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i マ都市からピザ ツ都市ヘ 二x:. の場合 圃圃圃晶 古代地中海世界の解体から 新しい中世的世界である ロッパ イスラム ビザンツ諸品川界の成立に宅る過程 各々の領域において さまざまの角度から論じられてきた。本稿では ビザンツ都市研究の立境から乙の過程を 考察したいが 具体的には小アジア西部の都市エフェソス初 yoω ω をとり上げることにする。最初に を対象とした理由について 簡単に説明してお乙う。 古代地中海世界は都市文明という性格をもっていた。 エフェソス 周知のように 政治的にみるならば 「古代都市 円ひ Lh - w 己目 く広 m w ω 」は領域(中心市と周辺農村部)内の問題について一定の自治を行なう単位であった(典型的 地中海世界を政治的に統合したロ l マ帝国も となる)。 各都市の自治を原則として認め 都市を帝国の構成単位 ロ!マ帝国とは都市のモザイクであるともいわれる所以である。経済的には 都市を舞台とする商業交 としていた。 易によって 地中海世界は結ぼれていたのであり、文化については いうまでもなく古典文化は都市の文化であった。 (288 )

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Page 1: マ都市からピザdlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd...Vryonis, Jr., The D ec lin e 01 Medi e val 23 盗誕濡 1 (0孔 j ト。。〈寸 ~) S. (刊。N 〉

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iマ都市からピザ

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二x:.

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ー 圃圃圃晶

古代地中海世界の解体から、新しい中世的世界である、ヨーロッパ

、イスラム、ビザンツ諸品川界の成立に宅る過程

は、各々の領域において、さまざまの角度から論じられてきた。本稿では、ビザンツ都市研究の立境から乙の過程を

考察したいが、具体的には小アジア西部の都市エフェソス初旬yoωロωをとり上げることにする。最初に、

を対象とした理由について、簡単に説明してお乙う。

古代地中海世界は都市文明という性格をもっていた。

エフェソス

周知のように、

政治的にみるならば、

「古代都市叫円

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」は領域(中心市と周辺農村部)内の問題について一定の自治を行なう単位であった(典型的には都市国家

地中海世界を政治的に統合したロ

lマ帝国も、

となる)。

各都市の自治を原則として認め、

都市を帝国の構成単位

ロ!マ帝国とは都市のモザイクであるともいわれる所以である。経済的には、都市を舞台とする商業交

としていた。

易によって、地中海世界は結ぼれていたのであり、文化については、いうまでもなく古典文化は都市の文化であった。

(288 )

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.

古代地中海世界においては、

都市は人々の政治・経済・文化生活の核をなしていたのである。

それゆえ、

乙の町民

の解体から新しい歴史的世界の形成に至る過程の考察に際しては、

都市の問題、「肯代都市」はいつまで存続したの

か、のちの諸世界にどのように受け継がれたのか、

古代の都市と中世の都市の間には断絶があったのか、

連続がみ

られるのか、などの点の解明が重要となる。

ローマ帝国出の東部領域(のちのビザンツ世界)

に関しては、右の問題をめぐる諸研究を整理すると、ほぼ以下のよ

うになるだろう。

この時期に関しては学説上の大きな対立はない。要約すると、

四ームノ世紀

ω帝国のほぼ全域にわたった「三世紀の危機」ののち、引き続いて民族移動の波に洗われた西方とは異な

って、帝

国領東部では平和が回復し、ディオクレティアヌス帝

・コンスタンティヌス帝以降の後期帝政下で、都市は繁栄を取

り戻した。

例都市の自治という点では、後期帝政のいわゆる専制君主制の下で、各都市の自治権は大幅に制限され、帝国政府

の官僚制支配下におかれて、

かつての「市民」は「臣民」に変えられていった。ただし、都市が保持した自治権の幅

については、研究者の間で見解に若干の差違がある。

πH

東方、北方からの異民族の侵入のあったこの時代の都市に関しては、研究者たちの見解は真二つに分れている。

七l八世紀

ω断絶説。七l

八世紀には都市、とくにその商業活動に関する記録がほとんど絶えてしまう乙と、貨幣も大幅に減

ローマ都市からビザンツ都市へ

( 239)

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ローマ都市からビザンツ都市へ

八二

少した乙と、を根拠に、商業の中心地という古代的な都市は消滅したとする。都市は破壊されるか、商工業機能を失

って単なる要塞l

防衛の拠点となった。ゲルマンノ

・ノルマン人侵入時代の西方とほぼ同様の事態が、七ー八世紀の

ビザンツにもみられる。

制連続説。文献史料の少なさは残存状態の悪さによるものであり、少数の断片的な記録によっても、都市の存続を

窺うことはできる。遠隔地商業の通貨である金貨をとってみれば、むしろ増加の傾向が認められる。

ローマ帝国領東

部では、都市も含めて古代の伝統を濃く残しつつ、中世へと移っていった。

以上簡単にまとめた諸学説の中で、小アジア西部の都市

エフェソスはしばしば言及されてきた。四!ムノ世紀におけ

るその繁栄や、ディオクレティアヌス帝によって乙の町にアシアのプロ

コンスル

(属州総督)が置かれたことはよく

知られている。また七i

ノ世紀の都市に関する論争の中では、東方ビザンツ世界におけるロ

lマ都市の連続の典型と

して、連続説をとる研究者によって繰り返し述べられてきたd

本稿において

エフェソスを取り上げる第一の理由は右に見たように、

ローマ都市からビザンツ都市への移行の問

題を考える上で、

エフェソスが重要な位置を与えられてきたことにある。さらに第二の理由としては、十九世紀以来

約一

OO年にわたって、オース

トリア考古学研究所によって乙の町の発掘調査が行なわれ、

らかになっているととがある。

その遺跡のほぼ全容が明

本稿では考古学の成果に基きつつ、都市

エフェソスの歴史を再考し、

ローマからビザンツへの移行の問題を明らか

にするための一助としたい。なお、紙数の都合上、さしあたり付都市景観、∞都市行政の二点に問題をしぼ仇柏市民

生活

・市民意識については別途に考察を加える予定である。

(290 )

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ローマ都市からビザンツ都市へ

J¥ 四

紀元一

i二世紀、「パクス

・ロマ

lナ」と呼ばれる平和の下で、エ

フェソスは大いに繁栄した勺現在みられる遺構の

多くはこの時期のものである。三世紀には帝国は内乱の時代を迎えるが、

エフェソスもニムノ二年頃、。コiト人の侵入

-掠奪によって大きな被害を受けた。ほぼこの頃からロ

lマ都市、とくに帝国西部の都市では、川刊ナ浴場などの公共

その石材が他に転用される。例公道に個人の家屋が張り出してゆき、道路を狭め、ふさ

いでしまう、といった現象がみられる。これらの現一家は、都市経済の衰退、市民意識の低下の表われとみなされてい

建築物が維持されなくなり、

エフェソスの場合はどうであっただろうか。

地図

iは古代末期(四i

六世紀)

のエフェソスである。市域は、最盛期であった帝政前期とほぼ同じであり、景観

面でも、港の近くの闘技場の東半(地図

i、

6)が使われなくなり、そのあとに住居群が出現していたことを除いて

は、目立った後退はみられない。

公共建築物の新たな建設、

町はその美観を保つ

改築が活発に行なわれ、

むしろ、

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』、ι申

O

V1yuv.4J

乙の時代の主な建築は以下の通りである。

4)。

ムノ世紀のものとされ

ていた乙の

と呼ばれ、

ωプロ

コンスル

の館(地図

I、

かつて「ビザン

ツ時代の浴場」

建物は、その後の研究によって、

エフェソスを中心とする属州アシアの統治官。フロコンスルの館である乙とが判明し

た(ロ)。

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建物の長さが一四四メートルもある

エフェソス一の大教会で、有名な

エフェソスの公会議(四三一

)の議場となった。

りアルカディア、不通(同似)。港から東ヘ大劇場(同日)まで続く、大理石を敷きつめた大通りである。

名称が示

すように、アルカディウス帝(在位三九五!四

O八)の時代に作られたものである。

的コンスタンティウスの浴場(同

5V帝政前期にあった闘技場付大浴場が、三世紀にゴ

!トノによって破壊された

(292 )

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のを、

た)。

(在位三三七|ムノごが再建したもの

(なお上述のように闘技場6は再建されなかっ

コンスタンテ

ィウス帝

制ス

コラティスティキアの浴場(同問)。四世紀末頃、スコラティスティ

キアという女性によって再建された。

帝政前期からの建築物も修復され、手入れされて、その多くはなお利用されていた。確カに・十円代末期には市街の一

部はかつての美観を失い、雑然とした景観をみせているところもあり、また再建

・新築も古い建物の石材を再利用し

たものが多かった。しかし全体としてみれば、大理石造の立派な公共建築物の並ぶロ

lマ都市の景観は維持されてい

たといえよう。とくに二つのアゴラ(集会所、地図

I、日・mU)

を結ぶエンボロス大通り(同日)を中心とする地区

は、公共建築物、商庖、アパ

ートが立ち並ぶ、古代末期エフェソスの中心街であった。歴代の。フロ

コンスルたちは

の街路沿いに、自分の彫像を立てていた。

乙の時代の

エフェソスに関して忘れてはならない乙とは、町から約二キロ東方のアヤスルクの丘に、

ヌス一世(在位五二七|六五〉によって、聖ヨハ、不教会が建てられた乙とである。

の丘は、当時は人もほとんど住んでいなかったが、

ユスティ

ニア

使徒ヨハ、不が葬られたという

ユスティニアヌス

帝によって長さ二ニ

0メート

ルの大教会が建

てられ、同時に水道が引かれたことによって、のちの発展の土台が築かれた。早くも

ユスティ

ノス二世時代(五ムノ五

エフェソス大主教は聖マリア教会からこの聖ヨハ、不教会に移ったと思われる。

ー七八)f」斗品

2

七l八世紀

ω

エフェソスは七世紀前半に、大地震(ムノ一四頃)やササン朝ペルシア軍の攻撃によって大きな被害を受けた。今回

は復興の余裕は与えられなかった。引き続いてアラブ人が小アジアに侵入してきたからである。七世紀半ば頃から八

一世紀にもわたった危機によって、

エフェソスも何度か攻撃を受け、掠奪された。

エフェソスの都

世紀初にかけて、

ローマ都市からピザンツ都市ヘ

八五

(293 )

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ローマ都市からビザンツ都市へ

八ア

(294 )

市景観は大きく変った。地図

Eは七l八世紀の

エフェソスである。

まず自につく変化は、町をとり囲む城壁が作られた乙とであろう(地図

E黒線)。

城壁」は、港を中心とする旧市街の北半分しか囲んでおらず、古代末期の市の中心街であ

った

エンボロス大通り周辺

しかし、乙の「ビザンツ時代の

地区は、城壁の外にとり残されてしまっている。乙の地区からの貨幣の出土は、

一)のものを最後に、ほぼ絶え、ほとんど人が住まなくな

ったことを思わせる。

次に城壁内の地区についても、次のような大きな変化がみられる。

ヘラクレイオス帝(在位ムノ一

Ol四

コンスタンティウス

の大浴場は破壊され、そのあとに小家屋が立ち並んでいた。残念ながら、これらの住居につ

いては詳しい発掘報告はなされていない。

MW

アルカディア、不通も同じく家屋に占拠された。

付聖マリア教会も、ペルシア人

・アラブ人の侵入によって破壊された。火事の跡が認められる。同教会は八世紀前

半に、規模をかなり縮少し

(長さ四ムノメートル)再建された。

当時の建築物としては最大のものである。

的プ

ロコンスル館は七世紀以降もしばらく存在していたらしいが、結局壊れてしまい、そのあとはやはり小家屋が

った。建物の一部は貯水漕に転用された。ビザンツ時代には、水道が維持されなくなっていたため、市内の地区毎

に貯水漕が作られた。プロコンスル館跡の貯水漕もその一つである。

制劇場。

一部が市城壁に転用されている。劇場としては用いられなくなっていた。

七世紀に

エフェソスの景観は大きく変った。大理石造りの壮麗な公共建築物、大通りといった

ロlマ都市の面影は

すっかり消えてしまった。市の衰退の一因としては、港が次第に使えなくな

った乙とが挙げられる。カイスト

ロス川

の運ぶ土砂によって、

エフェソス港は埋ってゆき、港としては海に面したフュゲ一フ(現在のクシャダス)が使われる

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ようになってゆく。

他方六世紀に聖

ヨハ、不教会が建てられ、大主教を迎えたアヤスル

ク地区は、防禦に好適という立地条件もあって、

乙の危機の時期以降発展がめざましい(地図

3)。丘全体を囲む城壁が作られた。その建設年代については諸説ある

が、筆者はアラブ人の侵入のあったコンスタンス二世時代(六四一

l六八)説をとりた川o

州向

丘の北端には城が建設された。

一三世紀ラスカリス朝時代に再建された城が現存するため、その下にある古い城の

遺構を調査する乙とは不可能であるが、文献史料から、最古の域は八位紀前半建設と推定することができる。城と望

ヨハ、不教会の間の平坦地には、次第に家屋

・商庖

・仕事場が密集するようになった。ただし、

ローマ時代のような大

規模な建造物は認められない。

城と教会の聞の地区が家屋でほぼ埋めつくされる頃になると、

居住区が城壁の外にまで拡がるのが認められる。

丘のふもとのか

つてのアルテミス神殿のあった地区から、十世紀以降の貨幣が出土している。

MW

i十二世紀ビザンツ都市の発展の典型を、

ブルクの外側に下町

〈O吋

σ戸誌

が形成されるという、

アヤスルク地区にみる乙とがで

きよ

ャつ。

3 帝政前期にみられた、整然とした街並、大理石造りの立派な建物、道路、港は、二六二年頃のゴ

iト人の侵入によ

って破壊されたものの、帝国政府のテ

コ入れもあって、まもなくほぼ旧状を回復した。古代末期には、新たにプ

ロコ

ローマ帝国の性格の変化(官僚制集権国家、キリスト教化)を示して

いるが、

ンスル館、聖マリア教会が建てられ、

全体としてみれば、

エフェソスはいわゆるロ

!マ都市の特色をこの時代にも保持していたといえよう。

古代末期の市の中心部は放棄され、

ローマ時代の市街の南半分、

ほぼ廃墳と

都市景観は七世紀に大きく変

った。

ローマ都市からビザンツ都市へ

(295 )

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81), S.

337-53

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S.341

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〈口〉史記やニド

23'Foss

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hesus,Appendix m

~盤。

C~) Alzinger, 1683 (1

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Mul1er-Wiener, 'Be

festigungerγ

, S.

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Foss, Eρhesus

, p.

107 (千記54n

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乞総).

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ungerγ

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, X

V

1. ln

'Daily Life

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(~) Foss, Eρhesus

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ローマ都市からビザンツ都市へ

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乙の

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「はじめに」においても述べたように、

ローマ都市は程度の差乙そあれ、自治都市という性格をもっていた。

ようなロ

iマ都市の変質については一般に次のように考えられてきた。白治の担い手であ

った有か市民屈の没終及び

官僚制による統治が行なわれるようになった。

都市から脱出とともに、三世紀末以降のいわゆる専制君主制のもとで、名都市の門治は大幅に制限され、小央政府の

乙乙にギリシア

・ロlマ文明を支えていた白治都市制度、市以精神は

消滅し、帝国領西方は「中世暗黒時代」

ヘ、東方は専制的なビザンツ帝国の時代へと移る。

エフェソスの場合も、ディオクレティアヌス帝の行政改革によって、アシア属州の都とされ、帝国役人であるアシ

アの。フロコンスルが行政

・裁判を司ることになった。

では。フロコンスル職の設置でも

って、エフェソスの都市行政は

( 298)

完全に変化したとみてよいのであろうか。プロコンスルの権限、市民に残された口治の幅について、各研究者間で微

1)

妙な

ニュアンスの差はあるものの、全体としては自治の消滅という考え方が強いようである。我々は再び考古学史料

を用いてこの問題を考えてみる乙とにしよう。

プロ

コンスル館と自治都市の施設

2〉

かつて「ビザンツ時代の浴場」と呼ばれていた市東北部の建物は、ミュラ

11ヴィ

iナ

!の研究で、

1

アシアの。フ

コンスルの館(地図

i、4〉

である乙とが認められるようになった。

誤解が生じたのも無理はなく、

ロコン

スル館

は、半分が浴場と付属施設及び居室、

わずかにホ!ルの

東に接する、後陣をもった方形の部屋が、。フロコンスルが裁判を行なう所であったと考えられているだけである。

あとの半分がホ!ルからなる複合建築物であった(図

W)。

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他方、プロ

コンスル設置以前の市の円治機関はどうなっていただろうか。

市民の政治集会の問初であっ

た上アゴラ、

貴賓館であり、さまざまの儀式が催された

司ミSロ25、市参事会議場

切o巳

gzュoロの集まる市東市部が自治行政

の中心部であった。古代末期における乙の地区の繁栄については上述の通りであるが、伺々の施設につ

いて簡単にみ

ておきたい。

い)

上アゴラ。一部に家屋が建つという現象が見られるものの、施設としては七世紀まで存続したo

p三ωロ250三世紀末l四世紀初の再建後まもなく大部分が取り壊され、

(ロ)

その石材は他の建築物に転用され

た。り

(

6

)

切o己2ZユOD。ほとんど変化なく存続。

古代末期四lムノ世紀

エフェソスの都市行政について、

筆者は次のように考えた

以上のような発掘調査報告から、

い。まず、司ミ

gD25が放棄された乙とについて、

(

7

)

たためと考えている。しかし、異教起源の建物でも、

C・フォスは、

そ乙で行なわれていた儀式が異教のもの

であっ

ローマの神々の像に代えて十字架等を掲げて、転用されたもの

も少なくないo

司ミ

Sロσcg放棄の真の理由は、

プロ

三世紀までそ乙で行なわれていた儀式

・晩餐といった機能を、

oczc円σ立。ロ

の存続の窓味は大きい。。フロコン

コン

スル館が引き継いだからであろう。

このように考えるならば、

スル館は

切oczc芯ユOD

の機能の方は吸収しなか

った

のである。事実、先にもみたように、

。フロコンスル館は浴場と

ホールからなる建物であった。

かつてのような自治の精神

・体制は失われつつ

あった。

しかしプロコ

上アゴラの変化に象徴されているように、

ンスルも部川行政を全出的に掌握したのではなか

った。

二年毎で次々

交代するプ

ロコン

スルの下で、

市参事会員

彼らの活動の背景に、

港を中心とす

の広三色。ω層は、実釘的な都市行政の担い手として活動を続けていたのである。

ローマ都市からビザンツ都市へ

(299 )

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ローマ都市からビザンツ都市へ

九二

る活発な商工業があった乙とは想像に難くない。筆者は四|ムノ世紀の

エフェソスになお都市内治の伝統が息づいてい

たと考えたい。

2

アヤスルクの城

既述のように、地震

・異民族の攻撃によ

って、七世紀にエフェソスの姿は大きく変化した。

ほぼ廃域と化した。

仰アゴラを中心とする、かつての都市行政の中心部は、城壁外に放棄され、

制城壁内のプロ

コンスル館はしばらく存続したが、やがて乙れも姿を消してしまう。

付アヤスル

クの丘の北方に、八世紀前半頃城が建設された。

これらの現象から七l八世紀における都市行政の変化について筆者は次のように考える。

上アゴラ・∞oczcgユoロが破壊されたのち、それに代る市民自治の施設は、城壁内の旧市街にも、新たに発展した

アヤスルク地区にも作られなか

った。

このことは古代以来の自治制度が乙の時期に消滅した乙とを示している。さら

H・フェタ!スはプロコンスル館は増改築の

に。フロ

コンスル館の消滅とアヤスルクの城の建設に

ついてみると、

跡がみられる乙とから、

八世紀前半にテ.マ

・アナトリコンから分離

かなり長期にわたって維持されたとしている。

されて、

新たにテマ

・トラケシオンという軍管区が設けられ、都が

エフェソスとされたが、

行村民宮はなお存続していたプ

ロコ

ンスル館に入ったという。そして一定期間後、

フェタ!スによれば、

アヤスルクの城に移ったというの

である。彼はプロ

コンスルとテマ長官との連続性を考えていると思われる。筆者はテマ制とは後期ロ

lマ諸制度との

)

断絶の上に作られた制度という認識に立

って、乙の問題を次のように考える。テマ長官は故初からアヤスルクルル方の

テマ制とは軍事優先の防衛体制であった乙とが推

城に入

った。城の建設年代とテマの設置年代がほぼ一致すること、

定の理由である。また筆者は。フロコンスル館が七世紀以降長く維持されたとは弘行えない。筆者はプロコンスル館の完

( 300)

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成を、多数説であるムノ世紀ではなく、プロ

コンスル職が置かれた三世紀末l四世紀初と考えており、

.

のちの増改築を

もって七世紀以降かなりの期間の存続の証左とはみなさい。

市内の一角に建っていた。フロ

コンスル館とは異なって、テマ長宮の城は城壁に回まれ、市民からは隔絶された存在

として、

アヤスルクの丘の北端、もっとも高い場所にそびえていた。

それは

エフェソスの新たな支配体制の象徴であ

った。

-M行政の変化においても、真の画期は七l

八世紀に置かれるべき

であろう。

八注〉

(1〉

句。ωω・問、、

W25・日)-NO

のまとめ参照。

2〉巧・

ζ巴ぽ吋

'd532・のささ

S-S(52)・ω・吋NNIm-

第二章注

(2)も参照。

3〉

hp宮内ミ・広島ω・

4〉みた立hミ、・

HAいOOly

句。ωω-Nwhvbぬ?と2・日)・∞N・

5〉

hp宮内ミ・思品。l∞・同叉子同町1ω0・匂Oωω

・町三

28・日)・∞0・

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・M()O(一SAWω)・め・

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(一戸句。一戸)・ω・。。l

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(】句。N)・ω・ω吋lAω

(6〉弘、NSh川町、・

HONωlω0・h丘、・ロOlN・司oωω

・旬、vbss-

日)・∞0・ぇ・日必・

ロlA-ASN-

引でなお・

HO吋(巴吋O)・ω・HO切同町・

7〉

明。ωω・句、、

x-gg-日)・

∞0・

(8〉第

一章をみよ。

(9〉

283・ω・N∞「

(叩〉拙著ビザンツ帝国』、

〈日)同第一章第三節。

ーーー・

一七|八ページ。

ローマ都市からビザンツ都市へ

九三

ョ・・・F

(301 )

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ローマ都市からビザンツ都市へ

九四

きわめて簡単にではあったが、考古学史料カらみた

エフェソスの都市景観

・都市行政の変化について考察した。最

後にそれらをまとめ、

ローマ都市カらビザンツ都市への移行の問題を考えてゆく上での手がかりとしたい。

確かに三刊紀の危機及びディオクレテ

ィアヌス

・コンスタンティヌス帝による支配体制の再建、専制宗主制の確立

エフェソス

の歴史にとっても一

つの画期であった。とくに帝国官僚であるプロ

コンスルの統治が、都市向治制度

を大きく制限した

乙とは否定できない。

しかし筆者は専制君主制の確立をも

って新しい時代の始まりとはみなさな

ぃ。筆者のみると乙ろ専制君主制とは、都市経済の後退、市民意識の変化によって、

(あるいはより広く古代地中海世界の)伝統を、

いまや崩壊しつつある自治都市

制度、

つまり

ロiマ帝国の

いわば上から強制的に維持させようとい

うものであった。伝統を否定するものではなく、維持せんがための強権だったのである。そのことは、専制君主制リ

後期

ロ!マ帝国の諸皇帝によって、

エフェ

ソスの公共建築物が再建され、町がかつての姿を取り戻し、保持していた

という乙とによく現われているだろう。

新しい時代

への真の画期は、かかる強権体制全体が崩壊する時期に求められよう。帝国東部においては、それは七

世紀であ

った。帝国政府のテ

コ入れによ

って維持されてきた

ロlマ風の大建築物はすべて崩れ去り、

エフェソスの都・

市景観はすっかり変った。港に面した旧市街は、全面的に放棄されたわけではなかったものの、市域も縮少し、大幅

参照)がしばしば拠り所とする

エフェソ

な後退をみせた。七l八世紀における都市の述続を説く見解(「はじめに」

ス、も、

その笑態はこのようなものだったのである。

( 302)

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エフェソスはアヤスルク地区を中心に、

ノ世紀にテマの都とし

て再出発する。しかしそ乙にはロ!マ都市の面影は

もはやみられない。市民の自治機関もなかった。

エフェ.ソスはビザンツ都市として生れ変

った

のである。なお、

市自

体の移動に際して、大主教が先駆的役割(大主教は六世紀後半にすでにアヤスルクの丘に移ってきていた)を果した

乙とは、中世都市の成立の上で興味深い問題であるが、本稿では論じる乙とはできなかった。市民生活

・市民意識の

変化の問題とともに今後の課題としたい。

〔付記)

エフェソスの考古学的研究への筆者の関心は、

オーストリア国立考古学研究所の

一員としてエフェソス発掘に従事された日台

一先生から伺った体験談に始ま

っている。先生の御退官の記念論文集に本稿を執筆させて頂けた乙とは、筆者の大きな喜びであ

る。また本稿作成に際しでも、先生からは図版等について助言を頂いた。

心より御礼申し上げます。

ローマ都市からビザンツ都市へ

九五

(303 )

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地図 1. Foss, Eρhesus, p.49

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マ都市からビザンツ都市へ

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図N.Foss, Eρhesus, p. 50

ローマ都市からビザンツ都市

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