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Hitotsubashi University Repository
Titleフランスにおける社会学と心理学の交錯 : 集合心理学か
ら身体性の社会学へ
Author(s) 津田, 真人
Citation 一橋論叢, 115(2): 403-420
Issue Date 1996-02-01
Type Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL http://doi.org/10.15057/12105
Right
フランスにおける杜会学と心理学の交錯
集合心理学から身体性の社会学へ-
津 田
真 人
( 63 ) 7 ~~ ~ ;:, }C :~S '~ ;5*~-~A~~~~ ~ ,L,~~-~a)~~'+~~~
社会学か心理学か。それはギュルヴィソチを持ち出す
までもなく、「一九世紀の虚偽問題」をなす問いの一つ
にすぎない[蟹一竃-己。だが少なくともフランスでは、
社会学と心理学の対立は、一八世紀以来の知的伝統とい
われるほど根強いものであった[竃一ω]。とりわけそれ
は、コントが心理学を否定し、デュルケームが心理学を
排斥し、その弟子たちが心理学を侵略したからだとしば
しばみなされてきた。あるいは心理学の側が、内観によ
づて、生理学によって、実験によって、純粋直観によっ
て、孤立せる個人だけを対象としたからだとみなされて
きた。
しかし仔細に検討するなら、事態はそれほど単純でな
いことがわかる。社会学と心理学が対立の背後でいかに
陰に陽に交錯しあっていたか、相互排除のゲームがいか
に椙互浸透にもとづいて繰り広げられていたか、そして
そのただなかに、虚偽問題の土俵を超え出る新たなパラ
ダイムがいかに胚胎していったか、見い出されるのはむ
しろこのことである。以下では、とかく見失われがちな
(1)
社会学史のこの一種の死角を、伝記的事実もまじえなが
ら、できるかぎり明るみに出してみたいと思う。
コントと心理学
コントが『実証哲学講義』において実証諸科学のヒエ
ラルヒーを提示し、数学、天文学、物理学、化学、生物
学につづく第六の科学として「社会学」を措定したとき、
そこには「心理学」の名は含まれていなかった[?-
403
一橋論叢 第115巻第2号 平成8年(1996年)2月号 (64)
ミ占o。]。社会学が実証科学の最高段階に位置づけられた
のに比して、心理学は科学としての存在意義さえ認めら
れていない。ここに事実上、社会学と心理学の対立の火
ぶたが切って落とされたとされるゆえんである。
だが注意すべきなのは、コントが人間心理の研究一般
をすべて否定し去ったわけではないことだ[トニω-蜆一
竃一曽㊤-8]。当時の彼にとって「心理学」とは、何よ
りもクーザン折衷学派の唯心論であり、神に至る手段と
してのその内観主義的方法であった。とすれぱ心理学は、
未だ形而上学的段階にとどまる「神学の最後の変種」で
こそあれ、実証科学のうちに数え入れられるべくもない
ものであった[?戸ωo-ω二戸畠9乱o。]。コントが否認
、 、 、 、
したのは、この種の心理学である。決して心理学そのも
のではない。
現に同書には、実質的内容としては心理学に相当する、
彼自身の人問分折が垣間見られる[?員畠o-o。㊤]。し
かもそれは、いっさいの心的現象を諸能力(註昌豪ω)
のダイナミズムに帰す点で、当時の内外の能力心理学的
傾向、とりわけスコヅトランド学派や論敵たるべきクー
ザン学派とも共通する内容をもウていた[竃』き山]。
だからこそまた彼は、形而上学的か実証的かという、方
法上のちがいを強調したのでもある。実証的であるとき、
諸能力は(ガルの骨相学を通じて)生物学的土台に基礎
づけられ、心理学はあくまで生物学の一部にとどまらね
ばならない。生物学の一部である以上、ヒエラルヒーの
順序からすれぱ、それは社会学の基礎ともなりうる。だ
が生物学の一部である以上、それは独立科学としての心
理学ではない。彼の具体的な心理分析は、生物学の仕事
なのであった。
しかしコントと心理学の関係は、これで尽きはしない。
最晩年の『実証政治体系』に至ると、まず心理学は生物
学的土台からむしろ社会学的土台に据え直される。自ら
創案した社会学のもとでガルの骨相学も相対化され、社
会学による人間の歴史的考察なし.には、いかなる天才を
もってしても生物学は完結しえないとされるようになる
[「-一s㊤]。前著では心理学は本質的に生物学であり、
それから社会学であウたのに対し、今や心理学は本質的
に社会学であり、二次的にのみ生物学である[窒』窪]。
もっともこれだけならまだ、心理挙が生物学と社会学の
はざまに埋没する点で変わりがない。
404
( 65 ) 7 i:~ ~ ;~ ~C :~'~ ~~~AI~i~:~: ~JL*~~a~~a)X;~~e~~
ところがもう少し先では、生物学、社会学につづくさ
らに第七の、究極の科学として、「人間学」(-.豊;『暑O--
OOq-①)ないし「道徳学」(すヨO邑①)が提起されるに至
る[ご戸畠†㊤]。それは生物学と社会学の発展を基礎
にして、しかもなお片方だけでは明かしえぬ人間個性
(特に感情生活)の研究を課題とし、恐らく存分に追求
されてゆけぱ固有の意味での心理学、あるいは社会心理
学になったはずのものである-この意味でオールポー
トはコントを社会心理学の創始者とみなしている[∵
二二]。しかもその心理学は、生物学的、社会学的、心
理学的の三重のアプローチを包括する、まさに全体的な
人聞学の先駆となウていたであろう[-二七一ξ一二二、
二八、三五]。コント自身、「このような科学革命」[ゴ
月おごを敢行する『実証道徳学体系』の公刊を予告し
ていたが[ー二<』亀]、来るべき年の二年前にこの世を
去ってしまった。その種子はしかし、やがて一九二〇年
代になって盛んに芽を噴くだろう。
ニ デュルケームと集合心理学
『実証哲学講義』の
「社会学」を、
具体的な独立科学
として確立することに腐心したのが、デュルケームであ
る。しかもそれは、コント以上に生物学との連続性(社
会有機体説1・)を断ち切り、またコント以降発展した心
理学との間に、コントには必要のなかった明確な領域区
分を示すものでなければならなかった。心理学でも生物
学でも社会生活は説明できない。「社会生活についての
説明は、社会それ自体の性質のなかに求められていかな
けれぱならない。」[冒二塞]。しかも社会生活が人間生
活の大半を占めるものであるかぎり、心理学の意義は最
小限に切り詰められる運命にあるだろう。「社会学」は
今や「社会学主義」となり、コント以上に心理学は排斥
されるかのようである。
しかしデュルケームもまた、心理学そのものを否定し
たのではないことに注意しよう。それどころか、科学と
しての心理学の地位も否定しない点で、コント以上の歩
み寄りさえみせている。ただ心理学と社会学の間(ある
いは生物学と心理学の間)に、物理化学的諸科学と生物
学を隔てるのと同じ不連続性をみるのである[冒一冨o。一
、 、
-o。一ミー㊤]。コント時代からの心理学のこの昇格は、心
理学自体が折衷学派的な形而上学を脱して、次節にみる
405
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ような多様な発展を遂げ始めていたことと正確に照応す
る。コントとデュルケームでは、すでに対峠すべき「心
理学」の内実が異なっているのだ。
そのうえデュルケーム自身、青年期から心理学の根深
い影響を被っていたことはもっと留意されてよい。彼は
高等師範学校の二年次に、「自我論」のすぐれたレポー
トを書き、一時は心理学の道を考えていたほどであった
し、[き一轟ム]、同じ頃からブートルー、ルヌーヴィエ、
リボー、そして少し後にはヴントの思想によって大きな
影響を受けている。特にリボーは、デュルケームの思想
(2)
形成や経歴形成に重要な役割を果たすだろう。こうした
素地のためかデュルケiムは、自殺論ではアノミーやエ
ゴイスムの心理分析を彼なりに差し挟み[冨一曽㌣違]、
また教育論では児童心理学の知見を積極的に導入して
、 、
[ミ一〇。O。占ニミーO。一畠二8-曽]、社会学と心理学の協働
の一つの先駆的なモデルを提供さえしている。
だがそればかりではない。彼にとうて社会現象がそも
、
そも、これまた思考様式であり行為様式である以上、そ
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
れ自体心理的なもの(心性)である[冒一×≦]。ただ
しこれまで心理学が扱ってきたのとは位相を異にする心
性、一種独特の(吻ミ電§蚤)心性、すなわち「集合
(3)
心性」である。それを彼は、リボーが「精神性」を生理
学にも形而上学にも還元できない心理学固有の実証科学
的対象として独立させたのになぞらえつつ、今度は心理
学にも形而上学にも還元できない社会学固有の実証科学
的対象として、「超精神性」(ξ寒易亘き;-豪)と呼ぶ
[冨一ミー⑩]。
社会学のこのいわば心理学的性格を、彼は最初期から
一貫して主張しており、だから社会学は当初「社会心理
学」(寝さぎ一轟討ωOO邑①)とも呼ぱれた。恐らく、当
時感銘を受けていたシェフレの立場に倣ったものにちが
(4)
いない。さらに、タルドとの論争がおこり、『社会学年
報』の創刊が準備される一八九〇年代中頃からは、次第
に「社会心理学」よりも「集合心理学」(蕩}90一〇〇q庁
8冒o饒毒)の呼称が用いられるようになる。自らの立
場を、もはや個人心理学のみならず、個人心理学の延長
に社会学を還元する(タルドの)「社会心理学」および
(ジンメルにあてた)「心理学的社会学」(890一〇①q討寝<-
(5)
go-oo目5毒)と峻別するためである。これに対して集
合心理学は、社会学の一分野(社会の解剖学たる社会形
406
(67) フランスにおける社会学と心理学の交錯
態学に対する、社会の生理学)、いやそれどころか「社
会学の全体」と等置され[冨一おコO、後期になるほど
ますますその傾向を強めてゆく。
ここに切り開かれたパラダイムの新しさを、まずは看
(6)
過してはならない。それは心理学-社会学の関係を、個
人の心性-社会の構造という陳腐な二元論から切断し、
諸個人の集合心性という新たな次元をつきつける[冒一
3]。心性は孤立せる個人の心性だけでなく、相互作用
しあう諸個人の心性、集合心性でもある。杜会は凝固せ
る客体的な構造だけでなく、流動せる主体的な心性、集
合心性でもある。もはや単なる個人が主体なのではない。
さりとて無力な客体として、集団の論理に翻弄されるわ
けでもない。集団の論理そのものをたえず集合的に再創
造し(儀礼)、時に創造する(社会変動)諸個人たちの
、 、 、 、 、 、
集合的な主体、個人的欲求でも集団的規範でもないこの
丁スビラシオン (7)
集合的欲 求こそが、主体なのだ[畠一六五-七二]。
しかもなおデュルケームの「集合心理学」は、集合心
性の個人心性とのちがいを強調するあまり、せっかく別
出した集合心性を社会構造のもとに包摂して客体化し
(「社会的事実はモノとして扱え」!)、旧来のパラダイ
ムのうちに回収してしまう(ちょうどタルドの「社会心
理学」が、諸個人の集合的相互作用を個人どうしの模倣
に還元したように)。その結果、心性の個人的部分と集
合的部分から成る「人間の二元性」(ぎ§O&§-§)が
くり返し確認されることになる(それはタルドにも共通
する[庁oo㌣p竃-と)。
、
だが実際には、集合心性が個人心牲と異なるのは、孤
、 、 、
立せる個人の心性に対してだけである。個人心性が孤立
せる個人の心性であるとき、集合心性は凝固せる集団の
構造となって屹立する。孤立せぬ個人、心身的に相互作
用しあう諸個人においては、むしろ集合心性と個人心性
、 、 、 、 、
は融解するだろろ。孤立せる個人、あるいは身体的に隔
、 、 、 、
絶された諸個人という、個人心理学と同じ前提を出発点
に据えてしまうたところに、デュルケームの不徹底はあ
った。社会学と心理学の一見厳格な相互独立関係(ひい
てはそれに基づく相互協働関係)は、こうしてその根底
を共犯関係に浸潤され、たえず足元を掘り崩される危険
にさらされている。
407
一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (68)
三 フランス心理学の発展
デュルケームはまた個人心理学に対して、その多様な
立場の相違を頓着せず、個人に依拠する心理学という公
分母だけを抽山山して議論を進めている。あるときは、連
合主義心理学に言及し、それとは次元の異なる(しかし
パラレルな)諸個人.の連合によって集合心性を説明して
いる[冒二窒-己。あるときはリボー以来の客観的心理
学を引き合いに出し、それとは次元の異なる(しかしパ
ラレルな)客観的な社会学の存在を正当化している
[冨一曽一ωO。二〇。一ミーO。]。あるときはカント派的合理主
義をもちだし、悟性カテゴリーのアプリオリを、個人の
先天的な能カでなく社会の拘束的な先在牲によって基礎
づけている[冨二㌣轟]。あるときはベルグソンを含む
プラグマティズムを論じて、理性や真理の相対性を、個
人的行為の有用性でなく、社会的歴史的な被規定牲に帰
している[曽二亀-戸ミω-凸。
あたかも「集合表象」が、心理学内部の分裂いっさい
を超剋するデウス・エクス・マキーナであるかの、ことく
である。だがそのとき逆に、社会学(集合心理学)は心
理学の内部対立をそっくり持ち込み、潜在的な多義性を
帯びることにならないだろうか。実際それが、デュルケ
ーム学派の組織構造そのものに刻印されてあらわれてく
ることは後に見る。ここではまず、フランス心理学の展
開を概観しておこう。
一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて本格的に進捗
したフランス心理学は、大きく四つのタイプに分岐しな
がら発展した-すなわち、「合理主義」(冨ご◎;=ω昌①)、
「連合主義」(鶉ωOO武ゴ昌邑ω昌①)、「直観主義」(ぎ一巨・
ゴO;尿昌①)、「綜合主義」(ω着艘彗ωヨ①)である[昌一
戸=ミーξ一竃一一四五-五八]。「合理主義」とは、ル
ヌーヴィエに代表される新カント派合理主義哲学に基づ
く心理学である。「連合主義」とは、コンディヤックか
らテーヌに至る要素主義的心理学である。「直観主義」
とはベルグソンの純粋直観の心理学である。「綜合主義」
とはリボーとその弟子たち、すなわちジャネ、デュマ、
ポーラン、ピネらによって開拓された客観的、科学的な
心理学である。
これら四つの潮流のうち、まず合理主義が理性の自律
、 、 、 、
性を主張する哲学的な心理学として、また連合主義が有
408
(69) フラン美における社会学と心理学の交錯
、 、 、 、
機体の連合メカニズムに還元する科学的な心理学として、
対時しあった。哲学か科学かというのが、心理学的世界
をはじめに分画する切断線であった。だが次に直観主義
が、合理主義と連合主義をともに無益な主知主義的抽象
として排斥し、空疎な概念的形式でもバラバラの感覚的
内容でもなく、それ以前の「意識の流れ」そのものにじ
かに向かう、真の哲学的心理学を追究した。他方、綜合
主義は連合主義から出発しながら、しかも連合主義の静
的な限界を内側から突破し、機械的な連合にとどまらぬ
「傾向」(8己彗8)の動的な綜合作用を積極的に掘り
起こす真の科学的心理学を追究した。
哲学か科学かの対立は、ここにも再生産される。だが
、 、
同じ哲学的心理学でも、合理主義より直観主義は動的で
ある。同じ科学的心理学でも、連合主義より綜合主義は
、 、 (日)
動的である。実際一八九〇年前後から、静的か動的かと
いうことが新たな、しかもますます重要な切断線として、
心理学的世界を分画するようになる。合理主義と連合主
義は、それらどうし対立しあいながらも、ともに静的な
心理学として、次第に心理学的世界の背景に押しやられ
ていく。それに・かわって前景にせりだしてくるのは、直
観主義と綜合主義の動的な心理学なのであった[昌二一
=昌一竈二五七]。
二つの動的心理学は、生物学的傾向、感情の重視、無
、 、 、 、 、 、 、
意識への注目、病理学的傾向、要するに身体性にねざす
、 、 、
心理学である点でも、共通している[墨二二二二-七一
窒一一五七]。そのうえでなお身体と身体の関係、すな
わち社会に対する態度において、両者は対極的な指向を
示すだろう。第一に、直観主義は四つの潮流のうち唯一
明確に非あるいは反コント的であったが、逆にリボー以
来の綜合主義は、出発点からコントのクーザン折衷主義
批判を共有している。第二にベルグソンにとっては、純
粋持続はあくまで個人の内部のものであり、社会はそれ
を凝固させる空疎で惰性的な外的形式にすぎなかったの
に対し、綜合主義、とりわけリボー、ジャネ、デュマは、
心理学が個人内部では完結しないこと、「心理学は生物
学と動物学にはじまるとすれば、社会学にその最終的な
開花をみる」[昌二曽日ことに、(恐らくはコントを
下地にして)気づきはじめる。
リボーは感情研究とともに、いよいよ心理機能の社会
性に直面し、そのことでデュルケームやモースらの賛辞
409
一橋論叢第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (70)
も得ている[量L割一墨一×巨目N一畠二①①]。リボーの
路線を継承したデュマは、感惰表現の社会性の研究でモ
ースの研究に積極的に接近し、賦活さえしている[昌一
一8㌣富M]。ジャネは、精神の高等機能の社会性を強調
し、J・M・ボールドウィン(彼は初期リボーの英訳者
でもある)から借用した「ソキウス」(89;)の概念
を多用し[曽二上)四六四]、デュルケームの宗教論も
援用している。あるシンポジウムでは、心理学と社会学
、 、 、 、
が研究手段によってしか区別されないことを、モースと
、 、 、
ともに確認している[轟一轟o。占]。第一次大戦後のフラ
ンス思想界の最大の特徴の一つは、心理学と社会学の接
近にあるとされたが[蟹二二二七-八一ミ』語』害]、
それはまずこのように心理学の側からの接近だったので
ある[昌一八五五]。
四 デュルケーム学派における社会学と心理学
デュルケーム学派とはいうまでもなく、デュルケーム
とその弟子たちのことである。だがその輪郭は意外に明
確でなく[呂、最も中核的なメンバーの思想的立場でさ
え決して一枚岩ではない。実際には、ブーグレ、シミア
ン、モースの三人がデュルケーム学派の「ソシオメトリ
ックな核(昌君鶉890昌痒H且亮ω)」[讐8]を形成
し、各々を中心にこの学派は、少なくとも三つの下位集
団に分凝していたのである。
まずブーグレ集団(ラビー、パロディ)は、いずれも
新カント派的合理主義に依拠し、社会学に科学性よりも
哲学性をみようとする。また、社会学と心理学の関係に
ついてデュルケームと一線を画しつづける。社会的事実
の心理的事実への連続性を強調し、理性の自律性の立場
から社会学的決定論に反対して、彼の「心理学なき社会
学」に「社会心理学」を対置するのだ[蜆二呂]。その
彼らが、『社会学年報』の成立にほとんど主導的ともい
える役割を果たしたのは歴史の皮肉だが[㍗O。-㊤]、し
かし創刊後は対照的に、相対的な比重を小さくしてゆく。
次にシミアン集団(E・レヴィ、アルプヴァックス、
HおよびG・ブルジャンら)は、『年報』成立時こそ小
規模だったが、ほどなく勃発したドレフユス事件での実
践活動を通じて、多くの親社会主義知識人に接近の機会
を与え、その後は人事的にはおとなしくなるものの、学
問的には顕著な役割を果しつづける。しかし、主に近代
410
(71) フランスにおける社会学と心理学の交錯
社会の経済変動や労働者生活を直接の研究対象とする点
で、学派内でも特異な地位を占め、またベルグソンの影
響が見え隠れしているところが興味深い。特に、リセで
三年間その生徒であったアルプヴァックスはそうである。
最後にモー一ス集団は、当初からユベール、フォコンネ
という重要人物を擁したうえ、以後も多くの新メンバー
をコンスタントに増員し、『年報』の作業の半分近くを
担った。非近代社会の研究を重視するこの学派の主流を
なし、デュルケームの立場に最も近く、その死後はモー
スが学派全体の中心となった。だがそもそもモースが叔
父の道を追うことに決めたのは、デュルケーム本人だけ
でなく、リボーのためであったという[塁6竃]。 フォ
コンネもリボーの影響に導かれている[轟二窒]。ユベ
ールとモiスはその共著をリボーに献じた[塞]。それ
に非近代社会の研究自体、「正常で文明的な白色人種の
成人」(-.ぎ巨8巨昌9昌『∋竺90三=瓢)だけを対象
としてきた従来の心理学に対する、リボーの内在的批判
に鼓吹されていた。
こうして、まずブーグレ集団が大きな役割を果たし、
それが低下すると、かわってシミアン集団が、そしてモ
ース集団が勢力を増すのだが、それはあたかも心理学的
世界における、合理主義(と連合主義)の地平から直観
主義と綜合主義の地平への転回と、符合しあうかのよう
である(連合主義はその要素還元的傾向のため、デュル
ケーム学派内に地歩を築くには至らなかった)。ただし
ここでは、あくまでモース集団が主流であり、それに比
べるとシミアン集団は周辺的であった1周辺的なはずの
シミアン集団がしかし、デュルケームの立場を忠実に固
守し、中枢に座るモ「ス集団がいくつかの根本的な修正
を加えることになるーこの逆説に、さらに目を向けね
ぱならない。しかも問題はまさに、社会学と心理学の関
係をめぐうてなのだ。アルプヴァヅクスとモースの相違
にそれはあらわれる。
若くしてベルグソンの洗礼を受けたアルプヴァヅクス
(9)
は、はじめから心理現象への関心が強く、第一次大戦後
にはストラスプール大学の同僚シャルル・ブロンデル
(とプラディヌ)の影響で、自覚的にデュルケミスムと
ベルグソニスムの統合を構想するようになる[o。』ミ]。
そうして、個人意識の流動性(ベルグソン!)とその社
会的枠づけ(デュルケーム!)という図式によって、デ
411
一橋論叢第115巻第2号平成8年(1996年)2月号(72)
ユルケームの集合心理学を貧欲に拡張し、労働者階級の
欲求、記憶の社会的枠組、自殺の原因など、社会学と心
理学の境界領域に斬新な業績をあげていった。一九四三
年にはフランス心理学会の副会長、一九四四年にナチの
手に落ちたときは、コレージュ・ド・フランスの「集合
心理学」講座に任命されたところだった[ミニ;一
曽]。ブロンデルの方もまた、知覚、記憶、感情、意志、
人格といった、従来は個人心理学の領域であった対象に
積極的に集合心理学を適用する[トニ富ふ。。一昌一戸竃㌣
亀蜆一S㌣宣]。
しかしその際、両者はいずれもデュルケームと同じく、
集合心理学を個人心理学と対置し、「人間の二元性」を
強調している。アルプヴァヅクスは、集合心理学と「社
会心理学」、ないしは「心理学的社会学」との区別も堅
持している[N?2凹。あたかもベルグソニスムという
、 、 、 、 、 、
徹底的に反社会学的な心理学を出発点としたことで、か
えってデュルケミスムの二元論を強化したかのようであ
る。ともあれ集合心理学がこうした立場を保持したまま、
対象だけを個人心理学の領分に拡張するとき、それはし
ぱしば社会学帝国主義による侵略と受け取られずにはい
なかった[ド①①-ごωト一ω2U。
なるほどプロンデルは、コントに触発されて、「生理
学的心理学」(「種にかかわる心理学(蕩さぎ一〇〇q討名①・
○曇君①)」)、「集合心理学」(湯さぎ60q庁8二8饒く⑦)
に加え、第三の人間個性を扱う心理学として「差異心理
(10)
学」(寝く争◎一〇阻①3箒『雪まΦ=①)を提起している[午
竃よ]。しかし先にあげた彼自身の具体的研究には、こ
れは生かされていない。アルプヴァックスに至っては、
こうした第三の心理学の試み自体、科学たりえないと批
判して、採用しようとしなかった[ミ一冨㌣ド冨㌣o。]。
だが突破口は意外な所に穿たれる。逆説的にも、学派
の中心的な地点に立ったモースが、まさにデュルケーム
思想のいくつかに根本的な修正を加え、「心理学と社会
学の現実的でかつ実践的な関係」について模索しはじめ
るからである。デュルケーム(およびアルプヴァックス
ら)が、集合心理学という新しいパラダイムを打ち出し
ながら、その集合心理学自体を個人心理学から峻別し、
抽象的個人と抽象的社会の二元図式に回帰してしまった
のに対し、モースははじめから集合心性と個人心性の相
互嵌人を認め[亀』O。。。-8]、「集合心理学」の「個人心
412
( 73 ) 7 7~ ~ ;~ 'C:~~'~ ~#~A~z;~i~h:p ~ILI~:A~'~;e))(:;~~~~~
理学」との、ましてや「社会心理学」や[畠』8]「心
理学的社会学」との[§一轟㊤]、区別に拘泥しない。社
、 、 、
会学と心理学が異なるのは、むしろこの重複領域の背後
、
に、一方には社会形態学的・統計的・歴史的現象が、他
方には生理学的・動物心理学的現象があることに求めら
れる。
そして重複領域の核心にあるのは、デュルケームのい
、 、 、 、 、
う「人間の二元性」ではなく、「全体的人問」(一.ぎヨ昌①
ざ邑)なのである-〕一元的」なのはせいぜい近代
のエリート階層のみで、たいていの場合[§一ω富-呂
人間は、生理的・心理的・社会的の三重の観点から「同
時かつ一挙に与えられる、身体と精神のまる、ことひとま
とまりの全体」[§一ω8]にほかならない[§二實-9
ω竃一畠』員曽ωしO.O--]。そのときまた、「全体的人
問」は社会をも「全体的社会現象」たらしめ、逆に「全
体的社会現象」は人閻を「全体的人間」たらしめるだ
(u)
ろう[ドごー㌣§一××-く-×××]。
このまさに「新社会学主義」(;O・890一〇〇目一ω昌⑦)の
宣言が、彼のフランス心理学会会長の就任演説(一九二
四年)であったことを見逃してはならない[豊らω一昌一
八三三]。当日はピエロン、メイエルソン、デュマとい
づた重鎮からのリプライがあった。概して心理学者から
の評判はよく、隣国のゲシュタルト心理学者ケーラーか
らも共感を得ている[違』;]。なおモースは、その前
年にも心理学会の座長をつとめ[?墨ω]、同趣旨の報
告をしている[畠一轟o占]。また、デュマの研究に触発
されて「感情の義務的表現」の研究を発表し[畠一塞甲
畠]、これがまたデュマの研究を触発している。ジャネ
との基本的な見解の一致についてもすでにみた。ここに
あるのは、もはや心理学への社会学の侵略ではない。そ
、 、 、 、 、 、
れどころか、これら親社会学的な心理学との交流が、学
派の中心に座るモースに一定の見解の修正を誘発した事
実こそ、注目すべきである。
とはいえ、生理的・心理的・社会的な把握という視角
自体、すでに晩年のコントが七〇年も前に提起していた
あの「人間学」ないし「適徳学」の再生、いや遅まきな
がらの出生ではなかったか。社会学と心理学にそれぞれ
分与されていたコントの遺産が、ここに再ぴ合流しあい、
もって完結せざるコントの遺志を開花させるに至ったの
ではないか。現にモースは「全体的人問」の理論を、
413
橋論叢 第115巻第2号 平成8年(1996年)2月号 (74)
「生物学的、心理学的、社会学的な一つの人悶学」(冒①
彗;『暑〇一〇〇目討巨〇一〇σq一2』p蕩着ぎ一〇〇q5亮二〇〇巨o阻-
(”)
違①)と呼ぴ[畠一昌呂、社会学をその一部に限定して
いるほどである[§一轟蜆一畠一害㌣ω]。しかし、彼は少
なくとも意図的にコントの復興を企てたわけではない。
デュルケームの切り開いた集合心理学の可能性を、躍進
めざましい心理学の知見と付き合わせるなかで、おのず
(13)
から、「全体的人間」の理論へと昇華させただけである。
結 集合心理学-から身体性の社会学へ
以上、コント以来両大戦間期にいたる百年間の、フラ
ンスにおける社会学と心理学の関係を瞥見することによ
って、両者の相互排斥が「集合心理学」の確立から「全
体的人間」の理論へと展開し、新たなパラダイムを切り
開きながら、積極的な相互協力へと反転するに至ウた経
緯をみてきた。
ところで「全体的人間」とは、生理的・心理的・社会
的に把握される「身体と精神のまる、ことひとまとまりの
全体」なのであった。とすれぱ問題はもはや、単に心理
現象をめぐる心理学と社会学の関係にとどまらず、それ
を通じて身体と社会とが直接に避遁しあう新たな次元、
、 、 、 、 、 、 、
身体性の社会学の領域を開示することになる。モースが
(M) (帖)
全体的人間の好例として、リズムと象徴を[畠一畠㌣
クナトマニー
ω昌]、死強迫を[§一ω§ω墨]、感情表現を[お一ミO。一
N0。-]、そして身体技法[竃一塞9窒†①]をあげたこと
が、このことを雄弁に物語っている。そこにはモース自
身の早くからの口謂儀礼研究をはじめ、ユベールやエル
ツやグラネら、モース集団の先行研究が下敷きになって
いよう。ヴントやプロイスらの民族心理学的研究も下敷
きになっていよう。そして何より、リボー以来のフラン
ス心理学の伝統が、身体性にねざす心理学であウたこと
も関与していよう。
ともあれ今や人問のいっさいの行為は、生理的・心理
的・社会的に錬成される型、「ハビトゥス」(ぎ巨巨ω)
[§一ω轟]である。どんなに遺伝的とされる肉体の諸能
力も、実は生理的・心理的・社会的、つまり遺伝的だけ
でなく社会的である。反対に、どんなに精神。的とされる
文化的パターンも、実は生理的・心理的・社会的、つま
り社会的だけでなく生物学的である。身体の社会性、か
つまた社会の身体性。この前者の方向(だけ)に「ハビ
414
( 75 ) 7 ~~ :/ ;;~ }C:~S }t ;6#~A~~~~i:!~ Z,L*~!~~~:pa)')(:'~+'*~~
トゥス」論を全面展開させることになるのが、いうまで
もなくブルデューの仕事であろう。しかし後者の方向も、
われわれには課題として残されている。
とはいえ、身体性の社会学に到達したのは、デュルケ
ーム学派内でもモースだけではなかった。とりわけアル
プヴァックスは、モースとはちがった径路で、つまり集
合心理学を貫徹しきることによって、生理的身体そのも
、 、 、 、
のの社会性を見い出すに至っている-身体そのものの
、 、
社会性であって、身体の社会的拘東ではない。本来孤立
的な身体が、何かの目的のために社会的に動員されるの
ではなく、それ以前に間身体的ともいうべき身体どうし
の相互性が、たとえば情動表現に示されるというのだ
[塞一雪〇一ミ」畠-戸5㌣①]。
生理学に深く沈潜しながら、このアルプヴァックスそ
してブロンデルの議論に養われて、やはり情動論を中軸
にすえた独自の全体的人間論を提起することになるのが、.
(16)
ワロンである[竃一㌣嵩一轟二三二-七]。社会学の側
から生理的・心理的、社会的人間に迫ったのがモースで
あったとすれば、生理学の側から生理的・心理的・社会
的人間に迫ったのがワロンであづた。そしてワロンの
「癒合的社会性」を、フッサールの「志向的越境」につ
なげ、人間の根源的な「間身体性」を別出したのが、メ
ルロー-ポンティであった[島一二二五-八、一七01八
六]。ベルグソンから出発したメルロHポンティの現象
学と[曽]、ベルグソンから出発したアルプヴァックス
の社会学とは、うわべの異質性とは裏腹に、案外近いと
ころに位置していたのかもしれない。すなわち「集合心
性」と「間身体性」とは、むしろ同じ出自の、同じ事柄
をさし示す類縁概念にほかならないのではないだろうか。
(1) 両大戦閻期のフヲンス社会学史は未だに手薄であるこ
とを、カラディは指摘している[曽一宝目占。
(2) デュルケームは一八八一年頃から熱心にリボーを読み
出し[轟』窒]、リセ教師時代の一八八三年頃には直接リ
ボーと接触しはじめる[墨一s自巴。そしてリボー主宰の
『哲学雑誌』の編集に誘われ(一八九四年から同誌に新設
された「杜会学」部門を任される[き乙湯])、初期の璽
要な論文の大半をそこに載せるほか、ドイツ留学時には、
リボーの手紙をもってヴントの実験室を訪れている[轟一
蜆3U。
(3) むろんデュルケームが最も多用する概念は、「集合心
性」(昌彗巨ま8=8饒き)よりも「集合表象」(『①肩雰昌1
415
一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (76)
叶き昌8=8箏毒)である。しかし劣らず彼は、「集合感
憎」(眈昌饒昌彗け8=8薫)も多用した。「集合表象」の認
知的側面と「集合感情」の情緒的側面をあわせもつ概念と
して、ここでは「集合心性」に代表させよう。現に彼は晩
年、「諸観念と諸感情の総体」を「心牲」と定義している
[;二]。そしてまきにこの方向で「集合心性」概念の意
義を顕揚したのがレヴィ・ブリュールであり[窒二上)
四四-五]、それをさらに未開社会にとどめず、歴史一般
に拡張したのがアナール派であった[曽一〇。白。
(4) デュルケームが最初に公にした書評論文は、シェフレ
の『社会体の組織と生命』についてであった[二]。この
書は、「社会心理学」なる言葉が最初に用いられた、社会
心理学史上記念すぺき文献でもある[曽一八二-五、四八
五]。
(5) それは『社会学年報』そのものの項目編成に関わる重
要案件として、その創刊前夜・から、とりわけデュルケーム、
ブーグレ、ラビーの間でくり返し議論された。
(6) この意味でそれは、心理学の排斥どころか、むしろ
「新心理学主義」(まO-蕩さぎ一〇〇qオ昌①)と呼ぷこともで
きよう[墨一昌]。
(7) 「集合心理挙」の呼称は、一八九一年に、フェリがシ
ゲーレから借用したのが最初である[匿二8]。だが群衆
心理学では、個人の自覚的理性と異なる独自性は、群衆心
理の動物的野蛮性への退行でしかなかった。デェルケーム
は反対に、集合心性の高貴、集合的主体のそなえる「諸意
識の意識」[旨よ竈]にそれをみる。同様にやがてG・ル
フェーヴルも(アルプヴァックスとの討論にもとづきなが
ら)、「革命的群衆」の研究において、「純粋状態の群衆」
でも「自覚された結合体」でもなく、両者のいわぱ中間に
「半意識的集合体」を見い出し、その「集合心性」の役割
を強調するだろう[蟹]。その際、集合心性における身体
性の意義が重視されていることも重要である[竃一四五-
七]。
(8) 一八八九年には、ベルグソンの『意識の直接的所与に
ついての試論』、ジャネの『心理自動症』、ポーランの『心
的活動と精神の諸要素」が同時に出版されている。高等研
究院ではフランス最初の心理学実験室が設置され、前年に
はリボーがコレージュ・ド・フランスの教授となっている。
いずれも実現には、多くの抵抗を克服する必要があった。
(9) アルプヴァックスは、ペルグソンの感化で一時期自分
も心理学者になろうとしたが、ベルグソンに付け加えるべ
き何もないことを痛感して、断念したという[o。』お]。
(10) やはりストラスブール大学にいたアナール派歴史学の
創始者リ^シアン・フ呈ーヴルは、「種にかかわる心理学」、
「集合心理学」、「差異心理学」ということの区分をそのま
、 、 、 、 、
ま踏襲し、歴史心理学の骨格にすえている[轟一〇。。冒-巴。
(u) 「全体的社会現象」は、モースによれぱ「動的状態に
ある社会」にみられる[§』畠]。同様に「全体的人間」
も、「生成し運動しつつある人間」(一、3昌ヨ①彗旦睾彗ぎ
①目ヨo巨くo昌o葦)であるだろう[竃一窪]。
416
フランスにおける社会学と心理学の交錯(77)
(12) モースが「人間学」を提起していたち上うどその頃、
隣国ドイツではシェーラーが「哲学的人間学」を提起して
いた。またモースが「身体技法」に注目したように、シェ
ーラーも内容的にはこれとよく似た「魂にふれる技術」
(ω霊一g8巨寿)[畠一二=二]に注目していた。形容詞の
使い方が両者のちがいを示すとはいえ、この合致は偶然で
はなく、ともに第一次大戦後の人間の危機という共通の空
気に育まれたものにちがいない。あたかも「シュルレアリ
スム」と「表現主義」の関係のように。
(13) この「全体的人間」を、やがてギュルヴィソチは流動
的な視界の相互性において捉え、「深層社会学」を構築す
るだろう[蟹一〇〇〇。-彗]。他方レヴィnストロースは、社会
、 、 、 、 、 、
構造の根底にある集合意識(心性)を、個人意識の根底に
、 、
ある通文化的な無意識的構造に読みかえることによって、
丁ント回ポ回ノー 丁ン十回出ロフー
「人間学」を構造「人類学」として構築するだろう
[彗一2oo-psoo-〇一§一×××-×××-]。ギュルヴィッチと
レヴィー-ストロースの論争は、モース(ひいてはデュルケ
ーム)にもともと潜在していた、社会の主体-客体の
アンピキュイテイ ア’ビヴ丁レ’ト
両義性の両極的な顕在化ともいえよう。なおこの論争
は、後にトゥレーヌとブルデューの間でも再燃する。
(14) 「全体的人問」におけるリズムの意義については、拙
稿[50]を参照のこと。
(15) 象徴を重視する点で、モースはG・H・ミードの仕事
に全面的に賛同している[宝』5]。反対に象徴を軽視す
る点で、ピアジェの発達心理学を批判している[お乙8]。
(16) ワロンはすでに医者時代の、遅くとも一九二〇年代初
頭には、個人心理現象の社会的規定性を主張している[;一
一M曽よ]。そして一九二八年にはピアジェとの有名な論争
でその個人主義的アプローチを批判し、一九三一年には次
のような注目すぺき発言を行なりている。「心理的人間は
二つの無意識、つまり生物学的無意識と社会的無意識の間
で実現される。彼はそれらを互いにさまざまな割合で統合
している。しかしおのれを知りたいときには、両者との関
連性を明らかにしなけれぱならない。」[雪』O。]。
文献一覧
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ぎ睾県ぎ9邑雰着ぎδ電、一目岡橋・本問訳『社会心理学講
座- 社会心理学史』みすず書房、一九五六年。
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417
橋論叢第115巻第2号平成8年(1996年)2月号(78〕
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ミ木村・中井監訳『無意識の発見 力動精神医学発達
史(上)(下)』弘文堂、一九八O年。
22臣留き8U.二㊤ミ雰ミき9o母雨ミ竃き、亀雨.1凄竃{昏
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〃 ’-o↓N▲o-o}吻雨吻吻oo}昌-雨㎞““§osぎo-§雨印勺與ユ蜆・吋α㍗
巨o目ωqo…巨巨け
28 波多野完治、一九三〇「心理學」、フランス學會編『フ
ランスの社曾科學』刀江書院、三一九-七四頁所収。
29=;o只甲俸ζ害ω9奉二〇8§ぎ§、.ミ§ざS吻奉
418
フランスにおける社会学と心理学の交錯(79)
-酎ぎミ印勺印ユ9句9口>-oo目1
30 穴彗団身一戸-竃-↓ぎ厚争一9oqo{軍窃昌7Uミ
句;目oすω9δ-OOq}(5ミー冨薯)し自-o目彗戸O.Ol(①{1)一
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31 宍彗貝㌧.〇二㊤竃』§Φユos昌39ミま着ぎδ電二冴◎辛
亀§b§s8§雨ミ§』肉ミ§雨§きo膏s§ト大橋英寿
監訳『社会心理学の源流と展開』勤草書房、一九八七年。
㎜ 木田元、一九八四『メル回“ポンティの思想』岩波書店。
33 九鬼周造、一九五七『現代フランス哲學講義』岩波書店。
別-■竃O昌貝戸§①-二=瞭:OO巨O阻εO雪O昌Oぎ㌣
oo目貝匝與目㎝完§§、“§“§ぎk餉尽§ミ、雨き§貧ε昌o
艶-op曽〒ミ.
35 -①守享員ρ二㊤震きミ雨}忍§ミ}§§ぎω■二宮宏之訳
『革命的群衆」創文社、一九八二年。
舶 ■ooo昌一-二〇ミー窃ヨ雪訂目片雰一目目ω巨goマoo≡巨■
的目⑭.o団目ω■①oo萬」-俸之o冨一、.(似oω.)一き}ミ、雨、.ミo§一
{§一き§§§oξs餉-霊ユ㍗oo…昌實匝一〇pぎ-虞.
帥 -心く--ω↓『団=閉ω一〇-一-o仁蜆句『o目oすω090-O胴}一-目O巨『く岸o=1
o.俸ζ8冨一峯.(&ψ)一ド§雨s§}o§§ミ3qミ§1
茅妻くO鼻;ま雲=畠8巨邑-一σ冨…暑.蜆8山↓.
38 9ξ由;貫-.一屋8卜sもミ』8Sミ雨軋.㌧s寒段9§§
勺回ユω一句休=メ>-o凹目1
39 -し畠o卜S盲§き§§§ミ8§§雪8o§淳}ミ
§§§}。山田吉彦訳『未開社会の思催(上)(下)』岩波
文庫、一九五三年。
40 巨ぎ9ω二彗ω吋§§bミ沖ぎぎ一§}卜暮§軋§、ぎ
㌧§貧oユ§-os巨oユ弐s-吻、s昌.-o目ooヨ>=①自-回鶉.
41 牧野巽、一九二八「仏蘭西に於ける心理學と社舎學との
接近に就いて」『心理學研究』第三巻第六号、八=二-六
〇頁所収。
42 竃彗ω9…=冨竃吻8§轟}雨ミ§§§菖-§ポ.霊詩一}
F『
蝸 -し㊤8◎§eミーミ一〇〇ミ吻{§き9ミ雨ミ§e室o葛
§ざ竃oミ轟{雨.冒区㍗吋2巨o畠ま…,EF
44 -一冨お-.8;冨まζ彗窒o彗三-昌Φ昌ρ呈冨
完§§ぎミミ竃きω8ミ§ぎくOFM9君.M8-N9
45 竃彗一①昌七昌q一≦一-畠Nピ鶉冨ζ巨o畠彗雪彗気巨一
}竃一.雪-彗■-窃8昌ωまoo昌σ昌篶し㊤g-芦滝浦・
木田訳「幼児の対人関係」『眼と精神』みすず書房、一九
六六年、九七-一九二頁所収。
46 岡野静二、一九八二『社会学と心理学の交流』酒井書店。
〃 蟹Ho鼻UlLo蟹「oo巨一〇ωoo雪①津彗o巴器ま畠-o。叫
5曽と彗眈完§§§ミεsぎ尽§二〇昌o畠一署.曽o占ω-
48 ω3①一①『一睾一-竃①b膏ミ“吻吻§さミー§冒s、§“○雨竃ミ吻§-
§。浜井・佐藤・星野・川本訳『シェーラー著作集11・知
識形態と社会(上)』自水社、一九七八年。
49 津田真人、一九九一「デュルケームにおける『アスピラ
シオン』の概念」『社会学評論』第四一巻第四号、六二-
七六頁所収。
419
一橋論叢 第115巻 第2号平成8年(1996年)2月号(80)
505152
L 一九九五「根源的欲求とは何かーリズムの社会
心理生物学・序説 」『一橋研究』第二〇巻第一号、一
二一-五〇頁所収。
ミ凹=oヨ一戸5曽ω9彗8ます畠一E篶gmq彗8箒一.
ぎ昌冒p3畠完§§§留ミミ㎞軸一き一.ド君.害-蜆2
1一冨ミー.g巨o蕩さぎ一〇〇目且;g蜆oo巨ooq五篶宗
一、内ミ昌戸註富○§膏葛ぎざ§ミざ§§§ωsざ-轟貧くo-l
POPω1墨-
531二〇畠-、o長彗5毒①二〇閉oo巨;o二.ぎ冒昌P
註冨吻9§ぎ・谷村・浜田訳「人間における器質的なもの
と社会的なもの」、『身体・自我・社会』ミネルヴァ書房、
一九八三年、二…⊥二七頁所収。
54 くo…oq.戸冨曽ωoo邑雰}oぎδoq}二目霊昌男=.印
(oe一§雨嚢急oミ§、-ざ魯§、吻ミき雨39ミ旨}§8眈.
z①峯koH7≧9&>.宍目o貝らp-蜆①-N8.
(関東学院大学講師)
420