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マックス・ウェーバーの 統一的な全体像 I統一的な全体像とは何か 一人の思想家について統]的な全体像を構成することはなかなか容易なこと ではない。ウェーバーのようにその業績が多方面にわたっていたり,著作が体 系的でないばあいにはなおさらである。すくなくともその前提として個々の著 作の十分な研究がなされていなければならない。 高島善哉氏はおよそ100年にわたる日本のアダム・スミス研究を3つの時期 (1) にわけ,それぞれの時期に支配的であったスミス像をのべている。第1期は明 治から大正にかけてのほぼ50年間である。この時期のスミス像は富国強兵策の 線にそった経世家としての顔である。第2期は大正の末期から終戦に至るまで の25年間であり,アカデミックな見方によって社会思想家,社会科学者として のスミス像がつくられている。そして戦後の第3期のスミス像はおそろしく専 門化したスミス像である。スミスは経済思想家や道徳哲学者としてばかりでは なく,法学者や社会学者としてひろい視角から,さらにふかく研究されるよう (2〕 になったのである。このような日本のスミス研究の蓄積をふまえて,高島氏は 今後の展望をつぎのようにのべる。すなわち,スミス研究の現状はひとびとが 思い思いの視角から思い思いのスミス像をつくりあげようとしている百家争鳴 の状態である。その結果,スミス像に統一的なイメージが容易に浮かんでこな くなっている。しかし後世からみてどんなに多くの宝物がスミスの中に再発見 されようとスミスそのひとは一個の人格であり,歴史的な人物であ乱したが って,いままでの見方とはまったくちがった総合的な見方がでてこなければな らない。 多少ながくなったが,以上のような事情はスミス研究にかぎられたことでは 124

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マックス・ウェーバーの

統一的な全体像

柴 田 敦 雄

I統一的な全体像とは何か

 一人の思想家について統]的な全体像を構成することはなかなか容易なこと

ではない。ウェーバーのようにその業績が多方面にわたっていたり,著作が体

系的でないばあいにはなおさらである。すくなくともその前提として個々の著

作の十分な研究がなされていなければならない。

 高島善哉氏はおよそ100年にわたる日本のアダム・スミス研究を3つの時期                            (1)にわけ,それぞれの時期に支配的であったスミス像をのべている。第1期は明

治から大正にかけてのほぼ50年間である。この時期のスミス像は富国強兵策の

線にそった経世家としての顔である。第2期は大正の末期から終戦に至るまで

の25年間であり,アカデミックな見方によって社会思想家,社会科学者として

のスミス像がつくられている。そして戦後の第3期のスミス像はおそろしく専

門化したスミス像である。スミスは経済思想家や道徳哲学者としてばかりでは

なく,法学者や社会学者としてひろい視角から,さらにふかく研究されるよう     (2〕になったのである。このような日本のスミス研究の蓄積をふまえて,高島氏は

今後の展望をつぎのようにのべる。すなわち,スミス研究の現状はひとびとが

思い思いの視角から思い思いのスミス像をつくりあげようとしている百家争鳴

の状態である。その結果,スミス像に統一的なイメージが容易に浮かんでこな

くなっている。しかし後世からみてどんなに多くの宝物がスミスの中に再発見

されようとスミスそのひとは一個の人格であり,歴史的な人物であ乱したが

って,いままでの見方とはまったくちがった総合的な見方がでてこなければな

らない。

 多少ながくなったが,以上のような事情はスミス研究にかぎられたことでは

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                  マックス・ウェーバーの統一的な全体像

ないように思われる。類型的に表現するならばつぎのようなことになるだろ

㍉初期には往々にしてその思想家のもっともめだつ,トピカルな面が紹介さ

れる。そこで形成される思想家像はしばしば一面的で皮相なレッテル像とでも

        (3)いうべきものである。しかしそのような時期をすぎて研究は専門分化の時期に

はいる。そこでは思想家の姿は皮相なレッテルとしてではなく,さまざまの視

角からとらえられてはいるものの,統一的な見方は失われている。したがって

つぎの時期は,前期の専門研究をふまえた統一的な全体像を形成することが課

題となる。

 それではこの統一的な全体像とはどのようなものであろうか。第1にそれは

あれもこれもといった総花的なものではない。その思想家の骨格を示し,さま

ざまな著作や業績を位置づける座標軸でなければならない。第2にその思想家

の生涯にわたるものでなければなら渋い。青年時代や円熟期のみをとりだした

のでは不十分である。

 さて,テーマのウェーバー研究にもどるならば,そのような条件をみたす統

一的な全体像をつくりあげる試みはあまりなされてこなかったように思われ(4)

る。その理由としては,はじめにものべたように,ウェーバーの業績がきわめ

て多岐にわたること,彼の叙述がかたらずしも体系的でないことだとが考えら

れよ㍉しかし最近になってそのような試みがすこしずつ現われてきている。

本稿ではその先駆とみられるW・モムゼンのrマックス・ウェーバーとドイツ (5)                  (6)政治』およびA・ミッツマソの『鉄の橿』をとりあげ,両者のえがくウェーバ

ー像を紹介し,その問題点を検討してみることにする。

 (ユ)高島善哉『アダム・スミス』,岩波新書,ユ968

 (2)高島氏はこのようなスミス研究の変化を象徴するものとして,スミスの代表作

   の題名の翻訳が富国論,国富言繕,諸国民の富と変化していったことを指摘してい

   るが興味深い。

 (3) 自由放任という文句はスミスの著作にはひとつもたいと高島氏はいう。口出放

   任主義の元祖というスミス像はまさしくレッテル像である。

 (4)かたり総花的たものとしてはBendix,Reinhard,“Max Weber-An Inte1-

   lectual Portait”,New York,1960.

 (5)Mommsen,Wo1fgang-J。“Max Weber und die deutsche Politik”,

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一橋研究第29号  下血bingenユ959.本書については『一橋論叢』第48巻第1号に英明氏の書評があ

  る。

(6)Mitzman,Arthur,“The Iron Cage-An Historical Interpretation of

  Max Weber”,New York,1970、安藤英治氏による本書の邦訳がすでに準備さ

  れている。

II モムゼンのウェーバ‘像

 モムゼンのえがくウェーバー像は厳密には全体像とはいえないであろう。な

ぜならそれはもっぱらウェーバーの政治思想に焦点をあてて,そこから彼の基

本的な立場をつかみとろうと試みたものだからである。とはいえ,モムゼンは

ウェーバーの業績全体を位置づける座標軸をなによりもその政治思想の中にも

とめる。彼はいう。rウェーバーの全学問活動,すなわち知的誠実さと学問的

客観性へのきびしい努力は,ある意味ではその時々の実践的な政治事件にたい

して距離と内面的自由を得ようとする壮大な試みであると考えることができ(i)

る。」さらにその射程はウェーバーの全生涯におよぶものである。以上のこと

を考えるならば,それをひとつの統一的な全体像と浮んでもさしつかえないで

あろう。

 モムゼンによれば,ウェーバーは権力国家を力強く主張した国民的帝国主義

者であり,この基調はその後の(この立場が明確にうちだされた1895年以後)

ウェーバーの生涯を通じて変わらないものである。このようなウェーバーの政

治的立場は3つの契機によって醸成される。すなわち11〕父親の影響(1870年代

後半から1880年代前半にかけて)12〕伯父のバウムガルテソの影響(1880年代)

13〕東エルベの農業労働者間題への取りくみ(1890年からユ895年にかけて)であ

る。モムゼンはこの過程を既刊の資料と自らが蒐集した新資料によってあとづ

けている。

 ウェーバーの政治的思考の出発点は父親の支持する国民自由主義であった。

モムゼンはその理由として,当時,国民自由党の代議士であった父親の家には

同1二傾向の政治家(ベニグゼソ,F・カップ)や学者(トライチュケ,ディル

タイ)が出入りし,少年ウェーバーは彼らの議論に熱心に耳をかたむけていた

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                  マックス・ウェーバーの統一的た全体像

こと,しかも後年ウェーバー自身,自分が最初は国民自由主義の後継者であっ

              (2)たとのべていることをあげている。

 しかしこのような国民自由主義を批判的にみることをウェーバーに教えたの

は歴史学者であり彼の伯父でもあるH・バウムガルテソである。学生ウェーバ

ーとこの伯父の問には政治的問題について活発な議論がかわされたのである。

モムゼンはウェーバーの政治的発展におけるバウムガルテソの役割を重視して (3)

いる。かつての自由主義の闘士であるバウムガルテソはビスマルマ体制に埋も

れて,自由主義的な憲法理念を忘れた国民自由党を批判し,ビスマルク体制に

内在する弱さにウェーバーの目をむけさせたのである。ウェーバーはのちに,

ビスマルク体制による国民の政治能力の低下と国民の政治教育の必要を力説す

るが,この内容はモムゼンの指摘によれば,バウムガルテソの主張と驚くほど     (4)類似している。

 他方,モムゼンはすでにこの時期にウェーバーの権力思想の萌芽がみられる

        (5)ことも指摘している。それは当時の熱烈なビスマルク礼賛者であるトライチュ

ケにたいするウェーバーの両面的な評価にあらわれている。すなわち,ウェー

バーは一方ではトライチュケの政治と学問の混同を批判しながらも他方ではト

ライチュケの与える強力なパトスに魅力を感じていたのであ乱さらにモムゼ

ンによれば,トライチュケの権力思想,政治行動の規範としての国民国家,小

国の存在にたいする嫌悪などの要素はすべてのちのウェーバーの政治思想の中

にみいだせるものである。

 ウェーバーが父親やバウムガルテソの影響からぬけだし,自分自身の立場を

                              (6)築きあげるジャンプ台となったのは東エルベの農業労働者間題である。ウェー

バーはユ889年に社会政策学会に入会して以後およそ5年の間,一貫してこの問

題と取りくみ,2度の調査にもとづくいくつかの報告をおこなっている。彼の

注目した現象は東エルベー帯におけるドイツ人農業労働者の西部工業地帯への

移動であり,それにともなうポーランド農民の東エルベ地方への流入である。

ウェーバーの分析によれば,この原因は何よりも家父長的な大土地経営が資本

主義化していくことにある。すなわち,一方で大土地経営者であるユンカーは

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 一橋研究第29号国際競争に勝つためにより廉価なポーランド人労働力を求め,他方ドイツ人農

民は家父長制の束縛から自由になろうとして西部へ移動するのである。しかも

ウェーバーはこの現象の中にドイツの文化的,経済的危機(ポーランド農民の

移入によるドイツ人労働者の文化的,経済的水準の低下)と政治的危機(今ま

でドイツを指導してきたユンカー階級が経済的に衰退し,もはや国民の利益を

代表できなくなっていること)を認識したのである。

 1895年にフライブルク大学の教授就任を記念してウェーバーがおこなった演

説r国民国家と国民経済政策』は東エルベ間題の総決算ともいうべきものであ

孔モムゼンはこの演説をウェーバーの信仰告白であるとし,彼の基本的な立                               (7)場(モムゼンのいう国民的帝国主義)が明確にうちだされているとする。ドイ

ツの二重の危機を認識したウェーバーのとった立場は父親の国民自由主義でも

なければ,バウムガルチンの古典的自由主義でもない。これらの立場はもはや

新しい事態に対応できない。それらにかわってウェーバーのうちだした立場は

国民国家を最高の価値とする立場である。この観点からウェーバーは東部国境

の閉鎖によるポーランド農民の流入防止と国家による東エルベー帯の自営農育

成政策を主張する。さらに彼は国民経済学の目標として国民性の維持,発展を

あげ,国民経済学は国民の永遠の権力政策的利益に奉仕すべきであると主張し

たのである。

 以上の過程の中にモムゼンはヴィルヘルム時代のドイツの自由主義と帝国主

                                (8)義の合体をみている。最後にモムゼンのウェーバー像を再構成してみよう。第

1の要素は何よりも前述した国民国家である。それはウェーバーにとって最高

の価値であり,他のすべての政治目標は国民国家の維持発展という目標に従属

すべきものであ飢しかもそれは国民経済学の価値尺度でもあ孔ウェーバー

のばあい,国民国家は古代ユダヤのエホバのような位置を占めている。第2の

要素は激しい権力思想である。ウェーバーは政治を仮借のない権力闘争の場と

して認識する。したがって,彼は偉大な政治家の基本的な特質として権力本能

をあげ,近代国家を正当な権力行使の独占という観点から規定する。政治を職

業とするものは権力という悪魔的な力と関係を結ばなければならないという。

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                  マックス・ウェーバーの統一的な全体像

これら2つの要素を確認したのち,モムゼンは両者がウェーバーの政治思想に

おいて切りはなしがたく結びついていることを指摘する。すなわちウェーバー

の国民国家は国民的権力国家というべきものである。そしてヨーロッパ諸国が

相互に対立する申で,そのような国民国家の維持発展は帝国主義的政策によっ

ては1二めて可能となる。

(1)前掲書モムゼンS-1

(2) Ebenda,S.2

(3) Ebenda,S.4

(4) Ebenda,S.6

(5) Ebenda,S-9川11

(6) Ebenda,S-24~35

(7) Ebenda,S.42

(8) Ebenda,S-45川60

III ミ・ジソマンのウェーバー像

 モムゼンのウェーバー像がもっぱら政治的な面に焦点をあてているのにたい

し,ミッツマソのそれははるかに包括的であ孔ミッツマソはウェーバーの価

値理念全体を生涯にわたってとらえようとす乱さらにモムゼンはウェーバー

の政治的立場が1895年のフライブルク大学就任演説において確立され,これが

その後の彼の政治的思考の指導理念であったとする連続的,直線的なウェーバ

ー解釈を示す。これにたいし,ミッツマソはウェーバーの生涯をその価値理念

                   (1)の著しい変化という観点から大胆に二分する。すなわち,ウェーバーの生まれ

た1864年から1897年までを前期とし,1903年から死ぬまでを後期とする。そし

てこの両時期の転換点であり,ウェーバーの学問・政治活動の巨大な空白をな

                                (2)しているのが1898年から1902年の約5年間にわたる神経失患の時期である。

 それではこのような分け方を可能にする価値理念の著しい変化とはどのよう

なものであろうか。ミッツマソはまずウェーバーのあつかっている研究テーマ

                        (3)が前期と後期とではっきりちがっていることを指摘する。すなわち前期では

「自由の魔術による進歩」,「国民国家の利益に奉仕すべきものとしての政治経

済学」などのテーマがあつかわれているのにたいし,後期では「合理化の結果

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 一橋研究第29号としての脱魔術化」,「カリスマ的英雄」,「客観的な方法論」といったウェーバ

ー研究者には周知のテーマが現われてきているのである。そしてミッツマソに

よれば,この研究テーマの変化の根底にはウェーバーの価値理念の変化があ

る。その変化を一言で要約するならば「前期の禁欲的合理主義から後期の神秘

主義への接近(=禁欲的合理主義の後退)」という変化である。それではこの

変化はどのようにして生1二たのか。ミッツマソの叙述をすこし詳しくみてみよ

う。

 まず前期の価値理念である禁欲的合理主義はどのようにして形成されたの

か。ウェーバーの人格形成において両親の不和が大きな契機になっていること

は周知の事実である。ミッツマソのばあいもやはりそれを論述の出発点におい  (4)ている。モムゼンにおいてはそれほど重視されていなかった母親の役割が大き

くクローズ・アップされてくる。この不和は2人のもつ相容れない価値観が原

因である。すなわち,父親は享楽的な政治家であり,政治の世界で強いられる

妥協の補償を家庭内の家父長的な権威主義にもとめようとする。他方,敬けん

なプロテスタントて・ある母親はキリスト者のはたすべき社会的な責任にいつも

心を痛めている。道徳的に無関心な父親にとって妻の内面的な宗教心は不可解

であり,わずらわしいものとさえ感1二られる。両者の間には相互理解はなく,

この不和はウェーバーが一生の半分以上をすごした両親の家庭に大きな影を落

したのである。このようにウェーバーは早くから対立する価値理念を認識させ

られたが,ウェーバーの最初の選択は顕在的ではないにせよ父親の価値理念で

          (5)あったとミッツマソはいう。彼はその理由として「父親の欠点はその陽気さ,

世間的名声,知性によって補われていた」,「母親のふかい宗教性は若いウェー

バーには興味がなかった」などの点をあげている。

 しかしその後学生時代にバウムガルテソ家と交際することによってウェーバ

ーは初期に与えられた父親の価値理念に疑いをもち,潜在的に母親の価値理念

に大きく近づくようになる。前述したようにモムゼンは伯父のH・バウムガル

テソがウェーバーに与えた影響を重視したが,これにたいしミッツマソはそれ

                   (6)以上に伯母のイダ・バウムガルテソを重視する。イダは母親の姉であり,母親

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                  マソクス・ウェーバーの統一的た全体像

におとらずふかい宗教性をもったプロテスタントであった。イダによってチャ

ニングの神学を紹介された青年ウェーバーはそれを通じて母親のふかい内面性

と宗教性とをはじめて十分に理解し,共感するようになり,同時に父親の快楽

主義と家父長的な権威主義にたいしてだんだん疑念と敵意を抱くようになるの

である。

 このばあい注意すべきはミッツマ1ノのつぎのような指摘である。第1に,父

親から母親への共感の移行にともなってウェーバーは母親のもつユグノー的禁             (7)欲主義をうけついだということ。ミッツマソによれば,80年代後半から90年代

前半にウェーバーが自らに課した強制的な学問習慣はその現われであり,父親

の快楽主義にたいする敵意の裏返しともいうべきものである。第2に,東エル

ベの農業間題の取りくみの中にみられるウェーバーのユンカー・ビスマルク批

判は父親にたいする潜在的な敵意の表現であるということ。すなわち・ウェー

バーは潜在的にユンカー,ビスマルクと父親を同一視しているとミッツマソは    (8)いっている。

 以上のようにミッツマソによればウェーバーの前期の価値理念である禁欲的

合理主義は母親と伯母のイダにその源をもつものである。それでは後期になっ

てこの立場が後退し,神秘主義へ近づくことになった原因は何であろうか。彼

によればこれをとくカギは1897年の父親の死とその後5年間にわたるウェーバ

           (9)一の激しい神経失患にある。すなわち1897年の6月頃ウェーバーと父親の問に

仲たがいがあり,ウェーバーは長年の敵意を爆発させ,ハイデルベルクの自分

の家から父親を追放するという事件が起こっている。その直後に父親は旅にで

てそのまま旅先で病死したのである。ウェーバーの神経失患がはじまったのは

それからまもなくのことであ乱これら3つの事件の間には直接の因果関係は

ないもののミッツマソはつぎのように解釈する。ウェーバーの心の中では父親

の追放と父親の客死がほぼ因果的なものとしてとらえられ,それにたいする自

責の念が神経失患のひきがねとたったというのである。

 ミヅッマソによれば,5年間の字間的空白をひき起こした精神的崩壊はウェ

                   (1O)一バーの性格構造全体にかかわるものである。母親の価値理念であり,しかも

                                工31

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 一橋研究第29号

1897年まで自分の価値理念でもあったプロテスタントの禁欲主義が自分を父親

への反抗に駆りたて,その結果精神的な崩壊を招いたのであるならば,もはや

その価値理念にたいして批判なしでいることはできない。したがってミッツマ

ソによるならば,病気回復後の1904年にrプロテスタンティズムの倫理と資本

主義の精神』が書かれたことは偶然ではない。そこでウェーバーは以前自分が

素朴に同化していたプロテスタンティズムの価値理念を批判的に検討している   (11)

のである。事実,この論文の最後には禁欲的合理主義が意図せずにもたらした

価値の倒錯と強大な装置にたいするウェーバーの根深いペシミズムがみられ

る。

 禁欲的合理主義という前期の価値理念からの後退にともなって後期のウェー

バーに色濃くあらわれるのは神秘主義への接近であるとミッツマソはいう。そ

れでは後期のウェーバーのどのような面にみられるのであろうか。紙幅の関係

からいくつか取りだしてみよう。第1に神秘主義がテーマとしてしばしば論じ

られるようになったことである。まず1910年のドイツ社会学会でトレルチの演

                        (12)説をめぐりウェーバーは神秘的現象について考察している。そのばあいロシア

の2人の作家(トルストイとト“ストエフスキー)をとりあげ,その本質として

神秘的信仰を指摘しているのは興味深い。さらに1912年から1913年にかけて書

かれた経済と社会の第2部および1916年に書かれた『中間考察』では禁欲主義

                       (工3)と神秘主義を対置させて本格的に論じているのである。第2にウェーバーの実

生活においても神秘主義への接近がみられることである。たとえばヴィルヘル

ム時代の代表的た詩人で神秘主義者のステファン・ゲオルゲと交際し議論をか

わしていること。さらに,当時ウェーバーのサークルの一員でスラフ神秘主義

                            (14)の代表者であったルカーチから刺激をうけていることなどである。

 (1)にもかかわらず,ウエーバーの政治論についてはミッツマソはモムゼノの説を

   踏襲している。問題点のひとつである。

 (2) この5年間についての十分な考察はいままでたされていたかった。この点でも

   ミッツマンの著作は注目される。

 (3)前掲書ミッツマン,S.5~6

 (4) Ebenda,S.21

 ユ32

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マックス・ウェーバーの統一的た全体像

(5) Ebenda,S.22

(6) Ebenda,S.24

(7) 1≡:benda,S.48

(8) Ebenda,S.163

(g) Ebenda,S.!48~163

(1O) Ebenda,S.157

(11) Ebenda,S.172~174

(12) Ebenda,S.195~200

(13) Ebenda,S.204~2ユ8

(14) Ebenda,S,262~273

1V 2つのウェーバー像の問題点

 (i) ウェーバーの時代制約性

 モムゼンとミッツマソのウェーバー像はどちらもウェーバーが時代に制約さ

れていたことを強くうちだしている。

 前者は「ウェーバーの思想のたんなる歴史的な相対化を意味しているのでは (1)

ない」と前おきしながらも,権力思想と国民国家という2つの要素がまさにヴ

ィルヘルム時代を反映したものであることを主張する。すなわち,「ウェーバ

ーの権力思想はドイツ自由主義の一般的た精神状況(物理的政治力の不足によ

る1848年の革命の敗北とビスマルクによる軍事国家の建設を経験してきたこ            (2)と)から容易にひきだしうる。」さらにウェーバーが国民国家概念をうちだす

のに決定的であったのは当時のドイツ帝国であったことを指摘しr他のばあい

には驚くほど広い視点で先入見なしにビスマルクの政治を分析したウェーバー

もここではヴィルヘルム時代に特有の国民的パストにとらえられたままであっ(3)

た」とのべている。

 この時代制約性はミッツマンになるとさらに徹底される。そこにおいてはウ

ェーバーの「真理」は彼の時代,彼の国によって制約されているのみならず,

                         (4)とりわけ彼の私的な家族社会環境によって制約されている。ミヅッマソはい

う。rそれはきわめて抑圧的な家族および社会状況におかれた情熱的な人間の          (5)もつディレンマである。」このようなウェーバー観は個々の作品評価にも一貫

                                 133

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 一橋研究第29号しでとられている。たとえば,東エルベの農業間題についてウェーバーは3年

間に連続して4つの概括を発表しているがミッツマソはそれらの間に大きな矛     (6)盾を指摘する。そして彼はその矛盾をその時々のウェーバーの個人的状況の変                      (7)化(就職,結婚,独立など)に帰着させるのである。

 たしかにこのよラな立場は統一的なウェーバー像を考えるばあいに不可欠で

あり,またミッツマソのように綿密な考証をもってするならばきわめて説得的

なものになるだろ㍉しかし,それだけではやはり不十分なウェーバー像であ

ると思われる。なぜなら,ウェーバーの思想をつらぬく合理主義や,また彼が

当時のドイツには稲の政治的な平衡感覚をもった人間であったことがややもす

ると見失われてしまうからである。ミッツマソは1919年の『職業としての政治』

にみられるウェーバーの合理的思考を自分の「禁欲主義から神秘主義へ」とい

                    (8)う図式の中に位置づけるのにかなり苦心していると思われるが無理もないこと

であるラ。

 (ii) ウェーバーの価値理念

 モムゼンとミッツマソのウェーバー像に共通するもうひとつの大きな特徴は

それらがともにウェーバー自身の価値理念を問題にしていることであ孔モム

ゼンはウェーバーのr国民」概念をなによりも価値概念としてとらえ乱この

問題意識はミッツマンにおいては,一層鮮明になる。彼はドイツ(たとえばシ     (9)                      (10)エルティソグ)においてもアメリカ(たとえばパーソンズ)においても主とし

てウェーバーの理論的著作の解明にのみ焦点がおかれ,ウェーバー自身の価値                  (11)や感情が問題にされたことはなかったという。それにたいし,ミッツマソによ

れば「自分の研究はウェーバーの悲劇と彼の政治的,宗教的,歴史的理論をつ                    (12)らぬく価値との関係を明らかにしたものである。」

 このような方向がウェーバー研究にあらわれるようになったことにはそれな

りの理由があるように思われる。というのも単に統一的な全体像の構成のため

だけではなく,ウェーバーの「価値自由=客観性」論をみるならば当然のなり

ゆきのように考えられるからである。

 ウェーバーは経験科学と価値判断の関係を明らかにしたのち,社会科学にお

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                  マックス・ウェーバーの統一的た全体像

                              (13)ける「客観的な認識」がどのような意味で成りたつかを問題にしている。彼に

よれば「認識」の一方の極には「無限に多様な現実」カミあり,他方の極には

「それを認識しようとする有限な人間精神」が存在する。したがって「認識」

は「実在の一有限部分」を選びだすことによってしかなしえない。それではど

のような原理によって選びだされるのであろうか。ウェーバーは「文化意義

(Kulturbedeutung)」という概念をもちいてこれを説明する。それによるとあ

る現象が社会科学的認識の対象となるのはその現象に客観的に付着している性

質のためではなく,われわれがその現象に特殊な「文化意義」を与えるからな

のである。ではこのr文化意義」とはどのようなものか。これについてウェー

バーはつぎのようにいう。rある文化現象の形成の意義やこの意義の根拠はど

れほど完全な法則概念の体系からでもひきだされ,基礎づけられ,理解されう

るものではない。というのはそれは文化現象の価値理念(Wertidee)への関係

            (I4)を前提としているからである。」このようにしてウェーバーは社会科学的認識

の究極不可欠の前提として「価値理念」に到達する。だが「価値理念」そのも

のについてはあまり説明されてはいない。ただつぎのようにはのべてい乱

「価値理念が『主観的』であることには何の疑いもない一中略一句が研究の対

象となるか,またどこまでこの探究が因果連関の無限の中に広げられるかを規       ・・.・・・・…   .....・・.、.。(15)足するものは研究者および彼の時代を支配する価値理念である。(傍点は引用

者)」そしてこのあとウェーバーはすぐ理念型の構成に移っている。したがっ

て,ミッツマソらの研究がウェーバーおよび彼の時代を支配する価値理念にむ

けられていることはきわめて当然であると考えることができる。

 (iii)「価値自由」の批判

 本稿のはじめにのべたように統一的た全体像はその思想家のさまざまの著作

や業績を位置づけるひとつの座標軸を提供するものである。そこで最後に,ひ

とつの例としてウェーバーの「価値自由」論がそれぞれのウェーバー像の中で

どう評価されているかをみてみたい。

 「価値自由」にたいする両者の態度はきわめて批判的,否定的である。まず

モムゼンからみよう。彼によればウェーバーは「科学は科学的な手段によって

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 一橘研究第29号                   (16)価値そのものの妥当性を認めることはできない」と主張し,「価値の妥当性は,

                    (17)すべての理性のおよばない人格の領域に属する」としたのである。そして「ウ

ェーバーの社会学はまさにすべての価値判断を回避したために本質的なものを

                                (18)見失い,政治的,文化的存在の根本問題に機能的な解答しか与えられなかった」

という。より具体的には「ウェーバーにとって《価値概念》である《国民》は

              (19)科学的批判の外におかれたのである。」

 このような批判に十分答えるだけの準備はまだこちらにはない。ただウェー

バーが価値概念の科学的批判を放棄し,ひいては自らが選んだ価値理念である

国民国家にたいして科学的批判を加えなかったということは疑問である。さら                              (20)にモムゼンは価値の領域にふみこむ武器として現象学の例をあげているがこれ

が十分な科学的批判になりうるかどうかについても問題があるであろう。

 つぎにミッツマンのウェーバー像による「価値自由」解釈はどうか。彼によ

ればそれはウェーバーの「初期における価値と科学の素朴な混同にたいする防(2工)

衛」である。「初期の素朴な混同」とは1895年のフライブルク大学就任演説に

おけるウェーバーの「政治経済学は国民国家の権力利益に奉仕すべきである」

という主張をさす。この演説はユンカーにたいする挑戦(ミッツマソのウェー

バー像によれば同時に父親にたいする挑戦)を宣言したものであり,政治的高

揚に満ちあふれている。しかし前述したように父親にたいする挑戦は結果とし

て5年間の絶望的な精神的崩壊とたった。この経験から「後期のウェーバーは

                              (22〕科学的分析に高慢な挑戦をもちこむことの危険を知ったのではないか」という

のがミッツマソの推論である。すなわち後期の「価値自由」の主張の底には前            (23)期の情熱の後退があるという。

 このようなミッツマソの解釈はきわめて興味深いが問題がないわけではな

い。第1にウェーバーの「価値自由」を価値と科学の分離(separation of        (24)values and science)としてとらえていることである。実際はむしろ逆である        (25)といわなければならない。ウェーバーにとって科学は価値を前提にせずには成

りたたないものである。第2に「価値自由」の主張がある意味で後退的な,消

極的なものとして考えられていることである。「価値自由」の立場が激しい論

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マックス・ウェーバーの統一的な全体像

争の中で主張されてきたことを考えるならば,この解釈にも問題があると思わ

れる。

(注)

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

(玉O)

(11)

(12)

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

(24)

 前掲書モムゼン,S・X

 Ebenda,S.46

 二Ebenda,S-56

 ミッツマソによれば,ウエーバーのおかれた状況は程度の差こそあれ彼の同世

代(ゾムバルト,ミヘルス,テンニースを含む)に共通なものである。これをミ

ッツマンは当時のドイツに典型的にあらわれたr世代闘争」としてとらえる。こ

の問題意識からするならばウエーバー研究も彼にとってはひとつのヶ一ス・スタ

ディでしかたい。同じ問題意識から上述の3人の社会科学者について分析したの

がミッツマンの第2作“Sociology and Estrangement”,New York,1973.

である。

 前掲書ミッツマン,S-3

 Ebenda,S.78

 Ebenda,S184

 Ebenda,S.249川251

Vgl.Schelting,v㎝A.,“Max Webers Wissenschaftslehre”,丁此in-

gen, 1934

 Vgl.Parsons,T.,“The Structure of Social Action”New York,1937

 前掲書ミッツマン,S.310

 Ebenda,S.314

Weber,Max “Gesammelte Aufs畳tze zur WissenschaftsIehre”1.

Aufl.,S.!46川214

 Ebenda,S.175

 Ebenda,S.184

 前掲書モムゼン,S69

 Ebenda,S.70

 Ebenda,S.71

 Ebenda,S.7!

 Ebenda,S.70

 前掲書ミッツマン,S.169

 Ebenda, S.169

 Ebenda, S.169

 Ebenda,S.ユ68

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一橋研究第29号(25)安藤英治『マックス・一ウエーバー研究』,未来社,1965の第1,第2論文を参

  照。

  1975年4月15日

                  (筆者の住所:東京都目黒区南1-14-2)

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