文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... ·...

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文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの影響─ 著者 門池 真菜 雑誌名 英米文學英語學論集 3 ページ 65-100 発行年 2014-03-20 URL http://hdl.handle.net/10112/8390

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Page 1: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

文学作品からみる蛇に対するイメージの変化yenn他宗教からの影響

著者 門池 真菜雑誌名 英米文學英語學論集巻 3ページ 65-100発行年 2014-03-20URL httphdlhandlenet101128390

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文学作品からみる蛇に対するイメージの変化他宗教からの影響

文10-213 門 池 真 菜

第 1 章 序論

11 はじめに

蛇は手足のないその独特な姿と鋭い眼差しのためか多くの人々に怖がられる動物として知られている2002 年おもちゃメーカーであるバンダイ 1 が「お子様の好きな動物嫌い(苦手)な動物は」というアンケートを行ったところ蛇は男子の嫌いな動物の第一位女子の嫌いな動物の第一位という結果となったまた 2011 年絵本の読み聞かせを推進する mite(ミーテ)2 による「ママパパがすきな動物にがてな動物」というアンケートでは苦手な動物第一位に蛇が選ばれ蛇は幅広い世代から苦手とされる動物となっている

しかしこれほどまでに人々から苦手とされる蛇であるが古代より日本を含む様々な国で崇められる対象であったこともまた事実である例えば日本においては蛇の抜け殻を財布にいれると運気が上がる家に蛇が住み着くとその家は生涯繁栄する白蛇は縁起が良いなどという言い伝えが残っており蛇を神聖視していた痕跡が窺がえる

12 研究の動機

2013 年に干支は蛇となり新年以降様々な場所でその姿をモチーフにした絵や置物を目にしてきたしかし自分も蛇嫌いの一人であるためテレビ等に生きた蛇が映ると嫌悪感を抱くことが多々あったその際にふと何故自分は蛇に苦手意識を持っているのだろうかということを考えたその一方で蛇は様々な物語や昔話に登場しており幼い頃から身近な動物の一つでもあったそれは蛇の独特な姿やそれに伴うイメージに魅力され多くの作家が蛇を文学作品に描いてきたためである蛇は古くから人々に影響を与え嫌悪感を抱かれてきたしかし一方で神として祀られる存在でもあり数多くの文学作品に登場し魅力溢れた動物として多面的な魅力を秘めている

以上の 2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった

13 本稿の主たる主張

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」である日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品にはその当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することでその思想信仰の変遷が分析できるのではないかと考えたからである

1 httpwwwbandaicojpkodomoquestion70htmlバンダイ「お子様の好きな動物嫌い(苦手)な動物アンケート」20131217

2 httpmi-tejpcontentscafe11-7-1091ミーテ「ママパパがすきな動物にがてな動物」20131217

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主張は「近世までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で蛇を神として捉える神道的思想を根強く残している近代以降はキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」というものである

先行研究では仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと述べられてきたが神道についての記述は少ないまた現代までの蛇に対するイメージの変化を文学的に考察した論考はあまりみられないそこで本稿では神道的思想が根強く残されている作品を先行研究に加える形で時代順に考察する

近世までの蛇が登場する作品については笹間(1991)や谷川(2012)などの先行研究が盛んに行われているが明治以降の蛇が登場する作品の研究はあまりみられないそこで明治以降はキリスト教の影響を中心にどのように蛇が描かれているのかということを考察するそれと共に西洋の作品と比較することで多神教である日本の蛇信仰がどのように変化してきたのかを明確にする

14 研究の手法

次の作品を使用し西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を考察する西洋の文学作品では古代神話『旧約聖書』『新約聖書』中世では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』現代では『ハリーポッターと秘密の部屋』を使用する日本を中心とした東洋の作品では以下を使用する中国神話日本の古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』

『古事記』『常陸国風土記』中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』近代では『婦系図』

『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』現代では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』であるこれらの作品はまず古代から現代まで時代区分を設定した後に蛇が登場する作品を無作為

に選択した日本の近現代に関してはキリスト教思想の影響について考察する目的によりキリスト教に関わる作品を中心に選択したただし現存する全ての作品を紹介しきれないことに留意願いたい

15 各章の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成されている第 1 章序論では本稿を書くに至った動機や主張文学作品を用いて西洋と日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた続く第 2章では先行研究を多数取り上げ日本と世界の宗教古代蛇信仰と世界の蛇に対するイメージキリスト教文学などについて多角的に紹介する第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究を元に西洋と日本における文学作品を時代毎に並べ両者を比較する第 4 章では蛇に対するイメージの変化を考察するために第 3 章のデータを用いて神道的思想の根強さと近現代におけるキリスト教の影響について考察するそして最後の第 5 章を結論とし本稿での結論と今後の展望について述べる

第 2 章 先行研究

本章の構成は次のようである21 ではなぜ蛇が信仰の対象となったのか22 では世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇25 では東洋

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における蛇信仰26 では日本における蛇信仰27 では日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べる

21 なぜ蛇が信仰の対象となったのか

まず始めに蛇のどのような性質や特徴が起因となり神聖視されるようになったのかという事について述べる吉野(1979)では古代日本人が蛇を信仰の対象とした源を次のように述べている

おそらくそれはズバリいって次の二点ではなかったろうか  (1) まず蛇の形態が何よりも男根を連想させること  (2) 毒蛇蝮などの強烈な生命力とその毒で敵を一撃の下に仆すつよさ

吉野(197924)

頭から尾に至るまでが一本棒になっている蛇は神聖な神のそれとして受け取られ蛇から性への連想が行われ性に対する憧れ崇拝畏怖歓喜それらが凝集して神与のものと考えられその象徴が蛇として捉えられた一方で毒蛇ことに蝮がもつ強い生命力及びその繁殖力も信仰の対象となったと述べている(吉野 197924 ~ 25)

蛇信仰は日本だけではなくかつては世界各地で行われていたという吉野(2007)によると蛇信仰は一説によれば古くエジプトにおこって世界各地に伝播し東はインド極東太平洋諸島を経てアメリカ大陸に達しこの伝播の道程のなかに日本列島もふくまれ日本に蛇信仰が顕著であるのは当然であると述べている(吉野 200727)

次に世界の原始蛇信仰について述べる

22 世界の原始蛇信仰

ここでは古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアの 3 つの地域の蛇信仰について述べる現在これらの地域ではほとんどの人々が一神教を信仰しているがキリスト教やイスラーム教の拡大以前にはその多くが多神教を信仰していたそうした多神教世界においては蛇は神や神の使いとしての役割を担い信仰の対象となっていた

まず古代エジプトについてである小島(1991)によると古代エジプト人は多くの動物神を崇拝しておりこのなかに蛇類もはいっているという蛇類のなかでも最も恐るべきコブラの姿はファラオのシンボルの一つとなりまた「女神」を表す限定符(ヒエログリフ体系での表意文字)として使われていると述べている(小島 1991225 ~ 226)

また安田(2009)ではアニミズムにおける蛇について以下のように述べている

アニミズムの強固な世界では鳥と蛇が王のシンボルとなりエジプトではハゲワシとコブラが王のシンボルであった下エジプトのシンボルであったハゲワシと上エジプトのコブラを王冠につけるその意味は上エジプトと下エジプトの統一を示すものであったそれは中国の鳳凰と龍に比定されるものである

安田(2009152 ~ 153)

次に古代メソポタミアについてである笹間(1991)では以下のように述べている

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バビロニアの紀元前一〇〇〇年頃の神話にも下半身が蛇体の女神テイアマトがいるテイアマトは英雄マルドゥク神に退治され上半身は天となり下半身が大地となったとされるからこれも蛇体によって天地を生じたことになるまたテイアマトはキングという怪物を作ったがその血から人間は作られたといわれるここでも人間の祖先が蛇であったということになり蛇を祖霊とする信仰があったことを示している

笹間(199122)

そして古代ギリシアについてである安田(2009)によるとかつてクノッソス宮殿から大小二体の蛇の大地母神像が発見されたという大きな大地母神像は豊満な乳房をあらわにし上半身と両腕に大蛇がぐるぐる巻きにからみつき帽子の上にも蛇が鎌首をもたげて大きく口を開いているまた小さな大地母神像も豊かな真っ白な乳房をあらわにし両手で蛇を握っており頭にはヒョウと思われる動物をいただいていると述べている(安田 200926 ~ 28)

この大地母神が作られた背景について以下のようにも述べている

人間の力をこえた恐ろしい大蛇を体にぐるぐる巻きにした大地母神両手で蛇をにぎりしめる若い大地母神それらは人間の力をこえた恐ろしい力を持った大蛇を自由にあやつるという大地母神の力の誇示を意味した同時に激しい性のエネルギーと脱皮と再生を繰り返す蛇の豊穣性をこの大地母神像が体現しており豊満な乳房も豊穣のシンボルであった

安田(200928)

以上のように蛇信仰は世界各地で行われており蛇は時に王のシンボルとなり豊穣や多産のイメージと結びつけられ人々から崇められていたことがわかる

23 一神教と多神教の誕生の背景

次にキリスト教世界と日本の文学作品を比較し蛇に対するイメージの変化を考察するそのために両者がどのような状況で誕生したのかそして一神教と多神教の価値観の違いはどこから生じるのかを認識する必要があると考える

安田(1999)には一神教と多神教の誕生について記されているまず一神教が誕生した風土は静寂に包まれた砂漠で非常に乾燥しており生き物の姿もないことから天に唯一の神を認めるのは人間の心理として当然の帰結だというまた『旧約聖書』の創世記第一章には神が人をつくり人に地球の生命あるものを治めさせるとありこれが階級主義に立脚した世界観を誕生させていると述べている(安田 1999141 ~ 143)

さらに安田(1999)は一神教が成立拡大する契機として紀元前一二〇〇年頃に東地中海地方を襲った気候の乾燥化をあげているこれ以降寒冷化に見舞われ民族移動が盛んに行われる一方で餓死が頻発する時代へと突入する気候変動によってメソポタミア低地イスラエルインダス平原ナイル川下流域は一様に乾燥化砂漠化が進んだが北緯三五度以北のギリシアやアナトリア高原では気候の寒冷化とともに湿潤化が進行したと述べている(安田1999145)

一方で多神教が誕生する要因として森を挙げている森の中は生命で満ち溢れ豊穣の大地であったが同時に季節によって大きく姿を変え生き物が死と再生のドラマを繰り返しておりそこで輪廻転生の概念などが誕生したまた圧倒的な自然の猛威が人間を襲うこともあり人々は自然への感謝と畏敬の念をもつことになったと述べている(安田 1999143 ~ 144)

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さらにヘビやオオカミやキツネを神としてあるいは神の使いとして崇める宗教が生き残れたのは森があったからなのではないかとも述べている(安田 1999150 ~ 151)

以上のことから一神教は気候が乾燥化した風土により誕生したことで救いを天つまり神に求め神のみを特別な存在に捉えた一方多神教は森という生命が溢れる源から生じいつしか人々に自然への畏敬や感謝を抱かせ同時にそこに生きる生き物をも崇めるようになったことがわかる

24 キリスト教世界における蛇

次にキリスト教世界について述べるが蛇は悪悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージと結びつく傾向が強いモリス(2006)によるとアダムとイブがエデンの園から追放されたのはヘビが原罪を犯させたからでありこのヘビが悪名高いことはよく知れわたっているこれが人々の嫌悪する動物のリストのトップにヘビがくる文化的理由となっていると述べている(モリス200664)

しかし笹間(1991)によるとかつてキリスト教にも蛇を神聖視していた過去があったことを指摘している

西欧諸国においてはキリスト教によって龍蛇を悪魔邪神の表徴とするがこれはエデンの園で蛇がアダムとイヴを誘惑して禁断の木の実を食わしたことによる物語が『創世記』にあるからであるしかし古いキリスト教のグノーシス派の神話には人類の祖が蛇であったことが窺われしたがって蛇を崇拝していた痕跡が歴然と見られる

笹間(199124)

モリス(2006)は蛇は悪や悪魔の化身と捉えられていると述べているが笹間(1991)が指摘するようにキリスト教のグノーシス派でも蛇は信仰の対象となっていた

グノーシス派については竹田(2003)も以下のように述べている

小アジアのビシニア辺りのグノーシス派は旧約聖書の暴君的な悪の神に反対して人間に知恵(グノーシス)という「光」をもたらしたエデンの園の蛇を礼讃した彼らは拝蛇教徒と呼ばれイエスと蛇を同一視したりイエスの父を蛇と考えたりしたそこには蛇と女性を崇拝し蛇と女性が交わるというペルシャの宗教やギリシャ神話からの影響が見られる(後略)

竹田(200384) しかし5 世紀以降グノーシス派は次第に排除されていきモリス(2006)が論じているよう

に蛇を忌み嫌うべき動物と見なす考え方が定着していったものと考えられる

241 キリスト教世界への浸透

蛇が悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージを世に広めた要因の一つとしてモリス(2006)によると教会側の仕事が関わっているという中世の芸術家たちがなにか極悪非道に描こうとすれば龍か蛇を使用したというさらに龍は神によって手足をとられる以前の蛇を表しており特に恐ろしい動物であり龍と悪魔は同意義として使用されていたと述べている(モリス 200672)

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242 蛇が選ばれた理由

次になぜそのようなイメージを蛇が担うようになったのかについて述べる安田(2009)によるとエデンの園の物語はそれまであった多神教を攻撃する物語でありそれ故に蛇はキリスト教の中でずる賢い悪魔とされる運命を担うことになったというエジプトで生活していたモーゼは蛇信仰を疎ましく思っていたはずであり長きにわたってエジプト人に苦しめられていた彼らにとって余計に蛇は憎むべき存在となった唯一神信仰はエジプトの多神教の世界アニミズムの世界に反する形で誕生しており多神教のシンボルこそ蛇だったと述べている(安田2009112 ~ 113)

また中世末期から近世に入ると魔女裁判が多発し動物の悪魔化が進展するようになり動物が悪魔の手下となったことを指摘し蛇について以下のように述べている

動物の中でもっとも嫌われたのは蛇であった蛇はキリスト教の世界では邪悪の象徴であったこのような動物の悪魔化の背景には森の消滅の中で動物たちの持つ霊力がしだいに力を失っていったことを物語っているキリスト教の力の増大の中でわずかに残ったアニミズムの世界は悪魔の世界として人間社会から排斥され忌み嫌われる対象に転落していったのである

安田(2009138)

以上のことから蛇はアニミズムの世界において神聖視されていたがそれを疎ましく思っていたキリスト教によってアニミズムの世界が忌み嫌われる対象へと転落したそしてアニミズムの象徴であった蛇も嫌われることになったということがわかる

25 東洋における蛇信仰

次に東洋世界における蛇信仰について考えるここでは蛇信仰が盛んに行われさらには日本に影響をもたらしたとされる古代インドと中国について述べる

まず古代インドについて述べる笹間(2008)によると古代インドでは蛇は水と河川の神であったがアーリア人がインドに侵入すると蛇は悪神とされたというまたバラモン教を受け継ぐヒンドゥー教では土着の信仰を受け継ぎ蛇は再び豊穣と生命力の象徴として信仰されたとも述べている(笹間 200826)

小西(1992)によると初期仏典にブッダの庇護者としていくつかの龍王の名が登場しているという中でもムチャリンダ龍王は裸定中のブッダを七日間も降りつづいた雨からまもるため七重に巻いたとぐろの上にブッダをのせその頭上を大きくひろげたコブラ状のフードで守ったと述べている(小西 1992174)

次に中国について述べる笹間(2008)によるとインドで水神仏法の護持の役割を与えられた蛇神は仏教とともに中国に伝えられ龍と訳され皇帝の象徴として王朝を護持する聖獣となったその一方で雨と水をもたらす神となったと述べている(笹間 200828)

奥野秋篠宮(2009)によると龍は天高く飛翔し水にもぐり身体を自由に変化させ死者の霊を天界に運ぶことから聖獣としての性格を与えられ皇帝の権威が確立するとともに皇帝の代名詞とさえなったと述べている(奥野秋篠宮 2009152 ~ 153)

また笹間(1991)では中国の神話である下半身人体の伏義と女媧の伝説を取り上げている伏義と女媧は人類の祖とされている兄妹であるが夫婦となったと述べている(笹間 199116)

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

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Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 2: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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文学作品からみる蛇に対するイメージの変化他宗教からの影響

文10-213 門 池 真 菜

第 1 章 序論

11 はじめに

蛇は手足のないその独特な姿と鋭い眼差しのためか多くの人々に怖がられる動物として知られている2002 年おもちゃメーカーであるバンダイ 1 が「お子様の好きな動物嫌い(苦手)な動物は」というアンケートを行ったところ蛇は男子の嫌いな動物の第一位女子の嫌いな動物の第一位という結果となったまた 2011 年絵本の読み聞かせを推進する mite(ミーテ)2 による「ママパパがすきな動物にがてな動物」というアンケートでは苦手な動物第一位に蛇が選ばれ蛇は幅広い世代から苦手とされる動物となっている

しかしこれほどまでに人々から苦手とされる蛇であるが古代より日本を含む様々な国で崇められる対象であったこともまた事実である例えば日本においては蛇の抜け殻を財布にいれると運気が上がる家に蛇が住み着くとその家は生涯繁栄する白蛇は縁起が良いなどという言い伝えが残っており蛇を神聖視していた痕跡が窺がえる

12 研究の動機

2013 年に干支は蛇となり新年以降様々な場所でその姿をモチーフにした絵や置物を目にしてきたしかし自分も蛇嫌いの一人であるためテレビ等に生きた蛇が映ると嫌悪感を抱くことが多々あったその際にふと何故自分は蛇に苦手意識を持っているのだろうかということを考えたその一方で蛇は様々な物語や昔話に登場しており幼い頃から身近な動物の一つでもあったそれは蛇の独特な姿やそれに伴うイメージに魅力され多くの作家が蛇を文学作品に描いてきたためである蛇は古くから人々に影響を与え嫌悪感を抱かれてきたしかし一方で神として祀られる存在でもあり数多くの文学作品に登場し魅力溢れた動物として多面的な魅力を秘めている

以上の 2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった

13 本稿の主たる主張

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」である日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品にはその当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することでその思想信仰の変遷が分析できるのではないかと考えたからである

1 httpwwwbandaicojpkodomoquestion70htmlバンダイ「お子様の好きな動物嫌い(苦手)な動物アンケート」20131217

2 httpmi-tejpcontentscafe11-7-1091ミーテ「ママパパがすきな動物にがてな動物」20131217

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主張は「近世までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で蛇を神として捉える神道的思想を根強く残している近代以降はキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」というものである

先行研究では仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと述べられてきたが神道についての記述は少ないまた現代までの蛇に対するイメージの変化を文学的に考察した論考はあまりみられないそこで本稿では神道的思想が根強く残されている作品を先行研究に加える形で時代順に考察する

近世までの蛇が登場する作品については笹間(1991)や谷川(2012)などの先行研究が盛んに行われているが明治以降の蛇が登場する作品の研究はあまりみられないそこで明治以降はキリスト教の影響を中心にどのように蛇が描かれているのかということを考察するそれと共に西洋の作品と比較することで多神教である日本の蛇信仰がどのように変化してきたのかを明確にする

14 研究の手法

次の作品を使用し西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を考察する西洋の文学作品では古代神話『旧約聖書』『新約聖書』中世では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』現代では『ハリーポッターと秘密の部屋』を使用する日本を中心とした東洋の作品では以下を使用する中国神話日本の古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』

『古事記』『常陸国風土記』中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』近代では『婦系図』

『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』現代では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』であるこれらの作品はまず古代から現代まで時代区分を設定した後に蛇が登場する作品を無作為

に選択した日本の近現代に関してはキリスト教思想の影響について考察する目的によりキリスト教に関わる作品を中心に選択したただし現存する全ての作品を紹介しきれないことに留意願いたい

15 各章の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成されている第 1 章序論では本稿を書くに至った動機や主張文学作品を用いて西洋と日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた続く第 2章では先行研究を多数取り上げ日本と世界の宗教古代蛇信仰と世界の蛇に対するイメージキリスト教文学などについて多角的に紹介する第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究を元に西洋と日本における文学作品を時代毎に並べ両者を比較する第 4 章では蛇に対するイメージの変化を考察するために第 3 章のデータを用いて神道的思想の根強さと近現代におけるキリスト教の影響について考察するそして最後の第 5 章を結論とし本稿での結論と今後の展望について述べる

第 2 章 先行研究

本章の構成は次のようである21 ではなぜ蛇が信仰の対象となったのか22 では世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇25 では東洋

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における蛇信仰26 では日本における蛇信仰27 では日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べる

21 なぜ蛇が信仰の対象となったのか

まず始めに蛇のどのような性質や特徴が起因となり神聖視されるようになったのかという事について述べる吉野(1979)では古代日本人が蛇を信仰の対象とした源を次のように述べている

おそらくそれはズバリいって次の二点ではなかったろうか  (1) まず蛇の形態が何よりも男根を連想させること  (2) 毒蛇蝮などの強烈な生命力とその毒で敵を一撃の下に仆すつよさ

吉野(197924)

頭から尾に至るまでが一本棒になっている蛇は神聖な神のそれとして受け取られ蛇から性への連想が行われ性に対する憧れ崇拝畏怖歓喜それらが凝集して神与のものと考えられその象徴が蛇として捉えられた一方で毒蛇ことに蝮がもつ強い生命力及びその繁殖力も信仰の対象となったと述べている(吉野 197924 ~ 25)

蛇信仰は日本だけではなくかつては世界各地で行われていたという吉野(2007)によると蛇信仰は一説によれば古くエジプトにおこって世界各地に伝播し東はインド極東太平洋諸島を経てアメリカ大陸に達しこの伝播の道程のなかに日本列島もふくまれ日本に蛇信仰が顕著であるのは当然であると述べている(吉野 200727)

次に世界の原始蛇信仰について述べる

22 世界の原始蛇信仰

ここでは古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアの 3 つの地域の蛇信仰について述べる現在これらの地域ではほとんどの人々が一神教を信仰しているがキリスト教やイスラーム教の拡大以前にはその多くが多神教を信仰していたそうした多神教世界においては蛇は神や神の使いとしての役割を担い信仰の対象となっていた

まず古代エジプトについてである小島(1991)によると古代エジプト人は多くの動物神を崇拝しておりこのなかに蛇類もはいっているという蛇類のなかでも最も恐るべきコブラの姿はファラオのシンボルの一つとなりまた「女神」を表す限定符(ヒエログリフ体系での表意文字)として使われていると述べている(小島 1991225 ~ 226)

また安田(2009)ではアニミズムにおける蛇について以下のように述べている

アニミズムの強固な世界では鳥と蛇が王のシンボルとなりエジプトではハゲワシとコブラが王のシンボルであった下エジプトのシンボルであったハゲワシと上エジプトのコブラを王冠につけるその意味は上エジプトと下エジプトの統一を示すものであったそれは中国の鳳凰と龍に比定されるものである

安田(2009152 ~ 153)

次に古代メソポタミアについてである笹間(1991)では以下のように述べている

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バビロニアの紀元前一〇〇〇年頃の神話にも下半身が蛇体の女神テイアマトがいるテイアマトは英雄マルドゥク神に退治され上半身は天となり下半身が大地となったとされるからこれも蛇体によって天地を生じたことになるまたテイアマトはキングという怪物を作ったがその血から人間は作られたといわれるここでも人間の祖先が蛇であったということになり蛇を祖霊とする信仰があったことを示している

笹間(199122)

そして古代ギリシアについてである安田(2009)によるとかつてクノッソス宮殿から大小二体の蛇の大地母神像が発見されたという大きな大地母神像は豊満な乳房をあらわにし上半身と両腕に大蛇がぐるぐる巻きにからみつき帽子の上にも蛇が鎌首をもたげて大きく口を開いているまた小さな大地母神像も豊かな真っ白な乳房をあらわにし両手で蛇を握っており頭にはヒョウと思われる動物をいただいていると述べている(安田 200926 ~ 28)

この大地母神が作られた背景について以下のようにも述べている

人間の力をこえた恐ろしい大蛇を体にぐるぐる巻きにした大地母神両手で蛇をにぎりしめる若い大地母神それらは人間の力をこえた恐ろしい力を持った大蛇を自由にあやつるという大地母神の力の誇示を意味した同時に激しい性のエネルギーと脱皮と再生を繰り返す蛇の豊穣性をこの大地母神像が体現しており豊満な乳房も豊穣のシンボルであった

安田(200928)

以上のように蛇信仰は世界各地で行われており蛇は時に王のシンボルとなり豊穣や多産のイメージと結びつけられ人々から崇められていたことがわかる

23 一神教と多神教の誕生の背景

次にキリスト教世界と日本の文学作品を比較し蛇に対するイメージの変化を考察するそのために両者がどのような状況で誕生したのかそして一神教と多神教の価値観の違いはどこから生じるのかを認識する必要があると考える

安田(1999)には一神教と多神教の誕生について記されているまず一神教が誕生した風土は静寂に包まれた砂漠で非常に乾燥しており生き物の姿もないことから天に唯一の神を認めるのは人間の心理として当然の帰結だというまた『旧約聖書』の創世記第一章には神が人をつくり人に地球の生命あるものを治めさせるとありこれが階級主義に立脚した世界観を誕生させていると述べている(安田 1999141 ~ 143)

さらに安田(1999)は一神教が成立拡大する契機として紀元前一二〇〇年頃に東地中海地方を襲った気候の乾燥化をあげているこれ以降寒冷化に見舞われ民族移動が盛んに行われる一方で餓死が頻発する時代へと突入する気候変動によってメソポタミア低地イスラエルインダス平原ナイル川下流域は一様に乾燥化砂漠化が進んだが北緯三五度以北のギリシアやアナトリア高原では気候の寒冷化とともに湿潤化が進行したと述べている(安田1999145)

一方で多神教が誕生する要因として森を挙げている森の中は生命で満ち溢れ豊穣の大地であったが同時に季節によって大きく姿を変え生き物が死と再生のドラマを繰り返しておりそこで輪廻転生の概念などが誕生したまた圧倒的な自然の猛威が人間を襲うこともあり人々は自然への感謝と畏敬の念をもつことになったと述べている(安田 1999143 ~ 144)

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さらにヘビやオオカミやキツネを神としてあるいは神の使いとして崇める宗教が生き残れたのは森があったからなのではないかとも述べている(安田 1999150 ~ 151)

以上のことから一神教は気候が乾燥化した風土により誕生したことで救いを天つまり神に求め神のみを特別な存在に捉えた一方多神教は森という生命が溢れる源から生じいつしか人々に自然への畏敬や感謝を抱かせ同時にそこに生きる生き物をも崇めるようになったことがわかる

24 キリスト教世界における蛇

次にキリスト教世界について述べるが蛇は悪悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージと結びつく傾向が強いモリス(2006)によるとアダムとイブがエデンの園から追放されたのはヘビが原罪を犯させたからでありこのヘビが悪名高いことはよく知れわたっているこれが人々の嫌悪する動物のリストのトップにヘビがくる文化的理由となっていると述べている(モリス200664)

しかし笹間(1991)によるとかつてキリスト教にも蛇を神聖視していた過去があったことを指摘している

西欧諸国においてはキリスト教によって龍蛇を悪魔邪神の表徴とするがこれはエデンの園で蛇がアダムとイヴを誘惑して禁断の木の実を食わしたことによる物語が『創世記』にあるからであるしかし古いキリスト教のグノーシス派の神話には人類の祖が蛇であったことが窺われしたがって蛇を崇拝していた痕跡が歴然と見られる

笹間(199124)

モリス(2006)は蛇は悪や悪魔の化身と捉えられていると述べているが笹間(1991)が指摘するようにキリスト教のグノーシス派でも蛇は信仰の対象となっていた

グノーシス派については竹田(2003)も以下のように述べている

小アジアのビシニア辺りのグノーシス派は旧約聖書の暴君的な悪の神に反対して人間に知恵(グノーシス)という「光」をもたらしたエデンの園の蛇を礼讃した彼らは拝蛇教徒と呼ばれイエスと蛇を同一視したりイエスの父を蛇と考えたりしたそこには蛇と女性を崇拝し蛇と女性が交わるというペルシャの宗教やギリシャ神話からの影響が見られる(後略)

竹田(200384) しかし5 世紀以降グノーシス派は次第に排除されていきモリス(2006)が論じているよう

に蛇を忌み嫌うべき動物と見なす考え方が定着していったものと考えられる

241 キリスト教世界への浸透

蛇が悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージを世に広めた要因の一つとしてモリス(2006)によると教会側の仕事が関わっているという中世の芸術家たちがなにか極悪非道に描こうとすれば龍か蛇を使用したというさらに龍は神によって手足をとられる以前の蛇を表しており特に恐ろしい動物であり龍と悪魔は同意義として使用されていたと述べている(モリス 200672)

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242 蛇が選ばれた理由

次になぜそのようなイメージを蛇が担うようになったのかについて述べる安田(2009)によるとエデンの園の物語はそれまであった多神教を攻撃する物語でありそれ故に蛇はキリスト教の中でずる賢い悪魔とされる運命を担うことになったというエジプトで生活していたモーゼは蛇信仰を疎ましく思っていたはずであり長きにわたってエジプト人に苦しめられていた彼らにとって余計に蛇は憎むべき存在となった唯一神信仰はエジプトの多神教の世界アニミズムの世界に反する形で誕生しており多神教のシンボルこそ蛇だったと述べている(安田2009112 ~ 113)

また中世末期から近世に入ると魔女裁判が多発し動物の悪魔化が進展するようになり動物が悪魔の手下となったことを指摘し蛇について以下のように述べている

動物の中でもっとも嫌われたのは蛇であった蛇はキリスト教の世界では邪悪の象徴であったこのような動物の悪魔化の背景には森の消滅の中で動物たちの持つ霊力がしだいに力を失っていったことを物語っているキリスト教の力の増大の中でわずかに残ったアニミズムの世界は悪魔の世界として人間社会から排斥され忌み嫌われる対象に転落していったのである

安田(2009138)

以上のことから蛇はアニミズムの世界において神聖視されていたがそれを疎ましく思っていたキリスト教によってアニミズムの世界が忌み嫌われる対象へと転落したそしてアニミズムの象徴であった蛇も嫌われることになったということがわかる

25 東洋における蛇信仰

次に東洋世界における蛇信仰について考えるここでは蛇信仰が盛んに行われさらには日本に影響をもたらしたとされる古代インドと中国について述べる

まず古代インドについて述べる笹間(2008)によると古代インドでは蛇は水と河川の神であったがアーリア人がインドに侵入すると蛇は悪神とされたというまたバラモン教を受け継ぐヒンドゥー教では土着の信仰を受け継ぎ蛇は再び豊穣と生命力の象徴として信仰されたとも述べている(笹間 200826)

小西(1992)によると初期仏典にブッダの庇護者としていくつかの龍王の名が登場しているという中でもムチャリンダ龍王は裸定中のブッダを七日間も降りつづいた雨からまもるため七重に巻いたとぐろの上にブッダをのせその頭上を大きくひろげたコブラ状のフードで守ったと述べている(小西 1992174)

次に中国について述べる笹間(2008)によるとインドで水神仏法の護持の役割を与えられた蛇神は仏教とともに中国に伝えられ龍と訳され皇帝の象徴として王朝を護持する聖獣となったその一方で雨と水をもたらす神となったと述べている(笹間 200828)

奥野秋篠宮(2009)によると龍は天高く飛翔し水にもぐり身体を自由に変化させ死者の霊を天界に運ぶことから聖獣としての性格を与えられ皇帝の権威が確立するとともに皇帝の代名詞とさえなったと述べている(奥野秋篠宮 2009152 ~ 153)

また笹間(1991)では中国の神話である下半身人体の伏義と女媧の伝説を取り上げている伏義と女媧は人類の祖とされている兄妹であるが夫婦となったと述べている(笹間 199116)

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

88

 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

89

翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 3: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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主張は「近世までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で蛇を神として捉える神道的思想を根強く残している近代以降はキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」というものである

先行研究では仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと述べられてきたが神道についての記述は少ないまた現代までの蛇に対するイメージの変化を文学的に考察した論考はあまりみられないそこで本稿では神道的思想が根強く残されている作品を先行研究に加える形で時代順に考察する

近世までの蛇が登場する作品については笹間(1991)や谷川(2012)などの先行研究が盛んに行われているが明治以降の蛇が登場する作品の研究はあまりみられないそこで明治以降はキリスト教の影響を中心にどのように蛇が描かれているのかということを考察するそれと共に西洋の作品と比較することで多神教である日本の蛇信仰がどのように変化してきたのかを明確にする

14 研究の手法

次の作品を使用し西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を考察する西洋の文学作品では古代神話『旧約聖書』『新約聖書』中世では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』現代では『ハリーポッターと秘密の部屋』を使用する日本を中心とした東洋の作品では以下を使用する中国神話日本の古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』

『古事記』『常陸国風土記』中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』近代では『婦系図』

『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』現代では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』であるこれらの作品はまず古代から現代まで時代区分を設定した後に蛇が登場する作品を無作為

に選択した日本の近現代に関してはキリスト教思想の影響について考察する目的によりキリスト教に関わる作品を中心に選択したただし現存する全ての作品を紹介しきれないことに留意願いたい

15 各章の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成されている第 1 章序論では本稿を書くに至った動機や主張文学作品を用いて西洋と日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた続く第 2章では先行研究を多数取り上げ日本と世界の宗教古代蛇信仰と世界の蛇に対するイメージキリスト教文学などについて多角的に紹介する第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究を元に西洋と日本における文学作品を時代毎に並べ両者を比較する第 4 章では蛇に対するイメージの変化を考察するために第 3 章のデータを用いて神道的思想の根強さと近現代におけるキリスト教の影響について考察するそして最後の第 5 章を結論とし本稿での結論と今後の展望について述べる

第 2 章 先行研究

本章の構成は次のようである21 ではなぜ蛇が信仰の対象となったのか22 では世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇25 では東洋

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における蛇信仰26 では日本における蛇信仰27 では日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べる

21 なぜ蛇が信仰の対象となったのか

まず始めに蛇のどのような性質や特徴が起因となり神聖視されるようになったのかという事について述べる吉野(1979)では古代日本人が蛇を信仰の対象とした源を次のように述べている

おそらくそれはズバリいって次の二点ではなかったろうか  (1) まず蛇の形態が何よりも男根を連想させること  (2) 毒蛇蝮などの強烈な生命力とその毒で敵を一撃の下に仆すつよさ

吉野(197924)

頭から尾に至るまでが一本棒になっている蛇は神聖な神のそれとして受け取られ蛇から性への連想が行われ性に対する憧れ崇拝畏怖歓喜それらが凝集して神与のものと考えられその象徴が蛇として捉えられた一方で毒蛇ことに蝮がもつ強い生命力及びその繁殖力も信仰の対象となったと述べている(吉野 197924 ~ 25)

蛇信仰は日本だけではなくかつては世界各地で行われていたという吉野(2007)によると蛇信仰は一説によれば古くエジプトにおこって世界各地に伝播し東はインド極東太平洋諸島を経てアメリカ大陸に達しこの伝播の道程のなかに日本列島もふくまれ日本に蛇信仰が顕著であるのは当然であると述べている(吉野 200727)

次に世界の原始蛇信仰について述べる

22 世界の原始蛇信仰

ここでは古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアの 3 つの地域の蛇信仰について述べる現在これらの地域ではほとんどの人々が一神教を信仰しているがキリスト教やイスラーム教の拡大以前にはその多くが多神教を信仰していたそうした多神教世界においては蛇は神や神の使いとしての役割を担い信仰の対象となっていた

まず古代エジプトについてである小島(1991)によると古代エジプト人は多くの動物神を崇拝しておりこのなかに蛇類もはいっているという蛇類のなかでも最も恐るべきコブラの姿はファラオのシンボルの一つとなりまた「女神」を表す限定符(ヒエログリフ体系での表意文字)として使われていると述べている(小島 1991225 ~ 226)

また安田(2009)ではアニミズムにおける蛇について以下のように述べている

アニミズムの強固な世界では鳥と蛇が王のシンボルとなりエジプトではハゲワシとコブラが王のシンボルであった下エジプトのシンボルであったハゲワシと上エジプトのコブラを王冠につけるその意味は上エジプトと下エジプトの統一を示すものであったそれは中国の鳳凰と龍に比定されるものである

安田(2009152 ~ 153)

次に古代メソポタミアについてである笹間(1991)では以下のように述べている

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バビロニアの紀元前一〇〇〇年頃の神話にも下半身が蛇体の女神テイアマトがいるテイアマトは英雄マルドゥク神に退治され上半身は天となり下半身が大地となったとされるからこれも蛇体によって天地を生じたことになるまたテイアマトはキングという怪物を作ったがその血から人間は作られたといわれるここでも人間の祖先が蛇であったということになり蛇を祖霊とする信仰があったことを示している

笹間(199122)

そして古代ギリシアについてである安田(2009)によるとかつてクノッソス宮殿から大小二体の蛇の大地母神像が発見されたという大きな大地母神像は豊満な乳房をあらわにし上半身と両腕に大蛇がぐるぐる巻きにからみつき帽子の上にも蛇が鎌首をもたげて大きく口を開いているまた小さな大地母神像も豊かな真っ白な乳房をあらわにし両手で蛇を握っており頭にはヒョウと思われる動物をいただいていると述べている(安田 200926 ~ 28)

この大地母神が作られた背景について以下のようにも述べている

人間の力をこえた恐ろしい大蛇を体にぐるぐる巻きにした大地母神両手で蛇をにぎりしめる若い大地母神それらは人間の力をこえた恐ろしい力を持った大蛇を自由にあやつるという大地母神の力の誇示を意味した同時に激しい性のエネルギーと脱皮と再生を繰り返す蛇の豊穣性をこの大地母神像が体現しており豊満な乳房も豊穣のシンボルであった

安田(200928)

以上のように蛇信仰は世界各地で行われており蛇は時に王のシンボルとなり豊穣や多産のイメージと結びつけられ人々から崇められていたことがわかる

23 一神教と多神教の誕生の背景

次にキリスト教世界と日本の文学作品を比較し蛇に対するイメージの変化を考察するそのために両者がどのような状況で誕生したのかそして一神教と多神教の価値観の違いはどこから生じるのかを認識する必要があると考える

安田(1999)には一神教と多神教の誕生について記されているまず一神教が誕生した風土は静寂に包まれた砂漠で非常に乾燥しており生き物の姿もないことから天に唯一の神を認めるのは人間の心理として当然の帰結だというまた『旧約聖書』の創世記第一章には神が人をつくり人に地球の生命あるものを治めさせるとありこれが階級主義に立脚した世界観を誕生させていると述べている(安田 1999141 ~ 143)

さらに安田(1999)は一神教が成立拡大する契機として紀元前一二〇〇年頃に東地中海地方を襲った気候の乾燥化をあげているこれ以降寒冷化に見舞われ民族移動が盛んに行われる一方で餓死が頻発する時代へと突入する気候変動によってメソポタミア低地イスラエルインダス平原ナイル川下流域は一様に乾燥化砂漠化が進んだが北緯三五度以北のギリシアやアナトリア高原では気候の寒冷化とともに湿潤化が進行したと述べている(安田1999145)

一方で多神教が誕生する要因として森を挙げている森の中は生命で満ち溢れ豊穣の大地であったが同時に季節によって大きく姿を変え生き物が死と再生のドラマを繰り返しておりそこで輪廻転生の概念などが誕生したまた圧倒的な自然の猛威が人間を襲うこともあり人々は自然への感謝と畏敬の念をもつことになったと述べている(安田 1999143 ~ 144)

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さらにヘビやオオカミやキツネを神としてあるいは神の使いとして崇める宗教が生き残れたのは森があったからなのではないかとも述べている(安田 1999150 ~ 151)

以上のことから一神教は気候が乾燥化した風土により誕生したことで救いを天つまり神に求め神のみを特別な存在に捉えた一方多神教は森という生命が溢れる源から生じいつしか人々に自然への畏敬や感謝を抱かせ同時にそこに生きる生き物をも崇めるようになったことがわかる

24 キリスト教世界における蛇

次にキリスト教世界について述べるが蛇は悪悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージと結びつく傾向が強いモリス(2006)によるとアダムとイブがエデンの園から追放されたのはヘビが原罪を犯させたからでありこのヘビが悪名高いことはよく知れわたっているこれが人々の嫌悪する動物のリストのトップにヘビがくる文化的理由となっていると述べている(モリス200664)

しかし笹間(1991)によるとかつてキリスト教にも蛇を神聖視していた過去があったことを指摘している

西欧諸国においてはキリスト教によって龍蛇を悪魔邪神の表徴とするがこれはエデンの園で蛇がアダムとイヴを誘惑して禁断の木の実を食わしたことによる物語が『創世記』にあるからであるしかし古いキリスト教のグノーシス派の神話には人類の祖が蛇であったことが窺われしたがって蛇を崇拝していた痕跡が歴然と見られる

笹間(199124)

モリス(2006)は蛇は悪や悪魔の化身と捉えられていると述べているが笹間(1991)が指摘するようにキリスト教のグノーシス派でも蛇は信仰の対象となっていた

グノーシス派については竹田(2003)も以下のように述べている

小アジアのビシニア辺りのグノーシス派は旧約聖書の暴君的な悪の神に反対して人間に知恵(グノーシス)という「光」をもたらしたエデンの園の蛇を礼讃した彼らは拝蛇教徒と呼ばれイエスと蛇を同一視したりイエスの父を蛇と考えたりしたそこには蛇と女性を崇拝し蛇と女性が交わるというペルシャの宗教やギリシャ神話からの影響が見られる(後略)

竹田(200384) しかし5 世紀以降グノーシス派は次第に排除されていきモリス(2006)が論じているよう

に蛇を忌み嫌うべき動物と見なす考え方が定着していったものと考えられる

241 キリスト教世界への浸透

蛇が悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージを世に広めた要因の一つとしてモリス(2006)によると教会側の仕事が関わっているという中世の芸術家たちがなにか極悪非道に描こうとすれば龍か蛇を使用したというさらに龍は神によって手足をとられる以前の蛇を表しており特に恐ろしい動物であり龍と悪魔は同意義として使用されていたと述べている(モリス 200672)

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242 蛇が選ばれた理由

次になぜそのようなイメージを蛇が担うようになったのかについて述べる安田(2009)によるとエデンの園の物語はそれまであった多神教を攻撃する物語でありそれ故に蛇はキリスト教の中でずる賢い悪魔とされる運命を担うことになったというエジプトで生活していたモーゼは蛇信仰を疎ましく思っていたはずであり長きにわたってエジプト人に苦しめられていた彼らにとって余計に蛇は憎むべき存在となった唯一神信仰はエジプトの多神教の世界アニミズムの世界に反する形で誕生しており多神教のシンボルこそ蛇だったと述べている(安田2009112 ~ 113)

また中世末期から近世に入ると魔女裁判が多発し動物の悪魔化が進展するようになり動物が悪魔の手下となったことを指摘し蛇について以下のように述べている

動物の中でもっとも嫌われたのは蛇であった蛇はキリスト教の世界では邪悪の象徴であったこのような動物の悪魔化の背景には森の消滅の中で動物たちの持つ霊力がしだいに力を失っていったことを物語っているキリスト教の力の増大の中でわずかに残ったアニミズムの世界は悪魔の世界として人間社会から排斥され忌み嫌われる対象に転落していったのである

安田(2009138)

以上のことから蛇はアニミズムの世界において神聖視されていたがそれを疎ましく思っていたキリスト教によってアニミズムの世界が忌み嫌われる対象へと転落したそしてアニミズムの象徴であった蛇も嫌われることになったということがわかる

25 東洋における蛇信仰

次に東洋世界における蛇信仰について考えるここでは蛇信仰が盛んに行われさらには日本に影響をもたらしたとされる古代インドと中国について述べる

まず古代インドについて述べる笹間(2008)によると古代インドでは蛇は水と河川の神であったがアーリア人がインドに侵入すると蛇は悪神とされたというまたバラモン教を受け継ぐヒンドゥー教では土着の信仰を受け継ぎ蛇は再び豊穣と生命力の象徴として信仰されたとも述べている(笹間 200826)

小西(1992)によると初期仏典にブッダの庇護者としていくつかの龍王の名が登場しているという中でもムチャリンダ龍王は裸定中のブッダを七日間も降りつづいた雨からまもるため七重に巻いたとぐろの上にブッダをのせその頭上を大きくひろげたコブラ状のフードで守ったと述べている(小西 1992174)

次に中国について述べる笹間(2008)によるとインドで水神仏法の護持の役割を与えられた蛇神は仏教とともに中国に伝えられ龍と訳され皇帝の象徴として王朝を護持する聖獣となったその一方で雨と水をもたらす神となったと述べている(笹間 200828)

奥野秋篠宮(2009)によると龍は天高く飛翔し水にもぐり身体を自由に変化させ死者の霊を天界に運ぶことから聖獣としての性格を与えられ皇帝の権威が確立するとともに皇帝の代名詞とさえなったと述べている(奥野秋篠宮 2009152 ~ 153)

また笹間(1991)では中国の神話である下半身人体の伏義と女媧の伝説を取り上げている伏義と女媧は人類の祖とされている兄妹であるが夫婦となったと述べている(笹間 199116)

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

73

様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

83

不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

85

仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

88

 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

89

翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

91

メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

92

(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 4: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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における蛇信仰26 では日本における蛇信仰27 では日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べる

21 なぜ蛇が信仰の対象となったのか

まず始めに蛇のどのような性質や特徴が起因となり神聖視されるようになったのかという事について述べる吉野(1979)では古代日本人が蛇を信仰の対象とした源を次のように述べている

おそらくそれはズバリいって次の二点ではなかったろうか  (1) まず蛇の形態が何よりも男根を連想させること  (2) 毒蛇蝮などの強烈な生命力とその毒で敵を一撃の下に仆すつよさ

吉野(197924)

頭から尾に至るまでが一本棒になっている蛇は神聖な神のそれとして受け取られ蛇から性への連想が行われ性に対する憧れ崇拝畏怖歓喜それらが凝集して神与のものと考えられその象徴が蛇として捉えられた一方で毒蛇ことに蝮がもつ強い生命力及びその繁殖力も信仰の対象となったと述べている(吉野 197924 ~ 25)

蛇信仰は日本だけではなくかつては世界各地で行われていたという吉野(2007)によると蛇信仰は一説によれば古くエジプトにおこって世界各地に伝播し東はインド極東太平洋諸島を経てアメリカ大陸に達しこの伝播の道程のなかに日本列島もふくまれ日本に蛇信仰が顕著であるのは当然であると述べている(吉野 200727)

次に世界の原始蛇信仰について述べる

22 世界の原始蛇信仰

ここでは古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアの 3 つの地域の蛇信仰について述べる現在これらの地域ではほとんどの人々が一神教を信仰しているがキリスト教やイスラーム教の拡大以前にはその多くが多神教を信仰していたそうした多神教世界においては蛇は神や神の使いとしての役割を担い信仰の対象となっていた

まず古代エジプトについてである小島(1991)によると古代エジプト人は多くの動物神を崇拝しておりこのなかに蛇類もはいっているという蛇類のなかでも最も恐るべきコブラの姿はファラオのシンボルの一つとなりまた「女神」を表す限定符(ヒエログリフ体系での表意文字)として使われていると述べている(小島 1991225 ~ 226)

また安田(2009)ではアニミズムにおける蛇について以下のように述べている

アニミズムの強固な世界では鳥と蛇が王のシンボルとなりエジプトではハゲワシとコブラが王のシンボルであった下エジプトのシンボルであったハゲワシと上エジプトのコブラを王冠につけるその意味は上エジプトと下エジプトの統一を示すものであったそれは中国の鳳凰と龍に比定されるものである

安田(2009152 ~ 153)

次に古代メソポタミアについてである笹間(1991)では以下のように述べている

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バビロニアの紀元前一〇〇〇年頃の神話にも下半身が蛇体の女神テイアマトがいるテイアマトは英雄マルドゥク神に退治され上半身は天となり下半身が大地となったとされるからこれも蛇体によって天地を生じたことになるまたテイアマトはキングという怪物を作ったがその血から人間は作られたといわれるここでも人間の祖先が蛇であったということになり蛇を祖霊とする信仰があったことを示している

笹間(199122)

そして古代ギリシアについてである安田(2009)によるとかつてクノッソス宮殿から大小二体の蛇の大地母神像が発見されたという大きな大地母神像は豊満な乳房をあらわにし上半身と両腕に大蛇がぐるぐる巻きにからみつき帽子の上にも蛇が鎌首をもたげて大きく口を開いているまた小さな大地母神像も豊かな真っ白な乳房をあらわにし両手で蛇を握っており頭にはヒョウと思われる動物をいただいていると述べている(安田 200926 ~ 28)

この大地母神が作られた背景について以下のようにも述べている

人間の力をこえた恐ろしい大蛇を体にぐるぐる巻きにした大地母神両手で蛇をにぎりしめる若い大地母神それらは人間の力をこえた恐ろしい力を持った大蛇を自由にあやつるという大地母神の力の誇示を意味した同時に激しい性のエネルギーと脱皮と再生を繰り返す蛇の豊穣性をこの大地母神像が体現しており豊満な乳房も豊穣のシンボルであった

安田(200928)

以上のように蛇信仰は世界各地で行われており蛇は時に王のシンボルとなり豊穣や多産のイメージと結びつけられ人々から崇められていたことがわかる

23 一神教と多神教の誕生の背景

次にキリスト教世界と日本の文学作品を比較し蛇に対するイメージの変化を考察するそのために両者がどのような状況で誕生したのかそして一神教と多神教の価値観の違いはどこから生じるのかを認識する必要があると考える

安田(1999)には一神教と多神教の誕生について記されているまず一神教が誕生した風土は静寂に包まれた砂漠で非常に乾燥しており生き物の姿もないことから天に唯一の神を認めるのは人間の心理として当然の帰結だというまた『旧約聖書』の創世記第一章には神が人をつくり人に地球の生命あるものを治めさせるとありこれが階級主義に立脚した世界観を誕生させていると述べている(安田 1999141 ~ 143)

さらに安田(1999)は一神教が成立拡大する契機として紀元前一二〇〇年頃に東地中海地方を襲った気候の乾燥化をあげているこれ以降寒冷化に見舞われ民族移動が盛んに行われる一方で餓死が頻発する時代へと突入する気候変動によってメソポタミア低地イスラエルインダス平原ナイル川下流域は一様に乾燥化砂漠化が進んだが北緯三五度以北のギリシアやアナトリア高原では気候の寒冷化とともに湿潤化が進行したと述べている(安田1999145)

一方で多神教が誕生する要因として森を挙げている森の中は生命で満ち溢れ豊穣の大地であったが同時に季節によって大きく姿を変え生き物が死と再生のドラマを繰り返しておりそこで輪廻転生の概念などが誕生したまた圧倒的な自然の猛威が人間を襲うこともあり人々は自然への感謝と畏敬の念をもつことになったと述べている(安田 1999143 ~ 144)

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さらにヘビやオオカミやキツネを神としてあるいは神の使いとして崇める宗教が生き残れたのは森があったからなのではないかとも述べている(安田 1999150 ~ 151)

以上のことから一神教は気候が乾燥化した風土により誕生したことで救いを天つまり神に求め神のみを特別な存在に捉えた一方多神教は森という生命が溢れる源から生じいつしか人々に自然への畏敬や感謝を抱かせ同時にそこに生きる生き物をも崇めるようになったことがわかる

24 キリスト教世界における蛇

次にキリスト教世界について述べるが蛇は悪悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージと結びつく傾向が強いモリス(2006)によるとアダムとイブがエデンの園から追放されたのはヘビが原罪を犯させたからでありこのヘビが悪名高いことはよく知れわたっているこれが人々の嫌悪する動物のリストのトップにヘビがくる文化的理由となっていると述べている(モリス200664)

しかし笹間(1991)によるとかつてキリスト教にも蛇を神聖視していた過去があったことを指摘している

西欧諸国においてはキリスト教によって龍蛇を悪魔邪神の表徴とするがこれはエデンの園で蛇がアダムとイヴを誘惑して禁断の木の実を食わしたことによる物語が『創世記』にあるからであるしかし古いキリスト教のグノーシス派の神話には人類の祖が蛇であったことが窺われしたがって蛇を崇拝していた痕跡が歴然と見られる

笹間(199124)

モリス(2006)は蛇は悪や悪魔の化身と捉えられていると述べているが笹間(1991)が指摘するようにキリスト教のグノーシス派でも蛇は信仰の対象となっていた

グノーシス派については竹田(2003)も以下のように述べている

小アジアのビシニア辺りのグノーシス派は旧約聖書の暴君的な悪の神に反対して人間に知恵(グノーシス)という「光」をもたらしたエデンの園の蛇を礼讃した彼らは拝蛇教徒と呼ばれイエスと蛇を同一視したりイエスの父を蛇と考えたりしたそこには蛇と女性を崇拝し蛇と女性が交わるというペルシャの宗教やギリシャ神話からの影響が見られる(後略)

竹田(200384) しかし5 世紀以降グノーシス派は次第に排除されていきモリス(2006)が論じているよう

に蛇を忌み嫌うべき動物と見なす考え方が定着していったものと考えられる

241 キリスト教世界への浸透

蛇が悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージを世に広めた要因の一つとしてモリス(2006)によると教会側の仕事が関わっているという中世の芸術家たちがなにか極悪非道に描こうとすれば龍か蛇を使用したというさらに龍は神によって手足をとられる以前の蛇を表しており特に恐ろしい動物であり龍と悪魔は同意義として使用されていたと述べている(モリス 200672)

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242 蛇が選ばれた理由

次になぜそのようなイメージを蛇が担うようになったのかについて述べる安田(2009)によるとエデンの園の物語はそれまであった多神教を攻撃する物語でありそれ故に蛇はキリスト教の中でずる賢い悪魔とされる運命を担うことになったというエジプトで生活していたモーゼは蛇信仰を疎ましく思っていたはずであり長きにわたってエジプト人に苦しめられていた彼らにとって余計に蛇は憎むべき存在となった唯一神信仰はエジプトの多神教の世界アニミズムの世界に反する形で誕生しており多神教のシンボルこそ蛇だったと述べている(安田2009112 ~ 113)

また中世末期から近世に入ると魔女裁判が多発し動物の悪魔化が進展するようになり動物が悪魔の手下となったことを指摘し蛇について以下のように述べている

動物の中でもっとも嫌われたのは蛇であった蛇はキリスト教の世界では邪悪の象徴であったこのような動物の悪魔化の背景には森の消滅の中で動物たちの持つ霊力がしだいに力を失っていったことを物語っているキリスト教の力の増大の中でわずかに残ったアニミズムの世界は悪魔の世界として人間社会から排斥され忌み嫌われる対象に転落していったのである

安田(2009138)

以上のことから蛇はアニミズムの世界において神聖視されていたがそれを疎ましく思っていたキリスト教によってアニミズムの世界が忌み嫌われる対象へと転落したそしてアニミズムの象徴であった蛇も嫌われることになったということがわかる

25 東洋における蛇信仰

次に東洋世界における蛇信仰について考えるここでは蛇信仰が盛んに行われさらには日本に影響をもたらしたとされる古代インドと中国について述べる

まず古代インドについて述べる笹間(2008)によると古代インドでは蛇は水と河川の神であったがアーリア人がインドに侵入すると蛇は悪神とされたというまたバラモン教を受け継ぐヒンドゥー教では土着の信仰を受け継ぎ蛇は再び豊穣と生命力の象徴として信仰されたとも述べている(笹間 200826)

小西(1992)によると初期仏典にブッダの庇護者としていくつかの龍王の名が登場しているという中でもムチャリンダ龍王は裸定中のブッダを七日間も降りつづいた雨からまもるため七重に巻いたとぐろの上にブッダをのせその頭上を大きくひろげたコブラ状のフードで守ったと述べている(小西 1992174)

次に中国について述べる笹間(2008)によるとインドで水神仏法の護持の役割を与えられた蛇神は仏教とともに中国に伝えられ龍と訳され皇帝の象徴として王朝を護持する聖獣となったその一方で雨と水をもたらす神となったと述べている(笹間 200828)

奥野秋篠宮(2009)によると龍は天高く飛翔し水にもぐり身体を自由に変化させ死者の霊を天界に運ぶことから聖獣としての性格を与えられ皇帝の権威が確立するとともに皇帝の代名詞とさえなったと述べている(奥野秋篠宮 2009152 ~ 153)

また笹間(1991)では中国の神話である下半身人体の伏義と女媧の伝説を取り上げている伏義と女媧は人類の祖とされている兄妹であるが夫婦となったと述べている(笹間 199116)

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Page 5: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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バビロニアの紀元前一〇〇〇年頃の神話にも下半身が蛇体の女神テイアマトがいるテイアマトは英雄マルドゥク神に退治され上半身は天となり下半身が大地となったとされるからこれも蛇体によって天地を生じたことになるまたテイアマトはキングという怪物を作ったがその血から人間は作られたといわれるここでも人間の祖先が蛇であったということになり蛇を祖霊とする信仰があったことを示している

笹間(199122)

そして古代ギリシアについてである安田(2009)によるとかつてクノッソス宮殿から大小二体の蛇の大地母神像が発見されたという大きな大地母神像は豊満な乳房をあらわにし上半身と両腕に大蛇がぐるぐる巻きにからみつき帽子の上にも蛇が鎌首をもたげて大きく口を開いているまた小さな大地母神像も豊かな真っ白な乳房をあらわにし両手で蛇を握っており頭にはヒョウと思われる動物をいただいていると述べている(安田 200926 ~ 28)

この大地母神が作られた背景について以下のようにも述べている

人間の力をこえた恐ろしい大蛇を体にぐるぐる巻きにした大地母神両手で蛇をにぎりしめる若い大地母神それらは人間の力をこえた恐ろしい力を持った大蛇を自由にあやつるという大地母神の力の誇示を意味した同時に激しい性のエネルギーと脱皮と再生を繰り返す蛇の豊穣性をこの大地母神像が体現しており豊満な乳房も豊穣のシンボルであった

安田(200928)

以上のように蛇信仰は世界各地で行われており蛇は時に王のシンボルとなり豊穣や多産のイメージと結びつけられ人々から崇められていたことがわかる

23 一神教と多神教の誕生の背景

次にキリスト教世界と日本の文学作品を比較し蛇に対するイメージの変化を考察するそのために両者がどのような状況で誕生したのかそして一神教と多神教の価値観の違いはどこから生じるのかを認識する必要があると考える

安田(1999)には一神教と多神教の誕生について記されているまず一神教が誕生した風土は静寂に包まれた砂漠で非常に乾燥しており生き物の姿もないことから天に唯一の神を認めるのは人間の心理として当然の帰結だというまた『旧約聖書』の創世記第一章には神が人をつくり人に地球の生命あるものを治めさせるとありこれが階級主義に立脚した世界観を誕生させていると述べている(安田 1999141 ~ 143)

さらに安田(1999)は一神教が成立拡大する契機として紀元前一二〇〇年頃に東地中海地方を襲った気候の乾燥化をあげているこれ以降寒冷化に見舞われ民族移動が盛んに行われる一方で餓死が頻発する時代へと突入する気候変動によってメソポタミア低地イスラエルインダス平原ナイル川下流域は一様に乾燥化砂漠化が進んだが北緯三五度以北のギリシアやアナトリア高原では気候の寒冷化とともに湿潤化が進行したと述べている(安田1999145)

一方で多神教が誕生する要因として森を挙げている森の中は生命で満ち溢れ豊穣の大地であったが同時に季節によって大きく姿を変え生き物が死と再生のドラマを繰り返しておりそこで輪廻転生の概念などが誕生したまた圧倒的な自然の猛威が人間を襲うこともあり人々は自然への感謝と畏敬の念をもつことになったと述べている(安田 1999143 ~ 144)

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さらにヘビやオオカミやキツネを神としてあるいは神の使いとして崇める宗教が生き残れたのは森があったからなのではないかとも述べている(安田 1999150 ~ 151)

以上のことから一神教は気候が乾燥化した風土により誕生したことで救いを天つまり神に求め神のみを特別な存在に捉えた一方多神教は森という生命が溢れる源から生じいつしか人々に自然への畏敬や感謝を抱かせ同時にそこに生きる生き物をも崇めるようになったことがわかる

24 キリスト教世界における蛇

次にキリスト教世界について述べるが蛇は悪悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージと結びつく傾向が強いモリス(2006)によるとアダムとイブがエデンの園から追放されたのはヘビが原罪を犯させたからでありこのヘビが悪名高いことはよく知れわたっているこれが人々の嫌悪する動物のリストのトップにヘビがくる文化的理由となっていると述べている(モリス200664)

しかし笹間(1991)によるとかつてキリスト教にも蛇を神聖視していた過去があったことを指摘している

西欧諸国においてはキリスト教によって龍蛇を悪魔邪神の表徴とするがこれはエデンの園で蛇がアダムとイヴを誘惑して禁断の木の実を食わしたことによる物語が『創世記』にあるからであるしかし古いキリスト教のグノーシス派の神話には人類の祖が蛇であったことが窺われしたがって蛇を崇拝していた痕跡が歴然と見られる

笹間(199124)

モリス(2006)は蛇は悪や悪魔の化身と捉えられていると述べているが笹間(1991)が指摘するようにキリスト教のグノーシス派でも蛇は信仰の対象となっていた

グノーシス派については竹田(2003)も以下のように述べている

小アジアのビシニア辺りのグノーシス派は旧約聖書の暴君的な悪の神に反対して人間に知恵(グノーシス)という「光」をもたらしたエデンの園の蛇を礼讃した彼らは拝蛇教徒と呼ばれイエスと蛇を同一視したりイエスの父を蛇と考えたりしたそこには蛇と女性を崇拝し蛇と女性が交わるというペルシャの宗教やギリシャ神話からの影響が見られる(後略)

竹田(200384) しかし5 世紀以降グノーシス派は次第に排除されていきモリス(2006)が論じているよう

に蛇を忌み嫌うべき動物と見なす考え方が定着していったものと考えられる

241 キリスト教世界への浸透

蛇が悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージを世に広めた要因の一つとしてモリス(2006)によると教会側の仕事が関わっているという中世の芸術家たちがなにか極悪非道に描こうとすれば龍か蛇を使用したというさらに龍は神によって手足をとられる以前の蛇を表しており特に恐ろしい動物であり龍と悪魔は同意義として使用されていたと述べている(モリス 200672)

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242 蛇が選ばれた理由

次になぜそのようなイメージを蛇が担うようになったのかについて述べる安田(2009)によるとエデンの園の物語はそれまであった多神教を攻撃する物語でありそれ故に蛇はキリスト教の中でずる賢い悪魔とされる運命を担うことになったというエジプトで生活していたモーゼは蛇信仰を疎ましく思っていたはずであり長きにわたってエジプト人に苦しめられていた彼らにとって余計に蛇は憎むべき存在となった唯一神信仰はエジプトの多神教の世界アニミズムの世界に反する形で誕生しており多神教のシンボルこそ蛇だったと述べている(安田2009112 ~ 113)

また中世末期から近世に入ると魔女裁判が多発し動物の悪魔化が進展するようになり動物が悪魔の手下となったことを指摘し蛇について以下のように述べている

動物の中でもっとも嫌われたのは蛇であった蛇はキリスト教の世界では邪悪の象徴であったこのような動物の悪魔化の背景には森の消滅の中で動物たちの持つ霊力がしだいに力を失っていったことを物語っているキリスト教の力の増大の中でわずかに残ったアニミズムの世界は悪魔の世界として人間社会から排斥され忌み嫌われる対象に転落していったのである

安田(2009138)

以上のことから蛇はアニミズムの世界において神聖視されていたがそれを疎ましく思っていたキリスト教によってアニミズムの世界が忌み嫌われる対象へと転落したそしてアニミズムの象徴であった蛇も嫌われることになったということがわかる

25 東洋における蛇信仰

次に東洋世界における蛇信仰について考えるここでは蛇信仰が盛んに行われさらには日本に影響をもたらしたとされる古代インドと中国について述べる

まず古代インドについて述べる笹間(2008)によると古代インドでは蛇は水と河川の神であったがアーリア人がインドに侵入すると蛇は悪神とされたというまたバラモン教を受け継ぐヒンドゥー教では土着の信仰を受け継ぎ蛇は再び豊穣と生命力の象徴として信仰されたとも述べている(笹間 200826)

小西(1992)によると初期仏典にブッダの庇護者としていくつかの龍王の名が登場しているという中でもムチャリンダ龍王は裸定中のブッダを七日間も降りつづいた雨からまもるため七重に巻いたとぐろの上にブッダをのせその頭上を大きくひろげたコブラ状のフードで守ったと述べている(小西 1992174)

次に中国について述べる笹間(2008)によるとインドで水神仏法の護持の役割を与えられた蛇神は仏教とともに中国に伝えられ龍と訳され皇帝の象徴として王朝を護持する聖獣となったその一方で雨と水をもたらす神となったと述べている(笹間 200828)

奥野秋篠宮(2009)によると龍は天高く飛翔し水にもぐり身体を自由に変化させ死者の霊を天界に運ぶことから聖獣としての性格を与えられ皇帝の権威が確立するとともに皇帝の代名詞とさえなったと述べている(奥野秋篠宮 2009152 ~ 153)

また笹間(1991)では中国の神話である下半身人体の伏義と女媧の伝説を取り上げている伏義と女媧は人類の祖とされている兄妹であるが夫婦となったと述べている(笹間 199116)

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

73

様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

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Page 6: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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さらにヘビやオオカミやキツネを神としてあるいは神の使いとして崇める宗教が生き残れたのは森があったからなのではないかとも述べている(安田 1999150 ~ 151)

以上のことから一神教は気候が乾燥化した風土により誕生したことで救いを天つまり神に求め神のみを特別な存在に捉えた一方多神教は森という生命が溢れる源から生じいつしか人々に自然への畏敬や感謝を抱かせ同時にそこに生きる生き物をも崇めるようになったことがわかる

24 キリスト教世界における蛇

次にキリスト教世界について述べるが蛇は悪悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージと結びつく傾向が強いモリス(2006)によるとアダムとイブがエデンの園から追放されたのはヘビが原罪を犯させたからでありこのヘビが悪名高いことはよく知れわたっているこれが人々の嫌悪する動物のリストのトップにヘビがくる文化的理由となっていると述べている(モリス200664)

しかし笹間(1991)によるとかつてキリスト教にも蛇を神聖視していた過去があったことを指摘している

西欧諸国においてはキリスト教によって龍蛇を悪魔邪神の表徴とするがこれはエデンの園で蛇がアダムとイヴを誘惑して禁断の木の実を食わしたことによる物語が『創世記』にあるからであるしかし古いキリスト教のグノーシス派の神話には人類の祖が蛇であったことが窺われしたがって蛇を崇拝していた痕跡が歴然と見られる

笹間(199124)

モリス(2006)は蛇は悪や悪魔の化身と捉えられていると述べているが笹間(1991)が指摘するようにキリスト教のグノーシス派でも蛇は信仰の対象となっていた

グノーシス派については竹田(2003)も以下のように述べている

小アジアのビシニア辺りのグノーシス派は旧約聖書の暴君的な悪の神に反対して人間に知恵(グノーシス)という「光」をもたらしたエデンの園の蛇を礼讃した彼らは拝蛇教徒と呼ばれイエスと蛇を同一視したりイエスの父を蛇と考えたりしたそこには蛇と女性を崇拝し蛇と女性が交わるというペルシャの宗教やギリシャ神話からの影響が見られる(後略)

竹田(200384) しかし5 世紀以降グノーシス派は次第に排除されていきモリス(2006)が論じているよう

に蛇を忌み嫌うべき動物と見なす考え方が定着していったものと考えられる

241 キリスト教世界への浸透

蛇が悪魔邪悪誘惑などの悪いイメージを世に広めた要因の一つとしてモリス(2006)によると教会側の仕事が関わっているという中世の芸術家たちがなにか極悪非道に描こうとすれば龍か蛇を使用したというさらに龍は神によって手足をとられる以前の蛇を表しており特に恐ろしい動物であり龍と悪魔は同意義として使用されていたと述べている(モリス 200672)

70

242 蛇が選ばれた理由

次になぜそのようなイメージを蛇が担うようになったのかについて述べる安田(2009)によるとエデンの園の物語はそれまであった多神教を攻撃する物語でありそれ故に蛇はキリスト教の中でずる賢い悪魔とされる運命を担うことになったというエジプトで生活していたモーゼは蛇信仰を疎ましく思っていたはずであり長きにわたってエジプト人に苦しめられていた彼らにとって余計に蛇は憎むべき存在となった唯一神信仰はエジプトの多神教の世界アニミズムの世界に反する形で誕生しており多神教のシンボルこそ蛇だったと述べている(安田2009112 ~ 113)

また中世末期から近世に入ると魔女裁判が多発し動物の悪魔化が進展するようになり動物が悪魔の手下となったことを指摘し蛇について以下のように述べている

動物の中でもっとも嫌われたのは蛇であった蛇はキリスト教の世界では邪悪の象徴であったこのような動物の悪魔化の背景には森の消滅の中で動物たちの持つ霊力がしだいに力を失っていったことを物語っているキリスト教の力の増大の中でわずかに残ったアニミズムの世界は悪魔の世界として人間社会から排斥され忌み嫌われる対象に転落していったのである

安田(2009138)

以上のことから蛇はアニミズムの世界において神聖視されていたがそれを疎ましく思っていたキリスト教によってアニミズムの世界が忌み嫌われる対象へと転落したそしてアニミズムの象徴であった蛇も嫌われることになったということがわかる

25 東洋における蛇信仰

次に東洋世界における蛇信仰について考えるここでは蛇信仰が盛んに行われさらには日本に影響をもたらしたとされる古代インドと中国について述べる

まず古代インドについて述べる笹間(2008)によると古代インドでは蛇は水と河川の神であったがアーリア人がインドに侵入すると蛇は悪神とされたというまたバラモン教を受け継ぐヒンドゥー教では土着の信仰を受け継ぎ蛇は再び豊穣と生命力の象徴として信仰されたとも述べている(笹間 200826)

小西(1992)によると初期仏典にブッダの庇護者としていくつかの龍王の名が登場しているという中でもムチャリンダ龍王は裸定中のブッダを七日間も降りつづいた雨からまもるため七重に巻いたとぐろの上にブッダをのせその頭上を大きくひろげたコブラ状のフードで守ったと述べている(小西 1992174)

次に中国について述べる笹間(2008)によるとインドで水神仏法の護持の役割を与えられた蛇神は仏教とともに中国に伝えられ龍と訳され皇帝の象徴として王朝を護持する聖獣となったその一方で雨と水をもたらす神となったと述べている(笹間 200828)

奥野秋篠宮(2009)によると龍は天高く飛翔し水にもぐり身体を自由に変化させ死者の霊を天界に運ぶことから聖獣としての性格を与えられ皇帝の権威が確立するとともに皇帝の代名詞とさえなったと述べている(奥野秋篠宮 2009152 ~ 153)

また笹間(1991)では中国の神話である下半身人体の伏義と女媧の伝説を取り上げている伏義と女媧は人類の祖とされている兄妹であるが夫婦となったと述べている(笹間 199116)

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

72

エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

81

314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

89

翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 7: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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242 蛇が選ばれた理由

次になぜそのようなイメージを蛇が担うようになったのかについて述べる安田(2009)によるとエデンの園の物語はそれまであった多神教を攻撃する物語でありそれ故に蛇はキリスト教の中でずる賢い悪魔とされる運命を担うことになったというエジプトで生活していたモーゼは蛇信仰を疎ましく思っていたはずであり長きにわたってエジプト人に苦しめられていた彼らにとって余計に蛇は憎むべき存在となった唯一神信仰はエジプトの多神教の世界アニミズムの世界に反する形で誕生しており多神教のシンボルこそ蛇だったと述べている(安田2009112 ~ 113)

また中世末期から近世に入ると魔女裁判が多発し動物の悪魔化が進展するようになり動物が悪魔の手下となったことを指摘し蛇について以下のように述べている

動物の中でもっとも嫌われたのは蛇であった蛇はキリスト教の世界では邪悪の象徴であったこのような動物の悪魔化の背景には森の消滅の中で動物たちの持つ霊力がしだいに力を失っていったことを物語っているキリスト教の力の増大の中でわずかに残ったアニミズムの世界は悪魔の世界として人間社会から排斥され忌み嫌われる対象に転落していったのである

安田(2009138)

以上のことから蛇はアニミズムの世界において神聖視されていたがそれを疎ましく思っていたキリスト教によってアニミズムの世界が忌み嫌われる対象へと転落したそしてアニミズムの象徴であった蛇も嫌われることになったということがわかる

25 東洋における蛇信仰

次に東洋世界における蛇信仰について考えるここでは蛇信仰が盛んに行われさらには日本に影響をもたらしたとされる古代インドと中国について述べる

まず古代インドについて述べる笹間(2008)によると古代インドでは蛇は水と河川の神であったがアーリア人がインドに侵入すると蛇は悪神とされたというまたバラモン教を受け継ぐヒンドゥー教では土着の信仰を受け継ぎ蛇は再び豊穣と生命力の象徴として信仰されたとも述べている(笹間 200826)

小西(1992)によると初期仏典にブッダの庇護者としていくつかの龍王の名が登場しているという中でもムチャリンダ龍王は裸定中のブッダを七日間も降りつづいた雨からまもるため七重に巻いたとぐろの上にブッダをのせその頭上を大きくひろげたコブラ状のフードで守ったと述べている(小西 1992174)

次に中国について述べる笹間(2008)によるとインドで水神仏法の護持の役割を与えられた蛇神は仏教とともに中国に伝えられ龍と訳され皇帝の象徴として王朝を護持する聖獣となったその一方で雨と水をもたらす神となったと述べている(笹間 200828)

奥野秋篠宮(2009)によると龍は天高く飛翔し水にもぐり身体を自由に変化させ死者の霊を天界に運ぶことから聖獣としての性格を与えられ皇帝の権威が確立するとともに皇帝の代名詞とさえなったと述べている(奥野秋篠宮 2009152 ~ 153)

また笹間(1991)では中国の神話である下半身人体の伏義と女媧の伝説を取り上げている伏義と女媧は人類の祖とされている兄妹であるが夫婦となったと述べている(笹間 199116)

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

88

 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

98

る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 8: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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以上から古代インド中国において蛇は豊穣と生命力の象徴であり水神や仏法護持としての役割を与えられさらに人類を創造した祖としても認識されていたことがわかる

26 日本における蛇信仰

インドで誕生した蛇神ナーガは中国にわたり龍と化し日本にも伝来したがそれ以前より日本には蛇信仰が存在していたここでは原始蛇信仰と日本人の自然観に焦点を当て蛇に対するイメージがどのようなものであるのかについて述べる

261 蛇信仰の発展

蛇の外形や生態の特徴は人々の思想に影響を与えたが時代の流れと共に現実の蛇だけでなく物に対しても蛇の姿を重ね信仰するようになっていくのだが吉野(1979)ではその例をいくつか挙げている

例えば縄文土器である縄文土器には蛇の姿が描かれている生々しく活力にあふれた蛇であり縄文人の蛇によせる情熱が表現されていると述べている(吉野 197922 ~ 23)

また紀元前三世紀から二世紀の弥生時代には稲作が朝鮮半島から伝えられ弥生土器には蛇の造型は見られなくなったが蛇信仰が消滅したとは考えられないというなぜならば稲作の天敵は野鼠であり野鼠の天敵は蛇である故蛇は弥生人にとって田を守る神として信仰されていたからである弥生時代には縄文人の蛇信仰と弥生人の蛇信仰を混合したもの弥生人独自のもの田の神としての蛇信仰など複雑化をみせさらに人々は現実の蛇だけでなく蛇に相似している物をも神聖視するようになったという例えば樹木や山岳家屋などがそれにあたる蛇のとぐろを巻いた姿は円錐形の山と重ねられ祖先神の蛇が大地に腰を据えているような神聖なものと考えられていたと述べ山の例として三輪山を挙げている(吉野 197925 ~ 34)

262 日本人の自然観

次に日本の蛇信仰が長い間残存し得たことについて日本人の自然観から考える先の 23で多神教の誕生が森と関わっていることを述べたが日本もこれに含まれる

吉田(2012)によると古代人の自然観について以下のように述べている

古代の人々は暴風や豪雨河川の氾濫高波など自然の脅威を神のなす業と見て森羅万象すべてに神の姿を見出していたつまり自然界の存在にはすべて霊魂が宿るというアニミズム(精霊信仰)を持っていたのである

吉田(201217)

このアニミズムの精神があったからこそ様々な動物が神や神の使いとして存在し得たのであり全ては豊かな森とそれを大切に思う古代日本人の自然観が生み出した結果であったことがわかる

27 日本宗教の歴史

日本の蛇信仰や自然観について述べてきたがここでは日本宗教がどのような経緯でいかなる影響を受けつつ形成されてきたのかを述べる

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 9: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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エアハート(1994)によると日本宗教として神道仏教道教儒教キリスト教民族宗教新宗教の七つを示し日本人は一つの宗教に排他的に「所属する」ということがなく複数の宗教の中で活動することは日本人にとって普通のことなのだと述べている(エアハート 199444)

このことから日本人は様々な宗教を吸収しつつ独自の宗教を築き上げてきたことがわかる

271 奈良時代まで

安蘇谷(1994)によると弥生時代の人々にとって常食であった五穀の豊作を稲作の神々に祈ることが生活の中で重要な年中行事でありそれが祈念祭といわれる春祭りであり秋には豊作を感謝する新嘗祭が執行されると述べている(安蘇谷 199418)

阿達(1997)によると聖徳太子は民族信仰である神道に代えて仏教を国教とし最上の教えとして信俸すべきことを奨励したそして四天王寺を始め法隆寺など七寺を建立すると共に政治に仏教の慈悲の精神を反映したと述べている(阿達 199731 ~ 32)

272 平安時代から江戸時代まで

阿達(1997)によると奈良時代より進められてきた神仏習合の傾向が平安時代末近くになると完成の域に達し「神は仏を本地とし仏法によってこの世を救うための方便の姿である」という本地垂迹説が成立した神仏を一体と考えるようになり神と仏は同じであるという思想が浸透し神と仏を区別しない日本民族の神仏観が形成されていったと述べている(阿達 199751)

エアハート(1994)によると江戸時代前期には儒教の立場から神道を捉えた儒家神道が盛んに行われ全ての家に寺院に属することを義務付けする等の政策をとっていたその一方で本格的にキリスト教が日本に伝播し始める江戸幕府が当初貿易の関係からキリシタンの活動を容認していたこともありキリシタンは幕府を脅かす存在となりついには徹底した弾圧を受けるようになってしまった政府はキリスト教徒が一人も残っていないことを確かなものにするためにすべての家に地域の仏教寺院に属し誕生結婚死亡転移の際には報告することを義務づけこれを契機に家と仏教寺院との提携は代々受け継がれる慣習となったと述べている(エアハート 199472 ~ 75)

273 明治時代から昭和時代まで

三橋(2011)によると明治時代の 1868 年に神仏分離令により神仏習合思想は禁止され神と仏は同一ではないという考えに至り神道は仏教から独立する形となったそして明治政府により天皇を中心とした国家形成を図る目的で国家神道が作られ尊王思想が普及されたと述べている(三橋 201132)

エアハート(1994)によると戦時前後の国家神道は戦前戦中に国民を統治し鼓舞するために利用されたが日本が終戦を迎えるとGHQ により解体された神社への参拝や寄付をやめる人が多くなりさらに神道には徐々に生じてきた変化の結果であるものもあった農村的な生活様式から都会の個人的な生活様式へと変化し経済や世俗的な問題へと人々は関心を持つようになったこのような変化は季節の祭礼への参加や地方の神社から人々を引き離す力となったがカミの信仰や季節の祭礼など多くの人々の心の中に生きていると述べている(エアハート 199480 ~ 83)

その一方で今日の日本社会におけるカミに対する儀式については都会の産業商業的な生活

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

95

は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 10: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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様式への急激な移行の結果カミに関連する多くの慣行はそれほど重要視されなくなったりついにはまったく無視されるようになってしまったと述べている(エアハート 199498)

28 キリスト教文学

次の第 3 章で蛇が登場する文学作品をいくつか使用しそのイメージの変化を考察するその際キリスト教からの影響も含めて考察していくためここでは日本とキリスト教の歴史的関係について述べる

安森他(2002)によると一般的にキリスト教が伝来したのは 16 世紀とされているが奈良時代にもその痕跡が認められるというかつてネストリウス派のキリスト教(景教)がペルシャ人によって唐の長安に伝えられておりその関係で日本にも聖武天皇の時代に渡来したというもので『続日本紀』に由来しているしかしその後景教が広まったという記述はないというまた『古事記』の神代記の天地開闢説話が『旧約聖書』の天地創造と類似していることから『古事記』の記述に『旧約聖書』が影響を与えていたのではないかとも述べているもしそれが事実であるなら日本文学はその根源始発点から既にキリスト教(聖書)の影響を受けていたことになるしかしどちらもその後の記述や関係性が指摘されていないことからやはり本格的な伝来及び隆盛は 16 世紀となっていると述べている(安森他 2002142)

次に日本における『聖書』について述べる安森他(2002)によると『聖書』の翻訳はプロテスタント諸派の宣教師が集まり翻訳委員による新約の共同訳という事業が 1872 年に決議されヘボンブライングリーンらと共に奥野昌綱松山高吉達が参加したというこの事業は1874 年に開始され1879 年には全 17 冊が完了していた『旧約聖書』に関しては1888 年には出版が完了しておりその後日本文学に大きな影響を与えることとなったキリスト教の影響は大きく明治 5 年(1872)に設置された開拓使仮学校ではピューリタンのウィリアムクラークによってキリスト教が講ぜられ『聖書』が正課となっていた当時学校に通っていた西洋文化に渇望した青年知識人達は翻訳書の大量出版を支える共に読者であった西洋の科学や思想に触れ自らの意識改革を迫られるその葛藤の中で科学技術が誕生していったのだと述べている(安森他 2002147 ~ 149)

久保田(1989)では数々のキリスト教作家たちを挙げた上で今日への影響について以下のように述べている

今日宗教と文学とは相容れないという偏見は通用しない先に記したようにキリスト教作家たちはキリスト教信仰を持つが故にこそより深く人間を凝視してユニークな作品を書き訴える力を得ているのであるそして日本の精神風土と日本文学を豊かにする一役割を果しつつあるのである

久保田(1989191)

以上のことからキリスト教文学は明治の西洋文化と共に日本に輸入され信者こそ少ないが今日の日本文学に少なからず影響を与えていることがわかる

29 仏教の影響

次に文学作品における仏教の影響について考察する仏教は 6 世紀に朝鮮半島を経由し中国から伝わり日本の社会文化思想に大きな影響を与えた

西郷(2008)では『今昔物語』の話をいくつか挙げ仏教の影響により蛇が忌まわしい動物に

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

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Page 11: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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化したと述べている

仏教では死後蛇身に生れ変って苦を受ける蛇道なるもの(畜生道のうち蛇身を受ける境界)が説かれていたそして今昔物語にも罪のため蛇身となったものが法力により善所に生れたというような話をあれこれ載せているさきには今昔物語や日本霊異記などに女を犯した蛇の話があるのを紹介したがその蛇たちはむろんみな殺される目にあっているこうして少なくとも蛇たちにとってはまことに幸い薄き世になったわけである畜生という語も仏説から来るとにかくこうして昔話の世界で蛇が忌み嫌われるようになったのは仏説でこの蛇道なるものが説かれたことと関係があると思われるこうして今や蛇は負の遺産に転化する 

西郷(2008156)

小峰(2003)によると蛇は水を司る「神」もしくは「神の化身」で崇められてきた動物であると記す一方で仏教の影響を大きく受けた『今昔物語集』においては蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物であり罪障深い畜生悪業煩悩の象徴としてとらえる傾向がはっきりとみてとれるとも述べている(小峯 200387)

また笹間(1991)では仏教が蛇にもたらした影響について以下のように述べている

また蛇を追いのけたり殺したものが他の機会に蛇に咬まれたりすると復讐されたとするこうしたことは仏教の説話の影響もあって想像的に蛇の執念という性格を形成せしめているゆえに蛇の性交は濃厚であるとか蛇の性交を見た者や二つの頭の蛇を見たものは三年以内に死ぬとかの俗信を生ずる性交を見るというのは見てはならぬものを見たということ二頭の蛇は奇型を知られたいわゆる醜いものを見たということで見られたものが恥と怒りで復讐するという概念が根底にあるこうした観念から人間が勝手に想像して蛇は執念深いものとしてしまったようである

笹間(199150 ~ 51)

さらに笹間(1991)によると「日本でも古代および神道系では蛇の執念についてあまり語られないが仏教が伝わってからは蛇は執念の生物そして執念持つ人間は蛇に生まれ変わるという話が多くなる」とも述べている(笹間 199152)

以上のことから蛇は仏教の影響を受けたことで忌まわしい動物罪障深い畜生悪業煩悩の象徴となりさらには執念や復讐といったイメージも付与されたことがわかる

210 先行研究のまとめ

蛇はその容姿と性質から一神教多神教問わず古代の世界各地で信仰の対象となっていた一神教と多神教の成立について気候や風土という視点からみると豊かな自然が関係しておりこれがアニミズム思想に発展していた

キリスト教では蛇はエデンの園でアダムとイヴを誘惑し原罪を犯した事から嫌われる動物となっているこのイメージを拡散したのは中世の芸術家たちで極悪非道に蛇や龍を描いた蛇が選ばれたのは蛇が多神教のシンボルであったからである

一方で東洋では蛇は河川の神仏法を護持する者皇帝のシンボルさらには人類の祖として位置づけられた日本では弥生時代になると田の神へと発展し山などの蛇に相似する物に

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

79

次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

98

る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

100

笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 12: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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対しても信仰心を抱かれるようになった古代日本人は森羅万象すべてに神の姿を見出すアニミズムの精神を持っていたために森に住む蛇も信仰の対象とした

日本の宗教は仏教儒教キリスト教民族宗教など様々な宗教を取り入れることで現在に至っている6 世紀には儒教道教仏教が朝鮮半島より伝来し平安時代末には神仏習合が進められた江戸時代にはキリスト教の伝来があったが厳しい弾圧や鎖国が行われた明治時代になると神仏習合の概念は崩壊し国家神道が作られたしかし敗戦により GHQ により解体されたそして近代化の波が押し寄せ生活様式の急激な移行は神道の概念を崩壊させる一因となった

キリスト教文学も開花し日本文学をより一層豊かにしている一方仏教は日本文学において神聖視されていた蛇を蛇道という概念により忌み嫌われる物へと転化させたそして蛇は人々の想像の中で執念や復讐の念を持つ生物として捉えられるようになった

以上の先行研究を活かし神道的概念の根強さとキリスト教の影響について考察するさらに西洋の文学作品と比較し両者の蛇に対するイメージの変化の推移を捉える

第 3 章 データ

本章では蛇に対するイメージの変化を考察するために西洋と日本における文学作品を時代毎に数点取り上げ簡単にあらすじや蛇が登場する主な場面を紹介する31 では西洋の文学作品について32 では日本の文学作品についてである

なお続く第 4 章で本章のデータから蛇にどのようなイメージが付与されているのかを捉え時代の流れと共に変化する蛇に対するイメージを考察するなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

31 西洋における文学作品

まず西洋の作品についてである311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げるなお訳は特に記述がない限り筆者の私訳である

311 古代(5世紀まで)

キリスト教はかつて存在した多神教を排除し多くの国で国教となるまでに至ったがキリスト教で欠かせない文学作品といえば『旧約聖書』と『新約聖書』である

まず『旧約聖書』である『旧約聖書』の中で最も印象的な蛇の登場シーンは創世記第 3 章である神によって創造された蛇によって人類の祖であるアダムとイヴは禁じられていた善悪を知る木の実を食す神は怒り罰として蛇の手足を取り上げイヴには産みの苦しみをアダムには労働を課せたさらに二人はエデンの園から追放されたという内容である

以下は創世記第 3 章 1 節である

1 Now the serpent was more subtle than any other wild creature that the LORD God had made He said to the woman ldquoDid God sayʻ You shall not eat of any tree of the gardenʼ rdquo

(さて神であるヤハウェが造ったあらゆる野の獣のうちで蛇が一番狡猾であった蛇は女に「神はあなた達は園のどの木からも食べてはならないと本当に言ったのです

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

89

翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 13: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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か」と言った) 創世記 31 Nelson T 他(19522)

上記は蛇が女に向かって誘惑している場面であるこれによってアダムとイヴは悪を知る木の実を食すがイヴは蛇によって食べさせられたと明確に述べている

13 Then the LOAD God said to the woman ldquoWhat is this that you have donerdquo The woman said ldquoThe serpent beguiled me and I aterdquo(神であるヤハウェは女に「あなたは何をしたのか」と言った女は「蛇が私を惑わしただから食べたのです」と答えた)

創世記 313 Nelson T 他(19522)

そしてこれに対して神は蛇に以下のように述べている

14 The ROAD God said to the serpent ldquoBecause you have done this cursed are you above all cattle and above all wild animals upon your belly you shall go and dust you shall eat all the days of your life (神であるヤハウェは蛇に言った「おまえがこんな事をしたためにおまえはあらゆる家畜あらゆる野の獣よりも呪われる一生腹ばいでちりを食べなければならない」)

創世記 314 Nelson T 他(19523)

蛇が生涯塵を食べて過ごすという概念はイザヤ書 65 章にも登場する

25 The wolf and the lamb shall feed together the lion shall eat straw like the ox and dust shall be the serpentʼs food They shall not hurt or destroy in all my holy mountain says the LOADrdquo (狼と子羊は共に草を食べ獅子は牛のようにわらを食べるちりが蛇の食べ物となるわたしの聖なる山のどこにおいても傷付き滅ぼされることはない」と神ヤハウェは言った)

イザヤ書 6525 Nelson T 他(1952582)

一方で民数記 21 章には蛇は病の治癒のシンボルとしても登場しているモーセが民を引き連れ約束の地カナンを目指し荒れ野を歩いていると民の不満が高まり神が与えた食べ物でさえも粗末な物と言い侮辱し始めるそれに怒った神は民に多数の猛毒の蛇を送ったそれが以下の 6 節である

6 Then the LOAD sent fiery serpents among the people and they bit the people so that many people of Israel died (そこで神ヤハウェは民の中に燃える蛇を送った蛇は人々に咬みついたイスラエルの多くの人々が死んだ)

民数記 216 Nelson T 他(1952121)

これによって民は神に対する信仰を取戻しモーセに救いを求めることとなり神はモーセに対して民が救われる方法を提示したそれが以下の 9 節である

9 So Moses made a bronze serpent and set it on a pole and if a serpent bit any man he would look at the bronze serpent and live (モーセは一つの青銅の蛇を作りそれをさおの上に

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 14: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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つけたもし蛇が人を噛んでもその者が青銅の蛇を見た時生きた) 民数記 219 Nelson T 他(1952121)

次に『新約聖書』であるマタイ 10 章の 16 節では創世記第 3 章 1 節と同様に蛇を特別視しそのずる賢さつまりは周りの状況を把握判断する思慮深さを認めるような記述がある

16 ldquoMind you I am sending you out as sheep among wolves therefore be as subtle as serpents and as guileless as doves (いいかい私があなたたちを送るのは狼の中に羊を送るようなものだそれゆえ蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい)

マタイによる福音書 1016 国際ギデオン教会版(197226 ~ 27)

一方でヨハネの黙示録第 12 章 9 節では蛇が悪魔的なイメージをもって登場する神に反したルシファーとその使いが神の怒りにより天から落とされる場面である

9 And the great dragon the serpent of old called the devil and Satan the deceiver of all humanity was forced out and hurled to the earth and his angels were flung out along with him (巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれた古い蛇全ての人類をだます者は地に落とされ彼らの天使たちも一緒に投げ落とされた)

ヨハネの黙示録第 129 国際ギデオン教会版(1972745 ~ 746)

『旧約聖書』のエデンの園では蛇は人類の祖を堕落せしめた存在であるが一方で青銅の蛇として治癒のシンボルとしても登場しているしかし『新約聖書』ではエデンの園の蛇がサタン

(悪魔)であったことが描かれているこれが24 のモリス(2006)が論じているように後世にまで強い影響を及ぼし蛇は悪いイメージを有することとなった

312 中世(6世紀―15世紀)

次に中世の文学作品について述べるがここでは『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』を取り上げる

まずイギリス最古の英雄叙事詩『ベオウルフ』についてである第一部と第二部に分かれ主人公のベオウルフが食人鬼グレンデルとの闘いや自国を襲う龍を退治するという内容である本稿では第一部のグレンデルの母の退治と第二部の王となったベオウルフ対龍の戦いに焦点をあてる

ベオウルフは国を荒らす龍(蛇)と闘うがこの龍(蛇)の登場はキリスト教つまり蛇を悪者とする概念の影響を受けているのだと考える

食人鬼グレンデルの母の住処にベオウルフと従士たちが訪れた際の場面に蛇が登場している例えば以下の第 21 節である

1425 Gesāwon ethā aeligfter waeligtere wyrm-cynnes fela sellīce sǣ-dracan sund cunnian swylce on naeligs-hleoethum nicras licgean ethā on undern-mǣl oft bewitigaeth sorh-fulne sīeth on segl-rāde 3

苅部他(2007121)

3 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

100

笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 15: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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1425 やがて水を通して見た 蛇に類するものが多数 奇怪な海蛇が 深みを泳ぎ回るのを また岬の崖の上に 海獣が寝そべっているのをそれらは朝の時間には しばしば行なうのだった災難をもたらす遠征を 帆船の通る道に

苅部他(2007121)

第二部ではベオウルフが王となった後の話が繰り広げられている龍(蛇)が守っていた宝を奪われ怒って炎を吐きながら町を襲ってくるがその龍(蛇)を退治する話を取り上げる以下は第 32 節で眠っていた龍が宝を盗まれてしまったことに気づく場面である

2285 fēa-sceaftum men frēa scēawode fīra fyrn-geweorc forman sīethe - THORNā se wyrm onwōc wrōht waeligs genīwad stonc etha aeligfter stāne stearc-heort onfand fēondes fōt-lāst hē tō foreth gestōp 4

苅部他(2007191)

2285 哀れな男の 主人は吟味した 人間の古の作品[酒盃]を 始めて- 龍が目覚めたとき 新たな争いは始まった 岩に沿ってすばやく動くと 恐れを知らぬ生物は 敵の足跡を見つけた 盗人は前に出た

苅部他(2007191)

次に15 世紀前半にクードレッドが著した『妖精メリュジーヌ』である娘メリュジーヌは母親に毎週土曜日に下半身が蛇の姿になる呪いをかけられていたそしてその姿を見られた場合には永遠にそのままになってしまう運命だったある日彼女は一人の男と出会い恋に落ちるが男は妻メリュジーヌと交わした毎週特定の曜日には部屋を絶対に覗いてはいけないという約束を破り部屋を覗いたすると下半身蛇の姿で水浴する彼女の姿を目撃したその後何もなかったかのように平和に過ごしていた二人に息子ジョフロアが修道院を焼き払うという事件を起こし夫が蛇女が産んだ子だからだと責め立てたすると嘆き悲しみ龍に姿を変え飛んでいってしまったしかしそれ以降も夫に姿を見られないよう子供たちに乳を与え育て続けたという話である以下は夫が風呂場でメリュジーヌを目撃した場面である

Il regarde et deacutecouvre Meacutelusine au bain il la voit jusquʼ agrave la taille blanche comme la neige sur la branche bien faite et gracieuse le visage frais et lisse Certes on ne vit jamais plus belle femme Mais son corps se termine par une queue de serpent eacutenorme et horrible bureleacutee dʼargent et dʼazur Coudrette(199389)

目をこらすとメリュジーヌが風呂に入っているのが見えた臍までは枝に積もる雪のように彼女はとても白くすばらしく瑞々しくきれいな体をし顔もさわやかで端正であった本当のところかつて彼女ほど美しい女性はいなかったしかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった白と青の横縞がついていた

クードレット(199697)

4 網かけの文字については原文では文字の上に「」がつく

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 16: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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次に15 世紀後半にトマスマロリーが著した『アーサー王物語』であるイングランド王アーサーが王として様々な闘いを繰り広げてきたが最後の闘いでモードレッド軍と戦った際に致命傷を負ってしまう死が近いことを悟ったアーサー王は小舟に乗り島に向かい霧と共に消えて行くという話である

モードレッド軍との戦いで和解が成立した際に一匹のマムシが現れたこのマムシを契機とし再度戦いが始まりアーサー自身も致命傷を負う以下は一匹のマムシが登場する場面である

Right soon came an adder out of a little heath bush and it stung a knight on the foot And when the knight felt him stungen he looked down and saw the adder and then he drew his sword to slay the adder and thought of none other harm And when the host on both parties saw that sword drawn then they blew beams trumpets and horns and shouted grimly And so both hosts dressed them together(ちょうどその時小さなヒースの茂みからヨーロッパクサリヘビが現れある騎士の足に嚙みついた騎士はひどい痛みを感じ足もとのヨーロッパクサリヘビを見てそれからそいつを殺そうとして他人を傷つけるつもりなく剣を抜いたすると両方の軍は剣が抜かれたのを見てラッパや角笛が吹かれ気味悪く叫んだそして両軍とも整列したのだった)

Malory T(2006107)

中世における蛇は退治される怪物甘い言葉で人を誘惑する存在死を招くきっかけとして登場していることがわかるなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

313 近世(16世紀―18世紀)

近世では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』を取り上げるまず1590-1596 年頃にかけてエドマンドスペンサーが著した『妖精の女王』であるが主に第一巻を取り上げる赤十字の騎士は龍に苦しめられている姫とその国を助けるために旅に出る途中で老婆の罠にかかる等様々な困難に遭いつつも二人は旅を続ける試練を乗り越えて立派に成長した騎士は最後に巨大な龍と闘う騎士は闘いで何度も倒れそうになるが見事退治に成功するという話だ第一巻の第一篇では洞窟に棲むといわれる龍の怪物を退治した際にそれが吐きだした毒の中に蛇が登場する

22 The same so sore annoyed has the knight That welnigh choked with the deadly stinke His forces faile ne can no lenger fight Whose corage when the feend perceiveʼd to shrinke She poured forth out of her hellish sinke Her fruitfull cursed spawne of serpents small Deformed monsters fowle and blacke as inke Which swarming all about his legs did crall And him encombred sore but could not hurt at all (騎士も大変気分を害して命に関わるほどの悪臭に身動きできず力はなくなり戦う気もなくなった騎士の力が減少するのを見たとき龍はその地獄の腹から大量の悪態をついた小蛇を吐いた黒の墨のように酷い怪物であるこれが騎士の足の周りにうようよと群がり彼をいらいらさせたが全く傷つけることはできなかった)

Spenser E(18718)

次に1600 年代前半にウィリアムシェイクスピアが著した『ハムレット』であるハムレッ

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

82

グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

85

仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

89

翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

90

い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 17: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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トはデンマーク王の父を亡くした後継者には叔父のクローディアがついたが母はクローディアと結婚してしまうある日ハムレットは城に現れた父の亡霊からクローディアに毒殺されたという真実を聞く父の復讐を決めたハムレットは着々と計画を進め毒殺の証拠を手に入れるクローディアを殺し父の復讐を果たす悲劇である

蛇は父を殺したクローディアを示す際に登場し妻を惑わし王となった毒蛇としても描かれている以下は第 1 章の第 5 場で亡くなった父親が亡霊となり現れハムレットに死因の真実を述べる場面である

GHOST( 前 略 )Now Hamlet hear ʼTis given out that sleeping in my orchard A serpent stung me so the whole ear of Denmark Is by a forged process of my death Rankly abused but know thou noble youth The serpent that did sting thy fatherʼs life Now wears his crown ((前略)聞いてくれハムレットこう言われている私が庭で昼寝をしているときに蛇に刺されて死んだと デンマーク中が騙されている立派な青年よ父を刺し殺した蛇は今王冠をかぶっている)

Shakespeare W(187330)

さらに王へとのぼりつめたクローディアついて以下のように述べている

GHOST Ay that incestuous that adulterate beast With witchcraft of his wit with traitorous gifts -O wicked wit and gifts that have the power So to seduce― won to his shameful lust The will of my most seeming-virtuous queen O Hamlet what a falling-off was there(後略)(あぁあの近親相姦あの不純な畜生ずる賢さと伝説の才能をもっておぉ邪悪な賢さと才能なんという能力を持って誘惑したのだ―下品な性欲に勝った最も貞節である妃をたぶらかしたおぉハムレットなんたる堕落か(後略))

Shakespeare W(187330 ~ 31)

次に1667 年にジョンミルトンが著した『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園を元にした内容である神に背いたサタンがヘビに化けてアダムとイヴをそそのかし人間を堕落に陥れてしまったことで二人は楽園から追放されるそして自分の犯した罪の重さを感じながらキリスト教徒として歩んでいくという物語である

本作では蛇やサタンが多く登場しているが第 9 巻の 494-500 節には蛇の中に入り込んだサタンについて描かれている

So spake the Enemy of Mankind enclosʼd In Serpent Inmate bad and toward Eve Addressʼd his way not with indented wave Prone on the ground as since but on his rear Circular base of rising folds that towʼrʼd Fold above fold a surging Maze his Head Crested aloft and Carbuncle his Eyes(後略)(類の敵の中へと入り込んだものはそう言って悪の一員の蛇の中イヴに向かって蛇行せずに進んだ地面にうつ伏せにならず尻尾を丸くまきつけて進んだ波のように動く迷路のようだ蛇の頭は高く上がり眼は赤い宝石のように光っていた(後略))

Milton J(1989207)

近世において蛇は騎士に退治される龍の腹の中にいたり人を騙し堕落させる能力を持つ存在サタンの化身として描かれているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

100

笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 18: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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314 近代(19世紀―20世紀)

近代では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』を取り上げるまず1820 年頃にジョンキーツが著した『レイミア』である蛇女のレイミアは神ヘルメスに頼み人間の女の姿に変えてもらったそんな時森で出会った若者リシアスに一目惚れをした二人は互いに惹かれ合い結婚したが結婚式の日に招かれざる客である老師アポロニアスによって蛇だという事をばらされ彼女は悲鳴と共に姿を消すという話である蛇女であるレイミアの容姿について以下のように述べられている

She was a gordian shape of dazzling hue Vermilion-spotted golden green and blue Striped like a zebra freckled like a pard Eyed like a peacock and all crimson barrʼd And full of silver moons that as she breathed Dissolvʼd or brighter shone or interwreathed Their lustres with the gloomier tapestries-So rainbow-sided touchʼd with miseries She seemʼd at once some penanced lady elf Some demonʼs mistress or the demonʼs self (彼女は朱色の点のある金と緑と水色の輝くような色のもつれる姿だったシマウマのような縞ヒョウのような斑点クジャクのような眼濃赤色の線があったそして銀色の満月のようにそれは彼女が息をする時になくなりより輝き混ざり合った暗い色のつづれ織りとそれらの輝きとで虹色に横腹をみじめさを出して彼女は苦難の妖精のようで悪魔のめかけ悪魔そのものに見えた)

Keats J(19906)

次に1931 年にアルフレッドエドガーコッパードが著した『郵便局と蛇』である山の頂に登るついでに立ち寄った郵便局で主人公はかねてから行きたいと思っていた沼に近づいてはならないと局員に忠告された話を聞くと昔大変腹すかしで世の中を全て破滅するとされた赤ん坊の王子を蛇に変え辛い山の中で審判の日の一日前まで辛い試練をさせている為に沼に住みついているという話だった主人公が山頂を目指していると霧が立ち込めやがて巨大な蛇の形になり今日が最後の日かどうか尋ね違うと分かると水滴となり沼へと消えていったという内容である主人公がその蛇について郵便局員に尋ねる場面が以下である

「ほんとですかそれは」とぼくはいった「でもね聖パトリックがアイルランドからヘビをぜんぶ追い出したはずでしょそれもずっと昔に」             

菅(1977234)

次に『ジャングルブック』についてである人間の男の子モーグリが森で豹や熊に育てられ森に住む動物たちとの触れ合いの中で友情や心の強さを学び最後は人間として生きて行く道を選ぶことになるという内容である1967 年にディズニーで映画化された作品としても知られている本作には豹猿象鳥虎などさまざまな動物が登場しているが無論蛇も登場しているカーというニシキ蛇はモーグリに親しげに近づき友好的な振りをしながらも彼を食べようと企む悪役として描かれている以下はモーグリとカーが初めて会いモーグリに向かって催眠術のようなものをかけて優しい言葉で友達になろうと企んでいる場面である

Thatʼs just what he shouldnʼt have done ldquoI donʼt trust yourdquo he said beginning to get dizzy ldquoYou can trust merdquo said Kaa ldquoI am your friendrdquo He continued to stare right into Mowgliʼs eyes and Mowgli couldnʼt look away He was under Kaaʼs spell (まさに彼はすべきではなかったモー

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 19: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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グリは「僕はお前を信用しない」と言ったがめまいが始まりカーは「君は私を信じてもいいのだ私は君の友達だ」と言ったカーはモーグリの瞳をまっすぐ見つめ続けたするとモーグリは目をそらせなくなった彼はカーの魔力に支配された)

Disney W(198617)

さらに以下はカーがモーグリと再会した際に警戒する彼に向かって甘い言葉をささやき彼を狙う虎(Shere Khan)と自分を比較し近づこうと企んでいる場面である

ldquoThis time you wonʼt run away from me Shere Khan thought he was going to be the one who ate you He is stronger but Iʼm more cunningrdquo the snake said

(「今君は私から逃れないだろうシアカーンは君を食べようと考えている者の一人だ彼はより強いが私はもっと狡猾だ」と蛇は言った)

Disney W(198662)

近世において蛇は人を甘い言葉で誘惑したり聖人によって退治される存在であり親しい振りをして裏切るという役割を担っているなお各作品については第 4 章で詳細に論じることとする

315 現代(21世紀)

現代小説では『ハリーポッターシリーズ』を扱うが中でも 1997 年に JKローリングが著した『ハリーポッターと秘密の部屋』を中心に論じる本シリーズは2007 年の『ハリーポッターと死の秘宝』で完結したがその内容は魔法使いとして生まれた少年ハリーポッターが仲間たちと協力しながら世界支配を企むヴォルデモートという悪の魔法使いとその僕たちと戦うというものである

蛇はハリーの宿敵となるヴォルデモートの化身として登場するさらに本シリーズの第 2 弾『ハリーポッターと秘密の部屋』ではldquobasiliskrdquo という直接目を合わせると相手を殺してしまう怪物が登場しその姿が大蛇として描かれている

以下はハリーが通う魔法学校の生徒が次々と身体が固まった状態で発見されるという事件が起きハリー達が仲間の残したメモからその原因を ldquobasiliskrdquo だとつきとめる場面である

Ronʼ he breathed ʻThis is it This is the answer The monster in the Chamberʼs a Basilisk-a giant serpent Thatʼs why Iʼve been hearing that voice all over the place and nobody else has heard it Itʼs because I understand Parseltongueʼ(「ロン」とハリーはささやいた「これだこれが答えだ部屋の怪物は巨大な蛇のバジリスクだだから僕だけはどの場所でも奴の声が聞こえた誰にも聞えないのに僕は蛇の言葉を理解できるから」) 

Rowling J(1998215)

さらに以下はハリーと ldquobasiliskrdquo が戦う場面であるがハリーが目線を合わさないようにしていることが描かれている

The enormous serpent bright poisonous green thick as an oak trunk had raised itself high in the air and its great blunt head was weaving drunkenly between the pillars As Harry trembled ready to close his eyes if it turned he saw what had distracted the snake (明るく

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 20: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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不快な緑色で厚いオークの木の幹のような巨大な蛇は空気の中に高く自身を持ち上げ巨大な鋭い頭は支柱の間で酔って縫うように進んだハリーは震え蛇が振り向いたら目を閉じようと準備をした時蛇の気をまぎらわすものを見た)

Rowling J(1998234)

現代においても蛇は世界征服という陰謀を企む悪の化身としての役割を担いまたバジリスクという死をもたらす怪物までも登場しハリーに退治される運命となっている

31 では西洋における蛇が登場する作品を時代順に列挙した311 では『旧約聖書』『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『メリュジーヌ物語』『アーサー王伝説』313 では『妖精の女王』

『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』である

第 4 章で各作品について分析し西洋における蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

32 日本における文学作品

次に日本の蛇に対するイメージの変化について文学作品を用いて考察する先の 29 にあるように仏教の影響を受け蛇はかつての神聖さを失い忌まわしい動物となったと先行研究では論じられてきたが神道についてはあまり述べられていない

そこで本稿では先行研究である笹間(1991)笹間(2008)谷川(2012)吉野(1989)に新しくデータを付け加える形で仏教思想の影響を受けているものと神道思想が残るものを時代毎に区別し列挙するまた近現代はキリスト教の影響について考察し古代から現代にかけて蛇に対するイメージがどのように変化してきたのかを論じる

本章ではあらすじや蛇がどのように登場しているかを軽く紹介するそして続く第 4 章で各作品についてそれぞれ詳しく論じることとするなお文学作品については全てを紹介しきれない点に留意願いたい

321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げる

321 古代(平安まで)

古代では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』を取り上げ仏教の影響を受けた作品と神道思想を受け継ぐ作品に分け列挙する

はじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず 720 年に成立した『日本書紀』である巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆には人が蛇となって執念で目的を果たす話がある蝦夷が反乱を起こした際に田道という者が死亡し妻も悲しみ亡くなった人々が気の毒に思い二人を墓に埋めた再び蝦夷がやって来て墓を壊した時墓から大蛇が出て来て多くの蝦夷の者に咬みつき毒で殺した話である(笹間 199173 ~ 75)

次に810-824 年頃に成立した『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である一人の僧が弟子に自分が死んだ後の三年間は戸をあけてはならないと言い亡くなった四九日が過ぎると戸口に大きな毒蛇がいたため弟子は蛇を教化し戸を開くと銭三十貫

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Page 21: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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が隠してあった弟子は蛇に生まれ変わった僧を供養したという話である(笹間 199160 ~ 61)さらに12 世紀に成立した『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救

うことである熊野へ向かう老僧と若く美しい若僧がとある未亡人の家に宿をとった所その女は若僧に恋をして寝床に迫った若僧は熊野参りを終えた後に契りを交すと偽の約束をしたが女は楽しみに待っていたしかし若僧に逃げられてしまい寝屋にこもり悲しんで死んだすると一匹の毒蛇が出てきて二人の後を追った僧らは道成寺に逃げ込み若い僧は鐘の中に隠れたすると蛇がやってきて鐘を熱気で焼いてしまい僧は灰だけになったその後老いた僧の夢に大蛇が現れ法華経で苦しみから救って欲しいと言ったので老僧が供養したという話である(笹間 1991171 ~ 176)

その一方で神道思想が窺える作品も残っているまず712 年に成立した『古事記』上巻〔五〕八俣の大蛇退治である須佐之男命は泣いている娘と両親に出会う話を聞くと両親には八人の娘がいたが毎年八俣大蛇が来て食べてしまいこれが最後の娘だと言った須佐之男命は退治すると決め八つの酒樽を用意させ酒で満たしたそこへ大蛇がやって来てまんまと酒に酔い眠ったその瞬間に須佐之男命が飛び掛かり大蛇の首を切ったところ一本の剣が現れた須佐之男命はその剣を天照大神に献上しそれが現在の三種の神器の一つになったという話である(笹間 199182 ~ 84)(吉野 198944 ~ 48)

次に中巻における神武天皇の[七]皇后の選定である神武天皇の大后に大物主神と三島湟咋との娘である勢夜陀多良比売を大久米命によって勧められ二人は結ばれ子供をもうけたという話である(笹間 199193 ~ 94)

また『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説である大国主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が夫の正体である蛇の姿を目撃し驚いてしまったそれが故に大国主神が三輪山に昇っていってしまったという話である(谷川 2012104)(笹間2008122 ~ 123)

さらに721 年に成立した『常陸国風土器』である[六]行方の郡には新たに開墾した田に夜刀の神といわれる蛇が仲間を連れてやってきて田の耕作をさせなかったことがあったそこで箭括の氏麻多智という者が境界のしるしの柱を立て神と人の田を分けさらには神社を作り夜刀の神を代々祭ったという話である(笹間 1991229 ~ 230)(谷川 201245 ~ 46)

322 中世(鎌倉―室町)

次に中世では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べる

まず 1254 年に成立した『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事であるある女が湯を沸かしていると蛇がきてかまどの穴に入った隣の女に相談すると穴の中に熱湯を入れろと言われた女は言われた通りにすると蛇が出てきて死んだ翌日隣の女が熱い熱いと苦しみ出し修験者に見てもらったところ女に蛇の霊が乗り移り危害を加えるつもりはなかったのに殺されたといいやがて女は昨日蛇が死んだ時間と同時刻に死亡したという話である(西尾小林 1986389 ~ 390)

また1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事であるある女が雲林院の菩提寺講に大宮大路を上って行く途中で石橋がありその橋の下に蛇がいた蛇がその女の後を這ってついて行きそれを見たもう一人の女が気になって後を追った前の女はやがて雲林院につき講を聞き終わると一軒の家に泊まった翌日その女が目を覚ますと次のような夢の話を主人にした蛇の女が「ある人を恨み蛇の身に生れ変わり石橋の下に長い間過ごした昨日私を押えつけていた重石を踏み返してくれたお陰で石の苦しみを逃れさらには

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

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Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 22: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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仏法を承ることができ法の力で人間に生れ変ることのできる功徳も近くなった」と嬉しそうに話したという話である(三木他 1990114 ~ 118)

一方で神道思想を残す作品についてであるまず14 世紀に成立した『太平記』である巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事に俵藤太秀郷がムカデを退治した話がある秀郷が勢多の橋を渡っていると大蛇が橋の上で横たわっていたが天下第一の剛勇だったので動じることなく大蛇の背中を荒々しく踏んで越えていったすると小男(大蛇が化けた者)がやってきて長年悩まされた敵を倒して欲しいと懇願する了承した秀郷は小男と一緒に龍宮へ入って過ごしているとムカデがやって来た秀郷がそれを倒すと尽きない財宝と衣装と鐘をもらったという話である(笹間 2008180)(谷川 201247)

次に1220 年頃成立した『宇治拾遺物語』の巻第六 五 観音蛇に化す事であるある男が鷹を追って山奥に入ると誤って谷に落ちてしまった従人が姿を探しても見つからず家に戻り妻子にこの旨を伝えるも道もわからないため再び探しに行かなかった男は幼い頃から読んでいた観音経を読み観音様に助けを求めると大きな蛇がやってきた食われるかと思ったがその気配もないので腰につけた刀を大蛇に突き立て谷を上り無事に家へ帰ったという話である(小林他 1984189 ~ 193)

さらに1330 年後半に成立した『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてである亀山殿御造営の通りに地ならしをすると大量の大きな蛇が集まる塚があった皆はこの土地の神だと言い地主の神である蛇をむやみに掘り出して捨てるのは難しいと言ったしかし大臣の一人が皇居を建てるのに神である蛇が祟りをするはずがないとし蛇を大井川に流すよう言ったので言われた通りにすると結局何も起こらなかったという話である(吉田 1982107 ~ 108)

323 近世(安土桃山―江戸)

近世では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』を取り上げるはじめに仏教の影響を受けた作品について述べるまず1661 年に成立した『片仮名本因

果物語』の上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事である安部清左衛門という者の祖父が罪のない下人を成敗した清左衛門親の代にその霊が出て大蛇となって子供を取って殺しさらにいとこの弥左衛門の子も殺した次々と子供を殺していき一族を呪ったという話である(高田 1989119 ~ 122)

次に『善悪報ばなし』の巻三の十四 女愛執により蛇となる事である美しい少年がおりある人の娘が彼に恋心を抱くようになったため両親は少年に娘のもとへ時々通わせたしかし思いは届かず女は悲しみ死亡した両親が娘の遺骨を箱に入れて部屋に置いていたその後大蛇と少年が話し合っているのが両親によって目撃され彼もほどなくして亡くなった少年の棺の中には遺体に巻きついていた大蛇がおり共に埋葬されたまた娘の骨は蛇に変化しており両親は僧に供養してもらったという話である(高田 1989316 ~ 318)

さらに1776 年に成立した『雨月物語』の巻之四 蛇性の婬である昔豊雄という心優しい青年がおり夕立にあったので近くの家に寄り雨宿りをしていた時そこに若く美しい女と子が来た豊雄が彼女らに傘を貸すと女は嬉しそうに礼をし新宮のあたりに住む者だと言い帰って行ったその夜から女の夢を見るようになり会いたくなった豊雄は新宮の女の家を訪ねた二人が恋に落ち何日か過ぎたある日道で一人の老人に出会った老人は豊雄に蛇につきまとわれていると助言し豊雄も恐れてしまったため新しい女である冨子を迎えたしかしある夜冨子の声や表情が蛇女とそっくりであった事に気づき恐ろしく思い和尚を呼ぶと眠る冨子の胸に大蛇と小蛇がとぐろを巻いていた和尚が二匹を捕まえ穴に埋めた結果豊雄は蛇女から逃れることができたという話である(笹間 1991181 ~ 187)

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 23: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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一方で神道思想を残す作品についてであるまず16 世紀末に成立した『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である佐々成政という者が北海道に新しい橋を作ろうとした際に蛇が棲みつき人々が食べられるのを恐れて通れない淵があったそこで成政が無数の砲弾を淵へ放つと地響きが起こり辺りは暗闇に包まれたその時流星が横切り遠くの山の尾に落ちて大きな新しい淵を作った大蛇は去り橋が架けられ人々は安心して往来したという話である(高田 1989351 ~ 352)

次に『善悪報ばなし』巻三の四 蛇女をおかす事である五八郎の妻が昼寝をしている間に蛇に犯された五八郎は「今回は許すが次に来たら殺す」と言い蛇を助けてやったその後家中に蛇が大量にやって来たため慈悲をもって助けたのに不道理な事と思って来たのかと蛇たちに話したすると蛇は山の方へと隠れて行った道理をもたず無造作に物の命を害することを慎むべきという教えを説いた話である(高田 1989308 ~ 311)

さらに1814 年に成立した『耳袋』の卷之二 蛇を養ひし人の事である淸左衞門は小蛇を飼い夫婦で可愛がり食事も与えていたため成長したまた遠方の女子などはこの蛇に食べ物を与えお祈りをすると叶うこともあったというしかしある台風の日に蛇は苦しみ始めると頭を天に向け空を眺めるとそのまま昇っていったという話である(根岸 1939107)

以上のように近代以前には仏教の影響により蛇に執念や復讐といったイメージを付与された一方で蛇を土地の神や福をもたらす存在として描く神道思想を含む作品も同様に残されていることがわかる続く第 4 章で各作品について細かく分析することとする

324 近代(明治―昭和 1945)

明治時代になると西洋文化の波が日本に押し寄せそれと共にキリスト教思想も日本文学にみられるようになった本稿では近現代におけるキリスト教の影響について考察するためキリスト教文学に絞り紹介するがこの時代に登場する蛇は誘惑や裏切り悪魔といった今までの日本文学にはないイメージが登場しさらに変化をみせるなお本章では簡単にあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介し続く第 4 章で各作品について考察する

近代では泉鏡花の『婦系図』山村暮鳥の『荘厳なる苦悩者の頌栄』太宰治の『誰』を取り上げる

まず1907 年に泉鏡花が著した『婦系図』であるドイツ語学者の酒井俊蔵の元で働く早瀬主税とお蔦の恋主税の師である酒井の娘妙子の縁談妙子の誕生の背景を毛嫌いする河野家への復讐などを描く話である

主税が静岡に行きそこで出会った妙子の縁談相手である河野英吉の妹菅子夫人と親しくなりやがて不倫をすることになる以下はその場面だが主税が菅子と過ちを犯す事を緣の絲と名づけそれを手に取るか取らないかは神の試みでありそれを取ると悪魔の従者となり愚かな者へと化してしまうという意味に解釈できるここでも蛇が恐ろしく悪魔を連想させる形で登場している

菫が咲 5 いて蝶の舞ふ人の世の春の恁る折からこんな處には何時でも此の一條が落ちて居る名づけて緣の絲と云ふ禁斷の智慧の果實と齊しく今も神の試みで棄てて手に取らぬ者は神の兒となるし取つて繋ぐものは惡魔の眷屬となり畜生の淺猿しさとなる是を夢みれば蝶となり慕へば花となり解けば美しき霞と成り結べば恐しき蛇と

5 原作では「咲」の旧漢字が使用されている

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 24: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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成る 泉鏡花(1965248)

次に1920 年に山村暮鳥が著した『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるこれは『梢の巣にて』という詩集に含まれている長編の詩である本作は創世記をテーマにしており神に向けて語りかけるように続く悪魔が人類を誘惑したことを肯定的に捉え最後には新しい神を人間そのものの中に見出して新しい楽園を創造するという内容である

蛇は以下のように登場する

神様 あなたは彼等を創造りなされた あなたは彼等を祝福なされた そしてその彼等に 世界の総てのものをあたへなされた それだのに あなたは唯一つ 自由をだけは禁じなされた なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた 悪魔の言葉をきくまでは そんなことも知らなかつたでせう(後略)    

山村(1989211)

さらに1941 年に太宰治が著した『誰』である主人公は学生にサタンと言われたことでサタンについて調べ始めるその結果自分がサタンではないと決断するがその後一人の病人からの手紙を契機に再び悪魔だと言われる話である

太宰がサタンについて調べている過程で蛇は以下のように登場する

彼等はそれをエホバの敵すなはちサタンと名づけた」といふのであるが簡明の説であるそろそろサタンは剛猛の霊として登場の身支度をはじめたさうして新約の時代に到つてサタンは堂々神と対立し縦横無尽に荒れ狂ふのであるサタンは新約聖書の各頁に於 6 いて次のやうな種々さまざまの名前で呼ばれてゐる二つ名のあるといふのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になつてゐるやうだがサタンは二つや三つどころではないデイアボロスベリアルベルゼブル悪鬼の首この世の君この世の神訴ふるもの試むる者悪しき者人殺虚偽の父亡す者敵大なる竜古き蛇等である

太宰(1979315)

以上のように不倫という道を選んだ者は堕落した蛇(悪魔)のように表現され『聖書』の場面や言葉を使用して蛇は悪という新しいイメージを付与されていることがわかる

325 現代(昭和 1945以降)

現代では太宰治の『斜陽』丹羽文雄の『蛇と鳩』遠藤周作の『沈黙』を取り上げるまず近代で取り上げた『誰』に引き続き太宰治が 1947 年に著した『斜陽』である終戦貴族出身の主人公かず子は徐々に生活が困窮していくある日庭に蛇の卵らしきものがあるのを知りそれを焼いたこれが契機となりかず子とその家族に不吉なことが起こり始めるボヤ騒ぎかず子の母親の死弟の直治の自殺などである最後には様々な困難を乗り越えかず子は上原という作家と結ばれるがお腹の中にいる子と二人で強く生きて行く事を決めるという話である

以下はこの一家が崩壊へと向かっていく際に蛇が登場した場面である

6 原作では「於」の旧漢字が使用されている

88

 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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100

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Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 25: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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 蛇の卵の事があってから十日ほど経ち不吉な事がつづいて起りいよいよお母さまの悲しみを深くさせそのお命を薄くさせた

太宰(197921)

さらに上原という男に手紙を書く場面でキリスト教的表現も窺がえる

 お手紙書こうかどうしようかずいぶん迷っていましたけれどもけさ鳩のごとく素直に蛇のごとく慧かれというイエスの言葉をふと思い出し奇妙に元気が出てお手紙を差し上げる事にしました直治の姉でございますお忘れかしらお忘れだったら思い出して下さい

太宰(197950)

次に1952 年に丹羽文雄が著した『蛇と鳩』である緒方は古久根という男に頼まれ新しい宗教の教祖となる男を探していた男の条件とは逞しく美しく鋭い瞳を持ち白い肌をしているというものであったある時緒方は教祖になれるであろう条件に当てはまる男を連れて戻ってきたそれに伴い新しい宗教団体である紫雲現世会は誕生し順調に信者の数を増やしていくしかし古久根が麻薬密輸で逮捕されるなどして緒方を取り巻く環境は変化していくという話だ

偶然緒方が教祖になれる要素を持つ男が女と歩いているのを目撃する場面では以下のように男について記されている

 緒方はとりにがした大きな魚のように思った残念である二人の姿はすでに見えなくなっていた古久根のさがし求めている教祖にはあつらえ向きの男ではないか逞しいからだつき白い皮膚長身鋭くて暗い感じどぎつい瞳の印象頑丈ですばらしく勇敢で嘘つきで文化も野蛮も迷信も悪魔もけろりとのんでかかる男helliphellip

丹羽(1974235)

教祖になれる要素を持つ男について蛇という語を使用し以下のように記されている

「逞しいんです色が白いのです眼が大きくて鋭いのです永い間行をしていたせいか水から上った直後のように皮膚が青白いほどに見えました一般に行をする人間は都会のマーケットなどに見かける人間とはちがってます時代ばなれのした顔をしてますがその男もそうでしたあの印象ではかなり鋭い性格です蛇のような心を持っているでしょう今までその男以上のすばらしい教祖のモデルを見たことがありません」

丹羽(1974242)

そして1966 年に遠藤周作が著した『沈黙』であるポルトガル人司祭フェレイラが棄教したという知らせを聞き弟子ロドリゴとガルペの二人はキチジローというキリスト教徒らしき日本人の協力の元日本へやってくる二人は日本のキリシタン達と共に暮らし始めたが当時弾圧が激しくキリシタンだと分かると人々は拷問にかけられたロドリゴとガルペはキチジローの度重なる裏切り行為により捕まったガルペの死や司祭フェレイラとの再会を経てロドリゴは日本で一つの選択をするという話である

蛇はロドリゴがキチジローと役人たちから逃げて共に夜を過ごした以下の場面に登場する

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Page 26: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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翌日もきびしい陽差しの中を歩きつづけました昨日の雨でまだ濡れた地面からは白い水蒸気がたちのぼり丘のむこうに雲がまぶしく光っていましたさっきから私は頭痛と咽喉の渇きにくるしんでいましたその私の苦しそうな表情に気づかぬのかキチジローは時々ゆっくりと道を横切り叢にかくれる蛇を杖で押えつけて汚い袋の中に入れ「俺たち百姓はこの長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」黄色い歯をみせうす笑いを浮べました(後略)

遠藤(1999239)

以上のように蛇は不吉な事の前触れ巧な言葉で人を騙す教祖などを描く際に使われておりもはや神道仏教的思想はみられない

32 では日本における蛇が登場する文学作品を時代順に列挙した321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土器』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を紹介した続く第 4 章で各作品について詳しく分析する

第 4 章 蛇が登場する文学作品に対する分析

本章では先の第 3 章で紹介した文学作品をそれぞれ分析する41 では西洋における文学作品42 では日本における文学作品についてである411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し西洋における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出す

また 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では

『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析し日本における蛇に対するイメージの変化の推移を文学作品に見出すそして西洋と日本の蛇に対するイメージについて比較しそれぞれの相違点や特徴を考察する

41 西洋の文学作品

上記で述べたように411 では『旧約聖書』『新約聖書』412 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』413 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』414 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』415 では『ハリーポッターと秘密の部屋』についてそれぞれ分析し蛇が作品においてどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察する

411 古代(5世紀まで)

まず『旧約聖書』である創世記第 3 章 1 節では蛇は人類の祖を誘惑した存在として描かれているが一方で神は生き物の中で最も蛇を狡猾に造ったとも記されており最初から忌まわし

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

93

いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

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Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

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Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 27: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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い存在として創造されている訳ではないことがわかるしかし13 節ではイヴが蛇によって神に反する行為を行ったと述べこれにより続く 14 節では蛇は手足を奪われ地を這う生き物となっているそしてこの表現はイザヤ書 65 章 25 節にも登場しエデンの園での蛇への罰が影響を与えている

民数記 21 章 6 節では蛇は神により民に死をもたらす存在として送られたが9 節では病の治癒として青銅の蛇となり登場し民の神への信仰心を強固なものにする存在として描かれている神は蛇の有する力を信じ蛇を特別視しているように思われ神と蛇には深い関係性が窺がえる

そして『新約聖書』のマタイ 10 章 16 節では今後の厳しい状況を切りぬけるためには蛇の狡猾さ思慮深さを持たなければならないと述べられているここでも悪魔的なイメージはみられない

しかしヨハネの黙示録 12 章 9 節ではエデンの園に登場したあの蛇が悪魔つまりサタンであったと結びつけられている

これについて竹田(2003)では以下のように述べられている

 新約聖書で蛇を直接的に悪魔サタンと表現するものはヨハネの黙示録に見られ終末における最後の審判において神によって滅ぼされる存在とみなされているそして新約聖書以降はキリスト教会で蛇すなわち悪の権化サタンの象徴と取られるようになるのであった

竹田(200383)

こうして『旧約聖書』創世記においてイヴを誘惑した蛇は『新約聖書』において明確に悪悪魔と結びつけられることとなったそして 24 でモリス(2006)が論じているようにこの思想が後の西洋文学に大きく影響を与えたことは間違いないと考える

412 中世(6世紀―15世紀)

まず『ベオウルフ』である第一部の 21 節や第二部の 32 節では ldquowyrmrdquo という語が使用されているldquowyrmrdquo は古英語で爬虫類の動物蛇竜虫を意味している(小島 20121501)そのため本作では蛇と龍に明確な区別はみられない241 でモリス(2006)が論じているように蛇と龍は同義的に使用されていることがわかる

21 節をみると城の者を食い殺したグレンデルの母の住処には多数の蛇が群がっており悪者と蛇の関係性が見出されているさらに第二部では龍はベオウルフという勇者によって退治される事からも蛇や龍は忌まわしい動物へと化しているそして退治する英雄の姿は 242 の安田(2009)が論じているようにキリスト教の普及にともないアニミズムの象徴を排除しているかのようである

次に『妖精メリュジーヌ』であるが彼女は臍から下が蛇の姿をしている蛇女である夫がメリュジーヌの正体を風呂場で見た際彼女を「しかしその下には蛇の尾がありまったく大きく恐ろしかった」と表している(クードレット 199697)このことからも人に恐怖を与えるという消極的なイメージが窺えるまた最後には彼女は蛇であることを夫から責め立てられ追いやられる運命にあるここにもアニミズムの象徴である蛇を排除しようとする動きがあると捉えることができると考える

高島(1998)によると「(前略)一方クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女でありながら悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両義的存在であり意外にもレイミアとの類似性を示している」と述べている(高島 1998137)また「(前略)これに対して

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

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Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 28: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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メリュジーヌの物語は表面はキリスト教的作品でありながらその背後に異教ケルトの残像が重なりケルト的女性像が影響している(後略)」とも述べている(高島 1998138)

ここで高島(1998)はメリュジーヌの強く逞しい女性像とケルト的な女性像を結びつけているがこのメリュジーヌにみられるケルト的な要素は女性像だけでなく蛇に対するイメージにもあてはまると考えるつまりメリュジーヌが蛇女でありながら母性を持つ女性としての側面を見せることには蛇を地母神と結びつけ母性を見出す多神教の影響があると考えるしかしキリスト教世界においてはやはり蛇は悪魔的な存在であり最終的に彼女は人間たちによって排除され姿を消さなければならなかったのだと考える

第三に『アーサー王伝説』であるが原文で使用されている ldquoadderrdquo に着目するldquoadderrdquo の定義は以下である

a small poisonous snake often with diamond- shaped marks its back Adders are the only poisonous snake in Britain

大崎(200519)

ldquoadderrdquo という毒蛇はモードレッド軍との再戦の契機をもたらす存在として登場しアーサーを瀕死の状態に追い込んでいるサタンが蛇と化し平和を迎えた戦いの場に現れ軍隊そしてアーサーに死をもたらしていると捉えることができると考える

413 近世(16世紀―18世紀)

まず『妖精の女王』であるがこの怪物つまり龍が騎士の力が弱まった際に吐きだした毒の中にうじゃうじゃと無数の小蛇がいると表現されておりスペンサー(2005)ではこの龍は「悪魔」と訳されている(スペンサー 200539)この蛇は騎士に死をもたらすために登場している事からも蛇と死というイメージが窺えるここでも蛇悪魔死という関連性があることがわかるそしてこの龍も騎士によって退治される運命にある

次に『ハムレット』であるが第 1 章の第 5 場ではハムレットの父を殺した本当の正体である叔父のクローディアを蛇と記すことでその卑劣で許し難き行為や悪魔のようなクローディアを表現していると考える妻を誘惑し王の座についた事に関しては「ずる賢さと伝説の才能をもって」と訳すことが出来『旧約聖書』におけるエデンの園の蛇を連想させるかのような表現がなされている本作においても蛇に嘘つきずる賢いというイメージが付与されていると考える

そして『失楽園』であるが本作は創世記のエデンの園をテーマにしているという事もあり蛇が人間を堕落させる場面が描かれている中でも第 9 巻 494-500 節では堕天使であるサタンが悪の一員となり蛇の中に入り込む姿や手足がまだある状態でイヴに近づこうとしている姿が記されており『旧約聖書』の世界観が大いに反映されているその一方で『新約聖書』の黙示録における蛇をサタンすなわち悪魔と直接結び付けるイメージが取り入れられていることがわかる

414 近代(19世紀―20世紀)

まず『レイミア』である高島(1998)ではレイミアについて以下のように述べ悪魔性を否定している

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

95

は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

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Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 29: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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(前略)キーツの描くレイミアは妖魔としての常套的なレイミアではなくロマン派の蛇女らしく人間化されている中世的な異教と情欲の象徴とはほど遠く魔女でも聖女でもなく血も涙もある人間の女性という面が強い中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱した近代的女性像を反映した蛇女と言える(後略)

高島(1998137)

たしかに高島(1998)が論じているようにレイミアは弱く傷つきやすい女性的な内面を持つ蛇女だと捉えることもできるしかしその一方で作中では容姿について ldquoSome demonʼs mistress or the demonʼs self rdquo(Keats J 19906)と記され蛇と悪魔の繋がりが明確に示されているまた主人公ヘルメスがはぐれてしまった恋人ニンフを探しているところにレイミアが現れ自身の願いの代わりにニンフの居場所を教えるという誘いを持ち出す場面もありまるで若者を誘惑しているように捉えることができるよってレイミアは若い男を巧みな言葉で誘惑する蛇の姿をした悪魔としても捉えることができると考える

次に『郵便局と蛇』であるが聖パトリックとはキリスト教の伝道者でありアイルランドの守護聖人である(小西他 20061424)主人公は聖パトリックによって蛇が退治されたのではないかと郵便局で尋ねており蛇が神聖な人物によって退治されたことが描かれている守護聖人を使用することでキリスト教により多神教を排除したような表現であり本作においても蛇は退治される存在として描かれていると考える

そして『ジャングルブック』であるがディズニー作品においても蛇は主人公を甘い言葉で誘惑し自らの狡猾さや悪賢さを示す生き物として描かれている親しいふりをして主人公を食す企みを遂行しようとする悪いイメージを伴っていると考える

また熟語に ldquoa snake in the grassrdquo というものがあり以下がその定義である

(disapproving) a person who pretends to be your friend but who cannot be trusted 大崎(20051632)

直訳すると「叢の中の蛇」という意味だが実際には「目に見えない敵」「偽りの友」「信用出来ない人」という意味となるモーグリに親しげに近づきあわよくば食べてしまおうと企むカーと重なる表現であると考えるそしてカーは『旧約聖書』のエデンの園における蛇を暗示する役割を担っていると考える

415 現代(21世紀)

『ハリーポッターと秘密の部屋』ではバジリスクという大蛇が登場するldquobasiliskrdquo の定義は以下のようである

(in ancient stories) a creature like a snake that can kill people by looking at them or breathing on them(バジリスクは昔の話に登場する蛇のような想像上の生き物で睨みつけたり吐く息によって人を殺すことができる)

大崎(2005127)

ハリーがバジリスクと目を合わさないように戦う様子も描かれており死をもたらす怪物として蛇が使用されていることがわかるさらにこの怪物は魔法界を支配しようとしハリーの命を狙うヴォルデモートの化身として登場しており悪と蛇を結びつけるという関係性が成立して

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

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引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

100

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Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 30: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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いると考える

以上のように西洋の作品を古代から現代まで時代順に述べてきた24 のモリス(2006)が論じているように西洋における蛇は『旧約聖書』のエデンの園の影響を大きく受け悪魔悪誘惑退治される者などのイメージと深く結びついているそしてこの概念が 411 から 415の文学作品においても如実に現れていることがわかったこれにより時代を超えて西洋の蛇に対するイメージは消極的な傾向にあると考える

42 日本における文学作品

421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』

『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424 では『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析するそして作品において蛇がどのような役割を課されイメージが付与されているのかを考察するまた西洋の作品から見出した蛇に対するイメージの変化の推移を日本のそれと比較しそれぞれの相違点や特徴について論じる

421 古代(平安まで)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇の[八]新羅との紛争蝦夷の反逆である殺された夫婦が執念で大蛇となり蝦夷の軍を壊滅状態にまで陥れた様子が描かれている

これについて笹間(1991)では以下のように述べ美談的話として扱っている

同じ大蛇でもこれは人を恐れさせたり危害を加える毒蛇でなく蝦夷征討の目的を果すこと出来ずに死んだ田道の怨念が大蛇に変じて蝦夷を滅すというつまり死してまでその任務を遂行したという美談的話であろう

笹間(199175)

しかし蝦夷軍を壊滅にまで追いやっている点には蛇に付与された執念や復讐の念が表されているため強い仏教的思想が根付いていると考える

次に『日本霊異記』の中巻第三十八 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁である笹間(1991)では金銭と仏教的思想について以下のように述べている

人が吝嗇をして物や金を貯めると他人に与えるのが吝しくなる死んだらそれを他人が濡れ手で粟と勝手に費ってしまうのであろうと執念が凝るそうした執念は必ず蛇となって残ると説くのは仏教である(後略)

笹間(199160)

笹間(1991)が論じているように金に執着した僧が蛇と化しそれを弟子が仏の力で救うという典型的な仏教的思想がみられる

さらに『今昔物語』の巻第十四の三 道成寺の僧法華経を写して蛇を救うことである男に裏切られ悲しんだ女が蛇と化し復讐するが最後には法華経の力で供養されている29 の西郷

(2008)や笹間(1991)が論じているようにここでも執念が女を蛇と化しさらには仏教によっ

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

98

る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

100

笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 31: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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て蛇となった者が救われているまた小峰(2003)が論じているように蛇は畏れ敬う神ではなく忌まわしい動物として描かれており仏教的思想が強い作品である

仏教の力が増してきた一方で蛇を神として捉える神道的思想も残っているまず『古事記』上巻の須佐之男命が八俣大蛇を退治する話である吉野(1989)ではヲロチとは嶺の霊を意味し山々の連なりを暗示する「山脈の王」ということになり古代日本人は蜒々とつづく山脈に巨大な蛇を連想し山々の連なりに祖神の姿を感得したのだと述べている(吉野 198945)

しかし笹間(1991)では日本には大蛇がいないため外国の英雄伝説処女要求伝説といったものが流入されて日本的に形成されたとし蛇が祀られる存在ではないと述べている(笹間199184)

たしかに西洋の概念と共通する要素が見られるが『古事記』が成立した 8 世紀初頭以前の日本の状況と情勢を考えるとやはり神道の影響と考える方が自然である『古事記』には他にも蛇が神聖視されている記述が多々あるため神道的な発想が強く表れていると考える

さらに『日本書紀』の巻第五 崇神天皇の[三]四道将軍と武埴安彦の反逆三輪山伝説だが国造りの神として知られる大国主神の正体が蛇であり三輪山に昇っていく姿が描かれている谷川(2012104)や笹間(2008123)が論じているように三輪山の神が蛇であることがわかるさらには 261 の山を蛇に見立てたという吉野(1979)の指摘とも合致しているよって本作も神道的発想であるといえる

そして『常陸国風土記』の〔六〕行方の郡では蛇は田に住む神として登場している261 で述べた蛇を田の神として崇めたという吉野(1979)の指摘とも合致しており蛇が神として捉えられていたことがわかる

422 中世(鎌倉―室町)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『古今著聞集』の巻二十 魚虫禽獣 健保の比北小路堀河辺の女熱湯を注ぎて蛇を殺し祟に依りて死する事では殺された蛇が女に復讐する様子が描かれている神聖な蛇を殺すことに対しての戒めと捉えることも出来るが自身が燃やされたことに対して怒り女を殺すという復讐の意味がより強調されている事から仏教の影響を受けたものだと考える

また巻第四ノ五 五七 石橋下蛇事は蛇の身に生れ変わっていたが経を聞き人間に生まれ変わる功徳を得た話である人を恨んだことで蛇身になるという思想は29 の西郷(2008)が論じているように仏教的思想であるさらに仏法により人間に生まれ変わるのが近くなっているとの記述があることからも仏の力を強調していると考える

一方で神道的思想についてであるまず『太平記』の巻第十五 弥勒歌の事 竜宮城鐘の事である俵藤太秀郷が蛇に頼まれムカデを退治するとお礼に財宝や衣装などをもらえたという話だ笹間(2008180)では話の誕生の背景について谷川(201247)では藤太の名前の由来や百足と金属の関係性について考察されているしかし本稿では蛇神思想に注目する蛇がお礼として財宝を手渡したが蛇が財宝つまりは福をもたらすという神道的思想と繋がっていると捉えることもできるこれには蛇が神として大切にされていたという背景が窺え神道的思想を受け継ぐ作品であると考える

次に『宇治拾遺物語』の巻第六の五 観音蛇に化す事である助けを求めた男に対して観音様が大蛇としてやって来て助けるという話だが蛇神という神道的思想と観音という仏によって救われるという仏教的思想が混合する作品であると考える

さらに『徒然草』の第四巻 第二百七段 亀山殿建てらんとてでは地主の神として蛇が登場しているその蛇を人間が皇居を建てるために排除するという動きがこの作品から窺えるこれ

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 32: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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は地主としての蛇を敬うという神道的思想が時代の流れによって人為的に崩されようとする動きを表していると考える

423 近世(安土桃山―江戸)

はじめに仏教の影響を受けた作品についてであるまず『片仮名本因果物語』である上の十 罪無くして殺さるる物怨霊と成る事では罪もなく殺された下人が復讐心で大蛇となり相手の一族を滅ぼす為に次々と子供を殺していく話であるこれも 29 の笹間(1991)が論じているように蛇と化して復讐をするという仏教的思想が窺える作品であると考える

次に『善悪報ばなし』十四 女愛執により蛇となる事では思いが伝わらなかった女が死後蛇と化し執念で男と結ばれようとする姿が描かれている死後蛇となっても願いを叶えようとする執念に仏教的思想の影響が窺がえると考える

さらに『雨月物語』巻之四 蛇性の婬である笹間(1991)によると雨月物語と蛇について以下のように述べている

蛇性の婬の話はすべて男性が若くて美男でなければならず男性が理性を失って迷うのも美女であるから蛇は必ず美女に化けることになっているつまり若い美男美女が蛇のごとく執拗に性に溺れ絡み合い睦み合うところに妖しい雰囲気があり蛇の性に見立てられて妖艶にして恐ろしい話が組み立てられていったものであろう

笹間(1991187)

蛇と性については 21 の吉野(1979)も論じているが蛇は古来より容姿から性を連想させその象徴となってきたそして29 の笹間(1991)が論じているように仏教の影響により女の執念が蛇と化している本作はこれらの概念が発展し恐ろしい話になったものであり和尚による供養が描かれていることからも仏教的思想が強い作品である

一方で神道的思想についてであるまず『義残後覚』の巻三の四 大蛇淵をさる事である淵に住みついていた蛇つまり土地の神である蛇が人為的な土地開発によって住処を奪われる姿が描かれているこれには土地の神を蛇とする神道的思想が窺えるしかし人為的な土地開発により蛇の居場所が無くなるという点に神道的思想が次第に失われていく様子と人々の生活様式の変化が描かれていると考える

次に『善悪報ばなし』の巻三の四 蛇女をおかす事である蛇との交わりや山に戻っていくといった神道的思想が描かれているしかし一方で妻を奪われた夫が慈悲を持って蛇の行為を見逃しむやみに命を害する事は良くないという教えも描かれている神道と仏教の思想が融合された作品として捉えることができると考える

さらに『耳袋』である卷之二 蛇を養ひし人の事だがこれは神として祀られていた蛇を大切に育てるという点に神道的思想が窺えるさらに本作の最後で蛇が台風の日に空へ昇っていくという姿に水や天候を操っていたとされる蛇神を連想させるため神道的思想が強い作品だと考える

424 近代(明治―昭和 1945)

まず『婦系図』であるここに登場する「禁斷の智慧の果實」「神の試み」「惡魔の眷屬」という語はキリスト教を連想させる不倫は神が与えた試練でありその誘惑に耐えられず不倫の道を選んだ者は悪魔の従属者となり恐ろしい蛇のような存在になると解釈できるこれまで

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

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の日本の神道や仏教思想にはない概念が明治以降登場し始めることがわかる次に『荘厳なる苦悩者の頌栄』であるここではエデンの園で悪魔が蛇となり現れ言葉を

ささやいた場面が描かれている山村は悪魔が人類にこの行為を行ったことで神が人類に与えなかった自由というものを知る契機になったとし悪魔を肯定的に捉えているキリスト教の源ともいえる創世記を用い独自の概念を見出しているさらにはただキリスト教思想を享受するだけではなく独自の発想で悪魔を捉えていることからもまだ日本人に馴染みの少なかったキリスト教思想を自己流に解釈していると考える

そして『誰』であるが本作ではキリスト教のサタンについて調べた場面もあり『新約聖書』のヨハネの黙示録における文言と同様に蛇が登場しているそしてそこには神道的思想や仏教的思想を窺うことは出来ない学生から自身をサタンに例えられそれに反対しつつも最後には見舞い先の女から悪魔だといわれる事に関しては人間だれしも気づかないうちに人を傷つけることから皆心の中に悪魔のような心を持っているという太宰自身の人間に対する考え方が反映されていると考える

425 現代(昭和 1945以降)

まず『斜陽』である本作での蛇はエデンの園に登場した悪魔が蛇となりかず子に迫っているのだと考えるなぜならば蛇の卵を焼いてからかず子自身がボヤ騒ぎを起こしかけたり母の死が近づいたりする等不吉な事が続いたからであるまた別の箇所では『新約聖書』マタイ 10 章の「へびのように賢くはとのように素直であれ」という文言を踏まえた引用がなされていることからも太宰がキリスト教思想を本作に取り入れたのは間違いない

次に『蛇と鳩』である教祖になれる要素を持つ男について嘘つきや悪魔という言葉を使って表現しているさらに蛇のような心を持っていると述べていることからもエデンの園における蛇つまりアダムとイヴを巧みな言葉で騙して知恵の実を食べさせた姿と新しい宗教団体の教祖として上手い言葉で信者を信じ込ませる事のできる人柄が重ね合わされているのだと考えるこれらのことから本作での蛇は人間を騙す悪いイメージを持った存在として登場しているといえる

そして『沈黙』である蛇は叢の中から出てきてキチジローに捕まえられるという形で登場しキチジローは「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」という言葉を残している兼子(2006)によると「しかしここに必ずしも蛇が出てくる必要性はないだから蛇を捕獲することに熱心であるという描写はキチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから」と述べている(兼子 200651)

しかしこの蛇をめぐる描写は414 で述べた ldquoa snake in the grassrdquo という熟語を象徴していると考えるつまり叢の中から長虫と呼ぶ蛇を捕らえ袋の中に入れる行為はキチジローが裏切り者である自分をロドリゴに隠そうとする表現だと考える当初は隠れキリシタンとしてロドリゴを案内するキチジローであるが叢の中の蛇を自分の袋に入れるこれは裏切り者の自分自身を隠す行為でありキリスト教徒から背信者へと変化する予兆そのものであるなぜならばキチジローの先の言葉の後「黄色い歯をみせうす笑いを浮かべました」遠藤(1999239)という表現があることからも企みを抱いているかのように捉えることができるからだ

以上日本文学作品を古代から現代に至るまで先行研究に新しい作品を加えながら分析したたしかに 29 で論じられているように仏教の影響で蛇は執念や復讐などといったイメージを付与されて忌まわしい存在へと化している

97

しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 34: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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しかし決して蛇を神とする神道的な概念は消滅しておらず文学作品にいくつも登場しているその一方で人間によって蛇たちの住処が奪われていく様子や神仏習合も窺え時代と共に変化していく当時の人々の生活の様子や価値観の変容を垣間見ることもできた

そして明治以降キリスト教の影響も窺えるようになり悪魔嘘つき誘惑裏切りといった今までの日本文学では登場しなかった表現や価値観が現れ始めたことがわかった

しかし完全に西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考えるつまり宗教と同様に様々な概念や思想を日本的な形にして導入しているといえるそして日本における蛇に対するイメージはかつての神道仏教にキリスト教が加わりより一層複雑となったと考える

第 4 章の 421 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』『常陸国風土記』422 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』423 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』424『婦系図』『荘厳なる苦悩者の頌栄』『誰』425 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』についてそれぞれ分析した

日本の蛇に対するイメージは神道仏教キリスト教の影響により神の化身福をもたらす存在などの神道的イメージがある一方で復讐や執念といった仏教的イメージもあるそして明治以降にはこれに加え悪魔嘘つき誘惑裏切りといったキリスト教的な新しいイメージが登場しているしかし西洋の蛇の概念を輸入した訳ではなく人間の内面や本質を描き出したり蛇という語を使用して隠喩表現にするなど日本的なものに置き換えて用いていると考える

このように文学作品における日本の蛇に対するイメージは西洋に比べ様々な宗教の概念を吸収しつつ自国の文化に合うよう変化していると考える

第 5 章 結論

51 本稿の構成

本稿は第 1 章から第 5 章で構成した第 1 章序論の 12 では本稿を書くに至った動機13 では主張14 では研究の手法15 では各章の構成について述べ文学作品を用いて日本の蛇に対するイメージの変化の推移を考察する旨を述べた

続く第 2 章では先行研究を多角的に取り上げた21 では蛇が信仰の対象となった理由22では古代エジプト古代メソポタミア古代ギリシアを例に世界の原始蛇信仰23 では一神教と多神教の誕生の背景24 ではキリスト教世界における蛇のイメージと浸透25 ではインドと中国を例に東洋における蛇信仰26 では日本の蛇信仰と自然観27 では古代から昭和までの日本宗教の歴史28 ではキリスト教文学29 では文学作品への仏教の影響210 では先行研究のまとめについて述べた

第 3 章では第 2 章で取り上げた先行研究と新たに加えた文学作品を元に西洋と日本における文学作品を時代ごとに並べ両者を比較したまず西洋についてである311 では『旧約聖書』

『新約聖書』312 では『ベオウルフ』『妖精メリュジーヌ』『アーサー王物語』313 では『妖精の女王』『ハムレット』『失楽園』314 では『レイミア』『郵便局と蛇』『ジャングルブック』315 では『ハリーポッターと秘密の部屋』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した次に日本についてである321 では『日本書紀』『日本霊異記』『今昔物語』『古事記』

『常陸国風土記』322 では『古今著聞集』『宇治拾遺物語』『太平記』『徒然草』323 では『片仮名本因果物語』『善悪報ばなし』『雨月物語』『義残後覚』『耳袋』324 では『婦系図』『荘厳な

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 35: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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る苦悩者の頌栄』『誰』325 では『斜陽』『蛇と鳩』『沈黙』を取り上げあらすじと蛇が登場する主な場面を紹介した

第 4 章では第 3 章のデータの各作品を分析し西洋と日本における蛇に対するイメージの変化を考察したそれにより西洋では退治される存在悪魔の化身裏切り誘惑などの消極的なイメージが蛇に付与されていることがわかりこの概念が古代から現代にかけて一貫している傾向が強い一方日本は神神の化身福のシンボルとしての神道的イメージと執念や復讐心を持つ忌まわしい動物としてのイメージさらには裏切りや誘惑といったキリスト教思想を取り入れ人間の内面や本質を描いていることがわかったまた西洋とは異なり時代と共にイメージが大きく変化していることがわかった

そして本章では以上のことを踏まえて結論と今後の課題について述べる

52 結論

本稿の目的は「西洋と日本の蛇に対するイメージの変化を文学作品という視点から考察すること」であった27 のエアハート(1994)が論じているように日本は神道仏教キリスト教など様々な宗教に影響を受けつつ現在に至っている歴史とともにある文学作品には271 の阿蘇谷(1994)や阿達(1997)が論じているような当時の思想や信仰が反映されており文学作品に登場する蛇を分析することで蛇に対するイメージの変遷が分析できるのではないかと考えたからである

考察の結果導き出されたことは「近現代までの日本文学における蛇に対するイメージは仏教の影響を大きく受け執念や復讐といったマイナスのイメージが付与されたが一方で神として蛇を捉える神道的思想を根強く残していた明治以降にはキリスト教の影響で悪魔や裏切りといった新しいイメージが付与された」ということだ

まず西洋の文学作品についてである24 のモリス(2006)や笹間(1991)が論じているように西洋では蛇は悪魔の化身邪悪他者を誘惑する等といったイメージが多かったまた多神教のシンボルとして退治排除される傾向が強くそれが一貫して今日まで続いていた

次に日本の文学作品についてである『古事記』『日本書紀』などの作品では日本古来の神道思想に基づき蛇が神とされる記述が主であったが29 の西郷(2008)小峯(2003)笹間(1991)が論じているように仏教思想の影響によって蛇は忌まわしい動物となり執念や復讐といったイメージが多くみられたそしてこの影響は中世以降の文学作品で顕著に表れていたしかしその一方で262 の吉田(2012)が論じているような古代からのアニミズムの世界観を受け継ぎ蛇を神とする神道的思想も消滅することなく時代を超えて根強く残っていたことがわかった明治以降ではキリスト教による影響を受け日本においても蛇は新しい悪魔的な発想を付与された27 のエアハート(1994)が論じているように日本は様々な宗教に大きく影響を受けつつ独自の宗教観を築いてきたが蛇という視点から考察してもその変化がみられた

ただしキリスト教の蛇に対するイメージをそのまま受容するのではなくその思想を利用して隠喩や人間の本質などを表現する際に蛇を登場させる等また新しい一つの表現方法として蛇のイメージが利用されているのだと考える28 の久保田(1989)が論じているようにキリスト教文学が日本文学を豊かにしていることは間違いない

一神教である西洋に比べ多神教である日本では古代から続く神道に加え仏教キリスト教の思想を寛容に受け入れそれらの要素が完全に消滅することなく続いているために蛇に対するイメージも変化し続け複雑となっているのだと考える

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

Milton John 1968 PARADISE LOST Edited by Christopher Ricks PENGUIN EPICS

Keats John 1990 Lamia Woodstock Books

Thomas Nelson Sons 1952 THE HOLY BIBLE containing the old and new testaments NEW YORK

Malory Thomas 1969 King Arthurʼs Last Battle PENGUIN EPICS

Disney Walt 1986 Jungle Book Gallery Books

Shakespeare William 2008 Hamlet Prince of Denmark Rivingtons

Page 36: 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化¥n─他 宗教からの ... · 2019-10-22 · 以上の2 点から蛇に対するイメージや蛇が登場する文学作品に関心を持つようになった。

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53 課題と今後の展望

本稿で取り上げた作品は代表的なものであり限界があるそのため正確な変化の過程について考察することが困難であったが先行研究と新しいデータにより導きだした結論であるまた明治以降は主にキリスト教に関わりのある文学に絞って考察してきたが明治以降も神道や仏教の思想を含む作品も多数世に送り出されてきたことは否めないそこで今後はまだ先行研究で取り扱われていない蛇が登場する文学作品を取り上げる事と明治以降のキリスト教文学以外の作品の研究が行われる事を課題とする

参考文献アジア民族造形文化研究所(編)1992『アジアの龍蛇―造形と象徴 <アジア民造研叢書 3 >』雄山閣出版株式会社阿達永堂 1997『教養講座 日本宗教史』日本図書刊行会稲田篤信(編)2009『雨月物語精読』勉誠出版木村重信「先史古代美術で表象される動物」奥野卓司秋篠宮文仁 2009『ヒトと動物の関係学第 1 巻 動物観と表象』岩波書店安蘇谷正彦 1994『神道とはなにか』ぺりかん社菅英志 1977『怪奇幻想の文学Ⅵ 啓示と奇蹟』新人物往来社小峯和明(編)2003『今昔物語集を学ぶ人のために』世界思想笹間良彦 2008『図説龍とドラゴンの世界』遊子館西脇隆夫大林太良矢島文夫飯豊道男(著)小島瓔禮(編)1991『蛇をめぐる民族自然誌 蛇の宇宙誌』東京美術堤邦彦 2006『女人蛇体 偏愛の江戸会談史』角川業書三橋健 2010『決定版知れば知るほど面白い神道の本』西東社嶺重淑 2011『キリスト教入門 歴史人物文学』日本キリスト教団出版局安田喜憲 1999『東西文明の風土』朝倉書店安森敏隆 吉海直人 杉野徹(編)2002『キリスト教文学を学ぶ人のために』世界思想社吉野裕子 1989『山の神 易五行と日本の原始蛇信仰』人文書院吉野裕子 2007『吉野裕子全集 5 日本人の死生観』人文書院渡辺誠 1989『スネークドリーム 蛇精の肖像』北宗社HBエアハート(著)岡田重精 新田均(訳)1994『日本宗教の世界 一つの聖なる道』朱鷺書房R D モリス(著)藤野邦夫 2006『人間とヘビ かくも深き不思議な関係』平凡社

引用文献泉鏡花 1965『日本現代文學全集 12 泉鏡花集』講談社植垣節也(校注訳)1997『風土記 新編日本古典文学全集 5』小学館エドマンドスペンサー(著)和田勇一 福田昇八(訳)2005『妖精の女王Ⅰ』筑摩書房遠藤周作 1999『遠藤周作文学全集 第二巻 長編小説Ⅱ』新潮社大崎さつき 2005『オックスフォード現代英英辞典[第 7 版]―OALD 活用ガイド』旺文社苅部恒徳 小山良一(編)2007『古英語叙事詩 『ベーオウルフ』対訳版』研究社久保田暁一 1989『近代日本文学とキリスト者作家』和泉書院クードレット(著)松村剛(訳)1996『メリュジーヌ物語』青土社国際ギデオン教会 1972『我らの主救主イエスキリストの新約聖書』日本聖書協会小林智昭 小林保治 増古和子(校注訳)昭和 59『完訳日本の古典 第四十巻 宇治拾遺物語(一)』小学館小島謙一 2012『古英語辞典』大学書林小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1994『日本書紀①<全三冊>新編日本古典文学全集 2』小学館小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守(校注訳)1996『日本書紀②<全三冊>新編日本古典文学全集 3』小学館小西友七 南出康世(編)2006『ジーニアス英和辞典 第 4 版』大修館書店西郷信綱 2008『平凡社ライブラリー 640 古代人と死 大地葬り魂王権』平凡社

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

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笹間良彦 1991『蛇物語その神秘と伝説』第一書房新改訳協聖書刊行会 1970『聖書 新改訳』いのちのことば社高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(上)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(中)[全 3 冊]』岩波書店高田衛(編校注)1989『江戸怪談集(下)[全 3 冊]』岩波書店太宰治 1979『斜陽人間失格<新潮現代文学 20 >』新潮社中田祝夫(校注訳)1995『日本霊異記 新編日本古典文学全集 10』小学館中村幸彦 中野三敏(校注訳)昭和 53『甲子夜話 6[全 6 巻]』平凡社西尾光一 小林保治(校注訳)昭和 61『古今著聞集 下』新潮社丹羽文雄 1974『昭和国民文学全集 21』筑摩書房根岸寺信(著)柳田國男 尾崎恆雄(校訂)1949『耳袋 上巻』岩波書店長谷川端 1996『太平記②<全四冊>新編日本古典文学全集 55』小学館長谷川強(校注訳)1991『耳嚢(下)』岩波書店馬淵和夫 国東文麿(校注訳)2008『日本の古典をよむ⑫今昔物語集』小学館三木紀人 1982『徒然草(四)』講談社三木紀人 浅見和彦 中村義雄 小内一明(校注訳)1990『宇治拾遺物語 古本説話集 新日本古典文学大系 42』岩波書店安田喜憲 1994『蛇と十字架東西の風土と宗教』人文書院山口佳紀 神野志隆光(校注訳)1997『古事記 新編日本古典文学全集1』小学館山村暮鳥 1989『山村暮鳥全集第一巻』筑摩書房吉田敦彦 2012『図説 地図とあらすじでわかる古事記と日本の神々』青春出版社吉野裕子 1979『蛇 日本の蛇信仰』法政大学出版局Coudrette1993 Le Roman de Meacutelusine Flammarion

Spenser Edmund1867 Spenser Book 1 of The faery queene ed by GW Kitchin Clarendon Press

Rowling JK 1998 Harry Potter and the Chamber of Secrets BLOOMSBURY

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