの見解はいずれも拘束的なる規範や理想を発見し、それから実践
に対する処方箋を導
き出すものとして、経験科学の課題ではあり得ないとされる。
《経験的学科の方法論にと
って肝心な
ことは、ただつぎの
の38
認識をも
つことだけである。すなわち、実践的命令の規範としての妥当性ということと、経験的事実確定の真理としての
(
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妥当性ということとは、問題の平面を全く異にしている。だからその点を誤解して二つの次元を無理
に
一緒にしょうとす
)
るならば・それぞれに独自の威厳は両方共・損なわれてしまう・こういう認識で麓
v・
ウ
・夫
-のいう研究者の
「知
郡
(9)
的な誠実さ」とは、この認識に存する。
論
それでは、社会科学にと.て可能な課題とは何か。
施
意味をも
・た人間の行為
〔社会的行為〕の憲
静纂
について行なわれる思惟的省察はいずれも先ず
冒
的』と
『手段』
酵
との躇
に結び
ついてい・・われわれが程
的に何かを意欲す・のは
『そのもの自体の価値
のため』
か若し姦
究極にお
会狙
いて意欲されたものに役立つ手段としてである。さて、以上のような人間の行為を対象とする科学の職分とは何か。それ
ナ捌
は、次
の
に一
ω
予測
による外界の支配
バゴ
回
思
考
訓
練
.
ウ
、
、
、
・
囚
明
晰
さ
ス
(-o)
ク
で
あ
る
。
ツマ
従
って、科学は人間に次のこ
とを教えることが可能である。即ち、科学的考察の対象となりうるのは次の諸点である。
1ω
与えられた目的における手段の適合性
同
避けることのできない副次的結果(11
)
ー
ヘヘヘヘへ
皿ω
意欲されたもの自体の意義の知識
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論搬
同
意欲された輩
と意馨
れなか・た結果
(裂
的葉
)とを秤量することを可能にし、従
・て、目的達成には
〃ど
学科
んな
犠
牲
が
とも
な
う
か
"
と
いう
疑
問
に答
えう
る
。
し
か
し
、
そ
の秤
量
に
決着
を
つけ
る
の
は
、
も
と
よ
り
科
学
のな
し
う
る
こ
と
で
会耐
は
噸
く
、意
欲
す
る
人
聞
の
な
しう
る
任
務
で
あ
る
。
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バー
は
、
以
上
の
批
判
を
「技
術
的
批
判
」
と
呼
び
、
科
学
的
批
ナ神
判
は
こ
れ
に
と
ど
ま
る
の
で
はな
く
、
さ
ら
に
理
想
や価
値
判
断
に向
う
も
の
と
す
る
。
も
ち
ろ
ん
、
ウ
ェー
バー
にと
って
は
、
批
判
対
象
こヒ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘヘ
へ
一
と
な
る
理想
・価
値
判
断
は
、存
在
す
べき
も
のと
し
て
では
な
く
存
在
す
る
も
のと
し
て
対
象
と
な
る
。
す
な
わち
、
皿
のω
は
、
こ
の意
欲
バゴ
する人間に対して、具体的目的の根底にある、またはあるはずの
「理念」を指摘し、その論理的な帰結を追究することに
ウ・
よって、その人が意欲し選択する目的がどのような連関と意義をもつかを知らせることができるのである。この問題は、
ス〃
「社会哲学」の課題に関わるものであるが、『経験的実在の思惟的整序』(qΦ鼻塞α①9合口σq血o「o日℃三8蕃昌ミ一蒔一8罫①凶け)
マ
を追
求する科学の限界を越えるものではない。
しかしながら、価値判断の科学的取扱いは、たんに意欲された目的やその根底にある理念を理解さ
せ追体験させる
〔五
のω〕だけではなく、できれば批判的に
「評価する」ことを教えた
いのである。すなわち皿の回は、歴史的に与えられた
0)39
価値判断や理念の中にある材料を形式論理的に評価すること、即ち意欲されたものの内的無矛盾性の要請に照らして理想
(
同
意欲された目的および理念の批判的評価
29
つまり、科学は、」
ω
目的に対する手段の適合性を考量することによ
って、間接的に目的定立そのものを、その時の歴史的情況から実践
上意味があるかどうかを批判しうる。
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を吟
味すること、である。これは、いわば
「形式論理的批判」である。
)91
価値判断の科学的取扱いは、
この目的をたてることにより意欲者を援けて、
彼の意欲の内容の根底
に存する究極
の
公
ω
理、即ち彼が無意識の裡に出発点とし、若しくは一
矛盾に陥らぬためには1
出発点とせざるを得なか
った究極の価値
基準
を自省せしめることができる。繰り返して言えば、
論旅
ω
《人間行動の経験的因果的考察の目的》に役立ち、その結果、《人間行動の契
的究極的動機
姦
るようになるv。
群
団
翁
実に対立する価値判断の立場を測定する目的》に役立つ。例えば現実に特定の相手と何故
一致できないか、と
会社
いう
ことを究極的立場から理解できるようになる。
(《理解することはすべてを許することではないV
〔相対主義という批
掲謝
判に対する反批判〕)。
ロヒ↓
そし
て、
そ
の結
果
、
「副産
物
」
と
し
て
、
パ一
囚
自分と異なる別の考え方に対して人格的に
「正しく」ふるまうこどができるようになる。
エゆ
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バー
にと
って
、
以
上
の
よう
に価
値
判
断
に
つ
いて
の
分
析
は
、
経
験
科
学
的
因
果
性
の理
解
、
動
機
理解
に役
立
ス
(12)
ク
つば
かりでなく、とりわけその動機理解は実践的にも役立つ、とは
っきり考えられている。このことが科学が思弁の領域
ツ・
に踏
み込むこ
となしになしつる最後のもので臥砧・
《経験科学は何人にも何をなすべきかを教えることはできない・ただ
、
、
、
、
、
、
、
(14
)
彼が何をなしうるか及び1
事情によっては一
何を意欲しているかを教えることができるに過ぎな
いV。
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バー
は
、何
故
に
こ
のよ
う
に
異常
な
ま
で
に鋭
く
あ
ら
ゆ
る機
会
に
、
あ
る
ペダ
ント
リ
ー
を
も
って
、
存
在
す
ベ
ヨ
き
も
のと
存
在
す
る
も
のと
の混
同
に
反
対
す
る
のか
。
ウ
ェー
バー
は
一九〇
九
年
、
ウ
ィー
ンの
社会
政策
学
会
に
お
いて
、
国
民
経
済
9
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の生産性に関する討議が行なわれた時、その討論演説の中で、次のように答えている。
(私は当為の問題を過小評価する
49
から
ではなくて、まさにその反対だからである。即ち、世界を動かす意義の問題、最大の理念的な意義をもつ問題、ある
意味
において入間の胸を動かすことができる最高の問題が、ここで技術的H経済的
「生産性」問題に転化し、そして国民
経済学
〔倫理的科学〕がそうであるような専門学科の討論の対象になされることに耐えられないからであ藩
論艦
さらに、ウ、夫
な
自ら語る。
《私は、経験的な
〔事実の〕確認と実践的評価行為との区別がゴ覇
』.であるかいな
学科
か、という議論をしょうとは思わない。区別は困難である。われわれは皆-
実際署名入りでこの区別を要求している者
会碓
〔M
・ウ
ェーバ占
身のこと〕でさえ他の人・と全く変らない1
四六時中・この要求に反す・ことをや
・ている毯
v・
け
(17)
お
こ
の
よう
に
、
「人
間
的
弱点
」
を告
白
す
る。
し
か
し
、
こ
の告
白
は
、
科
学
的
真
理
の追
求
を
放
棄
す
る
こと
と
は
次
元
を
異
にす
る
に一
こ
と
は
明
ら
か
で
あ
ろう
。
パゴ
経験科学と現代の宿命について・ウ
・去
壱
・ ・・つ・普遍妥罫的な究極理念という形で・われわれの問題の為に
一つ
ウ・
の実践的公分母を創り出すことは、決して経験科学の課題でなく、又それは、事実上不可能である。
(認識の樹によ
って
ス〃
はぐくまれてきた
一文化時期の宿命は、世界生起の研究の成果がどれほど完成されたところで、われわれは、それから世
マ
、
、
界生起の意味を読みとることができず、かえって意味そのものを創造しなければならぬこと、また
『世界観』は決して進
歩してゆく経験的知識の産物ではありえぬこと、従
ってまた、われわれを最も力強く動かす最高理想
はいつの世でも他の
理想
との闘争においてのみ実現されるのであり、しかも、これらの理想が他人にと
って神聖なのは、
われわれの理想がわ
の9
(18)
3
れわれにとってそうなのと同じなのだということ、を知らねばならぬV。
(
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ヴ
ェーバーにとって、認識と価値判断とを区別する能力、また事実の真理を直視すべき科学的義務
及び自己の理想
のた
)93
めに尽すべき実践的義務の遂行、
これこそが
充分に習熟したいと思うところである。
そして、
この区別によってこそ、
ω
(19)
《科
学
にも
ま
たま
さ
に実
践
的
意
欲
に
も役
立
つV
の
で
あ
る。
従
って
、
ウ
ェー
バ
ー
に
お
いて
は
、
《信
念
な
き
こ
と
と科
学
的
『客
(20)
観性』とはなんらの内的縁由をもも
っていな
い》。
論磁
以上の事柄は、別の表現でいえば
「科学的不遜性」の問題である。それは、いかに保障されうるだ
ろうか。それには、
・
群
以下
の二つの重要な倫理的な霧
が指警
れる・
会社
ω
現実を測定し、価値判断を導き出すための規準は価かということを読者並びに自己自身に対して、常に意識にもた
掲謝
らすことである。
に一
回
読者
(並びに1
再び
いう1
何よりも自己自身!)に対して、思惟する探求者が語ることをやめて、意欲する人
バゴ
間が発言し始めること及びその箇所を、又その議論が悟性に向っている箇所と感情に訴えている箇所をいつでも明らかに
ウ.・
することである。
ス〃
注(1)
ζ餌二四3
0≦①げ。び
三9×≦oぴ①「一oぎ
い。げ窪
ωσま
.大久保和郎訳
『マックス
・ウ
ェー
バi』1二〇七頁。
マ
(2)
出口勇蔵教授は、「新し
い局面」以後
の研究方
向を次の五
つに総括
される。
(a)
経済学を社会科学
の代表とみたてて、そ
の研
究方法論
な
いし認識論
の構成。
(b)
社会史
な
いし経済史
の研
究。
(c)
ドイツの社会
政策
な
いし政策論
一般
の研究とドイツの政治
に関す
る時事評論
。
(d)
近代資
本主義
の成
り立ちに
ついての、唯
物論的
な見解
とはことな
った理論
の提示
。この方向
はウ
ェーバーの関心をますます
5
ひき
つけ宗教
と社会
との交
渉に
ついての研究
にのび
て
いった。
9
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(e)
経済学や法学など、社会生活
の
一側面
を対象
とする個別社会科学
をこえ、・そ
れらを
つ
つむところの、人間
の社会
的行
動
の科
学とし
ての社会学
の理論。
9
・(出
口勇蔵
『社会思想史』
二三七頁)。
(3)
一三αこ
(困弊
尻。ず。ωけ鼠
一①昌p昏
αo§
O。ぼ騨
山程
ざ
一け霞
乱
霧雪
ω。冨
h二一筈
9
いoぴq涛)ωω.曽刈1鱒
『文化科学
の論理学
の領域
におけ
る批判的研究』
(以
下
『批判的研究』
と略
す)森岡弘
通訳
(「歴史
は科学
か』
所収)、
一〇五頁
。
論
(4)
一三α・讐(Uδ
VOぼo謀一三け弩(。・o賦巴乱
。・ω窪
ωoび9。{梓一一島
田
口a
ωoN一9。ぢo年
一ωゴo『同時
①口馨三ω)
ρ
ト心。。●『社会科学的認識並び
に社
磁
会肇
的認識の
姦
性v』(以下
『窺
性』と略す)緩
恭校閲、裏
袖治
立
覆
暴
『社会科学方婆
湘』、
δ
頁。
学
(5)、
(6)
臣
ユ`
ω●ミ
倉
五〇
1
一頁
。
姻
(・)
・舞
ψ
・・三
三頁
・
社
(8)
一σ一山
こ
(Uo『ω言昌
α輿
V≦
o詳坤oぎ色尺
α臼
ωoN一〇一〇αq一ωoげo昌
昌昌α
α犀8
0ヨ一ωoずo昌
≦
『器
昌ωoび口津①昌)
ω●虹OP
『社
会
学
な
ら
び
に
るけ
経
済学
に
お
け
る
A価値
自由
V
の意
味
』
(以
下
『価値
自
由』
と
略
す)
中
村
貞
二
訳
(『山
口経
済
学雑
誌
』
第
一七
巻
、
第
五
・六
号
所
収
)、
論
一〇
四頁
。
一
(9
)
ぎ凶α・-ω・OO眞
『学
問
』、
三七
九
頁
。
サへ剛
(10)
ぎ一α二
ψ
8
メ
三
八
四-
五頁
。
賑
(11)
一σ準
矯ωψ
①O刈~。。輸三八
五i
六
頁
、
『客
観
性
』、
一四
-
七
頁
、
『価
値
自
由』、
八
七
頁
(第
一八
巻
、
第
一号)。
●
σ
(12
)
内
田
芳
明
『ヴ
ェー
パー
社
会
科学
の基
礎
研
究
』、
七
七
頁
。
〃
(13)
o>・ωω
(∪§
け§
邑
。;
ほ
ユ・邑
・剛。§
証
α・§
。・・巨
・・く。量
巳
喜
。・。巨
σ。&
δ
℃邑
長
三
舞
舞
く。壽
≦募
・轟
け)
物
$
婁
と
鉾
コ
九〇九年
ウィー
ンの鮭
肇
学会
の日程
における国民経済
の生産性
に関す
る論議
のための討
論演説』(以下
『討
論
演
説
』
と
略
す
)
戸
田武
雄
訳
(『社
会
科
学
と
価
値
判
断
の諸
問
題
』
所
収
)、
一五七
一
八
頁
。
(14
)
守
剛α.℃qo●5
♂
『客
観
性』、
一七
-
八頁
。
(15
)
旨凶αこ
ω.凸
P
『討
論
演
説
』、
一五
九
頁
。
(16
)
一三Pり伊
幽S
"『価
値
自
由
』、
(第
一七
巻
・第
五
・六
号)、
一〇
一頁
。
謝(
(17
)
ぎ凶ユ・-q降・Hαポ
『客
観
性』、
一八
頁
。
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(18)
一三α`ω・一〇♪
二
一一
二頁。
(19)
一三9燭9
誌ρ
『討論演説』、
一六
一頁。
95
ヨ
(20)
害草
葡ω●ドα8
『客観性』、
二六頁
。
(
②
「客
観
性
」
と
価
値
論
こ
れま
で
の論
述
に
お
いて
「価
値
判
断」
と
「経
験
的
知識
」
と
を原
理的
区
別
(『ヴ
ェ
ルト
フ
ラ
イ
ハイ
ト』)
し
た
場
合
に
、
無条
法勤
件に妥当する難
の認識、つまり
「経験的実在の・罹
的整序」が社会科学の領域に事実上存するということを前提として
飼
いた。かくして、真理の客観的
"妥当"とは、社会科学の簸
においては何を意味し得るのかを論ぜねばならぬ以上この
社る
前提
がいま問われなければならな
い。
け訪
人間生活の諸事象を、それが有する文化意義の観点から考察する科学を
「文化科学」と呼ぶなら、われわれの意味する
{
社会科学は・・の籐
に属す・・とさ撫祝・そして・社会科学は二
つの文化科学として・文化生活
の特殊的な側面を抽
一
アインザイテイツヒカイト
九
出し、その主題を限定するのである。..の特殊的観点は、いうまでもなく
一面的であるが、かかる
コ
面
性Lこそ目指す
距
とこ
ろなのである。これに対して、特殊的な考察方法を
一つの普遍的社会科学に拡大することによ
ってかかる
一面性を救
クツ
うことが、進歩していく科学的研究
の任務であるという信仰があるが、これは文化科学の性格を知らない誤謬である、と
マ
される。
というのは科学の研究領域の根底にあるものは、
「ヘへ
事物」
の
「琉弥ハ駆物b」連関ではなくて
「跡題」
の
「思悔
へ的」
連関であり、新しい方法によ
って
一つの新しい問題が追求され、それによって新しい意義⑳ある観点の開示する真理
が発見される時、そこに新しい
「科学」が成立するからである。
一定の文化要素の意義は、このような特殊な観点によ
っ
ての
み明らかにされるのである。
9
![Page 16: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/16.jpg)
論磁
ているところの、われわれをとりまく生の現実態を、応
徳
宴
歌
難
し、1
芳
ではその各個の現象の連関と文
学
、
、
、
、
科
化
意
義
と
を
そ
の今
日
の姿
にお
い
て、
他
方
では
そ
の
歴史
的
な
、
「かく
成
って他
と
成
ら
な
か
った
」
存
在
の根
拠
を
理解
し
よう
と
会碓
欲する。
〔「理解」については、独立の項昌
において詳しく後述する〕。
ところが、生が直接われわれに対して現われる
けお
仕方を
みると、それは、われわれの外や内に、継続的に相続いて又は同時的に相並んで、現われ且つ消えていく無限の多
にし
様性をも
った事象として現象している。従
って、この無限の現実を有限の人間精神によって認識する場合、その思惟的認
ノゴ
識はす
べて、実在の有限なる
一部分のみが科学的把握の対象となり、その部分のみが
「知るに値する」という意味で本質
ウ.
的であるべきだ、という暗黙
の前提に基づいているのである。だが、如何なる原理によ
ってこの部分
が選び出されるので
ス〃
あ
ろ施
v・
マ
・ク
ス
●ウ
・ー
バ
ーは
・
こ
の占だ
関
し
て・
『学
問』
論
文
にお
いて
次
の
よ
う
に述
べる
・
マ
す
べての学問的研究の前提として
ω
論理学と方法論との規則の妥当性
回
学問的研究をして生じる結果は、「知るに値する」という意味で重要である
の39
の二点を上げ、この回の前提の中に、われわれの全ての問題は、明らかに隠されている、というのである。しかも、研究
(
かく
して文化生活あるいは社会現象-
後者は前者よりも狭いが、本質上全く同じことを意味する一
は、特殊な
二
89
面的」観点をもって始めて科学的に分析される。このような観点のないそのままに「客観的な」分析はありえない、とされ
る。社会現象は、この観点によって研究対象として選択され、分析され、叙述的に組織づけられるからである。
さらに、(われわれの研究しようとする社会科学は、一つの現実科学であり、われわれはそのなかに、われわれが置かれ
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結果が重要であるかどうかについては、学問自体は答えることはできない。それは、ただ、人々が各自その生活上の究極
)
(3)
」
97
の立場からこの結果を拒否するか、あるいは承認するかによ
って、解釈されうるのみである、という
。
ω
したが
って、社会科学
の関心の出発点は、疑いもなく、われわれをとりまく文化生活の現実的な、従
って個別的な形成
である。故に、文化現象
の形成の意義やこの意義の根拠は、如何なる完全な法則概念の体系からも基礎づけられず、又、
論碓
理蟹
れることもできない。なぜなら、それは文化現象
の価値理念
への関係を前提としているか
りである。文化の概念は
群
;
の価値概念である・経験的契
がわれわれにと
・て
「文化」となるのは・われわれがそれを価値理念に関係させるか
会鰍
ら
で
あ
り
、
そ
し
て
又
そ
の限
り
にお
いて
の
みそ
、つな
の
であ
る
。
即
ち
《「文
化
」
と
は
、
世界
生起
の意
味
の
な
い無
限
の、つち
か
り、
ナ謝
た間
の立場において意味と意義とをも
って考え出された有限の
一片である》。従
って、《一切の文化科学の先験的前提は、
こと
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
一
わ
れ
わ
れ
が
一定
の、
若
し
く
は
一般
に
いず
れ
か或
る
「文
化
」
を
価
値
あ
り
と
認
める
こと
では
な
く
、
わ
れわ
れが
意
識
的
に世
界
に
ゅへ
到
対して欝
をとり且
つこれに蕊
を与え・能能力・意志とを具えた念
念
匁
・・
いうこ・で睾
.
「価値」とは、《ぞ
ウ・
れは
(単なる
「感情内容」に対照せしめられるものであ
って)或る態度決定の、即ち積極的であるか消極的であるかの如
スク
何を問わず、或る分節され意識された
「判断」の内容となりうるものであり決してそれ以外のもの
で
は
な
い1
即ち、
ツマ
「妥
当性を要求しつつ」われわれのもとに立ち現われ、
ついでわれわれに
「対する」
「価値」としてその
「妥当性」がそ
れに応じてわれわれに
「よって」あるいは承認され、.あるいは否認され、あるいはまた極めて複雑にからみ合
いつつ
.「評
価的に粉騒
な
」ところのなにものかなので臥砧》・
故に・
マ・ク・
・ウ
託
↑
〔文化人〕が求
めてい・認識は、歴
史的な、即ち、.その特性において意義をもつ現象の認識であり、われわれが現実に近づく場合にもっところの文化価値理
9
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念に関係する部分のみが、無限に豊かな現象の中で有意義となり、それだけが因果的説明の対象とな
るのである。
《文化
00
ヘヘ
ユ
科学的認識は、それが、われわれが文化意義を与える事実に対して何らかの1
如何に間接的にでもi
関係を有すると
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
ころの実在の部分だけにかかわる点において、
「主観的」諸前提に結び
つけられている。
それにもかかわらず文化科学的
、
、
、
(6
)
論
認識は、個性的で質的性質をもつ重要な自然現象の認識と全く等しい意味で、純粋因果的認識であることも勿論であるV。
搬
〔「文化科学的認識は因果的認識である」という後半の・いわゆる
〈因果帰属〉の命題については・より大きな項昌
にお
学
、
科
いて詳しく後述する〕。
そしてこの因果問題は、
この場合、法則の問題ではなくて、具体的な因果関連の問題であり、帰
会碓
属0陽騒である。従
って、ある文化現象な
いし歴史個体の因果的説明が問題となる場合には、常に因
果法則の知識は研究
け防
の目
的
で
は
なく
て
、単
に手
段
にす
ぎ
な
い。
勿
論
、
.あ
よう
に
述
べ
た
か
ら
と
い
.て
、並・遍的
な
も
の
を認
識
す
る
.と
、抽
象
的
し
類概念を構成すること、規則性を認識し法則的連関を定式化することが、科学的な存在理由をもたな
いという
の
で
は
な
↓エ
い。
個性的な結果を妥当なやり方で帰属させる為には、
「法則定立的」な知識
〔因果連関の規則性の知識〕が必要だから
ウ距
である。問題は、結局、歴史的現象の認識にと
っては、最も普遍的な法則はその内容が空虚な為に最も価値に乏しいとい
クツ
うこと、文化科学では普遍的なものの認識はそれ自体価値をもつものではないということである。か
く
し
て
文化事象を
マ
「客観的」
に取扱うということが、経験的なものを
「法則」に還元することであり、且つそれが科学
的研究
の理想目的で
あると考えられるなら、このことは無意味だということになる。これは、文化現象が客観的には法則
的に生起することが
少な
いからではない。そうではなくて、前述の如く、社会法則の認識は手段にすぎず、又、如何なる文化形象
の認識も、
の39
個性的な生の現実が特定の個
々の関係においてわれわれに対してもつ意義を基礎としないでは考えら
れないからである。
(
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この点は法則の明らかにしてくれるものではなくて、われわれの価値理念が決定する。従
って、文化的現実
の認識はすべ
)
て・
いつでも特殊な観点からなされる認識でみ紀・
御
ズブイ
エクテイロフ
さ
て、価値理念が
「主観的』であるということには何の疑
いもない。故に、文化科学的認識は主観的前提に結びついて
いる。しかしそうだからといって、文化科学的研究は、ある人には妥当するが他の人には妥当しないという意味で主観的
論舵
な成
果しかもち得ないということにはならない。即ち、《何が研究の対象となるか、どこまでこの研究
が無限の因果関連の
学
、、、、
科
中
へ拡げられるか、ということを規定するのは、研究者及びその時代を支配する価値理念であるV〔傍点引用者〕。研究の
会.鰍
方法
においては、指導的な観点が、使用される概念的補助手段の構成を規定する。しかし、その使用
の仕方においては、
ナ謝
探求者は勿論
いつでも、われわれの思惟の規範
〔論理学の妥当性〕に拘束される。何となれば、科学的真理とは、真理を
ロ
ヒー
、
、、
(8)
し
欲
す
る
全
て
の者
に妥
当
す
る
も
の
でな
け
れば
な
ら
な
い
から
。
[エ
し
かし
、
こ
の場
合
、
次
の
こと
は
無
意
味
だ
と
いう
こと
が指
摘
さ
れな
け
れば
な
ら
な
い、
と
ウ
ェー
バ
ー
は育
つ。
即
ち
、
一つの
ウ・
完結した概念体系を作り上げ、その中に何等かの意味で究極的に現実を組成し、総括し、その体系から再び現実を演繹し
ス〃
うるようにすることが、たとえ如何に遠
い将来のことであれ、文化科学の目標である、と考えることである。生の流れは
マ
永遠
に限りなく流転し、人間を動かす文化問題も常に新しい色彩を帯びて構成される。われわれが意義を与える歴史的個
体も無限に流動するのであり、それを科学的に把握する思惟連関も変転を重ねる。かくて、人間が汲
みつくし難
い生につ
いて全く無感覚になり、新しい問題を設定することを忘れてしまわな
い限り、文化科学の出発点は無限の未来にまで変遷
ユ
(9)
10
しつづけるのである。
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注
(1
)
】甑飢`
ω」
O鈎
『客
観
性』、
三
七
頁
。
2
コ
む
(2)
一σ一匹こ
ψω
ミ
O~㌍
四四
i
五頁
。
・
1
(3
)
一三傷二
ωω.αO。。~O"『学
問
』、
三七
六
-
七
頁
。
(4)
一9色二
ω・↑G。ρ
『客
観
性
』、
五九
頁
。
(5)
≦
炉
(菊Oω自
費
暑
畠
区巳①ω
巷
ユ
90
δαq直島
①口
唱『〇三①∋O
α醇
三
ω仲O『凶ω警
①『
2餌二〇ロ巴αぎ
昌O∋冨)
ω・這
ω・
『ロ
ッ
シ
ャー
と
ク
論
ニー
スお
よ
び
歴史
学
派
経
済
学
の論
理
的
諸
問
題
』
(以
下
『ロ
シ
ッヤー
と
ク
ニー
ス』
と
略
す)
松
井
秀
親
訳
、
口
、
一一〇頁
。
施
(・)
・σ・含
旨・。茸
毒
性』、六
責
。
学
(7)
憲
匹`
ω」
c。9
五八
頁
。
舗
(・)
・・算
・
…契
三山
頁・
社
(9)
一三αこψ
一。。合六五頁。
拓お
③
因果帰属
にし
《もし歴史家がその叙述の形式において、読者にもろもろの認識根拠を説明してみせることなく彼の歴史的因果判断の
ノゴ
論理的結果を知らせ、判断に至るまでの過程について事細かな
"理屈をこねる"代りに、もっぱらそれを
"暗示する"よ
ウ距
うな形
をとる場合、この歴史家の叙述は
一篇の歴史小説であっても、決して科学的立証ではないであろう。
つまり芸術的
〃
形式をまとう外観の背後に咽果帰属という、がっしりとした骨組みが欠けていたなら、それは科学的
立証とはいえないと
マ
思う。
この骨組みこそが何といっても論理学の無味乾燥な観察方法にとって重要な問題なのである。
実際
の所、歴史叙述も
"真理"としての妥当性を要求する。われわれが今までもっぱら観察してき
た歴史叙述の研究の
最も重要な側面である因果の追求がこのような
"真理"として妥当をえるのは、この因果追求が、例
えば論争をよんだ時
の40
などに、あの遊離と
一般化の吟味に耐えた場合にのみかぎられるのである。つまり客観的可能性の範疇と、それによって
(
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可能
となる綜合的因果帰属とを使用して、因果的な個々の構成分子を遊離し
一般化することによ
って行なわれる吟味に耐
)ユ
えた場合に初めて因果の追求は妥当性を獲得す・ので魏
》・
以上の引用から・
因果帰属の論理的盤
の問題が、・・-
C⑳
バーの文化科学の論理学の領域における重要問題であることが明らかであろう。
さて、以下
『批判的研究』論文を手がかりに、この問題をフォローしよう。ウェーバーは、この因果帰属の論理的構造
論施
の問題に、客観的可能性及び適ム・的因果連関の罐
をも
.て匁。え・。客観的可能性とは何か。或。豪
Aが董
Bに対し
群
て如何なる意義を有するか上
種の思惟実験によ・美
・えようとするものである。結果・を制約するものとしてはA以外
磁
にも創型…
があ・わけであ・が、・のAを取除み
、あ・
いはこの条件複合体A溜…
・を
是
の方向に与え・か、して
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
捌
みた場合、
《一般的経験諸規則に従えば、当の出来事の経過が、われわれの関心にとって決定的な諸点で何かある実際と
弍
は違
った形の方向をとって進みを
であろ施
》即ち・
《かくな
・て他とならなか・た媒野
何故か・ということの判断
バゴ
が客観的可能性判断である。故に、この判断の客観性
(確かさ)が想定に基づき、経験的知識
("歴史的状況"
に属し、
ウ
文献
に基づ
いて
ハッキリと証明できるような特定の
"事実曜についての知識
〔つまり
"存在論的"知識〕及び多くの人間
スク
が熟
知している特定の経験諸規則についての、特に、人間が与えられた諸状況に対して如何に反応するのを常とするか、
ツア
そのあり方についての知識
〔〃法則論的"論
〕)に依拠するということから・客観的可能性判断が必然性判断ではなく、
蓋然性判断であることが明らかであろう。
次
に因果帰属にと
ってもう
一つの重要な概念である適合的及び偶然的連関の概念をウ
ェーバー自身
の依拠するクリース
ヨ
が用
いている簡単な日常的判断の例を田中真晴教授の論文より紹介しみ犯・次の・うな二つの場合が想定される。
皿
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A
駅者が眠
って道を誤り、旅人が雷に打たれて死んだ。
410
B
駅者が眠
って馬車が顛覆し、旅人が死んだ。
A
の場合でも、もし駅者が眠
っていなか
ったならば、落雷の時、馬車は落雷地点以外に在り、従
って旅人は死ななか
っ
たであろう。その意味において、Aの場合においても駅者の眠りは旅人の死の原因であ
った。しかし、A
・B間には次の
論磁
如き相違がある。即ち、馨
の眠りは必欝
憲
章の顛覆を達
するものではないが、多くの場合にお
いては署
が曝
・
学科
ない時よりも眠
った時の方が馬車の顛覆が起り易
いと
いうことを、われわれは知
っている。それに反
して、駅者が眠ると
会稚
いう
ことは必然的に旅人が雷に打たれるということを
惹起せぬのみならず、多くの場△・において、
駅者が眠
・た時
の方
ナ
ヘへ
謝
が、眠らぬ時よりも、旅人が雷にヨリ打たれ易いとも、われわれは考えない。このような
一般的
「経験的規則」に基づい
に
へ
し
て、われわれは馬車が顛覆して旅人が死ぬという結果に対して㍉駅者の眠りは助成的
(促進的)事情
であるが、旅人が雷
ノゴ
に打
たれて死ぬという結果に対して、駅者の眠りは助成的事情ではない、といいうる。
ウ.
一般に、結果乙の原因的諸要素中に甲が存在する場合、甲が乙の助成的事情と見倣されうるときには、
ス〃
、
甲を乙の適合的原因
マ
乙を甲の適合的結果
と呼び、両者は適合的連関に立つという。甲が乙の助成的事情でない場合には、
甲を乙の偶然的原因
240
乙を甲の偶然的結果
(
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論地
相の
一部変更の想定下における思惟像の欝
による客観的可能性判断のみでは、Aの場合でも、・の場合でも、駅者の眠
学科
りは旅人の死の原因といいうるに過ぎず、常識的にも漠然と感じられるA
・Bにおける因果関係の相違を、規定すること
会社
はできない。しかるに適合的および偶然的連関の概念を導入することによって、A及びBという
一回的事象においては、
掲捌
明ら
かに何れも駅者の眠りが原因であったにもかかわらず、
一般的場合の考察
(即ち、経験法則知
への依拠)
に基
づ
い
に
(7)
一
て、
これら
二つの場合における因果連関の親疎性の差異という点から両者の相違を性格づけうるのである」。
さらに
ウ
ェ
バゴ
バーは、
『批判的研究』論文の前半第
一章の主題
・「歴史学」における
「価値分析」(一1「価値解釈」)
の位置と意義を鮮明
ウ・
1にすることの中で、歴史解釈の多様な可能性を論ずるのである。
スク
ウ
ェー
バ
ー
は
、
ゲ
ー
テ
の
シ
ュタ
イ
ン夫
人
宛
の
手紙
を題
材
に
と
り
な
が
ら
、
そ
の
「手
紙」
と
いう
一つ
の
「事
実」
の解
釈
が
一
ツマ
見簡単なようで実は如何に論理的には互いに意味を異にする解釈の多様な世界が成立しうるかを鮮かに論じていくのであ
麗
・そこに五
つの解釈をウ
・ーバーはあげながら・結局は原理的に二つの論理的局面に問題が整理されしぼら
れ
て
い
く。その中から考察方法における二つの根本的対立をウ
ェーバ:は主題的に提示するのである。それが「歴史的因果分析」
05
と
「価値分析」の対立なのであるが、これをウ
ェーバーは実在根拠と認識根拠との対立として説明している。歴史的現実
-
と呼び、両者は偶然的連関に立つという。従
って、右の例において、Aの場合は偶然的連関であり
(駅者の眠り11偶然的
)03
原因、旅人が雷に打たれたこと11偶然的結果)、
これに反してBの場合は適合的連関
(駅者の眠り睡適合的原因、馬車の
但
顛覆11適合的結果)であることが明らかである。
「適
合的
・偶然的連関の概念は、明らかに、具体的因果連関把握の方法論的認識における
一歩の前進
である。単に先行様
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を
構成
し
て
いる
一つ
の
「事
実
」
に
つ
いて
は
(シ
ュタイ
ン夫
人
宛
の
ゲ
ー
テ
の手
紙
に
つい
て論
証
さ
れ
て
いる
よう
に)
いろ
いろ
610
ヘ
へ
な立場から解釈が可能である。その場合大きく二つに分けて、ωその
「個別的事実」を、《ある
一つの抽象的概念を代表す
、
、
(9
)
、
、
、
、
る
一つの
「典型的」な事例として、つまり認識手段として》取り扱う場合が「認識根拠」として見る立場である。ウ
ェーバ
盒
1のあげている具体的な例にみると、
シュタイン宛のゲーテの手紙について、
そこにあらわれた
ゲーテの
体験の事実を
きロ舵
《ゲ
ーテの人生観の
薇
候」として問題に為
》場合・これはその手紙をゲーテの人生観の認識の手
段・手がかりとする
学館
のであ.て、そのような人生観を規定した
「歴史的原因」や
「歴史的影響」は問わない立場である。あるいはその手紙を
狙
ゲー
ア個人の人生観の理解の手段としてではなく、それを越えて、その当時のドイ・の特定の社会層
の精神的態度の
「類
捌
型的特質」を認識する手段としてもよいのである・同じことであるが
マルクスの
蚕
本論」の例でウ
・ーバふ
述べてい
にし
るのも引用しておくと、『資本論』
の成立の時代史的思想史的背景や歴史的影響などの歴史的問題を抽象して
「資本論』
ノ
ゴ
の思想的理論的内容そのものを
一つの思想体系として
「価値分析」の対象とし、より完全な経済理論
なり経済社会の法則
ウ・
なり
の認識の素材となすことができる。圖その同じ
一つの
「個別的事実」を、今度は
一つの歴史的事実の因果関連の中
一
ス〃
つの構成要素として位置づけて理解することができる。
例えば、
『資本論』の思想をロシア革命と関連づけることができ
マ
、
、
、
、
る
。
そ
のよ
う
な
場
合
を
「実
在
根拠
」
と
ウ
ェー
バ
ー
は名
づ
け
る
。
と
こ
ろ
で
ウ
ェー
バ
ー
は
こ
の
二
つの関
係
を
如何
な
る
も
の
と
し
て把
握
し
て
いる
だ
ろ
う
か。
ウ
ェー
バ
ーは
、
ま
ず
、
「事
実
」
の
見方
をめぐるこの二つの見方を論理的に区別する。
そしてその上で両者を関連づける。
ウェーバーは、
社会科学
どして
の40
の、従
って
「現実科学」としての
「歴史学」の世界は、よく素朴に歴史家が信じているように
(単純
な
「事実」の再現だ
(
'
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ヘ
へ
と
か
、
目
前
の諸
事
実
の
「単
な
る」
叙
述
だ
と
か》
によ
って
、
又
は
「模
写」
に
よ
って
、
構
成
さ
れ
た
り
でき
る
も
ので
は
な
い、
と
)
(11)
、
、
、
、
、
、
、
O
考
え
る
。
む
し
ろ
「事
実
」
を
「実
在
根
拠
」
と
し
て歴
史
的因
果関
連
の中
に組
み
入
れ
る
こ
と
に
よ
って、
(そう
いう
科
学
的
手
続
き
¢
を
経
て)、いわ
ば
こ
のよ
う
な
歴
史
的
現
実
の世
界
が
開
かれ
る為
に
は
、事
実
関
連
の方
向
を
示
し
たり
、
そ
の
よう
な
事実
関
心
を抱
か
せ
た
り
す
る
こ
と
が
あ
ら
か
じ
め
必
要
であ
る
が
、
そ
れを
提
供
す
る
のは
、
「事
実
」に
つ
いて
の
「価
値解
釈」(「価
値
分
析
」)
であ
り
、
論舵
従
・てその為には個裂
実事
がかりにして
「価値」や
「理想」や
「理念」や
「理論」を
義
的に鮮
明に認識する作業が
学科
前提とされる。これが
「事実」を
「認識根拠」と見る見方である。この見方と作業をとおしてはじめて類概念、法則
・現
金術
則概念
が構想されることができる。即ち
「イデァルティプス」が構成されることができる。そして
「イデァルティプ・」
ナ押
は歴史的因果帰属に奉仕するのである。
にし
以上
、具体的因果連関把握の認識論ーー方法論的構造を、きわめて簡単な例によって示したが、更に進んで、如何にこの
ノゴ
因果帰属の原理が、ウ
ェーバーの内容的労作に実際に貫徹されているかを課題にすべきであろう。しかし、この課題の十
ウ・
分な検討は他日を期させざるを得ない。従
ってここにおいてはただ、この課題の為
の手がかりとして以下簡単なレジ
ュメ
ス汐
を示す
に止めた
い。
マ
〔レジ
ュメ〕
宗教社会学における
〈客観的可能性と適合的因果関連〉
1
『宗教社会学論文集』の構成
く
一、序言
07
二、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
1
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三、プ
ロテスタンティズムのゼクテと資本主義の精神
四、世界宗教の経済倫理
緒論
五、儒教と道教
六、中間考察
108
論舵
七、印度教と仏教
学科
八、古代
ユダヤ教
会社
付論
パリサイ入
るユフ
脚
¢
盒.遍的な意味、並.遍的な妥当性をも
.た発展過程を辿る・うな文化現象は、他な・ぬ西欧社会に、しかも西欧社
し
会のみに起
ったことである、と少なくとも考えるのだが、これはいったいどう
いう諸事象が重な
った為
にそうな
ったので
ノゴ
あろうか。近代世界に生を享けた寡
普遍史的な取り扱
いをしょうとすると・どうしてもこういう問題をたてることにな
ウ
(12)
・
る
のだ
が、
そ
れ
は
正
当な
こ
と
であ
るV。
ス〃
「何故西欧社会にのみ起
ったのか」という問題意識は、もう
一歩掘り下げれば
「何故、よそになか
ったか」を問うこと
マ
になろう。この問いは、まさしく
<客観的可能性〉の発想法にささえられている。
¢
「プ
ロテスタンティズ
ムの倫理と資本主義の精神」
「プ
ロテスタ
ンティズムのゼクテと資本主義の精神」
の研究企
図は、カルヴィニズム、パプティズムその他の禁欲的プ
ロテスタンティズ
ム諸派の経済倫理
(エートス)と、近代西欧に
の40
おける資本主義発展のいわば精神的推進力とな
った
「資本主義の精神」の間に存する内面的連関
(〈適合的
及び
偶然的因
(
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果関連〉)を明らかにし、それによって、《無数の歴史的要因から生まれいで、独自の
「現世的」傾向を帯びる近代文化の
)07
発展
の織りなす網》
の中で宗教的動機がどこまで歴史的原因として、
いわばそうした
一筋の
「横糸」
として働いてきた
臼
か、を追究するにある
(大塚久雄教授)。この二論文においては、
宗教的信仰内容一↓資本主義の精神
(エートス)
論艦
という
一面的因果関係が追求される。この二論文に続く
「世界宗教の経済倫理」の諸論文においては、世界の最も重要な
群
文化諸宗教について、
会社
宗教的信仰内容U
経済及びその担い手たる社会層
掲
(7)
捌
と
いう
相
互的
関
係
が検
討
さ
れ
る
。
に
〉
、
、
、
一
4
《こ
の論
文集
に
お
いて
は
、
二
つの
旧
論文
が
冒頭
に置
か
れ
て
おり
、
一つの重
要
な点
に
お
いて
、問
題
の
通例
も
っと
も
拙
く
く
ノゴ
摂
し難
い側
面
に
近
づ
こう
と
し
て
いる
。
即
ち、
あ
る
く経
済
心情〉・〈エi
ト
ス〉・経
済
様式
の発
生
が
特
定
の宗
教
信
仰
の内
容
に
ウ・
.よ
って制
約
さ
れ
て
いる
と
いう
側
面
であ
り
、
そ
れ
も
近
代
の経
済
的
エi
ト
スと
禁欲
的
プ
ロテ
スタ
ンテ
ィズ
ム
の合
理
的
倫
理
と
の
ス
ヘ
ヘ
へ
汐
関連を手掛りにして例証しようとするのである。つまり、ここでは因果関係のただ
一つの側面のみが追求されているにす
マ
ぎな
い。
〈世界宗教の経済倫理〉に関する後続諸論文は、最も重要な諸々の文化宗教とその環境世界をなす経済及び社会
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
層の関係に
一瞥を与え、今後更に分析を進めるべき西欧の発展との比較を見出す上に必要な限りにおいて、二つの因果関
係を追求しようとするものである。何故ならば、ただそうすることによってのみ、西欧の宗教的な経済倫理の諸要素のう
9
、、
(13)
0
ち、他所とは異なる西欧特有のものについて、幾分なりとも明確な因果帰属を試みることができるからである》。
-
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φ
ウ
ェ」バーは、〈比較〉について、『批判的研究』の段階において、次のように記している。《私の意見からしても、
101
比較は因果帰属の為の最も重要な手段の
一つと考えられるが、しかし、まだまだ十分というにはほど遠い程度でしか利用
(14)
さ
れ
て
い
な
い
》。
注
(1
)
一三α二
ω.ω
卜。刈。。~P
『批
判
的
研
究
』、
一九
五-
六
頁
。
論
.
法
(2
)
害準
℃ω・卜。。。。。噛二
〇
〇1
一頁
。
勃
(・)
・σ具
ψ
H・.9
『毒
性』、六葦
科
(4)
寄算
uω.卜。刈9
『批
判
的
研
究
』、
一九
二頁
。
絵
(・;
算
ψ
・…9
二・六頁・
掲
(6)
田中
真
晴
「因
果
性
問題
を中
心
と
す
る
ウ
ェー
バ
i方
法
論
の研
究
」
(安
藤
英
治
.内
田芳
明
.住
谷
一彦
編集
『マ
ック
ス
・ヴ
ェー
バー
お
の
思想
像
』所
収
)、
二
二六
頁
。
こ↓
(7)
前
掲
書
、
二
二七
i
八頁
。
パ
(8
)
一三
α・鳩ω・b⊃白
糟『批
判
的
研
究
』、
=
二九
頁
。
一
.
エ
(9
)
一三野
ω.卜。ωメ
一三
三
頁
。
ウ
(10
)
同ぼ鳥4
ψ
卜。心卜。嚇
一四
一頁
。
ス
(11
)
一玄自4
ω.b。ω8
一三
四
頁
。
汐
(12)
O匂UN国ω
(<自9
日o鱒旨
σq)H
ψ
一●『宗教社会学論集一
序言』
(以下
『序言』と略す)安藤英治訳
(『世界
の大思想』
∬17
マ
所
収
)、
七
一頁
。
(13)
一三匹4
ω・ω
旨
~ρ
八
○
頁
。
(14)
一三α・℃QQ・卜。。。卜。噛『批
判
的
研究
』、
=
一六
頁
。
ω
理解的方法
の40
ヘ
へ
《社会科学で問題となるのは事象の質的色彩である。のみならず、社会科学では精神労働の共働が問題であって、これ
(
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へ
を追体験しつつ
『理解』することは、精密自然科学が解き得る、また解こうと欲するのとは、もちろん種別的に違
った課
)
題で麓
》・「理解」的方法は・以上の
『客観性』論文の叙述から明らかなように・社△衣科学的認識の讐
として強調され
@
ているが、より精緻化された、体系的な叙述は大著
「経済と社会』の
「社会学
の基礎概念」
の中に求めることができる。
し
かし、
この方法が最初に主題として論じられたのは、
いうまでもなく、
彼の最初の方法論文
『ロッシャーとクニー
論施
ス』
においてであ
った。そこでは、二組の問題が論じられたが、その
一組が
「理解」をめぐる問題
であ
った。すなわち、
群
自然界の
「計算可能性」と比較した場合
の人間行為
の・いわゆる
「非合理的な主観」の問題である。
クニ支
が人間行為
会社
は人間の
「意志
の自由」11「非合理性」に基礎をもつ
「計算不可能」なものとして把握するのに対して、ウ
ェーバーは、人
る樹
間行為は自然界における出来事に劣らず
「計算可能」であると主張する。《「天気予報」などの領域における
「自然事象」
に
(2)
一
の
「計算可能性」は、われわれに熟知
の人物の行為を
「計算」することよりも
「確実」
だということは決してないV。従
バゴ
って、ウ
ェーバーにおいては、「非合理性」(11「意志の自由」一1「計算不可能性」)は、決して人間行為
の特殊な構成要素
で
ウ
はな
い。人間行為は自然世界によ
っては共有されない
「主観的」意味内容を持
っており、それ故に、行為者
の行為
の意味
スク
づけを解明しつつ理解するこどは、人間行為の中に認められる規則性
の説明にと
って本質的なこととなる。《わ九われは、
ツマ
その
〔人間の行動の〕解釈のために、少なくとも原理的には、これをわれわれの法則論的な知識と
一致しうるという意味
ヘ
ヘ
ヘ
へ
で
「可能」だと
「把握」させるのみでなく、これを
「理解する」という目標、すなわち、「内面的に」「追体験可能な」具
ヨ
体
的
動
機
も
し
く
は
こ
のよ
う
な動
機
の複
合
体
を
発
見す
る
と
いう
目標
声
を
置
く
こ
と
が
で
き
る
ので
あ
るV。
つまり
、
ウ
ェー
バ
i
11
に
お
いて
は
、
人
間
の行動
は
、
こ
の動
機
も
し
く
は
そ
の複
合
体
に帰
因
せ
し
め
ら
れ
る
も
の
で
あ
る
。
《い
いかえ
れば
、
個
性
的
な
行
-
![Page 30: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/30.jpg)
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
為は、その有意味的な解明可能性
(∪①巳げ費ぎδ
のゆえに、
それが及ぶかぎりは、
個性的な自然事象よりも、
原理的に
2ユ
(4)
1
は
「非
合
理性
」
が少
な
いの
が特
質
で
あ
る》。
そ
し
て、
こ
の
「解
明
可
能
性
」
こ
そが
.《「解
明
可
能
」でな
い自
然
事
象
と比
較
し
て、
(5)
計算可能性に対する
一つのプラスであるV。
以上の論理展開から明らかなように、ウ
ェーバーにおいては、
クニースとは
正反対の命題、すなわち、人間の行為が自由意志に基づき、意識的であればあるほど、人間行為一1計算可能性11「合理性」
論舵
という命題、さらに加えて人間行為幽
明可能性北
合理性」という命題が結果する。
マ・クス・ウ
・夫
あ
「理解社
学科
会
学
」
と
は
こ
のよ
う
な
論
理
構造
を
も
つ
一つ
の科
学
と
し
て
、
『ロ
ッ
シ
ャー
と
ク
ニー
ス』
論
文
で
は
、
描
出
さ
れ
て
いる
。
次
に全
会甜
として
「社会学の基礎概念」の
「轟
」の分類をみよ兎
ナ謝
マックス
・ウ
ェーバーは、社会学
〔理解社会学〕を次のように定義する。
《社会学
(この言葉は極
めて多義的に用
いら
に一
れているが、ここで理解される意味における)とは、社会的行為を解明しつつ理解し、これによってその経過とその結果
バゴ
とを因果的に説明しようとする
一つの科学σことを言
つべきである。
ここでは、「行為」とは、行為者がそれに主観的な
ウ
、、
・
意味
を結び
つける時、その限りでの人間の態度
(それが外的または内的な行動であ
っても、不作為または認従であ
っても
ス〃
問題ではない)のことをいう
べきである。
しかし、「社会的」行為とは、
行為者または諸行為者によ
って思念された意味
マ
、
、
`
(6)
に従
って他人の態度に関係
せしめられ、且つその経過においてこれに方向づけられている行為のことをいうべきであるV。
従
って、「理解」を問題とするには、「意味」を十分に明らかにしておかなければならない。
理解社会学の理解の対象となる意味は、決して、客観的に妥当する意味ではなく、行為者によ
って主観的に思念された
の41
意味なのである。
.
(
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主観的に思念された意味は、
)11
側
事実的に
臼
i
歴史的に与えられた
一つの場合に、
一人の行為者によ
って主観的に思念された意味
"11
与えられた多くの場合に、平均的且つ近似的に多くの行為者によって主観的に思念された意味
論
、、
、、、、、
磁
回
概念的に構成された純粋型の形で、
一人あるいは多くの型として考えられた行為者によ.て主観的に田心念された意
鮮
味
会
(7)
社
に分けることができる。
「掲撤
理解は、方法の上から分けると
に一
、ω.
現実的理解
(α簿ω㊤犀仕口O=Φ<①房件OゴOコ)
バゴ」
.
回
説
明
的
理
解
(ユ餌ω
O吋閃一襲「①づ画①
<O「ω梓①ず①づ)
ウ.
と
な
る
。
スク
ω
の現実的理解とは、行為
(意志表示〔表現〕を含む)の思念された意味をそのまま現実的に理解することである。即ち、
ツマ
i
思想の合理的現実的理解一
例えば、われわれがb。×卜。11隣という命題を聞いたり読んだりす
る場合、その命題を
現実的に理解するように。
"11
感情の非合理的現実的理解一
例えば、表情とか、叫びとか、
といった
非合理的動作のう
ちに示される怒の情
13
を
、怒
って
いる
のだ
な
と
いう
よう
に現
実
的
に
理解
す
るよ
う
に。
.
.
.
1
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」血
㌔行為の合理的現実的理解-
例えば、銃をもつて動物を狙
っている人の態度を動機を問うことなく現実に理解す
411
るが如きことを意味するゆ
これに対もて、回の説明的理解とは、
論
.-
合理的な動嚢
定的理解-
例え賎
ある人が蕊
×・、些
という命題を述べたり、書いた人
が、・まさ
にこの時、
艦
この連関において・かく為いたことに志んな意味繕
び合わせたかを動撰
定的に理解する・即ち・彼が・商人的な勧
学翻
定
をしいるのか、科学的証明をしているのか、技術的な計算をしいるのかを理解する。
碓
i
非
合理的な動機決定的理解一
例・凡ば、ある人が弩
ているのは・嫉妬のためなのか・ある
いは自負心が損われ
けお
乾
からかけ又
」は名誉が傷
つ酵ち
れたから
か、このどれによるものかを知ることによって、この怒を動機決定的に理解す
に艦
みこ老恥かできる葬亡
∵n、一」「」
弼」
従
って、
「説明」とは、
行為の意味を取り扱う科学にあっては、現実的に理解できる行為がその主観的に思念された意
り処
味から見て、
いったい如何なる意味連関に属するか、その意味連関の把握を意味する。
クヅ
次
に理解を対象の上から、即ち意味の方から分けてみると。
マ
ω
個々の場合に現実に思念された意味の解明的認識
(歴史的な考察において)i
これは意味の分類ωの一に相応す
る
。
「
回
乎均飽に近似的に思念された意味の解明的認識(社会学的大量観察において)一
これは意味のωの"11に相応する。
助41
囚.
反覆
的
現象
の純
粋
型
(イ
デ
ア
ル
テ
ィプ
ス)
の為
に
科
学
的
に
構
成
さ
れ
る
(イ
デ
ア
ルテ
ィ
ピ
ッシ
ュな
)
意
味
連
関
の解
明
(
![Page 33: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/33.jpg)
(8×9)
的認識-
これは意味の回に相応する心
.
,
,
:
)ヨ
と
す
る
こ
と
が
で
き
る
。
幽
41
・.・
ー
-
.一.幽」」.
噌
幽
(
注
(1
)
乏
い・rω●ミ
ω噂「客
観
性
』、
四八
頁
。.
.
(2
)
崔
幹
hψ
①伊
『ロ
ッシ
ヤレ
ど
ク
ニi
乃』
け
一三頁
。.
論
(3
)、
(4
)
ま
蒼
》ψ
①P
=
二九
一
四
〇
頁
ゆ,、
-・
法
(5
)
冒
二
℃ω●OO二
四
二頁
。
勃
.容
)、(・)..景
。
(ω§
・・。・・讐
9
・a
・・。・鼠
・)葺
・雪
・・讐
ぎ
・・"。・ρ
5
・『社会学
の暮露
念』(以下
塞
業
念』と
蜘
.、へ8ゾ罷
課
癖
懸
麟
響
緬鷲
.、
.
.、
.
.
.
.
.
.
・
・
る
一(9),岡
田謙
,『理解社会学』、三-
一六
頁。
け講
⑤
イ
デ
ア
ル
テ
/プ
ス
・
「
↓バ
か
く
し
て
、
マ
ック
スr.、ヴ
ェー
バ
王
は、
文
化
認
識
の
『客
観
性
」
の考
察
に当
って、
科
学
的
研
究
に使
用
す
る概
念
の論
理的
機
能
帖
及び難
は如何な・ものであ・か・又は
《文化実在の認識に対す・理論並び鐘
論的概霧
成の意義はなんであ蓼
と
距.
いう
問
題
に向
う
。
即
ち、
こ
の問
題
が
、
い
わ
ゆ
る
『イ
デ
ア
ルテ
ィ
プ
ス』
の
問題
であ
る。
こ
の
「イデ
ア
ルテ
ィ
プ
ス」
の
開
題
こ
クツ
そ
、
ウ
ユ
ー
バ
ー
の最
初
の方
法
論
文
『ロ
ッシ
ャー
と
ク
ニー
ス』
の
もう
一つの主
題
(す
な
わ
ち
、
『理解
』
の
問題
と
と
も
に)
を
マ
構成するものであ
った。
一言でいえば、二人の著作における、厳密な経験的方法の立場に身を置くことと古典的観念論哲
学から摂取された
「神秘的」
、概念を使用することの混同に対する批判として展開されたのである。以下、
「イデアルティ
プス」
の構成と機能について簡略仁記述しておこう。
'
ら
ヘヘヘ
ヘヘヘ
ヘヘ
ユ
《イ写アルティプスは、
ご個の、又は借干の観点の
一面的高昇により、そしてこの
一面的に高昇された観点に合すると
ー
![Page 34: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/34.jpg)
ヘ
へ
ころ
の、ここには多くかしこには少なく、所によ
って憾全く無
いというように分散して存在する賎し
い個々の現象を、そ
鵬
れ自体において統
{一された避つの.思想像に結合することによ
って獲得される。この思想像はその概念的な純粋性において
(2)
現実
のうちにはどこにも経験的には見出され得ない。それは』.個のユートピアである》。《この思想像
は、歴史的生活
の」
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
定の関係と事象とを結合して、思惟された諸連関の矛盾のない世界を作り上げる。内容上この構想は
ユートピアの性格を
論搬
帯び実在の建
の要素の思想的高昇によ
・て獲得されたものであ蕊
・
騨
才
デアルティプス」が以上のよケに護
されるとすれば・すなわち特定の観点の
一面的高昇による・それ自体無矛盾
会碓
の思想像として蔑
されるとすれば、それは、
いかなる原理にようて寒
れるのであろうか。それは、これまでの考察か
ナ捌
ら明らかなように、次の二つの原理によってである。
に馬
ω
文化価値関係という選択原理
ノ倉
回
客観的可能判断と適合的因果連関
ウ距
文化価値理念に基づいて重要な要素が選ばれるが、その場合、要素の結び
つき方が単なるファンタジーに基づ
いて形成され
〃
るならば、でき上
った「イデアルティプス」は無意味な構成物に終
ってしまう。現実
に根ざし、現実にそくした客観的可能性
塾、
判断
を基礎にしなければならない。これが加わることによって、高昇される概念は、高昇に際して同時
にその現実的特質を
ヘ
ヘ
ヘ
ユ可
トゼ
ア
の中
に伴
う
こと
がで
き
る
よう
にな
る。
つま
り
、《わ
れ
わ
れ
の想
像
力
にと
って十
分
に理
由
づ
け
ら
れ
て
い
るも
の
と
し
(4)
て、即ち、h客観的に可能」だとみえ、われわれの法則定立的知識に適合的だと思われる関連の構成が問題たるのであるV。
の4ー
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
々
ック
ス
・ウ
・エー
バー
の
.「イ
デ
ア
ル
テ
ィプ
ス」
は
、
《評
価
的
価
値
判
断
には
全
く
無
関
心
であ
って、
純
論
理的
『完
全性
』
以
(
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も
も
ヘ
へ
外には如何なるものにも係わらないのである》。即ち、《実在を理想から評価的に判断することと実在を論理的意味におけ
)
る
「イデアルテ・プ・」に論理的に暴
ひ豪
農
わらしめることとを峻別することであ解
くり返していえば・
これ
輔
嗣
(
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
.
ζ
受
が
、学
問
的
自制
の
最
初
の義
務
であ
る
と
共
に
、欺
瞳
を防
止
す
る唯
一の
手
段
に
他
な
ら
な
い。
つま
り
ウ
ェー
バ
ー
の
《知
的
な
(6)
誠実
さVである。
論茄
では、
「イデアルティプこ
概念が経験料学に対して有する意義は何であるか。ウ
・去
走
と
・ては・いうまでもな
学
、
、
、(7、)
科
く
「イ
デ
ア
ルテ
ィプ
ス」
は
《目
標
で
はな
く
し
て
、個
性
的
諸
観
点
の下
に意
義
あ
る諸
連
関
を
認識
す
る
目
的
のた
め
の
手
段
V
で
あ
会・碓
る。
では、如何なる意味において手段と蟹
れているのだろうか。
ナ謝
「イ
デ
ア
ルテ
ィプ
ス」・は
《索
出
的
であ
り
、
叙
述
に
と
って価
値
が
あ
るだ
け
で
なく
、
むし
ろ欠
く
こ
と
の
でき
な
いも
の
で
あ
ろ
に.
ヘ
へ
.}
う
。
研
究・に
と
って
は
イ
デ
ア
ルテ
ィプ
ス概
念
は帰
属
制
断
を
教
え
こむ
。
そ
れは
「仮
説
」"では
なく
仮
説
の構
成
に方
向
を
指
示
す
ノギ
る。それは現実的なるものの叙述ではなく・叙述に対し萌
確な表現手段を与える・…
発生的概念として構成され〔甑
・
ウ
ヒ
ヘ
ヘ
へ
㍗.
(そ
れ
が
実
在
を
比
較
し
測
定
す
る概
念
手
段
と
し
て用
いら
れ
るな
ら
ば
、
研
究
にと
っては
。同い索
出
的
価
値
を
有
し
、
叙
述
に
と
って
ク
(9)
ツ
は
高
い体
系
的
価
値
を
有
す
るイ
デ
ア
ルテ
ィプ
ス
た
る
の
であ
る》。
さ
ら
に
、
「R
・.シ
ュタ
ム
ラ
ー
に
おけ
る唯
物
史
観
の
『克
服
」」論
マ
文では、次のように表現される。
《この思惟の構成物
〔イデアルティプス〕は、
決して経験的認識の終点ではなく・
つね
ヘ
ヘ
ヘ
へ
に索
出
的
手
段
か
あ
る
いは
叙
述
の手
段
(あ
る
いは
そ
の両
者
)
か
であ
るV。
つま
り
、
イ
デ
ア
ルテ
ィプ
スは
、
現
実
を
そ
れ
に照
ら
す
こ
と
に
よ
って
、
次
のよ
う
に手
段
と
し
て
の機
能
を
は
た
す
。
ホイリステイツシュ
ユ
㈲
索
出
的・〔発
見
的
〕、手
段
とし
て
・
1
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⑥
姻果帰属の判断を教える
、
811
㈲
叙述に対する明確な表現手段止して
④
比較および測定の手段として
ゲネテイツシ
ユ
.㈲
発生的概念手段として
論磁
以上の点について
岡田謙著
『轟
社会学』の適確な要約を参照しておこう。
.
・
・-
群
ω
因果帰属の手段と髪
会社
・
こ
の
こ
と
は、
既
忙
明
ら
か
な
よう
に
、
「イ
デ
ア
ルテ
ィ
プ
ス」
の持
つ
「客
観
的
可
能
」
の性
質
か
あ
当然
説
明
さ
れ
る
こ
と
で
あ
っ
掲謝
て
一歴
史
的
関
連
の確
定
は
「イ
デ
ア
ルテ
ィプ
ス」
の助
け
を借
つ
な
げ
れば
不可
鮨
で
あ
る
。
ウ
ェー
メ
ー
は言
う
。
《イ
デ
ア
ルテ
ィ
に↑
プ
ス
概念
せ帰
属
判
断
忍教
え
こ
む》
=
昌
曽
寧
ノ」ゴ
回
現実が比較される手段として
ウヂ
ホイリステイシユ
・
.
(「イ
デ
ア
ルテ
ィ
プ
ス」
の索
出
的
〔発
見
的
〕
価
値
)
ス〃
例え寡、厳密に手工業的に組織された社会の資本蓄積の唯
一の源泉は、地代であるという理論的な結論に達
し
た
と
す
マ
る。次に手工業的な経済形態から資本主菰的形態
への変化の理想像として、制限された土地、人口増加、貴金属の流入、
生活
の倉理化等の要因によって条件づけら九た変化の理想像が構成されたとする。かくして得られた理想像と現実の事実
と老比較してみて、事実上の経過が、.この正しく構成された
「イデアルディプス」'に適応しないならば、中世社会は、あ
の一
のロ
ゆダ
る点で厳密に手工業的社会でなか
ったという証明が与えちれることになるだろう。しそして、.更に、中世社会の手工業的で
(
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論施
中世都市経済とか、キリスト教という概念は、こ托をあらゆる中世都市の経済原理、あらゆる信徒
の持
つ概念の平均か
群
ら得劇テと式礼ばb,無限ば分化レレ、.非煎じ矛啓じだ譜阻連が錯綜する砂みでおる。故に・・「中世都市経済」
「キリスト教」
磯
と蘇
我
藻
窺
彩
筆
・とす葎
7デアルテ・プス」概念の使用に・・て・そこに存茎
定の要甕
醐
そ鍵
雛
繋
誰
窯
強
ければな・な・.
鮮
魚乱発隼駒.〔動的〕・概念において把握しようとする為の手段として
ノ
ロ野
幌え嘆
.峯
婁
鐸
盆
概念は・各・これを純分類的な仕方で徴標の合成体に変化せしめる時には、両者の限界のみな
曳
ヘドご
宅
ゐ
4一心.一3
.一ご
.
二
?ノ
惹
らズ
概禽
奪
・わも常に流動的たらざるを得ない。ところが、宗派の概念を発生的
〔動的〕に、即ち宗派精神が、近代
欣
文
化
に灼
レ
て待
,っだ
あ
る重
要
な文
化
意
義
に関
連
さ
せ
て把
握
し
よう
と
す
るな
らば
、両
者
の特
徴
だ
け
が本
卦
師
な意
義
を
も
って
紘
(11)
く
る。.と
い・ひの
は
A
ζ
れ
ら
の特
徴
が
右
の諸
作用
に対
し
て適
合
的
な
因
果関
連
に
立
って
い
る
か
ら
であ
る。
す
な
わ
ち
、
「発
生
的
」
と
いう
言葉
は
、歴
史
的
・¶発
生」山で
は.な
く
概
念的
読論
理的
..「発
生」-.の意
味
で
つかま
れ
て
いる。
,
L
・
,
「り.
ヘ
へ
訊
うま
り
a
マ
ッ・多
ス避、グ
薫
山
膚
娠
の
バイ
デース
ルnデ
3
プ
スほ
一う
の恵
想
像
で
あ
っ.て、一歴
史
的
実
在
であ
る
の
でも
な
け
れば
、
ま
9
ヘ
へ
むて「本来の」実在であるわけはな惹、凸況んやそ、れは実在が類例ど遣
てそ,の中に配列されるべき
一一つの図式の役目を果す為
-
な
い構成部分の特質なり歴史的意義を、,一層明確に捕えようとする
研究を促すことになろう。
こ
こ
に
「イデアルティプ
)17
ス」
の索出的
〔発見的〕価値があるのである。
"
囚
■叙述に
一義的
・体系的表現を与える為の手段として
(「イデアルティプス」の術語的機能)
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ヘ
ヘ
へ
にあるのでもない。かえってそれは
一つの純粋に観念的な極限概念の意味をもつのであり、それによ
って実在を測定し、
0
`,
2
ヘヘヘ
ユ
比較
し、以
ってその経験的内容の中の
一定の意義ある部分を明瞭ならしめるのである。かかる概念たるや、現実に即して
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
訓練された想像力が的確だと評価するところの客観的可能性の範疇を用
いることにより、われわれがその中に諸連関を構
(12)
成
す
ると
こ
ろ
の形
成
体
な
の
であ
るV。
論法方
注(1)
≦ピ℃o励・目。。9
『客観性』、六
五頁。
学科
(2
)
ぎ岸
・ρ
目リポ
七
三一
四頁
。
襟
(・)
・舞
ψ
目。ρ
七
二ー
三頁。
る
(4
)
一三α`
ω.δN
七
六
頁
。
ナ捌
(5)
ぎ圃Fりω・b。Oρ
八七
頁
。
に
(6)
一三"
璽ψ
8
r
『学
問
』、
三七
九
頁
。
一バ
(7)
亭岸
層ω・卜。◎。ρ
『客
観
性
』、九
九
頁
。
ゴ
(8ζ
葺
甥
§
}
七=一頁。
ウ
(9
)
一び嵐
.、ωω・.ド㊤。。~
り》八
五
頁
。
ス
(10
)
一『乙
(即
ωけロ8
ヨ
8
「ω
(◎げO『ミ貯
α口口oqV
ユO円
ζ
鉾
O「剛巴
凶ω二ωOげO昌
O
OωOげ8
耳
ω9。ロ自国ωω昌oqy
ψ
G◎窃QQ◆
ク
(11
)、
(12
)
一三鳥`
ψ
お
♪
『客
観
性
』、
七
九
頁
。
ツマ
(補
注1)
マックス
・ウ
ェー
バーは、
「イデ
アルテ
ィプ
ス」論を展開するに当
って、
当時
の理論的背景
の整
理と批
判をも
って始
めて
いる。即
ち、自
然主義的
}元論
の狂信的
風潮
の経済学的諸学
科に及ぼした強
い影響
。社会
主義的批判
と歴史家
の研究
とが国民経済学本
来
の価
・値観点
を問
題にし始
めた頃
、
一方
には生
物学的研究
の力強
い発展
、他方
では
ヘーゲ
ルの汎
理論
の影響
が、
国民経済学
をして概念
と実
〉
在
と
の関係
を全幅的
には
っきりと認識
せず
に終
った。その結果、
フ
ィヒテ以後
のドイ
ツ観念論
の哲学
、ドイ
ツ歴史法学
の業績
並びに
姻
ドイ
ツ歴史学
派経
済学
の労
作は、自然主義
のドグ
マに抗
して強大
な堤防
を築
いたにもかかわらず
、なお
一部
分はこ
のよう
な研究
の為
(
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に、自然主義的
な観
点は決定的
な点にお
いて依然
として克
服されず
に終
った
へ『客観性』六
八頁)
とウ
ェーバーは把握
して
いるひ
)
-
実
はこの問題
こそ
『ロッシ
ャーとク
ニー
ス』論文
の主題であ
った。以
下この問
題を法
則科学
と現実
科学
の区別と
いうウ
ェー
バー
の
19
論
理展開
に従
い次
の様
に抽
出し
て整
理しておく。
(
1
法
則科学
く
a
無限
の多様性
にお
いて現
われる現実
を、出来
るだけ無
制約的
に
一般
に妥当
する概念
や法
則
の体系
によ
って整序しようとする。
論
b
現実
から具象的
なものの有
する偶性的
な
「偶然
の事柄」
をしだ
いに剥ぎ
とり、普
遍的な概念
を構成する。
艦
・
その讐
の独
酌手段は・つねに・・大きくなぞ
ゆく外讐
それ故に常に小ざくなぞ
ゆく内包を享
・概念
の使用であ
挙
り、そ
れに特有
の論
理的産物
は、普
遍的
に妥当
する関係概念
(法則)
である。
科会
d
その研究領域
は
一般
に、現象
のなかで本質的なも
の
(知るに値するも
の)が、そ
の現象
のも
つ類的なも
のとAロ致す
るようなと
耐
ころに与
えられて
いる・従
そ
そこでは経験的に
のみ与
えられる個別的ケー
スに
ついて
の関心は・それ生
つの類概
念に事例と
掛
〉
・て従昏
夢
』・晟
功するや否や消失する.
に
2
現実科学
{
.<
a
現実
を・如何
なる場
合にも存在
するそ
の質
的
●犠
的な特殊性と
一回性とにお
いて靭議
する・
ゴ
b
こ
の認識
の論理的思想は、分誓
れる個性的な現象
における本質
的なも
のを
属
然的なも
の」
(即ち、
ここでは、意義
のない
メルクマロル
ゥ
も
の)
からより分けて、具象的
に意識
にも
ち来らすこと
である。こうして、われわれが
「特徴的」だと判断す
るよう
な標
徴
の
ス
抽出と結合とによ
って、
いつも個性的
である現実
の実在性
に絶
えず接近し
てゆく概念
を、常
にそ
の精練度を増し
つつ創出
せし
め
ク
る。
ツマ
c
その特有
の論
理手段
は、常
にヨリ大
きくな
ってゆく内包と、従
って常
にヨリ小
さくな
ってゆく外延と
をも
った、関係概念
の構
成であり、そ
の特有
の論
理的
産物
は、それが
一般
に概念
と
いう性格
を有
する限り、普遍的
な
(われわれは
「歴史的
な」
と
いい慣
ヘ
ヘ
ヘ
へ
れて
いるが)意義
を有
する個性的
な事物概念
である。
d
そ
の研究領域は、現象
における本質的なも
の
(われわれにと
って
「知るに値するも
の」)
が、
類概念
のなか
へ整序
されること
をも
ってしては尽されることなく、具体的な現実がそ
のものとしてわれわれの関
心を惹
くところに、
与
えられて
いる
(『ロッシ
ー
ヤーとク
ニー
ス』H、
一四-六頁)。
1
![Page 40: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/40.jpg)
(補
注2)
.
.
'
ヒ
ューズは、ウ
ェーバー
の
「イデア
ルテ
ィプ
ス」
の現代的
意義
に
ついて次の様
な見解
を述
べている。
12
「彼
が提起した試案的な形にお
いてさえ、ウ
ェー
バー
のイデア
ルテ
ィプ
スの定
義は、社会
思想
の方法論
に対
する彼
のも
っとも有力
な貢献
の
一つであることが明らかにされた。社会経
済学者
という役割
においてウ
ェ1パーの最大
の後継者
であるヨーゼフ
・シ
ュムペ
ーターの如
き学者
たちは、新し
く『モデ
ル』と
いう用語
によ
って更
に精確
にそ
の概念を描出し
た。
そし
てこの新し
い基盤
の上
に、
『モ
論
デ
ル』
は、社会科学者
の間
で極
めてポピ
ュラ
ーな常套手段と
なる
に至
った。ウ
ェーバーが夢
にも思わなか
ったような論理的
・数学的
舵
な形で・モデル震
は高度の精警
にまで達し・様・な誓
い適用藷
毒
・・とにな・た・しかし・ウ・i↑
には暑
のモデル
群
構成者としブ、の暮
が与えられてい・。それ2
が入間の世界の盒
的な理蟹
可能にす・袈
的な理論的構成の手続を初めて明確
会
にした
のは彼
であ
ったのである」
(ヒ
ューズ
『意識
と社会』、
二
=二頁)。
社悌お
皿
に{ゴ
マ
ック
ス
・ウ
ェー
バ
ー
の社
会
科
学
方
法
論
に
ついて
の叙
述を
終
る
にあ
た
って、
若
干
の問
題
点
の指
摘
と整
理
を
し
て
お
こう
。
ウ.
・
周
知
のよ
う
に、
ウ
ェー
バー
の知
的
展
開
は
、
お
およ
そ
「法
律
から
経
済
史
を
通
って
社
会
科
学
の
一般
方
法
論
へ、
更
に宗
教
社
会
ス〃
学に関する
一連の準備的労作を経て体系的な社会学そのもの
へという議
」とい・てよいだろう・
℃
こ
こ
で
は
ウ
ェi
バ
ー
「社会
科学
方
法
論
」
に焦
点
を絞
り
、研
究
成
果
を
年代
順
に整
理
し
よう
。
佃,、
一九
〇
三
年
、
「ロ
ッシ
ャーと
ク
ニー
ス
及び
歴
史
学
派
の経
済学
の論
理的
諸
問
題」
第
一部
、
「ロ
ッシ
ャー
の
『歴
史
的
方
.法
」」
.
の
こ
ロ
ネ
リ
コ
り
ゐ
②
プリ九〇四.年醤.「社会科学的及び社会政策的認識の客観性」
(
![Page 41: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/41.jpg)
㈹
一.九〇五年、「文化科学の論理学の領域における批判的研究」・第
一部、「エドワルド
.マイヤーとの対決のために」
)21
ω
同年、同上第二部
「歴史的因果観察における客観的可能性と適合的因果連関」
¢
伺
同年、ωの第二部、「ク
ニースと非合理性の問題」
⑥
一九〇六年、同上第三部、「クニースと非合理の問題」(前掲論文のつづき)
論
,
施
ω
一九〇七年、「R
・シ.タムラあ
唯物史観の
『克服』」
群
㈲
一九
〇
八
年
・
「限
界
効
用
論
と
『精
神
物
理的
基
本
法
則
』」
会
、
社
・、個
.」
.九
〇
九
年
?
「『'エえ
ルギ
通論
的
』
文
化
理論
」
∵
.
掲捌
、ω
「、ご九
=
二年
、
「理解
社
会
学
の若
干
の
カ
テゴリ
レ」
、
:
.
.
.
'
、
に・一
㈲
一九
一一七
-
一八年
、、「社
会
学
及
び
経
済
学
の
『価
値
自
由」
の意味
」'
バ計
!⑫
.、一九
一九
年
、
「職
業
と
し
て
の学
問」
ウ・・.
㈲
一九
二
一年
(
「社
会
学
の基
礎
概
念
」「」
♂
ス"
⑬
一九
二
二年
、
「正
当
的
支
配
の三
つの
純
粋
型」「
.マ
以
上
が
、
『学
問
論
集
』、に収
録
さ
れ
て
いる諸
論
文
で
あ
る。
ウ
ェー
バ
i
「社
会
科
学
方
法
論
」
の
展開
は、
いわ
ゆ
る
「新
し
い局
面
」,以
後
であ
る
こ
と
が
明
ち
かで
あ
ろ
う
。一
,
「
・
r
し
かし
、
厳
密
に言
え
ば
、「・マリ
ア
ンネ一・.ウ.エ」
バ手
が
『伝
記
』
に
お
い.て指
摘
し
て
いる
よ
う
に
、
フラ
イ
ブ
ル
ク大
学
の教
授
就
23
任
講
演
『国
民
国
家
と
国
民
経
済
政
策
』
論
文
の中
に、・既
に
哲
学
的
問
題
に対
す
る
最
初
の
態
度
表
明
が
な
さ
れ
て
いる
こ
と
に
注
意
す
べ
ー
![Page 42: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/42.jpg)
論旅
②
《魔術からの蟹
》⊥
。理化論
〔進化勲
〕
学
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
舗
㈲
《社会
科学
本
来
の任
務
は
、
目六体
的
歴史
的諸
関
連
の文
化意
義
の
認識
に奉
仕
す
る
も
ので
あ
り
、
こ
れ
が
唯
一の究
極
目
標
碓
であ解
けお
つまり、近代世界は、価値
一元的な中世の崩壊に伴
って、多元化し、その下での合理化は何をもたらすか明
ら
か
で
あ
に偏
る。
そ
こ
か
ら
は
、
世
界
の
カオ
スと・マス化
の進
行
が
結
果
す
る
こ
と
にな
る
だ
ろう
。
か
く
し
て、
ウ
ェー
バ
ーは
こ
のよ
う
な
時
代
状
田子
況の認識の上に立.って、社会科学の存立根拠を問うのである。
ウ・
ウ
ェーバ。1のこの問いは、当時の理論的、実践的状況の下で、論争的な形で展開されるのである。
いわ
ゆ
る
「自然法
ス〃
則」、「発展法則↑、「倫理的進化論と歴史的相対主義の結合11倫理的科学」、即ち、古典経済学以後展開される「浪漫主義」、
マ
「マル
クス
主
義」、
「歴史
主義
」、
より
具
体
的
には
、
ドイ
ツ
・マ
ンチ
ェス
タ
ー学
派
、
彼
ら
から
「講
壇
社
会
主
義
者
」
と
呼
ば
れ
た
シ
ュモ
ラ
ーを
主
将
と
す
る
社
会
政
策
学
会
な
ど
の理
論
的
立
場
と
の対
決
、
更
に第
一次
大
戦
以
後
、
特
に
ウ
ェー
バ
ー
に鋭
く
意
識
さ
れ
(5)
た
「体
験
熱」
と
いう
「時
代
の傾
向
』
と
の対
決
、
そ
し
て更
に、
科
学
的
認
識
と実
践
と
の統
一.を
主張
す
る
マ
ル
クス
主義
(特
に、
の42
カ
ウ
ツ
キ
ー的
経
済
一元
論
)
及
び
そ
の実
践
的
過
.激
形
態
.と
し
て
の
「サ
ンデ
ィ
カリ
ズ
ム」・の
傾
向
に対
す
る
理
論
的
・実
践
的
対
決
(
きで転記。更に、
一九〇四年以後、方法的研究と同時に内容的労作として宗教社会学の研究が進められており、歴史的個
412
体の認識論及び類型的概念論とこの内容的労作とが弁証法的に、相互に関連しあ
って展開されていく
のである。
次
に、ウェーバー・の方法論研究の基礎にある根本思想は、如何なるものであ
ったろうか。
ω
(神
々の永遠の闘争V一多元論.
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(6)
が、
そ
れ
で
あ
る。
ス
チ
ュア
ー
下
・ヒ
ーズ
は、
こめ
点
を次
の
よう
に要
約
し
て
いる。
「か
れの
戦
い」
は
、少
な
く
と
も
二正
面作
).23
戦であうた。うまり
一方では実証主義ないし
・「自然主義」め皮相性に対する戦
い
(かれ自身しばしば実証主義者であると
但
の非難を蒙
ってはいたが)、
他方では観念論的思想のありきたりの規準、
より詳しく言えば、人間の文化の領域における
(7)
論
科学的研究の可能性を観念論が否定すること、に対する戦
いであ.た。
舵
かくして、ウ
・」バー
向社会科学方法論」の論穰
仕旭とその意味を粗描しておこう。
学科
ウ
二五バーにとって、世界生起それ自体では、意味のない無限.のカオスである。それでは、いかに科学の対象(問題定立)
会碓
は設定されるだろうか。それは、認識主体の観点によ
・謡
象されるめである。
つまり、麗
成的」
である。
観点は、認
ナ謝
謝主体の究極
〈価値〉に基礎を置く。従
って、対象は、認識主体の抱
いている価値との関連
〔価値関係性〕においそ決定
.に烏
される。即ち、社会科学的認識に認識価値を.与えるのは常に価値である。従ってそれは、主観的であり、
一面的なも.のに
ノ鋼
基礎
を置くものとなを。かくして、人間の立場において意味と意義とを持
って無限の意味のない世界生起から抽出された
ウ.
有限部分が
〈文化〉と呼ばれるものである。
《最高価値理念の与える光明は、時を貫いて流転していくところの、巨大な
賜
混沌たる生起の流れの中の・変
ず交替してい≦
有限部分の上にふり落ちるので麓
尾従ぞ
二
切の文化科学の先験
マ
的前提は、
一定の、若しくは
一般にいずれかある
「文化」を価値ありと認めることではなく、意識的
に世界に対して態度
をとり、且つこれに意味を与える能力之意志とを具えた
〈文化人〉ということになる。
そ
れでは、主観的で、
一面的で、実証不可能なものに基礎をもつ社会科学にと
って、いかにして科学的な認識が可能で
25
あろうか。
この問題こそ、『客観性」論文の主題である。
即ち、第
一部の
〈ヴ
ェルトフライ
ハイト〉と第二部で展開され
ユ
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(9)
て
いる〈客
観性
〉と
がそ
れ
であ
る。.従
って〉
〈客
観
性〉と
くヴ
ェル
トラ
ライ
ハイ
ト〉
と
は
、
同
一の
問
題
の表
と裏
な
ので
あ
る
。
6
φ
2ー
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
カ
」
ル
・「レ
壇ヴ
ィ
ッ'ト
の適
確
な整
理
を
か
り
よ
う
。
〈科
学
の価
値
に関
す
る
ウ
ェ、i
バー
の
《方
法論
的》
疑
問
は
、
ニi
チ
ェ.が
《真
理
》
の意
義
と価
値
は何
か
、
と哲
学
に対
t
て抱
いた疑
問
乏実
は
同
一のも
の
であ
る
。
全
く
、
「か
の真
理
への意
志
な
るも
の
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
論
が、そ
れ偵体問題安してわれわれに官覚されるようにな
った沸乏いうことの他
に、いったいどのような意味をわれわれの.
舵
存在はも
っているのであろうか」・《科学的真理の価値に対する信仰》が《特定の文化の所産》であそ
、自然に与えられて
学
、
、
飼
い乃のではないという帰結として、ウ
ェーバ、はいわゆる撃
的判断の価値自由の要求を提出する。価値から畠
である
甜
とぢ
・芝
は、、ただ科学だけの世界に引きぷ
ろ違
薫
・芝
で豪
い。そ
れはむしろ科学的判断にあたぞ
、かえ
・て
ナじ
ヘ
へ
訪
科学外的ゐ規準を考慮に入れようとすることなの.である。」.しの理論の要求することは、規準となる
《価値理念》や関心を
し
科学の世堺から排除することではなく、それから
一定の距離を保つ為に、それちを対象化することである。科学と信仰を
ノゴ
区別するものは
《間
}髪》「の線である
(『学澗論集」)。科学的判断と評価的判断とは・'実はす
っかり
外駆難いでい畜弘
ベ
ウ.
きものではなくて、ただ距離をおいて保持すべきものである。科学的
《客観性》を目標としてわれわれがなしうること、
ス"
又、なす心都ことは、《主観性》を減少させるという馬鹿げたことではなぐ、
科学的に重要ではあるが科学的に証明でき
マ
ないも
のを、かえ
って意識的に、明瞭に指摘し、考量することである。いわゆる客観性ー
ウ
ェーバーはこの客観性につ
いては、いわゆるカッコ付の
《客観性》以外のものは語
って
いな
い一
なるものは、
「与えられた現実が、
特殊な意味に
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
おいて主観的な範疇、即ち、われ貌
の認識が成立す、ための覆
をなすという意味において主観的
であり、経験的知識
卿
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
のみガ与えうる真理に価値ありと
いう前提に結び
ついてい.るという'意味で主観的な、もろもろの範疇
にしたがって秩序づ
(
![Page 45: マックス・ウェーバーにおける社会科学方法論 - 明 …...は、ウェーバーの「社会科学方法論」の論理構造を①ヴェルトフライハイト、②客観性と価値、③因果帰属、④理解的方](https://reader034.vdocuments.net/reader034/viewer/2022042100/5e7c4d5bf741185f0877bb99/html5/thumbnails/45.jpg)
(10)
けられているという事実に、しかもこの事実にのみ基づいている
(『学問論集」)〉。
)ヨ
以
上のすぐれた叙述から明
・かなように・〈ヴ
・牛
フライ
ハイ↓
と
く客観性〉と竺
つの精神的懸度募
る・思
・
@
文化意義の創造主体どレての自己の対象化、即ちその対象化に伴う精神的緊張に耐えケる強靱な精神
、従
ってその精神を
(11)
具
有
す
る真
に
主体
的
な
人間
こ
そ
、
ウ
ェー
バ
ー
の
〈文
化
人〉
であ
る。
こ
こ
に
ウ
ェー
バ
ー
の
人
間
観
の
一端
を見
る
こ
と
が
で
き
論法
る。
方響
このウ
・去
あ
く文化人〉は・『政治」・『学問』論文において要請されている人間像
に通ずるものであることは・明確
会社
であろう。
周知のように、
『政治』論文において描かれている政治家像は、情熱と観察力を統
一し、それを、仕事に対す
掲謝
る責任感により支えている人間像であり、
『学問』論文において、
学者に要求されるのもやはり情熱
と仕事に結び
ついた
に
(12)
一
明晰性、即ち首尾
一貫性、この明晰性首尾
一貫性こそが、極限において自己に対する明晰性を認識せしめるが故に、
(自
バゴ
己の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強制できる〉。ウ
ェーバーは
『客観性』論文において言う。(責
ウ・
任をも
って行為する人間が自省する場合には、その行為の目的と結果との秤量ということなしにすま
されるも
の
で
は
な
スク
いVと。
つまり、〈情熱-
観察力〉〈責任一
品位〉こそ、
『政治」、『学問』論文に共通に現われたウ
ェ1バー的精神構
ツ。
造で
あ菊
繰り返し言えば、〈諸価値の選択、いや、諸価値の闘争、『神』と
『悪魔』のたたかいのように調停
できない死闘。そこ
にはなんの相対化もなんの妥協もない。……
『日常』の浅薄さは、宿敵のようにたたかいあう諸価値を意識しないことの
27
中にある。諸価値の対立は知らなければならない。それ故これほ見なければなちない止すれば、認識
の木の実i
口には
ー
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苦く
ても食べないわけにはゆかぬ一
の示すものは、他でもないこうである。即ち、人生全体は、究極の決断がつながっ
812
た鎖
の
よう
な
も
の
だ
、
人
々は皆
、
プ
ラ
ト
ンに
み
ら
れ
る
よう
に
、
こ
の決
断
に
よ
って
め
いめ
いの
運
命
、
即
ち
自
分
の行
為
や
存
在
(13)
の意
味
、を
選び
と
って
いる
のだ
、
と》。
以
上
で
、私
の
研
究計
画
の
「第
一部
マッ
クス
・ウ
ェー
バ
ー
の
社
会
科
学
方
法
論」
に
つ
いて
の作
業
を
終
る
こと
にす
る
。
論法方
注
(1)
ヒ
ューズ
『意識
と社会』生松敬
三
.荒
川幾男訳、
一九八一九頁
。
群
(・)
『伝記』
・、二四三頁
。
会
出
口勇蔵
『経済学
と歴史意識』、
二九頁
。
碓
(・)
占
奪
「ヴ・人
あ
方法の諺
にあ・もの」(『思想』四七二号)
桝
(4)
杓
田芳明
『ヴ
ェーバ社会科学
の基礎研究』、四八-
五二頁
。
に
(5)
ウ
ェーバーの
マルクスその人に対
する批判
に
ついては、新資料
による注
目す
べき論文
、住
谷
一彦
「マックス
・ウ
ェーバーの史
し
的唯物論批判」
(『思想』
五三八号)
がある。
ノ一
(6)
内
田芳明、前掲書、四
三頁。
エウ
(7)
ヒ
ューズ
、
前
掲
書
、
二〇
五頁
。
距
(8
)
一玄
"、ω●ド。。9
『客
観
性
』、
五
八
頁
。
ク
(9)
安
藤
英
治
『マ
ック
ス
・ウ
ェー
バ
i研
究
』、
八
九
頁
。
ツマ
(10)
カー
ル
・レーヴ
ィ
ット
『ウ
ェーバーと
マルクス』柴
田
・脇
・安藤訳、
二六-八頁。
(11)
安藤英治、前掲書
、
一五三-
四頁。
(12)
カール
・レーヴ
ィ
ット
「学問
による魔術
からの世界
の解放」生松敬
三訳
(『みすず』六六号)
四三頁。
(13)
一三αこωω・8刈~◎。"『価値自由』(『山
口経済学雑誌
』第
一七巻、第5
・6号)
一〇九-
一〇頁
。
の
ゆ昭
和
五
一年九
月改
稿〕
羽(