sekaisi15 02 p12~14 · 2015. 10. 14. · title: sekaisi15_02_p12~14.indd created date: 10/2/2015...

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  • たマヤ文明の比較研究は,旧大陸の諸文明あるいは西洋文明と接触後の社会の研究だけからは得られない,新しい世界史観や視点を提供し,西洋中心的な人類史観をのりこえることにつながる。 マヤ文明は,広範な地域間ネットワークに参加して多くの文化要素を共有しながらも,地域差も有したネットワーク型の文明であった。マヤ地域には「統一王朝」はなく,地方色豊かな諸王国が共存した。大王朝が他の王朝に内政干渉することもあったが,旧大陸の諸文明とは異なり,遠く離れた王朝を征服して奪いつくし直接統治することはなかった。このことは,人類史で珍しい現象であり,「統一王朝=文明」という見方への反証である。旧大陸の「四大文明」の統一王朝や首都クスコを中心にインカ帝国がアンデスの統一をなしとげたのとは対照的といえよう。■マヤ文明は9世紀に崩壊しなかった 古典期終末期(800~1000年)の9世紀ごろになると,マヤ低地南部の多くの都市で神聖王を頂点とする国家的な政治組織が衰退し,王の図像や偉業を刻んだ石碑をはじめとする石造記念碑や神殿ピラミッドなどの大建造物の建立がとだえた。そして諸都市の人口が激減し,放棄された。こうした都市が再興することはなく,マヤ低地南部の大部分はジャングルにおおわれ,人口が希薄なまま今日にいたっている。この現象は,今なお「神秘的なマヤ文明のなぞの崩壊」としてマス=メディアに取りあげられることが多い。 衰退の原因としては,⑴人口過剰,⑵環境破壊,⑶戦争,⑷干ばつ,⑸経済組織と交易路の変化,⑹外敵の侵入,⑺農民の反乱,⑻マヤの宗教にもとづく宿命的末世観,⑼自然災害(地震,ハリケーン,害虫など),⑽疫病の流行など,さまざまな仮説が提唱されてきた。現在では,多様で複雑な社会変動の過程を単一の要因で説明することはできず,複数の要因の相互作用があったにちがいない,ということで研究者の意見が一致する。 ⑷干ばつに関しては,マヤ低地北部の湖底堆積層などのデータにもとづいて,9世紀に降水量が減少したという仮説が提出された。しかしマヤ低

    地南部で多くの都市が9世紀に衰退するなかで,より乾燥したマヤ低地北部では多くの都市が繁栄した。この矛盾はどのように説明できるのだろうか。私たちの研究チームは,グアテマラのセイバル遺跡付近の湖沼でボーリング調査を実施し,環境史を高精度に復元しているところである。 現在のところ,マヤ低地南部の古典期マヤ文明衰退の直接的な要因として最も重要視されているのは,⑴人口過剰,⑵環境破壊と⑶戦争である。私は,農業を基盤とした古典期マヤ文明に衰退をもたらした最も根本的な要因は,人口過剰と環境破壊であったと考えている。マヤ低地南部では8世紀に総人口がピークに達し,農耕地や宅地の拡大によって森林が減少し,農耕によって土地が疲弊した地域が多かった。地盤が石灰岩の薄く浸食されやすい熱帯低地の土壌は,いったん土地が疲弊するとその再生に時間がかかる。多くの都市で,人口増加のペースが土地の再生に必要な時間を上まわり,食料が不足した。都市化が進むと,非農民人口が増加するとともに,農耕地が不足し,さらに農業が圧迫された。農民は都市を離れ,水と食料を確保できる土地に移住していった。多くの都市が巨大化して繁栄をきわめた結果,その限界をこえて衰退していったのである。■マヤ文明の盛衰から学ぶ マヤ低地南部の諸王は,戦争や生態系の悪化といった諸問題に対応するために,現代の私たちからみると,最悪のときに最悪の解決策を講じた。すなわち,自らの権威を正当化し,神々の助けを請うために,より巨大な神殿ピラミッドを建設し,更新し続けたのである。それは当時のかたよった考え方や「常識」,とくに宗教観念にもとづいたお決まりの解決法であった。神殿ピラミッドの建設活動は,各王朝が競争して行った政治宣伝活動であると同時に,マヤ人の山信仰と深く結びついていた。賦役にかり出された農民の負担は,より大きくなったであろう。農業がさらに圧迫され,その結果,食料が不足し,戦争が激化した。古典期末の大神殿ピラミッドは,マヤ文明の黄昏時の始まりを象徴していた(図2)。

    − 13 − 世界史のしおり 2015②

  •  心配なことに古典期末のマヤ文明の傾向は,スケールや時代背景はまったく異なるが,西洋科学文明の「進歩」や市場原理主義を追求した結果,70億人の「宇宙船地球号」が直面している現代の重大な危機に酷似している。例えば,熱帯雨林の減少,砂漠化,オゾン層の破壊,土壌汚染,酸性雨による生態系の破壊といった地球規模の環境破壊,日本をはじめとする先進諸国における農業人口の減少,今後の地球人口の増大に伴う食料難や飲み水の不足,さらに地球上で絶えることがない戦争やテロがあげられよう。 人間の一生では観察できない数千年という時間わくのなかで,いつ,どこで,なぜ,どのように,文明が盛衰したのかを検証できるのが,考古学の強みといえる。日々の生活に追われる私たちは,文明の盛衰の全プロセスを一代では観察できない。30世紀の人類が,「21世紀の人類,日本人は,諸問題を解決するよりも,むしろ悪化させるような悲惨な対応策を講じてしまった。なんと愚かだったのか」と嘆かない保証はない。マヤ文明を学ぶ今日的な意義の1つは,ささやかながら現代地球社会の諸問題の解決に光明を投げかけうることである。私たちが持続可能な成長をとげるためには,自らのかたよった考え方や見方,現在の「常識」の限界を認識して超克できなければならない。そして,新たな選択肢を探求していく必要がある。 ポジティブな面では,マヤ人は多様な自然環境と共生し,2000年近く,都市によってはそれ以上にわたって持続可能な発展をなしとげた。マヤ文明という高文明は,マヤ地域全体からみれば,決して9世紀ごろに「崩壊」して「滅び去った」のではない。その後も16世紀にスペイン人が侵略するま

    で数多くのマヤ都市が,マヤ低地北部やマヤ高地を中心に興隆した。マヤ文明はわれわれ人類の歴史の重要な一部であるだけでなく,現代からもかけ離れたものではない。植民地時代(16世紀~1821年)を経て,800万人以上のマヤ人が,マヤ文明が発達したのとほぼ同じ地域に住み,計30のマヤ諸語を話し,人口は増加し続けている。マヤ文化は,今日にいたるまで形をかえながら力強く創造され続ける,現在進行形の生きている文化である。 マヤ地域には巨大な統一王国がなく,多様な王国が共存したために,マヤ文明全体が9世紀に崩壊することはなかった。マヤ文明がもつ多様性の強みといえよう。強大な統一王国の場合,頂点がくずれると,文明全体が危機に瀕する。生物多様性の保全が重要であるのと同様に,多様性を保つことが,マヤ文明の回復力(レジリアンス)を高めた。これは,画一化する現代社会がマヤ文明を学ぶ今日的意義の1つといえる。日本は人口急減や超高齢化という大きな課題に直面しているが,東京一極集中ではなく,各地方がそれぞれの特徴を生かした持続的な社会を創生していくことが重要であろう。 マヤ文明の長期間にわたる成功と究極的な失敗の要因を知ることは,大惨事を回避するかぎになるかもしれない。私たちは,「得意の科学技術」によって危機を克服できるという,過度な期待をしていないだろうか。現代文明は,地球環境の限界をこえて拡大していないだろうか。一部の人の短期的な利益を追求するあまり,長期的な衰退を招いていないだろうか。マヤ文明は,「文明とは何か」という問題を私たちに問いかけている。

    【参考文献】青山和夫『マヤ文明 密林に栄えた石器文化』(岩波書店,

    2012年)青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明 増補版』(京都大

    学学術出版会,2013年)青山和夫,米延仁志,坂井正人,高宮広土『マヤ・アンデ

    ス・琉球:環境考古学で読み解く「敗者の文明」』(朝日新聞出版,2014年)

    青山和夫,米延仁志,坂井正人,高宮広土(編著)『文明の盛衰と環境変動:マヤ・アステカ・ナスカ・琉球の新しい歴史像』(岩波書店,2014年)

    図2 世界遺産ティカル遺跡(グアテマラ)の神殿ピラミッド(筆者撮影)

    − 14 −世界史のしおり 2015②