曹仲達絵画様式の復元 - 立命館大学...-129- 曹仲達絵画様式の復元...

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- 129 - 曹仲達絵画様式の復元 西林孝浩 はじめに 中央アジア地域ソグディアナ Sogdiana 出身画家であり,北斉(550 ~ 577 年)の宮廷で活躍 したとされる曹仲達については,その絵画作例が現存していない。小論は,後世の規範にもなっ たとされる曹仲達絵画について,北斉時期における様式の復元を目的とする 1) 。曹仲達絵画を, 様々な美術作例から推測しようとする試みは,これまでにもなされてきたが,最終的な決着を みたとは言い難く,むしろ,混乱を来していると言わざるを得ない。こうした状況を踏まえ, 小論では,まず,研究史における言説形成の問題点を確認した上で,より妥当な復元案を提示 することとしたい。加えて,先行研究で扱われた美術作例のうち,北斉時期の曹仲達絵画に, 含めるべきではないものを指摘し,相応しくない理由についても述べることとする。 本題に入る前に,画史および仏教文献における曹仲達の絵画に関連する言及を,確認しておく。 なお,曹仲達に関わる記述については,これまでの先行研究でも整理されており 2) ,以下では, とくに,曹仲達の絵画や作風に言及があり,なおかつその活躍時期に比較的近いものに限定し て抽出している。 ①唐・張彦遠『歴代名画記』(847年序)巻五 彦遠曰,…〔中略〕…其後北齊曹仲逹,梁朝張僧繇,唐朝吳道玄,周昉,各有損益,聖賢 蠁,有足動人,瓔珞天衣,創意各異。至今刻畫之家,列其模範,曰曹,曰張,曰吳,曰周, 斯萬古不易矣 3) 〔張〕彦遠の意見を以下に述べる。…〔中略〕…その後,北斉の曹仲達,梁朝の張僧繇,唐 朝の呉道玄・周昉は,おのおの優劣があるし,〔彼らの描いた〕聖人・賢者の盛んな形貌は 人を感動させるに十分であって,〔その画像の〕瓔珞や天衣の創意はおのおの異なっている。 いまに至るまで,彫刻家や画家は自分たちの模範として曹・張・呉・周の諸家を列べてい るが,これは万古不易なのである。 ②唐・張彦遠『歴代名画記』(847年序)巻八 曹仲逹,本曹國人也。北齊最稱工,能畫梵像,官至朝散大夫(國朝宣律師三寶感通記, 具載仲逹畫佛之妙,頗有靈感)。僧悰云,曹師於袁,氷寒於水。外國佛像,亡兢於時。(盧 思道,斛律明月,慕容紹宗等像,弋獵圖,齊武臨軒對武騎名馬圖,傳於代。) 曹仲達。もと曹国の人である。北斉では最高名手とたたえられた。梵像を描くのが巧みであっ

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    曹仲達絵画様式の復元

    西林孝浩

    はじめに

    中央アジア地域ソグディアナ Sogdiana出身画家であり,北斉(550 ~ 577 年)の宮廷で活躍したとされる曹仲達については,その絵画作例が現存していない。小論は,後世の規範にもなったとされる曹仲達絵画について,北斉時期における様式の復元を目的とする1)。曹仲達絵画を,様々な美術作例から推測しようとする試みは,これまでにもなされてきたが,最終的な決着をみたとは言い難く,むしろ,混乱を来していると言わざるを得ない。こうした状況を踏まえ,小論では,まず,研究史における言説形成の問題点を確認した上で,より妥当な復元案を提示することとしたい。加えて,先行研究で扱われた美術作例のうち,北斉時期の曹仲達絵画に,含めるべきではないものを指摘し,相応しくない理由についても述べることとする。本題に入る前に,画史および仏教文献における曹仲達の絵画に関連する言及を,確認しておく。

    なお,曹仲達に関わる記述については,これまでの先行研究でも整理されており2),以下では,とくに,曹仲達の絵画や作風に言及があり,なおかつその活躍時期に比較的近いものに限定して抽出している。

    ①唐・張彦遠『歴代名画記』(847 年序)巻五彦遠曰,…〔中略〕…其後北齊曹仲逹,梁朝張僧繇,唐朝吳道玄,周昉,各有損益,聖賢蠁,有足動人,瓔珞天衣,創意各異。至今刻畫之家,列其模範,曰曹,曰張,曰吳,曰周,斯萬古不易矣3)。

    〔張〕彦遠の意見を以下に述べる。…〔中略〕…その後,北斉の曹仲達,梁朝の張僧繇,唐朝の呉道玄・周昉は,おのおの優劣があるし,〔彼らの描いた〕聖人・賢者の盛んな形貌は人を感動させるに十分であって,〔その画像の〕瓔珞や天衣の創意はおのおの異なっている。いまに至るまで,彫刻家や画家は自分たちの模範として曹・張・呉・周の諸家を列べているが,これは万古不易なのである。

    ②唐・張彦遠『歴代名画記』(847 年序)巻八曹仲逹,本曹國人也。北齊最稱工,能畫梵像,官至朝散大夫(國朝宣律師撰三寶感通記,具載仲逹畫佛之妙,頗有靈感)。僧悰云,曹師於袁,氷寒於水。外國佛像,亡兢於時。(盧思道,斛律明月,慕容紹宗等像,弋獵圖,齊武臨軒對武騎名馬圖,傳於代。)

    曹仲達。もと曹国の人である。北斉では最高名手とたたえられた。梵像を描くのが巧みであっ

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    た。官位は朝散大夫までのぼった(わが唐朝の道宣律師の撰述『三宝感通記』〔現行は『集神州三宝感通録』巻中〕には仲達の仏画像の妙技とそれがよびおこす霊妙なはたらきについて,つぶさに記載している)。僧悰はいう。「曹〔仲達〕は袁〔子昂〕を師匠としながら,師匠をしのぐものがあった。外国風の仏像を描いて,当時この人と競争できるものはいなかった」(盧思道の像,斛律明月の像,慕容紹宗の像などの画像,弋の獵の図,北斉の武帝が臨御し武騎名馬に対するの図が代に伝わる)4)。

    ③唐・道宣『集神州三宝感通録』巻中阿彌陀佛五十菩薩像者,西域天竺之瑞像也。…〔中略〕…魏晉已來年載久遠,又經滅法經像湮除。此之瑞迹殆將不見。隋文開敎,有沙門明憲,從高齊道長法師所得此一本,說其本起與傳符焉。是以圖寫流布遍於宇内。時有北齊畫工曹仲逹者,本曹國人。善於丹靑,妙盡梵迹,傳模西瑞,京邑所推。故今寺壁正陽,皆其眞範5)。

    阿弥陀仏五十菩薩像とは,西域天竺の瑞像である。…〔中略〕…魏晋以来久しく年月が過ぎ去り,また〔北周の〕滅法を経て経像が湮除された。この〔阿弥陀仏五十菩薩の〕瑞迹もほとんどみられなくなった。隋の文帝が仏教を〔再び〕開いた。沙門明憲というものがおり,高斉〔北斉〕の道長法師よりこの一本を得た。その縁起を説くと伝承と符合した。かようなわけで〔この図像を〕図写し天下に遍く流布したのである。時に北斉の画工の曹仲達なる者がいた。もと曹国の人である。絵画にひいでており,梵迹〔インドもしくは西域の画題〕の妙を尽くし,西瑞〔インドもしくは西域の瑞像〕を伝え模して,京師の最も推すところとなった。そのため今日の寺の〔仏殿の〕正壁は,みなそれ〔曹仲達〕を手本としているのである6)。

    ④北宋・郭若虚『図画見聞誌』(1074 年序)巻一,論曹呉体法曹吳二體,學者所宗。按唐張彦遠歷代名畫記稱,北齊曹仲逹者,本曹國人,最推工畫梵像,是爲曹。謂唐吳道子曰吳,吳之筆,其勢圓轉,而衣服飄舉,曹之筆,其體稠疊,而衣服緊窄。故後輩稱之曰,吳帯當風,曹衣出水。又按蜀僧仁顯廣畫新集,言曹曰,昔竺乾有康僧會者,初入吳,設像行道,時曹不興見西國佛畫儀範寫之,故天下盛傳曹也。又言,吳者起於宋之吳暕之作,故號吳也。且南齊謝赫云,不興之迹,代不復見,惟祕閣一龍頭而已,觀其風骨,擅名不虛。吳暕之說,聲徴迹曖,世不復傳。(謝赫云,擅美當年,有聲京洛,在第三品江僧寶下也。)至如仲逹見北齊之朝,距唐不遠,道子顯開元之後,繪像仍存,證近代之師承,合當時之體範。況唐室已上,未立曹吳,豈顯釋寡要之談,亂愛賓不刊之論,推時驗迹,無愧斯言也。(雕塑鑄像,亦本曹吳。)

    曹・呉の二体は,絵を学ぶ者が手本としている。唐の張彦遠『歴代名画記』には,「北斉の曹仲達は,もと曹国の人である。梵像を描くのが巧みで,もっとも推された」とあり,これが曹である。唐の呉道子は呉というのであり,呉〔道子〕の筆づかいは,その勢いが円転し,衣服が飄挙するようにあらわされる。曹の筆づかいは,それが稠畳で,衣服は緊窄

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    にあらわされる。故に後世の人々はこれを「呉帯当風,曹衣出水〔呉の描いた帯は風になびくかのようで,曹の描いた衣は水から出現したかのようだ〕」と称したのである。また,蜀の僧である仁顕の『広画新集』には,曹について,「昔,インドに康僧会という人がいて,初めて呉に渡来し,仏像を作り行道〔儀式〕を行ったが,その時に曹不興が,西域の仏教絵画の手本をみて,それを写したことがある。そこで,世間は,曹不興のことをさかんにつたえることになったのである」と言っている。また「呉というのは,南朝の宋の呉暕の作品から起こってきたのであり,そこで,呉というようになった」と言っている。一方で,南斉の謝赫は,「不興の作品は,代々二度と再び見ることはなく,ただ天子の書庫である秘閣に一つの龍の頭があるだけであって,その姿と骨組の生命力は,彼が名声をほしいままにしていたことも偽りではない」と言っている。呉暕であるという説は,評判もわずかであるし,作品もはっきりしないし,世間ももはや伝えていない(謝赫の批評は,「彼の美は,その時代を風靡し,首都で名声があった。第三品の江僧宝の下にある」といっている)。曹仲達といった人は,北斉という王朝に現れ,唐からそんなにはなれていない。呉道子は開元年間〔713 ~ 741 年〕の後で,はっきりとあらわれてくるのであり,その絵画や彫像もまだ存在しており,このごろの師弟関係を証明し,当時の手本と合致している。まして,唐朝以前は,まだ曹・呉という論はたてられていなかった。どうして,僧侶の仁顕の要領を得ない話で,愛賓〔張彦遠〕の永久に滅びることのない論を混乱させることができようか。時代を推しはかり,事跡を調べてみると,この言葉にはずかしがることはないのである(彫塑像,金銅像もまた,曹呉にもとづいている)7)。

    以上の記述のうち,②には 7世紀の釈彦悰『後画録』からの引用や,裴孝源『貞観公私画史』(639年序)に対応する文言が含まれ,また③も 7世紀成立の文献であることから,これら②③には,曹仲達の活躍年代に比較的近い証言が含まれている。すでに先行研究でも指摘されてきたことだが,曹仲達は,曹国すなわち,中央アジアのソグディアナ出身8)であること(②③④),官位を有する宮廷画家であったこと(②)9),曹仲達の絵画は,他の著名な画家,例えば唐代の呉道玄などとならんで,後世,絵画のみならず彫塑制作においても,規範となっていたこと(①④),外国の仏教絵画を中国に伝えたこと(②③),その作風は,北宋時期に「曹衣出水」と評され,筆づかいは,それが稠畳で,衣服は緊窄にあらわされると理解されていたこと(④),などが確認できる 10)。以下,丸番号で指摘する際には,上記の引用箇所をさすこととする。

    1.近年の曹仲達絵画言説形成に関する問題

    曹仲達の絵画もしくは「曹衣出水」(④)に関する研究者の言説について,ここでは 1920 年代から 2017 年までを,三期に区分して検証する。まず,その第一期として,1920 ~ 1930 年代の研究者による言及をとりあげる。アーサー・ウェイリーは,曹仲達の出身地である曹国を,『隋書』西域伝の記述もふまえつつ,おそらくササン朝ペルシアの影響下にあったとするものの,『図画見聞誌』(④)にいう,「水から上がったかのように身体に貼りつく衣文表現」は,ペルシア地域に見いだすことはできないとし,曹仲達が,

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    中国において,師である袁昂から受け継いだ中国絵画伝統によるものとする 11)。内藤湖南の言及でも,「曹衣出水」を,「水の中から出て来たやうに着衣が体に密着」とし,その絵が呉の曹弗興と関連づける説のあることを紹介する。しかし,「尤も水を出たやうな人物,即ち中ごろ細く裾の広がった形は,漢より六朝に及ぶまで一般の画風である」とし,曹弗興のみの画風とすることには,否定的な態度をとる 12)。いずれにせよ,「曹衣出水」を中国由来とみるのは,ウェイリーと同様である。ポール・ペリオは,敦煌の唐代壁画について,同時代の呉道玄系統ではなく,「中国生まれ」の曹仲達がうちたてた 6世紀北朝絵画系統の一派とする。また画史や,『集神州三宝感通録』(③)も用いて,曹仲達の師承関係について,詳細な検討を試みる 13)。瀧精一も,「曹衣出水」について,「水より出でたるが如くに,緊窄にして身体に密着す」と解するが,仁顕による曹不興説(④)の問題点を指摘した上で,『歴代名画記』(②)の記述に従い,西域曹国出身である曹仲達の作風とした。また,③の記述から,「仏像に於て殊に梵式を得意とした」と指摘し,それらを踏まえた仏像の緊窄体は,インドのマトゥラー仏の形相であったとして,その作風を推測するための具体例として,清凉寺の釈迦如来像(図 1)をあげて論じた 14)。現在では,「曹衣出水」が,三国・呉の曹不興による中国伝統の絵画表現をさすわけではなく,曹仲達による外国風絵画を示すことや,曹仲達の出身地が,ソグディアナ地域の曹国をさすのは,自明なことであり,そうした立場からは,この第一期における,幾つかの誤解を指摘できよう。一体,「ソグド語」の存在が再確認されるのは,20 世紀初頭のことであり 15),上記の論考が発表された 1920 ~ 1930 年代においては,中央アジアの中から,ソグディアナ地域のみを個別に認識すること自体,極めて新しいものであった。しかも,当該地域の発掘が本格化するのは,1940 年代後半以降であることを踏まえるならば 16),それ以前において,曹仲達絵画を出身地域の美術作例に基づいて語るということは,そもそも不可能に近かったと言って良い。かかる限界を考慮する必要はあるが,画史や仏教文献の記述を踏まえ,曹仲達絵画の影響力に注目し,現存する中国の美術作例の中に,曹仲達絵画を探ろうとする点,そして,「曹衣出水」表現に外国的要素を見いだそうとする際,「インド風」と関連づけようとする言説が,ソグディアナ美術への関心や認識よりも先んじて,この第一期に見受けられるという点を,確認しておきたい。続いて第二期は,1940 年代から 1995 年をとりあげる。1940 年代後半には,ソグディアナ地

    域での発掘が本格化するため 17),ここを画期とした。この時期の主たる研究書や概説書における曹仲達の言及の中では,とくに,1950 年代のオズワルド・シレンが注目される。その大著『中国絵画』では,六朝から隋代についての絵画の章で,その五節にわけた最後を「コータンおよびその他の中央アジア出身の画家達」と題し,ソグディアナ出身の曹仲達を,中国絵画史に重要な足跡を残した画家として,ウェイリーやペリオといった先行研究を踏まえつつ,詳述している 18)。シレンにおいても,曹仲達は,インドもしくは疑似インド的な絵画を描いた画家として位置づけられ,曹呉の二体が彫塑にも存在するという画史の記事④も踏まえつつ,「曹衣出水」は,グプタ彫刻や,その支流とされる中央アジアおよび中国の彫塑における薄い布が身体に密着した表現としている 19)。これ以降,アレクサンダー・ソーパーや,アントニオ・ブサリといった 1960 年代の研究において 20),曹仲達は,インドのグプタ様式彫像に代表される,薄衣が身体に密着した作風を伝えた画家として,繰り返し語られることとなる。しかしながら,シレン『中国絵画』は,1940 年代以降に本格化するソグディアナの発掘成果

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    曹仲達絵画様式の復元(西林)

    を参照したわけではない。とは言え,グプタ様式の伝播に,中国の彫塑のみならず,中央アジア地域も含めていたし,唐代の靳智翼による,曹仲達作風の変容にも言及している 21)。更に,ブサリは,ソグディアナのペンジケント壁画にも,衣の身体に密着する表現が共通しているとし,仏教の刺激をうけつつインド・イラン様式の絵画を伝えたのが曹仲達であるとした上で,雲岡石窟や龍門石窟の造像にインド・イラン様式の広がりをいくらかは確認可能ともしている。従って,現在の研究状況からすれば,そこで扱われる美術作品の年代観に齟齬が指摘できることはあるにせよ,必ずしも曹仲達絵画の由来を,狭義のインド地域やグプタ美術に限定していたわけではなかった。加えて,ソーパーは,曹仲達をインド風様式で名声を得ていた画家とするが,グプタ様式の中国への伝播には,インド・東南アジア地域と南朝との関係を重視していた。つまり,当時における南北朝美術の議論に対応して,曹仲達がどの地域の絵画様式を継承したのかについても,この時期すでに,複数の見解に分かれていたわけだ 22)。なお,曹仲達絵画を復元することと関連して,マイケル・サリヴァンや金維諾が,体躯に薄衣の貼りついた表現を曹衣出水とするなかで,天龍山石窟の唐代造像をその作風としてあげている点も注目されよう 23)。これらの論文では,天龍山石窟の何れに該当するか,明示されているわけではないが,その言説に従えば,図 2や図 3がこれに該当するだろうか。とくに金維諾論文は,インドや中央アジア美術作例を博捜し,それらの様式が,炳霊寺石窟や雲岡石窟など,北斉以前の中国において伝播していたことを検証するのみならず,曹仲達の中国到達以降における画風形成にも言及しており,南北朝美術研究の深化と連動して,曹仲達絵画を慎重に理解しようとする態度が看取される。1980 年代には,ゲッティ・アザルパイ『ソグドの絵画』が登場し 24),豊富なカラー写真を用いて,本格的にソグディアナ絵画を紹介・検討している。ソグド研究の泰斗ボリス・マルシャークも寄稿し,ペンジケント等の発掘状況や壁画の配置と編年,主題研究,様式論などが盛り込まれた詳細かつ総合的な研究書である。ただし,アザルパイは,ソグディアナの絵画様式に言及する中で,トルファン出土ソグド人関係のマニ教絵画における中国絵画からの影響は論じるものの,ソグディアナ絵画から中国絵画へ影響については論じていない。また,様式の分析では,とくに人体表現について,インド芸術の理論を,必要以上に対比したり,関連づけして説明するところが目立つ点は,この後の研究,とりわけ曹仲達絵画を研究する者に対して,ソグディアナ絵画はインド風を忠実に継承しているというバイアスを与えたかも知れない 25)。いずれにせよ,第二期は,ソグディアナ地域美術の情報量が増加しつつあったが,その実態から,曹仲達絵画を分析する論考は,管見の限り,極めて少なかった。その一方で,中国美術史として,彫刻のクロノロジーが,精緻化・多元化するにつれ,曹仲達を,南北朝から唐代の仏教美術の展開における,重要な貢献者の一人とする見方は,どの地域の絵画様式を継承したのかが研究者によって異なるという問題を内包しながらも,主流を形成していったと言える。なお,この時期の日本では,曹仲達に関わって,重要な指摘を含んだ研究が発表されていた。例えば,鈴木敬による曹仲達絵画は描線本位と著彩本位のいずれかという議論や,宮崎法子氏による後世において曹仲達絵画が抽象化されるという言及 26),また,長岡龍作氏が,グプタ期の中インド彫刻に遡る作風は,インド的・西域的な仏像の始源的イメージであり,北斉の曹仲達に起源するものではないとして,後世の曹仲達理解と切り分けた点 27),更には,河野道房氏

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    による曹仲達の北斉絵画史上の位置づけ 28)といった言説があげられるものの,この第二期においては,こうした言説やソグディアナ地域美術の実態から,北斉時期曹仲達絵画の検証へと,フィードバックされることは,極めて少なかったと言って良い。最後の第三期は,1996 ~ 2017 年とする。この画期を 1996 年以降としたのは,この年に,山東省青州龍興寺遺址における仏像の発掘があったためである。東魏・北斉の仏教美術研究において,この発見が重要な資料を提供したことはいうまでもない。1999 年にその大規模な展覧会が北京の中国歴史博物館(現在の中国国家博物館)で開催され,陸続とその研究成果が生み出されることとなった 29)。また,1999 年以降に陝西省西安や山西省太原において,ソグド人墓の発掘が相次ぎ,ソグド人とその文化についての理解や関心が高まる中,まさにソグディアナ出身である曹仲達についても,言及が頻繁に行われることとなる 30)。この青州龍興寺仏像の東魏・北斉美術としての位置づけが論じられる中で,身体に貼りついた薄衣の表現に,インド,とりわけ図 4~図 6に例示したようなグプタ様式の仏像に淵源あるものとする見解は,おおむね一致するものの,それが,すでに 4~ 5 世紀に河西回廊を通じて伝わったものの継承なのか,6世紀における新たな伝播なのか,さらに後者の場合,それが,シルクロード経由の直接的なものか,南海経由か,またこうした要因が複合的に関係するかといったように,複数の見解が,より一層,顕在化してゆく。曹仲達がこれに関連するか否かをいったん措き,この第三期における南北朝美術史研究の進展に鑑みた際,青州龍興寺仏像に関わる金維諾や宿白の研究は,インド様式の東漸を論じたシレンやソーパーの研究を,さらなる段階に押し上げたものと位置づけることができよう。しかしながら,その仏像の身体に貼りついたかのような薄衣表現は,まさに「曹衣出水」に該当するとされ 31),インド,とりわけグプタ様式に源流があり,曹仲達は,まさにそれを中国に伝えた画家として,各研究者によって,異口同音の如く言及されている。東魏・北斉彫刻様式の詳細な考察結果から,結果的にその論旨に矛盾や混乱を来すことになったとしても,グプタ様式の伝達者として,ソグディアナ出身の曹仲達をあげることが,もはや常態化したわけだ。青州龍興寺仏像に次いで議論が活性化する中国のソグド人墓研究では,出土遺物の図像やモティーフ形式の分析等において,ソグディアナから中国地域までの一帯に及んでいた西アジア的要素など,非中国そして非インド的な出自が検証されることとなった 32)。本来であれば,これと連動して,曹仲達絵画においても,そのソグディアナもしくはその源流の一つともなる西アジア的要素が検証されるべきであったが,ソグディアナ絵画との関連は,ごく簡単に栄新江氏が触れるのみで 33),従来の「曹衣出水」理解には,ほぼ変化がなかった。つまり,龍興寺仏像や中国のソグド人墓発見にともない,東魏・北斉美術が,より明らかになるにつれて,曹仲達の作風については,ソグディアナ美術ではなく,中国におけるインド風の彫刻様式と結びつける見方が,より強固となる,いわば硬直化の事態に陥ったと言える。近年においては,再び,曹仲達に関する研究が活性化している。2009 年および 2017 年の藤岡

    穣氏の論考 34)では,第二期の長岡氏など日本における成果が盛り込まれている。小論第 2章で言及する高叡造像の如来像三躯に注目され,その様式に,南インド・東南アジア風を含む複数の形式・様式が混在していることを認めながらも,波うち渦巻く「波頭形」衣文表現には,一定,ソグディアナ美術の影響を指摘し,曹仲達との関連を想定されている。また,2006 年の邱忠鳴氏,

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    曹仲達絵画様式の復元(西林)

    2017 年の黄夏氏の論考 35)では,「曹衣出水」を,インド・グプタ様式とし,それは曹仲達が南朝での学習を経て,北斉に伝播したものと想定する。邱忠鳴氏や黄夏氏は,先行研究や画史等の言及を踏まえつつ,錯綜していた曹仲達絵画様式とその源流について,金維諾などが指摘していた曹仲達の中国における絵画学習 36)を敷衍させることで,より妥当な結論を導き出そうとされており,その丁寧な議論には敬意を払うべきである。しかし,中央アジアはもとより,中国に伝存するソグド関連美術への言及を一切行わず,中国の仏像表現のみから,曹仲達の画風を説明しようとする点は,研究史を振り返ったとき,既定の枠組みを,一部批判はしつつも,結果的にはそれを踏襲し,整合性をめざそうとした感は否めず,そこに,筆者としては,不満を感じる。また,これは,邱忠鳴氏,黄夏氏のみならず,青州龍興寺仏像と曹仲達を関連づける研究全般に言えることだが,南北朝時代の彫刻様式の展開,および,インドから中国あるいは,南朝から北朝といった地域間の様式伝播の問題と,一人の画家の,画風形成問題が,全て同列に議論されてしまっており,俄には賛同しがたい 37)。一人の画家が,時代の様式を牽引することは,勿論,現象としてはあり得る話だが,その一方で,絵画や画家を介さない,彫刻から彫刻への様式伝播についても,美術史学の立場としては,想定しておかねばならないはずである。以上,かなり粗略で,遺漏も多いが,曹仲達絵画様式に関わる研究史を概観した。曹呉の二体が,絵画のみならず彫塑像の規範となっていたこと(①④)を考慮するにしても,第二期以降,曹仲達が,ソグディアナ出身であり,なおかつその画風が外国風であることが,ほぼ確定されながら,その出身地であるソグディアナ絵画に基づいた検証は,極めて乏しく,大きな空白地帯となっていることが指摘できよう。また,画史の記述,とりわけ「曹衣出水」や,過去の研究に誘導され,曹仲達が,南北朝後期における仏教美術を介した新たなインド様式の伝播という大きな流れの中に組み込まれ,インドや中国の仏教彫刻から,曹仲達絵画を探求しようとするアプローチに,比重がおかれ過ぎていたことを,ここで,再確認しておきたい。なお,曹仲達絵画を,インド・グプタ美術という仏教美術史上の「正統」な起源に結びつけようとする態度は,例えば,ジェイムズ・エルキンズが指摘する美術通史の陥りがちな問題点の一つ,すなわち,起源神話的な語りを想起させる 38)。小論で扱った研究は,狭義の美術史学に該当しないものも含まれるが,南北朝美術史というような,やや長いタイムスパンで,造形について語る際,豊富な資料を得た我々には,より慎重な分析態度が求められている。

    2.曹仲達絵画様式の復元

    曹仲達絵画の復元にあたって,まず参照したい作例は,もと河北省霊寿県の幽居寺塔に伝来した,高叡の発願になる,北斉・天保七年(556)銘の石造如来坐像三躯(図 7)である。これら三躯については,『文物』1999 年第 4期において,劉建華氏による報告がある。高叡は,北斉の基礎を準備した高歓の甥にあたり,天保元年(550)に,趙郡王を授けられた人物である 39)。その名が刻まれる如来像三躯の台座銘文については,劉建華氏の言及にもある通り,金石書関係の採録や,小野玄妙および大村西崖の研究に言及される等 40),比較的早くから知られていた。それらを踏まえると,本来は,現存する釈迦・阿閦・無量寿の如来像三躯に加えて,同じく天保七年の高叡造像の銘文を有する弥勒像が,一具として幽居寺に伝来していたようであるが,

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    元代以降の記録では,現存する三躯のみとなるため,弥勒像のみが,元代以前に寺内から失われたと推測されている 41)。現存する三躯については,1992 年に阿閦像の頭部,1996 年に釈迦像と無量寿像の頭部が盗難にあい,すべての頭部が失われることとなった。この後,これら三躯は,河北省文物局の管理の下,河北省文物研究所での保管を経て,2014 年以降,河北博物院の南区(新館)において公開展示されている。なお,釈迦像の頭部については,1998 年に海外での存在が確認され,のち,台湾の仏教団体が入手することとなり,2014 年にこの仏教団体と中華文物交流協会との協議の上,その返還が決定された。2015 年から 2016 年にかけての台湾および北京での,釈迦像本体および頭部の合同展示を経て,現在は,頭部が釈迦像本体に接合修復(図 7e)され,再び河北博物院にて展示されている(図 7g)42)。この如来像三躯を,曹仲達の作風と関連づけたものとして,先述の劉建華氏の論考のほか,藤岡穣氏の研究がある。劉氏は,如来像三躯の身体に密着した衣の表現を,「曹衣出水」に関連づけ,藤岡氏は,その「意匠化した波頭のよう」な衣文処理を曹様式と看做されている。第 1章でみたように,曹仲達絵画に関する論考が,第三期(1996 ~ 2017 年)に,相次いでいたが,両氏を除くと,この如来像三躯を,直接,曹仲達と関連づけたものは,管見の限り確認できなかった。しかし,極めて重要な指摘と考える。まず,その形状と様式を確認しておこう。頭部を失った状態での台座を含めた三躯の高さは,釈迦像 100㎝,阿閦像 83㎝,無量寿像 95㎝であり,釈迦像が最も大きい。三躯ともに背面が平滑に削られているが(図 7d),これは,像完成後に背面側を削り落としたのではなく,当初からの設計であったと考えられる。というのも,各像の側面観において,体幹部を,やや前方へ傾斜させてまで,立体的に彫出し,その一方,両脚部の像前方への張り出しが,通常の丸彫り彫刻に比べ極めて浅いことから,もし当初の姿が,背面まで彫出していたならば,側面観におけるバランスが極端に崩れてしまうと推測されることや,衣文処理が,像の前方側へと集中し,側面では,衣文を表したとしても極めて簡略な表現に止まる箇所が多く,彫像でありながら,当初から側面および後方といった全方向からの鑑賞を想定していたとは考え難いためである。このように,奥行き幅は減じられているものの,その正面観においては,北斉彫刻としての基本的な造形様式を備えている。例えば,体幹部の横幅を十分に確保しつつ,肩の傾斜を強め,上膊の厚みを減じることで,なで肩とすることや,大胸筋などの肉取りをほとんど行わず,また,腹部まわりを絞り込まず,安定感を確保するといった造形に加えて,衣の厚さを減じ,体躯に貼りついたように表現することによって,上半身全体が,あたかも楕円状球体であるかの如き塊量性を強調するのは,北響堂山石窟第 4窟の中心柱西面(正壁)如来坐像(図 9a)や,第 9窟中心柱南壁の如来倚坐像(図 9b)43),大阪市立美術館の天保八年(557)銘如来三尊龕の中尊如来坐像(図 10)などに共通する 44)。また,如来像の印相を示す両手部分を比較的大きく表すのは,北朝前半期彫刻以来の伝統に連なる造形と言うことが出来る。後述する衣文の独特な表現に目を奪われがちであるが,彫像としての体躯のプロポーションは,むしろ北朝彫刻の系譜に連なり,とりわけ北斉彫刻における様式特性の一類型が忠実に踏まえられていることを確認しておきたい。なお,両脚部を結跏趺坐とせず,上下に重ねる半跏趺坐の坐勢形式についても,すでに指摘されているように,北斉彫刻に多く確認される一形式である 45)。

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    曹仲達絵画様式の復元(西林)

    続いてこの如来像三躯を特徴づける衣文表現を確認しよう。三躯ともに着衣は偏袒右肩とし,その左肩正面部分,正面胸部周辺,右肩から側面側,そして台座正面の垂下部分などに,「意匠化した波頭のよう」な表現が,衣縁の折りたたみとして,繰り返される。また,両膝頭は,正面向きに渦巻き状の衣文が刻まれている。そもそも,右肩や正面左胸の衣縁部分に,折り返しを繰り返す彫刻は,北魏の造像のうち,5世紀後半に集中する形式で,雲岡石窟の第 20 窟中尊をはじめとした初期造像作例や,西安碑林博物館の和平二年(461)銘像をはじめとして,西域的要素の強い作例に表れる。ただし,それら北魏造像の衣縁折りたたみにおいては,波頭のようなうねりや撓みは全くみられず,より直線的な構成となっているため,高叡造像のうねるような衣文表現(図 7f)が,際立った特徴として,我々に印象づけられることとなる。この滴状とも形容される撓んだ折り返し部分の洗練化には,例えば図 8のような,北斉期における蕨手状に強く巻き込んだ文様の流行も考慮せねばならないだろう。とは言うものの,その折り返しを執拗に繰り返す点は,更に別の要因も検討されなければなるまい。なお,膝頭の渦巻き状衣文については,それほど多くはないものの,先述の天保八年(557)銘如来三尊龕の中尊など,北斉時期の彫像に散見される。また,山東省臨朐県の崔芬墓の壁画の人物像 46)にも確認され,仏像以外の絵画モテーフとしても,この渦巻き状衣文が,北斉期に流布していたことがわかる。高叡造像の如来像三躯の衣文表現が,曹仲達の絵画と関連づけられるという指摘は,劉建華氏と,藤岡穣氏によってなされたことは既に述べた。しかし,両氏ともソグディアナ地域の絵画作例を分析されてはいない。そこで,ソグド人の本拠地であるソグディアナの都市国家のうち,ペンジケント遺址(現在のタジキスタン共和国領内)の壁画をとりあげ,その造形的関連性について検討する。かつてのソグディアナ第一の主要都市であったサマルカンド(現在のウズベキスタン共和国首都。漢籍に言う「康国」)の東 60㎞に位置するペンジケントは,ソグディアナの都市国家のうち,マーイムルグ(Māymurgh米国)であった可能性が考えられている 47)。曹仲達の出身地である可能性の高いカブータン(Kabudhān曹国)は,サマルカンドの北に位置し,サマルカンドを中心とした半径 70㎞圏内に,マーイムルグとカブータンの両者が含まれるという位置関係にある。ペンジケント遺址のうち,市街地 XXV区第 28 室(図 11a, b)は,方形に区画された部屋で,

    その北壁東端にのみ室内への出入り口が設けられ,その出入り口上方のアーチ部分に如来坐像を表した壁画が残されている(図11c~11f)。向かって右側に菩薩立像をともなったその壁画は,保存状態が悪く,如来坐像の頭部大半および両脚部,菩薩像の下半身が剥落している。しかし,左手は左肩近くで掌を前方に向け 48),右手は胸前で掌を内側に向けるといった手勢や,偏袒右肩の着衣は確認することができる。とりわけ注目されるのは,その衣文表現であり,右肩を露出させる偏袒右肩の着衣のうち,左肩から右脇腹にかけての衣縁にそって,折りたたみを繰り返している。直線的ではなく,強く撓んだ曲線を繰り返す点は,高叡造像に類似している。また,壁画如来像の左前膊を,衣で筒袖状に包み,腕の向きに対して垂直方向に衣文線が繰り返される様子も,高叡造像のうち,釈迦像と無量寿像に共通する。勿論,高叡造像との相違点も多く見受けられる。とくに高叡造像において,前述したような,正面観における球体状の安定感ある体躯表現は,この壁画の如来坐像における,引き締められた腰部と完全に乖離しており,彫刻と絵画という表現手段の違いを差し引いたとしても,それ

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    立命館言語文化研究30巻 1 号

    ぞれが,異なった様式観に基づいて,表現されていることを示している。しかし,高叡造像にみた彫刻としての特色は,北斉様式なのであり,それを差し引いた上で,両者を見比べた場合,身体にまとわりつきながら,衣折り返しを随所にめぐらせる表現は,極めて近似しているというべきである。この第 28 室について詳細に報告した,マルシャークとラスポポワによれば 49),この部屋そのものは,室内東側の粘土ブロック(報告書ではパフサ pahsaとよばれる)を積み上げた壁から発見された 650 年頃のソグド王ヴァルフマーン(Vargoman)50)のコインから,建築の年代がそのコインと同時期に推定されている。現存する壁画の年代は,かつて室内にあった漆喰壁画を除去し,煉瓦などで改装を施しており,その作業は,近隣の第 26 室ヴォールト部分の積層煉瓦から発見されたペンジケント統治者ビディヤーン(Bidyan)のコインから,7世紀末までには完成に至らず,690 年代~ 720 年まで制作が継続したと推定されている。この後,間もなく当地へのイスラーム勢力の侵攻と地元ソグド人の抵抗および,740 年頃の両者の共存と復興(第 28 室等の上層に街が再構築された)を経て,地元住民はペンジケントを 770 年頃に放棄することとなるため,下層の埋もれた壁画も同様に放置されたと見られている。つまり,北斉における曹仲達の活躍年代との時差は,約 100 ~ 150 年程度,第 28 室の壁画の方が遅れることになる。また,この第 28 室壁画は,南壁全体を用いて,男女像を表し,また北壁の上半分を用いてナナー女神を表すなど,明らかに部屋全体としては仏教を主題にしていない。ただし,衣襞の強く撓んだ曲線を繰り返す表現は,ナナー女神が描かれる北壁側の下段部分の人物群の衣服にも複数確認することができ 51),それら体躯の腰部を強く引き締めた造形も,当該の如来坐像に共通するため,様式的見地からは,アーチ部分の仏教絵画のみ,大きく時代が異なるとは考えにくい 52)。なお,図 11 壁画如来坐像の左前膊の衣によく類似した表現は,他に,第 XVI区で発見された祝宴図の人物像(図 12)53)の上膊部分においてみられ,腕に対して垂直方向や斜め方向に衣文がはしり,その両端で,撓むような衣襞を繰り返しあらわす点まで,近似していることから,こうした表現が,ペンジケントにおいて,一定,流布していたことを確認しておきたい 54)。さらに,ペンジケント遺址の第Ⅱ神殿において出土した仏坐像の母型(図 14)55)においても,着衣形式が異なる通肩で,全体の三分の一が欠失するなど,保存状態も完全ではないが,右肘から垂下する衣の外縁に,折り返しの繰り返される様子が確認できることから 56),彫塑表現にも共有されていた可能性もある。本章冒頭で言及したように,高叡は,北斉の有力貴族だったのであり,宮廷画家であった曹仲達や,その絵画に,触れる機会のあった可能性が高い 57)。その高叡の発願が確実な造像作例である幽居寺伝来の如来像三躯の表現と,ソグディアナ地域の壁画に類似点が見いだせ,なおかつ,『歴代名画記』巻八において,北斉の画家が 10 名あげられる中で,ソグド人画家が曹仲達,および同姓であることから同じく曹国出身である可能性の高い曹仲璞が含まれることも踏まえるならば,曹仲達あるいは曹仲達工房において,高叡造像のもとになった絵画が制作されていたと考えられるのである。そして,高叡造像の如来像三躯が,側面や背面を,さほど配慮しない彫像であることについても,石材あるいは安置空間の制約など,複数の原因を想定する必要はあるが,絵画を手本として制作したためである可能性も,考慮に値するであろう。

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    曹仲達絵画様式の復元(西林)

    では,ソグディアナ地域において,このような絵画表現はどの程度,確認できるのであろうか。先述のように,ペンジケントは,米国にあたり,曹仲達出身の曹国(カブータン)地域の壁画出土は確認されていない。ペンジケントの西方 60㎞のサマルカンドには,アフラシアブ遺跡がある。著名な「使節の壁画」は,7世紀半ばのものとされるが,その南壁の駱駝上人物の上膊部分に,わずかに同様の衣文が確認できる 58)。また,ペンジケントやサマルカンドから離れるが,タジキスタン南部のアジナ・テペ第 31 室出土の 7世紀末~ 8世紀初めとされる壁画断片(図13)にも,人物の上膊部分に同様の衣文が確認できる。更に,かかる衣文表現は,Zs・グラチ氏によって,1007 ~ 1024 年代と推定されたトルファン出土のマニ教文献に描かれたマニ像(図15)の左肩から左上膊および両脚とその周辺にも確認することが出来る59)。このことは,ソグディアナで流行した絵画表現が,ソグド人の移動に伴って,その周縁地域において,後世まで継承されていた証左と看做すことが出来よう。なお,これら衣文表現は,図 16 や図 17 などを参照すれば,ソグディアナ起源とは言いがたく,ササン朝ペルシアにおいて,より早期の彫刻や絵画に広く流布していた造形が,やがてソグディアナ地域にも波及していたと考えられる 60)。ここに指摘した作風は,ソグディアナ地域の全ての人体表現に共通するものではない。しかしながら,ソグディアナ地域の壁画において,一定の時間的そして空間的広がりを見せていた絵画様式の一つであることは間違いない。それを曹仲達は継承していたというかかる考察に従えば,北斉時期の曹仲達絵画様式については,一定の幅を想定しておく必要はあるだろうが,少なくとも,その画風の一つに,図 12 にみるような,腰部を引き締めた体躯の表面に,撓んだ衣文を繰り返し配置する絵画表現を含めることは,何ら不自然ではないと考える。また,その表現に著彩はあったかも知れないが,図 11c,11d,12,13 に見る如く,肥痩のない鉄線描風の輪郭を有していたと想定できよう 61)。なお,後世の記述であるため,信憑性は劣るが,仮に『図画見聞誌』(④)が,上記の復元案も踏まえて記述しているならば,「曹衣出水」には,波打ったり,強く撓んだ曲線の連続が含まれていたことになる。

    3.曹仲達絵画様式に該当しない作例

    従来の研究で,曹仲達の作風に結びつけられた東魏・北斉の仏教造像は,その大半が山東省青州龍興寺遺址出土仏像である。図像形式から,作例は,大きく 3種類の如来立像に分類することができる 62)。1 つ目は,衣を通肩につけ,首回りや足元といった衣の上縁と下縁を除いて衣文線を表現せず,衣内側の身体を透かすように浮きだたせる作例で,図 18 や図 19 などがこれに該当する。2つ目は,同形式の如来像表面に,U字状の衣文を連続させて彫出もしくは線刻する作例(図 22)である。3つ目は,衣を右肩露出の偏袒右肩とし,その表面に左肩から右下へと斜め方向に,衣文線を彫出もしくは線刻し,やはり,衣内側の身体を透かすように浮きだたせる作例(図 20・図21)である。これらが全て曹仲達絵画に基づくとする見解は,邱忠鳴氏の研究にも継承されている 63)。邱氏は,曹仲達の作風を,ソグディアナ絵画と完全に切り離し,「南インド・東南アジア仏像との関係をないがしろにはできない」とし,曹仲達が南朝において,インド・東南アジア風絵画を学習していたと想定する。

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    立命館言語文化研究30巻 1 号

    ここで確認しておきたいのは,5~ 8世紀のインドとソグディアナにおける絵画表現の差異である。痩身な造形とし,さらに腰部を引き締める点では,インドとソグディアナで,共通と言えるかも知れないが,衣を透かしてその内側の身体造形を追求するインド的造形は,ソグディアナ絵画において広く普及したとは言いがたい。また,第 2章で確認したソグデイアナ絵画に一定出現する,線をくねらせたり,密に重ねるといった衣褶描写への徹底したこだわりは,インドにおいて確認することが難しい。つまり,従来,ソグディアナ絵画は,とくに 6世紀以降について,インド絵画との関連性が指摘されてきたけれども 64),それは図像面において顕著な現象なのであって,衣内側の身体を浮きだたせるインドの彫刻様式が,多くのソグディアナ絵画に対応するといった説明はできないのである。また,従来は,中国の東魏・北斉時期における衣内側の身体造形を追求した仏像出現の原因として,曹仲達によるインド美術(とくにグプタ美術)の学習とその拡散が想定されてきたわけだが,彫刻様式の伝播や展開に,絵画の介在を当然の了解事項として説明しようとするこの態度も問題であったと考える 65)。前章で確認したように,曹仲達は,まずは,ソグディアナ絵画様式の実践者であった可能性が極めて高く,そこに,インド美術的彫刻表現の主要な伝達者としての役割も付与してしまったことで,問題を複雑化させたのではないか。そもそも,東魏・北斉の新しい仏像彫刻様式のなかにインド美術的要素を認識すること自体は,極めて的確な理解である。インドのグプタ美術(図 4~図 6)に遡ることが可能な,かかる彫刻表現は,近年の研究成果によって,5~ 6世紀の東南アジア地域に一定の広がりを見せていたことが判明している。例えば,図 26 のヴェトナムのチャンパ寺院址ドンズオン遺跡から出土した青銅製の如来立像は,4~ 5 世紀とされ,南インド由来の様式と図像を備えている 66)。図 27 のタイのマレー半島部スラーターニー県ウィアンサ郡ワット・ウィアンサで発見された如来立像は,5世紀末~ 6世紀前半とされ,薄衣が身体に密着し,その表面に衣文を施さないといったグプタ美術サールナート派の様式を備えている 67)。図 28 のカンボジアのコンポン・スプー州ワット・プリンで出土した如来立像は,7世紀とされ,やはりサールナート彫刻に由来する様式を備えている 68)。これらを踏まえるならば,インドからの直接伝播かどうかは措くとしても,インドを起点とした,東南アジアおよび東アジア方面への美術の広がりの中に,6世紀中国に出現する新しい図像や様式を備えた如来像を位置づけることは可能である。この場合,重要なのは,この薄衣の身体に貼りついた表現が,彫刻から彫刻への伝播であるということなのであり,特に絵画の仲介を必須とするわけでは無いということである。むしろ,図 18 から図 20 の作例における肩から大胸筋にかけての肉取り,引き締まった腰部,そして両脚部などが,衣を透かして浮き上がるように造形されるのは,彫刻を手本とした伝播であるからこそ,忠実に再現できた可能性が高い。なお,かかる身体に衣が密着した如来像は,表現の差はあるが,東魏・北斉のみならず,南朝・梁代の成都万仏寺出土作例(図 23)や,北周の長安出土作例(図 24)など,中国国内では,広い地域に及んでいる。この事実は,東南アジアを経由する,いわゆる南伝ルートのみならず,シルクロードを何らかの形で経由した北伝ルートにも,造形伝播の可能性が浮上することとなろう。しかし,6世紀に限定した場合,現存する中国作例の中では,図 23 のような,成都発見の彫刻が,衣内側の身体表現の把握において群を抜き,しかも彫刻技術の優劣はあるが,その

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    曹仲達絵画様式の復元(西林)

    図像的な規範は,成都においてかなり共通していること 69),そしてそこから派生した延長線上に,北周の如来像の一部(図 24)や,山東省青州龍興寺遺址出土の東魏・北斉如来像のうち,1つ目(図 18・図 19)や 2つ目の一部(図 22)のタイプを含めることが可能であることを考慮するならば,それらが,時代様式を示しているだけではなく,規範となった彫刻が,まず南朝に存在し,そこから北朝へと派生したという見通しが妥当である。なお,成都では阿育王像の作例が多数確認されることから,南朝において,由緒ある寺院の仏像に造形の規範性を求め,その仏像が有する図像や様式の一部が「型」として,広範囲に流布していたという状況が想定されている 70)。ただし,阿育王像の場合,その元となった図像が,6世紀のインドやガンダーラに一致しないことから,恐らく,よりはやい時期に中国に伝来していたガンダーラ風の古仏を元にして,派生していったことに対し 71),身体に衣が密着したグプタ美術風の如来像については,ほぼ同時期の類似作例が,中国のみならず東南アジア地域に偏在していることから,6世紀における新渡りの仏像をもとに拡散した可能性が高い。例えば,南朝の梁・天監十八年(519)に扶南から梁に奉献された「栴檀釈迦瑞像」の記事や 72),当時の南朝が,王権の優位性を担保するため,インドはもとより,東南アジア地域と積極的に交流していたことも,かかる仏像伝播の状況を補強する 73)。この南朝を起点とする北朝方面への派生を借定した上で,北周の作例(図24)と北斉の作例(図 22)を見直したとき,制作地域が異なるため,その作風の差異はあるものの,通肩で,胸前において内側の衣を一部見せつつ,身体に密着した着衣形式,そして正面において衣の下端中央で翻りをみせるといった細部まで類似することから,両者に共通の規範となった仏像が南朝にあったことを想定させる。その史的背景として,梁滅亡後に北周と北斉が互いに梁の皇族を支援し,傀儡を継続させていたことに注目したい。北周は,555 年に,江陵で蕭 を宣帝に推戴して傀儡国の後梁を樹立させる。後梁のおかれた江陵には,もと建康で梁の武定が太極殿に迎えたインド祇園寺の優塡王像を模したとされる像が,552 年以降,承光殿,大明寺と移座されつつ伝来していた。所謂,荊州大明寺の優塡王像である 74)。また,北斉は,570 年に,梁の永嘉王蕭荘(梁・元帝の孫)を梁王に推戴し,梁の復興を支持している 75)。北斉の場合,南朝から仏像を移座させたり,模像を制作するといった事例が確認できないし 76),必ずしも,これらの史実のみが,仏像伝播の直接の契機となったことを示すものではない。あくまで,北周と北斉それぞれの外交戦略上のことではあるものの,南朝・梁の皇族を自らの王朝に引き入れるという態度は,武帝に代表される梁の崇仏とその造形が,北朝の東西それぞれへと伝播する経路を傍証する事例と看做すこともできよう。また,近年の 城発見の如来像(図25)77)によって,インド・東南アジア方面から山東青州地域への直接影響といった言説は,見直しを迫られることとなった。北斉内においては,まず に伝わり,そこから,周辺地域へと伝播したととらえるべきであろう 78)。いっぽう,2つ目に分類した作例の一部にも見られる,如来像着衣表面の衣文を U字状に密

    に重ねる造形は,すでに 5世紀までの段階で,中央アジアから河西回廊,そして北魏の雲岡石窟へと継承されていた。次の時代となる 6世紀において,その再現が「倣古」と認識されたかどうかは措くにせよ,曹仲達以前から中国で知られていた西域由来の表現であることは間違いない。つまり,単に同種の衣文線を密に繰り返すだけであれば,曹仲達にはじまるような表現とは言えない。ソグディアナ地域の絵画にも若干,確認できるが 79),周辺に視野を拡大すれば,

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    立命館言語文化研究30巻 1 号

    アフガニスタンのハッダ(タパ・エ・ショトール遺跡)など広義ガンダーラ地域の彫塑に確認できる 80)。曹仲達も,出身の曹国,もしくは,ソグディアナから中国への渡航過程,あるいは中国到達後に身につけていた可能性はある。図 9aのような北響堂山石窟にも引き継がれるかかる作風は,北斉において,図 18 ~ 22,図 25 等と同様に,いわゆる中国式服制に対置されるものとして認識された可能性が高い 81)。以上の考察を踏まえた場合,この章の冒頭であげた東魏・北斉時期の青州龍興寺仏像作例のうち,少なくとも図 18 や図 19 のような衣文を表さない作例と曹仲達絵画とは,曹仲達の活躍時期においては,結びつけるべきではないと考える 82)。第 2 章でも確認した現存するソグディアナ地域の絵画と中国の画史記録とを照らし合わせた場合,のちの唐宋時代における認識や画風それ自体の変容を考慮するにしても,まずは衣文線の複雑な折り返しなどの描写を主体とした絵画が,曹仲達の持ち味であったと看做すのが妥当であり,身体に貼りつき,衣文線をほとんど表さないインドに淵源する彫刻を,曹仲達に関連づけるのは,曹仲達活躍時期の復元としては,相応しいとは言えないのである。

    結び

    本稿では,曹仲達絵画様式について復元の一案を提示したに過ぎず,様式の全体像を明らかにし得たわけではない。しかしながら,諸説ある中で,在世時の曹仲達絵画について,含まれる可能性が極めて高い作風と,含めるべきではない作風とを指摘したことで,従来よりも,想定範囲を絞り込むことが出来たと考えている。更に,「ソグディアナ出身の画家ではあっても,ソグディアナ絵画を描く画家ではなかった」とする言説 83)は,あまりにも事実を歪めており,見直されるべきであろう。すでに先行研究が明らかにしているように,北斉の宮廷文化は,ソグディアナ文化を積極的に受け入れていた 84)。もしも,絵画分野のみ,これに該当しないという特殊状況を指摘するならば,明確な理由が必要となる。現時点でその理由が見つからない以上,ソグディアナに由来する絵画表現も北斉宮廷画壇に含まれていたと看做すのが,穏当である。これに関連して,北斉美術を理解するためには,ソグディアナ絵画についても,さらなる検証と分析が必要であることを痛感する。従来,ソグディアナにおいて,仏教の流行は確認できないとされてきた 85)。その言説に大きな修正を迫るわけではないけれども,第 2章で確認したように,当該地域において,仏教美術が皆無であるとまで断定されているわけではない。少なくとも,今回とりあげたペンジケントの仏教美術作例は,中国仏教美術との関わりにおいて,より重要な評価を与えるべきではないかと考える。かかる見通しに立つ場合,北斉時代における曹仲達絵画は,衣の表現において,他の同時代絵画と一線を画していたことは間違いない。その一方で,線を主体とする中国絵画伝統 86),および南北朝仏教美術において,仏像の裳懸座表現など,衣の折りたたみを執拗に描写する表現がすでに定着していた状況 87)を考慮した際,同じく線による再現を主体とする曹仲達絵画は,異彩を放ちながらも,同時代の中国には,比較的,受け入れられ易い土壌があったとみることも出来よう。なお,『歴代名画記』において,画家の師承関係が,時間的あるいは地理的に矛盾することは,

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    曹仲達絵画様式の復元(西林)

    先行研究でも,つとに指摘されており 88),その厳密な考証と復元には限界がある。さらに,『歴代名画記』において,北朝後期の画家が多数登場する背景には,隋唐時代の北朝出身者重視といった政治的背景も見え隠れし,それを打ち消すかの如く張彦遠による恣意的な操作を読み取る見解もある 89)。いずれにせよ,画史に頼った検討では,曹仲達の師承関係は,複数の解釈が可能となるため,その絵画復元に限界がある。そこで,本稿のような手続きをとった次第である。関係各方面のご教示を仰ぎたく思う。

    註1)北斉宮廷において,作画機構が存在し,そこで曹仲達も活躍していた可能性の高いことについては,すでに先行研究に指摘がある。よって,小論で用いる「曹仲達絵画様式」とは,北斉時期に限定するものの,曹仲達の個人様式のみならず,その画風が,同時期の作画機構において,複数の画家・画工の間で,一定,共有されていたという可能性も含めた上で,規定しておきたい。なお,曹仲達絵画は,後世の規範にもなったとされるが,それら唐代以降の造形については,第 1章で言及するように,変容の可能性が指摘されているため,小論で扱う「曹仲達絵画様式」からは,ひとまず除外しておく。北斉宮廷の作画機構については,以下を参照のこと。河野道房「北斉婁叡墓壁画考」『中国中世の文物』礪波護編,京都大学人文科学研究所,1993 年;Mary H.Fong,“ChuanShen in Pre-Tang Human Figure Painting; as Evidenced in Archaeological Finds”, Oriental Art, vol.39, no.1, 1993;塚本麿充「中国宮廷コレクションと目録―「舎利感応記」から「龍図閣瑞物目録」へ―」『仏教美術論集 第五巻 機能論』長岡龍作編,竹林舎,2014 年(のち同氏『北宋絵画史の成立』中央公論美術出版,2016 年,第 1章第 4節以下に再録)。曹仲達の宮廷における活動については,小論の註 9 も参照せよ。2)例えば,陳伝席『六朝画家史料』文物出版社,1990 年,304 ~ 305 頁;邱忠鳴「曹仲達与 “ 曹家様 ”研究」『故宮博物院院刊』2006 年第 5 期;謝巍『中国画学著作考録』上海書画出版社,2011 年,40 ~41 頁など。3)以下,『歴代名画記』および『図画見聞誌』のテクストは,画史叢書本による。但し,句点は筆者の判断で,一部,改めている。なお,引用する各テクストおよび併記する邦訳において,()内は原註となっている箇所を示す。また,邦訳の〔〕内は意味を補ったことを示す。4)曹仲達の師を袁子昂とする見解については,長廣敏雄訳注『歴代名画記 2』東洋文庫 331,平凡社,1977 年,114 ~ 119 頁を参照。なお,作品が現存しないため確言は出来ないが,裴孝源『貞観公私画史』(639 年序)には「齊神武臨軒對武騎圖二卷,慕容紹宗像一卷,弋獵圖一卷,斛律明月像一卷,盧思道像一卷,名馬樣一卷,右七卷,曹仲逹畫六卷,是隋朝官本」(テクストは画品叢書本)とあるので,②についても,「北斉の武帝が臨御し武騎に対する〔図〕」と「名馬図」の二作品に分けて読むべきかも知れない。また,②における釈彦悰『後画録』からの引用は,現行『後画録』の対応部分「師依周研,竹樹山水,外國佛像,無競於時」(テクストは津逮秘書本)と異同のあることが指摘されている。後者(津逮秘書本)に依拠するならば,曹仲達の師承関係が異なり,竹樹山水といった画題も評価されていたことになる。ただし,後者テクストの扱いには注意を要し,また小論の手続きに直接の影響はないことから,ここでは異同を確認するにとどめておく。『後画録』の成立時期およびテクストの問題については,以下を参照。河野道房「釈彦悰撰『後画録』考」『人文学論集』14,1996 年。5)『集神州三宝咸通録』のテクストは,『大正新脩大蔵経』第 52 巻,421 頁 a-b。6)邦訳に際しては,肥田路美編『美術史料として読む『集神州三宝感通録』―釈読と研究―(十)』早稲田大学東洋美術史,2017 年を参照させて頂いた。なお,同解読の 1頁および註 22 では,引用末尾「皆其眞範」について,「みなその曹仲達の真筆なのである」と解釈する。その根拠として,同話を採録する南宋・宗暁『楽邦文類』巻三「天竺五通菩薩請仏伝」(『大正新脩大蔵経』第 47 巻,192 頁 a)では,

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    文末「皆其眞範」を「皆其遺筆」と記していることがあげられている。「もっとも,前代の曹仲達の真筆が実際に諸寺の壁に残っていたとは考えにくく,そう伝承されていたのであろう」と補足もされている。とはいうものの,道宣著作と同時期に限定した場合,道世『法苑珠林』巻一五でも,同話が「皆其眞範」と記されている(『大正新脩大蔵経』第 53 巻,401 頁 b)ことから,編纂時期の遅れる『楽邦文類』採録文だけを根拠に,7世紀における「眞範」の解釈を拡大するわけにはいかないと判断し,拙訳では,「手本」に修正している。7)邦訳に際しては,以下を参照させて頂いた。但し,拙の責任において,一部,訳出を改めている。太田孝彦「『圖畫見聞誌』訳注稿(V)」『藝術論究』14,1987 年。

    8)曹国とは,サマルカンド(現在のウズベキスタン共和国領内)の北に位置し,カブータン Kabudhān(曹国,もしくは中曹国と呼ばれる)にあたる。その東西には,東曹国(ウスルーシャナ Usrūshana)と西曹国(イシュティハン Ishtīkhan)が位置していた。これらをまとめて三曹国と呼ばれる。桑山正進編著『慧超往五天竺国伝研究(改訂第二刷)』臨川書店,1998 年,163 頁;森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社,2007 年,92 ~ 93 頁。9)②「朝散大夫」については,北斉の官職にはなく,隋代の官職である。これを北斉の官職「中散大夫」の誤記とする説(藤岡穣「曹仲達様式の継承―鎌倉時代の仏像にみる宋風の源流」『【アジア遊学 208】ひと・もの・知の往来 シルクロードの文化学』勉誠出版,2017 年)と,曹仲達が隋代にも重用され,その際に授けられたとする説(黄夏「「北斉画工」曹仲達の画業について」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』62 輯第 3分冊,2017 年)がある。いずれにせよ,曹仲達が北斉の宮廷画家であった可能性の高いことについては,註 4前掲,長廣敏雄訳注『歴代名画記 2』110 ~ 119 頁において検証されている。10)黄休復『益州名画録』(1006 年序)の張玄条に「曹畫衣文稠疊」(画史叢書本)の記載があり,④の「曹之筆,其體稠疊」という理解についても,若干ではあるが,年代を遡ることができる。但し,黄休復は,④で郭若虚が批判する仁顕の説と同様に,曹を,曹仲達ではなく,呉の曹不興ととらえている。11)Arthur Waley, An Introduction to the Study of Chinese Painting, New York, 1923, pp.86-87.12)内藤湖南「六朝の絵画」『仏教美術』第 7冊,1926 年。この文章は,内藤湖南が,1922 ~ 23 年,京都帝国大学文学部において行った特殊講義の筆記(源豊宗による)を増訂し,『仏教美術』第 6 冊,1926 年から,同誌第 18 冊,1931 年にかけて掲載された中の一編である。のち『支那絵画史』弘文堂,1938 年,および『内藤湖南全集』第 13 巻,筑摩書房,1973 年に収録。また,『支那絵画史』ちくま学芸文庫(ナ -9-1),2002 年にも再録。特殊講義とその刊行に関する情報は,全集第 13 巻の内藤乾吉による例言,および,ちくま学芸文庫版の曽布川寛氏による解説から得た。13)Paul Pelliot, Les Fresques de Touen-houang et les Fresques de M.Eumorfopoulos, Revue des arts

    asiatiques, vol.2-3, 1928.14)瀧精一「曹呉の二體」『画説』25,1939 年。東大寺僧奝然によって,北宋からもたらされた清凉寺の釈迦如来像(制作は雍煕二年〔985〕)と曹仲達の画風とを結びつけた言及は,これが最初かも知れない。当初,清凉寺釈迦如来像をガンダーラ風とみていた瀧は,1916 年の松本文三郎の見解(松本も当初はヘレニズム信奉者であったが,この時期からインド固有の美術を重視するようになっていた)を受けて,それを撤回し,マトゥラー風に「鞍替え」したと推定されている(稲本泰生「利他と慈悲のかたち―松本文三郎の仏教美術観―」『京大人文研漢籍セミナー 5 清玩 文人のまなざし』研文出版,2015 年,162 頁および 174 頁を参照)。「曹衣出水」をインド地域と結びつけるこの見解も,その延長線上に位置づけられよう。15)ソグド語再発見の経緯は,F・W・K・ミューラーが 1904 年に出版した本で,「未知のパフラビー方言」と名づけたものを,F・C・アンドレアスが「ソグド語」であると気づき,かかる内容を,1907 年に,ミューラーが論文において言及したのが嚆矢とされる。のち,ペリオによる,1911 年コレージュ=ド=フランスでの中央アジア学講座開講記念式典において,ソグド商人および国際語としてのソグド語が語られることとなった。この経緯は,以下を参照。森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社,2007 年,88 頁;

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    吉田豊「ソグド人の言語」『ソグド人の美術と言語』曽布川寛・吉田豊編,臨川書店,2011 年。16)1940 年代から 1950 年代初にかけて,当時のソ連邦中央アジア地域の各共和国において科学アカデミーが設立され,考古学的発掘が本格化することとなった。ただし,一部の地域,例えば,アフラシアブについては,すでに 1875 年の段階で,当時のロシア軍およびロシアの考古学者ベスロフスキー指揮の下,発掘が始まっており,1896 年に設立されたサマルカンド博物館には,アフラシアブの出土品が収容されていた。Aleksande Belenitsky, Central Asia, transl.by James Hogarth, Geneva, Paris and Munich, 1968, pp.15-22.17)Ibid. また,ペンジケント遺跡の壁画については,1950 年代には,ソ連科学アカデミーから,以下の報告書が刊行されている。А.Ю.Якубовский и М. М. Дьяконов, Живопись древнего Пянджикента, Москва, 1954;А.М.Беленицкий и Б.Б. Пиотровский, Скульптура и живопись древнего Пянджикента, Москва, 1959.18)Ozvald Sirén, Chinese Painting:Leading Masters and Principles, vol.1, London, 1956-1958(Reprint, 1973),

    pp.68-77.19)なお,本書より約 30 年先行して刊行されたシレン『中国彫刻』においては,曹仲達への言及はないものの,天龍山石窟の唐代彫刻をインド影響を維持しているものとして,北斉末期の彫刻に匹敵するととらえている。こうした記述は,後のサリヴァンの言及(註 23)を準備したと言えるかも知れない。Ozvald Sirén, Chinese Sculpture, London, 1925, pp.ciii-civ.

    20)Alexander Soper, South Chinese Influence on the Buddhist Art of the Six Dynasties Period, The Museum of Far Eastern Antiquities, no.32, 1960 ; Mario Bussagli, Central Asian Painting, transl. by Lothian Small, Geneva, 1963.21)『歴代名画記』巻二・叙師資伝授南北時代「靳智翼師於曹」。および巻九「靳智翼。僧悰云,祖述仲逹,改張琴瑟,變夷爲夏,肇自斯人。在范長壽上」。この曹仲達と靳智翼の師承関係は,ペリオも言及するが,これを曹仲達絵画の後世における変容の問題として扱ったのはシレンである。シレンは,インドや中国の具体的な美術作例はあげないが,靳智翼について,曹仲達の画風と中国風とを調和させたものとする。Sirén, op.cit.(n.18), pp.70-71.

    22)北斉の墓葬品について,中央アジアや西アジア地域の美術および北斉における曹仲達の活躍との関連づけを試みた早期のものとしては,以下の論文を参照。Gustina Scaglia, Central Asians on a Northern Ch’i Gate Shrine, Artibus Asiae, Vol.21, No.1, 1958.しかし,こうした広い視野もしくは慎重な態度といったものは,後の研究で矮小化され,例えば,ブサリの曹仲達「曹衣出水」理解については,インドのグプタ彫塑に関連づけた言説として,引用されていくこととなる。以下を参照。姜伯勤「安陽北斉石棺床画像石与入華粟特人的 教美術―兼論北斉画風的巨変与粟特画派的関連」『芸術史研究』1,1999 年(のち同氏『中国 教芸術史研究』三聯書店,2004 年に再録)。ただし,姜伯勤氏は,「曹衣出水」について,ブサリに仮託された「グプタ美術」説を引用するものの,それを踏襲するわけではなく,ギメ美術館やボストン美術館などに所蔵される安陽出土石棺床囲屛に浮彫される胡服を身につけた仕女図などに関連づける。23)Michael Sullivan, A Short History of Chinese Art, Berkeley and Los Angeles, 1967(邦訳:マイケル・サリバン『中国絵画史』新藤武弘訳,新潮選書,1973 年);金維諾「北斉絵画遺珍」『中国芸術』1981 年;金維諾「曹家様与楊子華風格」『美術研究』1984 年第 1期(これら二論文は,のち同氏『中国美術史論集(上)』1995 年に再録)。24)Guitty Azarpay, Sogdian painting, the pictorial epic in Oriental art, Berkeley and Los Angeles, 1981.25)ただし,あくまで偏った記述が問題なのであり,ペンジケント壁画に,インドからの影響が皆無であることを,ここで指摘したいわけではない。なお,アザルパイが,後世のトゥルファン出土マニ教絵画の衣文表現のなかに,ペンジケント壁画の一部に見られる衣文表現との類似を指摘する点は卓見といえる。Azarpay, op.cit.(n.24), pp.173-174.また,小論の第 2章(図 15)も参照。

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    26)鈴木敬『中国絵画史』上,吉川弘文館,1981 年,305 頁(同頁では,黄庭堅の時期の曹仲達画風を「著彩本位の画法」とみる);宮崎法子「伝奝然将来十六羅漢図考」『鈴木敬先生還暦記年 中国絵画史論集』吉川弘文館,1981 年。なお,日本の研究で,曹仲達絵画について,ソグディアナ地域美術から探索を試みたものとしては,下記がその早期に位置づけられる。土居淑子「『歴代名画記』にあらわれた西域系画人の画風について」『成城大学・短期大学部創立二〇周年記念論文集』,1971 年(のち同氏『古代中国考古・文化論叢』言叢社,1995 年に再録)。27)長岡龍作「仏像表現における「型」とその伝播―平安初期菩薩形彫刻に関する一考察―(上)(下)」『美術研究』第 351 ~ 352 号,1992 年。ここで言及される『歴代名画記』以降,曹仲達の作風継承が,衣文の密度と着衣の形態という単純な理解へと集約されていくといった,シレンの研究をより深めたとも言える見通しは,曹仲達絵画の受容過程における変容を,より具体的に指摘したものとして,重要な意義をもつ。なお,シレンも言及した,唐代における靳智翼の曹仲達作風と関わって,その変容させられた「曹衣出水」表現を,敦煌莫高窟第 332 窟東壁の阿弥陀五十菩薩図や,法隆寺金堂壁画 6号壁に求めた指摘としては,以下を参照。亀田孜「法隆寺金堂の壁画」『法隆寺 金堂と壁画』朝日新聞社,1968 年。

    28)註 1 前掲,河野道房論文。河野氏は,北斉期の南朝系・北魏系とならぶ西方系の画家として曹仲達をあげ,「多彩な北斉画壇の各種の画風を代表するひとり」と位置づける。29)(展覧会図録)『山東青州龍興寺出土仏教石刻造像精品』山東青州龍興寺出土仏教石刻造像精品編集委員会,中国歴史博物館・北京華現芸術品有限公司・山東青州市博物館,1999 年。また,1996 年の龍興寺遺跡発掘に至るまでの青州地域の仏像発掘に関わる小史,および 1999 年の北京における展覧会までの,山東省の仏教造像に関わる展覧会史に言及したものとしては,以下を参照。楊泓「山東青州北朝石仏綜論」『中国仏学』2-2,1999 年(のち同氏『漢唐美術考古和仏教芸術』,科学出版社,2000 年に再録)。龍興寺仏像に関する基礎資料としては,以下も参照せよ。青州市博物館編『青州龍興寺仏教造像芸術』山東美術出版社,1999 年;(展覧会図録)『山東青州龍興寺出土仏教造像展』香港芸術館,2001 年30)青州龍興寺出土仏像および中国で発掘されたソグド人墓と,曹仲達絵画とを関連づけた言及としては,以下の論考を参照。宿白「青州龍興寺窖蔵所出仏像的幾個問題―青州城与龍興寺之三」『文物』1999年第 10 期(ほぼ同文が,註 29 前掲,『山東青州龍興寺出土仏教石刻造像精品』にも掲載されるが,『文物』掲載論文の方が註の情報量など多い);註 29 前掲,楊泓論文;註 22 前掲,姜伯勤論文;金維諾「南梁与北斉造像的成就与影響」『芸術史研究』1,1999 年;金維諾「青州龍興寺造像的芸術成就―兼論青州背屏式造像及北斉 “曹家様 ”―」『漢唐之間的宗教芸術与考古』巫鴻編,文物出版社,2000 年;羅世平「青州北斉造像及其様式問題」『美術研究』2000 年第 3期;栄新江「粟特 教美術東伝過程中的転化―従粟特到中国」『漢唐之間 文化芸術的互動与交融』巫鴻編,文物出版社,2001 年(のち同氏『中古中国与外来文明』生活・読書・新知 三聯書店,2004 年に再録。また,拙訳「ソグド 教美術の東伝過程における転化―ソグドから中国へ」『美術研究』384,2004 年も参照);鄭岩「青州傅家北斉画像石与入華 教美術」『魏晋南北朝壁画墓研究』文物出版社,2002 年。31)註 30 前掲,宿白氏,楊泓氏,金維諾氏の各論文など。32)主要な発掘と出土品に関しては,以下を参照。陝西省考古研究所『西安北周安伽墓』文物出版社,2003 年;山西省考古研究所・太原市考古研究所・太原市晋源区文物旅遊局『太原隋虞弘墓』文物出版社,2005 年;西安市文物保護考古研究院『北周史君墓』文物出版社,2014 年;栄新江・羅豊主編『粟特人在中国 考古発現与出土文献的新印証(上・下)』科学出版社,2016 年。また,それら出土品の図像や意匠形式から,非中国・非インド的要素を抽出・分析した論文としては以下を参照。姜伯勤「西安北周薩宝安伽墓図像研究―北周安伽墓画像石図像所見伊蘭文化・突厥文化及其与中原文化的互動交融」『華学』第 5輯,2001 年(註 22 前掲,『中国 教芸術史研究』に再録);斉東方「虞弘墓人獣搏斗図像及其文化属性」『文物』2006 年第 8 期;曽布川寛「中国出土ソグド石刻画像の図像学」『ソグド人の美術と言語』曽布川寛・吉田豊編,臨川書店,2011 年。33)註 30 前掲,栄新江論文。

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    34)藤岡穣「斉周・隋の仏教美術におけるソグド美術の受容に関する覚書」『三次元計測技術を用いた新羅王陵石像彫刻の総合的比較研究』,平成 18 年度~ 20 年度科学研究費補助金 基盤研究(B)研究成果報告書(研究代表者:木下亘),2009 年。および,註 9 前掲,藤岡穣論文。35)註 2 前掲,邱忠鳴論文,註 9 前掲,黄夏論文,および以下も参照。黄夏「阿弥陀仏五十菩薩像の研究の現状」(註 6前掲,肥田路美編著に収録)。36)註 23 前掲,金維諾論文(1984 年)を参照。37)この点は,かつて,金維諾も疑問をなげかけている。註 30 前掲,金維諾論文(2000 年)を参照。38)James Elkins, Stories of Art, New York, 2002, pp.64-65.エルキンズの美術史学史的位置については,以下を参照。加藤哲弘『美術史学の系譜』中央公論美術出版,2018 年,328 ~ 330 頁。39)『北史』巻七・斉本紀中;『北斉書』巻四・文宣紀40)『常山貞石志』巻二;『八瓊室金石補正』巻二十;小野玄妙『大乗仏教芸術史の研究』金尾文淵堂,1927 年,192 ~ 193 頁;大村西崖『支那美術史彫塑篇』仏書刊行会図像部,1915 年,320 頁。以上の研究史は,劉建華「北斉趙郡王高叡造像及相関文物遺存」『文物』1999 年第 8期を参照。41)三躯各台座の銘文から,釈迦像は亡伯献武皇帝(高歓)と亡兄文襄皇帝(高澄)のため,無量寿像は亡父高琛と亡母元氏のため,阿閦像は高叡自身と妻鄭氏のための造像であることが判明している。現存しない弥勒像については,註 40 前掲の劉建華論文では,亡姉「参沙」とその亡母「寇氏」のために造像されたと判断されている。曽布川寛・岡田健編集『世界美術大全集 東洋編 第 3巻三国・南北朝』小学館,2000 年の図 250 ~ 252 解説(執筆:岡田健氏)においても,この弥勒像を含めた四仏での造像について言及される。なお,幽居寺塔に嵌め込まれていた楣石や小龕式仏像およびその他の石仏も,河北省文物管理所で保管されている。筆者は,2010 年,河北省文物管理所において,これらについて調査を行った。楣石は,銘文を有しないが,その線刻は明らかに北斉の特徴を有しており,現在,河北博物院に展示される小龕式仏像や,本文で言及する仏像三躯と合わせ,すべて同時期の造像である可能性が極めて高い。註 40 前掲の劉建華論文では,唐代以降の建築とみられる現存の幽居寺塔建立時に,高叡が関与したとみられる北斉時期の仏像・小龕式仏像・楣石などがまとめて流用されたと推定されるが,筆者もこれを支持する。42)以上の経緯については,李宝才「北斉漢白玉釈迦牟尼仏首復帰因縁記」『文物天地』2015 年第 6期などを参照。なお筆者は,2017 年 9 月の現地調査の際,河北博物院南区(新館)において,頭部が接合修復された釈迦像を含む三躯,および幽居寺塔内に嵌め込まれていた小龕式仏像のうちの九躯とともに,公開展示されていることを確認した。この展示の様子は,河北博物院 HPでも確認することができる。http://www.hebeimuseum.org/sbwy/quyangshidiao/index.html(最終閲覧,2018 年 6 月 11 日)43)窟番号は,陳伝席主編『中国仏教美術全集・彫塑巻 響堂山石窟』天津人民美術出版社,2014 年に基づいた。44)北響堂山石窟との様式的類似は,八木春生氏も指摘される。八木春生「北響堂山石窟北洞に関する一考察」『芸術研究報』24,2004 年(のち同氏『中国仏教造像の変容 南北朝後期および隋時代』法蔵館,2013 年,第 1部第 1章に再録)

    45)彦坂周「仏像坐法にみる南インド的特徴―その源流と展開」『宮坂宥勝博士古稀記念論文集 インド学密教学研究』法蔵館,1993 年;岡田健「(解説)如来坐像」および同氏「アユタヤの仏教美術」『月刊文化財』No.363,1993 年;註 9 および註 34 前掲の藤岡穣論文などを参照。46)臨朐県博物館『北斉崔芬壁画墓』文物出版社,2002 年,図 15 および図 18。また,以下の論考は,当該壁画の様式分析を主題としたものではないが,図像学的立場から,当壁画墓の「屛風人物図」を分析し,「胡族文化」の要素を読み取っている。林聖智「北朝時代における貴族の墓葬の図像―北斉崔芬墓を例として」『中国美術の図像学』曽布川寛編,京都大学人文科学研究所,2006 年47)吉田豊「米国問題再訪」『外国学研究』51,2002 年48)これが左右逆であれば,インド・マトゥラーにおける初期仏像の施無畏印に近い。

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    49)Boris I. Marshak and Valentina I. Raspopova, “Wall Paintings from a House with a Granary.Panjikent, 1st Quarter of the Eighth Century A.D.”, Silk Road Art and Archaeology:journal of the Institute of Silk Road Studies, No.1, 1990, pp.124-176.また以下も参照。影山悦子「出土資料からみたソグドとセミレチエの仏教」『論集「原典」:「古典学の再構築」成果報告集Ⅱ』池田知久編,2003 年。50)ヴァルフマーンは,サマルカンド(康国)領主であるが,ソグディアナ地域のうち,サマルカンド領主だけが,ソグドの王を名乗ることが出来た。吉田豊「ソグド人とソグドの歴史」(註 15 前掲,曽布川寛・吉田豊編著に収録);影山悦子「サマルカンド壁画に見られる中国絵画の�