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Title 経済学説史の方法 - 経済学の現状についての批判と展望のための(補遺)

Author(s) 川田, 俊昭

Citation 経営と経済, 63(2), pp.61-81; 1983

Issue Date 1983-09-26

URL http://hdl.handle.net/10069/28195

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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経済学説史の方法-経済学の現状についての批判と展望のための(補遺)

経済学説史の方法-経済学の現状に

ついての批判と展望のための(補遺)

川田俊昭

君は何を採るか?

新しいその〔創造の〕価値を採る。(歳言)

「経済学説史(経済学史)-その方法,その研究(の意義),その存在

価値は,経済学の革新(革命)を主体的に志向・用意し得てこそ,在る。(ヘ

ーゲルにおける『哲学』〔『哲学史』〕の役割と同じ。)……」と,筆者(私の

こと,以下同じ)は先稿において記した。(「経済学説史の方法-経済学の

現状についての批判と展望のための(4)」,経営と経済,第62巻第3号。)

茅野良男「ヘーゲルの哲学史と歴史哲学」(「思想」1970年9月,555号)ありよう

において,努頭,この問題はその有様について,次の様に誌されている。(但

し,先稿脱稿後参照。)

「哲学には,それが出現する時というものがある。イェーナ時代のヘーゲ

ルの講義の序論では,諸民族の人倫の古い形式が新しい形式から全く克服さ

れる『過渡期』〔後出の「新紀元」と同じ-筆者〕においてである。‥‥

『これを行う能力のある偉大な精神の持主達は,それを行い得るためには,

先行形態の一切の特有のものから純化されていなければならない。彼等がこ

の仕事をその統体〔個体,全体の部分としての・内的聯関をもった〕におい

て完遂しようとするなら,彼等はそれを彼等の全面的統体においても把握し

ていなければならない。彼等はそれをおそらくはある端末でだけ掴んでいる

のであって,それを前に運ぶのである。しかし,自然というものは全体を欲

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62 経営と経消

するが故に,自然は彼等をその置かれている頂上から突き離し,別の人間達

を据える。これらの人間も一面的で‘あり,全体の仕事が完遂されるまで,個

々の者が系列をなす。』しかし, もしこれがアリストテレスに学んだアレク

サンダ一大王のような偉人であるならば, c一主体で,一人でJW新しい人倫

的世界のまだまどろんでいる形態を起して目覚めさせ,ヤコブが神と格闘し

たように,世界精神の古い諸形式と大担に闘うに到り得るのである。確かに,

彼が破壊し得る諸形式は古くなった形態であり,新しい形態は一つの新しい

神的な啓示なのである。Jl(K. Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich He-

gels Leben C邦訳『へーゲ、ル伝JlJ,1844, 2. Nachdruck 1969, S. 189.)J

茅野氏(ローゼンクランツ)のそれに対照(出来るだけピッタリ,相似的・

肯定的に)さすべく,筆者のそれを,更に若干,敷桁すれば一一

「世界の経済学界においてすら(マルクス,シュムベーター,ケインズに

比肩する一一)第一級の経済学者と目さるべき人材の払底している今 W経

済学説Jl, 11経済学説史』は,ただ“冥土においてのみ花盛り といった非

情・冷厳な事実 W現状』に我々は直面せざるを得ない。(経済学の地盤沈下,

経済学の危機・・…・経済学は亡びるのか……。)……我々における今日的義務は,

r経済学説Jl (或は同じことであるが W経済学説史Jl)の過去の遺産・<経済

学の歴史>Cの全体〕を(辛うじてでも)ヨリ厳密・精確に保持〔整序・限

定 I純化JJ,……その新たなる創造・<科学批判>(の方向)へとー一一我

々の細々とした,ケチで貧しい情熱を, ともかく燃やし続けること(個別研

究を踏まえての一一経済学説の『古典ゎ<経済学の歴史>の研究が有意義・

有効で、あり得るのは,まさにこの時点においてである)……而して,そのあ

とはただ,我々における“運命の力 LaF orza del Destino",即ちー科学

を発展せしめた我々自身における(歴史的)必然性,に賭けて一一……只管,

偉大なる新人(シュムベーターの所謂「新しい人間J,百年に一人或はせい

ぜい二人か三人といった)の出自を,期待するに止まる。(然り! 宮に,

止まるo)J

「マルクス,シュムベーター,そしてケインズ,彼等 3人は, (結果的に

言えば一一)意識的で、あれ無意識的で、あれ,<経済学の歴史>(の全体)を

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経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための (補遺 63

彼等一流のやり方で復習し遂げ,尚旦つ余力を駈って<科学批判>をなし得

たのである。……彼等には又,それだけの力(知力,精神力…・・・批判精神)てい

と,従って又,独創力(一切のものを自己の中に見出す体の)が,備ってい

たのであるり

「……過去を現在に(その未来にかけて)結びつけるもの一一それこそ(そ

のモチーフが一体何であれ),一個人の創造的努力……一個人・一個性の(内

面,意識の)底に深く打込んで沈潜し,そこから媒介される分析的〔理性的〕

努力(即ち効果ある<科学批判>そのもの)に他ならない。……斯くて,<

経済学の歴史>と<科学批判>との止揚(“矛盾的自己同一"としての……時

…ー歴史……<経済学の歴史>の新紀元 CJ.シュムベーターの著書 Epochen

der Dogmen-und Methodengeschichte (邦訳「経済学史.0)1914. の所謂

" Epochen“(歴史を画する時期,時代,紀元……段階)Jへの参加)としての

『経済学説.0,そして『経済学説史.0,が在る。…… r……原因・・…・明白で決

定的な人聞の機能一一・…..一個人の要望を越えて創造を求める精神一一これ

こそ人間に他ならぬ。…… 学説が変化し壊滅する場合でも,学派,哲学,

国民的・宗教的・経済的思想、の狭く暗い裏通りが成立し分解する場合でも,

人間は時に過ちをし,苦しみながらも,到達への努力を怠らず,よろめきな

がら前進するものである。.0(J.スタインベック『怒りの葡萄.0) J

所謂“先駈者"なる者(天才,へーゲル「歴史哲学』の所謂「英雄J)の

出現が予想される以上に早いか遅いか,将又その主体としての交代が事実上

有るにせよ無きにせよ,我々はそこに,我々における(内なる)全意識の成

長,人間精神の発展・展開を, (内的)核として,従って又,その現象とし

て,我々の歴史と時代(全体としての思想・思潮,即ち「哲学」・「哲学史」

一)の中に,解釈することが出来るのである。

へーゲルの『哲学史講義』序論の官頭,言う。

「哲学史の考察の関心となる側面は多様で、ある。しかし,この関心をその

核心において捉えようとすれば¥我々はこの所謂過去的なものと,哲学が到

達した現在の段階との本質的な関聯〔歴史〕の中に,それを求めなければな

らない。この関聯は,哲学史において考察に上り得る色々の外面的観点のー

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64 経営と経済

つではなくて,むしろ哲学史の規定の内的本性を表すものだということ。…

…こういう点が,ここに詳しく解明さるべき問題であるり(この援用は,筆

者による如上の叙述後,発見されたものである。)

たとえば,へーゲルの『精神現象学』は,まさししそういった意味での

内的(神的・絶対的)な啓示の書である。

かるが故に,先の茅野氏の続けて言う。

「この講義は,今日ではイェーナ初期の論理学及ぴ形而上学と推定されて

いる。それは哲学史の講義ではない。〔とはいえ, Jへーゲルが初めて哲学

史を講じたのは,イェーナ後期, 1805年から 6年にかけての冬学期である。

イェーナ後期,それは『粕ー神現象学J の構想、の着手と実現の時期である。へ

ーゲルの最初の哲学史の立場は,それ故Jr精神現象学』の成果である『絶

対知」と,内的な連関をもつであろう。……」

へーゲルにおける「哲学」と「哲学史」との一致(の可能性)0I哲学は哲

学史であるり「哲学の歴史の研究は哲学の研究そのものであるり

が, しかし,……「しかし,この最初の哲学史は,そのままの形では我々

に与えられていない。……哲学史の講義は,イェーナの後,ハイデルベルグ

とベルリンで繰返された。へーゲルの哲学史講義の初めての編集者ミシュレ

は,へーゲル自身のイェーナ時代の哲学史のノート,ハイデルベルグ時代の

ヨリ簡潔な哲学史の梗概のノート,序論に関するイェーナ,ハイデルベルグ,

ベルリンでのへーゲルの草稿,ベルリン時代の学生の筆記ノートを資料とし

た。……〔もっとも, J Jrこの後者(イェーナのノート)の価値を更に高め

るのは,彼(へーゲル)がベルリン後期の講義の時,それから見取られる

ように,その都度益々このノートに立戻り,中期に屡々そうであったよりも,

一層言葉通りにそれに基づいて講義したことである。教室へ彼はいつもきま

って,前述の梗概(ハイデルベルクのノート)と共に,それを携えていっ

fこ。.!lJ

斯くて,へーゲルの『精神現象学.!l (形而上学)と,そして同時期の「哲学

史J (Jr哲学史講義.!l),殊に所謂「イェーナのノート J との聞の,密接・不可

分離な脈絡・聯関(論理)が自明となる O

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経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための (補遺 65

「何よりもイェーナのノートは, ミシュレ自身による『精神現象学』の『術

語への移行dl,へーゲルの哲学の形成における『最初の術語』を含むと報告

されているり

と共に,ハイデルベルク,ベルリン時代のへーゲルの「哲学史」にも,引

続いてのその連結(歴史におけるそのヨリ具象化・具体化)を,我々は認め

ざるを得ないのである。

ミシュレ編集の方法が, 一つの説得性をもっ所以である。

即ち一一一

「ミシュレは,これらのノートや草稿や筆記の編集に当り IF極めて屡々

初期の講義は一一ー主にイェーナのノート,更にあの梗概は一一事柄の抽象的

で単純な概念を立てて居リ,他方,後期の講義はその概念の展開を含む, と

いう一般的な所見』を方針とし,イェーナのノートを『基盤』乃至「骨格』

と看倣しながらも IFある時はある講義を,ある時は別の講義を採択』し,

そうでない時は『二,三の講義から同時にとり入れた。dlJ

よって,それをもって,茅野氏 (1哲学史」編者の一人・ホッフマイスタ

ーと同様立場)におけるように,次の如くミシュレを批難することは,文献・

資料考証の立場からならともかくも,へーゲル本来の,即ち「へーゲル哲学

の内的形成に関心を抱く者」の立場からは,却って,むしろ正鵠を射ていな

い, と批難さるべきであろう,か。

「ホップマイスターは,上のようなミシュレの『ずらして組合せる技法』

を全面的に退け,当時ま fご利用し得るへーゲル自身の哲学史の序論の草稿

(ハイデルベルグでの序論,ベルリンでの序論)以外に,ベルリン時代の学

生の講義ノートを利用し,内容をつぎはぎせず,資料の出所を明示すること

によって,哲学史講義を新しく編集しょっとしたが,全体の計画のうち,序

論の部分だけしか公刊されなかった。……ともかく, ミシュレが手にし得た

へーゲルの原資料の大部分は,ホッフマイスターが最早利用出来なくなって

いる。……それだけに, ミシュレがイェーナの最初の哲学史講義の全容を

『ずらして組合せる技法』によって隠蔽してしまったことは,へーゲル哲学

の内的形成に関心を抱く者すべてにとり,惜しいことである。 it重な原資料

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66 経営と経済

の大部分が残存していないからであるυ

精神(哲学)の絶えざる発展と自己回帰(普遍性,一般性),又反面,筆

者の所謂「歴史におけるそのヨリ具象化・具体化(特殊化)J とは,へーゲ

ル(或はミシュレ)において,我々の言葉で言うところのその実,表裏一体

のものなのである。

事実,茅野氏自身が, (自らの主張を裏切るやり方で)次の如き(へーゲ

ルからの・直接の)援用を行っている。(氏の主張は,実際,不可解である

一一へーゲルのそれは,決して不可解ではないにも拘らず~ )

即ち,問題の箇所は次の如くである。

「勿論,我々にとっては,現行の『哲学史講義』その他から,へーゲルの

哲学史,世界史の思考は把握出来る。へーゲ、ル哲学の成熟した形態,たとえ

ば『哲学的諸学のエンチクロペディー綱要oll C所謂『エンチクロペディ -oll,

一つの完成・「高次の段階にある」という意味で、は『精神現象学」と同じ〕

では,次のように言われている。『哲学の発生と展開は,外的な歴史という

特有の形態において,この学の歴史として表象される。この形態は,理念の

展開諸段階に,偶然的な順序とか,諸原理とそれらの諸哲学における詳論の

単なる差異性とかいった形式を,与えるものである。しかし,数千年にわた

るこの労働の職工長は,ただ一つの生ける精神であり,その思考する自然本

性とは,この精神がそれであるものを自らの意識に運び,それがこのように

対象となることによって,同時に既にそれを越えて高まり,こうして自らの.

内において高次の段階である, ということである O 哲学の歴史は,相異なる

出現した諸哲学に即して,一部は相異なる形式諸段階におけるただ一つの哲

学を提示し,一部は一つの体系の根底に横たわる一つの原理を含む特殊

な諸原理は,ーにして同ーの全体の分肢に過ぎないことを提示するのであ

る。時間の上で最終の哲学は,一切の先行した諸哲学の成果であり,従っ

て一切の哲学の諸原理を含んでいる。それ故,この最終の哲学は,それが

哲学であるとすれば,最も展開し,最も豊かで,最も具体的なものであ

る。ollJ

ともあれ,哲学は,一見,多様にして多種なる諸哲学を提示するかに見え

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経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための (補遺 67

て,その実,唯一,たった一つのものである。(シュムベーターの経済学説・

経済学説史観に同じ。)

へーゲルにおける哲学と哲学史との関係は,へーゲルそのもの,換言

すれば我々の精神・理念そのものの本質・長議 modus(自己運動・自己

展開・自己形成の)に即してーーかく理解されねばならぬ。(その論理

は,我々の経済学説と経済学説史との関係についても,全く同じであ

る。)

而して,茅野氏が,次の如く主張・援用(IT'エンチクロペディー』からの)

をなす時,氏は今や正ししへーゲ、ル本来の軌道に乗っかっている,と言つ

ってよいであろう。

「哲学史は,哲学の時間の中での発生と展開を提示する外的な歴史である。

しかし,哲学史は,理念の展開諸段階,ただ一つの生ける精神の形成諸段階

に即して,ただ一つの哲学を提示する。その次の節てコ哲学と哲学史との聯

関がもっと明瞭になる。『哲学の歴史において展示されるのと同じ思考の展

開が,哲学そのものにおいて展示される。(哲学史=哲学。〕しかし,前者の

歴史的外面性から解放されて,純粋に思考の境地においてである。自由で真

実の思想、は,それ自身において具体的で、ある。斯くして,この思想、は理念で

ある。しかも,この思想、の全面的な普遍性において理念そのもの乃至絶対的

なものなのである。』哲学は理念乃至絶対的なものの学であり,その境地は

思考である。『哲学の歴史は,絶対的なものについての諸思想、の発見の歴史で

ある。絶対的なものこそ,諸思想、の対象なのである。』哲学史,即ち哲学の

体系の発生と展開は,常に歴史的外面性に束縛されているり

これこそ,ホッフマイスター(或は茅野氏)の批難してやまぬ所謂「ずら

して組合せる技法」以外の何ものでもない。へーゲル自身の方法が,斯かる

「技法」そのものを用いているからである。

斯くして,哲学は哲学それ自体において哲学である一一精神が精神それ自

体において精神である如く。斯かる意味で,哲学はそれ自体において絶体的

なものであると同時に r絶対的なものの学」であり得る。

と言って,ここには,凡庸・頭弱き者(以上の叙述,援用を理解し得ぬと

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68 経営と経済

ころの)にとっての(論理的)陥穿が待ち構えている。

「これは(源)頼朝,弱年のみぎりのシャレコウべにて候」とは、わが落

語『骨董品h におけるユーモアの一つではあるが,それを笑うに笑えぬ一一

丁度それに等しい誤解が,我々の哲学・哲学史(経済学説・経済学説史)に

おいても,ある。絶対的なものを,歴史的相対において理解せんとする時,

絶対的なものそれ自体を相対化するという重大過誤,これである。

比口氏して言えば一一恰も,へーゲルにおける『精神現象学』が全体として

一つの完成・絶対(体系)であったょっに又,彼の『エンチクロペディー』

は一つの完成・絶対であった。(たとえ,叙述・編成自体について言えば一ー

その要求を満すに不充分・不完全であったにせよ,である。)

而して,両者を繋ぐものは,常識的に言えば,ある種の第三の契機一一従

って又,両者は歴史的に相対化され得るものであろう。

しかし,我々がへーゲルの「精神」の立場にある時,両者を繋ぐものは,

両者それ自体, しかも二つにしてその実,ーなるものであることが,確認さ

れねばならぬ。

へーゲ、ルの常識的理解は,へーゲルを悪しき“歴史主義" (似非の客観主

義,外面的な)へと導くと共に,その理由・根拠(たとえば,動力)を,本

来の内的なるものから外的なるものへと,誤って解釈せしめる。(その極端

な例が,素朴なる環境論である。)

哲学は,その本質(本性)上, (内的)絶対的なものにして,尚且つ(外

的)歴史相対的なのである。

外的なるものそれ自体(の存在)は(内的なるものの外化, という場合を

除いて),所詮,外的なる限りにおいて(換言すれば,内なるものにとって

の外という意味において),外的なるものであるー一一内的なる実質,核なる

ものに代ることは,出来ない。外的なるものに,仮に我々が一義的・宿命的

なるものを認めたとしても,である。外的なるものが一義的・宿命的であり

得る決定的な条件は,内的なるものの存在それ自体である。

「へーゲル……彼は,歴史のうちに発展を,内的聯関を証明しようと試み

た最初の人であった。J(F. エンゲルス「マルクスの経済学批判J)

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経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための (補遺 69

如上が,へーゲルの-ーと言うより,むしろ我々における諸学(哲学はじ

め,経済学を含めての)の基本的性格である。

茅野氏が,次の如く注意,強調する所似である。

「哲学そのものにおいて展示される思考の展開は,外的歴史という形態下

において,哲学史において展示される。……それでは,哲学は必ず外的歴史,

即ち哲学史という形態下においてでなければ,展開しないのであろうか。し

かし,へーゲルは,その逆を言つ。この外的歴史が展示するのと同じ思考の

展開が,純粋に思考の境地において展示される。歴史的外面性から解放され

て,真実の思想、が成立する。その限り,哲学の外的な歴史は,哲学が自己を

見出すための必然的な過程であろう。では,哲学が純粋に思考の境地に到達

したら, もはや哲学は自己を外化し、疎外せず,真に絶対的なものとして自

己を知るに留まるのであろっか。それにも拘らず,哲学は過渡期に出現する

のであるり

哲学が一つ(唯一・絶対の)の学であるように,経済学も(それ自体とし

ては)一つの学として,在る。

初めに書いた如く一一ここでも,主体の交代の有無は,必ずしも問題では

ない。と同時に,経済学は歴史を 1諸紀元(諸段階)EpochenJを,もつ。

経済学は経済学説にして,経済学説史である。

筆者が,先に,次の言葉を援用した所以である。

「今迄に既に首尾一貫した科学の発展を保証して来たところの力は,今後

も益々強大なものになっていくに違いない。この力の支配下において,科学

は絶えず目標設定と目標達成とを繰返しながら,無限なるものを目指して,

一一つまり喧伝されるところの限界とかIr究極目標』などにはお構いなしに,

無限に向って,流れて行くであろう。何故なら,ある問題の解決は,常に別

の新たな問題の入口に繋がるからである。.!1 (シュムベーター「社会科学の過

去と未来J)

へーゲ、ル『論理学」の所謂「真の無限J (1真無限J) ・

我々における……個人も……社会も……思想・学説……そういったすべて

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I 70 経 I~J- と経済

カヘ“到達すべき目標"のために歴史をもっ。

一時代の長き支配は,市に形骸化せる桂桔(一一害こそあれ益のない)…

無為の制度と, 無能の亜流(所謂“集団¥ 単に快倣にあけくれる)を,者i

積する。…・・・時間(日白黒,夜)がこの世を蔽う。世界は危機に陥る。……死

に瀕する。矛盾, そしてその否定の可能(性)・

自由にして生々.iW々 たる人間精神の底流は, マク、、マにも似た新しき噴出

(創造一一革新・革命,“天才"を先駈とする)によって, こういった困難

のすべてを解決する。

哲学史・経済学説史が自覚され,哲学・経済学説が生れるのも, まさにこ

ういった「過渡期」においてである。

へーゲル『法の哲学』序文に謂う。

「ミネルウ、アの呆は, 日音問のうちに飛び、立つU

宇宙の永遠なる創造……。

而して, 以上,取敢ず, 問題をへーゲルを軸として綜括する上において,

次の言葉(へーゲ、ル研究家の何人も言及しないところの)以上に,適当・適

切,且つ便利なるものを,筆者は知らない。

即ち, 日く。はじダ〉 こと Lf ロゴス

『永遠の太初に神の言〔概念,精神〕あノ O 言は本質において神〔絶対者〕と

この言は太初に神と共に在り,高の物〔現象〕こ借にあり, 言は神なりき。

れに由りて創造されて成り,いのち

成りたる物にーっとして之によらで成りたるは

なし。之に永遠の生命あり。人類の堕落以前においては, 人の胸にこの生命みち, 目

から聖旨に従っていたからこの生命は人の心を照らす光なりき。その後も……理性の

声を通して,光は常に人類に臨み未ったのであるが,荒み果てたる霊魂は更にこれを受入

れようとしなかった。光はいま暗黒に照る。 而して, 暗黒は之を悟らざりき。

〔一一矛盾〕神より遣されるた人〔一つの主体,先駈者〕いていたり。……こあカ‘し

の人は詮のために来れり。……「言」の先駈者として追わされた彼は光にあらず,つ まこと

光に就きて詮せん為に来れるなり。……もろもろの人をてらす民の光〔今一ちすぢ

つの主体,真の創造者〕ありて,世にきたれり。……斯かる人は血脈によら

ず, 肉の欲によらず, 人の欲によらず, ただ神によりて主において,新に生れし

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経済学説史の方法一一紙済学の現状についての批判と展望のための (補泣 71

なり。……未だ神を見し者なし。ただ神と永久しえに合ーして父の懐裡にいますひとりご ありわ

独子の神のみ之を ~m し給えり。.ß (ヨハネ伝註は昭和 9年発行,明和書院『新約

聖書略註』に拠る。)

「……哲学の概念は,勝手〔恋意的,感性・悟性による〕なものではなく,

学問的な仕方〔理性〕で確立さるべきものだとすれば,このような論述こそ,

哲学なる学問そのものとなるのである。-…・・即ち,哲学の概念は,ただ暫定

的に始元をなすに過ぎず,この学問の全論述だけが,立証だからである。

否 1 論述の全体が,それ自身この学聞の概念の発見であり,又この学問の

概念は本質的には全論述の結果である, とも言われ得るからであるυ(へーゲ、

ル r哲学史講義』序論)

同訳(岩波文庫・武市健人訳「哲学史序論一一哲学と哲学史.s)のこの箇

所に,訳者は註して言う。

「この考えは,へーゲ、ル哲学の根本的なものである。又,哲学史について,

いま問題にしている点への回答の根本となっている考えである。尚この点に

ついては,へーゲル「精神現象学』……『エンチクロペディー』……「大論

理学』……の到る所で,繰返して述べられているり

へーゲルにおいて「哲学は哲学史であるJ,と同時に r哲学は……唯一,

たった一つのものである J,と筆者は上述した。このことは,又同時に,我

々がそこに“歴史刊を媒介せしめていることも,今や自明であろう。

「我々における“運命の力¥即ちー科学を発展せしめた我々自身におけ

る(歴史的)必然性……。……(シュムベーターの所謂Ju'首尾一貫した科

学の発展を保証して来たところの力……。.sJ

この点に関し,茅野氏は(おそらく,上掲のへーゲルにそのまま依拠して

であろう),次の様に言う。

「哲学の概念規定の確立と共に,哲学の歴史の始元も確立する。当然,そ

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72 経営と経 i斉

れは,歴史の概念規定をも含んでいる。へーゲルが哲学史を初めて講じた時,

彼には哲学の立場の確立があり,歴史を哲学的に考察し得る基盤が築かれ,

哲学の歴史を語り得る視闘が獲得されていたと推察してよいり

へーゲルが彼白身の哲学を確立し得た時,彼は哲学史(哲学の全体,哲学

の諸紀元・諸段階……「哲学の始元,従って終末J. 遠くギリシアにまで遡

る)を確保・展望し得たのである。

換言すれば,哲学が確立された時(いわば,哲学を創成し得た時,……哲

学に遭遇し得た時). 白から哲学史全体についての展望・視野が確保され

得るのである。(前者の重大さの程度が,後者のスケールの大さをも規定す

る。)

「究極的には,それは哲学が何として立てられるかに関っているd

筆者の言う。

「……以上の如き主意において. (固有の「経済学説J. 所謂“日本経済学"

のない)我国においては I経済学説史J (乃至『経済学説史jJ. Ii'経済学史」

なる著書)が, どだい,無理・不可能なることを,我々は知るべきであるω

筆者自身の論法(語法)は,こうである。

「無限・・…・『あらゆる問題の底の底まで究める』ことによって,マルクス

の『経済学説jJ (殊に『資本論jJ)は可能であった。『経済学説史』としての

『剰余価値学説史jJ (所謂『資本論第 4巻jJ)は,所詮,その副産物(比較的

容易な, 白からなる)に過ぎない。……マルクス自身 F エンゲルスへの

手紙 (1865年 7月31日)の中で,次の様に書いている。……『さて,僕の仕

事のことだが, これについて本当のことを打明けよう。理論的な部分(始め

の3巻(Ii'資本論』第 3巻まで))を完成するためには, まだ三つの章を書か

なければならない。それから更に第 4巻,歴史的・文献的な巻〔即ち『剰余

価値学説史jJ)を書かなければならないのだが,これは僕にとっては相対的

に最も容易な部分だ。と言うのは,問題はすべて始めの 3巻の中で解決され

ていて,この最後の巻は,むしろ歴史的な形での繰返しだからだ0 ・・…・たと

えどんな欠陥があるとも,俣の著書の長所は,それが一つの芸術的全体をな

しているということなのだ。〔筆者の所謂『一義性jJo)jJ……即ち,そこにお

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経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための (補遺 73

いては,経済学説=経済学説史(或は,経済学説史=経済学説)の論理が

(理念として〔現象としての現存在に実現されていなくとも J), 既に予定

(先験的に?)されていた,のである。((へーゲル・筆者の所謂J1哲学の

哲学」の問題としての一一一経済学説と経済学説史との関聯)0 J

勝れた考え方というものは,一体に(その深所において),共通を

有するものである。(一一我々における意識,思惟の構造からする必

然か。)(筆者)

一人がその意見を徴する経済学者が有能で、あればあるほど,方法

についても解答についても,基本的な事柄に関しては意見の不一致が

少いことは,容易に確められる o (シュムベーター)

偉大はただ偉大によってのみ理解される。(筆者)

同様なものによっては,ただ同様のもののみが,その本質を認識さ

れる。 (W. ゾムバルト)

真の概念を念頭において書いた哲学者の著作を理解し得るのは,た

だ真の概念のみである o (へーゲル)

或は,筆者の謂う O

IIF意識的な努力』をもって分析の深み(その底の底,根底)に達する時

(一一へーゲルの所謂 IF~IU~J ,絶対なる『無限』を志向する時 (1 自己の内

への深化JJ ),その個性は歴史の過程(=持続〔へーゲルの所謂「連続JJ)

そのものに同化・合一する〔換言すれば,自由となる〕……。……と共に,

諸々の個性(人間,学説)のすべてが, 白からなる内的必然性(体系)のう

ちに……見えてくるに違いない。……持続……その真の本性である“不断の

運動,生成変化,働きそのもの,自由の世界……無限の発現力,不断の創造

の欲求, 自己における自己の絶えざる創造……〔人間・世界にとっての普遍J"

・。……而してこそ(斯かる真の理解,体験あってこそ),ユニークな本

来の「経済学説史.1(マルクス『剰余価値学説史.1,シュムベーター『経済分

析の歴史』……)は可能で、あった。…… IFIなんじ心を尽し,精神を尽し,思

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74 経営と経 j汗

L、ましめ

を尽くして主なる汝の神を愛すべし。」これは大にして第一の誠命なり……。」

(マタイ伝)J

学史に登場する(神的)個性,偉大な「諸々の個性J (所謂「偉大な精神

の持主達J)……へーゲルの言う。

「哲学史が我々の面前に叙述するものは高貴な精神の系列であり,思惟的

理性の英雄達の画廊 Gallerieである。言い換えると,その理性の力によって

物の本質の中に,即ち自然や精神の本質の中に,つまり神の本質の中に分け

入り,我々に最高の宝物,理性的認識の宝物を取り出してくれた英雄達の画

廊である。……このことは同時に, c逆説的・反語的に言って〕哲学史の事

件や行為にあっては,人格とか個性的性格とかが大した内容と意義をもつも

のでないということを意味している。……むしろ,業績,功労が特殊の個性

に帰せられることが少いだけ,否! むしろ結果が自由な思惟〔精神,人間

における普遍〕に,即ち人間そのものの普遍的性格に所属することが多けれ

ば多いだけ,この特有性のない思惟自身が生産的〔創造的〕主体であるだけ,

出来栄えは益々上々なのである。J(~哲学史講義』序論)

「歴史的なものとは,まさに,いかなる個体にそのような思想の一層の深

化が属し,ヨリ深い諸原理の開披が属しているか,を述べることにあるd

(へーゲル『エンチクロペディー.n)

経済学説が確立されると同時に,経済学説史が,可能となる。

しかし,言うまでもなく一一無から有は生れない。

経済学説が歴史的に媒介されていたからこそ(一一些か形而上的な表現で

はあるが),経済学説が,ある一時点・一時期において可能なのである。

換言すれば(逆に言えば),経済学説の歴史的展開(一つの)のうちに,

ある(一つの)経済学説が予知されていた, ということが出来る。

よって,茅野氏も言う。

「哲学の始元,従って終末には,いくつかの区別を立てることが出来る。

究極的には,それは,哲学〔の本質,哲学本質論・哲学そのもの〕が何とし

て立てられるかに関っているd

無論,斯かる「経済学説史」は,世の常の(筆者の所謂)“五目並べ"よ

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経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための (補遺 75

ろしき一一ナンセンスな「経済学史J(へーゲルの所謂「阿呆の画廊」とし

ての経済学史).ではない。

所謂「阿呆の画廊」……へーゲルの謂う。

「……哲学史は,即ち時聞の中で出現し,時間の中で提示された沢山の哲

学的意見を枚挙すべきだという,哲学史についての極めて通俗的な見解……

控え目に言う時は,こういうものは〔単に〕意見と呼ばれる。しかし,これ

にもう一つ突っこんだ判断を下し得ると考える人々は,哲学の歴史を阿呆の

画廊 Gallerievon N arrheitenとさえも呼ぶ。或は少くとも,思惟と単な

る概念とに専念する人聞の昏迷の画廊と呼ぶのである。……この色々な意見

の枚挙としての哲学史は……閑暇な好事の事柄となる。或は,いわば博識の

関心事となる。何故なら,専ら無用な事柄を沢山知ることだからである。

言い換えると,その知識をもつこと以外には,それ自身では何の値打も,何

の利益もないような事柄をドッサリ知ることだからである。(……筆者の謂

う。「それは,恰も我国における“インテリ"の規定が,その実“(ヨリ多く

の)断片的な知識の所有者¥“形骸化した知識を多量に頭に詰め込んてい無意

味な権威を誇る特権階層"(の別名)であるに似ている。JJ・…・・しかし,哲学

史が,ただ意見の画廊に過ぎないとすれば,……哲学史は,全く無用な退屈

な学問となるのではあるまいか。単なる意見の羅列を学ぶより下らないこと

があり得ょうか。これほど馬鹿らしいことが他にあろっか。……哲学史「経

済学史』も〕の通俗的著書が,およそ如何に下らなし面白くないものであ

るかということは,一寸見ただけでも分るのであるoJ(IT'哲学史講義』序論)

同様に,ここで言う主張としての「経済学説」も又,世の“百貨主義刊的

無意味・無気力な“経済学"ではない。

筆者(昭和37年)の所謂「……我国における「経済原論.11.経済学史』な

る珍学科の<何でもや主義>. <百貨主義>……。」

「経済学説の本質を,纏りのないか、ラクタの入った道具箱(その価値は,

単にかラクタの集積の量的大さによって計られる)と混同する程,貧しく誤

解多き発想はない。(しかも,斯かる発想は,“技術化し非人間化した経済学"

へと容易に媒介する。)……〔たとえば. Jシュムベーターの学説の本質それ

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76 経 'ttと経 i斉

自体……(一貫した体系の全体として一一)シュムベーター自身(の全人と

しての人間)を外しては語り得ないところの……一義的・決定的・必然的な

ものである。……斯かる意味では,経済学は(自然科学より,むしろ)哲学

や芸術に似ている。……経済学の科学(学問)としての一義性の欠如(一一

経済学的認識の深層に達し得ないことに由る)としての経済学の手段化……

安易な……綜合程,我国の経済学(経済学者……)をよく象徴しているもの

はない。(それはまさしく,粗大ゴミの集積以外の何ものでもないJJ

『へーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時,へーゲルに去も哲学を売る

の意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず,真を体せる人の講義なり。舌

の講義にあらず,心の講義なり。真〔普遍〕と人(個性〕と合して醇化一致せ

る時,その説くところ,言うところは,……道〔精神,絶対的精神か〕のため

の講義となる。……徒ら〔恋意〕に真を舌頭に転ずる者は,死したる墨をもっ

て,死したる紙の上に,空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。…

…公らはタイプ・ライターに過ぎず。しかも欲張ったるタイプ・ライターなり。』

『……シェークスピアの使った字数が何万字だの,イプセンの白髪の数が

何千本だのと言ってたって仕方がない。……~ (夏目激石『三四郎」より

j軟石自身,へーゲルにいたく心酔していた。)

閑話休題。

哲学は……従って又, (一つの)経済学説は,単に我々の頭の中(悟性,

……理性でなく)で,啓蒙的・合理的につくられるものではない。

もっとも,確かに,その確立は,個人(主体)の「意識的な努力」を契機

とするものである。

シュムベーターの言う。

「……科学とは,常に改良せんとする意識的な努力の対象となっている様

な種類の一切の知識をいっ……oJ(~経済分析の歴史~)

へーゲルも言つ。

「既存の学問(哲学)を理解し,その上でそれに自分の手を加え,まさに

そうすることによって学問を更に発展させ,ヨリ高い立場に高めること,こ

のことこそ,我々の,又各時代の役目であり,仕事である。我々は,学問を

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経済学説史の方法 経済学の現状についての批判と展望のための (補遺 77

自分自身のものとすることによって,それを前にあったものとは違った何か

として打ち出す。既存の精神世界を前提し,それを自分のものとして改造す

るというこの生産〔創造〕の本性の中に,我々の哲学が本質的に前の哲学と

の関聯においてのみ生じ得るということ,又そこから必然的に生じたという

ことの意味がある。従って,歴史の行程は,我々に外的な諸物の生成を叙述

するものではなくて,この我々の〔内的,内面的〕生成,我々の哲学の生成

を叙述するものに外ならない。」

「世界精神の生命が行為である。……行為は既存の素材を自分の前提とし

て,それに対して働く。しかも,それを単に材料の附加,拡大によって増す

のみでなく,本質的に加工し,改造するのである。J (IT'前掲書』序論)

換言すれば,経済学説は,それが一つの・絶対的(戎意味で,形而上的な)アンチ・テーぜ

な<経済学の歴史>(<科学批判>によって媒介される)を前提,又更にそ

れに適合し得てこそ,有効な経済学説たり得るのである。(へーゲル『歴史

哲学』の所謂「理性の詑l汁JJ

一つの・絶対的な…・・・<経済学の歴史>。

シュムベーターの百う O

「……科学的経済学は,歴史的連続に欠けてはいない。……科学的諸観念

〔概念〕の系統化〔進化JFiliation of Scientific ldeasの過程一一経済現

象を理解せんとする人間の努力が,無限の連続の中に,分析装置を作り出し,

改良し,破壊してし、く過程 (ftDち r創造的破壊の過程JJ一ーとも呼ばれ得

るものを記述することは,我々の主要な目標である。更に又,この過程〔質

的,量的で、なく〕が,基本的には,他の知識の分野における類似の過程と異

るものではないということも,本書において樹立さるべき主要テーゼの一つ

なのであるoJ(IT'前掲i1J.n)

へーゲルにおいて,全く同様で、あったことを,茅野氏も(先に引続き)援

用によって論証する。

「……この推察は,それを裏づける根拠がなければならぬ。…・一先ずロー

ゼンクランツの報告によると,へーゲルはこの最初の哲学史において,哲学

史の恨幹を確立してしまっているのである。『彼(へーゲル)は,哲学史に

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78 *1 r~. と経 i丙

関するその粘通ぶりを,批判雑誌用の諸論稿で確かに既に充分に明らかにし

ていた。今や彼は,一切の哲学において哲学が一つであることを,ただ一つ

の偉大な聯関の連続〔歴史 I世界史JJの中で極めてはっきりと意識した。

今や彼は初めて,世界史を絶対知の立場ーから充分に仕上げ‘た。今や彼は初め

て,自分自身が先行の諸先例との歴史的な関わり合いの中にあることを見出

した。」…・・・その証言だけで, 当時のへーゲルが絶対知の立場にあったと断

定することは危険で、あろう。しかし,ローゼンクランツの引用する講義 C~歴

史学講義JJの結びの一節を見ょう o Cへーゲルの言う。J~一つの新しい時期

〔新紀元〕が世界に発現した。今や世界精神にとり,一切の疎遠な対象的な

本質(一一一所謂“桂桔"としての,疎外の理由たる〕を自ら片づけて, とう

とう自らを絶対的精神として把握し,更に,この絶対的精神に.とり対象的な

るものを,白からして産出〔創造〕し,これを,これに対して安らかに,そ

の力のままに保持することに,成功したように見える。〔絶対知・絶対的精

神に到達することによって.J有限な自己意識の,それにとりその外部に現れ

ていた絶対的自己意識との闘いは,止むのである……。』……この有名な文

は,決してへーゲルの成熟し完成したベルリン時代の思想ではない。それは

まさしく,へーゲルのイェーナ後期〔ー一一『精神現象学』の書カ通れた〕の言

葉なのである。……更に,ガーブラは,その哲学史講義の印象を伝えている。

『しかし,たしかに,へーゲルが自らはじめて当時の極めて勤勉で、根気よい

資料研究のもとで仕上げた講義は,人々すべてから極めて活気のある関心で

もって聴講された。この関心を惹起したのは,特に当時未聞の,体系〔一つ

の完成された〕から体系への弁証法的な運ぴ行きであった。』ある体系に引

続き,他の体系が連れ出され,ある期間舞台に置かれ,観察される。……そ

して,再び葬られる。……それは夜〔所謂「時間J. 軟石『三四郎』の所謂

「偉大なる暗闇」か, 阿々)である 0 ・・…・それは死だ。一・・・・たしかに死だ,

死でなければならないのだ。この死によって生が一層立派に立ち現われ,展

開していくのfご。」

マルクス(シュムベーター)において一一(その経済学説におけると同様)

経済そのものの理解に,斯かる考え方(論理)が採り入れられていたことも,

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79 遺品市出経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための

今や自明である。

ツュムベーターの言う。

「マルクスの分析における……一切のものを貫いて……一つの根本的な考

え方が流れている一一それは,……各瞬間に自ら後続のものを規定するよう

自力で歴史的時間の中を進行するが如き経済過程の理論な状態を生みつつ,

シュムベータ.ーにおける所謂“歴史主義"J……でという考え方〔マルクス,

経済理論が如何にして歴史的分析に転化されある。……彼(マルクス)は,

又歴史的物語が如何にして理論的歴史 histoireraisonneeに転化さ得るか,

体系的に理解し且つ教えることにおいて,最も勝れていた最初

もし熱中した弟子達が,マルクスは歴史

学派〔一一明らかにへーゲルの方法に拠った〕の経済学の目標を確立した,

れ得るかを,

の経済学者であった。……従って,

と主張するとしても、その主張は軽々しくは却下出来ないであろう。……」

( IT'資本主義・社会主義・民主主義.J)

一つの・絶対的な経済学説一一それは,単なる普遍においてではなく個別,

das Konkret-へーゲルの所謂「具体的普遍即ち歴史的個別(真の普遍,

Allgemeine J )においてこそ,確立され得る。

一つの時代全体の『見方』「科学的な天才が研究対象に関らせる価値は,

を規定するり(マックス・ウェーバー)

斯かる意味での経経済学説史としてのその進化の展望が可能となるのも,

である。済学説の確立が充分に保証され得てこそ,

へーゲルの言つ。

共通の変らないものが,我々の歴史的なものと「我々の現在においては,

本質的に結ぴついているのであるoJ(IT'哲学史講義』序論)

とこ況して,特殊としての経済学をしか保証し得ない(乃至観じ得ない)

政治にのみ熱心な認識においては,個別はおろか,単なろの通常のプチな,

る普遍としての経済学をも把握し得ない。一一ただ,“ドングリの背比べ"

多種類・バラノ〈ラの諸論を見るのみである。

歴史必然的(ヨリ厳密に言えば, (-しかも,

よろしさ,

筆者の謂う。

「歴史の中における経済学,

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80 経営と経 u守

つの〕歴史体系的-歴史体系必然的・本質的)な全体としての経済学として

こそ,経済学は経済学なのである。そして,斯かる経済学はIi経済学説』

となる。経済学とは何か 経済学は『経済学説史.n (ただし理念としての)

〔を予想、・可能〕としてこそ,経済学なのである。(経済学説史=経済学説,

或は経済学説=経済学説史・・・・・・JJ

経済学説として特殊(或は,単なる普遍)を見るか,個別(従って,経済

学説史をも)を見るかの相違は,認識者が問題の本質(或は対象としての本

質,内的)に如何に深く関り合っているか,による。

シュムベーターの言う。

「……かの深〈掘り下げていくが如き分析……それは直接には何らの実際

的問題の解決を粛らさなくとも,認識の進歩のためには全く重要なものであ

るが, しかも政治的関心の横溢している雰囲気の中では全く繁栄するところ

のないものである。……全人格を打ち込んでのみ初めて到達し得られるが如

き研究の時には,その内面的本質に近づき得ない。J (Ii ~γ:説・方法史の諸段

階.n)

それは又,へーゲルとシェリング,へーゲルとフィヒテとの差(の理由)

でもあろう。

茅野氏の言う。

「ガーブラは言う。それまでへーゲルとシェリングとの区別はないと思っ

ていたが,はっきり区別されて驚いた。『シェリングの体系も登場する)11員番

となったが,それについては,本来まだ未完成であって,様々な発端や進化

の中で別様に試みられた事柄が話題となっていること,特にその体系の欠陥

として,絶対的なものにおいて対立が静かな統一態〔即ち単なる普遍,筆者

の所謂「安易な平面的思考……へーゲ、ル的思考を外したJ)であること,な

と守が人の注意をひくものとされた。』・・…・ローゼンクランツも,へーゲルは

シェリングの功結を認めながらも,絶対的なものにおける対立は,全く等価

的な対立であり,単なる量的な区別であり,一切は二つの要素の何れかの凌

駕に過ぎず,真実の区別ではないこと,弁証法の欠如,この 2点でシェリン

グを非難したと伝えている。……〔へーゲルの言う。) Iiフィヒテの知識学も

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経済学説史の方法一一経済学の現状についての批判と展望のための (補泣 81

シェリングの超越的観念論も,双方とも論理学乃至思弁的哲学〔意識の純粋

理論・主観主義的観念論, /iJi-学〕を純粋にそれ自身として展示する試みに外

ならぬ。周知のようにフィヒテは意識という偉大だが一面的な立場から, 自

我から,主観から出発している。そして,このことは彼にとり完備した自由

な詳論を不可能にした。シェリングは……思弁的哲学そのものに関して言え

ば,これらの試みにおいては意識が現存していなかったように見え,それ以

外の何ものも関心事となされ得なかった。シェリングは哲学に対するその後

の諸見解で,思弁的理念を一般に理念そのものにおける展開〔現実における

自己展開,具体的な〕なしに提示し,それが自然哲学〔静学〕としてもつ形

態へと直ちに移行するのである。』・…ーへーゲルは.フィヒテとシェリング

に対して,絶対知,弁証法という国有の立場を獲得し,既に絶対的精神とい

う成果へと到達している。それ故,この哲学史講義は『精神現象学』と深い

内的な聯関をもつものであったろう。『目標,つまり絶対知,又は自らを精神

として知れる精神は,その〔展開・実現の〕道程に,諸精神〔或は,諸学〕

がそれら自身において如何にあり,又それらの王国の体制を如何に実現する

かについての,諸精神の〔遡つての〕回想、をもっ。それらの自由な偶然性の

形式で現象する〔一一連続して〕現存在の側面からすれば,それらの保存は

歴史である。〔即ち,経済学説史=経済学説。〕……。』我々は『精神現象学』

〔哲学,我々の場合「経済学説JJから,この哲学史講義〔哲学史 r経済学

説史JJの立場を逆に推定することも出来るであろう。(哲学=哲学史,経済

学説=経済学説史。JJ

〔未完)