ミハイル・バフチンの言語観における 「言葉の生」 …...discourse in the...

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86 ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは? 1- 1 はじめに:「言葉の生」「言語の生」というイメージ バフチンの言語観、すなわち、バフチンにとっての「言葉」「言語」の捉え方を読み解く上で、 それを特徴づけるもっとも鍵になる表現として、「言葉の生」あるいは「言語の生」といった、 言葉・言語を直接の対象として志向したバフチン特有のフレーズを挙げることができる。この 語句は、主体が能動的に言葉・言語を体験し思考するといった、「バフチン」という「私」(以 下〈バフチン=私〉)の現実の「行為」(行動・活動・実践)から創造された表現である、と推 定できる。それは、言葉・言語という対象に対する〈バフチン=私〉の課題「かくあるべし」「望 ましい」と結びついており、対象に対する〈バフチン=私〉の価値的な関係を象徴的かつ集約 的に表現している語句と言える。つまり、〈バフチン=私〉と対象との相関において、「言葉の 生」「言語の生」という表現には、言葉・言語といった対象に対する〈バフチン=私〉の主体 としての「現実の、是認された価値」や「情動・意志的トーン」が付与されている 1 この表現がバフチン・テキストにおいて立ち現われる箇所は、バフチンが言葉・言語を主題 にして記述・論述した夥しい量の書き言葉の全紙面の中でも、特に異彩を放つ部分である。そ して、読み手にとって難しいのは、「言葉の生」や「言語の生」といったフレーズに伴う、言葉・ 言語に対する〈バフチン=私〉の「かくあるべし」「望ましい」という「課題」を読み手自身 の体験や思考の中に定位することが求められる点であろう。つまり、読み手は、バフチン以外 の著者が言葉・言語について論じたテキストを読む場合はもちろんのこと、極端な場合には、 このフレーズに前後するコンテクストや、言葉・言語に関する特定の主題について論じたバフ チンの別のテキストを読む場合も含めて、その時に用いていた思考の基本的なカテゴリーや思 考法の変更が迫られるのである 2 本稿では、まず、バフチンの言語観を特徴づけている「言葉の生」「言語の生」というイメー ジをバフチンの小説言語論から浮き彫りにする。そして、そのイメージとバフチンの仕事全体 を貫いている「出来事」の思想との関わりをバフチンの初期の論文「行為の哲学によせて」 髙 橋 伸 一 TAKAHASHI Shin’ ichi ミハイル・バフチンの言語観における ――「生きた言葉」とは?―― 「言葉の生」「言語の生」のイメージ

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Page 1: ミハイル・バフチンの言語観における 「言葉の生」 …...Discourse in the Novel)と1963年の『ドストエフスキーの詩学の問題』(英訳名:Problems

― 86 ― ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

1- 1 はじめに:「言葉の生」「言語の生」というイメージ

バフチンの言語観、すなわち、バフチンにとっての「言葉」「言語」の捉え方を読み解く上で、

それを特徴づけるもっとも鍵になる表現として、「言葉の生」あるいは「言語の生」といった、

言葉・言語を直接の対象として志向したバフチン特有のフレーズを挙げることができる。この

語句は、主体が能動的に言葉・言語を体験し思考するといった、「バフチン」という「私」(以

下〈バフチン=私〉)の現実の「行為」(行動・活動・実践)から創造された表現である、と推

定できる。それは、言葉・言語という対象に対する〈バフチン=私〉の課題「かくあるべし」「望

ましい」と結びついており、対象に対する〈バフチン=私〉の価値的な関係を象徴的かつ集約

的に表現している語句と言える。つまり、〈バフチン=私〉と対象との相関において、「言葉の

生」「言語の生」という表現には、言葉・言語といった対象に対する〈バフチン=私〉の主体

としての「現実の、是認された価値」や「情動・意志的トーン」が付与されている 1。

この表現がバフチン・テキストにおいて立ち現われる箇所は、バフチンが言葉・言語を主題

にして記述・論述した夥しい量の書き言葉の全紙面の中でも、特に異彩を放つ部分である。そ

して、読み手にとって難しいのは、「言葉の生」や「言語の生」といったフレーズに伴う、言葉・

言語に対する〈バフチン=私〉の「かくあるべし」「望ましい」という「課題」を読み手自身

の体験や思考の中に定位することが求められる点であろう。つまり、読み手は、バフチン以外

の著者が言葉・言語について論じたテキストを読む場合はもちろんのこと、極端な場合には、

このフレーズに前後するコンテクストや、言葉・言語に関する特定の主題について論じたバフ

チンの別のテキストを読む場合も含めて、その時に用いていた思考の基本的なカテゴリーや思

考法の変更が迫られるのである 2。

本稿では、まず、バフチンの言語観を特徴づけている「言葉の生」「言語の生」というイメー

ジをバフチンの小説言語論から浮き彫りにする。そして、そのイメージとバフチンの仕事全体

を貫いている「出来事」の思想との関わりをバフチンの初期の論文「行為の哲学によせて」

髙 橋 伸 一TAKAHASHI Shin’ichi

ミハイル・バフチンの言語観における

――「生きた言葉」とは?――「言葉の生」「言語の生」のイメージ

Page 2: ミハイル・バフチンの言語観における 「言葉の生」 …...Discourse in the Novel)と1963年の『ドストエフスキーの詩学の問題』(英訳名:Problems

― 87 ―京都精華大学紀要 第四十八号

(1920-24) を中心に検討することによって明らかにし、最終的には、そのイメージと思想の結節

点であるバフチンにとっての「生きた言葉」の解明を目的とする。

1- 2 「言葉の生」「言語の生」という語句の実態

「言葉の生」や「言語の生」という表現は、一見すると言葉や言語が有機体のように〈生き

た存在〉として捉えられている点で隠喩的であり、また、このフレーズが登場するコンテク

ストには、生物と環境との相互作用に関する用語が伴う点で、生態学的であると言うことが

できる。

それでは、「言葉の生」「言語の生」という表現がバフチン・テキストにおいてどのような形

態で現われているのかという点を、具体的にこれらの表現が含まれた7つの文章を引用しなが

ら説明と確認を行っていきたい。しかし、その確認作業に先立ち、これから示す7つの引用例

について書誌的な観点と引用上の手続きの観点から若干の前置き的な説明を行っておきたい。

以下に挙げる7つの引用例は、バフチンの異なった時期に書かれた3つの小説言語論からそ

れぞれ引いてきた一節である。その3つの著作とは、1929 年の『ドストエフスキーの創作の

問題』3(英訳名:Problems of Dostoevsky’s Arts)と 1934-35 年の『小説の言葉』4(英訳名:Discourse in the Novel)と 1963 年の『ドストエフスキーの詩学の問題』(英訳名:Problems of Dostoevsky’s Poetics , 邦訳著作名『ドストエフスキーの詩学』5)である。7つの例に関しては、バフチンが執筆したと想定される年代順に並べている。まず、例1と例2に関しては、『ド

ストエフスキーの創作の問題』からの引用である。この著作は、1929 年にバフチンが本人の

名前で最初に出版した著作であり、この著書はその後、増補改訂され、1963 年に『ドストエ

フスキーの詩学の問題』として出版された。この 2冊のドストエフスキー論の違いを踏まえ 6、

例1と例2に関しては、『ドストエフスキーの創作の問題』にも、『ドストエフスキーの詩学の

問題』にも内容的にほぼ同じであると思われる文章を引用している。つまり、例1と例2につ

いては、1929年時点でバフチンがその内容を思考していた一節であることを示している。他方、

例5と例6は、『ドストエフスキーの詩学の問題』で新規に書き加えられた部分であり、1963

年時点でのバフチンの思考内容ということになる。また例7は、例2の『ドストエフスキーの

創作の問題』の箇所を改訂した箇所であり、例7と例2の違いから、1929 年から 1963 年の間

のバフチンの思考内容の推移を見て取れる部分でもある。続いて、引用の仕方について説明し

たい。引用する7つの例に関して、日本語訳のみだと、訳によっては、「言葉の生」「言語の生」

の意味合いが屈折する可能性があるので、日本語訳の他に、英語訳も同時に註で提示している。

ただし、『ドストエフスキーの創作の問題』に関しては、英語の全訳がまだ存在しないため、

例1の註には英訳著作Problems of Dostoevsky’s Poetics から該当箇所を類推して英訳を提示

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している。一方、例2に関しては、例7にその内容が含まれていると判断できるため、例2の

英訳引用は註には示さず、例7の英訳だけを註に提示した。また、キーになる語句に関しては、

本文邦訳引用内にも英訳を挿入している。最後に本稿全体に関わる引用のルールについて説明

しておきたい。本稿では全体として 16個の引用を用いている。そして論述の際に、先に提示

した引用箇所へと言及を遡るといったことが度々行われるため、引用の頭に引用ナンバーを振

り、それを利用して論述を展開していることを予め断っておきたい。

以上で前置き的な説明を終え、それでは次に7つの引用例を具体的に見てみたい。

【引用1(例1)】

したがって、古典主義の土壌で育った文体論は、ひとつの閉じられたコンテクストのなか

の言葉の生 (the life of a word) しか知らない。この文体論は、言葉がひとつの具体的な発

話 (utterance) から別の発話に移る過程や、これらの発話の相互定位の過程で言葉の身に

生じる変化を無視している 7。

(『ドストエフスキーの創作の問題(1929 年)』[下線論者])

【引用2(例2)】

他者の言葉へのことばの定位という問題は、社会学的にもっとも重要な意義を有してい

る。言葉は本性からして社会的なのである。言葉とは事物ではなく、永遠に動的で、社会

的交通の永遠に変化しやすい環境である。それはひとつの意識、ひとつの声で充足するこ

とはけっしてない。言葉の生 (The life of the word) は、口から口へ、ひとつのコンテクス

トからもうひとつのコンテクストへ、ひとつの世代からもうひとつの世代へという移行の

なかにある。そのさい、言葉は自分の道を忘れず、それがはいっていた具体的なコンテク

ストの権力から最終的に解放されえない 8。

(『ドストエフスキーの創作の問題(1929 年)』[下線論者])

【引用3(例3)】

基本的な文体論的カテゴリーが力を持ちうるのは、それらがこのようにイデオロギー的

な言葉 (discourse) の一定の歴史的運命によって条件付けられているためだが、同時にそ

れは、これらのカテゴリーの限界性の原因ともなっている。これらのカテゴリーは、一定

の社会集団を言語・イデオロギー的に形成する歴史的に実在する諸力が生みだし、形を与

えたものであり、言語の生 (a life for language) を創造するこれらの現実的な力の理論的表

現だったのである 9。

(『小説の言葉(1934-35 年)』[下線論者])

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― 89 ―京都精華大学紀要 第四十八号

【引用4(例4)】

そしてこの現実における分化と言語的多様性は、言語の生 (linguistic life) の静態的な相で

あるばかりでなく、またその動態的な相でもある。この分化と言語的多様性とは、言語が

生き、発展する限り拡大し、深化していくものだからである 10。

(『小説の言葉(1934-35 年)』[下線論者])

【引用5(例5)】

この章の題名が「ドストエフスキーの言葉 (Discourse in Dostoevsky)」となっているのは、

ここで念頭に置かれているのが言葉 (discourse)、すなわち具体的で生きた統一体としての

言語 (language in its concrete living totality) であって、言葉の具体的な生活 (the concrete

life of the word) のいくつかの側面を完全に合法的、かつ必然的に捨象することによって

得られる言語学に固有な対象としての言語ではないからである。いや、まさしく言語学者

が捨象してしまうそうした言葉の生活 (the life of the word) の側面こそが、この章の目的

にとってもっとも重要な意味を持っているのである。したがって以下になされる分析は、

厳密な意味において言語学的と呼ばれる分析ではない。ここでの分析をメタ言語学的と

言ってもよいが、その場合メタ言語学とは、いまだ一定の個別的学問分野としては確立さ

れていない、言語学の領域を完全に合法的にはみ出てしまうような言葉の生活 (the life of

the word) の諸側面を研究する学問の謂である 11。

(『ドストエフスキーの詩学の問題(1963 年)』[下線論者])

【引用6(例6)】

言語が生息するのは、言語を用いた対話的交流(dialogic interaction)の場において他にない。

対話的交流こそ、言語の真の生活圏なのだ。言語の生活 (the entire life of language) は、

一から十まで、それが活用されるどんな分野においても(日常生活的分野、事務的分野、

学問的分野、芸術的分野等々)、対話関係に貫かれているのである 12。

(『ドストエフスキーの詩学の問題(1963 年)』[ゴチック原著,下線論者])

【引用7(例7)】

文体論は言語学のみに立脚すべきではない。さらに言うなら、言語学に立脚するよりも

むしろ、言葉を言語体系においてでも、対話的コミュニケーションから切り離された《テ

キスト》においてでもなく、他ならぬ対話的コミュニケーションの領域そのものにおいて、

つまり言葉の正真正銘の生活領域において研究するメタ言語学にこそ立脚すべきなのであ

る。言葉 (the word) とは事物 (a material thing) ではなく、永遠に運動し、永遠に移ろい続

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ける、対話的コミュニケーションのための媒体 (medium) なのである。言葉とはけっして

一つの意識、一つの声で充足することはない。言葉の生活 (the life of the word)――それ

は一つの口から別の口への、一つのコンテクストから別のコンテクストへの、一つの社会

集団から別の社会集団への、一つの世代から別の世代への移ろい (transfer) の中に存在し

ているのである。しかも言葉 (the word) はその移ろいの中で、自分自身の道を失念するこ

ともなければ、みずからが移ろう先の具体的なコンテクストの支配から完全に自由になる

こともまたできないのである 13。

(『ドストエフスキーの詩学の問題(1963 年)』[ゴチック原著,下線論者])

上記の7つ例で、まず確認したいのは、「言葉の生」と「言語の生」に直接関わる表現である。

「言葉の生」は、英訳では、それぞれ “the life of a word”(例1)、 “The life of the word”(例2)

に対応している。一方、「言語の生」は、英訳では、“a life for language”(例3)、 “linguistic

life”(例4)に対応している。また、「言葉の生活」(例5と例7、英訳では “the life of the

word”)と「言語の生活」(例6、英訳“The entire life of language”)も、同様の表現として

考えることができる。その他、例5の「言葉の具体的な生活 (the concrete life of the word)」

と「具体的で生きた統一体としての言語 (language in its concrete living totality)」は、「言葉の生」

と「言語の生」のヴァリアントあるいはこれらの語句の延長線上にある表現として見なすこと

ができよう。今ここで挙げた表現は、英語では “life”という語に集約される語句群で、バフチ

ンにとっての「言葉」「言語」と「生」との結びつきが明確になっているフレーズである。

次に確認したいのは、仮にバフチンにとっての「言葉」「言語」が有機体のような〈生きた

存在〉と現段階で仮定した場合、その〈生きた存在〉とそれを取り巻く環境との相互作用――

平たく言えば、〈生きた存在〉は環境に従って変化するというごく普通の観察的な基盤――に

関連する生物学的・生態学的な用語である。例えば、例1ではそのような表現として、「土壌

で育った」(“nurtured on the soil of …”)や「ひとつの閉じられたコンテクスト」(“a single

self-enclosed context”) などが挙げられるだろう。以下、例2から例7までの関連用語を列挙

していくと、例2では、「自分の道」(“its own path”)、「具体的なコンテクスト」(“these

concrete contexts”)、例4では、「静態的な相」(“a static invariant”) や「動態的な相」(“what

insures its dynamics”) や「言語が生き、発展する」(“language is alive and developing”) といっ

た表現、例6の「言葉の真の生活圏」(“the authentic sphere where language lives”)、例7で

は「言葉の正真正銘の生活領域」(“that sphere where discourse lives an authentic life”)、「永

遠に流動し、永遠に移ろい続ける」( “the eternally mobile, eternally fi ckle ”)などの表現がある。

そして、これらの基本的な 2点を確認した後に、生じるのが、次のような問題であろう。つ

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まり、例2の「言葉は自分の道を忘れず」(“the word does not forget its path”) や引用4の「言

語が生き、発展する」(“language is alive and developing”)や引用6の「言語が生息する」

(“Language lives”)といった表現、すなわち、「言葉 (the word)」と「言語 (language)」が主格

になりその後に動作や状態を表わす語句を伴ったこれらの表現は、一体どのように理解したら

良いのか、という問題である[下線・波線論者]。

確かに、これらの表現の背後には、有機的なものを偏好する 14 バフチンが言葉や言語を生

物のような有機体として見立てた、ひとつのメタファーが存在しているのだ、という解釈も当

然成り立つ。しかし、その場合、言葉や言語を有機体のような〈生きた存在〉として見立てる

根拠はどこにあるのか、という別の問題に直面する。それでは、次節においてこの問いに具体

的に答えていくこととし、一応ここまででバフチンの言語観を特徴づける表現、つまり、「言

葉の生」と「言語の生」のフレーズのバフチン・テキストにおける実態を確認できたこととし

たい。

1- 3 言葉・言語の受肉と生態学的な言語観

前節の最後に提示した問い、すなわち、言葉や言語を有機体のような〈生きた存在〉として

見立てる根拠はどこにあるのか、という問いに答えるために考慮しなければならないと思われ

る第一点目は、バフチンにとっての「言葉」「言語」の「存在」とは、自己と他者の関係にお

いて認められ、対話という形態で行われる相互作用、つまり、ことばの交換(対話的コミュニ

ケーション)で立ち現れる媒介物だ、ということである。バフチンにとっての「言葉」「言語」

とは、バフチンにとっての「自己(the Bakhtinian self)」と同様に、それ自体で初めから存在

しているものでもなく、それ自体で完全な自立性を獲得できるものでもない 15。もちろん、バ

フチンといえども、言葉・言語の物質性を無視することはできない。否、逆に、バフチンは言

葉の物質性を強調する 16。それ故に、バフチンにとっても当然、事物としての言葉・言語は存

在する。しかし、その事物としての言葉・言語は、それ自体では決してバフチンの説明すると

ころの「言語の真の生活圏」(引用6)に入ることはできない。「言ラング

語の言葉、誰のものでもな

い言葉、詩的語彙にふくまれている物としての言葉」17 も存在するが、それ自体では決して「言

語の真の生活圏」には入れない。たとえ、それらの言葉が、前節の引用1で引き合いに出され

ている「古典主義の」「ひとつの閉じられたコンテクスト」、つまり、「モノローグ的コンテク

スト」のなかに移行することができたとしても、「言語の真の生活圏」には入ることはできな

いのである 18。というのも、言葉・言語が「言語の真の生活圏」に入るためには、言葉・言語

が対話関係に置かれる必要があるからである。

これらのことを踏まえると、前節の引用7で明確に示されているバフチンの言葉に対するひ

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とつの見解、すなわち「言葉は事物ではなく、永遠に運動し、永遠に移ろい続ける、対話的コ

ミュニケーションの媒体なのである。」という認識がより明確になると思われる。

次に、先の問いに答えるために考慮すべき第二点目は、言葉・言語が対話的関係に置かれる

ためには、別な言い方をすると、「対話的コミュニケーションの媒体」に成るためには、言葉・

言語はその言語主体を獲得しなければならないということである。つまり、言葉・言語が言語

主体の言葉・言語となった時、そして同時にその主体が他者との対話関係にある時、言葉・言

語はバフチンにとっての「言葉」「言語」に成り、それ固有の存在圏、すなわち「言語の真の

生活圏」に参入するのである。

【引用8】

対話関係は、論理的関係や対象指示的な意味関係なしに成立し得ないが、かと言って対

話的な関係はそうした関係に還元されないどころか、固有の特性を持っているのである。

論理的関係および対象指示的な意味関係は、それが対話的関係になるためには、前述した

ように、受肉されなければならない。つまり異なった存在圏に参入して言葉すなわち言表

となり、自らの作者を、つまり自らの立場を表現するようなその言表の創造主を獲得しな

ければならないのである 19。

上記の引用の「論理的関係」や「対象指示的な意味関係」は、言語体系としての、事物とし

ての言葉・言語の領域における関係とみなすことが可能である。そして、それらの関係を対話

的関係にするためには、まず、言葉・言語の「受肉」が必要になる。言葉・言語の「受肉」と

は、言語行為という主体の責任ある行為において、主体の価値や意味や判断が言葉・言語に付

与されると理解して構わないだろう。そして、次の段階で、言葉・言語は、対話関係に入り、「ひ

とつの具体的な発話から別の発話」に移り、「口から口へ、ひとつのコンテクストからひとつ

のコンテクストへ、ひとつの世代からひとつの世代へ」という移行を経ることによって、言葉・

言語はバフチンにとっての「言葉」「言語」になる。ということは、言葉・言語がバフチンにとっ

ての「言葉」「言語」になるためには、言表(=発話、英語ではutterance)という言語的「行

為」が重要な鍵になるということである。

さて、前節末に提出した問いに答えるために考慮すべき最後の点は、「いかなる言表も、こ

の意味においては作者を持っているのであり、彼の声は言表そのものの中ではその創造主の声

として聞こえるのである」という点、そしてその声を「聞くことができる」「対話的反応」は、

「反応を引き起こすあらゆる言表を人格化してしまう」という点である 20。

以上検討してきた 3つの点を考慮に入れるならば、バフチンが「言葉」「言語」を有機体の

ような〈生きた存在〉として見立てる根拠は、この「言葉」「言語」の「人格化」にあると言っ

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て差し支えないであろう。

こうした「人格化」の観点を踏まえると、引用5~7における邦訳の「言語の生活」の意味

が理解できる。「言語の生活」とは、人格化した「言葉」「言語」が生きるまさに「生活」なの

だ、ということである。そして、このような人格化した「言葉」「言語」の側面を検討するには、

バフチンは、「言葉の具体的な生のいくつかの側面を完全に合法的、かつ必然的に捨象する」

従来の言語学や、「言語体系」や「対話的コミュニケーションから切り離された《テキスト》」

に立脚する文体論では、不十分と考え、「メタ言語学」という研究領域を構想したのではない

だろうか。それは、言語行為の主体によって産出される「言葉」「言語」が媒介する、自己と

他者、自己と複数の他者、自己と環境との対話的な相互作用を解明する人格化した「言葉」「言

語」の生態学的な研究だったと指摘することができよう。

ここで、本節のまとめを行うならば、以下のようになるであろう。

バフチンにとっての「言葉」「言語」とは、自己とひとりの他者、自己と複数の他者、自己

と環境(「土壌」「コンテクスト」「場」「圏」)といった相互関係(対話関係)と結びつき、そ

の中における相互作用の過程(対話的コミュニケーション)を経て発生する媒体である、と言

うことができる。言い換えれば、バフチンにとっての「言葉」「言語」とは、対話的コミュニケー

ションにおいて言語行為の主体の価値や意味や判断を「受肉」し、「生」というエネルギーを

獲得し、「異なった存在圏に参入して」、「自らの作者を、つまり自らの立場を表現するような

その言表の創造主を獲得した」状態の「言葉」「言語」(=「言表」「発話」)なのである。

では一体、バフチンはどうして「言葉の生」や「言語の生」に象徴される、一見すると非言

語学的で、隠喩的・生態学的と思われるような、ある種の思考的な「ズレ」を含んだイメージ

を、言葉・言語に関する思考や論述の中に織り込んだのであろうか。

この問いに答えるためには、「言語」「言葉」という概念と「生」という概念の結びつきその

ものにバフチンが付与したバフチン自身の思想的な価値や情動・意志的なトーンを、バフチン

の思想形成の観点から詳細に検討する必要があるように思われる。そして、このような課題の

検討にもっとも相応しい出発点は、これらの2種類の概念が結びつく誘因となるバフチンの概

念、つまり「出来事」という概念であると思われる。

2-1 論文「行為の哲学によせて」の意義:「生きた言葉」と「出来事」との出会い

「出来事」という言葉は、バフチンの著作にほぼ一貫して見られるキーワードのひとつであ

るが 21、「言語の生」「言葉の生」と近似したニュアンスの「生きた言葉」という表現と、この「出

来事」という言葉が出会うテキストがある。それは、論文「行為の哲学によせて」(1920-24)

である。この論文は、公刊されたものとして最初の著作に相当する短い覚書「芸術と責任」(1919)

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を除けば、バフチンの現存するテキストの中で最初のまとまった著作であり、初期バフチンの

著作群に位置づけられるテキストである。「行為の哲学によせて」に対する日本のバフチン研

究者の注目や評価の度合いは、研究者それぞれではあるが、バフチンの仕事を全体的な視野か

ら理解する上でこの論文に重要な意義を認めている日本のバフチン研究者の一人に佐々木寛が

いる。日本で最初に「行為の哲学によせて」の翻訳を手掛けた佐々木は、その「解題」の中で、

この論文に対して次のような見解を述べている。

【引用9】

「行為の哲学によせて」は、〔…〕彼〔バフチン〕の仕事の全体を理解するうえで重要な

意味をもつ著作である。この論文で論じられているのは、バフチンの美学、文芸学、言語

哲学が立脚することになる哲学上の基礎の問題、文化の世界と生の世界をともに根拠づけ

るような「単一で唯一の存在のできごとについての教義」、つまり第一哲学の問題であって、

ある意味でバフチンは、生涯をつうじてこの問題にとりくんでいたのだと言ってよい 22。

佐々木はまた、バフチンに関する自らの別の論考の中で、「行為の哲学によせて」の一節を

引用しながら、「イントネーションの問題がバフチンの哲学の核心部分に届いていて、しかも

その後の言語哲学、記号の学への転換を予告している箇所として重要である」と述べ、論文「行

為の哲学によせて」とその後のバフチンの言語観の形成との深いつながりを示唆している 23。

本稿の論者も、前節の最後に示した「言語」「言葉」という概念と「生」という概念の結びつ

きに関する課題を検討するには、この論文が重要な鍵になり、かつ探求の出発点になると考え

ている。

2-2 論文「行為の哲学によせて」におけるバフチンのヴィジョン

論文「行為の哲学によせて」は、バフチンが 1920 年代初めに着手した、「現実世界、美的活

動、倫理、宗教の各領域をトータルに扱う大部の哲学書の構想の序論の部分」にあたるもので、

バフチンの死後、草稿のまま残されていたものが、1986 年モスクワ刊のソビエト科学アカデ

ミーの年鑑『科学と技術の哲学と社会学、1984-1985 年』に、若干の空白箇所を含む形で初め

て発表された 24。バフチンはその構想の著作に題名を与えてはおらず、「行為の哲学によせて」

が序論として含まれるはずの著作そのものも世に出ることはなかったが、一冊の著作を書くた

めのバフチンの構想自体は、「行為の哲学によせて」の中に、しっかりとその痕跡をとどめて

いる。

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― 95 ―京都精華大学紀要 第四十八号

【引用 10】

この著作の第一部で検討するのは、思考ではなくて体験される現実の世界の、結構の基

本的な諸要因である。ついで第二部では、行為としての美的活動を、その所産の内側から

ではなく、責任ある参与者としての作者の観点から検討し、さらに〔二語判読不能〕芸術

的創造の倫理学を検討することになる。第三部では、政治の倫理学を、そして最後に、宗

教の検討をおこなう予定である。その世界の結構が想起させるのは、ダンテならびに中世

の宗教劇の世界の結構である(宗教劇でも悲劇でも、できごとはやはり存在の究極の領域

に引きよせられている)25。

上記引用でバフチンは全三部の構想を示しているが、その「第二部」、つまり、「行為として

の美的活動」の部分に関しては、それに相当する草稿が、序論部の草稿「行為の哲学によせて」

と同様に、バフチンの死後、残されており、それらが諸雑誌を通じて発表され、現在では論文

「美的活動における作者と主人公」としてまとめられている 26。「美的活動における作者と主人

公」は、全 6章の構成で、第1章は、最初の部分が欠落し章タイトルもない断片だが、それ以

降の章には、それぞれタイトルが付き、次のようになっている。第2章が「主人公に対する作

者の関係の問題」、第3章が「主人公の空間的形式」、第4章が「主人公の時間的全体」、第5

章が「主人公の意味的全体」、そして、第6章が「作者の問題」である 27。

以上、簡単ではあるが、論文「行為の哲学によせて」に関する全体像を示し終えたので、次

に、当面の課題である「行為の哲学によせて」の内容の方に力点をシフトしていきたい。

2-3 バフチンのひとつの世界観:「出来事としての世界」

「行為の哲学によせて」の内容に関して、論者にとってもっとも特徴的だと思われるのは、

ここにはバフチンの固有のひとつの哲学的な世界観が提示されているという点である。その世

界とは、「出来事としての世界」 28 である。それでは一体、バフチンの言う「出来事の世界」

とはどのような世界なのであろうか。この問いに対するアプローチは、バフチンの「出来事と

しての世界」が、他の哲学的な世界観とどのような関係にあるのか、つまり、その位置づけに

ついて明らかにしていくことが有効であるように思われる。

「出来事としての世界」とは、端的に言えば、世界のなかで行為する主体にとって「出来事」

として立ち現れる世界のことである 29。それは、「行為がそのなかで責任をもってみずからを

意識し、敢行する世界」30 であり、バフチンが人間の有する諸側面の中でも特に「行為」と「行

為主体」という要因に力点を置き、バフチン自身の価値や情動・意志的トーンが付与された「世

界」である、と言うことができる。そして、この「出来事としての世界」は、「自己」がバフ

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― 96 ― ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

チンにとっての「自己」であったのと同様に、また、「言葉」「言語」がバフチンにとっての「言

葉」「言語」であったのと同様に、バフチンにとっての「世界」なのである。

ところで、バフチンがこうしたバフチンにとっての「世界」を構想する背景には、理論的な

世界や理論的熱狂が今日の文明社会において主流になった結果生じた問題、つまり「文化の世

界と生の世界の分裂」の問題と「現代における行為の危機」の問題に対する先鋭なる意識が存

在することを、把握しておく必要があるであろう 31。

「文化の世界」と「生の世界(われわれが創造し、認識し、観照し、生き、そして死んでい

く唯一の世界)」とは、敢えて誤解を恐れず述べるとするならば、行為と行為主体の忘却ある

いは廃棄の上に、分裂して「立ち現れる」、「けっして相互に交流し浸透すること」がない「二

つの世界」である 32。前者を「われわれの活動・行動が客観的なかたちをとって現れる世界」、

後者を「この行動がただ一回、現実に遂行される世界」と、バフチンは、行動・活動にアクセ

ントを置きながらそれぞれの世界の言い換えを行うが、この二つの世界は、「あたかも双面の

ヤヌスのごとくに」「べつべつの方向にむいて」おり、「この二つの顔を互いに一個の統一へと

まとめあげるような、そうした単一で唯一のレベルというものが存在しない」と主張する 33。

そして、「この二つのものを統一しうるのはただ、遂行される存在という唯一の出来事だけ」

だと述べ、「理論的なもの、および美的なものはすべて、この出来事を構成する要因として定

義されねばならないのである」と主張する 34。このような主張から推測できることは、バフチ

ンは、「行動」が単一のレベルで「出来事」として見いだされ、それが「文化の世界」と「生

の世界」を一個の統一へとまとめあげるような世界を、「出来事としての世界」として想定し

ている、ということである。

この「出来事としての世界」のような世界観の背景にあるバフチンの問題意識は、マルクス

が「フォイエルバッハに関するテーゼ」の中で主体と実践(行為・活動)の役割を強調したそ

の意図と通じる点がある。

【引用 11】

従来のあらゆる唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)の主要な欠陥は、対象が、

つまり現実、感性が、ただ客体ないし4 4 4 4 4

直4

観4

の形式でのみ捉えられ、感性的・人間的な活動4 4 4 4 4 4 4 4 4

実践4 4

として、主体的に捉えられないことである 35。[傍点原著]

ここでマルクスは、「従来のあらゆる唯物論の欠陥」を、対象・現実・感性が行為主体の実

践によって構築される全体構造として把握されていないことに求めている。批判の対象は異な

りはするが、バフチンもマルクスも、行為主体の実践を強調し、行為の有する能動的な側面、

すなわち、自己と世界の同時開示としての実践の側面や人間の生を根拠づける意味・価値の産

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― 97 ―京都精華大学紀要 第四十八号

出行為としての側面を認めた上で、それによって構築され生成する全体的な認識的世界を求め

た点では一致していると言えるかもしれない。

以上、バフチンの「出来事としての世界」について、他の哲学的な世界観との相関において

十分な説明ができたとは思ってはいないが、その特徴のひとつは示せたと思う。それは、「出

来事としての世界」とは、「文化の世界」と「生の世界」との対話的定位のもとで立ち現れる

世界であるということ、そして、その前提として、バフチンは、「文化の世界」と「生の世界」

との間に断絶を認めるのではなく、対話的な関係における「出来事の世界」を媒体とした相互

作用を認めているということである。

それでは次節では、本稿の核のひとつになる「言葉」「言語」の生のイメージ、つまり、「生

きた言葉」と「出来事」が出会うテキストの部分を詳細に検討していきたい。

3-1 「生きた言葉」と「⦆出来事としての世界」

論文「行為の哲学によせて」(英訳名:Toward a Philosophy of the Act)で論者が注目する部分は、「言語」「言葉」に「生」のイメージが結びついた表現、具体的には「生きた言葉 (the

living word)」というフレーズが、現存するバフチンのテキストにおいて最も早く現れる部分

である。つまり、「行為の哲学によせて」に先行して発表された覚書「芸術と責任」においても、

「行為の哲学によせて」のこれから引用する箇所に先行するテキスト部分にも、「言語」「言葉」

と「生」とが結びついた表現は、存在していない。ちなみに言語や言葉という語が「行為の哲

学によせて」において集中的に登場するのは、これから引用する直前のパラグラフであること

も考慮に入れるならば、「行為の哲学によせて」におけるこの部分 36 は、バフチンの言語観が、

現存テキストにおいて最も早く表出した箇所であると考えることができる。

それでは、「出来事」と「生きた言葉」が出会う箇所を論文「行為の哲学によせて」から少

し長くなるが引用してみたい。(注:英訳については、註で提示し、キーになる語句に関しては、

以下邦訳引用内に英訳を挿入している。)

【引用 12】

この出来事としての世界は、単なる存在としての世界、所与としての世界ではない。い

かなる対象、いかなる関係も、そこでは単に与えられたもの、すっかり存在するものとし

てではなく、それらとむすびついた課題「かくあるべし (“one ought to …”)」「望ましい

(“it is desirable that …”)」とともに与えられている。絶対的に無関心な、すっかりでき

上がった対象というものは、現実には意識されないし体験もされない。対象を体験すると

き、それによってわたしは対象に対するなにごとかを遂行するのである。対象は、課題と

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― 98 ― ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

関係をとりむすび、対象へのわたしの関与のもと、その課題のなかで成長するのである。

純粋な所与というのは、体験されることがない。わたしが現実に対象 (an object) を体験す

るかぎり、たとえば思考 (thinking) として体験するときでも、対象は、遂行されつつある

思考という体験のできごとの可変的な要因となる。つまり課題としての性質を帯びる。よ

り正確には、何らかの出来事の統一のうちに置かれる。そこでは課題と所与、存在と当為、

存在と価値の要因が不可分なのである。これらの抽象的カテゴリーはどれもみな、そこで

はある生きた、具体的な、一目瞭然の唯一の全体――すなわち、出来事――を構成する要

因なのである。

これと同じく、生きた言葉 (the living word)、十全な言葉 (the full word) もまた、すっ

かり与えられた対象というものを知らない。対象について語ること (speaking about an

object) でもってすでに、わたしは対象に対して無関心でないある種の積極的な態度をと

ることになり、このため言葉 (the word) は単に対象を現に有るものとして指示するだけで

なく、そのイントネーション (intonation) で(現実に発せられた言葉 (An actually

pronounced word) はイントネーションを付与されずにはいない。イントネーションは発

語という事実そのもの (the very fact of its being pronounced) に根ざしているのである。)

対象に対するわたしの価値的な関係、対象のなかの望ましいものと望ましくないものを表

現することになり、これによって対象を課題のほうに動かし、生きた出来事の要因たらし

めるのである。37[下線論者]

上記の引用の前半の段落でバフチンが説明しているのは、「出来事としての世界」(“the

world-as-event”) における3つの要素、つまり、行為主体と行為と対象との関係性である。行

為主体の行為によって立ち現れる「出来事としての世界」は、行為に先立って存在する、単な

る「存在としての世界」(“a world of being”) でも、「所与としての世界」(“a world of that

which is given”) でもない。「出来事としての世界」では、「いかなる対象、いかなる関係」も、

行為の主体にとって「単に与えられたもの」(“something simply given”) といった「絶対的

に無関心な」もの (“that which is absolutely indiff erent”) として与えられているのでもなけ

れば、また、「すっかり存在するもの」(“something totally on hand”) といった「すっかりで

き上がった」(“that is totally fi nished”) 、それ故に行為主体の行為の能動性を必要としない、

つまり、完全に受動的なものとして与えられているのではない。それ以前に、「絶対的に無関

心な、すっかりでき上がった対象というものは、現実には意識されないし体験もされ」ず、行

為主体の「私」の前には現れることがない。行為主体にとっての「対象 (an object)」、つまり、「出

来事としての世界」における「対象」は、主体の「かくあるべし (“one ought to …”)」「望ま

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― 99 ―京都精華大学紀要 第四十八号

しい (“it is desirable that …”)」といった「課題」(“something-yet-to-be-achieved”) ととも

に与えられており、主体には「これなるもの」38 として現存する。「与えられたもの」として

の対象は、主体の行為によって手を加えられる前の現存性なのであって、手を加えられた時に

は、「与えられたもの」は姿を変えて主体の「かくあるべし」「望ましい」といった「課題」の

方へ動かされることになる 39。つまり、対象に焦点を合わせた場合、対象は主体にとっての「行

為」と「課題」の一局面になり、それは「課題」とともに「行為」の段階を経て成長する。ま

た、対象は、ひとつの要因として、主体、行為、課題、といった他の要因とともに、「ある生

きた、具体的な、一目瞭然の唯一の全体」(“a certain living, concrete, and palpable (intuitable)

once-occurrent whole”)、すなわち、「出来事」を構成し、その出来事の統一のうちに置かれ

ることになるのである。

そして、後半の段落の初めに論者が注目する「生きた言葉 (the living word) 」という語句が

出現する。この表現が登場する引用の後半の段落とその前の段落との違いは、前半の段落では、

存在の出来事に参与する「行為」一般についての説明を展開しながら、その具体例として「思

考 (thinking)」が取り上げられている点であり、一方で、後半の段落では、具体的な行為とし

て「対象について語る (speaking about an object)」という「発話」が取り上げられている点で

あろう。

ちなみに、バフチンの「出来事としての世界」、すなわち、「単一で唯一の全体である存在の

出来事」のうちに定位している「わたしの現実の行為」とは、「思考の行為」、「感情の行為」、「仕

事の行為」、「肉体的行為」、「語る」という行為、「書く」という行為など、実にさまざまな形

をとり、存在の出来事の究極の領域に集約されている 40。ということは、バフチンは、この引

用箇所の後半の段落で、「対象について語る」(=「発話」)というひとつの具体的な言語行為を、

前半の段落での「思考」の行為と同様に、「出来事としての世界」に参与する行為全体のなか

に位置づけたと言うことができる。また、バフチンが「語る」行為に付与した象徴性の度合い

によっては、存在の出来事に参与する行為に、「言語行為」といった「言語」「言葉」に係る全

行為の可能態を位置づけたと言うことも可能であろう。それでは次に「発話」という行為に関

するバフチンの具体的な説明を見てみよう。

発話という行為は、「存在の出来事」に関与する「わたしの現実の行為」の中のひとつとし

て位置づけられる。この点で、「対象について語る」という行為は、対象について思考すると

いう行為と、並列関係にある。つまり、発話主体である「わたし」が対象を「語ること」とし

て体験するとき、それによって「私」は対象に対するなにごとかを遂行するのであり、対象の

方は、遂行されつつある「語る」という体験の出来事の中で、その可変的な要因へと移行する。

しかし、バフチンは後半の段落における説明で、「語る」という行為に見られるもう一つの可

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― 100 ―ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

変的な要因を明示的ではないが、挿入している。それは、対象としての言葉である。それを分

かりやすく説明するならば、発話主体である「わたし」は、語る「対象」に対して「無関心で

はないある種の積極的な態度をとる」が、それは同時に、「対象を現に有るものとして指示する」

言葉という対象に対しても、「無関心ではないある種の積極的な態度をとる」ということである。

こうした対象の同時性、二重性を、バフチンは、対象と言葉との間にある相互依存性として捉

えているように思われる。この対象の同時性・二重性は、行為の同時性・二重性にも反映され

る。そして、この関係における対象の側面ではなく言葉の側面にアクセントを置くと、次のよ

うな表現が可能になる。つまり、対象に対して積極的な態度をとる発話主体の「語る」という

まさにその行為のなかでは、言葉は単に対象を現に有るものとして指示するだけではなく、発

話主体のイントネーションの付与により、行為主体の「かくあるべし」「望ましい」といった

課題、言い換えれば、「対象に対するわたしの価値的な関係」、「対象のなかの望ましいものと

望ましくないもの」を表現することになり、これによって対象を主体の課題のほうに動かし、

生きた出来事の要因たらしめるのである。

このことを 1-3 で検討したバフチンにとっての「言葉」「言語」の観点から考えれば、言葉

が主体の行為――ここでは「語る」という行為――に参画することによって、自らの発話の「創

造主」を獲得し「言葉」になったということである。また、その行為の「対象」が主体の課題

の方、つまり、「生きた出来事」の方に動かされたと同時に、言葉というもう一つの対象も「言

葉」になり「言語の真の生活圏」に動いた、あるいは参入した、ということになろう。

ということは、バフチンにとっての「生きた言葉」とは、発話によって行為の対象を行為主

体の課題の方に動かし、「生きた出来事」(“the living, ongoing event”) の要因へと変化させる

「言葉」なのであり、同時にそれは、対象としての言葉に主体自身の「かくあるべし」「望まし

い」といった価値が付与され、「言葉の真の生活圏」に入った「言葉」であると結論付けるこ

とができよう。つまり、「生きた言葉」とは、「出来事」の要因となる対象と無関係に客体とし

て存在している言葉ではなく、「出来事としての世界」のなかで行為主体が「出来事」(生きた

出来事)に関与する際に用いる「言葉」のことを指しているのである。

最後に、引用箇所における「生きた言葉 (the living word)」と「十全な言葉 (the full word)」

の語句の並列について触れておきたい。この語句の並列は、出来事に関与した言葉、この場合

には、主体の価値的なイントネーションが付与された「言葉」を「十全(full)」と見なす、〈「生

きた言葉」=「十全な言葉」〉といったバフチンの言語観によるものであろう。ちなみにバフ

チンは、「十全なことば」に関して、論文「行為の哲学によせて」の中の引用 12の直前の部分

で、以下のように説明している。(注:英訳については、註で提示し、キーになる語句に関し

ては、以下邦訳引用内に英訳を挿入している。)

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― 101 ―京都精華大学紀要 第四十八号

【引用 13】

言語 (language) は、関与的な思考と行為に奉仕するものとして歴史的に成長してきたの

であって、それが抽象的な思考に仕えるようになったのは、その〔永い〕歴史からみるな

らば、たかだか今日のことにすぎないのである。内側からみた行為と、唯一の存在のでき

ごと(行為がそのなかで遂行される)とを表現するためには、言葉のもつそっくりすべて

(the entire fullness of the word) が――その内容意味の面(概念としての言葉)と、一目瞭

然の表現力の面(イメージとしての言葉)と、情動・意志の面(言葉のイントネーション)

とを一つに (in their unity) したものが、必要なのである。そしてこれらすべての要因にお

いて、一個の十全な言葉 (the unitary full word) は、主観的で偶然的なものではなくて、

責任ある妥当なもの、真実のものとなりうるのである。もちろん、言語のもつ力 (the

power of language) を過大視すべきではない。単一で唯一の存在の出来事 (once-occurrent

Being-as-event) と、それに参与している行為とは、原理的には表現可能なものなのだが、

しかし実際にはそれは非常に困難な課題であって、完全に相応ということは達成しがたく、

それはつねに課せられているのである 41。[下線論者]

上の引用箇所でバフチンは、「言語 (language)」と「関与的な思考と行為」すなわち、存在

の出来事に参与する全行為との関係を歴史的な視座から説明している。ここで明らかなのは、

「言語」「言葉」を「関与的な思考と行為」に「奉仕するもの」として捉えているバフチンの言

語観であろう。そして、「関与的な思考と行為」に奉仕するためには、「言葉のもつそっくりす

べて」の側面、つまり、言葉の「内容意味の面(概念としての言葉)」、言葉の「一目瞭然の表

現力の面(イメージとしての言葉)」、そして言葉の「情動・意志の面(言葉のイントネーショ

ン)」の3つの側面すべてが必要であり、それを備えた言葉が「一個の十全な言葉(the

unitary full word)」ということになる。この言語観は、先に結論付けた「生きた言葉」――発

話によって行為の対象を行為主体の課題の方に動かし、「生きた出来事 (the living, ongoing

event)」の要因へと変化させる「言葉」、同時にそれは、対象としての言葉に主体自身の「か

くあるべし」「望ましい」といった価値が付与され、「言葉の真の生活圏」に入った「言葉」―

―と矛盾はしないが、存在の出来事に参与する「全行為」に「奉仕する」という観点について、

不明瞭な点が存在する。次節では、これらの問題点を明らかにしながら、バフチンの「生きた

言葉」の全体像に迫っていきたい。

3-2 1つの問題:「生きた言葉」と外言・内言の問題

さて、前節の最後に提示した問題点とは、「出来事としての世界」、すなわち、「単一で唯一

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― 102 ―ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

の全体である存在の出来事」のうちに定位している「わたしの現実の行為」と「生きた言葉」

との関係に係る問題である。

前節で既述したように、「存在の出来事」に関わる行為は、例えば、「思考の行為」や「肉体

的行為」、「感情の行為」など、実にさまざまな形態で存在する。そして、前節の引用 12の後

半の段落で、バフチンは、「現実に発せられた言葉」、つまり「外言」を考慮した「語る」行為

(=発話行為)を、単一で唯一の存在の出来事に参与する全行為のひとつとして取り上げ、そ

して、その発話行為が発話以外の「行為」と共に存在する可能性――ここで論者は、前節で既

述した「行為の同時性・二重性」および「言語」「言葉」を「関与的な思考と行為」に「奉仕

するもの」として捉えるバフチンの言語観を念頭に置いている――を暗に含ませた説明を展開

した。バフチンが外言をイメージしていることは、引用 12の文中の「現実に発せられた言葉

はイントネーションを付与されずにはいない。イントネーションは発語という事実そのものに

根ざしているのである。」という補足文からも明白である。

ところで、ここでひとつの問題が生じる。それは、「言葉」は、外言を用いた発話以外の行

為――例えば、「思考の行為」、「感情の行為」など――には関与しないのか、という問題である。

というもの、もし仮に「言葉」が、外言的な発話を伴わない関与的な行為に関わらないのであ

れば、前節の最後に論者が結論付けた「生きた言葉」は、存在の出来事に関与する行為の中で

も、外言を用いた発話とそれを同伴する行為のみに関与するものとして限定的に捉えられてし

まうからである。ところが、私たちは、思考の行為や感情の行為において、外言とは異なる内

的な言葉、すなわち「内言」が用いられていることを経験的に知っている。さらには、言葉と

はまだ言えないような、しかしいずれ言葉になり外言として表出される、外言の前段階の「言

葉らしきもの」が、内言の領域において発生し、それが様々な行為に結びつくことも体験して

いる。つまり、それは、「言葉」が外言を伴わない行為にも関与するということを暗示してい

るように思われる。

そのように考えると、この問題は、バフチンにとっては「内言」も「生きた言葉」たりうる

のか、という別の問題に置き換えることができる。この点を検討するのに手掛かりとなるのは、

前節の引用 12に続く「行為の哲学によせて」の次の部分である。

【引用 14】

現実に体験されるものはすべて、所与としても課題としても体験され、イントネーショ

ンを付与され、情動・意志的トーンを持ち、われわれ〔わたしと対象〕を含む出来事の統

一のなかでわたしと積極的な関係に入るのである。情動・意志的トーンは行為に不可欠な

要因であって、それは、最も抽象的な思考のばあいですらもそうなのである。

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― 103 ―京都精華大学紀要 第四十八号

わたしが現実に思考するかぎりは、つまり思考が現に存在のなかで実現され、出来事に

参加するかぎりは、わたしが関係するものはすべて、情動・意志的トーンにおいてわたし

に与えられているからである。わたしが対象を心に思い浮かべた場合、わたしは対象と、

出来事としての関係に入ったわけなのである。この出来事の中、わたしとの相関において

対象は、みずからが担う機能とは不可分なのである。だが、われわれ〔わたしと対象〕を

含む現実の出来事の統一のなかで対象が担うこの機能とは、その対象の現実の、是認され

た価値、すなわちその対象の情動・意志的トーンなのである 42。[下線論者]

上記の一節では、この一節の直前(引用 12)でバフチンが論じていた「語る」行為(発話

行為)についての残影は、「イントネーションを付与され」という表現以外、消失し、論点は、

上記引用冒頭の「現実に体験されるものすべて」という表現に象徴されるように、存在の出来

事に参与するすべての行為に移行している。それにもかかわらず、「現実に体験されるものす

べて」という表現の直後に、「イントネーションを付与され」といった外言を連想させる表現

が使われるのは、一体、どういうことなのか。この問いに対する論者の仮説は、次のようなも

のである。バフチンは、存在の出来事に参与するすべての行為(発話行為を含めて)において、

内的な言葉(内言)も行為の対象を生きた出来事の要因たらしめることに関与する、と考えて

いたのではないか、ということである。つまり、外言がそのイントネーションで行為の対象に

対する主体の価値的な関係や、対象のなかの望ましいものと望ましくないものを表現し、行為

の対象を課題のほうに動かし、生きた出来事の要因たらしめるように、内言も、その内的な表

現によって行為の対象を課題の方に動かし、生きた出来事の要因たらしめるということである。

この仮説は、同時に、「内言」も「生きた言葉」たりうる、という先ほどの問いの答えに通じ

る論者にとっては重要な仮説である。

この仮説を論証するためには、引用 14の中の「イントネーション」という概念とその語の

直後に置かれている「情動・意志的トーン」という概念との関係を、内言と外言の2つの観点

から捉え、その関係を明らかにする必要がある。「イントネーション」と「情動・意志的トーン」

との関係を、いささか形式的ではあるが、外言的なものと内言的なものの二項に対応させて考

えた場合、可能なパターンとして以下の4つ関係を挙げることができる。

パターン イントネーション 情動・意志的トーンⅠ 内言的なもの 内言的なものⅡ 内言的なもの 外言的なものⅢ 外言的なもの 内言的なものⅣ 外言的なもの 外言的なもの

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― 104 ―ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

まず、バフチンは、引用 14で「情動・意志的トーンは行為に不可欠な要因であ」る、と述

べている。このことは、情動・意志的トーンが、存在の出来事に参与するすべての行為に不可

欠な要因であることを示している。また、「情動・意志的トーン」は外言的なもののみとして

は捉えることができない、ということでもある。なぜなら、外言を伴わない思考の行為や感情

の行為や肉体的行為なども、すべての行為に含まれるからである。したがって、情動・意志的

トーンを「外言的なもの」と見做す、表のⅡとⅣのパターンは、解釈としては成立しない。残

るのはパターンⅠとパターンⅢの場合である。それを考える上で参考になるのが、次の引用の

箇所である。

【引用 15】

しかし自己を感覚し、その感覚の中で自己を統一する活動、意義をになった音として言

葉を生みだすこの活動は自足することなく、活動する生体と心理の外に押し出され、自己

の外部に向う。というのもこの活動は、愛し、高め、卑しめ、賛美し、哀悼するといった

活動であり、すなわち、一定の評価をになった関係だからである(心理学の用語をもちい

れば「一定の情緒的・意志的トーンを持っている」と表現されよう)。というのも、生み

だされるのは単なる音ではなく、意義をになった音だからである。言葉を生みだす活動は

言葉のイントネーションの側面に浸透し、そこで自己を評価として意識する。このイント

ネーションの感覚のうちに、みずからの評価を実現するのである。言葉のイントネーショ

ンの側面とは、われわれの理解では、言表の内容に対する話者のありとあらゆる評価的関

係(心理学の用語で言えば、話者の多様な情緒的・意志的反応)を表わす言葉の能力であ

る。その際に、言葉のこの側面は、実際に発せられた言葉のイントネーションによって表

現されるにせよ、あるいはただ可能性として体験されるだけにせよ、いずれにせよ美的な

重みをになっているのである 43。[下線論者]

上記の文章は、1924 年に書かれ、バフチンの死後に刊行された著作「言語芸術作品におけ

る内容、素材、形式の問題」からの引用である。この論文は「行為の哲学によせて」と「美的

活動における作者と主人公」とほぼ同時期に書かれたと推定され、初期バフチンの著作に位置

づけられる。この論文は、「体系的な一般美学を基礎として、詩学の基本的諸概念と問題を方

法論的に分析した試み」44 で、「行為の哲学によせて」と「美的活動における作者と主人公」

の 2つの論文に密接に結びついている。この引用部分でバフチンが論じているのは、現時点の

論点である「言葉のイントネーションの側面」についてである。

注目したい点は、下線の部分である。ここで、バフチンは、「言葉のイントネーションの側面」

を2つの様態に分けて説明している。ひとつは、「実際に発せられた言葉のイントネーション

Page 20: ミハイル・バフチンの言語観における 「言葉の生」 …...Discourse in the Novel)と1963年の『ドストエフスキーの詩学の問題』(英訳名:Problems

― 105 ―京都精華大学紀要 第四十八号

によって表現される」様態、つまり、外言としてのイントネーションの側面である。そして、

もうひとつは、「ただ可能性として経験されるだけ」のイントネーションの側面である。この

後者のイントネーションをどのように解釈するかが、現時点での中心的な課題である。

「ただ可能性として経験されるだけ」の「言葉のイントネーションの側面」とは、敢えて誤

解を恐れず解釈するならば、外言のイントネーションとして「自己の外部に向う」「可能性」

があるが自己の内面にとどまっている故に、内面でしか「経験」されない、内的な言葉のイン

トネーション、つまり、内言としてのイントネーションである、と考えることはできないであ

ろうか。引用の前半部で、バフチンは、発話の行為に先立つ、自己の内面における活動を、「自

己を感覚し、その感覚の中で自己を統一する活動」、「意義をになった音として言葉を生みだす

活動」という表現で捉え、そこで生じる「情緒的・意志的トーン」が外言のイントネーション

に浸透するといった、心理学的なイメージを提示している。

このイメージと以下に引用するバフチンの言葉の5つの区分のうちの、第4の要素と第5の

要素を用いるならば、現時点で問題になっている、「イントネーション」と「情動・意志的トー

ン」との関係がより明らかになるはずである。

【引用 16】

われわれが素材としての言葉のうちに区別するのは次の要素である。

(1)言葉の音の側面、本来の音楽的な要素

(2)言葉の物質的〔対象指示的〕な意義(そのあらゆるニュアンスとヴァリエーション

を含む)

(3)言語的関連の要素(純粋に言語学的なあらゆる関係と相関)

(4)言葉のイントネーション的(心理面では情緒的・意志的)な要素、話者の多様な評

価の態度を表わす言葉の評価的な方向

(5)言葉の能動性の感覚、意味を持つ音の能動的な生成の感覚(ここに含まれるのはあ

らゆる運動の要素――調音、身振り、顔の表情その他――と、言葉や言表によって

ある種の評価的・意味的な立場を能動的に取っている私の人格のすべての内的志向

性である。)

われわれは、意味を持った言葉の生成感覚が問題なのだということを強調しておく。これ

は、身体的事実としての言葉を生み出す肉体的運動感覚そのものではなく、意味と評価の

生成の感覚、すなわち全一的な人間としてある立場を取り、運動しているという感覚であ

る。この運動の中に、生体も意味的な能動性も引き込まれる。というのも、それらの具体

的な統一の中で、言葉の肉体も精神も生み出されるのだから。この最後の第五の要素の中

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― 106 ―ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

に、先行する四つの要素すべてが反映している。この五番目の要素は、他の四つの要素の、

話者の人格に向けられた側面(音の生成、意味の生成、〔言語的〕関連の生成、評価の生

成の感覚)なのである 45。[ゴシック原著、下線論者]

この引用部分で重要な箇所は、バフチン自身も「強調して」いる下線の部分、つまり、「意

味を持った言葉の生成感覚が問題なのだ」というところである。「意味を持った言葉」の「生成」

とは、「言葉」が最終的には外言として発話される時点を最終点とし、それが内面で生まれる

点を始発点とした場合、その2点の「間」を動く主体に係る「言葉」の「運動」として捉える

ことができる。「生成感覚」といった「生成」に「感覚」をバフチンが結びつけるのは、この「言

葉」の運動が、「感覚」でしか捉えられない側面、つまり、内言の領域における「言葉」と呼

ぶには最も遠いところにある「言葉らしきもの」をも、「言葉」として捉えようとしているこ

との証しであるように思われる。また、上記引用の第4の要素は「言葉のイントネーション的」

の部分を外言的なイントネーションと捉え、「(心理面では情緒的・意志的)」の部分を内言的

なイントネーションと解釈したならば、イントネーションは外言的であろうが、内言的であろ

うが、第5の要素である「言葉の能動性の感覚、意味を持つ音の能動的な生成の感覚」に反映

しているということになる。

以上のことを踏まえると、先ほど検討していた「イントネーション」と「情動・意志的トー

ン」との関係は、「イントネーション」を外言的なものと見做し、「情動・意志的トーン」を内

言的なものとみなす場合には、言葉の行為、つまり、広義の「発話」の行為のみを対象にすれ

ば、解釈は可能であるが、「行為」全体を考慮する場合には、解釈は難しいことになる。つまり、

パターンⅣのみの解釈は成り立たない。一方、パターンⅠの「イントネーション」も「情動・

意志的トーン」も内言的なものとして捉える場合は、解釈可能であろう。ただし、その場合に

は、「イントネーション」の明示的な意味合い、つまり、「外言的なもの」という意味が否定さ

れることになる。ところで、論者が一番妥当だと思われる解釈は、イントネーションが外言的

なものでも内言的なものでもある、という場合である。これは、引用 15の「言葉のこの側面は、

実際に発せられた言葉のイントネーションによって表現されるにせよ、あるいはただ可能性と

して体験されるだけにせよ」というバフチンの言葉を重視した解釈である。また、その場合、

内言的なイントネーションにグラデーションを設けることも可能であるし、内言の領域におい

て外言にもっとも近い状況のものと外言にもっとも遠い状況のものとの間の距離を利用するこ

とも可能である。つまり、引用 16の「意味を持った言葉の生成感覚」に反映するものとして「イ

ントネーション」も「情動・意志的トーン」も考えることができる。

以上、「イントネーション」と「情動・意志的トーン」との関係を見てきたが、本節での今

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― 107 ―京都精華大学紀要 第四十八号

までの考察から言えることは、引用 14の「イントネーションを付与され」という表現は、そ

の直後に続く「情動・意志的トーンを持ち」という表現がある限り、存在の出来事に参与する

「行為」全体に適応することができる、と指摘することができる。もちろん、このことが言え

ることによって、「内言」も「生きた言葉」たり得る、と言うことができ、さらには、内言も

外言もすべてのバフチンにとっての「言葉」「言語」は、存在の出来事に参与する限り、「生き

た言葉」である、と言うことができる。

ここまで来て、本節での中心的な問いへの答えは出せたと思われる。すなわち、存在の出来

事に参与する「全行為」に「生きた言葉」は関与するということである。

以上、本稿における考察は終えたので、最後にまとめを行うことにしたい。

3-3 まとめ

本稿では、まず、バフチンの言語観を特徴づける「言葉の生」「言語の生」というイメージ

が具体的にバフチンのテキストにおいてどのような形態で現れているのかについて、バフチン

の異なった時期に書かれた3つの小説言語論、すなわち、『ドストエフスキーの創作の問題』

(1929 年)、『小説の言葉』(1934-1935 年)、『ドストエフスキーの詩学の問題』(1963 年)を対

象に検討を行った。その結果、言えることは、バフチンのこのイメージは、K. クラーク&M.

ホルクイストがバフチンの仕事全体を4つの時期に区分けした、その第2期、第3期、第4期

にそれぞれ見られること 46、また、そのイメージは、バフチンの初期の活動、すなわち、第1

期に、特に「行為の哲学によせて」の「生きた言葉」というフレーズにも反映していることを

考慮に入れるならば、「言葉の生」「言語の生」「生きた言葉」などの、言葉・言語が「生」に

密接に関わる見解は、バフチンの「行為」に重きを置く「出来事」の思想とともに、バフチン

の仕事全体の中で探求し続けられてきた言語観である、と言うことができるであろう。そして、

その言語観については、以下の 5点としてまとめることができるように思われる。

1.バフチンにとっての「言葉」「言語」とは、自己とひとりの他者、自己と複数の他者、

自己と環境(「土壌」「コンテクスト」「場」「圏」)といった相互関係(対話関係)と

結びつき、その中における相互作用の過程(対話的コミュニケーション)を経て発生

する媒体である。

2.バフチンにとっての「言葉」「言語」とは、対話的コミュニケーションにおいて言語

行為の主体の価値や意味や判断を「受肉」し、「生」というエネルギーを獲得し、「異

なった存在圏に参入して」、「自らの作者を、つまり自らの立場を表現するようなその

言表の創造主を獲得した」状態の「言葉」「言語」(=「言表」「発話」)である。

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― 108 ―ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

3.バフチンにとっての「生きた言葉」とは、発話(外的発話と内的発話)によって行為

の対象を行為主体の課題の方に動かし、「生きた出来事」の要因へと変化させる「言葉」

なのであり、同時にそれは、対象としての言葉に主体自身の「かくあるべし」「望ま

しい」といった価値が付与され、「言葉の真の生活圏」に入った「言葉」である。

4.バフチンにとっての「生きた言葉」は、外言として及び内言として存在の出来事に参

与する「全行為」に関与する。

5.バフチンにとっての「生きた言葉」とは、「出来事」の要因となる対象と無関係に客

体として存在している言葉ではなく、「出来事としての世界」のなかで行為主体が「出

来事」(生きた出来事)に関与する「行為」と共に用いる「言葉」である。

1 「行為の哲学によせて」(佐々木寛訳)『[行為の哲学によせて][美的活動における作者と主人公]他』

ミハイル・バフチン 1999 「ミハイル・バフチン全著作第一巻」 水声社 pp.56-57。 ( 英訳 ) Toward

a Philosophy of the Act , Mikhail Bakhtin, ed. M. Holquist and V. Liapunov, trans. and note by V.

Liapunov (Austin, TX: University of Texas Press, 1993), pp.32-33.

2 『ミハイール・バフチーンの世界』K. クラーク& M. ホルクイスト 川端香男里・鈴木晶訳 1990 せ

りか書房 p.21。 ( 英訳 ) Mikhail Bakhtin , Clark, Katerina and Holquist, Michael (Cambridge, MA:

Harvard University Press, 1984), p.6.  K. クラーク& M. ホルクイストは、読者がバフチンの仕事

全体を貫いている構想を見つけ出す際の困難に触れながら、バフチンのテキストが読者に課す要

求について、次のような示唆的な説明を加えている。

「厄介なのは、バフチーンの思考法がわれわれの思考法に課す要求、すなわち、われわれが思考そ

のものを組み立てるときに用いている基本的なカテゴリーを変更しなければならないということ

である。対象がどんなものであれ4 4 4 4 4 4 4 4

、われわれはそれを知るためにさまざまな技術を開発してきたが、

バフチーンを知るためには、彼に出会う前にその技術に変更を加えなければならないのである。」

(邦訳 p.21)

本稿でテーマにする「言葉の生」あるいは「言語の生」といった概念を理解するためには、ま

さにわれわれ思考主体の思考法や基本的カテゴリーの変更が要求されると論者は考えている。

3 『ドストエフスキーの創作の問題』ミハイル・バフチン 桑野隆訳 2013「平凡社ライブラリー」 平

凡社。

4 『小説の言葉』 ミハイル・バフチン 伊東一郎訳 1996 「平凡社ライブラリー」 平凡社。 ( 英訳 )

“Discourse in the Novel,” in The Dialogic Imagination: Four Essays by M. M. Bakhtin , ed. Michael

Holquist, trans. Caryl Emerson and Michael Holquist (Austin, TX: University Of Texas Press,

Page 24: ミハイル・バフチンの言語観における 「言葉の生」 …...Discourse in the Novel)と1963年の『ドストエフスキーの詩学の問題』(英訳名:Problems

― 109 ―京都精華大学紀要 第四十八号

1981).

5 『ドストエフスキーの詩学』 ミハイル・バフチン 望月哲男・鈴木淳一訳 1995 「ちくま学芸文庫」 筑

摩書房。 ( 英訳 ) Problems of Dostoevsky’s Poetics , Mikhail Bakhtin, ed. and trans. Caryl Emerson

(Minneapolis: University of Minneapolis Press, 1984).

6 「訳者解説」(桑野隆 )『ドストエフスキーの創作の問題』 ミハイル・バフチン 桑野隆訳 2013 「平

凡社ライブラリー」 平凡社 pp.376-380。

7 前掲 3 p.171。英訳 (前掲 5) から類推した箇所は、次の一節である。

“Thus a stylistics nurtured on the soil of classicism recognizes only the life of a word in a single

self-enclosed context. It ignores those changes that take place in a word during its passage from

one concrete utterance to another, and while these utterances are in the process of orienting to

one another.” ( 前掲 5 英訳 p.200)

8 同上 p.174。英訳に関しては註 13で提示している英訳を参照。

9 前掲 4 pp.26-27。( 英訳 ) p.270。

“The strength and at the same time the limitations of such basic stylistic categories become

apparent when such categories are seen as conditioned by specifi c historical destinies and by the

task that an ideological discourse assumes. These categories arose from and were shaped by the

historically aktuell forces at work in the verbal-ideological evolution of specifi c social groups; they

comprised the theoretical expression of actualizing forces that were in the process of creating a

life for language.”

10 同上 p.29。( 英訳 ) p.272。

“And this stratifi cation and heteroglossia, once realized, is not only a static invariant of linguistic

life, but also what insures its dynamics: stratifi cation and heteroglossia widen and deepen as long

as language is alive and developing.”

11 前掲 5 p.367。( 英訳 ) p.181。

“We have entitled our chapter ‘Discourse in Dostoevsky,’ for we have in mind discourse , that

is, language in its concrete living totality, and not language as the specifi c object of linguistics,

something arrived at through a completely legitimate and necessary abstraction from various

aspects of the concrete life of the word. But precisely those aspects in the life of the word that

linguistics makes abstract are, for our purposes, of primary importance. Therefore the analyses

that follow are not linguistic in the strict sense of the term. They belong rather to metalinguistics,

if we understand by that term the study of those aspects in the life of the word, not yet shaped

into separate and specifi c disciplines, that exceed̶and completely legitimately̶the boundaries of

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― 110 ―ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

linguistics.”

12 同上 p.370。( 英訳 ) p.183。

“Language lives only in the dialogic interaction of those who make use of it. Dialogic interaction is

indeed the authentic sphere where language lives . The entire life of language, in any area of its

use (in everyday life, in business, scholarship, art, and so forth), is permeated with dialogic

relationships.”

13 同上 pp.406-407。( 英訳 ) p.202。

“Stylistics must be based not only, and even not as much , on linguistics as on metalinguistics ,

which studies the word not in a system of language and not in a ‘text’ excised from dialogic

interaction, but precisely within the sphere of dialogic interaction itself, in that sphere where

discourse lives an authentic life. For the word is not a material thing but rather the eternally

mobile, eternally fickle medium of dialogic interaction. It never gravitates toward a single

consciousness or a single voice. The life of the word is contained in its transfer from one mouth to

another, from one context to another context, from one social collective to another, from one

generation to another generation. In this process the word does not forget its own path and

cannot completely free itself from the power of these concrete contexts into which it has entered. ”

14 前掲 2 p.23。 ( 英訳 ) p.7。

15 「ミハイル・バフチンの言語主体に関する諸イメージの構築 (1)―試論:「自己と他者の関係」を

支える生物学的な〈有機体としての主体のイメージ〉と複数の主体によって構築される芸術的・

美的な文学作品―」髙橋伸一・佐々木亮 京都精華大学紀要 47:107-131 (2015) p.110-111。

16 前掲 2 p.118。 ( 英訳 ) p.86。

17 前掲 3 p.171。

18 同上。

19 前掲 5 p.372。 ( 英訳 ) p.184。

20 同上。

21 『バフチン』 桑野隆 2011「平凡社新書」 p.32。

22 「解題」(佐々木寛)『[行為の哲学によせて][美的活動における作者と主人公]他』ミハイル・バ

フチン 1999 「ミハイル・バフチン全著作第一巻」 水声社 p.495。

23 「桑野隆『バフチン』(平凡社新書,2011 年)を批判的に読む:バフチンの受容の死点克服のために」

佐々木寛 信州大学人文科学論集 2:273-286(2015) p.281。

24 前掲 22 p.494。

25 前掲 1 p.84。 ( 英訳 ) p.54。

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― 111 ―京都精華大学紀要 第四十八号

26 前掲 22 p.496。

27 「美的活動における作者と主人公」(佐々木寛訳 ) 『[行為の哲学によせて][美的活動における作者

と主人公]他』ミハイル・バフチン 1999 「ミハイル・バフチン全著作第一巻」 水声社。 (英訳) “Author

and Hero in Aesthetic Activity,” in M. M. Bakhtin, Art and Answerability: Early Philosophical

Works by M. M. Bakhtin , ed. Michael Holquist and Vadim Liapunov, trans. Vadim Liapunov

(Austin, TX: University of Texas Press, 1990).

28 邦訳の論文「行為の哲学によせて」(前掲 1)においては、「出来事」という語が頻繁に用いられ

ているが、邦訳上では平仮名表記の「できごと」になっている。本稿では、邦訳から引用する「で

きごと」に関しては、論文での概念の一貫性を保つために、これ以降は「出来事」という漢字表

記を用いることにする。

29 前掲 23 p.282。

30 前掲 1 p.56。 ( 英訳 ) p.31。

31 前掲 22 p.495。バフチンの文明に対するこうした意識は、「行為の哲学によせて」の次のような一

節に明確に表れている。

「現代の危機の根底にあるのは、現代の行為の危機なのである。行為の動機 (モティーフ )と行為

の所産とのあいだに深淵が生じてしまった。だがその結果、行為の所産も、存在論的な根から切

り離されて凋んでしまったのである。金銭は、道徳的なシステムを構築する行為の動機たりうる。

経済的な唯物論は現在という時点では正しいのだが、しかしそれは、行為の動機が所産の内部に

浸透したためではなく、むしろ逆に、所産の意義が、行為の現実の動機づけから遠ざかっている

ためなのである。だがもはや所産の内側から事態を正すことはできない。そこには行為への突破

口がないから。そうではなくて、行為そのものの内側から正さなければならないのである。理論

的な世界と美的な世界は、自由に振る舞うことを許されているのだが、しかしその内側からは、

この二つの世界をむすびつけて最終的な統一に参加させ、両者を受肉させることはできない。理

論が行為から遊離して、その内在的な法則にしたがって発展を遂げているために、理論を手放し

た行為のほうは退歩し始めている。責任をもって遂行する力はすべて、文化の自律的な領域に去っ

てしまい、その力から切り離された行為は、初歩的な生物学的、経済学的な動機づけの段階まで

零落して、みずからの理念的な要因をまったく失ってしまっている。これが今日の文明の置かれ

た状況なのである。」(前掲 1 邦訳 pp.84-85)

32 前掲 1 p.20。 ( 英訳 ) p.2。

33 同上。

34 同上。

35 「[フォイエルバッハに関するテーゼ]」(廣瀬渉編訳・小林昌人補訳) 『ドイツ・イデオロギー』 マ

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― 112 ―ミハイル・バフチンの言語観における「言葉の生」「言語の生」のイメージ―「生きた言葉」とは?

ルクス/エンゲルス 2002 「岩波文庫」 pp.230-231。

36 前掲 1 pp.55-57。 ( 英訳 ) pp.31-33。

37 同上 pp.56-57。 ( 英訳 ) pp.32-33。邦訳版では、引用該当箇所は、一つのより大きな段落に含まれ

た一節になっているが、英訳版では、2つの明確に分かれた段落になっている。本稿では、説明上、

英訳版の段落構成に従うことにする。

“But this world-as-event is not just a world of being, of that which is given: no object, no relation,

is given here as something simply given, as something totally on hand, but is always given in

conjunction with another given that is connected with those objects and relations, namely, that

which is yet-to-be-achieved or determined: “one ought to …,” “it is desirable that …” An object

that is absolutely indiff erent, totally fi nished, cannot be something one becomes actually conscious

of, something one experiences actually. When I experience an object actually, I thereby carry out

something in relation to it: the object enters into relation with that which is to-be-achieved, grows

in it ̶within my relationship to that object. Pure givenness cannot be experienced actually.

Insofar as I am actually experiencing an object, even if I do so by thinking of it, it becomes a

changing moment in the ongoing event of my experiencing (thinking) it, i.e., it assumes the

character of something-yet-to-be-achieved. Or, to be exact, it is given to me within a certain event-

unity, in which the moments of what-is-given and what-is-to-be-achieved, of what-is and what-ought-

to-be, of being and value, are inseparable. All these abstract categories are here constituent

moments of a certain living, concrete, and palpable (intuitable) once-occurrent whole̶an event.

Similarly, the living word, the full word, does not know an object as something totally given: the

mere fact that I have begun speaking about it means that I have already assumed a certain

attitude toward it̶not an indiff erent attitude, but an interested-eff ective attitude. And that is why

the word does not merely designate an object as a present-on-hand entity, but also expresses by

its intonation* my valuative attitude toward the object, toward what is desirable or undesirable in

it, and, in doing so, sets it in motion toward that which is yet-to-be-determined about it, turns it into

a constituent moment of the living, ongoing event.

(*An actually pronounced word cannot avoid being intonated, for intonation follows from the very

fact of its being pronounced.)”[下線論者]

38 前掲 2 p.104。 ( 英訳 ) p.74。

39 同上

40 前掲 1 pp.80-81。 ( 英訳 ) pp.51-52。 バフチンは、次の一節で行為についてより具体性を持たせた

説明をしている。

Page 28: ミハイル・バフチンの言語観における 「言葉の生」 …...Discourse in the Novel)と1963年の『ドストエフスキーの詩学の問題』(英訳名:Problems

― 113 ―京都精華大学紀要 第四十八号

「ちなみに、存在におけるわたしの言いわけ無用さにもとづくわたしの現実の行為は、思考の行為

も、感情の行為も、仕事の行為も、存在の出来事の究極の領域に集結されており、単一で唯一の

全体である存在の出来事のうちに定位している。思想はどれほど内容がゆたかであっても、また

行為はどれほど具体的で個性的であっても、それらはその小さなしかし現実的な領域のなかで、

はてしない全体に参与しているのである。そしてこのことは、わたしが自分を、自分の行為を、

この全体を、内容ある確固としたものとして考えなければならないということを決して意味しな

い。それは不可能だし、必要のないことなのである。」(前掲 1 邦訳 pp.80-81)

41 同上 p.55。 ( 英訳 ) p.31。

“Historically language grew up in the service of participative thinking and performed acts, and

it begins to serve abstract thinking only in the present day of its history. The expression of a

performed act from within and the expression of once-occurrent Being-as-event in which that act

is performed require the entire fullness of the word: its content/sense aspect (the word as concept)

as well as its palpable-expressive aspect (the word as image) and its emotional-volitional aspect (the

intonation of the word) in their unity. And in all these moments the unitary full word can be

answerably valid, i.e., can be the truth [pravda ] rather than something subjectively fortuitous. One

should not, of course, exaggerate the power of language: unitary and once-occurrent Being-as-event

and the performed act that partakes in it are fundamentally and essentially expressible, but in fact

it is a very diffi cult tack to accomplish, and while full adequacy is unattainable, it is always present

as that which is to be achieved.”

42 同上 p.57。 ( 英訳 ) p.33。 引用箇所の段落構成については、英訳版に従っている。

43 「言語芸術作品における内容、素材、形式の問題」(伊東一郎訳)『[行為の哲学によせて][美的活

動における作者と主人公]他』ミハイル・バフチン 1999 「ミハイル・バフチン全著作第一巻」 水

声社 p.448。 (英訳) “The Problem of Content, Material, and Form in Verbal Art,” trans. Kenneth R.

Brostrom in Art and Answerability: Early Philosophical Works by M. M. Bakhtin , ed. Michael

Holquist and Vadim Liapunov (Austin, TX: University of Texas Press, 1990), pp.311-312.

44 同上 p.371。 ( 英訳 ) p.257。

45 同上 pp.444-445。 ( 英訳 ) pp.308-309。

46 前掲 2 p.17。 ( 英訳 ) p.3。