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狭山池改修の歴史 日本最古のため池-狭山池見学報告 物質動態工学研究室 4年 博涵 狭山池の現在 狭山池の誕生 飛鳥時代の616年ごろに造られた最初の堤。高さ5.4m、 底幅27mであり、長さは推定300mである。盛り土には、カ シなどの枝を敷き詰めて土を盛る。この作業を繰り返す敷 葉工法が使われた。さらに盛土作業に土嚢工法も使われた。 行基の改修 奈良時代の731年に行基が改修した。堤は60cmほどかさ 上げられ、高さは6mになった。堤の長さや底幅に変化はな い。盛り土には敷葉工法が使われた。 天平宝字の改修 奈良時代の762年、律令国家が改修した。堤は3.5m高く なった。底幅は池の内側に27m広がり、同時に東樋も延長 され、長さ310m、高さ9.5m、底幅54mである。盛り土に は敷葉工法が使われた。 鎌倉~室町時代の改修① 1202年に重源が改修した。石棺で樋管をつくり、中樋を 改修した。堤は高さ10.2m、底幅54mであり、長さは推定 310mである。 鎌倉~室町時代の改修② 室町時代の享徳の改修(1452年)と同じく室町時代1500 年代前半の安見美作守の改修が記録され、いずれとも堤体 の高さが11.3m、幅60mであり、長さは推定310mである。 慶長の改修 江戸時代の初め、1608年に片桐且元が改修し、東樋、中 樋、西樋、木製枠工を作った。堤は西側に伸びて、長さは 推定600mになった。池の内側の斜面に盛り土され、底幅に 変化はなく60mである。 江戸時代の改修 江戸時代、慶長の改修以後、数多くの改修が記録されて いる。大規模な改修に、元和の改修、元禄の改修、安政の 改修があり、高さ13.8m、底幅60mになった。堤の長さは 変わらず、推定600mである。 下流域の都市化の影響で、水田やため池のところが近年 次々と宅地や道路に姿を変えていった。その結果、それま での大地が持つ貯水能力が低下し、度々水害が起こるよう になった。そこで大阪府により池の歴史が始まって以来最大 規模の改修工事が行われた。それまで主に灌漑用のため 池として利用されていた狭山池が、洪水を調節する機能を 持った治水ダムに生まれ変わった。池の周辺に博物館と公 園も作られ、昔から伝わられた狭山池は、新たな機能で140 0年の歴史と文化を次の時代へと伝えていく。

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狭山池改修の歴史

日本最古のため池-狭山池見学報告物質動態工学研究室

4年 王 博涵

狭山池の現在

狭山池の誕生飛鳥時代の616年ごろに造られた最初の堤。高さ5.4m、

底幅27mであり、長さは推定300mである。盛り土には、カシなどの枝を敷き詰めて土を盛る。この作業を繰り返す敷葉工法が使われた。さらに盛土作業に土嚢工法も使われた。

行基の改修奈良時代の731年に行基が改修した。堤は60cmほどかさ

上げられ、高さは6mになった。堤の長さや底幅に変化はない。盛り土には敷葉工法が使われた。

天平宝字の改修奈良時代の762年、律令国家が改修した。堤は3.5m高く

なった。底幅は池の内側に27m広がり、同時に東樋も延長され、長さ310m、高さ9.5m、底幅54mである。盛り土には敷葉工法が使われた。

鎌倉~室町時代の改修①1202年に重源が改修した。石棺で樋管をつくり、中樋を

改修した。堤は高さ10.2m、底幅54mであり、長さは推定310mである。

鎌倉~室町時代の改修②室町時代の享徳の改修(1452年)と同じく室町時代1500

年代前半の安見美作守の改修が記録され、いずれとも堤体の高さが11.3m、幅60mであり、長さは推定310mである。

慶長の改修江戸時代の初め、1608年に片桐且元が改修し、東樋、中

樋、西樋、木製枠工を作った。堤は西側に伸びて、長さは推定600mになった。池の内側の斜面に盛り土され、底幅に変化はなく60mである。

江戸時代の改修江戸時代、慶長の改修以後、数多くの改修が記録されて

いる。大規模な改修に、元和の改修、元禄の改修、安政の改修があり、高さ13.8m、底幅60mになった。堤の長さは変わらず、推定600mである。

下流域の都市化の影響で、水田やため池のところが近年次々と宅地や道路に姿を変えていった。その結果、それまでの大地が持つ貯水能力が低下し、度々水害が起こるようになった。そこで大阪府により池の歴史が始まって以来最大規模の改修工事が行われた。それまで主に灌漑用のため池として利用されていた狭山池が、洪水を調節する機能を持った治水ダムに生まれ変わった。池の周辺に博物館と公園も作られ、昔から伝わられた狭山池は、新たな機能で1400年の歴史と文化を次の時代へと伝えていく。

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○狭山池とは大阪にある日本で最古のため池のひとつであり、616年に最初の堤体が築造され、その

後何度も改修され、複雑な多層構造になっている。築造された当初は80万m3の水を貯水するため池であった。現在は280万m3の水が貯水可能であり、治水ダムとしての役割を担っている。

○今回学んだこと水を溜めるために必要な地盤の締固めや、漏水せず土圧に耐えられる樋を作る技術など

は昔から存在し、その技術が農民の生活を支えた。ため池施工の技術は時代を追うごとに進歩し、昔の技術が現代の技術に繋がっていることがわかった。

図1 尺八樋

○尺八樋の登場溜まった水は、上部が暖かく下部が冷たい。冷たい水より暖かい水の方が農業に適しているため、上部の水を取水するために登場したのが「尺八樋」である(図1)。慶長の改修で設置された尺八樋は、堤体下に埋め込まれた伏樋と尺八樋と立樋があり、高さの異なる位置に4つの取水部が設置されていた。この尺八樋により、暖かい水を供給できるだけでなく、ため池底部の水も取水できるようになり、「捨て水」の減少に繋がった(図2)。この仕組みは、現代ではパイプを用いた底樋と斜樋として技術が継承されている(図3)。

図3 現代の斜樋図2 尺八樋の利点

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・大阪狭山池の歴史狭山池は、6世紀の初めごろに誕生した日本最古とされるダム式のため池である。1400年の歴史の中で、積み重ねられた築堤技術、水を取り出す樋、敷葉工法や木製枠工などの技術が存在し、各時代における知恵や工夫が土木遺産として継承され、現代の技術にも反映されている。

・敷葉工法狭山池を構築する際に用いられた技術であり、731年に行基が改修を行ったときにも使われた。小枝を敷きならべては土を積むことで、盛土のすべりと崩れを防ぐ。これは現在の土の間に布などを挟む技術に精通している。

・木製枠工堤に沿って、丸太を打ちこみ、横木でつないで枠組みにする。この中に土を入れ、斜面には横木と平行に細い竹を敷きならべ、最後に角杭を打ち込み押さえる技術。堤の地すべりを防ぐ技術であり、現在の補強土工法にもつながっている。

・尺八樋慶長の改修で片桐且元が初めて作った樋の形式である。水の高さに合わせて温度の高い上の水から取水できるように樋の開け閉めができる方法である。現在のダムにも斜樋と底樋の組み合わせとして利用されている。

図1 敷葉工法模式図

図2 木製枠工

図3 尺八樋

敷葉層

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1400年続く「狭山池」の技術の歩み物質動態工学研究室

3年 廣山 康平

○現代まで続く技術狭山池は誕生してから現在に至る

まで過去14回もの改修が行われてきた。始めの木製の樋から石棺を採用し、さらには樋に代えてコンクリートによる取水塔と副池が築造された。よって時代を追うごとに技術が進化し、それによって貯水量も増加していった。今回、時代を遡って技術の進歩を見ることができた。狭山池は地域の暮らしと密接に関わっているだけでなく、日本最古から受け継がれてきた土木技術が集約したところであると感じた。これからもこの地で豊かな水と地域の安全を守っていくと思う。

図1 底樋上下部

〇狭山池の取水施設狭山池は飛鳥時代から築造されている

日本最古のため池である。図1は上部のフタと下部の木製水路で構成された底樋である。この底樋は当時の軍船の技術を用いた釘によって木組みを固定している。図2では616年に作られた最も古い底樋の繋ぎ方であり、これによって止水を確保している。これらの構造によって水密性が保たれ、堤体内に水が漏れて破壊することを防いでいる。底樋は現代で木製ではなく、コンクリート構造、ダクタイル鋳鉄管として利用されている。また古代の取水部は図3より男柱と呼ば

れる木製の柱を持ち上げることでゲートの開閉をしていた。これは現代の電力とは違い、人力で行われていたことがわかる。

図2 底樋下部の繋ぎ方

下部

上部

図3 東樋取水部