preventing deflation: lessons from japan's experience

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Preventing Deflation: Lessons from Japan’s Experience in the 1990s FRB Staff 1 序論および要約 2001 年初頭から、U.S. フェデラルファンド金利は 475 ベーシスポイントも切り下げられ、この約 40 年間 で最も低いわずか 1.75 パーセントとなった。恐らくは更なる総需要への負の衝撃により一層の大規模な金融 の緩和が必要とされ、名目金利のゼロ下限に金融政策が制約されるのではないか、との懸念が生じた。このよ うな環境において、連邦準備は景気回復を支持するために何を行い得るのかについて議論がなされた * 1 この文脈において、多くの者は必然的に、現在の米国の状況と、1990 年代半ばの、日本銀行が金利を非常に 低い水準にまで切り下げ、経済が結局は長引くデフレ不況へと落ち込む瀬戸際にあった日本とを関連づけてい る。1990 年始めの資産価格バブルの崩壊以降、日本の成長は 1990 年代の前半に着実に悪化し続け、その半ば で短い回復を見せたが、以降は概して低迷したままだ。消費者物価の上昇率は経済の落ち込みにあわせ、1995 年にはゼロを下回った。それに応じて、日本の短期金利は 1995 年末にはほぼゼロにまで切り下げられ、それ 以降ゼロ近傍にとどまっている。しかしながら、価格の下落に伴い実質金利はプラスのままであり、成長を抑 制している。 日本の経験を分析することは、米国やその他の国の政策立案者たちが、将来のある時点で直面する可能性の ある多くの疑問にヒントを与えてくれるかもしれない * 2 。経済がいつ継続的なデフレに落ち込むかを認識する ことは可能だろうか?インフレ率の急激な落ち込みに対して、金融政策はどのくらい素早く対応できるだろう か?金利がゼロに近付くとき、金融政策の波及メカニズムを阻害するような要因は存在するだろうか?デフレ の症状の出現を防ぐために財政政策ができることはなんだろうか? 本稿では、日本の経験が、これらの疑問に対しどの程度予備的な解答を与え得るか、を評価する。我々の調 査は、株式市場が頂点をうち資産価格バブルが崩壊した 1980 年代末から、インフレ率がマイナスの領域へ落 ち込み政策金利が基本的にゼロにまで切り下げられた 1990 年代半ばまでの期間に焦点をあてる。第 2 節では 日本がデフレーションに陥った歴史的背景について述べる。第 3 節では日本のデフレーションがどの程度前 もって予測されていたかについて取り組む。この問題は、経済活動と価格上昇圧力の低下が一時的なものな のか、あるいはより継続するものなのか、どちらと予想されるかに金融政策の適切な姿勢が依存しているた め、重要である。第 4 節では、デフレーションが深化している時期の日本の金融政策の実績について検討す る。我々は、日本銀行の金融政策の戦略の適切性と共に、金融政策の波及メカニズムを阻害しかたも知れない * 1 とりわけ、Clouse, Henderson, Orphanides, Small and Tinsley (2000) は、米国の短期名目金利がゼロ下限に直面するであろ う環境において、連邦準備が総需要を刺激するにあたり取り得る政策的措置の範囲について分析している。 * 2 Browne (2001) は、1990 年代の日本の経験から米国の政策立案者たちが引き出し得る教訓を検討している。Mikitani and Posen (2000) および Makin (2001) も参照のこと。 1

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Preventing Deflation: Lessons from Japan’s Experience in the

1990s

FRB Staff

1 序論および要約2001年初頭から、U.S. フェデラルファンド金利は 475ベーシスポイントも切り下げられ、この約 40年間で最も低いわずか 1.75パーセントとなった。恐らくは更なる総需要への負の衝撃により一層の大規模な金融の緩和が必要とされ、名目金利のゼロ下限に金融政策が制約されるのではないか、との懸念が生じた。このような環境において、連邦準備は景気回復を支持するために何を行い得るのかについて議論がなされた*1。この文脈において、多くの者は必然的に、現在の米国の状況と、1990年代半ばの、日本銀行が金利を非常に低い水準にまで切り下げ、経済が結局は長引くデフレ不況へと落ち込む瀬戸際にあった日本とを関連づけている。1990年始めの資産価格バブルの崩壊以降、日本の成長は 1990年代の前半に着実に悪化し続け、その半ばで短い回復を見せたが、以降は概して低迷したままだ。消費者物価の上昇率は経済の落ち込みにあわせ、1995

年にはゼロを下回った。それに応じて、日本の短期金利は 1995年末にはほぼゼロにまで切り下げられ、それ以降ゼロ近傍にとどまっている。しかしながら、価格の下落に伴い実質金利はプラスのままであり、成長を抑制している。日本の経験を分析することは、米国やその他の国の政策立案者たちが、将来のある時点で直面する可能性のある多くの疑問にヒントを与えてくれるかもしれない*2。経済がいつ継続的なデフレに落ち込むかを認識することは可能だろうか?インフレ率の急激な落ち込みに対して、金融政策はどのくらい素早く対応できるだろうか?金利がゼロに近付くとき、金融政策の波及メカニズムを阻害するような要因は存在するだろうか?デフレの症状の出現を防ぐために財政政策ができることはなんだろうか?本稿では、日本の経験が、これらの疑問に対しどの程度予備的な解答を与え得るか、を評価する。我々の調査は、株式市場が頂点をうち資産価格バブルが崩壊した 1980年代末から、インフレ率がマイナスの領域へ落ち込み政策金利が基本的にゼロにまで切り下げられた 1990年代半ばまでの期間に焦点をあてる。第 2節では日本がデフレーションに陥った歴史的背景について述べる。第 3 節では日本のデフレーションがどの程度前もって予測されていたかについて取り組む。この問題は、経済活動と価格上昇圧力の低下が一時的なものなのか、あるいはより継続するものなのか、どちらと予想されるかに金融政策の適切な姿勢が依存しているため、重要である。第 4 節では、デフレーションが深化している時期の日本の金融政策の実績について検討する。我々は、日本銀行の金融政策の戦略の適切性と共に、金融政策の波及メカニズムを阻害しかたも知れない

*1 とりわけ、Clouse, Henderson, Orphanides, Small and Tinsley (2000)は、米国の短期名目金利がゼロ下限に直面するであろう環境において、連邦準備が総需要を刺激するにあたり取り得る政策的措置の範囲について分析している。

*2 Browne (2001) は、1990 年代の日本の経験から米国の政策立案者たちが引き出し得る教訓を検討している。Mikitani and

Posen (2000)およびMakin (2001)も参照のこと。

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要因についても分析を行う。第 5節では、日本の財政政策が経済活動の下支えに果たした役割を評価する。最後に、第 6節では、総需要の維持に対する、金融政策と財政政策との改善された組み合わせの寄与について議論する。これらの分析に基づき、我々は以下の結論に達した。第一に、資産価格の暴落の激しさと金融セクターのこの暴落に対する脆弱性にも関わらず、日本の継続的なデフレ不況は予期されていなかった。このことは、日本の政策立案者だけでなく、日本の民間セクターや連邦準備のエコノミストを含む他国の観測筋にもあてはまる。例えば、連邦準備スタッフおよび Consensus Economics社による調査の両者による 2年後の GDP成長率とインフレ率の予測は、1990年代の半ばを過ぎるまで、実際の成長率とインフレ率を大幅に上回ったままであった。更に、金融市場は経済の見通しについて優れた理解を持っているわけでもなかった。長期国債金利は 1995年が始まる直前まで、5パーセントもの高さを維持していたのである。

1990年代初期の日本のデフレ不況の見通しに関するエコノミストと金融市場の失敗は、類似した状況にある他の政策立案者たちに対して警告を発している。デフレーションはあらかじめ予期しておくことは非常に難しい、というものだ。その結果、金利とインフレ率がゼロに近付いていく状況では、金融政策は恐らく、将来の経済活動と価格の基本的な予測だけでなく、特殊なダウンサイド・リスク、特にデフレーションの可能性にも対応する必要があるだろう。この点は我々の第二の主要な結論によって十分に支持される。1990年代初頭の日本銀行による金融緩和政策は、その当時における将来の経済発展の見通しからすれば妥当に思われたが、その後に消費の減少と価格の下落が生じたことを考慮すると、この緩和は不適切であったことがわかる。この点を評価するために、我々は、実際の日本の短期金利の変化と、期待インフレ率および産出ギャップに基づいたテイラールールにより推定された短期金利の変化との比較を行った。実際の金利は、連邦準備のスタッフが予想した産出ギャップと期待インフレ率をテイラールールに算入して求められた金利と同程度か、それよりも素早く低下した。しかしながら、現実の、予想よりも弱い将来の産出ギャップと期待インフレ率をテイラールールに算入した場合、実際に行われたよりもより急速に金利が引き下げられるべきであったことが示された*3。このことは、今となってみれば、恐らくこの時期の日本の政策によりもたらされた最も重要な問題は、政策立案者たちが来るデフレ不況を予期していなかったことではなく(結局のところ、ほとんどのエコノミストも予期できていなかった)、彼らが予防的な更なる金融緩和によってダウンサイド・リスクに対する十分な保険をかけなかったことにある。連邦準備のスタッフによる FRB/Globalモデルを用いたシミュレーションは、もし日銀が 1991年から 1995年前半のどこかで、短期金利を更に 200ベーシスポイント引き下げていれば、デフレーションは確かに防ぐことができたことを示している*4(また、このモデルは、1995年の第二四半期より後に行われた緩和は、インフレ率が既にゼロを下回っているため、デフレーションを防ぐことはできなかったであろうことを示している)。もちろん、1990年代初頭の政策立案者たちはその後何が起こるか確信などなかったし、またもし経済が自律的に回復するのであれば、更なる金融緩和は望ましくない結果をもたらすであろうリスクもあった。連邦準備理事会の FRB/Globalモデルに基づけば、不当な、つまりデフレーションを防ぐのに必要でない更なる金利の引き下げは、数年にわたってインフレ率が望ましい水準を超えることをもたらすが、しかしそれに応じて

*3 Bernanke and Gertler (1999) は、我々が用いた推定テイラールールとはいくつかの点で異なる金融政策ルールを用いて同様の結論に達している。彼らの分析による結論は「日本の金融政策は 1992 年後半から少なくとも 1996 年初頭まで、引き締め過ぎであった」というものである。

*4 FRB/Global は、外生的ショックと他国の代替的な政策の反応を分析し、それらの外的ショックが米国の経済に与える影響を研究するために用いられる、大規模マクロ経済モデルである。このモデルの構造および主要な特徴は、Levin, Rogers and Tryon

(1997)において詳細に述べられている。

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金融政策が引締められるため、インフレ率は低下して基準値にまで戻ることになる。従って、デフレーションに落ち込むコストと比較すれば、金融緩和の行き過ぎによるコストは相対的に限定されている。とは言え、1993年後半には金利は歴史的な低水準にあり、また 1980年代の資産価格バブルの経験が政策立案者の記憶に生々しい状況では、日銀が 1990年代初頭にもっと急速に金融を緩和しなかったことは無理もない。本稿における第三の主要問題は、1990年代初期の日本において金融政策の経済への影響力が減退したか否かだった。我々は、この期間の金融政策が影響力を減退したかどうかについてはっきりしない証拠を見出せただけであった。1991-95 年の期間、政策金利を引下げ続けたのに対し株価および為替レートは明らかに反応しなかったが、これはおそらく別の要因を反映したためであり、この期間、長期金利は一貫して下落した。1992-95の期間のマネタリーベースの成長は the broader aggregates のそれを上回っており「流動性の罠」の徴候が見られたが、この差異は 1990年第後半までは特に注目されなかった*5。また資産価格の崩壊とその結果としてのバランスシートの悪化が、企業の借り入れ意欲と銀行の貸出意欲をそぎ、金融政策が経済を刺激する力を減退させたであろうがこれを数量化するのは難しい。要するに、1990年代初期に日本の金融政策の効力はいくぶん落ちていたとみられるが、より早く鋭い緩和をしていればそうならなかったというほどではなかった。最後に、本稿の第四の主要な発見は、金融政策と同様に 1990年代初期の日本の財政政策もまた従来比では積極的なものだったが、デフレ的な不況を避ける努力にもっと積極的になるべきだったということだ。1990

年代前半の日本における構造的赤字の増大は、経済不況を経験していた他のいくつかの先進国を凌駕していたが、これは財政政策が効いていた証拠である。後知恵になるが、他の経済ではデフレのリスクがほとんど語られていなかったので財政刺激への圧力が強かったのである。FRB/Global モデルによるシミュレーションでは、経済活動にテコ入れしてインフレ率をマイナスにしないようにするためには、もう少しの財政緩和があれば十分だったと示唆された。より望ましかったのは財政と金融両方の緩和で、そうすれば一方だけに頼り過ぎることもなく、それぞれの道具が度を越してしまう問題点も緩和できただろう。日本において財政赤字と経済の弱さが共存していたことを指摘し、財政政策の経済活動への影響への効果が失われたと論じる観測筋もある。その見方をサポートする証拠はほとんどなかった。この期間における家計貯蓄率は下落しており、公的債務を賄うための増税への心配から消費者は節約していたという議論と矛盾している。同様に、公的支出が民間投資をクラウディングアウトしていたという主張にもほとんど根拠がない。この期間、長期金利は下落し不況の度合いは緩和されていたのだから。むしろ、日本の過去 10年の民間消費の弱さが、公共支出の増加と予算不足を必要としていたと言うべきである。結論として、日本の経験の分析から、デフレ的な出来事を予測するのは簡単ではないので、迅速で継続的な政策刺激を通じてそれが起こる可能性を減らせるようにしておくべきだということが示唆される。特にインフレ率及び金利がゼロに接近し、デフレーションのリスクが高い場合は、将来のインフレ及び経済活動の見通しのベースラインから従来通り想定される水準を超えた刺激をするべきである*6。 この処方箋は大部分、そのような環境における非対称的な性質にもとづいている。行き過ぎた刺激は、将来補正的な引締め政策で修正することができる。しかし、少なすぎる刺激は経済をデフレーションに導き、将来金融政策が経済を不況から脱出させる能力が大きく損なわれかねないからである。*7

*5 日本が流動性の罠にはまったという見方が最も関連しているのはクルーグマン(1998)である*6 これはゼロ金利制約下の適切な金融政策に関する多くの分析と整合的である。例えば Reifschneider and Williams (2000),

Blinder (2000), Kato and Nishiyama (2001), and IMF (2002), Chapter II.*7 本稿において我々は名目金利をゼロ以下にはできないという伝統的金融政策の制約に注目している。ゼロ制約に達したときの非伝統的な金融刺激を用いる可能性について議論するものではない。それらについては Krugman (1998), Goodfriend (1997,

2000), Bernanke (2000), Clouse, Henderson, Orphanides, Small and Tinsley (2000), and Svensson (2001) などを参照

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2 長引く日本の不況の背景長期間に渡る日本の不況は、1980年代後半の「バブル経済」期にはじまる経済成長の結果と考えるのがよいと思われる*8 。資料 II.1に示したように、1986年から 1989年までの期間に株価と地価はともに急激な上昇を見せた。この資産価格上昇は、比較的低い金利 (資料 II.2)とあわせて、投資資金の調達を極めて容易なものとした。その結果として銀行貸し出しの GDP比は急増し、増加した投資支出が高い GDP成長率に寄与した。生産性成長率 (資料には示していない)はこの期間を通じて比較的高く、おそらくその結果として CPI

上昇率 (資料 II.1)は比較的落ち着いたものにとどまった。しかし、1989年初頭には株価と不動産価格が急上昇を続けるとともにインフレ率が上昇し、日銀は過熱を抑えるべく金利を引き上げはじめた。株式市場は、もともと維持不可能だった高水準と金融引き締めによって1990年初頭に崩壊した。GDP成長率は直前の 1990年のピークよりは低下したが、それでも 1991年 Q4(前年同期比)で 2.5パーセントをマークし、一方で地価はさらに上昇を続けた。その結果として日銀は 1991年 8

月まで公定歩合のさらなる引き上げを繰り返した (資料 II.2)。GDP成長率がさらに急落し、インフレ率が低下しはじめ、地価もまた低下し始めるのを見ると、日銀はその後少しして金利の引き下げを開始した。多くの点において、バブルの終わりとそれに続く景気後退は、戦後の先進国の標準的な景気循環のパターンをなぞった*9 。しかしながら、後知恵を承知で言うならば、成長を押さえつける力が通常よりはるかに強く働いていたことは明らかであったように思われる。第一に、資本-産出比率は 1990年には高い値に積み上がっていた。この高い資本-産出比率は、産出が高成長を続けるという予測に基づくものであり、景気後退がはじまると過剰であることがあらわになった。結果として、利益率は低下し、民間投資は 1990年代を通じてだらだらと減少を続けた*10 。産出成長率の低下の結果、資本/産出比は 1990年代を通じて高く保たれたため、この資本オーバーハングは解消が困難であることが明らかとなった*11 。第二に、株価の崩壊と、その後の住宅価格の崩壊は、家計および企業 (特に企業)にバランスシート上の深刻な問題をもたらした。弱気な株価市場の情勢が新規株式発行による資金調達を妨げる一方で、下がり続ける株価と地価は新たな借り入れの担保となるはずの資産価値を削いでいった*12 。さらに、多くの企業 (特に建設業と不動産業)の純資産が資産バブルの崩壊によって大きく減少すると、投資ファンドの需要が急低下した。第三の関連する要素として、借り手企業のバランスシート問題は、貸し出しのパフォーマンス悪化および銀行システムの財政の悪化につながった*13 。日本の貧弱な統制システムと日本の銀行の悪しき商習慣のせいで、日本の銀行は不良債権問題を解決できず、また、十分な自己資本を回復することができなかった。銀行システムの弱体化が続いたことがさらにまた、新たな貸し出しによって経済回復をサポートする銀行の役割を制約することとなった*14 。

のこと。中でも Ueda (2001) はそのような選択肢に向けての日本銀行の見方である。 このような事情であるが我々は、一度ゼロ下限に達したら経済の再活性化がより困難で不確実なものになるという多くの識者に同意する。

*8 日本のバブル崩壊に取り組んだ研究は数多い。特に、Posen (1998), Brunner and Kamin (1996, 1998), Bayoumi and Collyns

(2000), Mikitani and Posen (2000), Morsink and Bayoumi (2001)を参照。*9 IMF (2000)の第 3章は先進国における資産価格と景気循環の関連について述べている。

*10 1990年代における日本の民間投資の推移に関する詳細な議論に関しては Ramaswamy (2000)を参照のこと。*11 投資は減少し続けたものの、水準自体は比較的高いままであり、資本形成のペースが産出の伸び率を上回った。*12 資産価格の変化がバランスシートへの効果を通じてどのように家計、企業、金融仲介機関の経済的行動に影響を与えるかに関しては多くの研究があるが、中でも Bernanke and Gertler (1995)を参照せよ。

*13 多数の研究があるが、特に Hoshi and Kashyap (2000), Friedman (2000), Shimizu (2000) を参照のこと。*14 Kwon (1998), Brunner and Kamin (1998), Bayoumi (2000) には、銀行貸し出し経路で資産価格が実体経済に影響を与えたエビデンスが示されている。Morsink and Bayoumi (2001) も、伝達メカニズムとして銀行貸し出しが果たした役割の重要性を

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これらの要素すべてが成長への大きな重しとなり、資料 II.1に示したように、成長率は 1990年 Q4(前年同期比)の 5パーセント近い値から、1992年および 1993年にはほぼゼロとなった。さらに、1990年初頭から劇的な円高となり、経済活動の低下をもたらし、物価にさらなる低下圧力を与えた。12ヶ月の CPIインフレ率は 1993年末には約 1パーセントまで低下し、GDPデフレータはさらに急速に下落した。この景気後退に対し、日本の経済政策が緩和されたのは確かである。オーバーナイトのコール金利は 1991

年 3月の 8.2パーセントというピークから、1995年 3月の 2パーセントまで引き下げられ、1995年 10月にはさらに 1/2パーセントにまで引き下げられた。財政政策も刺激のために発動され、構造的予算収支は 1990

年の 1.3パーセント黒字から 1996年には 5パーセント近い赤字となった。経済政策の緩和が十分であったかどうかについては、本稿の IV節および V節で論じる。しかしながら、III

節で論証するとおり、日本の景気後退がここまで深く、ここまで長期間におよぶと 1990年代前半に予測した論者はほとんどいなかった。さらに、1994年中頃にはじまり 1996年いっぱい続いた一時的な景気回復が、多くの政策決定者の目から、さらなる景気刺激の必要性を隠してしまった。しかし、振り返ってみると、1990年代半ばの回復は極めて脆弱なものであったのは明らかに思われる。その後、1997年の消費税率引き上げと 1997-98のアジア金融危機の到来とともに、日本経済はまたしても長い不況に落ち込み、わずかに 2000年のハイテクブームでごく短期間だけ不況から脱したのみであった。さらに、消費者物価上昇率は 1995年に短期間マイナスになった (理由の一部は、急激な円高によるもの)後、1996年と 1997年にはわずかに上昇し、1999年 9月からは一貫してマイナスとなっている*15。この文脈において生じる疑問は、1990年代半ばに生じかけた好転を支え、さらに持続的な景気回復へと育て上げるためにさらなる景気刺激を行うべきだったかどうかというものである。特に、1993-94という期間が、金融政策に関して決定的に重要であったかもしれない。なぜなら (1997年の消費税引き上げによるごく短期間を除いて)インフレ率がほどほどの余裕を持ってゼロを上回っていた時期はこれが最後であり、ここでの十分に大きな政策金利引き下げによって非常に低い(あるいは負の)実質短期金利が得られた可能性があるからである。1995年初め以後は、ゼロあるいはマイナスのインフレ率が実質金利を引き下げる余地を制限し、金融政策の有効性を大きく減じてしまった。

3 日本のデフレ不況は予測されていたのか。1990年代の初頭における日本の政策担当者たちの行動を、日本経済に対する彼らの予測についての認識なしに理解することはできない。その 10年間を通じて、経済成長及びインフレの予測がどのように展開されたかを研究することで、私たちは、大部分のオブザーバーが、日本は重度、かつ、長期の経済不況に陥るであろうという評価を下すまでに非常に時間がかかったという結論に達した。同様に、市場関係者が、日本は長期のデフレ不況に直面していたことを認識していたとする金融市場の指標は、90年代終わりになるまでは、わずかしか存在しなかった。

支持している。*15 1997年の消費税率アップ分を調整したもので見ても、1996年から 1997年の間に計測されたインフレ率はわずかにプラスであった。しかし、消費者物価指数は上方バイアスがあると広く考えられており、真のインフレ率はおそらくマイナスのままであったであろう。この時期のデフレ圧力が部分的には技術進歩や硬直的なサービス産業における規制緩和による「良いデフレ」として、とくに日銀には、受け止められてた。しかしながら、たとえこれらの要因からくる「良いデフレ」であったとしても金融政策の運営を難しくさせるものである。

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3.2 マクロ経済予測

1990年代初頭の日本における資産バブルの予期せぬ崩壊により、日本経済が失速した 1992年から 1993年にかけてさえも、日本の中期的な経済動向の予測について、オブザーバーたちは楽観的だった。彼らの大部分は、数年以内に日本の GDP は高い成長率に戻ると予想していた。資料�.1 は FRB スタッフと Consensus

Economicsにより聞き取り調査をされた民間エコノミスト、及び IMFスタッフによって作成された日本のGDP成長率の予測である。*16

各年における実際の成長率は赤線で示している。また、比較のために、1年前の予測を青線で、2年前の予測を黒線で示している。この表により実際の成長率の落ち込みよりも、予測の落ち込みの方がずっと遅いことが明らかである。そして、90年代の後半にいたってやっと、日本の経済的な見通しに根本的な見直しが行われることなった。同様に、オブザーバーたちは一般的に、インフレ率を下方修正することに消極的だった。(資料�.2.) たいていのアナリストは、1990年代の半ばにはディスインフレの期間がくると予測していたが、1995年のデフレへの下落は全く予期せぬものだった。¡/span¿実のところ、民間部門のアナリストたちは、0年代の終わりまでインフレ率はプラスであると予想し続けていたのだ。

1990 年代初頭のマクロ経済学的予測の展開をより詳細に見ていこう。資料�.3 があらわしているのは、1992年(経済が失速した最初の年)の成長と、1995年(インフレ率が始めてマイナスになった年)のインフレに関する予測の前向きな様子である。1992年に 1991年の夏と同程度の 3%の成長率を予想していており、FRBスタッフも民間部門のアナリストも、経済の下降の程度を過小評価していたことが明らかである。1995

年の始めにディスインフレの終わりを予想していた FRBスタッフと民間部門のアナリストたちは、デフレの予測についてもあまり迅速ではなかった。その後、物価の下落を示すデータが少しずつ見られるようになるにつれ、インフレ予測は顕著に減少した。最後のパネルが示すのは、民間部門の予測者は、日本の持続的なデフレに対して 90年代のやや終わりの方になるまで、つまり次の 10年間は平均的なインフレになるという予測者がいなくなるまで、真剣に考えていなかったという事実だ。予測者たちは、日本の経済に対する彼らの思い込みに早い時期に警鐘を鳴らす、何らかのサインを見逃したのだろうかという疑問がおこる。各企業が行う景気の見通しについての独自評価には、意味のある予想情報を含んでいた可能性がある。別表�.4には、日銀の短観を詳細に観察した結果が示されている。興味深いことに、企業はバブルがはじけた直後に、大量の過剰設備能力を考慮して、速やかに設備投資の計画を縮小した。しかしながら、そうした企業でさえも、1990年代前半の営業利益の見通しについては楽観的に過ぎ、この不況の深刻さや長期化を予測するのには失敗したのだということを示している。

3.3 金融市場の指標

1990年代半ばの金融市場の指標もまた、日本の経済が将来にわたり悪化し続けることを市場が予想していなかったことを示している。別表�.5.の最初のパネルが示すように、長期債券の利回りが 1993年の間に起きた短期金利の下落に追随する動きを見せている。短期金利は 1994年にいったん平準化するが、長期債券利回

*16 FRB スタッフの予測は、1996 年以後は秘密の保持を理由に開示されていない。民間のエコノミストについては、毎年 1 月にConsensus Economics が発行する民間部門のエコノミストに対する調査から、平均的な予測を作成した。IMF スタッフの予測は、複数年にわたる IMFの世界経済見通しからデータを取得した。

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りは、その年に始まった景気の一時的な回復を幾分反映して、再び上昇した。1995年の 1月は、日本にとってデフレが始まった最初の年*17 であった。この年、短期金利はほぼゼロ金利となり、長期金利は 4.7%を記録した。長期にわたる多額の財政赤字を抱えていることも長期金利の上昇圧力となった。しかし、90年代終わりには、公共部門の債務が増加しているにも関わらず、長期金利が相当程度低下したことをかんがみると、財政に関することで説明できるのは、1994年における金利の上昇の一部分だけであろう。もう一点、金融市場が行う経済予測に関連する尺度として、イールドカーブの傾斜具合がある。将来の成長率の回復と短期金利の上昇を予想しているときは傾斜がきつくなる。別表�.5.の真ん中のパネルで見られるように、この基準もまた、市場がデフレ不況の長期化をまったく予測していなかったことを示している。結局のところ、1996年になるまで 10年国債の金利と 3ヶ月物の金利の間でスプレッドが増大し、その差が顕著に縮まり始めるのは、1996年の後半になって短期金利がほぼゼロにまで落ち込んでからだった。これらの指標に呼応するように、6ヶ月及び 9ヶ月満期と契約した 3ヶ月金利先物からのインプライド(暗黙の)金利は、6ヶ月及び 9ヶ月先に日銀が実際に行った金融緩和政策の再開を示し、市場関係者が、政策担当者が金利を下げ始めるとは予測していなかったことを意味している。これも同じく、市場関係者がその当時、更なる金利の引き下げを是認しない経済状況であったと気がついていたこを示している。最後の指標は、金融市場が外国為替市場に由来する日本経済の状況について楽観的であり続けたことを示すものである。別表�.2 に示されているように、円の価値が 1995 年に 10 年ぶりに高い水準になったことだ。要するに、日本の実情の重大さを評価することに失敗したのは政策担当者や専門の予測者だけでなかった。金融市場も例外ではなかったということだ。

4 デフレに向かう中での金融政策本節では経済の減速に対する日本の金融政策の対応を概観する。後述するように、政策担当者と市場関係者が抱いていた日本経済についての見通しという点から、91年から 95年に行われた金融緩和は不合理とも明らかに不適切とも考えられていなかった。 明らかに、日本銀行は 90年代の長期不況を予想していなかった。そして、その 10年間に数回にわたって日銀は空前の金融緩和を行ったと信じていた。しかしながら当時経済が直面していた非対称的なリスク—特に、デフレのリスクとそれに伴って金利がゼロ下限を打つ可能性—に対してこの当時の金融政策の枠組みはこれ以上の緩和余地を持たなかった。ある期間での平均としてのゼロインフレは*18デフレ期間とインフレ期間が交互に訪れることをしばしば意味するにも関わらず、日銀はゼロインフレが継続する見通しに満足していたようだ。*19ついにリスクは現実のものとなり、景気後退から経済を引き上げるための伝統的金融政策の力は著しく失われた。この期間のいかなる金融政策の有効性も金融セクターの脆弱性という逆風のため阻害された可能性がある。しかし、より協調的な金融政策をとっていれば、その効果はそれほど無効にならなかっただろう。

*17 Dotsey (1998)を参照のこと。将来の経済成長率について長短金利差が予測力を持つという内容の実証的文献のレビューである*18 日銀総裁速水は、”日銀の政策は物価の安定を求めていると述べており、インフレやデフレはない...”(ロイター、1998*19 また、日銀関係者は頻繁に、短期金利はゼロに近いと不快感を表明する。その異常さは同様に、より高い金利環境を持続されないことは融資のスケジュールを変更する企業や銀行のインセンティブの減少要因となっている可能性がある。副総裁山口氏は”決定的な金融緩和、アクティブな介入は、日本のデフレや金融恐慌回避に疑いがあり、日本銀行は金融システムをサポートしています。一方、これらの政策決定は、日本の金融期間の構造改革への取り組みを湿らせた可能性があります”(山口、1999)速水総裁速水総裁は、いくつかの場面で、低金利が企業の一部について改革を遅らせていたことと、”モラルハザード” を奨励する懸念を表明している。 (共同通信、2000年、ローリー、2000年)投資家たちは、政策担当者がゼロ金利の底から金利を移動することにに熱心であったことに対し、長期金利の上昇になることは間違いないと感じていた。

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4.1 デフレに向かう中で金融政策の余地がなかったのか?

4.1.1 日本の金融政策の展開:1990年から 1995年1990年の初頭に始まった株価の急激な反落にもかかわらず、不動産価格の上昇が続き、生産が潜在能力を未だ上回っていたため、その年を通じて日銀は緊縮政策を継続した。不動産価格が下落し始め、経済成長率が潜在成長率を下回り始めたすぐ後の 1991年夏から日銀は金融政策を緩和に転じた。公定歩合は(II.2)6%から 7回にわたって 1993年 9月*20にかけて 1.75%まで引き下げられた。オーバーナイトコールレートに至っては 1991年の前半の 8%強から、1993年の終わりまでに 2~2.5%程度にまで低下するといった顕著な減少を記録した*21。同じ時期、10年もの国債のイールドは 6.75%から 3%へ低下した。回復の兆しが見え始めた1994年を通じて日銀はその政策スタンスを変わらず維持した。1994年 5月、日銀(pp32-33)(日本銀行調査季報) は”日本の経済成長は、それまでの通貨・財政金融政策の刺激的効果の浸透や資本ストック調整が進んだことを背景に、明らかに下げ止まった”とし、11月には総ての支出分野における力強さや、およびそれに反応して長期金利がはっきり上昇していることから”徐々に回復している”とした*22 。

1995年初頭の間、兵庫県南部地震の影響、円のさらなる急騰、株価低迷による新たな不況、などいくつかの副作用によって駆け出しの回復が危険にさらされた。日銀はそれに対応するため、4月に公定歩合を 75ベーシスポイント引き下げ、また 9 月はじめには 50 ベーシスポイント切り下げ、0.5% にまで引き下げた*23) 。コールレートはこれと並行して下落し、9月にはやはり 0.5%に到達、1999年に実質ゼロに下落するまでそのままだった。

4.1.2 実質金利に何が起きたか?この期間名目短期は大きく下落したが、このことによって大きく刺激できたのは、実質金利を同じく下落させたことのみだった。Exhibit IV.1 の一番上のグラフは名目コールレートと二種類の方法で名目金利を実質化(デフレート)している。第一の方法はは名目利子率を直前 12ヶ月における CPIインフレ率を使って実質化(デフレート)したもの (t/t-12)、第二の方法は、直後 12ヶ月の期間の CPIを用いたものである。(t+12/t)

1991 年から 1995 年中期にかけて、名目コールレートは約 7.5% 下落。どちらの方法でも実際のコールレートの減少が顕著で、翌 12 ヶ月 (t+12/t) のインフレ率 5.5% に基づいて実際のコールレートは推移し、過去12ヶ月 (t-12/t)の約 3.5%に基づいて実質金利が現れることである*24。この日銀の政策は確かに実質金利を下げたが、幾つかの因子がこの引き下げによる刺激効果を一部相殺していたようである。第一に日本の生産性や生産性成長や潜在産出成長が減少し、均衡実質金利が低下された可能性がある。第二に、持続的な円高は金利引き下げを一部相殺していただろう。第三に、以下に論じるように、金融システムにおける諸問題の進行が、金融政策の経済に寄与するチャネルを歪めた可能性がある。

*20 当時これらのアクションは、歴史的と見られていた。たとえば、1993年 12月の三重野日銀総裁は、 ”1.75パーセントの現在の公定歩合の引き下げは日本の 111年の歴史の中で最も低いレベルである。”

*21 1995 年 3 月に日銀は、その主要政策金利の無担保コールマネーレートを採用し、短期金融市場の有価証券の保有を増加、その基でコールマネーレートや公定歩合の維持を行った。これより以前、銀行への直接融資はより重要であったしコールマネーのレートは、通常引き下げ率よりも高かった。

*22 日本銀行調査季報、1994 年 11 月、ページ 14。 日本の長期金利は、1994 年に連邦準備制度理事会の引き締めサイクルの開始や引き続く長期金利の世界的な上昇に呼応している可能性があります。

*23 これらの行動は歴史的と見られ、1995 年 11 月 福井副総裁は”引き下げは前例のないレベルであった”と述べている。彼は主要工業国の経験の中で 1%は最低レートであると指摘した。(すなわち、1930年代、スイス 1970年代のアメリカ)。 (福井、1996

*24 しかしながらこのことは 1994 年から 1995 年初頭のように、日銀の政策金利が一定で、インフレ率の低下により実質金利が微増であることを考慮しておく必要がある

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4.1.3 テイラールールによる検証今となっては緊縮的であったことが明らかになってはいるが、名目及び実質金利の著しい低下と 90年代中頃に見られた経済の復調といった理由から当時の日本政府・日銀が、金融政策のスタンスが適正であると考えたことは理解できる。伝統的な基準では金融政策が妥当に緩和的であったという見方は日本についてのシンプルなテイラールール型金融政策ルールの推計からも支持できる。比較のために我々はアメリカについても推計した。テイラールール型政策ルールとはコールレート(アメリカでは FFレート)を 4四半期先の予想 CPI

と GDPギャップに結びつけるものである*25。資料 IV.1 の真ん中のパネルは日本のコールレートと予想インフレ率と GDPギャップについての二つの仮定のもとで得られたテイラールールによる推計値との比較である。(「改訂テイラールール」とラベルされた)破線は現在公表されているインフレ率と FRBスタッフによる現在の GDPギャップの推計を元にしたものである。(「リアルタイムテイラールール」とラベルされた)点線は FRBスタッフの当時の各四半期ごとのインフレ率と GDPギャップの推計を元にしている。当時のリアルタイム推計および改訂されたテイラールールが示す基準を元に考えると日本は 90年から 94年にかけて平均的には「過剰に緩和的」であった*26。その後確定した指標を使うと、同時期における日本の政策は「過剰に緊縮的」であった。「リアルタイムテイラールール」と「改訂テイラールール」との乖離の最大の理由は第 III節で述べたように 90年代初期の予想よりもインフレ率が実際には低かったことにある。対照的にアメリカの FFレートは 90年-91年の景気後退のすぐ後のリアルタイムおよび確定データから得られるどちらのテイラールールが示すレートよりも迅速かつ踏み込んで低下していることが一番下のパネルから見て取れる*27。もちろん、改訂テイラールールが必ずしも—特に 90年-95年期間を含む 1981年第一四半期から 2000年第二四半期の推計期間においては—金融政策評価のベンチマークとして適切とは言えない。しかしながら日本の改訂テイラールールのパラメータは FRBスタッフや経済学者による他国の推計と大きな乖離はなく、テイラールールが示す金利が金融政策の伝統的な基準をうまく表すという我々の考えを支持している。当時優勢であった経済の見通しをベースにすれば、91年-95年の日本の金融政策は適切であった、というのが我々の結論である。しかしながら、現実のインフレ率と経済成長率が予想されたものよりも低いことが明らかになった後もテイラールールが示す水準よりも金利が高止まりした事実から、ダウンサイドリスクの不適切な許容が金融政策に組み込まれていたと言える。

4.1.4 FRB/Globalモデル分析振り返ってみると日銀の政策が過剰に緊縮的であり、より緩和的な政策がデフレを防いだであろう、というさらなる根拠は、資料 IV.2に示されている FRBスタッフによる FRB/Globalモデルの一連の反実仮想シミュレーションから得られる*28。それぞれのシミュレーションにおいて、日本と主要先進国の金融政策が標

*25 推定係数からテイラー (1993) のオリジナルのものに比べて GDP ギャップのウエイトは小さく、インフレ率のウエイトが大きいことが推察される。しかし、それらは G3 各国の実証研究の結果と整合的である。Clarida, Gali, and Gertler (1998)、Fair

(2001)を参照せよ。*26 イントロダクションで指摘したように、Bernanke and Gertler (1999) もまた日銀の政策がこの時期の推計反応関数から得られるものよりも緊縮的であったと主張している。また別の研究でも様々な点で同様な結果が得られている。Clarida, Gertler, and

Gali (1997)、Junoshi, Kuroki, and Miyao (2000) Kato and Nishiyama (2001)を参照せよ。*27 この結果もまた Clarida, Gertler, and Gali (1997)と Bernanke and Gertler (1999)で示されたテイラールールの推計結果と整合的である。

*28 モデルの詳細は Levin, Rogers, and Tryon (1997)を参照せよ。

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準的なテイラールールに従った場合について検討している*29。シミュレーション結果は 3つに時期(91年第1四半期、94年第 1四半期、95年第 2四半期)に恒久的な 250ベーシスポイントの金利引き下げを行った場合のものである。政策ルールはゼロもしくはテイラールールの示す金利のどちらか大きいものを採用することで、名目金利の非負制約を組み込んでいる。それぞれのパネルで、黒の実線は実際のデータを表している。他の線はシミュレーション結果である。シミュレーションによると、政策によって短期金利は約 200ベーシスポイント低下し、その結果成長率とインフレ率とを押し上げる。主な発見は、仮に日銀が 95年はじめまでのどこかの時点においてシミュレーションで行ったような緩和的金融政策をとっていたならば、90年代を通じてインフレ率を正に保つことができたであろう、ということである。その意味では 91年から 95年の日銀のスタンスは明らかに緊縮的であった。さらに言えば、それ以降政策金利はゼロ付近まで低下してしまい、単純な金利の引き下げという手段でデフレを回避するという機会を失ってしまったのである。デフレ下では伝統的な金融政策が安定化能力を欠くことと非伝統的金融政策に伴う不確実性とを考慮するとデフレとインフレのコストには明らかな非対称性が存在する*30。これらのシミュレーションは 94年-95年の極めてい低インフレ率と GDPギャップのもとでは基準となる予想がより高い成長率とインフレ率を示していたとしても、さらなる予防的な金利引き下げがデフレに陥る確率を軽減するのに役立ったはずであることを示している。このような予防的な緩和は望ましい水準を上回るインフレをもたらすリスクがあるものの、将来のある時点での引き締めによって対処できるであろう。シミュレーションがはっきりと示しているように、インフレ率と金利がゼロに近付いている局面においても、初期の利下げの効果は GDPギャップとインフレ率が改善されるにつれて薄くなっていき、2、3年後には基準となる利率よりも金利を高く押し上げる。デフレリスクを防ぐために 94年に日銀が著しい利下げを行っていたならば、この予期せぬ好ましいショックは GDPギャップとインフレ率を正の領域まで押し上げたであろうか?このシナリオでは上述のシミュレーション結果のロジックによると、インフレは長期にわたって望ましいレベルを上回るが、それに対応すべく日銀が金融政策を引き締めることで短期金利は上昇し、インフレは徐々に元の基準線に復帰するであろう。もちろん 94年の段階でより踏み込んだ予防的な緩和という選択は、金利がかなり引き下げられていて回復機運が高まっていたことを考えると日銀にとって難しいものであったはずである。さらに当時、日銀高官は過剰な金融緩和のリスクを単に数年間の望ましいレベルを上回るインフレ以上のものと捉えていた。80年代の資産価格バブルの原因が少なくとも部分的には金融緩和の行き過ぎに求められることから、日銀は金利引き下げが新たな株式・土地バブルを誘発することを恐れていた*31。しかし、90年代はじめまでの資産価格の下落幅と経済・金融セクターの脆弱性を考慮するならば 80年代のバブルの再来のリスクはおそらく非常に小さいものであったであろう。

*29 次節で述べるテイラールールの推計とは対照的に、このシミュレーションで用いられた政策ルールは Taylor (1993) で述べらた(推計ではない)定式化及び係数を採用している。

*30 これは Reifschneider and Wiilams (2000)、Blinder (2000)、Kato and Nishiyama (2001)、IMF (2002) Chapter IIで共有されている見解である。

*31 市場関係者は日銀がこの懸念を持っていたことを信じている。ある記事は「日銀は 80 年代後半の株式と不動産市場の崩壊をもたらした投機的バブルを誘発するとして、しぶしぶ緩和政策をとった、と民間エコノミストはコメントしている」と伝えた (Reuters

News Service 1993)。数年後のまた別の記事によれば、松下総裁は「長引く金融緩和が 80年代後半のバブル生成に加担した」と語り、また「これを、日銀がバブル再来を恐れて金利引き上げを行うものと市場は受け止めた、と市場関係者が言った」と語った(Reuters News Service 1996。

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4.1.5 マネーサプライからの検証現代の視点から見て、90年代初期の日銀の政策が過剰に緊縮的であったことを検証するもう一つの側面はマネタリーベースやその他各種のマネーサプライの成長率である。資料 IV.3は広義流動性、M2+CD、そしてマネタリーベースの 12 ヶ月成長率をプロットしたものである。これらのマネーサプライの成長率は 1990

年から 1992年にかけてほとんど連続的に低下しているが、これは過剰な引き締めを意味するものと言えるかも知れない。さらに、マネタリーベースの成長率はその後回復したものの、より広範囲なマネーサプライ、特にM2+CDはさほど回復していない。これは日銀の金利引き下げが、一見急激に見えたものの、十分ではなかったことを示唆している*32。しかしながら、貨幣需要は一般的に言って景気の悪化と名目所得の成長率の低下に伴い減少する。そして後に詳述するように、信用需要と供給の減少が各種のより広範囲なマネーサプライの成長を顕著に減速させた可能性もある。したがって、マネーサプライ成長の減速が、特に 91年と 92年において、過剰な緊縮的金融政策を意味しうるものの、必ずしも決定的な証拠ではなく、貨幣成長はその後はっきりと回復したのである。

4.2 金融政策の有効性

1990年代に実質短期金利が大幅に下がった後も日本経済が再生できなかったことから、金融政策の経済に対する影響力が失われてしまったのではないかという懸念が生じる。この論点について結論を出すほどの証拠はないが、金融緩和政策をとっても資産価格を底支えして経済を活発化させることができなかったのは、金融政策波及メカニズムが機能しなかったというよりも、そのかなりの部分がショックを相殺することに費やされてしまったように見受けられる。資産価格の暴落に伴う「金融の逆風」は、金融政策により経済活動を活発化させる影響力を、いくらか妨げることとなった。さらに、特に 1995年以降は、「流動性の罠」の兆候を呈していた。そうは言っても、金融政策の波及経路が縮小していたがために、1991年~95年における迅速かつ大胆な金融緩和策のメリットが失われてしまったという証拠にはならない。

4.2.1 金融政策の資産価格への影響資産価格は、金融政策が実体経済に波及するにあたり重要な経路となる。ここでは、長期債券価格、株価、地価、為替レートの動きに焦点を当てる。付録 III.5は、1991年から現在にかけて、10年国債の利回りが、短期国債並みに落ち込んでしまったことを示している。もっとも、この動きは緩やかで、一時的に反転することも多かった。付録 II.1は、1991年以降、地価は一貫して下がってきたが、株価は日銀が緩和政策を取った後はいくらか安定していることを示している。1991年以前、地価と株価が異常に高かったことを考慮すると、地価や株価が金融緩和にそれほど強く反応しなかったことも頷ける話である。為替レートと国内の金融政策との関係は、外国の金融政策やその他のリスクプレミアム関連要因から受ける影響により、複雑なものとなる。1991年から 1995年半ばにかけて、短期金利の切り下げにも関わらず、円は継続的に上がった。しかしながら、この時期のほとんどにおいて、米国と欧州においても金利が下がったため、日本の金融政策による円への効果は少なくとも部分的には相殺されることとなった。強い円のさらなる要因としては、バブル崩壊後に、銀行と投資家が在外資産を国内に戻しておきたいという思いを持ったこともあ

*32 Makin (2001)やその他は 1990年代初期の貨幣成長率を過度な金融引き締めの証拠として言及している。

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るかもしれない。*33

従って、全体としては、日本の資産価格は、1990年代初頭の金融緩和政策に対して期待通りに反応したと見られる。特に資産価格バブルや外国金利の動きなど、他の要因から受ける影響を考慮すると、なおさらそのように言える。

4.2.2 流動性の罠の証拠?政策金利がゼロ下限に制約されてしまう状況は、時に流動性の罠と呼ばれる。*34 流動性の罠においては、広範囲なマネーサプライ概念を構成する要素が、どれも同じようなもので代替可能 (全て同程度のリターンを生む)となるため、ベースマネーが大幅に増えても、それより広範囲なマネーサプライにはそれほど影響しないかもしれない。*35 金利は低いがゼロ以上である時に、資産を持つことによる金利が、流動資産が少なくなることによるリスクや煩わしさを受け入れるほどには魅力的でなくなると考えられる場合には、流動性の罠が部分的に表出することも、少なくとも理論的にはありうる。付録 IV.3は、マネタリーベースが、1992年からはM2+CDよりも大きく、1993年からは広義流動性よりも大きく増え始めたことを示しており、流動性の罠が表れていると言える。しかしながら、少なくとも 1992

~1995年の間は、マネタリーベースの増加率は、それより広範囲なマネーサプライ概念と比較してもそれほど違いはなく、先に見たように他の要因を反映しているのかもしれない。他の要因とは、経済減速による資金需要の低下、あるいは貸付があまり行われなくなることによる貨幣乗数の低下である。しかし、1995年後半以降、コールマネーの金利がほとんどゼロに落ちた後は、ベースマネーは広義流動性のおよそ倍の比率で増加した。*36 2001年後半にはベースマネーはさらに急激に増加している。これらのことから、1990年代初めでない現在においても、日本は流動性の罠にあることが示唆される。

4.2.3 金融市場の「逆風」1990年代の日本のパフォーマンスが低いことの特殊要因として、最もよく引き合いに出されるのは、恐らくは日本の株価と地価の急激な低下に伴い金融機関 (特に銀行)が弱体化したことだろう。*37 90年代初めの資産価格バブルの崩壊により、家計と企業のバランスシートが大幅に悪化し、不良債権が大幅に増え、それに伴い金融システムの体力が低下した。このような展開により、経済成長を抑制する「逆風」が引き起こされたと言われている。「逆風」というのは、金融機関の貸付余力が低下したこと、企業が新規に借り入れようとする志向が低下したこと、家計が損失を取り戻すために貯蓄を増やそうとしたことなどである。このような状況では、低金利により貸付と支出を刺激しようとしても、その影響力がある程度損なわれてしまったのも無理のないことだ。我々の見立てでは、日本の家計のバランスシートの悪化はかなりのものではあったが、家計の支出を劇的に

*33 ある市況レポートによると、不況を機に多くの投資家が低リスク国債にシフトしたため、株価と株式ポートフォリオからの未実現収益を押し下げることとなった。それに対して企業が、悪化したバランスシートを立て直すために在外収益を国内に戻す方向に動いたため、その結果として円が上がった (Reuters, 1995)。

*34 これは流動性の罠のもっとも単純な定義であり、Uedaが 2001年に使用している。*35 このことにより、量的金融緩和 (国内有価証券 (国債以外の債券)、実物資産、在外資産の購入などを通じて行う) の有用性が否定されるものかどうかは、今も議論の対象である。詳細は、Krugman (1998), Goodfriend (1997, 2000), Bernanke (2000),

Blinder (2000), Svensson (2001), Ueda (2001)を参照されたい。*36 1999 年末の急激なベースマネーの増加と 2000 年末の急激な減少は、新世紀の日付変更に関連する需要の一時的な動きを反映している。

*37 詳細は、Kwon (1998), Brunner and Kamin (1998), Bayoumi (2000), Shimizu (2000), Morsink and Bayoumi (2001)を参照されたい。

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弱めたわけではない。付録 IV.4は、日本の貯蓄率を、1990年代初めに度合いは異なるものの困難な経済状況を経験した他の国々の貯蓄率と比較している。北欧諸国と英国では、住宅バブルの崩壊とそれに伴う経済低迷に家計が反応し、その結果として貯蓄率が急激に上がったのであるが、それと比較すると、日本の貯蓄率は1990年代のほとんどの期間において下がっている。資産価格バブルの崩壊は、むしろ日本企業の借入と投資支出にはるかに強い影響を及ぼしたことが、不確実ではあるものの統計的な根拠により示されている。付録 IV.3の下方のパネルで示されているように、銀行貸付の増加率は、元々は高率だったが、1993年~98年にはほぼゼロになり、それ以降はマイナスとなっている。これは、付録 II.2で、GDPに対する銀行貸付残高が低下していることとしても確認される。銀行貸付の低下に対応するのが非住宅投資支出の大幅な低下で、1990年に GDPの 20%だったのが、1999年には 14.5%まで下がっている。企業の投資と借入の低下は、部分的には貸付供給の低下、つまりは銀行の体力低下を反映しているのかもしれない。短観によると、現状および将来の貸付条件に関する企業の見方は、1990年代を通じて劇的に悪化した。しかしながら、同時に企業側においても、財務上の問題により投資資金の必要性が低下したことも無視できない。このような状況下では、それほど財務的に脆弱でない環境と比較して、政策金利を下げることにより借入と支出を増加させられる勝算は薄くなる。そうは言っても、我々の見立てでは、日本の困難な経済状況により、金融政策の借入と支出に対する影響が完全に無意味になってしまったとはとうてい言えない。*38 もっと早く金利を下げていたら、借入金の負担を削減し資産価格を底支えすることを通じて、企業のバランスシート悪化により資金需要が制約されてしまう状況も、ある程度は早い段階で軽減することができただろう。従って、財務上の脆弱性は、1990年代の日本において、追加金融緩和の潜在的な有効性を否定するものではなかった。

5 財政政策この章では、1990年代のデフレと景気停滞を避けるために財政政策をもっと使う余地があったかどうかを事後的に検証する。90年代の前半においては、金融政策と同様に、従来の基準からすればかなりの規模の景気対策が打たれたと言うことができよう。しかし、民間消費の下押し圧力が強く、この長期間にわたる財政赤字も経済を大きく引き上げることはできなかった。また、景気対策の編成形態が違っていたら、より効果的に需要を下支えした可能性がある*39。 よって、90年代半ばに存在した経済へのリスクを考えれば、より大規模でより適切にターゲットを設定した財政刺激が望ましかったといえる。

5.1 財政政策のスタンスは適切であったか?

5.1.1 日本の予算の変遷1992 年に実質 GDP が急減したにも係わらず(資料 V.1 の上の表を参照)、構造的な財政赤字額の変化で測った財政スタンスは、1992 年はわずかに拡張的であるに過ぎなかった。しかし、1993 年においても実質GDPが弱かったため、その年の財政は拡張した(GDPの約 2.5%)。1994年には経済は改善しているようにみえ、債務負担が増加し始めていたので財政政策はほぼ中立であったが、1995年には再び拡張に転じた。

*38 Gibson (1995)は、銀行が弱体化したことが投資の減速に及ぼした影響は比較的少ないという証拠を提供している。*39 1990年代における日本の財政政策の規模や有効性については、Posen (1998) 第 2章、Muhliesen (2000)、Kuttner and Posen

(2002)を参照

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5.1.2 財政政策で考慮すべき点財政が拡張的かどうかは、構造的財政赤字の額だけでなく、減税か歳出拡大か、時限的か恒久的な施策か、どのように財政を発動するか、というような他の選択にも左右される。1990年代の日本では、こうした点が学界や政策担当者の間で大きな議論をよんだ。財政当局が実際に行った選択を理解するためには、いくつかの要素の検討が有用である。まず、日本の予算は、社会的セーフティーネットが比較的限定的であるため、他の先進国と比べて景気感応性が低く、自動スタビライザー機能も比較的弱い。よって、日本の財政による景気刺激は、裁量的な財政措置により依存している*40。また、高齢化が将来の予算に及ぼす影響への危惧もあって、当局は恒久的な施策を行うことに非常に慎重であった*41。そうしたことも手伝って、日本の景気対策は本予算ではなく、資料 V.1に列挙されたような補正予算に依存していた*42。 さらに、表からも明らかなように、こうした予算措置は後で簡単に取りやめることができるような施策―公共事業(もとから諸外国より多かったのだが)や、景気後退期の後期には、依存度は少し低いが、一時的な減税(一例としては、1994年度の 5.9兆円にのぼる特別減税)―に大きく依っていた。国民が所得制約に直面しているという仮定の下で、こうした所得移転は多分他の施策と共に「第 1段階」としての景気刺激効果を発揮したと思われる。しかし、財政政策が自律的な景気拡大を促進するには、「第 2段階」の民間消費につなげなければならない。この点について政府の財政政策は批判を受けた*43。公共投資については、日本の公共事業は大変政治的で、政治家が自己の選挙区での支持を固めるためにこうした支出を利用しているという指摘がある*44。 したがって、数多くのプロジェクト―例えば、交通量の少ない地域での道路や橋梁―が、最も差し迫ったインフラ需要を満たすことがなかったのである。こうした公共投資が、明らかにより生産的なプロジェクト―すなわち、明らかにより生産性であり、将来の成長余力への信頼を向上させ、消費を増加させるかもしれないようなもの―に向けられていたら、自律的な景気拡大の起爆剤としてもっと効果を持ち得たと指摘されている*45。(下の V.2 では債務でファイナンスされた財政支出について、民間投資をクラウド・アウトし、民間消費のリカーディアン的な縮小につながるという、別の二つの批判について述べる。)公共事業よりも他の財政支出の方が、特にすでに公共投資の水準が高かっただけに、効果があった可能性がある。企業が従業員の解雇を避けたがり、政府が業績の悪い企業を倒産させるのを嫌がるという日本の昔からの伝統についても数多くの指摘がある*46。より確固とした社会的セーフティーネットをつくり、勤労者のためのトレーニングや援助を支えるような支出が、バブル崩壊後の失業者を生むことへの抵抗を和らげ、雇用や産業の再調整を加速した可能性がある。さらに、こうした支出が、こうしたセーフティーネットの受け手の経済的困窮を緩和し、公共事業よりもより多くの第 2段階の支出につながった可能性もある。また、初期の景気対策にもっと減税を取り入れていれば自律的な景気拡大をより効果的に後押しできたとも指摘されている。クラシックなケインジアン分析によれば、減税の一部は貯蓄にまわるので、政府支出が減税

*40 Posen (1998) 第 2章、Muhliesen (2000)を参照*41 Posen (1998) 第 3章を参照*42 各年度の日本についての OECDエコノミック・サーベイに景気対策について追加的な情報や分析が含まれている*43 日本の大規模な公共工事プロジェクトの問題点についての議論は、Ishii and Wada (1998)を参照*44 Lincoln (2001)第3章、Hijino (2001)を参照*45 Yoshino and Sakakibara (2002)を参照*46 日本の雇用慣行については Kazuo (1995) 第7章参照。Lincoln (2001) は諸々の利害関係が事業再構築や資源の再展開の妨げになることを論じている

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よりも大きな需要喚起効果を持つ。しかし、減税の方が第 2段階や第 3段階の民間消費喚起効果がより大きいなら、公共支出の拡大よりも景気刺激効果は大きくなるかもしれない。この点では、初期に政府が実施した一時的な減税は多分あまり効果がなかっただろうと思われる。一般的には、消費者は生涯所得とマッチするように生涯消費を調整すると考えられる。一時的な減税は生涯所得にあまり影響を与えないので、恒久減税より貯蓄に回る割合が大きくなる。しかし、前述のように、政府は急速に進む人口高齢化とそれに伴う財政負担もあり、恒久減税に対して抵抗感が強かった。もし一時的な減税をするなら、所得でなく消費に着目した立案をしていればより効果があったかもしれない。いっとき、日本政府は「消費バウチャー」*47 による消費喚起を試みたことがあったが、バウチャーが、もともとあったはずの支出以外に使われることを確実にする手立てはなかった。実施されなかったが、より効果があった可能性があるアプローチは、一時的な消費減税である。消費者は物品が将来値上がりすると思えば現在の支出を増やす傾向が高くなるからである。強力な消費インセンティブをもち、一時的である(長期的な予算制約を考えると適切であったはずである)ため、1990年代前半の日本にとって、一時的な消費減税が大変有用な手段であっただろうと考えられる。

5.1.3 他の景気後退との比較振り返ってみれば、具体的な手法はともあれ、1990年代前半の日本の景気対策はもっと大規模な方がよかったことは明白なように見える。しかし、1992年から 1993年にかけて、累計で構造的財政赤字を 2.5%増加させたというのは、資料 V.2で示されるように、他国が景気後退期にとった施策に引けをとってはいない。例えば、1982年から 84年にかけてのアメリカでは、需給ギャップはもっと大きかったが、財政による景気対策はGDPの 2.75%と推定される。アメリカの 1990年から 1991年の景気後退においては、財政による景気刺激はさらに小さかった。景気後退期にもっと大きな財政による景気刺激を行ったのは 1982年から 84年にかけてのカナダ(推定で GDPの 7%を超える需給ギャップに対応し、3年間で GDPの約 4%)と、1992年から93年にかけての英国(3年間で約 5%)だけである。

5.1.4 FRB/グローバル・モデル分析追加的な財政政策が日本経済をデフレへの転落から救えたであろうか?資料 V.3上段の表は FRB/グローバル・モデルの試算による、1993年から 1995年までの各年において、需給ギャップをゼロにするために必要であった追加的財政支出(短期金利は実績値を前提とする)を示す。試算結果は GDP比 0.5から 1%である。これは小さい額ではないが、1994年には政府債務の状況はコントロール可能であったし、充分実行可能な額である。さらに、このモデルによれば、物価上昇率は 0.5から 0.75%嵩上げされ、かなり低水準ながらもゼロ以上で推移したと試算される。需給ギャップをゼロに持っていくために必要な追加的財政支出が比較的小さいのは、FRB/グローバル・モデル上での日本の財政乗数効果がかなり大きいことによる。資料 V.3下段の表にあるように、日本は、輸入の割合が少なく、クラシックなケインジアン乗数からの「漏れ」が少ないということにより、他の先進国よりも乗数効果が高いと推計されている。もちろん実際は、前述のような理由により、モデルが示すよりも日本の財政政策の効果は小さかった可能性もある。しかし、乗数効果がこのモデルの推計の 1/3だったとしても、1993

年から 95年まで需給を均衡させるために必要だった累計財政コストは GDPの 6%である。これは大きな額だが、デフレと長期にわたる景気後退を防ぐためには使う価値のある金額ではなかっただろうか。

*47 消費バウチャーは「地域振興券」と呼ばれ、1998年 11月の景気対策で提案され、1999年初頭に導入された。

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5.2 1990年代において財政政策は効果を失ったか

長期に亘る経済停滞と財政赤字の持続、日本の公的債務の大幅な増加が同時に起こったため、1990年代には財政政策は経済活動に影響を与えることができなくなったという指摘がある*48 公的債務の増加は同じだけの民間消費の減少を生んだだけだという主張もある*49。(この「リカーディアン」な見方では、消費者は政府支出が生産的でないと考えれば、政府支出増加と同額だけ消費を減らす。政府債務の増加が後に税の増加によって返済される必要があるからである。) 理論的には、公共投資の増加が、主に日本の人口高齢化が将来の予算や公的債務の規模に与える影響もあって、長期金利の上昇を通じて民間消費をクラウド・アウトした可能性もある。最後に、財政による景気刺激が円相場のさらなる上昇につながっただけ—資料 V.4にあるように、円高は 1994年と 1995年の大幅な純輸出の減少の一因である—という可能性もある。しかし、日本の財政政策が経済を動かすことができなくなったという明白な証拠はそれほどない。第一に、政府債務の上昇への懸念が消費の足を引っ張ったという「リカーディアン」な議論は、1990年代に日本の家計貯蓄率が実際には低下したという事実と合致しない(資料 V.4)。実際、資料 V.4 の表に示されるように、1990年代前半は消費は、所得の低下を考慮すれば、驚くほど堅調であった。第二に、1990年代前半の長期金利の大幅な低下や経済の供給超過を考えれば、財政による景気刺激が民間消費をどう持続的にクラウド・アウトし得たか考えにくい。同じ理由で、この時期の円高に政府債務の上昇が大きく影響したとも考えにくい。

1990年代に財政による景気刺激が自律的な景気拡大に繋がらなかったことについて、よりあてはまり得る説明は、日本の財政政策が、「バブル経済」崩壊後の大幅で持続的な民間需要の減退に対応していて、財政赤字の拡大は民間消費の減退によって打ち消されてしまったというものである*50。 例えば、資料 V.4の下段の表が示すように、1992年から 93年にかけての公共投資増加率の大幅な上昇は民間投資の上昇率鈍化と同時におきている。表にあるように、1992年と 1993年において、民間投資、特に非住宅固定資産・在庫投資が、財政による景気刺激の大部分を打ち消しており、GDP の弱さの大きな原因になっている。GDP が 1992 年と1993年にプラスであったということは、財政が大幅な負のショックをある程度は打ち消す能力があったと示唆するものである。前述のように、1997年の景気後退―この年に消費税が引き上げられ、財政政策も緊縮に転じた―も、財政政策の有効性を示している。 このような経済にかかる負の力に加えて、財政による景気刺激に対して民間消費があまり反応しなかったのは、財政政策が経済を刺激する力をなくしたというよりも、そうした景気対策が、マクロ経済へのインパクトを最大化するようにデザインされていなかったからかもしれない*51。前述のように、公共工事プロジェクトに大幅に依存し、一時的な減税にも頼ったことが、財政刺激の効果を減退させた可能性がある。社会的セーフティーネット関連の支出や一時的な消費減税の方がより本物の景気刺激になり、経済の長期的なポテンシャルを引き上げたかもしれない。

6 金融・財政ポリシーミックス直前の 2つの節は、金融政策あるいは財政政策のどちらか一方を緩和していたなら、日本のデフレーションと長期不況を防ぐ上で役に立ったはずだと結論している。金融・財政政策それぞれが発揮したであろう効果を

*48 Perri (2001)、Asako (1997)が日本の財政政策の乗数効果の低下要因の分析のサーベイを提供している*49 Asher (2000)は「膨れ上がる公共債務についての国民の懸念が、リカーディアン的な「予備的貯蓄」を生んでいる面が結構ある」と主張しているが、Kutter and Posen (2002)はその見方を裏付ける証拠はあまりないとしている

*50 日本経済の、1980年代の資産価格バブルの崩壊後の調整についての詳細な分析は、Bayoumi and Collyns (2000)を参照*51 Posen (1998)と Yoshino and Sakakibara (1992)を参照

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個別に切り出して示しているモデルシミュレーションがいくつかある。一方、その中には、金融・財政の両方の政策を同時に適用した方が、望ましいマクロ経済的な結果を達成するためにより役立ったというシミュレーションもある*52 。政策が効果を及ぼす速度に制約があるならば、両方の政策を同時に使うことで、必要な水準の刺激をより速く生み出すことができるだろう。さらに、日本が 1990年代に直面したような状況では、両方の政策を同時に使うことで、一つずつの政策が引き起こす望ましくない副作用を減らすことができる。どちらか片方の道具を使い過ぎてしまうということが防げるからである。たとえば、減税や財政支出増加は、将来支払わなければならない政府の債務負担を増やしてしまう。しかも、財政手段はどちらも、そもそもの性質からして経済に一過性の刺激しか与えることができない。次の期間にも継続して刺激を与えたければ、さらなる減税や、さらなる支出増加が必要となり、結果的に債務に悪影響をもたらしてしまう。金融政策手段はより持続的な刺激を与えることができるが、こちらにも望ましくない副作用はある。特に、金融政策に過度に依存し過ぎると、資産や為替レートの行き過ぎた上昇や乱高下を誘発する。これは、別の理由から望ましくない。最後に、低インフレ率の環境では、名目金利のゼロ下限によって伝統的な金融政策が制約を受ける。この問題点こそが、日本の経験に関して我々関心を抱くきっかけとなったものである。

1990年代前半の日本に追加すべきであったマクロ経済的刺激として、ポリシーミックスはより金融緩和に傾いたものとすべきであった。特に初期の段階においてはそう言える。この結論は、急速な高齢化によって迫り来る債務負担、軟調な株価と地価、為替レートの上昇といった点に基づくものである。1994 年において、もっと拡張的な金融政策を取っておけば、その年に起きた長期実質金利の急上昇や強烈な円高を避けられたかもしれない。しかし、1990年代半ばに名目金利がゼロに近づくにつれて、伝統的なマクロ経済的緩和策の余地が (膨大な債務負担にもかかわらず)財政政策に移ってしまったのは明らかである。金融政策と財政政策の双方を (特に 1994 年に) 緩和していた場合の利点を考えると、なぜ日本がそうしなかったのだろうかという疑問が浮かぶ。その答にはおそらく、経済学的な要素と政治的な要素の双方が含まれている。まず、既に述べたとおり日本経済はその年に回復し始めており、金利の上昇と円高は、成長を妨げる、対策しなければならない障害としてでなく、不況から脱しつつあることへの市場の追認として当局の目に映ったのかもしれない。さらに、日銀は、政府負債を言われるがままにマネタイズすると見られるのを嫌ったように思える。このような政策が日銀の信認を損ね、ついには制御不能なインフレにつながるのを恐れたのであろう*53 。もちろん、外部の観察者の大多数は、ある程度のインフレーションは望ましいものであったと論じるであろう。限定された量だけ負債をマネタイズすれば、インフレ期待を上昇させることによって妥結賃金を引き上げ、実質金利を引き下げ、消費支出を刺激するのに役立ったであろう。より一貫した金融財政政策は、財政の拡張を金融政策により下支えするので、政府が赤字を拡大し過ぎることがないという予測をもたらす。このように首尾一貫した金融・財政政策は、金融政策だけ、あるいは財政政策だけを拡張した場合と比べ、より大きなインパクトを日本経済にもたらしたはずである。

*52 FRB/Global モデルの構造では、金融政策と財政政策の組み合わせが産出とインフレ率にもたらす効果が、金融政策と財政政策をそれぞれ個別に行なった場合の効果の和にほぼ等しくなる。このため、財政と金融の協調による政策手段のシミュレーション結果を別途示すことはしない。

*53 Ueda (2001)では、国債購入がインフレ期待を押し上げ、長期金利上昇を引き起こす懸念に言及している。

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